あそこであんなことがあった。
これにならって、オリジナルの御詠歌を作ってみたいと思う。

東京近郊に住まうオス猫である。
コメント: 境内の池のほとりのベンチに、着古した白衣をまとったフランス人らしい若い女性がひとり腰かけて、あたりを感慨深げに見回していた。遠い異国での長い巡礼を終えて、お礼参りのために1番に戻ったのだろう。真っ白な衣と買ったばかりの杖をまとった自分は、彼女の目にどのように映っていたことやら。【次の札所まで1.4㌔】
コメント: 札所でバスツアーの団体客とぶつかり、納経所で御朱印をもらう順番を先を越されると、やたら待つこととなり、時間をロスする。それが分かってからは、団体客を見かけるやいなや、参拝より先に納経所に走ることもあった。2番札所には、団体客専用窓口があった。(確か108札所中、ここだけだった)【次の札所まで2.6㌔】
コメント: 底を覗いて顔が映ったら長生きできる、と言われている黄金井戸があった。17番井戸寺にも同じ趣向の井戸があり、「専売特許を侵しているなあ。しかも先手を取って・・・」とおかしく思った。(どっちが「元祖」かは不明)【次の札所まで5.0㌔】
コメント: 3番までの平坦なアスファルト舗道から離れて、畦道から切通しの泥道へと入っていった。小さな峠を越えてやっと見えた伽藍の威容に、「これぞ歩き遍路の醍醐味」とありがたく思った。が、これは序の口も序の口・・・・。【次の札所まで2.0㌔】
コメント: 番外霊場の五百羅漢のすぐ下にある。静かな悟りの境地にいる阿羅漢たちの像を拝したあとで、夕暮れの地蔵寺はほっとするような懐かしい気配に満ちていた。樹齢600年の大イチョウもまた、厳めしさよりも優しさを感じさせた。第一日の無事終了のためもあろうか。別格1番札所: 佛王山 大山寺(ぶつおうざん たいさんじ)【次の札所まで6.5㌔】
コメント: 最初の別格寺は、88の本道から6キロ以上離れた標高450メートルの山の上にあった。途中の山道から見下ろした、山々を背にした吉野川流域の平和な光景と、我慢できずに野グソを垂れたことが記憶に残っている。【次の札所まで6.8㌔】
コメント: 安楽寺を出たところで遍路最初のお接待にあずかった。車から降りた妙齢のご婦人は豆パンを差し出すと、こちらにお礼も言わせないまま、さっと去っていった。そのスマートなやり方にいたく感心した。すぐ近くの路傍に遍路の父・真念上人の立てたしるべ石(道標)があったので、いったんお供えしてから食べた。【次の札所まで1.2㌔】
コメント: 翌朝訪れた8番札所で、7番の御朱印ページが白紙のままであることに気づいた。あちゃー! 参拝した後に境内の休憩所で荷を解いて一服したのが原因。納経まで済ませてから休むべきであった。が、「これもきっと何かの縁。最後に戻って来よう」と、気を取り直した。別バージョン⇒「荷を解いて 十分ほどの 楽あれば 御朱印のこと 忘れ去(い)にけり」【次の札所まで4.2㌔】
コメント: 朝から曇り空だった。熊谷寺の境内に一歩入ったらいきなりの大雨。合羽を出すのも面倒なので、しばらく雨宿りした。あとから思えば、ここには水の神様・弁財天を祀る池があり、本歌にも見るように水と関係の深い札所なのであった。【次の札所まで2.4㌔】
コメント: 広々した畑の中に立つ気持ちよいお寺。88札所中、涅槃像(息を引きとったばかりのお釈迦さま)を本尊とするのはここだけ。境内の東屋で休んでいると、自転車に乗ったお爺さんがどこからともなく現れ、でかい大福もち6個入りのパックをくれた。ありがたい反面、とても食べきれず、増えた手荷物に戸惑った。いくつかは道中のお地蔵さんにお供えした。【次の札所まで3.8㌔】
コメント: 仁王門をくぐったところにある333段の石段に圧倒される。「えいっ!」と気合を入れて登りきると、本堂の横に立つ布とハサミを手にしたはたきり観音がなんともたおやかで麗しい。修行中の弘法大師が、僧衣のほころびを繕うために布切れを所望したところ、乙女は織りかけていた布を惜しげもなく切って差し出したという。【次の札所まで9.3㌔】
コメント: 参道の清らかな流れに心洗われる。その名の通り、藤の花が有名なお寺。遍路たちにとっては、これから始まる道中最大の難所を前に、装備をチェックし、身心を整え、地図を確かめ、気合を入れ、無事を祈る、マラソンのスタート地点のような札所である。【次の札所まで12.9㌔】
コメント: アップダウンのはげしい焼山だが、山歩きに慣れていたおかげか、思ったほどきつく感じなかった。参拝を終え下山してほっと一息。「あとは宿に行くだけ」とルンルン気分で向かった玉ヶ峠(455m)がよもやの難関だった。歩きづらい岩登りと、延々と続く舗装の下り道に、足が棒になった。【次の札所まで5.9㌔】
コメント: 遍路初のトンネルは全長641mの新童学寺トンネル。歩行者専用通路があり、危険は感じなかったものの、かたわらをトラックが通過する際の笠を飛ばすほどの風圧に驚いた。たどりついた別格2番は工事中で、山門の脇で大きなクレーン車が動いていた。看板によれば火事にあったばかりで、再建のため3億円必要とか・・・。お寺もたいへんだ。【次の札所まで6.2㌔】
コメント: ここの住職は韓国籍の女性で人間国宝・金昴先(キム・ミョウソン)さん。舞踏団のツアーで来日したときに先代住職に見染められ結婚、住職に先立たれ、跡を継いだのである。運よく、納経所で拝顔することができた。境内の「しあわせ観音」に似た美人であった。【次の札所まで2.3㌔】
コメント: この寺はよく印象に残っている。お寺が水成岩の上に建っていて、秩父札所19番龍石寺を思い出した。「おかげで水はけがいいんですよ」と寺庭婦人。境内では数匹の猫が我が物顔に歩き回り、ところかまわず身を伸ばしていた。お寺と猫は相性がいい。ソルティも一緒になってくつろいだ。【次の札所まで0.8㌔】
コメント: 国分寺は聖武天皇の命により全国に造られた由緒あるお寺。ここは、法相宗→真言宗→曹洞宗と宗派が変わっている。往時は栄えたことだろう。全面的に改装工事中で、令和2年3月完成予定とあった。もうお披露目しているのだろうか。有名な枯山水の庭も見たかったなあ。【次の札所まで1.8㌔】
コメント: JR徳島線府中(こう)駅近くにある。一日の最後を締める札所でほっと一息。立派な門こそあるものの塀や囲いのない境内は、周囲の民家とそのままつながって国府の町に溶け込んでおり、村の鎮守とでもいった親しみやすい風情。境内でお爺さんとお孫さんらしき女児が遊んでいる姿がまたその感を強めた。【次の札所まで2.8㌔】
コメント: 弘法大師が掘った井戸を覗いて、自らの姿が映れば無病息災、映らなかったら3年以内の災厄に要注意という。しっかり映ったから、「これで向こう3年は大丈夫」と安心したのだが、結願1年後に・・・。ファインダー越しに覗いたのがまずかったか? ここから徳島市街地に突入する。【次の札所まで16.8㌔】
コメント: 納経を済ませたあと、買ったばかりの菅笠がないことに気づいた。30分前に休憩をとった国道沿いのセブンイレブン! 秩父巡礼でも同じことがあった。早く気づいて良かった、平坦な道で良かった、体力と気力のある最初のうちで良かった、いやこの1時間のロスには何か意味があるのかも・・・。いろいろ自分を慰めつつ、取りに戻った。【次の札所まで3.1㌔】
コメント: 徳島の札所を巡っていると、二人の戦国武将の名前が良く出てくる。蜂須賀氏と長宗我部氏である。四国制覇をめざした土佐の長宗我部氏が焼き滅ぼした寺を、阿波藩主の蜂須賀氏が再興したという話が多かった。ここ立江寺もその一つで、16世紀末、長宗我部元親の手により全焼。昭和49年にも本堂が焼けている。祝融(しゅくゆう)とは火事のこと。【次の札所まで20㌔】
コメント: 丸一日を費やした別格。穴禅定と灌頂(かんじょう)の滝が名所。とくに台風後の滝は水量はんぱなく、140mの高さからもの凄い勢いで落ち、轟音と水けむりに圧倒された。四国遍路・感動の風景の一つである。宿泊したのは小学校を改装した宿。教室に泊まるのは面白かった。【次の札所まで10㌔】
コメント: 20~21番は「へんろころがし」として有名。500m登って鶴林寺、40mまで下り那賀川を渡り、すぐまた520m登って太龍寺。そこからの下りも延々と長く、最後に急斜面が待っている。鶴林寺ではともかく休むのが第一で、境内をゆっくり見物という気分になれないのがもったいないところ。【次の札所まで6.7㌔】
コメント: 西の高野と称されるだけあって、凛と霊気みなぎる古刹であった。境内から少し下った崖の先端に、東を向いて坐している弘法大師の大きなブロンズ像がある。19歳のみぎり、ここで真言を百万回唱える修行をしたという。ご尊顔をカメラにおさめたくて、岩をよじ登って前に回り込んだ。やさしい大らかな笑顔があった。【次の札所まで10.9㌔】
コメント: 高知からやって来た柔道体型の31歳の青年(野宿組)と語りながら、最後の峠を越え、納経所の閉まる直前にたどりついた。仏教を象徴する五色(赤・紫・白・黄・緑)の旗や帯が夕暮れの境内上空にひらめいて、鮮やかさに見惚れた。ここには足の不自由な人が巡礼に使った箱車が納められている。【次の札所まで19.7㌔】
コメント: ウミガメで有名な日和佐の町と港を見下ろすかのように、小高い丘に立っている。中華風の朱色の塔が夜はライトアップされ、異国情緒を醸し出す。「日和佐まで来れた人は結願できるよ」と宿の女将に言われたのが心強かった。このあたりから脱俗気分が深まっていく。【次の札所まで19.7㌔】
コメント: 徳島県最後のお寺。八坂山八坂寺(やさかじ)という寺号より、鯖大師の愛称で知られる。鯖を手にした弘法大師の像があると聞いていたので、昔のハトヤのCMの男の子(あれは少女ではありません)を想像していた。が、持ち方がそっけなかったので気が抜けた。このあたりはエビやアワビなど獲れたての魚介類を豪快に網焼きした海賊料理で有名。【次の札所まで55.7㌔】
コメント: ついに室戸岬に到達。台風の際のテレビ中継でよく目にする白い弘法大師青年像を目にしたとき、有名タレントに会ったかのような感激が湧きおこった。岬の灯台に立つと、三面が海に囲まれる。西に目を向けると、幾重にも重なる岬のはるか彼方に足摺岬がかすんで見えた。あそこまで歩くのか・・・・。【次の札所まで6.5㌔】
コメント: 室戸岬を制覇し、足も慣れて調子づいてきた頃。うかれ歩いていたら急に便意が! さっきのコンビニ(Yショップ)まで戻るか、それとも札所か。あぶら汗かきつつ、お寺に駆け込んだ。【次の札所まで3.8㌔】
コメント:団体客とかち合ったため、納経所が空くまで展望のよいところで涼みながら眺めを楽しんだ。自分が延々歩いてきた道や通り過ぎた町を高所から振り返るのは爽快である。室戸岬の西側の層なすヘアピンカーブ(室戸スカイライン)が面白い。【次の札所まで27.5㌔】
コメント: 太子堂の横壁に書かれていた密教の重要経典たる『理趣経』の文言が愉快であった。性愛を肯定するこの経典の貸借を巡って、空海と最澄は袂を分かつことになった。境内を流れる名水をペットボトルにつめ、売店で野菜たっぷりうどんを食べ、元気よく次の札所へ向かった。【次の札所まで37.5㌔】
コメント: 大日寺に向かう途中で、前方の山の上に西洋風の城がそびえているのが目に入った。シャトー三宝という名の四万十川資料館だった建物で、2000年に閉鎖されたという。レストランや遊園地も備えたレジャーランドだったらしい。一千年を超える大日寺の伝統にくらべると、資本経済の無常をまざまざと感じる。【次の札所まで7.5㌔】
コメント:木々に囲まれた静かな境内で、近くの小学校の児童たちが写生をしていた。偏見かもしれないが、地方の子供たちはやっぱり可愛い。ご本尊の菩薩さまもやさしく見守っておられるような気がした。下の句は万葉集(山上憶良)から頂いた。【次の札所まで6.9㌔】
コメント: 土佐一宮神社の隣にある。神仏習合の時代は神社の別当寺だった。現在の住職は、2016年にご尊父から引き継いだ島田希保さん。高知の札所では唯一の女性住職である。まだ30代、頑張ってほしい。【次の札所まで6.6㌔】
コメント: 高知市街に入った。路面電車(とさでん交通)の軌道を越え、結構きつい石段を登ると、知らぬ間に県立牧野植物園の中に無料入園している。かつてはここに宿坊があったそうだ。南国の植物を見物した先に、見事な五重塔の立つ竹林寺はある。近くの五台山から見た市街の眺めが素晴らしかったな。【次の札所まで5.7㌔】
コメント:地図で見ると、この札所は土佐湾の一番奥まったところに位置し、室戸岬と足摺岬を頂点とするL字の交点をなす。つまり、室戸の終わり=足摺のはじまり。高知でオフをとったこともあり、自然と気合が入った。札所前で出会い、しばらく一緒に歩いた香川のTさん(60代)は話好きの楽しい人で、この先も宿や遍路小屋でしばしば再会を繰り返すことになる。【次の札所まで8.9㌔】
コメント: 寺の駐車場の張り紙に「車上荒らしに注意」とあった。また、寺からそう遠くない道ばたで、自転車泥棒に遭って(しかも2回目!)途方に暮れている70歳くらいの女性と出会った。周囲はのどかな里山風景。悪い奴はどこにでもいるもんだ。ご婦人を慰めつつ気を引き締めた。【次の札所まで6.3㌔】
コメント: 田畑が広がる昔ながらの日本の平和な秋景色に心なごむ。遍路友だちは、「ここがもっとも印象に残っている」と言っていたが、それも納得。境内には氷菓の販売スタンドがあった。高知名物アイスクリンを初めて口にした。砂糖、卵、脱脂粉乳、バナナ香料等で作られる懐かしい味の氷菓子で、喉の渇きをいやすのにもってこい。高知の10月は暑い。【次の札所まで9.8㌔】
コメント: 山の中腹にあるお寺。石段途中にある仁王門の天井には、見事な龍が描かれている。境内には、薬師如来像がデンと立つほか、平城天皇の第三皇子であった高丘親王(出家名:真如)の逆修塔がある。逆修塔とは生きているうちに建てる墓のこと。親王は、真の仏法を求め、齢六十にして決死の覚悟でインドに旅立った。【次の札所まで13.9㌔】
コメント: 雲ひとつない空の下、輝く宇佐湾を左手に見ながら目くるめく高さの宇佐大橋を渡る。まさに気宇壮大。浜辺でドッジボールしている高校生(明徳義塾か)の姿がまぶしかった。元横綱・朝青龍は、高校時代にこの寺の石段でトレーニングを積んだそうな。【次の札所まで25.3㌔】
コメント: 浦ノ内湾で巡行船に乗り、湾をほぼ半周する7キロ近いへんろ道をワープする。32番札所で知り合ったTさんらと同乗した。Tさん曰く、「これは歩き遍路のルール範囲内」(笑) ソルティ「船の中で足踏みしていればいいんじゃないですか?」などと冗談を言ったのを思い出す。【次の札所まで33.2㌔】
コメント: 足摺岬に至る区間最長距離(80.7キロ)を前に、遍路たちが体調を整え、情報を交換し、励まし合う札所である。本堂内陣の格(ごう)天井には全国から応募があった575枚の絵画が飾られ、曼荼羅のような色彩美は眼福もの。マリリン・モンローがどこかにいるらしい。ここでは宿坊に泊まり、早朝の勤行に参加した。眠い・・・。【次の札所まで80.7㌔】
38番札所: 蹉陀山 金剛福寺 (さださん こんごうふくじ)
御本尊: 三面千手観音菩薩
本歌 : ふだらくや ここは岬の船の竿 とるもすつるも 法のさだ山
コメント: 何日も杖を突いていると、先端が割れ、ささくれが四方に広がって、あたかも花が咲いたかのように見える。これを杖の花と言う。足摺岬に到着する頃は、すでに2回くらい開花して散って、を繰り返していた。この札所に到着したときの達成感は、88番結願時よりも大きかった。境内で出会ったどの遍路の顔にも充実感が漲っていた。
【次の札所まで72.5㌔】
いくたびの 出会い不思議な 延光寺
我はあちらに 彼はこちらに
御本尊: 薬師如来
本歌 : 南無薬師 病悉除(しつじょ)の願こめて 詣るわが身を 助けましませ
コメント: 幾度となく出会う遍路がいた。九州から来た定年退社したばかりのYさん。足摺岬の手前の宿の夕食の席で出会い、翌日しばらく一緒に歩き、休憩所で別れた。その日の夕方、足摺岬の遊歩道で会った。翌日、岬を回ったところにある土佐清水の町中のスーパーで会った。そこからは別々のルートを行くことになった。さすがにもう会わないかなと思っていたら、延光寺への一本道で向こうからやって来るのが見えた。出会うたびに世俗の垢が抜けて、行者らしくなっていく。きっと、こちらもそう思われている。もっと突っ込んだ話がしたかったな。
【次の札所まで27.0㌔】
コメント: 四国の西側は結構風が強いことに驚く。心なしか高知にくらべて穏やかな気を感じた。カツオとミカンの違い? 闘犬と闘牛の違い? 高知の終わりで右足首を痛め、棄権のピンチに陥った。歩くペースを落とし、できるだけ楽な道を選ぶ。いつのまにか先を急いでいた自分を反省した。【次の札所まで40.3㌔】
コメント: 宇和島市街に入って車の量がどっと増えた。が、一歩国道を離れると閑散としてさびれた空気が漂っていた。龍光院は、初代藩主・伊達秀宗(政宗の長男)が入部したときに、宇和島城の鬼門鎮めに建てられたという。高台にある境内から天守閣がよく見えた。【次の札所まで9.9㌔】
コメント: JR務田(むた)駅から札所へと広がる三間平野の朝の光景はただただ美しかった。龍光寺の参道にある店で、遍路姿の菅直人元総理大臣の写真が飾られているのを見た。2004年から歩き始め、足かけ10年で結願したという。ちゃっかり商売に利用されているのだが、固いことは言うまい。いい笑顔をしている。【次の札所まで2.6㌔】
コメント: このあたりは道標が少なく道に迷いやすい。民家の庭先の老人に尋ねたら、「コスモスの咲いている道をずっと行けばいい」と教えてくれた。境内では地元の参拝者から森永チョコレートパイのご接待を受け、真心と久しぶりに口にする甘味とで脳内エンドルフィンが活性した。【次の札所まで10.6㌔】
コメント: 西予(愛媛県西部)は2018年7月7日の豪雨被害がもっとも著しかったところ。歯長峠のへんろ道は土砂崩れで通行止め、迂回せざるを得なかった。ふもとでは「畑がすっかり水に浸かってダメになったよ」という農家の人の声も聞いた。【次の札所まで34.6㌔】
コメント: 足首の痛みに怖じて、行こうかどうか数日迷い続けた札所。812mの明るい山頂からは、大洲の町を隠す一面の朝の雲海と、黄金に染まる夕焼けの伊予灘とが臨めた。札所に向かう山中の一本道で、降りてきたサニーさんと出くわしてビックリ。足摺岬以来である。前日に宿坊に泊まったとのこと。一日遅れで追っかけているらしい。【次の札所まで13.8㌔】
コメント: 橋のたもとの永徳寺で御朱印をもらう。ここは7月7日豪雨の際、近くを流れる肱川(ひじかわ)が氾濫し、本堂床上1m以上が水に浸かった。水はご本尊の足下5センチで止まったという。橋の下に寝ている弘法大師はすっかり水の中だったろう。【次の札所まで43.6㌔】
コメント: ひわた峠(790m)を越えて久万高原に来てみたら、街路樹はエンジに色づいてすっかり秋であった。ベテラン遍路Kさんに教えてもらったうどんの名店「心」に直行する。開店前から列をなす人気ぶり。評判通り、実に歯ごたえ良く美味であった。【次の札所まで8.4㌔】
コメント: 巨岩に囲まれた岩屋寺の荘厳も素晴らしかったが、帰りに通った古岩屋の円錐状の礫岩の迫力と、それをここぞと飾る紅葉のあでやかさに言葉を失った。天気も上々、行楽客もずいぶん出ていた。こんな瞬間に立ち会えるなんて・・・・!【次の札所まで29.0㌔】
コメント: 関西から来た話好きの看護師の男(40代前半)と連れ立って、足もとの悪い三坂峠を下っていくと、不意に木々の間から松山と瀬戸内海が見渡せた。全行程の3/4は来た。結願の実現がほの見えた瞬間であった。浄瑠璃寺から道後温泉まで短い間隔で寺が続く。【次の札所まで0.9㌔】
コメント :ここは何と言っても、地獄と極楽の絵がある閻魔堂が印象的であった。劇画タッチの絵は誰の手によるものなのだろう。八大地獄とは下から、無間・大焦熱・焦熱・大叫喚・叫喚・衆合・黒縄・等治をいう。【次の札所まで1.0㌔】
コメント: 衛門三郎は、弘法大師に無礼を働いたため、8人の子供を喪うという罰を受けた。改心し、21回目の四国巡礼の際、大師に出会い謝罪した。へんろ道のあちこちに土下座像が建てられていて、ちょっと可哀想。この寺は彼の屋敷跡に立つという。正式には、大法山文殊院徳盛寺(とくじょうじ)と号す。【次の札所まで3.5㌔】
48番札所: 清滝山 西林寺 (せいりゅうざん さいりんじ)
水草の 揺るぐ小川の 橋渡り
さいりん(再臨)したき
この清き寺
御本尊: 十一面観音菩薩
本歌 : 弥陀仏の 世界をたずね行きたくば 西の林の寺にまいれよ
コメント: 重信川(一級河川)を渡って松山市に入る。が、なんと水無川だった。豪雨が続くと氾濫するという。その先に弘法大師が杖で突いたら湧き出した「杖の淵」と呼ばれる泉がある。その流れが寺の外を巡り、非常に気持ちいい境内だった。水草は刺身のツマに使う“ていれぎ”という種類らしい。この歌は作るのに苦心した。
【次の札所まで3.1㌔】
49番札所: 西林山 浄土寺 (さいりんざん じょうどじ)
いよてつの 遮断機上がる その先に
浄土の門の
護り手ぞ立つ
御本尊: 釈迦如来
本歌 : 十悪のわが身をすてず そのままに 浄土の寺に 参りこそすれ
コメント: 伊予鉄道横河原線の久米駅のそばにある。48番から行くと、踏切を渡った正面に立派な仁王門がそびえる。おっかない顔した左右の金剛力士像に出迎えられるのは、十悪の身としてはちょっと(かなり?)怖い。この本歌、好きである。
【次の札所まで1.7㌔】
50番札所: 東山 繁多寺 (ひがしやま はんたじ)
御本尊: 薬師如来
本歌 : よろずこそ はんたなりとも怠らず 諸病なかれと 望み祈れよ
コメント: 住宅街の路地やお墓の中を抜けて登ったところにある。境内には釣り堀のような池が二つあり、その向こうに松山市街や松山城、瀬戸内海まで見える。繁多(用事が多く忙しい)という名前に似つかわしくない静かな境内であった。
【次の札所まで2.8㌔】
御本尊: 薬師如来
本歌 : 西方を よそとは見まじ 安養の 寺にまいりて 受くる十楽
コメント: 道後温泉の近くにあるせいか、観光客や修学旅行生で賑わっていた。門前店は並ぶわ、お化け屋敷のような洞窟(全長160m)はあるわ、国宝や重文や宝物館はあるわ、いろんな慈善活動・政治活動を呼びかけるパンフレットやポスターはあるわ・・・・なんでもありのアミューズメントパークのようなお寺であった。住職がヤル気満々なのか。いや、寺とは元来こういう所だったのだろう。
【次の札所まで10.7㌔】
52番札所: 瀧雲山 太山寺 (りゅううんざん たいさんじ)
太山の道をも塞ぐ 催涙雨
人のこひぢ(乞い路)を妬むものかな
御本尊: 十一面観音菩薩
本歌 : 太山へ のぼれば汗のいでけれど 後の世おもえば 何の苦もなし
コメント: 国宝の本堂を拝むことができなかったのは、参道の崖が崩れて通行止めになっていたから。ここでも七夕豪雨が爪痕を残していた。御朱印はふもとの本坊で受けた。催涙雨とは七夕に降る雨のこと。彦星と織姫が会えないことを嘆く涙とか。仏を乞う道まで邪魔しなくとも・・・。
【次の札所まで2.6㌔】
53番札所: 須賀山 円明寺 (すがざん えんみょうじ)
御本尊: 阿弥陀如来
本歌 : 来迎の 弥陀の光の円明寺 照りそう影は 夜な夜なの月
コメント: 境内の目立たぬ一隅に、聖母マリアの彫られた灯籠がある。かつて隠れキリシタンが礼拝していたという。それを黙認していたお寺のふところの深さを想う。円明とは、理知円満の境地に達して明らかに悟ること。
【次の札所まで34.4㌔】
コメント: 53番(松山)から54番(今治)までの34.4㎞をえらく長く感じたのは、風邪をひいて疲れていたから。瀬戸の海の透き通る青さがなければ、さらにきつく感じただろう。このあたりでへたばる遍路は多いらしく、境内では三坂峠(45~46番)で出会った看護師がベンチでのびていた。【次の札所まで3.4㌔】
コメント: 一般に仁王像が置かれることの多い山門に、四方を護る四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)がいるのが珍しかった。境内の東屋でまた看護師と遭遇。いつの間に抜かれたのか? 疲れ切った表情で眠りこけていた。そう、彼は寝袋(野宿)組であった。起こすのも可哀想なので、そのまま別れた。【次の札所まで3.0㌔】
コメント: 風邪と11月初めとは思えない強い日射しとでグロッキー寸前。精をつけるため、へんろ道沿いにあったチェーンのとんかつやに入った。日曜のこととて家族連れで賑わう中、杖に笠に頭陀袋、大きなリュックを背負った遍路姿の自分。ひとり異質であった。もっとも、現地の人は見慣れているのだろうが。【次の札所まで3.1㌔】
コメント: 映画にもなった『ボクは坊さん。』(2010年ミシマ社)の著者、白川密成が住職をつとめるお寺。森と池に囲まれた静かで地味なたたずまいは好感が持てた。納経所の人の対応も良かった。【次の札所まで2.4㌔】
コメント: 225mの山腹にある。登る途中に見えた今治市街の景色が素晴らしかった。ひときわ高く聳え立つは今治国際ホテル(地上23階、高さ101.7m)であるが、これが一瞬、弘法大師の後ろ姿に見えた。うれしい錯覚。境内には犬がつながれて、参詣者の人気者になっていた。別格7番の山道以来、一週間ぶりにサニーさんと再会。彼女は宿坊に泊まるという。疲労困憊のソルティはややラグジュアリー(笑)なビジネスホテルに宿をとった。この種のホテルのいいところは、ハズレが少ない点である。【次の札所まで6.1㌔】
コメント: この境内でフランスから来た70代くらいのご婦人と会った。なかなか日本語も達者であった。一日20㎞歩くと決めているというから、かなりのんびりペースである。フランスでは、ある女性が書いた四国遍路体験記がベストセラーとなり、それを読んで四国を訪れる人が増えたそうだ。【次の札所まで17.3㌔】
コメント: 平和な里山の道をたどって、昼なお暗き参道の森に入る。清流の音高く、深山幽谷の気配。ここは県内有数の紅葉の名所で、境内には行楽客がつめかけていた。お寺の二匹の犬は、しきりに愛嬌を振りまいていた。サニーさんと再会。次の札所まで一緒に歩き、禅や瞑想の話などして親交を深めた。若い頃に日本に来て空手を習ったそうだ。たくまし~。【次の札所まで3.8㌔】
コメント: 生木山正善寺の号を持つ。弘法大師が楠(くす)の大木に彫った延命地蔵大菩薩が本尊であるが、昭和29年9月の洞爺丸台風で、木は根元より倒れたそうだ。境内に祀られている木の幹からは生気が感じられず、寺自体もうら寂れた感が漂っていた。大師堂もなく、元気のない札所であった。【次の札所まで11.5㌔】
コメント: 745mの山の上にある。とにかく道に迷い、焦りまくった。宿でもらった手書きの簡単な地図を頼りに進んでいったが、距離や所要時間を確かめておかなかったので、途中で違う道に入ってしまった。分岐まで引き返してやり直したら、今度は崖崩れで道が埋まっている。また引き返す。宿に電話して確認す。正午前に余裕で到着するはずが、札所に着いたら1時を回っていた。自分にとって一番の「遍路ころがし」だった。境内でサニーさんと再会。下山は同行した。【次の札所まで9.6㌔】
コメント: 褐色の鉄筋コンクリート2階建ての立派なお堂が特徴。2階本堂の壮麗さは、札所中随一だろう。境内には赤ん坊を抱いた弘法大師像が立っている。この寺の門前で身重の女性を助け、無事出産に導いた故事による。以来、安産・子育て祈願のメッカとなっている。【次の札所まで1.3㌔】
コメント: JR予讃線伊予小松駅のすぐそばにある。ソルティが訪れたとき(2018年11月)は、四国88カ所霊場会と対立して脱会。霊場会が第61番札所の駐車場に仮設の62番礼拝所を設けたため、札所が2カ所という珍事となっていた。新情報によると、2019年12月に宝寿寺は霊場会に復帰、仮設札所もなくなった。第86番志度寺の住職が宝寿寺の住職を兼務している。【次の札所まで1.4㌔】
コメント: 早朝のお寺は空気が澄んで気持ちいい。拝んでいると心も澄んでいく。直後にあった地震(震度4くらいか)も良いしるしと感じた。玩具をしきりに噛んでいた飼い犬が面白かった。
多聞とは毘沙門天のこと。【次の札所まで3.2㌔】
コメント: 修験道の祖、役小角が開基したと伝えられる。四国遍路には名前に「神」の字がつくお寺が3つある。64番のほかに、27番神峯寺、68番神恵院(別格17番神野寺入れると4つ)。むろん神仏習合のなごりだが、よく考えてみるとけったいな話である。キリスト教の教会に「アッラーなんとか」って名がついているようなものだ。仏教で神道で修験道・・・・。日本文化のユニークさ、節操のなさ。【次の札所まで27.4㌔】
コメント: 寺の起こりのいわれとなったいざり松の祀られた庭園でサニーさんと再会、昼食をともにした。もうすぐ愛媛も終わり。結願を心待ちにする一方、さびしさが湧いてきた。「いつまでも続いてほしいね」 サニーさんと意見が合った。携帯電話を持っていない彼女の代わりに、この先の宿の予約をとってあげる。彼女も別格打ちしているので、しばらく同じ宿に泊まることにした。基本、歩きは別である。【次の札所まで17.8㌔】
コメント: ここから別格打ちにとって最大の難所がスタート。三角寺から780mの地蔵峠を越えて別格13番に、山麓を回って本道に戻り別格14番に、県境を越え徳島県箸蔵山(540m)にある別格15番に、そこから遍路最高峰910mの雲辺寺に登り、香川県に下る。88の本道を逸れる三角形を2つ描きながらの山登りが3つ。境内の散り際の四季桜がきれいだったな。【次の札所まで4.1㌔】
コメント: 宮崎駿の『千と千尋の神隠し』に出てくる「油屋」を思わせる古式ゆかしいつくり(道後温泉本館と同じ様式)。今を盛りの赤や黄色の紅葉に囲まれ、主人公の少女・千尋同様、異界にタイムスリップしたような心地。上流の滝から続く清流が本堂の床下を流れ、渓谷をなしているのも驚き。もっとも良かった札所の一つである。【次の札所まで9.2㌔】
コメント: 邦治山常福寺の号をもつ。弘法大師が当地に流行る病いの退散を祈り、土に杖をさすと、そこから椿が育ったという。本尊の大聖不動尊は、核兵器廃絶を願って非核不動尊と呼ばれている。ここは何と言っても、境内の片すみにある道祖神が見物。前たれで隠してあるので、気づかない人も多いだろう。この日は一日サニーさんと楽しく歩いた。【次の札所まで24.0㌔】
コメント: この札所は徳島県三好市に位置する。甲子園で有名な池田高校の地元。山間を深緑の吉野川が流れる風光明媚な町だった。箸蔵山(540m)の頂にある札所は、空気が澄み、紅葉も景色も素晴らしかった。下りはロープウェイを使った。その後、サニーさんと一緒に、宿のオーナーの運転で、大歩危・小歩危や祖谷のかずら橋に遊んだ。脱サラして宿を始めたという。夏場は世界中から来るラフティング客で賑わい、宿は目まぐるしい忙しさだそうだ。【次の札所まで19.1㌔】
コメント: 最も高い(911m)地点にある札所。麓からずっと車道なので、思ったより楽だった。途中で見た朝の雲海が壮観だった。山頂は寒くて震えた。五百羅漢の豊かな表情や仕草が見ていて飽きなかった。早朝に三好の宿を先に発ったサニーさんに追いついた。足を痛めていた彼女はロープウェイで下山。自分は山道をとった。そろそろ一人になりたくもあった。【次の札所まで7.4㌔】
コメント: 春のような暖かさと香川に入った喜びとで夢見心地で歩いていた。と、境内でまたもサニーさんと再会。ロープウェイで下った彼女と、ずいぶん時間が空いたはずなのに・・・。「一人で歩きたい」という思いをうまく英語で伝えられず、宿まで同行することに。これがいけなかった。このへんから二人の関係は気まずくなっていく。【次の札所まで6.0㌔】
コメント: 畑中の静かなお寺。本堂に何百本と灯した、願いごとの書かれた赤い蝋燭が印象深かった。サニーさんとはこの日の宿で感謝の言葉を交わし、このさき別行動することに。原因の一つは、こちらの英語力も彼女の日本語力も貧しかったこと。意思疎通がうまくいってないと分かっているのだが、頭が疲れてもはや英語を話したくなかった。彼女は朝暗いうちに、雨のそぼ降る中を先に発った。【次の札所まで8.7㌔】
コメント: 68番と69番は琴弾山の中腹に隣り合わせにある双子のような札所。近くの展望台からは、瀬戸内海の島々と「寛永通宝」の砂文字が見えた。神恵院本堂はコンクリート打ちっ放しの現代建築もどきの四角い建物で味気ないが、きれいに刈り込まれたツツジの並ぶ庭園は美しかった。【次の札所まで0㌔】
コメント: 68番と69番の納経所は同じ。一カ所で御朱印帳2ページが埋まるのはトクな気分。境内の大楠が存在感を放っていた。
ここ観音寺市では、ちょうど美少女アニメのイベントがあって全国から仮装(女装)したファンが訪れていた。宿をとるのが大変だった。【次の札所まで4.5㌔】
コメント: 70番へ向かう川沿いの道がいい。低山のつらなりと広がる畑、遠くの森の上に顔出す五重塔。風情はまさに奈良の山の辺の道。気分よく札所に着いたところ、本堂の前で休憩しているサニーさんを発見。同じ道を前後して歩いているのだから会うのは仕方ないのだが・・・。つい、そっけない態度をとってしまい、それが最後の別れとなった。【次の札所まで11.3㌔】
コメント: 本堂まで570段の急な石段を登る。高齢者にはきつかろう。
たそがれ時に訪れたせいもあろうが、薄暗くてじめっとした雰囲気。全札所中、もっとも霊がいそうな気がした。
弘法大師は子供の頃、この岩屋で勉強したという。【次の札所まで3.7㌔】
コメント: 弘法大師が植えられたといわれる不老松(平成14年枯れ死)の幹に刻まれた笠松大師が見物。納経所で聞いたところ、琴平に住む平田さんという方が刻まれたそうな。
あまり目立たぬ場所にあるが、彩色された地蔵菩薩像がまさに曼荼羅のように美しかった。【次の札所まで0.6㌔】
コメント: 弘法大師7歳のみぎり、衆生を救うことを誓って我拝師山(481m)の崖(捨身ヶ嶽禅定)から飛び降りたという。この険しい傾斜の岩山をすでに3万回以上登り下りしている信仰篤き地元のNさん(70代)と出会ったのが忘れられない。真魚(まお)とは幼少時の空海の名前。【次の札所まで2.2㌔】
コメント:このあたりは空海が子供の頃によく遊んだところ。泥をこねて仏像を造っていたというから恐れ入る。でもそれは伝説で、やっぱり大地を駆け回ったり、川や海で泳いだり、虫をつかまえたり、カブトムシを互いに戦わせたりしていたんだろうなあ。(カブトムシが平安初期に日本いたのか不明)【次の札所まで1.6㌔】
コメント: 88札所の中心をあげるなら、やはりここになろう。何と言っても弘法大師生誕の地(佐伯家の邸があった)なのだ。広い境内、立派なお堂の数々、五重塔、宝物館、多くの参拝客。心なしか大気の中にも聖なる気配が感じられた。御影堂の地下には暗闇をめぐる約100メートルの「戒壇めぐり」がある。その最奥で聞いた弘法大師の声(骨格から想定されたモンタージュ・ボイス)は雅量に富んで耳に心地よかった。【次の札所まで12.5㌔】
コメント: 空海の為した最大の救民事業は、決壊を繰り返していた満濃池の修築であった。周囲約20km、貯水量1,540万tの灌漑用の水がめは、池というより湖の雄大さ。湖畔の蒼き連山、紅葉の樹々、瑠璃色の湖面、美しく穏やかな光景は、ここまでの遍路をねぎらってくれるようであった。今日も良い一日だった。【次の札所まで13.8㌔】
コメント: 弘法大師の姪の子供で天台宗の僧となった智証大師(円珍)誕生の地――という謂れよりも印象に刻まれたのは、境内にある野宿遍路のための宿泊設備の整った休憩所、および納経所に掲示してあった「遍路に行ったまま帰ってこない夫」に呼びかける神奈川在住の妻の手紙だった。一体なにがあったのか?【次の札所まで7.0㌔】
コメント: 札所奥の院に弘法大師の産屋があったとされる。75番善通寺(佐伯家屋敷跡地)との間で、どっちが大師生誕の地なのかに関する長い間の論争があり、いまだ決着を見ていないようだ。近くには、大師の母親・玉依御前の実家があったらしく、そこはいま仏母院という寺になっている。また、大師の胞衣(えな)を埋めたとされる御胞衣塚もある。つまり、父の家で生まれたのか、それとも母の里なのかということだ。穏やかな海を臨む平和な里山の風景は聖人誕生の地にふさわしいとソルティは思ったが、真実はいかに。
仁王門に当地出身の二人の力士像が立っているのにはたまげた。【次の札所まで2.9㌔】
コメント: 藤原道長の兄にして中宮定子の父である関白・道隆のいわれでもあるお寺かと思ったら、そうではなかった。この地の豪族だった和気道隆(わけのみちたか)が、光る桑の大木から薬師如来を彫像したという縁起がある。【次の札所まで7.2㌔】
コメント: 四国霊場唯一の時宗(開祖:一遍)のお寺。時宗と真言宗の2つの宗派が共存しているという。かたや踊り念仏の浄土易行、かたや真言三密、ほとんど真逆じゃないか。一体どうやって折り合いをつけているのだろう?――と不思議に思うが、本命は厄除け・厄払いにあるらしい。
大師堂入口の格天井(ごうてんじょう)の花の彫刻が美しかった。【次の札所まで5.9㌔】
コメント: 保元の乱に敗れ、讃岐に流された崇徳天皇崩御の地。腐敗防止のため、その遺体は八十場(やそば)の水に数日間漬けられたと言う。その清水を使ったところてんの名店が池の傍らにあった。
崇徳天皇は日本三大怨霊の一人として恐れられているが、道中出会った地元の人の話から察するに当地ではまた違った印象で遇されているようだ。別バージョン⇒「世を呪い 魔王となりし 天皇よ 怒りなくせば ところてんなり」【次の札所まで6.6㌔】
コメント: 四国各県に一つずつある国分寺。香川県は高松市内にある。
“国分寺”のある場所はかつて最も賑わいだ界隈だったはず。が、今やどこも中心地から離れた寂しい場所となっている。東京の国分寺跡(武蔵国分寺)も閑静な住宅地となっている。【次の札所まで6.5㌔】
コメント: 白峯寺の奥まったところに崇徳上皇の陵墓はあった。ここではなぜか物音を立てるのを控えてしまう。山の紅葉の賑わいをよそに、静かに眠られているような印象をもった。京の都とは反対の方角(南西)を向いているのだが、これは祀った者の意地悪ではなくて、外敵から京を守護してもらう意図からではなかろうか?
ここに立つと「魔王」という称号より「悲王」がふさわしい気がした。【次の札所まで5.0㌔】
コメント: 81、82番がある五色台は香川有数の紅葉の名所。京都の名刹とくらべても遜色ない。もっとも美しかった札所として記憶に残っている。が、実はここは四国の心霊スポットとしても名高い。その昔人間を食べる恐ろしい怪獣・牛鬼が棲んでいたという伝説もある。【次の札所まで4.6㌔】
コメント: 82番からこの寺に下る道はところどころ海が見えて気持ちいいのだが、道標が少なく、何度か迷って土地の人に尋ねた。この寺は、739年に行基が創建して以来、勝賀寺→香西寺→地福寺→高福寺→香西寺と支配者が変わるたび名前を変えられている。俗世の荒波をかいくぐってきたのだ。【次の札所まで9.2㌔】
コメント: 神仏習合時代は、隣りにある讃岐一宮・田村神社の別当寺であった。1679年に時の高松藩主・松平頼常によって田村神社が両部神道から唯一神道に改められたため、神社と分離された。つまり、明治初期の神仏分離より200年も早く、神仏の分離が行われたのだ。にもかかわらず、名前だけずっと昔の由来のままに残っているのが面白い。【次の札所まで13.6㌔】
コメント:揺れる舟の上から扇の的を射抜いた那須与一の話など、源平の合戦で有名な地。屋島寺(284ⅿ)と85番八栗寺(230ⅿ)は、向かい合った山上にあって、壇ノ浦を挟む。つまり、この日は登って下りてまた登るの難路。ここまで来ると、登山のきつさは標高よりも傾斜の問題と身をもって分かってくる。札所最高峰(927m)の66番雲辺寺より、よっぽどきつかった。【次の札所まで5.4㌔】
コメント:本道の背後に屏風のようにそびえる4つの峰がダイナミック。かつては5つあり五剣山と呼ばれたのだが、宝永3年(1706)の大地震で一つ崩れたとのこと。ここには聖天様も祀られている。聖天信仰は弘法大師が唐より持ち帰ったと言われている。【次の札所まで6.5㌔】
コメント: 当地は江戸時代の万能の天才・平賀源内の生まれ故郷。生家は資料館になっている。源内は、発明家(エレキテル、土用のうなぎ等)であり、博物学者であり、文筆家であり、医者であり、男色家であり、人殺しであった。志度寺の境内に参り墓がある。(実際に葬られている墓は東京都台東区橋場にある)【次の札所まで7.0㌔】
コメント: この札所は、源義経の愛妾であった静御前が出家したところなのだが、それよりも付近のマンホールに刻まれていた「かぐや姫のふる里長尾」というのが気になった。納経所の人に聞いてもいわれを知らなかった。『竹取物語』にはたしかに讃岐造(さぬきのみやつこ)と呼ばれる翁が登場する。そして長尾は竹細工で有名な地区だそうである。【次の札所まで33.9㌔】
コメント: 標高910mは66番雲辺寺につぐ高さ。麓の塩江温泉に宿をとり、往復に一日かけた。早朝の内場ダム付近はまさに五里霧中で数メートル先も見えず。なのに不思議と怖くなかった。参拝を済ませた午後、登って来た山道を下ってゆくと、唖然とするほど見事な景色が目の前に広がった。このルートを勧めてくれた地元の方に感謝。【次の札所まで18.5㌔】
コメント: 朝暗いうちに塩江温泉を出発。外気温は1度だった。思えば、春夏秋冬すべての気候を体験するような遍路だった。はじめの頃たくさんいた遍路仲間も、高知・愛媛と進むごとに少なくなって、香川では一日に数名しか見なかった。最後はお大師様と同行二人。本堂の後ろの女体山がやさしく迎えてくれた。【第7番札所まで26.5㌔】