ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●雑記

● なんなら、奈良13(奈良大学通信教育日乗) 民俗学の周辺

 4月中旬に提出した民俗学のレポートが早、返って来た。
 「奈良大学通信教育学部 文学部 文化財歴史学科」の名が表に入っている角2封筒を開ける瞬間、年末ジャンボの当選番号を確かめる時のように、ドキドキする。
 自分なりに精一杯がんばって書いたつもりではあるが、「設題意図を誤って理解していたかもしれない」、「オリジナリティが足りなかったもしれない」、「引用が適切でなかったかもしれない」、「誤字脱字が多かったかもしれない」などとマイナス面をいろいろ考えて、「再提出」の可能性を思ってしまうのだ。
 封筒を自分の部屋に持ち帰って、心を落ち着けて封を切った。
 「合格」だった

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 これで民俗学も単位修得のための筆記試験にのぞむことができる。
 このゴールデンウィークは、前半こそ3日間の奈良旅を満喫したが、後半はほぼ毎日図書館に通い詰めて、民俗学の勉強に明け暮れた。
 というのも、テキスト科目は、レポートを提出したら完了というわけにはいかないからだ。
 修得試験に出される5つの設題――あらかじめ提示されている――について、試験当日5つの設題のうちからどれが出されてもいいよう、解答を用意して、試験当日までに暗記しておかなければならない。
 つまり、テキスト科目の単位を取るためには、3200字(2単位)あるいは6400字(4単位)のレポートを1本と、1000字~1400字くらいのレポート5本を作成しなければならない。
 1教科につき都合6本のレポートを作成しなければならないわけで、これがなかなか大変なのである。(2026年4月からは修得試験の出題が10題からの選択になるようだ。戦々恐々

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 ほとんどの教科は、大学から送られてきたテキストとサブテキストをしっかり読んで、それを要約することでレポートを仕上げることができる。
 通信教育も大学の講義には違いないので、先生の日常の講義(=テキスト内容)をどこまでちゃんと理解できているかが問われるのである。
 そこを勘違いして、生徒がテキスト内容とは異なる自分なりの発想や斬新な説を打ち出したレポートを提出して見事に撃沈――という例が結構多いという話を、昨年、奈良学友会関東支部による学習相談会に参加したときに先輩方から聞いた。
 不合格という結果を受け入れ難くて、同じような内容で何度もトライしてそのたび突き返される、あたかも講師と紙面上でバトルしているような生徒さんもいるらしい。
 我々は院生でも博士課程でもないただの学部生なので、まずは教科内容の基本的理解が大切なのである。
 と言って、テキストやウィキペディアの丸写しやChatGPTにたよるのは論外であろう。
 テキストを読み理解した内容を“自分自身の言葉で”いかに表現するか、というところがポイントなのではないかと思う。

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 そのあたりの塩梅を飲み込みながら、ここまでレポートを作成してきたのだが、民俗学の場合、ちょっと違った。
 レポート課題も修得試験の設題も、(サブ)テキストの要約では全然どうにもならないものばかりだった。
 自分で課題を選んで、テキスト以外の関連図書を探して、それを熟読し、読み手にわかるように簡潔にまとめ上げなくてはならないのだった。
 たとえば、修得試験の5つの設題のうち2つは次のようなものである。
  • 盆行事について民俗調査し考えたことを述べよ。
  • 民話・伝説を民俗調査し報告し考えたことを述べよ。
 「それぞれ民俗文化(伝承文化)の具体例を観察して、自分の文章にて報告しなさい」と、講師からの注意書きがついている。
 つまり、日本国内に無数にある地域固有の盆行事(あるいは民話・伝説)からどれか一つを選んで、それを観察して報告しなさい、ということである。
 実際には、我々素人が、民俗学者やプロアマ問わない民俗研究家らによる専門的調査の手がいまだ入っていない盆行事や民話・伝説をこれから見つけ出して、一から調査するのはまず簡単ではないので、「民俗調査した報告書からとりあげても構わない」という。
 そこで、埼玉県民であるソルティは、埼玉県各地の盆行事や民話・伝説を最寄りの図書館で調べ、自分が興味を持った対象を選び、それについて書かれた民俗資料を探し出して目を通し、自分の言葉でまとめた。

 秩父ファンのソルティは、秩父のA村で戦国の頃より行われてきた盆行事と、B村で伝えられてきた妖怪伝説を選んだ。
 これらを調べる作業は実に面白かった。(試験には出題されないかもしれないが)
 ソルティは趣味の山歩きの際にB村は通りかかったことがあり、くだんの妖怪伝説あるのを知っていた。が、秩父の山奥にあるA村には行ったことがない。
 せっかく調べたのだから、いつの夏にかA村に行って盆行事を見学する機会があればと思うのだが、過疎化と少子高齢化でA村の盆行事も年々縮小されている様子がうかがえる。存続の危機にある。いや、A村自体、廃村の可能性無きにしもあらず。
 早く行かないと見る機会は永遠に奪われてしまうかもしれない。

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 民俗学というのは別に、戦前の古い時代の民俗のみを対象とする学問と決まっているわけではない。
 常光徹著『うわさと俗信 民俗学の手帖から』(河出書房新書)のように現代の都市伝説を対象としてもいいし、なんなら日活ロマンポルノを手掛かりに昭和時代の性風俗や男女のセクシュアリティのありようを調べてみるのもありだろう。
 現代民俗学という言葉もある。
 ではあるが、何百年も続いてきた地域の行事が次々と消えていく現状をみるに、柳田国男が創設した民俗学というものが、まるで、戦前まで綿々と続いてきた日本の伝統文化や民俗の“待ったなしの記録保存作業”であったかのように思われるのだ。

 ともあれ、民俗学の6つのレポートは完成した。
 これから、ここまでにレポート通過した4つの科目の試験勉強に入る。
 ひとまず小休止。

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● なんなら、奈良12(奈良大学通信教育日乗) カンムリワシの暗号解読

 入学して2週間後、履修登録した科目のテキスト数冊が家に届いたとき、パラパラと中味を見て、いちばん手強そうと思ったのは『古文書学』であった。
 博物館で展示されている古文書の巻き物なんかを少しでも読めたらカッコいいじゃん、と思って履修登録したのだが、あまりに内容が高度過ぎる!
 『日本人の手習い 古文書入門』なんて、いかにも易し気にうたっているけれど、まったく入門レベルではない。

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テキスト教材

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古文書の例
(上のテキストとは関係ありません)

 ソルティのようなまったくの古文書ビギナーと、このテキストが想定している読者の間には、河岸段丘のごとき数段のギャップが存在する。
 とうてい読みこなせるものではない。
 しかも、事前に大学から送られた科目修得試験の設題集――あらかじめ出題された5つの問題の中から、試験当日いずれか1題が出題される。つまり、5題すべての回答をあらかじめ準備して記憶しておく必要がある――を見ると、ミミズがのたくったような墨書きの文章が載っていて、「これを楷書に書き改めて解説しなさい」とある。
 いやあ、無理無理、カンムリワシ(完無理ワシ)。

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LapinVertによるPixabayからの画像

 テキストを読めるレベルに達するためには、ほんとにほんとの初心者入門レベルから始める必要があると思い、図書館でその手の本を探し出し、他の教科の勉強をする合間に少しずつ読んできた。
 4,5冊くらい読んだろうか。
 とにかく、旧仮名遣いに馴れなければならないわ(たとえば「ちょうちょう」でなくて「てふてふ」)、漢字も現在は使われていない異体字が多いわ(たとえば「」でなくて「體・躰」)、候(そうろう)文や証文独特の堅い言い回しには面食らうわ、高校の漢文の授業を思い出させる返り点(レ)や「一・二点」が必要な文章が頻繁に出てくるわ、同じ日本人が書いた文章とは思えない。
 たとえ楷書で書かれていたって、読み解くのは難しい。(現代のアメリカ人やフランス人は200年前の同国人の書いた文章を難なく読める。日本人はそれができなくなってしまった。恐ろしいことだ。)
 そのうえに、くずし字である。
 厄介なのはくずし方は一様でなく、一つの漢字(たとえば「御」という字)にいくつものくずし方があるところ。
 「一体全体、どうやったらこれを“御”と読めるの?」と思うようなものも多い。

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「御」のくずし字の例
(柏書房『新編 古文書解読辞典』より)

 それでも今のところ面白く学習できているのは、昔読んだコナン・ドイル作のミステリー短編『踊る人形』を思い出すからだ。
 名探偵シャーロック・ホームズが、踊る人形の絵が並んでいる暗号文を、論理的思考によって見事に解読していく物語である。
 そう、古文書を読むのは暗号解読に等しい。


踊る人形
暗号文書
 ビギナー本を数冊読んだところで、「やっぱり、独学だけじゃ駄目だ。専門家から実地で習わないと進歩しない」
 そう思って、ネットで古文書講座を探したところ、千代田区の日比谷図書文化館(日比谷公園内にある)で「古文書塾てらこや」なるものが開催されていた。
 まずは体験講座を受けてみたら、これがなかなか面白かった。
 そのまま4月からの入門コース(全5回)を申し込んだ。
 いま、通い始めたところである。

 驚いたのは、古文書学習はとても人気があり、受講者が多い。
 一教室40名近い。
 ひょっとしたら、今やっているNHK大河ドラマ『べらぼう』が江戸時代の本屋の話で、毎回くずし字満載の古文書が画面に映し出されるからなのかもしれない。 
 配布された古文書のテキストを先生と一緒に読んでいると、なんだか少し読めるようになった気がするのだけれど、気のせいである。せいぜい「完無理ワシ」の「完」が取れたくらいか。
 ただ、古文書学習は抵抗感を解くのがまず先決で、「習うより慣れろ」が正解――ということを察しつつある昨今である。

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日比谷公園

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日比谷図書文化館


P.S. 実はTOPPANN(株)が古文書解読アプリ『古文書カメラ ふみのは』を開発している。スマホのカメラで解読したい古文書資料を撮影すると、コンピュータが自動的に解読してくれる。(1日30回まで無料) 精度70%という。なんたる福音! IT革命、ここにあり。


● なんなら、奈良11(奈良大学通信教育日乗) 入学半年後の雑感

 入学して半年がたった。
 ここまでをふりかえる。
  • 単位取得 2科目
    文化財学演習Ⅰ、文化財学購読Ⅱ(いずれもスクーリング)
  • レポート合格 3科目
    平安文学論、文化財学購読Ⅰ、美術史概論(いずれもテキスト科目)
 レポート合格した3科目は、5月から始まる修得試験に合格することで、単位取得となる。
 今年度(9月末まで)の目標として、スクーリング3科目、テキスト5科目の単位取得を掲げているので、いまのところ、まずまず順調に推移と言っていいように思う。
 テキスト科目の筆記試験通過がどのくらい難しいかが、後半の鍵を握りそうだ。
 最初に提出した平安文学論のレポートでいきなり「再提出」を喰らったものだから、この先どうなるものか危ぶんだけれど、冬のスクーリングで会った仲間たちの噂話から、平安文学論は「採点がなかなかきびしい」科目として知られているようなので、2回で合格はむしろ寿ぐべきことなのかもしれない。
 現在、4科目目の民俗学に取り組んでいるところである。

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 ふりかえると、やはり、奈良でのスクーリングの愉しさが印象に強い。
 自宅でのテキスト学習で新しい知識を得ることはもちろん面白いし、いろいろな文献を渉猟しながら幾度も推敲を重ねレポートを仕上げていく過程も、“物を書く喜び”を満たしてくれる。
 が、斯界のプロフェッショナルによるライブ講義は、生涯を調査や研究や教育に捧げた人間の情熱や人となりや深い教養にじかに触れるぶん、学ぶことの喜びが大きかった。
 これがZOOM講義ではやはり味気なかったろう。コロナ禍の学生たちにはお気の毒であった。(この先、同じような疫禍のないことを祈る)
 また、全国から集まった仲間たちと同じ時と空間を共有できたことも、モチベーションを高めるのに役立った。
 文化財歴史学に興味を持つ人の特性なのか、コロナ禍の“無言行”を引きずっているためなのか、いったいにもの静かな人たちの集まりという印象を受けたけれど、言動のはしばしに向学心の高さや人生経験、それに第二の人生を学びによって楽しもうという意気込みが感じられ、さすが平均年齢60歳の大学生たちと、親しみとともに頼もしく思った。奈良愛は言うに及ばず・・・。
 
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東大寺南大門

 もともと奈良の古い仏教文化をもっと知りたいなあ~というところから始まったチャレンジであるが、学べば学ぶほど、現地に通えば通うほど、奈良愛が高まっていき、いろんな遺跡や社寺や仏像を訪ね、その偉大さや美しさを味わい、来歴を調べ、謎の解明を自分なりに図りたくなる。
 皇族や貴族から、僧侶や官僚や庶民、渡来人、奴婢にいたるまで、いにしえの日本人の“物語”に思いを馳せたくなる。
 この半年でつくづく思ったが、ひとつのことを学ぶと、それに関連したことが気になって、調べたくなってしまう。
 いまはインターネットという便利なものがあるから、ある程度の知識や情報は即座に手に入れることができる。(ただしネット情報は玉石混交で間違いも多いことは踏まえておく必要がある)
 ネットのない時代はいちいち事典や本を探して調べなければならなかったのだから、ほんと学習者には便利な時代になったものである。
 ネット情報だけでは飽き足らないものについては、関連本を検索し、図書館で借りることになる。(読みたい本が増えて困る

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三角縁神獣鏡

 ある程度の年齢になってから人文系を学び直すことの面白さは、数十年間の社会生活で身に着けた知識や雑学、経験や世間知、多角的なモノの見方が、それなりに生かされるところにあると思う。
 十代の頃は、教科書の内容をテストに備えて覚えるだけで精一杯で、紙背にあるその時代を生きた日本人の価値観や死生観や喜怒哀楽を洞察するところまで、なかなか行かなかった。
 歴史、国語(古文・漢文)、美術、音楽、地理、倫理社会などの教科も、それぞれが脳の別々の場所に収納されるばかりで、各教科で学んだことを連関させて、より包括的な視点から時代を見るには、脳のモジュールが未熟であった。
 また、社会人となってから読んだ本、観た映画、旅の記憶、友人や年輩者から聞いた話、日々の仕事やプライベートにおける様々な経験などがタグとなって、歴史を机上だけの狭いものから、自らの人生上の出来事に照合させながら理解を深められる生きたドラマとして体験できる。

 そうやって学んだ先に何かあるのか?――と聞かれたら、「別に何もない」と答えるほかないのだけれど、知的快楽は肉体的快楽や心理的快楽より、自分にとっても他人にとっても害が少ないのではなかろうか?
 学びの旅には終わりがないし、たいして費用もかからないし、一人でもできるし、認知症予防にもなるので、老後の暇つぶしには最適だと思う。 

 いまの望みは、奈良と京都の中間に家を借りて長期滞在し、心ゆくまで両都を探索することである。
 ――って、まずは単位をとらなけりゃな。

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奈良大学キャンパス






 

● 映画:『ふんどし医者』(稲垣浩監督)

1960年東宝
115分、モノクロ

 神保町シアター開催中の『没後10年 原節子をめぐる16人の映画監督』にて学生料金1000円で鑑賞。
 森繁久彌が田舎の宿場町の心やさしき医者を演じる、いわゆる「赤ひげ」物。
 原作はユーモア小説家の中野実(1901-1973)。

 舞台は江戸時代末期の東海道嶋田宿。現在の静岡県島田市の大井川沿岸である。
 「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ 大井川」と詠われた東海道きっての難所。大雨で水かさが増せば、何日もこの地で足止めを喰らうのが旅の常だった。
 川岸にはふんどし一枚の川越人足たちが蝟集し、威勢のいい掛け声は松林の彼方にそびえる富士山にまで届くかのようである。

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歌川広重作「東海道五十三次・嶋田」

 ふんどし医者という異名は、森繁演じる小山慶斎がいつも身ぐるみ剝がされ、ふんどし一丁で賭場から帰って来るからである。
 と聞くと、博打好き酒びたり女房泣かせのやぶ医者というイメージを抱きかねないが、実は慶斎先生、長崎でシーボルトに医術を学んだ秀才で、本来なら江戸で将軍様の御殿医になれるほどの腕の持主。
 若い時分に、親友の池田明海とともに長崎で修業し、江戸に帰る道中、嶋田で足止めを喰らったのがきっかけで、貧しい庶民のために働くことを決意したのである。
 そのとき長崎から明海を追ってやって来たのが、原節子演じる小山いく。
 嶋田宿で庶民のために身を粉にして働く慶斎の姿を見た彼女は、心変わりし、慶斎の妻となった。
 彼女の唯一の趣味は博打。慶斎が身ぐるみはがされるのは、いくが負けてばかりだからなのである。
 慶斎は文句ひとつ言わず、博打に興じるいくを肴に、楽しそうに酒を飲む。

 仲のいい中年夫婦を中心に、やくざから足を洗って医師を志望する半五郎(夏木陽介)、彼を一心に慕うお咲(江利チエミ)、慶斎を江戸に呼び寄せたい明海(山村聰)らが加わって、ひと騒動持ち上がる。
 賭場の貸し元に志村僑、庶民の婆さんに菅井きんが顔を出し、華を添えている。
 笑いあり、涙ありの楽しい人情喜劇で、なによりロケが素晴らしい。
 いまやCGでしか再現できない、ひと昔前の貴重な日本の風土がある。

 喜劇役者としての森繁の良さが十分引き出されている。
 弟子にするはずだった半五郎は、長崎や上海で修業している間に最新の医術を身につけ、嶋田に戻った時には一人前の医師となっていた。江戸から求められるのは、もはや慶斎ではなくて半五郎だと知った時の慶斎の複雑な気持ちを、森繁は絶妙に演じる。
 やっぱり、名優だなあ~。

 夫を助けるために自らの貞操を賭けて勝負する原節子の真剣な眼差しにはぞくっとさせられる。
 原は洋風なイメージ強いが、山中貞雄監督『河内山宗俊』(1936)など、時代劇も結構似合ったのではないかと思う。
 山中が長生きしていれば、間違いなく原節子の別の一面が引き出されたであろうし、早すぎる引退も避けられていたかもしれない。
 どんな役をやっても原の品格だけは隠せないことが、ここでも証明されている。
 森繁とのコンビも意外にも合っている。 

 『山の音』に引き続き、山村聰が登場。
 どちらかと言えば地味な役者ではあったが、『東京物語』、『楊貴妃』、『人間の條件』、『瘋癲老人日記』、『日本のいちばん長い日』、『トラ・トラ・トラ!』など、幅広い役がこなせる真の名優であった。
 この人の特集を組んだら、その凄さは必ずや世人に伝わるだろう。

 個人的には、森繁久彌のふんどし姿よりも、川越人足のふんどし姿のほうがインパクト大であった。
 あれだけ沢山の男の裸のケツがスクリーンいっぱいに揺れ動くなど、いまや考えられない。(そう考えると、NHKの相撲中継って凄いな)
 令和天皇も学習院時代の水泳授業でふんどし体験しているはずである。
 三島由紀夫の最期もふんどし。
 武田久美子や宮沢りえのふんどしが社会現象になったこともあった。 
 日本のふんどし文化って奥深い。

 大阪万博を盛り上げるアイデアとして、日本の伝統文化をアピールするためにスタッフ全員ふんどし着用、来場者はふんどし神輿体験もできるという企画はいかがだろう? 

西大寺裸祭り
岡山西大寺の裸祭り
Mstyslav Chernov/Unframe/http://www.unframe.com/ - 投稿者自身による著作物,
CC 表示-継承 3.0, リンクによる画像




おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損







● 沼 本:『激変! 日本古代史 卑弥呼から平城京まで』(足立倫行著)

2010年朝日新聞出版新書

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 著者は1948年鳥取生まれのノンフィクション作家。
 『北里大学病院24時 生命を支える人びと』、『アジア海道紀行』、『妖怪と歩く ドキュメント・水木しげる』など、さまざまなテーマを取材し、本を書いている。

 本書は、邪馬台国と卑弥呼、『日本書記』と古代天皇の信憑性、古代東国の中心地だった上毛野(群馬県)、聖徳太子虚構説、大化の改新の真相、伊勢神宮誕生の謎など、古代史で議論沸騰しているテーマについて、著者の興味が赴くまま現地取材を重ねながら、最新(と言っても2010年時点であるが)の動向をレポートしている。

 文献が少なくて考古学的情報に頼らざるを得ない古代史は、いろいろな説が立てやすいので、教科書に落とせる最大公約数的レベルから、突飛ではあるが容易に反論もしにくい“トンデモ”レベルまで、ほんとうに「沼」なのだなあと思った。
 その時代の権力者の意図が反映されている『魏志倭人伝(三国志)』や『日本書記』や『古事記』、神社やお寺の由緒を語る寺社所蔵の古文書や古記録などを、どこまで信用するかで、描き出される古代の姿はずいぶん異なってくる。
 1万円札の肖像として親しまれ日本人なら誰でもその存在と立派な事績の数々を疑わなかった聖徳太子が、後世(天武・持統・文武天皇の頃)につくられた虚構であるなんて、いまさら言われても・・・・。
 本書では(懸命にも)取り上げられていないが、日本人とユダヤ人の先祖は同じだとする「日ユ同祖論」を真面目に論じている学者先生もいるらしく、ひょっとしたら、伊勢谷武も『アマテラスの暗号』をフィクションとして書いたのではないのかもしれない。

キリストの墓
青森県三戸郡新郷村戸来にある伝キリストの墓

 ソルティが某出版社に入社したばかりの40年近く前の話。
 某大学教授がアポなしで編集部に現れて、手書きの原稿を持ち込んだことがあった。
 自分が発見した真実を発表したいので本にしてほしい、と言う。
 最初に受け付けたソルティは、先生を応接室に案内すると、先輩社員につないで対応をお願いし、そのまま同席して話を聞いた。
 先生が発見した真実とは、「日本語と英語はルーツが同じ」というものであった。
 日本語はウラル・アルタイ語族に属し、英語はインド・ヨーロッパ語族に属すと、大学の言語学の講義で習っていた――日本語の起源に関する現在主流の学説はこれと異なるようだ――から、ソルティはびっくりした。
 なかば興奮しながら滔々と語る先生は、日本語と英語のルーツが同じである「証拠」として、自ら作った一覧表を見せてくれた。
  •  英語:Name(ナメー)= 日本語:名前 
  •  英語:Hire(ハイヤー)= 日本語:はいや(車を止めるときの掛け声)
  •  英語:Don’t mind(ドント・マインド)=日本語:どんまい
  •  英語:Laugh(ラフ)=日本語:わらふ
  •  英語:Tower(タワー)=日本語:塔(たふ)
  •  英語:Typhoon(タイフーン)=日本語:台風(たいふう)
  •  英語:Kill(キル)=日本語:斬る
  •  英語:Road(ロード)=日本語:道路
  •  英語:cold(コールド)=日本語:凍る度、凍る土
 ・・・・・・e.t.c.
 
 ××大学××学部教授と書かれた名刺を見返すとともに、丁重に如才なく応対する先輩社員の姿に、「社会人とはこうしたものなのか」と感心したのであった。



おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● レンタルサーバーありますか?

 先日職場で話題になったことに、「仕事を当日急に休むことになった場合の連絡を、LINEやメールでするのはありか?」というのがあった。
 たとえば、朝起きたら体調が悪くて職場に行けそうにないとか、家族のことで今日中に対処しなければならない用事ができた、なんて場合。
 アラ還のソルティ、および50代以上のスタッフは、「やっぱり、常識として電話ですべき」と言ったが、40代のスタッフは、「電話でもLINEでもメールでもかまわないと思う」と言う。
 30代以下のスタッフが今のところいないので、平成生まれの意見は得られなかったのだが、ネットなど見ると、「LINEやメールでもかまわない」どころか、休む理由ごとの模範メールのテンプレートまでできている。
 普段から電話よりLINEによるコミュニケーションが普通で、業務電話をかけるのに慣れていない若者にしてみれば、「なんでLINEやメールじゃダメなの?」と思うのも無理はない。
 実際、なんでLINEやメールはダメで、電話じゃなくちゃいけないのかを、十分な説得力をもって説明できる旧世代は多くないだろう。
 「昭和このかた、ずっとそうだったから」
 「上司にそう教えられたから」
 「欠勤するのに楽をしてはいけないから」
 「電話じゃないと、本当に具合が悪いかどうか判断つかないから」
 「社会人としての常識だから」
 「LINEやメールだと、上司が見落とす可能性があるから」
 ・・・・e.t.c.
 いずれもすぐさま論破できるような理由ばかり。
 逆に、自分がコロナ罹患したときに思ったのだが、「高熱が出て、のどが痛くて喋るのがしんどくて、すぐにでも横になりたいのに、上司が出勤する9時ちょっと前まで頑張って起きていて電話しなくちゃならない」理不尽さは、ほとんど罰ゲームとさえ思った。
 そんな会話を横で聞いていた事務所のリーダーが、「別に自分はメールでも気にしないよ」と言ったものだから、今までの欠勤電話をかける際の決まり悪さはいったい何だったのか――と脱力した。

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 それからは、当日の休みの連絡はショートメールで済ませている。
 就業開始時刻に関係なく、「今日は休もう」と決めた瞬間にメールを送る。
 リーダーがちゃんと読んだかどうかだけは、あとでチェックする必要があるが、具合が悪い時などはメール一本送りさえすれば、すぐさま枕に頭をつけて眠ることができるので、助かる。
 もっとも、自分が担当している仕事に関して不明なことがあったとき、職場からメールで問い合わせが来るのは覚悟しなければならないが。
 職場の中に、インターネットやスマホに馴れた若い世代が増えれば、かつての常識も過去のものになる。
 昭和世代はどうしても「仕事で楽をしてはいけない」という求道的あるいは体育会的精神があるのだけれど、楽に仕事して成果が上がるのなら、それに越したことはない。

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 先日、月に一度の泌尿器科受診があり、待合室で待っていた。
 20代くらいの金髪の青年がソルティの前の席に座っていた。
 落ち着かない様子でスマホをいじっている。
 作業服のようなものを着ているところを見ると、仕事の途中で抜け出してきたのだろうか?
 と、おもむろに立ち上がって受付に行くと、窓口の女性にこう尋ねた。
 「ここって、レンタルサーバー、ありますか?」
 窓口の女性は一瞬びっくりしたようだったが、
 「申し訳ありません、そういうのは置いていないんです」と答えた。
 青年は座席に戻って、またもやスマホをいじり始めた。
 
 この一連の会話の意味がソルティおじさんにはまったく理解できなかった。
 レンタルサーバーが泌尿器科に置いてある、というのは、どういう発想なのだろう?
 IT音痴のソルティの乏しい知識では、サーバーってのは、ライブドアとかBIGLOBEとかAmebaとかXREA(エクスリア)とかlolypopといったIT系企業が保有している大型で大容量で高性能のパソコンのことであり、スマホやディスクトップなど個々のパソコンを持つ個人は、企業のサーバーの一角を間借り(レンタル)することで、個人ブログを立ち上げたり、専用のメールアドレスを作ったりできる。いわば、大家さんみたいなものだ。
 だから、IT企業の受付で、「お宅にレンタルサーバー、ありますか?」と聞くのなら、話は分かる。
 町の小さな泌尿器科にレンタルサーバーがあると思う青年の思考が不思議であるし、それを平気で尋ねられる神経がうらやましい。
 それとも、ソルティの聞き違いであって、泌尿器系に悩んでいる青年は、「メンタルサービス(精神的援助=カウンセリング)ありますか」と聞いたのだろうか?
 あるいは、青年はほんとは、Wi-Fi(ワイファイ)があるかと聞きたかったのだろうか?
 あるいは、ソルティが知らないだけで、最近は普通の店舗や医療施設でもレンタルサーバーを持つところが登場しているのだろうか?

 Z世代とのジェネレーションギャップを思いながら、泌尿器科を出て、薬局で薬をもらい、帰り道にあるカフェに寄った。
 通信教育のテキストを開いて、2時間ほど過ごした。
 空のコーヒーカップを乗せたお盆を返却口に戻すとき、柱の下に設置してある器具に気づいた。
 最近、あちこちに見かける器具であるが、ソルティは用途が分からず、利用したこともなく、注意して見たこともなかった。

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 器具に括り付けられている使用説明書を読んでみたら、スマホのレンタル用モバイルバッテリーだった。
 このバッテリーを自分のスマホに接続すれば、移動しながら充電できる。
 充電が済んだバッテリーは、バッテリースタンドがある場所ならどこでも返却できる。
 ソルティが利用しているレンタサイクルの仕組みと同じである。
 利用料金は、1時間未満の持ち運びであれば、税込み330円(セブンイレブンの場合)である。
 こんなサービスが始まっていたのか!

 ハタと気づいた。
 もしかしたら、あの金髪の青年は、「レンタルスタンド、ありますか?」と聞いたのだろうか?
 スマホの電池が切れそうだったので、充電したいという意味だったのか?

 いずれにせよ、泌尿器科にそのサービスがないことに変わりはないのだが・・・。

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● METライブビューイング@東劇 :ヴェルディ作曲『アイーダ』

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上演日 2025年1月25日
劇 場 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場
指 揮 ヤニック・ネゼ=セガン
演 出 マイケル・メイヤー
キャスト
  • アイーダ: エンジェル・ブルー(ソプラノ)
  • ラダメス: ピョートル・ベチャワ(テノール)
  • アムネリス: ユディット・クタージ(メゾソプラノ)
  • アモナズロ: クイン・ケルシー(バリトン)
  • ラムフィス: モリス・ロビンソン(バス)
  • エジプト王: ハロルド・ウィルソン(バス)
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 今年1月にニューヨークのメトロポリタン歌劇場で上演したばかりの新演出『アイーダ』の評判がSNSで流れてくるのを見て、居ても立ってもいられず、銀座東劇まで足を運んだ。
 ライブビューイングは、ライブ録画したものを日本に居ながらにして大スクリーンで体感できる。
 嬉しいことに、一般3700円のところ、学生料金2500円。
 入口でスタッフに不審な顔されたら、「やいやい、この学生証が目に入らぬか~」と、顔写真入りの奈良大の学生証を見せつけるべくポケットに忍ばせておいたが、とくに確認されることなく入れてしまった。
 ひょっとして学生に見える?(笑)

 今回は36年ぶりの新演出。
 上演機会の多い人気オペラなのに、意外と刷新されないものなんだなあ~。
 36年前と言えば1989年。つまり、ソルティがDVDを持っているジェイムズ・レヴァイン指揮の『アイーダ』(演出はソーニャ・フリーゼル)以来ということになる。

 今回の演出の一番の特徴は、幕開きからいきなり開示される。
 前奏曲が流れる間、舞台上方から垂れたロープを伝って、一人の男が舞台に降り立つ。
 それは、エジプトの古代遺跡を調査研究している考古学者。
 新たに発見された地下遺跡を調べるため、数千年間、前人未踏の地に入り込んだのである。
 彼は足元に短剣を見つける。宝石で象嵌された高価な剣。
 周囲の石壁に懐中電灯の光を向けると、古代エジプトの様々な神像や動物や文様が浮かび上がる。
 壁龕のひとつには剣を下げた英雄らしい男性像がある。
 すると、時は現在から過去へとうつり、石の回廊の奥から古代エジプト王国の勇者ラダメスが登場し、物語が始まる。

 この考古学的導入、2014年秋に来日したスロヴェニアのマリボール国立歌劇場の『アイーダ』の演出と同じである。
 ただ、マリボールの場合は、冒頭で考古学者が発見するのは抱き合った骸骨のカップル――地下牢で死んだラダメスとアイーダ――であった。オカルト的えぐみがあった(笑)
 METの場合、冒頭だけでなく、幕間や場面が変わる随所で考古学者らを含む発掘調査隊が登場し、現代と古代がシンクロする。
 たとえば、第2幕の冒頭では、遺跡に腰かけた女性隊員がおもむろに目の前の何かをスケッチし始める。
 そのデッサン過程が舞台上の大きなスクリーンにプロジェクション・マッピングによって映し出される。
 次第に形を成していく線描は、クレオパトラさながらの古代エジプトの高貴な女性の姿である。
 それが音楽の始まりとともに、面となって鮮やかな色彩を帯び、侍女に囲まれた王女アムネリスの居室の壁画となる。
 考古学は過去を立ち上がらせる。

 なんだか、先日受けたばかりの奈良大学スクーリング「文化財学講読」の続きのようだった。
 発掘されたさまざまな遺物について、それが作られた時代や材質や用途を科学的手法を用いて調査し、その遺物が使われた過去の時代の人々の暮らしや宗教や死生観を推測する。
 単に過去の事実を突き止めることで終わってはいけない。
 その時代を生きた人々の息づかいに耳を済ませ、肌のぬくもりを感じ、願いや恐れや喜怒哀楽に思い馳せ、かれらの“物語”を知ることが大切なのだ。
 過去の人々の“物語”を読み取ってこそ、考古学は生きた学問になる。
 それが欠けたら、ただの科学に過ぎない。
 過去を懸命に生きた人々の“物語”と、現代を生きる我々の“物語”とが通じ合った瞬間、強国エジプトと小国エチオピアの熾烈な戦いがロシアとウクライナの戦争に重なり、ラダメス×アムネリス×アイーダの三角関係が同じような恋の喜びや苦しみを味わっている現代人の心と響き合うのである。
 実際、『アイーダ』の原案を書いたのは、エジプト考古学者オギュスト・マリエット(1821-1881)であった。
 オギュストは、作曲者ヴェルディに考古学上のアドバイスを与え、初演の舞台装置、衣装製作を担当した。
 考古学と“物語”を結びつける今回の演出は、まさに『アイーダ』の原点回帰だったのである。

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Nadine DoerléによるPixabayからの画像

 いまひとつの驚きは、ラストシーン。
 なんとアムネリスが自害してしまう!
 蝶々夫人さながらに。
 ソルティもこれまでずいぶん、生の舞台やレーザーディスクやDVDで『アイーダ』を観てきたが、アムネリスの自害で終わる演出に触れたのは初めて。
 もちろん元々のリブレット(脚本)にはない、新解釈である。
 嫉妬に狂ったあまり、恋する男をみずから処刑台に追いやってしまったアムネリス。
 恋も希望もプライドも輝かしい将来も打ち砕かれ、自暴自棄になっての衝動的行為ということだろう。
 ここで、冒頭に出てきた短剣の意味が浮上する。
 考古学者が最初に見つけたのは、若さも美貌も地位も財産もなにもかも持っている王女が、たった一つの恋の破滅ゆえに自らを殺めた凶器だったのである。

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BruceによるPixabayからの画像

 歌手はさすがMET、文句のつけようがない。
 主要キャストみな素晴らしいが、とくに感心したのは、アムネリス役のユディット・クタージとアモナズロ役のクイン・ケルシーのエチオピア父娘のコンビ。リアリティ凄まじく、役者としての存在感が際立っていた。
 ラダメス役のピョートル・ベチャワは英雄らしい見栄えの良さ。第一幕冒頭の有名なアリア「清きアイーダ」の最後の高音Bフラットを、通常のテノールのようにフォルテで歌い上げず、ファルセットのピアニッシモで終えたのにはびっくり。
 だが、ヴェルディの書いた楽譜では、ピアニッシモ (pp) かつmorendo (遅くしながら消えいるように) と指示されているらしいので、これが本来のイメージに近いのだろう。この終わり方でこそ、勇者の力強さよりも、恋する者の哀切が伝わってくる。
 アイーダ役のエンジェル・ブルーは、はち切れんばかりの若さと可愛らしい目鼻立ちが魅力。これからが楽しみな期待のソプラノである。

 ソプラノと言えば、やっぱり、METの女王であったアンナ・ネトレプコの現在が気になる。
 ロシア出身のネトレプコは、ロシアのウクライナ侵攻に際して反ロシア・反プーチンの姿勢をはっきりと表明しなかったために、METを追い出されて、西欧の劇場では歌う場を失ってしまった。
 彼女の親族がプーチン政権下のロシアで暮らしていることを思えば、彼女が反ロシア・反プーチンの言説を表明することがそう簡単でないことは想像がつきそうなものである。
 芸術に政治を持ち込むことの是非は別にしても、思いやりに欠けた拙速な処置だったと思う。
 いまのトランプ=アメリカのプーチン寄りの振る舞いを見るにつけ、政治の馬鹿らしさがわかるではないか。
 METは毅然として、芸術への政治の介入を許さずに、ネトレプコほかロシアの音楽家を守るべきであった。
 でなければ、国同士の戦いに巻き込まれて愛も命も失った若者たちの悲劇を描く『アイーダ』を上演する資格など、METにはなかろう。

P.S. 第2幕のエジプト軍凱旋シーン。屈強な男性ダンサーズが肉体美を見せつけながら踊りまくる。小柳ルミ子がどこからか登場するのかと思ったあなたは、間違いなく昭和育ち。


● 花粉症三銃士

 2月6日、関東地方に吹き荒れた強風が、今年の花粉症の引き金となった。
 昨年はこの時期のスギ攻撃はなんなくやり過ごして、4月中頃からのヒノキ攻撃がひどかった。
 ゴールデンウイークが明けるまで、しんどい日が続いた。

 今年も桜の散る頃になったら気をつけようと思っていたら、いち早くスギに反応してしまった。
 のどの痛み、倦怠感、頭がボーっとするから始まって、悪寒、関節のこわばり、鼻の奥のむず痒さを追加し、「あれ?風邪かな?」と思って葛根湯を呑んだが改善する気配もなく、のど枯れ、くしゃみ、目がしょぼしょぼする、鼻水と続いて、「ああ、花粉症だ」と気づいた。熱はない。
 これから3ヶ月続く地獄のシーズンの幕開けは、まるで末法の世の到来のごとし。

 風の吹く天気のよい日は、不要不急の外出を控える。
 外出時はマスク着用。
 部屋に花粉を運び込まないよう、玄関先で衣服をはたく。
 コロナ禍の延長みたいな日々が続いている。
 なにより残念なのは、コロナ禍の時でさえ実行できた里山歩きができなくなったこと。
 日本の山は約半分が人工林で、人工林の7割はスギとヒノキ。
 ハイキングできるように整備された山は、ほとんど花粉症の爆心地である。
 そんなところに飛び込んでいったら、方向感覚を喪失して道迷いしかねない。
 馬の背をぼーっと歩いて落馬(転落)する危険もある。
 だいたいが、楽しくはない。

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KanenoriによるPixabayからの画像 

 アウトドアが駄目なら、せめてインドアで体を動かして、体力維持とストレス発散をはかろう。
 ジムに行ってプールで泳ごう! ついでに痩せよう!
 ――と気持ちを切り換えた。
 ところが、先日、何気なくスマホで花粉症を調べていたら、とんでもない記事を発見してしまった。

 ドイツの国立環境健康研究センターのKohlhammer氏らが、35歳から74歳の2606名の成人を対象に塩素プールの使用と花粉症発症の関連について調べた研究によると、学童期に水泳プールを毎年3~11回使用していた人は、使用していなかった人に比べて花粉症を発症する可能性が74%高かったといいます。また、過去12カ月間に水泳プールを毎週1回以上使用していた人は使用していない人に比べて花粉症を発症する可能性が32%高く、さらに生涯において水泳プールを使用した経験がある人は使用経験がない人に比べて花粉症を発症する可能性が65%高いこともわかりました。泳ぐ人の尿や汗、その他の有機物質が塩素処理された水と反応して放出される三塩化窒素が影響していると筆者らは考えています。(『医療ガバナンス学会ホームページvol.089 』2019年5月17日の記事より抜粋)

 ドイツの「国立環境研究センター」ってのがどんだけ権威ある研究施設なのか、その記事を紹介した日本の「医療ガバナンス学会」がどういう組織なのか、そもそもこの説を発表したKohlhammer氏がどんだけの研究者なのか、まったく分からないので、これをそのまま鵜呑みにするのもどうかとは思うが、医療ガバナンス学会の理事たちはちゃんとした資格を持った医師らしいので、記事掲載の影響は少なくないと思われる。
 この記事を世の人々が真に受けたら、ジムのプールに閑古鳥が鳴いてしまう、スイミングスクールがつぶれてしまう、学校の体育の授業から水泳が消えてしまう、人はみな金づちになってしまう・・・・なんてことが起こりかねない。オリンピックから水泳競技がなくなってしまうかもしれない。(最近、理由は違うがプールの授業を廃止する自治体が現れている)

 ソルティは、社会人になってからというもの、数ヶ月から数年のブランクは時折あるものの、だいたい週2回以上はプールに通ってきた。
 呼吸器官や肺を鍛え、気道の中を洗い流し、体の血行を良くする水泳は、花粉症に良いものと考えていた。
 それが逆効果だったのか!?
 今さらプールで泳ぐのを止めたところで花粉症予防にはもう遅いけれど、今後悪化させないために、プールはご法度にすべきなのだろうか?
 ちょっと考え込んでしまった。
 
 Kohlhammer氏の報告は2006年のもので、その後、それを否定する記事も肯定する記事も見つからなかった。
 日本の研究者で調べている人はいないのだろうか?
 だいたい、上記のドイツの研究は内容がアバウト過ぎて、いまひとつ信憑性に欠ける。
 ドイツのプールの消毒方法(たとえば塩素の濃度)が不明だし、「学童期に水泳プールを使用しなかった人」、「生涯において水泳プールを一度も使用したことがない人」ってのが、ちょっと想像つかない。(ドイツでも水泳の授業はある)
 「体育の授業はいつも見学でした」という体の弱い人なのか、それともプールの授業というものがなかった時代の生徒、つまり高齢者なのか。いずれにせよ、「プールで泳いだことがない人」の人数は2606名の内、ほんの一握りだろう。統計的に当てにならない母数なのではあるまいか?
 さらには、過去一年「プールで泳いだことがある人」は運動好きでアウトドア派、「泳いだことがない人」は運動嫌いでインドア派であることが想像される。花粉症の発症率との関係は、単に「よく外出するかしないか」の差ということも考えられるのでは?
 あるいは、「水着を着たことがあるかないか」の差かもしれない。

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PexelsによるPixabayからの画像

 そんなわけで、背景の不確かな研究結果を鵜呑みにするのは止めて、プールは続けることにした。
 なんたって、最高のストレス解消&安眠効果があるのだから。
 また、体質改善を目して、しばらく前からコーヒーやアルコールを控え、甜茶とドクダミ茶をブレンドしたものを500㏄ポットに入れて持ち歩いている。(甜茶だけだと甘すぎて飽きが来る)
 葛根湯は効かなかったが、小青竜湯を試したところ、ずいぶん楽になることに気づいた。抗ヒスタミン薬の含まれている市販の花粉症の薬とは違って、眠くなる成分が入っていないし、中国三千年の歴史が安全を証明している生薬のほうが、安心感がある。

 甜茶とドクダミ茶と小青竜湯。
 この三銃士で今年の花粉症シーズンを乗り切るダルタニヤン。

甜茶


ドクダミ茶


小青竜湯





 
 

● 電子監視導入 映画:『ハウスバウンド』(ジェラード・ジョンストーン監督)

2014年ニュージーランド
107分

ハウスバウンド

 ニュージーランド映画って珍しいと思っていたら、有名な監督に『ロード・オブ・ザ・リング』、『ホビット』のピーター・ジャクソン、『ピアノレッスン』のジェーン・カンピオンがいた。ちなみに、われらが大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』もニュージーランドで撮影が行われたため、制作国に同国が名を連ねている。

 本作はB級サスペンスホラーコメディである。
 恐さの中に若干のお笑いとちょっぴりのお涙頂戴を潜ませているところがユニーク。
 それなければ陳腐なC級映画に過ぎなかったろう。
 天井や壁がきしむ、電気が突然消える、何者かの気配がする、調べてみたら数十年前にこの家で殺された少女がいた・・・・。悪霊の潜むオカルト屋敷と思ったら、実は壁の中に"引きこもり(housu bound)”の同居人がいたというオチ。

 映画の筋とは別に「へえ~」と思ったのは、ニュージーランドの刑事政策。
 主人公の女性カイリーは、ATM強盗で捕まって保護観察処分となり、母親と義父が暮らす実家で8カ月過ごすよう命じられるのだが、その際に外出禁止命令を受ける。
 つまり、house bound(家に閉じ込められる)。
 足首にGPS付きのアンクレットがはめられ、家の敷地から出ようとしたり、アンクレットを切断してはずそうとすると、警報音と共に最寄りの警察に通知され、刑事が駆けつける。
 期間中は定期的にカウンセラー(保護司)が訪問し、本人と面談し、更生を目指す。
 この刑事政策を電子監視という。
 すでにアメリカ、韓国、イギリス、フランス、ドイツ、カナダ、スウェーデンなどで性犯罪者を中心に実施されており、日本でも早ければ2026年から運用が開始されるという。

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おすすめ度 :★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損


● なんなら、奈良7(奈良大学通信教育日乗) 一勝一敗

 昨年中に提出した2つのレポートが返って来た。
 11月に出した平安文学論は「再提出」、12月に出した文化財学購読Ⅰは「合格」であった。

 自分としては、平安時代の結婚制度と文学をテーマとする平安文学論のほうが、好きなテーマであり普段からの読書で馴染みある分野でもあったので、合格する自信があった。
 〈優・良・可〉の〈優〉は難しくとも、〈可〉には引っかかるだろうと踏んでいた。
 「再提出」の通知を受けて、数日へこんだ。
 最も得意とする科目で〈不可〉ならば、それ以外の科目はなおさら、一発突破困難と思ったのである。
 なかなか再提出のための再勉強をする気にならず、また新たに3科目の勉強を開始する気にもならず、しばらく怠けていた。
 早くも最初の壁にぶち当たった。

ジャングルの中のぬりかべ
どすこい!

 年末年始の休みが明けて、再提出のための勉強をやおら再開したところに、文化財学購読Ⅰの合格通知が届いた。
 それでちょっと浮き上がった。
 二連敗だったら、モチベーションがやばかったかもしれない。
 ソルティは昔からテスト関係には強いほうなので、それがかえって、失敗に弱い性格をつくったのかもしれない。

 しかし、すべての科目にすんなり一発合格して、簡単に進級・卒業できるのも、考えてみたらつまらない。(最初の学生時代はまさにそうであった)
 ある程度の壁があって、苦労や呻吟や落ち込みや懈怠があって、OBからの支援や仲間との励まし合いがあって、気を取り直しての再チャレンジによって無事履修してこその勉学の喜びというものがあろう。
 そしてまた、たとえ合格しなかったとしても、学んだ事実は変わらず、学びで得られた知見や経験や充実感は失われるものではない。
 目的はあくまで学びそのものにあるのだ。

 しばらく放っておいた平安文学論のレポートを、冷静な目で読み返してみたら、説明の足りないところがあるのに気づいた。
 自分の中で分かっているつもりになっていたがゆえに、叙述が粗略になり、論述の根拠が不明確な部分があった。
 平安時代の貴族の恋愛や結婚について何も知らない人がソルティのレポートを読んだら、わけが分からないであろう。
 むしろ、「文化財購読」のように何の前提知識も持たない白紙のような題材のほうが、構成を丹念に考えて文章を一から組み立てなければならないので、読んでわかりやすいレポートが書ける。
 なまじ余計な知識があると、かえって見えないものがあると知った。

 そんなわけで、平安文学論のレポートを書き直して再提出したところである。
 文化財購読Ⅰのほうは、これで学科試験を受ける資格が得られた。
 試験の出題内容はあらかじめ通知されているので、2月か3月の奈良大学でのスクーリング時の放課後に受けるべく、おいおい準備しようと思っている。
 今年の春は奈良から始まる。

奈良の鹿




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