ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

新型コロナ雑感

● ほすぴたる記 その後 13 通院停止


 昨夜遅く、病院のリハビリ担当者から電話があった。
 「コロナウイルス蔓延防止のため、しばらく外来リハビリ中止になりました」
 
 来たか・・・。
 
 しばらく前から見舞客の制限が始まっていた。
 熱や咳症状のある来院者への注意書きが、正面入口に貼られた。
 「病院内に入らず、まずこちらの電話番号までお問合せください」
 
IMG_20200305_152702

 半月に一度の担当医の診察はいつも1時間近くの順番待ちとなるのだが、昨日の診察は20分ほどの待ちですんだ。フロアがすいていた。
 やはり、一昨日に全国一斉休校の要請が出た影響が大きい。
 
 次回のリハビリ予約はキャンセル。
 再開の見通しはむろん立っていない。
 途方にくれている患者も少なくないことだろう。
 
 いま家の中では、家具や手すりにつかまりながら、なんとか立って歩けている。
 狭い家ゆえのメリットだ。
 外出の際はまだ松葉杖が必要だが、試してみたら片松葉杖でもいけた。
 ただ、片松葉杖だとバランスが悪く、歩き方がいびつになる。
 そのまま固定して癖がついてしまうと厄介なので、バランスよく真っすぐきれいに歩けるようになるまでは、両松葉杖が無難だろう。
 左足に体重を乗せられるようになって、かなりの距離を疲れずに歩けるようになったのがうれしい。
 
 レントゲンによる診察の結果、「骨はズレていない」とのこと。
 これからは自主リハビリ+アーシングで復活を目指す。

 
 
蝶々
 
 
 
 
 
 

● ほすぴたる記 その後 15 イタリア風おやき

 午後、1時間のリハビリ散歩をしている。
 ケガしていない右側で松葉杖をつき、姿勢をまっすぐ保ち、転ばないよう気をつけながら、2キロ近く歩く。
 ひたすら、左足を鍛える段階に入った。
 
 時速2キロで歩いていると、健康なときは見過ごしていた、街のさまざまな風景が目に入る。

 こんなところにリサイクルショップあったっけ?
 いつのまに、こんな立派な介護施設ができたのか?
 この家の庭は手入れが行き届いているなあ。
 杖やシルバーカーの高齢者って、結構いるんだなあ。
 あ、フキノトウが咲いている!
 
 今日は、自宅から約1キロ離れたレンタルDVD店まで行った。
 ケガをする前は、週に一度は通い、映画を借りていた。
 実に3ヶ月ぶり。

 店は雑居ビルの3階にあり、階段もエレベーターもない。エスカレーターのみ。
 エスカレーターを利用するのも3ヶ月ぶりだった。
 松葉杖でのエスカレーターは、ステップに乗る時よりも、ステップから降りる時が怖い。
 到達する階の床面に杖を突くタイミング、動いているステップから足を離すタイミング。
 普段無意識にやっていたことが、まるで初めてエスカレーターを見た途上国の人みたいに、おっかなびっくりになる。

エスカレーター

 
 店内を回ってDVDをあれこれ物色できるのも、片手が空いたおかげである。
 ホアキン・フェニックス主演の『ジョーカー』など3本をチョイスした。
 コロナ騒ぎで、みなインドア志向のせいか、常より店が混んでいた。
 
 帰りにサイゼリアに寄る。
 イタメシ&ワイン好きのソルティは、たまにサイゼに行くのを楽しみにしている。
 最近(といっても、これも3ヶ月ぶりなのだが)、よく注文する料理は、昨年7月からメニューに登場したフリウリ風フリコである。
 フリコとは、イタリア北東部にあるフリウリ地方の郷土料理で、マッシュポテトとチーズを使ったイタリア風おやきである。マカロニとホワイトソースを抜いたグラタンみたいな感じか。赤ワインによく合う。
 これだけだと野菜が少ないので、ほうれん草のソテーを一緒に注文し、ミックスする。

 
IMG_20200307_161949


IMG_20200307_162049
二皿合わせて657キロカロリー、税別600円程度

 
 サイゼの女性店員さんは、松葉杖を突いたソルティを見て、「ドリンクバーの近くの席にいたしましょうか?」と案内してくれた。
 こまやかな気遣いがうれしい。

 この3ヶ月、松葉杖のおかげで、なにかと親切にしてもらうことが多かった。
 なんだか手放すのが惜しい気がするこの頃である。



● 魚ッ ‼ 本:『かわら版で読み解く 江戸の大事件』(森田健司著)

2015年彩図社
 
 日本が誇るスピリチュアル冒険野郎、モリケンこと森田健の本でも借りようかと検索したら、この本が出てきた。
 著者の森田健は、1974年神戸生まれの思想史学者。石門心学で知られる(?)石田梅岩の本を書いている。
 面白そうなので、借りてみた。

IMG_20200310_133009

 かわら版は、江戸のタブロイド紙であり、ワイドショーでもある。情報の正確さより速報性と面白さ。そこには、現代人が知っている江戸とは一味違う、エキサイティングな世界がある。

 かわら版は、当時の人々がどのようなことに笑い、泣き、興奮したのかを、今に伝えてくれる。名もなき人々の心を知る手掛かりが、そこにはある。

 売れてなんぼの世界なので(一枚4文=40円程度)、とにかく人々の好奇心をかき立てるテーマが取り上げられ、奇抜で大げさな絵とともに、尾ひれ腹びれつけて、吹聴されたわけである。
 各地で妖怪出現の怪異、畑から金の延べ棒発見などの仰天ニュース、大火事や大地震や浅間山噴火などの天災地異、花形歌舞伎役者の動向(さしずめ現代の芸能ニュース)、江戸庶民が喝采落涙した敵討ちストーリー、忠臣蔵・大塩平八郎の乱・黒船来航・倒幕といった歴史的大事件・・・・・等々、今読んでも非常に興味深く、面白いものばかり。

IMG_20200307_161744
越中国(今の富山県)に出現した人魚
全長三尺五寸(約10メートル)
アンデルセンが・・・


 著者が述べているように、かわら版に取り上げられるネタの種類や、その取り上げ方、つまり筆致や画風から、江戸の人々のキャラが垣間見られる。
 子どものように単純で喜怒哀楽ゆたか、楽天的でのんき、好奇心旺盛で行動的、商魂たくましく抜け目ない。(なんかモリケンみたい?)
 特筆すべきは、ユーモア感覚と諧謔精神である。
 
 江戸時代には麻疹(はしか)が数十年おきに大流行した。
 むろん、現代のようなワクチンや抗生物質はない。1862年の大流行では江戸だけでなんと24万人が亡くなったという。(当時の江戸の人口は100万と言われる)
 そのときに発行されたのが、以下のかわら版である。


IMG_20200310_133248 
 

 これは見立番付と呼ばれるもので、相撲の番付表に見立てて、さまざまな事象を「東西」に分けてランキングする趣向。
 神社仏閣番付、温泉番付、仇討ち番付、茶屋娘番付、バカ番付・・・・・いろいろあったらしい。
 
 ここに紹介するかわら版は、タイトルに「為麻疹」と記された見立番付である。内容は3段に分かれていて、1段目は、右側に「あたりの方」、左側に「はづれの方」と書かれている。主にこの部分が、番付のパロディとなっているわけある。
 「あたりの方」は、麻疹大流行で儲けたり、需要が高まったりしたもののリストだ。そこには、薬屋、医者に籠屋、それに沢庵に黒豆に干瓢(かんぴょう)など。「はづれの方」はそれらの逆で、人気の落ちたものたちである。例えば、女郎屋に芸者、舟宿、加えて天ぷら屋、寿司屋などが書かれている。(ゴチックはソルティ付す)

 コロナウイルス騒動のいま、これをやるマスコミがいたら、炎上&袋叩きはまぬがれまい。
 ちなみに、3段目の絵の右側の編み笠をかぶった男が、「読売」と呼ばれたかわら版売り。笑顔で金を払う客を挟んだ左側の男が、魚や青物を売る「棒手振り」。どちらが「あたりの方」かは言うまでもない。かわら版の作者&販売者は、自分たちをも揶揄しているのだ。

 江戸の人々から見たら、現代日本人は「無粋」の極み、あるいは一億総ノイローゼ患者のように思えるかもしれない。
 この違いを作っている大きな要因の一つは、たぶん、死との距離感であろう。
 

 
おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





 

● ほすぴたる記 その後16 ああ、上野駅!(事故後100日)

 今日は担当医による診察日だった。
 病院の空き加減がはなはだしい。
 とくに整形外科の待合室の椅子はいつもの半分も埋まっていない。
 それほど必要もないのに来院していた高齢者が多かったってことか。

 視診もレントゲン結果も異常なし。
 今後は月一回の診察でよいらしい。
 「いまコロナで外来リハはやってないけれど、自主リハで頑張ってください」と先生。
 頑張りますとも。

 松葉杖なしでもかなり安定して歩けるようになった。
 が、杖なしだとケガをした左足は楽に流されて、足裏全体をべったりと地面につけてのガニ股歩きになってしまう。
 踵から先にまっすぐ地面につけて、最後はつま先で蹴る、正しい歩き方ができない。
 癖がついたらまずいので、もう少し松葉杖を使った矯正が必要だ。
 
 とにかく、左足一本での爪先立ちがまったくできないのである。(両足ならできる)
 「踵をやった人は爪先立ちができなくなることが多いですね」と、いつぞやリハビリスタッフが言った。
 「そうか、じゃあ、もうバレエはあきらめるか」
 「右足でならグランフェッティ(回転)できますよ」
 などと冗談を言って笑っていられたのは、片足だけで爪先立ちするシチュエイションなど日常にはないだろう、と思っていたからであった。

 なんと浅はかな!

 片足で爪先立ちができないってのは、走れないってことなのだ。
 わたし、もう走れないの?!
 その昔の大映ドラマ『赤い衝撃』の山口百恵のブルマに赤いハチマキ姿(スプリンター大山友子役)が浮かんだ。
 走れ! 俺のウサギ!(by 中条静夫)

爪先立ち

 
 爪先立ちの訓練を開始した。
 一番いいレッスンはバレエでなくて、浮力が利用できる水の中でのリハビリ、つまり水中ウォーキングだと思う。
 が、この時節スポーツジムに行ったものかどうか・・・。
 散歩の途中、会員証を持っている近所のスポーツジムをガラス越しにのぞくと、トレーニングルームは見事に閑古鳥が鳴いていた。
 一番近くの人との距離が3メートルくらいの人口密度の低さ。
 これならかえって安全かも・・・?
 
 午後は用事で都心に出かけた。
 山手線に乗るのは3ヶ月以上ぶりである。
 正午にJR上野駅に到着し、エレベータで構内に上がったら、衝撃的な光景が目の前にあった。

 上野駅が空いている!
 

 早朝や深夜はともかく、昼日中、こんなに閑散とした上野駅を観たのは、半世紀以上生きてはじめてであった。
 上野公園の博物館、美術館、動物園、科学館、軒並み休館。
 アメ横から中国人はじめ外国人の姿消えて。
  
 それでも桜は咲くだろう。


上野公園花見
上野公園






● だれもが当事者

たぶん40歳以下の人は知らないだろうが、今から30年以上前にエイズパニックというものがあった。
日本はもちろん、世界中で。

80年代初頭アメリカで、免疫力が次第に損なわれて死に至る奇病が、ゲイの間で蔓延した。
まもなく、原因はHIV(ヒト免疫不全ウイルス)であると判明し、AIDS(後天性免疫不全症候群)と名付けられた。
1985年に日本人第1号患者の報道があった。アメリカ在住のゲイの男性だった。

ここまでは対岸の火事。

1987年、神戸で日本人女性の感染が報告された。
そこからのパニックが凄まじかった。
マスコミはこの女性の氏名・住所をつきとめて顔写真入りで公開した。
風俗に勤めているというデマが広がった結果、歓楽街が空になった。
この女性が外国人と付き合っていたという噂が独り歩きし、その後に松本で起きたフィリピン人女性の感染報道と相まって、各地で外国人入店拒否などの差別が起こった。
検査所に身に覚えある男達が殺到した。
ノイローゼとなったある弁護士は、検査結果を待たずに自殺した。(結果陰性だった)


エイズパニック記事(神戸)
昭和62年1月18日のサンケイ新聞(当時)朝刊


感染者に対する差別は酷いものであった。
診療拒否、病院たらい回し、解雇、内定取り消し、入居拒否、さまざまなレベルのプライヴァシー破壊・・・・・。家族もまた差別された。
ソルティは、当時の様子を調べるため、関東地方のある大病院を取材したことがある。
その際、担当者は言った。
「最初にウチに入院した患者が亡くなったあと、彼が使っていたベッドを焼却しました」
パニックになると、科学的事実など簡単に吹っ飛ぶものだと痛感した。

HIVは当初、ゲイと血友病患者と風俗で働く(遊ぶ)人の特有の病と思われていた。
「不特定多数の相手とのセックスは避けましょう」と盛んに言われた。
そこに当てはまらない人間にとっては、当事者性が低い。
「血友病患者をのぞけば、性的にふしだらな人間がかかる病でしょう?」とみなされた結果、感染者は倫理的に断罪され、それが差別を助長した。

感染者と分かると差別されると知って、こんどは検査を受ける人が激減した。
「どうせ陽性と分かったところで治療法はないし、八分されるだけでしょう? なら、このまま何も知らずに、いままで通りの生活を続けるよ」
感染拡大防止の観点から、これがもっとも怖い展開なのは言うまでもない。
(※現在、HIVには何種類もの薬がある。血液中のウイルスを検出限度以下まで減らし、AIDS発病を抑制できる。相手に感染させるリスクもほぼゼロになる)

コロナウイルス


新型コロナウイルスは、人と関わって社会生活を送る人間ならば、だれでも感染しうる。
感染者に対する差別は、いずれ差別した当人にそのまま降りかかってくる。
倫理も、貧富の差も、地位も、職業も、性別も、セクシュアリティも、性行動も、国籍も、人種も、年齢も、関係ない。
大統領も、世界的スターも、政治家も、官僚も、医者も、金持ちも、宗教家も、そうでない人々と同じ俎上に上げられる。

だれもが当事者。
それが今回のウイルス騒動の特徴であろう。




 

● 弁証法的権力とウイルス禍 本:『オイディプス症候群』(笠井潔著)

2002年光文社
2006年カッパ・ノベルズ

IMG_20200326_012918


 『8・15と3・11 戦後史の死角』、『サマー・アポリカプス』に次いで、3度目の笠井ワールド探訪。

 小口の厚さ40ミリ、二段組で700ページを超える大作ミステリー、といったことを差し引いても、この本を読むのはちょっと覚悟がいる。
 ギリシア神話、監獄論、性愛論、現象学・・・・等々、ミステリーの解決とはさほど関係のない学術的な話が無駄に多い、つまり衒学的なのである。
 同じ衒学ミステリー作家であるヴァン・ダインや京極夏彦と比べても、笠井のミステリーは、より難解で饒舌で哲学的である。
 そこが読者を選ぶゆえんであり、また、熱狂的な読者を持つゆえんでもあろう。

 たとえば、この小説の登場人物たちがひけらかす煩わしい蘊蓄をすべてとっぱらって推理小説の骨子のみ残すとしたら、ミステリーとしてはかなりつらいものであることが明らかになるだろう。
 プロットや推理には杜撰な点が多く、突っ込みどころ満載なのである。

 一例を挙げよう。

 この小説(連続殺人事件)の舞台となるのは、ギリシアのクレタ島付近に浮かぶミノタウロス島という架空の島である。
 ミノタウロスと言えば、古代ミノアの王妃パシパエと牡牛の間にできた牛頭人身の怪物である。
 ギリシア神話では、父王ミノスにより迷宮に閉じ込められ、年ごとに少年少女7人ずつの生贄を要求する。

 その伝説が色濃く残る島をアメリカの製薬会社の大富豪が購入し、古代ミノアの王宮を模した豪壮な別荘を建てた。
 この孤島の館に招かれた10人の男女が次々と謎の死を遂げていく。
 要はクリスティ『そして誰もいなくなった』のパロディである。
 登場人物たちは、「次の犠牲者は自分かもしれない」と脅えながら、犯人と犯行方法について推理合戦を繰り広げる。生き残っている者の中に真犯人がいる前提で、互いが互いを疑いながら・・・・・。
 殺害の一つは館内の密室で行われており、そこから遺体が消失するという謎も含まれる。
 四方を海に囲まれた離れ小島の中の閉ざされた部屋、という二重の密室である。
 
 この状況設定から、本格推理小説の定石として、読者が当然有りうべきことと考え、登場する素人探偵たちに最初に検討してほしいと願うのは、館に仕込まれている迷宮の存在であろう。
 迷宮が存在するのなら、なにも容疑者を館に招かれた10人だけに絞る必要はない。
 もとから島内にいて迷宮に潜んでいる者がいてもおかしくはない。
 密室殺人も、「実は部屋の中に迷宮への隠し扉があった」で簡単に解決してしまう。
 迷宮の有無の検討と調査は、合理的な推理を展開しようと思うならば、探偵たちにとって必須の手続きとなるはずである。
 ところが、登場人物たちの誰一人も、迷宮の存在について思いつく様子もなく、口にもしない。
 これはあまりにも不自然である。
 最終的には、館に迷宮が存在することが明らかとなり、真犯人はまさに迷宮に潜んでいた招待客以外の人物なのであるから、「なんて頭の回らぬ探偵たちだ・・・」と、読み手はあきれざるをえない。
 プロット自体に不自然を感じる。
 『サマー・アポリカス』でも思ったが、笠井は推理小説としての整合性やリアリティにさほど拘っていないように思われる。

ミノタウロス
ミノタウロス


 しかしながら、この推理小説としての杜撰さが欠点と思えないところに、まさに笠井ミステリーの真骨頂がある。
 その秘密がつまり、衒学による目くらましなのである。
 読み手は、幅広い分野における圧倒的な量の知識と、それを支える著者の深い教養、そして哲学性に降伏してしまう。
 それも、ヴァン・ダインのように、ただ単に知識をひけらかしてページを稼いでいるのとは違う。
 評論家でもある笠井の、自らの人生経験に裏打ちされ、思考によって鍛え抜かれた社会哲学が、作品の基調となっているのである。
 その意味で、衒学による目くらましという表現は当たっていない。
 むしろ、ミステリーの体裁を借りた哲学書というべきかもしれない。
 
 そしてまた、「杜撰=つまらない」でないことを、笠井ミステリーは教えてくれる。
 単純に、すごく面白いのだ。
 天才的着想、卓抜な構成力、興味をそそる謎の提供、素人探偵と一緒に推理ゲームに参加する愉しみ、姿恰好が目に浮かぶようなキャラクター描写、巧みな伏線の配置と意外な結末、重厚感・・・・・。
 多少のアラは大目に見てしまわざるを得ない魅力にあふれている。
 
 着想の天才性という点でソルティが唸らされた点を挙げる。

 ここで言うオイディプス症候群とは、ずばり後天性免疫症候群(エイズ)のことである。
 この小説は、エイズ=HIVが「謎の奇病」として世界に出現して間もない時代を背景としている。

 HIVの感染経路は3つ――血液感染、性行為感染、母子感染である。
 当時、血液感染の中で特に問題となったのは、輸血に用いられる血液製剤の中にHIVが混入し、それにより多くの血友病患者がHIV感染し、エイズを発症して亡くなった事件であった。
 日本では薬害エイズ事件として知られるが、世界各地で製薬企業や厚生行政や血友病専門医の無作為責任が問われる裁判が起きた。
 一方、性行為感染では、男性同性愛者間でのHIV感染が顕著であり、70年代を通じて高まる一方だったゲイリブの気運の中で、性の自由を謳歌していたゲイコミュニティを直撃した。
 この『オイディプス症候群』では、初期のエイズ事情を語るに欠かせない、まさに二つのトピック――血液製剤とゲイセックス――を、一連の殺人事件の動機を構成する要素として取り上げ、見事に融合させている。
 しかも、息子を殺された一家族の復讐劇と、HIVを社会転覆の武器として利用するテロリストの陰謀、というレベルの異なる二つの事象を、齟齬することなく並べて物語ることに成功している。
 この着想と構成力、そして筆力には脱帽するほかない。

 読んでいて思わず手が止まった箇所がある。
 カッパ・ノベルズ版の624ページ。
 
 『弁証法的権力と死』を読んだきみには説明するまでもないことだと思うけど、世界の未来は暗澹としている。反対者や批判者の存在までも否定的契機として内部化し、際限なく膨張し続ける弁証法的権力に世界は遠からず完全に呑みこまれてしまうんだから。
 弁証法的権力とは闘うことができない。批判すれば批判するほど、闘えば闘うほど、歴史の終点である完璧な権力の膨張と普遍化を助けてしまうんだから。屈服しても闘争しても結果は同じなんだ。しかしIVは、自己運動する完璧な権力がはじめて直面する異様きわまりない敵だ。IVは闘わない。システムの内部に潜入しシステムが自滅するように仕向けるだけだ。社会にたいしてIVの流行が果たす役割と、生体においてIVが果たす役割には並行性がある。IVに感染してはじめて僕は、弁証法的権力を内側から食い荒らし、ぼろぼろにしてしまう素晴らしい武器を手にすることができたんだ。

 IVとあるのは、オイディプス症候群を引き起こすウイルスにつけられた名前であり、つまりHIV(ヒト免疫不全ウイルス)に当たる。
 このセリフの主は、自身IV感染者であり、オイディプス症候群の蔓延による社会混乱と国家権力崩壊を企図するテロリストである。
 彼はそのために、相手選ばずの無軌道なセックスを繰り返す。ミノタウロス島で起こる一連の殺人事件の真犯人(の一人)でもある。 
 
 「弁証法的権力」の説明から読み手が連想するのは、まさに現在の安倍自民党政権であり、その権力の徹底された先に登場しうる中国のような独裁政権による管理社会であろう。右も左も関係ない。
 あたかも笠井は、この小説が書かれた2002年の段階(時の首相は小泉純一郎)で、今の日本の政治状況を予言していたかのようである。
 
 ただし、このテロリストが企図したように、HIVが弁証法的権力を「内側から食い荒らし、ぼろぼろにしてしまう」武器として働いたかと言えば、HIV登場約40年後の現在の世界状況からして、「そんなことはなかった」と結論せざるを得ない。
 幸か不幸か、HIVは既存の権力構造に致命的な打撃を与えなかった。(少なくとも、今のところ)
 一つには、HIVが先進国では薬によって抑えられて、エイズが慢性病の一種となったがゆえに。
 一つには、HIVが先進国ではほぼ性行為でしか感染せず、それは様々な手段で予防できるがゆえに。
 一つには、途上国でのHIV流行はメガ・ファーマーと呼ばれる巨大製薬企業の莫大な利益を生むチャンスをつくり、グローバル資本主義に拍車をかける結果となったがゆえに。
 また、我が国に限って言えば、HIV拡大防止というもっともな名目で、純潔教育のような特定の倫理を標榜する保守団体と結びつく形で、国家権力による個人の性行動への介入と統制を許してしまったがゆえに。 
 自由を求める大衆の力の源泉となる性のエネルギーを、国家が管理統制する道を開いてしまったのではないか――というのが、過去20年以上HIVに関する市民活動に携わってきたソルティの偽らざる実感である。
 わかりやすい例で言えば、学校現場における性教育の後退やジャンダーフリー・バッシング、それに浮気した家庭持ちのタレントに対するいじめまがいの制裁である。


迷路


 そしていま、新型コロナウイルス登場である。
 現段階で予想して、新型コロナウイルスの社会的影響の大きさは、HIVのそれを凌駕していくのではないかと思われる。
 ソルティは安倍政権の終焉をこそ望むけれど、むろんテロには反対である。
 このコロナウイルス騒ぎが一刻も早く終息することを望んでいる。
 ただ、誰もが当事者とならざるをえないこのウイルスの流行が、どんな社会構造の変化を地球レベルでもたらすことになるのか、人々の意識や行動にどのような影響を及ぼすのか、気になるところではある。




おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損








 

● ほすぴたる記 その後 17 杖替わり(事故後120日)

片松葉杖からT字ステッキに昇進(?)した。
松葉杖みたいに一歩進むごとに地面に杖先を突かなくてもよいので、歩くスピードが増した。
時速2キロから3キロくらいに上がっただろうか?
だが、長く歩くと足首が痛んでくる。
大方15分歩くと、ペースダウンせざるをえない。

仕事もぼちぼち復帰しつつある。
が、一日シフトに入った翌日は、疲れて家で半日寝ている始末。
3ヶ月をこえる休暇で、体力や筋力がガクンと落ちてしまった。
4月はリハビリを兼ねるつもりで、週3回の日勤でシフトを組んでもらった。
大丈夫だろうか?

この足はどこまで元通りに戻るのか?
介護の仕事が今後も続けられるのか?
施設にコロナが入ってきたらどうなってしまうか?
いや、自分がどこかで感染し、同居の両親や施設の入居者にうつしてしまうんじゃないか?
・・・・・・・・

いろいろ考えると気が滅入る。
ソルティはどちらかと言えば、最悪の事態を想定しておいて先回りして準備し、あとから、「そうならなくて良かった!」と安心を得るタイプなのである。
つまり、気苦労が多い。


天気が良いので数日ぶりに散歩に出かけ、いつもの公園でアーシング瞑想した。
風は結構強いが、陽射しはあたたかく、気持ちよい。
40分ほど瞑想し、心と体が落ち着いた。

ふと目を上げると、木々がすっかり芽吹いていた。
――芽吹いているのに気づいた。

IMG_20200403_151108


そう、桜が散れば、木の芽時なのだ。
今年の花見は、地元のささやかな名所に足を運んだくらい。
半世紀前に卒業した幼稚園のそばの桜並木である。
自分が入園していた頃にこの桜の木があったかどうか、覚えていない。
桜を美しく感じられるのが、大人になった証拠なのだろうか?


IMG_20200326_154123


公園からの帰り道、軒先に可愛い花が咲いていた。
――咲いているのに気づいた。
まったくありふれた、いつもの春の野の花だ。

IMG_20200403_150831


IMG_20200403_150923


歩くのが速くなると、見逃してしまうものが多くなる。
コロナに気を取られると、春の訪れにも気づかない。





 

● 退会届、あるいはベーシック・インカム再考

 昨日、会員になっていたスポーツクラブを退会した。
 むろん、コロナのためである。
 
 昨年9月に入会したので、まだ7ヶ月ほどしか経っておらず、うち4ヶ月は足のケガで通えなかった。
 正味3ヶ月である。
 なのに、退会届を出すにあたって、ずいぶんと迷いあぐね、踏ん切りがつかず、度胸が要った。
 
 毎月8日が各種届の締切り日なので、この日を過ぎると翌月分も会員料金を取られる。
 銀行から自動的に引き落とされてしまう。
 4月分はすでに払い済みだが、5月分を払わずに済ませるためには、昨日が期限だった。
 
 骨折した足がある程度治ったところで、水中ウォーキングや筋トレマシーンでリハビリしたかった。
 だから、ここ4ヶ月はクラブに通えないにもかかわらず、毎月7000円の会員料金を納入してきたのである。
 
 今さら言うまでもないが、コロナ騒動でスポーツクラブ関連は甚大な被害を受けている。
 館内消毒を徹底する、定期的に換気する、プログラムを練り直して利用者の密集を防ぐ等々、クラブ側もいろいろと努力を重ねているのが、公式サイトから伺える。
 が、散歩の途中に窓の外から筋トレルームを覗くと、片手で数えられるほどしか利用者がいなくて、平素は隙間なく埋まっている専用駐輪場も櫛の歯が欠けたような有様。
 大丈夫だろうか?
 いつまで持ちこたえるだろうか?
 
 杖なしでも歩けるようになってきたので、本当ならそろそろクラブ復帰したかった。
 空いている夜のプールで歩行を楽しみ、トレーニングルームでヨガをしたかった。
 ミストサウナでぼーっとして、広いお風呂場でくつろぎたかった。
 思いっきり体を動かして汗をかいて、ぐっすり眠って、ストレス発散したかった。

IMG_20190924_192210

 
 もし、自分が高齢者や病人と関りを持つ介護の仕事をしていなかったならば、あるいは、80代の両親と一緒に暮らしていなかったならば、そのままクラブ会員であり続け、週3回通うであろう。
 おばさま会員のように、運動が終わってからロッカールームやサウナで長時間ぺちゃくちゃ喋るわけじゃないし、自分のメイン目的であるプールは塩素消毒が効いているから、コロナに感染する確率は低いと思う。
 満員電車での通勤のほうが、よっぽど危なかろう。
 とは言え、今は自分を守るためというより、他人を守るために、少しでもリスクある行動は控えなければなるまい。
 
 もし、3ヶ月後にコロナが終息すると分かっているならば、会員であり続けるかもしれない。
 その間お金はもったいないけれど、3ヶ月分くらいならば、クラブの経営を支えるために、クラブで働くスタッフの生活を支えるために、払い続けるのは惜しくない。
 つぶれてはこちらとしても困るのだ。
 
 そう、スタッフたちの生活・・・・。
 それを思うと、簡単に退会届を出せない自分がいる。
 彼らの失職に拍車をかける行為と思えば、心安からずである。
 
 一斉休校要請が出た3月半ばから「退会」という言葉が頭をかすめ、踏ん切りのつかないまま、昨日8日の期限を迎えてしまった。
 家を出てクラブに向かう途中も、クラブの入口の前のベンチでも、逡巡し続けた。
 運動を終え、はつらつとした表情の、肝の座った(?)利用者らが、三々五々出てくる。
 やっぱり、少ない。
 最盛期の5分の1くらいか?
 「ここまで利用者が減ったら、もう休館は時間の問題だろう・・・」
 そう思って、受付に向かった。
 
 退会手続きを取っている間も、人はやって来て、退会を申し出ている。
 やはり、皆ぎりぎりまで迷っていたのだろう。
 ソルティのように最近通い始めたのとは違い、何年も通い続け、日課となっている人も多い。
 スタッフと顔見知りになり、若い彼らとの交流こそが楽しみで来ている高齢者も少なくない。
 
 ここ数ヶ月ですっかり慣れたのだろう。
 担当スタッフは、淡々と事務的に、丁寧に、暗い顔ひとつ見せず、手続きを取ってくれた。
 「コロナが終息したら、また来てくださいね」
 
 こんなふうに、仕事の場がどんどん失われていっている。
 コロナ拡大防止のためには外出自粛も致し方ないけれど、失職した人たちへの補償をしっかりやってほしいものだ。
 失職した人々が失業保険申請のためにハローワークに駆け付ければ、感染拡大リスクが高まる。
 いっそ、スペイン政府のように、ベーシック・インカム(最低所得保障制度)を検討してはどうかと思う。

ウミガメ
また会う日まで





● 危機意識のグラディ―ション

 通勤途中、山手線駅の構内ですれ違った男(30代)は、透明のプラスチックの顔面シールドをつけていた。むろん、その下はマスクである。
 髪の毛を完全に覆い隠すナイロン製の帽子、表地がナイロン100%のジャージの上下、ビニール製の防水ブーツ、そしてやはりナイロン100%の手袋をつけていた。
 つまり、素肌がほとんど大気に晒されていない。
 その徹底ぶりに驚いた。
 
コロナ防御

 
 今、つくづく感じるのは、新型コロナウイルスに対する危機意識が、人によってずいぶん差があるということである。
 メディアで見聞きする限りでも、ゴルフ場に堂々と出かけてプレイ後は混雑したレストランで鯨飲放談する親父たち、風俗に行く国会議員、地元商店街の人混みに繰り出す一家、繁華街の人気ショップに行列する若者たち・・・・といった危機意識の低い、“楽観的な”一群がいる。
 
 一方で、上記の完全防御男のように、高い危機意識を示す者がいる。
 彼の場合、おそらく外出せざるを得ない事情があり、身を守るために考えられる最大の措置として、あのような恰好になったのであろう。本心は家に引きこもっていたいに違いない。
 本当に家から一歩も出ないで、通販や出前やUber Eats(ウーバーイーツ)等の宅配を利用して過ごしている人もいるだろう。
 危機意識が過度になると、「コロナ感染が怖くて、ノイローゼになって自殺」みたいな、パラドキシカルな例も見受けられる。
 
 ソルティはその昔、エイズの電話相談に関わっていたことがあるが、実際、エイズノイローゼになった人は、間に5分と置かずコールしてくる。
 それも、本当に性行為があって感染の可能性があるのならともかく、「公衆トイレのドアのノブを触ったらベタベタしていた(気がする)」とか、「ジョギングで擦れ違った男の息が、自分の顔にかかった(気がする)」とか、「病院の待合室で蚊に刺された(気がする)」とか、HIV感染の可能性のまったくない事柄について心配している。
 「心配なのは、HIV感染でなくて、あなたの精神状態のほう。むしろ、感染してしまったほうが精神的にはラクだろうに・・・」――と思いながら、日に何十回と繰り返される話に、いい加減辟易しつつ、付き合っていたのを思い出す。
 
 まあ、ここまで極端でなくとも、大概の人は現在、それぞれなりに危機意識を持ちながら、日々過ごしているはずである。
 人によって危機意識の高低がある、言い換えれば危機意識のグラディ―ションが生じるのは、当然と言えば当然である。
 
  • これまでの体験の違い(たとえば、エイズパニックを経験しているか否か、インフルエンザに罹ったことがあるか否か、戦争や自然災害を経験しているか否か・・・等)
  • 想像力の多少(たとえば、今後起こりうる事態をどこまで頭の中で描けるか)
  • 気質の違い(楽観的 or 悲観的? 現実逃避的 or 現実直視的? 強気 or 弱気?)
  • 体力や健康に対する自信
  • 信仰(たとえば、「神が守ってくれるから大丈夫」とか、「悪いことを考えると現実化するから、考えない方がいい」というスピリチュアル的妄想)
 こういったことが、危機意識の差をつくる要因として考えられるだろう。
 
 ソルティは、かなり危機意識の高い方だと思うが、それは、
  • 以前働いていた介護施設で、ノロウイルスやインフルエンザの蔓延を経験し、ウイルスの恐ろしさや次々と利用者やスタッフが倒れていく修羅場を見ている
  • 最悪の事態を想像して覚悟する気質(あるいはネガティブ志向
  • 加齢による体力や健康への不安(足の骨折もあり)
  • 現政権に対するどうしようもない不信
 といったあたりが、その大きな背景を成す。
 
 そしてまた、今回、ひとつ気づいたことがある。
 
 ソルティは足のケガのため、4ヶ月近く仕事(介護施設)を休んでいた。
 その間に、新型コロナウイルスは発生し、ダイヤモンド・プリンセス騒動の一部始終を家や入院先のテレビで見て、このウイルスの特性について専門家が語るのを聞き、国内に感染者がぽつぽつと増えていく様を眺めていた。
 相当にやばい状況だと感じた。
 「医療崩壊」はまだ叫ばれていないときであったが、むしろ、その先に来るであろう「介護崩壊」を想定し、ぞっとした。
 なにかしら持病を持つ高齢者ばかりが密集し、仕事の性質上「濃厚接触」が避けられない介護施設に、ひとたびコロナウイルスが侵入したら、ひとたまりもない。
 職員がやられたら、介護する人間がいなくなる。
 先んじて来るであろう医療崩壊で救急搬送や入院ももはや不可能。
 想像するだに恐ろしい光景が頭に浮かんだ。
 ・・・・・・・。

 松葉杖を卒業し、今月より職場復帰した。
 そして、すぐに職場の人間と自分との危機意識の違いに驚かされた。
 あまりにも生ぬるい感染症対策がそこにあった!
 
 ソルティにしてみれば、いったいなんで他のスタッフがこんなに楽観的でいられるのか、不思議で仕方なかった。不思議で仕方ない。
 アメリカやイタリアの介護施設で起こっていることが、目の前に迫っているのに!
 「自分だけは大丈夫、自分のいる職場だけは大丈夫」と思うのだろうか?
 それとも、ソルティが特別で、ひとりネガティヴ志向なのだろうか?

 
コアラ
コアラはストレスに弱い

 
 ところが、である。
 職場復帰して半月もたつと、次第に自分の危機意識が薄れてくるのを感じたのである。
 「なんだ。ちょっと自分、大げさに考え過ぎたかな?」と思ったりしている。
 なぜそうなってしまうのか?
 自己分析してみた。
 
 ここまで市中感染が広がれば、ある一日にコロナウイルスに感染する可能性は、「感染する or しない」の1/2である。
 どの日も同じ1/2である。
 相当に高い。
 ところが、丸一日感染せずに過ごせた「今日」を手に入れると、そのあくる日には、無事乗り越えた「昨日」を安全の証拠として採用してしまうのである。
 「昨日と同じことをしている限り、感染はしない」と勘違いしてしまうのだ。
 すると、1/2の感染リスクが目減りする。
 無事の日々が積み重なるほどに、想像上のリスクが減っていき、現実にある1/2リスクが軽視されていく。
 「自分だけは大丈夫なんじゃないか。ここだけは免れるんじゃないか」
 という根拠のない楽観に次第に身を任せていくようになる。
 
 人には恒常性の維持(ホメオシタシス)という機能が備わっている。
 環境が変化しても体の状態を一定に保とうとする働きである。
 それと同様、心にも「恒常性の維持」が備わっているのではなかろうか?
 心の状態を一定に保とうとする働きが、感染リスクを過小評価させるのではなかろうか?

 日常性に潜んでいる罠というべきか。



  

● 淀川さん! 映画:『大地のうた』(サタジット・レイ監督)

1955年インド
125分、白黒

 借りてきたDVDの冒頭には、著名な映画評論家であった淀川長治さんの解説が入っていた。
 あの人懐っこい笑顔と人を引きつける語り口、無性に懐かしかった。
 むろん、『大地のうた』は淀川さん大絶賛の名作である。

 いまの自粛=インドア中心生活の良いところは、これまでなかなか読む機会のなかった重厚あるいは長大な本や、観る機会のなかった昔の名作映画を、じっくり味わえることだろう。
 いや、機会はつくれたのだけれど、他のより軽い娯楽作品やら外出の魅力に負けて、「いずれそのうち」と後回しになっていたのである。

 コロナのおかげで、社会の化けの皮がはがれていくような気さえする昨今、より本質的なもの=「生」の根本に立ち戻ってみたいという気持ちが強まる。
 となると、やはり古典に如くはない。
 そしてまた、ソルティにとって、「生」の根本を教えてくれる場所があるとしたら、二十歳の時にはじめて旅行したインドを措いてない。

インドの牛


 『大地のうた』は、インドのある農村に暮らす貧しい一家を描いたサタジット・レイの監督デビュー作である。
 一家の一人息子オプを主人公とした『大河のうた』、『大樹のうた』で3部作を成す。
 やっと、この伝説的名作を見る機会が訪れた。

 自然に囲まれ、家畜が跳ね回るあばら家で、人は生まれ、遊び、飲み食いし、飢え、学び育ち、愛と怒りの間を行き来し、希望と絶望の間を揺らぎ、自然に襲われ、病み、老い、そして死ぬ。
 ここに描かれるのは、まさに「生」の根本である。
 その厳しさ。
 そのはかなさ。
 その圧倒的美しさ。

 いま、まさに観るべき映画。 
 タイミングは間違っていない。



おすすめ度 : ★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損






● 映画:『マロボーン家の掟』(セルヒオ・G・サンチェス監督)

2017年スペイン、アメリカ
110分

 悲惨な過去を持つ4人兄妹を描くサスペンスホラー。
 美しい映像や野外ロケーションは素晴らしいが、ストーリーは今一つ。
 
 ホラー映画を観終わった後は、日常に戻って緊張が和らぐのが常なのだが、今回、停止ボタンを押したあとに立ち帰った日常は、映画の中身以上にサスペンスとホラーが持続する、非日常のコロナ世界であった。
 こんなことは、長い映画オタク人生でもはじめて。

 平凡で安全な日常があってはじめて、ホラー映画は真価を発揮するとつくづく知った。



おすすめ度 : ★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 映画:『第七の封印』(イングマール・ベルイマン監督)

1957年スウェーデン
96分、白黒

 いま、アルベール・カミュの小説『ペスト』が売れているらしいが、スウェーデンの巨匠ベルイマン(1918 - 2007)による本作もまた、ペスト(黒死病)が主要モチーフとなっている。
 ペスト流行禍における人間の姿と信仰を描いた映画なのである。

 時は中世。十字軍遠征から帰還した騎士アントニウスと従者が見たのは、ペストに襲われる郷土の惨状であった。
 自らの城への帰路の途上、アントニウスは死の恐怖におびえる様々な人々と出会い、神への信仰が揺らぐ。
 そして、彼にもまた死神の手が迫る。

死神とのチェス
死神とのチェス


 14世紀にペストが猖獗を極めたという。
 
 全世界でおよそ8500万人、当時のヨーロッパ人口の3分の1から3分の2に当たる、約2000万から3000万人が死亡したと推定されている。
 伝播したヨーロッパでは1348年から1420年に大流行した。ヨーロッパの全人口の30%から60%が死亡した。イギリスやイタリアのいくつかの街(都市)や村においては、1348年から1400年の間に、人口の70%から80%が死亡した。
(ウィキペディア「ペスト」より抜粋)

 まったく凄い死者数である。
 人々が、この世の終わりと感じ、天の裁きと嘆いたのも無理はない。
 『第七の封印』というタイトルは、新約聖書のヨハネの黙示録から採られているが、キリスト教社会に生きていた当時の人々は、1000年以上前にヨハネが幻視した世界の終末が、「ついに到来した」と思ったことだろう。

黙示録

 
 格調の高い、印象に強く刻まれる個性的な映像によって、ペストに直面した人々のさまざまな姿が描かれる。
 「どうせ死ぬのだから」と、飲めや唄えやの享楽に溺れる者
 神にすがり、祈り、懺悔し、自らを鞭打つ人々
 神の名において人々を畏怖させ、心を支配する宗教家
 信仰を捨てて泥棒になった神父
 ペストより女房に逃げられたことを嘆く男
 ペストをもたらしたという咎で魔女狩りに遭う若い女性
 家族愛に生きる暢気な大道芸人
 そして、いままさに書き入れ時の死神
 
 騎士アントニウスは、死神としばしの猶予を狙ってチェスの勝負をする。
 「勝負がつくまでは、私のいのちを奪うのを待ってくれ」と。
 ゲーテの『ファウスト』が悪魔と取引をして、「この世でもっとも美しい、価値あるもの」を探す旅に出るように、アントニウスは、「神の存在を、存在するならばその意図を」探る旅に出る。
 ファウストは最終的に、「時よ、とまれ。お前は美しい」と言い得る瞬間をもち、その魂は悪魔の手をすり抜けて、神のもとへと昇天する。
 一方、アントニウスは、家族愛に生きる素朴な芸人一家のうちに癒しと救いを見出すものの、最後には従者や妻ともども死神に連れていかれる。
 神に関する彼の問いは未解決のままである。
 
 『ファウスト』では信じられた神と天国の存在が、『第七の封印』では疑問視されている。
 時代設定からすると、『第七の封印』は『ファウスト』(15世紀くらい)より前の話であるが、テーマ的には「神の死んだ」現代をこそ描いているのであろう。
 
 ファウストもアントニウスも、つまるところ、「この世に生きること」、「この世で起こること」に“意味”を見出したいのだ。
 新型コロナウイルスの出現と、とどまるところ知らない災禍に、現代人が何らかの“意味”を見つけたいと思うように。
 “意味”に対する人間の欲求が、神や神話や罰を、宗教を、生みだすのであろう。
 
 “意味”を問わず、無心に生き、無心に死ねる人こそ、幸いである。
 
 
 
おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




 

● ほすぴたる記 その後18 奇貨 (事故後150日)

 骨折事故から5ヶ月経った。
 
 ここにきて、回復ペースがダウンしているように感じる。
 予定では今月から杖なしでスタスタ歩いているはずなのだが、まだまだ正常な歩行には程遠く、よたよた歩きである。
 いにしえの奴隷か囚人のように、左足首に鉄枷がはめられて鎖を引きずっているかのような重さと締め付け感がある。
 歩行スピードも思ったほど上がっていない。時速3キロくらいか。
 引き続き、T字杖に頼っている。
 
 どうも寝ている間に足首が固まってしまうらしい。
 朝起きて、しばらくの間は左足のギアが入らない。
 ロボットのようにぎこちない動きで立ち上がって、床に足をつけると、左足の外くるぶしの下あたりの筋に痛みが走る。
 日によっての差も大きく、雨の日や仕事で動き回った翌日などは立ち上がるのも億劫だ。
 
 通院リハビリが中止になって2ヶ月経つ。
 やはり、ちゃんとリハビリに通い、プロの手当てと助言を受ける必要を感じる。
 目下、別の整体を探しているところ。

 
IMG_20200506_180547
足のむくみは消えてきた(現在)

IMG_20200212_181426
2月中旬

 
 とはいえ、仕事上の不便をのぞけば、さして困ってはいない。
 「不要・不急の外出自粛」のため、足が良くなったところで、どちらにせよ行動は制限される。
 山登りにも温泉にも、スポーツジムにもコンサートにも、落語にも美術館にも映画館にも、乗り鉄にも、法話を聞きにも行けない。

 ケガをした昨年12月はじめから、好むと好まざるとにかかわらず外出自粛を強いられ、上記の趣味をあきらめてきた。
 基本、家の中で読書や映画鑑賞や瞑想やブログ更新をし、たまに気分転換とリハビリがてら、家の周辺を散歩するという日々が続いていた。
 感覚的にはいまもその延長で来ているに過ぎない。
 むしろ、足が治るにつれて行動範囲が広がり、自由度は増している。
 コロナのせいで自由度が減っていくことを憂える世間の人々と逆行している。
 皮肉なものだ。
 
 人間万事、塞翁が馬。
 いまは、仏法の勉強や瞑想にあてる時間が増えたことを奇貨としている。


IMG_20200423_173643
瞑想の森
 
 





● オン・エア  本 : 『差別と弾圧の事件史』 (筒井功著)


2019年河出書房新社

 在野の民俗研究者である筒井功の新著。
 筒井の本を読むのは、これで10冊目になる。
 もはや立派なツツイスト?
 
IMG_20200527_125821

 
 今回は、日本の近現代史の隅に隠れた12の差別事件のデッサンである。
 うち半分ほどは被差別部落に関わり、残りはアイヌ民族、東北の隠れキリシタン、台湾の原住民であるタイヤル族、貧民集落などである。
  • 皇族来県にあたって、通り道にある貧民集落を警察が焼き払った大分県の的ヶ浜事件(大正11年)
  • 部落解放の手段として行われる糾弾闘争の模範として語り継がれる京都市のオール・ロマンス事件(昭和26年)
 以上2つは以前どこかで読んだことがあり、知っていた。
 それ以外ははじめて知ることばかりで、非常に興味深く、「事実は小説より奇なり」の思いを新たにした。
 とりわけ、
  • 一個人に対する苛烈な糾弾に憤った“一般民”が、近所の部落を集団で襲い報復した群馬県の世良田村事件(大正14年)
  • 関東大震災直後、香川県から来た行商たちが“朝鮮人”と間違われて地域民に虐殺された千葉県の福田村事件(大正12年)
  • 日本の植民地下にあった台湾で、苛酷な支配と侮蔑に憤った原住民タイヤル族が起こした霧社事件(昭和5年)
 以上3つは、その暴力の凄まじさや残虐さや被害の甚大さで衝撃的であった。
 
 これらの事件を描写する著者のスタンスは、必ずしも当事者(=被差別者)べったりではない。
 差別や弾圧に声高に怒りの声を上げるでもなし、差別する側を非難するでもなし、差別される側に同情し肩入れするでもない。
 あくまで中庸なのである。
 残された資料や証言によって分かった事実を、淡々と客観的に、だが事務的にも能面的にも学究的にもならず、描き出している。
 一番最近の事件でもすでに半世紀以上前のことで、ある程度風化され、事件当時の熱や生々しさを失っているということもあろうが、他の著書でも見られるこの“一歩引いたまなざし”こそが、筒井民俗学の特徴であろう。
 
 たとえば、本書の巻末を飾るオール・ロマンス事件。
 これは昭和26年当時、京都市の臨時職員であった杉山清一(ペンネーム)が、雑誌『オール・ロマンス』に発表した『特殊部落』という短編小説がもとで起こった事件である。
 部落解放京都府委員会は、杉山本人や出版社だけでなく、京都市をも糾弾対象にして闘争を繰り広げた。
 結果として、次年度(昭和27年)の京都市の同和対策予算は大幅に増額し、闘争は成功裡に終わる。
 この事件が、その後全国に広がる行政闘争の端緒にして模範と言われるゆえんである。
 
 事件の顛末を淡々と記し、解放運動史における意義を評価する一方、筒井の目は当の『特殊部落』という短編そのものと、著者の杉山清一のその後に向けられる。
 インターネットのおかげで誰でも簡単に読めるようになった『特殊部落』全文を読んで、筒井はその小説の登場人物のほとんどが日本人部落民ではなく朝鮮人であることに奇異な感を抱き、かつ、はたして差別小説と言える次元のものかどうか疑義を呈している。
 そして、事件後市役所を辞職した杉山のその後の失意の人生を、彼の発した呟きによって暗喩しつつ一篇を閉じる。
 「私のことは忘れて下さい、何もかも失ってしまいました」
 
 これまでサンカ猿回し犬神人エタ・非人など差別された人々を調査し描いてきた筒井のスタンスの基を成しているのは、様々な差別事象をめぐってえぐり出される、歴史や風土文化に条件づけられた個人や集団や日本社会の姿への関心であり、差別する側・される側問わず、加害者側・被害者側問わず、そのような不自由な人間存在にたいする哀感なのではなかろうか。
 


四国遍路2 141
四国札所77番道隆寺境内


 筒井は本書「おわりに」でこう記している。
 
書きおわってみて、これらを引き起こしたのは、単なる差別意識というより群集心理ではなかったかとの思いが強く残った。差別が存在する社会であっても、ふだんはそう露骨な形で表面化することは少ない。ところが、何かの拍子に衆をたのんで行動する状態に置かれると、重し蓋がとっぱらわれて、ごく善良な地域住民が残虐な殺人者に一変してしまう。その距離は、どうやらさして遠くはない。ひょっとしたら、それはだれもが簡単に飛び越えられる小さな溝のようなものでありえる。この辺に差別と、それを生みだした人間社会の怖さがあるのではないか。
 
 言うまでもなく、本書の数々の事件を、過去の、人権意識の低かった時代の日本人の過ちと嗤うことはできない。
 各地で見られる新型コロナウイルス感染者や彼らをケアする医療従事者への差別、自粛要請に応じない個人や商店などに対する正義感を振りかざす「自粛警察」の横行ぶり。
 差別と弾圧の事件史は、いまもオンエアである。




おすすめ度 :★★★ 

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




 

● ほすぴたる記 その後 19 リハビリ再開(事故後半年)

 本日より通院リハビリが再開となった。
 実に3ヶ月のブランク。
 
 その間もそれなりに自主リハビリしてはいた。
 が、自分でできることには限りがあり、プロ(=理学療法士)の助言とケアが欲しかった。
 起床後の数時間、あるいは雨や低温の日、あるいは仕事で動き回った翌日、左足首が蝋のように固まって、床に足をつけると左くるぶしの周辺が痛み、まともに歩けない。
 「このまま固定してしまうのでは?」
 という一抹の不安もあった。
 
 レントゲン結果は良好。
 骨はちゃんとくっついている。
 足が痛むのは、足首の関節が硬くなっているのと、使わなかった筋やら腱やらが衰えているからとのこと。
 
IMG_20200106_123256
術後のレントゲン


 
 入口で体温チェック受けて、院内へ。
 久しぶりのリハビリ室は閑散としていた。
 まだ通院を控えている人が多いためと、“三密”を避けるべく予約をとる際に患者を散らして、一度にリハビリ室に入れる人数を調整しているためである。
 リハビリスタッフも平常時の3分の1もいなかった。
 
 まずは歩くところを見てもらう。
 「やはり、左側のほうの足先が開いてしまいますね~」とスタッフ。
 足首に負担をかけないラクな歩きグセが、知らず身についてしまっていた。
 ベッドに横になって、関節や筋肉をほぐすところから再スタートである。
 久しぶりの濃厚接触(スキンシップ)が気持ちよかった。
 
  ● 現在、元のようにできないこと。
  • 階段のくだり(⇒ 外出時はエレベーター、エスカレータを使っている)
  • 左足だけで爪先立ちする
  • 走る
  • あぐらをかく(⇒ 座禅が組めない)
  • 正坐
  • 30分以上続けての歩行(⇒ 痛みが出る)

 ケガした当初予想していたより、回復が遅い。
 半年したら高尾山くらいは登れるだろうとタカをくくっていた。
 同じく踵骨骨折した人のブログを読んで、経過を比べる日々であったが、やはり個人差が大きいようだ。

 一般に、踵の骨折は後遺症が残りやすい。
 
  ● よくある後遺症
  • 長い距離が歩けなくなる
  • 踏ん張れなくなる
  • 腱鞘炎が起こることで痛みがでる
  • 天候の変化や冷えで痛みが悪化する
  • 神経炎が起こることで足が痺れたり痛んだりする
  • スムーズな動きができなくなるので不意の動作で転びやすくなる 
  • 腰・背中・首の痛みが悪化する 
  • 左右の足のサイズが違ってしまう
 
 とは言え、ここまで治ったのは――この程度で済んだのは――もっけの幸いと思っている。
 いま思い返しても、本当に危険な、まかり間違えば首の骨を折ってもおかしくないような、派手な落下の仕方をしたのだ。
 外出するときは念のためまだ杖を突いているが、自分の足で歩いて、時間はかかっても行きたいところに行ける(コロナ自粛はあれど)。
 両松葉杖でコンサートに行った時の苦労や、室内を尻移動や膝移動でいざっていたときのわずらわしさや、膝から下をビニールで包んでシャワーを浴びるメンドクササを思えば――ああ走馬灯のように浮かんでくる!――天国である。

 そしてまた、一昨年思い切って四国遍路に行っておいて良かった。
 あれだけ(約1400キロ)歩いたので、いまはもう、山登り含め、歩き旅への欲求は希薄になっている。
 
 今後は週一回リハビリに通う予定。

 帰り道の公園で、木陰に寝転がって、読書&瞑想&昼寝した。
 基本、これさえできれば HAPPY な昨今。
 骨折とコロナは生活を単純にした。


 
IMG_20200608_171016




 

● 都会でサバイバル 本:『ペスト』(ダニエル・デフォー著)

1722年原著刊行
1973年中央公論より邦訳発行(平井正穂訳)
2009年改版

 学生時代に途中挫折したカミュの『ペスト』を再読しようかと書店に行ったら、デフォーにも『ペスト』があるのを知った!(正確なタイトルは『ペスト年代記』)
 あの究極の無人島サバイバル男、『ロビンソン・クルーソー』の作者である。

 表紙カバーの説明によると、
1665年にロンドンを襲ったペストについて、体験者から状況を委細にわたって聞き、当時の『死亡週報』などをもとに入念に調べて、本書を書き上げた。

 デフォーは1660年ロンドン生まれなので当時5歳。
 身近に当時の状況を身をもって知る人がたくさんいた。つまり、実録に近い。
 哲学的なテーマを内包し、架空の物語であるカミュの『ペスト』よりも、読みやすくて面白そうであった。

IMG_20200622_065325


思った通り、いや想像をはるかに超えて、面白かった!!

 当時のロンドンの人口約45万人のうち、およそ6分の1にあたる約7万5千人が、たった1年余りで亡くなった未曽有の悲劇の記録を、「面白かった!」と言ってしまうのは語弊あるけれど、実になまなましくスリリング、壮絶にして凄惨、そんじょそこらのパニック映画など足元にも寄せ付けない臨場感と迫力に満ちている。
 疎開せずに疫渦の中心たるロンドンに残り、一部始終を目撃した体験者(デフォーの叔父がモデルと目される)の手記という体裁をとっているので、語り手の思ったことや感じたことがヴィヴィッドに読み手に伝わってくる。語り手の目や耳を借りて、阿鼻叫喚の地獄と化していくロンドンを体験する思いがする。
 さすが、ジャーナリスト出身の作家。

 平井正穂の訳は、非常にわかりやすく、漢字を結構ひらいてくれているため読みやすい。編集者が適当に章立てしてくれたら、もっと良かった。
 
 ペストは、ペスト菌の感染によって起きる感染症である。症状は、発熱、脱力感、頭痛などがある。症状は感染後1~7日後ほどで始まる。別名の黒死病は、感染者の皮膚が内出血によって紫黒色になることに由来する。
 感染ルートや臨床像によって腺ペスト、肺ペスト、敗血症型ペストに分けられる。人獣共通感染症・動物由来感染症である。ネズミなどげっ歯類を宿主とし、主にノミによって伝播されるほか、野生動物やペットからの直接感染や、ヒト―ヒト間での飛沫感染の場合もある。
 感染した場合、治療は抗生物質と支持療法による。致命率は非常に高く、治療した場合の死亡率は約10%だが、治療が行われなかった場合には60%から90%に達する。
(ウィキペディア『ペスト』より抜粋)

 このノンフィクション小説が書かれた時代にはペストの原因は分かっておらず、有効な治療法も発見されていなかった。(ペスト菌の発見は1894年北里柴三郎らによる)
 ひとたび感染したら、死を覚悟するほかなかったのである。
 
 新型コロナウイルスとの共通点ということで言えば、
  1.  接触感染、飛沫感染、媒介物感染する。
  2.  感染力が強い。
  3.  症状に多様性が見られる。
  4.  潜伏期間中にそれと知らず、他人にうつしてしまうことがある。
  5.  いまのところ有効なワクチンがない。
 とくに4番目の特徴が厄介なのは言うまでもない。
  
つまり、感染は知らず知らずのあいだに、それも、見たところ病気にかかっている気配もない人たちを通じて蔓延していったということである。しかも、その人たちは、自分がだれから病気をうつされ、まただれにうつしたかもまったく知らないのであった。

 
 語り手は、ロンドン西部に第1号らしき患者が発生し死亡した時点から語り始め、それが次第に死者数を増しながらロンドン東部に漸進していく様子を、具体的な地区名と日付と数字をもって記していく。きわめてリアル。
 市民の間にパニックが広がり、様々な事態が起こっていく。
  • 一族郎党を引き連れ、われ先に郊外へと疎開する金持ち連中
  • 人影が消えて、がらんどうになった通りや施設や店舗
  • 予言者、占い師、怪しげな薬売り、いかさま医師、自称魔術師、魔除け(アマビエのような?)売りの出現
  • デマや流言、根拠の不確かな情報の拡散
  • 食料を買いだめして家に閉じこもる人々
  • 一人でも患者を出した家を家族・使用人ごと閉じ込めてしまい、市民に24時間監視させる「家屋閉鎖」という行政戦略
  • あちこちの家から夜ごと担ぎ出され、墓場へと運搬され、深い穴に投げ込まれる死体
  • 突然死したまま道ばたに転がる無残な死体と、それを遠巻きに避けて通る人々
  • いわゆる“火事場泥棒”の出没
  • ロンドンに取り残された貧しい人々や病人に寄せられた莫大な義援金
  • 感染の不安や恐怖、家族や友人を失ったショックと悲しみから、あるいは自暴自棄になり、あるいは気がふれ、あるいは自害する人々

 毎日毎日どんな恐るべき事態が各家庭で起こっていたか、ほとんど想像することもできないことだった。病苦にさいなまれ、腫脹の耐え難い痛みにもだえぬいたあげく、われを忘れて荒れ狂う人もあれば、窓から身を投じたり、拳銃で自分を撃ったりして、われとわが身を滅ぼしてゆく人もあった。精神錯乱のあまり自分の愛児を殺す母親があるかと思うと、べつに病気にかかってもいないくせに、いかに悲痛なものとはいえ、単なる悲しみのあまり死んでゆく者もあり、驚愕のあまり死んでゆく者もあった。
 いや、そればかりではない。仰天したために痴呆症を呈するにいたる者もあれば、くよくよして精神に異常を呈するものもあり、憂鬱症になる者もあった。
 
 実に凄まじい、この世の終わりのごとき景観が、語り手の前に広がっていたのである。

 
地獄絵図蛇47番八坂寺
 
 
 新型コロナウイルスという、目に見えない敵の恐ろしさを知悉している現在の我々は、これら異常きわまる記述を読んで、「絵空事、作り話」とは思わないだろう。身の回りで起こったこと、現に起こっていることとの類似を思い、今後運が悪ければ、あるいは対策がまずければ起こり得る最悪の事態をここに予見することができる。
 まさに他人事でなく自分事。パニック時における人間の様相が、時代や地域や文化を超えて共通するものであることを痛感する。
 むろん、それは決して人間の醜い面や愚かな面だけを意味するのではなく、人と人とが助け合うような良い面も、さらにはこのたびの医療従事者の闘いぶりに見るような崇高な面をもいうのである。
 読者の前に次々と展開されるシーンは、必ずしも悲劇的なものばかりでなく、喜劇的なもの、さらには神秘劇と言っていいようなものもある。
 
 いまのように科学が発達しておらず迷信がはびこっていた時代はまた、神や信仰が生きていた時代でもある。
 17世紀のロンドン市民と21世紀の日本人のもっとも異なる点を上げるならば、人々の宗教性の有無、すなわち信仰の深さと言えるかもしれない。
 彼の地はもちろんキリスト教である。
 
 市民が悲しみのどん底におちいって生きる望みを失い、自暴自棄になったことは前にもいった。すると、最悪の三、四週間を通じ、意外な現象が生じた。つまり、市民はやたらに勇敢になったのである。もうお互いに逃げ隠れしようともしなくなったし、家の中にひっそり閉じこもることもやめてしまった。それどころが、どこだろうがここだろうがかまわずに出歩くようになった。
 
 彼らがこうやって平気で公衆のなかに交じるようになるにつれて、教会にも群れをなしておしかけるようになった。自分がどんな人間のそばに坐っているか、その遠近などはもはや問題ではなかった。どんな悪臭を放つ人間といっしょになろうが、相手の人間がどんなようすの者だろうがかまうことはなかった。お互いにそこに累々たる死体があるだけだと思っているのか、まったく平然として教会に集まってきた。教会に来る目的である聖なる務めに比べるならば、生命はまったく価値をもたないとでも考えているようであった。・・・・・おそらく、礼拝に出るたびごとに、これが最後の礼拝だと思っていたにちがいなかった。
 
 当時のイギリスは、カトリックと袂を分かった英国国教会と、ピューリタン(清教徒)に代表される非国教会とが勢力を競い合い、人々はそれぞれの牧師がいるそれぞれの教会に通い、牧師同士・信者同士が反目し合っていた。
 それがここに来て、人々は説教壇にどちらの牧師が立とうが問題にしなくなった。牧師もまた、乞われれば敵方の教会に出向いて平気で説教したという。
 
 こういったことから次のようなことがいえそうである。また、それをいうこともあながち見当違いではなかろうと思う。
 それは、死を目前にひかえた場合、立派だがそれぞれ違った立場をもっている人も互いに融和しあう可能性があるということである。
 現在のように、われわれのあいだに分裂が醸成され、敵意が解消せず、偏見が行われ、同胞愛にひびがはいり、キリスト教の合同が行われず、依然として分裂したままになっている、というのは、われわれの生活が安易に流れ、事態を敬遠してそれと本気で取り組もうとしないことが、そのおもな原因であろう。もう一度ペストに襲われるならば、こういった不和はすべて一掃されよう。死そのものと対決すれば、あるいは死をもたらす病気と対決すれば、われわれの癇癪の虫も、いっぺんに消えてなくなり、われわれのあいだから悪意なぞもなくなってしまうだろう。
 そして、前とは全然異なった眼をもって事物の姿を見るようになろう。
 
 この一節が本書の白眉である。
 この一節あらばこそ、本書は単なる実録や年代記を超えて、“文学”たり得ている。
 デフォーのまがうことなき作家性を感じる。
 
 クリスチャンでない日本人も、あるいはなんらかの宗教に属していない日本人も、このたびの新型コロナ騒ぎにおいて、自らの命の常でないことを知り、これまでの自身の生き方を顧みた人、自分にとっての優先順位を再考した人は決して少なくないであろう。
 死を目前にしたときにこれまでの価値観が変わる。
 真の宗教性とはそのようなことを言うのだろう。
 
しかし、病気の恐怖が減じるとともに、このような現象も、以前のあまりかんばしからぬ状態にかえっていった。旧態依然たる姿に戻ったのである。
 
 これまた人間らしい・・・・。


五輪
 



おすすめ度:★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● マルセイバターサンド臭の謎

 数週間前ほどから、頭皮から甘ったるい匂いがして、気になっていた。
 むろん、オヤジ臭あるいは加齢臭であっても、ちっともおかしくない年齢なのだけれど、その匂いはあまりにもきつく、異様に甘ったるい。
 六花堂名物のマルセイバターサンドを頭皮に擦り込んだような、ココナッツミルクを頭からかぶったような、強い洋菓子臭である。
 これが加齢臭なら、ケーキバイキング好きの若い女性が寄ってきそうである。


ケーキバイキング
 
 
 頭皮を触って手についた匂いは、ちょっとやそっと洗ったくらいでは落ちない。
 コロナ対応で家の各所に設置してある消毒液を塗りこんでも消えなくて、そのうち鼻腔にもついて、始終その匂いに包まれるようになり、さすがに気持ち悪くなった。

 もしや、身体に異変があるのか?
 血管内の過剰な糖分が、汗腺からにじみ出しているのでは?
 つまり、糖尿病?
 
 たしかに昨年末の骨折と今年に入ってのコロナ自粛で、運動不足は否めない。
 夕食後、映画を観ながらのスナックぼりぼりも続いていた。
 体重はここ半年で4キロ増えた。
 おなか周りもプヨプヨである。
 加えて、 
  • おしっこが近くなった。
  • 慢性的な疲労感がある。
  • 皮膚が乾燥して痒い。
  • 感染症にかかりやすくなった。
  • 目がかすむ。
  • 切り傷やその他の皮膚の傷が治りにくい。
  • 性機能の低下(ED)も・・・。 
 ネットで見つけた糖尿病(2型)の初期症状のほとんどに見事当てはまる。

 高血圧、インスリン投与、腎不全、透析治療、失明、動脈硬化、脳卒中・・・・

 起こり得る事態がすぐさま浮かんできてしまうのが、いろんな病人を見てきた介護職の因果なところである。
 そういえば、最後に健康診断を受けたのは一昨年の夏であった。

 
 先週、透析治療をやってる近所のクリニックに行き、ドクターに症状を話し、尿検査と血液検査をしてもらった。
 数日後、結果を聞きに行った。
 血糖値69(基準値は70~109)。
 尿に糖やタンパクは出てなかった。
 「とくに異常はありませんよ」
 糖尿病ではなかった。
 
 しかし、渡された検査報告書を見てがくぜんとした。

 総コレステロール    262 (基準値120~219)
 LDLコレステロール  183 (基準値70~139)
 中性脂肪        234 (基準値35~149)

 生活習慣病予備軍と言ってよかろう。
 このまま行けばマジで、糖尿病や動脈硬化や心筋梗塞への道をたどってしまう。
 帰り道、間食や夜食をやめて、運動不足解消に努めようと夏空に誓った。


夏空と信号



 先日はとても暑かった。
 30度を超える気温は、冷蔵庫の外に置きっぱなしにされた、牛乳をヨーグルトに変え、大豆を納豆に変え、麦茶をビールに変え、バナナをナマコに変える、そんな苛烈さだった。
 外出から帰ったソルティは、いつものように玄関の靴棚の上にあるアルコール消毒液をプッシュして、手に擦り込んだ。
 その瞬間、甘ったるい匂いの正体に気がついた。

 消毒液が原因だったのである!

 消毒液がついた手で、いつもの癖で髪の毛をいじっていたから、頭皮に匂いが移ったのだ。
 すぐさま、「消毒液、甘い匂い」と検索をかけて、裏をとった。
 犯人が特定できた。

 ジアセチル(diacetyl, C4H6O2)
 
 酵母や乳酸菌などの微生物による発酵の際に生成する有機化合物である。
 
ジアセチルは強いバター様・チーズ様の匂いを持ち、低濃度では蒸れたような匂いを発する。共存する物質により異なるが、弁別閾値は低く、製品中0.1mg/L程度の濃度で問題となる。2,3-ペンタンジオンも同様の匂いを持つが、揮発性が低いため匂いは弱い。一般に、発酵バターや一部のチーズなど乳酸発酵により製造される乳製品には不可欠な香りであるが、酒類などアルコール発酵により製造される飲食品では好ましくない異臭とされる。
(ウィキペディア「ジアセチル」より抜粋)

 おそらく、空気中の乳酸菌が消毒液のボトルの中に侵入し、アルコール発酵したのだろう。
 その日は特に暑かったので発酵の度合いが激しく、それと気づくほどに匂いがきつかったのである。
 臭いを消そうと消毒液を擦り込めば擦り込むほど、逆効果だった。

 このジアセチル、醸造業界ではダイアセチルとも呼ばれ、なんと「つわり香」と呼ばれているそうである。
 なるほど、妊娠初期の女性にとってはつらい刺激臭である――って分かるのか!

 また、ジアセチルは30~40代の男の「おやじ臭」の原因物質でもある。
 現在50代のソルティが発する「加齢臭」は、ノネナールという成分が原因であり、両者は化粧品業界によって厳密に区別されているらしい(笑)。
 言われてみれば、マルセイバターサンドは10年前くらいの頭皮の匂いだったかも・・・?

 くだんの消毒液は取り換えた。
 一件落着。

IMG_20200703_111649




● 風評被害の生まれ方

 このまえの日曜の晩、友人と会食するために、一ヶ月ぶりに都心に出かけた。
 両者の住まいの中間にある池袋で会うことにした。
 池袋駅西口の東京芸術劇場前にある公園、いわゆるウエストゲートパークで待ち合わせた。

 しばらく前までここは工事をしていた。それも終わって、野外舞台のある円形劇場を兼ねた、明るく清潔な公園に生まれ変わった。
 一角にできたカフェもおしゃれで、芸術劇場のコンサート前後に寄るのにあつらえ向きである。

 かつてこの公園は、チーマたちの縄張り争いやホームレスのたまり場として、あまり印象良くなかった。
 ここで待ち合わせなんかしたら、オヤジ狩りに遭ってもおかしくはない雰囲気があった。
 円周の孤に沿って設置されている木のベンチに腰掛け、友人を待ちながら、そんな記憶をたどった。
 
 ベンチに座っている人たちは、隣りの人と1m以上の間隔を空けて横並びに座っている。
 もちろん、みなマスクをつけている。
 何も言わなくとも、自然とそのように配慮できるところが、日本人の美点だろう。


IMG_20200803_073639


 友人は酒を飲まないので、駅からやや離れたファミレスに行った。
 なるべく混雑は避けたい。
 さいわい店内は空いていて、テーブル間隔も十分離れているので、ここなら大丈夫だろうと思った。
 やはり、都心の繁華街での会食は気を遣う。
 池袋駅西口はまさに「夜の街」でもあるので、ウイルスが至る所にいるような気さえしてくる。
 見えない敵は厄介である。

 友人は現在テレワーク中で、毎日、自宅で携帯電話とパソコンを使い仕事をしていると言う。
 「自分のペースで働けて、さぼれるからいいねえ」と言ったら、思ったより忙しくて朝から夜までパソコンに向かっているという。
 積もる話をして、気づいたら3時間近く経っていた。
 どちらかがウイルスを持っていたら、相手にうつしていただろう。
 
 
 昨日は、足のリハビリのため、いつもの病院に行った。
 マッサージを受けながら担当の理学療法士と話していたら、こんなことを言う。
 「市内の〇〇という店で、スタッフに感染者が出たそうですよ」

 ソルティも知っている飲食店で、たまに店の前を通ることもある。
 が、主に若者をターゲットにしているこじゃれた店なので、オジサン、入ったことはない。
 「え? それどこからの情報?」と聞くと、
 「この前、髪切りに行って、そこの理容師から聞いたんです。その理容師は友だちから聞いたみたいです」
 「その友だちはどうやって知ったの?」
 「その友だちが、〇〇店の向かいの店でバイトしていて、ある日、〇〇店のシャッターが下りていて、そこに『感染対策を行うため、3日間休業します』と書かれていたんだそうです」
 「ふ~ん」
 
 家に帰って、さっそく家族に伝えようと思い、そこではっとした。
 ソルティの得た情報はまた聞きのまた聞きで、伝言ゲームのように誤って伝わっている可能性大だ。
 しかも、元の情報自体も確かなものではない。
 「感染対策を行う」=「感染者が出た」ではない。
 店内のテーブルの配置や座席の向きを感染対策用に変える、ということかもしれない。
 テーブル間に新たに衝立を設置しているのかもしれない。
 大体、本当にスタッフに感染者が出たら、3日間休業ではすまないのではないか?

 ここで下手に店の名前を口にしてしまったら、そこからまた噂は広がっていくことだろう。
 そのうち、ネットに店名や住所を書くヤツも出てくるかもしれない。
 風評被害ははかりしれない。

 こんなふうにして、自分でもたいして意識しないうちに、コロナ差別に加担してしまうのだなあ。

 
board-895399_640
Gerd AltmannによるPixabayからの画像





● 新しい日常 映画:『アニアーラ』(監督:ペッラ・カーゲルマン、フーゴ・リリヤ)


2018年スウェーデン・デンマーク合作
106分

 北欧発のSF大作。
 原作はスウェーデンのノーベル文学賞作家ハリー・マーティンソンの長編叙事詩。オペラ化もされているようだ。

 豪華設備の整った巨大宇宙船アニアーラ号が、8000人の乗客を乗せて旅立った。
 放射性物質で汚染された地球から火星へ、人々を運ぶためである。
 しかし、衝突事故によって燃料は失われ、火星への軌道を外れ、修復不能なまま宇宙空間に投げ出される。
 もはや、地球にも火星にも到着できる可能性はゼロに等しい。
 
 ――といった苛酷な状況において、宇宙船の中でいったい何が起こるか、船内に閉じ込められ希望や目的を失った人々がどのように振舞うようになるかを、3週間後、1年後、3年後、10年後、24年後・・・と時系列で切り取って描いていく。
 言うなれば、終わりなき日常に閉じ込められた人間たち、ゴールの見えない自粛生活を強いられる人間たちに起こり得るドラマである。
 なんとまあ、今のコロナ世界を予言していたことか! 

 “ミーマ”と呼ばれる「美しい地球を体験する」ヴァーチャルリアリティ装置に依存する人々、カルト宗教の発生、支配-非支配関係の醸成、職務に忠実たろうとする者、自暴自棄になる者、恋や育児に希望を見出す者、精神を病む者・・・・さまざまな人間の振る舞いが描き出されていく。

 映像のクオリティは高い。
 美しく見ごたえある。

 北欧制作らしいと言うべきか、主役の女性はレズビアンで、同僚女性との恋愛やセックス、共同育児の様子などが描かれる。むろん、船内の誰もそれを特別視することはない。
 子供の誕生と成長は人類の希望の最たるものであるが、悲しいことに、心を病んだ恋人は子どもを殺めて自害してしまう。
 
 軌道への復帰を可能にするエネルギー源(謎の飛行物体)の捕獲に成功し、いったんは希望に湧いた船内であったが、結局その物体は人間の手におえる物質ではないと判明し、人々はさらなる絶望に追いやられる。
 あらゆる希望が失われたところで、物語は終わる。
 
 なんともまあ救いのない話で、北欧人の現実主義を見る思いがする。
 しかも、最後のシーンで描かれるのは「598万年後」ときた。
 琴座に達したアニアーラ号は、破壊され、残骸となって漂う。

 598万年という時空から見れば、598万年前に起こったアニアーラ号の事件など、いかほどのものであろうか。
 そこでの喜怒哀楽・悲喜こもごもの人間ドラマなど、「一瞬」の数億分の一にもならない。
 宇宙的ものさしで見た人類の価値、人間の営みという、「無」を示す地点までカメラを引き切って、ジ・エンドとなる。
 この圧倒的な非ヒューマニズム。
 さすがノーベル文学賞というべきか。

 
IMG_20200816_111645
アニアーラ号
 

 思うに、人は希望を持つから絶望する。
 はなから希望など持たなければ、落胆も失望も後悔もすることなく、たんたんと日々を生きられる。
 そこが地球だろうが、火星だろうが、宇宙空間だろうが、閉鎖された宇宙船の中であろうが、人間がやっていることは基本、「食べて・動いて・まぐわって・クソして・寝る」だけだからである。
 衣食住と安全さえ保障されて、プラス孤独や退屈を紛らわす手段や仲間があれば、基本どこでも生きられるし、自暴自棄になる必然性はない。
 アニアーラ号ではそれは保障されていた。(食材が尽きたあとは、自主栽培の藻を食料とした)
 そう考えると、アニアーラ号の人々は「新しい日常」に馴染めなかったのである。
 
 いろいろ考えさせられるところの多い秀作である。
 

 
おすすめ度 :★★★ 

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 10の根深き本能 本:『ファクトフルネス』(ハンス・ロリング、オーラ・ロリング、アンナ・ロスリング・ロンランド著) 

2018年原著刊行
2019年日経BP社より邦訳

 主著者のハンス・ロリング(1948-2017)は、スウェーデンの医師、公衆衛生専門家。
 本書執筆を終えた後にすい臓癌で亡くなった。
 共著者は、息子とその妻である。

IMG_20200921_153522

 
 副題に「10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣」とある通り、現在ではネットで誰もが閲覧・取得できる、科学的方法により得られた統計データに基づいた、世界のありのままの姿が描き出される。
 たとえば、本書冒頭で著者は世界に関する13のクイズを読者に呈示する。
 ピックアップすると、

● 世界の人口のうち極度の貧困にある人の割合は、過去20年でどう変わったでしょう?
A 2倍になった
B あまり変わっていない
C 半分になった

● 世界の平均寿命は現在およそ何歳でしょう?
A 50歳
B 60歳
C 70歳

● 世界中の一歳の中で、なんらかの病気に対して予防接種を受けている子供はどのくらいいるでしょう?
A 20%
B 50%
C 80%

● いくらかでも電気が使える人は、世界にどのくらいいるでしょう?
A 20%
B 50%
C 80%

 正解はここでは記さないが、ソルティは4つとも間違った。
 全13問のうち当たったのは3問のみ。
 チンパンジーより悪い成績だ。(三択なので、デタラメに選んでも的中率は33.3%になる)
 いずれの場合も、現実のデータが示すものより悲観的でネガティブな答えを選んでいた。
 つまり、自らの主観的な思い込みで、世界を実際以上に悪いものと捉えていたのである。

 ひとつ安堵したのは、チンパンジーに負けたのはソルティだけではなかった。
 著者ハンス・ロリングは世界中の講演先でこのクイズを様々な対象に実施してきたが、チンパンジーより正答率が高かった者はほとんどいなかったという。

 なぜ、一般市民から高学歴の専門家までが、クイズでチンパンジーに負けるのか。知識不足を解決する方法はあるのか。何年もの間、事実に基づく世界の見方を教え、目の前の事実を誤認する人を観察し、そこから学んだことを一冊にまとめたのがこの本だ。
 あなたは次のような先入観を持っていないだろうか。
「世界では戦争、暴力、自然災害、人災、腐敗が絶えず、どんどん物騒になっている。金持ちはより一層金持ちになり、貧乏人はより一層貧乏になり、貧困は増え続ける一方だ。何もしなければ天然資源ももう尽きてしまう」
 
 持っている、持っている。
 加えて言えば、「核による人類破滅の脅威は刻々迫っており、新型コロナウイルスのような未知のウイルスや細菌の発生による人口淘汰は容赦なく、富士山は近い将来大爆発して首都圏を灰の海と化し、少子高齢化と不況により年金制度は崩壊し多数の高齢者が路頭に迷うことになり、UFOの目撃多発は宇宙人の地球侵略が近いことを示しており、・・・・・・」

 ひとつ言い訳をさせてもらえば、メディアの流す情報が悪いもの、ネガティヴなものばかりで、幼い頃からテレビやラジオや新聞やネットなどでそれらの砲弾を絶え間なく浴び続けてきたため、洗脳されてしまっているからだ。
「世界は危険に満ちている」
「世界には、日本には、解決しなければならない問題が山ほどある」
「今のうちに何とかしないと、将来大変なことになる」
 こういった見方――著者がいうところの「ドラマチックすぎる世界の見方」を、知らず身につけてしまっているのだ。

 そしてまた、一度身につけた知識がなかなかアップデートされないこともある。
 数十年前に学校で習い覚えたことがいまでも通用すると思ったら、大間違いである。
 たとえば、日本最初の貨幣は「和同開珎」でなく「富本銭」で、大化の改新は「645年」でなく「646年」で、遣唐使は「廃止」でなく「中止」で、鎌倉幕府の成立は「1192年」でなく「1185年」で、冥王星はもはや「惑星」の一つではなく、哺乳類は爬虫類から進化したのではなく、富士山は「休火山」でなく「活火山」である。
 平成以降の教科書を持つ子供と接点のないソルティ、最近まで知らなかった。

 数十年前の印象では、世界は西洋や日本など一握りの先進国と多数の発展途上国に分かれ、途上国では、「水道や電気の引かれていない未開の地が多く、人々は地べたに直接寝て、食べ物がなく予防接種も受けられない幼い子供はバタバタ死んでおり、それゆえ女性は生涯たくさんの子を産まなければならず、貧乏人や女性の教育機会や政治参加機会は奪われ、平均寿命が極端に低い」
 それは決して間違いではなかった。
 が、数十年前の話である。
 むろん、紛争地域や独裁政権国家など一部の国では、外からの支援の手が入らず開発が進まず、数十年前のまま時が止まって、上記のように悲惨な状態のままのところもある。
 しかし、それを全体に当てはめるのは正しくないのである。
 ニュース番組などで流される難民キャンプなどの情景、あるいは街頭でアウトリーチ活動中の国際NGOから手渡される「現地の人」の生活実態が悲惨で、強烈な印象が残るので、なんとなく途上国ではいまだに・・・・というイメージが払拭されていなかった。
 日々接する情報が個人の意識や思考に与える影響は大きい。

 だが、ハンスは言う。

 「ドラマチックすぎる世界の見方」をしてしまうのは、知識のアップデートを怠っているからではない。最新の情報にアクセスできる人たちでさえ同じ罠にはまってしまうのだ。また、悪徳メディア、プロパガンダ、フェイクニュース、低質な情報のせいでもない。
 わたしは何十年も講義やクイズを行い、人々が目の前にある事実を間違って解釈するさまを見聞きしてきた。その経験から言えるのは、「ドラマチックすぎる世界の見方」を変えるのはとても難しいということ。そして、その原因は脳の機能にあるということだ。

 本書の一番の特徴にしてすぐれた点は、どのような脳の機能(=本能)によって、「ドラマチックすぎる世界の見方」を我々がつい行ってしまうのかを明らかにしたところである。

 以下の10の本能を原因として挙げて、ひとつひとつを説明し分析している。

      1. 分断本能   ・・・「世界は分断されている」という思い込み
      2. ネガティヴ本能・・・「世界はどんどん悪くなっている」という思い込み
      3. 直線本能   ・・・「世界の人口はひたすら増え続ける」という思い込み
      4. 恐怖本能   ・・・危険でないことを、恐ろしいと考えてしまう思い込み
      5. 過大視本能  ・・・「目の前の数字が一番重要だ」という思い込み
      6. パターン化本能・・・「ひとつの例がすべてに当てはまる」という思い込み
      7. 宿命本能   ・・・「すべてはあらかじめ決まっている」という思い込み
      8. 単純化本能  ・・・「世界はひとつの切り口で理解できる」という思い込み
      9. 犯人捜し本能 ・・・「誰かを責めれば物事は解決する」という思い込み
      10. 焦り本能   ・・・「いますぐ手を打たないと大変なことになる」という思い込み

 社会全体を見ても、身の回りを見ても、なにより自分自身を振り返っても、「確かにそうだよなあ」、「その傾向(本能)あるよなあ」と思うことしきりである。
 とりわけ、今のコロナ禍における世の人々のありさまに、上記の10の本能のいくつかを見出すことはとても容易である。
 あちこちで起きている感染者バッシングの様を見ていると、日本人はとくに「犯人捜し本能」が強いのではないか、と思われる(――と断定するのはまさに「パターン化本能」のなせるわざか)

 10の本能に毒されずに客観データに基づいて世界をありのままに見たとき、

「世界はあなたが思っているより悪いところでも危険なところでもないし、悪くなってもいない。むしろ、歴史を通じて良くなってきている」

という結論に導かれる。
 不安が軽減され、精神衛生上こんなに良いことはない。
 その結論がなかなか受け入れ難いのならば、その理由を自らにまず問いかけるべきなのだろう。
 訳者の一人(関美和)はあとがきに、こう記している。

 この本が世の中に残る一冊になるだろうと考える理由は、この本の教えが「世界の姿」だけではなく「自分の姿」を見せてくれるからです。知識不足で傲慢な自分、焦って間違った判断をしてしまう自分、他人をステレオタイプにはめてしまう自分、誰かを責めたくなってしまう自分。そんな自分に気づかせてくれ、少しだけ「待てよ、これは例の本能では?」とブレーキをかける役に立ってくれるのが、ファクトフルネスなのでしょう。


 思い込みや主観の囚われから自らを解放したいと願う人におススメしたい本である。


IMG_20200917_022611


 

おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





記事検索
最新記事
月別アーカイブ
最新コメント
ソルティはかたへのメッセージ

ブログ管理者に非公開のメッセージが届きます。ブログへの掲載はいたしません。★★★

名前
メール
本文