もはや『伊賀野カバ丸』ですらないのか・・・・。
在野の民俗研究家・筒井によると、
黒覆面に黒装束、背中に柄の長い直刀を負って、蜘蛛のように城の石垣を登ったり、「草木も眠る丑三つどき」に闇の中を風のように駆け抜けていく姿など虚像にすぎず、現実にはまず存在しなかったろう。
忍びの仕事は大きく分けて、正規軍とは別に奇襲・遊撃隊を担当することと、いわゆる諜報活動の二つであったらしい。前者は、やや集団的で、ことの性質上、外部の目を完全に遮断することが難しいのに対して、後者はしばしば個別に行われ、かかわった当事者以外には何があったのかわからず、記録に残されることもまずない。
第2章 一条兼定へ放たれた忍び植田次兵衛のこと
第3章 伊賀・甲賀の忍びとは、どんな集団だったか
第4章 伊達氏の「黒脛巾(くろはばき)組」と会津・摺上原の合戦
歴史ミステリーの面白さを存分味わえる。
筒井の『猿まわし 被差別の民俗学』(河出書房新社)に詳しいが、猿回しは当時、各地を歩き回りながら牛馬の祈祷を専らとした賤民であった。
「先祖の植田次兵衛は入江左近の家来だった人で、一条の殿様の暗殺に手を貸した。だから、この村の者は中村(現・四万十市中村町)にある一条神社にお参りしない」
大文字山の送り火
今から五百有余年前、前関白一条教房公は、京都の戦乱をさけて家領の中村に下向され、京に模した町づくりを行った。東山、鴨川、祇園等京都にちなんだ地名をはじめ、町並みも中村御所(現在は一条神社)を中心に碁盤状に整然と整備し、当時の中村は土佐の国府として栄えた。この大文字山の送り火も、土佐一条家二代目の房家が祖父兼良、父教房の精霊を送るとともに、みやびやかな京都に対する思慕の念から始めたと、この間崎地区では言い伝えられている。現在も旧盆の十六日には、間崎地区の人々の手によって五百年の伝統は受け継がれている。高知県環境共生課
4代目兼定の死をもって土佐一条家は滅亡したが、大文字は500年の時を越えて残り、今も道行く遍路たちを見守っている。
おすすめ度 :★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損