ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

雑記

● 映画:『クイーン』(スティーヴン・フリアーズ監督)


2006年イギリス、フランス、イタリア
104分

 エリザベス2世女王の国葬がつつがなく終わった。
 伝統に則った盛大で格式ある葬礼、弔問に訪れた多くの国民の悲しみと喪失感、亡き女王の偉大さをこぞって称えるマスコミ――それらをテレビやネットニュースで観ていて、「さすが大英帝国」と思ったけれど、一方、なんとなく違和感というか空々しさを感じもした。 
 1997年8月31日に起きたダイアナ妃の交通事故死直後の英国マスコミのセンセーショナルな報道や、それに煽られた一般市民のふるまいを覚えている人なら、きっとソルティと同じようなことを感じたと思う。
 「あのときは、あんなにエリザベス2世を非難し、憎み、罵倒していたのに!」
 「王室廃止の声さえ上がっていたのに!」

 そう。スキャンダルまみれなれど、その美貌と博愛精神と人の心を一瞬でつかむ魅力とで人気絶大だったダイアナ妃の非業の死に際して、英王室とくに元姑であるエリザベス2世が何ら弔意を示さなかったことで、大騒動が巻き起こったのだ。
 本作は、その一部始終をクイーンエリザベス2世の視点から描いたものである。

IMG_20220922_230414
ヘレン・ミレンとマイケル・シーン

 エリザベス2世を演じているのは、ロンドン生まれのヘレン・ミレン。
 本作で数々の女優賞を総なめにしたが、それももっともの名演である。
 君主としての威厳と気品のうちに英国人らしいユーモアと忍耐力を備え、国家と国民に対する強い責任感と、突然母親を失った孫(ウィリアム王子とヘンリー王子)はじめ家族に対する愛情を合わせ持った一人の女性を、見事に演じている。
 その威厳は、ヘレンの父親がロシア革命の際に亡命した貴族だったせいもあるのだろうか。
 
 時の首相であるトニー・ブレアに扮しているのはマイケル・シーン。
 顔立ちは本物のトニーによく似ている。
 左翼政権を率いた野心あふれる男の精悍さより、母性本能をくすぐる甘いマスクが目立つ。
 
 ソルティはエリザベス2世をテレビで見るたびに、亡くなった祖母を思い出したものである。
 冷静で強情なところ、ハイカラでファッショナブルなところ、職業婦人として自立していたところ(祖母は看護婦長であった)、賢明で物知りなところ、目鼻立ちにも似通ったところがあった。
 久し振りに祖母を思い出した秋分の日。
 
エリザベス2世
エリザベス2世の冥福を祈る
 
 


おすすめ度 :★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 


 

● 本:『漂流 日本左翼史 理想なき左派の混迷』(池上彰、佐藤優共著)


2022年講談社現代新書

IMG_20220908_121304

 池上、佐藤両氏による戦後『日本左翼史』シリーズの三巻目にして完結編。
 敗戦から新左翼の誕生まで(1945-1960)の『真説編』、日米安保闘争から連合赤軍あさま山荘事件まで(1960-1972)の『激動編』に次いで、本編では、新左翼の失墜、労働運動の高まりと衰退、大量消費社会の到来、そしてソ連の崩壊と冷戦終結がもたらした左派陣営への打撃と現在まで続くその余波、が語られている。

 ソルティが小学校高学年くらいからの話なので、まさにリアルタイムで見て生きてきた日本なのだが、やはり知らないことが多かった。
 子供の頃、ストライキという言葉が頻繁に飛びかって、それになると会社員だった父親がなぜか仕事を休んで家にいたので、「ストライキっていいなあ」と単純に思ったものだ。
 国鉄のストライキ(順法闘争)――当時公務員であった国鉄職員はストライキ権を持っていなかったので、法に違反しない形での労働停滞闘争をした――が原因で起こった1973年の上尾駅事件、首都圏国鉄暴動など今回はじめて知った。

 赤羽駅ホームにいた約1500人の乗客が勤労の順法闘争により下り列車に乗車できなくなったことに激怒し、電車停止中に運転士を引き摺り下ろして電車を破壊し始め、赤羽駅での列車運行がすべて停止してしまったのです。その影響が山手線など他の路線にも及んだことで、上野、新宿、渋谷、秋葉原、有楽町など合わせて38駅でも同時多発的に暴動が起きてしまいました。
 上野駅ではいつまで経っても電車が発車しないことに怒った乗客が列車に投石して運転士を引き摺り下ろし、改札事務室や切符売り場を破壊。危険を感じた職員たちが逃げ出し無人状態となった駅で放火騒ぎが起きました。(池上による「首都圏国鉄暴動」の解説)

 日本人、熱かったなあ~。
 というより、今ならそこまでして会社に行こうとは思わないだろう。
 国鉄のストライキがある前の晩には多くのサラリーマンが会社に泊まり込んだため、都内の貸し布団屋が大繁盛したとか、まるで「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいな笑い話である。
 エコノミック・アニマルと言われ、愛社精神の強い当時の日本人ならでは、である。
 
 それで思い出したのだが、90年代初めにイタリア一周旅行したとき、南イタリアの小さな駅で列車が止まったまま、なかなか出発しない。
 発車時刻を1時間以上過ぎて、やっと車内放送があった。
 何を言っているかわからなかったので、同じコンパートメントの学生風のイタリア青年に片言の英語で尋ねてみたら、「ショーペロだ」と言う。
 ショーペロ?
 イタリア語でストライキのことであった。
 予告もなく急にストライキが始まって、そのまま乗客は立ち往生。
 でも、誰一人騒いだり、怒ったり、駅員に詰め寄ったりすることはなく、困っているふうにも見えない。「やれやれ」と言った風情で、オレンジなど食べている。
 なんて暢気な国民性だ!と感心した。
 結局、3時間待っても列車は動きださず、その街に泊まるはめになった。
 アンコーナという街だった。
 ドーモ(教会)のある丘から見た夕焼けは、生涯見た最も美しい景色の一つであった。

イタリアの夕焼け


 副題にある通り、現在の左翼は「理想なき混迷」にある。
 マルクス主義に則った「プロレタリア革命による共産主義社会の設立」という夢の残滓に漂っている。
 池上はこう述べる。
 
現在の左翼の元気のなさというか影響力の弱さは、もはや彼らが「大きな物語」を語り得なくなってきていることにあるかもしれませんね。「いずれ共産主義の理想社会が到来する」という、かつて語られていた「大きな物語」を語り続けるのが難しくなっている。

 その通りであろう。
 実際、今の共産党員の中に、それが武力だろうが無血だろうが選挙によるものだろうが、「革命による共産主義社会の設立」を本気で目指している人が、いったいどれくらいいるのだろう? 
 一度党員アンケートを取って公表してほしいところである。
 とは言え、本来の「物語」の代わりに、「平和=憲法9条護持」や「暮らしの安定」を党是として掲げて、冷戦終結後の逆境を乗り越えてきたその戦略性と組織力の高さはたいしたものだと思う。
 社民党(旧・社会党)が青息吐息の状態であることを思えば、自民党を筆頭とする保守勢力に対抗できる最後の砦としての日本共産党の意義は決して小さくはない。
 それだけに、社会主義・共産主義なんていう世迷言から一日でも早く脱却してほしい、とソルティは願っている。

共産主義者
よろしく!


 ときに、本書の発行は2022年7月。
 佐藤優による「あとがき」に付された日付も2022年7月であるが、そこでは安倍元首相の銃殺事件について触れられていない。おそらく、7月8日以前に書かれたのであろう。
 もし、池上と佐藤の対談が7月8日以降に行われたのなら、本書の内容はずいぶん違ったものになったのではないか、少なくとも最終章はまったく異なった展開となり、まったく異なった終わり方をしたであろう。
 この一日を境に、日本の政治状況はどんでん返しと言ってもいいほど変わってしまった。
 特に、日本の右翼(保守勢力)の内実がよくわからない不気味なものに転じてしまった。
 「愛国、天皇主義」を御旗に掲げてきたはずの自民党右派とくに安倍派が、「反日、反天皇主義」のカルト教団と深く結びついてきたことがあからさまになって、世の中がひっくり返ってしまった。

 目的を失って漂流しているのは左翼だけではない。
 右翼もまた漂流、いや転覆してしまった
 三島由紀夫がこの様を見たら、どんなに激怒することか!

 おそらく、しばらく前から「右翼、左翼」といった対立概念で説明できるような時代はとうに過ぎていたのだろう。
 一部の篤い宗教信者はのぞいて、右も左も誰もみな本気で「大きな物語」など信じていなかったのだ。
 「右翼と左翼」という物語の終焉――それが安倍元首相銃殺事件が白日のもとに晒した、令和日本の現実なのではなかろうか。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損








● 映画:『ザ・コーヴ』(ルイ・シホヨス監督)

2009年アメリカ
91分

 和歌山県太地町のイルカ追い込み漁を批判的に描いたドキュメンタリー。
 コーヴ(cove)とは「入り江」の意。

 主役はリック・オバリーという名のアメリカ人。
 ソルティも幼少時に楽しんで観ていたTVドラマ『わんぱくフィリッパー』に出演していたイルカの調教師だった。
 ドラマの世界的ヒットで一躍有名になり財を築いたが、調教していたイルカが鬱になって死んでしまったことをきっかけに改心し、一転、イルカ解放運動の闘士となってイルカの飼育や捕獲に反対するようになった。
 今回、太地町が標的に選ばれたのは、世界各国の水族館や動物園に出荷されるイルカの多くがここで捕らえられているからという。

イルカ


 全編、イルカ漁の残酷さを訴える作りとなっている。
 不快な音を立てて、イルカを湾の生け簀に追い込む。
 ブローカーが水族館に売るイルカを選ぶ(一頭15万ドルとか)。
 残りのイルカを三方を岸壁で隠された入り江に運ぶ。
 朝焼けが水平線をおおう時刻、待機していた男たちが船を出し、数十頭のイルカを銛(もり)で突き、鉈(なた)で叩き、鳶口(とびくち)で舟に引き上げる。
 断末魔のイルカの悲鳴が岸壁にこだまする。
 入り江は真っ赤に染まり、文字通り「血の海」となる。
 
 衝撃的な映像である。
 イルカ好きの人にとっては、耳をかばい目を覆いたくなるような、吐き気を催すようなシーンであろう。
 あんなに可愛くて賢くて無抵抗な哺乳類をめった刺しにするなんて!
 ここはイルカのアウシュビッツか!

 このシーンを取るために、オバリーら撮影スタッフは真夜中に人気のない入り江に忍び込み、水中や岸壁にカメラやマイクを仕掛ける。
 それがあたかもスパイアクション映画のようなスリリングなタッチで描かれている。
 映画の作り自体はまったくのエンターテインメントベースで、視聴者の関心をそそり、一瞬たりとも飽きさせず、情動を揺り動かすものとなっている。
 訴求力ある構成や編集の上手さには舌を巻く。

 それだけに、本作を観た世界各国の人が、日本人を野蛮で残酷な民族だと思い、日本は動物愛護の精神に欠ける後進国とみなすであろうことが危惧される。
 はなからイルカ漁を悪と決めつけ、一方的に断罪する姿勢は、ドキュメンタリーというよりプロパガンダ映画に近い。

 他国の文化(食・職文化)への介入の是非、漁師たちの生活の問題、動物愛護の問題、自然環境や海産資源の保護の観点、汚染食品の出荷と体内摂取のリスク(イルカには基準値以上の水銀が含まれていると本編では主張している)、表現の自由と取材上の倫理や肖像権の問題、動物を飼育・愛玩・鑑賞することの是非、動物に順列をつけることの意味(なぜ牛や豚は良くてイルカは駄目なのか)・・・・。
 いろいろな問題が絡んでいるので、簡単には結論づけることのできないテーマである。
 ソルティがとくに気になったのは、イルカ殺しを請け負っている男たちの素性や思いである。
 殺生シーンを観ていて浮かんだのは、能の『阿漕』や『鵜飼』であった。
 これこそ日本人の古くからの文化的観念である。
 外国人にこの感覚はなかなかわかるまい。 

鵜飼

 
 もしこの先、イルカの肉を食べると寿命が延びるとか、イルカの赤ちゃんから取れる油には肌を再生する力があるとか、そういったことが科学的に判明した暁には、イルカの捕獲に先頭切って走るのはおそらくアメリカ人だろうなあ~と思う。

 公開時は上映をめぐって各地で騒ぎが持ち上がり、上映中止や延期が続いたいわくつきの作品であるが、こうしてDVDになってレンタルビデオ店に並ぶようになったのだから、少なくとも表現の自由は守られている。



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 日本の黒い霧ふたたび2 本:『赤報隊の秘密』(鈴木邦男著)

1990年エスエル出版会
1999年復刻版

IMG_20220813_170743


 副題は「朝日新聞連続襲撃事件の真相」
 朝日新聞記者であった樋田毅が被害者の身内の立場から赤報隊の正体を探ったのに対し、本書のポイントは、加害者と目された右翼の立場から、しかも当初警察によって作られた“最も怪しい容疑者9人リスト”にその名が上がっていた鈴木邦男が、真相を求めて推理を展開している点である。

 むろん、鈴木邦男は真犯人ではない。
 本書を読むと、「鈴木にはできないよなあ~」と思わざるを得ない。
 連続テロを仕掛けて正体がバレない、捕まらないでいるには、相当の緻密さと慎重さと専門的訓練、そして感情を制御できるサイコパス性が必要と思われる。
 本書の中に見る鈴木の文章や対談の語り口調からは、そういったものがまったく感じとれないのである。
 なにより自分がやったことを黙っていられる人ではない。
 9人リストから最初に落ちたのではなかろうか。

 被害者である朝日新聞社もそう思っていたようで、本書には朝日新聞編集委員で右翼に詳しい伊波新之助との対談が掲載されている。
 ここでも理路整然と冷徹に論を進める伊波に対して、鈴木の語りは全般情緒的にして文学的、伊波に突っ込まれると言葉に窮してしまう場面もみられる。
 胆力は別として、どっちが連続テロをできる資質を備えているかと言えば、まず伊波に軍配(?)が上がろう。
 
 思うに、右翼というのは任侠の世界と部分的に重なるところからも推察されるように、純粋で単細胞、理屈より行動、常識より義理人情、保身より捨て身、「自らを犠牲にして敵を討ちとって功を成す」こそ誉れであり、正体を隠しての連続テロのような知的犯罪には向かないのではなかろうか。
 本書で鈴木が繰り返し語っているのもまさにそこで、「赤報隊事件は右翼が起こしたものとは思えない」という点に尽きる。

 右翼の中では今回の事件は右翼と関係ないと思っている人が圧倒的ですよ。右翼の装いをして私憤をはらそうとしているヤクザなり暴力団なりの仕業ではないかと。

 右翼の行動にはいつも、なんらかの「臭い」とか「情緒」とか「精神」を感じさせるものがある。ところが今回はそれが全くなくて、「完全犯罪」というか、プロのやり方という感じ。
 
 新右翼でもなければ右翼でもない。また左翼的なものでもない。思想を訴えるためのものではありません。
 
 右翼の歴史というのは、みんな涙のあるテロリズムなんですね。無差別テロはやらないし、あくまでもトップを狙う。また、自分が犯行を犯したならば、それと同じような犠牲を自分も負う。血盟団でも、5・15事件でも、みんなそうでしょう。浅沼事件の山口二矢(おとや)しかり。みんな自決するか逮捕されて、出獄してきたら、殺した人の墓参りに行く。みんな情緒的で乾いていない。・・・・・・末端の記者を、それも無差別に近いかたちでやって、それで自分は逃げて、顔も現わさない。卑劣きわまるやり方だ。右翼はあんな卑劣なことはしませんよ。
 
 こうした感覚は、ひとり右翼関係者のみならず、被害者である朝日新聞社の取材陣の中にも、さらには捜査を担当した警察の内部でも共有されていたらしい。
 NHKが2018年1月28日に放映したNHKスぺシャル「未解決事件File.06 赤報隊事件」を観ると、事件を担当した元兵庫県警の捜査員が、極道方面から情報を得て、朝日新聞社に反感を持つ「ある宗教団体」の捜査に取りかかったところ、「上からストップがかかった」と語るシーンがある。(現在、NHKオンデマンドからはなぜかこの放送回がはずされている)

 事件の解決を阻んでいる勢力の存在を感じざるを得ない。





おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




  
  

● 日本の黒い霧ふたたび 本:『記者襲撃 赤報隊事件30年目の真実』(樋田毅著)

2018年岩波新書

IMG_20220811_195116

 先ごろ大宅壮一ノンフィクション賞をとった『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋)の著者による、「人生のテーマ」となったと言うもう一つの事件を描いた渾身のノンフィクション。

 早大キャンパスに自由と平和を取り戻すべく、仲間と連帯し、徒手空拳で革マル派とたたかった樋田は、卒業後朝日新聞に入社した。
 新聞記者として経験を積み、人脈を広げ、実力を身に着けてきた9年目、兵庫県西宮市にある阪神支局で一大事件が勃発する。

 1987年5月3日の夜8時過ぎ、目出し帽で正体を隠した男が阪神支局のビルに侵入し、雑談していた記者らを散弾銃で撃った。
 当時29歳の小尻友博記者が射殺され、42歳の犬飼兵衛記者は重傷を負った。
 犯人は赤報隊を名乗る右翼らしき一味で、凶行後にマスコミ宛に犯行声明を送った。
 「この日本を否定するものを許さない」「すべての朝日社員に死刑を言いわたす」云々。
 当時樋田は大阪社会部に所属していたが、3年前まで阪神支局にいた。
 事件後に担当デスクより特命を帯び、選ばれた仲間と共に事件を取材し、犯人探しに奔走する。

 私と仲間たちが、この30年間にしてきたのは、一般的な取材ではなく、犯人を追い求める取材だった。(犯罪に使用された)ワープロや銃など物証に関わる情報収集も重要な仕事だったが、より究極な任務は、犯人かもしれないと考えた人物に会うこと、犯人について何か手がかりを得られそうな人物に会い続けることだった。取材者の多くは、右翼活動家たちで、暴力団関係者もいた。(カッコ内ソルティ補足)

 実際の死傷者を出した上記の事件のほかに、赤報隊は複数のテロ事件を起こし、そのたびに同じワープロによる犯行声明を出していた。

1987年(昭和62年)
  • 1月24日 朝日新聞東京本社に発砲。怪我人なし。
  • 5月3日  朝日新聞阪神支局を襲撃。1名殺傷、1名重傷。
  • 9月24日  朝日新聞名古屋本社社員寮を襲撃。記者不在だったため寮内で発砲し逃走。
1988年(昭和63年)
  • 3月11日 朝日新聞静岡支局に時限爆弾を設置。装置に不備があり爆発ならず。
  • 3月11日 中曽根康弘・竹下登両元首相に脅迫状を送る。
  • 8月10日 江副浩正リクルート元会長宅を襲撃、発砲。怪我人なし。
1990年(平成2年)
  • 5月17日 愛知韓国人会館に放火。怪我人なし。

 警察および朝日新聞社による懸命な捜査も空しく、事件は2003年に時効を迎え、お蔵入りとなった。
 本書は、2017年に朝日新聞を退社した樋田が、これまでの膨大な取材資料をもとに執筆したものである。

赤報隊事件記事 (3)
毎日新聞1987年5月4日付朝刊より

 1987年と言えばバブル絶頂の頃合い。
 ソルティは都内に住み、都内の会社に勤務していた。
 が、この事件の記憶がほとんどない。
 当時は超タカ派の中曽根康弘が政権を握り、戦前回帰を思わす国粋主義的な政策が次々と打ち出されていた。国家秘密法案(現「特定秘密保護法」)上程、靖国神社公式参拝、復古調の教科書の検定通過 ・・・・・e.t.c.
 それに対して全社を挙げて中曽根政権を批判していたのが朝日新聞社だった。
 右翼の赤報隊が朝日新聞社を目の敵にするのは自然である。
 一方、中曽根や竹下に脅迫状を送ったのは、アジア諸国からの強い非難を浴びた両者が後退姿勢を見せたことによる苛立ちが原因と推測された。

 当時ソルティは右でも左でもなかった。
 産経新聞を取っていたが、その理由は読売や朝日より購読料が安かったからで、それがもっとも右寄りの新聞であることも知らなかった。
 ありていに言えば、政治に無関心だったのである。
 「バカな右翼が何かやってるなあ。朝日新聞も受難だなあ。さて今日は何の映画を観に行こうか」といったノンポリ気まま役立たず新人類だった。
 つくづく、感情や関心によってタグづけされなければ記憶は残らないのである。

 本書を手にしたのは、ここ最近の旧統一協会騒動をめぐるネット情報の中にこの事件の名前を見かけたからである。
 赤報隊事件は右翼の仕業だろう? なんで統一協会が?
 そう言えば、『彼は早稲田で死んだ』を書いた樋田毅が、赤報隊事件についても本を出していたっけ・・・・。
 ということで図書館で借りて読んでみたら、びっくらこいた。
 この事件の捜査線上には右翼と並んで統一協会も上げられており、当時から警察も樋田たちも協会の周辺、とくに協会肝いりの政治団体である国際勝共連合を探っていたのである。
 反共産主義を掲げている右寄りの統一協会および勝共連合にとって、朝日新聞は封じ込めたい敵(サタン)の筆頭であるが、そればかりでなく、当時朝日は統一協会のいわゆる“霊感商法”を批判する糾弾キャンペーンをおこなっていた。
 両者は強い緊張関係にあったのである。

 ソルティはこちらのほうなら覚えている。
 80年代後半から統一協会の強引な資金調達活動(信者からの集金)や教団への勧誘やマインドコントロールの実態などが、脱会した元信者の証言や被害者を支援する弁護士の解説とともに、マスコミに取り上げられるようになった。
 その頂点は92年に韓国ソウルのオリンピック・スタジアムで行われた合同結婚式。
 桜田淳子、山崎浩子、徳田敦子ら有名人が参加したこともあって、報道は熾烈を極めた。
 その後、95年にオウム真理教事件が勃発したこともあって、統一教会の動向は世間からよく見えないものになった。

snow-6916993_1920


 本書第1部では赤報隊事件の概要が物語風にわかりやすく説明され、第2部では犯行声明の内容からして最も濃厚な被疑者と思われる右翼に対する樋田らの捜査経過が記されている。
 
 一言で右翼と言っても、様々な思想・政治的背景、行動形態、活動分野があることが分かった。そして、私たちが追いかけている「赤報隊」は、右翼世界のどのあたりに位置しているのか。日本の右翼の世界を図式化することで、「赤報隊」に迫る道筋を探ることができるのではないかと考えてきた。

 読者の理解を助けるべく本書に掲載されている右翼世界の分類図が非常にわかりやすい。
 今後の右翼に関するニュース報道や資料を読み解く際に役だつと思うので、ここに上げさせていただく。
 
IMG_20220811_195532
本書より転載(樋田毅作・日本の右翼の構図)

IMG_20220811_201154
本書より転載(樋田毅作・日本の右翼の6つのグループ) 

 樋田および朝日新聞特命班は、警察がマークした9人の容疑者――新右翼団体「一水会」の鈴木邦男含む――をはじめ、全国約300人の右翼思想家・右翼活動家に取材して調査を進めてきた。
 暴力を肯定する猛々しい敵の中に乗り込んでいく樋田の度胸や執念、プロ根性は見上げたものである。
 同僚の死に対する「弔い合戦」的な思いは当然あったであろう。
 その奥には学生時代に挫折した革マル派との攻防の記憶、キャンパスで殺された川口大三郎君の「カタキを取る」という思いもあったのではなかろうか。
 右であれ左であれ、暴力は絶対に許さないという樋田の信念が全編にあふれている。
 だが、残念ながら樋田ら特命班は、右翼の中に犯人を特定することはできなかった。 

 第3部では、統一協会(本書ではα協会と記載)および勝共連合(同様にα連合)に対する捜査過程が記されている。
 ここでは、勝共連合内部で朝日新聞に対する憎悪が半端なく高まっていたこと、全国に20を超える射撃場付きの銃砲店を持っていること、軍事訓練を受けた秘密部隊があった(ある?)らしいこと、裏工作を専門とする機関があったこと、内輪もめから協会を追放されその後協会を告発する記事を発表した元広報局長が何者かによって瀕死の重傷を負わされたこと、などが取材によって明らかにされる。
 元信者の証言や潜入取材などから浮かび上がる統一協会の実態が(そのまま事実であるならば)実に恐ろしい。
 松本清張が『日本の黒い霧』の中で取り上げたGHQのキャノン機関の謀略の数々を連想させる。
 しかし結局、赤報隊事件とのつながりを示す明らかな証拠はここでも見つからなかった。

 犯人側はなぜ、阪神支局を襲撃したのか。なぜ、小尻記者を射殺したのか。なぜ、赤報隊と名乗ったのか。なぜ、朝日新聞の関連施設を攻撃対象に選び続けたのか。そもそもの犯行目的は何だったのか。30年間にも及ぶ取材にもかかわらず、事件をめぐる謎は何一つ解明できていない。時間の経過とともに、取材対象は広がったが、事件をめぐる闇は深まるばかりである。

 黒い霧はいまも日本を覆っている。
 この霧の背後になにが隠されているのだろうか?
 真夏の怪談にも増して怖い。
 怖いけれど、もはやノンポリではいられない。
 事態は切迫している。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




 

● あの日見た花の名前をぼくは知っている

 埼玉県の小鹿野ハイキングの際に見かけた道端の花で、名前が判明しないものがあった。
 これである。

DSCN5306

 記事を読んでくれた数人から、「それはサフランモドキではないか」というコメントをいただいた。
 ネットで検索してみたら、まさにそう、ドンピシャ。

サフランモドキ(学名:Zephyranthes carinata)は、中米・西インド諸島原産で、ヒガンバナ科タマスダレ属の小形の球根植物です。別名でゼフィランサスとも呼ばれます。
サフランと似ているのが花名の由来です。雨後に一斉に花が咲くことから、英名では、レインリリー(Rain lily)とも呼ばれます。

原産地:中米・西インド諸島
草丈:30cm 
開花期:7月~9月
花色:桃
花径:7~8cm
かぎけん花図鑑より抜粋)

 ソルティが花の名前を調べるのにいつも利用しているのは、手持ちの数冊のポケット図鑑のほか、四季の山野草というサイトである。
 トップページの検索欄に「花びらの数」「花の色」「開花時期」「つる性か否か」などを打ち込んで検索をかけると、候補の花が画像付きでずらっと並ぶ。
 今回もポケット図鑑に見当たらなかったので、「四季の山野草」のお世話になった。
 「花びらの数→7枚以上、花の色→ピンク~赤、季節→夏、非つる性」と打ち込んだ。
 が、出てこなかった。

 なんと、サフランモドキの通常の花びらの枚数は6枚で、「まれに8枚」だったのである!
 花びらの数を6枚に設定して検索すると、ちゃんと出てきた。
 ソルティが小鹿野で出会ったのは、2枚サービスバージョンのサフランモドキであった。

 昨夕、家の近くを散歩していたら、路地の壁ぎわの日陰に見知った顔があった。
 こんな近くに咲いていたのか!

サフランモドキ

 こちらが通常の花びら6枚バージョンである。
 薄い桃色の花弁とスイセンのような線形の葉っぱが、涼やかにして美しい。
 きれいなのに出しゃばらず、静かでやさしげで、秘めやかに愛らしい。
 まるで着物姿の吉永小百合サマのよう・・・・。

 それにしても、サフランモドキという名前はあんまりだ。
 英名のレインリリーのほうがずっといい。
 ソルティは個人的に「ラブリーピンク」と命名した。



 



● 永遠の小美人 ザ・ピーナッツ2



IMG_20220724_181530
 キング・レコード発売『ザ・ピーナッツ~恋のフーガ』

IMG_20220724_181449

 『ザ・ピーナッツ~恋のバカンス』に続く2枚目。
 今回も『恋のフーガ』『銀色の道』『ウナ・セラ・ディ東京』『スター・ダスト』など有名な曲が収録され、聴きどころたっぷり。
 60~70年代和製ポップスならではの単純でリズミカルな曲の構成は作業BGMにも適している。

 今さらながら気づいたことがある。
 ソルティはこれまで、女性2人のデュオということで、ピンクレディーがザ・ピーナッツの後継と思っていた。
 ザ・ピーナッツの引退は1975年、ピンクレディーのデビューは76年。
 まさに芸能界にポッカリ空いた大きな穴を埋めるような形で、交替劇は起きている。
 ピンクレディーの国民的人気の理由の一つは、ミーとケイの二人に、ザ・ピーナッツのユミとエミの影を重ねた人が一定層いたことにあるのでは、と思っていた。

 だが、ザ・ピーナッツの歌を何曲も続けて聴いているうちに気づいた。
 音楽的には、ザ・ピーナッツの後継は明らかにキャンディーズである。
 
 所属が同じナベプロ(渡辺プロダクション)ということもあるが、楽曲がよく似ている。
 共通している作詞家が山上路夫、なかにし礼、安井かずみ、作曲家がすぎやまこういち、編曲が馬飼野康二ら。
 普段着の恋愛ポップスでハーモニー重視というところも同じである。
 
 またこれは楽曲とは関係ないが、ザ・ピーナッツは『シャボン玉ホリデー』でコントをやっていた。
 とくに、病いに臥せっている父親に扮したハナ肇を相手にした、「いつも済まないねえ」「おとっつぁん、それは言わない約束でしょ」というかけあいは、コントの定番となった。
 このノリもまた、TBS『8時だョ!全員集合』やテレ朝『みごろ!たべごろ!笑いごろ!!』などのバラエティ番組でコントを得意としたキャンディーズと重なる。(ピンクレディーはコントが下手だった)

 ウィキによると、キャンディーズは事務所の先輩であるザ・ピーナッツから、着用した舞台衣装をプレゼントされたことがあり、その際、同じデザインのものをもう1着作成し、3人分揃えてくれたという。

 思春期にリアルタイムで聴いていたキャンディーズの歌がどことなく懐かしかったのは、幼少期に聴いたザ・ピーナッツの響きが蘇っていたからなのかもしれない。 

 まあ、自民党と旧・統一協会の癒着とか、コロナ第7波とか、サル痘拡大とかのニュースにくらべれば、まことにどうでもいい話である。




 




● 一俵の価値 本:『カムイ伝講義』(田中優子著)

2008年小学館

 田中優子は刊行当時、法政大学社会学部教授だった。
 江戸時代をテーマとする授業において白土三平『カムイ伝』を使用するという画期的な試みをした。
 その過程で生まれたのが本書である。

IMG_20220625_162658
 
 『カムイ伝』には江戸時代の庶民(百姓、穢多、非人、山の民、海の民、下級武士、商人など)が登場し、それぞれの生活の場がくわしく描かれる。
 稲作、麦作、綿花栽培、養蚕、マタギ、漁師、鉱山、林業、皮革産業、刑吏、肥料の商い・・・・・。
 それらは、庶民が日々生きるための仕事、食うための仕事であって、多くは厳しい自然との闘いが必須である。いわゆる第一次産業。
 白土の綿密な取材と、それぞれの仕事現場の風景や生産過程を読者にわかりやすく臨場感もって伝える画力の高さには脱帽するほかない。
 まさに、江戸時代の庶民を研究するに恰好の素材である。
 そこに目を付けた著者の慧眼は素晴らしい。
 
 本書は江戸時代の庶民の研究書であると同時に、江戸時代の庶民の暮らしを通じて現代の日本人を振り返る一種の社会評論であり、かつ、もっとも優れた『カムイ伝』の解説書と言える。

IMG_20220620_231433

 本書を読んで特に気づいたことの一つは、白土の『カムイ伝』(とくに第一部)が江戸時代の特定の時期の特定の場所(藩)をモデルとしているわけではなく、時間的にも空間的にも江戸時代全般にわたっているという点である。
 たとえば、第一部の主要舞台となる日置藩は、一応、江戸時代初期の地方藩という設定になってはいるが、そこで描かれる事件や文化や風習は江戸時代のいろいろな時期、いろいろな地方の出来事が混じり合って凝縮されていたのである。
 時代考証で言えば、「ザ・江戸時代」なのだ。
 
 いま一つは、この時代の武士の存在意義について。
 戦国時代が終わり曲がりなりにも天下泰平の世になって、多くの武士が存在意義を失った。
 厳しい身分制度や武家としての誇りのため、簡単に他の職業たとえば百姓や商人に鞍替えすることはできない。
 結果として、「約80%の農民が、5%の武士を養っていた」。
 それでも高給取りの上級武士たちはまだいい。扶持の少ない下級武士たちは家族を養うために様々な内職――寺子屋の講師、傘張り、行灯の絵付け、小鳥の飼育、金魚や鈴虫の繁殖など――をせざるをえなかった。
 文字通り「地に足を付け」大自然と闘い生産過程そのものを生き、不満が募れば一揆を立ち上げる百姓(農民、山の民、海の民など)の逞しさにくらべると、生産過程から離れたところで儒教精神に縛られた窮屈な生活を送り、上に反抗すれば「お家取潰し」の武士たちは、まさに生殺し状態。
 
 食べ物がどこから来るのか知らない、考えようともしない――これは何かに似ていないだろうか? そう、現代の日本人である。昼に食べた納豆の原料が、アメリカや中国から来るのを知らない。ペットの食べ物を誰がどこで作っているのか知らない。毛皮やダイヤモンドの背後に、どのような搾取構造が潜んでいるか知らない。現代の日本人はまるで、江戸時代の武士の人口がふくれあがったものであるかのように見える。

 穢多の仕事についてもそうだったが、江戸時代の人々の生き方と仕組みを見ていると、互いに必要不可欠な仕事をすることで社会が成り立っている。いなくていいのはむしろ武士だったかもしれない。一揆について考えるにはその視点が欠かせない。一揆は、搾取されているかわいそうな人々が貧しさに押し潰されて仕方なく起こしたのではなく、必要不可欠である自分たちの存在をもって、生活の有利を獲得するための方法であった。しかもその場合の生活とは個人生活である前に、生産共同体としての集落の生活だった。 

 第一次産業従事者が圧倒的に減った現代の「武士」である我々だが、少なくとも「一揆=デモ」を起こすことはできる。
 選挙で世の仕組みを変えることができる。
 一票は米一俵ほどの価値がある。

米俵

おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損



● 白土三平作画『カムイ伝』を読む 3

1964~1971年『月刊漫画ガロ』連載
1989年小学館叢書11~15巻

IMG_20220616_091323

 第一部完読。
 凄絶で希望のないラストに暗澹たる思いがした。
 グロテスクなまでの残虐と徹底的な正義の敗北に永井豪『デビルマン』を想起した。
 百姓一揆の首謀者たちが役人から拷問を受ける場面は、これほど名作の誉れ高くなければ今ならR指定受けそうなレベルである。まるでサド伯爵の小説のよう。
 愛着ある主要キャラたちがラストに向けてバタバタ殺されていくのも『デビルマン』に似ている。
 百姓のゴン、抜け忍の赤目、浪人の水無月右近には生きていてほしかった。
 第二部があるとはいえ、“夢が現実に負ける”後味の悪さは比類ない。

 第一部は『月刊ガロ』1964年12月号から1971年7月号までに連載された。
 これは社会的には戦後の左翼運動が盛り上がった時期と重なる。
 反ベトナム戦争、第二次日米安保闘争、学園紛争・・・・反体制の嵐が日本中を吹き荒れていた。
 『ガロ』の読者である若者たちは当然反体制だったから、圧政に虐げられる百姓や非人の立場に自らを置いて『カムイ伝』を読んでいたはずだし、作者であると同時に『ガロ』の生みの親であった白土三平が、自身の思想信条はおいといても、反体制側の意を汲んだ(読者の共感の得られる)作品を描こうとしたのは間違いあるまい。
 当時の読者は、江戸時代の「幕府(徳川)―藩(大名)―侍―商人―百姓」の姿に、リアルタイムの「アメリカ―日本政府(自民党)―役人―企業―庶民(自分たち)」の姿を投影したことだろう。
 そして、資本主義の悪を描いた作品と受け取ったであろうことは想像に難くない。
 
 その点を考慮すると、最終巻の発表された1971年という年は意味深である。
 つまり、1969年末に機動隊の投入によって学園紛争は鎮静化し、1970年6月に日米安保は自動延長となり、新左翼の過激な内ゲバやテロリズムなどで世論の風向きが変わり始めていた。
 資本家と結託した巨大で老獪な権力に庶民が立ち向かうことの困難があからさまになった一方、運動する者たちの間に疑心暗鬼や分裂や潰し合いが広がっていた。
 非人や百姓の生活向上のためにひたすら尽くしてきた庶民のヒーロー・正助が、共に闘ってきた仲間である百姓たちから「裏切者」とののしられリンチを受ける凄惨なラストは、衆愚に対する作者の絶望とともに、本作が時代を映す鏡のような位置まで高められていた消息を感じさせる。
 
 江戸時代の階級闘争と昭和時代のそれとをリンクさせたところに、この作品が伝説的存在となった理由の一端があるのだろう。
 その意味では令和の今だって十分通じる話なのであるが、お上の不正に対する庶民の怒り、声を上げる勇気、連帯する力は、江戸や昭和の頃より鈍っているやもしれない。
  
 いつか第二部を読む日が来るだろう。

IMG_20220616_091442


おすすめ度 :★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





 
 
 

● 歴史リテラシー 本:『百姓の江戸時代』(田中圭一著)

2001年ちくま新書

IMG_20220609_084059

 田中圭一(1931-2018)は新潟県佐渡生まれの歴史学者。高校教諭を経て、筑波大学、群馬県立女子大学の教授を歴任。専門は近世史。
 「どこかで聞いたような名前・・・・」と思ったら、『うつヌケ』『ペンと箸』の漫画家と同姓同名であった。

 『日本の歴史をよみなおす』を書いて「日本は農業中心社会」「百姓=農民」という固定観念を打ち破った網野善彦同様、本書において田中圭一もまた、江戸時代について、あるいは江戸時代の百姓について、我々が歴史の授業で習いテレビ時代劇で補強された固定イメージを払拭せんとしている。

 これまで、江戸時代は封建支配者が暴力的・強制的、あるいは経済外的な強制によって、無権利の人民に対して法と制度を押しつけ、庶民はその暴政のもと、悪法に苦しみ、ときには法に反抗しながら270年を経過した、と考えられてきた。わたしはそうした歴史理解について、いささか考えを異にする。
 村を回っていると、庶民は力を合わせて耕地をひらき、広い屋敷と家をもち、社を建て、大きな寺院を建てている。百姓の子弟の多くは字を読み、計算をし、諸国を旅した者も多い。婚礼の献立は驚くほど立派である。日頃の粗食は貧しさだけが理由ではない。それは生活信条なのである。一口に言って、百姓は元気なのである。

 日本の江戸時代史を勉強する上で、これまで欠けていた点を一つ挙げるとするなら、百姓・町人を歴史の主役としてみることがなかったという点だ。あらゆる禁令や制度を支配者の意志による政策として疑わなかった。だから、法と制度だけで歴史をえがいてしまったのである。

 田中がこのような結論をもつに至ったのは、新潟県史編纂事業のため、幕府最大の直轄領であった佐渡の260に及ぶ村の資料調査を行ったことがきっかけらしい。
 国に残る支配者寄りの資料ではなく、村々に残る庶民寄りの資料――地域の実態を細やかに示し、文面から庶民の肉声が聴こえてくるような――を丁寧に読み込むことで、これまで多くの歴史学者が語ってきたのとは相貌を異にする江戸時代像、百姓像が浮かび上がって来たのである。
 天意でなく民意を汲んだ歴史学ってところか。
 百姓の訴状により勘定奉行がクビになった例とか、百姓一揆が幕府の理不尽で一方的な契約違反に対する民衆運動であったとか、著者が資料と共に示す様々な事例を読むと、これまで自分が江戸時代の百姓を「愚かで無力で情動に生きる子供のような存在」として捉えてきた安直さに気づかされる。
 たしかに一口に江戸時代といっても、初期と中期と後期とでは変化があって当然であるし、地域差も無視できないだろう。 

 網野史学や田中史学が、中世史や近世史の研究フィールドにどういう影響を及ぼし、現在どういう評価を得ているか、歴史の教科書にどう反映されてきたかは知るところでない。
 が、歴史教科書の内容が、時の権力の都合のいいように捻じ曲げられてしまう実態は、ドキュメンタリー映画『教育と愛国』で明らかである。
 「誰が、どのよう意図をもって、どんな資料をもとに、歴史を語っているか」
 歴史リテラシー能力を高める必要性を感じた。





おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● オペラライブ : ビゼー作曲『カルメン』

IMG_20220605_150142

日時 2022年6月5日(日)15:00~17:00
会場 ルネこだいら大ホール(東京都小平市)
指揮 佐々木 克仁
演出 山田 大輔
合唱 オペラアーツ合唱団
エレクトーン 西岡 奈津子、小倉 里恵
打楽器 大野 美音、金丸 寛
キャスト
 カルメン: 善田 美紀(メゾソプラノ)
 ドン・ホセ: 片寄 純也(テノール)
 エスカミーリョ: 中西 勝之(バリトン)
 ミカエラ: 山下 尚子(ソプラノ)

IMG_20220605_150301
西武新宿線・小平駅

 別のオケを聴くつもりで西武新宿線・小平駅に降りたのだが、なんと日にちを間違えていた。
 ルネこだいらの前には『カルメン』のポスター。
 1時間待ちで『カルメン』が始まる。
 せっかくだから、これを観ていこう!

IMG_20220605_150225
ルネこだいらと日本一大きな郵便ポスト

 主催のオペラアーツ振興財団は、「オペラの裾野を全国に広めるため、特に青少年の情操を育むため」に30年前から活動を続けている団体。
 その主旨に則って、オペラ初心者が興味を持って気楽に鑑賞できるよう、また学校の体育館のような場所でも無理なく上演できるよう、いくつかの工夫を凝らしている。
  • 有名なアリアや合唱を中心に、筋をシンプルにし、全体を2時間程度に収める
  • フルオーケストラでなく、エレクトーン2名と打楽器2名の演奏
  • 原語でなく日本語上演
 なにより、題材として『カルメン』を選んでいるのが一番のポイントであろう。
 小中学生でもわかりやすい筋書きで、恋愛トラブルの果ての殺人という三面記事に載るようなスキャンダラスな話である。
 音楽的にも、前奏や闘牛士の歌など誰でも一度は聴いたことがあるような曲がつまっているので、入りやすい。
 高校生以下100名を招待しているとのこと。
 素晴らしい試みだ。

 客席を見渡すと、確かに小中学生や高校生らしき姿がチラホラ見える。
 が、大半はおばちゃんたち。
 原語上演のオペラに行くと見受けられる、ソルティのごとき“おひとりさま男子”はほとんどいなかった。


IMG_20220607_101153
オーケストラピット

 エレクトーンと打楽器だけのオペラ演奏は初めてだったが、これがびっくり。
 ちゃんとオケ演奏として成り立っている。
 エレクトーンの作りだす音色の多彩さと弾き手の技術の高さに感心した。
 2時間ぶっ続けで弾くのは大変な気力と体力の要ることだろう。
 一人でいくつもの打楽器を担当するパーカッションも大健闘であった。

 歌手ではドン・ホセを演じた片寄純也が声量たっぷりで滑舌よろしく、精彩を放っていた。
 ミカエラの山下尚子の楚々とした雰囲気と美しいソプラノにも癒された。
 合唱隊も切れ味鋭くて良かった。

 演出はオーソドックスだが、わかりやすさに焦点を置くならこれが正解。
 本来はかなりエロティックなこのオペラ(バルツァ×カレーラスの『カルメン』を見よ!)から、エロがずいぶん抜けていたが、小中学生もいるから仕方ないところである。
 そのあたりの案配が難しかったろうなあ。 

IMG_20220512_110254

 気になったのは、やはり日本語上演の良し悪し。
 『カルメン』の台本はフランス語。
 同じラテン語から派生したイタリア語、スペイン語、あるいはフランス語に近い英語あたりなら、訳語上演してもそれほど奇異な感じは受けないと思う(聴いたことないが)。
 日本語はフランス語とは発音体系も抑揚も文法も異なるので、フランス語に合わせて作られた音楽に日本語を当てはめるのは至難の業。
 畢竟、日本語の抑揚や間を無視したセリフや節回しになりがちで、不自然に聞こえてしまうし、歌詞が聞き取りづらくなってしまうのだ。
 オペラの魅力の大きな部分は「言葉と音楽の幸福な結婚」にあると思うので、そこを犠牲にしてしまうのは個人的には残念。(これは歌舞伎や能をフランス語や英語で上演する場合をイメージすると頷けるであろう) 
 ただ、ソルティは原語で聴くのに慣れているゆえに、あるいは洋画で字幕を読むのに慣れているゆえにそう感じるのであって、入り口としては日本語上演も当然ありだろう。

 幕間休憩で「意味、全然わかんない」とぼやいていた近くの席の中学生たちは、ホセがカルメンを刺すラストシーンでは息をつめて食い入るように舞台を観ていた。
 彼らが、「人を好きになるって恐いんだな~」と怖気づきませんように。
 いつの日かオペラの魅力にはまってくれますように。

 出演者、スタッフ、関係者の骨折りにブラーヴォ! 

 



  

● 白土三平作画『カムイ伝』を読む 1

1964~1971年『月刊漫画ガロ』連載
1988年小学館叢書1~5巻

IMG_20220526_090016

 「いつか時間があったら読もう」と思っていたボリュームある小説や漫画のうちの一つであった。
 『神聖喜劇(漫画版)』といい『橋のない川』といい『チボー家の人々』といい、ソルティにとって今がその「いつか」らしい。
 間に合ってよかった(何に?)

 白土三平と言えば、子供の頃再放送されるたびに観たTVアニメの『サスケ』と『カムイ外伝』、つまり江戸時代の忍法漫画のイメージが強く、本作もまたタイトルからして当然その系列と思っていたのだが、5巻まで読んだところでは、“苛烈な封建社会に対するアジテーション”が中心テーマのようである。
 もちろん、非人あらため忍者カムイは主役の一人で、忍術を駆使した剣士や忍者とのスリリングな闘いシーンは出てくるし、忍者社会の厳しい掟(とくに“抜け忍”に対する)も語られている。
 そこは上記のテレビアニメと同様のアクション漫画としての面白さがある。(「解説しよう」で始まる忍法の種明かしこそないが・・・)
 
 カムイ以上に目立っているのは、下人(百姓と非人の間の身分で畑をもつことができない)の生まれながらも、才覚と勇気と根性で百姓に這い上がった正助である。
 下人仲間はもちろん、非人にも百姓にも(庄屋にまで!)頼りにされ慕われる正助というキャラから目が離せない。
 新しい農具(センバコキ別名後家殺し)を開発したり、稲作のかたわら養蚕や綿の栽培を始めたり、自ら読み書きを覚えた後に百姓相手の学習塾を開いたり、現状を改善していこうと骨折る正助。
 封建社会の重圧や理不尽に負けず、知恵を尽くし、持てる力を発揮し、あきらめずに仲間と共に闘っていく姿が、時代を超えた共感を呼ぶのであろう。

 正助の最大の味方であるスダレこと苔丸。
 紀伊国屋文左衛門を思わせる才覚とスケールの大きさをもつ元受刑者の七兵衛。
 七兵衛に惹かれて力を貸す抜け忍の赤目。
 男同士の友情も読みどころの一つである。

 ところで、読みながら思い当たったのは、ソルティの中の江戸時代の百姓イメージが『サスケ』と『カムイ外伝』の白土ワールドによって原型を作られ、その後のステレオタイプな時代劇で補強されたってことである。
 曰く、重い年貢と日照りや長雨に苦しめられ、悪代官や「切り捨てごめん」の武士に怯え、姥捨てや間引き(嬰児殺し)や娘の身売りが横行し、五人組や村請制度の連帯責任・相互監視によって土地と世間に縛られる。
 徹底的にみじめで不自由な人々。

 だが、本当にそれだけなのか?
 網野善彦著『日本の歴史をよみなおす』を読むと、「百姓」という言葉の定義自体を見直さなければならないことが分かるが、ステレオタイプの農民像も今一度見直してみる必要を感じる。(見直してどうしようというのか?)

tanbo
 
 『チボー家の人々』を読み終わらないうちに本コミックに取りかかってしまったので、意識の中に20世紀初期の第一次大戦下のヨーロッパと、17世紀日本の地方の一藩と、コロナとウクライナ問題に苦しむ2022年の世界とが、並行して存在している。
 第一次大戦にプーチンが出てきたり、江戸時代の農村をジャックが飛行したり、職場の帰り道にカムイの殺気を感じたり、なんだか混乱している。






● 春の踊り子たち

 先だって利根運河を歩いたときに、運河の土手にヒメオドリコソウ(姫踊り子草)が群生しているのを見かけ、記事にも上げた。

DSCN4732
ヒメオドリコソウ(学名:Lamium purpureum)
シソ科、ヨーロッパ産で明治期以降に日本に入ってきた
(言われて見ればシソの色)

 この川端康成チックなゆかしい名前は、花の形が「笠をかぶった踊り子」を思わせるからということだが、上記の写真からそれがわかるだろうか。
 ソルティはかなり苦しい比喩と思った。(そもそも花が小さ過ぎ) 

DSCN4834


 先日、20度を超えた陽気に誘われて家の近くを散歩していたら、ヒメオドリコソウがあちこちの道端に咲いているのに気づいた。 
 
KIMG0031

 最初の画像と比べると、紫蘇色のクリスマスツリーのような葉形が崩れて、白っぽい花がすっかり満開となっているのがおわかりになるだろう。
 花をアップする。

DSCN4837

 花が身を起こすように立ち上がっている。
 踊り子というより、ゴルフ場にいるキャディのおばさんのように見える。
 「そこは3番アイアンね」

 ではこれなら?

KIMG0029

 笠をかぶり扇子を手に広げた踊り子たちとしか見えない!
 そろいの薄紫の着物が美しい。
 花笠音頭がどこからか聞こえてくる。

   目出度目出度の 若松様よ
   枝も
   チョイチョイ
   栄えて葉も茂る
   ハー ヤッショ マカショ
   シャンシャンシャン

 名前の由来に十分納得した。




  

 






  

● 利根運河の春を歩く(前半)~利根川から運河駅まで~

 福田村事件のあった三ツ堀・香取神社をあとにし、利根川の土手を下流へ向かう。
 左手に広がるゴルフ場を横目に、40分ほど歩けば利根運河にぶつかる。
 この運河もまた、筒井功著『利根川民俗誌 日本の原風景を歩く』に登場し、興味を引かれた。

DSCN4717

DSCN4719
運河の水量を調節する水門
高低差のため、利根川から江戸川へと流れる

 利根運河は、利根川と江戸川を結ぶ全長約8.5キロの水路。
 オランダ人技師ムルデルの設計・監督のもと220万人もの労働者を動員し、1890年(明治23年)に完成した。
 当時、一日平均100隻もの船が通航し、利根川流域の村々と江戸との間の人や物資の輸送を担った。
 大正期に入ると運輸の中心は貨物列車が占めるようになり、また度重なる洪水被害の影響もあって船運は衰え、昭和16年(1941)の台風被害で事実上運航不可能となった。
 現在、四季折々の風情豊かな運河沿いの道は、散歩やジョギングやサイクリングを楽しむ人々に愛され、2019年には文化庁選定の「歴史の道100選」に選ばれている。

 利根川取水口から江戸川放水口まで、利根運河を歩いてみた。

日時 2022年4月2日(土)
天候 晴れ
行程
12:05 香取神社前バス停
     歩行開始
12:10 香取神社、円福寺
13:10 利根川土手
13:50 利根運河・利根川取水口
14:00 北部クリーンセンター下
     休憩(20分)
14:40 市立柏高校
15:30 桜並木
     休憩(10分)
16:00 東武アーバンパークライン・運河駅
     昼食(30分)
17:10 利根運河・江戸川放水口
     休憩(20分)
17:50 利根運河大師
18:25 東武アーバンパークライン・運河駅
     歩行終了
所要時間 6時間20分(歩行5時間+休憩1時間20分)
歩行距離 約15㎞

 まずは、利根運河の地図上の位置を確認。

IMG_20220403_132025
利根運河の位置1
千葉県の左肩にあり、茨城県(守谷市)と埼玉県(吉川市)をつなぐ

IMG_20220403_131355
利根運河の位置2
かつて利根川流域から江戸川流域に物資を運ぶには、
二つの川の分岐点である境町あたりまで上らなければならなかった。
それが大幅に短縮されたわけである。

IMG_20220403_131722
利根運河の位置3
運河の北側が千葉県野田市、南側の右半分が柏市、左半分が流山市。
東武野田線(アーバンパークライン)と交差する地点が運河駅。

IMG_20220403_131302
地形図
流域で建物が密集しているのは運河駅周辺。
農地や未開発の土地が多い。


 まずは、水門から流れを遡って、利根川取水口にレッツ・ゴー!

DSCN4721
突きあたりの土手の向こうが利根川

DSCN4720
いまは二つの樋管によってかろうじて流れがつながっている

DSCN4723
坂東太郎こと利根川
奥に見えるは利根川橋

DSCN4724
利根運河取水口
先ほどの樋管に通ず

DSCN4726
利根川対岸は茨城県守谷市

DSCN4725
ここで運河を渡る
以降、運河の左岸を歩きます

DSCN4729
整備されていない、道なき道がしばらく続く

DSCN4733
藪の中のウグイスの声を聴きながらしばし休憩
(北部クリーンセンターあたりの土手下)

DSCN4732
姫踊り子草(ヒメオドリコソウ)
花の形が笠をかぶった踊り子の姿を思わせることからその名が付いた

DSCN4758
出番です!

DSCN4735
さきほどの水門を反対側から見る

DSCN4738
振り向けば桜と鉄塔
千葉にはまだまだ土地がある

DSCN4739
柏市立柏高等学校
グラウンドでは野球の試合が行われていた

DSCN4742
自転車で下校する高校生ら
この素敵な風景がいつの日か彼らの思い出に。

DSCN4744
城の越排水樋管
運河の水は飲料水、農業用水、工業用水として利用されている

DSCN4745
運河の利根川近くは、人手が入っていない野趣あふれる風情が続く

DSCN4748
おお!
運河には桜が良く似合う
(まだ序の口です)

DSCN4749
関東は夜から土砂降り。
今年最高にして最後の花見日和であった。

DSCN4747
対岸のホテル
休憩2時間2800円は高いのか安いのか
ソルティには見当つきません

DSCN4754
国道16号線柏大橋を後方に見る
(振り返り撮影が多いのは、お日様に向かって歩いているので逆光を避けるため)

DSCN4760
うわっ!!
こんな光景が待ち受けているとは思わなんだ
(流山市に入っています)

DSCN4762
知られざるポイントなのか、人がそれほど出ていなかった

DSCN4768
青空と桜と菜の花のコントラストが鮮やか

DSCN4770
対岸には東京理科大学野田キャンパス

DSCN4771
ふれあい橋と東武アーバンパークライン鉄橋

DSCN4772
東京理科大学を望む
このように素晴らしい環境で学生生活を送れるとは幸せだ

DSCN4775
運河駅近くのラーメン店で遅い(16時!)昼食
取水口から運河駅周辺までお店がなかった

DSCN4774
野菜ラーメン850円
一日分のお野菜はしっかり採れました



後半へ続く















  
 

 

● アプリーレ・ミッロの時代 オペラDVD:ヴェルディ作曲『仮面舞踏会』


IMG_20220331_120953

収録年 1991年1月
会場  メトロポリタン歌劇場(ニューヨーク)
管弦楽&合唱 同劇場管弦楽団&合唱団
指揮  ジェイムズ・レヴァイン
演出  ピエロ・ファッジョーニ
キャスト
 グスタフ3世 :ルチアーノ・パヴァロッティ(テノール)
 レナート :レオ・ヌッチ(バリトン)
 アメリア :アプリーレ・ミッロ(ソプラノ)
 ウルリカ :フローレンス・クイヴァー(メゾソプラノ)
 オスカル :ハロライン・ブラックウェル(ソプラノ)

 ヴェルディ中期の傑作。
 スウェーデンの啓蒙絶対君主であったグスタフ3世(1746-1792)の暗殺という史実に材を取っている。

 国力増強に努めるとともに社会福祉に力を入れ国民の人気を集めたグスタフ3世は、一部貴族から反感を持たれていた。ある晩ストックホルムのオペラ座で開催された仮面舞踏会の最中、背後から拳銃で撃たれ、それがもとで命を落とした。犯人として捕まったのは、ヤコブ・ヨハン・アンカーストレム伯爵であった。

 本作は、この史実をもとにしながら、グスタフ3世と忠実な部下であり親友でもあるレナート(アンカーストレム伯爵がモデル)、そしてレナートの妻アメリアの三角関係を創作し、暗殺の動機を政治的なものから痴情的なものに転換している。
 すなわち、グスタフとアメリアの関係を誤解したレナートが、華やかなる仮面舞踏会の会場でグスタフを刺し殺すという恋愛悲劇である。
 レナートは、妻として自分を裏切ったアメリアより、友として自分を裏切ったグスタフのほうが許せなかったのだ。
 その直前にグスタフは身分を隠して女占い師ウルリカのところに行き、将来を占ってもらう。
 ウルリカは言う。「おまえは身近な人間の手で殺される」
 この予言が実現してしまったわけで、いかにも大時代的なベタな設定だなと思うが、なんとこれもまた史実で、ウルリカは実在の占い師で暗殺予言も実話らしい。

tarot-5511610_1920

 全体にヴェルディらしいドラマチックで重厚な曲調で、アリアや重唱や合唱の出来も良い。
 中だるみのない緊密な音楽構成は、中期の傑作として上げられるのももっとも。

 運命のいたずらで、レナートはグスタフとアメリアが深夜二人きりで会っている現場を目撃してしまう。二人の間に肉体関係はなかったのだが(身も蓋もない言い方でスミマセン)、レナートはてっきり自分がコキュされたと思い込む。
 しかもバツの悪いことに、現場にはグスタフの命を狙う貴族たち一味も潜んでいて、一部始終を見られてしまう。
 この衝撃のシーンにおいて、ヴェルディは、貴族たちの「ハハハ」というレナートへの嘲り笑いを歌にした軽妙な音楽を入れる。 
 もっとも悲劇的なシーンに、もっとも喜劇的な音楽をぶつけて、ドラマをさらに盛り立てるヴェルディの天才性には唸らされるばかり。

 世界のメトである。
 オケや合唱はむろん、出演歌手たちも当時の最高峰を集めて、間然するところがない。
 パヴァロッティは声の素晴らしさは言うまでもないが、王様の衣装が実に良く似合って、あの髭面がイケメンに見える。
 レオ・ヌッチの形式感ある立派な歌唱、抑えた演技は好ましい。
 オスカル役のハロライン・ブラックウェルの明るいコロラトゥーラソプラノと軽快な動きは、暗く陰惨な作品の雰囲気を緩和してくれる。
 そして、アメリア役のアプリーレ・ミッロであるが・・・・

 ソルティが人生ではじめて観たオペラのライブは、1988年メト来日公演の『イル・トロヴァトーレ』(NHKホール)であった。
 このときの指揮者はジュリアス・ルデール。
 予定されていたキャストは以下のとおりだった。
  • レオノーラ:アプリーレ・ミッロ
  • ルーナ伯爵:シェリル・ミルンズ
  • マンリーコ:フランコ・ボニゾッリ
  • アズチェーナ:フィオレンツァ・コソット
 オペラ好きならもうお分かりだろうが、オペラ史に残る名演フィオレンツァ・コソットのアズチェーナが聴きたかった・観たかったのである。
 しかし、理由は忘れたが、直前にコソットが来られなくなって、急遽代役が立てられた。
 ソ連(!)から駆けつけた名歌手エレナ・オブラスツォワがアズチェーナを歌った。
 安くないチケットを買い、字幕を見ないで済むようリブレット(台本)を読みこなし、CDで聴きどころを繰り返し聴き、準備万端整えていたのに、一番の目的が果たされずがっかり・・・・ではあったが、さすが世界のメト、やっぱり素晴らしい舞台だった。
 コソットの不在という大きな穴を埋めてくれた一番の功労者は、しかし、エレナ・オブラスツォワではなかった。
 メトの有望新人ソプラノとして赤丸急上昇のアプリーレ・ミッロだった。
 当時まだ20代だったのではなかろうか。
 よく通る豊麗な声と深い響きが合わさった、まさにヴェルディのヒロインにぴったりの声だった。
 とりわけ第4幕第1場のレオノーラのアリア『恋は薔薇色の翼に乗りて』は絶品で、彼女の歌声によって、昭和バブル期のNHKホールから、月の輝く中世ヨーロッパの古城にタイムスリップしたかのような感覚を抱かされた。
 あの世の主役はミッロだったと思う。

 ソルティの素人判断はともかくとして、ミッロは非常に期待されたソプラノだった。
 もちろんすでにメトのプリマには到達していたのだが、それ以上の存在になる、オペラ黄金時代(1950年代)のテバルティやカラスの域まで行くのではないか、とさえ言われていた。
 本ライブでも、大先輩であるパヴァロッティやレオ・ヌッチにまったく引けを取らない堂々たる歌唱で、ヴェルディの音楽に内包するドラマ性と抒情性を見事に表現しきっている。
 声のコントロールも巧みである。
 これで20代とは!
 たしかに末恐ろしい。

 その後、ソルティがミッロの歌声を生で聴く機会を持ったのは、1992年1月ローマ・オペラ座だった。
 イタリア旅行中のローマでミッロのリサイタルがあると知り、当日券を買った。
 久しぶりに聴くミッロは調子悪そうで、声がよく出ていなかった。
 ライブの途中で、彼女自身が客席に向かって、「今日は風邪をひいて声の調子が良くありません」と弁明しなければならないほどだった。
 その後、ミッロの名前を聴く機会は急速に減った。
 どうも80~90年代初頭がピークだったようだ。
 喉を壊したのだろうか?
 それとも、キャスリーン・バトルに虐められた?

ローマオペラ座
ローマ・オペラ座
 
 本DVDは、デアゴスティーニ発売「DVDオペラコレクション」(2009年創刊)の一枚で、ブックオフで500円で購入した。
 世界的歌手が出演する伝説のオペラライブを収録したLD(レーザーディスク)が1万円以上して、それを観るためのLDプレイヤーが10万円以上した時代を知る者にとって、こうしてワンコインで画質も音響も良い映像ソフトを手に入れられて、自宅の低価格DVDプレイヤーで気軽に視聴できるのは奇跡のようである。







● 床下45センチ CBT初体験(福祉住環境コーディネーター検定試験2級)

 先日、上記の資格試験を受けた。

 もともと昨年12月初旬の試験を受ける心積もりで秋口から勉強を開始したが、結局12月の試験は受けなかった。
 というのも、コロナ禍で密を避けるべく、受験者の多い2級と3級の試験はこれまでの会場一斉試験ではなくなって、自宅や会社など各自のパソコンを利用したインターネット方式の試験= IBT(Internet Based Test)になってしまったからである。
 受験者数が少なく筆記が課せられる高難度の1級のみ、これまで通りの会場方式で実施される。
 ――ということに気づいたのは、受験申込みしようと主催者である東京商工会議所のホームページを確認した11月中旬であった。 

 ソルティ宅のインターネット環境はいま一つ信用が置けない。ここを試験会場にするのは不安大である。
 しかも、主催者からはいくつかの条件が課せられている。
  • 推奨するブラウザはGoogle Chrome最新版 (⇒ソルティはInternet Explorerを使用)
  • 上り下りともに2Mps以上の速度 (⇒意味がわからん。上り下り? 隅田川?)
  • 待機開始から試験終了までの間、カメラに他の人が映り込まない、かつ、マイクに他の人の声が入らないように間隔や空間を確保すること (⇒隣の部屋で80代の父親が観ている時代劇の音声が絶対入る)
  • カメラで試験中の映像(受験者の上半身、身分証明書、背景映像など)を録画し、マイクで音声を録音することから、他者のプライバシーを侵害する可能性がある物などが録画、録音されないようにすること (⇒受験生自身のプライバシーはどうなの?) e.t.c.
 なんだかメンドクサイのである。
 カンニング防止のための処置であることは重々承知しているけれど、試験中の自分の姿や周囲の物音が録音・録画されるというのは気分よろしくない。
 また、昭和アナログ人間であるソルティにしてみれば、パソコンを使ったインターネット方式の試験というのもなんだか怖い。
 (キー操作を誤って、試験途中で“全回答削除”とかやってしまいそう)
 (モニターに映し出される細かい問題文を読むのに骨が折れそう)
 (途中でデータが重すぎてフリーズしたり、シャットダウンしたりするかも)
 (試験途中に家人がヘアドライヤーを使って“ヒューズが飛んだら”どうしよう←昭和)

saigai_teiden


 「受けるのよそうかなあ」と思っていたら、救いの手があった。
 「IBT への移行に伴う経過措置として、使用機器や受験環境等のご用意が困難な方を対象に、2021年度~2023 年度に限りCBT を実施」とあった。
 CBT(Computer Based Testing)とは、IBTと同じようにパソコンを使う試験ではあるものの、テストセンターと呼ばれる試験会場に受験者が赴いて、そこに用意されたパソコンを使って試験を受ける方式である。(インターネットにはつながってはいないと思うが、よくわからん)
 必要な機器はテストセンターに揃っているので身ひとつ(と身分証明証)で会場入りすれば良いのでラクである。
 全国47都道府県の300以上あるテストセンターから好きな会場を選ぶことができる。(テストセンターに指定されているのは、おおむね各地にある民間のパソコン教室のようだ)
 受験日時もまた、指定された期間(約3週間)から自分の都合の良い日と時間帯を選べる。
 これなら受けられそうだ。

 福祉住環境コーディネーター2級のCBTは、令和4年の1/24~2/14であった。
 というわけで、当初昨年12月に受けるつもりだったものが、この2月初めに延びたのである。
 資格取得よりも勉強すること自体が目的だったので、なんの影響もなかったけれど、さすがに気持ち的にはダレた。

test_shiken_man
昔なつかしペーパー試験

 仕事が休みの平日の午前11時スタートの時間帯を選んで、自宅から一番近いテストセンターを予約した。
 10分ほど電車に揺られた駅の近くにあるパソコン教室である。
 当日、開始20分前に会場に着いて中に入ると、さして広くないスペースにパーティ―ションで区切られた個人用ブースが20個くらいあって、ブース内にはパソコンの乗った机と椅子と荷物置きだけがあった。
 すでに10時スタート組や10時半スタート組が各々のブースの中でモニターに向かい問題に取り組んでいて、緊張した空気が漂っている。
 ソルティも試験官(たぶんパソコン教室の先生?)に空いているブースを案内され、運転免許証で本人確認を行い、渡された注意書きを読んだ。
 トイレをお借りした。 
 本番前に、実際にパソコンを使ったシミュレーションがあった。
 「次の問いへの進み方」とか「前の問いへの戻り方」とか「残り時間の確認方法」とか「回答欄の表示方法」とか、表示されているボタンをクリックするだけの容易な操作で、銀行のATM操作ができれば問題ないくらいの簡単さ。
 モニターに表示される文字も大きくて、読みやすい。
 これならなんとかなる!

 スタートボタンをクリック、本番に突入した。(クリックした瞬間からコンピューターが自動的に時間を計測するので、一斉スタートの必要がない。早く着いて用意が整った人から順次開始できる)
 過去のペーパー試験では約70問に対し制限時間120分だったが、今回は計70問に対し90分。
 試験時間が30分短くなった。
 が、問題自体はかなり易しくなっていたので時間的には十分余裕があった。
 たとえば、ペーパー試験では選択肢に上げられた4つのかなり長い文章から「適切なものを一つ選べ」あるいは「不適切なものを一つ選べ」という形式が多く、文章を読むのも大変なら正解を選ぶのも難しかった。
 が、今回は提示された一つの文章について「〇×」を問う形式が多かった。いわゆる一問一答式。
 問題自体も、介護保険制度や福祉用具に関する基本を問うもの、過去問に出てきたものが多かった。 
 制限時間の半分(45分)で第70問まで回答し終え、15分間見直して、終了ボタンをクリックした。

 吃驚したのはここからである。
 クリックしたとたん、画面が変わり、すぐに結果が表示された。
 91点という点数と、その上に赤い文字で合格とあった。(合格ラインは70点以上)
 IBTだかCBTだかBCGだか知らないが、これぞパソコン試験ならではの凄さ!
 テスト終了後わずか0.5秒で結果が判明し、合否がわかる。
 画面の下に表示されている「印刷」というボタンをクリックしたら、試験官のいる席のあたりからプリントアウトされる音がした。
 試験官がブースまで結果用紙を運んでくる。
 「お疲れまでした。これで終了です」

IMG_20220210_092716

 合否をドキドキしながら数日待つことに慣れている昭和アナログ人間としては、なんかあまりにあっけなく勿体ぶらない幕切れに、せっかくの合格の喜びも3割くらい減少した。
 一方、このやり方で不合格を目にした場合、ものすごいガクッと来そう。
 思わずモニターにパンチしてしまいそう? 

 ちなみに、2級の合格率は2020年度までのペーパー試験においては平均40%くらいであった。回によっては13%という難関の時もあった。
 IBT/CBT方式になった2021年度は、85%を超えている。
 倍以上の合格率だ。(ちなみにソルティは2020年度までの過去問は平均78点だった)
 これもコロナのおかげ。
 受けるなら今だ!

 合否はともかく、3~4ヶ月勉強したおかげで福祉用具や住宅改修に関する知識がそこそこ身についたので、要介護高齢者に説明する際の自信の足しにはなった。
 たとえば、建築基準法では一階の床面は直下の地面から最低45㎝上げなければならないとか、半世紀以上この国に生きていて知らなかった。(湿気を防ぐためです)

縁側







 

● ソヴィエトの真実 映画:『DAU. ナターシャ』(イリヤ・フルジャノフスキー監督)

2020年ドイツ、ウクライナ、イギリス、ロシア
139分、ロシア語

 第70回ベルリン国際映画祭で銀熊賞(芸術貢献賞)を受賞、世評かまびすしい問題作である。
 その理由はこの映画の制作手法そのものにある。 

 2009年9月、ウクライナ・ハリコフの廃墟となったプールの敷地内に「物理技術研究所」が建設された。実在したソヴィエトの研究機関にインスパイアされた、この広大な機能を備えた実験研究施設は、ヨーロッパに建設された最大の映画セットになった。アーティスト、ウェイター、秘密警察、普通の家族など、時間と空間から隔離された何百人もの厳選された意欲的な参加者たちが実際にセットの中で暮らし、科学者たちもそこに住みながら、自分の実験を続けることができた。
 
 過去(1938年~1968年)に戻された参加者は当時のソ連の人々と同じように生活し、働き、当時の服を着て、愛し、互いを非難し、憎しみ合った。この台本のない人生は、2009年10月から2011年11月まで続き、その全期間にわたって断続的に撮影された。彼らが着ていた服から使用した言語まで、彼らの存在は研究所に設定された時間=1952年、1953年、1956年のものに統一されていた。

 すなわち、1991年に消滅したソヴィエト連邦社会をできる限り正確に再現したコミュニティを実際に創り上げ、キャストとして選ばれそこで暮らすことになった人々のありのままの生活風景を素材に、撮影・脚本・演出・編集がなされたのである。
 いっとき日本でも人気を集めたリアリティ番組の究極版ってところか。
 撮影されたフィルムは700時間にも及ぶというから、この第1弾『DAU.ナターシャ』及びすでに昨年公開されている上映6時間9分の第2弾『DAU. 退行』を皮切りに、今後もDAUシリーズが世に出てくるものと思われる。
 壮大なプロジェクトに驚嘆するが、なんだかその手法自体が社会主義的な感もする。

 第1弾となる本作は、研究施設の食堂で働く中年女性ナターシャの身に起こる出来事を描いている。
 前半90分くらいは、ナターシャのありふれた日常生活が映し出されるばかりで、途中アダルトビデオばりの激しいベッドシーンは挟まれるものの、総じて退屈である。
 上記のプロジェクトについて事前に知らなければ、途中放棄してしまうところだろう。
 ソルティは事前に知っていたので、どこまでが芝居でどこからが現実なのか、どこまでが台本でどこからがアドリブあるいは出演者の肉声なのか、どこまでが演出でどこからがドキュメンタリー(記録)なのか、なんとか興味を保ちつつ観ることができた。

 残り50分からが本領発揮。
 ついにスターリン独裁下の全体主義管理社会の怖ろしい姿が顔をのぞかせる。
 ナターシャの受難から一時も目が離せなくなる。
 日本を含む西側諸国の市民が享受しているのとさして変わらないような、喜怒哀楽に満ちた平凡な市民的日常が、独裁者の統べる管理社会の上澄みを覆っているだけであり、器のほんの一揺れで(管理者の気まぐれ一つで)、みじんもなく剥奪・破壊されてしまう。
 前半90分でリアリティ豊かに描かれたナターシャ個人の「愛」だの「悩み」だの「価値観」だの「人生」だのといった近代個人主義的観念は、まったくの世迷言に過ぎないことが赤裸々にされる。
 個人の尊厳を奪い去ることで人としてのプライドや意志をくじき、組織に隷属させ、相互監視社会・密告社会をつくりあげる全体主義管理国家のやり口には恐懼するばかり。

 しかもこれはほんの序章に過ぎないという。
 第2弾のDVD化が待たれる。
 
 我々はきっとまだ本当のソヴィエトを知らない。本当のショスタコーヴィッチも・・・。

josef-wissarionowitsch-stalin-161780_1280
ヨシフ・スターリン


おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 崖の上のなぎさ TVドラマ:『横溝正史シリーズ 女王蜂』(富本壮吉演出)

1978年毎日放送
各55分×3回

 京マチ子の演技が素晴らしかった『犬神家の一族』に続き、同じシリーズの『女王蜂』を40数年ぶりに再見。
 演出の富本壮吉は三島由紀夫原作の『獣の戯れ』(1964年)を撮っている。
 むろん、金田一耕助は古谷一行である。
 
 本作は推理ドラマとしては凡庸なのだが、伊豆沖の孤島に住む源頼朝の血を引く美しき令嬢・大道寺智子に魅せられた男たちが、女王蜂に群がる雄蜂のごとく無残に命を奪われていく。しかも、謎解明のカギは20年前に起きた智子の父親の死にあるらしい――という大時代にしてドラマチックな設定が読者や視聴者の興味を引く。
 2度の映画化、5度のTVドラマ化がその証拠である。
 
 ソルティの一番の関心は、女王蜂と名指されるほどの絶世のカリスマ美女・智子をどの若手女優が演じるか、そして智子の家庭教師で本ドラマの影の主役たる神尾秀子をどの芝居達者な女優が演じるか、という点に尽きる。
 これまでの7作のカップリング(智子―神尾)は以下のごとし。

 1952年映画  久慈あさみ―荒川さつき
 1978年映画  中井貴恵―岸惠子
 1978年テレビ 片平なぎさ―岡田茉莉子
 1990年テレビ 井森美幸―小川知子
 1994年テレビ 墨田ユキ―沢田亜矢子
 1998年テレビ 川越美和―池上季実子
 2006年テレビ 栗山千明―手塚里美
 
 個人的には、智子役のベストは栗山千明、神尾役のベストは岸恵子なのであるが、両者揃って及第点と思えるのは、この1978年テレビ版ということになる。(ただし、1952年版は観ていないし、女優のことも知らない) 
 当時デビュー間もない19歳の片平なぎさのはち切れんばかりの若さと匂い立つような美しさは眼福もの。
 子どもの頃リアルタイムで見た時は、「絶世の美女ってほどじゃないじゃん」と辛らつな見方をしていたが、40年以上経た今見ると、「これなら周囲の男たちが浮足立つのも無理ないなあ」と素直に思える。
 つまり、片平なぎさはデビュー当初、年下や同年代の男の子向けのアイドルとして売り出したけれど、それは戦略ミスであって(思ったほど売れなかった)、実際のところは川島なお美同様の中年キラー、オジサマ受けするタレントだったのである。
 だから、後年になって中高年視聴者が多い2時間ドラマの女王足りえたわけである。
 19の彼女を「ぬあんて可愛いんだ!」と思うソルティもすっかりオジサマになった。

 2時間ドラマ絡みで言えば、本作の冒頭とラストシーンの舞台は、海に浮かぶ月琴島の断崖絶壁の上である。
 なぎさの崖ストーリーはここから始まっていた。

IMG_20211217_003256
左から、片平なぎさ、長門勇、古谷一行

 子供の頃は玩味するすべを持たなかった大人の役者の魅力も、40年経た今ようやく味わえるようになって、脇をつとめるベテランの上手さというのに新鮮な驚きを覚えた。
 日和警部役の長門勇と山下巡査役の三谷昇のコミカルな味、岡田茉莉子のグレタ・ガルボばりの目の演技、新劇で鍛えた南美江の安定感と発声の見事さ、時代劇などの悪役(「おぬしも悪よなあ~」)でならした川合伸旺の凄み、神山繁のダンディな渋さ・・・・・昭和の俳優ってやっぱり素晴らしい。

 だいたいテレビドラマの最盛期は70~80年代にあると思うのだが、当時、各映画会社の撮影所で育てられドラマづくりのノウハウを一から学んだ役者や演出家やスタッフらが映画業界の斜陽と共にテレビ業界に入り込んで、一線で活躍していた。
 映画と比べてテレビは馬鹿にされていたけれど、それでも令和の現在のテレビドラマと比べたら、役者の演技も演出も美術も撮影も音楽も、質の差は歴然。
 本作に横溢する70年代日本の空気が妙に懐かしいのは、ソルティの懐古趣味ばかりでなく、失われたアートに対する哀惜なのだ。

 それにつけても、予告された殺人を阻止するために大道寺家にやって来た金田一耕助の目の前で、5人の男が殺され、1人が自害し、当人も頭を殴られ大事な鍵を盗まれるという体たらく。
 今さらではあるが、名探偵ではないよな・・・・。

 
 
おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損





● カラスと親シラズ DVD:『アート・オブ・シンギング 偉大なる名歌手たち』

1996年ワーナーミュージック制作
116分、白黒&カラー

IMG_20211201_230043


 右下の親知らずを抜いた。
 最後に残っていた一本であった。
 歯茎にしっかり潜り込んでいて向きもいびつなので、いつも行くクリニックでは抜くことができない、歯茎を切除する外科手術になるという。
 列車で20分離れたところにある、同じ系列の本社にあたるようなクリニックを案内してもらった。
 そこのベテラン歯科医を予約してもらった。
 午後3時から抜歯、念のため翌日は有休をとった。
 
 子供の頃の記憶があるため、歯医者はやはり苦手である。
 現存している歯の治療はもちろん、抜歯もまた昔のようには痛くないと分かっているのに、憂鬱な気分に襲われる(ペンチで引っこ抜くイメージがいまだにある)。
 直前に知人から半月後のコンサートの誘いを受けたのだが、「そういう気分になれなくて」断ってしまった。タイミングが悪いこと。

 当日、昼まで仕事をして帰宅、軽く昼食をとった。
 この世で最期のごはんになるかもしれない。
 良く味わっておこう、このかきあげ。

 クリニックの待合室はコロナ仕様で座席が間引かれていたが、それでも混んでいた。
 いまの感染の谷間のうちに急を要する箇所は治してしまおうという人が多いのだろうか。
 考えてみれば、歯医者は最も感染リスクが高い場所の一つである。
 ソルティだって、2回目のワクチンを打つまでは近所の歯医者に行くのをストップしていた。
 全国の歯医者は経営的に相当の打撃を被った(被っている)ことだろう。

抜歯

 
 ベテラン先生による治療はさすがに手早く安心感があり、20分くらいで治療を終えた。
 途中メリメリっという音がしたときが、歯茎から親知らずが抜けた瞬間か?
 そのあと、針と糸を使って切除した歯茎を縫合しているのが分かった。 
 「はい、終わり。これが抜いた歯です。削って分解して抜きました」
 見ると、ガーゼに包まれたポップコーンのかけらのような白い塊がいくつかある。
 「記念にこれください」
 ――とはさすがに言わなかった。(足の骨折のときは記念に抜釘後の釘をもらった)
 昔は歯が抜けたら、「上の歯は縁の下に、下の歯は屋根の上に」と言ったものだが、今の親たちは知ってるかしらん?
 結局、一番痛かったのは施術前の数本の麻酔注射だった。
 いまの疼痛コントロールの技術はほんとうに凄い!
 華岡青洲に感謝。
 
 しかし、本当の地獄はこのあと。
 施療後4時間は麻酔が効いて、右頬全体に痺れるような感覚はあるものの痛みはなかった。
 夕食前に麻酔が切れた。
 矢吹ジョーにパンチを食らったかのような重い痛みが、右顎から右耳にかけて襲ってきた。
 おそるおそる手で触れてみると、かつてのAKB前田敦子のようにエラが張って、熱を帯びている。
 鏡を見たら、顔が変形していた。 
 口を開くことができないので、喋ることができない。
 もちろん物を噛むことなど考えられない。
 夕食はポタージュスープをスプーンで流し込んで、食後の化膿止めと痛み止めを飲んだ。

 自室に下がって安静にしていたが、痛み止めがなかなか効いてこない。
 ネットする気にも、読書や試験勉強する気にも、テレビを観る気にもなれない。
 痛みから気を反らしてくれるものがほしい。
「ああ、こんなことならGEOでサスペンスかホラー映画を借りておけばよかった」

 書棚に並んでいる手持ちのDVDの中に、痛みを忘れさせてくれる類いがあるかしら?
 小津安二郎(『東京物語』、『晩春』、「麦秋」ほか)?――無理。
 溝口健二(『西鶴一代女』、『山椒大夫』、「雨月物語」ほか)――無理無理。
 ヴィスコンティ(『ベニスに死す』、『家族の肖像』、『イノセント』ほか)――無理無理無理。
 ああ、どうしてもっと俗っぽい、心浮き立つものやスリル満点のもの、すなわち無我夢中になれるものを自分は持っていないのだろう?
 せめて黒澤明(『七人の侍』、『天国と地獄』、『姿三四郎』ほか)か、スピルバーグ(『E.T.』、『ジョーズ』、『未知との遭遇』ほか)でもあったならなあ~。

 仕方なく選びとったのが、15年以上前に買った『アート・オブ・シンギング 偉大なる歌手たち』のDVDであった。
 20世紀前半から中頃(60年代)にかけて、世界中で活躍した有名なオペラ歌手30人の舞台や映画における歌唱姿と歌声とが収められている記録である。
 久しぶりに観た(聴いた)。

 テノール: エンリコ・カルーソー、ベニアミノ・ジーリ、ラウリッツ・メルヒオール、ユッシ・ビョルリンク、ジュゼッペ・ディ・ステーファノほか
 ソプラノ: ローザ・ポンセル、キルステン・フラグスタート、ジョーン・サザーランド、レナータ・テバルティ、レオンタイン・プライスほか
 バリトン: ジュゼッペ・ディ・ルーカ、ローレンス・ティベットほか。
 メゾソプラノ: リーゼ・スティーブンスほか
 バスフョードル・シャリアピン、エツィオ・ピンツァほか
 
 ミラノスカラ座、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場、ウィーン国立歌劇場はじめ世界の檜舞台で聴衆を熱狂させた往年の名歌手の歌声を、ヘッドホン越しに浴び続けていたら、いつしか痛みを忘れていた。
 時代を遡るほどに録音状態が良くないのでどうしても声が平板に聞こえがちで、声の威力や歌い回しの巧みさこそ分かるものの、声の微妙な表情やその歌手独特の響きが伝わらないきらいはある。これを聴く限りでは、カルーソーやポンセルがなぜあんなに騒がれたのか、いま一つピンとこない。
 それに劇場でじかに聴くのと、家でレコードやCDで聴くのとでは雲泥の差があるのも間違いなかろう。フラグスタートやテバルティの大きなよく通る声は、劇場で聴いてこそ真価を発揮したのではないかと思う。
 一方、演技の巧拙に関して言えば、映像でもはっきりと知られる。
 総じて、昔の歌手ほど演技が下手である。大根である。
 オペラ歌手に演技力は(ルックスも)要求されなかったのである。 
 
 そんなわけでやっぱり、本DVDの白眉は最後に収録されているアリア・カラス主演『トスカ』の舞台映像(1964年ロンドン)になる。
 歌唱と演技と(ルックスと)の最高レベルでの結合、そのリアリティの強度には息をのまずにいられない(共演のティト・ゴッビも然り)。
 カラスの舞台姿をその声と共に記録したものは少ない。
 かろうじて残された貴重な映像である。 

IMG_20211201_225949
ティト・ゴッビとマリア・カラス in 『トスカ』

 音楽にはリラックス効果だけでなく、疼痛効果があると言う。
 今回治療を受けたクリニックでも、オルゴールの音色によるポップス(浜あゆやサザンのヒット曲)が流れていた。
 なるほど、昔から「オペラは麻薬」って言うもんな。




 
 
 


● ガラ携からのガラ携

 ソルティはここ数年、ガラ携( au のフィーチャーフォン)と格安スマホの二刀流。
 日常の連絡はガラ携の電話やメール機能を使い、なにか物を調べたり、品物を注文したり、写真を撮ったり、一時的なメールアドレスが必要になったりした時には、スマホ(と自宅PC)を使っている。
 LINE も SNS も PAYPAY もやっていない。
 それで不都合は感じていない。

 しばらく前から、au から頻繁に通知が届いていた。
 2022年3月末で今使っているガラ携は使用できなくなるという。
 au だけでなく、ドコモもソフトバンクも同様で、社によって終了期限は異なるが、順次3Gサービスは終了するという。
 そもそも3Gが何を意味するのか良く分からないが、自分が持っている携帯が3Gで、それが来年4月以降は使えなくなることは分かった。
 スマホ一択になるほかないのか?
 
 正直、ガラ携でじゅうぶん間に合っている。
 持ち運びの利便性といい、落とした時の頑丈さといい、バッテリーの持ちといい、月々の使用料といい、日常よく使う機能(電卓、アラーム、カウントダウンタイマー、漢字チェックなど)の操作しやすさといい、なにより文字の打込みやすさといい、携帯のほうが使い勝手がいいと感じる。
 とりわけ、趣味の山登りにおいてはバッテリーの持ちと頑丈さは重要なポイントである。
 
 スマホは、便利なことは違いないが、とにかく目が疲れる、腕がしびれる、肩が凝る、頭が痛くなる、電磁波を浴びる、たまにフリーズしてイライラ感が募る、こまめに充電しなくちゃならない、依存性が高く時間の浪費になりがち・・・とデメリットも少なくない。
 とくに、50歳を過ぎてから、スマホ画面の光線がどうにも不快に感じる。(必要以上にまぶしさを感じる羞明という目の症状がある)
 最近では、外出する際にわざと家に置いていくことも多くなった。
 それで困ったことはない。

 そもそもスマホもガラ携もインターネットもPCもない時代の生活感覚が自分のデフォルト(初期値――という用語はまさにポストPCならではである)になっているから、なければないで、「ああ、これで初期値に戻ったなあ」という子供時代のまったり感が蘇るばかり。
 むろん、LINEやSNSでつながる人間関係にも電子ゲームにも興味がないことは大きい。
 元来、たくさんの人と付きあう器用さを持っていない人間なのだ。
 SNSやってるより好きな本を読んでいたい。

読書の秋


 先日、近所の家電店で au コ ーナーに立ち寄ったら、最新型のカッコいいスマホがずらりと並ぶ端っこのほうに、あたかも道端のすみれのごとく、ひっそりとガラ携が置いてあった。
 説明を読むと、4G対応のガラ携という。
 つまり、3Gから4Gに乗り換えれば、引き続きガラ携が使える!
 やっぱり、ソルティのようなガラ携愛好者は決して少なくないのだろう。

 早速、申し込んでバージョンアップしてもらった。
 新しいガラ携の端末代金は無料。住所や電話番号などデータの移し替えは手数料として1000円強かかるが、auポイントが4000円分たまっていたので、それでやってもらった。
 つまり、無料交換できた。(月々の使用料は若干上がった) 
 
 電車の中でガラ携をパカパカさせている男がいたら、それはソルティかもしれません。
 
IMG_20211116_141131
3G(左)から4G(右)へ
使える機能はほとんど変わらない





記事検索
最新記事
月別アーカイブ
最新コメント
ソルティはかたへのメッセージ

ブログ管理者に非公開のメッセージが届きます。ブログへの掲載はいたしません。★★★

名前
メール
本文