ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

 ★リメンバー沖縄戦

● 変わらなきゃ! 本:『ゴンチャローフ日本渡航記』(イワン・A・ゴンチャローフ著)

1858年原著刊行
1969年雄松堂出版より邦訳刊行
2008年講談社学術文庫(高野明、島田陽・訳)

 彼らが唯一の頼みとする鎖国排外制度は、彼らに何も教えず、彼らの成長を止めただけだと分かっているのだ。その制度は小学生の悪戯のように、教師の姿が見えると、すぐさま崩壊する。彼らは孤独だし、援助がない。大声で泣き出し「私たち子どもが悪いのです!」といって、子供らしく先輩の指導に身をまかせる他には何の術も残されていない。(本書より引用、以下同)

 「彼ら」「小学生」とは日本人のことであり、「教師」「先輩」とはアメリカ人、イギリス人、ロシア人ら列強諸国のことである。
 本書は、1853年8月に日本との通商を求めて長崎に来航したロシア船に、提督秘書官として乗船していたロシアの文豪イワン・アレクサンドロヴィッチ・ゴンチャローフ(1812-1891)の手記である。
 同じ年の7月8日には、ペリー提督率いるアメリカ船が浦賀に来航し、日本に開国を迫った。
 いわゆる黒船来航である。
 東にアメリカ、西にロシア。
 時の将軍徳川家慶は7月27日に病気のため崩御。
 この夏、幕府は驚天動地、てんやわんやの大騒ぎだったのである。
 もちろん、民もまた「夜も眠れぬ」パニックに陥ったことは有名な狂歌にある通り。

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図版は「魯西亜本船之図」(長崎歴史文化博物館蔵)

 ゴンチャローフらを乗せたパルラダ号は、1953年6月末に香港を出立。
 あわや沈没かというほどの激甚な台風を経験したのち、7月末に小笠原諸島に到着。
 最初の長崎滞在は3ヶ月余り。
 長崎奉行や幕府とのいっこうに進まない交渉にしびれを切らし、ヨーロッパの動向を確かめるためいったん上海に赴き、クリスマス前に再び長崎に戻り、日本で新年を迎えた。
 ロシア側の提示した日露修好条約草案への幕府からの回答を受け取った後、1月末に琉球諸島に向かっている。
 本書には、台風体験、小笠原諸島(父島)上陸、最初の長崎訪問、2度目の長崎訪問、琉球諸島探訪の記録が収録されている。
 
 やはり興味深いのは、ロシア人であるゴンチャローフの見た幕末期の日本および日本人の姿である。
 1603年の開幕からすでに250年。鎖国開始から214年。
 封建制にもとづく幕藩体制、士農工商の階級制度もすっかり定着して、よく言えば太平安楽、悪く言えばぬるま湯につかったような因循姑息の世が続いていた。
 人生50年の時代、250年と言えば10世代にあたる。
 「世の中は変わらない、変えられない」が庶民の常識になっていただろう。
 そんな17世紀で時間が止まった日本を、19世紀の西洋人はどう見たか。

 国民は開化の必要を痛感しているし、その欲求はいろいろもれ聞こえてくる。そのうえ国民は貧しく、外国との交流を必要としている。まともな人々、わけてもヨーロッパ人と接している通詞(ソルティ注:通訳)たちの中には、前にも書いたように、退屈と知的及び精神生活の欠如ゆえに慨嘆している者がいる。
 
 彼ら(ソルティ注:日本人)のこの無感動の底には、どれほどの生命が、どれほどの陽気さや茶目っ気が隠されていることか! 才能、天分の豊かさは――ささいなことにも、空虚な会話のやりとりにも見受けられる。だが、中味がないだけで、すべての本来の生命力が滾りつき、燃えつきて、今や新たな活力回復の原理を求めていることも明らかである。日本人はとても活発で素朴である。彼らには、シナ人のような愚劣さはない。
 
 彼らが自国に作り上げたのは、何か以前になかったことで、よいことでさえ、とにかくそれをやってみたくなったり、拒絶しないつもりになったとしても、少なくとも自発的にはそうできないような体制なのである。たとえば、彼らは二百年も前に「西洋人は有害だ。彼らを相手にしてはならぬ」と決めて、今もなお自らそれを改められないのである。
 
 ヨーロッパ側からの威嚇と、日本人側からの平和希望は、彼らの圧制をいくつか廃止させるのに役立つだろう。日本人自身は改革にふさわしい国民であるが、私が前に述べたように、外部の緊張した情勢しか彼らの体制を揺り動かすことはできないだろう。
 
 日本では反対に、今日でもなお仕事は早く運ばないし、急いで事を運ぼうとする弱点のある人間は好かれないのだ。私たちの艦から長崎までは、たっぷり45分はかかる。日本人たちはしきりに私たちの艦にやって来る。では、その往復の時間をみずから浪費しないように私たちが町のそばに碇泊するよう招けばよいではないか。だめなのである。なぜだろう?
 老中にお伺いを立てねばならず、老中は将軍に伺い、将軍はミカドの許へ人を差し向けるのである。 

 ほんの3~4ヶ月の期間で、しかも数えられるくらいの日本人との交流機会を持っただけで、ここまで的確に日本人と日本社会を見抜いているゴンチャローフの慧眼がすごい。
 日本ではほとんど知られていない作家だが、ドストエフスキーに高く評価された国民的作家(代表作『オブローモフ』)だけあって、その観察眼と洞察力は一級である。
 上記の指摘が、江戸末期の日本人のみならず、令和現在の我々にも今なお通じるところがあると思うのは、ソルティだけであろうか?
 
ゴンチャローフ
イワン・ゴンチャローフ


 ゴンチャローフが初めて接する日本の風物について書いた箇所も滅法面白い。
 何のことを書いているかお分かりだろうか?
    1. 頭は顔と同じようにすっかり剃っていたが、ただ後頭部から髪を上げて、切り取られたおさげ髪のように短く狭くして、脳天に固定している。
    2. ノリモノは、外見はかなり美しく、さまざまな織物で表装され、紋章や房で飾られている。だが、その中に乗り込むことはできなかった。脚か頭か、どちらかのやり場がないのである。それを見ていると、「このノリモノは拷問用につくられたものではないだろうか」という気がする。
    3. 「はて、これは食事をするな、という意味かな」と私は、硬い食物も軟らかい食物も手にとれそうもない二本のなめらかな、白い、先の丸い編棒を眺めながら考えていた。どんなふうにして、何を食べればよいものやら?

 1は「ちょんまげ」、2は「駕籠」、3は「箸」のことである。

駕籠とちょんまげ

 個人的には本書一番の読みどころは、17世紀末の沖縄、すなわち薩摩藩の支配下にある琉球王国の情景についての記述である。
 ゴンチャローフは、その美しさを筆を尽くしてほめちぎっている。

 然り、これは太平洋の果てしなき水の真只中に投げ出された田園詩なのである。さて、御伽噺に耳を傾けていただきたい。木は木として、木の葉は木の葉にきちんと整頓され、ふつう自然が生み出しているようなまぎらわしさもなく、偶然の無秩序に混乱していることもない。すべてがワトーVatoの絵とか、舞台装置にあるように、測定され、掃き清められ、美しく配置されているかのようである。

 私は目にするものに見とれていたが、驚きの目を見張ったのは熱帯の植生でも、暖かい、穏やかな、香ぐわしい空気でもなく――そうしたものはすべて他の場所にもあった――森や、道路や、小径や、庭園のあの見事に整えられたたたずまいであり、質素な衣服や、老人たちの族長制的な威厳あふるる態度や、彼らのきびしい思慮深い表情であり、若者に目立つはじらいや優しさであり、そしてまたどれほどの労力に値するやもしれぬ土木工事や石材工事であった。これは蟻塚か、そうでなければ実際に牧歌の国であり、古代人の生活の一断片なのだ。ここでは、あらゆるものが生まれたまま何千年にもわたって姿を変えていないように思われる。・・・・ここではいまだ黄金時代が可能なのだ。

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琉球王国時代の風貌をわずかに伝える金城町石畳道

 外圧に逆らうことままならず、日本は自らの身を縛る錆びついた鎖を解いた。
 あっという間の大政奉還。
 文明開化に殖産興業。
 またたく間に列強の仲間入り。
 その後100年で、日本も琉球も大きく変わったのは誰もが知る通り。
 しかし、日本以上に変わったのは、ゴンチャローフの愛する故郷ロシアであった。
 プロレタリア革命による帝政終焉、史上初の社会主義国誕生、冷戦からのソ連崩壊、独裁国家ロシア誕生、そして・・・・・。

 艦名であるパルラダとは、ローマ神話の知恵の女神パラスのロシア語読みである。
 パラスは、ギリシア神話におけるアテネであり、知恵の神であると同時に軍神である。

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misterfarmerによるPixabayからの画像



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 
 

● 鎌倉殿の血統 本:『新・沖縄ノート 沖縄よ、甘えるな!』(惠隆之介著)

2015年WAC株式会社

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 大江健三郎の『沖縄ノート』を探している時に本書を知った。
 ソルティは著者の惠隆之介については何も知らなかったが、発行元のWACは『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』(加藤康男著)の版元なので、読む前からバイアスがかかってしまうのは致し方あるまい。
 いわゆる安倍元首相シンパ、雑誌『Hanada』周辺にたむろするジャーナリストの一人である。

 本書の内容を簡単に言えば、

 中国の脅威が迫っている。
 このまま行けば、沖縄は中国に奪われる。
 沖縄にいる左翼グループもその手引きをしている。
 それをかろうじて守ってくれるのが米軍であり米軍基地なのに、沖縄県民はもとより日本人の多くがそこを理解していない。
 沖縄県民と来た日には、戦後沖縄の復興と民度向上に多大なる貢献をしてくれた米軍への感謝を忘れている。
 それどころか、米軍基地あることをネタに、政府から多額の補助金を引き出すことに汲々としている。
 普天間飛行場の辺野古への移設反対運動をするなど、もってのほかである。
 危険な左翼思想に侵された沖縄の教育界やメディアなどを、日本政府が強権をもって糺さなければ、とんでもないことになる。
 沖縄よ、甘えるな! 

 ――ということになろう。

 内容についてここでとやかく言うつもりはない。
 著者が昨今のアジア情勢に非常な危機感を抱き、早急な対策すなわち日本の軍事力強化と日米同盟の緊密化を求めていることは確かである。
 一つの視点としてそれは理解した。
 
 ソルティが一番気になったのは、恵隆之介が1954年コザ市(現沖縄市)生まれだという点である。
 いくつの時まで沖縄にいたのか知らないが、真藤順丈著『宝島』に描かれているような戦後沖縄を少年時代にリアルタイムで見てきたはずである。
 年長の肉親や親戚には沖縄戦で無惨な最期を遂げた者も少なくないだろう。
 同年代の知人の中には、米兵による性暴力の被害を受けた女子だっていることであろう。
 それがなぜ、海上自衛隊に入ることになったのか?
 そこをなぜたった4年で辞めて、琉球銀行に転職することになったのか?
 いつから親米家になったのか? 
 なぜジャ-ナリズムの世界に飛び込み、本書のような作品を書くことになったのか?
 どうして、生まれ故郷の沖縄の多くの人々の気持ちを逆撫でするような思想を持ち、沖縄県民を愚弄するような発言をするようになったのか?
 ソルティが知りたいと思うのは、惠隆之介当人の幼児体験であり、育ちであり、トラウマであり、思想形成であり、つまるところアイデンティティ形成である。

 沖縄県民の特性は、理念闘争に終始して物事の本質を見失う欠点がある。なにより、演繹的思考に乏しい。これは亜熱帯の気候に主因がある。(本書より) 
 
 ブーメラン?

 ある人間が右翼的になり、ある人間が左翼的になるのは、いったいどんな原因や背景によるものなのだろう?
 
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 本書を読んで、沖縄の歴史に興味を持った。
 初めて知ったのだが、琉球王国の開祖である舜天(しゅんてん1166-1237)は、沖縄に流れ着いた源為朝と土地の豪族の娘との間にできた子供だという。
 源為朝と言えば、鎌倉幕府を開いた源頼朝の叔父である。
 つまり、貴種流離譚であり、落ち武者伝説なのだ。
 おそらく伝説の域を出ない物語だとは思うが、沖縄の男の名前に「朝」がつくことが多いのはそのせいであったか、と合点がいった。
 鎌倉殿の血統が首里城の主だったと思うと、なんだか面白い。
 もしかすると、ソルティの沖縄戦跡めぐりは、源実朝の計らいだったのか・・・。
 
 世の中は つねにもがもな 渚こぐ
 海人の小舟の つなでかなしも

(波打ち際を綱に引かれながら漕いでいる小舟。なんとしみじみと平和な光景だろう。こんな世が続くといいのになあ~)


青龍寺の猫
四国遍路第38番札所・青龍寺付近の浜辺 

 

おすすめ度 :★★

★★★★★ 
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★★    いい退屈しのぎになった
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● アムロ世代 本:『宝島』(真藤順丈著)

2018年講談社

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 『宝島』と言えばスティーヴンソンの冒険小説であるが、本作もある意味、冒険小説と言えないこともない。
 悪漢を主人公としたピカレスクロマン(悪漢小説)の風味があるからだ。
 代表的なピカレスクロマンの主人公と言えば、アルセーヌ・ルパンや石川五右衛門や『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクター博士や『悪の教典』の蓮実聖司あたりだろう。
 映画では、『ジョーカー』やエミール・クストリッツァ監督『アンダーグラウンド』にとどめを刺す。
 本作の主人公らは、米軍基地からの窃盗行為を繰り返す「戦果アギヤー」と呼ばれる若者たち。
 
 ただ、本作がピカレスクロマンあるいはミステリーあるいは青春小説というジャンルにどうあっても収まらないのは、宝島とはすなわち沖縄のことであり、本作で語られるのは1952年から1972年の沖縄――サンフランシスコ平和条約締結から本土返還に至るまでの沖縄――が舞台となっているからである。
 GHQによる占領が終わり主権回復、経済白書が「もはや戦後ではない」と高らかに言い放った本土の平和と繁栄の陰で、いまだ米軍による占領が続いていた沖縄20年間の苦闘の歴史である。

 読み終わるまで知らなかったが、本作は2019年に直木賞を受賞している。
 当然評判になり、ベストセラーの一角を占め、多くの人――ヤマトンチュウ(本土出身者)もウチナンチュウ(沖縄出身者)も――が手に取ったことだろう。
 出身地により、世代により、政治信条により、それぞれどんな感想を持ったのだろうか。
 
 少なくとも一つ言えるのは、沖縄戦の実態とその後の米軍基地をめぐる問題についてある程度知っている読者と、本作で初めてそれに触れた読者とでは、まったく読みの深さが異なるだろうということである。
 本作には20年間に実際に沖縄であった事件――米兵による現地婦女子レイプ殺害事件、石川市(現うるま市)宮森小学校への米軍戦闘機墜落事故、地元ヤクザの那覇派とコザ派の対立、コザ暴動など――がたくさん出てくるし、実在の人物も実名のまま多く登場する。
 また、「特飲街、Aサイン、オフリミッツ」といった戦後沖縄の風俗シーンを彩った用語も詳しい説明なしに使用されるし、「ウタキ(御嶽)、ユタ、ニライカナイ」など古くからの琉球文化の重要な概念にも触れられる。

 読者が沖縄のことを知っていれば知っているだけ、本書の深みと魅力はいや増すに違いない。
 登場するウチナンチュウたちの心情にも一歩なりとも近寄ることができよう。
 ソルティはここ半年で、実際の戦跡めぐりも含め、ずいぶん沖縄戦や戦後の沖縄事情を学んできたこともあって(沖縄のスピリチュアル文化については永久保貴一の漫画で学んだ)、本書を読むに際してわからない用語や概念がほとんどなかった。
 戦後沖縄で実際にあったこと、あるいはあっても全然おかしくなかったことの記述なのか、それとも話を盛り上げるために作者が誇張して創作しているのか、と戸惑うこともなかった。
 主人公たちにも自然と共感できた。
 これがもし半年前に読んでいたら、幕の向こうから触れるみたいなもどかしさやリアリティへの疑問を感じたかもしれない。
 つくづく本との出会いにはタイミングが重要だと思う。

 もちろん、事前にこういった知識を持たぬ読者でも、理解できて楽しめるような物語性やキャラの魅力は有しているし、本書を読むことで若い読者が沖縄文化や沖縄問題に興味を持ち、調べ考えるきっかけになれば何よりであろう。

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 一番の驚きは、本書を書いたのが沖縄出身の作家、少なくとも沖縄在住経験の長い本土生まれの作家とばかり思っていたのだが、そうではなく、1977年東京生まれ東京育ちの男であるということ。
 沖縄返還後の生まれではないか!
 よくまあ、並み居るベテラン作家が怖気づくようなこの戦後最大級の重いテーマを取り上げて、よく取材し、よく小説化したなあと、その度胸と力量に感心した。
 逆に言えば、安室奈美恵と同年生まれの作家だからこそ、「沖縄問題」に対して無用な偏見やイメージや固定観念を持たず、想像力を縛られることなく、真正面から立ち向かえたのかもしれない。

 直木賞受賞の価値は十分ある。
 が、それ以上に本書の価値を高めるのは、『沖縄アンダーグラウンド』と一緒に受けた「沖縄書店大賞」の受賞であろう。
 ウチナンチュウの書店員らに選ばれたことは、真藤が沖縄の人々の思いをしっかりと受け止めて、表現し得た証拠であると思う。
 



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 野辺の花が私にささやきかけた 本:『沖縄ノート』(大江健三郎著)

1970年岩波新書

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 個人的に2022年一番良かったのは、沖縄戦跡めぐりをしたことだ。
 人生の中でもやって良かったことの上位に入る。
 なにがそんなに良かったのか説明するのは難しい。
 強いて言えば、行かなければならない場所に行き、見聞きしなければならないものを見聞きし、知らなければならないことを知り、祈るべき人たちのために祈ったという、かねてからの気がかりをようやく解決したという安堵感である。
 沖縄戦を知り、沖縄の戦跡とくに言語を絶する惨状を呈した南部の海岸を自分の足で歩いたことで、自分もやっと日本の歴史につながったという思いがした。

 しかるに、なぜにもっと早く訪れなかったのか。
 アラ還になるまで待たずとも、広島原爆ドームや長崎平和祈念公園を訪れた20~30代の暇あれば旅していた頃に、あるいは仕事で沖縄を訪れる機会のあった40代の頃に、沖縄戦跡も行けたじゃないか。
 ひめゆりの塔は1989年には開館していた。平和の礎(いしじ)の除幕式は1995年だった。
 行こうと思えばもっと早く行けたはずである。
 戦争を厭い平和を願う気持ちは人並みにずっとあったのだから・・・。 

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 沖縄戦跡に足が向かなかった理由、沖縄戦や沖縄問題に関心が行かなかった理由はいろいろあるのだが、大きいところではまず自分の問題で手一杯だったというのがある。
 「ゲイ」というセクシュアリティと向き合い、仲間と出会い、疎外感を払拭し、内面化されたホモフォビアに気づき、ありのままの自分を受け入れ自己肯定する――それだけで青春のあらかたを費やしたのである。
 ソルティは30代初めからHIV/AIDSに関する市民活動に関わってきたが、性や差別の問題と強く結びついて感染者の支援や予防啓発活動に関わることが自らの問題の解決にもつながるからこそ、この問題に携わってこられたのであり、それ以外の人様の困りごとや社会問題にまで関心を抱き何らかの行動をする余裕はなかった。
 自分が問題を抱えているのに他人の問題に首を突っ込むのは賢明ではあるまい。 

 いま一つの理由は、本土に生まれた日本人の一人として、沖縄問題に“うかつに”関わることにより「罪責感」に襲われそうな予感があった。
 バブル絶頂期に青春を過ごしたノンポリ新人類らしく、社会人になってもソルティは政治経済や国際問題や近代史にはまったくの門外漢であり続けた。
 けれど、さすがに沖縄の米軍基地にまつわる理不尽な事件の数々はニュースなどで耳にしていたし、本土との格差(本土による差別)は知っていた。
 日米安保のもと勝者アメリカから敗者日本に、防衛の名において押しつけられる負担の多くが沖縄に課せられていて、その犠牲の上に本土の人間があぐらをかいているという構図は認識していた。
 また、沖縄戦において、すでに背水の陣にあった大日本帝国司令部が、沖縄を本土決戦の時間稼ぎのための「捨て石」「防波堤」とした事実も、そのためにひめゆり学徒隊をはじめとする多くの一般住民が戦争に巻き込まれ、「鉄の暴風」と言われた激しい攻撃に身を晒し、あたら命を失ったことも聞きかじっていた。
 それゆえに、本土の人間である自分にとって罪責感なしに沖縄問題に関わること、自己嫌悪せず沖縄戦を学ぶことはあり得ないという予感があったのである。
 若い頃のソルティはくだんの事情で自己肯定感が低く、たやすく自己嫌悪や自己否定に陥りやすかったので、さらなる罪責感を上乗せすることで精神的安定を保てなくなる可能性大であった。
 そんなわけで、沖縄は実際の距離以上に遠くにあったのである。
 
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ひめゆりの塔

 本書はノーベル文学賞作家の大江健三郎が、沖縄返還を目前に控えた1969~70年に記したエッセイである。
 大江は当時35歳。代表作とされる『個人的な体験』や『万延元年のフットボール』を上梓し、海外作家との交流が増え、名実ともに日本を代表する若手作家の一人であった。
 60年日米安保においては石原慎太郎、浅利慶太らと共に反対の声を上げ、65年には『ヒロシマノート』を書き、反戦・反核・反天皇制の反体制の作家として気を吐いていた。
 当然本書も、反戦・反米・反基地・反自民の力強いメッセージがあふれていると思うところ。
 が、本書を覆いつくす一番のムードは、まさに本土の人・大江健三郎の罪責感であり、自己嫌悪・自己卑下なのである。

 僕はやがてこの、日本人らしく醜い、という言葉を、単なる容貌の範囲をはるかにこえて、認識してゆくことになった。そしてそれは沖縄こそが、僕をそのような認識にみちびいたのだと、そしてその認識が、より多くのことどもにかかわって僕を、日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないのか、という無力な嘆きのような、出口なしのつきあたりでの思考へと追いやっているのだと、あらためて僕のいま考える、そもそもの端緒であった。(ゴチはソルティ付す)

 この「日本人とはなにか、このような日本人でないところの日本人へと自分をかえることはできないのか」という問いは本書でたびたび繰り返される。
 『沖縄ノート』は、1972年の沖縄返還を前に、本土と沖縄とアメリカの三角関係にあって過去の因縁により生じている様々な問題を、本土出身の護憲派の作家が沖縄の人々の立場に身を置いて論じている一種の社会評論ではあるけれど、それ以上に、大江自身が「沖縄を核として、日本人としての自己検証をめざす」と言っているように、日本人論の向きが強い。
 それもかなりネガティブな日本人論である。

 日本人とはなにか、という問いかけにおいて僕がくりかえし検討したいと考えているところの指標のひとつに、それもおそらくは中心的なものとして、日本人とは、多様性を生きいきと維持する点において有能でない属性をそなえている国民なのではないか、という疑いがあることもまたいわねばならない。

 ・・・・沖縄についていくらか知識を確かにするにしたがって、ますます奥底の償いがたく遠ざかる恐ろしい深淵について思わないではいられなかった。その深淵がなぜ恐ろしいのかといえば、それは、日本人とはこのような人間なのだと、自分自身の疾患からふきあげてくる毒気をもろにかぶってしまうような具合に、眼のくらむ嫌悪感ともども認めざるをえない、凶まがしいものの実質を、内蔵しているところの深淵にほかならないからである。

 日本人のエゴイズム、鈍感さ、その場しのぎの展望の欠如、しかもそれらがすけてみえる仮面をつけてなんとか開きなおりうる、日本の「中華思想」的感覚・・・・・。

 この百年間において、沖縄の人間の事大主義が発揮される現場には、それこそ形影相伴うごとくに日本人がいた。日本人の政治家が、官僚が、商人が、学者がいた。それは沖縄の民衆の事大主義にちょうどみあうだけの、ほかならぬ事大主義的性向の日本人がそこにはいりこんでいたということである。事大主義は、沖縄の人間と日本人とのあいだに張りつめられたロープのごときものですらあったというべきであろう。・・・・・
 ただ、沖縄の人間が、その事大主義についてはしばしば自覚的であったのに対して、本土の日本人は、沖縄の人間の劣等感を踏み台にすることで、かれ自身の事大主義に頬かぶりする逃げ道をえたのである。

 どうだろう?
 日本嫌悪、日本人否定のオンパレードである。
 ちなみに、事大主義とは、「自分の信念をもたず、支配的な勢力や風潮に迎合して自己保身を図ろうとする態度・考え方」(小学館『大辞泉』より)のことを言う。
 大江健三郎のパーソナリティという面はかなりあると思う。
 大江自身、自らの感じ方・考え方の底に、「ペシミスティックに、危機的な深い淵へおちこんでゆこうとする」傾向があることを認めているし、それこそが大江健三郎という文学者のデビュー当時からの特性ではあった。
 また、連載中の本エッセイを読んだ本土の友人たちから「被害妄想の徴候」があると指摘されたことも記している。
 それはまさに、令和の保守右翼の人たちが口を酸っぱくして批判する「祖国を愛し誇りを持つことできない自虐史観に侵された戦後日本人」の最右翼ならぬ最左翼であろう。

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平和の礎(いしじ)
 
 しかるに、本書が刊行された70年当時の日本では、大江のような意識の持ち方は今よりずっと一般的だったはずだ。
 それは保守右翼の言う「自虐史観教育」を受けた人が多かったからではなく、それとは逆の「忠心愛国教育」を子供の頃に受けて戦争を体験した人が多くいたからであって(1935年生まれの大江もその一人であろう)、その国家的洗脳こそが一億玉砕という過ちに日本を導いたことを痛みをもって記憶し反省していたからである。
 その事情は、戦争を知らない世代、すなわち「自虐史観教育」を受けた世代の比率が増すにしたがって、むしろ日本全体が右傾化しているのを見れば知られよう。
 大江健三郎と認識を同じくする日本人は、70年代には全共闘の若者たちを含め日本人の相当数を占めて主流に近いところにいたはずであるが、それが半世紀を経て、どんどん数が減って、どんどん“左”に追いやられていった。
 安部元首相の国葬反対デモに参加していたのが「かつての団塊世代の高齢者ばかり」などと揶揄され、あたかも“アカ”に扇動されたマイノリティの遠吠えのように喧伝される始末・・・。

 この『沖縄ノート』をソルティはかなり共感をもって読んだし、現在でも十分通用し読まれるべき内容――なぜなら沖縄問題は解決していないのだから――と思ったけれど、保守右翼は論外として、どうだろう、令和日本人(沖縄の若い世代も含めて)の中には、「半世紀も前の終わった話だろう?」あるいは「なんで本土の人間が罪責感を持たなければいけないの?」と、大江の回りくどく難解な文体ともども退ける者が多数いるのではなかろうか。
 大江健三郎と座標上の対極に位置する安倍元首相や日本会議の面々、雑誌『Hanada』に寄稿する論者のような「愛国者」たち、辺野古基地建設の反対運動する人々を高見から馬鹿にするひろゆきや高須某などの言動を見聞きするにつけ、そして彼らに誘発されたネトウヨのコメントを目にするにつけ、ここ半世紀の日本人の変容を思わずにはいられない。
 少なくとも、ソルティが日本人を誇りに思えない最たる原因は、歴史認識と弱者への想像力を欠いた上記の保守右翼の面々の陋劣な品性にある。
 
 この前の戦争中のいろいろな出来事や父親の行動と、まったくおなじことを、新世代の日本人が、真の罪責感はなしに、そのままくりかえしてしまいかねない様子に見える時、かれらからにせの罪責感を取除く手続きのみをおこない、逆にかれらの倫理的想像力における真の罪責感の種子の自生をうながす努力をしないこと、それは大規模な国家犯罪へとむかうあやまちの構造を、あらためてひとつずつ積みかさねていることではないのか。
 沖縄からの限りない異議申立ての声を押しつぶそうと、自分の耳に聞こえないふりをするのみか、それを聞きとりうる耳を育てようとしないこと、それはおなじ国家犯罪への新しい布石ではないのか。

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平和の火


 閑話休題。
 ソルティが今回沖縄戦跡めぐりをした直接的なきっかけは、ドキュメンタリー『沖縄戦 知られざる悲しみの記憶』を観たことにある。
 で、『沖縄戦』を観るきっかけとなったのは、吉永小百合主演の『ひめゆりの塔』であり、『ひめゆりの塔』を観るきっかけとなったのは、同じ吉永小百合主演の『伊豆の踊子』であった。日活時代の小百合サマの可憐な魅力に参って作品を追っていたのだ。
 『伊豆の踊子』を観たいと思ったきっかけは何かと、記憶を過去のブログ記事に探っていったら・・・・これが驚き、夏の秩父の巡礼路で出会った道端の花だったのである。
 名も知らぬピンク色の可愛い花である。

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のちにサフランモドキという名を知った

 この花を見たときに吉永小百合を連想し、夏の秩父の巡礼路が伊豆の天城越えと重なった。
 その時には自分が今年中に沖縄戦跡めぐりをするなんて、まったく予想だにしていなかった。(今思えば、「ハイビスカスに似ているなあ」と思ったことも沖縄へつながっていたのかもしれない)
 なので、ある種の罪責感混じりの義務感にかられて「行きたい」と意志したわけではなく、こういった因縁によって自然と「行くことになった」のである。
 むろん、ロシアによるウクライナ侵攻や7月の参院選で自民党が圧勝したことが、日本の戦争傾斜への危機意識を高め、ソルティの背を押したのは間違いない。(「全国旅行支援」という国家の政策を利用して、沖縄戦跡に行ってやろうじゃないか!という魂胆もあった)
 現地ではいろんな物事が自然とうまく運んでいるような感覚があった。
 物事は起こる時には起こるべくして起こるものだなあ~と、スピリチュアルな感慨に打たれた一件である。
 
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 沖縄みやげの琉球グラス
これで古酒やワインを飲むと格別


  
おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 本:『沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち』(藤井誠二著)

2018年講談社より刊行
2021年集英社文庫

 本書と出会ったのは、ほかならぬ沖縄の地。
 嘉数高台と佐喜眞美術館を訪れた日の午後、那覇の繁華街を足の向くまま気の向くままぶらついていた。
 国際通りから、土産物屋がずらりと並ぶ平和通りに入って、途中のドライフルーツ店で買ったココナッツジュースを飲みながら迷路のようなアーケード街を奥へ奥へと進んでいくと、いつのまにか、夕餉の食材を買う地元住民で賑わう昔ながらの商店街に出た。
 ふと見ると古本屋がある。
 どこの土地にいようが、本屋を見ると条件反射的に入ってしまうソルティ。
 特に買うつもりはなかったのだが、文庫棚から誘いかけてくる本書の圧に負けて、ほぼ半値で購入した。

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 ソルティは国内でも国外でも初めての街を訪れたとき、たいてい風俗街がどこにあるのか気になるほうだ。
 場所が分かると、とりあえず足を向けて様子を探る。
 むろん、ゲイの自分がノンケ男子専門の風俗店を利用することはハナからないのだが、そういう場所の存在を知ることでなんとなく街の裏の顔を見たような気になって、親近感が増す。
 観光名所だろうが文化都市だろうが芸術の都だろうが、人間の住むところ何処も同じだなと――。
(長いことNGOでエイズの相談を受けていたせいもある。性風俗情報を取り入れておく必要があった)

 国際通り周辺にはどうもそれらしき一角が見当たらないので、「さて、那覇の風俗街はどこにあるのだろう?」と思っていた。
 これだけの観光地で、しかも米軍基地がある。ないわけがない。
 戦跡を巡りながらもどこかでそんなことを考えていたので、つい本書のタイトルに惹かれたのであった。

 本書を開いたのは内地に帰って来てから。
 最初の数ページで、「なんだ、そうだったのかあ~」とつい声を上げた。
 というのも、本書でメインに取り上げられている売春街、著者が本書を書くきっかけを作った沖縄でもっとも有名な(悪名高い?)風俗街――それは普天間飛行場のすぐ近くにあった真栄原新町いわゆる「真栄原社交場」であり、嘉数高台のほぼ真下に位置しているからだ。
 ソルティはそれと知らず真栄原社交場を眼下に見ていたのであった。
 あの時ハクソー・リッジ(前田高地)や沖縄国際大学を教えてくれたジョガーマンも、さすがに真栄原社交場は教えてくれなかった。
 まあ、朝っぱらから初対面の人間にするような話題ではないか。

 90年代に真栄原社交場をはじめて知った時の模様を著者は次のように記している。

 県道34号の真栄原交差点から大謝名方面に向かう途中の角を左に折れ、街路灯や家々の玄関灯ぐらいしか明かりがないひっそりとした住宅地をタクシーで200~300メートル進むと、妖しい光を放つ空間が忽然とあらわれた。タクシーを降りた私は思わず息をのんだ。魔界の入り口に立ったような気がして、歩を止めて立ちつくす。夜10時をまわっていた。

 私が降ろされた場所は、「ちょんの間」と呼ばれる性風俗店が密集した街だった。タクシードライバーは「真栄原新町」という街の名前と、買春の料金と時間などについて説明をしてくれ、「ゆっくりしてくればいいさ」と言って笑った。女性たちが体を売る値段は15分で5000円。「本番行為」まで含んだ値段だという。夜だけでなく、ほぼ24時間営業の不夜城の街だと教えられた。私は魅入られたように一人で街の中を歩いた。

 この真栄原新町に加えて、ソルティがレンタル自転車で対馬丸記念館に向かうときに通り抜けた海岸沿いの「辻」という街も、琉球王国の時代から遊郭があったところで、戦後は米兵や観光客相手の売春街として栄えたという。
 事前に知っていたら探索したのに・・・・。
 もっとも、辻はいざ知らず、真栄原新町は今ではすっかり廃れてしまって、往時の面影はない。
 2010年前後から始まった警察・行政・住民一体の浄化運動で、店舗は撤退せざるをえなくなり、働いていた女性たちはどこかへ消えてしまったからだ。

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嘉数高台から普天間飛行場を臨む
この間にかつて「真栄原社交場」と呼ばれた売春街があった

 本書は、真栄原新町という一つの売春街が、どのように生まれ、どのように栄え、どのように消えていったか、そこで働いていたのはどういう人たちであったかを、関係者への丹念なインタビューをもとに描き出している。
 同時に、コザ(現・沖縄市)の八重島やセンター通りや照屋や吉原、那覇市の辻や小禄新町や栄町などかつて存在した他の売春街も取り上げ、広い視点から戦後沖縄の性風俗史、売買春事情を浮かび上がらせている。
 占領下の米兵による凄まじい性暴力の実態、各地に売春街が誕生するまでの経緯、米軍当局の政策に翻弄される売春街の様子、本島の人間による奄美大島出身者への差別、沖縄の売春街をレポートした作家・佐木隆三や沖山真知子へのインタビュー、沖縄ヤクザの暗躍と売春街で働く女性からの過酷な収奪システム、ついに始まった浄化運動の顛末など、実によく調べ、よく取材し、よくまとめてある。
 ネットに見るような、街のアンダーグラウンド的な場所を好奇心まじりに訪問し煽情的・暴露的に描いたレポートとは一線を画す力作である。
 学ぶところ大であった。
 とくに、コザの売春街で働く若い女性アケミを描いたドキュメンタリー『モトシンカカランヌー 沖縄エロス外伝』(1971年布川徹郎ほか)は機会あればぜひ観たいと思う。
 ちなみに、売春街のことを昔は「特飲街」(特殊飲食店街の略)と言ったそうだ。

 半世紀以上にわたって続いてきた、真栄原新町や吉原という沖縄の売春街が、2010年前後を境にゴーストタウンと化した。官民一体となった「浄化作戦」が成功したからだ。本書は、戦後長きにわたって続いてきたそれらの街の「近い過去」と「遠い過去」を記録したものだと言えるだろう。
「近い過去」は、この十数年のうちにこの街で働いてきた人々への取材を通して得ることができた、これまで外部に漏れ出ることのなかった街の内実とその変遷だ。そこには、「浄化作戦」を担って、街をゴーストタウンに追い込んだ側の人々の意見も含まれる。
「遠い過去」とは、1945年以降、戦後のアメリカ占領下でどのように売春街が形成されたかという「沖縄アンダーグラウンド」の戦後史だ。当事者の証言や新聞報道、アメリカ側の稀少資料などを織りまぜながら、国策的かつ人工的につくられた街の軌跡を辿った。

 本書の記述をもとに、沖縄の売春街の歴史を大まかにまとめてみる。
  • 1945年4月  米軍上陸により沖縄戦本格化
  • 1945年8月  日本降伏、沖縄はアメリカの領土となる。これ以降、米兵による沖縄女子への強姦事件、殺戮事件が多発。また、生活のため米兵相手に売春する女子ら増加
  • 1949年  コザの八重島に、町の治安および風紀を守り一般婦女子を守る「性の防波堤」として、米兵相手の売春街が誕生
  • 1950年  普天間に真栄原社交場誕生。以降、沖縄各地に米兵相手の売春街が誕生する  
  • 1950-53  朝鮮戦争。沖縄にたくさんの米兵が送り込まれ、売春街が繁盛する
  • 1961-1973  ベトナム戦争。同上
  • 1972年  沖縄返還。日本の領土となる。以降、売春街には日本人観光客が増え、米兵は減少していく
  • 1980年代  バブル期。内地からの買春ツアーで賑わう
  • 1995年  米兵による少女暴行事件で反基地世論高まる。普天間基地返還合意
  • 1990年代後半  インターネットで真栄原社交場が世界的に広まる
  • 2005年頃  市民の間で真栄原社交場を無くそうという声が高まる
  • 2010年  真栄原社交場消滅。ほかの売春街も衰退する

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 20代の著者は真栄原社交場を最初に知った時、「青い空と青い海」でも「反戦・平和」でもない、沖縄の別の顔に触れて興味を抱いたそうだ。
 明るい観光客向けでもない、反米左翼向けでもない、もう一つの顔。
 それがアンダーグラウンドの世界、すなわち売春街であった。
 しかるに、売春街というアンダーグラウンドは昔も今も世界中どこにでもある。
 また、パンパンやGIベイビーに象徴されるような、貧困女性の犠牲と米軍の落とす金によって成り立つ戦後日本の性風俗事情は、都下の立川や横浜の黄金町の例を上げるまでもなく、内地でも同じであった。
 沖縄の真栄原新町や吉原は、内地の立川や黄金町、あるいは大阪の飛田遊郭や浅草の吉原や滋賀の雄琴とどこがどう違ったか、その理由はなんなのか。
 そこに我々が知るべき沖縄アンダーグラウンドの最大の肝があるのだろう。
 あとがきで著者は次のように述べている。

 私が記録した沖縄は、「アンダーグラウンド」に視点を据えた、戦後史の一断面に過ぎない。だがその姿は、過酷な戦争体験の後、日本から切り離されてアメリカの占領下に置かれ、復帰後も今に至るまでヤマトの敷石にされ続けている沖縄のありようと歴史の底流でつながっている。

 最後になるが、著者の筆致からは真栄原社交場が浄化され消滅したことに一抹の寂しさを感じているような印象を受ける。
 しかし、ソルティは戦後の赤線そのものの売春街が2010年まで公然と存在し続けたところに、戦後の沖縄が置かれてきた内地との圧倒的な不均衡があるように思った。
 明らかに、街自体は無くなって良かった。
 が、街の記憶は風化させるべきではない。

 そこで、真栄原新町の跡地利用の提案を一つ。
 「沖縄アンダーグラウンド館」なるものを作って、本書で書かれているようなことをテーマに各種資料やありし日のお店の再現セット(マネキン人形含む)を展示し、関係者の証言を集め、フェミニズム視点も取り入れ、広く人々に「戦争の怖ろしさ、および人間(男)の性と暴力について考えてもらう機会を作る」ってのはいかがだろう?
 もちろん、街の下に広がる文字通りのアンダーグラウンド、すなわち鍾乳洞見学も含めて・・・。


鍾乳洞
Marliese ZeidlerによるPixabayからの画像





おすすめ度 :★★★★

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● 沖縄戦跡めぐり4 (首里城)

 帰りの飛行機の時間まで首里城見学した。
 国際通りからバスに乗り、石畳前バス停下車。
 琉球王国時代の遺跡である「金城町石畳道」を首里城に向かって登る。

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金城町石畳道
16世紀に琉球王国の3代国王尚真によって造られた南部に通じる真珠道(まだまみち)の一部。
琉球石灰岩の石畳と石垣、赤瓦の家並みが続く。
道のほとんどが沖縄戦によって失われ、現在残っているのはこの約300mだけ。

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結構傾斜がきつく、汗ばんだ。

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カジュマルの木陰がうれしい

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休憩所として利用されている金城村屋
心地良い風が通り抜け、眺めも良く、落ち着ける。

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沖縄戦がなければ、どれだけの素晴らしい遺跡が残っていたことか・・・。

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沖縄の街角でよく見かける石敢當(いしがんとう)の石碑
中国伝来の魔除けで、邪気が集まりやすいT字路や三叉路、辻に建てられる。

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眼下に広がる那覇市街

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首里城守礼門

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2019年10月31日の火災により本殿は焼失した。
2026年の復元を目指してもっか復興中。
復興の工事現場を見学することができる。

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首里城の地下30~40メートルに沖縄戦を指揮した日本軍の司令部壕があった。
総延長は約1キロ。指令室や炊事場など30以上の部屋があり、多い時は千人以上が生活していたと言われる。
南部へと撤退する際、軍は機密書類などを隠蔽するために壕内を爆破したため、あちこちで崩落が起きている。
安全面の問題があってこれまで放置されてきたが、最近、沖縄県がこれを保存・公開する方針を決めた。
公開されれば、もっとも主要な戦跡の一つとなるのは間違いない。

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西(いり)のアザナ
城郭西側にある物見台からの景色

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沖縄県立芸術大学
こんなとこで学生時代を過ごせたらサイコー!

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事前の天気予報では滞在中の3日間☂☂☂
海水浴するわけでなし、別に関係ないと思って現地入りした。
フタを開けてみたら、確かに雨が降り続いた。
ただし夜間ばかり。
日中はほとんど傘をさす必要がなく、しかも快晴だとまだまだ陽射しの厳しい時期に薄曇りの空が続き、屋外の移動や見学には最適であった。
必要な時にタクシーが現れたり、ガイドしてくれる土地の人が登場したり、修学旅行生と共に館長の話が聞けたり、ソルティに沖縄戦を学ばせるべく、何かが導いているような感覚すらあった。
実りの多い楽しい旅であった。

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また会いに来るシーサー







● 前田高地の奇跡 映画:『ハクソー・リッジ』(メル・ギブソン監督)

2016年アメリカ、オーストラリア
139分

 1945年4月から始まった日米沖縄戦で死闘を極めた前田高地の闘いが舞台である。
 前田高地の峻厳たる地形をアメリカ軍は Hacksaw Ridge(弓鋸の崖)と呼んだ。

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ハクソー・リッジ(前田高地)
標高約120~140mの丘陵。
ここから約4キロ南西に首里の軍司令部があった。

 本作はしかし、沖縄戦がテーマあるいは戦争一般がテーマというよりも、一人の新米兵士の堅い信念と英雄的な行為が描かれる伝記映画という感じ。
 それもそのはず、この映画は沖縄戦で衛生兵として従軍したデズモンド・ドスの実体験をもとにしているのである。

 デズモンド(アンドリュー・ガーフィールド)の堅い信念とは、「絶対に人を殺さない。銃は持たない」ということであり、そこには子供の頃に喧嘩で弟を危うく殺しかけた苦い体験と、その後のデズモンドのキリスト者としての信仰があった。
 また、デズモンドの英雄的な行為とは、激しい戦闘を経て部隊が前田高地から一時退却したあとも、ただひとり、日本軍が見回る戦場に残り、負傷し取り残された同僚を何十人も手当し救い出したことであった。
 こんな人間が米軍にいたとは驚きである。

 ただ、ソルティがより驚いたのは、「銃は持たない」「人は殺さない」と堂々と宣言し実際に銃の訓練を拒否する一兵卒を、軍隊に居続けさせるアメリカ軍の度量というか法治性である。
 かつての日本軍なら、おそらくその場で殴って従わせるか、それでも駄目なら仲間と引き離して投獄し拷問をかけ、強制除隊させるだろう。
 銃を持たない者=敵と戦う意志のない者など邪魔なだけである。
 戦争とは人を殺しに行くところなのだ。

 デズモンドの上官らは、説得してもダメなことを知ると、まずデズモンドが精神異常であることの言質を取ろうと試みる。
 精神異常であれば除隊させられるからだ。
 しかし、デズモンドがその手に乗らないことが分かると、上官の命令に従わないという理由で軍法会議にかける。
 軍法会議で違反となれば投獄された上、除隊となる。
 だが、結果的には軍法会議より上位にある合衆国憲法の規定により、「従軍の意志がある者の参加を軍は拒むことができない」「個人の信仰を侵して武器の使用を強制することはできない」という理屈が通って、デズモンドは衛生兵として銃の訓練を受けずに従軍することになる。
 合衆国憲法がデズモンドの味方をしたのだ。

 戦時にもかかわらず、憲法を絶対的に尊重する法治性がすごいと思う。
 否、戦時だからこそ、憲法が守られなければならないのだ。
 平和な時の憲法を国が守るのは難しくない。
 戦時という非常時に国が守ってこそ、憲法の最高法規たるゆえんがある。
 これが実話なら、やはり法と論理重視のアメリカに、「考えたくないことは考えない、考えなくてもみんなで頑張ればなんとかなる」という法と論理軽視のニッポン・イデオロギーが敗北するのも無理はないと思う。

 ハクソー・リッジでの戦闘の様子は凄まじいかぎりのリアリティ。
 これを見れば誰だって、「戦争に行きたくない」「戦争なんかしたくない」「絶対に戦争はしてはいけない」と思うのが普通だろう。
 負けたら地獄は当然だ。
 けれど、勝っても天国は待っていない。
 この映画の優れた点は、過去の従軍体験のトラウマによってアル中に陥り、その後の人生を自暴自棄に生きるデズモンドの父親をあらかじめ描くことで、「ハクソー・リッジを落として万歳!」「アメリカが日本に勝って万歳!」で終わらせる戦意高揚的ハッピー・エンドを回避しているところである。
 衛生兵としてのデズモンドの活躍は奇跡としか言いようがない立派なものだが、負傷兵を救うよりは、最初から負傷する人間を作らないほうがいいに決まっている。

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嘉数高台から望む前田高地





おすすめ度 :★★★

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● 沖縄戦跡めぐり3(嘉数高台~佐喜眞美術館)  

 宿は国際通りから東に伸びる浮島通りにあった。
 ゆいレールの県庁前駅から歩いて10分、最寄りのバス停には5分、コンビニには2分。
 どこに行くにもまったく便利な位置でありながら、国際通りに面していないので静かだった。
 ホテルや旅館ではなく、普通のマンションの一室(1K、バストイレ付)を宿として提供しているので、滞在中は自宅にいるような気分で、とてもくつろげた。
 もちろん、フロントも食堂もルームサービスもない。
 他の宿泊客と顔を合わせることもなかった。

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清潔で明るくゴロ寝ができる部屋

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火は使えないがキッチンもついている

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ボディソープ、シャンプー、タオル、ドライヤーも完備

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電子レンジ、オーブントースター、冷蔵庫あり

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真綿色の照明と南国風の飾り布が安らぎを演出
また泊まりたい宿である。

 3日目は那覇から北上して宜野湾市に行った。
 米軍の普天間飛行場を間近に見下ろせる嘉数高台(かかずたかだい)に登った。
 そのあと、1992年に米軍に返還させた土地に建てられた佐喜眞美術館に足を運んだ。
 ここには、広島「原爆の図」で有名な丸木位里・俊夫妻の描いた「沖縄戦の図」が展示されているのだ。
 本日は当地に住む知人が車を出してくれた。

日時 2022年11月26日(土)
天候 曇り一時雨
行程
 8:00 国際通り
 8:20 嘉数高台
10:00 佐喜眞美術館
12:30 国際通り

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早朝の国際通り
怪しい空模様

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国際通りのPCR検査センター
ソルティは地元市役所発行の4回目ワクチン接種証明書を持参して沖縄入りした。

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嘉数高台公園
標高84.3メートル、東西に伸びる約1キロの丘である。
沖縄戦の最初にして最大の激戦地となった。
1945年4月1日に中部西海岸から上陸した米軍がここを抜くのに16日間を要した。
戦死傷者は日本軍 64,000人、アメリカ軍 24,000人、住民の半数以上が亡くなった。

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弾痕のある塀
民家の豚小屋の外にあった塀と言われる。

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日本軍の陣地壕
高台の南斜面にある

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壕の中
米軍の空爆が終わると、ここから飛び出て北側から攻める敵に反撃した。

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地球デザインの展望塔

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北側に広がる普天間飛行場
宜野湾市の1/4を占める

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オスプレイ
展望台で出会った地元のジョガーマンによれば、飛行場の騒音はとくに基地の南側と北側で喧しいのだそう。(彼は東側に住んでいる)

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北西に残波岬を望む
1945年4月1日、米軍はこの湾一帯から上陸を開始した。
岬の突端に集団自決のあった読谷村のチビチリガマがある。

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南に前田高地を望む
嘉数が米軍に占拠された後、次の激戦地となった。
これもジョガーマンからの情報だが、2016年にメル・ギブソン監督が撮った『ハクソー・リッジ』という映画は、前田高地の戦いを描いている。
Hacksaw Ridge とは「弓鋸の崖」の意。 

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北東に沖縄国際大学を望む(右上端のオレンジの建物群)
2004年8月13日に米軍の大型ヘリコプターが構内に墜落、爆発、炎上した。
幸い夏休みだったため、学生はいなかった。

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日本軍の作ったトーチカ(入口側)
トーチカ(tochka)はロシア語で「城塞」の意。
コンクリートや鉄板で作った陣地のこと。
高台の北斜面にある。

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トーチカの内部
結構広い
くり抜いた穴から銃を出して敵を狙った。

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北側(敵面)の風貌
弾痕が無数にある

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京都の塔
ここで亡くなった62師団の多くの兵士が京都出身であったことから、1964年に建てられた。
「再び戦争の悲しみが繰り返されることのないよう、また併せて沖縄と京都とを結ぶ文化と友好の絆がますますかためられるよう、この塔に切なる願いをよせるものである」(碑文より)

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北斜面にあった亀甲墓
原型をほとんど失っている。
頑丈で中の広い亀甲墓はトーチカや防空壕として利用された。

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普天間飛行場返還後の跡地利用計画が進んでいる。
飛行場の地下には、観光資源となる大きな鍾乳洞が3,4ヵ所もあるという。
嘉数高台は沖縄の過去、現在、未来を見ることのできる場所なのだ。

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嘉数高台公園でゲートボールに興じる高齢者たち

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佐喜眞美術館
嘉数高台から基地の東端に沿って約4km北上したところ(上原)にある。
1994年11月23日開館。
館長である佐喜眞道夫のコレクションを中心に展示している。
戦争で息子と孫を失ったケーテ・コルヴィッツというドイツの女性画家と、20代を軍隊で過ごした浜田知明(1917-2018)という日本の版画家の作品が展示されていた。
丸木夫妻の「沖縄戦の図」は言葉で表現しようがない。
沖縄に行ったら絶対に見ておくべき!

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美術館のすぐ隣は普天間基地すなわち治外法権区域

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緑の多い美しい美術館である
庭には亀甲墓(1740年ごろ建立)や県立盲学校生徒たちのユニークな作品などが展示されている。

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美術館の屋上から東シナ海を望む
びっくりしたのだが、基地の周囲は深い森に囲まれていた。

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ソルティが訪れた時、ちょうど埼玉から修学旅行生が来ていた。
これ幸いと教員の振りして、「沖縄戦の図」を前に、生徒たちと一緒に佐喜眞館長の話を聴かせてもらった。曰く、
「投降して捕虜になったら、男は戦車の下敷きにされ、女はなぶりものにされる。そう言って日本軍は住民たちに自決を迫った。なぜそんなことを言ったのか。おそらく、日本軍がまさにそうしたことを大陸で中国人や朝鮮人相手に行っていたからだろう。自分たちがやったことを敵もやると考えたのだ」
ソルティもその可能性を思っていた。
関東大震災時の朝鮮人虐殺の扇動者となった自警団の男たちもまた軍役経験者が多かった。
人は自分の物差しで他人を測るのだ。

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嘉数高台の展望塔の屋根の下にいたちょうどその時、豪雨来襲。
宜野湾市だけに降っているようであった。
10分ほどして雲が行き過ぎると、晴れ間がのぞいた。
いろいろ教えてくれたジョガーマンはびしょぬれになったことだろう。
(沖縄の人は傘を差さないというから慣れっこか)













● 沖縄戦跡めぐり2(沖縄陸軍病院南風原壕群~旧海軍司令部壕~対馬丸記念館)

 レンタカーを使わずに沖縄を旅するのはなかなか大変である。
 タクシーを借り切るという手もあるけれど、予算的な問題は別として、ソルティは自分が施設見学している間、運転手を待たせておくというのがどうも苦手である。
 誰にも気兼ねせず、時間の許す限り見学したい。
 となると、路線バスを上手に活用することになる。
 
 沖縄戦跡めぐりに行くと決めてから、沖縄バスマップを取りよせて路線と停留所を調べ、ネットで時刻表をダウンロードし、綿密な移動計画を立てた。
 乗り換えが必要となる場合、接続が上手くいかないと次のバスまで1時間以上待たねばならないこともあるので、事前に調べておく必要があるのだ。
 それはしかし、手間というより楽しい作業であった。
 自室の床にバスマップと時刻表とガイドブックを広げ、いろいろと計画を練っている時間はすでに旅の一部、浮かれモードである。
 路線バスの利点は他にもある。
 土地の人を観察したり触れ合う機会になるし、車窓からの景色を存分に楽しむことができる。
 方言が飛びかう停留所や車内こそが、地方色を感じさせる。
 実際、座席シートから綿がはみ出したおんぼろバスがいまだに走っているのは愉快であった。

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バスマップとOKICA
沖縄のSUICAであるOKICAは
ゆいレールとほとんどの路線バスで使える。
小銭の用意しなくて済むのでほんと便利!

 もっとも、路線バスだけではうまく回れない地点もあった。
 そこはタクシーをつかまえて最短距離で移動した。
 あるいは、那覇市内であれば奥の手があった。
 シェアサイクルである。 
 ソルティは HELLO CYCLINGというシェアサイクルのネットワークに会員登録しているので、全国どこでもサイクルステーションがあるところならば、好きな時に電動自転車を借りることができる。
 調べてみたら、那覇市にはたくさんのステーションがあった。
 施設見学した後で最寄りのステーションまで歩いて自転車を借り、次の目的地までサイクリングする。
 自転車が必要なくなったら、そこから一番近いステーションに返却すればいい。 
 これならバス停でバスを待つ必要もないし、タクシーを探す手間も省ける。
 那覇名物の渋滞も関係ないし、駐車にも困らない。
 なにより見知らぬ街を風を切って自転車で走るのは最高に気持ちいい!
 (もっとも、酷暑の時節や雨風の強い日は快適とはいかないが・・・・) 
 これまで自宅周囲で利用していたシェアサイクルであったが、観光でも使える実に便利で快適なシステムであることを実感した。
 旅先でのシェアサイクル。今後大いに活用したい。(京都市内なんかも楽しそうだ)
 ちなみに、自転車でも飲酒運転はNGである。

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ハイビスカス


日時 2022年11月25日(金)
天候 曇り
行程
 9:40 開南バス停(309番バス乗車)
10:00 福祉センター入口下車
         沖縄陸軍病院南風原壕(南風原文化センター)
13:15 南風原町役場前よりタクシー乗車
13:30 旧海軍司令部壕
15:00 最寄りのサイクルステーションにて自転車レンタル
15:30 対馬丸記念館
17:00 波上宮~波の上ビーチ
18:00 沖縄家庭料理「まんじゅまい」にて夕食
19:30 国際通りにて自転車返却

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南風原(はえばる)文化センターと黄金森(こがねのもり)
1944年10月、那覇市内にあった沖縄陸軍病院が米軍の空襲により焼失し、南風原国民学校校舎に機能を移転した。
米軍の攻撃が激しさを増した1945年3月、日本軍は住民の力を借りて近くの黄金森に約30の横穴壕を掘り、壕の中に患者を収容した。
看護婦として動員されたひめゆり学徒222人と教師18人がここで働いた。
その様子は吉永小百合あるいは津島恵子主演の映画『ひめゆりの塔』に描かれている。

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飯あげの道
飯あげとは、炊きあがったご飯などを樽に入れて炊事場から各壕(病棟)へ運ぶこと。
当時、黄金森は一面の茅畑で空から丸見えだった。ひめゆり学徒たちは爆撃の下、重い樽を下げた天秤棒を二人で担いで、急な山道を上り下りした。

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悲風の丘の碑
1945年4月1日米軍が沖縄本島中西部に上陸し、本土決戦が始まった。
日本軍は首里司令部を占拠され、南部への撤退を余儀なくされる。
5月下旬、南風原陸軍病院にも撤退命令が下される。
その際、移動できない重症患者には青酸カリ入りのミルクが配られた。
(題字は沖縄返還時の首相だった佐藤栄作の手による)

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沖縄陸軍病院壕址
黄金森に約30の壕(トンネル)がつくられ、多い時は約2000人の患者が収容された。
もとからあった鍾乳洞を利用した壕(ガマ)ではなく、鍬やつるはしを使って一から掘ったものである。
戦後、壕の中からはたくさんの人骨が見つかった。

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丘全体が今ではすっかり南国らしい瑞々しい森におおわれている。
これらの樹々の下にまだ多くの白骨化した遺体が埋まっているという。

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20号壕入口
現在ガイド付きで見学することができる唯一の壕。
長さ約70m、高さ約1.8m、床幅1.8m、病室・手術室・勤務者室などがあった。
見学者には、ヘルメットと長靴と懐中電灯が渡される。

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壕の中からは、多数の医薬品類、患者の石鹸箱や筆箱や着物、ひめゆり学徒のものと思われる文具などが見つかっている。
少女たちは、まさか病院が攻撃される、まさか日本が敗けるとは思わず、はじめのうちは半ば遠足気分で働いていたという。

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壕の中
負傷した何十人もの兵士の発する体臭、腐敗しウジ虫のたかる患部、消毒薬、汗や尿や便・・・。
壕の中は何とも形容し難い匂いが立ち込めていたという。
その中をひめゆり学徒たちは瀕死の患者らに呼ばれて走り回った。

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ひめゆり学徒たちの休憩所
食事の運搬と配布、シモの世話、清拭、患部の消毒や包帯の交換、手術(と言っても患部の切断が主)の手伝い、患者の移動や寝返りの手伝い、ウジ虫の除去、亡骸の運搬と埋葬・・・。
まともな設備も医療用具も、十分な水や食糧もない中で、どれだけしんどかったことか。
だが、本当の地獄はここを離れた先にあった。

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20号壕の出口
壕の見学は事前予約が必要。
この日はソルティのほか沖縄長期滞在中の60代くらいの夫婦一組。
ここはガイドブックにはまず載っていないが、ぜひとも訪れたい戦跡の一つである。
(ここを勧めてくれた友人に感謝)

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町立南風原文化センター
南風原の沖縄戦の経緯、沖縄戦後史、ハワイや北米や南米への移民事情、昔の沖縄の暮らしなどが展示されている。
上記は黄金森の病院壕を再現したもの。1.8m幅の横穴の半分は、一人一畳分の患者の寝台が並び、もう半分が通路になっていた。

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黄金森の全景

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米軍の投下した砲弾
これが地上で炸裂し、半径数百メートルに灼熱の鉄の破片が猛スピードで飛び散った。

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これと竹槍で闘う?
なんという御目出度さだ!

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1955年(昭和30年)の国際通り
「荷馬車、三輪車、バス、タクシーが共存」とある。
むろん返還前。自動車が右側通行なのに注目。

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南風原町役場
南風原町は、県内で唯一海に面していない町。
それゆえ、軍関係の施設が多く集められたのだ。
ここからタクシーを拾って次なる戦跡へ。

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旧海軍司令部壕
1944年、地域の住民を駆り出して掘られた壕に海軍司令部を設置した。
壕内に入って見学できるほか、旧日本海軍に関する資料や銃器や軍服、家族への手紙などが展示されている資料館がある。

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ビジターセンター
那覇市の南西の小高い丘(豊見城)に位置する。
ここから資料館と壕のある階下へ降りていく。

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ビジターセンターからの風景

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東シナ海を望む

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壕への入口
南風原の壕にくらべると実に立派で頑丈なつくり

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壕内見取図
まるでアリの巣のよう。
全長450mあったと言われている。

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カマボコ型にくり抜いた横穴をコンクリートと杭木で固めてある。

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司令官室
司令官であった大田實少将はじめ幹部6人は、1945年6月13日に壕内で自決した。
実際に沖縄戦で戦死者が増えたのはそのあとである。

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幕僚室の壁
幹部たちが手榴弾で自決した時の破片のあとが残っている。

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下士官室
寝台の木枠の残骸が残っている

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旧海軍司令部壕は大概のガイドブックに載っているので、観光客が絶えなかった。
それも外国人や団体客が多かった。(自衛官や米兵らしきマッチョもいた)
ここは、「日本軍がどれだけ潔く戦ったか」「兵隊さんがどれだけお国のために尽くしたか」「沖縄県民がどれほど立派に最後まで闘い抜いたか」を強調し称揚するための施設という感じ。
自決するくらいなら最後まで住民を守ってくれよ!

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旧海軍司令部壕の脇にある沖縄様式のお墓
墓室の屋根が亀の甲の形をしているので亀甲墓(きっこうばか、カーミナクーバカ)と呼ばれる。
17世紀後半頃より作られるようになったという。
沖縄戦では多くの墓が破壊された。

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シェアサイクルで海岸沿いを疾駆する

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対馬丸記念館
1944年8月22日の深夜、学童疎開の子供たちを乗せて那覇港を出港した対馬丸は、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した。
乗船していた1788名のうち1484名(うち学童784名)が命を失った。

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犠牲者の遺影や遺品のほか、当時の学校生活を偲ばせる教科書や文具や玩具、奇跡的に助かった人々の証言映像などを見ることができる。

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亡くなった子供たちの写真が壁を埋め尽くす。
出港する子供たちは修学旅行のようにはしゃいでいたという。
沖縄の海はすでに米軍の支配下にあったが、子供たちは日本の勝利を信じていた。

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波上宮(なみのうえぐう)
創建不詳。日本神話に出てくる神々が祀られているが、もとはニライカナイ(海の彼方の理想郷)の神々に祈りを捧げる聖地であった。

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本殿
正面からは分からないが、岩の上に立っている。

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岩の上に立つ波上宮
ビーチでは修学旅行の高校生がはしゃいでいた。

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沖縄家庭料理の店「まんじゅまい」で夕食
オリオンビール、まんじゅまい(パイナップル)炒め、ピタローのバター焼き、豆腐よう
どれも優しい味で美味しかった!











● 沖縄戦跡めぐり 1(健児の塔~平和祈念公園~ひめゆりの塔~魂魄の塔)

 本当は、地元の人が案内してくれる戦跡パッケージツアーに参加したかった。
 が、時期的にちょうど良いのがなかった。
 施設の場所や開設時間や交通機関などはネットで調べて旅程を立てることができるけれど、肝心の沖縄戦にまつわるエピソードや見るべきポイントなどは、やはり詳しい案内がほしいところ。
 どうしようかと思っていたら、近所の図書館で恰好の本を見つけた。
 大島和典著『歩く 見る 考える 沖縄』(2021年高文研発行)。 
 
大島和典『沖縄』

 1936年香川県生まれの大島和典氏は、四国放送で技術や制作の仕事に携わり、退職後に沖縄移住。
 沖縄戦の研究をはじめ、米軍基地建設反対運動の記録を撮りビデオ作品として発表するほか、戦跡を案内するガイドツアーを10年以上(計1000回以上)つとめてきた。  
 その背景には、大島氏の父親が沖縄戦に出兵し、激戦地の南部で戦死したという事情があった。
 当時、父親は33歳、和典氏は小学3年生だった。
 本書は、大島氏が修学旅行生相手にいつも行なってきた、自身の思いや願いのこもった戦跡ガイドを、語り口調そのままに収録したものである。
 取り上げられている場所は、ひめゆりの塔、平和祈念公園、魂魄の塔、米須海岸、嘉数高台、安保の見える丘。
 まさに最適のガイドブック。
 出発前に2回通読し、見るべきポイントを頭に入れた。
 さらに、沖縄に詳しい友人に尋ねたところ、南風原文化センター(沖縄陸軍病院壕)や集団自決のあったチビチリガマ、辺野古座り込みテントなどもすすめられた。
 3日間ですべてを回るのは時間的にも体力的にも無理なので、今回は南部を中心に回ることにした。

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平和祈念公園から臨む島南端の海岸
 
日時 2022年11月24日(木)
天候 曇り一時雨
行程
 8:50 開南バス停(50番バス乗車)
 9:43 具志頭バス停(82番バスに乗り換え)
 9:53 健児の塔入口下車
     健児の塔~平和祈念公園~平和祈念資料館
12:52 平和祈念堂入口バス停(82番バス乗車)
13:00 ひめゆりの塔前下車
     昼食~ひめゆりの塔~ひめゆり平和祈念資料館~魂魄の塔
16:43 ひめゆりの塔前バス停(82番バス乗車)
17:00 糸満バスターミナル(89番バスに乗り換え)
18:00 那覇バスターミナル

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宿最寄りの開南バス停で地元の人に雑じってバス待ち
桃色のマニキュアを塗った女性の爪のようなトックリキワタの花があでやか
アオイ目アオイ科の落葉高木である

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乗り換えのバス待ち
純白の漆喰で塗り固めた赤瓦屋根
沖縄らしい民家の軒先に旅情を感じた

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健児の塔
沖縄戦に召集され命を失った沖縄師範学校の教師と生徒319名が祀られている
1946年3月建立

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ひめゆり女子学徒たち同様、学校のあった中部から南部へ移動し、海岸に追いつめられたあげく、非業の死を遂げた。

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このあたりの地形は険しい
こうした岩陰に隠れて米軍の攻撃から身を守ったのだろう

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平和祈念公園全景
くまなく見るには丸1日は必要とする広さと深さ

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国立沖縄戦没者墓苑
この地域には各県の戦没者慰霊碑が並んでいる
沖縄戦で亡くなった日本兵は、県外出身約6万6千人、県出身約2万8千人
犠牲となった一般県民約9万4千人と推定される(県資料による)

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平和の礎(いしじ)
国籍や敵味方、軍民の区別なく、沖縄戦で亡くなった20万人余の氏名を刻んだ記念碑

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朝鮮半島の人たちの礎
上記の大島氏の本によると、1万3千~4千人の朝鮮人が沖縄戦のため半島から連れて来られ、1万1千~2千人が亡くなったという
だが、ここに刻まれている名前はたった500名弱
その理由は推して知るべし

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平和の火
米軍が最初に上陸した沖縄県座間味村の阿嘉島で採取した火、広島の平和の灯(ともしび)、長崎の誓いの火、3つの火を合わせ、1995年6月23日「平和の礎」除幕式典において点火された。

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平和の火を囲む修学旅行の小学生たち
子供たちが真剣に学んでいるのを見るとホッとする

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ギーザパンダ(慶座集落の崖)
平和の火がある広場から見える風景
米軍はあの崖をスーサイドクリフ(自殺の崖)と呼んだ
日本国民は捕虜になるより自決せよと教え込まれていた

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公園内にあるガジュマルの木
遺体の集積場、焼却場があった場所
今でも土の中から銃弾や砲弾の破片が見つかるという

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沖縄県平和祈念資料館
生き残った人々の証言が圧巻!
広島および長崎の原爆資料館とともに生涯一度は訪れておきたい
とりわけ政治家と国家公務員は!

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資料館の展望室から見る景色
77年前にここに地獄が現出した

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平和への道はない
平和が道である
(マハトマ・ガンジー)

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ひめゆりの塔
大島氏によると、目の前にある「優美堂」のサーターアンダーギーは日本一
たしかに外はカリッと中は栗のようにほっこり、豊かな味わいだった

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看護要員として動員されたひめゆり学徒は、軍とともに中部から南部に移動
教師13名、生徒123名が亡くなった
第三外科壕として当てられたこのガマ(鍾乳洞)は最も死者が多かった

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こちらが最初に作られたひめゆりの塔
娘をここで失った金城和信氏が1946年4月5日に建てた

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ひめゆり平和祈念資料館(1989年6月23日設立)
生き残った元ひめゆり学徒たちの手によって設立された。
沖縄陸軍病院(南風原)における生徒たちの必死の救護活動、第三外科壕の模型、亡くなった生徒や教師たち一人一人の名前や写真、生き残った人々の証言など、戦火を生きた少女たちの姿が見え、声が聴こえてくる。
無事に生き残ったことがこれほど彼女たちを苦しめるとは!

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「戦争はいつも身近にあったのに、本当の戦場の姿を私たちは知らなかった」という元ひめゆり学徒の言葉が突き刺さる。本当の戦場の姿を知らぬままに、「天皇陛下、万歳」の軍国少女に仕立てられていったのだ。(資料館の前庭に咲くベンガルヤハズカズラ)

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資料館の中庭
見聞した事柄について、ゆっくり考えたり、気持ちを整理したり、共感して苦しくなってしまった心を和らげたりするのに恰好の場である

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魂魄(こんぱく)の塔
ひめゆりの塔から1.5kmほどの海岸沿いにある
戦後このあたりの至る所に散乱していた遺骨を集め、その上に建てられた。
3万5千人の遺骨が収められているという

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糸満バスターミナルへ向かうバスの中から
この日、沖縄の海は哀しい色をしていた



 

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