ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

  マルタン・デュ・ガール著『チボー家の人々』を読む

● マルタン・デュ・ガール著『チボー家の人々』を読む 1


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第1巻『灰色のノート』(1922年発表)
第2巻『少年園』(1922年)
第3巻『美しい季節』(1923年)
1984年白水社より邦訳刊行
 
 新書サイズの白水Uブックスで8部13巻からなる大長編。
 今年のゴールデンウィークの楽しみ(と暇つぶし)はこれと決めた。
 骨折休職中に読んだ住井すゑ著『橋のない川』以来の文芸大作にちょっと及び腰のところもあり、おそるおそるページを開いたら、なんとこれが面白いのなんの!
 連休に入る前に第3巻まで読んでしまった

 作者はフランスの小説家ロジェ・マルタン・デュ・ガール(1881-1958)。
 本作でノーベル文学賞を獲った。
 第一次世界大戦期のフランスを舞台に、厳格なカトリックで富裕なチボー家に生を享けた2人の男子アントワーヌとジャック、かたやプロテスタントで自由な家風に生まれ育ったダニエル、3人の若者の人生行路が描かれる大河小説である。

 とにかく物語のスピードが早く、起伏に富んでいる。
 『少女に何が起こったか』や『スチュワーデス物語』などの往年の大映ドラマか、大ヒットしたBBC制作の英国上流階級ドラマ『ダウントン・アビー』を思わせる波乱万丈と濃い人間ドラマが繰り広げられる。
 たとえば、初っぱなの第1巻だけで以下の事件が立て続けに起こる。
  • 幕開けは同じ中学に通うジャックとダニエルの熱いボーイズラブ。
  • 2人の関係がバレて教師や親から責められる。ダニエルは放校処分。
  • 思いつめた二人は手に手を取って駆け落ち。
  • 港町で2人ははぐれてしまい、ダニエルはその夜泊めてくれた女の家で初体験。
  • 2人は警察につかまり親元に連れ戻される。
  • ジャックは、業を煮やした父親の命によって感化院に放り込まれる。
といった具合だ。
 第2巻も第3巻もこの調子で続く。
 先の見えない展開にワクワク&ハラハラさせられる。
 これをそのまま映像化あるいは漫画化したら面白いことであろう。
 フランスでは過去に2度テレビドラマ化されているらしいが、邦訳はされていないようだ。
 映画化されていないのが不思議。

 もちろん、豊かな物語性だけでなく、近・現代小説としての巧さもたっぷり味わえる。
 フランス近代文学にありがちな延々と続く情景描写や高踏なレトリックが抑えられる一方、キャラクター造型と心理描写が卓抜で、登場人物たちの(本人さえ気づいていない)心の底を恐いほど抉り出して、それを見事に文章化する。
 夏目漱石と三島由紀夫を足して赤川次郎フィルターをかけたような感じ・・・(かえってよく分からない?) 
 小津安二郎監督の映画『麦秋』の中で、紀子(原節子)がのちに結婚することになる謙吉(二本柳寛)と緑濃き北鎌倉駅で『チボー家の人々』の話をするシーンがある。
 明らかに小津安二郎もチボー家ファンだったのだ。

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「どこまでお読みになって?」「まだ4巻目の半分です」
(映画『麦秋』より)

 第2巻では、感化院の虐待まがいを知った兄アントワーヌの手によって、ジャックは家に連れ戻される。心の健康を取り戻す過程で、ある年上の女性に恋をして初体験する。(ジャックもダニエルもそうだが、「年上の女性との初体験」というのはどうもフランス文化の十八番のようだ)
 一方ダニエルは、どうしようもない放蕩者で女ったらしの父親が、優しい母親を泣かせているのを目の前で見ながら育ったにも関わらず、自分の中に目覚めてくる父親の血を押えつけるすべを持たない。すでにジャックとのボーイズラブは、彼の中では過去のお遊び。

 第3巻では、ダニエルの放蕩者の資質が全開する。狙った獲物を逃さないスケコマシぶりがいかんなく発揮される。
 アントワーヌは新進の医師としての力と自信を着けはじめ、人生で最初の情熱的な恋に陥る。野心的で仕事第一のアントワーヌの恋による変貌が面白い。
 二人に比べて不器用で潔癖なところもあるジャックは、なかなか世間や社会に馴染まない。ダニエルの妹ジェンニーの存在が気になりだすが、恋の成就は先のことになりそうな気配。
 
 実を言えば、大学時代に本書を読んだような気がするのだが、こんなに面白い小説を覚えていないはずもなく、誰かにあらすじや感想を聞いて読んだ気になっただけなのだろうか?
 それとも本当に忘れてしまった!? 痴呆け?
 この先読み進めていくうちにはっきりするかもしれない。
 しないかもしれない。





● マルタン・デュ・ガール著『チボー家の人々』を読む 2


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第4巻『美しい季節Ⅱ』(1923年発表)
第5巻『診察』(1928年)
第6巻『ラ・ソレリーナ』(1928年)
第7巻『父の死』(1929年)
1984年白水社より邦訳刊行

 3泊4日のみちのく旅行に携えていった4冊。
 鈍行列車乗車の計14時間でどこまで読み通せるかなと思っていたら、丸々4冊読み終えてしまった。
 ほぼクロスシートを独占できて、疲れたら車窓を流れる景色で目を休めることができるし、空いている車内には気を散らすものもないし、読書には最適の空間であった。

 もちろん、小説の面白さあってこそ。
 チボー家の息子アントワーヌとジャック、読売新聞と朝日新聞のごとき相反する性格をもつ2人の若者の青春が躍動し、それが僭主のごとく振舞った父親の壮絶な死というクライマックスで幕切れを迎える。
 ストリーテリングの巧さと魅力ある登場人物の描写に、知らぬ間に残りページが少なくなっていることに気づき、いつのまにか終点が近いことに驚く。
 現実のみちのくの旅と、本の中の100年前のフランスの旅、二重に体験しているような感覚であった。
  
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JR仙山線沿線・山寺

 第4巻はずばり「恋」の章。二組の大人たちの恋愛模様が描かれる。
 中年のフォンタナン夫妻のぬかるみに嵌まり込んだような奇態な依存関係は、成瀬巳喜男監督の名作『浮雲』の森雅之と高峰秀子のよう。『浮雲』に見るような腐敗臭ある暗さから救っているのは、フォンタナン夫人の堅い信仰である。
 一方、アントワーヌとラシェルの恋は若者らしい一途さと情熱と性愛の率直さで彩られる。
 アフリカやヨーロッパを放浪し人生経験豊かなラシェルによって、仕事一筋の堅物であったアントワーヌが異なった価値観に触れ人生に開かれていく様が描かれる。
 ラシェルがアントワーヌに語る蛮地での奇想天外なエピソードの数々、長年の愛人であったイルシェという男の不気味な存在感、このあたりの描写には同時代のフランス作家アンドレ・ジッド同様、反文明・反近代を志向する著者デユ・ガールの一面が伺えた。

 第5巻はアントワーヌが完全主役。
 有能で誠実で人望ある医師としての彼の一日が描かれる。「赤ひげ」候補といった感じか。
 このアントワーヌの成長は、ラシェルとの激しく熱い恋と唐突な別れがもたらしたものである。
 その意味では、本小説は19世紀以来の教養小説――青年が様々な経験をして成長していく物語――の流れを汲んでいる。
 人間の“成長”が信じられた時代。

 第6巻はしばらく行方不明になっていたジャックの動向が描かれる。
 親友ダニエルの妹ジェンニーとの関係のもつれや父親への反発から家を飛び出したジャックは、すべての知り合いとの連絡を断って、スイスで物書きへの道を歩み始めていた。
 ひょんなことから居所を知ったアントワーヌは、ジャックをパリに連れ戻すべく、一人スイスに向かう。
 2人の父親であるチボー氏が瀕死の状態にあったのだ。
 それぞれ自分の道を歩み始めた兄弟が再会し、愛憎半ばする父親の臨終に立ち会う。

 第7巻『父の死』は物語的にドラマチックな場面には違いないが、ここで扱われているテーマもまた深い。
 一つは安楽死。父親の苦しむ姿に耐えきれなくなったアントワーヌとジャックは、モルヒネを注射することでその苦痛を終わらせる。(現代では尊厳死にあたるから違法にはならないだろう)
 いま一つは宗教と信仰の問題。父親の葬儀のあとで司祭と対話するアントワーヌの言葉に、読者は神を信じられないアントワーヌの唯物論的精神をみるだろう。それは典型的な近代人の姿でもある。
 
十字架

 本書を読んでいると、欧米人にとって父親の存在というのは非常に大きいものなのだとあらためて感じる。
 フロイトは「エディプス・コンプレックス」という概念を提唱したけれど、あれはキリスト教を基盤とする欧米文化ならではのものであって、日本をはじめとするアジア文化にはそぐわないものだと思う。つまり、人類一般に適用できる心理現象ではなかろう。
 「絶対神=父」という構造と刷り込みがまずあって、クリスチャン家庭の中の父親が「神」のごとく敬われていく文化が強化される。家族の成員は父の背後に「神」を見ざるをえない。このとき、家父長制とキリスト教は強固に支え合っている。
 「父に歯向かうことは神に歯向かうこと」という暗黙のルールが支配する社会にあって、自立(自分らしさ)を求める息子・娘たちはどうしたって葛藤に陥る。それが信仰深い家庭の子女であればなおのこと。
 チボー家の「父の死」は「神の死」のひとつの象徴である。
 神の軛から解かれた世界で、アントワーヌとジャックはどのように生きていくのやら・・・。








 


● マルタン・デュ・ガール著『チボー家の人々』を読む 3


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第8巻『1914年夏Ⅰ』(1936年発表)
第9巻『1914年夏Ⅱ』(1936年)
1952年白水社より邦訳刊行
1984年白水Uブックス

 この小説を読み始める前は、「今さらチボー家を読むなんて周回遅れもいいところ」といった思いであった。
 100年近く前に書かれた異国の小説で、邦訳が刊行されてからもすでに70年経っている。
 新書サイズの白水Uブックスに装いあらたに収録されて書店に並んだのが1984年。しばらくの間こそ読書界の話題となり、町の小さな書店で見かけることもあった。
 が、やはり「ノーベル文学賞受賞のフランスの古典で大長編」といったら、なかなか忙しい現代人やスマホ文化に侵された若者たちが気軽に手に取って読める代物ではない。
 今回も図書館で借りるのに、わざわざ書庫から探してきてもらう必要があった。
 自分の暇かげんと酔狂ぶりを証明しているようなものだなあと思いながら読み始めた。

 なんとまあビックリ!
 こんなにタイムリーでビビッドな小説だとは思わなかった。
 というのも、第7巻『父の死』までは、主人公の若者たちの青春群像を描いた大河ロマン小説の色合い濃く、親子の断絶や失恋や近親の死などの悲劇的エピソードはあれど、全般に牧歌的な雰囲気が漂っていたのであるが、第8巻からガラリと様相が変わり「風雲急を告げる」展開が待っていたのである。

 第8巻と第9巻は、タイトルが示す通り、1914年6月28日から7月27日までのことが描かれている。
 これはサラエボ訪問中のオーストリアの皇太子がセルビアの一青年に暗殺された日(6/28)から、オーストリアがセルビアに宣戦布告する前日(7/27)までのこと、すなわち第1次世界大戦直前の話なのである。
 世界大戦前夜。
 なんと現在の世界状況に似通っていることか!
 100年前の小説が一気にリアルタイムなノンフィクションに変貌していく。
 『チボー家の人々』はまさに今こそ、読みなおされて然るべき作品だったのである。
 
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MediamodifierによるPixabayからの画像画像:ロシアv.s.ウクライナ

 第8巻前半のいきなりの政治論議に戸惑う読者は多いと思う。それも、ジュネーヴに集まる各国の社会主義者たち、つまり第2インターナショナルの活動の様子が描かれる。
 そう、当時はプロレタリア革命による資本主義打倒および自由と平等の共産主義社会建設の気運が、これ以上なく高まっていた。

第2インターナショナル
1889年パリで開かれた社会主義者・労働者の国際大会で創立。マルクス主義を支配的潮流とするドイツ社会民主党が中心で,欧米・アジア諸国社会主義政党の連合機関だった。第1次世界大戦開始に伴い,戦争支持派,平和派,革命派などに分裂して実質的に崩壊。
(出典:平凡社百科事典マイペディアより抜粋)

 チボー家の反逆児である我らがジャックは、いつのまにかマルクス主義を身に着け、インターナショナルの活動に加わっている。まあ、なるべくしてなったというところか。
 この8巻前半は登場人物――実在する政治家や左翼活動家も登場――がいきなり増え、こむずかしい政治談議も多く、当時のヨーロッパの政治状況に不案内な人は読むのに苦労するかもしれない。
 ソルティもちょっと退屈し、読むスピードが落ちた。
 が、よくしたもので、このところ左翼に関する本を読み続けてきたので理解は難しくなかった。

 読者はジャックの活動や思考を追いながら、当時のヨーロッパの国際状況すなわち植民地拡大に虎視眈々たる列強の帝国資本主義のさまを知らされる。
 厄介なのは、列強が同盟やら協定やらを結んでいて関係が錯綜しているところ。フランス・英国・ロシアは三国協商(連合)を結び、ドイツ・オーストリア・オスマン帝国は三国同盟を結んでいる。そしてロシアはセルビアを支援していた。
 一触即発の緊張をはらんだところに投げ込まれたのが、サラエボの暗殺事件だったのである。
 オーストリアがセルビアに攻め入れば、ロシアがセルビア支援に動き、ドイツはオーストリアの、フランスはロシアの味方につき・・・・・。
 ブルジョア家庭に育ちながら資本主義の弊害に憤るジャックは、プロレタリア革命に共感を持ちながらも、暴力や戦争には反対の立場をとる。

 8巻の後半ではダニエルとジェンニーの父親ジェロームがまさかの自殺。
 それをきっかけに、ジャックとジェンニーは久しぶりに再会する。大切な人の死が新たな恋のきっかけになるという人生の皮肉。
 よく似た者同士でお互い強く惹かれ合っているのに素直になれず、なかなか結ばれない2人がじれったい。なにいい歳して街中で追っかけっこなんかしているのか⁉
 世の中には息するようにたやすく恋ができる者(ジェローム、ダニエル、アントワーヌら)のいる一方で、その敷居が高い者(ジャック、ジェンニーら)がいる。

恋の追いかけっこ

 第9巻はジャックが主人公。
 戦争阻止のためインターナショナルの活動にのめり込んでいくジャック。
 一方、互いに疑心暗鬼になって戦闘準備することによって、さらに開戦へと加速する悪循環に嵌まり込んだヨーロッパ各国。
 動乱の世の中を背景に、やっと結ばれたジャックとジェンニーの純粋な恋。
 なんたるドラマチック!
 このあたりの構成とストリーテリングの巧さは、さすがノーベル賞作家という賛辞惜しまず。

 第8巻におけるアントワーヌとジャックの兄弟対話が奥深い。
 プロレタリア革命の意義について滔々と語るジャックに対して、必ずしもガチガチの保守の愛国主義者ではないものの、現在の自身のブルジョア的境遇になんら不満や疑問を持たないアントワーヌはこう反論する。
 
「ドイツでだったら、立て直し騒ぎもけっこうだが!」と、アントワーヌは、ひやかすようなちょうしで言った。そして言葉をつづけながら「だが」と、まじめに言った。
「おれの知りたいと思うのは、その新しい社会を打ち立てるにあたっての問題だ。おれはけっきょくむだぼね折りに終わるだろうと思っている。というわけは、再建にあたっては、つねにおなじ基礎的要素が存立する。そして、そうした本質的な要素には変わりがない。すなわち、人の本性がそれなのだ!」
 ジャックは、さっと顔色をかえた。彼は、心の動揺をさとられまいとして顔をそむけた。
 ・・・・・・・・・・・・
 彼(ジャック)は、人間にたいして無限の同情を持っていた。人間にたいして、心をこめての愛さえ捧げていた。だが、いかにつとめてみても、いかにあがき、いかに熱烈な確信をこめて、主義のお題目をくり返してみても、人間の精神面における可能性については依然懐疑的たらざるを得なかった。そして、心の底には、いつも一つの悲痛な拒否が横たわっていた。彼は、人類の精神的進歩という断定に誤りのないということを信じることができなかった。

 社会主義体制や共産主義体制になっても、基礎となる人間の本性は変わらない。
 新しいものを作っても中味が変わらないのであれば、腐敗は避けられない。
 まさに、かつてのソ連や現在の中国のありようはそれを証明している。

 デュ・ガールが本作を書いたのは1936年。
 執筆時点では、ロシア革命(1917年)によって建てられた史上初の社会主義国家に対する期待と希望は健在であった。(デュ・ガールの敬愛する先輩作家アンドレ・ジッドがソビエトを訪れて共産主義の失敗を知ったのは1936年の夏だった)

 なんという慧眼!

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● マルタン・デュ・ガール著『チボー家の人々』を読む 4

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第10巻『1914年夏Ⅲ』(1936年発表)
1952年白水社より邦訳刊行
1984年白水Uブックス

 物語もいよいよ佳境に入った。
 第10巻は、オーストリアがセルビアに宣戦布告した1914年7月28日から、オーストリア支援のドイツが、セルビア支援のロシアが、それぞれ動員を開始し、ドイツとは長年の敵対関係にありロシアとは同盟関係にあるフランスも内外からの参戦の慫慂を受けてついに動員令を発布する8月1日直前まで、を描いている。
 各国が急速に戦時体制に移行しナショナリズムが高揚する中、国を越えた第2インターナショナル(社会主義者たち)の反戦運動は弾圧され、抑圧され、はたまた内部分裂し、勢いを失っていく。
 フランスでは、第2インターナショナルフランス支部の中心人物で反戦の旗手だったジョン・ジョーレスが、7月31日愛国青年の手で暗殺されることで反戦運動の息の根が止められる(史実である)。

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ジャン・ジョーレス(1859-1914)

 堰を切るように、一挙に戦時体制へとなだれ込んでいく日常風景の描写が実にリアルで、おそろしい。 
 ある一点を越えたらもう引き返せない、もう誰にも止められない、全体主義への道を突き進む国家という巨大な歯車。
 メディアを支配し、世論を操り、祖国愛と敵愾心を焚きつけることで国民を扇動し、「戦争が必然」と思わせていく国家の遣り口。
 これは100年前の異国の話ではない。
 まさに今この瞬間に、ロシアで中国で北朝鮮で起こっていること、NATO各国でフィンランドで英国で日本で起こり得ることなのだ。

 《愛国主義者》たちの一味は、おどろくべき速度でその数を増し、いまや闘争は不可能なように思われていた。新聞記者、教授、作家、インテリの面々は、みんな、われおくれじとその批評的独立性を放棄し、口々に新しい十字軍を謳歌し、宿敵にたいする憎悪をかき立て、受動的服従を説き、愚劣な犠牲を準備することにいそがしかった。さらには左翼の新聞も、民衆のすぐれた指導者たちまで、――そうした彼らは、ついきのうまで、その権威をふりかざし、このヨーロッパ諸国間のこの恐るべき紛争こそ、階級闘争の国際的地盤における拡大であり、利益、競争、所有の本能の最後の帰結であると抗議していたではなかったか――いまやこぞって、その力を政府ご用に役だたせようとしているらしかった。

 登場人物の一人はこう叫ぶ。

「国家の名誉!」と、彼はうなるように言った。「良心を眠らせるために、すでにありとあらゆるぎょうさんな言葉が動員されている!・・・・すべての愚かしさを糊塗し、良識が顔をだすのをさまたげなければならないんだから! 名誉! 祖国! 権利! 文明!・・・・ところで、これらひばり釣りの鏡のような言葉のかげに、いったい何がひそんでいると思う? いわく、工業上の利益、商品市場の競争、政治家と実業家とのなれあい、すべての国の支配階級のあくことを知らぬ欲望だ! 愚だ!・・・」

 今日明日の動員令発布を前に、久しぶりに会ったアントワーヌとジャックは意見を闘わせる。
 たとえ心に添わなくとも祖国を守るために従軍するのは当然と言うアントワーヌと、「絶対に従軍しない」すなわち良心的兵役拒否を誓うジャック。
 同じチボー家の息子として何不自由なく育った2人、一緒に父親の安楽死を手伝うほどに強い絆で結ばれた2人が、ここにきてまったく別の道を選ぶことになる。
 いや、当初から野心家で体制順応的なアントワーヌと、体制による束縛を嫌い心の自由を求めるジャックは、対照的な性格および生き方であった。
 が、戦争という大きな事態を前にして、2人の資質の違いは生死を左右する決定的な選択の別となって浮き出されたのである。
 アントワーヌは言う。

 われらがおなじ共同体の一員として生まれたという事実によって、われらはすべてそこにひとつの地位を持ち、その地位によって、われらのおのおのは毎日利益を得ているんだ。その利益の反対給付として、社会契約の遵奉ということが生まれてくる。ところで、その契約の最大の条項のひとつは、われらが共同体のおきてを尊重するということ、たとい個人として自由に考えてみた場合、そうしたおきてが常に必ずしも正しくないように考えられるときでも、なおかつそれに従わなければならないということなんだ。・・・・」

 まるで国家による処刑に粛々としたがったソクラテスのよう。
 ジャックは反論する。

 ぼくには、政府が、ぼく自身罪悪と考え、真理、正義、人間連帯を裏切るものと考えているようなことをやらせようとするのがぜったいがまんできないんだ・・・ぼくにとって、ヒロイズムとは、(中略)銃を手にして戦線に駆けつけることではない! それは戦争を拒否すること、悪事の片棒をかつぐかわりに、むしろすすんで刑場にひっ立てられていくことなんだ!

 国があってはじめて、国民が、個人が、存在しうるというアントワーヌ。
 個人の存在は――少なくとも個人の良心は、国を超えたところにあるというジャック。
 2人の対決はしかし、議論のための議論、相手を言い負かすための議論ではない。
 アントワーヌは、体制に従わないジャックの行く末を、心底心配しているのである。

 ああ、どうなるジャック‼
 どうなる日本‼ 





 
 

● マルタン・デュ・ガール著『チボー家の人々』を読む 5


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第11巻『1914年夏Ⅳ』(1936年発表)
1952年白水社より邦訳刊行
1984年白水Uブックス

 ジャックが死んでしまった!!
 墜落事故により重傷を負い、戦場を《こわれもの》として担架で運ばれる苦痛と屈辱の末、一兵卒の手で銃殺されてしまった!

 もとより、社会主義者の反戦活動家にして良心的兵役拒否を誓うジャックが死ぬことは分かっていた。
 兄アントワーヌや親友ダニエルより早く、物語の途中で亡くなるであろうことは予想していた。
 しかし、これほど無残にして無意味、非英雄的な死を遂げようとは思っていなかった。
 なんだか作者に裏切られたような気さえした。
 このジャックの死に様によって、『チボー家の人々』という小説の意味合いや作者デュ・ガールに対する印象が一変してしまった。
 こういう小説とは思わなかった。

 フランス動員一日目、ジャックは恋人ジャンニーやアントワーヌに別れを告げ、偽造した身分証明書を用いてスイス・ジュネーブに戻る。潜伏しているメネストレルの助けを借りて、たったひとりの反戦行動を遂行するために。
 それは、フランス軍とドイツ軍が今まさに戦っているアルザスの戦場を滑空し、上空から両軍の兵士たちに向けて戦争反対のアジビラをまき散らすというものであった。
 曰く、「フランス人よ、ドイツ人よ、諸君はだまされている!」
 元パイロットであるメネストレルはこの提案に乗り、いっさいの手配を引き受けるのみならず、自ら飛行機の操縦を買って出る。
 
 これが命を賭した無謀な作戦であることは明らかである。
 2人の乗る飛行機を敵機と勘違いしたフランス軍あるいはドイツ軍により撃墜される可能性がある。
 無事使命を果たしたとしても、着陸後に待っている軍法会議による処刑は避けられない。
 そもそも命と引き換えにしてやるだけの効果ある作戦かと言えば、おそらく「否」である。

 兵役拒否を貫きたいが自分だけ安全な場所に逃げたくはない、他の社会主義者たちが次々と戦争支持へと転向していくなか「インターナショナル」の闘いを最後まで諦めたくない――そんなジャックに残された道は、日の丸特攻隊のような一か八かの英雄的行為のほかなかったのである。
 たとえそれが実を結ばず自己満足に終わろうとも、少なくとも、狂気に陥った社会に対して一矢を報い、個人の良心と正義はまっとうされる・・・・。
 ジャックはジャックでありながら生を全うできる。
 
 作者は残酷である。
 ジャックとメネストレルを乗せた飛行機は戦場に到着する前に墜落炎上し、何百万枚のアジビラは一瞬にして灰と化してしまう。メネストレルは即死。
 ジャックの野望は頓挫し、計画は徒労に終わり、あとに待っていたのは恩寵も栄光もひとかけらもない犬死であった。
 人間の尊厳をあざ笑うかのようなこの結末は、カミュやカフカあるいは安倍公房の小説を想起させる。すなわち、不条理、ニヒリズム、ペシミズム・・・。
 ここにあるのはもはや悲劇ですらない。オセロやマクベスやリア王に与えられた尊厳のかけらにさえも、ジャックは預かることができない。
 若者群像を描いた青春小説であり「青春の一冊」と呼び声の高い『チボー家』には、チボ―(希望)がなかったのである。(まだあと2冊残されているが)
 4巻の途中まで読んだ『麦秋』の謙吉(二本柳寛)は、最後まで読んで、如何なる感想を紀子(原節子)に語ったのであろう?
 
 作者デュ・ガールは厭世的で人間不信な人だったのだろうか?
 ウィキによれば、第一次大戦時に自動車輸送班員として従軍しているようなので、戦地で非人間的(人間的?)な行為の数々を嫌というほど見てきたのかもしれない。ジャックが死ぬ間際の戦地の描写は作者自身の実体験がもとになっているのかもしれない。
 次のジャックのセリフを見ても、人間性というものに対する不信の念が根底にありそうだ。
 
 ぼくは、戦争というものが、感情問題ではなく、単に経済的競争の運命的な衝突にすぎないと信じていた。そしてそのことを幾度となくくりかえして言ってきた。ところがだ、こうした国家主義的狂乱が、今日、社会のあらゆる階級の中から、いかにも自然に、なんのけじめもなくわきあがっているのを見ると、ぼくにはどうやら・・・・・戦争というものが、何かはっきりしない、おさえようにもおさえきれない人間の感情の、衝突の結果であり、それにたいしては、利害関係騒ぎのごとき、単にひとつの機会であり、口実にあるにすぎないように考えられてくるんだ・・・
 
 それに、何より人をばかにしているのは、彼ら自身、何か弁解するどころか、戦争を受諾することを、さも理にかなった、さらには自由意思から出たものででもあるように吹聴していることだ! 

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ThePixelmanによるPixabayからの画像


 本書は、とくに「1914年夏」は、ひとつの戦争論といった読み方も十分可能である。
 国家間の戦争がどのように始まるか、戦争に賛成する人も反対する人も個人がどのように社会(国家)に洗脳され脅かされ順応していくか、ナショナリズムがどれだけ強い権力と魅力を持っているか、人間がどれだけ愚かなのか・・・・。
 悪魔の笑い声が聴こえてくるような展開なのだが、その意味で言えば、ジャックを死に追いやった男メネストレル――社会主義者の仮面をかぶった虚無主義者――の名の響きには、ゲーテ『ファウスト』に登場するメフィストフェレスに通じるものを感じる。
 しかるに、ファウストが終幕の死にあってメフィストフェレスの「魔の手」から逃れ天使たちによって天界に上げられたようには、ジャックには救いの手が差し伸べられなかった。
 当然である。
 神はとうに死んでいた。
 死ぬ間際のジャックの思考には神の「か」の字もない。 







 






● マルタン・デュ・ガール著『チボー家の人々』を読む 6

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第12、13巻『エピローグ』(1940年発表)
1952年白水社より邦訳刊行
1984年白水Uブックス

 ついに全巻踏破!
 二か月くらいはかかると思っていたら、一ヶ月で達成した。
 ゴールデンウィーク中の乗りテツ読書が効いたとは思うが、なにより小説自体が面白くて、ぐいぐいページが進んだ。
 第一次世界大戦が背景となる第8巻からは、ウクライナとロシアをめぐる2022年現在の世界情勢や国内事情と重なる部分が多く、はんぱない臨場感と危機感を持って読まざるを得なかった。
 まさに今、この書を読むことの意義をびんびん感じた。
 本との出会いにも、然るべきタイミングがあるのだ。

 第12巻では、前巻のジャックの壮絶なる死から4年後(1918年)の主要人物たちの現状が描かれる。視点はチボー家の長男アントワーヌである。
 世界大戦は泥沼化し、フランスにも多くの死者・負傷者が出ている。
 アントワーヌはドイツ軍の毒ガス攻撃に肺をやられ、戦場を離れて入院療養中。会話するのも苦しいほどの重症である。
 ダニエルは太腿を撃たれて片足切断。メーゾン・ラフィットの家に戻って無為徒食の生活を送っている。自堕落の原因は実は性機能喪失にあった。
 ダニエルの母フォンタナン夫人は、チボー家の別荘を借りて戦時病院に改装し、責任者として切り盛りしている。生来の奉仕的資質と固い信仰が十全に発揮される場、すなわち生きがいをついに見出した。
 その病院で、アントワーヌの血のつながらない妹ジゼールは看護婦としてばりばり働いている。
 ジェンニーは、ジャックとの愛の結晶でありジャックそっくりな息子ジャン・ポールを立派に育てあげることに日々腐心している。

 総じて、男たちは失意や絶望や惨めさの中に置かれ、女たちは溌剌たる充実の中に生きている。「戦後女が強くなった」の言葉通り。
 だが、闘いはまだ続いておりフランスは敗けたわけじゃない。勝利の日は近い。
 国家が戦に勝とうが敗けようが、死や負傷や貧困という形でもっとも被害を受けるのは庶民にほかならない。戦場に行かない上つ方は、痛くも痒くもない。
 戦争に勝ち負けはない。それは人類すべての敗北である。

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 最終巻はほぼ甥のジャン・ポールに向けられたアントワーヌの遺書であり、フランスを含む連合国側の勝利と国際連盟設立の近いなか、アントワーヌは自らの手で安楽死を決行する。
 こうして、チボー家の父と二人の息子は亡くなり、フォンタナン家の一人息子は子供を持つことができなくなり、未来への希望は両家の血を受け継いだジャン・ポールに引き継がれるところで、物語は終わる。
 アントワーヌは日記にこう書く。

 《なんのために生き、なんのためにはたらき、なんのために最善をつくすか?》 おまえ(ソルティ注:ジャン・ポール)のいだくであろうこうした問題には、もう少し積極的な答えができるのだ。
 なんのために? それは過去と将来のためなのだ。父や子供たちのためなのだ。自分自身がその一環をなしているくさりのためなのだ・・・・連続を確保するため・・・・みずからの受けたものを、後に来る者へわたすため――それをもっと良いものにし、さらに豊かなものにしてわたすためなのだ。

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 前回の記事でソルティは、「『チボー家』にはチボー(希望)がない」と書いたが、やはりこの大河小説から希望の光を見つけるのは難しいと思う。
 死を前にしたアントワーヌは、戦争の終結およびアメリカのウィルソン大統領が提唱した国際連盟に希望を託しているが、これを書いている時点(1936年)のデュ・ガールは、むろん国際連盟が当のアメリカの不参加や日本・ドイツの脱退などで有名無実化していることを知っていた。ドイツのヒトラー出現とナチス独裁を知っていた。第二次大戦のせまる足音をその耳にとらえていた。
 ジャックそっくりのジャン・ポールが、第二次大戦にあたって父親同様の行動=良心的兵役拒否をとることは容易に想像される。ジャック同様の最期が待ち受けているだろう。(実際、フランスで2003年に制作されたドラマ版ではジャン・ポールはレジスタンス活動により処刑されるらしい。チボー家の血は絶たれたのだ)
 アントワーヌの希望が裏切られることをデュ・ガールは知っていたし、当時の読者も知っていた。
 現在の読者である我々はさらに、アウシュビッツ、広島・長崎原爆投下、ソ連や中国に見る共産主義の失敗、ベトナム戦争、湾岸戦争、ロシアのウクライナ侵攻、国際連合の無力なども知っている。
 とりわけ、プロレタリア革命による共産主義社会を夢見たジャックの希望が、文字通り夢でしかなかったことを知っている。
 どこにチボー(希望)があると言うのか?
 
 20世紀初頭のあるフランス人家族の物語あるいは3人の青年の青春群像で始まった本書は、途中から深遠なる戦争文学に発展し、最終的に不条理文学あるいは『平家物語』ばりの無常絵巻へ落着する。
 おそらく、発表当時の読者よりも2022年の読者のほうが、この小説を自らの近くに引き寄せて味読できるであろうし、デュ・ガールの世界観を深く理解・共感できると思う。
 100年寝かされて、いま飲み頃になったフランスワインのように。

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Kim BlomqvistによるPixabayからの画像



おすすめ度 :★★★★★


★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● マルタン・デュ・ガール著『チボー家の人々』を読む 7

第1~13巻(1922~1940年発表)
1952年白水社より邦訳刊行
1984年白水Uブックス

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 前回6で『チボー家』の記事は終わりにするつもりだったが、全巻読み終わって(ブログを書き終わって)しばらくしてから、何か言い足りないことがあるような気がした。
 それは、「『チボー家』にはチボー(希望)がない」と言い切ってしまったことで、この作品が読むに値するものではないと思わせてしまうのではないか、という懸念と関連している。
 それはソルティの本意ではない。

 『チボー家の人々』はストーリー性豊かで面白いし、キャラクターがよく描けているので登場人物たちに愛着もてるし、青春について、恋愛について、家族について、戦争について、国家について、死について、生きる意味について、深く考えさせてくれる堂々の大河ドラマ、オールマイティ小説である。
 青春や恋愛や家族関係が主題となる前半に比べ、社会主義思想や第一次世界大戦がテーマとなる後半は内容的にも用語的にも難しく、とくに死を前にしたアントワーヌの内面を描く最終巻は思弁的・哲学的になる。
 言ってみれば、第1~7巻は中学~大学生レベル、第8~11巻は社会人レベル、第12~13巻は脱世間レベルといった趣き。
 読み手のレベルによっては、途中挫折もやむを得ないかもしれない。
 だんだんと深みを増していく小説なのである。 

 つまりそれは、主役であるアントワーヌの成長過程に即しているからである。
 アントワーヌの精神的成長に応じて内容も深化していく、あるいは世界情勢と身の上の深刻度に応じてアントワーヌの精神的成長が深まっていく。
 この物語の大きなテーマの一つは、アントワーヌという一人の男の精神的成長を描くことを通じて、「人間の成熟とはなにか?」を問うているところにあると思う。

 医師としての世間的成功と栄達だけを目的とし信仰心を持たない俗物的人間であったアントワーヌは、ラシェルとの恋愛によって世間に対する目がひらかれていく。
 医師として実力と自信を身に着け、父親の遺産で思い通りの生活を送れるようになったアントワーヌは、自分でも気づかぬうちに、伝統と慣習に固まった父親そっくりの保守主義者になる。人妻との浮気もお手のもの。
 が、第一次大戦が勃発し兵に取られ、戦場の悲惨を身をもって知ることで、人生観が一変する。
 自ら瀕死の患者となったことで、戦争の愚かさや国家の詐欺、ナショナリズムの馬鹿らしさを痛感する。
 個人的成功と栄誉のために生きてきた半生を後悔し、ようやく弟ジャックの生き方を理解し始める。
 だが、それももう遅い。
 医師である彼には自らの寿命の長くないことがわかる。 
 残り少ない時間のなか、アントワーヌは生きる意味について考える。
 
 《人生の意味いかん?》こうした無益な質問を、全面的に払いのけることはとうていできるものではない。このおれ自身にしても、わが身の過去を反芻しながら、いくたびとなく、こうわれとわが胸にたずねているのに気がつく。《それは何を意味しているのだろう?》と。
 ところで、それは、何を意味してもいないのだ。何一つ意味してなんぞいないのだ。こうした事実をみとめること、それははじめちょっとむずかしい。それというのも、骨の髄までしみこんだ、十八世紀間にわたるキリスト教というやつがあるからなのだ。だが、考えれば考えるだけ、そして、身のまわり、心の中をはっきりみつめればみつめるだけ、《それが何も意味していない》ことの明白な事実に直面せずにはいられない。何百万何千万という人間がこの地殻の上に生みだされ、それがほんの一瞬蠢動したと見るまに、やがて解体し、姿を消し、ほかの何百万何千万に取ってかわられる。しかも、そうやって取ってかわったものも、あすになれば解体する。そうしたつかの間の出現、それにはなんの《意味》もないのだ。人生には意味がない。そして、そうした仮の世にはかなく生きているあいだ、せめては不幸を少なくしようとつとめる以外、そこにはなんの意味もないのだ・・・・ 

 人間の《成熟した精神》がこのような結論に至るのは一種の不条理であろう。
 つまるところ、そこに信仰が、宗教が、介入する隙が生まれる。
 アントワーヌとジャックの父であるチボー氏は、神や天国を信じていたがゆえに、その死に際してすがるものを持ち得た。
 一方、神と決別したジャックもアントワーヌも、不条理のうちに死んでいくほかなかった。
 
 20世紀初頭にデュ・ガールが到達し小説の形で見事に描ききったこの「哲学的命題」は、答えのないままに21世紀に持ち越されている。
 だから、本小説は読み継がれる価値をいささかも失っていないのである。
 
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