ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

新型コロナ雑感

● ほすぴたる記 その後 13 通院停止


 昨夜遅く、病院のリハビリ担当者から電話があった。
 「コロナウイルス蔓延防止のため、しばらく外来リハビリ中止になりました」
 
 来たか・・・。
 
 しばらく前から見舞客の制限が始まっていた。
 熱や咳症状のある来院者への注意書きが、正面入口に貼られた。
 「病院内に入らず、まずこちらの電話番号までお問合せください」
 
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 半月に一度の担当医の診察はいつも1時間近くの順番待ちとなるのだが、昨日の診察は20分ほどの待ちですんだ。フロアがすいていた。
 やはり、一昨日に全国一斉休校の要請が出た影響が大きい。
 
 次回のリハビリ予約はキャンセル。
 再開の見通しはむろん立っていない。
 途方にくれている患者も少なくないことだろう。
 
 いま家の中では、家具や手すりにつかまりながら、なんとか立って歩けている。
 狭い家ゆえのメリットだ。
 外出の際はまだ松葉杖が必要だが、試してみたら片松葉杖でもいけた。
 ただ、片松葉杖だとバランスが悪く、歩き方がいびつになる。
 そのまま固定して癖がついてしまうと厄介なので、バランスよく真っすぐきれいに歩けるようになるまでは、両松葉杖が無難だろう。
 左足に体重を乗せられるようになって、かなりの距離を疲れずに歩けるようになったのがうれしい。
 
 レントゲンによる診察の結果、「骨はズレていない」とのこと。
 これからは自主リハビリ+アーシングで復活を目指す。

 
 
蝶々
 
 
 
 
 
 

● ほすぴたる記 その後 15 イタリア風おやき

 午後、1時間のリハビリ散歩をしている。
 ケガしていない右側で松葉杖をつき、姿勢をまっすぐ保ち、転ばないよう気をつけながら、2キロ近く歩く。
 ひたすら、左足を鍛える段階に入った。
 
 時速2キロで歩いていると、健康なときは見過ごしていた、街のさまざまな風景が目に入る。

 こんなところにリサイクルショップあったっけ?
 いつのまに、こんな立派な介護施設ができたのか?
 この家の庭は手入れが行き届いているなあ。
 杖やシルバーカーの高齢者って、結構いるんだなあ。
 あ、フキノトウが咲いている!
 
 今日は、自宅から約1キロ離れたレンタルDVD店まで行った。
 ケガをする前は、週に一度は通い、映画を借りていた。
 実に3ヶ月ぶり。

 店は雑居ビルの3階にあり、階段もエレベーターもない。エスカレーターのみ。
 エスカレーターを利用するのも3ヶ月ぶりだった。
 松葉杖でのエスカレーターは、ステップに乗る時よりも、ステップから降りる時が怖い。
 到達する階の床面に杖を突くタイミング、動いているステップから足を離すタイミング。
 普段無意識にやっていたことが、まるで初めてエスカレーターを見た途上国の人みたいに、おっかなびっくりになる。

エスカレーター

 
 店内を回ってDVDをあれこれ物色できるのも、片手が空いたおかげである。
 ホアキン・フェニックス主演の『ジョーカー』など3本をチョイスした。
 コロナ騒ぎで、みなインドア志向のせいか、常より店が混んでいた。
 
 帰りにサイゼリアに寄る。
 イタメシ&ワイン好きのソルティは、たまにサイゼに行くのを楽しみにしている。
 最近(といっても、これも3ヶ月ぶりなのだが)、よく注文する料理は、昨年7月からメニューに登場したフリウリ風フリコである。
 フリコとは、イタリア北東部にあるフリウリ地方の郷土料理で、マッシュポテトとチーズを使ったイタリア風おやきである。マカロニとホワイトソースを抜いたグラタンみたいな感じか。赤ワインによく合う。
 これだけだと野菜が少ないので、ほうれん草のソテーを一緒に注文し、ミックスする。

 
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二皿合わせて657キロカロリー、税別600円程度

 
 サイゼの女性店員さんは、松葉杖を突いたソルティを見て、「ドリンクバーの近くの席にいたしましょうか?」と案内してくれた。
 こまやかな気遣いがうれしい。

 この3ヶ月、松葉杖のおかげで、なにかと親切にしてもらうことが多かった。
 なんだか手放すのが惜しい気がするこの頃である。



● 魚ッ ‼ 本:『かわら版で読み解く 江戸の大事件』(森田健司著)

2015年彩図社
 
 日本が誇るスピリチュアル冒険野郎、モリケンこと森田健の本でも借りようかと検索したら、この本が出てきた。
 著者の森田健は、1974年神戸生まれの思想史学者。石門心学で知られる(?)石田梅岩の本を書いている。
 面白そうなので、借りてみた。

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 かわら版は、江戸のタブロイド紙であり、ワイドショーでもある。情報の正確さより速報性と面白さ。そこには、現代人が知っている江戸とは一味違う、エキサイティングな世界がある。

 かわら版は、当時の人々がどのようなことに笑い、泣き、興奮したのかを、今に伝えてくれる。名もなき人々の心を知る手掛かりが、そこにはある。

 売れてなんぼの世界なので(一枚4文=40円程度)、とにかく人々の好奇心をかき立てるテーマが取り上げられ、奇抜で大げさな絵とともに、尾ひれ腹びれつけて、吹聴されたわけである。
 各地で妖怪出現の怪異、畑から金の延べ棒発見などの仰天ニュース、大火事や大地震や浅間山噴火などの天災地異、花形歌舞伎役者の動向(さしずめ現代の芸能ニュース)、江戸庶民が喝采落涙した敵討ちストーリー、忠臣蔵・大塩平八郎の乱・黒船来航・倒幕といった歴史的大事件・・・・・等々、今読んでも非常に興味深く、面白いものばかり。

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越中国(今の富山県)に出現した人魚
全長三尺五寸(約10メートル)
アンデルセンが・・・


 著者が述べているように、かわら版に取り上げられるネタの種類や、その取り上げ方、つまり筆致や画風から、江戸の人々のキャラが垣間見られる。
 子どものように単純で喜怒哀楽ゆたか、楽天的でのんき、好奇心旺盛で行動的、商魂たくましく抜け目ない。(なんかモリケンみたい?)
 特筆すべきは、ユーモア感覚と諧謔精神である。
 
 江戸時代には麻疹(はしか)が数十年おきに大流行した。
 むろん、現代のようなワクチンや抗生物質はない。1862年の大流行では江戸だけでなんと24万人が亡くなったという。(当時の江戸の人口は100万と言われる)
 そのときに発行されたのが、以下のかわら版である。


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 これは見立番付と呼ばれるもので、相撲の番付表に見立てて、さまざまな事象を「東西」に分けてランキングする趣向。
 神社仏閣番付、温泉番付、仇討ち番付、茶屋娘番付、バカ番付・・・・・いろいろあったらしい。
 
 ここに紹介するかわら版は、タイトルに「為麻疹」と記された見立番付である。内容は3段に分かれていて、1段目は、右側に「あたりの方」、左側に「はづれの方」と書かれている。主にこの部分が、番付のパロディとなっているわけある。
 「あたりの方」は、麻疹大流行で儲けたり、需要が高まったりしたもののリストだ。そこには、薬屋、医者に籠屋、それに沢庵に黒豆に干瓢(かんぴょう)など。「はづれの方」はそれらの逆で、人気の落ちたものたちである。例えば、女郎屋に芸者、舟宿、加えて天ぷら屋、寿司屋などが書かれている。(ゴチックはソルティ付す)

 コロナウイルス騒動のいま、これをやるマスコミがいたら、炎上&袋叩きはまぬがれまい。
 ちなみに、3段目の絵の右側の編み笠をかぶった男が、「読売」と呼ばれたかわら版売り。笑顔で金を払う客を挟んだ左側の男が、魚や青物を売る「棒手振り」。どちらが「あたりの方」かは言うまでもない。かわら版の作者&販売者は、自分たちをも揶揄しているのだ。

 江戸の人々から見たら、現代日本人は「無粋」の極み、あるいは一億総ノイローゼ患者のように思えるかもしれない。
 この違いを作っている大きな要因の一つは、たぶん、死との距離感であろう。
 

 
おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





 

● ほすぴたる記 その後16 ああ、上野駅!(事故後100日)

 今日は担当医による診察日だった。
 病院の空き加減がはなはだしい。
 とくに整形外科の待合室の椅子はいつもの半分も埋まっていない。
 それほど必要もないのに来院していた高齢者が多かったってことか。

 視診もレントゲン結果も異常なし。
 今後は月一回の診察でよいらしい。
 「いまコロナで外来リハはやってないけれど、自主リハで頑張ってください」と先生。
 頑張りますとも。

 松葉杖なしでもかなり安定して歩けるようになった。
 が、杖なしだとケガをした左足は楽に流されて、足裏全体をべったりと地面につけてのガニ股歩きになってしまう。
 踵から先にまっすぐ地面につけて、最後はつま先で蹴る、正しい歩き方ができない。
 癖がついたらまずいので、もう少し松葉杖を使った矯正が必要だ。
 
 とにかく、左足一本での爪先立ちがまったくできないのである。(両足ならできる)
 「踵をやった人は爪先立ちができなくなることが多いですね」と、いつぞやリハビリスタッフが言った。
 「そうか、じゃあ、もうバレエはあきらめるか」
 「右足でならグランフェッティ(回転)できますよ」
 などと冗談を言って笑っていられたのは、片足だけで爪先立ちするシチュエイションなど日常にはないだろう、と思っていたからであった。

 なんと浅はかな!

 片足で爪先立ちができないってのは、走れないってことなのだ。
 わたし、もう走れないの?!
 その昔の大映ドラマ『赤い衝撃』の山口百恵のブルマに赤いハチマキ姿(スプリンター大山友子役)が浮かんだ。
 走れ! 俺のウサギ!(by 中条静夫)

爪先立ち

 
 爪先立ちの訓練を開始した。
 一番いいレッスンはバレエでなくて、浮力が利用できる水の中でのリハビリ、つまり水中ウォーキングだと思う。
 が、この時節スポーツジムに行ったものかどうか・・・。
 散歩の途中、会員証を持っている近所のスポーツジムをガラス越しにのぞくと、トレーニングルームは見事に閑古鳥が鳴いていた。
 一番近くの人との距離が3メートルくらいの人口密度の低さ。
 これならかえって安全かも・・・?
 
 午後は用事で都心に出かけた。
 山手線に乗るのは3ヶ月以上ぶりである。
 正午にJR上野駅に到着し、エレベータで構内に上がったら、衝撃的な光景が目の前にあった。

 上野駅が空いている!
 

 早朝や深夜はともかく、昼日中、こんなに閑散とした上野駅を観たのは、半世紀以上生きてはじめてであった。
 上野公園の博物館、美術館、動物園、科学館、軒並み休館。
 アメ横から中国人はじめ外国人の姿消えて。
  
 それでも桜は咲くだろう。


上野公園花見
上野公園






● だれもが当事者

たぶん40歳以下の人は知らないだろうが、今から30年以上前にエイズパニックというものがあった。
日本はもちろん、世界中で。

80年代初頭アメリカで、免疫力が次第に損なわれて死に至る奇病が、ゲイの間で蔓延した。
まもなく、原因はHIV(ヒト免疫不全ウイルス)であると判明し、AIDS(後天性免疫不全症候群)と名付けられた。
1985年に日本人第1号患者の報道があった。アメリカ在住のゲイの男性だった。

ここまでは対岸の火事。

1987年、神戸で日本人女性の感染が報告された。
そこからのパニックが凄まじかった。
マスコミはこの女性の氏名・住所をつきとめて顔写真入りで公開した。
風俗に勤めているというデマが広がった結果、歓楽街が空になった。
この女性が外国人と付き合っていたという噂が独り歩きし、その後に松本で起きたフィリピン人女性の感染報道と相まって、各地で外国人入店拒否などの差別が起こった。
検査所に身に覚えある男達が殺到した。
ノイローゼとなったある弁護士は、検査結果を待たずに自殺した。(結果陰性だった)


エイズパニック記事(神戸)
昭和62年1月18日のサンケイ新聞(当時)朝刊


感染者に対する差別は酷いものであった。
診療拒否、病院たらい回し、解雇、内定取り消し、入居拒否、さまざまなレベルのプライヴァシー破壊・・・・・。家族もまた差別された。
ソルティは、当時の様子を調べるため、関東地方のある大病院を取材したことがある。
その際、担当者は言った。
「最初にウチに入院した患者が亡くなったあと、彼が使っていたベッドを焼却しました」
パニックになると、科学的事実など簡単に吹っ飛ぶものだと痛感した。

HIVは当初、ゲイと血友病患者と風俗で働く(遊ぶ)人の特有の病と思われていた。
「不特定多数の相手とのセックスは避けましょう」と盛んに言われた。
そこに当てはまらない人間にとっては、当事者性が低い。
「血友病患者をのぞけば、性的にふしだらな人間がかかる病でしょう?」とみなされた結果、感染者は倫理的に断罪され、それが差別を助長した。

感染者と分かると差別されると知って、こんどは検査を受ける人が激減した。
「どうせ陽性と分かったところで治療法はないし、八分されるだけでしょう? なら、このまま何も知らずに、いままで通りの生活を続けるよ」
感染拡大防止の観点から、これがもっとも怖い展開なのは言うまでもない。
(※現在、HIVには何種類もの薬がある。血液中のウイルスを検出限度以下まで減らし、AIDS発病を抑制できる。相手に感染させるリスクもほぼゼロになる)

コロナウイルス


新型コロナウイルスは、人と関わって社会生活を送る人間ならば、だれでも感染しうる。
感染者に対する差別は、いずれ差別した当人にそのまま降りかかってくる。
倫理も、貧富の差も、地位も、職業も、性別も、セクシュアリティも、性行動も、国籍も、人種も、年齢も、関係ない。
大統領も、世界的スターも、政治家も、官僚も、医者も、金持ちも、宗教家も、そうでない人々と同じ俎上に上げられる。

だれもが当事者。
それが今回のウイルス騒動の特徴であろう。




 

● 弁証法的権力とウイルス禍 本:『オイディプス症候群』(笠井潔著)

2002年光文社
2006年カッパ・ノベルズ

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 『8・15と3・11 戦後史の死角』、『サマー・アポリカプス』に次いで、3度目の笠井ワールド探訪。

 小口の厚さ40ミリ、二段組で700ページを超える大作ミステリー、といったことを差し引いても、この本を読むのはちょっと覚悟がいる。
 ギリシア神話、監獄論、性愛論、現象学・・・・等々、ミステリーの解決とはさほど関係のない学術的な話が無駄に多い、つまり衒学的なのである。
 同じ衒学ミステリー作家であるヴァン・ダインや京極夏彦と比べても、笠井のミステリーは、より難解で饒舌で哲学的である。
 そこが読者を選ぶゆえんであり、また、熱狂的な読者を持つゆえんでもあろう。

 たとえば、この小説の登場人物たちがひけらかす煩わしい蘊蓄をすべてとっぱらって推理小説の骨子のみ残すとしたら、ミステリーとしてはかなりつらいものであることが明らかになるだろう。
 プロットや推理には杜撰な点が多く、突っ込みどころ満載なのである。

 一例を挙げよう。

 この小説(連続殺人事件)の舞台となるのは、ギリシアのクレタ島付近に浮かぶミノタウロス島という架空の島である。
 ミノタウロスと言えば、古代ミノアの王妃パシパエと牡牛の間にできた牛頭人身の怪物である。
 ギリシア神話では、父王ミノスにより迷宮に閉じ込められ、年ごとに少年少女7人ずつの生贄を要求する。

 その伝説が色濃く残る島をアメリカの製薬会社の大富豪が購入し、古代ミノアの王宮を模した豪壮な別荘を建てた。
 この孤島の館に招かれた10人の男女が次々と謎の死を遂げていく。
 要はクリスティ『そして誰もいなくなった』のパロディである。
 登場人物たちは、「次の犠牲者は自分かもしれない」と脅えながら、犯人と犯行方法について推理合戦を繰り広げる。生き残っている者の中に真犯人がいる前提で、互いが互いを疑いながら・・・・・。
 殺害の一つは館内の密室で行われており、そこから遺体が消失するという謎も含まれる。
 四方を海に囲まれた離れ小島の中の閉ざされた部屋、という二重の密室である。
 
 この状況設定から、本格推理小説の定石として、読者が当然有りうべきことと考え、登場する素人探偵たちに最初に検討してほしいと願うのは、館に仕込まれている迷宮の存在であろう。
 迷宮が存在するのなら、なにも容疑者を館に招かれた10人だけに絞る必要はない。
 もとから島内にいて迷宮に潜んでいる者がいてもおかしくはない。
 密室殺人も、「実は部屋の中に迷宮への隠し扉があった」で簡単に解決してしまう。
 迷宮の有無の検討と調査は、合理的な推理を展開しようと思うならば、探偵たちにとって必須の手続きとなるはずである。
 ところが、登場人物たちの誰一人も、迷宮の存在について思いつく様子もなく、口にもしない。
 これはあまりにも不自然である。
 最終的には、館に迷宮が存在することが明らかとなり、真犯人はまさに迷宮に潜んでいた招待客以外の人物なのであるから、「なんて頭の回らぬ探偵たちだ・・・」と、読み手はあきれざるをえない。
 プロット自体に不自然を感じる。
 『サマー・アポリカス』でも思ったが、笠井は推理小説としての整合性やリアリティにさほど拘っていないように思われる。

ミノタウロス
ミノタウロス


 しかしながら、この推理小説としての杜撰さが欠点と思えないところに、まさに笠井ミステリーの真骨頂がある。
 その秘密がつまり、衒学による目くらましなのである。
 読み手は、幅広い分野における圧倒的な量の知識と、それを支える著者の深い教養、そして哲学性に降伏してしまう。
 それも、ヴァン・ダインのように、ただ単に知識をひけらかしてページを稼いでいるのとは違う。
 評論家でもある笠井の、自らの人生経験に裏打ちされ、思考によって鍛え抜かれた社会哲学が、作品の基調となっているのである。
 その意味で、衒学による目くらましという表現は当たっていない。
 むしろ、ミステリーの体裁を借りた哲学書というべきかもしれない。
 
 そしてまた、「杜撰=つまらない」でないことを、笠井ミステリーは教えてくれる。
 単純に、すごく面白いのだ。
 天才的着想、卓抜な構成力、興味をそそる謎の提供、素人探偵と一緒に推理ゲームに参加する愉しみ、姿恰好が目に浮かぶようなキャラクター描写、巧みな伏線の配置と意外な結末、重厚感・・・・・。
 多少のアラは大目に見てしまわざるを得ない魅力にあふれている。
 
 着想の天才性という点でソルティが唸らされた点を挙げる。

 ここで言うオイディプス症候群とは、ずばり後天性免疫症候群(エイズ)のことである。
 この小説は、エイズ=HIVが「謎の奇病」として世界に出現して間もない時代を背景としている。

 HIVの感染経路は3つ――血液感染、性行為感染、母子感染である。
 当時、血液感染の中で特に問題となったのは、輸血に用いられる血液製剤の中にHIVが混入し、それにより多くの血友病患者がHIV感染し、エイズを発症して亡くなった事件であった。
 日本では薬害エイズ事件として知られるが、世界各地で製薬企業や厚生行政や血友病専門医の無作為責任が問われる裁判が起きた。
 一方、性行為感染では、男性同性愛者間でのHIV感染が顕著であり、70年代を通じて高まる一方だったゲイリブの気運の中で、性の自由を謳歌していたゲイコミュニティを直撃した。
 この『オイディプス症候群』では、初期のエイズ事情を語るに欠かせない、まさに二つのトピック――血液製剤とゲイセックス――を、一連の殺人事件の動機を構成する要素として取り上げ、見事に融合させている。
 しかも、息子を殺された一家族の復讐劇と、HIVを社会転覆の武器として利用するテロリストの陰謀、というレベルの異なる二つの事象を、齟齬することなく並べて物語ることに成功している。
 この着想と構成力、そして筆力には脱帽するほかない。

 読んでいて思わず手が止まった箇所がある。
 カッパ・ノベルズ版の624ページ。
 
 『弁証法的権力と死』を読んだきみには説明するまでもないことだと思うけど、世界の未来は暗澹としている。反対者や批判者の存在までも否定的契機として内部化し、際限なく膨張し続ける弁証法的権力に世界は遠からず完全に呑みこまれてしまうんだから。
 弁証法的権力とは闘うことができない。批判すれば批判するほど、闘えば闘うほど、歴史の終点である完璧な権力の膨張と普遍化を助けてしまうんだから。屈服しても闘争しても結果は同じなんだ。しかしIVは、自己運動する完璧な権力がはじめて直面する異様きわまりない敵だ。IVは闘わない。システムの内部に潜入しシステムが自滅するように仕向けるだけだ。社会にたいしてIVの流行が果たす役割と、生体においてIVが果たす役割には並行性がある。IVに感染してはじめて僕は、弁証法的権力を内側から食い荒らし、ぼろぼろにしてしまう素晴らしい武器を手にすることができたんだ。

 IVとあるのは、オイディプス症候群を引き起こすウイルスにつけられた名前であり、つまりHIV(ヒト免疫不全ウイルス)に当たる。
 このセリフの主は、自身IV感染者であり、オイディプス症候群の蔓延による社会混乱と国家権力崩壊を企図するテロリストである。
 彼はそのために、相手選ばずの無軌道なセックスを繰り返す。ミノタウロス島で起こる一連の殺人事件の真犯人(の一人)でもある。 
 
 「弁証法的権力」の説明から読み手が連想するのは、まさに現在の安倍自民党政権であり、その権力の徹底された先に登場しうる中国のような独裁政権による管理社会であろう。右も左も関係ない。
 あたかも笠井は、この小説が書かれた2002年の段階(時の首相は小泉純一郎)で、今の日本の政治状況を予言していたかのようである。
 
 ただし、このテロリストが企図したように、HIVが弁証法的権力を「内側から食い荒らし、ぼろぼろにしてしまう」武器として働いたかと言えば、HIV登場約40年後の現在の世界状況からして、「そんなことはなかった」と結論せざるを得ない。
 幸か不幸か、HIVは既存の権力構造に致命的な打撃を与えなかった。(少なくとも、今のところ)
 一つには、HIVが先進国では薬によって抑えられて、エイズが慢性病の一種となったがゆえに。
 一つには、HIVが先進国ではほぼ性行為でしか感染せず、それは様々な手段で予防できるがゆえに。
 一つには、途上国でのHIV流行はメガ・ファーマーと呼ばれる巨大製薬企業の莫大な利益を生むチャンスをつくり、グローバル資本主義に拍車をかける結果となったがゆえに。
 また、我が国に限って言えば、HIV拡大防止というもっともな名目で、純潔教育のような特定の倫理を標榜する保守団体と結びつく形で、国家権力による個人の性行動への介入と統制を許してしまったがゆえに。 
 自由を求める大衆の力の源泉となる性のエネルギーを、国家が管理統制する道を開いてしまったのではないか――というのが、過去20年以上HIVに関する市民活動に携わってきたソルティの偽らざる実感である。
 わかりやすい例で言えば、学校現場における性教育の後退やジャンダーフリー・バッシング、それに浮気した家庭持ちのタレントに対するいじめまがいの制裁である。


迷路


 そしていま、新型コロナウイルス登場である。
 現段階で予想して、新型コロナウイルスの社会的影響の大きさは、HIVのそれを凌駕していくのではないかと思われる。
 ソルティは安倍政権の終焉をこそ望むけれど、むろんテロには反対である。
 このコロナウイルス騒ぎが一刻も早く終息することを望んでいる。
 ただ、誰もが当事者とならざるをえないこのウイルスの流行が、どんな社会構造の変化を地球レベルでもたらすことになるのか、人々の意識や行動にどのような影響を及ぼすのか、気になるところではある。




おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損








 

● ほすぴたる記 その後 17 杖替わり(事故後120日)

片松葉杖からT字ステッキに昇進(?)した。
松葉杖みたいに一歩進むごとに地面に杖先を突かなくてもよいので、歩くスピードが増した。
時速2キロから3キロくらいに上がっただろうか?
だが、長く歩くと足首が痛んでくる。
大方15分歩くと、ペースダウンせざるをえない。

仕事もぼちぼち復帰しつつある。
が、一日シフトに入った翌日は、疲れて家で半日寝ている始末。
3ヶ月をこえる休暇で、体力や筋力がガクンと落ちてしまった。
4月はリハビリを兼ねるつもりで、週3回の日勤でシフトを組んでもらった。
大丈夫だろうか?

この足はどこまで元通りに戻るのか?
介護の仕事が今後も続けられるのか?
施設にコロナが入ってきたらどうなってしまうか?
いや、自分がどこかで感染し、同居の両親や施設の入居者にうつしてしまうんじゃないか?
・・・・・・・・

いろいろ考えると気が滅入る。
ソルティはどちらかと言えば、最悪の事態を想定しておいて先回りして準備し、あとから、「そうならなくて良かった!」と安心を得るタイプなのである。
つまり、気苦労が多い。


天気が良いので数日ぶりに散歩に出かけ、いつもの公園でアーシング瞑想した。
風は結構強いが、陽射しはあたたかく、気持ちよい。
40分ほど瞑想し、心と体が落ち着いた。

ふと目を上げると、木々がすっかり芽吹いていた。
――芽吹いているのに気づいた。

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そう、桜が散れば、木の芽時なのだ。
今年の花見は、地元のささやかな名所に足を運んだくらい。
半世紀前に卒業した幼稚園のそばの桜並木である。
自分が入園していた頃にこの桜の木があったかどうか、覚えていない。
桜を美しく感じられるのが、大人になった証拠なのだろうか?


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公園からの帰り道、軒先に可愛い花が咲いていた。
――咲いているのに気づいた。
まったくありふれた、いつもの春の野の花だ。

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歩くのが速くなると、見逃してしまうものが多くなる。
コロナに気を取られると、春の訪れにも気づかない。





 

● 退会届、あるいはベーシック・インカム再考

 昨日、会員になっていたスポーツクラブを退会した。
 むろん、コロナのためである。
 
 昨年9月に入会したので、まだ7ヶ月ほどしか経っておらず、うち4ヶ月は足のケガで通えなかった。
 正味3ヶ月である。
 なのに、退会届を出すにあたって、ずいぶんと迷いあぐね、踏ん切りがつかず、度胸が要った。
 
 毎月8日が各種届の締切り日なので、この日を過ぎると翌月分も会員料金を取られる。
 銀行から自動的に引き落とされてしまう。
 4月分はすでに払い済みだが、5月分を払わずに済ませるためには、昨日が期限だった。
 
 骨折した足がある程度治ったところで、水中ウォーキングや筋トレマシーンでリハビリしたかった。
 だから、ここ4ヶ月はクラブに通えないにもかかわらず、毎月7000円の会員料金を納入してきたのである。
 
 今さら言うまでもないが、コロナ騒動でスポーツクラブ関連は甚大な被害を受けている。
 館内消毒を徹底する、定期的に換気する、プログラムを練り直して利用者の密集を防ぐ等々、クラブ側もいろいろと努力を重ねているのが、公式サイトから伺える。
 が、散歩の途中に窓の外から筋トレルームを覗くと、片手で数えられるほどしか利用者がいなくて、平素は隙間なく埋まっている専用駐輪場も櫛の歯が欠けたような有様。
 大丈夫だろうか?
 いつまで持ちこたえるだろうか?
 
 杖なしでも歩けるようになってきたので、本当ならそろそろクラブ復帰したかった。
 空いている夜のプールで歩行を楽しみ、トレーニングルームでヨガをしたかった。
 ミストサウナでぼーっとして、広いお風呂場でくつろぎたかった。
 思いっきり体を動かして汗をかいて、ぐっすり眠って、ストレス発散したかった。

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 もし、自分が高齢者や病人と関りを持つ介護の仕事をしていなかったならば、あるいは、80代の両親と一緒に暮らしていなかったならば、そのままクラブ会員であり続け、週3回通うであろう。
 おばさま会員のように、運動が終わってからロッカールームやサウナで長時間ぺちゃくちゃ喋るわけじゃないし、自分のメイン目的であるプールは塩素消毒が効いているから、コロナに感染する確率は低いと思う。
 満員電車での通勤のほうが、よっぽど危なかろう。
 とは言え、今は自分を守るためというより、他人を守るために、少しでもリスクある行動は控えなければなるまい。
 
 もし、3ヶ月後にコロナが終息すると分かっているならば、会員であり続けるかもしれない。
 その間お金はもったいないけれど、3ヶ月分くらいならば、クラブの経営を支えるために、クラブで働くスタッフの生活を支えるために、払い続けるのは惜しくない。
 つぶれてはこちらとしても困るのだ。
 
 そう、スタッフたちの生活・・・・。
 それを思うと、簡単に退会届を出せない自分がいる。
 彼らの失職に拍車をかける行為と思えば、心安からずである。
 
 一斉休校要請が出た3月半ばから「退会」という言葉が頭をかすめ、踏ん切りのつかないまま、昨日8日の期限を迎えてしまった。
 家を出てクラブに向かう途中も、クラブの入口の前のベンチでも、逡巡し続けた。
 運動を終え、はつらつとした表情の、肝の座った(?)利用者らが、三々五々出てくる。
 やっぱり、少ない。
 最盛期の5分の1くらいか?
 「ここまで利用者が減ったら、もう休館は時間の問題だろう・・・」
 そう思って、受付に向かった。
 
 退会手続きを取っている間も、人はやって来て、退会を申し出ている。
 やはり、皆ぎりぎりまで迷っていたのだろう。
 ソルティのように最近通い始めたのとは違い、何年も通い続け、日課となっている人も多い。
 スタッフと顔見知りになり、若い彼らとの交流こそが楽しみで来ている高齢者も少なくない。
 
 ここ数ヶ月ですっかり慣れたのだろう。
 担当スタッフは、淡々と事務的に、丁寧に、暗い顔ひとつ見せず、手続きを取ってくれた。
 「コロナが終息したら、また来てくださいね」
 
 こんなふうに、仕事の場がどんどん失われていっている。
 コロナ拡大防止のためには外出自粛も致し方ないけれど、失職した人たちへの補償をしっかりやってほしいものだ。
 失職した人々が失業保険申請のためにハローワークに駆け付ければ、感染拡大リスクが高まる。
 いっそ、スペイン政府のように、ベーシック・インカム(最低所得保障制度)を検討してはどうかと思う。

ウミガメ
また会う日まで





● 危機意識のグラディ―ション

 通勤途中、山手線駅の構内ですれ違った男(30代)は、透明のプラスチックの顔面シールドをつけていた。むろん、その下はマスクである。
 髪の毛を完全に覆い隠すナイロン製の帽子、表地がナイロン100%のジャージの上下、ビニール製の防水ブーツ、そしてやはりナイロン100%の手袋をつけていた。
 つまり、素肌がほとんど大気に晒されていない。
 その徹底ぶりに驚いた。
 
コロナ防御

 
 今、つくづく感じるのは、新型コロナウイルスに対する危機意識が、人によってずいぶん差があるということである。
 メディアで見聞きする限りでも、ゴルフ場に堂々と出かけてプレイ後は混雑したレストランで鯨飲放談する親父たち、風俗に行く国会議員、地元商店街の人混みに繰り出す一家、繁華街の人気ショップに行列する若者たち・・・・といった危機意識の低い、“楽観的な”一群がいる。
 
 一方で、上記の完全防御男のように、高い危機意識を示す者がいる。
 彼の場合、おそらく外出せざるを得ない事情があり、身を守るために考えられる最大の措置として、あのような恰好になったのであろう。本心は家に引きこもっていたいに違いない。
 本当に家から一歩も出ないで、通販や出前やUber Eats(ウーバーイーツ)等の宅配を利用して過ごしている人もいるだろう。
 危機意識が過度になると、「コロナ感染が怖くて、ノイローゼになって自殺」みたいな、パラドキシカルな例も見受けられる。
 
 ソルティはその昔、エイズの電話相談に関わっていたことがあるが、実際、エイズノイローゼになった人は、間に5分と置かずコールしてくる。
 それも、本当に性行為があって感染の可能性があるのならともかく、「公衆トイレのドアのノブを触ったらベタベタしていた(気がする)」とか、「ジョギングで擦れ違った男の息が、自分の顔にかかった(気がする)」とか、「病院の待合室で蚊に刺された(気がする)」とか、HIV感染の可能性のまったくない事柄について心配している。
 「心配なのは、HIV感染でなくて、あなたの精神状態のほう。むしろ、感染してしまったほうが精神的にはラクだろうに・・・」――と思いながら、日に何十回と繰り返される話に、いい加減辟易しつつ、付き合っていたのを思い出す。
 
 まあ、ここまで極端でなくとも、大概の人は現在、それぞれなりに危機意識を持ちながら、日々過ごしているはずである。
 人によって危機意識の高低がある、言い換えれば危機意識のグラディ―ションが生じるのは、当然と言えば当然である。
 
  • これまでの体験の違い(たとえば、エイズパニックを経験しているか否か、インフルエンザに罹ったことがあるか否か、戦争や自然災害を経験しているか否か・・・等)
  • 想像力の多少(たとえば、今後起こりうる事態をどこまで頭の中で描けるか)
  • 気質の違い(楽観的 or 悲観的? 現実逃避的 or 現実直視的? 強気 or 弱気?)
  • 体力や健康に対する自信
  • 信仰(たとえば、「神が守ってくれるから大丈夫」とか、「悪いことを考えると現実化するから、考えない方がいい」というスピリチュアル的妄想)
 こういったことが、危機意識の差をつくる要因として考えられるだろう。
 
 ソルティは、かなり危機意識の高い方だと思うが、それは、
  • 以前働いていた介護施設で、ノロウイルスやインフルエンザの蔓延を経験し、ウイルスの恐ろしさや次々と利用者やスタッフが倒れていく修羅場を見ている
  • 最悪の事態を想像して覚悟する気質(あるいはネガティブ志向
  • 加齢による体力や健康への不安(足の骨折もあり)
  • 現政権に対するどうしようもない不信
 といったあたりが、その大きな背景を成す。
 
 そしてまた、今回、ひとつ気づいたことがある。
 
 ソルティは足のケガのため、4ヶ月近く仕事(介護施設)を休んでいた。
 その間に、新型コロナウイルスは発生し、ダイヤモンド・プリンセス騒動の一部始終を家や入院先のテレビで見て、このウイルスの特性について専門家が語るのを聞き、国内に感染者がぽつぽつと増えていく様を眺めていた。
 相当にやばい状況だと感じた。
 「医療崩壊」はまだ叫ばれていないときであったが、むしろ、その先に来るであろう「介護崩壊」を想定し、ぞっとした。
 なにかしら持病を持つ高齢者ばかりが密集し、仕事の性質上「濃厚接触」が避けられない介護施設に、ひとたびコロナウイルスが侵入したら、ひとたまりもない。
 職員がやられたら、介護する人間がいなくなる。
 先んじて来るであろう医療崩壊で救急搬送や入院ももはや不可能。
 想像するだに恐ろしい光景が頭に浮かんだ。
 ・・・・・・・。

 松葉杖を卒業し、今月より職場復帰した。
 そして、すぐに職場の人間と自分との危機意識の違いに驚かされた。
 あまりにも生ぬるい感染症対策がそこにあった!
 
 ソルティにしてみれば、いったいなんで他のスタッフがこんなに楽観的でいられるのか、不思議で仕方なかった。不思議で仕方ない。
 アメリカやイタリアの介護施設で起こっていることが、目の前に迫っているのに!
 「自分だけは大丈夫、自分のいる職場だけは大丈夫」と思うのだろうか?
 それとも、ソルティが特別で、ひとりネガティヴ志向なのだろうか?

 
コアラ
コアラはストレスに弱い

 
 ところが、である。
 職場復帰して半月もたつと、次第に自分の危機意識が薄れてくるのを感じたのである。
 「なんだ。ちょっと自分、大げさに考え過ぎたかな?」と思ったりしている。
 なぜそうなってしまうのか?
 自己分析してみた。
 
 ここまで市中感染が広がれば、ある一日にコロナウイルスに感染する可能性は、「感染する or しない」の1/2である。
 どの日も同じ1/2である。
 相当に高い。
 ところが、丸一日感染せずに過ごせた「今日」を手に入れると、そのあくる日には、無事乗り越えた「昨日」を安全の証拠として採用してしまうのである。
 「昨日と同じことをしている限り、感染はしない」と勘違いしてしまうのだ。
 すると、1/2の感染リスクが目減りする。
 無事の日々が積み重なるほどに、想像上のリスクが減っていき、現実にある1/2リスクが軽視されていく。
 「自分だけは大丈夫なんじゃないか。ここだけは免れるんじゃないか」
 という根拠のない楽観に次第に身を任せていくようになる。
 
 人には恒常性の維持(ホメオシタシス)という機能が備わっている。
 環境が変化しても体の状態を一定に保とうとする働きである。
 それと同様、心にも「恒常性の維持」が備わっているのではなかろうか?
 心の状態を一定に保とうとする働きが、感染リスクを過小評価させるのではなかろうか?

 日常性に潜んでいる罠というべきか。



  

● 淀川さん! 映画:『大地のうた』(サタジット・レイ監督)

1955年インド
125分、白黒

 借りてきたDVDの冒頭には、著名な映画評論家であった淀川長治さんの解説が入っていた。
 あの人懐っこい笑顔と人を引きつける語り口、無性に懐かしかった。
 むろん、『大地のうた』は淀川さん大絶賛の名作である。

 いまの自粛=インドア中心生活の良いところは、これまでなかなか読む機会のなかった重厚あるいは長大な本や、観る機会のなかった昔の名作映画を、じっくり味わえることだろう。
 いや、機会はつくれたのだけれど、他のより軽い娯楽作品やら外出の魅力に負けて、「いずれそのうち」と後回しになっていたのである。

 コロナのおかげで、社会の化けの皮がはがれていくような気さえする昨今、より本質的なもの=「生」の根本に立ち戻ってみたいという気持ちが強まる。
 となると、やはり古典に如くはない。
 そしてまた、ソルティにとって、「生」の根本を教えてくれる場所があるとしたら、二十歳の時にはじめて旅行したインドを措いてない。

インドの牛


 『大地のうた』は、インドのある農村に暮らす貧しい一家を描いたサタジット・レイの監督デビュー作である。
 一家の一人息子オプを主人公とした『大河のうた』、『大樹のうた』で3部作を成す。
 やっと、この伝説的名作を見る機会が訪れた。

 自然に囲まれ、家畜が跳ね回るあばら家で、人は生まれ、遊び、飲み食いし、飢え、学び育ち、愛と怒りの間を行き来し、希望と絶望の間を揺らぎ、自然に襲われ、病み、老い、そして死ぬ。
 ここに描かれるのは、まさに「生」の根本である。
 その厳しさ。
 そのはかなさ。
 その圧倒的美しさ。

 いま、まさに観るべき映画。 
 タイミングは間違っていない。



おすすめ度 : ★★★★★

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 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損






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