ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●仏教

● Happy Death Day :B.E.2568 ウェーサーカ祭に行く

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日時 2024年5月12日(日)10:30~16:30
会場 日暮里サニーホール(荒川区)
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 久しぶりにウェーサーカ祭に参加した。
 実に2017年以来、7年ぶり。
 その間、足を骨折したり、コロナ禍があったり、修行意欲が薄れて、瞑想をさぼったり戒を破ってしまったり、いろいろあった。
 仏道にも山あり谷あり迷い道あり。
 
 ウェーサーカの語源は、サンスクリット語のヴァイシャーカ(第2の月)。
 インド歴の第2の月は、西暦だと4月中旬~5月中旬にあたる。
 テーラワーダ仏教では、お釈迦さまの誕生、成道(開悟)、入滅の3大重要事がすべてウェーサーカ月の満月の夜に起きたと伝えられており、この日に盛大なお祝いをする伝統がある。
 年によって日にちは変わるが、5月の最初の満月に開催する習わしとなっている。(今年は5月23日)
 大乗仏教の日本では、4月8日の花祭り(灌仏会)がそれに該当し、「天上天下唯我独尊」のポーズをした誕生仏に甘茶をかける風習が伝わっている。

天上天下唯我独尊

 会場には250~300人くらい集まった。
 舞台真ん中に色とりどりの花に囲まれた金色のお釈迦さまが燦然と輝き、癒し系の音楽が流れていた。
 会場外のブースにはスマナサーラ長老の著書はじめ、たくさんの仏教関連本が置かれ、人だかりになっていた。
 長老の講演会や瞑想会の時とはまた違う、祝福の気に満ちた和やかな空気が会場を領している。
 「ああ、ここに帰ってきた」
 またたく間に7年の空白を埋めることができた。
  
 午前中は、読経とブッダ・プージャ(お釈迦様へのお供え儀式)とスマナ長老の法話。
 昼休みをはさんで、午後はお坊様たちのお話がメインだった。
 テーラワーダ仏教からはスリランカ出身のヘーマラタナ長老が話された。
 スマナ長老の講演の折りなどにお姿を見かけることはあったが、話を聞くのははじめてだった。
 日本人が外国語であるパーリ語のお経を学ぶ際の注意点などを話された。
 続いて、大乗仏教系の5人のお坊様から短いスピーチがあった。
 真言宗、浄土宗、日蓮宗・・・それぞれが迷える人生の中でスマナサーラ長老とご縁を得て、テーラワーダ仏教を学び、ヴィッパサナー瞑想を実践しながら、住職としての仕事に従事しておられる。
 ユーモアある語り口は、さすが普段から一癖も二癖もある檀家信者を相手に法要を重ねているだけあるなあと感心した。
 最後に参加者みんなが壇上に上がって、お坊様がたから祝福の言葉とともに手首に聖糸を結んでもらった。

 実は、花粉症の薬のせいか、このところ眠くて仕方ない。
 本日の祭典も、半分以上は座席でうつらうつらしていた。
 でも、参加しただけでも十分価値があった。
 日曜の夜を清らかな思いのうちに帰路に着けたのだから。

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有志の方のお布施により配布されたお弁当
ありがとうございます
 
 ときに、なんどかこの催しに参加しながら、今回はじめて、「あっそうか・・」と感じ入ったことがあった。
 日本の花祭りはお釈迦さまの生誕を祝う。
 一方、テーラワーダ仏教のウェーサーカは、生誕と成道と入滅(死)を祝う。
 特に、入滅(死)を祝うというのが大きな違いである。
 日本では昔から、死は穢れであり、忌避すべきものであり、悲しむべきものであり、人生最大の不幸である。
 大事なお釈迦さまの死を祝うなんて、とんでもないことと映る。
 しかるに、本来の仏教では「生」こそ苦しみであり、死は苦しみの終わりであるから決して不幸ではない。
 とりわけ、生前に悟りを開いた修行者や善行を積んだ在家信者にとっては、死はより良い境遇への生まれ変わりを意味する。あるいは、お釈迦さまや阿羅漢すなわち最終的な悟りに達した修行者においては、二度と生まれ変わらない=輪廻転生からの解脱、すなわち涅槃を意味する。
 それこそは仏道の最終的な目標であり、生命にとって最高の幸福である。
 つまり、お釈迦さまの入滅(死)は、最高に寿ぐべき事象なのだ。

 キリスト教と比較してみると、このことがよく分かる。
 クリスマスはイエス・キリストの生誕を祝い、復活祭は死からの蘇りを祝う。
 キリストの死を祝う記念日などあり得ない。
 なぜなら、キリスト教では復活して「主」の審判を受けたあと天上で永遠の生命を得ることが、最大の幸福とされているからである。
 西洋暦の起点がイエス・キリストの誕生の年であるのにひきかえ、仏教暦の起点がお釈迦さまの入滅した年に設定されているという事実は、この2つの世界的宗教の根本的な違いをまざまざと表している。
 一方は永遠の生命、一方は生存からの離脱。

 ちょっと前に公開されたアメリカ映画で、『Happy Death Day』というホラー映画があった。
 ウェーサーカはまさにお釈迦さまの Happy Death Day を祝う日なのである。
 ちなみに、今年はB.E. (Buddha Era) 2568
 お釈迦さまが涅槃入りされて、2568年後である。

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帰りに『星乃珈琲店』に寄ってケーキセットで休日を締めた
(肥満を恐れない境地にあったのはなぜでしょう?)


サードゥ、サードゥ、サードゥ














● 笛吹峠(80m)~物見山(135m)~岩殿観音  

 五月の風に吹かれ、鳥のさえずりを聴きたい!
 と思うものの、ゴールデンウイークの山はどこも人盛りの山。
 移動もまた大変である。
 近場で人の訪れないところを狙って、奥武蔵の峠道を選んだ。
 標高はないに等しいが、距離は結構なものであった。

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路傍の花(以下同じ)

● 歩行日 2024年4月28日(日)
● 天気  晴れ(最高気温30度)
● 行程
10:35 JR八高線・明覚駅(埼玉県比企郡ときがわ町)
    歩行開始
11:25 旧道(山道)入口
11:45 笛吹峠
    休憩(25分)
12:50 地球観測センター(JAXA)
    見学(50分)
14:10 物見山
    休憩(15分)
14:30 昼食「日の出家」(30分)
15:10 岩殿観音(坂東札所10番正法寺)
    参拝(40分)
16:00 弁天沼(鳴かずの池)
16:35 東武東上線・高坂駅(埼玉県東松山市)
    歩行終了
● 所要時間  6時間(歩行3時間20分+休憩ほか2時間40分)
● 歩行距離   約14 km

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JR八高線・明覚駅
はじめて下りた
ログハウス風の駅舎が好ましい

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ちょっと歩けば里山風景が広がる

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弁財天の碑
かつてここに池があったのかもしれない

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青々とした麦畑がさわやか
麦秋の頃はまた黄金の波が美しかろう

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旧道入口
ここから起伏の少ない山道を行く

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檜の道
ソルティは花粉症なのだが逆療法で免疫をつける
(推奨しません)

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笛吹峠
埼玉県鳩山町と嵐山町の境をなす
かつてはここを北関東と鎌倉を結ぶ鎌倉街道が走っていた
後醍醐天皇の皇子である宗良親王が足利尊氏と戦った際(1352年)
月明かりの下ここで笛を吹いたのがその名の由来という
「笛吹童子」とは関係なかった

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峠付近ではまさに「笛を吹く」ごとく鳥のさえずりが賑やか
ウグイスしか判別できないのが情けない

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地球観測センター(JAXA)
こんな山中にこんな施設があったとは知らなんだ

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地球の環境状態を人工衛星から観測するリモートセンシング技術の確立・発展のため
1978(昭和53)年10月、埼玉県比企郡に設立された
巨大パラボラアンテナが目立つ

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見学は無料

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地球の歴史

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人工衛星の模型
親子連れが数組いたくらいで空いていた
もう少し展示に工夫がほしいところだ

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ここから東松山市民の森に入る
針葉樹から広葉樹に変わった
羽虫が顔の周囲を飛び回ってうっとうしかった

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物見山(135m)
桜、ツツジ、紅葉の名所として市民に親しまれている

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標高は低いが、その名の通り、展望は素晴らしい

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東側に関東平野が広がる

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14時過ぎ、やっと昼食
今日はお弁当を用意して来なかった

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そば定食(1100円)
野菜の煮物がうれしい

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岩殿観音(坂東札所第10番正法寺)
養老2年(718)の開山と伝わる
中世に源頼朝(大泉洋)の命により比企能員(佐藤二朗)が復興した
比企の尼(草笛光子)も深く信心したという(by『鎌倉殿の13人』)
本尊は千手観音

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立派な木組みに宮大工の伝統の技を見る

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大イチョウ
推定樹齢700年、周囲11m
色づいたら圧巻だろう

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根元でしばし瞑想、エナジーチャージした

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我が心の友、お大師さま
真言宗智山派の寺院である

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鐘楼
茅葺きの屋根が風情ある
生きとし生けるものの幸せを祈り、鐘を撞いた

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鐘楼から見下ろす参道

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山門の仁王像
なんだか可愛い

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寺の裏から入って表から出ることになった
ここから約600mの参道が続く

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参道の両側の家にはかつての屋号や寺号が掲示されていた
明治初期の廃仏毀釈の波にさらわれるまで、門前町として栄えていたのだ

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参道入口から山門を望む

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赤い橋が優美な弁天沼

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祠の中の弁天様

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かつての巡礼路だろうか
風情ある野辺の道

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東武東上線・高坂駅
歩行終了!
思った以上に時間がかかった
やはり朝早い出発が大切

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5月の野の花があでやかだった











● 本:『ネットカルマ』(佐々木閑著)

2018年角川新書

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 こうやってブログを書いていて言うのもなんだが、時々、スマホやパソコンや WINDOWS のない世界、すなわちインターネットのない世界に行きたいと切に思う。
 生れてから30代初めまではそういう世界に生きてきて、とくに不自由を感じていなかった。
 人との連絡は電話やFAX、手紙や伝言で十分間に合ったし、買い物は店に足を運んで実物を確認しての現金払いで安心も一緒に買えた。
 調べ物をするときは、家の百科事典で不足なら、図書館で本を探した。
 JR時刻表を手に旅行し、その日泊まる宿は現地の電話帳で調べたり、町の旅館組合を訪ねて安宿を紹介してもらった。
 すれ違う誰も自分の素性を知らない、家族や友人の誰も自分の居場所を知らない、その土地にいたことすらあとに残らない、見知らぬ土地をひとり旅することの解放感が心地良かった。
 いまや誰もが、文字通り世界中に張り巡らされた World Wide Web にかかった蜘蛛の餌食のような存在になってしまった。
 わずか30年で、インターネットと無縁で暮らすのが困難なほど、我々の生活スタイルは変わってしまった。
 たとえば、今日一日だけで、ソルティの姿は何台の街のカメラに撮られたのだろう?

 逃れられない罠にかかってしまったような閉塞感は別にしても、ソルティはネットの暴力というものに慣れることができない。
 匿名性を悪用したSNSにおけるデマゴギーや中傷や罵倒、プライヴァシーを侵害した画像や動画の拡散、特定の個人に対する見境ないバッシング、何度もほじくり返される過去のあやまち、未成年を対象とする性犯罪・・・・e.t.c.
 昔なら大目に見られたろう“若気の至り”で将来を破壊された若者、デマで評判を落とされた飲食店やホテル、過去の恋人にモザイク処理なしのヌード画像をあげられた女性、忘れたい(忘れてほしい)過去やつぐなった罪を幾度もネットに上げられそのたび叩かれ貶められる著名人。
 なにより怖いのは、自分がいつ標的にされるかわからないということだろう。
 街を歩いていて、あるいは列車の中で、自分がたまたま何かの事件に巻き込まれたとき、周囲(外野)が一斉にスマホをかまえることを覚悟しなければならないとは、なんていう嫌な時代だろう!

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Tomasz MikołajczykによるPixabayからの画像
 
 本書の副題は「邪悪なバーチャル世界からの脱出」。
 カルマとは仏教用語の業(ごう)、我々のすべての行いを記録するシステムのことである。

 業は私たちがおこなう善いこと、悪いことをすべて記録し、それに応じて様々な結果をもたらします。その業のシステムに縛られながら暮らすことは、私たちに耐えがたい苦しみをもたらすと考えてブッダは仏教を生み出しました。つまり仏教という宗教は、業のパワーから逃れることを第一の目的とする宗教なのです。 

 因果応報、悪因悪果、自業自得、生前の業に応じて六道(天界、人間界、阿修羅道、餓鬼道、畜生道、地獄)のいずれかに生まれ変わる輪廻転生システム・・・・。
 古代インドの人々がその存在を信じ怖れたカルマ(業)の働きは、現代科学の目から見れば迷信に過ぎない。
 ――だったはずだが、すべてをデーターとして記録し消すことが困難なインターネットの登場で、21世紀版「カルマ(業)」が誕生した。
 佐々木はそれをネットカルマと名づけたのである。
 
 佐々木は仏教の業の特性は、以下の3つと指摘する。
  • 第一原則 人がおこなった善悪の行為は、すべてが洩れなく記録されていく。
  • 第二原則 記録された善悪の行為は、業という潜在的エネルギーとなって保存され、いつか必ず、なんらかのかたちで、当の本人にその果をもたらす。
  • 第三原則 業のエネルギーがその果をもたらす場合、それがどのようなかたちでもたらされるかは予測不可能であり、原因となる善悪の行為から、その結果を推測することはできない。
 佐々木は、ネットカルマがいかに上記の仏教の業と似た作用を持っているか、また今後の IT や電子機器の一層の進歩によってますます近づいていくかを、一つ一つ検証していく。
 さらには、ネットカルマのほうが仏教の業よりも非情で残酷になりうることを示す。
 たとえば、仏教の業は個人の範囲でしか働かない。
 個人の犯した悪行の報いをいつの日か受けるのは、当人だけである。
 しかるに、ネットカルマは悪行を犯した当人だけでなく、その家族や下手すると子孫にまで累を及ぼす。
 ある犯罪者の顔と名前がネットにばら撒かれたが最後、その家族や子孫も特定されて、有形無形の被害を受けてしまう可能性がある。

 我々は、もはやまわりをデジタルな記憶媒体で埋め尽くされ、自分の姿を曖昧な忘却によって美化していくということさえも許されなくなってきます。こういう状況の表現としては「つらい暮らし」としか言いようがありません。いつも心の底に、澱のような不幸感を抱きながら、だからと言ってどこかに問題解決の明快な出口が見いだされるあてもなく、鬱々と生きていく。まさにブッダが感じた「生きることの苦しみ」が、ネットカルマによって一層強まっていくことになるのです。 

 もちろん、佐々木は問題を言いっ放しにして済ますことはない。
 ネットカルマの特性が仏教の業とよく似ているのなら、それがもたらす苦しみから抜け出す手立てもまた、ブッダの教えから得ることができる。
 ここからはまさに仏教学者である佐々木の独壇場。
 本書後半では、ネットと適切に付き合いながら、ネットカルマの苦しみをなるべく受けない方法、ネットカルマの被害を克服していく方法を説いている。
  
 ブッダはむろん、いまのインターネット社会のありさまを想像すらしなかったろう。
 が、人間の苦しみに対する特効薬として、ブッダの教えは時代を超えて普遍的な価値を持つ。
 
 サードゥ、サードゥ、サードゥ。
 
 
 
おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 本:『大乗仏教 ブッダの教えはどこへ向かうのか』(佐々木閑著)

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2019年NHK出版新書

 佐々木閑は、おそらく現在最も著名な仏教学者の一人であろう。
 『科学するブッダ』(角川文庫)、『仏教は宇宙をどう見たか アビダルマ仏教の科学的世界観』(化学同人社)はじめ、一般向けの刺激的かつ啓発的な本をたくさん書いているし、NHK『100分で名著』や『こころの時代』などテレビ出演も重ねている。
 仏教学界でなにか論争が持ちあがると、この人が一枚加わっていることも度々。
 『ブッダという男』を書いた清水俊史と、『初期仏教 ブッダの思想をたどる』を書いた馬場紀寿のあいだに勃発した論争(+アカハラ騒動)にも、公正な第三者の立場で介入したようである。
 男気のある人なのだなあ~。

 ソルティはちょっと前に佐々木の講演を聴きに行ったが、仏教に対する深い愛情と揺るぎない信心を感じさせる話しぶりであった。
 基本的には、原始仏教――テーラワーダ仏教(いわゆる小乗仏教)に伝わる『阿含経典』におさめられている釈迦の教え――を拠りどころにする人のようだが、このひと特異のスタンスは、近代科学の実証主義かつ合理的視点をおろそかにしない点と、非仏説であることがもはや否定しようのない大乗仏教を否定しない点であろう。
 これは一見、矛盾しているように思われる。
 近代科学の立場からすれば、『阿含経典』に見られる神秘的記述――神や悪魔の存在、業(カルマ)と輪廻転生、ブッダの示す奇跡の数々など――はNGである。
 中国を通して日本に伝わった大乗仏教の経典には、『阿含経典』をはるかに上回る神秘的記述が盛りだくさん。
 たとえば、56億7千万年後の弥勒菩薩の到来なぞ、人類の寿命どころか、地球の寿命を超えている。
 ありがたくもなんともない。
 科学を重視する人間なら、とうてい受け入れられるものではない。
 「あとがき」で佐々木はこう記している。

 私自身は釈迦の教えを信頼して生きているのですが、釈迦を絶対視するような信者ではありません。つまり、釈迦の教えの中には今の自分にとって必須の、優れた教えがたくさん入っていることは認めても、だからといって釈迦の教えを丸ごと全部、絶対の真理として受け入れるわけではない、という意味です。

 この世界は科学的な法則によって粛々と動いているけれど、その中で暮らす私たちは心の中の煩悩のせいで苦しみ続けなければならない。この状態から抜け出すためには、釈迦の教えのうち、現代の科学的世界観においても通用する部分を抽出して、それを自分の「生きる杖」にするというのは全く当然のことであり、それ以外に自分の心を偽らずに生きる道はないということです。(ゴチはソルティ付す、以下同)

 そしてこのように考えていきますと、「釈迦の仏教」からは大きく逸脱したように見える大乗仏教の様々な教えにも、じつは大きな意義があるということが理解できるようになります。

 本書で紹介したように、同じ大乗とは言っても経典によって様々な世界観があり、それぞれに怪しげな点や信じがたい不自然さを含んでいます。今のわれわれが、それを心底信じるというのはたいへん難しいことです。しかしそこには、生きる苦しみを消してくれるなんらかの作用が含まれていることも事実なのですから、それを正しく見いだして、自分に合ったかたちで取り入れることができれば、「釈迦の仏教」ではなしえないかたちでの救済が可能になるはずです。

 つまり、佐々木個人としては科学的実証性によって濾過したあとの「釈迦の仏教」すなわち原始仏教を「生きる杖」として選ぶけれど、この世には大乗仏教の教えが「生きる杖」になる人もいる以上、それを否定するのは間違っている。生きる苦しみから救い出してくれるものであれば十分な存在価値がある、ということなのだろう。
 要は仏説であるかどうかが問題なのではなく、「生きる杖」として役立つかどうかこそが宗教の存在意義だというわけだ。
 考えてみればあたりまえの話である。
 大乗仏教が「仏説でない」からといって否定するのならば、キリスト教もイスラム教もユダヤ教もヒンズー教も神道も「仏説でない」がゆえに否定しなければならない。
 信仰はあくまで、個々人の心の中に展開するドラマである。
 他人がとやかく言うことではない。

 本書を読む際に押さえておきたいのは、上記のような視点から、佐々木が大乗仏教を語っている点である。
 科学的思考を大切にする学者としての客観性に基づいた発言と、人それぞれの信仰のあり方を尊重するダイバーシティ感覚。このバランスが本書のなによりの特徴であろう。

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 ソルティは、原始仏教により近いテーラワーダ仏教を「生きる杖」にしている。
 このさき大乗仏教のいずれかの宗派にうつることはないだろうし、なんらかの大乗経典を心の支えにすることもないと思う。法事などでよく唱えられる『般若心経』くらいは、便宜上、暗記したいと思っているが。
 とは言え、代表的な大乗経典がどんな成立事情を持ち、どんな内容なのか、およそ知っておきたいと思っていた。
 本書は、紀元前後の大乗仏教の成立事情から始まって、『般若経』、『法華経』、『浄土教』、『華厳経』、『大般涅槃経』といった日本仏教各派で重用されている代表的な経典を解説している。
 佐々木と、佐々木の講義を聴きに来た仏教学者でも僧侶でもない社会人学生との対話形式になっているので、とても読みやすく、わかりやすい。
 新たに知ったこともいろいろあった。
 たとえば、
  • アショーカ王の時代に「破僧」の定義が変更されたことで部派仏教の時代が到来した
  • 日本仏教は実はヒンズー教に近い
  • 奈良時代に鑑真を招いた理由は、授戒儀式によって僧侶を自家生産できるようにするためだった
  • 百年間、未解決だった『大乗起信論』の成立事情に関する問題が、2017年大竹晋によって決着つけられた
 大竹晋、そんなドえらいことをしていたのか!
 『大乗非仏説を超えて』という衝撃的な本の作者だけある。(ソルティの目に狂いはなかったぜ)
 GWに今一度、末木文美士著『日本仏教史』を読み直そうかな。
 
 最後に、佐々木は宗教の未来のカタチについてこう述べている。

 これから時代は、科学的に説明できるか否かがすべての物事の判断基準となるため、仏教はおそらくこの先、どんどん変容を迫られることになるでしょう。それでどんな方向に向かうかと言えば、科学とうまく擦り合わせができないことを「心の問題」に置き換えて解釈するようになっていくはずです。それは仏教にかぎったことでなく、キリスト教やイスラム教も同じです。

 科学と擦り合わせができない教義を掲げても誰も信じないので、絶対神の存在や、輪廻、業、浄土といった神秘的な概念は次第に薄まっていき、最終的には「今をどう生きるか」を示す単純なものになっていくと思われます。

 それを佐々木は「こころ教」と呼んでいる。
 さしずめ教祖は「ココロのボス」か・・・。
おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 仏教学の落とし穴 本:『ブッダという男――初期仏典を読みとく』(清水俊史著)

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2023年ちくま新書

 ブックカバーにこう紹介されている。

 これまでのブッダ理解を批判的に検証し、初期仏典を丹念に読みとくことでその先駆性を導き出す革新的ブッダ論。 

 まず、ここでいう「初期仏典」とはなにか?

 律蔵と、経蔵の『長部』『中部』『相応部』『増支部』の四つと、『小部』のうち成立が古いと目される韻文資料とを指し、さらにその「初期仏典」のなかでも部派を超えて確認できる記述 

 すなわち、日本で広く信仰されてきた大乗仏教の経典ではなく、タイやスリランカやミャンマーでいまも信仰されている上座部仏教(いわゆる小乗仏教)の『阿含経典』のうち、『小部』の散文史料をのぞいたもの、および出家集団(サンガ)の規則を記した律蔵ということになる。
 最近は、「『小部』は結集仏典にはなかった」という驚きの説も――たとえば、馬場紀寿著『初期仏教 ブッダの思想をたどる』――あるようだが、そのあたりは措いといて、ブッダ元来の教え、もとい仏教の原型を探ろうとするのなら、おおむね順当な資料選定と言えよう。
 (ときに、本書あとがきで、清水が馬場から受けた出版妨害のことが記されている。仏教的とは言い難い、学会的騒動があったようだ)
 
 次に、「これまでのブッダ理解を批判的に検証」とはどういう意味か?
 仏典の中には、様々な神話的記述がある。
 ブッダ(豚ではない)が空を飛んだとか、テレポーテーション(瞬間移動)したとか、神様に説法したとか、生まれてすぐ歩いて「天上天下唯我独尊」と言ったとか・・・・すなわち、近代科学の実証主義的見地からは「あり得ない」エピソードである。
 こういった神話的装飾を取り除いて、歴史的事実としての「ブッダ」を探ろうというのが、近代に成立した学問としての仏教学である。
 「神話のブッダ」でなく「歴史のブッダ」を。
 ここまではいい。
 しかしながら、「そこにはいま一つの罠があった」というのが、清水の指摘であり、本書の一番のポイントである。

 ブッダの歴史性を明らかにしようとする際に、最大の障害となっているのは、仏典の神話的装飾でも後代の加筆でもなく、我々の内側にある「ブッダの教えは現代においても有意義であってほしい」という抗いがたい衝動である。結果として、これまでの専門書や一般書の多くが、歴史のブッダを探究しているはずが、彼が2500年前に生きたインド人であったという事実を疎かにして、現代を生きる理想的人格として復元してしまうという過ちを犯してしまっている。
 
 これはまったく頷けるところ。
 仏教を信じブッダを敬愛する人ほど、ブッダを自らの理想像に仕立て上げてしまいがちである。
 いわゆる「推し」、アイドルファンの心理だ。
 そうなると、仏典の中にある「アイドルにそぐわない」言動の記述は自然と目に入らなくなり、「アイドルにふさわしい」言動の記述ばかりが目に映るようになる。
 それを集めて、誇張粉飾することで、自分の理想のブッダが生み出される。
 「推し活」真っただ中の当人はそのからくりに気づかないし、指摘されても聞く耳を持たない。どころか強く反駁する。
 なんてったってアイドルを否定されるくらい、腹が立つことはあるまい。 

 本書で清水が、誤った理想化の例として挙げているのは次の4つ。
  • ブッダは平和主義者だった
  • ブッダは業と輪廻(転生)を否定した
  • ブッダは階級差別を否定した
  • ブッダは男女平等を主張した
 いま、仏教研究にいそしむ研究者が同時に護憲論者だったならば、ブッダを平和主義者にしたいだろう。
 人種差別、民族差別、格差社会に反対する左派の研究者ならば、ブッダを差別反対の人権家にしたいだろう。
 ジェンダー平等を訴える学者ならば、ブッダをフェミニストにしたいだろう。
 スピリチュアル系のアヤシイ人物と思われたくないならば、ブッダを唯物論者にしたいだろう。
 こうして、“新たなブッダ、新たな神話”が誕生する。

 結局のところ、これら「歴史のブッダ」と称されるものは、研究者たちが、単に己が願望を、ブッダという権威に語らせてしまった結果に過ぎない。 

 バイアスは学者自身のパーソナリティやアイデンティティの中にあるってことだ。
 清水の見解に、ソルティもおおむね同意する。
 ブッダが目したのは、あくまで個人の内面の改革であって、社会改革ではなかった。

ブッダはアイドル

 では、近代以降に生まれた上記の“新たな神話”を排して、それでもなお、ブッダの先駆性、仏教の革新性はあるのか?
 もちろん、ある。
 清水はブッダの先駆性を3つ指摘している。
  1.  生まれ変わって天国に行くことや、神や宇宙意識と一つになること(梵我一如)を修行の最終目的とするのではなく、現象世界(宇宙)から完全に離脱することをゴールとした。(解脱=涅槃)
  2.  「自己は存在しない(無我)」ということを発見した。(諸法無我)
  3.  縁起の法則を発見し、無明をはじめとする煩悩の滅尽が輪廻の苦しみを終わらせると説いた。(縁起の逆観)
 すなわち、瞑想を通して個体存在や現象世界を観察し、一切皆苦(現象世界のすべては苦しみである)、諸行無常(現象世界を構成する諸要素は因果関係をもって変化し続ける)、諸法無我(一切の存在のうち恒常不変なる自己原理に相当するものはない)と認識することこそが悟りの知恵であり、これによって煩悩が断たれて輪廻が終極するのである。

 ただし、この先駆性の指摘自体は、別に先駆的ではない。
 まさに原始仏教のエッセンスであり、2000年以上にわたって上座部仏教(テーラワーダ仏教)で伝えられてきたところである。

 学者でない人間が仏教について基本的なことを学びたいなら、ワルポール・ラーフラ著『ブッダが説いたこと』(岩波文庫)、ポー・オー・パユットー著『仏法』(サンガ発行)を読めば必要にして十分であろう。
 あとすべきことは、修行の実践である。
 余計な知識はむしろ修行の邪魔になる。
 
 思うに、修行を伴わない仏教学は、料理したことのない人が書いた料理本、車の運転をしたことのない人が教える教習所、恋愛したことのない人が説いた恋愛論みたいなものだ。
 仏教学の最大の落とし穴はそこにある。
 知識をいくら蓄えても、議論をいくら積み上げても、智慧にはならない。
 ブッダという男を真に理解するには、ヴィパッサナ(観察する)に如くはなかろう。


銭壷山合宿 017
自戒、自戒・・・




おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損








● ジパング現象 : 初春の京都・寺めぐり 3

 3日目は土曜日だったので、街中を避けて郊外へ足を延ばした。
 栂尾(とがのお)に行くのは初めて。
 街中からバスでちょうど1時間、北山杉の林立する谷深い山中に入る。
 時折、桜吹雪と見まがうような雪が舞ったが、それもまた風情があった。

3月9日(土)曇り、一時雪
08:00 宿出発
08:37 四条烏丸バス停より市バス乗車
09:40 栂尾着
     高山寺
11:00 西明寺
12:00 神護寺
13:00 昼食
13:50 高雄バス停より市バス乗車
15:00 四条烏丸着
17:00 京都駅発

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栂尾バス停
市バスの終点である
市バスは一律料金なので、1時間乗っても大人230円
ずいぶんお得である

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高山寺
774年創建、光仁天皇の勅願と伝わる
国宝・石水院は、鎌倉時代に明恵上人が後鳥羽上皇より賜った建物
善財童子像の向こうに庭が見える

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今時分がいちばん殺風景な頃合いであろう

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欄間にかかる額『日出先照高山之寺』は後鳥羽上皇の筆による
寺名の由来となった

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座敷より山々を望む
紅葉の頃はさぞかし壮麗であろう
古都』執筆中の川端康成はここで長時間眺め過ごしたという

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明恵上人
『鎌倉殿の13人』北条泰時と同時代の人である
生涯にわたり夢日記をつけた人としても知られる

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国宝・鳥獣戯画(平安~鎌倉時代)
複数の作者によって段階的に描かれたとされる

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蛙とウサギの絵は有名だが、猫やネズミもいたのね

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明恵上人のお墓
高山寺はお茶の発祥地と言われている
明恵上人が中国から持ち帰った茶種を当地で栽培したのが始まり

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谷を流れる清滝川沿いに寺から寺へと歩くのが気持ちいい

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西明寺
弘法大師の弟子智泉によって神護寺の別院として開かれたのが始まり
この本堂は1700年に5代将軍綱吉の母・桂昌院の寄進により再建されたもの
千手・十一面観音菩薩像(平安時代)や愛染明王(鎌倉時代)など見事な仏像に時を忘れる

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苔庭の枯れた風情もまた良い
案内してくれた住職によると、「静かなのは今だけ。紅葉の頃は大変な人出」
最近は外国人参拝客も多いそうである
たしかに、「さすがにここでは会わないだろう」と思って来たのに、3組の外国人グループとすれ違った。

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聖天様が祀られていたのに驚いた
大根と巾着がなによりの標
元禄時代に聖天様を勧請し堂を建てたとのこと 

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3つのお寺はそれぞれ山の上にあるので、登って降りてを3回繰り返さなければならない
足が動くうちに行きたいところに行っておくことの大切さをひしひし感じる今日この頃である

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神護寺
ここから山門まで結構きつい

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平安京造営の最高責任者であった和気清麻呂による創建
824年に神護寺と命名された
広々とした境内は気宇壮大にしてエネルギーが満ちている

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大師堂
留学していた唐から京都に帰った弘法大師は、当地にしばらく住んだ
ここで恵果から学んだ密教の教えを広め始めた
つまり、真言宗誕生の地

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金堂(1623年再建)
本尊は国宝の薬師如来像
厳めしい表情と農婦のように逞しく肉厚な体つきが特徴的
左右に居並ぶ十二神像のダイナミックな動きにも目を奪われる
もう一つの目的であった国宝・五大虚空蔵菩薩像は期間限定の開帳(次は5/10~13)
今年7月には上野の国立博物館で神護寺展が開かれる
虚空蔵菩薩にも会えるといいのだが・・・

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素焼きの小皿を谷に向かって投げる「かわらけ投げ」という験担ぎがある
戦国時代、武将が出陣する際、必勝祈願で盃を地面に投げつけていたのが起源
神護寺が発祥地とされているそうで、ちゃんと投げる場所がある

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たしかに、何かを投げたくなるような絶景が広がる
神護寺に来たら、ここに来ない選択はない
1000年以上前、空海が見たまんまの景色である
京の都からこの深い山中まで、僧として最高位にいた最澄は密教の教えを請いに来た
最澄の謙虚さ、仏法への信心の篤さは見上げたものと思う

神護寺うどんやうどん屋
山腹にある茶屋でひとやすみ
客は3組ほど
小雪が舞っていた

神護寺もみじうどん
もみじうどん(900円)

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高雄バス停
清澄な空気の中、静かな谷歩きと名刹めぐりが満喫できた


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 今回の京都旅でつくづく感じたのは、外国人旅行客の多さであった。
 それも実に多国籍。
 京都タワーの周辺には民家を改造した旅籠(はたご)のような旅館がたくさんあって、洋風ホテルでなく和風の生活を楽しみたい外国客であふれていた。
 昔からある路地裏の個人経営の喫茶店や食堂にも外国人の姿が見られ、店の人の応対ももはや手慣れたものであった。
 今回ソルティが訪ねた中で外国人の姿を見かけなかったのは、一日目の風俗博物館と二日目の瑞泉寺だけであった。
 ソルティのような京都好きの日本人でさえ、なかなか訪ねていかないところまで入り込んでいる。
 インターネットとりわけSNSの力であることは言うまでもないが、それにしても、「なぜ、日本?」という不思議な思いは拭いえない。
 たしかに日本には素晴らしい自然や文化遺産や工芸品がいっぱいあるけれど、それは日本に限ったことではない。
 治安の良さや食べ物の旨いのは昔からだ。
 やっぱり、相対的な物価の安さが大きいのだろうか。
 一方、四国遍路にチャレンジする外国人の多さは、そればかりが理由ではないことを告げているような気もする。
 21世紀初頭の日本が、世界にとってまさに「ジパング」になっていることの意味を考えさせられた。

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これこそ「黄金の国ジパング」の象徴である






 



● 半蔵門ミュージアムでブッダに会う

 半蔵門ミュージアムは、仏教系教団『真如苑』が運営している仏教美術館。
 2018年4月にオープンしたのだが、存在を知ったのはつい最近である。
 なかなか貴重で珍しい展示があるようなので、訪れてみた。

半蔵門ミュージアムポスター

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 地下鉄半蔵門駅の真上、皇居まで徒歩3分という好立地。
 現代的で、美しくシンプルな建物。
 展示品の由来や見どころを、わかりやすく丁寧に伝えてくれるシアターホール。(座席シートが快適すぎて、上映時間の半分は寝ていた)
 コーヒーを飲みながら関連資料を閲覧できる居心地の良いラウンジ。(60分まで利用可)
 あたたかい笑顔と親切な応対が気持ちよい女性スタッフたち。
 そして、運慶作と推定される大日如来像(重要文化財)や京都醍醐寺伝来の如意輪観音菩薩坐像をはじめとする見応えある所蔵品の数々。
 これで入場料無料というのだから、『真如苑』の力のほどが察しられよう。
 スタッフの女性たちはおそらく信徒なのだろう。
 奉仕の精神が感じられた。

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ポスター右より、大日如来、如意輪観音、不動明王、こんがら童子&せいたか童子

 地下の静かな暗闇に浮かび上がる大日如来の毅然とした美しさ、片足を床におろした珍しいお姿の如意輪観音、子供のくせに典雅なたたずまいの二童子、下部に中将姫が描かれた當麻曼荼羅(写本)、見事な色彩で描かれた虚空蔵菩薩像の絹本・・・・等々。
 いずれも鑑賞者の目を喜ばせ、脳を活性化し、心を浄め、敬虔な気持ちを呼び覚ます。

 ソルティが最も惹かれたのは、仏像が作られ始めた紀元2~3世紀のガンダーラ美術。
 ヘレニズム文化すなわちギリシア彫刻の影響を帯びた顔格好の仏像や、石に彫られた仏伝が興味深かった。
 仏伝は、「前世、誕生、四門出遊(出家)、降魔成道(悟り)、梵天勧請、初転法輪(最初の説法)、アジャータサットゥ王の帰依、入滅」といったブッダの生涯を描いたもの。
 各場面におけるブッダを取り巻く人々(家族や弟子たち、世俗の人々、悪魔や神々など)の表情や動きが、当時としてはかなり写実的に表現されている。ルネサンスの端緒となった画家ジョットの『キリスト伝』を連想させた。
 別のフロアに場面ごとの詳しい解説があり、絵解きの面白さとともに、当時の人々の素朴な信仰のさまが伺える。

死せるキリスト
ジョット「死せるキリストへの哀悼」
(イタリア、スクロヴェーニ礼拝堂)

 平日だったので館内は空いていて、落ち着いた空間で心ゆくまで鑑賞できた。
 なんとまあ、4時間近くも滞在してしまった。
 ブッダ推し、仏像ファンなら、一度は行っておきたいオアシスである。
 (「真如苑」への勧誘行為はなかったよ)

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虚空菩薩坐像(ポストカード)
記憶力を増強する力があるとのことで、かの空海も念仏した。
認知症予防を期して購入。







● お口くちゅくちゅ : 初期仏教月例講演会(講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

日時  2024年1月14日(日)13:30~16:30
場所  学術総合センター内・一橋講堂(東京都千代田区)
演題  「新たな一年を生きる」~日々是好日の生き方~
主催  日本テーラワーダ仏教協会
 
 月例講演会に参加したのは実に6年ぶり。
 その間、体調不良があったり、2度の転職があったり、四国遍路に行ったり、引っ越しがあったり、足の骨折があったり、コロナ禍があったり・・・e.t.c.
 その時々の環境に左右されて、仏道修行への意欲や熱意もずいぶん波があった。
 が、スマナ節から6年も離れていたとは!
 ほんとに時が経つのは「あっ!」という間である。
 地球の自転が速まっているのではないか?
 
 6年ぶりに参加しようと思った理由は、やはり、能登半島地震が大きい。
 被災して、家を失い、家族や友人を失い、仕事を失い、寒さにふるえながら避難所で身を寄せ合っている人々の姿に、今こそ慈悲の瞑想を実践したいという思いが生じた。
 破壊され尽くした街や続々と増えていく死者数の報道を見聞きするにつけ、諸行無常の感が強まり、「我が身にだって、いつ何が起こるのかわからない」という焦燥感に似た思いが高まった。

 ほんとうはいつだって、どの瞬間だって、この世も、我々の生も、「無常」の凄まじい流れの中にあるのに、我々の命は砂時計の砂のように止めどなくこぼれ落ちているのに、愚にもつかない妄想におおわれ、「貪・瞋・痴」に振り回され、闇雲に走り回っている。
 過去に囚われ、未来を心配し、「今ここ」という瞬間を取り逃がし続けている。
 いつの間にか人類が陥ってしまったこの罠を、いったい誰が仕組んだのだろう?
 神?
 悪魔?
 遺伝子?
 宇宙人?
 宇宙意識?

 自らの深刻な病気や不幸、近しい人との死別、あるいは今回の震災のような“日常の裂け目”に遭ってはじめて、“無常”という真実に目を向けられるとは、なんという逆説だろう!
 とはいえ、ブッダが説いた四聖諦にあるように、あるいは『仏弟子の告白(テーラガータ)』や『尼僧の告白(テーリーガータ)』に見るように、悟りの入口は「苦」なのだ。

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一橋講堂がある学術総合センタービル

 講演の内容自体は、これまで何度も聴いたり読んだりしていることなので、新たな気づきというほどのものはなかった。
 講演後の質疑応答がなかなか面白かった。
 『ペットを飼っていることについて厳しく指導してください』という会場からの問いに、スマナ長老が『飼わないことです』と一刀両断したのには(質問者には酷ながら)笑った。
 『このままだと(自民党案による)改憲が実現してしまう。どうすればよいのか』といった問いには、憂慮を同じくするソルティも笑ってはいられなかった。
 スマナ長老は、「こうしなさい」「ああしなさい」と明確には答えられなかったが、「自由や人権を害するようなことは良くない」「憂慮というネガティヴな思いが、大切な時もある」と言われていたことから、答えは自ずから明らかであろう。
 自分にできることを、気づきと慈悲をもってやるしかない。
 
 久しぶりにスマナサーラ長老の確たる存在感に触れ、スマナ節を耳にし、同じ仏道を歩む仲間たちの気に触れて、仏教愛と修行意欲が高まった。

過去を追いゆくことなく
また未来を願いゆくことなし
過去はすでに過ぎ去りしもの
未来は未だ来ぬものゆえに

現に存在している現象を
その場その場で観察し
揺らぐことなく動じることなく
智者はそを修するがよい

今日こそ努め励むべきなり
誰が明日の死を知ろう
されば死の大軍に
我ら煩うことなし

昼夜怠ることなく かように住み、励む
こはまさに「日々是好日」と
寂静者なる牟尼は説く

『日々是好日』経

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神田橋を望む外堀通り
10年以上前に職場があった付近
まさに諸行無常を感じる変わりようであった

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帰りはJR神田駅まで歩いた
この駅の山手線発車メロディーは「お口くちゅくちゅ、モンダミン




● 難しいけど面白い 本:『〈わたし〉はどこにあるのか ガザニガ脳科学講義』(マイケル・S.ガザニガ著)

2011年原著刊行
2014年紀伊國屋書店(訳:藤井留美)

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 原題は、Who’s in Chage ?  Free Will and the Science of the Brain
 すなわち、「責任」と「自由意志」に関わる脳科学の話である。
 著者のガザニガは、1939年アメリカ生れの認知神経科学の第一人者。てんかん治療のため右脳と左脳をつなぐ脳梁を切断した分離脳患者を対象に、さまざまな実験を行い、脳の右半球と左半球の働きの違いについて、驚くような新事実を次々と発見したことで知られる。
 物書きとしての才能も高く、脳科学の最先端がどのようなものかを、難しい専門用語を並べることなく、一般読者にわかりやすくユーモアをもって伝えてくれる。
 ソルティのような科学オンチの文系にはありがたいことこの上ない。
 が、やっぱりそれでも難しい。
 難しいけど、面白い。

 第1章から第3章は、脳科学の誕生から語り起こし、それが生物学や人類学や物理学や精神医学など他の分野における新しい発見と関連し合って、凄まじい進歩を遂げてきた様子が描かれる。
 すべては20世紀に起きたことで、ほんの1世紀あまりで、最後の未開地と言われるヒトの脳が急速に解明され、人間の様々な機能や行動の背景をなす科学的要因が明らかになりつつある。
 動物と違うヒトの特異性が、科学的に裏付けられるようになったのである。

 遺伝子の強力な制御のもとでけたはずれに発達し、後天的要因(遺伝子に異なったふるまいをさせる遺伝以外の要因)と活動依存的学習で磨きをかけられた結果が、いまここにいる私たちである。行きあたりばったりとは対極の構造化された複雑な仕組みを持ち、高い自動処理能力と、制約付きながら優れた技能、それに広範囲に応用できる能力を発揮できる脳は、つまるところ自然淘汰のなせるわざなのだ。私たちが持つ無数の認知能力は、脳のなかでの担当領域がきっちり線引きされており、もちろん神経ネットワークや神経系も領域によって異なっている。そのいっぽうで、同時並行処理が行われる複数の神経系も脳のあちこちに配置されている。制御系は単一ではなく、複数あるということだ。自分が何者かという意味づけはそんな脳から生まれているのであって、外からの働きかけに脳が従っているのではない。(本書より引用、以下同)

 ね、難しいでしょ?
 難しいけど、面白そうでしょ?

 ソルティが面白いと思う最たる理由は、脳科学が進歩するにしたがって、脳が遺伝子に強く制御されていることが明らかになり、われわれ人間の感覚や感情や思考や行動のほとんどが、意識下において、“生化学的に、神経科学的に、物理学的に”コントロールされていることが自明の理となりつつあるからだ。
 つまり、人間はあらかじめプログラミングされたロボットに近く(というより、結局ヒトも本能で生きる動物と変わりなく)、自由意志は幻想だという不都合な真実。
 自由意志が幻想ならば、「わたし」という意志決定者もまた幻想なのか?
 この問いが、諸法無我を説く仏教と通じるものがあり、仏教徒であるソルティの好奇心を掻き立てるのである。

 さらに、脳科学の進歩によって、自由意志に対する懐疑とともに強く主張されるようになったのが、決定論(因果説)である。

 決定論とはそもそも哲学上の概念で、人間の認知、決定、行動も含めた現在と未来のすべてのできごとや活動が、自然界の法則に従った過去のできごとを原因として、必然的に発生しているというものだ。どんなできごとも活動も予定されているのなら、すべての変動要因がわかっていれば予測も可能になる。

 宇宙も世界も人間もアルゴリズムにしたがって動いているだけであって、「すべての出来事はあらかじめ決まっている」という、なんとも無味乾燥な、人間の努力や希望を嘲笑うかのような説(=運命論)である。
 決定論をYESとするなら、当然、自由意志や自己決定は存在する足場を持たない。
 意志決定する「わたし」は幻想である。
 相対性理論のアインシュタイン、「利己的な遺伝子」のリチャード・ドーキンス、哲学者のスピノザなどが、決定論者の代表格らしい。
 世界的ベストセラーとなった『サピエンス全史』や『ホモデウス』を書いたユヴァル・ノア・ハラリも、その一人に挙げられよう。

 しかしながら、本書によれば、現在ではむしろ、決定論は旗色が悪いという。
 というのも、決定論の後ろ楯となっているのは、〈1+1=2〉となるニュートン物理学の鉄壁の法則なのであるが、現代科学はもはや〈1+1=必ずしも2ならず〉を知ってしまったから。
 それが、カオス系であり、量子力学であり、創発である。
 創発とは、「個々の要素の総和では予測できない新しい性質を、システム全体が獲得する」こと。そこでは、1+1が10だったり100だったり10万だったりする。

 決定論が否定されるのなら、自由意志の存在も可能と主張できる。
 つまり、2つの立場がある。
 
 A 決定論NOならば、自由意志YES
   →「未来は決まっていない。なので、ヒトは自由に決定できる」
 B 決定論YESならば、自由意志NO
   →「未来は決まっている。だから、ヒトは自由に決定できない」

 決定論と自由意志については、『自由意志の向こう側』(木島泰三著)という本を別記事で取り上げたことがある。
 そこでは、現在、下記のいずれかの立場に拠って、研究者たちが議論を闘わせているとあった。
  1.  自由意志原理主義(リバタリアン)・・・・自由意志はある!
  2.  ハード決定論(因果的決定論)・・・・自由意志はない!
  3.  両立論・・・・1と2は両立できる
 1と2はそれぞれ上のAとBに該当する。理解は難しくない。
 しかるに、3の両立論とはなんぞや?
 と、ソルティは頭を悩ませたのであった。

 しかし、よく考えると、決定論と自由意志の有無は必ずしも連動しているわけではない。
 この世界が決定論で成り立っているか否かの問題と、ヒトの自由意志は幻想か否かの問題は、分けて考えることができる。
 つまり、

 C 決定論YESだけど、自由意志YES
   →「未来は決まっている。されど、ヒトは自由に決定できる」
 D 決定論NOだけど、自由意志NO
   →「未来は決まっていない。そして、ヒトは自由に決定できない」

という組み合わせも想定することができる。
 さすがに、Cの説を唱えるのは無理があるけれど、Dは選択肢としてあり得る。
 ガザニガはどうやら、Dの立場を取る「両立論者」のようだ。
 こう言っている。

 脳は自動的に機能していて、自然界の法則に従っている。この事実を知ると元気が出てくるし、もやが晴れたような気持ちになる。なぜ元気が出るかというと、自分たちは意思決定装置だと確信できるし、脳が頼りになる構造だとわかるからだ。そしてなぜもやが晴れるかというと、自由意志という不可解なものが見当違いの概念だとわかったからだ。それは人類史の特定の時代に支持されていた社会的、心理的信念から出てきたものであり、現代科学の知識が背景にないだけでなく、矛盾さえしている。(ゴチはソルティ付す)

 仏教語に翻訳するならこうだ。
 「諸法無我だが、因果は見抜けない」

タントラ

 本書の白眉は第4章である。
 ここでは、自由意志は幻想であるにも関わらず、「なぜ我々は、自由意志があると錯覚するのか?」を解説している。
 なんとその原因は、左脳にあるインタープリター・モジュールのせいなのだという。

 私たちは無数のモジュールから構成されているのに、自分が統一のとれた存在だと強烈に実感しているのはなぜか? 私たちが意識するのは経験というひとつのまとまりであって、各モジュールの騒がしいおしゃべりでない。意識は筋の通った一本の流れとして、この瞬間から次の瞬間へとよどみなく、自然に流れている。この心理的統一性は、「インタープリター」とよばれるシステムから生じる経験だ。インタープリターは、私たちの知覚と記憶と行動、およびそれらの関係について説明を考えだしている。それが個人のナラティブ(語り)につながり、意識的経験が持つ異なる相が整合性のあるまとまりへと統合されていく。混沌から秩序が生れるのだ。

 あなたという装置に亡霊は入っていないし、謎の部分もない。あなたが誇りに思っているあなた自身は、脳のインタープリター・モジュールが紡ぎだしたストーリーだ。インタープリターは組みこめる範囲内であなたの行動を説明してくれるが、そこからはずれたものは否定するか、合理的な解釈をこしらえる。

 インタープリターは、ずっと私たちを陥れてきた。自己という幻影をこしらえ、私たち人間は動作主体であり、自分の行動を「自由に」決定できるという感覚を吹きこんだ。それはいろいろな意味で、人間が持ちうる建設的かつ偉大な能力だ。知性が発達し、目前のことだけにとらわれず、その先に広がる関係を見ぬく能力が磨かれたヒトは、ほどなくして意味を問いかけるようになる――人生の意味とは何ぞや?

 インタープリター・モジュール――これが「わたし」の正体というのである!
 ここまで脳科学が進んでいるとは驚きである。
 この説が正しいのであれば、諸法無我を「悟る」とは、左脳の働きが一時的に停止する状態で起きた、右脳単独による世界認知をいうのではなかろうか?
 そう言えば、脳卒中で左脳の機能の大半を失った医師の手記(ジル・ボトル・テイラー著『奇跡の脳』)があったっけ。彼女はまさに「悟った」人であった。
 ソルティがやっている「悟りに至る瞑想」といわれるヴィパッサナー瞑想とは、ひょっとしたら、「いま、ここ」の現象を実況中継し続けることで左脳を疲れさせて、一時的にシャットダウンさせる裏技なのではなかろうか?
 それを忍耐強く続けること(=修行)によって、インタープリター・モジュールを黙らせる新しいモジュールを脳内に作り上げるテクニックなのではなかろうか?

チャクラと仏

 自由意志の有無の問題は、責任の所在の問題へとつながる。
 ヒトに自由意志がなくて、すべてが脳のアルゴリズムの結果であるのなら、個人が犯した罪を問うことはナンセンスじゃないか。犯罪者に責任を取らせるのは不合理だ。
 ――そういう議論が成り立つ。
 実際にその論拠をもとに、罪を犯した者に必要なのは「処罰でなくて更正」と提言しているデイヴィッド・イーグルマンのような研究者もいる。(別記事『あなたの知らない脳』参照)
 第6章では、この問題に対するガザニガの見解が述べられている。
 ヒトの社会というものが、単体の脳ではなく、複数の脳からできている事実を踏まえ、脳と脳との相互作用から生じる「創発」に着眼しているところが面白い。
 脳の働きを単体として見るのではなく、人類という「種」のレベルで、つまり、「人類の脳」という観点からとらえているわけだ。
 あたかも、ユングの集合意識あるいは唯識論の阿頼耶識みたいな話で、難しいけど面白い。

 本書の刊行は2011年。
 もう10年以上が過ぎた。
 その間も脳科学は進んでいるはず。
 今はどこらにいるのやら?




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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● はつもうで @TAKAO-SAN

 年末年始は秩父でリトリート。
 スマホもテレビも新聞もアルコールも人との会話も遠ざけて、瞑想と散歩と読書の4日間を送った。
 元日の早朝に秩父神社に参拝し、生きとし生けるものの幸福を祈った。

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秩父神社

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社殿の東側に刻まれた「つなぎの龍」
今年は君の出番だ!

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最近、境内の西側に三峰神社も合祀された

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祭神は、ヤマトタケル、イザナギ、イザナミである

 2日の午後に禁を解いて、近場の温泉施設に出かけた。
 最寄駅からの送迎バスは自分一人。
 正月休みというのに、不思議なほど館内は空いていた。
 ゆっくり温泉に浸かったあと、休憩室のテレビを見て、はじめて能登半島地震を知った。
 たしかに、元旦の夕方の瞑想中、揺れを感じた。
 が、秩父は地盤が硬いので、瞑想を止めてニュースを見るほどの地震とは思わなかった。
 おそらく温泉が空いていたのも、ニュース映像を見て、「こんなときに温泉なんかに出かけて楽しんでよいものだろうか」と思った人々が、予定をキャンセルしたためではないか。
 避難所で寒さに震えながら、いまだ消息のわからない家族や知人の安否を心配している人々の姿を目にしながら、のんびり温泉に浸かって、あたたかい休憩室でビールを飲んでいる。
 そんな自分をうしろめたく感じないでいられるほど、ソルティも冷血漢ではない。
 とはいえ、では、今まさに苦しんでいるガザ地区やウクライナやミャンマーの人々についてはどうなのかと問われると、感情移入のラインをどこで引いたものか難しいものである。

 ともあれ、いま自分にできるのは、寄付と状況を知ることと祈りだろう。

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元日の秩父市

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武甲山

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秩父札所16番・西光寺にある大日如来

 
 1月7日には高尾山に初詣でに行った。 
 年始めの薬王院参りは、JR中央線沿線に住み始めた2004年以来の毎年の恒例行事だったのだが、足の骨折とコロナ禍のため、2019年1月7日を最後にストップしていた。
 実に5年ぶり。
 
 朝5時半に自宅を出て、7時に京王線・高尾山口駅着。
 友人と合流し、ケーブルカーで8合目にある高尾山駅へ。
 朝日が関東平野を黄金色に染める。
 早朝の高尾はやはり気持ちがいい。
 杉並木を歩くと、身も心も浄化されていくような気がする。
 おはよう、天狗さん!

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ケーブルカー麓の清滝駅

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高尾天狗


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薬王院

 薬王院本堂で行われる8時からの御護摩祈祷に参列し、般若心経を読経し、本尊である飯縄大権現に発毛と開運を祈願した。(コロナ感染で頭髪が抜けた!)
 そのあと、山頂まで登った。

 冬はつとめて(早朝)。
 澄んだ空気と葉を落とした木々が、見事な展望を実現する。
 スカイツリー、都心の高層ビル群、光り輝く相模湾、江の島、大島、青々した武蔵や丹沢の山並み、南アルプスの白嶺、そして・・・・神々しいまでに美しい、雪をかぶった富士山。
 自然と手が合わさった。

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高尾山頂広場

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生きとし生けるものが幸福でありますように






 
 
 

 

 

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