ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

雑記

● この秋、テレビドラマ化! 本:『日本沈没』(小松左京著)

1973年光文社
2006年光文社文庫

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 上下巻合計400万部の大ベストセラーにして、日本SF界の金字塔である本作をついに読んだ。
 むろん、映画のほうは、森谷司郎監督、小林桂樹、丹波哲郎、いしだあゆみら出演の1973年版を観ているし、小林桂樹、村野武範、由美かおるらが出演した1974年のテレビドラマ版も観ている。
 なにせ小学生の頃で、火山が噴火し、地割れした日本列島が海に沈んでいく特撮シーンくらいしか記憶に残っていない。
 樋口真嗣監督、草彅剛、柴咲コウ共演の2006年版の映画は観ていないが、同じ年に封切られた『日本以外全部沈没』(樋口真嗣監督)は劇場まで見に行った。期待外れだった。
 この秋(10月10日より)TBS系列にて、小栗旬、松山ケンイチ、杏ら共演で再ドラマ化されるとか。
 小松左京リバイバルが起こっているのかもしれない。

 刊行から半世紀近く経って読んでみて、まったく古びた感がないのに驚く。
 それどころか、いよいよもって迫真性が高い。
 それもそのはず、1973年の日本人はいまだ、阪神・淡路大震災も、東日本大震災および福島第一原発事故も、今回のコロナ禍も経験していないからである。
 本作で小松が無尽の想像力を駆使して描き出している大地震や津波による都市の被害、災害下における日本人の振る舞い、緊急事態宣言下で起こるパニックや一部暴徒による利己的行動・・・。
 2021年の日本人はそれらを経験として知っている。
 自然災害によって生じる物理的被害のありようも、社会・経済的被害のありようも、「日本人」という民族的特質が絡んださまざまな心理的現象のありようも知っている。
 それが本書で、あたかも予言のように披瀝されているのを見る。

 子供の頃『日本沈没』を観たときは、“現実にはありえない”世紀末的スペクタクルとして作品を楽しむことができた。当時流行った『ノストラダムスの大予言』や『復活の日』も同じである。
 しかし、2021年の今、本作を読んでいるとデジャビュー(既視感)に襲われる。
 すでに起こったことの記録や検証のように思える。
 「今ここにある」危機を映しているように思える。
 なんたって、緊急事態宣言が形骸化する「今」なのだ!

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Sofia TerzoniによるPixabayからの画像


 知の巨人たる小松左京の博覧強記、徹底した取材・調査力、科学や工学に関する深い造詣、驚くべき斬新なアイデアとそれを科学的に裏付けることのできる理論構築力、そして専門家にしか理解できないような難解な事柄をきちんと盛り込みながらも読者をつかんで離さないストーリーテリングの巧みさ。
 天才とはこういう人のことを言うのだろう。

 今回、初めて知って驚いたのだが、小松左京は理系出身ではなかった。
 プロフィールに京都大学文学部イタリア文学専攻とある。
 イタリア文学専攻のSF作家だったとは!
 意外な気もしたが、読んでいるうちに「なるほど」と首肯できるところもあった。
 単なるカタストロフィ・パニック以上の文学性、哲学性が光っている。
 文章や描写もまた、非常に気高く美しい箇所が散見される。
 未曽有の悲劇において露呈される日本人の姿を描き出すことを通して、ある種の文明批評、日本人論にもなっている。
 そもそも、『日本沈没』も『復活の日』も一種の“地獄めぐり”であり、そこにイタリアの大作家ダンテの『神曲』が投影されている。
 煉獄の試練をへて“神的なもの”に至る――それが小松の終生のテーマだったのかもしれない。


 以下、引用。

 ――災厄は、何事につけても、新旧のラジカルな衝突をいやがる傾向にあるこの国にとって、むしろ人為的にでなく、古いどうしようもないものを地上から一掃する天の配剤として、うけとられてきたようなふしがある。
 この国の政治も、合理的で明晰で図式的な意志よりも、無意識的な皮膚感覚の鋭敏さに、より多くのものを負うてきた、この古くからの高密度な社会における政治においては、誰一人意識的にそうするわけではないにもかかわらず、結果的には、災厄を利用するという国民的な政治伝統がそなわっているみたいだった。(上巻154ページ)

 ――「大衆社会」というのは、全体的に「統制」をきらい、統制側も弱腰で「緊急事態」に対する心がまえのない、抑制のきかない社会だった。ふつうの時はいいが、いったん社会全体が危機におちいると、いたるところに、贅沢で、わがままで、傲慢になった人々によって、混乱と無秩序がひき起こされる。(上巻382ページ)

 長い鎖国――明治大正昭和も、一般民衆にとっては、一種の鎖国だった――を通じて培われた、抜きがたい「同朋意識」が・・・天皇の一声で戦争をやめ、戦後、政府、軍閥を口先では、はげしくののしりながら、十三名のA級戦犯刑の時、後ろめたさと内心の痛みを感じさせたような、「政府―指導者」との、郷党意識をはるかに越える一体感、「共同体感覚」――むしろ、子が親に、「最後は何とかしてくれる」と思い、そう思うことでつながりを保証するような「国に対する甘え」の感覚が、今もなお、大部分の民衆の心の底に根強く、わだかまっており、それが彼らに、「危機における従順と諦念」の基本的行動様式をとらせていた。(下巻219ページ)

 日本人は・・・ただこの島にどこかから移り住んだ、というだけではありません。あとからやって来たものも、やがて同じことになりますが・・・日本人は、人間だけが日本人というわけではありません。日本人というものは・・・この四つの島、この自然、この山や川、この森や草や生き物、町や村、先人の住み残した遺跡と一体なんです。日本人と富士山や、日本アルプスや、利根川や、足摺岬は、同じものなんです。このデリケートな自然が・・・島が・・・破壊され、消え失せてしまえば・・・もう、日本人というものはなくなるのです・・・・。(下巻373ページ)


 最後に――。
 本作で小松が(周到にも?)言及や解釈を避けた日本人のアイデンティティが一つある。
 天皇である。(作品の中では沈没前にスイスに移住)
 小松左京は天皇制をどう思っていたのだろう?

錦の御旗



おすすめ度 :★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 本:『マンション管理員オロオロ日記』(南野苑生著)

2020年三五館シンシャ発行、フォレスト出版発売

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 著者は、妻と共に住みこみでマンション管理員をしいる72歳の男。
 かつては広告代理店勤務で「空気を商売にしている」ようなバブリーな生活を送っていたが、思い切っての独立後、不況で経営に行き詰まる。
 ホームレス寸前までいった59歳の時、マンション管理員に転身する。
 これまでに関西地区の三つのマンションを渡り歩いてきた。
 
 ソルティはマンションに住んだことがないので、管理員の大変さを知らなかった。
 いや、住んでいる人でも知らない人は知らないであろう。
 共用スペースの切れた蛍光灯を取り換えたり、ゴミ収集所の管理をしたり、駐車場・駐輪場に目を光らせたり、建物周囲の植え込みに水をやったり、留守宅の宅急便を預かったり、定時巡回したり・・・・日々そんなことをしているんだろうなあというイメージがあった。
 どのマンションでも定年退職者らしき高齢者が従事しているのは見知っていたので、「それほど骨の折れる仕事ではあるまい」と思っていた。
 小中学校の用務員さんみたいなイメージだ。(と言って小中学校の用務員の実情をよく知らない。本シリーズで、『学校用務員グダグダ日記』を企画してはくれまいか)
 
 本書を読むと、日課となっている上のような基本業務――ただし宅急便の預かりはやってないようだ。マンション住人は私用を管理員に頼んではならないと決まっているのだ――はそれほど大変でもなさそうだ。
 なんと言っても、大変なのはクレーム対応。
 著者によれば、集合住宅の三大クレームは、①無断駐車、②ペット、③生活騒音、とのこと。
 ほかにも、器物損壊、上階からの水漏れ、悪臭、共用スペースの私物化、自殺志願者(自殺名所となっているマンションは多い)、認知症老人の世話、住民同士のいざこざ、敷地内の緑地にあるベンチで昼間からイチャイチャする高校生など、四方八方からさまざまな事件やクレームが飛び込んでくる。
 他の住民のためにもなる正当なクレームならまだしも、クレームのためのクレームすなわちモンスタークレーマーがいた日には、うんざりを通り越して疲弊するばかりである。
 通常の場合、管理員も他の勤め人同様に9時-5時で雇われているので、勤務が終われば仕事から解放される。
 が、著者夫婦のような住み込みの場合、ほとんど24時間対応に追われることになる。
 
 騒音問題の仲裁であったり、部屋で暴れる奥さんの緊急対応や立ちション目撃者からの通報などなど、日ごろのウップンの聞き役であったり、癪にさわることを注意してもらおうという人たちの受け皿、もしくは苦情承りと目されているのが、マンション管理員の実情なのである。

 
 マンション管理員を雇っているのは管理会社で、管理会社と契約しているのはマンションの理事会である。
 なので一般に管理員は、管理会社の当該物件担当者であるフロントマンに逆らえず、フロントマンは理事会とくに理事長には逆らえない。
 管理員は、フロントマンと理事長の顔色を見ながら仕事をしなければならない。
 これがまためんどくさい。 
 著者が二つ目に勤めた大阪のマンションでは、フロントマンと理事長が結託して住民から集めた管理組合費の私的流用をするわ、それを咎めた著者を煙たがって時間外労働を押し付けるわ、裁判も辞さない覚悟で法令遵守を訴えた著者にヤクザまがいの台詞で脅すわ、さんざんな目に遭ったようだ。
 むろん著者はそこを即刻辞めたのであるが、分譲マンションの住民は簡単には逃げられない。
 こんな腐っている理事会と管理会社をもつ住民こそ哀れである。

集合住宅

 
 著者は京都と大阪のマンション管理員を経験してきたようだが、「どこの地域にある、どの社会階層(収入・学歴・年代・国籍など)が住むマンションか」によって、管理員の大変さもずいぶん異なってくるだろう。
 管理員の大変さは、地域の治安レベルや居住者の“民度”に左右されるところが大きい。
 もっともそれは、たとえば警察(交番)、お役所、学校、介護施設など地域住民を相手とする他の仕事にも共通するところである。
 著者の紹介するエピソードには、自転車のサドル狙いの暴走族やら、その筋の男(暴力団員)やら、詐欺を稼業とする夜逃げ一家が登場する。
 なかなかの修羅場地域とお見受けした。
 
 ソルティはマンションにこそ住んだことはないものの、集合住宅(賃貸アパート)は何件か渡り歩いた。
 都合、25年くらいになろうか。
 本書を読みながら、これまで住んだアパートで体験したいろいろな被害が走馬灯のように浮かんできた。
 隣室の騒音(アノ時の声含む)、自転車盗難、上階からの水漏れ、ガス漏れ、ぼや騒ぎ、警報機の誤作動、水道管の凍結と破裂、自殺、救命救急、洗濯物盗難(なぜ三十路の男物を?と当時思った)、ストーカー大家による室内無断侵入、シロアリ、ペットに対する苦情(これは無断で猫を飼っていたソルティが悪い)・・・・・。

 ああ、なつかしい。
 


おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

● 夏の快適アイテム3 ココナッツウォーター

 まだまだ暑い日が続く。
 熱中症防止に水分補給が欠かせない。
 
 ソルティが子供の頃、夏の飲み物の定番と言えば、カルピスとコーラと麦茶だった。
 遊びから帰って来て冷蔵庫を開けて、透明のボトルに入った原液を薄めたカルピスがあったりすると、夏の喜びをひとしお感じたものである。
 たいていは麦茶だっただけに・・・・。

 大人になってからは、やっぱりアイスコーヒーと烏龍茶。
 微糖のアイスコーヒーに牛乳を加え、氷をたくさん入れてアイスカフェオレにして飲む。
 ここ数日は製氷皿の氷では足りなくて、コンビニで氷を買っている。
 氷塊と言いたいほど大きくて水晶のように透き通っているのが、涼しさを演出する。
 烏龍茶は2Lのペットボトルを買う。
 飲みすぎて、夜間トイレに立つことになるのが玉にキズだけど、脱水症状や便秘の苦しさを思えば多少取り過ぎのほうが良かろう。
 老人介護施設で働いていた時は、利用者に「少なくとも一日1500ml以上は飲ませてください」と看護師からきつく言われていた。
 液体だけでは進まない人には、フルーツ味の付いたゼリーを提供した。

 春頃、職場からの帰り道に小さなベトナム食材店がオープンした。
 覗いてみたら、ベトナムのいろいろな調味料やお菓子や食材が並んでいる。
 「ケオ・サップ・コム」という名のゴマやナッツを固めたキャラメルウエハース(サクサクして風味豊かで美味しい)と1Lパック入りのココナッツウォーターを試しに買ってみたら、見事はまってしまった。

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 ココナッツウォーターの一口目は、「なんだかスイカの汁みたいなボケた味だな」という物足りなさを覚えるが、二口三口と飲み続けると、ほんのりした甘さとココナッツの自然で優しい風味がクセになる。
 なにより、体に吸収される感がすごくある。
 ポ×リスエットやアク×リアス以上の抵抗の無さである。
 アイスコーヒーや烏龍茶のような苦みがなく、スポーツドリンクのような人工的な甘ったるさも希薄である。

 ソルティはベトナムには行ったことがないが、20代の頃にフィリピンやモルジブにスキューバダイビングしに行った。
 椰子の生い茂る砂浜のレストランで、てっぺんを切り落としたココナッツの実にストローをさしたものを差し出され、はじめて口にしたときの感激を思い出した。
 一緒に行ったOTOKOは今いずこ?

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 表示によると、ココナッツウォーターのカロリーは100mlあたり 16kcal。
 カフェオレ 38kcal、スポーツドリンク 21kcal、コーラ 46kcal、濃縮還元リンゴジュース 43kcal(以上「日本食品標準成分表」より)、カルピス5倍希釈時 46kcalに比べれば低いけれど、烏龍茶 0kcalにはさすがに敵わない。

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● 夏の快適アイテム2 空調服


 連日気温35度超えが常態となりつつある日本の夏をどう乗りきるかについて、完全テレワークの人以外の誰もが、しっかり考えなければならない命題であろう。
 ただでさえ熱中症や夏バテになる危険があるのに、この夏は常時マスクをつけていなければならないのだから。
 また、戸外からクーラーの効いた屋内に入っても、吹き出す汗と暑苦しさのため、しばらく仕事に身が入らないというのも考えものである。
 ソルティはとくに、背中や胸や脇の下に下着やシャツが張り付く感触が嫌いで、なんとかならないものかと常々思っていた。
 
 ゴールデンウィークが明けて気温がグッと上がった頃に、この夏の対策を決めた。

 空調服――

 両脇腹に小型のファンがついているポリエステル製のジャケットだ。
 炎天下の建築現場や工事現場で働く人、エアコンのない工場で働く人、さらには交通誘導員や警備員の作業服というイメージがあるけれど、最近はキャンプや川釣りなど夏のアウトドアで使用する人が増えている。
 ワークマンに行けば、女性向けや子供向けを含め、色・デザインとりどりのファッショナブルなものが並んでいる。
 梅雨入り前に最寄りのワークマンに行って、ジャケットとファンとバッテリーの3点セットを購入した。

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3点セット(計1万5千円くらい)


 梅雨明けした7月中旬から30度超えの酷暑が始まった。
 仕事の行き帰りや休日の朝夕の散歩時に、空調服の着用を始めた。

 使って気づいたことだが、外を歩いている時は気にならないが、屋内では結構ファンの音がうるさい。
 また、炎天下を歩いているときに途中でバッテリーが切れないよう、あらかじめしっかり充電しておく必要がある。
 一番の注意事項は、ファンが作りだした風がジャケットの中をスムーズに流れるように、一回り大きめのサイズを買うことである。
 ソルティはあらかじめネットでつかんでいたこのアドバイスを軽く見て、体裁を優先し、ぴったりサイズを選んでしまった。
 いまいち効果が感じられないなあと思ったら、案の定ポッコリお腹がジャケットに張り付いて、空気の流れを遮断していたのである。
 一回り大きいサイズのジャケットに買い代えたら、上半身の前と後ろに気流が行きわたってジャケットが風船のように膨らんだ。
 
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空気による膨らみです。メタボではありません(かろうじて)


 さて、はたして効果のほどやいかに?

 外出する時にはスイッチを入れっぱなしにしているので、いま一つよくわからない。
 たしかにジャケットの中に手を入れてみるとひんやり涼しいし、わきの下や首回りの開口部からは静かな風が吹き出してスースーして気持ちいい。
 だが、顔に当たる強烈な陽射しをさえぎってくれるわけではないので、いつもの夏にくらべて違いがあるのかないのか、どうもピンとこない。
 これはもう、スイッチを入れてファンを回した場合とスイッチを入れてない場合とで比較実験してみるよりない。

【実験方法】
① 空調服を着て30度を超える炎天下を歩く。(足元はいぐさ草履
② 最初はスイッチを入れないで25分間、次はスイッチを入れて25分間。
③ 汗のかき具合、息苦しさ、体温、疲れ度合などについて、両者を比べてみる。

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風があるためいつもよりしのぎやすい炎天下の午後
(30度超えになれてしまっているのが怖い)


実施日  8月1日(日)晴れ、やや風あり 外気温34.8度
開始時刻 15:30

① スイッチを入れないで、なるべく日向を選んで歩く。 

 開始時 体温35.8度(クーラーの効いた部屋に数時間いたため平熱より低め)
  • 10分後 背中に汗が出る
  • 12分後 胸に汗が出る
  • 15分後 シャツが背中と胸に張り付く、脇の下とマスク内にも汗が出る
  • 20分後 額に汗が出る、マスク外したい!
  • 25分後(終了) 息苦しい。クーラーの効いた室内に入るも、10分間は汗がだらだらと流れ続け息苦しさが続く。シャツとパンツがぐっしょり。立っていられないほど疲れた~。
 終了時 体温36.4度

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歩く前より0.6度上がっている

 30分間、クーラーの効いた場所にて休憩。水分を補給する。


② スイッチを入れて、なるべく日向を選んで歩く。

 開始前 体温36.4度(体温下がらないまま)
  • 10分後~ 明らかに違う。胸にも背中にも脇の下にも汗をかかない。ジャケット内に手を入れると、肌がひんやり湿っている。汗で濡れていたシャツの脇の下と胸の部分にファンの風が当たって、生地がどんどん乾いていく。マスクの中はあいかわらず苦しい。
  • 25分後(終了) 歩き終えた後がさっきと全然違う。汗が噴き出すようなことはなく、息苦しさもない。しんどさも少なく立ったままでいられる。のどもさほど乾いていない。
 終了時 体温35.6度0.8度低下) 

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一瞬目を疑った。歩く前より体温が下がっている!!

 ちなみに、スイッチを入れファンを回した状態で体温を測ってみたら・・・・

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脇の下から抜け出る風によるものだろう

【結果】
 空調服は体温を下げ、汗をかくことによる脱水を防ぎ、体力消耗を防ぐ効果がある。 
 
【備考】
 空調服の仕組みは、気化熱の利用にある。
 服に取りつけられているファンが汗を蒸発させる際の気化熱によって、体温を下げる仕組み。
 なので、汗をかかない状態だと効果は薄い。(クーラーのように冷たい風が送られて涼しくなるのではない)
 ポッコリお腹同様、背中のデイバッグやリュックサックもまた、せっかくの気流を遮ってしまう。
 空調服は山登りには向かないのであった(もちろん、手ぶらならOK)。 
 
【結論】
 10分間くらいの歩行では著しい効果は感じられない。
 ただ、歩き終わった後もしばらくファンを回しておくことで、体温の上昇を抑え、汗のかきすぎを抑えることが期待できる。
 長く歩くほどに、空調服を着ていない時との違いは大きくなる。 


 今回の実験で、空調服の効果のほどを実感した。
 熱中症や夏バテ対策にはとても良いアイテムだと思う。
 実際ネットでも、「一度着始めたらもう手放せなくなる」という声を多く見かけた。

 一方、汗をかくことには、新陳代謝を上げる、肌を健やかに保つ、ストレスを解消する、よく眠れるなどの効果がある。
 オフの時には運動をして、たっぷり汗をかくことも忘れないようにしよう。


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インナーに体にぴったりの放熱冷感シャツを着るとより効果的








● 夏の快適アイテム1 いぐさ草履

 いぐさ草履を知ったのは、かれこれ四半世紀も前のこと。
 当時住んでいた仙台の街に『ぐりん・ぴいす』というお店があった。
 自然食品店&雑貨店&出版社&市民活動の拠点というユニークな店だった。
 そこで働いていたスタッフからすすめられたのだ。
「とっても気持ちいいし、歩くたびに草履おもてが足の裏を“ぺったん、ぺったん”叩くから、ツボが刺激されて脳にも健康にもきっといいよ~」
 もちろん天然いぐさを使用、鼻緒はビロード仕立てであった。

 夏のつっかけと言えば、子どもの頃からゴム製ビーチサンダルと相場が決まっていたソルティにしてみれば、決して安くない買い物ではあったけれど、複数のスタッフが口を揃えて履き心地の良さを力説するものだから、試してみる気になった。
 なにより、真新しいいぐさの香りがすがすがしかった。
 それ以来、毎年梅雨が明けると新しいいぐさ草履を買って、ひと夏で履きつぶすのが恒例となった。

 十数年前に東京に帰ってきてからは、近くに扱っているお店がなくて、ふたたびビーチサンダルに戻った。
 あるいは、合成樹脂でできていて爪先から甲の部分まで覆われていて、そこに穴がたくさん空いている、いわゆる「クロックス」サンダル。
 いつの間にか定番になっているが、日本で流行り出したのは2007年からという。
 「あんなヤンキーが履くような、合成着色料でコーティングされたアンパンみたいな靴なんて履けるか!」
 と最初は拒否っていたけれど、なんの拍子か試してみたら、軽くてやわらかく、路面の衝撃を吸収してくれる。
 足指が自由に動かせるので解放感がある。
 バンドの位置によってスリッパ風につっかけにもなるし、かかとに引っかけて簡単に脱げないように固定もできる。
 一昨年、左足のかかとの骨を折った際、ギプスが外れたあとしばらくは足が浮腫んで靴が履けなかった。
 そのときは本当に「クロックス」が役に立った。

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 しかるに・・・・。
 年をとると体質は変わるもので、ソルティは四十を過ぎてから花粉症とゴムアレルギーになってしまった。
 ゴムアレルギーは四十後半になって介護の仕事を始めたときに顕在化した。
 一日の仕事が終わると、なぜか両手の指の第一関節が赤くなって痛痒い。
 入居者からダニでもうつされたのかと思って、施設の看護師に診てもらった。
 「ソルティさん、それ多分グローブのせいだと思うよ」
 グローブ? 手袋?
 天然ゴムを含んだラテックス製の介護用手袋のせいだったのである。
 むろん、グローブを使わないで介護の仕事はできない。
 チーフに訳を話して、ラテックスを含まないタイプのグローブも購入してもらった。
 それを使うと症状は出なくなった。
 
 ゴムNGの身体になってしまった。
 当然、ビーチサンダルはもう履けない。
 滑り止めに使うゴムの指サックも使えない。
 ポリウレタン製でないコンドームを使うと・・・・・悲惨なことになる
 「クロックス」サンダルに天然ゴムは使われていないようだが、素足で履き続けていると、やはり足の甲が赤痒くなってくる。
 天然ゴムだけでなく、ある種のプラスチック素材もNGのようだ。
 また、バナナやアボガドやキウイにはラテックスに類似した構造物が含まれていて、ゴムアレルギーのある人がそれらのフルーツを食べるとアナフィラキシーショック(コロナワクチン接種でおなじみの用語となりましたね)を起こすリスクがあるらしい。
 できるだけ避けた方がいいのかもしれない。
 
 そんなこんなで、ここに来て懐かしの仙台の友・いぐさ草履に白羽の矢が立ったのである。
 近所の靴店をいくつか回ったが置いてなかった。
 ネットで探して取り寄せた。
 
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 綿+ナイロン製の鼻緒の硬さが取れて足指に馴染むまでちょっと時間を要したが、数回履くとジャストフィットした。
 ゴムやプラスチックでは到底感じられない足当たりの心地良さ。
 昭和生まれの日本人ならではの“畳の上で死ねる”安心感。
 汗を吸い取ってくれるので、べたつき感がまったくない。
 そして、歩くたびに交互に足の裏が叩かれる気持ち良さと「ぺったん、ぺったん」という響きの面白さ。
 歩くのが楽しくなる!

 しかも、今回思わぬ利点に気づいた。
 左右の足で「ぺったん」の大きさと響きが違う!
 つまり、左と右とで歩き方(地面への足の付き方、筋肉の使い方、地面の蹴り方)が違っていた。
 骨折から回復して一応普通に歩けるようになってはいたのだが、ケガをした左足の使い方が元のようには(右足と同じようには)戻っていない=変に癖がついてしまっている、ことに気づかされたのである。
 足首全体を覆う普通のシューズだと気づかなかったものが、草履だと足の裏の使い方が実によくわかるのだ。
 自分の場合、左足を地面に付ける時も地面を蹴る時も親指側にしっかり力が入っておらず、小指側に重心をかけて歩いていた。
 だから、長時間歩くといまだに左足の外側の腱に痛みが生じていたのだ。
 その理屈が手に取るように理解できた。

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 左右とも同じ「ぺったん」が出るように意識して歩くことで、自然と正しい歩き方、筋肉の使い方の訓練になる。
 なんといぐさ草履って素晴らしいのだろう!
 気持ちいいうえにリハビリにも役立つとは。
 
 この夏は「ぺったん、ぺったん」だ!
 




● 難しい判断、やさしい判断 映画:『アイたちの学校』(高賛侑監督)

2018年日本
99分

 日本にある朝鮮学校の歴史と現状を描いたドキュメンタリー。
 アイとは朝鮮語で「子ども」のことである。
 監督の高賛侑(コウ・チャニュウ)は1947年生まれのジャーナリスト、ノンフィクション作家。自身、朝鮮大学を卒業している。

 2010年に施行された高校無償化制度から朝鮮学校は除外された。
 それを受けて、地方自治体でも朝鮮学校への補助金の打ち切りが続いた。
 これに象徴されるように、朝鮮学校の歴史とは在日朝鮮人に対する差別の歴史の典型であり、また、当事者及び彼らを支援する市民有志らによって繰り広げられた差別との闘いの歴史である。
 本作は知られざる歴史的資料や当事者の証言をもとに、100年余におよぶ差別との闘いを浮き彫りにしている。

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 ソルティはかつて朝鮮学校の近くに住んでいたことがあり、散歩や買い物の途中、校庭の金網越しに飾り気のない白いコンクリートの校舎を眺め、下校途中の生徒たちの会話を耳にすることがよくあった。
 朝鮮語の中にたまに日本語の単語が混じる彼らの会話はなんだか面白かった。
 学校のたたずまいからも、常にグループで行動する生徒たちからも、外部を拒否するような空気が感じられたものだが、これはソルティの偏見も入っているかもしれない。
 心なしか男子はイケメンが多かった気もするが、これもやっぱりソルティの希望的観測かもしれない。

 学校の脇を通りながら、思ったものである。

「いったいこの校門の向こうで、高い塀の中で、何が教えられているのだろう?」
「授業は何語で教えられるのだろう? 生徒たちは、日本語と朝鮮語とどっちが得意なのだろう?」
「生徒たちは日本という国をどう思っているのだろう? 韓国や朝鮮についてどう思っているのだろう?」
「自らが選ぶことなく置かれている在日朝鮮人という立場をどう思っているのだろう?」
「将来の展望はどんなものだろう? 

 いろいろと疑問は浮かび、勝手な想像はしたけれど、それ以上追及することはなかった。
 無責任な想像のうちで、紋切り型にして最も悪いイメージは次のようなものであった。

 教壇の上の、日本人の学校であれば「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」といったクラス目標が掲げられるあたりに、額縁に入った金主席の写真が飾られている。
 朝と帰りの学活の際には、クラス一同、直立して金主席に最敬礼を行ない、朝鮮語で「偉大なる父・金主席の指導に従い、祖国の発展のために精励します」といったような文言を唱和する。
 朝鮮の歴史や文化を学ぶ授業では、朝鮮中央テレビに出てくるチマ・チョゴリを着た女性アナウンサーのような抑揚と迫力とをもって、教師たちがひたすら祖国や金主席の偉大さを讃え、儒教道徳に基づく生活指導を行い、反日教育をほどこしている。

 つまり、日本の戦前・戦中の学校教育のコピーである。
 在日三世、四世の時代となり、意識も嗜好もすっかり日本人化してしまった生徒たちを、あらたに朝鮮人として「洗脳する」場所、それが朝鮮学校――というイメージがあった。

 本作では主として、大阪にある朝鮮学校(小学校、中学校、高校)の様子が紹介されている。
 戦後の日本人のだれもが通った日本の学校とほとんど変わりない、平凡な学校の日常風景がそこにある。
 生徒たちは時間割に沿って数学や音楽や体育を学び、サッカー、ラグビー、演劇、吹奏楽などのクラブ活動に仲間と打ち込み、運動会やバザーでは親御さんも一緒に活躍し、卒業式では神妙な顔で卒業証書をもらい、学校との別れに涙する。
 異なるのは、国語の授業が朝鮮語で、日本語は英語と並んで外国語として学ぶところ。そして、学校内では朝鮮語で話すことが決まりとなっているところ。
 朝鮮学校に通っている生徒たちやOBたちの証言から、朝鮮学校が「日本社会での孤立を防ぎ、自らのアイデンティティを確認し、自己肯定する」のに大いに役立っていることが理解される。
 それゆえ、日本国家のたび重なる朝鮮学校に対する迫害は、少数民族への人権侵害であり、子供たちから教育を受ける権利を奪うものであり、110年以上前の日韓併合によって「在日朝鮮人」という存在を生み出した加害責任の放棄と映る。
 ソルティも基本、朝鮮学校に対する“不当な”差別には反対である。

 ただ、本作では肝心の朝鮮学校の教育内容が語られていない。
 朝鮮文化や歴史を学ぶ授業があることは触れられているが、現在のかの国の体制(=金主席による軍事独裁政権)を踏まえての具体的な政治教育の中味が語られていない。
 つまり、金主席を自由に批判できるような民主主義教育がなされているのか?
 そこのところが伏せられている。
 そのために、かつてソルティが抱いた“悪いイメージ”ほどではないにしても、やっぱり学校関係者は今の金政権や全体主義国家体制を批判できていないのではないかという疑問が残る。
 たとえば高監督は、生徒たちや教師や親御さんに直接マイクを向け、「いまの北朝鮮の体制をどう思っていますか?」といった質問さえ投げかけていない。
 そこを省いて(隠蔽して)、「子どもが教育を受ける権利」とか「少数民族の伝統や文化を守る権利」を主張されても、今一つ腑に落ちないものがあるのが正直なところ。

 (実際の朝鮮学校がどうなのかは知るところでないが)今の北朝鮮の体制を賛美肯定するような教育を行っている学校を、民主主義を標榜する日本国家がどこまで認めて公金で支えるか、そこは難しい判断であろう。

 一方、作中に登場する某右翼団体のような、当事者(しかも子どもたち!)に対するヘイトスピーチや威嚇行為は理由がなんであろうと決して許されるものではないし、それを取り締まらない行政のありようは差別を助長する人権侵害であるのは明らかである。
 その判断は難しくないはずだ。

 
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おすすめ度 :★★★

★★★★★
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     読み損、観て損、聴き損


 
 

● ほしがりません勝つまでは!


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2021年5月11日読売新聞朝刊より(宝島社提供)








● 平岡家のマナー 映画:『三島由紀夫vs東大全共闘50年目の真実』(豊島圭介監督)

2020年
108分

 今から半世紀以上前の1969年(昭和44年)5月13日に東京大学駒場キャンパス900番教室(現・講堂)で行われた、三島由紀夫と東大全共闘の討論会のドキュメンタリー。
 TBSが録画保存していたフィルムをもとに、スタッフによる注釈や三島をよく知る作家や学者などによる解説、そして実際に討論会に参加していた元学生(今や70代の爺サマ)によるコメントを加えて編集したものである。
 ナレーターを東出昌大がつとめている。

 この討論に先立つ4ヶ月前、学生らによって占拠された東大安田講堂は機動隊の突入によって陥落した。東大闘争は収束したが、1972年の連合赤軍事件にはまだ間があり、共産主義革命を夢見る学生たちの機運は高まる一方であった。
 一方、この討論の約1年後、三島由紀夫は自決した。私設の防衛組織である楯の会を前年10月に結成し、自衛隊体験入隊で鍛え、憲法改正のための自衛隊クーデーターをすでに目論んでいた頃と思われる。
 反体制・反権力を掲げる血気盛んな1000人の左翼の若者が待ち構える中に、天皇崇拝を大っぴらに口にする右翼作家が単身乗り込んでいき、言葉による対決を行なったのである。


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壇上の三島と学生たち(しかし男ばかり・・・)


 たいへん面白かった。
 108分、半ば興奮しながら夢中になって視聴した。 
 そのことがまず意外であった。
 というのも、この映画(DVD)の存在をしばらく前から知ってはいたものの、観るのにためらいを感じていたからである。
 ソルティは、石原慎太郎の三島評を俟つまでもなく、マッチョになってからの、あるいは政治的発言を盛んに口にするようになってからの三島由紀夫の言動になんとなく嘘くさいものを感じていて、天皇の復権を目指し国軍創設を呼びかけるナショナリスティックな物言いには反感というより茶番に近い滑稽さを見ていた。軍服を着て日本刀を振り回し、自分ではない何者かになろうとする三島の姿に痛々しさしか感じられなかった。
 『仮面の告白』、『金閣寺』、『サド侯爵夫人』など国際級の作品をいくつも発表した人が、何者かに憑りつかれたように訳のわからないことを口にし、自ら進んで道化を演じ、これまで築き上げた業績と栄光を反故にするかのように破滅へ向かって突き進んでいく。
 三島の古くからの親しい友人であり霊能者でもある美輪明宏は、晩年の三島を霊視して、「2・2・6事件の将校が憑いている」と言ったそうだが、そうしたオカルティックな理由を持ち出すのがもっとも納得いくような三島の狂気的行動と凄惨な死に様に、近寄りがたいものを感じていたのはソルティだけではあるまい。(むろん、三島自決事件のときソルティはまだ小学生だったので、後年、三島文学に触れるようになってからの印象である)


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市ヶ谷自衛隊駐屯地での三島

 
 今回、怖いもの見たさでDVDを借りて、自決一年前の三島の姿を直視したら、ずいぶん印象が変わった。
 討論の最初のうちこそ、何者かに憑りつかれたような不自然な表情の硬さと、どこを見ているのか分からない虚ろな眼光がちょっと不気味であった。
 が、討論が進むにつれ、どうやらそれは緊張であったらしいことが分かってくる。
 そりゃあ、単身敵地に乗り込むのだから、緊張して当り前だ。

 頭のいい学生(なんたって東大生!)との討論の内容や、どっちが優勢か、あるいはどっちが正しいか、最終的にどっちが勝ったか、なんてことはソルティにはさほど興味がない。(あまりに話が観念的過ぎて付いていけない部分もあった)
 また、三島がしばしば口にする「殺し合う」とか、自らの将来を予告するような「自決する」とか、あるいは非合法の暴力の肯定といった過激な言辞にもさほど惹かれなかった。
 ソルティにとってこの討論会の一番の魅力、この記録映像の最大の価値は、三島由紀夫という男の対人姿勢を垣間見たところにある。
 別の言葉で言えばマナーである。
 主義でも思想でもルックスでも論客ぶりでも断じてなかった。

 三島は講堂をぎっしり埋めている、あるいは三島と共に壇上にいる学生たちに対して、終始、真摯に向き合い、敬意を持って遇し、相手の話に耳を傾け、対話において誠実で率直であろうと務め、ユーモアにあふれている。
 まず、この三島のユーモアというのが意外であった。
 ユーモアがあるというのは精神が硬直化していない一つの証拠であるから、三島が「何者かに憑りつかれて」我を無くしているというのは、少なくともこの段階ではどうやら当たっていない。
 『仮面の告白』による華々しい文壇登場の時からまったく変わらず、自らを相対化できる視点を携えているのである。

 また、三島の言葉は決して頭でっかちではない。己の実感から離れた思想や主義を振りかざしているのではない。
 実社会経験に乏しい学生たちはどうしても頭でっかちになりがち、つまり、行動が思想や主義によって牽引される傾向にある。(その最悪の結果が連合赤軍事件であろう)
 その思想や主義もまた、生活者の実感が伴わない借り物めいた感じが漂う。そもそもどのような条件付けのもとに自らがそういった思想や主義を抱くようになったかという点ついて自覚に乏しい。歴史的存在としての自分についておおむね鈍感である。(だからこそ、若者は今までにない新しいものが生み出せるのだが)
 たとえば、被差別部落に生まれ貧困と不平等に苦しんできた大正時代の若者がロシア革命を知って共産主義に希望を抱くような具合には、戦後生まれのインテリで資本主義社会において「勝ち組」を約束された東大生には、共産主義革命に対する切なる願望も内からの止むにやまれぬ慫慂もありはしないだろう。現実的な飢えや痛みから生み出され選ばれた思想ではない。

 一方、三島の皇国思想の背景には、まず日本文化や歴史についての深い造詣と理解があり、国や天皇のために戦い散っていった同朋を見送りながら戦前戦中を生き抜いてしまった事実があり、戦後民主主義の建設過程で神から人間になってしまった天皇や鬼畜米英から親米へと豹変した日本人を複雑な思いで見ながらも、その後に訪れた豊かさを「時代の寵児」として誰よりも享受してきた自分に対するアンビバレントな思いがあり、加えて三島独特の大儀の死と美とが結合したエロチシズムへの希求があった。
 三島の内的洞察力はこうした自らの条件付けと思想や欲望の成り立ちを当然自覚していたはずである。その自覚があればこそ、「自分は日本人として生まれ、日本人として死ぬことに満足している」というセリフが出てくる。
 天皇制や資本主義はもとより、日本人という国籍からの離脱さえ夢見る学生たちには、到底理解できる相手ではないだろう。
 ここには三島由紀夫=平岡公威という一人の男が背負ってきた重み(業)がある。そして、「歴史的存在としての人間を無視できるのか」という学生たちへの、戦後日本人への問いかけがある。

 三島がそうした条件付けからの解放を望まないのは、おそらく本映画の中でフランス文学者の内田樹が解説している通り、「国家の運命と個人の運命とがシンクロしていた時代に存在したある種の陶酔」を求めているからであろうし、作家の平野啓一郎が指摘している通り、「生き残った者の疚しさと苦悩」ゆえであろう。
 遺作となった『豊饒の海』で三島は仏教の世界に足を踏み入れている。
 あるいは三島には、すべての条件付けから解放されるべく、瀬戸内寂聴(やはり本作に登場している)のように出家して、悟りに向けて修行するという選択肢だってあったのかもしれない。であったなら、自殺することはなかった。
 が、それを決して許さないもの――自分一人だけが国家や文化や制度から解放されて生きのびることを良しとしないもの、あるいはダンディズム?――が彼の中には厳然とあったのだろう。


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Pete 😀によるPixabayからの画像


 さて、マナーの話に戻る。
 三島がマナーを持って学生たちと向き合っているのは、彼らを「他者」として認めているからにほかならない。
 この他者をめぐる問題が、この討論会の、あるいはこの映画の、あるいは三島由紀夫自身の最大にして究極のテーマであったのだと思う。
 最初の10分間スピーチの中で、三島は次のようなことを述べている。

・私は安心している人間が嫌いだ。
・私は当面の秩序を守るために妥協するという姿勢が嫌いだ。
・私は知性(知識・思想)でもって人の上に君臨するのが嫌いだ。

 これは、「自己充足して他者と向き合おうとしない人間が嫌いだ」ということを言外に匂わせている。
 そのあと、司会を務める制服姿の学生(木村修)は三島への最初の質問として、奇しくも「自己と他者」の問題を投げかける。正直、彼の質問自体は要領を得ない稚拙なものであるが、他者という言葉を“いの一番”にぶつけたセンスは素晴らしい。(たぶん、横で構えていた三島もビックリしたのではないか)

 三島はおおむねこんなことを答える。

 エロチシズムにおいて、他者とは「どうにでも変形されうるようなオブジェ」であるべきで、意志を持った主体ではない。
 一方、(真の)他者とは、自分の思うようにはならない意志を持った主体であり、それとの関係は対立・決闘あるのみで、全然エロチックなものではない。
 自分はこれまで、エロチシズムにおける他者を作品のテーマとして描いてきたけれど、もうそれには飽きた。
 私は(真の)他者がほしくなった。
 だから、君たちが標榜する共産主義を敵(=他者)と決めた。

 この告解は衝撃的である。
 三島文学の大きな特徴は「他者との関係の不可能性」にあった。
 関係が不可能なところにエロチシズムが存在したのである。
 それは、川端文学や谷崎文学にも、いや三島以前のほぼすべての男性作家について言えるところであろう。
 基本、男のエロスは自己充足的=オナニズムだからである。
 三島はそれとは決別して、他者を探す旅に出たのだ。
 エロスでも暴力でもなく、言葉によって他者と出会う可能性を探ったのだ。
 共産主義を志向する若者たちを、自らの意志を持つ「他者」と認めればこそ、対等の立場で敬意を持って対話しようとしたのである。
 それが三島のマナーの持つ意味の一つである。


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壇上の三島と進行役の木村青年


 英国の推理作家G.K.チェスタトンのブラウン神父シリーズの中に『共産主義者の犯罪』という一編がある。
 共産主義による社会転覆と神の抹殺を標榜する名門大学の教授が、大学関係者が集う夕食会の席で、伝統破壊者らしい言辞を披露して同僚の不興を買いながらも、その一方、大学特製の葡萄酒を煙草を吸いながら口にすることはついにできなかった、という話である。
 思想や主義はいくらでも標榜できるし転向もできるけれど、生まれ育ちの中で身に着けたマナーは容易には変えられないという逆説。
 本映画で確認できる三島の品格あるマナーこそ、まさに後年筋肉と共に身に着けた思想や主義以前に、人気作家になるはるか以前に、三島由紀夫ならぬ平岡公威が平岡家の伝統の中で身につけた文化であると同時に、ほとんど無意識と言っていいくらい深いところで三島を規定している気質、すなわち人柄というものである。
 「主義主張が異なる相手に対しても、対話する際には敬意と忍耐をもって遇せよ」という三島の中の定言命令である。
 その品格は1000人の学生の目にはたしてどのように映ったのか。

 上記の木村修が発言の途中で三島のことを思わず、「三島センセイ」と言ってしまい、すぐに自らの権威盲従的失言に気づき、苦し紛れの弁明をする場面がある。
 木村の生真面目な愛されキャラのおかげで会場も三島も爆笑、一気に会場の雰囲気は和らぐ。
 おそらく、木村は思想や主義を超えたところにある三島由紀夫の人柄を敏感に察し、それに感化されたのだろう。 
 いまや70代になった木村がインタビューで当時を振り返るシーンがある。
 それによると、討論会が終わって木村が三島にお礼の電話を入れたところ、その場で楯の会に誘われたという。敵からの勧誘である。
 非常に面白い、かつ意味深なエピソードである。
 三島が実は、個人の思想や主義なんてさほど重要とは思っていない、人と人とが「肝胆相照らす」には思想や主義なんかより大切なことがある、とでも言っているかのようだ。

 尚武を気取る三島は口にしなかったけれど、他者との関係には対立・決闘だけでなく、互いを理解しようとする意志すなわち愛だってある。
 900番教室の学生に対する三島のマナーの根底にあるのは愛なのだと思う。
 この映画が感動的なのはそれゆえだ。

 それにしても、半世紀前には絵空事でナンセンスとしか思えなかった三島の言辞――天皇制をめぐる問題と憲法改正――が、今日焦眉の政治的テーマとなっているのは驚くばかりである。
 そして、900番教室を埋め尽くし口角泡飛ばして政治や社会を語った東大生が、いまやテレビのクイズ番組でアイドルのように扱われているのを見るにつけ、ソルティもそこに生きてきた日本の50年という歳月を奇妙なものに思う。


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現在の東京大学駒場の900番教室



おすすめ度 :★★★★

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● 映画史上最も醜悪なカット 映画:『マンディンゴ』(リチャード・フライシャー監督)

1975年アメリカ
127分

 現在、日本各地で46年ぶりにリバイバル上映されている話題作である。
 宣伝資材には「映画史上最大の問題作」、「呪われた大作」、「最悪の映画」などセンセーショナルな煽り文句が冠されている。

 実際、酷い映画である。
 正視できない場面も少なからずあった。
 ただし、映画の出来が酷いのではない。
 内容があまりに残酷で、あまりにおぞましく、あまりに暴力的で、ヒューマニズムからあまりにかけ離れているので、「酷い」と言うしかないのだ。
 最後まで観てしまったけれど、鑑賞後にこれほど自分が穢れたような気分になった映画は最近珍しい。

マンディンゴ
『風と共に去りぬ」をパロった公開時のポスター

風と共に去りぬ


 物語は19世紀半ばのアメリカ南部。
 アフリカから連れてこられた黒人奴隷が売り買いされ、農場で酷使されていた。
 そう、『風と共に去りぬ』の時代。
 『マンディンゴ』を観ると、『風と共に去りぬ』の作者マーガレット・ミッチェルとヴィヴィアン・リー主演の映画の制作者たちが、いかに南部を美しく描いていたのかを痛感する。
 人種差別の醜い現実からいかに目を背け、白人の美男美女の壮大なラブストーリーに読者の関心を向けさせたか、その少女漫画のごときデイドリームぶりに呆然とする。
 こうして『マンディンゴ』を観てしまったからには、もう二度と『風と共に去りぬ』を心から楽しめないような気さえする。
 『風と共に去りぬ』が『オズの魔法使い』に、スカーレット・オハラがドロシーに思えてくるほどだ。

 主人公一家は“奴隷牧場”を経営している。
 これは黒人奴隷が牧場で働いているという意味ではない。
 優秀な奴隷を集めて飼育し、牛馬のように掛け合わせ、さらに優秀な奴隷を作って売る仕事なのだ。
 黒人は動物である。  
 だから、病気になった黒人を診るのは獣医である。

 『マンディンゴ』はカイル・オンストット著の同名小説がもとになっているのだが、リアリズムと言っていいのだろうか?
 どこまで史実に則っているのだろう?
 これだけのクズ白人がアメリカの地で大手を振って歩いていたなんて本当だろうか?
 それとも誇張や粉飾があるのだろうか?
 思わず問いただしたくなってしまう。
 スティーヴ・マックイーン監督『それでも夜は明ける』や、ソルティが子供の頃に観たアレックス・ヘイリー原作のテレビドラマ『ルーツ』の内容を踏まえると、史実と言っていいのだろうな・・・・。
 信じたくないような話であるが、目を背けてはいけないホモサピエンスの姿である。
 
 牧場を経営する主人は、リウマチを治癒するために、暇さえあれば床に寝かせた黒人少年の裸の腹の上に素足を乗せる、その母親の目の前で――。
 こうすると少年に体の毒がうつるから、と主治医がすすめたからだ。
 おそらく、映画史上最も醜悪なカットの一つに違いあるまい。
 (現代なら、このシーンの撮影すら許されないのではなかろうか)
 
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● 本:『三島由紀夫 石原慎太郎 全対話』

2020年中公文庫

 1956年から69年に誌上で行われた三島由紀夫と石原慎太郎の全対話9編、併せて1970年の毎日新聞紙上での論争を収録している。
 「戦後日本を象徴する二大スタア作家の競演」という裏表紙の謳い文句に偽りはない。

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 上記の写真は1956年撮影と注釈にあるから、おそらく二人が初めて対談した『文學界』昭和31年4月号の際に撮ったものであろう。
 場所は当時文藝春秋社ビルがあった銀座界隈と思われる。
 時に三島由紀夫31歳、石原慎太郎24歳、7つ違いであった。

 昭和40年生まれと昭和47年生まれ、あるいは平成3年生まれと平成10年生まれの違いはそれほど大きくはない。
 しかし、大正14年生まれと昭和7年生まれの違いは看過できないほど大きいと思う。
 なぜなら、三島は多感な青春期に太平洋戦争、徴兵検査、広島・長崎原爆投下、ポツダム宣言受諾、天皇の人間宣言、日本国憲法発布を経験しているのであり、一方、石原の青春は戦後に始まったからである。
 両者の国家観、天皇観、戦争観、日本人観、そして死生観には埋められない深い溝があると想像される。
 その意味では、ともにブルジョア育ちで戦後に文壇に躍り出て一躍マスコミの寵児として持て囃されたという共通項こそあれど、三島は戦前・戦中の意識を背負った作家、石原は戦後の空気を象徴する作家という違いが指摘できよう。
 
 さらに、この写真で気づくのは二人の身長差である。
 181㎝と長身の石原に対し、三島は163㎝、20㎝近い差がある。
 撮影ではそのギャップが目立たないように、三島を前景に置き、かがんで手すりにもたれているような姿勢を取らせ、下半身はカットするという工夫が取られている。
 だが、ちょうど頭一つ分の二人の顔の位置の差は、そのまま二人の身長差であろう。
 これに象徴されるように、生まれながらの美丈夫でスポーツマンであった石原に対し、三島はコンプレックスを持たざるをえなかった。
 三島が貧弱な肉体改造のためボディビルを始めたのが、石原が『太陽の季節』で華々しくデビューした直後だったのは一つの符号である。
 二人の対話は、三島が己の肉体にそれなりに自信を持てるようになった頃、マッチョへの道、武芸への道、革命の志士への道を歩みだすターニングポイントに立ったあたりから始まったのである。

 本書の一番の面白さは、戦後のスタア作家でマスコミの寵児という共通項を持ちながらもまったく対照的な二人の対話を通して、それぞれのキャラ(本質)が浮かび上がってくるところにある。
 両人は、互いに小説家としての才能と仕事を認め合い、「友人ではなくとも味方」として認識し、互いの作品への忌憚ない批評を行い、男同士ならではの女性論や結婚論を開陳し合い、ときには文壇の先輩後輩という立場を離れて意見を闘わせている。
 先輩作家であり時代のヒーローである三島に対する新人作家・石原のタメグチに近い応答は、無礼と思う前に有吉弘行のようなふてぶてしさに感心するほどであり、それを平気で許してしまう三島の度量というか愛情(だろうな、やっぱり)は貴重なものである。
 石原慎太郎という男は、若い頃から偉そうだったんだな~。

破れ障子


 三島由紀夫は、漱石や芥川龍之介や谷崎や川端や太宰治など明治以来の文豪の流れをくむ根っからの物書きで、「書くこと=生きること」タイプのインドア人間。
 一方、石原慎太郎は、小説のほかにも映画を作ったり、ヨットやオートバイラリーをやったり、政治をやったり、女と遊んだり、「行動すること=生きること」タイプのアウトドア人間。
 この違いは両人の“自意識”に対するスタンスの差にあるようだ。
 三島は石原を「自意識において破滅しない作家」と評する。

三島 この人たちはどうほうっておいても、どんなにいじめても、自意識の問題で破滅することはない。それは悪口いえば無意識過多ということになるよね。・・・(中略)・・・自意識というものがどういうふうに人間をばらばらにし、めちゃくちゃにしちゃうかという問題にぶつかったときに、耐えうる人と耐え得ない人があるんだね。

 三島は「自意識において破滅する作家」の典型として太宰治を上げているが、むろん、三島自身も間違いなくその一人であった。三島の有名な太宰批判は、一種の同族嫌悪であろう。
 別の言い方をすれば、三島にとって自意識は常に「邪魔になる」ものであったのに対し、石原の自意識は常に「宝になるもの、自慢になるもの」であった。
 我が国の明治以来の文学の伝統は、「厄介なる自意識(近代的自我)をどう社会の中に位置づけるか」みたいなところにあったわけだが、石原はその本流からは逸れているのかもしれない。(ソルティは石原の対談集はともかく小説を読んだことがないので推測にすぎんが)

 両者の違いが鮮明に表れるのは、『守るべきものの価値』と題された最後の対談(昭和44年11月実施)である。この対談のちょうど一年後に三島は自決している。
 石原による「あとがきにかえて」(2020年に行ったインタビュー)によれば、この対談の最初のテーマは『男は何のために死ねるか』だったそうで、対談の皮切りに両人が「せーの」で提出し合ったこの問いに対する回答はまったく同じ、「自己犠牲」であった。
 ところが、対談を通して判明していくのは、この「自己犠牲」の中身がまったく異なることである。
 「最後に守るべきものは何か」という問いに対して、三島が出した答えは「三種の神器」すなわち天皇制である。
 これは、天皇こそが日本文化の要であり、日本を他国から弁別できる最終的なアイデンティティは天皇制だけだ、という三島の思想によっている。
 それを死守するための自己犠牲なのだ。
 一方の石原は「自分が守らなければならないもの、あるいは社会が守らなければならないもの」は、自由だと言う。

石原 僕の言う自由はもっと存在論的なもので、つまり全共闘なり、自民党なり、アメリカンデモクラシーが言っているもののもっと以前のもので、その人間の存在というもの、あるいはその人間があるということの意味を個性的に表現しうるということです。つまり僕が本当に僕として生きていく自由。

 自らの自由、あるいは自由な表現を守るための「自己犠牲」は尊い、というのが石原のポリシーなのである。
 同じ「自己犠牲」でもベクトルは真逆である。
 三島が没我的・他律的であるのに対し、石原は自己顕揚的・自律的である。
 あるいはこの違いこそ、「お国のため」、「君のため」を幼い頃より叩きこまれた戦前・戦中派と、「自分ファースト」の戦後派の違いなのかもしれない。
 両人はこの違いにおいて、激しく意見を衝突させる。

三島 形というものが文化の本質で、その形にあらわれたものを、そしてそれが最終的なもので、これを守らなければもうだめだというもの、それだけを考えていればいいと思う、ほかのことは何も考える必要はないという考えなんだ。
石原 やはり三島さんのなかに三島さん以外の人がいるんですね。
三島 そうです、もちろんですよ。
石原 ぼくにはそれがいけないんだ。
三島 あなたのほうが自我意識が強いんですよ。(笑)
石原 そりゃァ、もちろんそうです。ぼくはぼくしかいないんだもの。ぼくはやはり守るのはぼくしかないと思う。
三島 身を守るというのは卑しい思想だよ。
石原 守るのじゃない、示すのだ。かけがえのない自分を時のすべてに対立させて。
三島 絶対、自己放棄に達しない思想というのは卑しい思想だ。
石原 身を守るということが?・・・・ぼくは違うと思う。
三島 そういうの、ぼくは非常にきらいなんだ。
石原 自分の存在ほど高貴なものはないじゃないですか。かけがえのない価値だって自分しかない。

 図式的な見方になるが、

 三島由紀夫 =自己否定的=生の否定=肯定できる他者(美、天皇)の顕揚と仮託
 石原慎太郎 =自己肯定的=生の肯定=他者不要(あるいは自分を顕揚してくれる他者のみ必要)
 
 両者はちょうどネガとポジのよう。
 どっちが生活者として幸福かといったら、自ら「太陽」であり「天然」であり「王様」である石原のほうであろう。
 どっちが文学者として幸福か、つまり後世に残るかといえば、むろん三島である。
 なぜなら、他者不要の文学なんて意味がないから。

「あとがきにかえて」の最後で、石原はこう述べている。

 結局、あの人は全部バーチャル、虚構だったね。最後の自殺劇だって、政治行動じゃないしバーチャルだよ。『豊饒の海』は、自分の人生がすべて虚構だったということを明かしている。最後に自分でそう書いているんだから、つらかったと思うし、気の毒だったな。三島さんは、本当は天皇を崇拝していなかったと思うね。自分を核に据えた一つの虚構の世界を築いていたから、天皇もそのための小道具でしかなかった。彼の虚構の世界の一つの大事な飾り物だったと思う。

金閣寺


 ソルティも、ここで石原の言っていることはかなりの程度まで当たっているように思う。
 ただ、石原の人を貶めるような物言いには、文学者として最早決して同じレベルに立つことができない先輩・三島に対する男の嫉妬のようなものが感じられる。
 悪名高い石原のホモフォビアも、三島への嫉妬心から来ると思えば存外理解しやすい。
 恩知らずな奴。




おすすめ度 :★★★★

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● ロマンチックが止まらない 映画:『ラ・ラ・ランド』(デミアン・チャゼル監督)

2016年アメリカ

 記事のタイトルは、1985年1月にリリースされたC-C-Bのシングル曲。
 中山美穂と木村一八主演のちょっとエッチな性春ドラマ『毎度お騒がせします』(TBS系列)のテーマソングであった。
 ドラマの内容から言えば、「妄想が止まらない」に近かったが・・・。
 
 『ラ・ラ・ランド』こそ、まさにロマンチックそのものである。
 このITとスピードの殺伐とした時代に、かくもロマンチックで純粋なミュージカル映画が作られ、それが大ヒットし、数々の賞を受賞するとは意外であった。
 いや、この夢も希望も恋も語りづらい時代だからこそ、受けたのだろうか?
 
 主演の恋人たち、ライアン・ゴズリングは『ブレードランナー2049』ではじめて観て、トム・クルーズやブラピ系列の“イケメンだけれど演技は今一つ”の男優かと思っていたが、本作で認識を改めた。
 非情に繊細な演技ができる本格派であった。
 オスカーも近いのではなかろうか。
 一方のエマ・ストーン。
 演技は申し分ないが、歌がまずい。
 わざと下手に歌っているのかと思うほど。
 昔のハリウッドだったら吹き替えを使うところではなかろうか?
 二人の相性はぴったりである。

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ライアン・ゴズリングとエマ・ストーン
 

 色彩豊かでカメラ回しも面白く、『雨に唄えば』など50年代のミュージカル映画を思わせるレトロでポップな雰囲気と、ゲイ受けしそうな陽気でキャンピーなノリと、CGを使った魔術的なタッチとがうまい具合に調合されている。
 そのうえに抜群の音楽センス。
 チャゼル監督の紛うことない才能が証明されている。
 
 コロナ禍のいま、ショービズ関係で働く人たちが困窮している。  
 生活面の困難はもとより、舞台や音楽や芸能が「不用不急」の烙印を押されてしまうことは、そこで生きる人たちの誇りを傷つけ生きがいを奪うだけでなく、社会から夢を見る力を剥奪しかねない。  
 そんなことを気づかせてくれる映画である。



おすすめ度 :★★★★

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● 50歳以上お気の毒さま 本:『白い病』(カール・チャペック著)

1937年原著刊行
1992年邦訳初出
2020年岩波文庫(阿部賢一訳)

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 3幕の戯曲。
 カール・チャペック(1890-1938)は、今は無きチェコスロバキア共和国のジャーナリスト&作家。
 チェコスロバキアは1918年オーストリア=ハンガリー帝国から独立して建国、1960年以降は共産党独裁による社会主義国家となりソ連の支配下にあった。1992年のビロード革命で共産党政権が崩壊、チェコ共和国とスロバキア共和国に分離して今に至っている。

 白い病とはチャペックが創造した伝染病である。50歳以上の人間だけが罹患、皮膚に白い斑点が現れたのち身体内部で腐敗が進行し、数週間後に死亡する。感染力は非常に強く、握手でもうつる。中国が発生源という噂がある。
 新型コロナウイルスとの類似を思うところだが、本書はまさに2020年4月~5月の緊急事態宣言中に訳し出されてウェブ公開されたのが文庫化のきっかけとなった。
 カミュの『ペスト』、デフォーの『ペスト』同様、タイムリーな企画出版というわけだ。

 白い病はコロナ同様、世代間の分離と対立を引き起こす。
 作中に登場するある家族の会話。

父 ばかげてる! 今日の学問や文明はいったいどうなってるんだ、ありえん話だ――伝染病がこんなに流行しているってことは、今は中世だとでも言うのか? しかもどうして五十歳なんだ。職場でも一人が病気になったが、ちょうど四十五だった。五十前後の人間だけが病気になるのはどう考えても公平じゃない。いったいどうして、なぜなんだ――
 なぜって? 父さん、若い世代に場所を譲るためでしょ。そうならなければ、行き場がないんだから。

娘 今の若者にはチャンスがないの、この世の中に十分な場所がないの。だから、私たち若者がどうにか暮らして、家族をもてるようになるには、何かが起きないとだめなの!


 世界じゅうに広がり打つ手がないように思われた白い病の特効薬を、ある町医者が開発した。ガーレン医師だ。
 お国の大学病院を借りておこなった臨床試験でも抜群の成績を上げた。
 大学病院の責任者はじめ財界や政界のお偉方は、ガーレン医師に治療法の公開を求める。
 それに対してガーレンが要求した引換え条件は、あまりにまっとう過ぎるがゆえに、かえって実現困難なものであった。

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 本作のテーマは、平和を求める者と戦争・権力・富を求める者との対峙を描くところにある。それはまた「持たざる者」と「持つ者」との闘いであり、一人の平和主義者が国家主義者に挑んだ一種のテロリズムである。武器は白い病の治療法だ。

 発表当時はもちろん、ヨーロッパで勢力を拡大しつつあったナチスドイツ、つまり国家主義&全体主義に対する風刺であり、プロテストだったのだろう。登場人物の一人、国軍の最高指導者たる元帥は、ヒトラーを連想させる。
 本作がタイムリーなのは白い病がコロナウイルスと似ているからだけではない。
 平和をひたすら求め貧しい患者を助けるガーレンと、「国のため」と言いつつ栄誉や威信や私利私欲に執着する権力者との対比に、香港や台湾の市民 v.s. 中国共産党を、あるいは民主化を求めるミャンマーの大衆 v.s. 国軍を、重ね合わせてしまうからである。
 時代を超越するところが名作たるゆえん、岩波文庫にふさわしい。

 最後には元帥自身も白い病に感染してしまう。
 さて、どんな結末が用意されているか・・・・。

 140ページの薄さなので、小一時間あれば読める。
 

 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● ソ連消滅30周年 本:『ソヴィエト旅行記』(アンドレ・ジッド著)

1936、1937年原著刊行
1937年邦訳初出
2019年光文社古典新訳文庫

 ソヴィエト、ソ連という国が地上から消えてすでに30年経つ。
 あんなに大きな、あれだけ威勢を誇った、あれほどアメリカはじめ西側諸国を脅威に陥れた国が一夜にして無くなるとは、まさに晴天の霹靂であった。
 猛き者もついには滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ・・・・
 当時(1991年)、第一報に接したとき思わず朗誦したくなったのを覚えている。


赤の広場
モスクワ:赤の広場


 住井すゑ著『橋のない川』を読むと、1917年にロシア革命が起こって史上初の社会主義国家であるソヴィエトが誕生したことが、日本全国の被差別部落の住人や貧苦にあえぐ農民や労働者らにとって大いなる希望と勇気をもたらしたことがありありと知られる。1922年に早くも日本共産党が生まれている。
 世界でもそれは同じで、1921年に中国共産党が誕生しているし、ヨーロッパでも芸術家や知識人をはじめ共産主義に共鳴し新生ロシアに期待する人は多かった。皇帝専制政治を廃し、人民(プロレタリア)主体の自由と平等と平和を掲げた国の出現は、人類が永年夢見たユートピアの到来を思わせたのである。
 フランスのノーベル文学賞作家であるアンドレ・ジッド(1869-1951)もまたその一人であった。

 ソ連が私たちにとって何であったか、誰か言える者があるだろうか。望んで選んだ第二の祖国というだけでは足りない。一つの規範、一つの指針だったのだ。私たちが夢見ていたもの、高望みと知りつつも、それでも私たちの意志が全力を挙げてそこへ向かおうとしていたもの、それがかの地では実現されていたのだ。ユートピアがまさに現実のものになろうとしていた土地、それがかの国だったのだ。

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 本書は、ジッドが1936年の6月から8月にかけてソヴィエトを旅行した際の見聞録『ソヴィエト旅行記』と、それが故国で発表されるやいなや巻き起こった左派からの激しい非難や罵倒に対して反論した『ソヴィエト旅行記修正』の2編から成っている。 
 つまり、共産シンパであった一人の作家が、革命20年後のロシアを訪れ、その最も良い部分を経費あちら持ちの大名旅行で見物し、にもかかわらず、ロシアの惨憺たる現実と革命の失敗に気づき、帰国後共産主義ときっぱり決別することになった、いわゆる「転向」の一幕が描き出されている。
 スターリン独裁下のロシアの、まるでジョージ・オーウェル『1984』そのままの全体主義的管理社会の風貌を伺うのも興味深いが、やはり一番の魅力は、多大な影響力をもつ西側の共産シンパの著名人をだますために体よくお膳立てされた見学ツアーにあって、虚飾の下の真実を見抜くジッドの観察力と洞察力、そしてしばしば「転向者」に向けられる罵倒や蔑みをものともせずに、率直に自らの誤りを認め、事実をありのままに伝えんとするジッドの芸術家としての誠実さと使命感である。

 今、為政者たちが人々に求めているのは、おとなしく受け入れることであり、順応主義である。彼らが望み、要求しているのは、ソ連で起きていることのすべてを称賛することである。彼らが獲得しようとしているのは、この称賛が嫌々ながらではなく、心からの、いやもっと言えば熱狂的なものであることである。そして最も驚くべきは、それが見事に達成されているということなのだ。しかしその一方で、どんな小さな抗議、どんな小さな批判も重い処罰を受けるかもしれず、それに、たちまち封じ込められてしまう。今日、他のどんな国でも――ヒトラーのドイツでさえ――このソ連以上に精神が自由でなく、ねじ曲げられ、恐怖に怯え、隷属させられている国はないのではないかと私は思う。

 私にとって何よりも優先されるべき党など存在しない。どんな党であれ、私は党そのものよりも真実の方を好む。少しでも嘘が入り込んでくると、私は居心地が悪くなる。私の役目はその嘘を告発することだ。私はいつも真実の側につく。もし党が真実から離れるのなら、私もまた党から離れる。

 國分俊宏による新訳は非常に読みやすく、注も解説も充実している。
 とくに、日本共産党の委員長だった宮本顕治の妻でプロレタリア作家の宮本百合子が、本書が最初に邦訳された(1937年)ときに発表した書評についての記述が非常に面白い。
 当然、宮本はジッドと本書をクソミソにこき下ろした。曰く、ブルジョア育ちの芸術家で世間知らずのジッドは、大局的な現実を、歴史の本質を見ていない云々・・・。
 國分はこう書いている。

 いずれにせよ、歴史を見ればすでに決着はついている。宮本の文章は、常に絶対にイデオロギーに忠実であろうとして党派性にのみ固執すれば、どんな歪んだ理屈で人を批判するかという民族誌的標本として貴重な例を提供していると言うべきだろう。

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 ソ連はなくなったが、取って代わるように同じ共産主義国家である中国が世界を席巻している。北朝鮮は鉄のカーテンどころか「タングステンのシャッター」の向こうにあり、中で何が起こっているのか計り知れない。中国やロシアとの関係を深める軍事政権下のミャンマーの今後も気がかりである。
 社会主義や共産主義が危険なのは、それが好んで標榜する「自由・平等・民主・人権・進歩」といった概念そのものが過ちであるからではなく、抑圧され苦しんでいる大衆を惹きつけて莫大なパワーを結集させるこの“魔法の言葉”が、権力への飽くなき野望をもつレーニンやスターリンや毛沢東のような狂人たちにとって、野望実現のための恰好な隠れ蓑になるからではなかろうか。
 右にも左にも関係なく権力と支配が大好きな輩はどこにでもいて、イデオロギーさえ彼らのいいように利用されるってことだ。

 
ジッド
ジッドと年下の愛人マルク・アルグレ

 

おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 


 
 


● JR多度津駅構内食堂

 2018年秋に四国歩き遍路をしたときに、香川県のJR多度津駅前にあるホテルトヨタに泊まった。

 この駅は、別格17番神野寺(満濃池)、金毘羅さま、75番善通寺、76番金倉寺といったJR土讃線に沿った縦の札所ラインと、別格18番海岸寺、77番道隆寺、78番郷昭寺、79番天皇寺、80番国分寺といったJR予讃線に沿った瀬戸内海沿いの横の札所ラインが交わる地点にあり、歩き遍路にしてみれば、一つの章を終えて次の新たな章が始まる中継点――みたいなイメージがある。
 満濃池からの縦のラインを打ち終わり、多度津駅のコインロッカーに大きな荷物を預け、3キロほど離れた別格18番海岸寺を打ち戻り(往復)し、「もう今日はここらが限界」とホテルにチェックインした。

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JR多度津駅

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 シャワーを浴びて一服し、「さあ夕食」と思ったが、あいにくホテルの食堂は閉まっていた。
 ならば、駅構内のコンビニで弁当でも買ってこようかと、夕暮れの駅前広場を横切っていると、線路沿いの小屋の壁に「食堂」とだけ書かれた看板を見つけた。
 矢印にしたがって奥へ進むと、「日替り定食500円」と書かれた札が入り口に貼ってある。
 場所が場所だけに、体裁が体裁だけに、おそらくJR職員のための食堂なのだろうと見当がついた。
 こういう所は、“安くてボリュームたっぷり”と相場が決まっている。
 ここで夕食をとることにした。


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 期待どおりボリューミイだった。
 味は普通だが、讃岐名物のうどん、揚げ物3点、おにぎりと稲荷ずし、これで500円なら大満足である。
 ずいぶんとエネルギーをもらった。
 開店したばかりで店内は空いていたが、制服姿のJR職員のほかに、近所の親子連れらしきも見られ、地元民に愛されているのだろうなあと思った。
 よもやここが、鉄道ファンでは有名な“JR多度津駅構内食堂”であるとは知らなんだ。

 JR四国の多度津駅の構内食堂(香川県多度津町栄町3丁目)が3月末で閉店することがわかった。乗務員や駅員らのための「社員食堂」だが、四国の鉄道発祥の地とも言われる拠点の駅構内にあり、鉄道ファンや地域住民にも長年愛された。JR四国は建物の老朽化が理由と説明しているが、関係者からは惜しむ声が上がっている。(中略)
 食堂の裏手には、れんが造りの給水塔がある。国の登録有形文化財に指定されている、この大正期の建造物などをカメラに収め、食堂にも立ち寄る全国各地からの鉄道ファンも後を絶たない。
(朝日新聞デジタル 令和3年1月23日の記事より)

 上の写真の食堂の奥に見える煙突のようなのが給水塔らしい。
 この給水塔も壊されてしまうのかな?

 くちくなった腹を撫でながら駅前広場をホテルへ向かうと、夕映えの讃岐の山々が翌日の快晴を告げていた。
 「明日も元気に歩くぞ!」
 そう思った。
 

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 JR職員や地元民や鉄道ファンのみならず、何千という歩き遍路にとっても、思い出深い、有りがたい、元気が出る食堂であったのは間違いなかろう。








● 新型コロナウイルスの怖さに関する考察

 新型コロナウイルスが出現して一年以上になる。
 2021年1月10日時点の世界の累計感染者は8,800万人、死亡者は190万人を超えている。
 たった一年でこれだけ広がったのだ。
 これは2019年のデータではあるが、UNAIDS(国連エイズ合同計画)の発表によれば、世界の新規HIV感染者は年間170万人、エイズによる死亡者は年間69万人だった。
 新型コロナウイルスの一年間の感染者数は、過去40年分のHIV感染者数(推定7,570万人)を上回ってしまった。
 このウイルスの威力をまざまざと感じる。
 
 日本では2021年1月10日現在、累計感染者288,825人、死亡者4,066人である。(厚生労働省発表)
 ソルティは首都圏に住み、地元の介護の仕事に携わっているが、今や、身近なところで感染を聞くようになった。地域のデイサービス、認知症のグループホーム、市内の学校、骨折治療で世話になった病院・・・・。
 先日も知り合いの介護従事者が感染し、いま自宅療養中という。
 自分や自分の同居家族がいつ感染してもおかしくない状況になってしまった。
 なんということだ!
 ダイヤモンドプリンセス時代が懐かしい・・・・

 
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 このウイルスの怖さはどこにあるのだろう?

 むろん、死につながる病であることが第一である。
 が、それだけではないことも確かだ。
 同じ感染症で、かかったら死ぬこともあるという点では、インフルエンザと変わりないはずだ。
 感染力や致死率の違いが、新型コロナウイルスをインフルエンザより怖いものにしているのだろうか?
 それならばHIV/AIDSはどうだ?
 感染力や致死率はインフルエンザよりずっと低いのに、いまだに人々から恐れられ、忌避されている。
 そう。新型コロナウイルスをめぐる今の日本の状況は、35年前のAIDSパニックに近いものがある。
 そのあたりを考察してみたい。

 
新型コロナウイルスが怖い理由

理由1 病気そのものの怖さ
 ウイルス感染が個体にもたらす身体的苦痛と心理的苦痛がある。
 初期症状と呼ばれる発熱や倦怠感やのどの痛みから始まって、嗅覚・味覚の異常や止まらない咳、呼吸苦、肺炎、気管内挿入に象徴される治療の苦しみ、そして最悪の場合、死がある。
 運よく回復したとしても、後遺症に苦しむ人も少なくない。
 病気と闘っている間に生じるであろう不安、恐怖、孤独、絶望なども馬鹿にならない。
 無症状で自宅やホテルで待機している人もまた、「いつ発症するか」「いつ急変するか」という不安や恐怖を免れ得まい。

 病気に対する怖さに影響を与えるものとして、その国の医療レベル、治療へのアクセスしやすさ、社会保障レベル、個人が属する文化における病気や死に対する観念、それぞれの個体の持っている強さ(年齢・既往症・抵抗力・精神力ほか)などが挙げられよう。

 
理由2 スティグマによる怖さ
 スティグマとは烙印のこと、かつて犯罪者の皮膚に焼きゴテでつけた印のことである。
 新型コロナウイルスに感染することで、個人は周囲や社会からまるで犯罪者のような扱いを受けることがある。
 中傷、差別、プライバシー侵害、不必要な隔離などの自由の束縛。
 当人だけでなく家族も被害者となる。
 患者をケアする医療従事者もまた対象となる。
 すでにいろいろな酷いことがあちこちで起きているのを聞いている。

 スティグマの強さに影響を与えるものとして、社会の人権意識や科学性、メディアの扱い、病気や死に対する観念などが挙げられよう。たとえば、健康幻想が強いところでは、病気=悪とみなされやすい。
 一般に、迷信深い他罰的社会ほど、スティグマは強いと思われる。


理由3 周囲や世間に迷惑をかける怖さ
 自分が感染した。そのときに、周囲が被るであろう様々な負担や労力や被害に対する負い目が生じる。
 たとえば、病欠によって仕事に穴を開ける、同僚の負担を増やす負い目。自分と関わった人々を“濃厚接触者”にしてしまう(=2週間の自宅待機を余儀なくさせる)負い目。風評被害による経済的損失を作り出してしまう負い目。

 こうした負い目は、世間体を気にする社会、個人より組織を大切にする社会、「人に迷惑をかけるな」という教えが尊ばれる社会、同調圧力が強い社会ほど、個人にのしかかるであろう。
 日本はまさにそうである。


理由4 他人にうつしてしまう怖さ
 上記1~3の怖さのすべてを他人にも与えてしまう恐れ。
 それが見知らぬ他人でもつらいことだが、職場の同僚であったり、仲の良い友人であったり、同居の家族であったりすると、実に心苦しいものである。

 他人にうつしてしまう怖さは、たとえば、医療や介護や保育など濃厚接触が避けられない仕事に就いていればより強くなるし、同居する家族の有無によっても違ってくるだろう。
 厄介なのは、現在自分が感染しているかどうかが把握できないことである。
 無症状でも感染していることはあるし、検査で「陰性」が出てもそれは100%絶対ではない(=偽陰性がある)。
 また、HIV検査同様、感染して時間が経っていない段階では正確な判定が下せない“ウインドウピリオド”があるため、「陰性」は必ずしも今現在の状態を示すものにはならない。
 自分がすでに「感染している」ものと仮定して、相手に接するくらいの配慮(逆防御?)が必要かもしれない。


理由5 生活が破壊される怖さ
 新型コロナウイルスの影響による失業者は、本年1月6日時点で8万人を超えたと言う。 
 この先、もっともっと増えるのは間違いない。
 企業の倒産、閉店、廃業、解雇、雇い止め・・・・・。
 全国レベルでこれだけたくさんの人が生活の危機にさらされたのは、終戦直後以来初めてだろう。
 自粛の影響は、ひとり経済面のみならず、文化面、教育面、健康面(身体的にも精神的にも)にも深い影響を及ぼしている。
 昨年7月以降の自殺者数の増加傾向も指摘されている。
 社会保障がいまこそ重要だ。


 上記1~5の理由は相互に関連し、影響し合い、良くも悪くも相乗効果を生んでいる。
 たとえば、まかり間違えば死に至る病であるからこそ、スティグマも強いし、他人にうつしてしまうのが怖い。他人に感染させてしまう病であるからこそ、加害被害の関係が発生し、感染者を罰する空気が生まれやすい。世間に迷惑をかけることを非とする社会だからこそ、迷惑の元となった人に対するバッシングは厳しい。生活が破壊されるリスクがあるからこそ、病気の怖さが一段と増してくる。


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Gerd AltmannによるPixabayからの画像


 ソルティは専門家ではないし、ここは対策を考える場ではない。
 特効薬やワクチンの開発が一番であることは、素人でも分かるが・・・。
 ただ、政府の動きを見ていると、戦略のなさを指摘せざるを得ない。
 またしても、太平洋戦争時(8.15)や福島原発事故時(3.11)に露見したニッポン・イデオロギーによる愚行が繰り返されているような気がしてならない。
 台湾政府のような戦略的行動がなぜ取れないのだろう?
 そうだ。怖さの理由の6番目は「政府を信頼できないから」である。

 少なくとも、感染者に対する中傷や差別をなくすために、
  1.  医療・行政機関等からのプライバシー漏洩を絶対に避ける
  2.  悪質な中傷や人権侵害には罰則を設ける
 この二つは徹底してほしいと思う。

 別記事でも書いたが、エイズパニックの時同様、上記理由の2と3が強いと、1や4を凌駕する。
 つまり、他人に感染させる恐れがあっても、スティグマを恐れたり他人に迷惑をかけることに怯えたりすると、検査を拒否したり感染を隠したりする行動に流れやすい。むろん、治療にもつながらない。
 発症して入院につながる場合は別として、感染しているのに症状が出ないケース、いわゆる無顕性感染の場合、隠蔽しての行動は可能である。
 現在、ネットで購入できる検査キットが出回っている。
 住所・氏名を伝えなければならない(=感染者であることが特定される)検査所に行かなくとも、自らの感染状況を自宅で知ることができる。
 そこで自らの感染を知った人たちが、それを隠蔽して、これまで通りに通勤して仕事して友人と会食してをすれば、感染拡大が止まらなくなる。

 感染の恐れのある人が安心して検査を受けられ、感染が判明した人が必要最低限の周囲の人に躊躇なく結果を伝えることができ、必要な補償を受けながら自宅待機や治療に安心して入られる状況をつくっていくことが望まれる。
 でなければ、だれも安心して感染者にはなれない。

 怖いのは病気よりも世間や社会である。











 



● トロイの木馬 マンガ:『白い旗』(水木しげる作画)

1991年(株)コミックスより刊行
2010年講談社文庫

 表題作ほか『ブーゲンビル上空涙あり』、『田中頼三』、『特攻』を含む戦記マンガ。
 ラバウルで戦った水木自身の体験や戦死した知人の話、伝聞などがもとになっている。

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 コロナ渦でいろいろと不自由や不安を強いられる現在であるが、齢80を超えるソルティの母親がよく口にするのは、「戦争のときにくらべれば全然マシ」
 食べ物も着る物もなく、いつ何時やって来るか分からないB29による爆撃の恐怖にさらされた子供時代(母は横浜に住んでいた)を思えば、「どうってことない」
 そりゃ、そうだ。
 おまけに、今回のコロナ戦争は、どこか特定の国だけが被害を受けているわけでなしに、全世界が平等に戦渦に巻き込まれている。
 日本だけが、日本人だけが苦しんでいるわけではない。

 あまり大っぴらに言うと不謹慎のそしりを免れないが、「もしコロナがなかったら、日本は今どうなっていただろう?」と想像することがある。
 2020 TOKYOオリンピックが大々的に開催され、(熱中症による死者を多数出しながらも)それなりに成功し、インバウンド効果で経済は活性化し、安倍政権は乗りに乗っていたことだろう。
 「ニッポン、チャ・チャ・チャ」のファッショな空気に乗じて国民投票法は成立し、憲法9条改正は既定路線に入っていたであろう。
 安倍政権の存続を願う世論が形成され、自民党の党則が改正されて党首の任期が現行の3期9年から無期限となり、首相の任期制限がないこの国において安倍政権は10年目に入り、ますます巨大な権力を獲得していたことだろう。
 あたかも中国の習近平国家主席さながらに。
 日本は、日本会議の理想とするところの「戦争ができる美しい国」に向かって、どんどん変えられていったことであろう。
 
 それを思うと、「美しい国」に反対のソルティは、今回のコロナを「100%悪い奴」とは受け取れないのである。(もっとも、今後どうなるかわからないが)

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 それにしても、今回のコロナ戦争においては、強大な軍事力を有し対外的に強い国家ほど状況をうまくコントロールできている、とは言えないところが皮肉である。
 対外戦争に一度も敗けたことのないアメリカは、26万人をも超える死者を出している。(11/28現在)
 すでにベトナム戦争時の死者数5万8千人を上回り、太平洋戦争時の29万人を超えるのも時間の問題であろう。(一番死者数が多いのは南北戦争時の49万人)
 外敵への攻撃には無類の強さを誇る全米だが、内部に侵入した20 nm (ナノミクロン=0.000 000 02 mm)のウイルスにかくもコテンパンにやっつけられるとは!
 ウイルスってのはまさにトロイの木馬だ。
 国民を守りたいのなら、何が本当に必要かつ大切なのかをコロナは教えてくれる。

 しばらく、水木しげるを読んでいきたい。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



 


● ダメ男と尽くし女 映画:『夫婦善哉』(豊田四郎監督)

1955年東宝
121分、白黒

 昭和初期の大阪を舞台とする人情ドラマ。
 船場の化粧品問屋のボンボン育ちのダメ男・柳吉(=森繁久彌)と、下町の芸者あがりで陽気でしっかり者の女・蝶子(=淡島千景)の切っても切れない関係を描く。
 当時の船場問屋の風景、狭い路地の入り組む法善寺界隈、難波や曾根崎新地でのお座敷遊びなど、戦前の大阪の風俗ドラマとしても楽しめる。

 柳吉は二枚目ではないが、女性がほうっておけないような魅力がある。外で強がっていても、飼い主の前では平気で腹を見せて寝転ぶドラ猫のような魅力というか。
 それはそのまま役者としての森繁の魅力に通じているようである。
 どうしようもないダメ男なのに、憎めない。
 蝶子もまた、淡島千景その人をモデルにしたかのようなキャラで、役柄と演者がぴったり重なっている。といって、素顔の千景がどんな人なのか知らないが・・・・・。
 あくまでイメージである。
 二人のコンビネーションが凹凸しっくりなじんで、本当の夫婦(内縁だが)のように見える。

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森繁久彌と淡島千景


 切っても切れない「ダメ男と尽くし女」。
 現代人の視点からすれば、この男女関係は、成瀬巳喜男『浮雲』の主役の二人(高峰秀子と森雅之)同様、「共依存」と定義されてしまうところであろう。
 戦後生まれの、とりわけフェミニズムの洗礼を受けた人間が見たら、ダメ男に尽くし続けて自分の人生を棒に振る蝶子のありように苛立つかもしれない。

 ソルティも、浪花節的人情ドラマ(=演歌の世界)が苦手なので、こういった映画というか関係は避けてきた。
 が一方、自立した近代的な男女(あるいは男男でも女女でも)が、互いの世界観をぶつけ合い駆け引きする米国TVドラマに見るような関係も、なんだか疲れる。
 結局、本人たちが幸せならば、周りはとやかく言うことはない。
 (それが、眞子内親王の結婚問題に対するソルティの気持ちである。30年近く不自由な暮らしに耐えてきたのだから、持参金くらいつけてあげたらいい)

 文芸映画の巨匠・豊田四郎の作品を観るのはこれが初めて。
 岸恵子主演の『雪国』、岡田茉莉子がお岩に扮した『四谷怪談』、同じ森繁×淡島コンビによる『花のれん』、芥川龍之介原作の『地獄変』など、観たいものが結構ある。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 初期症状もどきとPCR体験

 一週間ほど前から倦怠感と喉のつかえが続き、「風邪かなあ?」と思い様子を見ていたが、一昨日から下痢が始まった。
 いつもなら2回くらいトイレに行けば終息するのだが、4回、5回と繰り返す。食べるそばから水様便となって出ていく。おなかもグルグル鳴り続ける。滅多にないことである。
 熱はないものの、鼻の奥のほうに圧迫された感覚がある。
 「よもや?」と、ネットで『コロナ 初期症状』と検索かけると、案の定どれも当てはまった。
 
 思い返せば、まったく心当たりがないというわけではない。
 10月末に高尾山の麓の温泉施設に行ったとき、混みあった露天風呂と食事処に1時間以上は居続けた。当然、自分も周囲もマスクしていない。大声で喋っている若者グループも近くにいた。
 11月初めには、夜遅く乗った列車が人身事故でストップしたため帰宅できなくなり、会員カードを持っている繁華街のネットカフェで一晩過ごした。ブースの中で寝ているとき、知らぬ間にマスクをはずしていた。夜中、どこかのブースから咳が聞こえていた。
 ほかにも、列車のつり革や手すり、バスの降車ボタンやシート、エレベータのボタン、レンタルショップのDVDパッケージ、ドリンクバーの氷つかみ(トング)・・・・新型コロナウイルスと接触しうる可能性を数え上げたらキリがない。
 
 自分が一人暮らしならば、そして介護関連の仕事に関わっていなければ、「風邪だろう。食あたりだろう。更年期障害だろう」と自己判断し、そのままやり過ごしてしまうところだ。
 が、80を過ぎた両親と同居の身で、70~90歳の高齢者と日常的に触れ合う立場にいる。自分が直接彼らに触れないとしても、職場の同僚にうつしたら、そこから感染が広がりクラスターが発生してしまうかもしれない。
 
 昨日、思い切って仕事を休み、PCR検査を受けに行った。
 ネットで検索し、もっとも検査料の安いクリニックを選んだ。
 自宅からかなり離れているけれど、背に腹はかえられない。
 
混雑病院



 午前10時過ぎにクリニックに着くと、入口に掲示があった。

 「PCR検査を受ける方は、特設会場にお越しください」

 クリニックの建物の中ではなく、そこからやや離れた駐車場のような野外スペースに天幕が張られ、仮設の検査所が設けられていた。プレハブというかコンテナというか小さな建物が左右にいくつか並んだ中央のスペースに、パイプ椅子が20脚ほど間隔を置いて並べられ、完全防護したスタッフが忙しそうに立ち回っている。なんだか、野戦病院のよう(って映画でしか見たことないが)。
 
 平日の午前中だったので、それほど混んでなく、受付で待たされることはなかった。
 が、問診票への記入を済ませ、パイプ椅子に座って診察の順番を待っていると、見る間に人が増えていき、1時間くらいしたら椅子は全部埋まり、その周囲に数十名が立って順番待ちするくらいになった。土日、祝日はどれだけ混むことか。(そのクリニックは土日もやっている)
 幸い小春日和だったので、屋外でも長袖ジャケット一枚で過ごせたけれど、冬になったらどうするんだろう? 寒風の中、待たされるのだろうか?
 
 15分くらいで名前が呼ばれ、プレハブの一つに案内された。
 中には誰もおらず、パソコンの乗ったテーブルとその前に椅子があるだけ。
 その椅子に腰かけるよう指示された。
 遠隔モニターによる診察であった。
 モニターの中の医師から症状の確認があった。
 
 また外で待つこと10分。
 名前を呼ばれ、こんどは一角にある奇妙な小屋の前に案内される。
 それは密閉された四角いブースで、一つの壁面の上半分だけが透明シールドに覆われている。シールドの下部に、二つの穴が横に並んで空いている。戦前のサーカスの見世物小屋を思わせる(って映画でしか見たことないが)。
 受検者がシールドの正面に置かれた椅子に腰かけると、ブースの中にいる看護師が、二つの穴から手袋をはめた両腕を突き出し、受検者の鼻の穴に綿棒を突っ込む。看護師は、粘液がついた綿棒を試験管に密封する。
 はたで見ていると面白い光景なのだが、いざ自分の番になると、鼻の穴に綿棒が突っ込まれるのはなんとも気色悪い。

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絵ごころなし

 
 検査が終わり、待つこと20分。
 名前を呼ばれ、会計となった。
 ネットに書かれていた通りに万札を用意していたが、「発熱、咳、倦怠感など何かしら症状がある人」は保険が適用されるとのこと。
 ソルティの場合、薬の処方料も入れて2000円であった。
 2000円なら、それほど敷居も高くない。
 3ヶ月に1回くらいは受けてもいいかもしれない。
 
 結果は、陽性(感染の可能性大)の場合、事前登録した電話番号に5~6時間後に連絡が来る。連絡がなければ陰性である。
 もちろん、体操選手の内村航平のように擬陽性(ほんとうは陰性なのに陽性判定されること。100人に1人くらい)が出ることもある。擬陰性(ほんとうは陽性なのに陰性判定されること。100人に30人!くらい)のケースもある。
 結果は100%保障できないのだ。
 陰性結果をもらっても、症状が続くようなら、再受診・再検査の必要がある。


紅葉の自転車

 
 今回、検査を受けようと決めるにあたって、このウイルスの厄介さをつくづく思った。
 発熱や倦怠感や喉のつかえや下痢を主な症状とする病気など、それこそ風邪や細菌感染を含めゴマンとある。コロナ特有の症状ではない。
 なんらかの体調不良があったとき、そのたびコロナ感染を疑っていたら、しまいにはノイローゼになってしまうだろう。キリがない。
 と言って、1%でも感染の可能性がある限り、「他の人、特に家族や高齢者にうつしてはいけない」という思いが働き、検査を考えずにはおれない。
 「ならば、はじめから感染する/させるリスクのある行動をとらなければいいではないか」と言いたいところだが、残念ながら感染リスクはそこいらじゅうに潜んでいる。そこがこのウイルスの厄介なところである。
 コロナウイルスは日常生活でうつる。とくに、介護や医療や接客業のような仕事に就いている場合、リスクを完全に避けることはほとんど不可能に近い。
 
 HIV(エイズウイルス)と比較すると分かりやすい。
 HIVの初期症状もまた「インフルエンザに似た」もので、発熱や倦怠感や筋肉痛が起こる。(コロナ同様、まったく無症状の場合もある) 
 この初期症状を「すわ、エイズ!」と思って、不安に陥る人も少なくない。
 しかるに、HIVは日常生活ではうつらない。バスや電車や温泉やスポーツジムや料理店やカラオケではうつらない。相手の体液(血液、精液、膣分泌液)とじかに接触する性行為でしかうつらない。
 つまり、予防できる。きちんと予防できているという自覚も持てる。
 発熱や倦怠感があっても、それに先立って「思い当たる行為=予防しない性行為」がなかったならば、HIV感染の可能性はないと断言できる。検査は必要ない。
 たとえ、感染の可能性ある行為をしていたとしても、他人にうつさない選択は簡単にできる。
 一方、コロナの場合、家に閉じこもって他人との接触を断たない限り、完璧な予防は難しい。
 どこまで予防すれば安全と言えるのか、どこまで気をつければ他人にうつさずに済むのか、誰も確かなことが言えない。
 HIVと違って、日常生活こそが危ない。(検査会場には老若男女がいた。若者が圧倒的に多いHIV検査会場との顔ぶれの違いは、まさに感染経路の違いによるものだ)
 
 毎日マスク通勤し、多かれ少なかれ周囲と会話しつつ仕事して、昼は外食し、休日はできるだけ大人しく遊ぶ、あるいは気晴らしに買い物に行き、家族や友人とGOTOキャンペーンを利用し小旅行する。コロナ禍におけるごく一般的な庶民の生活である。
 それでソルティのように発熱や倦怠感や喉の痛みなどが生じて、自分の過去数日の行動を振り返ったとき、「感染するような行為、思い当たる機会はまったくなかった」と言い切れる人が果たしているものだろうか?
 たとえば、今大ヒット中の映画『鬼滅の刃』を満席の劇場で観て、隣席の人が上映中に飲食し、くしゃみした。席を移ることもできない。数日経って38度を超える熱が出た。
 「もしかしたら、あの時?」といったん思い始めたら、感染不安のループにはまり込むのは必定である。

不安のループ


 これからの風邪の季節、「初期症状」に振り回される人が増えることは間違いない。 
 ノイローゼにならない為には、感染予防に関する自分なりの“行動ルール”の設定と、感染リスクの評価に関する自分なりの“線引き”が必要かもしれない。
 つまり、コロナについて心配する閾値(しきいち)を作っておくのだ。
 まあ、その前に、何と言ってもふだんの体調管理に気を付けるに如くはないが・・・・。


 結果的にクリニックからの連絡はなかった    




● 本:『Bライフの愉しみ 自作の小屋で暮らそう』(高村友也著)

2011年秀和システムより『Bライフ―10万円で家を建てて生活する』の書名で刊行
2017年ちくま文庫

 Bライフとは Basic Life、必要最低限の生活のこと。
 本書の主旨を汲み取ってより正確に言うなら、「一人の人間が自活して、誰にも気兼ねなく好きなことをし、かつ好きなだけ眠ることのできる、最低限の環境設定」といったところか。
 むろん、まったく働く必要がない大金持ちには最初から関係のない話である。
 庶民が、できるだけお金をかけず(働かないで)、他人の世話になることもなく、上記の条件を可能にする手段の追求こそが主眼である。

 著者は1982年静岡県生まれ。
 大学院を自主退学したあと一年くらい路上生活をし、その後、山梨の雑木林の一角を購入し、そこに小屋を建てて暮らし始める。
 その詳しい経緯やBライフの実践記録、およびBライフを始めるためのノウハウなどが書かれている。

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 生きるのに最低限必要なものは、日々の食べ物と着る物と寝る場所である。
 食べ物と着る物については、日本ではそれほど不自由しないであろう。
 ホームレスのための炊き出しもあれば、衣類のお古を配っているNPOもある。
 ゴミ出しや廃品回収の朝を狙えば、コンビニの廃棄弁当や各種衣類も手に入ろう。

 やはり、難しいのは寝る場所の確保である。
 夜露や寒さや雨風から身を守り、他人(とくにお上)に邪魔されず、誰にも気兼ねなく安心して好きなだけ眠ることのできる場所を見つけるのは、結構大変だ。
 むろん、家を買ったりアパートを借りたりすれば話は別だが、そのためには家のローンや家賃を払うために働かなければならず、「好きなことをしながら好きなだけ眠る」ができなくなってしまう。

 そこで、著者は田舎の低価格の土地を購入することを思いつく。
 自分の土地なら、何日テントを張り続けようと、誰にも文句を言われる筋合いはない。
 行政から立ち退きを命じられることもない。
 月々の生活費は年金、保険料、税金ふくめ20000円程度で済むので、週1日もアルバイトすれば十分やっていける。つまり、就職する必要はない。
 暇にまかせてホームセンターで資材をそろえ、自作の小屋を建てれば、快適なBライフが保障される。

 贅沢や社交や都会の殷賑や緊張感ある仕事や社会的成功を望む人にしてみれば、考えられない、理解できない生活には違いない。
 一人きりで森の中に住むこと自体、変人と思う人も少なくないだろう。
 だが、こういう人はいま若い世代を中心に増えているような気がする。
 コロナがそれに拍車をかけたのは言うまでもない。
 要は、自分にとっての幸せとは何か? 生きる上での優先順位は何か?――ってことを各自が自分自身に問いかけ、それを他人の目を気にせず追求する時代になったのだ。

 しばらく前から、ソルティも森の中の暮らしに憧れを抱いている。
 小さな木の家に住んで、木々のざわめきを耳にしながら、薪ストーブの火を見つめている自分が目に浮かぶ。
 朝は鳥のさえずりで目が覚める。
 小さな畑があって、犬と猫が走り回る。
 来たるべき冬のために薪をたくさん集めておかなきゃな。
 ハイジのおじいさんか・・・・。

 自らの望むもの・望まないものをしっかり見据えて、世間の価値観に流されずにオリジナルな道を歩む著者の姿勢に拍手を送りたい。
 日本人はもっと自由であっていい。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




● 文庫の値段と昭和アタマ 本:『節約は災いのもと』(エミリー・ブライトウェル著)

2016年創元推理文庫

 『家政婦は名探偵』シリーズ第4弾。
 今回も謎解きとユーモアたっぷりの楽しいミステリーに仕上がっている。
 何かにつけお茶を飲みたがるイギリス人の風習が面白い。

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 若干気がかりなのは、このシリーズ、2015年から邦訳が発売され現在まで4巻立て続けに刊行されたものの、2016年以降は出ていない。
 5巻以降の発売予定はあるのだろうか?
 訳者のあとがきにも、「次回をお楽しみに!」的なことが書かれていないので、これで打ち止めなんじゃないかと憂慮する。
 なにせ今の出版事情である。

 ソルティは本書を近所の図書館で借りた。
 もし、図書館に置いてなかったら、あるいはブックオフで廉価で売っていなければ、わざわざ買ってまで読むことはしなかったろう。
 というのも、この300ページほどの文庫本、定価1100円(+税)もするのだ!

 発行部数の少ない思想書や学術書ならまだ分かる。
 が、推理小説の文庫本が1000円を超えるとは、ソルティの許容範囲外である。
 いつからそんなふうになってしまったのか?

 部屋の本棚から古そうな文庫本を引っ張り出す。
 角川文庫の『パノラマ島奇談』(江戸川乱歩著)昭和49年版は、500ページ近く(表題作のほかに2篇収録)で定価380円。消費税はなかった。

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カバーイラストは宮田雅之、解説は澁澤龍彦


 推理小説ではないが角川文庫の『ベニスに死す』(トーマス・マン著)、昭和57年版は226ページで定価260円。

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表紙はヴィスコンティ『ベニスに死す』タッジオ役のビヨン・アンデルセン


 同じく角川文庫の『ギリシア・ローマ神話』(トマス・ブルフィンチ著)、昭和60年版は670ページで定価620円。

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 ソルティがもっともよく書店で本を買っていた昭和時代、よほど分厚いものでない限り、文庫本が500円を超えることは滅多なかった。
 平成に入ってからは、もっぱら図書館や古本屋が中心となり、書店で購入するのは図書館や古本屋ではすぐには手に入らないようなハードカバーや“新書”の新刊、宗教関係書くらいになった。
 文庫の新刊は買わなくなった。
 その間に価格はどんどん上がっていたらしい。

 ソルティの昭和アタマの中では、いまだに文庫本は500円以下という感覚が強くある。
 ミステリーの古典たるウイルキー・コリンズ『月長石』のようなある程度の厚みがあるのなら定価500円以上も止む無しだが、1000円を超えるなんてちょっと考えられない。
 過去30年の物価の上昇を考えるなら、本の価格の上昇も当たり前と受け止めるべきなのだろうが。

 ソルティのように定価で本を買わなくなった人間が増えたればこそ、新刊本が売れなくなり、結果として町の本屋はつぶれ、出版社は新しい本がなかなか出せない、という結果を生んだのだ。 

 節約は災いのもと・・・・・・か。

 

 
おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 

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