ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●雑記

● 左翼風ミステリー??? 本:『バイバイ、エンジェル』(笠井潔著)

1979年原著刊行
1995年創元推理文庫

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 笠井潔のデビュー作にして、『サマー・アポカリプス』、『薔薇の女』、『哲学者の密室』、『オイディプス症候群』へと続く探偵・矢吹駆シリーズの第一作。
 
 所はパリの中心街。
 ある冬の朝、裕福で男好きな中年女性が自らのアパートメントで殺された。
 現場の状況から、彼女が外出する直前、訪ねてきた顔見知りに襲われたと推定される。 
 死体のそばの壁には、血で書かれた A の文字。
 玄関のドアには、姦通をテーマにしたナサニエル・ホーソンの小説『緋文字』が挟まれていた。
 痴情のもつれが原因なのか?
 それとも金目当てか?
 なによりショッキングだったのは、死体には首がなかったのである。

 まったくもって、本格ミステリーファンの魂を鷲づかみにするような設定。
 そこに修行者の如くストイックでニヒリスティックな日本人の青年が、現象学という素人には耳慣れない学問を武器に、犯人探しに乗り出す。
 これで熱中しない本格ミステリーファンがいるだろうか?
 舞台をフランスに設定したことで、日本的な因習や文化やしがらみから切り離された、ドライで個人主義な人間模様が用意されていることが、ますます「本格探偵小説」的色合いを濃くするのに役立っている。
 つまり、江戸川乱歩や横溝正史や松本清張よりも、アガサ・クリスティやエラリー・クイーンやディクスン・カーに近い装いを呈している。
 トリックの奇抜さや登場人物たちの推理合戦の面白さ、魅力ある探偵とワトスン役女子の存在など、「本格ミステリーここにあり!」と思わず叫びたくなる小説なのである。
 ちなみに、ソルティは女性殺しの下手人と首が持ち去られた理由を、早いうちに見抜きました 

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VictoriaによるPixabayからの画像

 日本のいわゆる新本格ミステリームーブメントが、1987年発表の綾辻行人『十角館の殺人』に始まったことはよく言われるところだけれど、本作を読むと、「いや、その前に笠井潔がいたじゃないか!」という思いにかられる。
 新本格ミステリーの定義というか特徴が、「横溝正史に代表される日本的土俗や情念から切り離されていながらも、松本清張に代表される社会派ミステリーの世俗的陳腐を排し、純粋にトリックと謎解きの面白さに焦点を置く清潔さ」というところにあるのなら、矢吹駆シリーズはまさに新本格ミステリーじゃないかと思うのである。
 しかるに、なぜ後出の綾辻行人に栄冠を譲ってしまったのか?

 理由はいろいろあるのだろうけれど、やはり、笠井潔作品の“難しさ”が一番の因なのではないかという気がする。
 矢吹駆が推理の方法として採用する現象学というものも一般読者には理解困難な代物であるし、そこを大目に見るとしても、本作のクライマックスで矢吹と連続殺人の黒幕的存在との間で交わされる議論の応酬は、とんでもなく高レベルで、大方の読者はそこで置いてきぼりにされてしまうだろう。
 それは、現実に起きた殺人事件の真相をめぐって、追及する探偵と否認する犯人との息詰まる対決という次元を大きく超えて、一種の哲学討論、思想対決の様相を見せているのである。

矢吹: 抽象的なもののみに向かって自己燃焼する、真空放電の紫の火花にも似た情念。それは、過酷で破滅的な極限への意志、眼を灼きつくすほどの鮮烈なものへの意志、そして全宇宙を素手で掴みとりたいという狂気じみた論理的なものへの意志です。そしてそれは、なによりもぎりぎりと全身を締めあげる間断ない自己脅迫です。

黒幕: 政治こそが革命の本質を露わに体現する場所です。組織は革命が棲まう肉体です。私たちは、最後の、決定的な蜂起を準備するための武装した秘密政治結社なのです。社会を全的な破滅へと駆りたてる武装蜂起こそ、観念の激烈な輝きが世界を灼きつくす黙示録の瞬間の実現なのです。


 ――てな調子である。
 このような思想バトルの描写が、学生運動家だった笠井潔の若き日の苦い挫折体験やその後の思想形成にもとづいているのは、笠井がその後に書いたものを読めば納得できる。
 あさま山荘事件に象徴される連合赤軍の酸鼻極まる結末により新左翼運動は瓦解したわけだが、何が一番間違っていたかと言えば、佐藤優が池上彰との対談の中で述べているように、

理想だけでは世の中は動かないし、理屈だけで割り切ることもできない。人間には理屈で割り切れないドロドロした部分が絶対にあるのに、それらすべて捨象しても社会は構築しうると考えてしまうこと、そしてその不完全さを自覚できないことが左翼の弱さの根本部分だと思うのです。(『激動 日本本左翼史』講談社現代新書)

 本作中の矢吹駆のセリフを用いれば、「普通に生きられない自分をもてあました果てに、観念で自分を正当化してしまう」ことであり、もっと単純に言えば、「世間知らずの頭でっかち」ということである。(実はソルティは、令和コンプライアンスの背景の一部に、この種の「観念の徹底化」の匂いを感じている)
 連合赤軍的な心性と思考で秘密結社を作り武装蜂起を企図する黒幕に矢吹が対峙する時、それはおそらく、左翼活動に打ち込んでいた過去の自分に向けて、その後転向した笠井自らが説教しているのであろう。(「バイバイ、エンジェル」とは、笠井流「グッバイ、青春」なんじゃなかろうか?)
 その意味で、本作はきわめて自伝的色合いの濃い作品であると思うし、推理小説でありながらも思想小説の域に達している。
 思想派ミステリーとでも言おうか。
 (左翼風ミステリーと言いたいところだが、笠井は自分を「左翼」と捉えていないようだ)
 
 このような小難しい思想的・政治的要素を取り除いて、「痴情のもつれ」や「遺産目当て」のような凡庸な動機を犯人に持たせたならば、本作はずっと大衆受けしたはずと思うし、笠井は新本格の旗手になったのではないかと想像するが、それではやはり笠井潔は笠井潔足り得なかったであろう。
 いったい笠井以降、思想派ミステリーの系譜はつながっているのかどうか、寡聞にして知らず。





おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 逃散という生き方 本:『ザイム真理教』(森永拓郎著)

2023年三五館シンシャ発行、フォレスト出版発売

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 コロナ禍に莫大な財政支出があったのは記憶に新しいところで、「いろいろ助かるなあ」と全国旅行支援を利用する一方で、「これで日本の借金がまた増えてしまった」、「日本もそのうちギリシアみたいに破綻するのではないか」、「これから税金が上がっていくことになるのだろうなあ」、という不安も湧いた。
 年々増えていく国家予算、積み上がっていく国債残高、国民一人あたり800万円超と言われる借金。
 いったい、この先どうなるんだろう?

 一方で、「なんだよ。これだけお金をバラ撒くことができるのなら、普段からもっと低所得者対策に使ってよ!」、という疑問と苛立ちも覚えた。
 年金や医療保険の納付額の増加、消費税率アップ、公共料金の値上げ・・・・・。
 公租公課やインフラ関連支出の収入に占める割合は増えていくばかりなのに、給料は変わらず、高齢者のもらえる年金額は年々減っていき、開始年齢も引き上げられ、医療保険や介護保険の負担割合もシビアに区分けされ、生活保護費は減額されていく。
 庶民は、絞れるだけ絞られる菜種か。

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Mirosław i Joanna BucholcによるPixabayからの画像

 それでも文句も言わず(言ってるか)、なるべく無駄をなくして生活を切り詰めながら払うべきものを払っているのは、「高齢者にかかる年金や介護医療費が膨大なのに、少子高齢化や不景気で財政は危機的状況にある」、と政府が脅かすからである。
 歳入が限られていて歳出が増えれば赤字になるのは当然で、赤字を減らして国家破綻を防ぐには、歳出を抑えるか、歳入を増やすしかない。
 大学で経済学を学んでなくとも、普通の市民ならそれはわかる。
 子供の頃からお小遣いの使い方に悩み、サラリーマンとなっては毎月の給料の残額に青くなり、主婦となっては家計簿と睨み合い、経営者となっては帳尻を合わすのに苦労する。
 支出が収入を超えてはいけないというのは、経済の鉄則である。
 そう思ってきた。

 ところが、経済アナリストの森永卓郎は言う。
 「国家予算に限っては、それは正解ではない」
 「国債残高が増えても経済が破綻することはない」
 「消費税を上げるのは間違いだ」
 庶民の経済感覚からすると、「なに無茶なことを言っているのか?」、と思うけれど、森永は本気である。
 その言説の後ろ盾となっているのが、MMT(Modern Monetary Theory)すなわち現代貨幣理論である。

自国で通貨を発行している国は、政府債務がどれだけ増大しても、返済に必要な貨幣を自由に発行できるため、財政破綻することはない、とする経済学の学説。
(小学館『デジタル大辞泉』より抜粋)

 これ実は、ソルティも子供の頃から不思議に思っていたことだった。
 日本政府は日本銀行に命じて、いくらでも日本銀行券つまり円を発行できるはずなのに、なぜ増刷して貧しい人に配らないのだろう?
 我々庶民は自分でお金を作ることはできない(作ったら逮捕されてしまう)から、頑張って収支を合わせる必要があるけれど、自らお金を作ることができる国家は、足りない分のお金を作って補えばいいのでは?
――という素朴な疑問があった。
 たぶん、ドルを始めとする海外通貨との関係やら、日本銀行券が市場に出回ることによるインフレ発生やら、いろいろもっともな理由があるのだろうなあと思っていたが、なにぶん経済音痴のソルティ、考えてもわからないと追究してこなかった。
 MMTについて聞くようになったのはここ最近のことだが、なんだか虫のいい話で「眉唾」という印象があった。
 だって、収入と支出の帳尻合わせないとダメでしょ? 破産するでしょ?
 子供の頃からの思い込みは、すでに常識となっているからである。

 森永は本書で、8000万の日本人が持っているその常識すなわち財政均衡主義に異を唱え、それが税収を増やすことを至上命題とする財務省による“洗脳”なのだと喝破する。
 「ザイム真理教」という命名はそこから来ている。
 その仕組みは次のようなものだ。
  • 宗旨(教義) 財政均衡主義。「プライマリーバランス(基礎的財政収支)の大きな赤字は日本経済を破滅させる」
  • 神話 日本の財政は破綻状態にある
  • 教祖 財務省
  • 幹部 国家公務員
  • 親衛隊 国税庁(盾突く者を成敗する)
  • サポーター 大手マスメディア(洗脳部隊)、富裕層
  • シンパ 岸田総理
  • 信徒 8000万人の国民
  • お題目 「増税は正義」、「国民と菜種は絞れば絞るほど取れる」
 若い頃に日本専売公社(現・JT)に勤めていた森永は、大蔵省(現・財務省)に絶対服従を強いられたという。令和の今ならパワハラ裁判になってもおかしくないエピソードがたんと書いてある。
 それだけに財務官僚たちの実態や財務省のやり口をよく知っていて、本書の告発につながったようだ。

 いまの政府の戦略は「死ぬまで働いて、税金と社会保険料を払い続けろ。働けなくなったら死んでしまえ」というものだ。この政策から逃れる方法は一つしかない。

 幕府の「増税」で追いつめられた農民のうち、一部の者は一揆を起こした。しかし、いまの日本では、一揆の気配さえ存在していない。そうしたなか、ザイム真理教の本質に気づいた国民はどう行動すればよいのか。
 私は「逃散」しかないのではないかと考えている。

 森永は現在、すい臓がんの第4ステージにあるという。
 ますます舌鋒が鋭さを増していくのは間違いあるまい。 

農民一揆

 ソルティはMMTが正しいのかどうかは分からない。
 が、社会保障費が足りないと言いながら、防衛費を増やし武器をガンガン買っていく今の政府は、詐欺師そのものだと思う。
 「国民の命を守るため」と言いながら、庶民の生活を破綻に追いやっているのだから。
 
 コクボー真理教という、より厄介なカルトがある。




おすすめ度 :★★★★

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● ウサギ小屋のメリット 映画:『シャドーマン』(ドリュー・ガブレスキー監督)

2017年アメリカ
95分

 ホラーサスペンス。
 都会からペンシルバニアの田舎町に越してきた医師とその妻子に降りかかる、恐怖と危険を描いたB級映画。
 
 なんだかよくわからない映画である。
 森の中の使われなくなったトンネルの中に何かが潜んでいて、そいつが村の子供たちを誘拐し殺しているらしいのだが、最後までその正体は明かされない。退治されることもない。
 そいつは男の形をした黒い影として子供部屋に侵入し、子供を恐怖に怯えさせる。
 醜い化け物となって大人たちの夢の中に入り込んで、金縛りや悪夢を引き起こす。
 犠牲となった子供の幻影を使って、別の子供をトンネルに招き寄せる。
 肝試しで夜間トンネルに侵入した青年たちを虐殺する。
 『13金』のジェイソンのような、『エルム街』のフレディのような、『IT』のピエロのような、『ギリシア神話』のミノタウロスのような、曖昧合成キャラ。
 謎だらけのすっきりしない結末だが、続編が作られることはなかろう。(多分)

 観ていて思ったのは、なぜ子供が黒い影に怯え情緒不安に陥っているのに、両親は同じ部屋で一緒に寝てあげないのだろう?
 ひとり部屋を与えて早くから子供に自立心を植え付けること、夫婦二人の生活を大事にすることが、個人主義の強いアメリカ人にとって大切なのは分かるが、時と場合によろう。
 こういう場合、日本人のたいていの親なら、自分の目の届かないところには子供を置かないのではないか? とくに夜間は。
 映画に出てくる夫婦の家は日本にあったら豪邸と言えるほどデカくて、並みの日本の家(いわゆるウサギ小屋)とは部屋数も間取りも違う。
 いきおい夫婦の寝室と子供部屋が離れているので、いざという時、すぐには駆けつけられない。

 ソルティの子供の頃を思い出しても、10歳くらいまでは一人で寝るのが怖かった。
 兄と一緒の子供部屋であったが、それでも時たま、天井の木目がつくる顔や部屋のすみの暗がりに潜む怪物が怖くて、決死の覚悟で飛び起きて、階下で寝ている両親の布団にもぐりこんだ覚えがある。

 アメリカの家を舞台にしたホラー映画を観ていて思うのは、アメリカ人の抱く恐怖の核にあるのは、幼い頃にひとり部屋で長い夜を過ごさなければならなかった孤独と不安のトラウマなのではなかろうか、ということである。
 もっと親離れをゆっくりさせたほうが、精神衛生上よいのでは? 
 ウサギ小屋にもそれなりの利点があるってことだ。

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ThankYouFantasyPicturesによるPixabayからの画像




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● ガラ携の脱皮

 寝る前にアラームセットしようとガラ携を手にしたら、画面が真っ黒。
 「あれ? いつの間に電源切ったかな?」と思い、電源ボタンを押したが明るくならない。
 電池切れかと思い、充電して寝た。
 アラームはスマホを使った。(2台使いなのだ)

 朝、ガラ携を確認したらまだ真っ黒。
 電源ボタンを押してみても変化がない。
 あれ? どうしたんだろ?
 そのとき、誰かからのメールが着信する音がした。
 生きている!
 スマホからガラ携に電話をかけてみたら、呼び出し音が響いた。
 どうやら液晶画面の故障らしい。
 「そう言えば、昨晩、机の上に置いてあったガラ携を床に落としたっけ?」
 たいした高さからではなかったし(1mくらい)、厚手の絨毯の上に落ちたので、気に留めなかった。
 それまでも山登り時にズボンのポケットから地面に落とすようなことはたまにあったけれど、全然無事だったので、ガラ携の強度を過信していた。

 今さらであるが、画面が出てこないとなんの操作もできない。
 電話機能は使えるけれど、アドレス帳からかけたい相手の番号を検索できないし、メールも打てない、送れない。
 相手から送られてきたメールも、かかってきた電話も、どこの誰からか、わからない。
 むろん、アラーム機能も留守録も電卓も乗換検索もできない。
 携帯電話はまったくのところ画面に依存しているのだ。
 
 ネットで近隣のauショップを検索し、翌日の朝一番の予約を入れた。
 故障修理はまず無理だろうから、機器交換あるいは機種交換を想定した。
 保険に入っていたかどうかはっきり覚えていないので不安だったが、契約時の資料を探すのも面倒。
 自分の契約内容をauのホームページの会員ページから確認できるはずだが、そこに入るためには au ID とパスワードが必要。
 それが分からない。覚えていない。
 ほんとうにメンドクサイ時代だ。
 便利になったのか、不便になったのか・・・。
 ソルティは基本IT音痴なのだ。
 
IT音痴
 
 翌朝、職場に事情を話して出勤が遅れることを伝え、ショップに向かった。
 若い男のスタッフは、パソコン上でソルティの顧客情報を確認したあと、こちらの渡したガラ携をちょっと確認し、言った。
 「これはもう使えませんので交換が必要です。新しい機種に変えると数万円かかりますが、お客様は故障紛失サポートに入っておられますので、まったく同じ機種でよければ安く交換できますよ」
 良かったー!
 「それでお願いします」
 その後、KDDIの故障紛失サポート配送センターのスタッフと電話をつないでもらい、担当者から説明を受けた。
 「故障紛失サポートは年2回まで利用できます。今回が1回目となります。代金は税込みで2,750円になります。これまで使っていたものと同じ機種の新しい携帯電話とガイドブックを、本日中にクロネコヤマトでご自宅にお届けします。代金は来月の請求時に上乗せします」
 「はい、わかりました。よろしくお願いします」
 なんと、簡単なこと!
 しかも今日中に届けてくれるとは!
 ソルティは2日や3日や一週間くらい携帯がなくとも困るような生活はしていないが、「スマホ命!」の若者たちや日々仕事で携帯を駆使している人なら、一秒でも早い対応はありがたいことだろう。
 また、これまでと同じ機種というのにも安心した。
 せっかくいろいろな操作を覚え、手に馴染んだのに、別の機種だとまたイチから覚えなおさなければならない。
 昭和のオジサンはものぐさなのだ。
 そうそう、大切なことを聞くのを忘れた。
 「前の携帯のデータを新しい携帯に移せますか?」
 「それはご自身で前もってどこかに保存していなければできません」
 「・・・・・」
 
 IT音痴で昭和のオジサンでものぐさなソルティは、そんな器用な(メンドクサイ)ことはしていない。
 すなわち、前のガラ携に入っていたおよそ20年分のアドレス帳も画像もメール履歴も、ぜんぶパアになった。
 スマホのほうはネット検索やアプリ使用が主なので、アドレス帳の類いは使っていない。もちろん、紙媒体での記録もない。
 頭の中が真っ白・・・・
 
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 ――ということはなかった。
 むしろ、なんだか重荷が取れたようなスッキリ感があった。
 「なるほど、そういうことなんだな」という納得感があった。
 というのも、ガラ携の故障を知ったのが、自分の還暦の誕生日だったからである。
 「すべてをまっさらにして、ゼロからスタートしなさい」
 なにかの啓示のように思ったのである。
 
 たぶん、秋葉原あたりの店に行けば、なんらかの方法で壊れた携帯からデータを取り出して、新しい携帯に移転することができるのかもしれない。
 が、わざわざそこまでやるつもりもない。
 必要な人脈はほうっておいても再生するだろう。
 
 さきほど、古いガラ携からSIMカードを抜いて、届いたばかりの新しいガラ携に挿入し、初期設定を完了した。
 画面が復活した!
 やったー!
 おお、さっそく数日遅れのHappy birthday メールが着信した。
  B兄ィ、わたしを覚えていてくれたのネ。
 「忘れていいのよ♪」(by谷川新司&小川知子)とは申しません。

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エロイム・エッサイム 古き骸を捨て、蛇はここに蘇るべし
(深作欣二監督『魔界転生』より) 




● 北関東のある町で 映画:『暴力の街』(山本薩夫監督)

1950年大映配給
111分、白黒

 1948年に実際にあった事件をもとにした社会派映画。
 有力な町会議員と警察とヤクザ組織が結託して街を牛耳り、ヤミ取引等の不正を行い、住民がおびえて暮らす某県東篠町。
 一人の新聞記者の書いた告発記事がきっかけとなって、暴力団追放・行政刷新の住民運動が徐々に広がり、町民大会が開催され、闇が暴かれ、町が浄化されていく過程を描く。
 なにを隠そう、某県とはわが故郷埼玉県であり、東篠町とはいまの本庄市のことである。
 この事件は本庄事件としてウィキペディアにも載っている。
 ちなみに、不正と闘った新聞記者とは朝日新聞の岸薫夫記者である。

 本庄市は埼玉県の北端に位置し、利根川をはさんだ向こうは群馬県伊勢崎市である。
 古くは中山道の宿場町として栄え、織物で有名な町だったようだが、ソルティはとんと知らなかった。
 だいたいソルティのような東京寄りの県南に住んでいる者は、親戚でもいない限りわざわざ県北に行く機会も動機もない。(小学校の社会科見学で行田に古墳見学に行ったくらい)
 同じ埼玉というよりも、群馬や茨城や栃木と込みの「北関東」という別文化に属しているような感覚がある。
 つまり、暴走族、頭文字D、トラック野郎、工藤静香、深夜のコンビニやパチンコ店にたむろするジャージの若者・・・・いわゆるヤンキー文化。
 なので、今回はじめて本庄事件を知っても別段驚くことはなく、「昔から“やんちゃ”な風土だったんだな~」という印象を強めることとなった。
 いや、現在の本庄市は平和な住みよい街だと思います、きっと。

 出演陣がバラエティに富んでいる。
 主役の岸記者(北記者と名を変えている)に原保美、歌人・原阿佐緒の息子である。
 支局長に“たらこ唇”志村喬。
 町民の敵となる町一番の権力者に三島雅夫。
 そのほか池部良、宇野重吉、三條美紀、中條静夫、根上淳、船越英二、大坂志郎、殿山泰司、滝沢修、高堂国典と、実力ある個性的バイプレイヤーたちが揃っている。
 三島雅夫はどこかで見た顔と思ったら、小津安二郎『晩春』で、再婚して若い嫁をもらったばかりに紀子役の原節子に、「おじさま、不潔よ!」と敵視されてしまうチョビ髭の親爺である。本作では、ほんものの敵役、ふてぶてしい憎まれ役に徹している。

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左より、船越英二、原保美、池部良、志村喬

 人権と民主主義を謳う日本国憲法が公布されたとはいえ、旧態依然とした封建的風土の根強く残る時代、ましてや戦後の混乱期である。
 こうした腐敗は、本庄のみならず、日本のあちこちの街で起きていたのだろう。
 保守系町会議員とヤミ取引を行う織物業者と警察署長と検事と報道機関が、座敷に芸者を呼んでの飲めや歌えやの乱痴気騒ぎ。
 こういう光景は、まさに昭和ならでは。
 ネット社会の現在では一発アウトだろう。

 映画では触れられていないが、本庄事件における朝日新聞の告発キャンペーンをGHQ(埼玉県軍政部)がバックアップしていたらしい。
 朝日以外の報道機関は、街の有力者の背後に保守系の国会議員が潜んでいたので、口をつぐんでいた。
 もちろん、1948年の日本はまだGHQ占領下にあった。
 GHQという“錦の御旗?”がついていたからこそ、朝日新聞はくじけずにキャンペーンを完遂でき、この町民運動は成功したんだろうか?
 としたら、ずいぶん皮肉な話である。





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● 小説の醍醐味 本:『被差別小説傑作集』(塩見鮮一郎編)

2016年河出文庫

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 『被差別文学全集』の姉妹編で、刊行はこちらが先である。
 被差別部落に関係した小説を集めて編んだ意義を、塩見は次のように述べている。

 戦前の社会がどのような差別意識を持っていたのかを明らかにしようとした。いまなお無意識に同質の感性を引きついでいないかどうかも検証したかった。
(『被差別文学全集』あとがき)

 一口に「戦前」と言っても、明治の文明開化から日中戦争直前まで約70年もの歳月があり、時代時代によって、被差別部落に対する社会=世間一般の意識のあり方はかなり異なる。
 部落解放の大まかな歴史に添って本作に収録されている11の作品を年表化すると、次のようになる。
  • 1867 明治維新
  • 1871 解放令・・・穢多非人という呼称が公的に廃止されるが、代わって「新平民」と区別化
  • 1874 板垣退助らによる自由民権運動
  • 1896 『藪こうじ』(徳田秋声)、『寝白粉』(小栗風葉)
  • 1899 『移民学園』(清水紫琴)
  • 1906 島崎藤村『破戒』発表、『山国の新平民』
  • 1917 『鈴木藤吉郎』(森鴎外)
  • 1920 『因縁事』(宇野浩二)
  • 1921 『火つけ彦七』(伊藤野枝)
  • 1922 全国水平社設立、日本共産党結成、『特殊部落の犯罪』(豊島与志郎)
  • 1923 関東大震災、福田村事件
  • 1934 『関東・武州長瀬事件始末』(平野小剣)、『骸骨の黒穂』(夢野久作)
  • 1935 『黎明』(島木健作)
 たかだか11編の小説から一般化する拙速を承知の上で言うが、やはり、藤村『破戒』(1906)と全国水平社設立(1923)、この二つが分水嶺となっている。これらの前後で、被差別部落に対する作者の眼差し――それは結局読者(=世間)の眼差しと重なるところ大である――が、変化しているように感じられた。

 『藪こうじ』、『寝白粉』、『移民学園』は文語体(雅俗折衷体)で書かれており、文語に慣れていない身にとって読み難いことこの上ない。
 が、七五調のリズムを基にした日本語の美しさ、語彙の豊かさを感じる。
 前2編は江戸時代の戯作文学の名残が強く、被差別部落や部落民に対する因果見世物的、煽情的なニュアンスが濃い。文章は美しいが、差別小説の悪名は免れまい。

 『破戒』以後に書かれた『鈴木藤吉郎』、『因縁事』、『火つけ彦七』の3作は、部落差別の理不尽なること、不当なることを前提に書かれている。
 鴎外『鈴木藤吉郎』は、鈴木藤吉郎という江戸時代の実在の人物が講談『安政三組盃』において「穢多であった」と語られていることについて、「それは間違いだ」ということを立証する話。鴎外は、藤吉郎の親戚の男に頼まれてこれを書いたのであるが、念の入った調査・取材を経ての藤吉郎の生涯や事績を綴った最後にこう記している。

 三組盃は藤吉郎を以て穢多の裔(すえ)となした。穢多の裔たるは固(もと)より辱とするに足らぬが、其説には何の根拠もない。(ゴシックはソルティ付す)
 
 鴎外の高潔さが伝わる一文である。
 『因果事』は部落出身の老女による身の上話、『火つけ彦七』は部落差別に対する世間への怒りから放火犯罪を起こす男の話。いずれも差別の理不尽さや差別を温存する社会の歪さを、差別される当事者の視点から描いている。
 映画『眼の壁』の記事にも書いたが、不当に社会に虐げられている者の犯罪に流れることに何の不思議あるか!
 
 全国水平社設立後の4編のうち、夢野久作『骸骨の黒穂』は被差別部落ではなく山窩(サンカ)がテーマである。
 『関東・武州長瀬事件始末』の平野小剣は、自身部落出身者で全国水平社設立の発起人の一人。いまや当事者らが連帯して組織を立ち上げ、自ら発信媒体をもち、差別解消を社会に訴える時代となった。
 『黎明』は、共産党の息のかかった農民運動に献身している都会出身の青年が、地方の農村に派遣されてオルグ活動する中で部落問題に直面する話。すでに部落差別が解決すべき社会問題として認識されていることが読み取れる。
 
 こんなふうに、ある一つのテーマを小説(文学)という媒体を通じて経時的に追っていき、そこから時代ごとの社会の価値観、世間一般の意識のあり方を検証していくのは、実に興味深い。
 70年という歳月で、ずいぶんと社会は変わるし、世間一般の価値観も変化するものと実感する。
 平成生まれが、昭和生まれのオヤジたちを煙たがるのも無理はない。

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 単純に小説としての面白さで言うなら、『移民学園』と『黎明』が抜きんでていた。
 『移民学園』は、世間の憧憬と羨望を集める容姿端麗なる内閣大臣令夫人が、実は被差別部落の出身で、夫人は長いこと疎遠になっていた父親の病床に駆けつけて、そこではじめてそれを知るという話。
 それだけなら、同じ時期に書かれた『藪こうじ』や『寝白粉』と変わらぬゴシップ風のキワモノ小説の域を出ない。
 本作の驚くべきところは、真実を知った夫人はそれを否定したり隠したりすることなく、物心つかないうちに離れた生まれ故郷の部落にとどまって父親の看病を申し出る。(父親はむろん反対する、どころか数年ぶりにあった娘を否認する。このあたり『砂の器』の加藤嘉の名演を想起する)
 壁に耳ありクロード・チアリ、人の口に戸は立てられず、夫人の出自はまもなく世間に知れ渡る。すると、あろうことか、夫は大臣を辞職し、夫人とともに北海道に移住して移民学園を設立し、移民の子供たちの教育事業に身を捧げる。
 これが、『破戒』の7年前に発表されていたことに驚いた。
 口語体の長編で写実小説として書いていたら、『破戒』を凌駕する衝撃作かつ傑作となったのではなかろうか。
 作者の清水紫琴は、福島から上京し女学校の教壇に立つかたわら自由民権思想に共鳴し、女権拡張運動をしていたという。結婚して農学者の夫に執筆を禁じられ、本作を最後に筆を折ってしまった。つくづく残念。
 この小説、原節子か高峰三枝子主演で木下惠介あたりに映画化してもらいたかったな。

 『黎明』の面白さは、農民運動を進めるべく田舎の村にやって来たやる気満々の都会の青年が、ひどい差別を受け陋劣な環境に置かれている部落民の男と知り合い、交流を深めていく様を描いている点にある。
 はじめて部落を訪れた青年は、男の粗末な家に上がり、その家の茶碗でその家の飯を食う。
 すると部落の男は驚愕し、涙を流して喜び、以後青年を慕うようになる。
 今となっては紋切り型のエピソードという誹りは免れないかもしれないが、裏返せば、当時の世間の部落民に対する扱い、及び自己卑下せざるを得ないまでに世間によって貶められた当事者の心境がよくわかるくだりである。
 本作の結末はいたって悲しいもので、青年の立派な志しは挫折する。
 当事者でない外側の人間が、当事者に代わって解放運動を進めていくことの難しさを痛感させる物語である。
 だが、本作の一番の良さは、これが「他者との邂逅」「未知との遭遇」を描いている点に尽きる。
 つまるところ、ソルティにとっての小説の醍醐味、面白さはそこにある。

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Janos PerianによるPixabayからの画像



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● 文学の力 本:『被差別文学全集』(塩見鮮一郎編)

2016年河出文庫

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 著者の塩見は、江戸の穢多頭であった浅草弾左衛門、同じく非人頭の車善七に関する書をもつ、江戸の下層社会や部落問題についてのオーソリティ。
 1938年生まれ。もとは河出書房新社に勤めていたらしい。

 本書は、先立って刊行された『被差別小説傑作集』の姉妹編で、明治維新以降に発表された11の作品を収録している。小説だけでなく、エッセイや論文や落語もある。
 被差別部落をテーマにしたものが中心ではあるが、それ以外にも、栃木の山奥に住むサンカ(山窩)夫婦の話、蛇使いの娘の切ない恋の話、川端康成のエッセイ『葬式の名人』なども収録され、形式的にも内容的にもバラエティに富んでいる。
 もっとも古いのが明治24年(1892)頃に書かれた泉鏡花の『蛇くい』、もっとも新しいのが昭和32年(1957)に発表された福田蘭堂の『ダイナマイトを食う山窩』。
 高名な民俗学者である柳田國男の『唱門師の話』や喜田貞吉の『特殊部落と寺院』といった論文が読めるのもうれしい。

 収録されている小説は5編だが、被差別というテーマ性は別として、文学の力といった観点からすれば、やはり正岡子規『曼殊沙華』と泉鏡花『蛇くい』の2編が圧倒的である。
 文体の個性的魅力、現実と虚構の狭間を描き出す筆力、読者を独特の世界に引きずり込む詩的創造力。
 明治の文豪はやっぱり凄い。
 とくに正岡子規は短歌で有名なので、こんな見事な小説を書ける人とは知らなかった。
 
 文学には元来暴力的なところがあると思う。
 その時代その土地の“まっとうな”倫理や価値観を超越し、また破壊してこそ、文学の文学たるゆえんがある。
 その暴力が、物理的なものでもなく、左翼的運動によるものでもなく、一本のペンから生み出される“まっとうな”世界へのアジテーション(懐疑や反抗や否定)であるところが、作家の本懐である。
 それはつまり、発表された作品が“まっとうな”世界において非難され、糾弾を受け、物議を醸す可能性が高いということである。人を傷つけることも否めない。
 昨今は、糾弾(炎上)を身に受ける覚悟をもつほどの文学者がいない、あるいはそれだけの思想が出てこない点が、文学の衰退している原因ではないかと思う。

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おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 映画:『声もなく』(ホン・ウィジョン監督)

2020年韓国
99分

 卵売りのかたわら、死体処理など犯罪組織の雑用を請け負って暮らしているチャンボクとテイン。
 幼い頃両親と別れた10代のテインは、口を利くことができず、妹ムンジャとともにチャンボクの世話になっていた。
 ある日、誘拐された少女チョヒを身代金が支払われるまで預かる役を組織に言いつけられた二人。
 チャンボクに命じられ、テインは仕方なくチョヒを自分の小屋に連れていく。
 だが、チョヒの父親は身代金を支払おうとはしなかった。
 かくして、チョヒとテインとムンジャの疑似家族のような生活が始まる。

 まさに声も出ない傑作である。
 話の悲惨さ・エグさにもかかわらず、全編圧倒的な美しさに満ちている。
 これが長編映画デビューというホン・ウィジョン監督(1982年生まれの女性)の才能に感嘆した。
 韓国が舞台で、出演者は韓国人ばかりの生粋の韓国映画でありながら、アメリカ映画それもアメリカ西南部のロードムーヴィーのような印象を受ける。
 空間の広がり、明るく鮮やかな色彩、ボトルネックのギター。
 ヴィム・ヴェンダース監督の『パリ、テキサス』を想起させる。
 映画の美しさに撃たれるとき、人は国境も国籍も時代も超えることを証明してあまりない。

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世界映画史において最も美しいシーンの一つ
(さて、なんという映画でしょう?)
 
 口のきけないテインを演じるユ・アインの演技が素晴らしい。
 1986年生まれというから撮影当時すでに30歳を超えていたはずだが、福祉から見捨てられた無教養・無教育でぶっきらぼうの10代の青年になりきっている。
 セリフが与えられていないので、テインの気持ちや考えていることは、すべて表情や仕草で表現しなければならない。
 その難役をリアリティ豊かに演じ、観る者の共感を誘うことに成功している。
 どころか、セリフがないことが逆に、観る者がテインの内面に直接入り込み、テインと一つになることを可能にしているかのよう。
 韓国内に限らず、全世界の若い男優たちは、ユ・アインに嫉妬しなければいけない。

 これがいつの時代の話なのかわからないが、携帯電話が使われているからには少なくとも2000年以降だろう。
 韓国にはまだこんな地域、つまり一見美しく平和な田園風景が広がっているが、一皮むけば犯罪の温床で、棄民と反社会組織がタッグする無法地帯――が残っているのだろうか?
 日本にもかつてあったのは間違いないが、現代ではネットの中に移行したかのように見える。
 そこもまた声のない世界である。


 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 映画:『眼の壁』(大庭秀雄監督)

1958年松竹
95分、白黒

 松本清張の社会派ミステリー。
 原作は読んでない。
 小泉孝太郎主演で昨年TVドラマ化されたらしいが、知らなかった。
 よもや、こういう“フカ~い”話とは思わなかった。

 敬愛していた上司が約束手形詐欺にあい、責任を感じて自害した。
 部下の萩崎(佐田啓二)は、新聞記者の友人(高野真二)の助けを借りて、詐欺グループについて調査を開始する。
 行く先々で現れる謎めいた美女・絵津子(鳳八千代)に翻弄される萩崎。
 次々と殺されていく関係者。
 すべての背景には、政治家や右翼のフィクサーが関わる大がかりな犯罪組織があった。

 上の内容だけなら、よくある裏社会絡みの犯罪ミステリー、いわゆるフィルム・ノワール日本版で済むのだが、本作の一番の押さえどころは、くだんの犯罪組織の出自をそれとなく匂わせている点にある。
 清張も大庭監督も作品中でそれとはっきり名指ししなかった(できなかった)ので、気づかない人は気づかないまま観終わってしまうだろうが、本作の底には被差別部落問題が横たわっている。

 萩崎が調査に訪れた信州の村で、硫酸で肉を溶かす工場が出てくる。
 それが本作に使われるトリックの一つで、犯人一味が死体を硫酸で溶かすことによってその白骨化を速め、死亡推定時刻を混乱させたことがあとで判明する。
 このトリックが当時の検屍レベルにおいて成り立ったかどうか知らない。(榊マリコのいる現在の科捜研ではまず無理だろう)
 が、ここで押さえるべきは、食用に適さない屑肉を様々な方法で溶かして油脂や肉骨粉にし、石鹸や家畜の飼料や肥料をつくる、いわゆるレンダリング(化整)の仕事は、長いこと部落産業の一つとされてきたという点である。
 その村こそ、犯罪組織のボスや絵津子が生まれ育った土地だった。

水平社博物館
水平社博物館(奈良県御所市柏原)
部落の歴史や仕事、解放運動の歴史について学ぶことができる

 周囲から厳しい差別を受け、貧しい暮らしを強いられた部落の青年が、正体を隠して(三国人=朝鮮人のフリをしている)都会に乗り込み、才覚をもって身を立て、表では政治家に影響力をもつ右翼のフィクサーとなり、裏では犯罪組織のボスとなる。
 彼の手下となって働く一団こそ、同じ部落出身の仲間たち。
 自分たちを差別する社会や世間に対する複雑な思いを共にする、強い絆で結ばれた同志である。
 
 ウィキ『眼の壁』には、当時清張の小説が部落解放同盟から「差別を助長する」と批判を受け、いろいろやり合った経緯が書かれている。
 原作についてはわからないが、少なくとも本映画については、「差別を助長する」ものとは思えなかった。
 といって、部落問題がそれと判らぬようにうまく隠してあるからではない。
 社会や世間から蔑視され不当な差別を受け疎外され続けてきた人々が、社会や世間に対して恨みを抱き、グレたり復讐の念をもったりするのは、ある意味、当たり前の話であって、それを否定するのはかえって不自然である。
 自身部落出身を公言している作家の角岡伸彦が『はじめての部落問題』(文藝春秋)に書いているように、『なんらかの背景や理由があるから、人はヤクザになるのであって、それを見ずして「差別反対、暴力はいけません」「部落はけっして怖くありません」などと言うのはきれいごとに過ぎない』。
 現実に「ある」ものを「ない」と糊塗することでは、問題はいつまでたっても解決しない。
 「ある」ものは「ある」と認め、原因を探り対策を講じていくことが肝要である。
 「眼の壁」とはずばりタブーのことだ。
 タブーをタブーのままにして見過ごすことが、どれだけ当事者を苦しめ、社会をいびつにするかは、いまのジャニーズ問題をみれば明らかであろう。

 本作は、ボスの壮絶死と犯罪組織の解体によって事件が解決し、萩崎と絵津子の恋の成就を暗示させるシーンで終わる。
 萩崎は当然、事件捜査の過程で絵津子の出自を知った。
 でもそれは恋の前には関係ない。
 このラストが暗い物語を救っている。
 
 佐田啓二、鳳八千代、新聞記者役の高野真二、部落の老人を演じる左卜全、いずれも好演である。
 
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佐田啓二と鳳八千代 



おすすめ度 :★★★

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● 本:『黎明 日本左翼史 左派の誕生と弾圧・転向1867‐1945』(池上彰、佐藤優共著)

2023年講談社現代新書

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 彰優(えいゆう?)コンビニよる日本左翼史シリーズ第4弾。
 今度こそ完結編だ。
 明治維新から太平洋戦争までの左翼史を扱っている。
 4冊目ということで、二人の対話も役割分担もスムーズで、概して読みやすいものになっている。
 おそらく、前3冊と合本にして、かなり厚めの新書『日本左翼史』がそのうち刊行されることになるのだろう。
 よい企画だったと思う。

 日本の左翼がいつ誕生したかを特定するのは難しい。 
 板垣退助らによる自由民権運動(1874~)か、秩父事件(1884)か、幸徳秋水や片山潜らによる社会主義協会の設立(1990)か、日本社会党の結成(1906)か、日本共産党の結成(1922)か・・・。
 それはたぶん、左翼をどう定義するかによって変わってくるのだろう。
 マルクス主義に根差した改革(革命)運動という意味でとれば、社会主義協会の設立をもって左翼の誕生と言えそうな気もするが、1917年ソ連成立の影響を受けた、国体(天皇制)の変革を前提にした共産社会に向けての組織的運動という意味でとれば、日本共産党の結成が起点となるように思う。
 1922年には日本で初めての人権宣言である水平社宣言が発表されてもいる。
 この年が、日本左翼史において一つのメルクマールであることは疑いえない。

水平社宣言記念碑
奈良県御所市柏原に建つ水平社宣言記念碑

 いずれにせよ、戦前の左翼史についてはひと言でまとめることができる。
 「弾圧」である。
 開国このかた、欧米の植民地になることを防ぐための国民一丸となっての富国強兵・殖産興業、すなわち近代化を焦眉の急とした大日本帝国政府が、その流れに竿さそうとする動きに対して弾圧を加えたがるのは、わからなくもない。
 また、伝統的国体である天皇制の解体を目指す、背後に人類初の社会主義国家ソ連の影が揺曳する組織に対し、保守的な層のみならず、天皇を敬愛していた国民の大多数が危険なものを感じたのも無理はない。
 ただし、弾圧の仕方は到底、近代民主主義国家にふさわしいものではなかったが。
 その意味では、日本の左翼の真の誕生は、言論・集会・結社の自由が保障された戦後と言えるのかもしれない。

 以下、引用

佐藤 戦前の世直し運動、異議申し立て運動には右翼と左翼に加えて宗教というもう一つの極があり、この三者がときに対立し、ときに相互に重複しつつ展開していったというのが実際のところだと思うのです。

佐藤 自由民権運動は佐賀の乱や西南戦争など明治初期の士族反乱の延長線上にあるものであって、維新政府の「負け組」が仕掛けた単なる権力闘争にすぎない、というのが私の評価です。この運動を左翼の誕生とダイレクトに結びつけるのは無理があるでしょうね。
 
佐藤 右翼は宗教との親和性が高いので宗教と結託し、宗教の力を利用することもできたわけですが、左翼の場合は核の部分に無神論があるがゆえに宗教の活用ということはなかなかできなかった。

池上 廣松渉が『〈近代の超克〉論〉』(講談社学術文庫)でも言っているように、戦前において革命はタブーではなかったし、社会主義も決してタブーではなかった。ただ天皇制の否定だけがタブーでした。


 最後に――。
 本シリーズのそもそもの目的の一つは、「格差の拡大や戦争の危機といった現代の諸問題が左翼の論点そのものであり、左翼とは何だったのかを問うことで閉塞感に覆われた時代を生き抜く上での展望を提示する」というところにあった。
 しかるに、4冊終わってみると、この目的が十分達しられたとは言い難い。
 池上も佐藤も、左翼批判とくに共産党批判の向きが強く、美点よりも欠点をあげつらってばかりいる。
 欠点や過ちを指摘するのはよいが、それを検証してより良い方法論を示し、時代を生き抜く上での「展望を提示する」ところまでは至っていない。 
 読者に託された課題ということか。





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