ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

 ★介護の仕事

● 介護の仕事9 (丸3年)

 四十後半にしてヘルパー2級を取り、老人ホームで働き出して、ようやく丸3年。
 介護福祉士の受験資格が整った。来年1月の国家試験を受けて3月には晴れて介護福祉士、人生初の国家資格である。(捕らぬタヌキだが・・・)
 この日が来るなんて夢のようである。

 介護の仕事に就く前は「まあ、やってみて無理だったら撤退しよう」くらいの気持ちであった。実際に働き始めてからは「1年持てば上等だ」くらいの気持ちだった。よもや同一施設で3年続くとは思わなかった。
 こちとら、腰痛(椎間板ヘルニア)という爆弾を抱えている身であるし、介護施設の仕事は「ブラックだ、安月給だ、人間関係が大変だ、辞める人が多くて慢性的に人手不足」といったマイナス情報ばかり耳に入ってくるし、高齢者--特に‘ジジイ’とのコミュニケーションに自信がなかったし、働き出してからはなかなか仕事が覚えられなくて失敗を繰り返しては先輩職員に叱られていた。
 我ながらよく頑張ったなあと思う。
 
 新しい施設のオープン間もない採用だったので、気がつけば上から数えたほうが早い古株になっている。介護歴だけみても、自分より介護経験の長い先輩たちがこの3年間で多く抜けていったため、今や中堅どころ。一緒に働いて気を使わなくてはならない(=敬語を使わなければならない)相手の数がどんどん減っていくので、動きやすい=働きやすい環境になりつつある。
 仕事にも慣れた。
 職員用入口のドアを開けるときの気の重たさ、シフト入りするときの緊張感、フロアにいて「何をしたらいいか、どう動いたらいいか分からない」身の置きどころ無さ、一つ一つの介助に対する不安、仲間に負担をかけることの引け目。そういったものがいつの間にやら消えている。
 一通りの介護技術と知識が身について、他のスタッフと利用者の介護方法を検討することのできる最低の共通基盤に達したと思う。新しく入所してくる利用者に接しても、「ああ、この人は前にいたAさんと同じタイプだな」とか「Bさんと同じような介助方法でよいのだな」とか「Cさんの時に上手くいった声がけを試してみよう」というように経験値が生かせるようになった。
 石の上にも3年。
 介護福祉士受験資格が「3年の実務経験」を要することの意味合いがよく分かる。
 つまり、「自分は介護士です」と自信を持って言えるようになるには、少なくとも3年の月日が必要なのである。


1. 蓄積疲労
 
 3年経って、経験と同時に、疲労も蓄積されている。
 首と肩のコリが結構きつい。目の疲れは老眼のせい、スマホ画面の凝視のせいもある。
 予想外だったのが腰の痛み。最初の2年ほどは毎週のように仕事帰りに腰痛クリニックに通っていたものが、3年目からは通院を必要としなくなった。腰痛を起こさない介助の仕方(ボディメカニクス)を常に心がけているため、背中や腕やインナーマッスルなど必要な筋肉が発達したのだろう。趣味の山登りとヨガのおかげもあるだろう。休憩時間に長椅子に仰向けに寝転んで腰を伸ばしているのも良いのかもしれない。腰痛不安から解放されたわけではないものの、突然「グキッ!」となることもなく、何とかうまく付き合っている。
 体の疲れは年齢のせいも大きい。入浴介助(7~8人を入れる)した日など、帰宅しても何もできず横になってしまう。20~30代の頃のように、仕事が終わってから街に繰り出すなどまず考えられない。毎日毎日が10キロの持久走を果たしたようでクタクタである。翌朝起きても100%充電完了ということはなくて、前日の朝の85%くらいの体力からのスタートになる。勤務3日目の朝は85%の85%で72%からのスタートだ。さすがに4日連続勤務は勘弁してもらった。
 もっとも、肉体的な疲労ならば山登りだって同じである。休日に山登りしても一晩寝れば体力は回復する。むしろ、パワーアップしている。
 
 真にきついのは精神的な疲労、いわゆる気疲れである。
 歩けないのに車椅子から立ち上がる転倒リスクの高い利用者、10分おきに「トイレに連れて行って」とせがむ利用者(複数!)、失禁して便臭ただよっているのにトイレ介助を拒否する利用者、徘徊し大声を上げながら出口を探し回る利用者、ささいなことで他の入所者と喧嘩する利用者、職員を罵倒し暴力を振るう利用者、「あれやって、これやって」と依存したがる利用者、誰かにかまってもらえないと一日中叫び続ける利用者、なかなか薬を飲んでくれない利用者・・・。
 こうした利用者への対応でスタッフはいつも緊張を強いられ、困惑し、うんざりさせられ、発散できない怒り――利用者に怒りをぶつけることはできない――にフラストレーションは高まる一方、ストレスの針はいつも振り切っている。多くの介護職が辞めていく理由の一つはここにある。気疲れのあまり鬱になってバーンアウトしてしまうのだ。
 自分の場合、①友人や気の合う同僚に愚痴を聞いてもらう、②休日の山歩きや温泉で気分転換をはかる、③瞑想する、④仕事以外のときは仕事のことを考えない(趣味やボランティアに没頭)、⑤仕事の中に楽しみを見つける工夫をする、といった手段でストレス解消をはかるようにしているが、それでも完全には払拭され得ない。
 介護職こそ長期のリフレッシュ休暇が必要なのであるが、現状ではなかなか・・・。
 蓄積疲労が喫水線に達したとき、どうしたものかな?


2. ルーチンワーク

 仕事を始める前は深く考えなかったことであるが、介護の仕事はルーチンワークなのである。
 って、今さら言うのも変?
 利用者の日々の生活を支える仕事だから、ルーチン(きまりきった仕事)は当たり前なのだ。起床→朝食(排泄)→10時のお茶(排泄)→体操→昼食(排泄)→入浴→午後のおやつ(排泄)→レクリエーション→夕食(排泄)→就寝→夜間の見守り、という一日のスケジュールの中で利用者を介助していく。逆に言うと、あらかじめ決められたタイムスケジュールに利用者全員を合わせるように、段取りを組んで、業務を行っていく。悪く言えば「スケジュールありき」だ。介護職員がよく口にする「フロアが回る」というのは、このスケジュールどおりに利用者が動いてくれた、という意味である。
 
 介護保険制度の基本理念は、「個人の尊厳」と「自立した日常生活」である。「自立した日常生活」とはADL(日常生活動作)が自分ですべてできるという意味ではない。介護者の手を借りながら、「自分の意思で生活の仕方や人生のあり方を選択し、決定できる」ということである。
 だから、理念どおりならば、施設のタイムスケジュールに従うも従わないも個人の自由である。朝食抜きでも、一ヶ月風呂に入らなくても、薬を飲まなくても、レクに参加しなくても、眠くなるまで共同スペースでテレビを見ていても、他の利用者の迷惑にならない限りは自由なはずである。

 しかし、そうはなっていない。
 施設側は、決められたスケジュールで利用者が動いてくれることを望む。介護職もそのほうがありがたい。集団生活なので、行動が統一されたほうが管理しやすいからである。少ないスタッフ数で、事故のないようにすべての利用者を見守るためには、学校や軍隊や刑務所のように、規律ある団体生活が営まれる必要がある。
 そしてまた、施設にしてみれば、時たま監査に入る行政や足繁く訪ねてくる家族の目も気になる。利用者の自由意志(別名「わがまま」)を尊重して、「風呂に入れていない」「食事を提供していない」「薬を飲ませていない」「レクに誘っていない」「リハビリをしていない」ということが明らかになれば、どういういざこざに発展するものか分かったもんじゃない。(たとえば、厚生省令では、介護老人施設では最低週2回以上入浴させなければならないことになっている。) また、食事の提供やリハビリの有無は、介護報酬という名の施設に入ってくるお金にも影響する。

 本人の自由意志を本当に尊重したいのなら、行政や家族などの外野がたとえ口を挟んでも施設が揺らがないでいられるだけの法的なバックアップ(根拠)が必要であろう。
 たとえば、本人の署名入りの契約書内で「薬は飲ませないでくれ。入浴は週一度の清拭で十分。夜間の見守りはいらない。延命処置は必要ない。以上の通り対応して何か起こってもそれは自己責任であり、自分も家族も施設には一切責任は問わない」と一筆もらっておけば可能かもしれない。
 だが、「和をもって貴しとなす」日本人でここまで徹底して自己決定できる人はそういないだろう。なにより、施設に入らなければならない高齢者は、多かれ少なかれ認知がある。どこまで本人の自己決定をそのまま受け入れるかは微妙な問題である。

 施設に入所したばかりの頃は、集団生活に馴染めず、‘わがまま’を連発していた利用者も、2~3週間過ぎると存外慣れてしまう。「あきらめがついた」と言うべきか。あるいは、フロアを汗だくで走り回る職員の姿を見て、‘年長者らしく’我を抑えるのかもしれない。すると、大概、世俗の垢がとれたように脱色した風情になる。
 我々介護職はそれを見て「○○さん、やっと落ち着いたね」などと言ってホッとするのであるが、自宅で自由に過ごしていたときの活気を失い、日がな一日食席に座って次のルーチン行事の始まりをぼーっと待っている利用者は、どうしたってボケが進んでゆく。ADL(日常生活動作)も落ちていく。
 介護スタッフはその様子を横目で見ながら、どうすることもできない。「フロアを回す」のに手一杯だからだ。一人一人の利用者とじっくり会話する時間はなかなか取れない。ADL維持あるいは向上のためのリハビリを実施する時間もなかなか取れない。
 ルーチンワーク(業務)が利用者も介護者も縛っている。


3.あっぱれ、Kさん

 Kさんという利用者がいた。
 鳶職をしていた大正生まれの男性である。
 Kさんは、転倒リスクがあるのに車椅子から立ち上がって歩いてしまう。施設に入る前にもそれで転倒を繰り返していた。むろん、認知もある。
 我々は、立ち上がって圧が無くなると電子音楽が鳴り出す仕組みの座布団(センサー)を車椅子の座面に敷いた。曲目はモーツァルトの『フィガロの結婚』に出てくる有名な劇中歌「もう飛ぶまいぞ、この蝶々♪」であった。Kさんが立ち上がって歩き出そうとするたびに、「もう飛ぶまいぞ、この蝶々♪」の軽やかな調べがフロアに鳴り響く。我々は、それが聞こえるとすぐさまKさんの元に駆けつけ、Kさんの体を抑えて、ふたたび車椅子に座ってもらう。あるいは、尿意を催して立ち上がったのであればトイレに誘導する。ほとんどの場合、帰宅願望の強いKさんは、家に帰ろうと出口を探して歩き廻るのだった。そんなときは手の空いている職員を見つけて、Kさんが歩き疲れるまで、フロアを手引き歩行してもらった。
 我々もKさんばかりを見ているわけにはいかず、結局数回転倒させてしまった。センサー(音楽)が鳴ってもすぐ駆けつけることができなかったのだ。一度は肩を骨折し、一度は顔の半分に大きな青あざができた。(「ファントム(オペラ座の怪人)みたい」と若い女性職員には好評だった。) 家族(息子さん)もしばしば来訪され事情は分かっていたので、全般協力的で、介護スタッフの苦労を申し訳ながっていた。
 数ヶ月過ぎ、入退院を繰り返してKさんも弱ってきた。椅子から立ち上がるだけの力を失い、居室や車椅子上で寝ていることが多くなった。我々も「やっとこれでKさんシフトから解放される」とホッと一息ついた。
 が、ここからがKさんの凄いところである。
 自力ではもはや立てない、歩けないことがわかると、なんとハイハイを始めたのだ。
 椅子から床に器用に滑り降りて、両手・両膝を床につき、フロアを赤ん坊のように這い回る。他の利用者が座っているテーブルの下、職員が事務作業するステーションの中、居室が並ぶ長廊下、夕食中であってもレク中であっても関係なかった。むろん、職員の制止はどこ吹く風。精神安定剤は出ていたが、終日効くわけではない。
 とりあえず転倒リスクはないと分かったので、我々は障害物を撤去し、Kさんの所在確認だけして、あとは放っておくしかなかった。そのうち入浴担当の職員が気づいたのだが、Kさんの両膝は打ち身のように青くなっていた。膝当てするようになった。
 Kさんはフロアを所せましと這いずり回った挙句、力尽きると、電池の切れたゼンマイ仕掛けのロボットさながら、その場で寝込んでしまう。自分が早番のとき朝早くフロアに上がってみると、廊下の突き当たりで芋虫のように寝転がっているKさんを見て、思わず笑った。聞くと、夜通し這っていたと言う。Kさんの寝顔は子供のように可愛かった。
 しばらくすると、ハイハイもできなくなった。車椅子上で一日こっくりこっくりするようになった。食事やおやつのときだけ職員の声がけで目を覚ます。大正生まれの人らしく、出された食事は残したことがなかった。「もう飛ぶまいぞ、この蝶々♪」の調べが流れることはなくなった。
 その後、Kさんは緊急入院した先で亡くなった。

 介護の仕事をはじめて丸3年、利用者である高齢者の抱える苦しみに‘鈍感’になっている自分に気づいてギョッとすることがある。勤め始めの頃は、施設生活を受け入れられず、帰宅願望で落ち着かない利用者に共感し、様々な‘問題行動’も無理からぬことだと同情していたのだが、現在はどうかすると、「なんでいい加減大人しくなってくれないんだろう」と管理者目線で遇している。
 一方で、ある程度‘鈍感’にならないと施設介護は務まらないとも思う。利用者の苦しみに深く共感してしまうと、どうにもならない現状(老い=苦)にやりきれなさを覚えて、介護者自身が鬱になってしまう。
 高齢者介護とはまた、本人はやりたがらないけれど本人の健康にとっては必要なことを本人に強いる現場でもある。断固として入浴拒否を続ける老女を浴室に連れて行き、数人がかりで服を脱がし、大声で叫び暴れる彼女を風呂場の床に敷いたマットの上に押さえつけて、手早く頭髪と体を洗い、一気にシャワーをかける。(もちろん家族了解の上だ)
心の声1 「これは虐待じゃないのか」
心の声2 「でも、何日も風呂に入れないでいることも虐待ではないか」
心の声1 「本人はあんなに嫌がっているじゃないか」
心の声2 「たとえば、子供が風呂を嫌がるからといって、何日も入浴させないで放っておく親がどこにいようか? それは親として失格だろう。認知症患者は子供と同じだ。」
心の声1 「・・・・・・・」
 こういう体験を重ねていくことによって、介護職員は次第に‘鈍感力’を身につけるのかもしれない。  

 入所して一カ月以上経つのに、なかなか集団生活に馴染めず、スタッフを手こずらせる‘対応困難利用者’を見ると、「勘弁してくれよ~」と思う一方で、最後の‘人間的な’闘いに力を振り絞った鳶のKさんをそのテーマ曲と共に思い出して、「あっぱれだったな、kさん」と一人ごちるのである。

● 介護の仕事10 (3年と9ヶ月)

 1月24日(日)、第28回介護福祉士国家試験を受けた。

 ついにこの日がやって来た。
 よくもまあ今日まで続いたものである
「ソルティさん、カイフクの受験資格を得るまでの3年間はここで頑張ったらいいよ」
と、新人のころに職場(老人ホーム)の15歳年下の先輩にアドバイスされた。
「はあ~、3年か・・・。長いな」
「あっという間ですよ」
と言った彼は上司とぶつかって早々退職してしまった。
 
 社会福祉士養成課程の施設実習が昨年10月いっぱいで終わって一息ついたあと、11月中旬からカイフクの試験勉強を開始した。毎日出勤前の1時間を過去問学習に充てた。問題集は昨年合格した職場の先輩から譲り受けた。

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 やってみたら思ったより簡単だった。8割近く解けた。
 というのも、三大難関資格と称される弁護士・公認会計士・医師をはじめとし、数ある国家資格試験の中で、介護福祉士国家試験はそれほど難しくない。合格率50%程度である。合格率30%で試験範囲のより広範な社会福祉士国家試験のほうがずっと難関である。
 やはり、超高齢社会――すでに日本人の4人に1人が65歳以上――の現実が、大量の介護のプロを今すぐに必要としているという事情によるのだろう。
 ソルティの場合、福祉系学校を卒業あるいは在学中の受験生とは違って、3年9ヶ月の実務経験がある。現場で身につけた(体で覚えた)知識がある。
 これがやっぱり強い。
 机上でテキストを読んで暗記するのとは理解の深度が違う。何と言っても、目の前に対象となる相手(=高齢者)がいて、介護福祉士やケアマネ資格を持つ先輩はじめOT(作業療法士)や看護師など経験豊富なプロ達の教えを受けながら日々介護実践しているのである。中でも、認知症高齢者の対応のコツなどは、日々の試行錯誤で第二の本能のごと身についている。(大げさ
 おおむね6割以上正答すれば合格ラインというのが例年の動向であるが、私見によれば、《一般社会常識+3年間の真面目な現場経験+過去問学習》で、まず合格できるようなレベルに試験問題が作成されているように感じる。職場の先輩達もほとんど過去問学習のみで合格している。(もっとも、出題傾向が高齢者分野に寄っているので、障害者分野で働いている人にとっては歴然と不利であろう。)
 さらにソルティは、過去1年半というもの、社会福祉士養成通信課程をやってきた。20冊以上の社会福祉関連のテキストを読み、30本以上のレポートを提出してきた。介護福祉士の試験内容は、かなりの部分が社会福祉士の試験範囲に含まれるので、知らず知らずカイフク試験の勉強にもなっていたのである。
 過去問をやってみて、「ま、これなら‘出たとこ勝負’でも大丈夫だろう」と思った。
 が、念には念を。ここでしっかり介護分野を頭に叩き込んでおけば、来年度の社会福祉士国家試験の基盤づくりにもなろう。
 
 年が明けてからは勉強時間を毎日2時間に増やし、専用の参考書を購読して熟読した。最後の10日間は、本も読まず映画も観ずブログ更新もせず、ブックオフで手に入れた一問一答問題集を暇さえあれば開いていた。

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 50歳過ぎてつくづく感じるのは、記銘力の低下である。なかなか記憶に残らない。記憶したものを引き出すのはさらに困難。試験は5択のマークシート方式だからいいが、これが筆記試験だったら、まず解答すべき概念は分かっていても単語が脳ミソから引っ張り出せないことだろう。
 一方、50歳過ぎだからこそ、認知症予防としてこういう試練をあえて自分に課すことの意義も感じた。二ヶ月継続してやっているうちに、だんだんと頭の中の霧が晴れてきて、あちこちでピックアップした用語や知識が脳の中で体系化してくるのを実感した。そうなると、記憶に残りやすくなる。そう。学生時代に暗記が得意だったのは、単に脳ミソが若いからだけではなく、毎日学校で授業を受けて脳を活性化していたからなのである。
 「使わなければ退化する」は生物学的事実である。

日大キャンパス
 
 自分が指定された試験会場は、京王線下高井戸駅にある日本大学文理学部。
 開場1時間前の午前8時に駅に到着した。早くも参考書を手に会場に向かう人の列がある。ここ数年、全国で約15万人が受験している。
 コンビニでサンドイッチを買い、ネットで見つけておいた駅近くのインターネットカフェに直行する。
 6時間パック1500円を支払う。これで、昼食休憩の居場所も確保した。
 隣のブースから、ネットカフェ難民らしき60がらみの男がビニール袋をガサゴソといじくる音がする。まさに「日本の高齢者問題、ここにあり」だ。
 ネットカフェの個室で、飲み放題のコーヒーとサンドイッチで腹ごしらえをしたら、いざ最終チェック!
 ・・・ではなくて瞑想をしていた。
 ここまで来たらもう、やってもやらなくても同じこと。むしろ、いかにして平常心を保ち、いかにして寝不足の頭を――案の定、前夜は5時間弱のレム睡眠(夢を見る浅い睡眠)であった――すっきりさせるかのほうが大事である。
 長年の修行の賜物で、30分も瞑想すれば集中状態(定)に入り、気は充実し、心はすっかり落ち着いた。
 その状態を維持したまま、会場入りする。

 受験者でいっぱいの教室を緊張感が支配している。
 試験開始前のお決まりの説明では、一つ予想外のことがあった。普通は試験開始後1時間で退出自由となるのだが、「本日、雪のため交通機関が乱れ、鹿児島県内の会場で開始時間が1時間遅れます。そのため、今回は途中退出はなしとします」とのこと。
 朝から寒かった。西日本のほうで降雪予報が出ていた。しかし、まさか鹿児島県とは・・・。
 試験時間は午前が1時間50分、午後が1時間45分。問題数は午前が68問、午後が52問。一問解くのに1分使っても十分時間が余る。途中退出を目論んでいたのだが、ふいになってしまった。

 試験内容は・・・・。
 1.一般常識(良識)及び読解力で正答できる 30%
 2.普段の業務で習得した知識で正答できる 30%
 3.過去問や参考書を入念にやっておけば正答できる 30%
 4.勘が良い、あるいは運が良ければ正答できる 10%
 といった感触であった。
 ソルティは昔から、こと試験に関しては勘が働かない(=分かっていることしか正解できない)タチなので、上記4を除いた90%得点を目指したのであるが、帰宅後、業者の解答速報で答え合わせしたら正答率85%であった。ケアレスミスと‘裏を読みすぎ’ミスが数問あった。
 むろん、合格圏内である。

 試験終了後、日大キャンパスに一斉にあふれ、下高井戸駅までの道を埋め尽くした受験生の数に、わが国の介護需要の高さを改めて感じた。
 こんなにいるのに、まだ足りない・・・。  

 最後に、ソルティが「やっておいて良かった」とつくづく思ったことは何か?
 1. 模擬試験を受けた。
 2. マークシートを塗りつぶす練習をした。
 3. 同じ職場の受験する仲間たちと励ましあった。
 4. 試験会場の下見をした。
 5. 当日ズボン下にスパッツを履き、厚手の靴下を2枚重ねした。

【正答】5番
【解説】暖房が入っているとはいえ、1月下旬の大学の広い構内や教室は底冷えする。女性と中高年男性は下半身の冷えに悩まされ、集中力が削がれる危険がある。トイレも近くなるであろう。老化は足から。「脱健着患」よりも「頭寒足熱」を。


介護の仕事9 

 

 

● スモール・イズ・ワンダフル! :介護の仕事11(開始4年2ヶ月)

 介護の仕事に就いて5年目に突入した。介護福祉士の資格も取って、職場(老人ホーム)の中では上から数えたほうが早い古参になってしまった。新人の頃、5年目の先輩職員と言ったら、「便失禁も救急対応も帰宅願望も徘徊も介助拒否も、怖いものなしの大ベテラン」という感じで見ていたが、果たしていま自分も新人からはそう見えるのであろうか。
 いささか心もとない。

 さて、ソルティは男としてはチビである。加齢により骨密度が減少してきているためか、ここ数年少しずつ背丈が低くなって160センチを割ってしまった。一時は65キロもあって生活習慣病危険区域に達していた体重も、この仕事を始めたおかげで10キロ近く減少、日々の肉体労働により上腕筋や胸筋や背筋が発達、胴回りもすっきりし、20代の奇跡のボディラインをキープしている。
 由美かおるか!
 介護の仕事のメリットの一つは、運動不足の解消と肥満防止にあるのは間違いない。周囲を見ても、新人の頃はマシュマロマンのように丸々太ってドタドタ動いていた奴が、半年過ぎると体全体が絞られて、きびきびとした身のこなしで颯爽と介助にあたっている。寿命も数年延びたであろう。

 社会に出たての20代の頃、体の小さいことがコンプレックスになっていた。
 背が低いと、ほかの男たちから文字通り‘下に見られやすい’。体格の立派な男に比べると、どうしたって押出しがよろしくない。貫禄に欠ける。そのうえにソルティは父親譲りの童顔であった(ある)ので、まず年相応に見られたことがない。仕事上でも日常生活上でも(たとえば混んでいる電車の中とか喫茶店で注文するときとか)人と接する場面において、どうも軽くあしらわれやすい。むろん、自意識過剰ゆえの被害妄想の部分もあろう。
 ヘテロの男だったらそこに「背が低いと女にもてない」という黄金律が加わるから、余計にコンプレックスは高まることだろう。ソルティの場合は、幸か不幸か対象が女でなかったので、そこはあまり重要ではなかった。
 スモール・コンプレックスはいつの間にやら消失した。「背丈で勝てないなら中身で勝負!」と意気込んて自分磨きに勤しんだわけではない。二十歳過ぎればもう身長は伸びない。「変えられないものは悩んでも仕方ない」と受け入れたのが一つ。そして、「他人から下に見られようが軽んじられようがどうでもいいじゃん」と思えるようになったことが一つ。風采とか押出しの良さとか威厳とかあまり関係ないような職種、競争や評価や出世と無縁な職種、単純に言えばスーツを必要としない職業ばかり経巡ってきたのである。

 そんなこんなで数十年経った今、こう思っている。
 
「体が小さくてつくづく良かった~」
 
 介護職の多くが「勘弁してほしい」とため息をつく利用者は、体の大きな、体重の重い、立ち上がることのできない利用者(ほぼ男性)なのだ。自分の力で立ち上がることも側臥位になる(横向きに寝る)こともできない体重80キロの大男を介助するのは、実に骨が折れる重労働である。
 ミステリー好きの自分は、犯人が死体を処理するのに苦労するシーンを本で読んだりテレビで見たりして、「人一人動かすのがあんなに大変なのかなあ」と不思議に思っていた。なんとなく意志(魂)の抜けた体は、当人の抵抗がない分、自由に動かしやすいといった錯覚があった。それに、学生時代ぐでんぐでんに酔っ払った友人をアパートまで連れて帰るのに肩を貸したときなど、たしかにこちらの体にいつゲロが吹きかけられるかわからないスリルもあって厄介な作業ではあったが、一人でできないことはなかった。だから、人間の体がいかに重いものか、はっきりとわかっていなかった。
 だが、80キロは80キロなのである。スーパーで売っている米袋を歩いて持ち帰ろうとするなら、やはり10キロが限度だろう。重量挙げの選手なら80キロでも持ち上げられようが、それとて数十秒のことである。
 生命のない人体、完全に意識を失った人の体、立つ意欲を失った肉体は、重い。まんま80キロの物体である。酔っ払っているときでも人は、自分の力で立とう、歩こうとしているのである。こん睡状態になったら、数人がかりで担ぎ上げて車を呼ぶしかない。

 80キロの利用者をトイレ介助するには一人では無理である。最低でも二人必要だ。
  1. 一人が車椅子の前に回り腰を低くして、両腕を利用者の両脇から差し入れて利用者の背中で両手を組む。
  2.  「いち・にの・さん」と反動をつけて、両腕を前に引きながら腰を上げて、利用者を立たせる。足で踏ん張ることのできない利用者の全体重は介助者にかかる。
  3.  その間に、背後に控えた今一人の介助者が利用者のズボンとパンツを素早く下げて、尿取りパットをはずして「OK」を出す。(このとき便失禁していると厄介である)
  4.  前側の介助者は、下半身丸出しになった利用者を抱えながらゆっくりと便器のほうに回転して、ひざを曲げて腰を落としながら利用者を便座に座らせる。
 この一連の作業にかけられる時間は、女性職員や自分のように背が低くて非力な男性職員の場合15~20秒が限界である。それを超えると腕がしびれて、力が入らなくなってくる。上背のある利用者の場合、介助者は下から持ち上げないとならないので余計に力が要る。介助している間は常に、肩や腕や腰に負担がしいられる。毎回毎回(トイレ介助は一日数回ある)、毎日毎日、これを繰り返すと痛みが固定されてしまう。介助者の職業寿命が縮む。
 だから、くだんの利用者の介助は自然と後回しになる。施設介護は常に時間に追われているので、介助者は時間のかからない軽介助の利用者から次々と対応していく(片付けていく)傾向にある。体の重い利用者を先にやることで体に負担を残したくないのもある。ほかの利用者のトイレ介助がひととおり済んで、フロアが落ち着いて、二人の介助者が個室に籠っても大丈夫なときになってようやく、くだんの80キロ利用者の番が来るわけである。
 ここだけの話、あまりに忙しい時や職員が病欠して人員不足の時など、「一番分厚いパットを当てているし。一回くらいトイレを抜いてもいいか」と飛ばされてしまうこともある。尿意や便意のない(訴えられない)利用者は黙ったままである。
 こういう介助にこそロボットがほしいと切に思う。どんなに重い利用者でもやさしく持ち上げて立位を取らせ、そのまま90度回転させて、また下にやさしく降ろしてくれるロボットだ。簡単に作れると思うがな・・・。
 

ロボット


 そう遠くない将来、そんな介助ロボットが登場するとは思うけれど、それまでは体の大きな・体重の重い・介助の必要な利用者には受難の日々が続くであろう。若いときに誇った堂々たる体格や異性の注視を浴びた上背を、「よもやこんなことになろうとは・・・」と苦々しく思いつつ、トイレの順番を濡れたパットに耐えながら待つことになる。人によっては、職員の負担となっている自分の巨躯を呪わしく感じることもあろう。
 世の若き女性たちも3Kだ何だと欲張っているのも考え直したほうがいいかもしれない。超高齢社会のこれからは、パートナーを介護しなくちゃならない日のことを考えて相手を選んだほうが利口かもしれない。なんと言っても男のほうが先に倒れる確率が高いのだし、いずれは施設に預けるとしても、それまでは妻の手で多かれ少なかれ在宅介護することになる。
 「大きいことはいいことだ♪」は昔の話である。
(――というジョークが通じたのも昔の話である。)

 



● 愛ではどうにもならないこともある 映画:『Mommy/マミー』(グザヴィエ・ドラン監督)

2014年カナダ映画(フランス語)
上映時間 138分

 グザヴィエ・ドランは1989年カナダ生まれ。今もっとも世界から注目され、惜しみない喝采と賞賛に浴し、次回作が期待される映画監督である。「映画界の救世主」という声すらある。
 ちなみにゲイである。

 未亡人のダイアン(=アンヌ・ドルヴァル)には、15歳の可愛い息子スティーヴ(=アントワーヌ・オリヴィエ・ピロン)がいる。スティーヴは入居している施設で放火騒ぎを起こし強制退所させられてしまう。ダイアンは息子を引き取り、母子2人の生活が始まった。ありあまる若さと持って生まれた障害ゆえのスティーヴの型破りな行動に、ほとほと手を焼くダイアン。
 二人の家の向かいに住むカイラ(=スザンヌ・クレマン)は、夫の仕事の都合で転々とする生活を送っている。元高校教師だったカイラは精神的なストレスのため言語障害となり、現在静養中である。ひょんなことから知り合った3人は仲良くなり、スティーヴを中心に笑いの絶えない関係が育くまれてゆく。
 生きる希望を取り戻すダイアンだったが、スティーヴの放火で火傷を負った施設の入居者家族から治療費を支払うよう訴えを起こされ、窮地に陥る・・・・

 第67回カンヌ国際映画祭において審査員賞を受賞しただけあって、確かに傑出した才能に圧倒される。とても20代の青年が撮ったものと思われない。技術的にも内容的にも。早熟の天才か、幼形成熟(ネオテニー)か、あるいは‘アンファンテリブル(おそるべき子供)’か。(この‘アンファンテリブル’という言葉を聞くと、いつも『ティファーニで朝食を』で有名なアメリカの小説家トルーマン・カポーテを思い出す。そう言えばカポーテもゲイだった)

 この映画のテーマは「母と息子の愛」。陳腐にして永遠なる催涙テーマである。
 が、そこにひとひねり加えている。スティーヴは注意欠陥・多動性障害(ADHD)なのである。

注意欠陥・多動性障害(attention deficit hyperactivity disorder、ADHD)は、多動性(過活動)、不注意(注意障害)、衝動性を症状の特徴とする神経発達症もしくは行動障害。
次のような症状が特徴的である。
  • 簡単に気をそらされる、細部をミスする、物事を忘れる
  • ひとつの作業に集中し続けるのが難しい
  • その作業が楽しくないと、数分後にはすぐに退屈になる
  • じっと座っていることができない
  • 絶え間なく喋り続ける
  • 黙ってじっとし続けられない
  • 結論なしに喋りつづける
  • 他の人を遮って喋る
  • 自分の話す順番を待つことが出来ない
  (以上、ウィキペディア『注意欠陥・多動性障害』より抜粋)

 日本では、自閉症、アスペルガー症候群、学習障害などと共に発達障害の一つに含まれ、発達障害者支援法(2005年成立)により、障害の早期診断・療育・教育・就労・相談など様々な公的支援が受けられるようになった。

 ただでさえ子育ては大変なものであるが、発達障害の子供を育てるのはどんなにしんどいものだろう。

 ソルティは社会福祉士の資格を取るための実習で障害者施設(生活介護)に行き、そこではじめて発達障害者(大人である)と近しく関わった。むろん、それまでも自分がそうとは気づかないだけで発達障害者(児)は周囲にいたであろうし、たまに電車の中で不可思議な言動をしている人に気づくと、他の乗客同様、見て見ぬフリ聞いて聞かぬフリをしていた。発達障害と統合失調症の区別すら、よく分かっていなかった。
 実習で出会ったのは、自閉症の人たちだった。

 まあ、大変であった。
  • 奇声を上げる。
  • 忙しい職員を捕まえて同じ質問を一日中し続ける。(職員はそのたび同じ答えを返す)
  • 部屋の中でぴょんぴょん飛び跳ねる。
  • 一つところでイスラム舞踏のように旋回し続ける。
  • いきなり自分の顔面を拳骨で思いっきり叩きだす。
  • 床に頭をゴンゴン打ち付ける。
  • コマーシャルの文句をオウムのように繰り返し言い続ける。
  • 大の男が急にぼろぼろ泣き出し、自らの腕を血が出るほどに噛む。
  • 突発的に他人に突っかかって、容赦なく殴り始める。
  • いきなり服を脱ぎ、全裸になる。
  • てんかん発作を起こす。 

 正直に告白する。
 最初に自閉症フロアに入ったとき、「いったいここは動物園か?」と思った。
 「この人たちとコミュニケーションなんかできるのだろうか?」
 「いや、それよりも身の危険はないだろうか?」

 ソルティは、職場(老人ホーム)で認知症高齢者のケアをしているので、わけのわからない言動には慣れていた。わけのわからない言動でも、本人の中ではちゃんと筋が通っていてそれなりの意味があるのだ、ということは知っていた。だから、本人の表情や仕草から、「いまどんな気持ちでいるのか」「何をしたいのか」「何がほしいのか」を読み取るよう努め、気持ちに沿うように介入する。なによりも本人の感情(不安や怒りや焦燥感や寂しさ)を受容し共感することが大切であり、その地点に立ってはじめて適切な介助もコミュニケーションも可能となる、と学んでいた。基本、同じ人間である以上、自閉症の人もそこは同じであろう。
 結論から言えば、確かに同じであった。受容・共感・傾聴・自己覚知の姿勢は対人援助の黄金律であり、相手が誰であろうと通用する。最終的には、自閉症の人たちに受け入れられ、仲良くなることができた。(誤解を恐れず言えば、自閉症の人はピュアで感情表現がまっすぐで何とも言えず可愛いらしかった。40歳のヒゲ面のおっさんでさえ!)
 ただ、認知症高齢者と違うのは、自閉症の彼らはまだ若く(20~40代)、エネルギーにあふれていて、腕力も脚力も人一倍強く、感情の起伏も激しいという点。そして、おそらく、自らが置かれている状況について、認知症の人よりもクリアに理解できている点。それだけに、当人も介助者も大変なのである。(自閉症スペクトラムという言葉があるように、自閉症にもいろいろなタイプが存在する。自閉症の作家東田直樹の本を読むと、外見からは見誤ってしまわれがちだが、多くの自閉症の人が高い知性と深い感情と瑞々しい感性を持っているらしいことが推測される)
 ともあれ、ソルティも慣れるまでは、彼らの破壊的なパワーと感情の暴発ぶりと予測のつかない行動に圧倒された。
 と同時に、彼らと毎日一緒に過ごしケアをしている職員に頭が下がった。
 本当に、並みの体力、並みの腕力、並みの精神力ではつとまらない仕事である。
 一例を挙げると、自閉症の人たちの行っているプログラムに「散歩」があった。毎日午後、隊列を組んで、近くの公園まで数時間かけての散歩に出かけるのである。自閉症の人は一般に自然に触れるのが好きだと言うこともあるし、若い彼らのエネルギーを幾分でも発散させて疲れさせ、家に帰って暴れないよう、つまり家族支援としても散歩は有効なのである。ソルティも毎日のように散歩に付き添った。
 毎日公園を散歩できるなんて、なんて楽な仕事かと思ったら大間違い。はしゃいだ彼らは、道中いろいろやらかすのである。ピンポンダッシュしたり、帽子を脱いでよその家の中に投げ込んだり、興味を示した看板の前で立ちどまって石のように動かなくなったり・・・。こういう一群を、来る日も来る日も、安全に気をつかいながら引率する職員の気力というかモチベーションはどこからくるのだろう? 給料だけでは到底つとまるまい。(まあ、認知症高齢者の介護の仕事も外野からはそう思われているのかもしれない・・・)

 しかし、職員は結局のところ赤の他人である。当事者と関わる時間と場所は限定されている。休日には自由な時間を満喫できる。仕事が嫌になったら辞めることもできる。
 それが許されないのは家族、とくに親である。
 実習施設には毎日、自閉症の子供(すでに大人であるが)を送迎する親たちが来ていた。ほぼ母親だった。中には自分がそろそろ介護施設の世話に・・・という年代の母親もいた。みな明るく、逞しく、実習生に過ぎない自分にも丁寧に挨拶してくれた。
 わが子が他の子供とどこか違うと気づいてから、あるいは自閉症と診断されてから、どれだけ苦労してきたことだろう。どれだけ周囲を気遣い、謝ってきたことだろう。
 若くして亡くなった戸部けいこ(1957 - 2010)の漫画『光とともに・・・ ~自閉症児を抱えて~』(秋田書店)を読むと、自閉症の子供を持った親御さんがどれだけ苦労するかがよくわかる。それだけに、わが子の成長を実感したり周囲から理解を得られたときは喜びも一入(ひとしお)であり、そこにドラマがあるわけだが・・・。この漫画の描かれた頃(2001~2010年)には日本でも自閉症についての研究や支援が進み、主人公光君の母親は然るべく場所に相談に行って専門家から自閉症児の育て方のコツなんかを伝授されている。同じ自閉症の子を持つ親たちと知り合い、励ましあいもする。それでも、やっぱり苦労の連続には違いない。
 ましてや、自閉症の原因が脳の障害にあることが判明していなかった時代、親の育て方に原因があるなどと誤解されていた時代は、針の筵を這いつくばって暗闇を手探りで進むような状況だったのではないかと想像する。

公園


 さて、映画の主人公スティーヴは、最終的には閉鎖病棟に入れられてしまう。母親の愛だけではどうにもならなかったのである。
 ある日、「旅行に行く」とスティーヴを騙して病院に車を乗り入れたダイアン。建物から3人の屈強な看護士が出てくるのを見て事態を悟ったスティーヴ。
 逃げるスティーヴ。
 追う看護士。
 泣き喚くダイアン。
 あっけにとられるカイラ。
 映画のクライマックスであり、おそらくほとんどの観客を泣かせるシーンであろう。
 たしかに切なすぎる。
 しかし、ソルティは泣けなかった。
 なぜなら、老人ホームで働くソルティの立ち位置は、上の「屈強な看護士」にあたるからだ。愛し合う家族を力づくで切り離す無情で無慈悲な塀の中のケアラー。映画の中で看護師が着ていたグレーの制服に象徴されるように、自由を希求する者を束縛する、事務的で非人間的な法(福祉制度)の手先。
 しかしなあ~。
 『カッコーの巣の上で』は75年のアメリカ映画である。法だって、福祉制度だって、施設だって、治療法だって、施設利用に対する世間の価値観だって、当時とはずいぶん変わっているだろうに。「家族を施設に入れること=家族を見捨てること」という固定観念こそ、当事者を苦しめる枠だろうに。
 母と息子の絆を表現するために施設収容による離別の悲劇を利用するというステレオタイプな筋書きが、映画界の新しい旗手にしては‘あまりにアナクロ’という気がした。



評価:B-


A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!




● 介護の仕事12 イカルスの翼 本:「老いていく親が重荷ですか。」(アルボムッレ・スマナサーラ著)

2016年河出書房新社刊行。

 喫緊の社会問題にして極めてパーソナルな問題でもある老人介護についての本である。
 80歳にならんとする両親(おかげで二人とも健康)を持ち、老人ホームで働いている介護士であり、加えて仏教徒でもあるソルティにとって、まさに自分のために書かれたような本である。
 スマナ長老は以前に、『老いと死について さわやかに生きる智慧』(大和書房)という本を書いている。ブッダの教えをもとに、誰にとっても避けられない老いと死を、賢く冷静に穏やかに迎えるコツを助言されている。本書はその続編とも姉妹編とも言える内容で、今度は立場を変えて、老いや死の只中にある親に対して子供はどのように向き合ったらよいか、どのような心構えで介護したらいいかを説いている。なので、両冊揃えて読むといいと思う。
 今回もまた話のポイントとなるのはブッダの教えである。生老病死は仏教の中心テーマであり、生老病死の苦しみからいかにして脱するかを説いたのがブッダだからである。仏教の独壇場と言っていい。
 まず、仏教では老いや死をどうとらえているか。

 そもそも、仏教においては「生」と「死」は同義語であり、いわばコインの裏表のような関係です。生きることは、死ぬことなのです。生きている以上、最後に待ち受けているのは死です。その事実は決して変わりません。私たち“人”は、毎日毎日、一歩一歩、生きることによって死へと近づいています。今生きているということは少しずつ死んでいっているということです。
 そうした観点から言えば、「老いる」という発想自体がありません。
 私たちは、ただ変化しているだけです。

 お釈迦様はこう言っています。
「年をとる、老化する、死に向かって生きていくという現実を素直に認め、認識できる人こそ、この世でもっとも幸せに生きられる人である」
(以上『老いと死について さわやかに生きる智慧』より引用)
 
 老いや病気を不幸だと思わないこと。
 いまある状況を、自然な変化なのだと考えること。
 (本書より) 

 これが大前提である。
 老いや死に直面している当事者はむろんのこと、彼らを介護する者もまた上記のことをしっかりと認識して心に落としておけば、不安や恐れや苛立ちを乗り越え、できることを淡々と理性的に行うことができる。来るべき最期に向かってソフトランディングできるのである。

 以下、ソルティが心に留めた介護する者へのアドバイスを引用する。

1. 美しく諦めること
 
 介護問題に直面した人は、それは業が自分に与えた宿題であると思い、正しく対応すれば、介護を受ける側もする側も幸福で穏やかにいられるのです。
 運命を自分の思いどおりに変えることは不可能です。それにも法則があります。運命または業に真っ向から抵抗するのではなく、現実を受けとめるという「諦め」が必要なのです。
 仏教用語の「諦め」は、降伏という意味ではなく、状況を理解して納得することを言います。

 Never Give Up(決して諦めるな)は、長嶋的ではあっても、仏教的ではない。諦めが悪い人のことを「往生際が悪い」というが、まさに「生」に対する執着を表す言い回しである。
 本来、「諦める」は「明らむ」、つまり「物事の真理を明らかにする」ことなのだ。


2. 認知症への処し方
 
 脳の機能がかなり低下している場合も、介護する人の感情はちゃんと伝わっています。認知症の介護における救いはそこにあります。
 知識が通じなければ、「感情」でコミュニケーションすればいいのです。

 まさにその通り。ソルティも5年の介護経験を通じてコツを習得した。逆に、このコミュニケーションスタイルが身についた結果、認知症でない高齢者に無意識にこれを適用してしまうと、意外に嫌がられるのである。普通の大人は、知識や理屈で感情を糊塗する傾向があるからだ。


3. 介護は修行

 介護者は、自分の目の前で、刻々と死に向かって進んでいる人の姿を観察することになります。すると「生きるとはいかに虚しいのか」とありありと見えてきます。

 さらに観察すると、それでも人は「生きていきたい」と願い、弱く衰えた身体にしがみついて生を渇望する「存在欲」が見えてくるはずです。「人生とは何か?」と、まざまざと観察するのだと言えるでしょう。

 自分が4K(危険、きつい、汚い、給料安い)と言われ、一般に人気のない介護の仕事を続けていられるモチベーションの一つは、それが「修行になる、善行為になる」というところにある。ブッダの四門出遊のエピソードに象徴されるように、「老」「病」「死」を深く観察することが「道」へと人を誘う。その意味で、介護は「他人のため」ではなく、「自分のため」である。

 すでに数百人となった利用者との出会いと別れの中で、「いったいどういう老い方が一番幸福なんだろう?」「どういう最後が楽なんだろう?」と問い続けてきた。それは結局、「どういう生き方が一番幸福なんだろう?」につながるわけだが・・・。
 今のところ一つ自信を持って言えるのは、「結局最後にモノを言うのは、その人の性格だ」ということ。老人ホームに入って、家族も知り合いも遠のき、財産も学歴も業績も地位も関係なくなり、暇をつぶしてくれると同時にアイデンティティの源泉にもなった様々な道具立て(酒や趣味や仕事や特技や家事)も身体的・環境的変化によって奪われていく。最後まで残るのは性格だけなのだ。認知症になっても性格はちゃんと残る。
 性格がいい人は幸福である。本人も自分の環境を受け入れて穏やかに過ごせるし、性格の良さゆえに介護者からも優しくケアされるから、ますます幸福度が増す。
 老人ホームというまったく同じ環境の中にあって、そこを天国とするも地獄とするも、その人の性格次第という面は少なからずある。むろん、介護保険の制度や施設運営自体にも改善の余地は山ほどあるけれど・・・。


4. 傲慢をなくす
 
 仏教では、病気で倒れている人や不幸で力を失っているような人を見たら、このように考えます。「これは生命本来の姿なのです。私も同じです。私もいつかこうした状態になる可能性は高いのです。私も老いて死にます。この方々は私に、私の将来を見せてくれているのです」
 こう思うと傲慢さがなくなり、自分自身をいたわるように、相手のお世話をする気持ちになれるのです。

 ソルティのような中高年スタッフのメリットの一つは、対象となる高齢者との年齢差が(比較的ではあるが)小さい点にある。世代間ギャップが小さいから、若い世代たとえば平成生まれのスタッフに比べれば、通じる話が圧倒的に多い。昔の風俗や習慣、昔の歌や映画やスター、昔の出来事や風物や食べ物、昔の価値観など、共通ネタや共感できるテーマが多い。それらが、相手の考えや気持ちを理解するときの手がかりになることも少なからずある。
 また、自分もまた老いの入口に入ったことで、頭が働かなくなることや身体が言うことを聞かなくなることを身をもって実感しつつある。メンドクサイ文明から取り残されていく不安と淋しさも感じつつある(最近ついにスマホを解約した)。老いは他人事ではない。‘ゴーマンかまして’いる場合じゃない。


5. 介護の最終目的 

 誤解を恐れずにあえて言えば、私は介護の最終目的、最良の介護とは、親を幸せに死なせてあげることだと思っています。

 介護でいちばん大事なのは、心の悩みをなくすことです。
 親の気持ちを常に安らいだものにしてあげること。やさしい言葉をかけ、笑顔を向けること。・・・・・・
 最高の心のケアとは、この世に対する執着をなくせるように、アドバイスをすることです。

 「これぞスマナ節」の大胆発言。
 だが、これこそ仏教の核心である。良い転生(生まれ変わり)を繰り返した挙句の果てに輪廻から解脱すること、もはや二度と生を受けないことが、仏教の最終目的だからだ。そして、良い転生を得るには、幸せな最期を迎える必要がある。亡くなる瞬間の心の状態が次の転生先を決めるとされているからである。
 

 こうしてみると、仏教は本当に近代西洋社会の価値観とはズレていることが分かる。
 近代西洋社会の特徴は、①個人主義、②進歩主義、③合理主義、④民主主義、といったところにある。このうち③と④は仏教の価値観とそれほど齟齬をきたさない。仏教――少なくともテーラワーダ仏教では合理的であることを重視する。神秘主義や実証されない事柄への信仰をありがたがらない。「カーラマー経」の教えに見る通りだ。④も、出家の集まりであるサンガが非常に民主的に運営されていたことから立証されよう。
 問題は①と②である。
 西洋の個人主義は、自己の発見(コギト・エルゴ・スム)と自己の確立から、「自己主張」「自己実現」「自己決定」への道を切り拓いた。端的に言えば、「自己」の絶対化・固定化である。これが仏教の「諸法無我」と袂を分かつ。仏教では「自己」は幻想であり、自己の固定化こそが苦しみの要因であるとする。
 次に、進歩主義は、植民地主義や資本主義のバックボーンとなったと同時に、個人においては夢と野心の追求(=利益と欲望の充足)を許すことになった。これが環境破壊や資源枯渇、個人においては精神的ストレスを生んだ。この進歩主義の背景には、ダーヴィンの進化論はじめ近代科学の発展が大きく作用していることは言うまでもない。一方、仏教は末法思想や輪廻転生思想に見るように、進歩主義を採らない。人類は(生命は)智慧を開発しない限り、無明に置かれたまま永遠に転生を繰り返す。そして、智慧とは「諸行無常」「諸法無我」「一切行苦」。一切が変化して、一切が苦であるなら、そこに進歩などあり得ない。
 そこで―――だ。

 そこで、現代の日本の福祉制度の理念および制度体系は、アメリカやイギリスやドイツや北欧諸国などの近代西洋社会がつくった枠組みに則っている。これは、文明開化後の日本が西洋をモデルとし、戦後の日本の制度全般がGHQによって彫琢されたことの延長上に、そして戦後日本社会および日本人の価値観がアメリカナイズされたことの帰結としてある。イスラム教国と比較してみれば分かりやすい。日本は近代西洋文明の末席(?)に連なっている。個人主義、進歩主義は、現代日本人の意識を規定している。
 介護の世界においてもそれは浸透し、利用者の「自己決定と自己実現」は金科玉条のごとく唱えられている。最後まで自己の可能性を追求してやりたいことをやって死ぬのが理想という考えも広まっている。いつまでも若く、いつまでも美しく、いつまでも強く、いつまでも青春で、いつまでも輝いて――。
 平均寿命が90歳に至らんとしている昨今、ある程度まではそれも良いと思う。
 しかし、誰の生の最後にも「死」という着地点がある。
 今の日本の介護現場、日本人の「老い」は、太陽という輝かしい「生」を目指して右肩上がりに飛び続けるイカルスみたいだ。老いて病んだ人を「生」の側に押し戻そうとひたすら努力している。その結果、多くの老人たちは、死や老いについての心構えも準備もないままに、それといきなり直面することになり、パニックに陥る。太陽の熱で翼が溶けたイカルスさながら、錐揉みしながら「死」に向かって墜落していく。まるでゼロ戦のように。

 なぜ、ソフトランディングという選択をしないのだろう?

Icarus3
マルク・シャガール作「イカロスの失墜」

 



● 介護の仕事13  雨の日の傘談義

 老人介護の仕事の面白さの一つは、昔のことを当事者から聞けることである。
 昔のこと、と言っても明治生まれはもう数えるほどしか日本にはおられないので、大正後期から昭和の初め(戦前)にかけてのことである。
 ソルティが興味を持つのは政治や事件などの社会的出来事ではなく、日常生活のちょっとした雑学である。

 先日もご利用者と一緒にレクリエーションで童謡を歌っていた。今日のような雨の日であった。
 北原白秋作詞、中山晋平作曲の『あめふり』(1925年=大正14年発表)を歌い終わったときに御年89(昭和4年生まれ)の女性が言った。
「蛇の目って、お金持ちがさしていたのよね」
 すると、周囲の女性たちも「そう、そう」といっせいに頷いた。

あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

「へえ~。蛇の目ってミシンのことじゃなかったんですか?」とお約束通りボケる。
「あははは。違うわよ。傘よ。じゃ・の・め・がさ」
「それ、どんな傘ですか?」(ここぞとばかり「回想法」による認知機能アップをはかる姑息なソルティ)
「骨組みは竹でできて、そこに和紙を張って油を塗るの」
「ああ、水をはじくために油を塗るんですね」
「そう。傘を開いたとき上から見ると蛇の目模様しているから、蛇の目って言うのよ」


蛇の目傘               
蛇の目傘

和傘はおもに竹を材料として軸と骨を製作し、傘布に柿渋、亜麻仁油、桐油等を塗って防水加工した油紙を使った。和傘には番傘(ばんがさ)や蛇の目傘(じゃのめがさ)、端折傘(つまおれがさ)などの種類があり、蛇の目傘は、傘の中央部と縁に青い紙、その中間に白い紙を張って、開いた傘を上から見た際に蛇の目模様となるようにした物で、外側の輪を黒く塗ったり、渋を塗ったりするなどの変種も見られる。(ウィキペディア「和傘」より)


 会話は続く。
「ふ~ん。それで蛇の目がお金持ち御用達なら、貧乏人は何をさしていたんですか? あっ、わかった! 蓑笠だ!」
「あははは。違うわよ。庶民は番傘を使っていたの」
「へえ~」

 ソルティは蛇の目傘と番傘の違いを知らなかった。
 番傘とはなにか。

和紙を張った粗製の雨傘のこと。江戸時代の中頃から竹製の骨に厚めの油紙を張った雨傘が普及した。上等のものが蛇の目傘であるが,番傘は一般に2尺6寸 (約 80cm) の柄に 54本の骨を糸でくくり,直径は3尺8寸 (約 115cm) 。商家で客に貸したり,使用人が利用するため,紛失を防ぐのに屋号や家紋とともに番号をつけたので,この名が出たといわれる。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「番傘」より)

 時代劇でよく浪人したお侍さんが内職で傘を作っているシーンが出てくるが、あれは番傘を作っているのである。今の感覚で言えば、番傘=ビニール傘ってところか。もちろん使い捨てはしなかっただろうが。

 「じゃあ、この歌に出てくる子供の家は裕福なんですねえ」
 「そうらしいわね。ウチは番傘しかなかったわ~」

番傘
番傘

 傘が出てくる童謡と言えば、ほかに『雨降りお月さん』がある。

雨降りお月さん 雲の蔭
お嫁にゆくときゃ 誰とゆく
ひとりで傘(からかさ) さしてゆく
傘(からかさ)ないときゃ 誰とゆく
シャラシャラ シャンシャン 鈴付けた
お馬にゆられて 濡れてゆく
(野口雨情作詞、中山晋平作曲、1925年=大正14年発表)

 ここに歌われている「からかさ」は唐傘と書き、紙と竹でつくられた和傘一般のことを言う。語源の由来は「唐(中国)から来た傘」という説と「からくり傘」を略したという説がある。上記の歌の「からかさ」は、お嫁入りに使われるのだから番傘ではあるまい。蛇の目を想定しているのだろう。


 蛇の目傘について調べていたら気になる記述があった。

 元禄年間からは柄も短くなり、蛇の目傘がこの頃から僧侶や医者達に使われるようになった。(ウィキペディア「和傘」より抜粋)
 
 なぜ、僧侶や医者から始まったのだろう?
 
 ここからはソルティの推測に過ぎない。
 まず江戸時代以前の医者は僧侶も兼ねているのが普通であった。なので、蛇の目傘はなによりまず僧侶の印だったのだろう。傘をさしていると禿頭が見えない。そこで蛇の目の印をあしらうことによって、道行く人に「ここに坊主あり」と知らせる働きがあったのではなかろうか。

蛇の目紋


 なぜ蛇の目か?
 蛇の目はそもそも家紋の一種であった。豊臣秀吉の家臣であった加藤清正が好んで用いたと言われる。加藤清正と僧侶の接点はなにか?

ほかに、蛇の目を使用した人物には、日蓮宗の開祖日蓮がある。これにちなみ、使用者は日蓮宗宗徒であることがあり、南部実長、加藤清正などの使用がある。(ウィキペディア『蛇の目』より)
 
 ビンゴ!

 つまり、最初に日蓮宗の僧侶が宗派(兼所有主)を示す印として「蛇の目」を傘にあしらったのが、時を経て一般の僧侶たち(医者も含む)にも広まり、さらに庶民(裕福な階層)に広まったということではなかろうか。


 ご利用者とのちょっとした会話に端を発した雨の日の探求であった。


P.S. 「ジャノメミシン」の社名の由来についてはこちらを参照。




● 介護の仕事14 センチュリーパワー(Century Power)

 勤め先の老人ホームに101歳の女性がいる。
 P子さんとしよう。

 P子さんはアルツハイマー認知で大昔のことは覚えているが、昔のことや最近のことやちょっと前のことは思い出せない。歩行は厳しいので移動のときはスタッフが車いすを押している。固形物はもはや体が受け付けないようで、スタッフが介助で口に入れても戻してしまう。プリンやゼリーや甘みのついている高カロリー栄養剤を少量補給するのがせいぜいである。 
 そんな状態でも日中は食堂のご自分の席でバッチリと目を開けてスタッフの動きを物珍しそうに見ておられるし、耳元で大声で呼びかければ返事もするし、調子のよい時は近くの席の人を相手に昔話を始める。風邪で寝込んだり、肺炎で入院したりということもない。いたって元気なのである。
 なんでも家が地方の庄屋だったらしい。繰り返される昔話の中に、「お手伝いさんがね・・・」とか「女学校の送り迎えのときに・・・」とか「家の蔵の中に着物がたくさんあって・・・」なんて言葉が当たり前のように出てくるのを聞いていると、箱入り娘として下にも置かず可愛がられた着物姿の少女が思い浮かぶ。長生きで健康なのは育ちの良さから来るのかもしれない。
 今でも風貌はお嬢様というか「おひいさま」の名残をとどめている。豊かで艶があり櫛どおりのいい白髪、染み一つない白い肌、こじんまりした品のいい目鼻立ち。若い頃は相当の美人であったろう。他人の話には興味を持たず自分の話だけ一方的にするあたりも、単に加齢や認知のせいばかりではないのかもしれない。ほうっておいても周りがチヤホヤしてくれたのだろう。
 
 100歳を超えると人間は天使になる。存在するだけで「奇跡がここにある」といった印象が生じる。80歳以上の高齢者があまた集う中でも別格といった雰囲気が漂う。何を言っても、何をやっても、もう憎まれるとか邪険にされるということがない。介護拒否が強くスタッフを悩ませムッとさせる90歳のうるさがたの婆さんが、101歳のP子さんの前ではしおらしくしているのを見ると、「世紀の力(century power)」ってすごいと思うのである。そのうえ、P子さんの場合、可愛らしい容貌とアルツハイマーならではの無邪気でトンチンカンな語りの持ち主なのだから、スタッフ人気は絶大である。20~30代の若い女性スタッフの間では「P子さんって可愛い」というのが口癖である。むろん、男性スタッフも同じように心の中で思っているだろう。「あと80歳若かったらなあ・・・」とか(笑)

 先日、出勤したソルティは、担当フロアを回ってご利用者一人一人に挨拶をしていた。P子さんの席まで来た。
「P子さん、おはようございます。今日もよろしくお願いします」
 そう言って頭を下げると、P子さんはこちらをまじまじ見つめてこう言ったのである。

「あら、可愛い坊やだねえ~」

 周囲は大爆笑。
 齢五十を超えて「可愛い坊や」とは!
 世紀の力は凄い。


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● 介護の仕事15  ここで一体なにをしているのかね? 

 認知症のHさん(87)は大工の棟梁だった。
 若い頃はずいぶん遊んで奥さんを泣かせたらしい。はじめての入浴介助時にHさんの右肩から腕にかけて見事な倶利伽羅紋々があるのを見て、昔の東映ヤクザ映画に出てくる賭場の光景(高倉健や菅原文太)が思い浮かび、「修羅場をくぐり抜けてきたんだろうなあ~」と畏怖とも尊敬ともつかぬ思いを抱いたものである。

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 江戸っ子の職人らしく、竹を割ったような裏表のないさっぱりした気質と率直な物言いが好ましかった。施設に入ったことに対しても、「しょうない。人間どうせ最後はこれよ」と片手で自分の首を刎ねる仕草をしてみせるのが常であった。人としての尊厳、男のプライドを大切にしながら対応すれば介護拒否することもなく、スタッフをよくねぎらってもくれた。認知はあったがトイレや食事は自立していたし、杖を使ってフロアを歩き回ることもできた。

 ――と過去形になるのはその後Hさんの認知がどんどん進んでいったからである。
 何度かの転倒と骨折と入退院を繰り返し、Hさんは車椅子生活を余儀なくされた。自分がどこにいるか、どうしてここ(施設)にいるかが分からなくなり、「家に帰る!」と言っては車椅子から立ち上がって歩き出そうとされる。自力で歩くことは転倒につながるので、我々スタッフは都度Hさんを押しとどめて、車椅子に押し戻す。すると、Hさんの怒りが爆発するのであった。
「なんだ、貴様! オレに逆らうか!」
 ドスの効いた大声で怒鳴る。こうなると、若い頃ならした喧嘩魂がよみがえるのか、その猛々しい振る舞いと鬼の如き形相は女性スタッフを震え上がらせた。

 Hさんの怒りがスタッフへの暴力となるに及んで、薬が処方された。精神安定剤である。
 しばらくすると、Hさんは日中車椅子上でほぼ傾眠(まどろみ)するようになった。車椅子から立ち上がることもなく、スタッフの言葉に応答することもなくなった。一日中、呆けたようにぼーっとしている。トイレも食事も自発的にすることはなく、スタッフが全介助するようになった。たとえば、食事の時はHさんの隣に座り、耳元で「Hさん、口を開けてください」と声をかけながら一匙一匙食べ物を運ぶのである。
 車椅子からの頻繁な立ち上がりと暴力行為がなくなったので、職員は「やれやれひと安心」という気分になったのは事実である。Hさんらしさが無くなったのは寂しいけれど、介護職だからといって利用者の暴力に甘んじていいわけないし、ケアを必要とする他のご利用者のことを思えば、一人の特定の利用者に手がかかり過ぎるのは問題である。 
 そんな状態でしばらくHさんの介護は続いた。

銭壷山合宿 052


 薬が体に慣れてきたのか、しばらくすると日中でもHさんの覚醒状態は良くなり、意識が幾分しっかりしてきた。前のように立ち歩いたり、スタッフを威嚇したり暴力をふるったりすることなく、日によって食事も半分くらい自分の手で取れるようになった。意識のはっきりしているときは、以前のようにスタッフと昔話することも可能になった。覚醒状態に波はあるものの、いわゆる「落ち着いて」きた。
 
 先日、ソルティはHさんの昼食介助をしていた。
 自力で食べるのが難しい覚醒レベルであったが、口元までスプーンを運べば口を開けて飲み込んでくれる。Hさんが食事途中に寝込まないよう、棟梁時代の話を適宜振りながら介助していた。
「Hさんのところには何人くらい職人がいたんですか?」
「家一軒建てるのにどれくらいの日数かかりますか?」
(むろん、これまで何度も繰り返して答えを知っている質問である)
 しばらくそんなふうにして恙無く食事は進んでいたのだが、不意にHさんの意識が澄み切ったらしかった。ソルティに力強い視線を送りながら、こう言ったのである。

「で、ここで一体なにをしているのかね?」


「Hさん、食事しているんですよ」
と、まともに答えそうになって、ふとその質問に内包されている意味の重層性に思い至り、手が止まった。
 つまり、

①「俺はいまここでなにをしているのかね?」
  ⇒
ふさわしい答えは、「食事をしているんですよ」である。

② 「俺はここで(この施設で)なにをしているのかね?」
  ⇒介護の教科書的にふさわしい答え(建前)は、「病気を治して家に帰れるようリハビリしているん  ですよ」である。老人ホームも在宅復帰が第一使命である。
 ⇒身も蓋もない本音を言えば、「死ぬのを待っているんですよ」である。身体の障害ならともかく、認知では在宅復帰は難しいのが現状である。よくてもグループホームである。Hさんの進み具合では集団生活はもはや難しいだろう。あと何年あるのか知らないが、死ぬまでホームにいるほかない。

③ 「お前(ソルティ)はここでなにをしているのかね?」
 ⇒「なにをしているんだろう?」
 介護をしている、仕事をしている、生計を立てている、社会貢献している(つもりになっている)、人の老死を観察している、一日が終わるのを待っている、暇つぶしをしている・・・・

④ 「俺とお前は、ここでなにをしているのかね?」
 
⇒「Hさんとソルティはなにをしているんだろう?」
 一方が一方を介護している、介護と報酬という形で互いに助け合っている、介護ごっこ(茶番)をしている、Hさんの最期の時を共に過ごしている、医療制度と介護保険制度に縛られて命をもてあそんでいる、お互いに学びあっている、縁によって出会って業(カルマ)をつくっている・・・・


⑤「(俺とお前を含む)人類は、ここでなにをしているのかね?」
 
⇒「人類はこの地球で一体なにをしているんだろう?」
 生殖活動している、次世代を育てている、欲望を追求している、仕事している、金儲けしている、戦っている、殺しあっている、開発している、他の生物を殺している、環境破壊している、長生きしようと闇雲に精を出している、勢力争いしている、武器を作っている、遊んでいる、助け合っている、良い来世のために修行している、なんの疑問も持たず決められた社会ルールのもとに生きている、目的も分からぬまま破滅するまで生きている・・・・・

 水に落とした墨が広がるように、瞬く間に脳裏に広がった上の5つの問いとその回答に、刹那言葉を失い、軽く目まいした。

銭壷山合宿 055


「おっと、今やることは目の前のHさんの栄養補給だ」
 そう気を取り直してHさんに向き合うと、腹が満ち足りたのか、Hさんはすでにうつらうつら舟を漕いでいるのだった。


  

 

 

● 介護の仕事16  かんてき?

施設介護の仕事に付き物のレクリエーション。
日勤シフトで入ると、午後のおやつ後の約1時間ほどを、ご利用者を食堂の一角に集めてレクリエーションしなければならない。

内容を考えるのも一苦労である。
毎回同じような内容だと、利用者も自分も飽きてしまう。
それに、レクの種類によっては参加できない利用者も出てくる。

たとえば、両腕とも麻痺している人はボールを使ったゲームや風船バレーはできない。
認知の強い人はクイズや脳トレなど頭を使うプログラムに参加できない。
最も多くの利用者が参加できて楽しめるものと言えば、やっぱり歌に尽きる。
童謡や懐かしのメロディーあたりが鉄板レクである。

なので、1時間のプログラムを組み立てる際は、20分ずつ3つに区切り、第1部はボールを使って体を動かし、第2部はクイズで頭を使い、第3部は合唱で気分よく締める、というふうに計画したりする。
これなら、おおむねすべての利用者がどこかで参加することができる。

3つのうちでは、クイズが工夫のしどころである。
難しすぎず、易しすぎず、頭の活性化にもなり、楽しめるクイズを、担当職員たちはいろいろ考えてくる。
ソルティがやったことのあるものを挙げると、

●仲間づくし系
都道府県名をすべて挙げてもらう。ほかにも、東京23区、山手線駅名、花や鳥や木の名前、世界の国名などでもできる。

●読み方当て系
魚偏のつくいろいろな漢字を板書して何と読むか当ててもらう。
木偏、けもの偏でもできるほか、変わった人名や地名、世界各国の漢字表記などでもできる。

●写真を使った系

歴史上の偉人や有名人の顔写真を見せて誰だか当ててもらう。
ほかにも、日本や世界の観光名所、昔の生活道具などでもできる。
準備が必要である。

●言葉遊び系

早口言葉、ことわざ、俳句、しりとり、各地の方言など。
ランダムに並べられた文字(例えば「も・し・こ・う・ろ・と」)をみて、意味のある言葉(正解は「と・う・も・ろ・こ・し」)にするといった、やや高度のゲームも好評。

●五感を使った系

虫(鳥や動物でも可)の鳴き声(関連サイトより)を聞いて何の虫か当てる
目隠しして手渡された品物を当てる。


介護の仕事6年余りで、ずいぶんとレパートリーが増えた。
今やインターネットとプリンターがあれば、いくらでもヴィジュアルで楽しいクイズが創れる。
ノートパソコンとプロジェクターがあれば、シーツをスクリーンにして映写もできる。
便利な世の中だ。

自分なりに考えて下調べして準備したレクが、上手くツボにはまって、利用者が楽しんでくれるのを見るのはうれしいものである。

「亀の甲より年の功」で、逆に利用者から教わることも多い。
認知の利用者の天然そのものの思いがけない回答に笑わされることもしばしば。

面白かったものを紹介したい。

1.ことわざクイズで

有名なことわざを途中まで読んで(犬も歩けば)、あとを続けてもらう(棒に当たる)単純なクイズ。
高齢者は実によくことわざを知っている。(逆に今の若い職員たちの知らないこと!)
時にはこんな楽しい間違いも・・・。


1 魚心あれば → 下心
2 二階から  → ぼたもち
3 雀百まで  → わしゃ九十九まで 
4 目くそ   → 鼻くそ、耳くそ
5 一富士   → 二太郎、三かぼちゃ
6 江戸の敵を → 東京でとる



正解)
1 水心 
2 目薬  ※「棚からぼたもち」と混線
3 踊り忘れず  ※「お前百まで、わしゃ九十九まで」と混線
4 耳くそを笑う
5 二鷹、三なすび  ※「一姫、二太郎」と混線
6 長崎でとる  ※距離的間隔が時間的間隔に変換。これはこれで意味が通るし面白い



2 昔の道具当てクイズで

下の写真は何でしょう?

七輪


昔の人なら誰でも知っている日常生活用品。
レクに参加していた20名ほどの高齢者はいっせいに、

「七輪!」

と正解した。

ところが、ただ一人、Kさん(85歳女性)だけが違う言葉を叫んだ。

「かんてき!」

えっ、なにそれ???

感激?(そんなに懐かしかったの?)
官敵?(ソルティのこと?)

尋ねてみると、彼女は大阪出身で、関西では七輪のことを「かんてき」というのだと。

知らなかった。

そこにいた高齢者の中で、関西出身はKさん一人。
東北や四国や九州出身の人もいたが、みな「七輪」と答えた。
関西人だけが「かんてき」と言うらしい。

ちなみに、「かんてき」には「怒りっぽい人、癇癪もち」の意味もあるが、これはたぶん「すぐに熱くなる」からであろう。
大阪や神戸には何度も行っているし、知り合いもいるのに、はじめて知った。
(「神戸焼肉かんてき」というお店が都内にもあるらしいが、ソルティ、基本的にあえて外食してまで肉を食うことはしない)

Kさんが言うには、「でも、今じゃ、大阪の若い人もよう知らんな」

1960年代頃までは、一般家庭に多く見られた器具ではあるが、高度成長期からの全国へのプロパンガス・都市ガス普及や、熱変換効率が高い電磁調理器の登場によって、家庭での実用目的での利用はほとんど見られなくなった。(ウィキペディア「七輪」より)




● 介護の仕事17 現場を離れて (開始6年4ヵ月)

6年4カ月勤務した老人ホームを退職した。
現在、無職。
M78星雲に無事帰還した。

星雲2


辞めた一番の原因は肉体的限界である。
6年あまり酷使ししてきた腰、膝、肩の痛みが、もう誤魔化しようなくなった。
とくに、ここ1年程で急激に悪化した左肩の痛み。
左腕を床と水平以上に挙げると鈍い痛みが走る。
トイレの高い棚に置いてある介護用品(オムツパット)を腕を伸ばして取ろうとすると、ズキンッと鋭い痛みが走る。
思わず新しいパットを便器の中に落としてしまったこと数回(ヒミツ)。
五十肩の兆候である。
(ツクシさん、奇遇です)

10年ほど前に四十肩をやったことがあり、その苦しみはいまも忘れていない。
早めに治療すれば良かったのだが、自然治癒するだろうと高をくくって悪化させてしまい、四六時中痛むようになった。
重い荷物が持てない。
列車の吊り革がつかめない。
頭を洗えない。
頭から被るタイプの上衣が着られない。(前開きのシャツばかり着ていた)
夜も痛くて眠れない。
地蔵化した子泣きジジイが24時間肩に乗っている感じだった。
それが半年以上続いた。

今回も、ほうっておけば悪化の一途をたどることは目に見えている。
早めの治療が必要だ。
が、通院したところで、介護の仕事を続ける限りは治療効果は期待できまい。

しばらく休暇を取る?

痛みは消えるかもしれないが、仕事を再開したら同じことだ。
老後はきっとつらいことだろう。
無理して働けば、そのうち修復不可能なほど、肩や腰や膝を毀してしまうかもしれない。
自分の体だけならまだしも、利用者を抱え損ねてケガさせてしまうかもしれない。

また、一年くらい前から存在を主張してきたモロボシダン病もここ数カ月で本格化してきた。
健康診断や脳ドックで異常は見つからなかった。
とりあえずホッとしたけれど、原因が特定されないのもかえって気味が悪い。
さまざまな症状から素人判断するに、自律神経失調症じゃないかと思われる。
精神的な要因である。

元来、ソルティはストレスに弱い。
12年ほど前に耳鳴りとめまいが続いたことがあり、そのときはメニエール病の可能性を示唆された。
原因は「ストレスだろう」と医者が言った。
たしかにその時期は、職場の人間関係のゴタゴタで、ストレスフルな日々であった。
治療薬が効いたのか、ゴタゴタが収束したためか、そのうちに耳鳴りは治まった。
メニエールではなかったのだろう。
今回のモロボシダン病は、おそらく「ストレス+更年期障害」が原因だろうと思われる。
更年期障害は仕方ない。
半世紀以上生きてきたのだから。
(ソルティが20代の頃、今のソルティの年齢でもう定年=余生だった!)

問題はストレスである。

これまで介護の仕事をして、あんまりストレスを自覚したことはなかった。
仕事を覚えるまではもちろん精神的プレッシャーは多々あったけれど、いったん仕事を覚えて、フロアをまずまず穏便に回せるようになってからは、むしろ楽しい日々であった。
ご利用者との会話は楽しいし、認知症高齢者の介護は自らのコミュニケーション能力を磨く絶好の機会となってチャレンジングであった。
何より彼らの突拍子もない言動が面白くて、大いに笑かしてもらった。
観察眼の鋭くなってきた結果、自ら異常を訴えられない利用者の熱発や便意や発疹などをいち早く発見し、医療職に報告し然るべく対応できた時など、「自分はこの仕事が合っている!」と内心誇らしく思った。
職場の同僚もいい人ばかりで、介護現場でよく聞く派閥争いやイジメはなかった。(自分が気づかなかっただけかもしれないが)

加えて、ソルティは多趣味である。
山登り、寺社巡り、家庭菜園、クラシック鑑賞、落語、読書、映画、芝居、ボランティアやデモ、乗り鉄、資格試験にチャレンジ、こまめなブログ更新・・・・・・我ながら活発である。
職場をいったん離れたら、仕事のことはほとんど頭になかった。
そのうえに、何と言っても自分には仏教がある。
仏教という生きる糧、仏法という心の礎、瞑想修行という生き甲斐があるので、日常(=俗世間)のこまごましたことは、「どうでもいいや」と内心思っている。
仕事も人間関係も決していい加減にするわけではないが、やるだけやって上手くいかなくても、それはそれで仕方ない、別に深刻に思うほどのことではない、と思っている。
どちらかと言えばストレスとは縁遠いと思っていたのである。


夏空


一方、心のどこかで「だいぶ無理してるな」と感じているところもあった。
それは、介護の仕事5に書いたことに関係する。
そこでは、介護の仕事をはじめて10ヵ月したところでソルティが感じた違和感を挙げている。
  1. 利用者が「外に出られない」ということ
  2. 利用者が「好きなものが食べられない」ということ
  3. 利用者が「始終監視される、あるいはプライバシーがない」ということ
  4. 利用者が「好きな時に起床できない、横になれない」ということ
  5. 利用者がリハビリする意味について
  6. 利用者が「暇をもてあます」ということ
  7. 介護者であるソルティが「嘘をつくこと」について

施設の外の世界(一般人の生活空間)と施設の中の世界(介護生活空間)とは勝手が違う。
外の世界の「あたりまえ」が中の世界では通用しない。
中の世界の「常識」が外の世界では「非常識」。
当初、そのギャップに強烈な違和感を持った。
「これでいいのだろうか?」「これしかないのだろうか?」という疑問を抱いた。
が、最近はそれが薄れている。
施設の「あたりまえ」がだんだんと自分の「あたりまえ」になってきているのを感じる。


簡単に言えば、ソルティははじめて老人ホームに入って介護の仕事を始めたときに、非常なカルチャーショックを受けたのであった。
「こんなのまともな人間の生活じゃない!」
「何十年も家族や社会のために尽くしてきた人間の最期がこれなのか!? これしかないのか!?」
と半ば同情し、半ば義憤にかられたのである。
ところが、上記のように、歳月を重ねるごとに違和感がだんだんと薄れてきて、6年たった時点ではまったく感じられなくなっていた。
中の世界の「常識」が、すっかり介護者である自分の「常識」になってしまった。
「洗脳された」「流された」ということだろう。

もっとも、上記のような不自由な境遇に置かれている利用者に対し、「少しでも安楽に過ごしてもらおう。」「日々の生活を楽しんでもらおう」と、それなりに心がけたつもりではある。
他の職員よりは積極的に利用者と会話するよう努めたし、いろいろなレクリエーションを考案し少しでも楽しい時間を持ってもらおうと骨折った。
介護そのものも、機械的・事務的にならないように、目の前の利用者とコミュニケーション取りながら、できる限り丁寧にやってきたつもりではある。
幾人かの利用者とは心の通う関係がつくれたと自負している。
現場の雰囲気も、利用者の表情も、ソルティが働き始めたときより格段と良くなったと感じている。(これはもちろんソルティひとりの力ではない。)

しかし、やっぱり限界はある。
というのも、「自分の親をこの施設に入れたいか?」「自分が年とった時にこの施設に入りたいか?」と問われたときに「YES!」と自信をもって言えないのは、開始10ヵ月の新人のときも、6年以上経ちベテランと呼ばれるようになった現在も、変わってはいないからである。
勤めていた施設が悪いからではない。
これは、施設介護の限界であり、いまの介護保険の限界であり、我が国の少子高齢化対策の失敗の結果であり、日本の社会福祉政策の貧弱さの露呈であり、家族や地域の力が弱体した帰結であり、現代日本人の死生観の空洞化の表れなのである。
すなわち、何十年も家族や社会のために尽くしてきた人に、本人が望むような最期を提供できていない、あるいは少なくとも、本人が望まないような最期を提供しないことができていない――ということだ。

砂の城


当初感じた強烈なカルチャーショックや違和感に蓋をして、「まずは同僚に迷惑かけないよう仕事を覚えるのが先決だ」と心の底に封じ込めてきた結果が、5年過ぎたところで自律神経失調症となって浮上したのではあるまいか。

実際、利用者がトイレで用を足しているまさにその最中に、ドアを開けて入っていくことにあれほど抵抗を感じた自分であったのに、今では半開きしたドアの敷居に立って、トイレの中の利用者を見守りながら、同時にフロアにいる転倒リスクの高い利用者を見守ったりしている。(それもこれも、数十人を見守るには職員数が足りないからだ。)
要領が良くなった、仕事のコツを覚えたと言えば聞こえはいいが、高齢者の「尊厳の保持」という介護保険の理念からすれば、「???」であろう。

そもそもソルティの前職は、人権関係のNGOだったのである。
当時自分があちこちの学校の講演で生徒たちに偉そうに話していたことと、介護現場で自分がやっていることとのギャップは、何よりも自らの心に隠しようもない。

ここいらで少し、現場を離れてみることが必要なのかもしれない。
いろいろな体の不調はそのことを告げているような気がする。

――というわけで退職を決めた。

PA080274


6年4カ月の介護の仕事を一言で振り返ると、「面白かった!」というに尽きる。
介護という仕事の奥深さややりがい、さまざまな人生を歩んできた高齢者との出会い、利用者と家族とが織りなす人間模様の綾、相談員や看護職やリハビリ職との連携、自分の様々な経験や特技がじかに活かされる現場、不穏な利用者など困難なケースを同僚たちと頭をひねって対策を講じ、なんとか乗り越えた時の達成感・・・。

思った以上に介護職が、現場が、性に合っていた。
お世話になった方々には感謝するばかりである。


P.S.
現在、鍼治療に通っている。
初回に院長に体を触診してもらった時に、「どこもかしこもコンクリートのよう」と言われた。
ツボ押しの痛いこと。
鍼のズドンと地鳴りのように響くこと。
体が一斉に悲鳴を上げた。
というか、文字通り喉頭から悲鳴が上がった。
やっぱり、限界だったのだ。


石のバランス



 
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