ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

 ★ウ・ジョーティカ『自由への旅』を読む

● 本:『自由への旅 ~ウィパッサナー瞑想、悟りへの地図~』(ウ・ジョーティカ著、魚川祐司訳)

 インターネットのミャンマー仏教書ライブラリーよりダウンロード&プリントアウトし、毎日少しずつ読み進めた。
 卓抜なる仏教解説書『仏教思想のゼロポイント』の著者、ニー仏こと魚川祐司が翻訳している。どうやらウ・ジョーティカ師は、魚川が私淑しているお坊さまのようである。

 ウ・ジョーティカ師はムスリムの家庭に生まれ、カトリックのミッション・スクールに通い、大学では電気工学を学んで、さらに結婚して二女を設け、それから出家して瞑想指導者になるという、複雑な経歴の持ち主である。
 それだけの複雑な人生を歩んできた方だから、当然、家族や周囲の人々との関係にも、複雑なコンフリクトが色々とあった。彼の著作には、そのことが包み隠さず書かれていて、それが彼の実践している瞑想によってどのように変化していったかが、豊富な知識と経験の裏打ちによって、丁寧に描写されている。
 世界の人々が、ウ・ジョーティカ師の著作を読んで感銘を受けるのは、彼が私たちと同様の日常的な問題に深く悩んだ上で、それを仏教の実践によって一つ一つ乗り越えているからであり、形而下的な煩悶と形而上的(に感じられる)瞑想の境地が、そこで有機的に結びついているからだろう。(Note「ニー仏」のページより抜粋)
 
 本書はたいへんな名著にして、涙が出るほど有難い実用書である。
 だが、仏教に関心のない一般の人にとっては何の役にも立たない。
 仏教に興味があっても瞑想をやったことのない人にとっても何の役にも立たない。
 瞑想は瞑想でも、サマタ瞑想――わが国で伝統的かつ大衆的に実践されている最も一般的な瞑想である――をやっている人にとっても何の役にも立たない。
 ただただ、テーラワーダ仏教に伝わる「悟りに至る瞑想」と言われるウィパッサナー瞑想を実践している人にとってだけ、はじめて役に立ち、実用書としての真価を発揮し得る。
 だから、本書が書物となって書店に並ぶ日が来る可能性は、今のところないだろう。(来てほしいけれど)
 その意味で、本書を邦訳して(無料で!)ネットに挙げてくれた魚川は、非常に良い業(カルマ)を積んだと断言できる。ウィパッサナー瞑想によって智慧を開発し悟りを目指す日本の仏教徒たちに、またとない指南書を提供してくれたのであるから。
 まずは謹んで感謝したい。
 
 ウィパッサナー瞑想の指南書としては、同じくミャンマーのマハーシ長老が書いた『ミャンマーの瞑想 ウィパッサナー観法』(国際語学社より1995年発行)という、すでに古典と言ってもいい名著がある。『自由への旅』はそれに勝るとも劣らない画期的な‘虎の巻’である。

ミャンマーの瞑想 001
 

 ウィパッサナー瞑想の凄いところは、きちんと瞑想のやり方をそれなりの師から学んで、教えられたとおりに日々真面目に実践すれば、「誰でも、必ず、同じような過程をたどって、前もって示されている智慧が現れて、前もって示されているある種の精神状態に達し、前もって示されているいくつかのスランプにはまり、前もって示されている11段階の智慧のステップを徐々に上がって、最終的に悟りに達する」ところである。
 つまり、普遍性と実証性とが、2000年のテーラワーダ仏教の歴史とその間の何十万人かの悟達者の存在によって証明されているのである。まぐれや偶然や生まれついての能力による悟りではなく、純粋に個人個人の精進による悟りが可能なのである。
 であるからこそ、テーラワーダ仏教徒が毎日読経する「ダンマ(法)の六徳」ではこう言っている。
 
 世尊の法は、
① 善く、正しく説き示された教えである。
② 実証できる教えである。
③ 普遍性があり、永遠たる教えである。
④ 「来たれ、見よ」と言える確かな教えである。
⑤ 実践者を涅槃に導く教えである。
⑥ 賢者たちによって各自で悟られるべき教えである。 

 普遍性と実証性がかくも高らかに宣言できる理由は、おそらくウィパッサナー瞑想が科学的根拠を持っているから、と自分は考える。すなわち、ウィパッサナー瞑想は人間の脳に影響を及ぼし、脳の構造を不可逆的に変容させる仕組みを持っているのではないかと思う。シナプスの接続変換とか脳内物質の増加とか普段は使用されていない‘残り70%の’脳細胞の活性化とか、なにかそんなことと関係しているのかもしれない。いやしくも人間の脳であればそこに共通した構造や働きが想定できるから、誰にとっても起こりうるわけだ。
 自分の場合、ウィパッサナー瞑想をはじめた当初、頭が締め付けられるような感覚をおぼえ、知恵熱のように頭の中が熱くなったのを覚えている。(実際に熱はなかった。)
 その後も瞑想をしていると、脳を下から突き上げるような痛みを感じたり、脳が頭蓋骨の中で前転したかのような奇怪な刺激を感じたり、脳の一部が空になったような突き抜け感を覚えたりした。前頭葉あたりがうずいて、そこから何かが額の裏を通って滴り落ちるような感覚もときに起こる。瞑想が脳に何らかの作用を起こしているという感じは拭えない。
 その真偽はともかく、自分がウィパッサナー瞑想を続けている理由は、明らかに「前もってテキストに示されている」通りの現象が、まったくその通りに起こり続けているので、瞑想の効用を信じないわけにはいかないからである。このまま行けば、いつかは悟りに達するのだろうと思わざるを得ない。

 本書でウ・ジョーティカ師は、ウィパッサナー瞑想の実践者がたどる階梯を、第一の智慧から始まって第十一の智慧に至るまで、そしてその先の涅槃(=悟り)について、詳しく丁寧に解説している。実際の瞑想合宿(リトリート)の場で、参加者を前にして行っている講話なので、非常に分かりやすい言葉で具体的に語られており、章末には瞑想に関する質疑応答もついている。魚川の訳も的確で、読みやすく、よどむところがない。ここでもまた『仏教思想のゼロポイント』同様、瞑想実践者ならではの深い理解が礎になっていることが感じとれる。
 そして、言い忘れちゃいけない本書の何よりの魅力は、魚川が上に示唆したとおり、ウ・ジョーティカ師の誠実で、率直で、賢明で、慈悲深いパーソナリティが全編漂っている点である。道を求める実践者をあたたかくサポートする師のまなざしは紙面の奥から読者に降り注ぎ、穏やかで心を落ち着かせる師の声は行間から読者の耳朶を震わす。瞑想すると、こんなに素晴らしい人格に至れるのだという見本のようである。
 実践者が、いつも手元に置いて繰り返し読みたい本である。(やっぱり、刊行してほしいな。サンガさん、お願いします。)

 以下、引用。
 
 実際のところ、ウィパッサナーの洞察智には、三つの洞察智、つまり無常・苦・無我しか存在しません。しかし、無常・苦・無我を経験する度合いの差異によって、諸々の洞察智が、異なることになるのです。
 
 瞑想において得た洞察智は、あなたの日常生活、あなたの世俗的な問題にも、適用が可能です。瞑想においてのみならず、人生全体を生きるための正しい態度を、あなたは育てる。あなたの人生全体にとって、それは正しい態度なのです。
 
 死ぬ準備ができている人には、生きる準備ができているのです。私たちのほとんどは、生命活動を行っているけれども、本当の意味で生きているわけではありません。私たちは生に対して、あまりにも多く抵抗している。私たちは本当の意味で注意を払っておらず、また人生から十分に学んでもいないのです。
 
 よいことであれ悪いことであれ、物事は私たちがそれに値するから起こるのです。ひとたびこのことを、非常にはっきりと理解すれば、あなたは非難することをやめてしまいます。自分の業を非難することすらやめてしまうのです。両親や政府を、非難することもやめてしまう。
 私たちはいつも非難しています。責任を、他者や状況に押し付け続けている。十分な責任をとってはいないのです。
 物事は自分がそれに値するから起きているということを、ひとたび理解すれば、あなたは学び、成長し、そして変化する。そうすれば、物事はどんどんよくなっていきます。
 
 涅槃へと導く唯一の道は、あなた自身の精神的と身体的プロセスを観察することです。


サードゥ、サードゥ、サードゥ


● 私は苦しんで、そうして人間になっています。 本:『スノー・イン・ザ・サマー』(ウ・ジョーティカ著、魚川祐司訳)

 『自由への旅』を読んで、すっかりウ・ジョーティカ・ファンになってしまったソルティ。またもミャンマー仏教書ライブラリーよりダウンロード&プリントアウトし、毎日少しずつ読み進めた。

 この本は、80年代から90年代前半にかけて、ウ・ジョーティカ師が友人たちに書き送った手紙から編纂されている。師は1947年生まれであるから、30歳半ば~40歳半ばの知力・気力とも充実した、世間的に言うなら男盛りの脂の乗り切った頃に書かれた文章である。 
 そもそもが公表を前提としていない友人たちへの私信ということもあって、飾らない率直な表現、様々なテーマに関する個人的見解のストレートな表明、家族や友人たちへの惜しみない愛情と誠実さの発露――が特徴的である。僧侶としてのウ・ジョーティカ師ではなく、一人の人間としてのウ・ジョーティカの心の中を覗いているような気がするほど、書き手を身近に感じられる。
 また、古今東西のたくさんの哲学書や宗教書や心理学の本からの引用があり、師が並外れた読書家であることが伺える。インテリ中のインテリなのだ。

 一方、『自由への旅』は、師が50歳のときの講義の記録である。テーマも「ウィパッサナー瞑想」に絞られている。
 その意味で、二つの本を較べたときに、対照的な印象を受けるのは当然といえば当然である。
 が、そうした体裁上の違いばかりでなく、10年という歳月におけるウ・ジョーティカ師の瞑想者としての進化をどうしてもそこに感じざるを得ない。なんというか、筆致の無駄のなさというか、ある種の‘恬淡さ’を後発の書には感じるのである。枯淡の境地か。
 『スノー・イン・ザ・サマー』は掛け値なしに素晴らしい。仏道修行者(=マインドフルネスの実践者)必読の本である。仏教徒でなくとも、孤独や人生に悩む者もまた一読感じ入ることの多い名著であろう。これを書いた時点(年齢)におけるウ・ジョーティカ師の‘人として’の成熟は、畏れ入るばかりである。

 そして10年。
 それを超えてさらに進化していったのだ。
 それが可能なのがウィパッサナー瞑想なのだ。 


以下、引用。

 孤独というものは、自分の周囲に誰もいないことから来るものではなく、自分にとって重要であると思われる物事についてコミュニケーションがとれないこと、もしくは他者が認められないと感じるような見解を保持していることから来るものです。誰かが他の人よりたくさんのことを知っていたら、その人は孤独になる。
 しかしながら、孤独というのは必ずしも人付き合いと相反するものではありません。孤独な人ほど人付き合いに敏感な存在もありませんし、人付き合いが上手くいくのは、各個人が彼/彼女の個体性を心に留めて、自身と他者を同一化しない時だけだからです。

 あなたにできる最上のことは、心のいまある状態を、自身を責めたり正当化したりすることなく、それを違った状態にしたりそこから逃げ出そうとしたりすることなく、また後ろめたく思ったり恥ずかしく思ったりすることなく、認めて、気づいて、知ることです。

 自分自身と自分の生き方を本当に肯定できている時、はじめてあなたは、本当に他者を助けることができるのです。ですから、自分の心と深く繋がることが、とても大切なのですよ。

 私は、人々がどれほどさみしいか知っています。あなたがどれほどさみしいかも知っていますよ。私がどれほどさみしいかを、私は知っていますからね。私は自分の人生を、静かに、穏やかに、そして独りで暮らす仕方を学んできました。しかし、誰かと本当に心と心でふれあうことは、素晴らしいことだと思っています。
 私はたくさん苦しんで、それで僧侶になっています。
 私はもっと苦しんで、そうして人間になっています。

 私たちはそれぞれが、誰かが自分をさみしく感じないようにできるだろうと期待している。目的を果たす手段としての関係性は、常に失望に終わります。さみしさから逃げること。これが、私たちのほとんどが、ほとんどの時間を費やして行っていることです。

 真誠であり続けるためには、私たちは変わらなければなりません。きつくなり過ぎてしまった皮を脱ぎ捨てる蛇のように、私たちは自分の大好きな夢を脱ぎ捨てなければならない。きつ過ぎて息ができなくなったと愚痴をこぼす代わりに、より楽に自分が呼吸できるようにするために、私たちは古い皮を脱ぎ捨てて、新しい皮を育てなければならないのです。
 しかし、その新しい皮を脱ぎ捨てる時が来たら、ためらってはならないということも覚えておかねばなりません。いつだって、古い皮を脱ぎ捨てるというのは辛いことです。新しい皮は環境と接することに耐えられるほど、まだ十分に強くなっていないので、自分がとても脆弱で、ひどく感じやすい状態になってしまいますからね。




  

● ウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』を読む 1

2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

 自尊心を失った時、私たちは自分を価値あるものと感じられません。自分を価値あるものと感じられなければ、どうなると思いますか? もし何かやったとしても、自分がそれに値すると思えなくて、誠心誠意やることができない。いい加減にやってしまうのですよ。自分に価値がないと感じる人は、本当に全力を出すことができないでしょう。彼らは自分が何かをやっているふりをするだけで、本当は違うのだと感じてしまう。何かに自分が値すると感じることは、とても重要なことなのです。愛に、自由に、平静に、深い智慧に、そして理解に値すると感じること。「あなたが至れるのは自己評価の高さまで」。このことはとても重要です。(標題書P.26、ゴチックはソルティ付与)

 この書を読むのは3回目である。
 前2回はウェブ上に『自由への旅~ウィパッサナー瞑想、悟りへの地図~』のタイトルで無料公開されているものを、プリントアウトして読んだ。
 その後、思いがけずも新潮社から出版されて、ハードカバー500ページを超える大著3200円(税別)にもかかわらず、思いがけずも読まれているようである。
 タイトルの一部を「ウィパッサナー瞑想」から、流行りの「マインドフルネス瞑想」に変えたことが理由の一つであろう。

 コロナ禍の今は、ソルティのような瞑想実践者にとって得難き好機である。
 瞑想は、家で一人でできる金も手間もかからない暇つぶしで、体にも心にも良い。
 とくに、コロナに関する報道で不安を煽られたり、生活上の変化でストレスがたまったり、先の見えない状況に鬱っぽくなったりという昨今、心を落ち着かせる瞑想のありがたさは高まるばかりである。
 これが自由に外出できるとなると、ほかの娯楽や交流に惹かれて、家でじっと座ることが難しくなる。
 自粛生活を強いられる今こそ、瞑想が進むチャンスなのだ。
 マインドフルネス瞑想=ウィパッサナー瞑想を知り実践する人が少しでも増えるとしたら、それで人が仏教に触れるきっかけが生まれるとしたら、コロナ禍も決して悪いことばかりではない。
 
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 前回この書を紹介したとき、この書は「ウィパッサナー瞑想をやっている人にしか役に立たない」と書いた。
 それは決して嘘でも大げさでも極論でもない。
 本書の(著者ウ・ジョーティカ師の)目的は、ウィパッサナー瞑想を実践している人に対して、ウィパッサナー瞑想の概要を語り、瞑想をする上での具体的な注意点を伝え、瞑想が進むにつれ生じてくる智慧やスランプに関する見取り図を提供するところにある。 
 実際、本書のもとになったのは、オーストラリアのどこか静かな森の中で行われた瞑想合宿における講義録なのである。
 俗っぽく言えば、マニュアル本である。
 なので、将棋をやらない人にとって将棋のマニュアル本が役に立たないのと同様、ウィパッサナー瞑想をやらない人にとって本書は役に立たない。
 
 しかしながら、ウ・ジョーティカ師の語りには、瞑想実践者や仏教徒でなくとも通用し、生きるうえで役に立つであろう箴言がたくさんある。
 それは師が、瞑想と人生を深いところでリンクさせているからであり、その結びつきのありようを、指導を受ける者たちに包み隠さず呈示しているからである。
 そういうことができるくらいの哲学性と洞察力と人生経験と言語力と博学と、もちろん瞑想体験と指導力とを兼ね備えているのが、ウ・ジョーティカ師なのである。
 
 そういうわけで、3回目の通読となる今回は、本書を読んでソルティが感銘を受けた師の言葉の数々を紹介していきたいと思う。
 
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 冒頭の引用は、瞑想実践に入る前に必要な心の準備について、師が語っているくだり。
 瞑想にそれなりの成果を望むなら、自尊心を持つことが大切だという趣旨である。
 これはしかし、師も触れているように、人生のあらゆる面について言えることである。
 自尊心の低い人は、何ごとにも満足いく結果を生み出すことができない。
 「あなたが至れるのは自己評価の高さまで」という文句はソルティの胸に強く響いた。

 ソルティは、ボランティアやNGOや介護の仕事などを通して、数十年来、対人支援の仕事に関わってきたが、つまるところ見えてきたのは、「人は自分を救えるレベルでしか他人を救えない」、「自分を癒せるレベルでしか他人を癒せない」、「自分を大切にするレベルでしか他人を大切にできない」という峻厳たる事実であった。
 自己に対する評価(愛、自信、優しさ、ゆるし、肯定、満足)の裏返しが、他人に対する評価(愛、自信、優しさ、ゆるし、肯定、満足)であり、それはまた社会に対する評価(愛、自信、優しさ、ゆるし、肯定、満足)につながる。
 他人や社会のために尽くすのは素晴らしいことだが、そこには自己に対する評価という壁(限界)が立ちはだかっていて、それを無理に超えて自己犠牲を払うことは、必ずしも良い結果を生まない。
 一時的にはうまくいったように見えて、助けた相手から感謝されることがあったとしても、長いスパンで見たとき、必ずしも援助された当人のためにならなかった、というケースを結構目撃してきた。(GOTOキャンペーンのよう?)

 それはおそらく、自分の壁を超えて無理をした分が、あとから揺り戻されるからだと思う。
 他人や社会のために何か良いことをしたいと思ったときに、その動機の中に自己否定的なもの(たとえばトラウマやコンプレックスや怒りや憎しみや欲求不満といった)が含まれていると、知らずその否定的なものは外側(他人や社会)に投影され、転写されてしまう。
 闘うべき相手を外側に作り出してしまう。
 それは自分が作り出した幻なので、永遠に打ち倒せない敵となる。(キリスト教における悪魔のよう?)
 また、自己否定がもとにある自己犠牲的支援は、その恩恵を受けた人の中に知らず罪悪感や負担や依存を生み出してしまうことになりかねない。
 わかりやすい例を挙げる。介護保険のいいところは、介助者に給料が払われる仕組みが、介護される高齢者の心理的負担を減らすことにある。
 家族でも恋人でもなく、なんの見返りもなさそうなのに、自分のうんちを処理してくれる相手に対し、あなたはどういう気持ちを抱くであろうか?

 自分の問題を棚上げにして、自分の問題から逃避して、他人や社会のことにかまけても、うまくいかない。
 まず隗より始めよ。
 幸福は自分から。
 ソルティは、それが、その昔インドで小乗仏教(とけなされた人たち)が発見した真理の一面だったのではないかと思うのである。

P.S. 補足するまでもないことだが、これは「人助けや社会運動はやるだけ無駄」という意味ではまったくない。




● ウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』を読む 2

2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

 私たちは生きるために、生活するために、健康でいるために、たくさんのことを必要とします。
 しかし、満たされたと感じるために、出かけていって外側の事物を探し求めたりはしないでください。外的な事物は何も、あなたを満たされたと感じさせてはくれません。
 唯一、あなたを満たされたと感じさせてくれるのは、自身のスピリチュアルな本性に深くふれること。とても高貴で、とても美しい本性にふれることです。(標題書P.150)

 こういった言説は、スピリチュアル業界ではよく耳にするところである。
 我々が真に望んでいるものは、外の世界のどこか遠いところにはなく、身近なところにある。
 メーテルリンク『青い鳥』やジュディ・ガーランド主演『オズの魔法使』(1939)において象徴的に描かれているテーマである。
 ウ・ジョーティカ師は、「瞑想によってその内側の宝を見出しなさい」と言っているのである。

 とは言え、頭では分かっていてもなかなかできない。
 我々の外に広がる世界は、一見、あまりに豊かで、あまりに刺激的で、あまりに面白いからである。
 衣食住および安全といった、人が生きる上での不可欠な欲求が満たされるや否や、我々の関心と欲求は外の世界に向いてしまい、孤独と退屈を避けるべく、また、より多くの快楽と満足を得るべく、世界にかかりっきりになってしまう。
 ひねもすスマホをいじり続けている若者の姿は、まさにその象徴であろう。

 アメリカの心理学者アブラハム・マズロー(1908-1970)は、自己実現理論を唱え、人間の欲求を5段階の階層で説明した。
 以下のようなものである。

マズローの欲求段階説
『社会福祉士の合格教科書』(飯塚慶子著、医学評論社)より引用


 ウィキペディア「自己実現理論」の記述をもとに、下段から順に簡単に説明すると、
  • 生理的欲求 (Physiological needs)・・・生命を維持するための本能的な欲求で、食事・睡眠・排泄など。
  • 安全欲求 (Safety needs)・・・安全性、経済的安定性、良い健康状態の維持、良い暮らしの水準、事故の防止、保障の強固さなど、予測可能で秩序だった状態を得ようとする欲求。
  • 社会的欲求と愛の欲求 (Social needs / Love and belonging)・・・自分が社会に必要とされている、果たせる社会的役割があるという感覚。情緒的な人間関係についてや、他者に受け入れられている、どこかに所属しているという感覚。
  • 承認欲求 (Esteem)・・・自分が集団から価値ある存在と認められ、尊重されることを求める欲求。
  • 自己実現欲求 (Self-actualization)・・・自分の持つ能力や可能性を最大限発揮し、具現化して自分がなりえるものにならなければならないという欲求。
 マズローの説が妥当かどうかは検討の余地があろう――ソルティは「安全欲求」と「社会的欲求と愛の欲求」との間に「遊びと知識への欲求」というのがあると思う――けれど、とりあえずそのまま受け入れるとして、人が生きる上で最低限満たされるべき欲求は下の二つ、すなわち「生理的欲求」と「安全欲求」までではなかろうか。
 その上位に位置する二つ、「社会的欲求と愛の欲求」および「承認欲求」は、対人的・対社会的な文脈において生じるものであり、無人島や深山幽谷で独りきりで生きている人間が存在することを思えば、必しもすべての人間に不可欠とは言えまい。
 むろん、これは心理的な意味合いで言っている。
 食べ物や衣服や日用品を手に入れたり、交通機関やインフラを利用したりするために、誰しも他人や社会との関りは避けられないし、相互扶助は必要である。
 病気になったり介護が必要になったりすれば、他人の世話にならざるを得ないし、社会による共助や公助を求めざるを得ない。
 物質的には、他者や社会との関係はなくてはならないものである。
 
 ウ・ジョーティカ師が、「出かけていって外側の事物を探し求めたりはしないでください」という時に意味しているのは、マズローの説で言えば、下から3段目の「社会的欲求と愛の欲求」およびその“上位”に位置する欲求にのめりこむな、ということなのだろう。
 あるいは、2段目の「安全欲求」のうちでも、安全に健康的に生きるのに必要とされるぶん以上の金品を得ることにかまけるな、ということなのだろう。
 
 年を取って体が弱ると、仕事を始め、いろいろな活動から引退することを余儀なくされる。
 パートナーに先立たれ、活動範囲が狭まり、友人・知人が少なくなる。
 すると、「社会的欲求と愛の欲求」の危機がやってくる。
 地位や名声だけを誇りとも生きがいともして生きてきた人は、「承認の欲求」も最早得られない。
 老人ホームの食堂で、かつて有名企業の社長であったことを自慢しても空しい限りである。
 ソルティは、衣食住と安全が保障されている老人ホームで、多くの高齢者(とくに男たち)が“上位”の欲求を充足するすべを失い、抜け殻のようになって自分が保てなくなる様を見てきた。
 これが自分の行く末か・・・・と思わされた。

 それ以来、あまり仕事や組織や技能や人間関係に固執するのは得策ではないと思いつつ、瞑想実践するようになった。
 
 心がマインドフルな状態でない時、それは家のない人のように感じられる。
 とても不安で、とても不幸なのです。
 マインドフルでいる時、あなたは本当に在宅していると感じられる。
 ですから、「マインドフルネス(気づき)こそ我が家」なのです。 

青い鳥




● ウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』を読む 3

2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

 より能率的であることを学んでください。一つのことにおいてだけではなくて、あなたが行う全てのことにおいてです。 
 そして、能率的であるためのいちばんの方法は、落ち着いて安らいだ状態でいることです。
 もし急いでいて、落ち着きを失っていたら、何事を行うにもより多くの時間がかかることになります。

 通勤列車の中でシートに腰かけて、夢中になってミステリーを読んでいる。
 駅に到着し、ドアがプシューっと開く。
 「〇〇~、〇〇~」
 うわの空で聞いていたアナウンスが、数秒たって、意識に上がってくる。
 ハッと、そこが降車駅であることに気づく。
 焦って、しおりを本に挟み、ジッパーの空いているデイバッグに投げ入れ、肩ベルトを片一方の肩だけに掛けて、ドアへと急ぐ。
 そのとたん、口の空いたままのデイバッグから、ペットボトルが落ちて車内を転がってゆく。
 ほかの乗客の注視を浴びながら追いかけていると、今度は小物入れが落ちる。
 発車ベルの響く中、二つを拾い上げて、ドアの閉まる直前に降車する。
 セーフ!

 こういった間抜けな展開が意外に多いソルティ。
 ペットボトルや小物入れが落ちない時は、降車したしばらく後に、帽子を座席や帽子掛けに忘れてきたことに気づく。
 すべては焦るがゆえの失敗・・・。

忘れ物


 実際のところ、列車のドアの空いている時間(≒停車時間)は20~30秒である。
 結構長いんである。
 少なくとも、本をゆっくり閉じて、デイバックに納め、ジッパーをしっかり閉めて、肩ひもを両肩に掛けてデイバッグを背負い、それから立ち上がって、座席を振り返って忘れ物はないかを確認し、ゆっくり歩いて列車を降りてもまだ余裕があるほど、十分に長い。
 そのことをソルティは、足をケガして松葉杖で列車移動しているときに、はっきりと知った。
 鉄道会社は当然、足腰の悪い高齢者や障害者、ベビーカーを押す若いママ&パパたちが、焦らず安全に乗降者できるほどの時間は見ているのである。
 座席で上着と靴を脱いで弁当を広げているという行楽モードならともかく、通勤モードで焦る必要などまったくない。
 
 焦りは、人を失敗に導く大きな原因の一つである。
 大事な試験のとき、車を運転しているとき、期限までに書類を作成しなければならないとき、人との待ち合わせに遅れそうなとき、やることが一杯あって何から手をつけていいかわからないとき・・・・。
 誰もが思い当たることがあろう。
 重要な場面でこそ焦りは生じるものだが、その焦りが物事の能率を下げ、持っている能力の発揮を妨げるのだから厄介である。
 焦らなければ全然問題なく片づけられることが、焦って落ち着きをなくすゆえに失敗する。
 
 そんなときに「大きく深呼吸する」というのが昔からよく言われている手であるが、より効果の高い手が、マインドフルネス瞑想(ウィッパサナ瞑想)である。
 ウィッパサナ瞑想によって、今現在生じている感覚や動きや感情や思考を観察すると、その観察するという行為自体が、人を時間から解放し、「落ち着いて安らいだ状態」にする。
 その状態で物事にあたると、心と頭脳と体がコンピュータのように最適化されて、やるべきことが明瞭に見え、淡々と進められ、その時のその人の最高に近い能力が発揮される。
 これは知っていて損はない。

 ソルティ自身の経験で言えば、ウィッパサナ瞑想をするようになってからここ数年の間、3回の大きな資格試験を受けた。
 2回は国家試験(介護福祉士、社会福祉士)、1回はケアマネ(介護支援専門員)の試験である。
 いずれの場合も、試験当日、開始直前までウィッパサナ瞑想をやっていた。
 おかげで、まったく焦ることがなかった。
 緊張はしたが、それはアスリートがよく口にする「良い緊張」であった。
 いずれも無事一発合格することができたが、たとえ合格しなかったとしても後悔はなかったであろう。
 なぜなら、その時に自分が持っていた能力は最大限発揮したという思いがあったからである。
 試験終了後、「やれるだけはやった」と素直に思えた。
  
 まったく、ソルティのような緊張しやすく焦りやすい“小物”にとって、この瞑想は福音である。



● ウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』を読む 4

2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

 私たちはみな、それぞれ異なった仕方で精神的に病んでいるのです。
 完全に健康な身体というのは存在しません。医者はそのことを知っています。
 完全に健康な精神さえ、存在はしないのです。
 しかし、それはあなたが狂っているという意味ではありません。あなたはただ正常、つまり正常に不健康なのです。
 あなたがこうした種類の、距離を取る洞察智をつければ、あなたの心はたいへん健康になります。
 本当に健康になるということは、本当に明晰な理解を得るということです。精神的に健康になるためには、他の道はありません。
(標題書P.263)


 最近、巷でよく聞く言葉に「HSP」というのがある。
 Highly Sensitive Person(ハイリ―・センシティブ・パーソン)の略で、非常に繊細で敏感な人のことをさす。俗に「繊細さん」と呼ばれている。
 アメリカの心理学者エイレン・アーロン博士が提唱した概念で、人口の15~20%が該当するそうだ。
 HSPは病気ではなくて生まれ持った気質で、次のような特性が挙げられている。
  1. (物事を)深く処理する
  2.  共感力が高い
  3.  過剰に刺激を受けやすい
  4.  ささいな刺激を感知する
 こうした特性ゆえ、非HSPの人にくらべて敏感に感じたり過剰に気づいたりするため、精神が疲れてしまい、生きづらさを感じることになる。

 「モロ自分やん!」と思ったそこのアナタ!
 正解です。
 「自分をHSPだと思っている日本人は53%に達する」というデータもありますから(笑)。
 むろんソルティもHSPです。

繊細さん

 何が言いたいのかというと、「学者先生め、またこうやって新しい“心の病”を作り出しやがって・・・・」というぼやきである。
 フロイト以降、どれだけ“心の病”が生み出されてきたことか!

更年期障害、 月経前症候群(PMS)、 アルコール依存症、 適応障害、 自律神経失調症、 摂食障害(過食症・拒食症)、 不眠症、 双極性障害(躁うつ病)、 うつ病、 認知症、 パーソナリティ障害、 統合失調症、 発達障害、 高次脳機能障害、 自閉症、 心的外傷後ストレス障害(PTSD)、 強迫性障害、 パニック障害、 睡眠時無呼吸症候群、 慢性疲労症候群、 ADHD(注意欠陥・多動性障害)、 アスペルガー症候群・・・・・e.t.c.

 こういった症状に悩み苦しんでいた当人にとっては、「自分が他の人と違っておかしかったのは病気のせいだったのだ。自分を責めなくてもいいんだ。病名がついて良かった!」という解放感と安心感を得て、それなりに開発され手順化された治療につながっていくのであろうし、それなりに治療効果もあるのだろう。
 が、一方、新たな“心の病”の誕生は、心理学者や精神科医ら“心の治療”にたずさわる人々の出番を増やし、飯のタネや利権の温床となることも否定できない。
 アルコール依存症なんて、昔は単なる“大酒のみ”で通っていたはずだ。
 HSPも“ナイーブな人”で通っていたはずだ。
 
 何が言いたいのかというと、こうまで“心の病”だらけになると、「いったい何らかの“心の病”に該当しない人間っているのだろうか?」という疑問が生じるのである。
 ここに100人の人間がいて、うちHSPが50%、更年期障害が30%、認知症が14%、うつ病が6%、統合失調症が1%、アルコール依存症が0.9%・・・・と数えていったら、すべての日本人(少なくとも大人)はなんらかの“心の病”にかかっていることになりはしないだろうか?
 逆に言えば、“健康な心”をもっている大人っているのだろうか?

 そもそも、何をもって“健康な心”と言うのだろう?
 厚労省の定義は以下のごとし。

 こころの健康とは、世界保健機関(WHO)の健康の定義を待つまでもなく、いきいきと自分らしく生きるための重要な条件である。
 具体的には、自分の感情に気づいて表現できること(情緒的健康)、状況に応じて適切に考え、現実的な問題解決ができること(知的健康)、他人や社会と建設的でよい関係を築けること(社会的健康)を意味している。人生の目的や意義を見出し、主体的に人生を選択すること(人間的健康)も大切な要素であり、こころの健康は「生活の質」に大きく影響するものである。
厚労省ホームページより抜粋)

 仏教の定義はもっと単純である。
 悟らない限り、人はみな精神的に病んでいる。
 最終的な悟りに達した阿羅漢だけが“健康な心”を備えている。
 なぜなら、阿羅漢には自我がないからである。
 自我こそが“心の病”の元凶である。

 なるほど、自我のない子供は心を病まない。
 成長して強固な自我を育てるほどに、人は精神的な病に陥りやすくなる。
 精神的な病の多くは、自我と社会との軋轢によって生じるからだ。
 
 なので、「私は病気である」と言うのは間違い。
 「私」が病気である。
 
 
 

● ウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』を読む 5

2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

 私たちは求めているからそれを得ている。
 不幸を求めているからこそ、私たちは不幸なのです。
 しかし、私たちはそれを否認している。
 ただ幸せを求めているのだ、と私たちは言う。
 しかし、「幸せ」という言葉によって、言われているものは何でしょう?
 欲望を満たすこと?
 もし本当にそれを求めていなければ、私たちは自由なのです!
 (標題書P.417)

 不幸を求めているから不幸?
 そんな馬鹿な!

 ――と思う人も多いかもしれない。
 誰だって幸せを求めて生きているはずだ。
 マゾでもない限り、誰が好きこのんで自らの不幸を求めるだろうか?

 ウ・ジョーティカ師の言葉には重層的な意味合いがあるように思う。
 一つには、私たちが普通に考えかつ求めている幸せとは、「欲望の満足」であるという点である。
 お金がほしい、友だちがほしい、恋人がほしい、子供がほしい、仕事がほしい、持ち家がほしい、別荘がほしい、洋服がほしい、車がほしい、宝石がほしい、地位がほしい、名誉がほしい、権力がほしい、健康がほしい、美貌がほしい、若さがほしい、永遠の命がほしい・・・・。
 欲望の達成を「幸せ」と考えるならば、それを求めている間は当然「不幸せ」になる。
 達成したあかつきに得た「幸せ」は、一瞬の満足ののち、目減りし魅力を失っていく。
 獲得した物は変化し、いつかは壊れ、失われていく。
 そのうえ、「欲望を達成する」という行為自体が生き癖となってしまっているので、次の新たな獲物を作り出さないことには虚しさに襲われるばかり。
 すると、「幸せ」は永遠に先送りされる。
 欲望を満たすことは「幸せ」にはつながらない。

 今一つには、私たちは、表面的でわかりやすい上のような欲望とは別に、自らが無意識に欲しているもの(状況)というのがあって、いつか必ずそれを具現化してしまうというほどの意味合いである。
 これはなかなかわかりにくいところである。特に、欲望に向かってまっしぐらの、イケイケバンバンの若い頃は・・・・。
 たとえば、覚醒剤を隠れてやっていた有名人がついに警察に捕まったときに、「ホッとした」とか「いつかはこうなるんじゃないかと思っていた」と本音を漏らすことがある。
 そういうときに彼らの内面で働いているのは、一見不幸の極みに見えるようなそういう状況――逮捕され衆目にみじめな姿をさらし、家族や友人や仕事や名声や信用や財産やらを失うというような状況――を、心のどこかで望んでいたことに対する“気づき”ではないかと思うのである。
 つまり、覚醒剤に手を染めなければならないくらいまで無理のある生活、虚飾にみちた日常、上げ底の自分が、逮捕によってやっと破綻し“ありのまま”の自分に戻れたという思いが、「ホッとした」というセリフになるんじゃなかろうか。
 意識の上では華やかなスターの「自分」を目指して我武者羅に生きてきたけれど、無意識が望んでいたものはもっと別の「自分」であった。

 あるいは、何らかの事情で自分を卑下しているとき、人は手に入れた幸運や成功を素直に受け取れず、自分がそれにふさわしいと思えなくなる。
 「こんな自分が幸福であってよいはずがない」という罪悪感は、それにふさわしい状況をおのずから身の回りに作り出してしまう。
 スピリチュアルでよく言われるところの「思いは現実化する」。
 
 言いたいのはつまり、多くの人は本当に自分が望んでいるものを知らないで生きているのではないか――ということである。
 そこに気づかせてくれるきっかけが「不幸」や「逆境」であるとしたら、人は心のどこかでそれらの訪れを待っているとさえ言えるのではなかろうか。

 三島由紀夫がやはり天才だなと思うのは、彼が40歳のときに発表した『サド侯爵夫人』の中にこんなセリフがある。

いいえ、私が自分で望んでいたものが、この年になってだんだんわかってきました。ずっと若いころには、私もあなたと同じように、そんな二種類の思い出を望んでいるような気がしていました。・・・・ヴェニスと、仕合せと。・・・・でも私の思い出に残ったものは、私の琥珀の中に残った虫は、ヴェニスでもなければ仕合せでもない。ずっと怖ろしいもの、言うに言われないものでした。若い私が望むどころか、夢にさえ見なかったもの。でも、今では少しずつわかってきました。この世で一番自分の望まなかったものにぶつかるとき、それこそ実は自分がわれしらず一番望んでいたものなのです。
(新潮文庫『サド侯爵夫人』) 

 この戯曲を20代で読んだ時、ソルティはこの三島特有の典雅で才気に富んだ逆説に非常に感銘を受けた。
 が、その真に意味するところはまったく分かっていなかった。
 三島がこれを書いた年齢も、三島が自決した年齢もとうに越えた今、このセリフを非常にリアルなものに感じるのである。

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● ウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』を読む 6

2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

まさに「いま・ここ」で、生を深く、ありのままに見つめてください。
いまとここそのものには、物語はありません。
まさしく「いま・ここ」で起こっている何かについて、物語を作ることができますか?
「いま・ここ」に、物語は存在しないのです。
存在するのは、ただ生成消滅する諸感覚だけであり、無媒介の感覚だけなのです。
(標題書p.499)

 ソルティは本を読むのと映画を見るのが好きである。
 若い頃からそうだった。
 物語に毒されているのだ。
 日本人の読書離れ、映画離れが言われて久しいけれど、「じゃあ、ソルティのようには読書や映画鑑賞をしない人々が、物語から解放されているのか?」と言えば、そんなことはまったくない。
 親のしつけや学校教育から始まって、テレビ、新聞、雑誌、漫画、ゲーム、流行歌、街じゅうに溢れる広告、ネット上のコメント・・・・・物語は無辺に広がって、それらを無自覚に受け入れる人々を洗脳しまくっている。
 世界は物語であふれている。

 これが現代情報社会の宿痾と必ずしも言えないのは、未開社会の部族にも、たとえば神話や掟や風習という形でそれなりに物語は存在し、内部の人々を良くも悪くも縛りつけているからだ。
 たとえば、遺伝的弊害を回避するインセスト・タブー(近親姦禁忌)は“良い”物語であろうし、女性器切除は“悪い”物語と言える。
 違うのは、現代社会では物語の種類と量が膨大になって、人々がそれに毒される時間が増えてしまったことだろう。
 未開社会の人々が大自然という厳しい現実と日々向かい合わざるを得ないのにくらべ、自然を克服しつつある文明社会の人は、一日のほとんどを物語の中に生きられる。


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ComfreakによるPixabayからの画像


 物語とは何か?
 「いま・ここ」に存在しないファンタジーである。

 たとえば、恋愛ほど人が物語の毒にはまっているさまを示すものはなかろう。
 愛する人のちょっとした言葉やしぐさや眼差しを、いかに曲解し、大袈裟に受け取り、妄想たくましくして、一喜一憂することか。
 自分で勝手に相手との物語を作り上げ、浮かれたり、患ったり、有頂天になったり、思い悩んだり、落ち込んだりすることか。
 自分にとって都合の良い物語を信じ込んで相手に夢中になり、ふたを開けてみたらとんだ勘違い、事実とのグロテスクなまでの乖離に、「舌かんで死んじゃいたい!」と自らの愚かさを呪ったことのある人は、決して少なくないだろう。

 あるいは、男なら誰だって(と一括りにすると反発来そうだが)、マスターベーションにおける妄想を伴った快楽と、射精後に来る「いま・ここ」の現実(=3㏄の精液の処理)の落差を知らぬものはいないだろう。
 “賢者タイム”とはよく言ったものである。

 物語とは、別名、記憶であり、空想であり、妄想であり、追想であり、後悔であり、想像であり、幻想であり、解釈であり、予断であり、不安であり、忖度であり、ファンタジーであり・・・・・・。
 つまるところ、思考である。
 
 ある意味、人間と動物との違い、あるいは大人と幼児との違いは、「物語を持つか持たぬか」というところにある。
 動物は物語を持たない。常に「いま・ここ」に生きている。
 「いま・ここ」の感覚と本能に基づいて、食欲、生殖欲、睡眠欲、現実的な危険の回避に追われて生きている。
 幼児もまた物語を持たない。
 「泣いたカラスがすぐ笑った」という言葉が示す通り、瞬間瞬間の感覚と本能と気分だけにコントロールされて生きている。
 地球上に生息する何百万という生物の中で、幼児を除く人間だけが、「物語を持っている、その中を生きている」というのは、よく考えると空恐ろしいことである。

 いや、だから人間は素晴らしいのだ、万物の霊長なのだ。
 ――という意見もあろう。
 たしかに、物語には人を動機づけ、狩り立たせ、力づけ、勇気をあたえ、未知なるものへ挑戦させ、団結させ、感動させ、退屈を紛らわし、創造させ、生きる希望をもたらしてくれるパワーがある。オリンピックを例に挙げるまでもない。
 物語のない社会、物語のない人生ほど、無味乾燥なものはあるまい。
 一方、人と人とを切り離し、誤解させ、憎しみや恐れを生み、競わせ、差別や迫害や戦争のもとを生みだすのも物語である。
 宗教や主義や民族という物語が、どれだけ人類の歴史を残酷に彩ってきたことか!
 物語は諸刃の剣なのだ。

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 人類が長い進化の時を経て物語を持てるようになったのは、「時間」を持ったことと関係していよう。
 記憶と想像、つまり過去と未来を手に入れて、はじめて物語が生まれたのだ。
 それはきっと、火や言語の獲得と同様、我々の遠い祖先が厳しい環境の中で生き残るのに役立ったからこそ、人類の性質として備わったのだろう。
 言語と物語の誕生によって、世代から世代への情報伝達が容易になり、生き残るための知識が蓄えられたことは想像にかたくない。

 元来、生き残るために獲得された性質の一つであるはずの物語(形成能力)が、いつのまにか、人が「いま・ここ」の現実を生きることを阻む方向に働くようになり、人は物語に取り込まれ、過去と未来の中を生きるようになった。
 それは、ネットゲームの主人公(アバター)の活躍するドラマを、自らの人生と勘違いしているゲーマー青年と、架空を生きているという点では何ら変わるところがない。

 過去は、過ぎ去って、今はない。
 未来は、未だ来たらず、ここにない。
 現実にあるのは「いま・ここ」だけなのだ。

 マインドフルネスとは、瞬間瞬間の感覚に意識を置きつづけることで「いま・ここ」にあり続ける実践である。
 物語からの解放なのだ。

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 ソルティ自身のスタンスを言えば、物語に毒されていることは重々承知しているものの、それを100%拒絶するのも阿呆らしいと思っている。
 そもそも遺伝的あるいは後天的に植え付けられた物語(形成能力)をゼロにするなどできるべくもなく、社会生活を送って他人とコミュニケートする以上、物語を無視するなど不可能である。(それができるのは完璧なサイコパスだけだろう)
 と言って、もういい加減、ありもしないファンタジーにかまけて「いま・ここ」の生を取り逃し続けるのはごめんこうむる。

 物語とは適当につきあうのが良い。
 ブログで本や映画について書くのは、襲いかかる物語に無防備に身をさらして蹂躙されないよう、物語に対して免疫をつけるためのワクチン接種のようなもの。
 ――と自己韜晦をはかっている(苦笑)











● ウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』を読む 7

2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

 たいていの人はさみしさを感じていますが、独りで生きているわけではありません。
 彼らはただすごくさみしく感じているだけで、独りで生きているわけではないのです。
 独りで生きていてもさみしくならないということが、あなたにはできる。
 これこそ瞑想者の学ぶべきことであり、またそれができるように学ぶことは、たいへん有益なことでもあります。
 「独りでいても、さみしくないこと」
(標題書 P.505より抜粋)


 18歳の秋に人生初めての一人旅をした。
 行先は京都であった。

 当時、東京駅23:30発の大垣行き普通夜行列車というのがあった。
 大垣駅に朝の7時頃に到着、乗り換えて京都には9時くらいに着いただろうか(朝の京都タワーがまぶしかった)。
 まだ青春18切符も、JR東海「そうだ京都、行こう。」キャンペーンもない時代で、紅葉時期にも関わらず京都は空いていたし、夜行列車も空いていた。
 青い布張りの向かい合わせのボックスシートを一人占めにし、缶コーヒー片手に東京駅のホームが後方に去っていくのを眺めた。
 初めての一人旅にワクワク、というより心細かった。
 さびしかった。

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大垣行き夜行列車
静岡駅で長い停車があり、駅弁や網入りミカンを買うことができた


 実家暮らしだったので、一人でいることに慣れていなかった。
 どこかに遊びに行くときは家族や友人と一緒だったので、一人で行動することにも慣れていなかった。
 京都の観光名所を巡っている時も、一人ぼっちの自分を意識してしまって、妙に落ち着かなかった。
 一人で食堂に入った時も、周囲の目が気になり、ゆっくり過ごすことができなかった。
 ふと見ると、隣のテーブルで中年の会社員らしき男がワイシャツの袖をまくり、煙草をくゆらしながら、新聞を読んでいた。 
 その泰然自若たる落ち着きぶりに憧れた。
 「自分もあんなふうに“一人でいても間が持てる男”になりたい」と思った。
 カッコよく言えば、孤独が似合う男になりたかった。
 いや、一人でいても孤独を感じない男になりたかった。
 英語で言うなら、Lonely でなく Alone だ。 

孤独な男


 あれから幾星霜。
 すっかり一人が板についたソルティ。
 一人旅を重ねること数十回、山登りの単独行数百回、一人映画、一人コンサート、一人落語、一人呑み、そして一人暮らし数十年(いまは実家住まい)。
 今もっともくつろぐ瞬間は、一人でお気に入りのレストランやカフェで本を読んでいるとき、そして瞑想中である。
 さびしいとか侘しいとか心細いといった思いはみじんもなく、周囲の目もまったく気にならない。
 おおむね安穏としている。 
 完璧に Lonely から Alone になった。
 18歳の秋に憧れていた男になった。

 しかるにまずったことに、逆に今は「誰かと一緒にいること」が不得手になってしまったようなのである。
 その誰かが、レストランの隣席にいるようなまったくの他人だったら問題はないのだが、ちょっとでも言葉を交わし見知っている人となると、どうにも 相手に気を遣ってしまって、自分の世界に閉じこもれなくなり、くつろげなくなる。
 一人上手を極めた結果なのかとも思うが、考えてみると一人でいる(=自分と過ごす)方が、誰かといる(=他人と過ごす)よりも気楽なのはあたりまえなのだ。
 ソルティはたぶん、ずっと前から、最近はやりのHSP(繊細さん)だったのであろう。

 人と会うことも、人と話すことも、人と遊ぶことも、決して嫌いではないのだが――であればこそ接客や対人支援の仕事ばかり就いてきたわけだ――それでもなお、一人でいることの魅力には及ばない。
 

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● ウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』を読む 8

2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

 今日では多くの人々が、とくに西洋では、あなたが忙しくしていないと、何か問題があるんじゃないかと言ってきます。
 彼らの考えるところでは、
「なんと、君は何もしていないのか? 週末には何をしてるんだい?」
「いやいや! 何もしていないよ。ただ家にいるだけさ」
「ええ! 何もしなかっただって? ただ家にいた? 何か問題があったんだね」
 何の問題もありません。
 彼らはただ狂ったようにあちらこちらへと走り回っていて、あなたはそうでないというだけです。
 あなたは正気で、彼らが狂っているのですが、彼らはあなたが狂っていると思うのです。


 ご多分に漏れず、コロナ禍になってから “おうち”時間が増えたソルティであるが、じゃあ“おうち”で一体何をしているのか?――と言えば、ほぼ読書と映画鑑賞とブログ執筆とプールと散歩と瞑想である。
 コロナ前より減ったのは、クラシックコンサートや落語や美術館に行くこと、山登り、ボランティア、友人との会食あたりだろうか。ボランティアは人と関わるものなので、感染予防の観点からNGである。
 こうやって対外的活動が縮小され一年以上たって思うのは、「行かなきゃ行かないで別にどうってことない」ってことだ。失った娯楽や活動に対して欲求不満が高じるなんてことはなかった。

 若い頃は休日に家にいるなんて我慢ならなかった。晴れた日はとくに。用を作っては、あるいは用がなくても、街に出かけたものだ。
 五十を超えた今では、街に行くのが億劫に感じる。コロナ感染のリスクがなくても、人混みや喧騒には足を踏み入れたくない。体力や精力の減退が一つの因であるのは間違いなかろう。ちなみにソルティにとっての「街」とは、都内のことである。
 月2回は行っていた山登りもまた、今やそれほどの熱を身内に感じない。一昨年に四国歩き遍路を結願してから、憑き物が落ちたようにアウトドア志向あるいは徘徊癖が希薄になった。もっとも、足の骨折の影響も大きいが・・・。
 
 仕事以外の多くの娯楽や活動は、つまるところ、「やりたくてやっている」、「やらずにはいられない」というよりは、「時間をつぶすため」あるいは「気晴らしのため」にやっているのだ。
 自分にとって、それがないと本当に参ってしまうのは、おそらく、読書と瞑想と何らかの運動だけであろう。(ソルティは“塀の中”を快適に過ごせるかもしれない。独房に限るが・・・)

 若い頃は外の世界に「何か」を求めていて、そしてその「何か」が手に入らなくて焦燥に駆られていたものだが、だんだんと外の世界には本当に“自分”が満足できるものはないんだと思うようになった。
 というより、“自分”というものは決して満足しないシステムなんだと知るようになった。

 歳を取ること、そして今回のコロナ禍、いずれも真に必要なものを明らかにしてくれるチャンスである。


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S. Hermann & F. RichterによるPixabayからの画像




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