ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、寺社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

  筒井功を読む

● 四万十川の大文字焼き 本:『忍びの者 その正体』(筒井功著)


IMG_20220614_142025

2021年河出書房新社

 ソルティにとって忍者と言ったら、「サスケ、カムイ、赤影、花のピュンピュン丸、風車の弥七、服部半蔵、忍者ハットリくん」あたりであるが、ウィキ「忍者」の項をみると「忍者をテーマにした代表的な漫画は『NARUTO ーナルトー』」とあり、ちょっとビックリしてしまった。
 もはや『伊賀野カバ丸』ですらないのか・・・・。

 在野の民俗研究家・筒井によると、 
黒覆面に黒装束、背中に柄の長い直刀を負って、蜘蛛のように城の石垣を登ったり、「草木も眠る丑三つどき」に闇の中を風のように駆け抜けていく姿など虚像にすぎず、現実にはまず存在しなかったろう。

 漫画や映画やテレビ時代劇に描かれる忍者像は架空のものであり、歴史上(主に戦国時代)に暗躍した忍者の実像とはかけ離れているらしい。
 そもそも「忍者」という言葉ができたのも大正か昭和初期で、それまでは「忍び」「草」「悪党」「スッパ」などと呼ばれていた。(スッパが「すっぱ抜き」の語源とのこと。忍者の如く極秘情報を抜きとる、ということか)

 では、実在した忍びはどんな働きをしていたのか。

 忍びの仕事は大きく分けて、正規軍とは別に奇襲・遊撃隊を担当することと、いわゆる諜報活動の二つであったらしい。前者は、やや集団的で、ことの性質上、外部の目を完全に遮断することが難しいのに対して、後者はしばしば個別に行われ、かかわった当事者以外には何があったのかわからず、記録に残されることもまずない。

 わかりやすく現代風に言えば、「傭兵とスパイ」といったことになろう。
 いずれにせよ、忍びに関する学問的研究はこれまでほとんどされてこなかったようで、結果的に虚実入り混じった忍者像が独り歩きしているのである。
 2017年三重大学に国際忍者研究センターが設立され、2018年同大学に日本初の専門科目「忍者・忍術学」が導入されたというから、今後の調査研究によって忍びの実像が露わになっていくことが期待される。

IMG_20220614_143127

 そういうわけで、本書の内容も忍びについて総論的に語るのでなく、各論となっているのは止むをえまい。
 信頼性の高い資料から史実と認められる戦国時代の4つの忍びのケースが取り上げられている。
 章題をそのまま用いると、
  
第1章 北条氏配下の忍び軍団「風間一党」のこと
 もちろんこれは『鎌倉殿の13人』に出てくる執権・北条氏ではなく、戦国大名で関東を一時支配した後北条氏(小田原北条氏)のこと。北条氏が傭兵として要所に配していたならず者部隊が、のちに風魔小太郎伝説で有名となった風間一党である。

第2章 一条兼定へ放たれた忍び植田次兵衛のこと
 土佐(高知県)の有力大名であった一条兼定が、新勢力の長宗我部元親の放った刺客・入江左近により瀕死の重傷を負った。入江左近の手伝いをした忍びが猿回しの植田次兵衛である。

第3章 伊賀・甲賀の忍びとは、どんな集団だったか
 忍者の里と言えば伊賀・甲賀であるが、なぜこの二つが忍びで有名になったかを、今も当地に数多くの遺構が残る方形土塁の武家屋敷を手がかりに推理する。

第4章 伊達氏の「黒脛巾(くろはばき)組」と会津・摺上原の合戦
 伊達政宗が使役していたと言われる忍び部隊「黒脛巾組」は本当にあったのか、どんな働きをしていたのか。政宗の晩年に仕えていた小姓・木村右衛門の覚書から探る。
 
 1章と3章が傭兵的な忍び、2章と4章がスパイ的な忍びのケースと言えるだろう。
 いずれのケースも、複数の古い資料の読解と照合をもとに、筒井の柔軟にして洞察力に満ちた推理が組み立てられていく。
 歴史ミステリーの面白さを存分味わえる。

手裏剣

 中でもっとも筒井が関心を抱き、力を注いで取材や資料調査を行っているのは、一条兼定暗殺事件を扱った第2章である。
 本書中の白眉と言える面白さだった。
 
 一条兼定(1543-85)は土佐一条家の4代目当主であるが、名前から推察されるように、一条氏はもともと京都に長く住み代々の天皇を補佐した上級貴族であった。
 関白の地位まで登った一条教房が応仁の乱の戦火を逃れ、土佐の領地に都落ちしたのがことのはじまり。
 息子の房家が土佐一条の初代となり、房冬、房本と、土佐最強の大名家として名を馳せる。
 が、4代目兼定のときに最大の敵・長宗我部元親(1539-99)が現れる。
 土佐一国のみならず四国支配を狙う元親は、兼定を亡きものにしようと謀り、もともと一条家の重臣だった入江左近を手なずけて味方に引き入れる。
 そうとは知らない兼定は、「累代主従の厚恩」を口にして潜伏中の島を訪れた左近をこころよく受け入れて、一献交わしてしまう。
 その夜、暗殺事件は起こったのである。
 入江左近は恩ある主人を裏切った不届きものとして今も評判良ろしくないようである。

 筒井の『猿まわし 被差別の民俗学』(河出書房新社)に詳しいが、猿回しは当時、各地を歩き回りながら牛馬の祈祷を専らとした賤民であった。
 土地勘すぐれ、厩を持つ武家屋敷に入り込みやすく、馬の扱いにも長けた猿回しは、忍びとして恰好の存在だったろう。
 植田次兵衛は、入江左近の指図のもと謀略を助けたのである。
 
 この話が史実らしいのは、高知県の四万十川近くの山中に猿飼という名の村が今もあり、そこの住人たちの姓は最近まですべて植田だった。しかも次のような村の言い伝えが残っている。
「先祖の植田次兵衛は入江左近の家来だった人で、一条の殿様の暗殺に手を貸した。だから、この村の者は中村(現・四万十市中村町)にある一条神社にお参りしない」
 ぬあんて面白いんだ!
 
四万十川
四万十川

 四国遍路で高知県を歩いていた時のこと。
 四万十川を越えてしばらく行ったところで、ソルティの足は止まった。
 遍路道の右手に大文字山が見えたのである!
 伐採されて裸になった山の斜面に、くっきりと「大」の字が浮かび上がっている。
 場所が場所だけに、とうてい観光目的とも地域のお祭りのために作ったとも思えない。
 「なぜこんなところに大文字山が???」
 不思議な思いでシャッターを切った。

大文字山(高知) (2)

 その先に看板があった。

大文字山の送り火
今から五百有余年前、前関白一条教房公は、京都の戦乱をさけて家領の中村に下向され、京に模した町づくりを行った。東山、鴨川、祇園等京都にちなんだ地名をはじめ、町並みも中村御所(現在は一条神社)を中心に碁盤状に整然と整備し、当時の中村は土佐の国府として栄えた。
この大文字山の送り火も、土佐一条家二代目の房家が祖父兼良、父教房の精霊を送るとともに、みやびやかな京都に対する思慕の念から始めたと、この間崎地区では言い伝えられている。現在も旧盆の十六日には、間崎地区の人々の手によって五百年の伝統は受け継がれている。
高知県環境共生課


 土佐一条時代の中村は、「土佐の京都」「小京都」と呼ばれていたという。
 4代目兼定の死をもって土佐一条家は滅亡したが、大文字は500年の時を越えて残り、今も道行く遍路たちを見守っている。





おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 



● 本:『利根川民俗誌 日本の原風景を歩く』(筒井功著)

2021年河出書房新社

 江戸時代後期、千葉県布川に赤松宗旦という医者がいた。
 晩年に、地元布川を中心とする利根川流域の歴史・風俗・動植物を紹介する図説入りの本を書いた。
 それが『利根川図志』(1858年刊行)である。

IMG_20220329_103550

 
 本書は、利根川流域を転々と移り住んできたという筒井が、宗旦の『利根川図志』に倣って、自らの興味の赴くままに、岸辺の町や遺跡や風物を訪ねて紹介したものである。
 民俗紀行エッセイといった感じであろうか。

 坂東太郎もとい利根川は、新潟県と群馬県の境にある大水上山(1,831m)に水源を発し、群馬県を縦断し、埼玉県の上辺をなぞり、東北本線栗橋駅の北で渡良瀬川と合流したあと、茨城県と千葉県の県境を作りつつ、銚子(犬吠埼)で太平洋へと注ぐ。
 全長は322km、信濃川に次いで日本で2番目に長い。
 
 本書で対象とされるのは、渡良瀬川との合流地点から下流部分について。
 主たる町の名を上げれば、古河・野田・坂東・我孫子・取手・布川・印西・成田・香取・潮来・神栖・銚子。
 我孫子から銚子までは、JR成田線沿線となる。

IMG_20220328_202831

 こういう本は、実際に現地を足で巡りながら読むのが一番面白いのであるが、さすがにそれはたいへんなので、昭文社『スーパーマップル 関東道路地図』を手元に置きながら、取り上げられる町の地図上の位置を利根川や鉄道との関係で確かめつつ、読んでいった。
 おかげで、ちょっとした旅行気分が味わえた。
 JR一筆書きツアーで何度か成田線には乗っていて沿線風景も目にしているが、この路線では下車したことがないので、非常に興味深かった。
 
 題材は幅広い。
 赤松宗旦や柳田邦男の住んだ家や家族の話、非定住民たちのテント集落があった森、変わった土地の名前の由来、利根川の流れの変遷や度重なる水害、“風俗壊乱(乱交)”の祭りの伝承、平将門伝説、宝珠花にあった遊郭、昭和40年代初期まであった霞ヶ浦の帆曳き網漁、工業団地に化けた砂丘、銚子半島と紀州和歌山とのつながり・・・等々。 
 まさに「町に歴史あり」「川に歴史あり」といった話のオンパレードで、民俗学の面白さを堪能した。

 読んだら、どうしても訪ねてみたくなった場所があった。
 花粉シーズンがおさまったら出かけようっと。





おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● オン・エア  本 : 『差別と弾圧の事件史』 (筒井功著)


2019年河出書房新社

 在野の民俗研究者である筒井功の新著。
 筒井の本を読むのは、これで10冊目になる。
 もはや立派なツツイスト?
 
IMG_20200527_125821

 
 今回は、日本の近現代史の隅に隠れた12の差別事件のデッサンである。
 うち半分ほどは被差別部落に関わり、残りはアイヌ民族、東北の隠れキリシタン、台湾の原住民であるタイヤル族、貧民集落などである。
  • 皇族来県にあたって、通り道にある貧民集落を警察が焼き払った大分県の的ヶ浜事件(大正11年)
  • 部落解放の手段として行われる糾弾闘争の模範として語り継がれる京都市のオール・ロマンス事件(昭和26年)
 以上2つは以前どこかで読んだことがあり、知っていた。
 それ以外ははじめて知ることばかりで、非常に興味深く、「事実は小説より奇なり」の思いを新たにした。
 とりわけ、
  • 一個人に対する苛烈な糾弾に憤った“一般民”が、近所の部落を集団で襲い報復した群馬県の世良田村事件(大正14年)
  • 関東大震災直後、香川県から来た行商たちが“朝鮮人”と間違われて地域民に虐殺された千葉県の福田村事件(大正12年)
  • 日本の植民地下にあった台湾で、苛酷な支配と侮蔑に憤った原住民タイヤル族が起こした霧社事件(昭和5年)
 以上3つは、その暴力の凄まじさや残虐さや被害の甚大さで衝撃的であった。
 
 これらの事件を描写する著者のスタンスは、必ずしも当事者(=被差別者)べったりではない。
 差別や弾圧に声高に怒りの声を上げるでもなし、差別する側を非難するでもなし、差別される側に同情し肩入れするでもない。
 あくまで中庸なのである。
 残された資料や証言によって分かった事実を、淡々と客観的に、だが事務的にも能面的にも学究的にもならず、描き出している。
 一番最近の事件でもすでに半世紀以上前のことで、ある程度風化され、事件当時の熱や生々しさを失っているということもあろうが、他の著書でも見られるこの“一歩引いたまなざし”こそが、筒井民俗学の特徴であろう。
 
 たとえば、本書の巻末を飾るオール・ロマンス事件。
 これは昭和26年当時、京都市の臨時職員であった杉山清一(ペンネーム)が、雑誌『オール・ロマンス』に発表した『特殊部落』という短編小説がもとで起こった事件である。
 部落解放京都府委員会は、杉山本人や出版社だけでなく、京都市をも糾弾対象にして闘争を繰り広げた。
 結果として、次年度(昭和27年)の京都市の同和対策予算は大幅に増額し、闘争は成功裡に終わる。
 この事件が、その後全国に広がる行政闘争の端緒にして模範と言われるゆえんである。
 
 事件の顛末を淡々と記し、解放運動史における意義を評価する一方、筒井の目は当の『特殊部落』という短編そのものと、著者の杉山清一のその後に向けられる。
 インターネットのおかげで誰でも簡単に読めるようになった『特殊部落』全文を読んで、筒井はその小説の登場人物のほとんどが日本人部落民ではなく朝鮮人であることに奇異な感を抱き、かつ、はたして差別小説と言える次元のものかどうか疑義を呈している。
 そして、事件後市役所を辞職した杉山のその後の失意の人生を、彼の発した呟きによって暗喩しつつ一篇を閉じる。
 「私のことは忘れて下さい、何もかも失ってしまいました」
 
 これまでサンカ猿回し犬神人エタ・非人など差別された人々を調査し描いてきた筒井のスタンスの基を成しているのは、様々な差別事象をめぐってえぐり出される、歴史や風土文化に条件づけられた個人や集団や日本社会の姿への関心であり、差別する側・される側問わず、加害者側・被害者側問わず、そのような不自由な人間存在にたいする哀感なのではなかろうか。
 


四国遍路2 141
四国札所77番道隆寺境内


 筒井は本書「おわりに」でこう記している。
 
書きおわってみて、これらを引き起こしたのは、単なる差別意識というより群集心理ではなかったかとの思いが強く残った。差別が存在する社会であっても、ふだんはそう露骨な形で表面化することは少ない。ところが、何かの拍子に衆をたのんで行動する状態に置かれると、重し蓋がとっぱらわれて、ごく善良な地域住民が残虐な殺人者に一変してしまう。その距離は、どうやらさして遠くはない。ひょっとしたら、それはだれもが簡単に飛び越えられる小さな溝のようなものでありえる。この辺に差別と、それを生みだした人間社会の怖さがあるのではないか。
 
 言うまでもなく、本書の数々の事件を、過去の、人権意識の低かった時代の日本人の過ちと嗤うことはできない。
 各地で見られる新型コロナウイルス感染者や彼らをケアする医療従事者への差別、自粛要請に応じない個人や商店などに対する正義感を振りかざす「自粛警察」の横行ぶり。
 差別と弾圧の事件史は、いまもオンエアである。




おすすめ度 :★★★ 

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




 

● 本:『賤民と差別の起源 イチからエタへ』(筒井功著)

2018年河出書房新社

 在野の民俗研究家である筒井功(1944年生まれ)の最も新しい本は、「被差別民の起源を問う、すなわちエタ(穢多)差別の根本原因を立証する」という、民俗学のみならず、日本の歴史的にも文化史的にも、はたまた宗教史的にも、重要にしてすこぶる野心的な試みである。筒井は『猿回し 被差別の民俗学』(河出書房新社)でもこのテーマについて触れているが、今回は堂々と正面に据えて、本格的に論じ、世に問うている。

 エタは、あるいはエタと同様の差別を受けていた人びとは、その根源までさかのぼっていけばいくほど、イチすなわち呪的能力者の姿に近づく。彼らは元来は畏敬の対象であった。ことに、その能力が正当に発揮されたとみなされたときは、神に対すると同じような尊崇を受けた。ただ、神との仲介に失敗すれば、きびしい罰が待っていた。呪的能力者はもともと、そのような両義的存在であった。
 それに加えて、時代がすすむにしたがい、合理的思考が社会に根づいてくると、イチそのものの零落が始まる。病気が治ったり、雨が降ったりするのは神のせいでも神に祈りをささげる者、つまりイチのせいでもないことに人びとが、だんだん気づくようになったのである。卑見では、これがイチ(エタ)差別の根源である。

 イチとエタは本来、同語であり、エタ差別とはイチ(呪的能力者)差別にほかならない。
(標題書より)


 猿回しはもちろん、箕づくり(サンカ)犬神人(いぬじにん)、渡し守(タイシ)、牛馬の生贄による雨乞い、祭礼の先導役、葬送風俗、地名など、これまでの筒井の調査・研究対象の多くが上の説を立証する根拠として用いられている。論じるにあたっては、時代と地域を縦横無尽に走査して示し出される文献(官のものも民のものも)の数々と、筒井の本領である地道な長年のフィールドワーク(聞き取り)とが、緊密に結合し、「これでもか、これでもか」とばかり繰り出される証拠に圧倒される。
 題材的にも内容的にも、筒井民俗学の総括的性格を備えた記念碑的作品といった趣きがある。
 
 『猿回し 被差別の民俗学』を読んだ時からソルティは筒井の「イチ転じてエタ」説に感銘を受けたし、説得力ある、蓋然性の高い説だと思った。
 本書中で触れられているが、西洋にもまた同じような職業の人々――大宇宙と小宇宙をつなぐ特異な能力を持つ存在――に対する、同じような差別の歴史があったことを著名な歴史学者の阿部謹也が記している。

 
 心の底で恐れを抱いている人びとが、社会的には葬られながら、現実に共同体を担う仕事をしているという奇妙な関係が成立したのです。このような状況のなかで、一般の人びとも、それらの職業の人びとを恐れながら遠ざけようとし、そこから賤視が生じるのだと私は考えます。(阿部謹也『自分のなかに歴史をよむ』ちくま文庫)

 
 西洋の場合、大自然とつながる呪的能力者の零落の大きなきっかけとなったのはキリスト教の伝播及び浸透と阿部は述べている。ミシュレの『魔女』はまさにその様相を赤裸々なまでに残酷に描破している小説であろう。
 日本の場合は何がきっかけになったのだろう?
 仏教か? 
 儒教か?
 武家政権の登場(天皇親政の終焉)か?
 
 筒井説にあえて難を探すとしたら、「合理的思考の形成」にのみイチ零落の理由を求めるのはいささか弱い気がする。
 とくに日本人の場合・・・。

 
吉良川


 
評価: ★★★★


★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 本:『日本の「アジール」を訪ねて 漂泊民の場所』(筒井功著)

2016年河出書房新社刊行
 

 「アジール」とはなにか。

犯罪者、負債者、奴隷などが逃げ込んだ場合に保護を得られる場所。世界各地にわたって聖地や寺院などにその例が見られるが、法体系の整備とともに失効している。聖庇、聖域、避難所。(小学館『日本国語大辞典』より)

 元来はヨーロッパの法制度と宗教観念を背景に生まれた言葉なので、該当する適切な日本語は存在しない。
 ここで著者は、「何らかの形で国家権力や法律制度の枠外にある地域」を指して、「アジール」という言葉を使っている。そして、日本におけるアジールの恰好の例として、遅くとも半世紀ほど前までは日本のあちこちに点在し、その後消滅してしまった「セブリ」を挙げている。
 在野の民俗研究家にして卓抜なるエッセイストである筒井功の最新刊は、日本各地にあったセブリについての記録の数々である。

セブリは非定住民らのあいだで広く使われていた一種の隠語で、動詞形だと「セブル」となる。それは「フセル(伏せる、臥せる)」の転倒語だとされている。意味は「住む」「泊まる」「寝る」などであり、セブリはそのような場所のことである。乞食または一見してそう思える人びとは、しばしば普通民の近づかない土地に集住して、そこをセブリとしていた。

 本書では、栃木県高原山の麓の「仏沢」、福島県原町石神の「土窟」、大阪市天王寺にあった「ミカン山」、埼玉県比企郡の「吉見百穴」、高知県土佐市清水市の「箕作」、岡山県の旭川ダムの流域・・・など、著者が実際に足を運び、古くから土地に住む古老に話を聞き、文献を調べ、あるいは実際にセブリしていた人の縁者を取材し、あとは推理と世間知と想像の力によって再構成した在りし日のセブリの姿が描かれている。
 ソルティは上記の吉見百穴だけ小学校の遠足で行った。古墳時代後期の横穴墓群の遺跡とされているが、小学生のソルティはちょうどテレビで放映されていた『はじめ人間ギャートルズ』(原作は園山俊二のギャグ漫画)の影響で、原始人の住居跡という勝手な思い込みをもった。太平洋戦争時は地下軍需工場として利用するため坑道が掘られている。
 遠足での一番の思い出は、斜面を歩いているときに足が滑って落下しそうになったことである。そばにいた女の子が差し伸べてくれた手につかまって一命を取り留めた(と思っている)。今はどうか知らないが、当時はあまり観光用(すくなくとも子供の遠足用)には整備されていなかったので、ずいぶん危険なところもあったのだ。

吉見百穴
吉見百穴

 セブリにはどういう人たちが暮らしていたか。というより、どういう人たちがセブっていたのか。
 サンカと呼ばれた人たちである。
 筒井の定義によると、サンカとは「箕(み)、筬(おさ)、川漁などにかかわる無籍、非定住の職能民」である。は農具、筬は機織りに用いる道具で、どちらも竹を主原料とする。サンカは、竹林をもとめて移動し、普通民の邪魔にならない目立たぬところに竹や藁や布を材料とする仮の宿(セブリ)をこさえ、家族ぐるみで箕や筬をつくっては周辺の農民たちに商いし、一定期間が過ぎるとまた別の竹林と商売相手をもとめて移動する。あるいは川の流域を上下しながら漁をする。生涯定まった家を持たず、籍も持たず、名字もない。結婚は地域を離れたサンカ同士の間で行われる。
 こんな世過ぎをしていた人たちが、ほんの半世紀余り前まで日本にいたのである。文化・風習はこれとまったく異なるが、「日本のジプシー」と譬えれば、イメージを描きやすいであろう。

 著者によれば、サンカの語源は「坂ノ者」だと言う。サカノモノ→サカンモン→サンカモン→サンカ、という音の転換があったのではないかと言う。

坂ノ者は元来は「坂に住む者」の意であった。この語は11世紀の文献にすでに見えている。当初は主として京都・清水坂と、奈良・奈良坂のそれを指していた。彼らは「非人」とも「長吏(ちょうり)」とも呼ばれ、賎視の対象になっていた。

 奈良や京都で発生した「坂ノ者」という言葉が、音を変え、指し示す実態を微妙に変えながら、各地に広がっていったということであろうか。

 歴史的・民俗学的探求もたしかに面白いけれど、ソルティが一番興味深く思うのは、わが国で1000年近くの歴史を持ちその存在が許されてきた(大目に見られてきた)これらの人たちの姿が、たった半世紀ほど前に、敗戦から20年くらいの間にすっかり消滅してしまった――ということの意味である。
 いったいこの間、なにがあったのだろう?

 むろん、敗戦は大きい。敗戦とGHQによる日本改造(近代化・民主化)は無視できまい。それに、産業構造の変化や国土開発や交通機関・マスメディアの発達が、日本からアジール(隠れ場所)を払拭してしまったこともあろう。産業自体も大きく変化した。伝統産業が衰退し、箕や筬は使われなくなっていった。川漁も減った。
 消えてゆく文化や風習や民族のことを思うと、ちょっと淋しいようなもったいないような気もするけれど、賎視され差別される人たちがいなくなるのは良いことに違いない。時代は流れる。
 一方で、無籍で家を持たず法制度から外れた‘サンカ’は、ほんとうに消滅したのだろうかとも思うのである。押し寄せる近代化の波の中に消えたように見えて、実際には別の形となって再び水面に顕われているのではないだろうか。
 サンカの子孫として今は定住し市民として暮らしている人たちのことを言っているのではない。
 たとえば、河川敷のホームレスであるとか、施設や刑務所に収容される知的障害者や発達障害者であるとか、家に引き篭もる精神障害者であるとか、ビザや住民票を持たない外国人であるとか・・・。
 世の中には、近代社会のシステム――法や制度や経済や市民的一般常識――にどうしても馴染まない人々がいて、そういう人たちは現代日本社会でどこにも居場所を見つけられずに、かと言って、もはや大自然の中で孤独ではあるが自由気ままに生きることもかなわずに、社会の片隅で窒息しかかっているのではないかなあ、と思うのである。



 
 

  

● 本:『「青」の民俗学 地名と葬制』(筒井功著)

2015年河出書房新社。

日本語の「青」は、元来は墓地・葬地を意味する言葉だったといえば、ほとんどの人がまず眉に唾を塗ることだろう。・・・・・そんなことは、どんな辞書、事典を開いても載っておらず、ごく最近になるまで、それらしい指摘をした研究者は皆無だったからである。(本書より引用、以下同)

 言うまでもなく、ここで言うのは「青」という漢字表記のことではない。日本に漢字が入ってきたのは紀元後1世紀頃と考えられている(大修館書店「漢字文化資料館」より)。弥生時代中期である。「漢」王朝が紀元前206年‐紀元220年だから妥当な線だろう。
 「あお(blue)」という色も、それを指し示す「アオ」という音も、当然古代日本人は目で見て認識し、話し言葉として使っていたはずだ。「いつ」からかというのは難しい。縄文時代からなのか、弥生時代に入ってからなのか。日本語の起源に関わる問題である。
  ただし、「アオ」という音で示された色は、いまの青・蒼・藍・blueに限定されていなくて、「本来は黒と白との中間の範囲を示す広い色合いで、主に青、緑、藍をさし、時には、黒、白をもさした」そうである(小学館『日本国語大辞典』より)。確かに、現在でも「青」という言葉によって表現される事物は、「青信号」「青葉」「青馬」「青梅」「青蛙」「青田刈り」「青大将」「青海苔」などにみるようにblueとは限らない。むしろ緑系が多い気がする。

 これらから考えて、青は原義的には何かの色を指す言葉ではなく、「どちらにも属さない、中間の位置または状態」を意味していた可能性が強いように思われる。
 この推測が当たっているとすれば、アオ(古い表記では「アヲ」)とは元来、「あの世とこの世とのあいだ、境、中間」を指していたのではないか。そこはぼんやりと薄暗い、もしくは薄明るい世界だと意識されていたのではないか。その感じが、古代から今日までつづく色彩語としての青に反映しているのかもしれない。

 日本各地を旅しながら関心の赴くままに民俗研究を続け、『新・忘れられた日本人』『猿回し 被差別の民俗学』『忘れられた日本の村』などの好著をものしてきた筒井は、研究の途上で「青(アオ)」と「墓地・葬地」の関連を思うようになり、「青(アオ)」で始まる地名の分析を手がかりに系統的な研究に着手した。
 その成果が本書である。

 上記に挙げた他の著書――文学と民俗学と旅行記とミステリーの折衷のような味わい深いエッセイ――とは異なり、研究書の色合いが濃い。手法として、「青」で始まる土地(青山、青柳、青島、青木など)と、その土地にある古墳や古くからの葬地との相関を探っていくので、全般に証拠(=判断材料)の列挙というスタイルにならざるを得ないのは仕方あるまい。
 しかし、よく足を使って、よく調べたなあ~。
 相変わらずの筒井の探求心と勤勉さと行動力に感心する。こういうライフワークを持つ男は幸せである。

 一読した実感では、なるほど各地に今も残る「青(アオ)」地名と「墓地・葬地」の間には高い相関を指摘することができそうである。もっと両者のサンプルを増やして、統計学的処理――たとえば統制群(コントロール)も用意して「カイ2乗検定」をかける――と明瞭になるのだろうか?

 一つ考察がほしいと思ったのは、「青という言葉を、はっきり死または葬に関連して使ったと思われる例は、記紀万葉などの古代文献にはないようである」と筒井が述べているところだ。
 その理由はなんだろうか?
 筒井の推理どおりに、「アオ」が「死・他界」を意味する言葉として使われていたのならば、それがそのようには使われなくなった理由も知りたいところである。6世紀に入ってきた仏教の影響だけとするには、あまりに痕跡なさ過ぎと感じる。
 冠位十二階(604年制定)では「青」は「紫」につぐ高い位を与えられている。古代日本人が「死」のイメージを喚起したであろう色に、それほど高い位をすんなり与えるものだろうか?
 差別語の変遷に見るように、人の「感覚」を変えるのは「言葉」を変えるよりずっと難しいと思うのだ。 


solitude-1209296__340


 


● 日本人を解放せよ 本:『忘れられた日本の村』(筒井功著)

2016年河出書房新社発行。
 
 『猿回し 被差別の民俗学』、『新・忘れられた日本人』の著者の最新作。
 やっぱり、面白い。クオリティが高い。あとがきで触れているとおり、「エッセイとも旅行記ともつかない妙な内容」であって、また「民俗学とも文学ともつかない不思議な文体」である。
 そこがいい。

 今回は、日本各地の‘忘れられた’――というより‘知られざる’村をいくつか取り上げて、その村に古くから伝わってきた‘知られざる’伝承や習俗や生業や芸能を紹介している。現地での取材、各種の文献調査、地勢や地名や生産物や今も残っている言葉などをたよりに、ありし日の村の姿、村に生きた人々の姿を再構成していく著者の視力と手腕は、奥ゆかしくも鋭敏である。推理の楽しみは本書の大きな魅力となっている。(いつか民俗ミステリーを書いちゃくれまいか)
 一般に民俗学文献を読むのは素人には難儀なものだけど、この本は非常に読みやすい。リアルタイムの取材の様子を縦糸に張り、上手い具合に、地誌学、歴史学、言語学、記紀文学などから得た推理の材料を横糸として加え、全体図を織り上げていく。分かりやすい言葉で、シンプルかつ要領よい説明がなされる。織手としての、作家としての著者の技量には感心する。

 取り上げられるのは、
第一章 出雲国の水晶山と「たたら村」
第二章 マタギは、なぜアイヌ語を使っていたか
第三章 断崖の漁村「御火浦」略史
第四章 雪深い北陸「綾子舞い」の里
第五章 大分県「青の洞門」の虚と実
第六章 阿波山岳武士の村と天皇家を結ぶ糸
第七章 地名と村の歴史――千葉県・丁子(ようろご)から

 どの一編も魅力的で面白い。
「へえ~、こんな村があったの?」
「この地名にはこんな謂れがあったの?」
「こんな伝統芸能・伝統産業があったの?」
e.t.c.
 「日本は広くて奥が深いなあ~」という思いを著者と共にする。そう、バンに荷を積み込んで著者と一緒に旅している気分になるところがまた一つの魅力である。

 ソルティが特に面白く読んだのは、第五章と第六章。
 第五章の「青の洞門」は、大分県中津市本耶馬渓町にある切り立った渓谷の岩壁をくり貫いたトンネル。江戸時代の僧侶禅海の手によって成し遂げられた偉業である。ダイナマイトも掘削機もない時代に、全長約200mのトンネルを掘るのはまさに生涯をかけた大事業であったろう。
 この洞門が有名になったのは、菊池寛の小説『恩讐の彼方に』の舞台となったことによる。ソルティも小学校時代、国語か道徳の授業で習った覚えがある。クラスメートの悪ガキが、「先生、それ『けろっこデメタン』にもおんなじ話があるよ!」と叫んだ声が今も耳についている。
 筒井はここでトンネル掘削の経緯や禅海の素性や半生について、まず『恩讐の彼方に』のストーリーをおさらいし、次に土地に残っている伝承を紹介し、最後に各種文献から組み立てた筒井自身の推理を述べている。すなわち、フィクション、伝承、推理によって組み立てた蓋然性の高い史実、の3つを並べている。史実がいかにして地域の伝承になっていくか、伝承がいかにしてフィクションに飛翔するか。その変容ぶりははからずも、この3つの表現形態の特色の違いを浮き彫りにする。そして、史実が伝承を経て文学作品として昇華されていく過程に、「物語」に対する人間の根源的欲望(=無明)を見る。

青の洞門


 第六章では、徳島県美馬市木屋平村字三ツ木に残る一軒家、三木家の歴史を取り上げている。
 三木家では、大嘗祭――天皇が即位してはじめて行う新嘗祭(11月23日)――において、新天皇が着用する麁布(あらたえ)を作って貢納する役目を古くから担っている。

麁布とは要するに麻服のことであり、原料は麻である。麻は周知のように大麻ともいい、麻薬の原料にもなるから勝手に栽培することはできない。三木家では、むろん許可を受けたうえで前面の傾斜面を畑に当てている。

 貢納に対しては、宮内庁から多少の謝礼が出る。しかし、かかった費用にくらべれば、問題にならないほどの少額である。つまり、一方的な贈与に近い。三木家も寄付に応じた人びとも、それを承知で力を合わせたことになる。

 新嘗祭ならば一年に一回である。そこに標準を合わせて、畑を耕し、麻を育て、麻糸をとって、布に仕立てることもできよう。
 だが、大嘗祭は数十年に一回で、いつあるかも予測できない。一番最近は、平成天皇が即位した平成2年11月22日深夜から翌日未明にかけて行われている。26年前である。生前退位がいま話題となっているが、次の大嘗祭がいつになるか(不敬な話であるが)分からない。
 伝承によれば、三木家はこの麻布の貢納を古代から行っているという。文献で確認できるのは、文保二年(1318年)、すなわち約700年前である! 三ツ木という地名、および三木という家名も「みつぎ」から来ていると推測される。

 気の遠くなるような話ではないか。
 何十年に一度の大嘗祭たった一日の折に天皇陛下が着る麻服の素材を、700年以上も貢いできたことを誇りとし、その伝統行為が家名に転じたほどの一族が、都からはるか遠く離れた徳島県の奥深い山間に暮らしているのだ。今も!
 天皇制がいかに深く日本に入り込んでいるか、日本人の血肉となっているのかが伺えよう。(ただ、次の大嘗祭の折も麁布を献上するかどうかは未定らしい。過疎化、少子高齢化の波はこうした伝統行為も絶滅させるのだ。)

 筒井の他の著書同様、本書で紹介されるのは日本史の表舞台には登場しない庶民の姿である。特に、たたら(製鉄)、マタギ(猟師)、綾子舞い(芸人)、神人(神社の雑役)といったいわゆる「被差別の民」が主役となっている。
 教科書には載っていない。授業でも習わない。時代劇や大河ドラマでも詳しくは描かれない。しかし、日本の辺界に存在し、逞しくつましく賢く生きてきた人々の姿を知ることは、日本という国の奥深さを知り、日本庶民文化の豊穣を知り、日本人の多様性を知ることにつながる。それは、画一化・標準化・記号化しつつある現代日本人を解放する‘裏ワザ’のように思うのである。
 
 
 

● 子供たちはどこへ消えた 本:『新・忘れられた日本人 辺界の人と土地』(筒井功著、河出書房新社)

忘れられた日本人 2011年刊行。

 昔から自分を惹きつけてやまないお伽噺の一つに『ハーメルンの笛吹き男』がある。
 約束していたネズミ捕りの報酬が貰えなかった仕返しに、町中の子供たちを笛の音で躍らせてどこかにさらって行った男の物語である。
 この話のどこがそれほど自分を惹きつけるのかはっきりしないのであるが、似たようなテーマを扱ったピーター・ウィア監督の映画『ピクニック at ハンギング・ロック』(1975年、オーストラリア)もやはり同じような感慨を身内に興す。もっとも、後者で神隠しにあうのは少女たちであり、ネズミ捕りに当たるような人物は出てこない。
 神隠し。蒸発。行方知れず。失踪。
 これらの言葉が持つ、不可思議と恐怖と幾分ロマンティックな響きが、妙に琴線に触れる。日常からの逃避願望なのだろうか。山への単独行はこの延長上にあるのかもしれない。
 そう言えば、千葉県茂原で2ヵ月半ものあいだ行方不明になっていた女子高生の事件も興味をそそられる。発見された場所が神社の境内であったということが、まさに「神隠し」という昔からの言い回しを想起させる。

 『ハーメルンの笛吹き男』は1284年ドイツのハーメルンで実際に起きた130人の子供の失踪事件の伝承をもとに作られたものである。この不思議ではあるけれど単純な事件が、年代を経るごとに脚色されていく。誘拐魔としての笛吹き男(パイド・パイパー)がまず登場し、次にこの笛吹き男はネズミ捕りでもあったという変貌を遂げる。この過程には、中世ヨーロッパにおける遍歴芸人に対する差別と、収穫した穀物を襲うネズミの群れに対する人びとの恐怖心とが潜んでいることを解明したのが、阿部謹也の『ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界』(ちくま文庫)である。
 自分が子供の頃に読んだ『ハーメルンの笛吹き男』はグリム童話だったと思う。そこでは、他の子供達に遅れをとった盲目と足の不自由な子供二人があとに残され、大人たちに仔細を語る役を果たしている。連れ去られた子供たちがその後どうなったか知る由もない。
 ただ、物語はこんなふうに終わっていた。
「ハーメルンを山一つ超えたジーベンビュルゲン(トランシルヴァニア)のある村で、異国の言葉を話す人々がいつからか現れて暮らしている。」


 前段が長くなった。
 筒井功の『新・忘れられた日本人』は、日本の辺界の人と土地を訪ね、埋もれた歴史や語られざる風習や虐げられた人々の姿を、丹念な調査と地道な取材と豊かな想像力とで紙面に甦らせた民俗学的記録である。
 著者は民俗研究家であって学者ではない。書かれたものは、研究としての客観性、正確さを保ちながらも、小説のような味わいがある。つまり文学的である。
 文章のうまさ、わかりやすさは言うまでもないが、調査・取材の対象となる人々との距離のとり方が、科学的(=冷たく事務的)でもなく、扇情的(=差別意識が透けて見える往年のサンカ研究家の三角寛のよう)でもなく、かといって過度に同情的(=お涙頂戴or社会問題として一石を投じたい)でもない。絶妙の距離間と言っていい。
 一方、虐げられた人々に対する筒井のあたたかく哀切なるまなざしは、十分に感得される。それが基音として通底しているこの本は、珠玉の短編小説集といった趣きを呈している。


 語られるのは次のテーマである。
第1章 サンカが過ごした最後の日々
     茨城県のある山村で箕直しによって生計を立てていた一家の物語
第2章 奥会津・三条村略史
     400年以上存在し昭和59年に消滅した奥会津の僻村の来歴
第3章 ある被差別部落の誕生と消滅
     高知県のある村に明治以後に一時だけ生まれ消えていった部落の物語
第4章 「説教強盗」こと妻木松吉伝
     昭和の始めに世間の耳目を集めた説教強盗の波乱の生涯と出自
第5章 葬送の島、葬送の谷
     丹後半島のある漁村で昭和17年まで行われていた変わった葬式の記憶
第6章 朝鮮被虜人の里の400年
   秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)の際に連れて来られた朝鮮の陶工たちがつくった里の栄光と受難

 どの一篇をとっても面白く味わい深い。
 説教強盗のことや朝鮮被虜人からなる陶器の村のことなどくわしく聞いたことがなかったので、誠に勉強になった。京都北端の伊根湾にあるという舟屋の光景も、そのうち見に行きたいものである。 

 舟屋とは、海ぎわに建つ二階家の一階部分が「駐船場」になっている家屋のことである。倉庫のようながらんどうの一階が漁船の収納庫になっているので、ちょっと離れたところからだと家は水の上に浮かんでいるように見える。そういう舟屋が湾を囲んで、すき間なく軒を連ねている。そのような特異な景観を望める場所は、国内ではここ以外にはないらしい。

伊根の舟屋



 このうち、自分が一番興味を掻き立てられ、一読遠いところまで心が連れて行かれたのは、第2章である。 

 昭和59年かぎりで消滅してしまった福島県金山町本名字三条も、その来歴や住民の昔の暮らしを語る文献を全く欠いた村の一つであった。少なくとも400年は存在していた奥会津の僻村は、どんな記録も残さず、いまでは地図の上からも消えたのである。本章は、わずかな手がかりから、この村のかつての姿を想像しようとする試みである。

 筒井は昭和52年の夏に只見川支流にイワナ釣りに向かう際に通り過ぎた三条の様子を記憶に辿る。

 そこは見たところ10戸たらずの、ささやかすぎるくらいの集落であった。気づいたかぎりでは、みな茅葺きの屋根で、曲がり屋と直屋(すごや)があった。それらが未舗装の道をはさんで左右に並んでいた。


 山中深くに孤立した集落というのは、ほかで暮らす者たちの注意を引かずにおかないものらしい。「なぜ、わざわざ、あんなところに」という疑問がわくからであろう。


 筒井は、様々な資料を手がかりにこの村の成り立ちや暮らしぶりを探っていく。
○ 暮らしは何で立てていたのか(産物)
○ マタギ(職業的猟師)が定住した集落だったのか
○ 椀、盆、木鉢、木皿、銚子などをつくる木地集落だったのか
○ 箕作りをしていた記録は何らかの被差別の歴史を暗示しているのか
○ 全戸とも栗田姓であった理由は何か
○ 落人伝説(たとえば平家の)があてはまるのか
そして、
○ 近隣の村人達とは語彙も抑揚もかなり異なった「三条のウグイス言葉」なるものを使っていた意味は何か

 もうおわかりであろう。
 まさにグリム童話の『ハーメルンの笛吹き男』の末尾を彷彿とさせる。
 マタギ説、木地師説、落人伝説を説得力ある論証によって一つ一つ消去していく筒井の推理は、地形を手がかりに飛翔する。 

 三条の起源を考えようとするとき、村の北方にそびえる御神楽岳(1387メートル)の存在が大きな鍵をにぎっているのではないか、これがわたしの推測である。
 御神楽岳は、会津にとっても越後にとっても、きわめて古くからの信仰の対象である聖山であった。

 信仰の山には、いや応なしに参拝者が集まる。御神楽岳にも、いつとも知れないころから、南北二つの登山道が開かれていた。いま南側を例にとると、只見川筋から山頂までは直線距離でも一〇キロはある。標高差で千メートルを超す。とても一気に登れるものではない。これを一日で往復するとなると、かなりの足達者でないと難しいだろう。山に通じない参拝者には、案内人も必要になる。

 そうであるなら、途中に休憩や宿泊ができる建物が欲しいところである。それは緊急の際の避難所にも、案内人のたまり場にも使える。三条は、そのような事情によって成立した集落ではなかったか。

 このあたり、読んでいてワクワクしてくる。
 金田一耕助ばりの推理は続く。 

 御神楽岳信仰は、実は越後から始まった可能性が強い。その何よりの理由は、新潟県の津川盆地や蒲原平野からは同岳が眺望されるのに、会津の方は、どこからも山容を拝することができない点にある。

 そして・・・ 

 もし右の通りであるとすれば、御神楽岳という聖山の存在によって生計の糧を得る生き方も、越後側から始まったことになるだろう。そうして御神楽岳信仰が南側の会津にも波及する、そちらへ移住して登山道の途中に村を構える者が出てくることは、ごく自然のなりゆきである。

 この推測は、三条住民のあいだで語られていた、越後からの移住伝承にもよく合う。また。「三条のウグイス言葉」の由来も、説明できることになる。


 う~ん。お見事。
 『猿回し 被差別の民俗学』でも唸ったが、人間というものがよくわかっている。共同通信の記者をやっていただけある。世間知らずの学者ではこうはゆかない。
 民俗学に必要なのは、「人間」に対する知識なのだとつくづく思う。
 

 三条は、もと御神楽岳の山腹に開かれた宗教集落であり、もっぱら山稼ぎに頼る暮らしに変わったのは信仰が衰えてのちのことであった、これがわたしが想像によってたどり着いた結論である。


 筒井の推理はここで終わっているが、あえて言明を避けたのだろうと思うところを自分が続けてみよう。


 400年前、御神楽岳への篤い信仰を抱いていた数十名からなる一団(講)が、越後から山を越えてやってきた。
 故郷を離れた理由は知る由もない。
 新しい土地に到着し、自分たちの村を拓く。
 さて、なんという名前をつけようか。
 一番有り得そうなことは、自分たちが元々いた場所、すなわち故郷の名前をそのまま付けることである。たとえば、アメリカに移住した清教徒が、ニューヨークやニューイングランドを築いたように。19世紀末にロサンゼルスに移住した日本人がリトル・トーキョーを築いたように。

 三条――。
 この名前が何よりの状況証拠なのではないだろうか。


 と、張り切って推理したところで、くだんの村はとうに消え失せているのであった。


● 本:『猿まわし 被差別の民俗学』(筒井功著、河出書房新社)

猿回しの民俗学 2013年刊。

 この本は面白い。
 筒井功はほかに『漂泊の民サンカを追って』を読んだが、これも面白かった。
 この作家は、民俗学の面白さを十分に感じさせてくれる。
 それは何かというと、文献や古老への聞き取り、地名や人名、その土地の神社(信仰)や祭事、昔から伝わっている風習やしきたりや伝説などを手がかりとして、ある文化や事物の由来・来歴・いわれ・成り立ち・変容などを探る面白さである。
 綿密な調査と取材、自然な論理展開と鋭い分析力、そして深い人間理解を伴った過去を再構成する想像力。それらが揃った民俗学には、優れた推理小説を読むのと同質の面白さがある。恰好の例として、阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男』(ちくま文庫)を挙げたい。
 筒井の本もまた推理小説のように謎解きの興味に読者を引き込む。
 しかも、共同通信社の記者をやっていただけあってその文章はわかりやすい。
 
 題材は猿回しである。
 60年代首都圏生まれの自分は、テレビや観光地などでたまに見かける猿を使った芸というイメージしかなかったのであるが、昔は縁起物として正月に家々を回り、家人に芸を見せてご祝儀を得ていた。いわゆる門付け芸である。門付け芸をする猿まわしは、60年代初頭に日本から姿を消したとあるから、自分が知らないのも無理はない。
 その歴史は古く、中国古代の文献『荘子』や『列子』に猿回しをする芸人として「狙公」という言葉が見られるそうである。日本の文献では13世紀成立の『吾妻鏡』『古今著聞集』までさかのぼれるとのこと。
 だが、本来、猿回しの主たる仕事は芸を見せることではなかった。

 これまでに紹介してきた文献類からもうかがえるように、猿まわしという職業者の仕事は、もともとは牛馬の祈祷とくに厩祓いを主としたものであった。


 どうして、猿に馬を守る力がそなわっていると考えるようになったのか、これに納得できる説明を与えることは、実は今日でも非常にむつかしい。ただ、そのような習俗は古くから中国にも東南アジアにもあって、どうやらインドが発祥地らしいということは、ほぼ間違いがない。


 それはともかく、猿は馬の守りになる、馬の病気をふせぎ治すという思想が存在したことは、はっきりしている。のちには大型家畜の牛にも、この考え方は適用されるようになる。その結果、猿を扱う者すなわち猿飼が牛馬の祈祷を職掌とすることになったと考えられる。


 すなわち、猿まわしとは牛馬の祈祷に特化したシャーマンだといえる。これが本質であって、猿に芸をさせて喜捨を乞う芸人の姿は、時代が下ってからの転進である。

 
 この本の表紙に使われている写真(上掲)は、新潟県上越市西本町の府中八幡宮にあった「神馬」と猿の木像であるが、まさに猿と馬との切っても切れない親密な関係を表している。
 大陸から入った「厩で猿を飼う」という習俗がまずあった。著者は日本では10世紀頃から広く見られるようになったと推定している。その後、猿を連れた猿まわしが大名屋敷を訪れてお厩祓いに勤め、祓いが終わってから余興としてお偉方に猿舞を見せるようになる(江戸時代全盛)。維新後になると、正月を中心に各地に出稼ぎして、家々を回って門付け芸をしたり、路上で大道芸をするようになった。
 現代の猿まわしの姿は、この変貌の最終局面(=大道芸)だったのである。
 
 ところで、現在日本でもっとも名前の知られている猿まわしと言えば、村崎太郎であろう。80年代末に「反省する猿(次郎)」のCMで一躍有名になった。以後、文化庁芸術祭大賞を受賞したり、ニューヨーク・リンカーン・センターで公演したり、千葉県市原市に「次郎おさるランド」を開設したり、「徹子の部屋」に出演したり、その半生がドラマ化されてプロデューサーであった栗原美和子と結婚(2007年)したりと、華やかなスター街道を愛猿・次郎と共に歩いてきた。
 自分は栗原美和子の書いた『太郎が恋をする頃までには…』(幻冬舎2008年刊)を読み、はじめて村崎太郎が被差別部落の出身であること、それに、猿まわしという職業が皮革産業や食肉産業のように伝統的に部落特有の仕事とされてきたことを知った。もっとも、山城新吾の『現代・河原乞食考 ―― 役者の世界って何やねん?』(解放出版社)を出すまでもなく、日本の伝統芸のルーツは「河原者」という知識はあった。猿まわしがこれほど古い歴史を持つ伝統芸であるとは知らなかったのである。
 ちなみに、『太郎が恋をする頃までには・・・』は近頃珍しいほど真摯でピュアな恋愛小説である。平成の『破戒』と評されたらしいが、自分はむしろ『ロミオとジュリエット』を、あるいはニコール・キッドマン主演の『白いカラス』(ロバート・ベントン監督、2003年)を連想した。まったくのところ涙なしには読めない。こういう小説こそドラマ化して、近頃のつまらないテレビに活を入れるべきである。
 村崎太郎は妻の本と前後してテレビで出自をカミングアウトした。現在は、本業に加え、部落問題に関する講演や啓発活動なども行っている。


 さて、筒井は猿まわしという職業が「なぜ差別されたか」を最後に検証している。


 遅くとも中世に始まり、そして今日なお日本人を呪縛しつづけている社会的差別の根源は、いったい何に由来するのか。これは被差別部落や中、近世史の研究者のみならず、およそ自らが暮らす社会に多少なりとも関心をもつ者なら、だれしもが意識のどこかに抱いている疑問のように思われる。
 この問いに答えるのは簡単ではない。現在、最も有力とされているのは穢れと清めの両語をキーワードとする説であろう。わたしは、それに対してずっと、しっくりしないものを感じていた。それでは、どうしても説明しきれない事実があるとの思いが消えなかったからである。
 その例として猿まわし差別や、渡し守差別を挙げることができる。


 と、書いているので分かるように、本書での筒井の一番の目的は「猿まわしが差別されるようになった理由」の追求にある。
 筒井の出した結論(=仮説)は興味深い。

 その差別は詰まるところ、呪的能力者の零落であるというのが私見である。ほかの差別にはほとんど言及していないが、ほぼ同様の視点で理解しうると、わたしは考えている。


 猿まわしはもともと共同体のシャーマン(古い日本語で「イチ」という)として、恐れられ祀り上げられていた。
 それが時代を経て、人知が進み、人々の間で神の地位が軽くなっていくとともに零落していった。

 神の零落は、もっとはっきりした形でイチの身に及ぶことになる。畏敬は、それが消えたとき軽侮に転化しやすい。卑近な例を挙げれば、落選した政治家、成績が落ちたスポーツ選手、人気がなくなったタレント・・・・などのたどる道に通じている。
 畏敬と軽侮が入りまじった感情の重心が後者へ移っていくにしたがい、それはやがて差別へつながることになる。


 この部分が著者の鋭い人間観察と深い人間理解の表れだと思う。
 人は、それまで尊敬し恭順の意を表していた人間が何か失望させるような行為を働いたのを知ったとき、必要以上に容赦なくその人間をバッシングするものである。失望して、単に「普通の人」レベルに相手の地位を修正すればいいと思うのだが、以前に自分が捧げていた恭順の意の裏返しとして持たされていた劣等意識や嫉妬が、反転し、一挙にむき出しになり、相手に向かうのである。


 被差別民を指す代表的な呼称の一つに「エタ」という言葉がある。「穢多」と書くので、「穢れにふれることが多い人びと」という意味で生まれた言葉と勘違いされやすいが、実はそうではない。「エタ」という音が先にあって、あとから「穢多」という漢字をあてたのである。
 では、語源は何か。
 筒井はこう推理する。


 エタの本質は呪的能力者にあったと思われる。そうだとすると、エタの語源はイチだということになる。猿や、鹿児島県で蛇の意があるエテも同様であろう。


 イチが転じてエタになった。
 この見解、当たっているのか、外しているのか。
 いずれにせよ、当の猿たちにしてみれば「どうでもいいこと」である。
 きっと、くだらない差別に「回されている」人間たちを見て、手を打って笑っていることだろう。



記事検索
最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ別アーカイブ
最新コメント
ソルティはかたへのメッセージ

ブログ管理者に非公開のメッセージが届きます。ブログへの掲載はいたしません。★★★

名前
メール
本文