ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

  リメンバー沖縄戦

● 映画:『あゝひめゆりの塔』(舛田利雄監督)

1968年日活
125分、白黒

 太平洋戦争終結間際の沖縄でのひめゆり学徒隊の悲劇を描いたドラマ。
 石原裕次郎主演の日活映画や『二百三高地』、『零戦燃ゆ』などの戦争大作、アニメ『宇宙戦艦ヤマト』シリーズなどで知られるヒットメーカー舛田利雄監督の手堅く迫力ある演出が際立つ。
 戦争ノンフィクションと人間ドラマとエンターテインメントの見事な融合である。

 主演の吉永小百合はじめ、浜田光夫、和泉雅子、二谷英明、渡哲也、乙羽信子、東野英治郎、中村翫右衛門などスター役者が揃って、1971年にロマンポルノに移行する前の日活最後の輝きといった趣きがある。
 藤竜也や音無美紀子や梶芽衣子(当時の芸名は太田雅子)もどこかに出ているらしいが気づかなかった。

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ひめゆり学徒隊に扮する吉永小百合(左)と和泉雅子(右)

 物語後半からは、B29による米軍の凄まじいじゅうたん爆撃に圧倒される。
 観ていて、日本軍相手ならまだしも民間人を容赦なく攻撃する米軍に対する憤りは当然感じるものの、それ以上に強いのは、このように民間人に多数の死者を出しても戦争をやめようとしない軍部に対する怒り、日本という国家に対する怒りである。
 サイパンを取られた時点で(本当はもっと前から)日本の敗戦は誰の目にも明らかだったのに、なぜそこで停戦講和に持ち込まなかったのか?
 本土決戦など言葉だけのきれいごとで、実際には本土蹂躙に等しかった。
 沖縄戦はじめ、本土爆撃、広島・長崎原爆投下・・・・どれだけの民間人の命が犠牲になったことか!

 昨年のコロナ禍での2020東京オリンピックでも、このたびの安部元首相国葬でも、日本という国は一度始めたことを止めることができない。
 その遂行がすでに無意味と分かってからも、益より害が大きいことが明らかになっても、国民の大多数が反対しても、政府は「聞く耳をもたない」。
 それは単純に、決めた予算の執行にかかわる問題とか関連企業の儲けとか政治家たちにわたる賄賂やリベートとか、そういった金銭的理由だけではない気がする。
 もっと根本的なところで、方向転換して改める力を欠いている。
 過ちを認められないエリートたちの宿痾なのか。
 それとも、合意形成の段階での曖昧な手続きが、いざ事態がまずくなったときに責任を引き受ける者の不在を招くのか。

 いずれにせよ、支配層の過ちのツケを払うのはいつも庶民であり、支配層は都合が悪くなるとコソコソと逃げ隠れる。
 ソルティが、戦争映画を観ていつも感じるのは、支配層に対する怒りである。
 敵対する国民――たとえばこの映画においてはアメリカ兵――に対する怒りではない。
 今回のロシア×ウクライナ戦争でも、各国の支配層と結びついたどれだけの軍需産業が儲けをふところにほくそ笑んでいるかと思うと、虫唾が走る。

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 吉永小百合は、日焼けも泥まみれや汗まみれも、ボロ着も歪んだ泣き顔も辞さない体当たりの熱演。
 沖縄の歌や踊りもそつなくこなしている。
 この役をたとえば十代の大竹しのぶがやったら、ずっとリアリティある圧巻演技になったろうなあ~と思うが、ひめゆりの名にふさわしく華があるのは小百合である。
 
 作家・石野径一郎による同名の原作は、1953年と1982年に今井正監督によって、1995年に神山征二郎監督によっても映画化されている。
 機会があったら見較べたい。





おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 映画:『ひめゆりの塔』(今井正監督)

1953年東映
130分、モノクロ

 ドキュメンタリー映画の俊英、今井正監督による本作は、吉永小百合主演による1968年版(舛田利雄監督)とくらべると、やはりドキュメンタリー色が強く、全編リアリズムにあふれている。
 それはドラマ性が弱い、すなわちエンターテインメントとしてはいま一つということでもあるが、いったいに、「ひめゆり学徒隊の史実をエンターテインメントで語ることが許されるか!」という思いもある。
 物語の背景や人物関係がわかりやすく、随所に感動シーンがあり、映画として楽しめるのは68年舛田版。一方、豪雨の中での担架を抱えた部隊移動シーンや米軍による無差別爆撃シーンなど、「超」がつくくらいの写実主義に圧倒され、戦争の怖ろしさや悲惨さに言葉を失うほどの衝撃を受けるのが53年今井版である。

 出演者もまた、スター役者を揃えた舛田版にくらべると、本作でソルティがそれと名指しできる役者は、先生役の津島恵子と生徒役の香川京子以外は、藤田進と加藤嘉くらいしかいなかった。
 クレジットによると、渡辺美佐子、穂積隆信も出ているらしいが、気づかなかった。
 脚本は水木洋子、音楽は古関裕而である。
 当時、沖縄はまだ返還されていなかったので、東映の撮影所の野外セットと千葉県銚子市の海岸ロケで撮影されたという。(ウィキペディア『ひめゆりの塔』より)

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生徒たちと川遊びに興じる先生役の津島恵子
 
 すでに島の上空も海上も米軍にすっかり埋め尽くされているというのに、「大日本帝国は総攻撃により敵を撃退する。勝利は近い」と最後の最後まで国民をだまし続け、もはや敗戦が隠せなくなるや、「捕虜になるよりは国のために潔く死ね」と、国民を突き放す大本営。
 統一協会との癒着を隠し続け、安倍元首相の国葬を断行する今の自民党と、どこが違うのか!




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 
 
 
 
 

● ドキュメンタリー映画:『沖縄戦 知られざる悲しみの記憶』(太田隆文監督)

2019年青空映画舎、浄土真宗本願寺派
105分
ナレーション:宝田明、斉藤とも子

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 戦死者20万656人。日本で唯一の地上戦が行われ、県民の4人に1人が死亡した沖縄戦。
 それはどのように始まり、どのように終わったのか。
 どれほどの悲惨と残虐と苦しみがあったのか。
 これほど多くの民間人が犠牲になった背景にはいったい何があったのか。
 沖縄戦体験者12人の証言と専門家8人による解説、そして米軍が撮影した記録映像を用いて、時系列でわかりやすく克明に描いている。

 下手な解説やコメントはすまい。
 これはぜひ観てほしい。
 国家というものがいかに狂気なシステムになりうるか、ファシズム下の学校教育がどれだけのことを成し遂げるか、人間がどれほど無明に閉ざされているか、嫌というほど実感させられる。

 ソルティはこれまでに仕事で1度、観光で2度、沖縄に行っている。
 しかし、沖縄戦の関連施設を訪ねることはなかった。
 ひめゆりの塔、対馬丸記念館、沖縄陸軍病院跡、佐喜眞美術館・・・・。
 一度は行っておくのが、沖縄を本土決戦のための時間稼ぎの防波堤として利用した「やまとんちゅう(本土の人)」の義務だろう。

 ナレーションをつとめた宝田明(2022年3月逝去)は、ハンサムでダンディな俳優として知られたが、戦後満州で11歳まで過ごし、自身もソ連兵の銃弾で瀕死の重傷を負った過去があるという。
「なぜに子供たちは、親を奪われねばならなかったのか」
「なぜに子供たちは、実の親の手で殺されなければならなかったのか」
 ラストシーンの慟哭そのものの語りはそれゆえであったか。

 懼れるべきは、他国に攻撃される可能性なのか?
 それとも、自国がファッショ化し、自国に心を殺される「今ここにある危機」なのか?


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多くの子供達が本土疎開のために乗った対馬丸は
アメリカの潜水艦によって撃沈された





おすすめ度 :★★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 本:『運命の人』(山崎豊子著)

2009年文藝春秋
2011年文庫化
全4巻

 映画『ひめゆりの塔』、ドキュメンタリー『沖縄戦』と、このところ沖縄戦がマイブームになっている折、最寄りのブックオフに行ったら店頭ワゴンで一冊105円で売っていた。
 沖縄をテーマとした山崎豊子の最後の完成作である。

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 『暖簾』『ぼんち』『女系家族』『白い巨塔』『沈まぬ太陽』と山崎作品には原作や映画でずいぶん接してきたが、共通して言えることは、実に良く取材していること、骨太で構成がしっかりしていること、そして男を描くのが上手いこと。
 とくに、男を主人公とした『白い巨塔』『沈まぬ太陽』『運命の人』を読むと、よくもまあ女の身で、男の欲望や嫉妬やコンプレックスや孤独が分かるものだなあと感心する。
 男を描いてここまで成功した本邦の女性作家は、紫式部をのぞくと他に見当たらない。
 骨太の構成力という点も合わせて、著者自身かなり男性的な人だったのではなかろうか。

 本作は、1985年8月の日本航空123便墜落事故を描いた『沈まぬ太陽』と同様、「事実を取材し、小説的に構築したフィクション」である。
 1972年の沖縄返還をめぐる日米交渉の中で実際に起こった事件がもとになっている。
 俗に言う、沖縄密約暴露事件あるいは西山事件である。

 沖縄返還協定成立直後の1972年(昭和47)3月末から4月初めにかけて、衆議院予算委員会を舞台に、社会党の横路孝弘代議士ら野党議員が、外務省の極秘電報2通を材料に、沖縄返還交渉をめぐる日米間の密約問題を暴露し、佐藤内閣の責任を追及した。
 これをきっかけに、同年4月4日外務省は、同省の蓮見喜久子事務官が電報の内容を新聞記者に漏らしたという疑いで、同事務官を国家公務員法第100条(秘密を守る義務)違反容疑で告発した。警視庁は、蓮見事務官と、同事務官に秘密漏洩をそそのかした容疑(国家公務員法111条)で毎日新聞社政治部の西山太吉記者を逮捕、起訴した。
(『コトバンク 小学館日本大百科全書』より抜粋)

 当時ソルティは小学生だったので、この事件について知らなかった。
 長じてからも、沖縄密約と言うと在日米軍基地にある核の有無にかかわる問題という認識であった。
 が、当事件で問題となったのは核ではない。
 沖縄返還にあたって地権者に対する土地原状回復費400万ドルをアメリカ政府が支払うことになっていたが、実際には日本政府がその分を肩代わりして、形の上だけアメリカが支払ったように見せかける「密約」をしていたのである。
 毎日新聞記者だった西山太吉は、外務省事務官の蓮見喜久子に近づき男女関係を結んだうえで密約の証拠となる資料を手に入れ、政府の不正をすっぱ抜いた。
 佐藤栄作首相を頭にいだく政府は密約を全面否定し、西山と蓮見を国家機密漏洩のかどで裁判に訴えた。

 結果だけ言えば、西山と蓮見はともに有罪となり、職も家庭も社会的信用も失った。
 どちらも既婚者だったのでW不倫(当時この言葉はなかったが)であり、男女関係をもとに西山が蓮見を「そそのかし」罪を冒させたというストーリーが出来上がって、週刊誌を中心にマスコミを騒がす桃色スキャンダルとなり、二人(とくに西山)は世間の非難を浴びることになった。
 裁判では西山の取材方法が、法にてらして適切か否かが問われた。
 
 結果だけ言えば、密約はあった。
 後年になって、米国側の資料からそれは裏付けられた。
 つまり、密約による国民への背信行為および国民の「知る権利」という重要な問題が、大衆の喜ぶ桃色スキャンダルに覆い隠されていったのである。
 のちにノーベル平和賞をもらうことになる佐藤首相にとって、自らの花道を飾る沖縄返還に関してケチをつけられることは、絶対に許容できなかったのであろう。
 
 もちろん、「事実を小説的に構築して」いる本書に実名は出てこない。
 西山太吉は弓成亮太に、蓮見喜久子は三木昭子に、佐藤首相は佐橋首相に変えられている。
 ほかにも、ナベツネもとい渡邊恒雄、大平正芳、田中角栄、福田赳夫、横路孝弘、後藤田正晴ほか、それと分かる著名人が別名で登場する。
 フィクションとノンフィクションの合い間を狙った小説は、裁判になった三島由紀夫の『宴のあと』に見るように、プライバシー侵害や名誉棄損や営業妨害などの問題が生じやすいので、書くのは難しいと思うが、同じ手法を用いた『沈まぬ太陽』で成功をみている山崎にとって、お手の物だったのだろう。
 言うまでもなく読者にとっては、どこまでが事実でどこからが創作(想像)なのだろう?――という好奇心をくすぐって、面白いことこのうえない。
 地裁から高裁、そして最高裁へと続く“国家権力V.S.ジャーナリズム”の法廷闘争の描写も、被告原告双方をめぐる人間関係の模様とともに関心をそそられる。
 あとがきによると、すでに80歳を超えていた著者は病気をおして執筆していたらしい。
 前作の『沈まぬ太陽』にくらべれば筆力の低下は否めないものの、驚くべきパワーである。
 
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David MarkによるPixabayからの画像

 本書の主人公は弓成(西山)なので、事件は弓成の視点から描かれている。
 弓成は、有能でエネルギッシュで野心あふれる一記者として描かれる。
 政府の隠したがる機密を暴いて時の首相の逆鱗に触れたため、権力を敵に回すことになり、記者生命ばかりか家族をも失うことになった悲劇の人として描かれている。
 特ダネを手に入れるため男女関係を巧みに利用した卑劣な男としてではなく・・・。
 一方、某週刊誌がスクープした30代女性事務官の涙の告白――「私は弓成記者に酔った勢いで体を奪われ、一方的に利用されたあげく捨てられた」――は、現在なら鼻白むところであるが、70年代は十分通用した物語であった。
 男と女の間のことだけに、真相はどこらにあるのか、正直わからない。
 ただ、弓成(西山)が「取材源の秘匿」という記者の使命を守れなかったのは事実であり、一審判決のように秘密書類を持ち出した女性事務官だけが有罪となるのは、心情的に解せないところではある。
 
 社会的破滅に追いやられた弓成が、自死すら考えて沖縄へと渡る最終巻が、この物語の真骨頂であろう。
 弓成はそこで沖縄戦の真実に触れていくことになる。
 住民たちが集団自決した洞窟(読谷村のチビチリガマ)や、爆弾が雨あられと降り注いだ本島南部に足を運び、生き残った人から想像を絶する体験を聞く。
 米軍に集団レイプされた現地の女性から生まれ、父からも母からも捨てられた女性の苦しみに寄り添う。
 米軍統治下において先祖伝来の土地を収用された住民たちの怒りの声に耳を傾け、粘り強い奪還運動のさまを知る。
 また、1995年の3人の米兵による少女暴行事件と怒りの県民大集会、2004年の琉球大学キャンパスへの米軍大型ヘリ墜落事件を、リアルタイムで経験する。
 そこには、米軍そして日本政府から沖縄が被ってきた圧倒的な暴力と冷遇と無視の歴史がある。

 沖縄はつねに本土を守るための犠牲、人身御供になってきた。
 本土の大新聞社のエリート記者としてばりばりと特ダネをものにし、ある意味権力のお膝元で働いてきた弓成は、人生ではじめて挫折し、逃げるように沖縄にわたった。
 そこで現地の人々のあたたかさと美しい自然に触れて心の傷をいやし、沖縄の歴史と沖縄戦の真実を学び、人々の深い悲しみや怒りを知って、「語るべきこと」を見出し再生してゆく。
 これは一人の人間の成長の物語でもある。
 
 日本にある米軍基地の75%が集中している沖縄という島の現状と、そこで日々起きている様々な理不尽の因は、ひとえに戦後の日米間の不平等な関係にある。
 沖縄に犠牲を強いてきた政府もとい本土の人々の冷たさと無関心にある。
 戦後75年経つのに一向に改善できない、どころか緊張高まる東アジア情勢においてますます物騒な様相を呈している。
 沖縄戦で亡くなった20万を超える御魂も浮かばれまい。
 
さとうきび畑



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 国際通りの雄叫び

 昨晩から那覇にいる。
 国の旅行支援事業を利用して、3日間の戦跡巡り。
 今日は、平和祈念公園とひめゆりの塔、つまり最も被害の甚大だった南部の海岸沿いを巡った。

 後日、記事にまとめたいと思うが、とにかく身も心も疲れ果てて、今、宿に帰って風呂入って、床に伸びている。
 せっかく1万円分の自由に使える地域クーポンが手元にあって、名店並ぶ国際通りが目の前にあるというのに、外出する気力が湧かない。

 昨晩はワールドカップで日本がドイツに勝ったため、夜1時過ぎまで国際通りの若者たちの雄叫びが轟き渡っていた。
 おそらく夜通しどこかで祝勝会して飲むのだろう。
 ああいう時代も自分にもあったと思うにつけ、加齢を実感する。
 いや、むろん愛国心のことではない。若さのことだ。

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 コンビニで見つけたウコン入り活力剤を試してみた。
 効いてくれるといいのだが・・・。
 さんぴん茶は沖縄名物の一つだが、何のことはない、ジャスミン茶のことである。

 明日はまた重要な戦跡に行く予定。
 夜遊びをあきらめて、大人しく寝ることだ。

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ひめゆり平和祈念資料館の中庭


 

● 疲れの正体?

 昨晩はあんなにへたばったのに、今夜は元気もりもりだ。
 今日も一日中、那覇市内外を路線バスやタクシーやレンタサイクルを駆使して飛び回り、3つの戦跡巡りをしたというのに・・・。
 やはり、ウコンが効いたのか?
 
 思うに、「疲れた」は「憑かれた」なのだろう。
 昨日の南部海岸巡りでは、平和祈念公園はじめ、いろいろなところで手を合わせ祈り、沖縄戦を生き残った人たちの証言に耳を傾けているうちに、だんだん心と体が重くなった。
 しまいには、歩くのさえしんどくなった。

 その疲れは、丸一日山歩きしたときの疲れとは、まるっきり違う。
 考えたら、四年前には四国遍路で1400キロ歩き通したソルティである。
 今だって週に3回、500米弱泳いでいる。
 アラ還とはいえ、こんなにいきなり体力が落ちるはずがない! 
 何かを背負って宿に帰ってきたに違いない。
 よく覚えていないが、なんだか重苦しい夢を見た。

 夜通し降り続いた雨は、昼前に上がった。 
 雨が上がると共に体は軽くなり、旅の楽しさが実感されてきた。
 午後は、電動アシスト自転車でスイスイと那覇の海岸沿いを走り抜けた。
 波の上ビーチで潮風に当たったら、すっかりいつもの調子を取り戻した。
 夕食は沖縄家庭料理を堪能した。 


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波と遊ぶ修学旅行の生徒たち



 






● 天国と地獄

 沖縄3日めは、普天間基地を見に行った。
 オスプレイがカトンボのように並んでいた。
 人間というものは、作ったからには使う機会を作るものだ。
 戦争に勝つための武器から、武器を試すための戦争、武器を売るための戦争を必要とするようになる。
 オス(男の)プレイ(行為)は、そういう倒錯にはまりやすい。

 沖縄最後の夜は、庶民的な飲み屋が軒を連ねる安里に行った。
 ちょうどアメ横の飲み屋横丁のような感じだ。
 狙っていた居酒屋がいっぱいだったので、酔っぱらい浮かれ騒ぐ市場をうろうろしたあげく、海老料理専門店を見つけた。
 メニューのすべてが海老を使っている。
 ソルティのような海老好きにはたまらない店だ。
 海老めしと海老クリームコロッケと海老チンジャを頼んだ。
 海老アレルギーある人には地獄のような店。
 もちろん、海老にとっても。

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● 沖縄戦跡めぐり 1(健児の塔~平和祈念公園~ひめゆりの塔~魂魄の塔)

 本当は、地元の人が案内してくれる戦跡パッケージツアーに参加したかった。
 が、時期的にちょうど良いのがなかった。
 施設の場所や開設時間や交通機関などはネットで調べて旅程を立てることができるけれど、肝心の沖縄戦にまつわるエピソードや見るべきポイントなどは、やはり詳しい案内がほしいところ。
 どうしようかと思っていたら、近所の図書館で恰好の本を見つけた。
 大島和典著『歩く 見る 考える 沖縄』(2021年高文研発行)。 
 
大島和典『沖縄』

 1936年香川県生まれの大島和典氏は、四国放送で技術や制作の仕事に携わり、退職後に沖縄移住。
 沖縄戦の研究をはじめ、米軍基地建設反対運動の記録を撮りビデオ作品として発表するほか、戦跡を案内するガイドツアーを10年以上(計1000回以上)つとめてきた。  
 その背景には、大島氏の父親が沖縄戦に出兵し、激戦地の南部で戦死したという事情があった。
 当時、父親は33歳、和典氏は小学3年生だった。
 本書は、大島氏が修学旅行生相手にいつも行なってきた、自身の思いや願いのこもった戦跡ガイドを、語り口調そのままに収録したものである。
 取り上げられている場所は、ひめゆりの塔、平和祈念公園、魂魄の塔、米須海岸、嘉数高台、安保の見える丘。
 まさに最適のガイドブック。
 出発前に2回通読し、見るべきポイントを頭に入れた。
 さらに、沖縄に詳しい友人に尋ねたところ、南風原文化センター(沖縄陸軍病院壕)や集団自決のあったチビチリガマ、辺野古座り込みテントなどもすすめられた。
 3日間ですべてを回るのは時間的にも体力的にも無理なので、今回は南部を中心に回ることにした。

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平和祈念公園から臨む島南端の海岸
 
日時 2022年11月24日(木)
天候 曇り一時雨
行程
 8:50 開南バス停(50番バス乗車)
 9:43 具志頭バス停(82番バスに乗り換え)
 9:53 健児の塔入口下車
     健児の塔~平和祈念公園~平和祈念資料館
12:52 平和祈念堂入口バス停(82番バス乗車)
13:00 ひめゆりの塔前下車
     昼食~ひめゆりの塔~ひめゆり平和祈念資料館~魂魄の塔
16:43 ひめゆりの塔前バス停(82番バス乗車)
17:00 糸満バスターミナル(89番バスに乗り換え)
18:00 那覇バスターミナル

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宿最寄りの開南バス停で地元の人に雑じってバス待ち
桃色のマニキュアを塗った女性の爪のようなトックリキワタの花があでやか
アオイ目アオイ科の落葉高木である

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乗り換えのバス待ち
純白の漆喰で塗り固めた赤瓦屋根
沖縄らしい民家の軒先に旅情を感じた

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健児の塔
沖縄戦に召集され命を失った沖縄師範学校の教師と生徒319名が祀られている
1946年3月建立

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ひめゆり女子学徒たち同様、学校のあった中部から南部へ移動し、海岸に追いつめられたあげく、非業の死を遂げた。

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このあたりの地形は険しい
こうした岩陰に隠れて米軍の攻撃から身を守ったのだろう

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平和祈念公園全景
くまなく見るには丸1日は必要とする広さと深さ

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国立沖縄戦没者墓苑
この地域には各県の戦没者慰霊碑が並んでいる
沖縄戦で亡くなった日本兵は、県外出身約6万6千人、県出身約2万8千人
犠牲となった一般県民約9万4千人と推定される(県資料による)

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平和の礎(いしじ)
国籍や敵味方、軍民の区別なく、沖縄戦で亡くなった20万人余の氏名を刻んだ記念碑

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朝鮮半島の人たちの礎
上記の大島氏の本によると、1万3千~4千人の朝鮮人が沖縄戦のため半島から連れて来られ、1万1千~2千人が亡くなったという
だが、ここに刻まれている名前はたった500名弱
その理由は推して知るべし

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平和の火
米軍が最初に上陸した沖縄県座間味村の阿嘉島で採取した火、広島の平和の灯(ともしび)、長崎の誓いの火、3つの火を合わせ、1995年6月23日「平和の礎」除幕式典において点火された。

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平和の火を囲む修学旅行の小学生たち
子供たちが真剣に学んでいるのを見るとホッとする

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ギーザパンダ(慶座集落の崖)
平和の火がある広場から見える風景
米軍はあの崖をスーサイドクリフ(自殺の崖)と呼んだ
日本国民は捕虜になるより自決せよと教え込まれていた

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公園内にあるガジュマルの木
遺体の集積場、焼却場があった場所
今でも土の中から銃弾や砲弾の破片が見つかるという

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沖縄県平和祈念資料館
生き残った人々の証言が圧巻!
広島および長崎の原爆資料館とともに生涯一度は訪れておきたい
とりわけ政治家と国家公務員は!

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資料館の展望室から見る景色
77年前にここに地獄が現出した

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平和への道はない
平和が道である
(マハトマ・ガンジー)

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ひめゆりの塔
大島氏によると、目の前にある「優美堂」のサーターアンダーギーは日本一
たしかに外はカリッと中は栗のようにほっこり、豊かな味わいだった

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看護要員として動員されたひめゆり学徒は、軍とともに中部から南部に移動
教師13名、生徒123名が亡くなった
第三外科壕として当てられたこのガマ(鍾乳洞)は最も死者が多かった

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こちらが最初に作られたひめゆりの塔
娘をここで失った金城和信氏が1946年4月5日に建てた

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ひめゆり平和祈念資料館(1989年6月23日設立)
生き残った元ひめゆり学徒たちの手によって設立された。
沖縄陸軍病院(南風原)における生徒たちの必死の救護活動、第三外科壕の模型、亡くなった生徒や教師たち一人一人の名前や写真、生き残った人々の証言など、戦火を生きた少女たちの姿が見え、声が聴こえてくる。
無事に生き残ったことがこれほど彼女たちを苦しめるとは!

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「戦争はいつも身近にあったのに、本当の戦場の姿を私たちは知らなかった」という元ひめゆり学徒の言葉が突き刺さる。本当の戦場の姿を知らぬままに、「天皇陛下、万歳」の軍国少女に仕立てられていったのだ。(資料館の前庭に咲くベンガルヤハズカズラ)

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資料館の中庭
見聞した事柄について、ゆっくり考えたり、気持ちを整理したり、共感して苦しくなってしまった心を和らげたりするのに恰好の場である

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魂魄(こんぱく)の塔
ひめゆりの塔から1.5kmほどの海岸沿いにある
戦後このあたりの至る所に散乱していた遺骨を集め、その上に建てられた。
3万5千人の遺骨が収められているという

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糸満バスターミナルへ向かうバスの中から
この日、沖縄の海は哀しい色をしていた



 

● 沖縄戦跡めぐり2(沖縄陸軍病院南風原壕群~旧海軍司令部壕~対馬丸記念館)

 レンタカーを使わずに沖縄を旅するのはなかなか大変である。
 タクシーを借り切るという手もあるけれど、予算的な問題は別として、ソルティは自分が施設見学している間、運転手を待たせておくというのがどうも苦手である。
 誰にも気兼ねせず、時間の許す限り見学したい。
 となると、路線バスを上手に活用することになる。
 
 沖縄戦跡めぐりに行くと決めてから、沖縄バスマップを取りよせて路線と停留所を調べ、ネットで時刻表をダウンロードし、綿密な移動計画を立てた。
 乗り換えが必要となる場合、接続が上手くいかないと次のバスまで1時間以上待たねばならないこともあるので、事前に調べておく必要があるのだ。
 それはしかし、手間というより楽しい作業であった。
 自室の床にバスマップと時刻表とガイドブックを広げ、いろいろと計画を練っている時間はすでに旅の一部、浮かれモードである。
 路線バスの利点は他にもある。
 土地の人を観察したり触れ合う機会になるし、車窓からの景色を存分に楽しむことができる。
 方言が飛びかう停留所や車内こそが、地方色を感じさせる。
 実際、座席シートから綿がはみ出したおんぼろバスがいまだに走っているのは愉快であった。

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バスマップとOKICA
沖縄のSUICAであるOKICAは
ゆいレールとほとんどの路線バスで使える。
小銭の用意しなくて済むのでほんと便利!

 もっとも、路線バスだけではうまく回れない地点もあった。
 そこはタクシーをつかまえて最短距離で移動した。
 あるいは、那覇市内であれば奥の手があった。
 シェアサイクルである。 
 ソルティは HELLO CYCLINGというシェアサイクルのネットワークに会員登録しているので、全国どこでもサイクルステーションがあるところならば、好きな時に電動自転車を借りることができる。
 調べてみたら、那覇市にはたくさんのステーションがあった。
 施設見学した後で最寄りのステーションまで歩いて自転車を借り、次の目的地までサイクリングする。
 自転車が必要なくなったら、そこから一番近いステーションに返却すればいい。 
 これならバス停でバスを待つ必要もないし、タクシーを探す手間も省ける。
 那覇名物の渋滞も関係ないし、駐車にも困らない。
 なにより見知らぬ街を風を切って自転車で走るのは最高に気持ちいい!
 (もっとも、酷暑の時節や雨風の強い日は快適とはいかないが・・・・) 
 これまで自宅周囲で利用していたシェアサイクルであったが、観光でも使える実に便利で快適なシステムであることを実感した。
 旅先でのシェアサイクル。今後大いに活用したい。(京都市内なんかも楽しそうだ)
 ちなみに、自転車でも飲酒運転はNGである。

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ハイビスカス


日時 2022年11月25日(金)
天候 曇り
行程
 9:40 開南バス停(309番バス乗車)
10:00 福祉センター入口下車
         沖縄陸軍病院南風原壕(南風原文化センター)
13:15 南風原町役場前よりタクシー乗車
13:30 旧海軍司令部壕
15:00 最寄りのサイクルステーションにて自転車レンタル
15:30 対馬丸記念館
17:00 波上宮~波の上ビーチ
18:00 沖縄家庭料理「まんじゅまい」にて夕食
19:30 国際通りにて自転車返却

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南風原(はえばる)文化センターと黄金森(こがねのもり)
1944年10月、那覇市内にあった沖縄陸軍病院が米軍の空襲により焼失し、南風原国民学校校舎に機能を移転した。
米軍の攻撃が激しさを増した1945年3月、日本軍は住民の力を借りて近くの黄金森に約30の横穴壕を掘り、壕の中に患者を収容した。
看護婦として動員されたひめゆり学徒222人と教師18人がここで働いた。
その様子は吉永小百合あるいは津島恵子主演の映画『ひめゆりの塔』に描かれている。

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飯あげの道
飯あげとは、炊きあがったご飯などを樽に入れて炊事場から各壕(病棟)へ運ぶこと。
当時、黄金森は一面の茅畑で空から丸見えだった。ひめゆり学徒たちは爆撃の下、重い樽を下げた天秤棒を二人で担いで、急な山道を上り下りした。

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悲風の丘の碑
1945年4月1日米軍が沖縄本島中西部に上陸し、本土決戦が始まった。
日本軍は首里司令部を占拠され、南部への撤退を余儀なくされる。
5月下旬、南風原陸軍病院にも撤退命令が下される。
その際、移動できない重症患者には青酸カリ入りのミルクが配られた。
(題字は沖縄返還時の首相だった佐藤栄作の手による)

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沖縄陸軍病院壕址
黄金森に約30の壕(トンネル)がつくられ、多い時は約2000人の患者が収容された。
もとからあった鍾乳洞を利用した壕(ガマ)ではなく、鍬やつるはしを使って一から掘ったものである。
戦後、壕の中からはたくさんの人骨が見つかった。

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丘全体が今ではすっかり南国らしい瑞々しい森におおわれている。
これらの樹々の下にまだ多くの白骨化した遺体が埋まっているという。

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20号壕入口
現在ガイド付きで見学することができる唯一の壕。
長さ約70m、高さ約1.8m、床幅1.8m、病室・手術室・勤務者室などがあった。
見学者には、ヘルメットと長靴と懐中電灯が渡される。

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壕の中からは、多数の医薬品類、患者の石鹸箱や筆箱や着物、ひめゆり学徒のものと思われる文具などが見つかっている。
少女たちは、まさか病院が攻撃される、まさか日本が敗けるとは思わず、はじめのうちは半ば遠足気分で働いていたという。

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壕の中
負傷した何十人もの兵士の発する体臭、腐敗しウジ虫のたかる患部、消毒薬、汗や尿や便・・・。
壕の中は何とも形容し難い匂いが立ち込めていたという。
その中をひめゆり学徒たちは瀕死の患者らに呼ばれて走り回った。

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ひめゆり学徒たちの休憩所
食事の運搬と配布、シモの世話、清拭、患部の消毒や包帯の交換、手術(と言っても患部の切断が主)の手伝い、患者の移動や寝返りの手伝い、ウジ虫の除去、亡骸の運搬と埋葬・・・。
まともな設備も医療用具も、十分な水や食糧もない中で、どれだけしんどかったことか。
だが、本当の地獄はここを離れた先にあった。

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20号壕の出口
壕の見学は事前予約が必要。
この日はソルティのほか沖縄長期滞在中の60代くらいの夫婦一組。
ここはガイドブックにはまず載っていないが、ぜひとも訪れたい戦跡の一つである。
(ここを勧めてくれた友人に感謝)

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町立南風原文化センター
南風原の沖縄戦の経緯、沖縄戦後史、ハワイや北米や南米への移民事情、昔の沖縄の暮らしなどが展示されている。
上記は黄金森の病院壕を再現したもの。1.8m幅の横穴の半分は、一人一畳分の患者の寝台が並び、もう半分が通路になっていた。

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黄金森の全景

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米軍の投下した砲弾
これが地上で炸裂し、半径数百メートルに灼熱の鉄の破片が猛スピードで飛び散った。

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これと竹槍で闘う?
なんという御目出度さだ!

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1955年(昭和30年)の国際通り
「荷馬車、三輪車、バス、タクシーが共存」とある。
むろん返還前。自動車が右側通行なのに注目。

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南風原町役場
南風原町は、県内で唯一海に面していない町。
それゆえ、軍関係の施設が多く集められたのだ。
ここからタクシーを拾って次なる戦跡へ。

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旧海軍司令部壕
1944年、地域の住民を駆り出して掘られた壕に海軍司令部を設置した。
壕内に入って見学できるほか、旧日本海軍に関する資料や銃器や軍服、家族への手紙などが展示されている資料館がある。

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ビジターセンター
那覇市の南西の小高い丘(豊見城)に位置する。
ここから資料館と壕のある階下へ降りていく。

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ビジターセンターからの風景

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東シナ海を望む

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壕への入口
南風原の壕にくらべると実に立派で頑丈なつくり

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壕内見取図
まるでアリの巣のよう。
全長450mあったと言われている。

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カマボコ型にくり抜いた横穴をコンクリートと杭木で固めてある。

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司令官室
司令官であった大田實少将はじめ幹部6人は、1945年6月13日に壕内で自決した。
実際に沖縄戦で戦死者が増えたのはそのあとである。

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幕僚室の壁
幹部たちが手榴弾で自決した時の破片のあとが残っている。

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下士官室
寝台の木枠の残骸が残っている

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旧海軍司令部壕は大概のガイドブックに載っているので、観光客が絶えなかった。
それも外国人や団体客が多かった。(自衛官や米兵らしきマッチョもいた)
ここは、「日本軍がどれだけ潔く戦ったか」「兵隊さんがどれだけお国のために尽くしたか」「沖縄県民がどれほど立派に最後まで闘い抜いたか」を強調し称揚するための施設という感じ。
自決するくらいなら最後まで住民を守ってくれよ!

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旧海軍司令部壕の脇にある沖縄様式のお墓
墓室の屋根が亀の甲の形をしているので亀甲墓(きっこうばか、カーミナクーバカ)と呼ばれる。
17世紀後半頃より作られるようになったという。
沖縄戦では多くの墓が破壊された。

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シェアサイクルで海岸沿いを疾駆する

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対馬丸記念館
1944年8月22日の深夜、学童疎開の子供たちを乗せて那覇港を出港した対馬丸は、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した。
乗船していた1788名のうち1484名(うち学童784名)が命を失った。

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犠牲者の遺影や遺品のほか、当時の学校生活を偲ばせる教科書や文具や玩具、奇跡的に助かった人々の証言映像などを見ることができる。

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亡くなった子供たちの写真が壁を埋め尽くす。
出港する子供たちは修学旅行のようにはしゃいでいたという。
沖縄の海はすでに米軍の支配下にあったが、子供たちは日本の勝利を信じていた。

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波上宮(なみのうえぐう)
創建不詳。日本神話に出てくる神々が祀られているが、もとはニライカナイ(海の彼方の理想郷)の神々に祈りを捧げる聖地であった。

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本殿
正面からは分からないが、岩の上に立っている。

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岩の上に立つ波上宮
ビーチでは修学旅行の高校生がはしゃいでいた。

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沖縄家庭料理の店「まんじゅまい」で夕食
オリオンビール、まんじゅまい(パイナップル)炒め、ピタローのバター焼き、豆腐よう
どれも優しい味で美味しかった!











● 沖縄戦跡めぐり3(嘉数高台~佐喜眞美術館)  

 宿は国際通りから東に伸びる浮島通りにあった。
 ゆいレールの県庁前駅から歩いて10分、最寄りのバス停には5分、コンビニには2分。
 どこに行くにもまったく便利な位置でありながら、国際通りに面していないので静かだった。
 ホテルや旅館ではなく、普通のマンションの一室(1K、バストイレ付)を宿として提供しているので、滞在中は自宅にいるような気分で、とてもくつろげた。
 もちろん、フロントも食堂もルームサービスもない。
 他の宿泊客と顔を合わせることもなかった。

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清潔で明るくゴロ寝ができる部屋

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火は使えないがキッチンもついている

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ボディソープ、シャンプー、タオル、ドライヤーも完備

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電子レンジ、オーブントースター、冷蔵庫あり

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真綿色の照明と南国風の飾り布が安らぎを演出
また泊まりたい宿である。

 3日目は那覇から北上して宜野湾市に行った。
 米軍の普天間飛行場を間近に見下ろせる嘉数高台(かかずたかだい)に登った。
 そのあと、1992年に米軍に返還させた土地に建てられた佐喜眞美術館に足を運んだ。
 ここには、広島「原爆の図」で有名な丸木位里・俊夫妻の描いた「沖縄戦の図」が展示されているのだ。
 本日は当地に住む知人が車を出してくれた。

日時 2022年11月26日(土)
天候 曇り一時雨
行程
 8:00 国際通り
 8:20 嘉数高台
10:00 佐喜眞美術館
12:30 国際通り

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早朝の国際通り
怪しい空模様

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国際通りのPCR検査センター
ソルティは地元市役所発行の4回目ワクチン接種証明書を持参して沖縄入りした。

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嘉数高台公園
標高84.3メートル、東西に伸びる約1キロの丘である。
沖縄戦の最初にして最大の激戦地となった。
1945年4月1日に中部西海岸から上陸した米軍がここを抜くのに16日間を要した。
戦死傷者は日本軍 64,000人、アメリカ軍 24,000人、住民の半数以上が亡くなった。

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弾痕のある塀
民家の豚小屋の外にあった塀と言われる。

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日本軍の陣地壕
高台の南斜面にある

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壕の中
米軍の空爆が終わると、ここから飛び出て北側から攻める敵に反撃した。

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地球デザインの展望塔

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北側に広がる普天間飛行場
宜野湾市の1/4を占める

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オスプレイ
展望台で出会った地元のジョガーマンによれば、飛行場の騒音はとくに基地の南側と北側で喧しいのだそう。(彼は東側に住んでいる)

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北西に残波岬を望む
1945年4月1日、米軍はこの湾一帯から上陸を開始した。
岬の突端に集団自決のあった読谷村のチビチリガマがある。

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南に前田高地を望む
嘉数が米軍に占拠された後、次の激戦地となった。
これもジョガーマンからの情報だが、2016年にメル・ギブソン監督が撮った『ハクソー・リッジ』という映画は、前田高地の戦いを描いている。
Hacksaw Ridge とは「弓鋸の崖」の意。 

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北東に沖縄国際大学を望む(右上端のオレンジの建物群)
2004年8月13日に米軍の大型ヘリコプターが構内に墜落、爆発、炎上した。
幸い夏休みだったため、学生はいなかった。

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日本軍の作ったトーチカ(入口側)
トーチカ(tochka)はロシア語で「城塞」の意。
コンクリートや鉄板で作った陣地のこと。
高台の北斜面にある。

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トーチカの内部
結構広い
くり抜いた穴から銃を出して敵を狙った。

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北側(敵面)の風貌
弾痕が無数にある

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京都の塔
ここで亡くなった62師団の多くの兵士が京都出身であったことから、1964年に建てられた。
「再び戦争の悲しみが繰り返されることのないよう、また併せて沖縄と京都とを結ぶ文化と友好の絆がますますかためられるよう、この塔に切なる願いをよせるものである」(碑文より)

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北斜面にあった亀甲墓
原型をほとんど失っている。
頑丈で中の広い亀甲墓はトーチカや防空壕として利用された。

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普天間飛行場返還後の跡地利用計画が進んでいる。
飛行場の地下には、観光資源となる大きな鍾乳洞が3,4ヵ所もあるという。
嘉数高台は沖縄の過去、現在、未来を見ることのできる場所なのだ。

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嘉数高台公園でゲートボールに興じる高齢者たち

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佐喜眞美術館
嘉数高台から基地の東端に沿って約4km北上したところ(上原)にある。
1994年11月23日開館。
館長である佐喜眞道夫のコレクションを中心に展示している。
戦争で息子と孫を失ったケーテ・コルヴィッツというドイツの女性画家と、20代を軍隊で過ごした浜田知明(1917-2018)という日本の版画家の作品が展示されていた。
丸木夫妻の「沖縄戦の図」は言葉で表現しようがない。
沖縄に行ったら絶対に見ておくべき!

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美術館のすぐ隣は普天間基地すなわち治外法権区域

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緑の多い美しい美術館である
庭には亀甲墓(1740年ごろ建立)や県立盲学校生徒たちのユニークな作品などが展示されている。

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美術館の屋上から東シナ海を望む
びっくりしたのだが、基地の周囲は深い森に囲まれていた。

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ソルティが訪れた時、ちょうど埼玉から修学旅行生が来ていた。
これ幸いと教員の振りして、「沖縄戦の図」を前に、生徒たちと一緒に佐喜眞館長の話を聴かせてもらった。曰く、
「投降して捕虜になったら、男は戦車の下敷きにされ、女はなぶりものにされる。そう言って日本軍は住民たちに自決を迫った。なぜそんなことを言ったのか。おそらく、日本軍がまさにそうしたことを大陸で中国人や朝鮮人相手に行っていたからだろう。自分たちがやったことを敵もやると考えたのだ」
ソルティもその可能性を思っていた。
関東大震災時の朝鮮人虐殺の扇動者となった自警団の男たちもまた軍役経験者が多かった。
人は自分の物差しで他人を測るのだ。

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嘉数高台の展望塔の屋根の下にいたちょうどその時、豪雨来襲。
宜野湾市だけに降っているようであった。
10分ほどして雲が行き過ぎると、晴れ間がのぞいた。
いろいろ教えてくれたジョガーマンはびしょぬれになったことだろう。
(沖縄の人は傘を差さないというから慣れっこか)













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