ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●仏教

● 9分の1のご来迎 特別展『京都・南山城の仏像』(東京国立博物館)

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 行こう行こうと思いながら先送りになっていたこの催し。気がつけば会期終了目前だった。
 混んでいるかもしれないなと思いつつ、11/11(土)の午後に出かけた。

 南山城というのは、京都府南部、奈良県に接する一帯をいう。
 緩やかな丘陵地を木津川が流れる心安らぐ地である。
 宇治茶の産地としても知られる。 
 このあたりは由緒あるお寺や素晴らしい仏像がたくさんあるのだが、世界的観光名所の京都と奈良にはさまっているせいか、人が殺到していない。
 ソルティは、東日本大震災のあった2013年10月に、9体の金色阿弥陀仏で知られる浄瑠璃寺とその近くの岩船寺に行った。
 秋の里山歩きが実に気持ち良かった。
 今年3月には木津川市の畑中にある蟹満寺に行き、白鳳時代につくられた国宝・釈迦如来坐像に会ってきた。
 「こんな田舎に、こんな立派な仏像が、こんな無防備に、おわすのか!」と驚いた。

蟹満寺
白鳳時代の釈迦如来坐像がある蟹満寺

 今回の展示では、浄瑠璃寺・岩船寺のほか南山城地区の7つのお寺の仏像たち、計18体が招かれていた。
 平安時代(9~12世紀)のものが16体、残り2体が鎌倉初期である。
 メインとなるのは浄瑠璃寺の9体の阿弥陀仏像の中から選び出された1体。
 修理を終えたばかりの金色に輝く肌と、堂々たる風格、人の心のすみずみまで見通しつつもあくまで慈悲深い眼差し、会場を一際明るくするオーラ。同じ国宝の広目天と多聞天に左右を守られて、圧倒的存在感であった。
 浄瑠璃寺で拝観したときよりずっと間近で見ることができて、うれしかった。

 ほかに、海住山寺の十一面観音立像、浄瑠璃寺の地蔵菩薩立像のあまりの美しさにときめいた。
 少し前にあった根津美術館『救いのみほとけ展』でも思ったが、平安時代の地蔵菩薩像の洗練された美しさはもっと認識されて良いと思う。 
 内部は撮影禁止だったので、素晴らしい仏像の数々はここで紹介できない。
 京都南山城古寺の会『南山城の古寺巡礼』というホームページにその一部を見ることができる。

 最近ソルティは、有料の音声ガイドリストを進んで使うようになった。
 作品の横に掲示されている説明書きを読むのが老眼でわずらわしくなったのと、音声ガイドだと鑑賞ポイントを的確に教えてくれるから見落としがない。
 今回の音声ガイドには、仏像マニアとして知られるみうらじゅん氏といとうせいこう氏による対談風解説がついていた。
 テレビの副音声みたいで面白かった。浄瑠璃寺の本堂に居並ぶ阿弥陀如来を「ロイヤルストレートフラッシュ」と表現したのは至言。

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東京国立博物館
来場者は多かったが鑑賞の妨げになるほどではなかった。
 
 特別展のあと、本館1階の常設展の仏像コーナーに行った。
 前回(今年6月)観た時と微妙に展示が変わっていた。
 中で面白かったのは、鎌倉時代の康円作『文殊菩薩騎師像および侍者立像』。
 文殊菩薩が4人の侍者を伴って海を渡る姿を彫った群像である。
 4人の侍者の一人、善財童子がなんとも可愛かった。

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 左から、大聖老人、于闐王(うてんのう)、文殊菩薩、善財童子、仏陀波利三蔵
 仏師康円は運慶の孫。
(奈良興福寺)

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こんなフィギュアがほしい










● 本:『念処経 ブッダの瞑想法』(宮本啓一訳)

2022年花伝社

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 ソルティは、ブッダの瞑想法として知られるヴィパッサナー瞑想(マインドフルネス瞑想)を初めて10年以上になるが、肝心の原典を読んでいなかった。
 本書は、『パーリ経典』(漢訳『阿含経典』)の経蔵中部に収録されている『念処経』(サティパターナ・スッタ)の全訳である。
 スッタは「経」の意である。サティパターナ・スッタを宮本はこう訳している。
 「対象を記憶に刻み込む集中力の発動を説く経」

 「はじめに」において、ブッダの開発した瞑想法をこう解説している。

 観と察とによって如実知見を目指す瞑想法で、その具体的な方法を順序立てて説いたものこそが、本書で和訳した『念処経』です。
 これは、身体の在り方、外界の認知受容の在り方、心的な在り方、それを冷静に観察することで得られる如実知見の真理、以上の四部門の一々に意識を集中せよと説きます。

 如実知見とは「ものごとをありのままに見ること」である。
 世界を、生命現象を、人間存在を、苦を、「ありのままに見る」ことができれば、それが「悟り」だということだろう。

 いろいろな原因や理由で、物事を「ありのままに見る」ことができなくなっているのが、人類一般である。
 たとえば、現在のイスラエル×パレスチナ問題。
 ユダヤ教徒でもイスラム教徒でもキリスト教徒でもない多くの日本人は、同じ神(エホバ、ヤハウェ、アドナイ、アッラー、エロヒム、主)を頂きながら、神の名のもとに何世紀も憎み合い戦い続ける彼らを「愚かである」と、「ありのままに見る」ことができよう。
 しかし、それぞれの信仰と長い伝統文化と異なった母語と過去の因縁をもつ当事者たちは、如実知見を失っている。
 では、日本人が彼らより賢いのかと言えば、そんなことはない。
 自分のことは自分ではなかなか見えないだけであって、イスラム教徒やキリスト教徒から見れば、神を祖先とする日本の天皇制は理解の外であり、その“ヒト”のために一億玉砕で戦って原爆を落とされた日本人は「愚か」としか思えないだろう。
 かほどに、如実知見は難しい。

 本書は、『念処経』のほか、道元禅師の『普勧坐禅儀』『現成公案』、瑩山禅師の『坐禅用心記』、パタンジャリ『ヨーガ・ストーラ』から、瞑想法に関する一節が取り上げられている。




おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● らかんさんに呼ばれて

 「目黒のらかんさん」として知られる五百羅漢寺には行ったことがなかった。
 どうせなら、桜並木で有名な目黒川沿いを歩いて行こうと思い、東急東横線の中目黒駅で下車した。
 ここで降りたのは実に40年ぶりくらい。
 駅前のそば屋で軽く腹ごしらえし、東横線のガード下から品川方面に目黒川を下向した。
 炎天下で直射日光はきびしかったが、川沿いの道は木陰続きで、ときに風が抜けて、心地良かった。

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東急東横線・中目黒駅
学生時代、テニスのサークルでここで飲んで潰れたような記憶が・・・

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「吉そば中目黒」店の冷しかき揚げそば
かき揚げは大きく、そばは喉ごし良く、美味だった

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東急線ガード下より品川方向を見やる
目黒川は世田谷区三宿を起点とし、東京湾に注ぐ
全長およそ8km

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このようなベンチがところどころにあるのがうれしい。
超高齢化時代には欠かせない施設である。

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河岸には美術館や公園、モダンなマンションや小粋なレストランが並ぶ。
なかなかハイブロウな感じ。

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モダンでメタリックな外観にもどこか昭和クラシカルな風情が漂う。

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柊(ヒイラギ)庚申講
地域の古い信仰が垣間見られる
柊は古くから邪鬼の侵入を防ぐと信じられ、庭木に使われてきた。家の庭には表鬼門(北東)にヒイラギ、裏鬼門(南西)にナンテンの木を植えると良いとされている(鬼門除け)。また、節分の夜にはヒイラギの枝に鰯の頭を門戸に飾って邪鬼払いとする風習(柊鰯)が全国的に見られる。(ウィキペディア「柊」より抜粋)

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目黒区民センター
裏手に目黒美術館がある

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ふれあい橋より上流(渋谷方向)を振り返る
清掃工場の煙突がひときわ高い

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下流(品川方向)
桜の季節の賑わいが目に浮かぶ

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散歩やジョギングに恰好の道

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目黒の名を一躍有名にしたのは「さんま」と「エンペラー」
目黒エンペラーは1973年(昭和48年)12月創業のラブホテル
ラグジュアリーな装飾で一世を風靡した
このお城が見えれば目黒駅は近い
羅漢寺も近い

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天恩山五百羅漢寺
元禄8年(1695)建立、開基は松雲元慶(1648-1710)

 松雲は40歳の時に五百羅漢を彫ろうと発願し、江戸に出て托鉢により資金を集めた。
 時の将軍徳川綱吉などの援助を受けながら独力で彫像し、完成に近づいたところで、像を納めるために堂宇を建てた。
 当初は本所五ツ目(現在の東京都江東区大島)にあったのだが、明治41年(1908)に現在地に移転した。
 現在、305体が残っているという。(堂内は撮影禁止)

 五百羅漢とはその名の通り、五百人の阿羅漢(完全な悟りに達した人)の謂いである。
 お釈迦様が亡くなったあとその教えを守り伝えるために、500人の阿羅漢が集い、マハー・カッサパとアナンダが中心となって教えの確認作業を行った。
 いわゆる第一結集である。
 そこに参加した比丘たちを称え敬うことから、五百羅漢像が作られるようになった。
 ソルティもこれまでにいろんな場所で五百羅漢像を見てきたが、とくに印象に残っているのは、秩父の羅漢山と四国遍路第66番雲辺寺のそれである。
 概して、通常の仏像(如来や菩薩や明王など)が生真面目で厳かな顔、あるいは聖人らしい穏やかで慈悲深い顔をしているのにくらべ、五百羅漢は表情も姿恰好も持ち物も非常にヴァリエーションに富み、ユニークで人間らしく、見て面白いのが特徴である。
 それゆえ、庶民に親しまれやすいのだ。

羅漢山1
秩父の羅漢山の羅漢さん

羅漢山2
こんなのもある

雲辺寺羅漢1
四国66番札所雲辺寺の羅漢さん

 目黒五百羅漢寺の羅漢さまにはお一人お一人に名前(〇〇尊者)が付けられ、それぞれ教訓のような「おことば」が付与されていた。
 たとえば、
  • 仲良く睦みあう(衆和合尊者)
  • 道は山のごとく登ればますます高し(山頂竜衆尊者)
  • わけへだてのない心(心平等尊者)
  • 仏も昔は凡夫なり(没特伽尊者)
  • 苦しみから逃げると楽しみも遠ざかる(雷光尊者)
  • 仕事にうちこむ美しい顔(勇精進尊者)
 鑑賞する人は、たくさんの羅漢さんの中から自分が惹きつけられた顔や言葉と出会って、わが身を振り返ったり、心の拠り所にしたり、今後の人生の指針を得たりすることができよう。
 本堂には、羅漢さんのほかに釈迦如来と十代弟子、達磨大師、観音菩薩、地蔵菩薩などの像が所狭しと並んでいた。
 ほどよい室内の暗さ、インド音楽に合わせて流される住職の説法テープ、心を落ち着けたいときには恰好の空間である。
 まろやかでやさしいお顔のお釈迦様の左右に立つ、頭陀第一のマハー・カッサパと多聞第一のアナンダの表情や姿恰好の違いが対照的で面白い。
 カッサパは骨皮筋衛門に、アナンダは上品な美男子に彫られている。

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本堂
本堂に納まりきらない羅漢像は別に羅漢堂に納められている

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再起地蔵

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五百羅漢寺のパンフレットより
ここの羅漢さまは総じて真面目な顔、厳しい顔が多かった。
にしても、500体の修復は大変な仕事だ。

 羅漢寺から路地を通って、目黒不動尊に抜けることができる。
 大同3年(808)慈覚大師・円仁(天台座主第三祖)によって開かれた関東最古の不動霊場である。
 そもそも目黒という土地の名の由来がここであった。
 江戸五色不動と称され、江戸城を中心に5つの方角に5つの不動尊――目黄(東)・目赤(西)・目白(南)・目黒(北)・目青(中央)――があったのだが、現在地名として残っているのは目黒と目白だけである。
 
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目黒不動尊(天台宗 泰叡山 瀧泉寺)

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庶民のアイドル・水かけ不動尊
ヒシャクで狙い撃ちされた顔がすっかり美白化
鈴木その子みたいになっている(えッ、知らない?)

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本堂
円仁が彫ったという本尊の不動明王像は12年に一度、酉年に開帳される。

 帰りはJR目黒駅から列車に乗ろうと思い、目黒雅叙園の横の急な行人坂を登っていたら、途中にある寺にふと惹きつけられた。
 天台宗大円寺とあった。
 山門をくぐって境内に足を踏み入れたら、なんとびっくり、ここにも五百羅漢がいた。
 羅漢寺のヒノキ造りの(かつては金箔で覆われた)ご立派な尊者たちとは違い、野ざらしの石仏である。

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大円寺
寛永年間(1624-1644)湯殿山修験道の行者大海が創建したのに始まると伝えられる。
羅漢寺より開基は古い。
本尊の木造釈迦如来立像は特定の日にご開帳。

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五百羅漢像
明和9年(1772)江戸市中を焼く大火事があった。
そのとき火元と見られたのが大円寺であった。
五百羅漢像はこの火事で亡くなった人々を供養するために建てられたという。

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こちらの羅漢さんたちはユニークな表情で親しみやすい。

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釈迦如来像が手にしているのは背中を掻くツール――ではなくておそらく蓮の茎だろう。
周囲を菩薩、十大弟子らが囲んでいる配置は羅漢寺本堂と同様。

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マハー・カッサパ尊者
口元のしわが写実的

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大黒様を祀っている七福神のお寺でもある。

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境内にはちょっと変わった石仏があった。
胴体はどこにいったのだろう?

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道祖神
夕日を浴びて照れくさそうな2人。
「もうすぐ夜だね」
「そうね、あなた・・・」

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個人的にはこちらの五百羅漢のほうが「目黒のらかんさん」の愛称に添うような気がした。
説教臭くない、天衣無縫なたたずまいに癒された。

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目黒駅周辺もすっかり開発されたなあ~

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JR目黒駅到着
約4時間の散策、汗をしぼられた。
目黒という街は、古い庶民信仰の上に、昭和バブルの猥雑さと平成のソフィストケイトされた空間が積み重なっている、現代日本の都市の特徴がよく映し出されている。

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羅怙羅(らごら)尊者はお釈迦様の息子
世に言うラーフラである














● 本:『正法眼蔵随聞記講話』(鎌田茂雄著)

1987年講談社学術文庫

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 田上太秀著『道元の考えたこと』を読んで一つの道元像を手にしたが、やはり本人自身の言葉を聞くに如くはない。
 と言って、『正法眼蔵』は難しすぎて、ちょっと太刀打ちできない。
 どうしたものかと思っていたら、『正法眼蔵随聞記』というのがあるのを知った。
 道元の一番弟子であり約20年間にわたって道元に師事してきた懐奘(えじょう、1198-1280)が、折々の師の言葉を書きとめた、いわば道元語録である。

 『正法眼蔵随聞記』は平易な言葉で、しかも生活の実際に即しながら、学道する人は如何にあるべきか、修行のやり方や心構えが懇切丁寧に説かれている。何よりも若き時代の道元が強烈な情熱と意志をもって自分の信ずる道を説いているので、無限の親しみと共感を憶える。・・・・・
 『随聞記』には人間道元のすがたが滲みでている。
(本書「はじめに」より抜粋)

 そんなわけで、『随聞記』の現代語訳兼やさしい注釈本を読んでみようと、ブックオフで見つけた本書を購入した。
 が、残念なことに、というか迂闊なことに、これは『随聞記』そのものではなかった。
 道元の『随聞記』の中にある文章をいくつかピックアップし、そのテーマをめぐって仏教学者である鎌田が思うところを述べるという講義形式で、主役は道元や懐奘よりむしろ鎌田であると言ってよい。
 道元の言を借りて、鎌田が自らの仏教観や人生観を披歴しているといった呈。
 当てが外れた。
 (昔から、内容をよく確かめないで直感的に本を買ってしまう癖がある。) 

 もっとも、鎌田の道元理解は(おそらく)的確なものなのだろうし、テーマに沿って引用される文献も、道元の著書『学道用心』『正法眼蔵』はもとより、『遺教経』『観音経』といった仏教経典であったり、白隠、栄西、一遍上人、徳川家康、芭蕉、西郷隆盛といった偉人たちの言葉であったり、下記のような錚々たる名著であったりして、鎌田の学識の広さや日本文化に対する造詣の深さを感じさせるに十分な内容である。
 洪白誠『菜根譚』、佐藤一斎『誌四録』、西田幾多郎『善の研究』、山本常朝『葉隠』、幸田露伴『洗心録』、貝原益軒『貝原家訓』・・・・等々。
 中で、齢64歳にして長安を出発して中央アジアとインドとスリランカを踏破し、80歳で南京に帰った法顕(337-422)という名の僧侶のエピソードには驚くとともに励まされた。
 その目的は、釈迦の遺跡を拝するとともに、経典を中国にもたらすことにあったという。
 我が国の平安時代の僧侶、真如こと高丘親王を想起した。

高丘親王の墓
四国遍路35番札所・清滝寺にある高丘親王の逆修塔
親王は旅立つ前に自らの墓を建てていった

 道元についてなにより印象に残ったのは、その凄まじいまでの仏道への情熱であり、徹底した仏法帰依の姿である。

 行者、自身のために仏法を修すと思ふべからず、名利のために仏法を修すべからず、果報を得んがために仏法を修すべからず、霊験を得んがために仏法を修すべからず、ただ、仏法のために仏法を修す、すなわちこれ道なり。(『学道用心集』)

 学人は必ず死ぬべきことを思ふべき道理はもちろんなり。たとひそのことを思はずとも、しばらくまづ光陰をいたずらに過ごさじと思ひて、無用のことをなしていたずらに時を過ごさず、詮あることをなして時を過ごすべきなり。そのなすことの中にも、また一切のこといづれか大切なるといふに、仏祖の行履のほかはみな無用なりと知るべし。(『随聞記』)
 ※ソルティ注:行履(あんり)とは、禅僧の日常すべての起居動作のこと。

 学道の人は人情を棄つべきなり。人情を棄つると云ふは仏法に随ひ行くなり。(『随聞記』)

 仏道は一大事なれば、一生に窮めんと思ひて日日時時を空しく過ごさじと思ふべきなり。(『随聞記』)

 古の人の仏教への思い、すなはち、修行者たちの真理追求の情熱や庶民たちの極楽往生への願いがいかに激しいものであったか。
 それを科学的思考が発達していなかったから、という理由だけで説明できるものなのだろうか?

 

おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● トーハクのみほとけ巡り

 最近、観仏が趣味の一つになりつつある。
 若い頃はギリシア・ローマ時代やルネサンス期の西洋彫刻が好きだったのだが、枯れてきたというか、ジジむさくなったというか、求めるものが違ってきた。
 肉より魚のほうが・・・といった嗜好変化と同じだ。 

 偶像崇拝は本来の仏教的にはNGで、お釈迦様は、「法と自分を拠り所にしなさい(自灯明、法灯明)」と言い残した。
 仏滅後500年近くものあいだ仏像がつくられなかったのは、バラモン教に支配されたインドではもともと神像をつくる風習がなかったことに加え、お釈迦様の遺言も影響したのではなかろうか。
 現在、タイ、ミャンマー、スリランカなどテラワーダ仏教諸国では、仏像と言えば何を置いても釈迦如来像、実在した人物をかたどった像である。
 仏像彫刻が花開いたのは、日本や朝鮮や中国など大乗仏教諸国においてであった。
 大乗経典が様々な如来や菩薩を創作し、また、もとから土地に根付いていた信仰が仏教と混ざり合うことで明王系・天部系・垂迹系など様々な神仏が生まれ、それらの像がつくられることで実に多彩で、キャラクター豊かな、めくるめく仏像世界が築かれたのである。

 テラワーダ仏教を信奉するソルティとしては、基本的には釈迦如来以外の神仏はフィクションつまり想像上の産物としか思っていないし、偶像崇拝にも興味はない。
 観仏の愉しみは、歴史学的・社会学的・美術的なものであり、また人気漫画のキャラクターや往年のスター役者を愛好するようなミーハー的なものである。「毘沙門天カッコいい!」とか。
 とはいえ、人の少ない静かなお堂や館内で、名だたる仏師が精魂込めてつくりあげ、過去数世紀に生滅した何十万何百万という人々の念が入った仏像と対面していると、自然と心が静まり、煩悩が薄らいで、仏教愛が深まるのは事実である。

 いっぺんにたくさんの種類の仏像と出会うには、どこがいいだろう?
 トーハクこと東京国立博物館に如くはない。
 ここのホームページには「おすすめコースガイド」の一つとして、「仏像大好きコース(150分)」が紹介されている。
 梅雨入り間もない蒸し暑い土曜日、上野公園に出かけた。

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トーハクと言えば上野だが、距離的にはJR鶯谷駅南口からのほうが近い。
上野駅や上野公園の混雑も避けられる。

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東京国立博物館(本館)
本館(日本の仏像)→東洋館(アジアの仏像)→法隆寺宝物館と巡る

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薬師如来像(平安時代)
シンプルな服飾、手に乗せた薬壺が目印
理由は知らないが、撮影OKの仏像とNGの仏像がある

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弁財天(鎌倉時代)
もとはインドの神サラスヴァティー。
水の神、芸術と音楽の神、七福神の一人である。
老人の顔を持つ蛇を頭に乗せていることが多い。

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千手観音(南北朝時代)と四天王(鎌倉時代)
向って右奥から時計回りに、多聞天(北)、持国天(東)、増長天(南)、広目天(西)
多聞天はまたの名を毘沙門天という。

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東洋館には、初期(1~3世紀)の仏像や中国・朝鮮の仏像が展示されている。
初期のものはギリシア彫刻の影響が多分に見られ、彫りが深く鼻が高い西欧系美男子が多い。

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釈迦如来像
1~3世紀にガンダーラでつくられたもの。
両手を前に組み、まだ印を結んでいないのに注目。

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十一面観音菩薩(中国)
石像と思えない艶
ウエストが細い!

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聖観音(中国)
台座の石には寄進者の名前がびっしりと刻まれている。

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ちょっと中庭でコーヒーブレイク
朝鮮石人像(文人像)がここにもあった。
由来が気になる。

 法隆寺宝物館には、明治11年(1878)に法隆寺から皇室に献納された300件あまりの宝物すべてが、収蔵・展示されている。
 迂闊にもこれまで入ったことがなかった。
 本館・東洋館が並ぶメイン会場からちょっと離れた、ほとんどの来館者が足を延ばさない聖地にそれはあった。

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法隆寺宝物館
平成11年(1999)に建てられた。
周囲の緑に映える白い直線配列と水面がつくる幾何学的空間がシンプルで美しい。
この禅的な雰囲気はどこがでみたことがある・・・と思ったら、

鈴木大拙館
金沢にある鈴木大拙館ではないか!
同じ設計者(谷口吉生)だった。

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法隆寺から献納された観音像
正直、これほど多くの素晴らしい宝物があるとは思わなかった。
ここを観ないで「法隆寺に行った」とは言うのは片手落ちかも。

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弥勒菩薩半跏像
仏教伝来から程ない時代の仏像たちや、聖徳太子が大陸からもたらしたと伝えられている伎楽の仮面がたくさんある。
質量ともに圧倒された。

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平安時代(1069)に絵師・秦致貞(はたのちてい)によって描かれた国宝『聖徳太子絵伝』をデジタルで観ることができる。
ただ、原画そのものの傷みがひどいので、よく分からない。
美術的価値よりも、太子の生涯という物語的価値の高い作品なのだから、きれいに修復した原寸大の絵を掲示したほうが良いと思う。
 
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上野公園噴水広場

 150分コースに180分以上かかった。
 しかも見残しがあった。
 また行こう!

 博物館内も上野公園もいろいろな人種・国籍の外国人でいっぱいだった。
 コロナ前に完全に戻っている感。
 思えば、ソルティが子供だった60~70年代、外国人はほんと珍しかった。
 天気予報の「ハロー注意報」を、外国人が出没する警報と思っていたくらいである。
 中学の修学旅行で京都に行ったとき、黒人を初めて生で観た。
 クラスがちょっとしたパニックになったのを憶えている。
 この半世紀で日本人もずいぶん外国人馴れしたものだとつくづく思う。
 (かえって戦後の頃のほうが、町中にGHQがらみの外国人が多かったのではないか?)
 それにしても、博物館での外国人の様子を見るからに、こんなにも日本文化に関心高い外国人がいるのかと驚くばかりだった。

 考えてみると、釈迦仏はじめほとんどの仏さまは異国人なのだがな・・・・。












● 美術展:『救いのみほとけ――お地蔵さまの美術――』(根津美術館)

 根津美術館は南青山(渋谷区)にある。
 ブティックや高級レストランが立ちならぶ気取った(鼻持ちならない)界隈である。
 ソルティはずっと千代田線の根津駅(文京区)近辺にあるものと思っていた。
 紛らわしいが、根津美術館の根津は地名ではなく、創設者である根津嘉一郎(1860-1940)の名前から来ているのであった。
 ここを訪れるのは初めて。
 目的はお地蔵さまである。

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表参道駅からの道

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根津美術館

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1Fホールに並んだ古代アジアの仏像たち
右端は3世紀ガンダーラ地方でつくられた弥勒菩薩像

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正面より
ギリシア彫刻の影響が見られる

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今展のポスター

 お地蔵さま(地蔵菩薩)は庶民にとって最も身近で親しみやすい仏である。
 お釈迦さまが亡くなって1500年後に末法の世が到来し、正法は失われた。
 日本では平安末期の1052年がそれに当たる。 
 以後、56億7千万年後に弥勒菩薩が出現するまで、修行も悟りも不可能。
 さあて、困った。
 我々は永遠に六道輪廻するほかないのか?
 でも大丈夫。
 その間に娑婆世界に降りてきて、六道にいるあらゆる生命を救済してくれるのがお地蔵さまである。
 なので、お地蔵さまの仏画や仏像が盛んに作られ、広く信仰されるようになったのは、平安後期からなのである。
 今回の特別展は、日本における地蔵信仰の歴史を、書写された経典や絵巻物や仏画や仏像によってたどる試みである。
 とくに平安時代末期から鎌倉・室町時代につくられた地蔵菩薩の絵や彫像が目玉である。

 展示室は撮影禁止なので残念ながらここに紹介できないが、いくつかの彫像の美しさに心打たれた。
 お地蔵さまと言えば、風雨に打たれ摩滅し顔立ちもはっきりしない道ばたの石像のイメージが強いので、こんなに美しい地蔵像があるとは思わなかった!
 平安時代末(1147年)に作られた木造彩色の地蔵菩薩立像(ポスターの下半分)などは、興福寺の阿修羅像や法隆寺の百済観音に匹敵するほどの優美さ、高貴さ、慈しみ深さを湛えていて、これを観れただけでも性に合わない青山まで足を運んで良かった。

 1~2Fで6つある展示室をめぐったあとは、根津美術館ご自慢の日本庭園を見学。

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17,000㎡を超える広さをもつ

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ところどころに置かれた仏像がなかなか愉快

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都会の真ん中にこんな緑豊かな空間があるとは・・・


 ところで、末法思想は大乗仏教において花開いた(?)信仰なので、初期仏教の流れを汲むテーラワーダ仏教(卑称:小乗仏教)に「末法」という概念はなく、地蔵菩薩も存在しない。
 お釈迦さまの説いた法(ダルマ)はいまもちゃんと残っており、修行も悟りも可能である。

六地蔵
秩父の町中で見かけた六地蔵















● アラカンの秩父札所巡り(1~5番)


 GW中に秩父34観音札所の1~5番を回った。
 2018年の春以来5年ぶり、2巡目である。
 今回は主としてウォーキングが目的なので、白衣もつけず、笠もかぶらず、輪袈裟もかけず、納経もしない(御朱印をもらわない)。
 お堂の前で般若心経と慈悲の瞑想を唱えるだけの簡易スタイル。
 この先を続けるかどうかも未定である。
 昼過ぎからスタートして、「行けるところまで行ければいいや」という暢気なペース。
 前回はかなり気張っていたなあ~とつくづく思う。
 修行モードになっていたのだ。 
 寺も道も逃げない。
 軽い気持ちで、時間を気にせず、風景や路傍の花や人との交流を楽しみながら、のんびり歩いた。

● 歩行日 2023年5月5日(金)  
● 天気  晴れ
● 行程
12:17 秩父鉄道・秩父駅より西武観光バス「定峰行き」乗車
12:40 栃谷バス停
    歩行開始
12:50 第1番四萬部寺(20分stay)
13:50 第2番真福寺(30分stay)
15:10 第3番常泉寺(20分stay)
15:50 第4番金昌寺(10分stay)
16:20 第5番語歌堂(20分stay)
17:00 秩父湯元・武甲温泉
    歩行終了
● 所要時間 4時間40分(歩行3時間+休憩&読経1時間40分)
● 歩行距離 約9km


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西武観光バス、栃谷バス停
第1番まで徒歩10分
前回は秩父鉄道和銅黒谷駅からスタートした

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第1番・誦経山 四萬部寺(ずきょうさん しまぶじ)
永延2年(988)幻通という僧侶が秩父を訪れ、4万部の経典を読経し、経塚を築いたことが寺名の由来

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巡礼者は朝早くにここを発つのが一般なので、人はほとんどいなかった
納経所に寄り、『般若心経』の載っている経本だけ買った(500円)

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平和な里山の道をゆく
「こんな素晴らしい道だったのか・・・」
先を急いでいた前回はじっくり味わわなかった

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カキツバタ(杜若)

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ヤブデマリ(藪手毬)

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人家を離れ、高篠山の木立を登る
第2番は標高390mの地点にある

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ふう~、やっと着いた!
苦が快に変わる瞬間

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お堂の入口にある聖観音菩薩
宝冠に阿弥陀仏を付しているのが特徴
ここまで登ってきた疲れが癒されるホステスぶりで迎えてくれる

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第2番・大棚山 真福寺(おおたなさん しんぷくじ)
16世紀初期にここが最後に加わって、秩父札所34とあいなった
現在は無人である
新緑を抜ける爽やかな風、鶯の鳴き声、心が洗われる

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その名も大棚川に沿って下る(横瀬川に注ぐ)
健康な人なら、バスやマイカーで回るなんて、もったいないパワースポット

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山を下りて人家の見えるあたりで、片足を引きずった男を追い抜く

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第3番・岩本山 常泉寺(いわもとさん じょうせんじ)
背後は秩父聖地公園のある丘陵、周囲は畑、ほんとに良いロケーション
読経を済ませ休んでいたら、さっきの足の悪い男が畑道をやって来るのが見えた
彼も巡礼していたのだ!

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観音堂の虹梁(こうりょう)部分が龍の透かし彫りになっているのが珍しい

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観音堂の本尊は行基作と伝えられている
(実際は室町時代作らしい)
像高97cm、一本造り

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弘化4年(1847)の火災の際に堂から運び出された
胸部にやけどの痕が確認される

横瀬川
ふるさと歩道橋で横瀬川を渡る
足の悪い男としばし同行
昨年暮れに怪我をして3ヶ月入院していたとのこと
リハビリを兼ねての歩き遍路だったのだ
12時に第1番を発ち、あの山道を上り下りしたそうで、「今日はもう、これ以上無理」と。
3年半前に足の骨折を経験したソルティ
彼の回復あれかし、と祈った

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第4番・高谷山 金昌寺(こうこくさん きんしょうじ)
まさにここは山門の大わらじをシンボルとする健脚祈願の寺
自らの左足のここまでの回復を感謝した

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観音堂は、頂点を一つもつ四角すい状の屋根、宝形造(ほうぎょうづくり)という
周りを1300を超える野天の石仏が囲んでいる

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納経所のそばにあったカップル石像
十六羅漢のうちの2人かと思うのだが不明
保阪嘉内と宮沢賢治?)
分かる人がいたら、教えてください

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第5番・小川山 語歌堂(おがわさん ごかどう)
5年前は畑の中にぽつんとあって、どこからもよく見えたのだが、いまや住宅が迫っている
残念だが、畑を売らなければならない事情があるのだろう

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本尊は准胝(じゅんてい)観音 
たくさんの仏の母であり、子授け観音として信仰されてきた
(“胝”の字を出すには“たこ”と打つのが近道)

語歌堂の聖徳太子
ここにも聖徳太子信仰が垣間見られる
太子が頭を丸めた僧侶の恰好をしているのが可笑しい

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今日はここで終了
第5番から武甲山を望みながら道なりに進むと、武甲温泉に着く

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横瀬川の渓流の上を泳ぐ鯉のぼりの群れ
温泉もなかなか群れていた

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もちろん、“アラカン”とは阿羅漢ではない
アラウンド還暦のことである











● 和をもって貴しとなす 本:『聖徳太子信仰とは何か』(榊原史子著)

2021年勉誠出版

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 本書によれば、日本には聖徳太子が建てたと伝えられているお寺が355あるそうだ。
 いくら太子が天才で仏教を篤く信仰していたとしても、50年に満たない生涯で355は無理だろう。
 その多くは、寺の開基を太子と結びつけることで寺格を高め、国家の保護を期待すると同時に、参拝客や檀家を増やそうという“良き”魂胆からと思われる。
 ソルティが2017年に訪れた千葉県の神野寺も、聖徳太子が598年に建てたと伝えられ、関東一の古刹を誇っているが、まずありそうもない話である。
 虎やタヌキの出没する房総の山奥に、何が悲しくて太子がお寺を建てようか。
 
 720年成立の『日本書紀』の記述によれば、太子の没後2年が経過した推古天皇32年(624年)の時点で、早くも46の寺院が太子建立とされているという。
 その所在の大半は畿内(京都・奈良・大阪・兵庫)および近江(滋賀)で、むろん千葉県はない。
 一番初期の聖徳太子伝である『上宮聖徳法王帝説』では、太子建立として7つの寺院が挙げられている。法隆寺、四天王寺、中宮寺、広隆寺、橘寺、葛木寺、法起寺である。
 太子信仰の広がりに伴って、太子ゆかりのお寺の数はどんどん増えていったのである。

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法隆寺夢殿

 では、実際に聖徳太子が生前に建立した寺院はどれなのだろうか?
 本書によれば、法隆寺(改名前は斑鳩寺)は確からしい。
 法隆寺のすぐそばに尼寺として建てられた中宮寺も、太子創建の可能性がある。
 それ以外の初期5寺は、太子が亡くなってから太子を偲んで建てられたという説が有力である。
 歴史を通じて、長いこと「聖徳太子建立の寺」として法隆寺と並び称され、太子信仰の中核を担ってきた大阪の四天王寺(旧名は荒陵寺)もまた、考古学的な調査をもとに、その創建は620~630年代と推定されており、太子没後の可能性が高い。
 創建したのは、朝鮮半島から日本にやって来た渡来人を祖とする、難波吉士(なにわきし)と呼ばれた有力な氏族の集合体ではないか、という。
 四天王寺にとっては、とうてい受け入れがたい説であろう。

 この四天王寺と法隆寺のライバル関係を描いた章が面白い。
 どっちがより聖徳太子と強いつながりを持ち、極楽浄土に行ける効験があるかで、本家本元争いの如き、何世紀にもわたる両寺の張り合いがあった。
 太子没後387年経った寛弘4年(1007)に、四天王寺が、金堂内に安置されていた六重塔の中から聖徳太子直筆の『四天王寺縁起』を発見した!
 ――と世間の注目を一身に集めれば、方や法隆寺は、これまで門外不出で非公開を貫いてきた聖徳太子の遺言『四節文』をやおら公開し始めるという具合。(『四節文』の書かれた原文を見た者はいない)
 この2つの文書は類似点が多いという。

 法隆寺と四天王寺の歴史を振り返り、伝えられてきた史料を見ていくと、法隆寺、四天王寺ともに、聖徳太子信仰の中心寺院としての自負と、互いの寺に対する対抗意識を常に持ち続けていたことが明らかである。こういった意識は、実際に行動に移され、それぞれの寺院の歴史となり、それが繰り返されてきた。法隆寺側が行動を起こせば、それを受けて、四天王寺側が行動を起こし、さらにそれを受けて、法隆寺、そしてまた、四天王寺といったように、連鎖した行動となっていったのである。(ゴチはソルティ付す)

 実際の行動とは、ありていに言えば、由緒の誇張や偽造である。
 寺院の奥で高僧たちが禿頭を集め、こうした策略を練っているところを想像すると、なんとも面白い。
 停滞に悩む現代のお寺さんもこれだけの図々しさとアイデア精神があれば・・・・と思うけれど、仏への信仰を失った現代人はちょっとやそっとのことでは乗せられないだろう。

四天王寺
四天王寺(ウィキペディアより)

 聖徳太子は日本に仏教を広め、お寺や仏像を作り、自ら経典の講義をし、仏教文化の礎を築いた。
 日本初の憲法を作った人であり、氏姓にとらわれず才能ある人物を重用し、遣隋使を送り中国と対等の関係を築こうとした。
 天皇を中心とする中央集権体制の確立につとめた。
 現代まで続く日本という国の骨格を作った人と言える。
 そればかりでなく、日本に大陸由来の建築技術や製紙技術、お香や伎楽の文化を広め、「大工の神様」「紙の神様」として信仰されてきた。
 華道もまた太子由来で、聖徳太子の命で出家した小野妹子(遣隋使だった人!)が仏前に花を供えたことが華道の始まりという。
 流派の一つとして有名な「池坊」とは、小野妹子が住んでいた建物(坊)が池の辺りにあったことから、そう呼ばれるようになったそうな。(現在の京都六角堂)
 実に、日本人の精神文化、政治意識に深い影響をもたらした、いや、日本人の国民性の土台を築いた人と言っても過言ではあるまい。
 「和をもって貴しとなし、逆らわないのを教義とせよ」という十七条憲法の冒頭の言葉くらい、協調性に富み、お上に対して従順で、かつ同調圧力の強い国民性を端的に表現した言葉はない。

 我々は聖徳太子に、良い意味でも悪い意味でも、呪縛されている。
 聖徳太子について知ることは、日本人について知ること、日本人である自分自身について知ることなのだと思う。
 なので、今はまだ「聖徳太子虚構説」は早過ぎる。
 個人的にはそう思う。






おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損









● 寄居男衾・7つの寺めぐり

 今回も寄居町発行のハイキングガイドを手に歩いた。
 東武東上線の男衾(おぶすま)駅を発着点とし、7つの寺を一筆書きでめぐるコース。
 ちょっとした巡礼気分が味わえる。
 ガイド上では全長11.5kmと表記されていたので、見物&休憩入れて4時間半あれば回れると踏んでいたのだが、実際には6時間かかってしまった。
 これは主として道迷いのためなのだが、実際の距離も13km近くあるのではなかろうか?
 寄居町には再確認してもらいたい。
 道は平坦だが、日陰のないアスファルト道のため、思った以上に疲弊した。
 この日、気温27度まで達した。

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寄居町ハイキングガイド(男衾コース)より
 
● 歩行日 2023年4月20日(木)  
● 天気  晴れ
● 行程
09:15 東武東上線・男衾駅
    歩行開始
09:30 1昌国寺
09:45 2常楽寺
10:40 3普光寺
     休憩(10分)
11:35 4高蔵寺
11:50 5今市地蔵堂
     休憩(10分)
13:10 6長昌寺
     昼食(40分) 
14:30 7不動寺
     休憩(20分)
15:15 東武東上線・男衾駅
    歩行終了
● 所要時間 6時間(歩行4時間+寺見物40分+休憩1時間20分)
● 歩行距離 約14km(道迷い含む)

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東武東上線・男衾駅
平日の昼間は人影がほとんどない。

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1.昌国寺(曹洞宗)
徳川家康のいとこである水野長勝が創建
鐘楼はあったが、ほぼ廃寺の風情

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境内の高野槇は町の天然記念物
樹齢約400年、高さ約25m 

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如意輪観音さま
右膝を立て、右手を頬に当てているのが特徴

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2.常楽寺(真言宗智山派)
畑と木立に囲まれた静かな寺   

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寄居七福神の一つで、恵比寿さまを祀る

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ここから崖を下って荒川土手を行く
青空の下、広がる畑がすがすがしい

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「いざ、鎌倉!」
御家人たちが馬を飛ばした古道
このあたり(男衾郡畠山庄)は畠山重忠の領地だった

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盆地の彼方に秩父・長瀞の山々が霞む

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3.普光寺(天台宗)
1200年以上の歴史を持つ地域最大のお寺

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畑中の広々した境内が気持ちいい

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昭和8年の農地開墾時に発見された板碑群
鎌倉街道往来中に病没した旅人を埋葬供養したものとされている
最古のものは文永2年(1265)、元寇の直前だ

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御本尊の木造薬師如来は平安後期のものと推定されている

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厄除け角大師のお札をいただいた
ここから畑中の道を行く

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交差点に置かれた石碑群
百万遍(ひゃくまんべん)供養とは、疫病退散などの目的で、集落の人々が講を作り、「なむあみだぶつ」を百万回唱えること
寛政2年(1790)にこの土地で何かあったのだろうか?

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街道沿いにはこのような石の蔵(大谷石?)が目立つ
何を保存したのだろうか?

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4.高蔵寺(天台宗)
開基は、柳沢吉保の祖父・柳沢信俊

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閻魔大王が祀られていた

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こちらは十一面観音菩薩さま
新緑を背景に麗しい

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不動明王
人の煩悩を焼き尽くし、清めてくれる

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5.今市地蔵堂
ほぼ折り返し地点に到着
屋根の紋章が気になってズームしてみたら・・・

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逆卍、すなわちハーケンクロイツ(鉤十字)ではないか!
思わぬところにあるものだ

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木造の地蔵菩薩像は室町時代の作と伝えられる
高さ3m、玉眼を施してある
青々とした頭頂と黒衣が珍しい

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子育て地蔵として地域の人に親しまれている

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兒泉(こいずみ)神社
祭神はヤマトタケル
村の鎮守さまである

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腕が多く、悪鬼を踏みつけている姿から、
大元帥明王ではないかと思われる
鎮護国家に霊験あり

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6.長昌寺(天台宗)
場所がわかりづらく行き過ぎてしまったところ、同じように探している方と遭遇
一緒に探し回った(四国遍路を思い出す)

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寄居七福神「寿老尊」の寺である
寿老尊と福禄寿はキャラがかぶっているので見分けが難しい
鹿を連れているのが寿老尊、鶴を伴っているのが福禄寿
と思ったら、逆の場合もある
単体の場合も多い
一般に、頭のひょろ長いのが福禄寿と思っていいようだ

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藤棚の下のベンチで昼食、および20分の昼寝
安らぐなあ~

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7.不動寺(真言宗智山派)
道を間違って30分のロスで最後の寺に到着
Googleで経路を確かめながら歩けばいいのだが・・・
それはつまらない
広い境内をもちながら、ひっそりしたお寺
ここで20分瞑想

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やっぱり、あなたが呼んだのですね

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帰りは小川町駅にある花和楽(かわら)の湯に寄る

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店内は五月人形や鯉のぼりでいっぱい

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今日も、おつかれナマでした!












● 本:『ゆかいな仏教』(橋爪大三郎、大澤真幸共著)

2013年サンガ新書

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 久しぶりに読むサンガ新書。
 ブックオフで見つけた。
 コロナ禍の2021年1月にネットで(株)サンガの破産を知り本当にびっくり&残念・・・・。
 と思っていたら、元編集者らが復活を呼びかけてクラウドファンディングを開始。
 わずか一ヶ月半の間に一千万円を超える額が集まり、同年7月めでたく(株)サンガ新書が誕生。
 仏の智慧をもとめる在家信者の志しの熱さを感じる展開であった。

 本書は2人の社会学者による対談形式の仏教概説である。
 シッダールタの覚りとサンガの誕生から始まった仏教が、仏滅後の結集を経たのち、三蔵(経・律・論)を備えた初期仏教として完成(紀元前5世紀頃~紀元前後)。
 そこへ出家中心主義を批判し利他行を重んじる大乗仏教が登場し、在家修行者(=菩薩)が重視されるようになる。
 新しい経典が次々と創作された。
 仏教は、初期仏教の流れを汲む北伝仏教(ミャンマー、タイ、スリランカなど)と、大乗仏教の発展形である南伝仏教(中国、朝鮮半島、日本など)に分岐した。(4~5世紀頃)
 大乗仏教は我が日本において大きく花開き、即身成仏や密教や修験道や阿弥陀信仰や念仏やタントラや禅や56億7千万年後の弥勒菩薩や本地垂迹や葬式仏教やなにやらかにから、ディズニーランドのアトラクションのごとき種々雑多なんでもありの様相を呈す。
 本書は、このような仏教の歴史をたどりつつ、キリスト教やイスラム教と比較したり、仏法をデカルトやカントやウェーバーやヴィトゲンシュタインなどの近代哲学の視点から読み解いたり、「苦」や「悟り」や「空」や「唯識」や「自由意志と因縁」といった仏教の重要概念についてズバリと切り込んだり・・・。
 両人の幅広い学識と縦横無尽な切り口で語られる仏教の姿。
 面白く読んだ。
 
 おおむね、10歳年下の大澤(58年生まれ)が問いを発し、仏教の専門研究者であり先輩学者でもある橋爪(48年生まれ)がこれに答える、という形式をとっている。
 大澤が繰り広げる様々な世界の思想との対峙を通して、北極星のごとく不動なる橋爪の姿勢によって、仏教の仏教たるゆえんが浮き彫りにされていく――という印象を持った。
 
 以下、橋爪の言葉より引用。

 苦というと、楽とは反対で、辛かったり痛かったりする感覚的な苦しみを思い浮かべてしまう。でも、そう考える必要はない。私は、ただ単に、苦とは、「人間の生が不完全であること」だと思うのです。
 
 私の理解、仏教にいう苦は、自分の人生が思いどおりにならない、ということと等しい。「思いどおりにならない」という部分を苦と表現すれば、愛する人と出会うのは思いどおりになっているから苦にならないけれど、愛する人と別れることは思いどおりではないからそれを苦と感じてしまう。おいしいものを食べられればそれは苦ではないが、食べたいものが食べられなかったらそれを苦と感じてしまう。
 もしも思いどおりにならないことをネガティブなものとしてカウントしていくと、人生はネガティヴだらけになり、自分の人生が自分の思いどおりにならないというそのことに圧倒されて、へしゃげてしまうだろう。そうならないため、自分の人生が思いどおりにならないのはなぜなのか、と考えるわけです。
 
 覚るというのは自分を外側からみることなので、覚った結果は、自分が最大の他者になるわけです。世界の中に自分とか人間とかいうくくりがあることが不自然であり、不当であるということを含むと思うから。つまるところ、私は私でなく、私は人間でなく、私は生命でもなくて、私は奇妙奇怪な宇宙のメカニズムそのものだ、ということが結論になるはずです。
 
 覚りがあるのと、覚りがないのと、どこが違うか。覚りは、自分の人生を測り直すものさしのようなもので、価値ないもの、苦しいものである自分の人生が、価値ある覚りとの関係で意味あるものになる。そういう体験だと思う。 

 橋爪さん、預流果ってる?
 



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