ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

新型コロナ雑感

● 東京の紅葉名所人気 No.1

 思えば、前回六義園を訪ねたのはコロナ発生前の2019年の晩秋、紅葉真っ盛りの折りであった。
 JR山手線駒込駅から歩いて、正午過ぎに国の特別名勝にも指定されているこの都立庭園に着いたはいいが、正門前には30メートル以上の行列ができていた。
 入口から中をのぞいてみると、園路は人でごった返している。
 ゆっくり紅葉や散策を楽しめる感じでは全然ない。
 あきらめて駅へと引き返した。

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駒込駅近くの染井門(通常は使われていない)

 リベンジというわけではないが、今回は午前10時過ぎに行ったら、並ばずに入ることができた。
 六義園は五代将軍・徳川綱吉に寵愛された川越藩主・柳沢吉保が、元禄15年(1702年)に築園した回遊式築山泉水の名園。
 面積は約88,000㎡、東京ドームの1.9倍。
 中央の大きな池の周囲に園路が巡らされ、四季折々の自然の景観が楽しめる都心のオアシスである。
 今の時節はもちろん紅葉、それから山茶花、紫式部、雪吊りや冬囲いした木々が見どころである。

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モミジの向こうに人の群れ

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見る角度によっては都心とは思えない光景もある

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色づき始め。見頃は来週あたりか

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園内一番の高所(35m)藤代峠から池を望む
オフィスビルが借景

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 順路から外れた人の来ない場所を見つけて瞑想
 
 一時間ほど庭園を巡って正門に戻ると、やはり行列ができていた。
 ネット情報によると、ここは東京都の紅葉名所人気ランキング1位だそう。
 道理で・・・。
 もっとも、ソルティは高尾山に一票入れたいが。



 
 

● 100枚のチラシ:読売日本交響楽団コンサート

日時 2021年10月10日(日)14時~
会場 東京芸術劇場コンサートホール(豊島区池袋)
演目
  • シベリウス:交響詩〈フィンランディア〉
  • ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番
  • シベリウス:交響曲第2番
指揮:沖澤のどか
オケ:読売日本交響楽団
ピアノ:ペーター・レーゼル

 実に1年9ヶ月ぶりのクラシックコンサート。
 昨年1月20日に同じ東京芸術劇場で聴いたチャイコフスキー第6番『悲愴』を最後に、すっかり生オケ離れしていた。
 一昨年12月に踵の骨を折って松葉杖生活が続いていたせいもあるが、メインの理由はもちろんコロナである。
 昨年3月頃よりエンタメ業界はまさに「悲愴」に突入した。
 なんと長い冬であったろう!

 久しぶりに生オケを聴きたいなあと思って、クラシック専門情報サイトをググったら、間近で見つけたのが本公演であった。
 ベートーヴェンにシベリウス。
 冬からの復活を祝うには最適なプログラムではないか。
 早速予約を入れようとしたら、結構席が埋まっていた。
 みんな待ち望んでいたよね~。

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東京芸術劇場


 コンサートホールに入るときは、入口でスタッフにチケットの半券をもぎってもらい、本日のプログラムと一緒に他のコンサートの案内チラシを大量にもらうのがお決まりである。
 今回は、スタッフにチケットを見せたら自ら半券を切って、置いてある箱に入れる。その先のテーブルに積み重ねてあるプログラムと案内チラシの束を自分で取る。
 セルフサービスだ。
 いつもならほとんどがゴミ箱行きになるのでもらうのを迷うチラシの束であるが、今日はなんだか嬉しくて、いそいそと手に取った。
 これまで見たことないほど大量のチラシも、クラシック業界に生きる人々の復活の喜びと今後への意気込みと思えば、家に持って帰って一枚一枚有り難く拝見する気になる。

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なんと100枚あった


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 席は客席中央の一番後ろ。
 舞台と全体を見渡すにはベストな位置である。
 8割がた埋まっているようであった。

 ソルティは、クラシックコンサートで良い演奏に出会うとチャクラがうごめく
 音波があちこちのチャクラを刺激し、その部位の気の流れを良くする。
 すると、会場のルクスが上がったかのように、周囲に光を感じる。
 体も心も生まれ変わったようにリフレッシュする。
 良い演奏は針治療や整体に匹敵する効果があるのだ。
 1年9ヶ月ぶりの生オケで体はどんな反応を示すだろうか。
 期待大であった。

 しかるに、今日はなぜかチャクラが大人しかった。
 ペーター・レーゼルによる木漏れ日をそのまま音符に変換したかのような至芸のピアノ演奏も、2019年プザンソン国際コンクール覇者の期待の新人・沖澤のどか&ベテランぞろいの読響によるシベリウスの豊穣世界も、「素晴らしい、さすがだ」とは思いはしたけれども、音波は胸のチャクラを突きはするものの、それ以上入り込む力がなくて、感動には至らなかった。(拍手喝采は凄かった)

 たぶん、演奏の質の問題ではなくて、一年9ヶ月のブランクでソルティのチャクラが固く閉じてしまったのだろう。
 どこにいるか分からないコロナウイルスに対する恐怖、自分が感染する・他人に感染させるんじゃないかという不安や緊張、医療先進国にあって入院できずに自宅で病死した人のニュースを耳にしたときの怒りと絶望、自粛生活に慣れてしまったがゆえの心身の柔軟性の低下・・・・こういったものが知らず知らず心身に影響を与え、頑なにしてしまったのではなかろうか。
 来場者全員マスクして発話は禁じられているものの、間隔を開けずに隣の人と接している状態に、どこか落ち着かないものを感じながら聴いていたのだから。
 細胞が、神経が、心の琴線が、音楽をやわらかく受け止める用意が整っていないような気がした。

 もとのようにチャクラが活性化するまで、もうちょっと時間がかかりそうだ。


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帰宅する人々
シベリウス好きはおしゃべりしないように思う








● この秋、テレビドラマ化! 本:『日本沈没』(小松左京著)

1973年光文社
2006年光文社文庫

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 上下巻合計400万部の大ベストセラーにして、日本SF界の金字塔である本作をついに読んだ。
 むろん、映画のほうは、森谷司郎監督、小林桂樹、丹波哲郎、いしだあゆみら出演の1973年版を観ているし、小林桂樹、村野武範、由美かおるらが出演した1974年のテレビドラマ版も観ている。
 なにせ小学生の頃で、火山が噴火し、地割れした日本列島が海に沈んでいく特撮シーンくらいしか記憶に残っていない。
 樋口真嗣監督、草彅剛、柴咲コウ共演の2006年版の映画は観ていないが、同じ年に封切られた『日本以外全部沈没』(樋口真嗣監督)は劇場まで見に行った。期待外れだった。
 この秋(10月10日より)TBS系列にて、小栗旬、松山ケンイチ、杏ら共演で再ドラマ化されるとか。
 小松左京リバイバルが起こっているのかもしれない。

 刊行から半世紀近く経って読んでみて、まったく古びた感がないのに驚く。
 それどころか、いよいよもって迫真性が高い。
 それもそのはず、1973年の日本人はいまだ、阪神・淡路大震災も、東日本大震災および福島第一原発事故も、今回のコロナ禍も経験していないからである。
 本作で小松が無尽の想像力を駆使して描き出している大地震や津波による都市の被害、災害下における日本人の振る舞い、緊急事態宣言下で起こるパニックや一部暴徒による利己的行動・・・。
 2021年の日本人はそれらを経験として知っている。
 自然災害によって生じる物理的被害のありようも、社会・経済的被害のありようも、「日本人」という民族的特質が絡んださまざまな心理的現象のありようも知っている。
 それが本書で、あたかも予言のように披瀝されているのを見る。

 子供の頃『日本沈没』を観たときは、“現実にはありえない”世紀末的スペクタクルとして作品を楽しむことができた。当時流行った『ノストラダムスの大予言』や『復活の日』も同じである。
 しかし、2021年の今、本作を読んでいるとデジャビュー(既視感)に襲われる。
 すでに起こったことの記録や検証のように思える。
 「今ここにある」危機を映しているように思える。
 なんたって、緊急事態宣言が形骸化する「今」なのだ!

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Sofia TerzoniによるPixabayからの画像


 知の巨人たる小松左京の博覧強記、徹底した取材・調査力、科学や工学に関する深い造詣、驚くべき斬新なアイデアとそれを科学的に裏付けることのできる理論構築力、そして専門家にしか理解できないような難解な事柄をきちんと盛り込みながらも読者をつかんで離さないストーリーテリングの巧みさ。
 天才とはこういう人のことを言うのだろう。

 今回、初めて知って驚いたのだが、小松左京は理系出身ではなかった。
 プロフィールに京都大学文学部イタリア文学専攻とある。
 イタリア文学専攻のSF作家だったとは!
 意外な気もしたが、読んでいるうちに「なるほど」と首肯できるところもあった。
 単なるカタストロフィ・パニック以上の文学性、哲学性が光っている。
 文章や描写もまた、非常に気高く美しい箇所が散見される。
 未曽有の悲劇において露呈される日本人の姿を描き出すことを通して、ある種の文明批評、日本人論にもなっている。
 そもそも、『日本沈没』も『復活の日』も一種の“地獄めぐり”であり、そこにイタリアの大作家ダンテの『神曲』が投影されている。
 煉獄の試練をへて“神的なもの”に至る――それが小松の終生のテーマだったのかもしれない。


 以下、引用。

 ――災厄は、何事につけても、新旧のラジカルな衝突をいやがる傾向にあるこの国にとって、むしろ人為的にでなく、古いどうしようもないものを地上から一掃する天の配剤として、うけとられてきたようなふしがある。
 この国の政治も、合理的で明晰で図式的な意志よりも、無意識的な皮膚感覚の鋭敏さに、より多くのものを負うてきた、この古くからの高密度な社会における政治においては、誰一人意識的にそうするわけではないにもかかわらず、結果的には、災厄を利用するという国民的な政治伝統がそなわっているみたいだった。(上巻154ページ)

 ――「大衆社会」というのは、全体的に「統制」をきらい、統制側も弱腰で「緊急事態」に対する心がまえのない、抑制のきかない社会だった。ふつうの時はいいが、いったん社会全体が危機におちいると、いたるところに、贅沢で、わがままで、傲慢になった人々によって、混乱と無秩序がひき起こされる。(上巻382ページ)

 長い鎖国――明治大正昭和も、一般民衆にとっては、一種の鎖国だった――を通じて培われた、抜きがたい「同朋意識」が・・・天皇の一声で戦争をやめ、戦後、政府、軍閥を口先では、はげしくののしりながら、十三名のA級戦犯刑の時、後ろめたさと内心の痛みを感じさせたような、「政府―指導者」との、郷党意識をはるかに越える一体感、「共同体感覚」――むしろ、子が親に、「最後は何とかしてくれる」と思い、そう思うことでつながりを保証するような「国に対する甘え」の感覚が、今もなお、大部分の民衆の心の底に根強く、わだかまっており、それが彼らに、「危機における従順と諦念」の基本的行動様式をとらせていた。(下巻219ページ)

 日本人は・・・ただこの島にどこかから移り住んだ、というだけではありません。あとからやって来たものも、やがて同じことになりますが・・・日本人は、人間だけが日本人というわけではありません。日本人というものは・・・この四つの島、この自然、この山や川、この森や草や生き物、町や村、先人の住み残した遺跡と一体なんです。日本人と富士山や、日本アルプスや、利根川や、足摺岬は、同じものなんです。このデリケートな自然が・・・島が・・・破壊され、消え失せてしまえば・・・もう、日本人というものはなくなるのです・・・・。(下巻373ページ)


 最後に――。
 本作で小松が(周到にも?)言及や解釈を避けた日本人のアイデンティティが一つある。
 天皇である。(作品の中では沈没前にスイスに移住)
 小松左京は天皇制をどう思っていたのだろう?

錦の御旗



おすすめ度 :★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 小松左京の教え 映画:『復活の日 VIRUS』(深作欣二監督)

1980年角川春樹事務所/TBS制作
156分日本語、英語、ドイツ語
 
 〽イツ ノッ ツレート ツスターラゲーン(It’s not too late to start again)

 ――というジャニス・イアンの主題歌が耳に残る小松左京原作のスペクタクルSF映画。
 40年前に観たきり、すっかり内容を忘れていた。
 人類が破滅し、生き残った一組の男女(草刈正雄とオリビア・ハッセ―の超美男美女カップル)が砂浜で再会するという感動のラストシーンは覚えているが、「そもそもなぜ人類は破滅に至ったか」を忘れていた。
 今回見直して、映画のサブタイトル(英語版タイトル)に VIRUS とあったことに気づいた。
 そう、致死性ウイルスが原因だったのだ。

 時は東西冷戦たけなわの1982年、生物兵器として某国で造られたウイルスMM88が輸送途上の墜落事故で漏出してしまい、その地域の動物から人へ、人から人へ、国から国へと感染し、またたくまに全世界に広がって、35億(当時の世界人口)の人間とほとんどの脊椎動物の命が奪われていく。
 わずか数ヶ月で、南極大陸の各国基地で働く約800人をのぞいて、人類とその文明は滅亡した。MM88はマイナス10度以下で不活性化するのである。
 生き残りをかけて連帯し、ワクチン開発やたった8名の女性頼りの種の存続計画など、新たなルールのもと奮闘する極地の人々であったが、脅威は終わっていなかった。
 生命のいなくなった不毛の大国アメリカのホワイトハウス地下では、愚かな軍人官僚によって解除設定された核ミサイルの自動報復装置が、地震によって作動し、ソ連を含む世界中に核ミサイルが撃ち込まれてしまう。
 連動するようにソ連の自動報復装置も起動し始める。
 標的の中には南極も入っていた。

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草刈正雄放浪中のこのシーンが有名だった


 原作は今から半世紀以上も前の1964年に刊行されている。
 前半はまさに新型コロナウイルスの発生とその猛威を予言していたかのような展開。
 緒形拳演じる医師や多岐川裕美演じる看護師たちが、際限なくやって来るMM88感染者の対応に身も心も疲れ果てて、仕事場である病院の休憩室でへたばっている場面は、現在のコロナ専門病棟もかくやと思わせる。
 MM88の主症状が肺炎であるというのも恐ろしさを煽る。

 映画史上初の南極大陸ロケ、多数の外国スター含む豪華キャスト実現、メインのセリフは英語、山となった死体に覆われた都市の風景、エキストラ大量動員のパニックシーンなど、並大抵でない予算と手間ひまがかかったであろう。
 この小説を映画化するために会社を継いだという角川春樹の意気込みと、ヤクザ映画でアクションシーンや大人数を動かす腕を鍛えた深作欣二監督の底力を感じる作品である。
 エンターテインメント性も十分で、156分という長さを感じさせない。

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南極ロケ


 どうしても気になってしまうのは、主役の草刈正雄の演技。
 ジョージ・ケネディ、グレン・フォードなど並いる外国ベテラン役者の中に混じって、観ているこちらが恥ずかしくなる稚拙さ。
 うっかりすると、人類滅亡という作品の深刻なテーマと黙示録的ムードを破壊しかねないレベル。
 アイドルばりの端正な美貌と爽やかすぎる笑顔が、かえって仇となっている。
 「人類が破滅したのに、白い歯見せて笑ってるんじゃないよ」と思わず突っ込みたくなる。
 もちろん、今や堂々の実力派人気俳優の一人であるのは知っての通り。
 当時の草刈の人気の高さと外人に引けを取らない身長の高さ(185㎝)が、この抜擢の理由だったのだろう。
 あるいは、80年代は華のある若手男優の払底期だったのかもしれない。
 
 オリビア・ハッセ―は日本人に人気の高い女優であった。
 白い肌にストレートな黒髪の美しい、バタ臭くない清楚な容姿もさることながら、歌手の布施明を亭主に選んでくれたことで、日本男性に潜む外人コンプレックスを払拭する働きをしてくれた。 
 ソルティは、フランコ・ゼッフィレリ監督の『ロミオとジュリエット』(1968)が忘れられない。
 映画史上最高のジュリエットであろう。

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オリビア・ハッセ―と草刈正雄
 
 半世紀前に観たときから、ジャニス・イアンの歌う主題歌「ユー・アー・ラブ」の歌詞の最後が不明であった。
 英語ではないらしく、“トューザ キムシャ”とか聞こえるのだ。
 今回調べてみて、Toujours gai mon cher というフランス語と分かった。
 直訳すると、「いつも元気に、愛する人よ」
 「お元気で」「お達者で」といったところか。 

 ウイルスは確かに怖い。
 だが、もっと怖いのは人と人、国と国との不信や憎み合いや理性の喪失である。
 小松左京はそう教えてくれる。




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 本:『ロックダウン』(ピーター・メイ著)

2020原著刊行
2021年ハーパーコリンズ・ジャパン発行

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 ロンドンを舞台とする刑事ミステリー。
 工事現場の穴から発見されたボストンバッグに入っていたのは、死んで間もないアジア系少女の頭蓋骨。
 退職を目前とする刑事マクニールは、少ない手がかりをもとに謎の解明に挑むが、その行く先々で重要参考人が次から次へと変死を遂げて行く。
 頭蓋骨の科学調査から重大な事実を発見し、恐るべき真相に気づいたマクニールの身辺にも危機は及び・・・・・。

 ――といった内容で、これだけなら凡庸な話なのであるが、この小説には大がかりな仕掛けが施されている。
 それこそ、タイトルが示す通り「ロックダウン」されたロンドンが舞台、すなわち死亡率80%の新型ウイルスが猛威を振るい、わずか数ヶ月で死者50万人超え(その中には英国首相も含まれる)、医療は崩壊し、暴徒が店を略奪し、軍が街を警備し、交通機関はストップし、マスクをつけ他人との接触を避ける市民は抗ウイルス薬だけを頼りに家に閉じこもる、という悪夢のごとき非日常世界の中での出来事なのである。

 この小説が書かれたのは2005年。
 「あまりにも非現実的だ」という理由で出版を見送られたそうだ。
 非現実的がまさしく“現実”となったがための緊急出版。
 まったく何が起こるかわからない。
 少女(中国人だった)の死が実は新型ウイルスの発生と関係していて、その背後には血も凍るような組織の陰謀があった・・・・・という真相も“現実”にならないといいが。

ウイルス


 いま世界中で起こっている新型コロナウイルス騒動をあたかも予知したかのような想像力とリアリティある描写は見事。
 読んでいて、同じロンドンを舞台としたドキュメントであるデフォー作『ペスト』を想起したが、元ネタはそこかもしれない。
 ゾンビパニックと本格ミステリーを結合させたのは今村昌弘『屍人荘の殺人』であるが、本作はウイルスパニックと刑事ミステリーを結合させたのである。
 その思いきった発想は買うものの、物語の収束の仕方が弱い。
 真犯人とついに対峙し追跡する場面におけるマクニールの行動はあまりに愚かで、プロらしさに欠けていて、あきれるばかり。
 ゲイのカップルや生意気な鑑識の女子インターンなど、著者が快く思っていないらしい(描き方に毒がある)登場人物が全員殺されてしまうのも、著者の偏向とご都合主義を感じさせる。
 大風呂敷を広げたわりには・・・・・という読後感が残った。
 新型コロナがなければ、たしかに発行されることはなかったろう。



おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● コロナではない、それは・・・  映画:『ステイ・ホーム』(ロベルト・デ・フェオ監督)

2019年イタリア
108分

 幼い頃に自動車事故で父親を失い、自らは車椅子生活となった少年サミュエル。
 使用人に囲まれながら、広大な森の中の屋敷に母親と二人で暮らす。
 「外は危険、家の中が一番」と聞かされ続け、生まれてから一度も敷地の外に出たことはない。
 ある日、外の世界から一人の少女デニーズがやって来て、使用人の一人となる。
 快活で美しいデニーズに心を奪われたサミュエル。
 デニーズを虐げる母親に憤りを覚え、ある夜、デニーズと共に屋敷をあとにする。

 一見、支配的で精神異常の気のある母親の束縛から、恋に目覚めた思春期の息子が自立する物語と読める。
 それは間違いないのだが、ラストで話がひっくり返る。
 原題 Il nido は「巣」の意だが、それは母鳥が必死で雛を守る巣であると同時に・・・・。


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 母親役のフランチェスカ・カヴァリンという女優が素晴らしい。
 凛とした美しさのうちに、狂気に近い母の愛、怖れと哀しみを表現している。
 イタリアのニコール・キッドマン(@『アザーズ』)といったふう。
 
 色彩感覚と画面の照りはまさにイタリア映画である。
 
 
おすすめ度 :★★

★★★★★ 
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 50歳以上お気の毒さま 本:『白い病』(カール・チャペック著)

1937年原著刊行
1992年邦訳初出
2020年岩波文庫(阿部賢一訳)

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 3幕の戯曲。
 カール・チャペック(1890-1938)は、今は無きチェコスロバキア共和国のジャーナリスト&作家。
 チェコスロバキアは1918年オーストリア=ハンガリー帝国から独立して建国、1960年以降は共産党独裁による社会主義国家となりソ連の支配下にあった。1992年のビロード革命で共産党政権が崩壊、チェコ共和国とスロバキア共和国に分離して今に至っている。

 白い病とはチャペックが創造した伝染病である。50歳以上の人間だけが罹患、皮膚に白い斑点が現れたのち身体内部で腐敗が進行し、数週間後に死亡する。感染力は非常に強く、握手でもうつる。中国が発生源という噂がある。
 新型コロナウイルスとの類似を思うところだが、本書はまさに2020年4月~5月の緊急事態宣言中に訳し出されてウェブ公開されたのが文庫化のきっかけとなった。
 カミュの『ペスト』、デフォーの『ペスト』同様、タイムリーな企画出版というわけだ。

 白い病はコロナ同様、世代間の分離と対立を引き起こす。
 作中に登場するある家族の会話。

父 ばかげてる! 今日の学問や文明はいったいどうなってるんだ、ありえん話だ――伝染病がこんなに流行しているってことは、今は中世だとでも言うのか? しかもどうして五十歳なんだ。職場でも一人が病気になったが、ちょうど四十五だった。五十前後の人間だけが病気になるのはどう考えても公平じゃない。いったいどうして、なぜなんだ――
 なぜって? 父さん、若い世代に場所を譲るためでしょ。そうならなければ、行き場がないんだから。

娘 今の若者にはチャンスがないの、この世の中に十分な場所がないの。だから、私たち若者がどうにか暮らして、家族をもてるようになるには、何かが起きないとだめなの!


 世界じゅうに広がり打つ手がないように思われた白い病の特効薬を、ある町医者が開発した。ガーレン医師だ。
 お国の大学病院を借りておこなった臨床試験でも抜群の成績を上げた。
 大学病院の責任者はじめ財界や政界のお偉方は、ガーレン医師に治療法の公開を求める。
 それに対してガーレンが要求した引換え条件は、あまりにまっとう過ぎるがゆえに、かえって実現困難なものであった。

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 本作のテーマは、平和を求める者と戦争・権力・富を求める者との対峙を描くところにある。それはまた「持たざる者」と「持つ者」との闘いであり、一人の平和主義者が国家主義者に挑んだ一種のテロリズムである。武器は白い病の治療法だ。

 発表当時はもちろん、ヨーロッパで勢力を拡大しつつあったナチスドイツ、つまり国家主義&全体主義に対する風刺であり、プロテストだったのだろう。登場人物の一人、国軍の最高指導者たる元帥は、ヒトラーを連想させる。
 本作がタイムリーなのは白い病がコロナウイルスと似ているからだけではない。
 平和をひたすら求め貧しい患者を助けるガーレンと、「国のため」と言いつつ栄誉や威信や私利私欲に執着する権力者との対比に、香港や台湾の市民 v.s. 中国共産党を、あるいは民主化を求めるミャンマーの大衆 v.s. 国軍を、重ね合わせてしまうからである。
 時代を超越するところが名作たるゆえん、岩波文庫にふさわしい。

 最後には元帥自身も白い病に感染してしまう。
 さて、どんな結末が用意されているか・・・・。

 140ページの薄さなので、小一時間あれば読める。
 

 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 自粛警察の末路 映画:『ゼイカム-到来-』(ジョニー・ケバーキアン監督)

2018年イギリス
91分

 SF異生物ホラーサスペンス。
 原題は Await Further Instructions 「次の指示を待て」

 何より怖いのは、2018年に作られたこの映画が今のコロナ社会を予言しているかのような点。
 異なるのは、人類を襲ってくるのが新型コロナウイルスではなく、イカのような触手を何本も持った謎の知的生命体であること。
 この最強のエイリアン(ソルティ命名「メタリック星人」)に目をつけられた一家の受難を描く。

 クリスマス休暇に何年ぶりかに実家を訪れた長男ニックとインド系移民の恋人アンジー。
 ニックの母親は二人を温かく迎えるも、超保守的なニックの祖父と父親トニーはアンジーを見て露骨に嫌な顔をする。
 そこへ長女で妊娠中のケイトが夫のスコットを連れてやって来る。ケイトもまた頭のいいアンジーに対するコンプレックスが隠せない。
 熱心なクリスチャン一家の排他的空気に耐えられなくなったアンジーとニックは、翌朝早く、実家を出ようとする。
 が、時すでに遅し。
 家屋はまるごと何者かの手によってメタリック質の壁で厳重に封鎖され、ネットも電話もラジオもつながらず、一家は閉じ込められてしまう。
 「緊急事態発生。ステイホームして次の指示を待て」
 テレビモニターに現われる指示は政府のものなのか。それとも・・・・・? 

 といった異常なシチュエーションで、一家は、「ステイホームによる自粛」、「汚染された食べ物の廃棄」、「正体不明のワクチンの接種」、「家族の中の感染者の隔離」・・・・と、だんだんとグレードアップしてゆく当局からの指示に戸惑いながらも従ってしまう。
 冷静で科学的思考をもつニックとアンジーはそれらの指示に疑いを抱き、黙って従うことに抵抗を示すが、一家の主人たることに強迫的なこだわりをもつ権威主義のトニーは、当局の指示を鵜のみにし、強引に家族を従わせていく。
 このあたりの家族それぞれの振る舞いが、まさにコロナ禍の社会の人間模様を映しているかのよう。  
 すなわち、
 祖父と父親トニー・・・・・権力に盲従するマチョイズムの自粛警察
 母親と婿のスコット・・・・自分の意見を持たず、権威に逆らえない右顧左眄の人々
 長女ケイト・・・・感情的衝動的で容易にパニックに陥いる人々
 長男ニックとアンジー・・・・冷静に理性的に判断し振舞おうとする一部の人々
 
 一家の中では、自粛警察のお父さんトニーが、実に怖い。
 子供の頃から父親(ニックの祖父)に馬鹿にされ続けていた憤懣がここに来て爆発し、この未曽有の危機をかえって家族内での自らの権威と支配を高めるために用いようとする。
 その結果、すさまじい家庭内暴力をまねき、外からのメタリック星人の攻撃を待つまでもなく、一家は勝手に内部崩壊していく。
 敵は外にいたのではなく、内部に育っていたのである。
 お父さんは最後にはメタリック星人に寄生されて、文字通り、手足となって動くようになる。
 「私を敬え」と叫びながら、息子のニックとアンジーを斧で殺戮する。

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メタリック星人に寄生されたお父さん


 ただ一人残されたのは、死んだケイトのお腹の中にいた赤ん坊。
 クリスマスの夜に生まれた男の子であった。

  ハレルヤ!



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損







● 本:『医療現場は地獄の戦場だった!』(大内啓著)

2020年ビジネス社

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 読売新聞の書評欄を見て本書を知った。
 コロナ先進国(!)アメリカの救急医療(いわゆるER)で働く40代医師のリポートである。
 購読の決め手となったのは、著者の大内が実はノンフィクションライター井上理津子の甥であり、本書は、日本にいる井上が電話やズームを活用して著者に取材し文章にまとめた、という経緯が記されていたからである。
 『さいごの色街 飛田』や『親を送る その日は必ずやってくる』を読んで井上の力量を知っていたので、俄然興味が湧いたのである。
 言われてみれば、大内啓は、井上のアメリカ在住の甥っ子として『親を送る』に登場していた記憶がある。

 構成は4章に分かれている。
 第1、2章は、大内が勤めるマサチューセッツ州ブリガム・アンド・ウィメンズ病院ERにおけるコロナ患者治療の模様が描かれる。
 タイトル通り、「地獄の戦場」というのも頷ける凄まじい現場風景に身も凍る思い。
 日本でもすでにいくつかの病院では似たような状況になっていよう。
 
 ピーク時は、夢にゾンビがよく出てきた。私は『ウォーキング・デッド』などのドラマが好きで、ゾンビに怖い印象は持っていないが、夢では夥しい数のゾンビが空を飛び回った。そのゾンビたちが一つの建物の中に吸い込まれていく。あ、見覚えのある建物だ、と思ったら、ブリガム・アンド・ウィメンズ病院だった――。何度もそんな感じの夢を見た。

 第3章では、内科と救急科の専門医、かつ世界一と言われるハーバード・メディカル・スクールで助教授をつとめるようになるまでの大内の履歴が語られる。
 高い倍率をくぐって一流の切符を手にするための猛勉強ぶりは、分野は違えど、眞子内親王のフィアンセである小室某の近況報道を連想させる。
 アメリカで医師を目指した者が、一人前の医師になるまでに必要とされる訓練や経験がうかがえて興味深い。
 中でも、南アフリカでのエイズ患者治療をめぐる話や、ヒスパニック系移民の多いニューヨークのクイーンズ区での研修の話が、世界における、あるいは同じ一つの国でも地域における“格差”をまざまざとえぐり出し、ある意味、「コロナ禍は先進国(地域)だけの贅沢病」といった感慨さえ抱かせる。
 たとえば、平均寿命50歳以下の国ではコロナは問題視されまい。

 第4章では、アメリカの医療の仕組みが、日本との比較において語られる。
 国民皆保険の日本と違って民間保険がメインのアメリカ、多様な人種構成で英語も話せない人も多く“格差”の激しいアメリカ、「白い巨塔」の日本の医学界とは違って努力と実力により出世の階段を上っていけるアメリカ、尊厳死など延命治療に関する本人の権利が重視されるアメリカ・・・・彼我の違いもまた興味が尽きない。

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David MarkによるPixabayからの画像

 
 24時間絶え間なく運び込まれる何百人というコロナ患者を診てきた大内が実感した「新型コロナウイルスの特徴」とは・・・・・。
 
 一つは、自覚症状がまったくなかった人すら、急激に悪化すること。
 その日の朝まで少しの発熱程度だったという人が、昼に非常に息をしづらくなり、家族の車で救急へ来る。昼まで倦怠感程度だったという人が、夕方には息も絶え絶えとなって救急車で搬送されてくる。コロナほど「徐々に」の三文字がない、他とは違う呼吸器疾患を、私は知らない。
 
 もう一つは、酸素飽和度が上がりにくいことだ。酸素マスクを使った場合でも、気管挿管をした場合でも、期待する数値には上がらない。 

 つまり、急激に悪化し、いったん悪くなったら容易には回復しにくい。
 さらに、大内は次のようにも述べている。
 
 死んでいく人一人ひとりに、死に際してそれぞれの思いがあるだろう。また、間近に見送る近しい人たちにもいろいろな思いがあるだろう。ところが、新型コロナ感染症で亡くなるときには、誰もがたった一人だ。
 家族も友人も立ち会えない。誰にも看取られず、急激な病状変化の末に、たった一人で息を引き取る。
 ICUには家族も入れない。そればかりか、病院そのものが立ち入り禁止の時期も短くなかった。感染拡大を防ぐためには致し方ない。分かっている。しかし、なんと残酷な疾病だろうと、私は何度も何度も頭を抱えた。 

 一気に読み上げずにはいられない迫力と興味深さはともかくとして、ソルティは、格差社会の一面を切り取った『さいごの色街 飛田』、肉親のターミナルケアの模様を描いた『親を送る』、両ノンフィクションを書いた井上の甥っ子が、このような体験に遭遇するということに、何か不思議な因縁を覚えた。



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 新型コロナウイルスの怖さに関する考察

 新型コロナウイルスが出現して一年以上になる。
 2021年1月10日時点の世界の累計感染者は8,800万人、死亡者は190万人を超えている。
 たった一年でこれだけ広がったのだ。
 これは2019年のデータではあるが、UNAIDS(国連エイズ合同計画)の発表によれば、世界の新規HIV感染者は年間170万人、エイズによる死亡者は年間69万人だった。
 新型コロナウイルスの一年間の感染者数は、過去40年分のHIV感染者数(推定7,570万人)を上回ってしまった。
 このウイルスの威力をまざまざと感じる。
 
 日本では2021年1月10日現在、累計感染者288,825人、死亡者4,066人である。(厚生労働省発表)
 ソルティは首都圏に住み、地元の介護の仕事に携わっているが、今や、身近なところで感染を聞くようになった。地域のデイサービス、認知症のグループホーム、市内の学校、骨折治療で世話になった病院・・・・。
 先日も知り合いの介護従事者が感染し、いま自宅療養中という。
 自分や自分の同居家族がいつ感染してもおかしくない状況になってしまった。
 なんということだ!
 ダイヤモンドプリンセス時代が懐かしい・・・・

 
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 このウイルスの怖さはどこにあるのだろう?

 むろん、死につながる病であることが第一である。
 が、それだけではないことも確かだ。
 同じ感染症で、かかったら死ぬこともあるという点では、インフルエンザと変わりないはずだ。
 感染力や致死率の違いが、新型コロナウイルスをインフルエンザより怖いものにしているのだろうか?
 それならばHIV/AIDSはどうだ?
 感染力や致死率はインフルエンザよりずっと低いのに、いまだに人々から恐れられ、忌避されている。
 そう。新型コロナウイルスをめぐる今の日本の状況は、35年前のAIDSパニックに近いものがある。
 そのあたりを考察してみたい。

 
新型コロナウイルスが怖い理由

理由1 病気そのものの怖さ
 ウイルス感染が個体にもたらす身体的苦痛と心理的苦痛がある。
 初期症状と呼ばれる発熱や倦怠感やのどの痛みから始まって、嗅覚・味覚の異常や止まらない咳、呼吸苦、肺炎、気管内挿入に象徴される治療の苦しみ、そして最悪の場合、死がある。
 運よく回復したとしても、後遺症に苦しむ人も少なくない。
 病気と闘っている間に生じるであろう不安、恐怖、孤独、絶望なども馬鹿にならない。
 無症状で自宅やホテルで待機している人もまた、「いつ発症するか」「いつ急変するか」という不安や恐怖を免れ得まい。

 病気に対する怖さに影響を与えるものとして、その国の医療レベル、治療へのアクセスしやすさ、社会保障レベル、個人が属する文化における病気や死に対する観念、それぞれの個体の持っている強さ(年齢・既往症・抵抗力・精神力ほか)などが挙げられよう。

 
理由2 スティグマによる怖さ
 スティグマとは烙印のこと、かつて犯罪者の皮膚に焼きゴテでつけた印のことである。
 新型コロナウイルスに感染することで、個人は周囲や社会からまるで犯罪者のような扱いを受けることがある。
 中傷、差別、プライバシー侵害、不必要な隔離などの自由の束縛。
 当人だけでなく家族も被害者となる。
 患者をケアする医療従事者もまた対象となる。
 すでにいろいろな酷いことがあちこちで起きているのを聞いている。

 スティグマの強さに影響を与えるものとして、社会の人権意識や科学性、メディアの扱い、病気や死に対する観念などが挙げられよう。たとえば、健康幻想が強いところでは、病気=悪とみなされやすい。
 一般に、迷信深い他罰的社会ほど、スティグマは強いと思われる。


理由3 周囲や世間に迷惑をかける怖さ
 自分が感染した。そのときに、周囲が被るであろう様々な負担や労力や被害に対する負い目が生じる。
 たとえば、病欠によって仕事に穴を開ける、同僚の負担を増やす負い目。自分と関わった人々を“濃厚接触者”にしてしまう(=2週間の自宅待機を余儀なくさせる)負い目。風評被害による経済的損失を作り出してしまう負い目。

 こうした負い目は、世間体を気にする社会、個人より組織を大切にする社会、「人に迷惑をかけるな」という教えが尊ばれる社会、同調圧力が強い社会ほど、個人にのしかかるであろう。
 日本はまさにそうである。


理由4 他人にうつしてしまう怖さ
 上記1~3の怖さのすべてを他人にも与えてしまう恐れ。
 それが見知らぬ他人でもつらいことだが、職場の同僚であったり、仲の良い友人であったり、同居の家族であったりすると、実に心苦しいものである。

 他人にうつしてしまう怖さは、たとえば、医療や介護や保育など濃厚接触が避けられない仕事に就いていればより強くなるし、同居する家族の有無によっても違ってくるだろう。
 厄介なのは、現在自分が感染しているかどうかが把握できないことである。
 無症状でも感染していることはあるし、検査で「陰性」が出てもそれは100%絶対ではない(=偽陰性がある)。
 また、HIV検査同様、感染して時間が経っていない段階では正確な判定が下せない“ウインドウピリオド”があるため、「陰性」は必ずしも今現在の状態を示すものにはならない。
 自分がすでに「感染している」ものと仮定して、相手に接するくらいの配慮(逆防御?)が必要かもしれない。


理由5 生活が破壊される怖さ
 新型コロナウイルスの影響による失業者は、本年1月6日時点で8万人を超えたと言う。 
 この先、もっともっと増えるのは間違いない。
 企業の倒産、閉店、廃業、解雇、雇い止め・・・・・。
 全国レベルでこれだけたくさんの人が生活の危機にさらされたのは、終戦直後以来初めてだろう。
 自粛の影響は、ひとり経済面のみならず、文化面、教育面、健康面(身体的にも精神的にも)にも深い影響を及ぼしている。
 昨年7月以降の自殺者数の増加傾向も指摘されている。
 社会保障がいまこそ重要だ。


 上記1~5の理由は相互に関連し、影響し合い、良くも悪くも相乗効果を生んでいる。
 たとえば、まかり間違えば死に至る病であるからこそ、スティグマも強いし、他人にうつしてしまうのが怖い。他人に感染させてしまう病であるからこそ、加害被害の関係が発生し、感染者を罰する空気が生まれやすい。世間に迷惑をかけることを非とする社会だからこそ、迷惑の元となった人に対するバッシングは厳しい。生活が破壊されるリスクがあるからこそ、病気の怖さが一段と増してくる。


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Gerd AltmannによるPixabayからの画像


 ソルティは専門家ではないし、ここは対策を考える場ではない。
 特効薬やワクチンの開発が一番であることは、素人でも分かるが・・・。
 ただ、政府の動きを見ていると、戦略のなさを指摘せざるを得ない。
 またしても、太平洋戦争時(8.15)や福島原発事故時(3.11)に露見したニッポン・イデオロギーによる愚行が繰り返されているような気がしてならない。
 台湾政府のような戦略的行動がなぜ取れないのだろう?
 そうだ。怖さの理由の6番目は「政府を信頼できないから」である。

 少なくとも、感染者に対する中傷や差別をなくすために、
  1.  医療・行政機関等からのプライバシー漏洩を絶対に避ける
  2.  悪質な中傷や人権侵害には罰則を設ける
 この二つは徹底してほしいと思う。

 別記事でも書いたが、エイズパニックの時同様、上記理由の2と3が強いと、1や4を凌駕する。
 つまり、他人に感染させる恐れがあっても、スティグマを恐れたり他人に迷惑をかけることに怯えたりすると、検査を拒否したり感染を隠したりする行動に流れやすい。むろん、治療にもつながらない。
 発症して入院につながる場合は別として、感染しているのに症状が出ないケース、いわゆる無顕性感染の場合、隠蔽しての行動は可能である。
 現在、ネットで購入できる検査キットが出回っている。
 住所・氏名を伝えなければならない(=感染者であることが特定される)検査所に行かなくとも、自らの感染状況を自宅で知ることができる。
 そこで自らの感染を知った人たちが、それを隠蔽して、これまで通りに通勤して仕事して友人と会食してをすれば、感染拡大が止まらなくなる。

 感染の恐れのある人が安心して検査を受けられ、感染が判明した人が必要最低限の周囲の人に躊躇なく結果を伝えることができ、必要な補償を受けながら自宅待機や治療に安心して入られる状況をつくっていくことが望まれる。
 でなければ、だれも安心して感染者にはなれない。

 怖いのは病気よりも世間や社会である。











 



● ゾンビが街にやって来る! 映画:『アナと世界の終わり』(ジョン・マクフェール監督)

2017年イギリス
98分

 原題は、Anna and the Apocalypse(アナと黙示録)

 キュートな女子高生アナを主人公とした、ポップでハートウォーミングな学園ミュージカル――といった風情。
 が、フタを開ければ、イギリス映画のお家芸たるゾンビもの!
 クリスマスを前に、ゾンビが街にやってくる!
 
 ゾンビものとしての新機軸は、ミュージカル仕立てにしたところ。
 教室で、食堂で、講堂で、街路で、ボウリング場で、はたまた血しぶき噴き上げる凄惨なゾンビとの戦いの場で、突如歌い踊り出す若者たちのパフォーマンスが楽しい。
 さすがに、ゾンビたちは歌も踊りもしないが・・・・・。
 
 アナ役のエラ・ハントは将来楽しみな正統派美少女。
 この一作でファンになった男子も多いことだろう。
 気の強そうなところは、往年の国民的美少女ゴクミ(後藤久美子)を思い出させる。


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アナ役のエラ・ハント
 

 音楽もいい。テンポもいい。脚本も演出もいい。
 加えて、さすがイギリスというべきか。随所に差し込まれるブラックジョークがたまらない。
 ゾンビに咬まれ仮死状態となったアナの今一つさえないボーイフレンド。彼の着ているクリスマスツリーデザインのセーターが不意に電飾で光り輝くシーンなど、なぜか知らず、感動で涙が出そうになった。
 
 ゾンビの発生原因は、製薬企業が極秘裏に作ったウイルスの漏出。
 そこから感染が広がった。
 制作陣もまさか3年後の世界がこんなふうになっているとは予想だにしなかったであろう。
 コロナ禍も歌って踊って吹き飛ばしたいところだが、それはもっともやってはいけないことだ。
 こうして家で映画を楽しむのが一番。
 
 
 
おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 初期症状もどきとPCR体験

 一週間ほど前から倦怠感と喉のつかえが続き、「風邪かなあ?」と思い様子を見ていたが、一昨日から下痢が始まった。
 いつもなら2回くらいトイレに行けば終息するのだが、4回、5回と繰り返す。食べるそばから水様便となって出ていく。おなかもグルグル鳴り続ける。滅多にないことである。
 熱はないものの、鼻の奥のほうに圧迫された感覚がある。
 「よもや?」と、ネットで『コロナ 初期症状』と検索かけると、案の定どれも当てはまった。
 
 思い返せば、まったく心当たりがないというわけではない。
 10月末に高尾山の麓の温泉施設に行ったとき、混みあった露天風呂と食事処に1時間以上は居続けた。当然、自分も周囲もマスクしていない。大声で喋っている若者グループも近くにいた。
 11月初めには、夜遅く乗った列車が人身事故でストップしたため帰宅できなくなり、会員カードを持っている繁華街のネットカフェで一晩過ごした。ブースの中で寝ているとき、知らぬ間にマスクをはずしていた。夜中、どこかのブースから咳が聞こえていた。
 ほかにも、列車のつり革や手すり、バスの降車ボタンやシート、エレベータのボタン、レンタルショップのDVDパッケージ、ドリンクバーの氷つかみ(トング)・・・・新型コロナウイルスと接触しうる可能性を数え上げたらキリがない。
 
 自分が一人暮らしならば、そして介護関連の仕事に関わっていなければ、「風邪だろう。食あたりだろう。更年期障害だろう」と自己判断し、そのままやり過ごしてしまうところだ。
 が、80を過ぎた両親と同居の身で、70~90歳の高齢者と日常的に触れ合う立場にいる。自分が直接彼らに触れないとしても、職場の同僚にうつしたら、そこから感染が広がりクラスターが発生してしまうかもしれない。
 
 昨日、思い切って仕事を休み、PCR検査を受けに行った。
 ネットで検索し、もっとも検査料の安いクリニックを選んだ。
 自宅からかなり離れているけれど、背に腹はかえられない。
 
混雑病院



 午前10時過ぎにクリニックに着くと、入口に掲示があった。

 「PCR検査を受ける方は、特設会場にお越しください」

 クリニックの建物の中ではなく、そこからやや離れた駐車場のような野外スペースに天幕が張られ、仮設の検査所が設けられていた。プレハブというかコンテナというか小さな建物が左右にいくつか並んだ中央のスペースに、パイプ椅子が20脚ほど間隔を置いて並べられ、完全防護したスタッフが忙しそうに立ち回っている。なんだか、野戦病院のよう(って映画でしか見たことないが)。
 
 平日の午前中だったので、それほど混んでなく、受付で待たされることはなかった。
 が、問診票への記入を済ませ、パイプ椅子に座って診察の順番を待っていると、見る間に人が増えていき、1時間くらいしたら椅子は全部埋まり、その周囲に数十名が立って順番待ちするくらいになった。土日、祝日はどれだけ混むことか。(そのクリニックは土日もやっている)
 幸い小春日和だったので、屋外でも長袖ジャケット一枚で過ごせたけれど、冬になったらどうするんだろう? 寒風の中、待たされるのだろうか?
 
 15分くらいで名前が呼ばれ、プレハブの一つに案内された。
 中には誰もおらず、パソコンの乗ったテーブルとその前に椅子があるだけ。
 その椅子に腰かけるよう指示された。
 遠隔モニターによる診察であった。
 モニターの中の医師から症状の確認があった。
 
 また外で待つこと10分。
 名前を呼ばれ、こんどは一角にある奇妙な小屋の前に案内される。
 それは密閉された四角いブースで、一つの壁面の上半分だけが透明シールドに覆われている。シールドの下部に、二つの穴が横に並んで空いている。戦前のサーカスの見世物小屋を思わせる(って映画でしか見たことないが)。
 受検者がシールドの正面に置かれた椅子に腰かけると、ブースの中にいる看護師が、二つの穴から手袋をはめた両腕を突き出し、受検者の鼻の穴に綿棒を突っ込む。看護師は、粘液がついた綿棒を試験管に密封する。
 はたで見ていると面白い光景なのだが、いざ自分の番になると、鼻の穴に綿棒が突っ込まれるのはなんとも気色悪い。

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絵ごころなし

 
 検査が終わり、待つこと20分。
 名前を呼ばれ、会計となった。
 ネットに書かれていた通りに万札を用意していたが、「発熱、咳、倦怠感など何かしら症状がある人」は保険が適用されるとのこと。
 ソルティの場合、薬の処方料も入れて2000円であった。
 2000円なら、それほど敷居も高くない。
 3ヶ月に1回くらいは受けてもいいかもしれない。
 
 結果は、陽性(感染の可能性大)の場合、事前登録した電話番号に5~6時間後に連絡が来る。連絡がなければ陰性である。
 もちろん、体操選手の内村航平のように擬陽性(ほんとうは陰性なのに陽性判定されること。100人に1人くらい)が出ることもある。擬陰性(ほんとうは陽性なのに陰性判定されること。100人に30人!くらい)のケースもある。
 結果は100%保障できないのだ。
 陰性結果をもらっても、症状が続くようなら、再受診・再検査の必要がある。


紅葉の自転車

 
 今回、検査を受けようと決めるにあたって、このウイルスの厄介さをつくづく思った。
 発熱や倦怠感や喉のつかえや下痢を主な症状とする病気など、それこそ風邪や細菌感染を含めゴマンとある。コロナ特有の症状ではない。
 なんらかの体調不良があったとき、そのたびコロナ感染を疑っていたら、しまいにはノイローゼになってしまうだろう。キリがない。
 と言って、1%でも感染の可能性がある限り、「他の人、特に家族や高齢者にうつしてはいけない」という思いが働き、検査を考えずにはおれない。
 「ならば、はじめから感染する/させるリスクのある行動をとらなければいいではないか」と言いたいところだが、残念ながら感染リスクはそこいらじゅうに潜んでいる。そこがこのウイルスの厄介なところである。
 コロナウイルスは日常生活でうつる。とくに、介護や医療や接客業のような仕事に就いている場合、リスクを完全に避けることはほとんど不可能に近い。
 
 HIV(エイズウイルス)と比較すると分かりやすい。
 HIVの初期症状もまた「インフルエンザに似た」もので、発熱や倦怠感や筋肉痛が起こる。(コロナ同様、まったく無症状の場合もある) 
 この初期症状を「すわ、エイズ!」と思って、不安に陥る人も少なくない。
 しかるに、HIVは日常生活ではうつらない。バスや電車や温泉やスポーツジムや料理店やカラオケではうつらない。相手の体液(血液、精液、膣分泌液)とじかに接触する性行為でしかうつらない。
 つまり、予防できる。きちんと予防できているという自覚も持てる。
 発熱や倦怠感があっても、それに先立って「思い当たる行為=予防しない性行為」がなかったならば、HIV感染の可能性はないと断言できる。検査は必要ない。
 たとえ、感染の可能性ある行為をしていたとしても、他人にうつさない選択は簡単にできる。
 一方、コロナの場合、家に閉じこもって他人との接触を断たない限り、完璧な予防は難しい。
 どこまで予防すれば安全と言えるのか、どこまで気をつければ他人にうつさずに済むのか、誰も確かなことが言えない。
 HIVと違って、日常生活こそが危ない。(検査会場には老若男女がいた。若者が圧倒的に多いHIV検査会場との顔ぶれの違いは、まさに感染経路の違いによるものだ)
 
 毎日マスク通勤し、多かれ少なかれ周囲と会話しつつ仕事して、昼は外食し、休日はできるだけ大人しく遊ぶ、あるいは気晴らしに買い物に行き、家族や友人とGOTOキャンペーンを利用し小旅行する。コロナ禍におけるごく一般的な庶民の生活である。
 それでソルティのように発熱や倦怠感や喉の痛みなどが生じて、自分の過去数日の行動を振り返ったとき、「感染するような行為、思い当たる機会はまったくなかった」と言い切れる人が果たしているものだろうか?
 たとえば、今大ヒット中の映画『鬼滅の刃』を満席の劇場で観て、隣席の人が上映中に飲食し、くしゃみした。席を移ることもできない。数日経って38度を超える熱が出た。
 「もしかしたら、あの時?」といったん思い始めたら、感染不安のループにはまり込むのは必定である。

不安のループ


 これからの風邪の季節、「初期症状」に振り回される人が増えることは間違いない。 
 ノイローゼにならない為には、感染予防に関する自分なりの“行動ルール”の設定と、感染リスクの評価に関する自分なりの“線引き”が必要かもしれない。
 つまり、コロナについて心配する閾値(しきいち)を作っておくのだ。
 まあ、その前に、何と言ってもふだんの体調管理に気を付けるに如くはないが・・・・。


 結果的にクリニックからの連絡はなかった    




● ソーシャル・ディスタンスのプロたち 本:『中高年ひきこもり』(藤田孝典著)

2019年扶桑社新書

 いわゆる8050問題として注視されるようになった中高年ひきこもり。
 平成30年度の内閣府調査によると、40歳から64歳までのひきこもりは、全国で約63万人という。が、現場でこの問題と取り組んでいる人の実感では「この数字は疑わし」く、実際には100万~200万人はいるという。
 むろん、ひきこもるのは中高年だけではない。登校拒否の10代、鬱になって会社を辞めた20代、「家事手伝い」という名目で実家に引きこもる若い女性、なんらかの精神障害を抱えた30代、それに定年後に家族以外の人と交流せず一日中テレビを観ているお父さん・・・・。このような人たちも入れたら、200万ではきかないだろう。
 
 ひきこもりをどう定義するか。
 精神科医の斎藤環によれば、

 20代後半までに問題化し、6ヶ月以上自宅にひきこもって社会参加しない状態が持続しており、ほかの精神障害がその第一の原因とは考えにくいもの。
 
 ポイントは、①精神疾患のような医学的要因ではないこと、②それが「問題化」していること、である。
 本人や周囲が苦しんでいなければ、そこに問題はない。
 たとえば、親の遺産のおかげで働かなくとも生活できる人が自宅アトリエに半年以上こもって好きな絵を描き続けるとか、自らの意志で山中に土地を買い小屋を建てて誰にも迷惑かけず自給自足の気ままな生活を送るとか、それは生き方の自由である。
 そもそも「社会参加しなければならない」と決めつけるのもおかしな話だ。
 ソルティだって、20代後半頃に半年以上アパートにひきこもって昼夜逆転の生活をして、ひたすら小説を書いていたことがある。コンビニの店員以外ほとんど誰とも話さなかったし、もちろんSNS(インターネット)なんかなかった。概して幸福な日々であった。

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 ひきこもりの問題を考える上で大切なのは、「なぜ社会参加が必要なのか?」、「だれが社会参加を求めているのか?」の視点であろう。
 上記の内閣府の調査が、ひきこもり当事者の上限年齢を64歳と設定しているのは、まさに語るに落ちるで、「就労可能年齢なのに働いていない」ことが問題視されているのだ。
 つまり、「お国の経済のために尽くしていない」、「税金を増やすための駒となっていない」点が暗に非難されている。この場合、社会参加の呼びかけは、ひきこもっている当人のためでなく、「社会のため・お国のため」である。
 あるいは、親兄弟が世間体のために当人のひきこもりを隠そうとしたり、当人に社会参加を強要する場合、求められているのは当人の幸せではなく、親兄弟自身の心の安寧である。
 当人の気持ちとは別のところで社会参加が謳われるとき、ひきこもりの問題が解決されるのは難しいと思う。
 というのも、ひきこもりの原因の大きな部分を成すのは、まさにこの「日本社会」に参加することへの当人なりの疑義や不安や嫌悪や恐怖だから――と思うからだ。 
 本書の副題が「社会問題を背負わされた人たち」とあるのは、まさにそうした見方に拠っている。

 当然、ひきこもり当事者のなかには医療福祉によるケアが必要な人もいる。すべてを否定するつもりはないが、ひきこもり当事者への対応は、苦しさやつらさの緩和という対症療法に陥らざるを得なかった。こうした過去の誤ちを清算し、中高年ひきこもりは社会の側に生み出す要因があるという認識のもと、本質的な改善に取り組まなければならない。

 すなわち、ひきこもり問題は、当人の性格とか甘えとか努力・根性不足といった個人的要因に帰すべきものではなく、人と「同じ」であることを求める画一的教育、ブラックな労働環境、通俗道徳を振り回す親や世間、効率や成果ばかりを重視し「働くことの意義や喜び」を人から奪う経済至上主義――といった社会的要因にこそその根があることを、内閣府の調査結果や当事者の証言を分析し、縷々説いているのが本書なのである。
 
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 著者の藤田孝典は、ホームレスなどの生活困窮者の支援に長年関わってきたソーシャルワーカーで、当ブログでは著書『反貧困のソーシャルワーク実践 NPO「ほっとポット」の挑戦』を紹介している。
 コロナ禍におけるナインティナイン岡村のブラック発言、「生活苦に陥った若く可愛い女の子が風俗に流れてくるのが楽しみ!」に対して、批判の急先鋒に立ったことで世間にその名を広めた。
  
 皮肉なことに、今回のコロナ禍によってひきこもりを巡る状況に変化が起きている。
 本書はコロナ発生前に発行されているが、当事者団体の一人がこう述べているのが興味深い。

 ネット環境が整った今なら、ひきこもったままでもいいんです。自分が穏やかでいられるよう、例えば自室をリフォームするなどして理想の環境を整え、ひきこもりながら生きていけるようにすればいい。ネットで外界の人たちとつながり、在宅勤務で仕事をすることが可能になった現在、ひきこもっていても社会参加することは十分に可能です。


 しばらくは、一億総ひきこもり時代が続くであろう。
 その間の日本人の内省がなんらかの良い社会変化を生みだすのであれば、「禍福はあざなえる縄の如し」である。
 


おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● 10の根深き本能 本:『ファクトフルネス』(ハンス・ロリング、オーラ・ロリング、アンナ・ロスリング・ロンランド著) 

2018年原著刊行
2019年日経BP社より邦訳

 主著者のハンス・ロリング(1948-2017)は、スウェーデンの医師、公衆衛生専門家。
 本書執筆を終えた後にすい臓癌で亡くなった。
 共著者は、息子とその妻である。

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 副題に「10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣」とある通り、現在ではネットで誰もが閲覧・取得できる、科学的方法により得られた統計データに基づいた、世界のありのままの姿が描き出される。
 たとえば、本書冒頭で著者は世界に関する13のクイズを読者に呈示する。
 ピックアップすると、

● 世界の人口のうち極度の貧困にある人の割合は、過去20年でどう変わったでしょう?
A 2倍になった
B あまり変わっていない
C 半分になった

● 世界の平均寿命は現在およそ何歳でしょう?
A 50歳
B 60歳
C 70歳

● 世界中の一歳の中で、なんらかの病気に対して予防接種を受けている子供はどのくらいいるでしょう?
A 20%
B 50%
C 80%

● いくらかでも電気が使える人は、世界にどのくらいいるでしょう?
A 20%
B 50%
C 80%

 正解はここでは記さないが、ソルティは4つとも間違った。
 全13問のうち当たったのは3問のみ。
 チンパンジーより悪い成績だ。(三択なので、デタラメに選んでも的中率は33.3%になる)
 いずれの場合も、現実のデータが示すものより悲観的でネガティブな答えを選んでいた。
 つまり、自らの主観的な思い込みで、世界を実際以上に悪いものと捉えていたのである。

 ひとつ安堵したのは、チンパンジーに負けたのはソルティだけではなかった。
 著者ハンス・ロリングは世界中の講演先でこのクイズを様々な対象に実施してきたが、チンパンジーより正答率が高かった者はほとんどいなかったという。

 なぜ、一般市民から高学歴の専門家までが、クイズでチンパンジーに負けるのか。知識不足を解決する方法はあるのか。何年もの間、事実に基づく世界の見方を教え、目の前の事実を誤認する人を観察し、そこから学んだことを一冊にまとめたのがこの本だ。
 あなたは次のような先入観を持っていないだろうか。
「世界では戦争、暴力、自然災害、人災、腐敗が絶えず、どんどん物騒になっている。金持ちはより一層金持ちになり、貧乏人はより一層貧乏になり、貧困は増え続ける一方だ。何もしなければ天然資源ももう尽きてしまう」
 
 持っている、持っている。
 加えて言えば、「核による人類破滅の脅威は刻々迫っており、新型コロナウイルスのような未知のウイルスや細菌の発生による人口淘汰は容赦なく、富士山は近い将来大爆発して首都圏を灰の海と化し、少子高齢化と不況により年金制度は崩壊し多数の高齢者が路頭に迷うことになり、UFOの目撃多発は宇宙人の地球侵略が近いことを示しており、・・・・・・」

 ひとつ言い訳をさせてもらえば、メディアの流す情報が悪いもの、ネガティヴなものばかりで、幼い頃からテレビやラジオや新聞やネットなどでそれらの砲弾を絶え間なく浴び続けてきたため、洗脳されてしまっているからだ。
「世界は危険に満ちている」
「世界には、日本には、解決しなければならない問題が山ほどある」
「今のうちに何とかしないと、将来大変なことになる」
 こういった見方――著者がいうところの「ドラマチックすぎる世界の見方」を、知らず身につけてしまっているのだ。

 そしてまた、一度身につけた知識がなかなかアップデートされないこともある。
 数十年前に学校で習い覚えたことがいまでも通用すると思ったら、大間違いである。
 たとえば、日本最初の貨幣は「和同開珎」でなく「富本銭」で、大化の改新は「645年」でなく「646年」で、遣唐使は「廃止」でなく「中止」で、鎌倉幕府の成立は「1192年」でなく「1185年」で、冥王星はもはや「惑星」の一つではなく、哺乳類は爬虫類から進化したのではなく、富士山は「休火山」でなく「活火山」である。
 平成以降の教科書を持つ子供と接点のないソルティ、最近まで知らなかった。

 数十年前の印象では、世界は西洋や日本など一握りの先進国と多数の発展途上国に分かれ、途上国では、「水道や電気の引かれていない未開の地が多く、人々は地べたに直接寝て、食べ物がなく予防接種も受けられない幼い子供はバタバタ死んでおり、それゆえ女性は生涯たくさんの子を産まなければならず、貧乏人や女性の教育機会や政治参加機会は奪われ、平均寿命が極端に低い」
 それは決して間違いではなかった。
 が、数十年前の話である。
 むろん、紛争地域や独裁政権国家など一部の国では、外からの支援の手が入らず開発が進まず、数十年前のまま時が止まって、上記のように悲惨な状態のままのところもある。
 しかし、それを全体に当てはめるのは正しくないのである。
 ニュース番組などで流される難民キャンプなどの情景、あるいは街頭でアウトリーチ活動中の国際NGOから手渡される「現地の人」の生活実態が悲惨で、強烈な印象が残るので、なんとなく途上国ではいまだに・・・・というイメージが払拭されていなかった。
 日々接する情報が個人の意識や思考に与える影響は大きい。

 だが、ハンスは言う。

 「ドラマチックすぎる世界の見方」をしてしまうのは、知識のアップデートを怠っているからではない。最新の情報にアクセスできる人たちでさえ同じ罠にはまってしまうのだ。また、悪徳メディア、プロパガンダ、フェイクニュース、低質な情報のせいでもない。
 わたしは何十年も講義やクイズを行い、人々が目の前にある事実を間違って解釈するさまを見聞きしてきた。その経験から言えるのは、「ドラマチックすぎる世界の見方」を変えるのはとても難しいということ。そして、その原因は脳の機能にあるということだ。

 本書の一番の特徴にしてすぐれた点は、どのような脳の機能(=本能)によって、「ドラマチックすぎる世界の見方」を我々がつい行ってしまうのかを明らかにしたところである。

 以下の10の本能を原因として挙げて、ひとつひとつを説明し分析している。

      1. 分断本能   ・・・「世界は分断されている」という思い込み
      2. ネガティヴ本能・・・「世界はどんどん悪くなっている」という思い込み
      3. 直線本能   ・・・「世界の人口はひたすら増え続ける」という思い込み
      4. 恐怖本能   ・・・危険でないことを、恐ろしいと考えてしまう思い込み
      5. 過大視本能  ・・・「目の前の数字が一番重要だ」という思い込み
      6. パターン化本能・・・「ひとつの例がすべてに当てはまる」という思い込み
      7. 宿命本能   ・・・「すべてはあらかじめ決まっている」という思い込み
      8. 単純化本能  ・・・「世界はひとつの切り口で理解できる」という思い込み
      9. 犯人捜し本能 ・・・「誰かを責めれば物事は解決する」という思い込み
      10. 焦り本能   ・・・「いますぐ手を打たないと大変なことになる」という思い込み

 社会全体を見ても、身の回りを見ても、なにより自分自身を振り返っても、「確かにそうだよなあ」、「その傾向(本能)あるよなあ」と思うことしきりである。
 とりわけ、今のコロナ禍における世の人々のありさまに、上記の10の本能のいくつかを見出すことはとても容易である。
 あちこちで起きている感染者バッシングの様を見ていると、日本人はとくに「犯人捜し本能」が強いのではないか、と思われる(――と断定するのはまさに「パターン化本能」のなせるわざか)

 10の本能に毒されずに客観データに基づいて世界をありのままに見たとき、

「世界はあなたが思っているより悪いところでも危険なところでもないし、悪くなってもいない。むしろ、歴史を通じて良くなってきている」

という結論に導かれる。
 不安が軽減され、精神衛生上こんなに良いことはない。
 その結論がなかなか受け入れ難いのならば、その理由を自らにまず問いかけるべきなのだろう。
 訳者の一人(関美和)はあとがきに、こう記している。

 この本が世の中に残る一冊になるだろうと考える理由は、この本の教えが「世界の姿」だけではなく「自分の姿」を見せてくれるからです。知識不足で傲慢な自分、焦って間違った判断をしてしまう自分、他人をステレオタイプにはめてしまう自分、誰かを責めたくなってしまう自分。そんな自分に気づかせてくれ、少しだけ「待てよ、これは例の本能では?」とブレーキをかける役に立ってくれるのが、ファクトフルネスなのでしょう。


 思い込みや主観の囚われから自らを解放したいと願う人におススメしたい本である。


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おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 新しい日常 映画:『アニアーラ』(監督:ペッラ・カーゲルマン、フーゴ・リリヤ)


2018年スウェーデン・デンマーク合作
106分

 北欧発のSF大作。
 原作はスウェーデンのノーベル文学賞作家ハリー・マーティンソンの長編叙事詩。オペラ化もされているようだ。

 豪華設備の整った巨大宇宙船アニアーラ号が、8000人の乗客を乗せて旅立った。
 放射性物質で汚染された地球から火星へ、人々を運ぶためである。
 しかし、衝突事故によって燃料は失われ、火星への軌道を外れ、修復不能なまま宇宙空間に投げ出される。
 もはや、地球にも火星にも到着できる可能性はゼロに等しい。
 
 ――といった苛酷な状況において、宇宙船の中でいったい何が起こるか、船内に閉じ込められ希望や目的を失った人々がどのように振舞うようになるかを、3週間後、1年後、3年後、10年後、24年後・・・と時系列で切り取って描いていく。
 言うなれば、終わりなき日常に閉じ込められた人間たち、ゴールの見えない自粛生活を強いられる人間たちに起こり得るドラマである。
 なんとまあ、今のコロナ世界を予言していたことか! 

 “ミーマ”と呼ばれる「美しい地球を体験する」ヴァーチャルリアリティ装置に依存する人々、カルト宗教の発生、支配-非支配関係の醸成、職務に忠実たろうとする者、自暴自棄になる者、恋や育児に希望を見出す者、精神を病む者・・・・さまざまな人間の振る舞いが描き出されていく。

 映像のクオリティは高い。
 美しく見ごたえある。

 北欧制作らしいと言うべきか、主役の女性はレズビアンで、同僚女性との恋愛やセックス、共同育児の様子などが描かれる。むろん、船内の誰もそれを特別視することはない。
 子供の誕生と成長は人類の希望の最たるものであるが、悲しいことに、心を病んだ恋人は子どもを殺めて自害してしまう。
 
 軌道への復帰を可能にするエネルギー源(謎の飛行物体)の捕獲に成功し、いったんは希望に湧いた船内であったが、結局その物体は人間の手におえる物質ではないと判明し、人々はさらなる絶望に追いやられる。
 あらゆる希望が失われたところで、物語は終わる。
 
 なんともまあ救いのない話で、北欧人の現実主義を見る思いがする。
 しかも、最後のシーンで描かれるのは「598万年後」ときた。
 琴座に達したアニアーラ号は、破壊され、残骸となって漂う。

 598万年という時空から見れば、598万年前に起こったアニアーラ号の事件など、いかほどのものであろうか。
 そこでの喜怒哀楽・悲喜こもごもの人間ドラマなど、「一瞬」の数億分の一にもならない。
 宇宙的ものさしで見た人類の価値、人間の営みという、「無」を示す地点までカメラを引き切って、ジ・エンドとなる。
 この圧倒的な非ヒューマニズム。
 さすがノーベル文学賞というべきか。

 
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アニアーラ号
 

 思うに、人は希望を持つから絶望する。
 はなから希望など持たなければ、落胆も失望も後悔もすることなく、たんたんと日々を生きられる。
 そこが地球だろうが、火星だろうが、宇宙空間だろうが、閉鎖された宇宙船の中であろうが、人間がやっていることは基本、「食べて・動いて・まぐわって・クソして・寝る」だけだからである。
 衣食住と安全さえ保障されて、プラス孤独や退屈を紛らわす手段や仲間があれば、基本どこでも生きられるし、自暴自棄になる必然性はない。
 アニアーラ号ではそれは保障されていた。(食材が尽きたあとは、自主栽培の藻を食料とした)
 そう考えると、アニアーラ号の人々は「新しい日常」に馴染めなかったのである。
 
 いろいろ考えさせられるところの多い秀作である。
 

 
おすすめ度 :★★★ 

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 風評被害の生まれ方

 このまえの日曜の晩、友人と会食するために、一ヶ月ぶりに都心に出かけた。
 両者の住まいの中間にある池袋で会うことにした。
 池袋駅西口の東京芸術劇場前にある公園、いわゆるウエストゲートパークで待ち合わせた。

 しばらく前までここは工事をしていた。それも終わって、野外舞台のある円形劇場を兼ねた、明るく清潔な公園に生まれ変わった。
 一角にできたカフェもおしゃれで、芸術劇場のコンサート前後に寄るのにあつらえ向きである。

 かつてこの公園は、チーマたちの縄張り争いやホームレスのたまり場として、あまり印象良くなかった。
 ここで待ち合わせなんかしたら、オヤジ狩りに遭ってもおかしくはない雰囲気があった。
 円周の孤に沿って設置されている木のベンチに腰掛け、友人を待ちながら、そんな記憶をたどった。
 
 ベンチに座っている人たちは、隣りの人と1m以上の間隔を空けて横並びに座っている。
 もちろん、みなマスクをつけている。
 何も言わなくとも、自然とそのように配慮できるところが、日本人の美点だろう。


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 友人は酒を飲まないので、駅からやや離れたファミレスに行った。
 なるべく混雑は避けたい。
 さいわい店内は空いていて、テーブル間隔も十分離れているので、ここなら大丈夫だろうと思った。
 やはり、都心の繁華街での会食は気を遣う。
 池袋駅西口はまさに「夜の街」でもあるので、ウイルスが至る所にいるような気さえしてくる。
 見えない敵は厄介である。

 友人は現在テレワーク中で、毎日、自宅で携帯電話とパソコンを使い仕事をしていると言う。
 「自分のペースで働けて、さぼれるからいいねえ」と言ったら、思ったより忙しくて朝から夜までパソコンに向かっているという。
 積もる話をして、気づいたら3時間近く経っていた。
 どちらかがウイルスを持っていたら、相手にうつしていただろう。
 
 
 昨日は、足のリハビリのため、いつもの病院に行った。
 マッサージを受けながら担当の理学療法士と話していたら、こんなことを言う。
 「市内の〇〇という店で、スタッフに感染者が出たそうですよ」

 ソルティも知っている飲食店で、たまに店の前を通ることもある。
 が、主に若者をターゲットにしているこじゃれた店なので、オジサン、入ったことはない。
 「え? それどこからの情報?」と聞くと、
 「この前、髪切りに行って、そこの理容師から聞いたんです。その理容師は友だちから聞いたみたいです」
 「その友だちはどうやって知ったの?」
 「その友だちが、〇〇店の向かいの店でバイトしていて、ある日、〇〇店のシャッターが下りていて、そこに『感染対策を行うため、3日間休業します』と書かれていたんだそうです」
 「ふ~ん」
 
 家に帰って、さっそく家族に伝えようと思い、そこではっとした。
 ソルティの得た情報はまた聞きのまた聞きで、伝言ゲームのように誤って伝わっている可能性大だ。
 しかも、元の情報自体も確かなものではない。
 「感染対策を行う」=「感染者が出た」ではない。
 店内のテーブルの配置や座席の向きを感染対策用に変える、ということかもしれない。
 テーブル間に新たに衝立を設置しているのかもしれない。
 大体、本当にスタッフに感染者が出たら、3日間休業ではすまないのではないか?

 ここで下手に店の名前を口にしてしまったら、そこからまた噂は広がっていくことだろう。
 そのうち、ネットに店名や住所を書くヤツも出てくるかもしれない。
 風評被害ははかりしれない。

 こんなふうにして、自分でもたいして意識しないうちに、コロナ差別に加担してしまうのだなあ。

 
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Gerd AltmannによるPixabayからの画像





● マルセイバターサンド臭の謎

 数週間前ほどから、頭皮から甘ったるい匂いがして、気になっていた。
 むろん、オヤジ臭あるいは加齢臭であっても、ちっともおかしくない年齢なのだけれど、その匂いはあまりにもきつく、異様に甘ったるい。
 六花堂名物のマルセイバターサンドを頭皮に擦り込んだような、ココナッツミルクを頭からかぶったような、強い洋菓子臭である。
 これが加齢臭なら、ケーキバイキング好きの若い女性が寄ってきそうである。


ケーキバイキング
 
 
 頭皮を触って手についた匂いは、ちょっとやそっと洗ったくらいでは落ちない。
 コロナ対応で家の各所に設置してある消毒液を塗りこんでも消えなくて、そのうち鼻腔にもついて、始終その匂いに包まれるようになり、さすがに気持ち悪くなった。

 もしや、身体に異変があるのか?
 血管内の過剰な糖分が、汗腺からにじみ出しているのでは?
 つまり、糖尿病?
 
 たしかに昨年末の骨折と今年に入ってのコロナ自粛で、運動不足は否めない。
 夕食後、映画を観ながらのスナックぼりぼりも続いていた。
 体重はここ半年で4キロ増えた。
 おなか周りもプヨプヨである。
 加えて、 
  • おしっこが近くなった。
  • 慢性的な疲労感がある。
  • 皮膚が乾燥して痒い。
  • 感染症にかかりやすくなった。
  • 目がかすむ。
  • 切り傷やその他の皮膚の傷が治りにくい。
  • 性機能の低下(ED)も・・・。 
 ネットで見つけた糖尿病(2型)の初期症状のほとんどに見事当てはまる。

 高血圧、インスリン投与、腎不全、透析治療、失明、動脈硬化、脳卒中・・・・

 起こり得る事態がすぐさま浮かんできてしまうのが、いろんな病人を見てきた介護職の因果なところである。
 そういえば、最後に健康診断を受けたのは一昨年の夏であった。

 
 先週、透析治療をやってる近所のクリニックに行き、ドクターに症状を話し、尿検査と血液検査をしてもらった。
 数日後、結果を聞きに行った。
 血糖値69(基準値は70~109)。
 尿に糖やタンパクは出てなかった。
 「とくに異常はありませんよ」
 糖尿病ではなかった。
 
 しかし、渡された検査報告書を見てがくぜんとした。

 総コレステロール    262 (基準値120~219)
 LDLコレステロール  183 (基準値70~139)
 中性脂肪        234 (基準値35~149)

 生活習慣病予備軍と言ってよかろう。
 このまま行けばマジで、糖尿病や動脈硬化や心筋梗塞への道をたどってしまう。
 帰り道、間食や夜食をやめて、運動不足解消に努めようと夏空に誓った。


夏空と信号



 先日はとても暑かった。
 30度を超える気温は、冷蔵庫の外に置きっぱなしにされた、牛乳をヨーグルトに変え、大豆を納豆に変え、麦茶をビールに変え、バナナをナマコに変える、そんな苛烈さだった。
 外出から帰ったソルティは、いつものように玄関の靴棚の上にあるアルコール消毒液をプッシュして、手に擦り込んだ。
 その瞬間、甘ったるい匂いの正体に気がついた。

 消毒液が原因だったのである!

 消毒液がついた手で、いつもの癖で髪の毛をいじっていたから、頭皮に匂いが移ったのだ。
 すぐさま、「消毒液、甘い匂い」と検索をかけて、裏をとった。
 犯人が特定できた。

 ジアセチル(diacetyl, C4H6O2)
 
 酵母や乳酸菌などの微生物による発酵の際に生成する有機化合物である。
 
ジアセチルは強いバター様・チーズ様の匂いを持ち、低濃度では蒸れたような匂いを発する。共存する物質により異なるが、弁別閾値は低く、製品中0.1mg/L程度の濃度で問題となる。2,3-ペンタンジオンも同様の匂いを持つが、揮発性が低いため匂いは弱い。一般に、発酵バターや一部のチーズなど乳酸発酵により製造される乳製品には不可欠な香りであるが、酒類などアルコール発酵により製造される飲食品では好ましくない異臭とされる。
(ウィキペディア「ジアセチル」より抜粋)

 おそらく、空気中の乳酸菌が消毒液のボトルの中に侵入し、アルコール発酵したのだろう。
 その日は特に暑かったので発酵の度合いが激しく、それと気づくほどに匂いがきつかったのである。
 臭いを消そうと消毒液を擦り込めば擦り込むほど、逆効果だった。

 このジアセチル、醸造業界ではダイアセチルとも呼ばれ、なんと「つわり香」と呼ばれているそうである。
 なるほど、妊娠初期の女性にとってはつらい刺激臭である――って分かるのか!

 また、ジアセチルは30~40代の男の「おやじ臭」の原因物質でもある。
 現在50代のソルティが発する「加齢臭」は、ノネナールという成分が原因であり、両者は化粧品業界によって厳密に区別されているらしい(笑)。
 言われてみれば、マルセイバターサンドは10年前くらいの頭皮の匂いだったかも・・・?

 くだんの消毒液は取り換えた。
 一件落着。

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● 都会でサバイバル 本:『ペスト』(ダニエル・デフォー著)

1722年原著刊行
1973年中央公論より邦訳発行(平井正穂訳)
2009年改版

 学生時代に途中挫折したカミュの『ペスト』を再読しようかと書店に行ったら、デフォーにも『ペスト』があるのを知った!(正確なタイトルは『ペスト年代記』)
 あの究極の無人島サバイバル男、『ロビンソン・クルーソー』の作者である。

 表紙カバーの説明によると、
1665年にロンドンを襲ったペストについて、体験者から状況を委細にわたって聞き、当時の『死亡週報』などをもとに入念に調べて、本書を書き上げた。

 デフォーは1660年ロンドン生まれなので当時5歳。
 身近に当時の状況を身をもって知る人がたくさんいた。つまり、実録に近い。
 哲学的なテーマを内包し、架空の物語であるカミュの『ペスト』よりも、読みやすくて面白そうであった。

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思った通り、いや想像をはるかに超えて、面白かった!!

 当時のロンドンの人口約45万人のうち、およそ6分の1にあたる約7万5千人が、たった1年余りで亡くなった未曽有の悲劇の記録を、「面白かった!」と言ってしまうのは語弊あるけれど、実になまなましくスリリング、壮絶にして凄惨、そんじょそこらのパニック映画など足元にも寄せ付けない臨場感と迫力に満ちている。
 疎開せずに疫渦の中心たるロンドンに残り、一部始終を目撃した体験者(デフォーの叔父がモデルと目される)の手記という体裁をとっているので、語り手の思ったことや感じたことがヴィヴィッドに読み手に伝わってくる。語り手の目や耳を借りて、阿鼻叫喚の地獄と化していくロンドンを体験する思いがする。
 さすが、ジャーナリスト出身の作家。

 平井正穂の訳は、非常にわかりやすく、漢字を結構ひらいてくれているため読みやすい。編集者が適当に章立てしてくれたら、もっと良かった。
 
 ペストは、ペスト菌の感染によって起きる感染症である。症状は、発熱、脱力感、頭痛などがある。症状は感染後1~7日後ほどで始まる。別名の黒死病は、感染者の皮膚が内出血によって紫黒色になることに由来する。
 感染ルートや臨床像によって腺ペスト、肺ペスト、敗血症型ペストに分けられる。人獣共通感染症・動物由来感染症である。ネズミなどげっ歯類を宿主とし、主にノミによって伝播されるほか、野生動物やペットからの直接感染や、ヒト―ヒト間での飛沫感染の場合もある。
 感染した場合、治療は抗生物質と支持療法による。致命率は非常に高く、治療した場合の死亡率は約10%だが、治療が行われなかった場合には60%から90%に達する。
(ウィキペディア『ペスト』より抜粋)

 このノンフィクション小説が書かれた時代にはペストの原因は分かっておらず、有効な治療法も発見されていなかった。(ペスト菌の発見は1894年北里柴三郎らによる)
 ひとたび感染したら、死を覚悟するほかなかったのである。
 
 新型コロナウイルスとの共通点ということで言えば、
  1.  接触感染、飛沫感染、媒介物感染する。
  2.  感染力が強い。
  3.  症状に多様性が見られる。
  4.  潜伏期間中にそれと知らず、他人にうつしてしまうことがある。
  5.  いまのところ有効なワクチンがない。
 とくに4番目の特徴が厄介なのは言うまでもない。
  
つまり、感染は知らず知らずのあいだに、それも、見たところ病気にかかっている気配もない人たちを通じて蔓延していったということである。しかも、その人たちは、自分がだれから病気をうつされ、まただれにうつしたかもまったく知らないのであった。

 
 語り手は、ロンドン西部に第1号らしき患者が発生し死亡した時点から語り始め、それが次第に死者数を増しながらロンドン東部に漸進していく様子を、具体的な地区名と日付と数字をもって記していく。きわめてリアル。
 市民の間にパニックが広がり、様々な事態が起こっていく。
  • 一族郎党を引き連れ、われ先に郊外へと疎開する金持ち連中
  • 人影が消えて、がらんどうになった通りや施設や店舗
  • 予言者、占い師、怪しげな薬売り、いかさま医師、自称魔術師、魔除け(アマビエのような?)売りの出現
  • デマや流言、根拠の不確かな情報の拡散
  • 食料を買いだめして家に閉じこもる人々
  • 一人でも患者を出した家を家族・使用人ごと閉じ込めてしまい、市民に24時間監視させる「家屋閉鎖」という行政戦略
  • あちこちの家から夜ごと担ぎ出され、墓場へと運搬され、深い穴に投げ込まれる死体
  • 突然死したまま道ばたに転がる無残な死体と、それを遠巻きに避けて通る人々
  • いわゆる“火事場泥棒”の出没
  • ロンドンに取り残された貧しい人々や病人に寄せられた莫大な義援金
  • 感染の不安や恐怖、家族や友人を失ったショックと悲しみから、あるいは自暴自棄になり、あるいは気がふれ、あるいは自害する人々

 毎日毎日どんな恐るべき事態が各家庭で起こっていたか、ほとんど想像することもできないことだった。病苦にさいなまれ、腫脹の耐え難い痛みにもだえぬいたあげく、われを忘れて荒れ狂う人もあれば、窓から身を投じたり、拳銃で自分を撃ったりして、われとわが身を滅ぼしてゆく人もあった。精神錯乱のあまり自分の愛児を殺す母親があるかと思うと、べつに病気にかかってもいないくせに、いかに悲痛なものとはいえ、単なる悲しみのあまり死んでゆく者もあり、驚愕のあまり死んでゆく者もあった。
 いや、そればかりではない。仰天したために痴呆症を呈するにいたる者もあれば、くよくよして精神に異常を呈するものもあり、憂鬱症になる者もあった。
 
 実に凄まじい、この世の終わりのごとき景観が、語り手の前に広がっていたのである。

 
地獄絵図蛇47番八坂寺
 
 
 新型コロナウイルスという、目に見えない敵の恐ろしさを知悉している現在の我々は、これら異常きわまる記述を読んで、「絵空事、作り話」とは思わないだろう。身の回りで起こったこと、現に起こっていることとの類似を思い、今後運が悪ければ、あるいは対策がまずければ起こり得る最悪の事態をここに予見することができる。
 まさに他人事でなく自分事。パニック時における人間の様相が、時代や地域や文化を超えて共通するものであることを痛感する。
 むろん、それは決して人間の醜い面や愚かな面だけを意味するのではなく、人と人とが助け合うような良い面も、さらにはこのたびの医療従事者の闘いぶりに見るような崇高な面をもいうのである。
 読者の前に次々と展開されるシーンは、必ずしも悲劇的なものばかりでなく、喜劇的なもの、さらには神秘劇と言っていいようなものもある。
 
 いまのように科学が発達しておらず迷信がはびこっていた時代はまた、神や信仰が生きていた時代でもある。
 17世紀のロンドン市民と21世紀の日本人のもっとも異なる点を上げるならば、人々の宗教性の有無、すなわち信仰の深さと言えるかもしれない。
 彼の地はもちろんキリスト教である。
 
 市民が悲しみのどん底におちいって生きる望みを失い、自暴自棄になったことは前にもいった。すると、最悪の三、四週間を通じ、意外な現象が生じた。つまり、市民はやたらに勇敢になったのである。もうお互いに逃げ隠れしようともしなくなったし、家の中にひっそり閉じこもることもやめてしまった。それどころが、どこだろうがここだろうがかまわずに出歩くようになった。
 
 彼らがこうやって平気で公衆のなかに交じるようになるにつれて、教会にも群れをなしておしかけるようになった。自分がどんな人間のそばに坐っているか、その遠近などはもはや問題ではなかった。どんな悪臭を放つ人間といっしょになろうが、相手の人間がどんなようすの者だろうがかまうことはなかった。お互いにそこに累々たる死体があるだけだと思っているのか、まったく平然として教会に集まってきた。教会に来る目的である聖なる務めに比べるならば、生命はまったく価値をもたないとでも考えているようであった。・・・・・おそらく、礼拝に出るたびごとに、これが最後の礼拝だと思っていたにちがいなかった。
 
 当時のイギリスは、カトリックと袂を分かった英国国教会と、ピューリタン(清教徒)に代表される非国教会とが勢力を競い合い、人々はそれぞれの牧師がいるそれぞれの教会に通い、牧師同士・信者同士が反目し合っていた。
 それがここに来て、人々は説教壇にどちらの牧師が立とうが問題にしなくなった。牧師もまた、乞われれば敵方の教会に出向いて平気で説教したという。
 
 こういったことから次のようなことがいえそうである。また、それをいうこともあながち見当違いではなかろうと思う。
 それは、死を目前にひかえた場合、立派だがそれぞれ違った立場をもっている人も互いに融和しあう可能性があるということである。
 現在のように、われわれのあいだに分裂が醸成され、敵意が解消せず、偏見が行われ、同胞愛にひびがはいり、キリスト教の合同が行われず、依然として分裂したままになっている、というのは、われわれの生活が安易に流れ、事態を敬遠してそれと本気で取り組もうとしないことが、そのおもな原因であろう。もう一度ペストに襲われるならば、こういった不和はすべて一掃されよう。死そのものと対決すれば、あるいは死をもたらす病気と対決すれば、われわれの癇癪の虫も、いっぺんに消えてなくなり、われわれのあいだから悪意なぞもなくなってしまうだろう。
 そして、前とは全然異なった眼をもって事物の姿を見るようになろう。
 
 この一節が本書の白眉である。
 この一節あらばこそ、本書は単なる実録や年代記を超えて、“文学”たり得ている。
 デフォーのまがうことなき作家性を感じる。
 
 クリスチャンでない日本人も、あるいはなんらかの宗教に属していない日本人も、このたびの新型コロナ騒ぎにおいて、自らの命の常でないことを知り、これまでの自身の生き方を顧みた人、自分にとっての優先順位を再考した人は決して少なくないであろう。
 死を目前にしたときにこれまでの価値観が変わる。
 真の宗教性とはそのようなことを言うのだろう。
 
しかし、病気の恐怖が減じるとともに、このような現象も、以前のあまりかんばしからぬ状態にかえっていった。旧態依然たる姿に戻ったのである。
 
 これまた人間らしい・・・・。


五輪
 



おすすめ度:★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● ほすぴたる記 その後 19 リハビリ再開(事故後半年)

 本日より通院リハビリが再開となった。
 実に3ヶ月のブランク。
 
 その間もそれなりに自主リハビリしてはいた。
 が、自分でできることには限りがあり、プロ(=理学療法士)の助言とケアが欲しかった。
 起床後の数時間、あるいは雨や低温の日、あるいは仕事で動き回った翌日、左足首が蝋のように固まって、床に足をつけると左くるぶしの周辺が痛み、まともに歩けない。
 「このまま固定してしまうのでは?」
 という一抹の不安もあった。
 
 レントゲン結果は良好。
 骨はちゃんとくっついている。
 足が痛むのは、足首の関節が硬くなっているのと、使わなかった筋やら腱やらが衰えているからとのこと。
 
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術後のレントゲン


 
 入口で体温チェック受けて、院内へ。
 久しぶりのリハビリ室は閑散としていた。
 まだ通院を控えている人が多いためと、“三密”を避けるべく予約をとる際に患者を散らして、一度にリハビリ室に入れる人数を調整しているためである。
 リハビリスタッフも平常時の3分の1もいなかった。
 
 まずは歩くところを見てもらう。
 「やはり、左側のほうの足先が開いてしまいますね~」とスタッフ。
 足首に負担をかけないラクな歩きグセが、知らず身についてしまっていた。
 ベッドに横になって、関節や筋肉をほぐすところから再スタートである。
 久しぶりの濃厚接触(スキンシップ)が気持ちよかった。
 
  ● 現在、元のようにできないこと。
  • 階段のくだり(⇒ 外出時はエレベーター、エスカレータを使っている)
  • 左足だけで爪先立ちする
  • 走る
  • あぐらをかく(⇒ 座禅が組めない)
  • 正坐
  • 30分以上続けての歩行(⇒ 痛みが出る)

 ケガした当初予想していたより、回復が遅い。
 半年したら高尾山くらいは登れるだろうとタカをくくっていた。
 同じく踵骨骨折した人のブログを読んで、経過を比べる日々であったが、やはり個人差が大きいようだ。

 一般に、踵の骨折は後遺症が残りやすい。
 
  ● よくある後遺症
  • 長い距離が歩けなくなる
  • 踏ん張れなくなる
  • 腱鞘炎が起こることで痛みがでる
  • 天候の変化や冷えで痛みが悪化する
  • 神経炎が起こることで足が痺れたり痛んだりする
  • スムーズな動きができなくなるので不意の動作で転びやすくなる 
  • 腰・背中・首の痛みが悪化する 
  • 左右の足のサイズが違ってしまう
 
 とは言え、ここまで治ったのは――この程度で済んだのは――もっけの幸いと思っている。
 いま思い返しても、本当に危険な、まかり間違えば首の骨を折ってもおかしくないような、派手な落下の仕方をしたのだ。
 外出するときは念のためまだ杖を突いているが、自分の足で歩いて、時間はかかっても行きたいところに行ける(コロナ自粛はあれど)。
 両松葉杖でコンサートに行った時の苦労や、室内を尻移動や膝移動でいざっていたときのわずらわしさや、膝から下をビニールで包んでシャワーを浴びるメンドクササを思えば――ああ走馬灯のように浮かんでくる!――天国である。

 そしてまた、一昨年思い切って四国遍路に行っておいて良かった。
 あれだけ(約1400キロ)歩いたので、いまはもう、山登り含め、歩き旅への欲求は希薄になっている。
 
 今後は週一回リハビリに通う予定。

 帰り道の公園で、木陰に寝転がって、読書&瞑想&昼寝した。
 基本、これさえできれば HAPPY な昨今。
 骨折とコロナは生活を単純にした。


 
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● オン・エア  本 : 『差別と弾圧の事件史』 (筒井功著)


2019年河出書房新社

 在野の民俗研究者である筒井功の新著。
 筒井の本を読むのは、これで10冊目になる。
 もはや立派なツツイスト?
 
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 今回は、日本の近現代史の隅に隠れた12の差別事件のデッサンである。
 うち半分ほどは被差別部落に関わり、残りはアイヌ民族、東北の隠れキリシタン、台湾の原住民であるタイヤル族、貧民集落などである。
  • 皇族来県にあたって、通り道にある貧民集落を警察が焼き払った大分県の的ヶ浜事件(大正11年)
  • 部落解放の手段として行われる糾弾闘争の模範として語り継がれる京都市のオール・ロマンス事件(昭和26年)
 以上2つは以前どこかで読んだことがあり、知っていた。
 それ以外ははじめて知ることばかりで、非常に興味深く、「事実は小説より奇なり」の思いを新たにした。
 とりわけ、
  • 一個人に対する苛烈な糾弾に憤った“一般民”が、近所の部落を集団で襲い報復した群馬県の世良田村事件(大正14年)
  • 関東大震災直後、香川県から来た行商たちが“朝鮮人”と間違われて地域民に虐殺された千葉県の福田村事件(大正12年)
  • 日本の植民地下にあった台湾で、苛酷な支配と侮蔑に憤った原住民タイヤル族が起こした霧社事件(昭和5年)
 以上3つは、その暴力の凄まじさや残虐さや被害の甚大さで衝撃的であった。
 
 これらの事件を描写する著者のスタンスは、必ずしも当事者(=被差別者)べったりではない。
 差別や弾圧に声高に怒りの声を上げるでもなし、差別する側を非難するでもなし、差別される側に同情し肩入れするでもない。
 あくまで中庸なのである。
 残された資料や証言によって分かった事実を、淡々と客観的に、だが事務的にも能面的にも学究的にもならず、描き出している。
 一番最近の事件でもすでに半世紀以上前のことで、ある程度風化され、事件当時の熱や生々しさを失っているということもあろうが、他の著書でも見られるこの“一歩引いたまなざし”こそが、筒井民俗学の特徴であろう。
 
 たとえば、本書の巻末を飾るオール・ロマンス事件。
 これは昭和26年当時、京都市の臨時職員であった杉山清一(ペンネーム)が、雑誌『オール・ロマンス』に発表した『特殊部落』という短編小説がもとで起こった事件である。
 部落解放京都府委員会は、杉山本人や出版社だけでなく、京都市をも糾弾対象にして闘争を繰り広げた。
 結果として、次年度(昭和27年)の京都市の同和対策予算は大幅に増額し、闘争は成功裡に終わる。
 この事件が、その後全国に広がる行政闘争の端緒にして模範と言われるゆえんである。
 
 事件の顛末を淡々と記し、解放運動史における意義を評価する一方、筒井の目は当の『特殊部落』という短編そのものと、著者の杉山清一のその後に向けられる。
 インターネットのおかげで誰でも簡単に読めるようになった『特殊部落』全文を読んで、筒井はその小説の登場人物のほとんどが日本人部落民ではなく朝鮮人であることに奇異な感を抱き、かつ、はたして差別小説と言える次元のものかどうか疑義を呈している。
 そして、事件後市役所を辞職した杉山のその後の失意の人生を、彼の発した呟きによって暗喩しつつ一篇を閉じる。
 「私のことは忘れて下さい、何もかも失ってしまいました」
 
 これまでサンカ猿回し犬神人エタ・非人など差別された人々を調査し描いてきた筒井のスタンスの基を成しているのは、様々な差別事象をめぐってえぐり出される、歴史や風土文化に条件づけられた個人や集団や日本社会の姿への関心であり、差別する側・される側問わず、加害者側・被害者側問わず、そのような不自由な人間存在にたいする哀感なのではなかろうか。
 


四国遍路2 141
四国札所77番道隆寺境内


 筒井は本書「おわりに」でこう記している。
 
書きおわってみて、これらを引き起こしたのは、単なる差別意識というより群集心理ではなかったかとの思いが強く残った。差別が存在する社会であっても、ふだんはそう露骨な形で表面化することは少ない。ところが、何かの拍子に衆をたのんで行動する状態に置かれると、重し蓋がとっぱらわれて、ごく善良な地域住民が残虐な殺人者に一変してしまう。その距離は、どうやらさして遠くはない。ひょっとしたら、それはだれもが簡単に飛び越えられる小さな溝のようなものでありえる。この辺に差別と、それを生みだした人間社会の怖さがあるのではないか。
 
 言うまでもなく、本書の数々の事件を、過去の、人権意識の低かった時代の日本人の過ちと嗤うことはできない。
 各地で見られる新型コロナウイルス感染者や彼らをケアする医療従事者への差別、自粛要請に応じない個人や商店などに対する正義感を振りかざす「自粛警察」の横行ぶり。
 差別と弾圧の事件史は、いまもオンエアである。




おすすめ度 :★★★ 

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もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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