ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

  貴志祐介を読む

● 「ちょっとふりむいて見ただけ」の殺人  本:『悪の教典』(貴志祐介著)

2010年文藝春秋

 失業中の昼夜逆転の生活からなんとか脱したいと意図するも、こういう小説に当たってしまうと、もろくも潰えてしまう。
 上下巻、まるまる一昼夜通しで読んだ。猟銃による生徒40名大量殺戮の一夜を描く下巻途中からは、コーヒーブレイクも許さない圧倒的吸引力。このサスペンスフルな体験は、高校時代にクリスティの『そして誰もいなくなった』を読んだとき以来かもしれない。どちらも皆殺しへのカウントダウンが、おぞましくもファナティックな燦然たる効果を生んでいる。
 読み終わって時計を見たら、朝6時だった。


悪の教典


 英語教師・蓮実聖司が、自ら勤務する私立高校を舞台に実行する猟奇殺人の一部始終が描かれる。
 著者貴志祐介の該博な知識とストーリーテリングの上手さ、なによりも時折差し込まれるブラックジョークの秀逸なる出来栄えに感嘆惜しまず。実際、殺戮シーンで爆笑すること数回あった。

 最後の一人となった生徒が自ら命を絶ったのを発見した蓮実教諭は、出番を失った猟銃片手にこう独りごちる。
 
 最後にクラスから自殺者を出してしまったことは、担任として残念でならなかった。射殺されるのは、事故と同じでほぼ不可抗力である。しかし、自ら命を絶つ、生き延びる努力を放擲するというのは、現在の教育が抱える何か根本的な問題に起因しているような気がした。


 2012年公開の三池崇史監督の映画では、正統派さわやかイケメンの伊藤英明が主役を演じていたが、まさに蓮実は見た目そのとおりの人物である。教師として有能で、生徒からも同僚からも管理職からもPTAからも信頼され慕われている。しかし、その本性は、自分にとって邪魔なものを排斥するのになんら痛痒も感じない稀代のサイコパスだった。

 このサイコパスぶりがすごい。
 人並みの感情を持ち合わせず、世間一般の善悪や倫理の観念に縛られない「自由な」男、彼を律するは強固な生存本能と快楽主義のみ。目的達成のためには、コンピュータのような解析力と正確さで瞬時に情報処理し、いささかの躊躇も不安もなく俊敏に行動に移るさまは猛禽そのもの。
 まったくお見事!
 蓮実に匹敵するキャラをフィクションの中で探すなら、トマス・ハリス原作『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクターかエイリアンだろうか。あるいは――あるいは、ぐっと遡って、アルベール・カミュ作『異邦人』のムルソーか。

 思うに、近代以後の名だたるサイコパスの産ぶ声は、『異邦人』冒頭のムルソーのセリフ「きょう、ママンが死んだ」ではあるまいか。母親の葬式の日に行きずりの女を抱き、「太陽がまぶしかった」から人を殺した冷酷非道なムルソーは、現代心理学的に言えば明らかにサイコパスであろう。
 この種の人間は、おそらく何万人に一人かの割合で遺伝子学的要因により誕生するのかもしれない。だから、親の育て方がどうの、生育環境がどうの、教育や福祉制度がどうの、政治がどうのと言ったところで防げないのではあるまいか。(仏教なら因縁と言ってしまうところだが)
 
 『異邦人』が今でも読み継がれ、20世紀の古典の地位を確立していることが示すように、我々凡人は完璧なサイコパスに対して恐怖や無理解と共に、奇妙な羨望や憧憬を抱く。ハンニバル・レクターや蓮実聖司の予測不可能な言動や周囲の人間を思いのままに操る人心掌握術に強く惹かれ、知らぬ間に目的達成を応援している。むろん、自分たちが読者という安全地帯にいるからであるが。
 ソルティもそうであったが、『悪の聖典』の読者はおそらく、深夜の校内における担当クラス殲滅シーンで、蓮実と一緒になって生き残っている生徒の数をカウントダウンしてしまうことだろう。蓮実が警察に逮捕される結末にホッと安堵して善の勝利に快哉を上げるよりは、精神障害者を装った蓮実が裁判を引き延ばし、ハンニバル・レクターのように鮮やかに脱獄を果たし、次の殺戮ゲームのために社会に戻ってくることを、つまり続編のあることを願っている自分に気づくことだろう。
 絶対的な悪であるサイコパスは、絶対的な善である神と同じくらい、魅惑的なのである。(ムルソーの言う「太陽」とは「なんの影も持たない絶対性」のことではないか)


太陽

 
 我々凡人は、社会の決めたルールや制度やしきたり、親や世間やメディアの押し付ける価値観や倫理、そして論理では割り切れない喜怒哀楽や義理人情や罪悪感といった感情によって、二重にも三重にも世間に縛り付けられている。おそらくそれらは、はるか昔に動物としての本能の壊れた人類が、互いの安全と種の存続を守るために開発した安全装置なのだろう。
 安全装置は我々を護ってくれるシステムであるけれど、同時に、我々を閉じ込める窮屈な檻でもある。その安全装置に適当なガス抜きが用意されていない場合は、窮屈さは募る一方だ。
 檻の存在に気づき、檻の中で窒息しそうになっている先進諸国の現代人にとって、檻の外で自由を謳歌しているサイコパスの姿がひときわ輝いて見えるのは、理に適っている。


格子の外で、お母様、小母さま、あの人は何と光ってみえますこと! この世でもっとも自由なあの人。時の果て、国々の果てにまで手をのばし、あらゆる悪をかき集めてその上によじのぼり、もう少しで永遠に指を届かせようとしているあの人。アルフォンスは天国への裏階段をつけたのです。(三島由紀夫『サド侯爵夫人』)



 
評価: ★★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損



● サクッ! 本:『雀蜂』(貴志祐介著)

2013年角川ホラー文庫

 『悪の教典』に続く貴志祐介2作目。

 やっぱり、うまいなあと感心する。
 スティーヴン・キングばりの巧みなストーリテリングとサスペンスの盛り上げが光る。スズメバチとの闘いで最後まで一気に引っ張る筆力はさすがである。トリックも楽しめた。
 たとえば、新幹線で移動中の手持ち無沙汰のとき、サクッと読むには手頃な本である。

 ところで、蜂に刺された応急処置として「オシッコ(アンモニア)をかけると良い」と子供の頃に聞いたが、これは迷信とのこと。蜂の毒にはアンモニアは効果がないし、そもそも人の尿にはアンモニアは含まれていないのである。

スズメバチ


評価: ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 現代推理小説の受難 本:『硝子のハンマー』(貴志祐介著)

2004年角川書店

 『悪の教典』『雀蜂』に続く貴志祐介第3弾。第58回日本推理作家協会賞受賞作。 

 密室殺人の謎を解くという点では本格推理小説であり、後半の真犯人の犯行に至る経緯と心理、実行の様子を描いた点では倒叙形式ということができる。作者の筆の冴えるのはまさにこの後半、つまり悪者が主人公となっている部分である。『悪の教典』で分かるように、貴志祐介はピカレスクロマン(悪漢小説)の名手なのだ。何と言っても、この小説の探偵役ですら、防犯ショップ経営者の顔をした泥棒なのだから。毒を持って毒を制すである。

 殺人方法が秀逸である。
 ソルティは物理学に(ビリヤードにも)疎いのであるが、これは実際に可能なのだろうか? 物理学者の意見を聞きたいところである。本書中に、専門家による説明の場面を入れるとなお説得力あった。

探偵

 
 それにしても、貴志祐介の該博な知識と徹底した取材や調査の姿勢には脱帽する。一編の小説を書くために、ピッキングや競馬や窓ガラス工事や監視カメラに関する専門家並みの知識を身につけるのは、何と大変な気の遠くなる作業か。好奇心だけではなかなか続くまい。
 現代は推理作家にとって受難の時代だと思う。犯罪捜査一つとっても、様々なことがあまりにも高度に専門的になり過ぎて、あまりにも工学的・科学的・IT的になり過ぎて、そしてすべてがあまりにも短時間で変化し過ぎて、余程の頭脳の持ち主でなければ現場の最先端の様相をカバーしきれまい。
 たとえ、専門家に教えを乞うて正確な知識を得たとしても、今度はそれを読者に説明する段階で困難が生じる。推理小説を愛好する読者の平均的な理解力――そんなに高いと思われない。どちらかと言えば理系より文系が多いだろう――に合わせて、わかりやすく説明しなければならない。畢竟、叙述が煩瑣になりがちになる。すると、大方の読者は「つまらない」と離れて行ってしまうだろう。

 その意味で、ソルティはやっぱり一昔前のミステリーに愛着がある。科学捜査がせいぜい指紋の照合や血液型の一致くらいで済むような時代のミステリーに。
 別の観点から言うと、安楽椅子探偵が成り立つ時代、謎解きの中心が探偵の「パイプの紫煙」や「灰色の脳細胞」に大きく依存している時代である。
 この作品における貴志祐介の専門知識の生かし方や読者への説明の仕方は卓抜だと思うけれど、それでもなお、ピッキング方法や窓ガラスの取り付けに関する描写など、十分仕組みを理解できないまま、読み進めざるを得ない部分が多い。なんとなく置いてけぼりにされた気持ちが残る。
 
 一方で、犯行の心理に関して、疑問符がついた。
 真犯人がダイヤモンドを盗もうとする動機は分かる。しかるに、私怨のない人間に対してあえて殺人までする必要があったのだろうか? そこがどうも弱いように思われる。
 また、密室を構成する状況にあったとは言え、くだんの部屋のドアには鍵が掛かっていない。昼休みのフロアには他に人がいる。いつ物音を聞きつけてやってくるか分からない。そんな状況下でこれだけ手間のかかる殺人をリハーサルもなしに犯すのは、ちと不自然であろう。むしろ、最初から被害者のコーヒーに致死量の睡眠薬を仕込むほうが楽だし、安全であろうに。
 
 ソルティは、科学的・物理的な整合性よりも、人間の心理における整合性のほうを、ミステリーには望むものである。



評価: ★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損


● 本:『新世界より』(貴志祐介著)


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2008年講談社

 遠未来SF。
 舞台は1000年先の日本。人類がとてつもない念力を持ち、神のごとく君臨する世界で、一見平和な共同体に襲いかかった悪夢のような惨劇を描く。

 上下巻で1000ページを超える大作であり、独特な世界の説明に費やされる最初の200ページは、「やや退屈」というネット上のコメントもあった。
 が、読み始めたらたちまち引き込まれ、時を忘れる面白さ。
 寝不足にならないよう、巻の変わり目や章の終わりで、ページをめくる手に強制停止かける必要があった。

 『悪の教典』、『硝子のハンマー』、『雀蜂』などで、貴志のスリルとサスペンスを盛り上げるストリーテリングの卓抜さ、幅広い知識と取材力、リアリティ生みだす描写力、冴えたブラックユーモア、読者へのサービス精神(ほどよいエロシーン挿入)などは存分に知っていた。
 虚構世界を描いたこのSFでは、上記に加え、さらに貴志の天才的な想像力と創造力に瞠目させられた。

 未来世界を生きる風変わりな動物や昆虫たちの生態描写が、とにかく面白い。
 蟻のように女王を中心とした社会をつくり人間に対してはひたすら従順なバケネズミとか、偽の巣と偽の卵をつくってそこに托卵するカッコウなどの卵を狙うカヤノスヅクリ(傑作!)とか、ウミウシから進化したミノシロという生き物を擬態しつつ野外生活し国立国会図書館つくば館の4000万冊という図書データを保存しているミノシロモドキとか、「どこからこんな発想が出てくるのか」と感心してしまった。
 このマニアックなまでの想像&創造力で連想されたのは、天下の奇書たる沼正三作『家畜人ヤプー』であった。(これは最大の賛辞であろう)

 この小説は、漫画やテレビアニメになっているらしいので、これらの生き物をヴィジュアルで確認してみたい。
 自分が小説家だったら、嫉妬で呼吸困難に陥りそうなエンターテインメントの傑作である。
 



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● バングルバングル 本:『クリムゾンの迷宮』(貴志祐介著)

1999年角川ホラー文庫

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 クリムゾン (crimson)とは濃く明るい赤色で、若干青みを含んで紫がかる。英国では伝統的に血の色と関連付けられ、暴力・勇気・苦痛を連想させるという(ウィキ『クリムソン』による)。

 本作は、勇気はともかく、暴力と苦痛だけはイヤって言うほど描かれるサバイバル・ホラー。
 『悪の教典』にしろ『新世界より』にしろ、ゲーム感覚な非ヒューマニズム生き残りストーリーを書かせたら、貴志祐介に勝る作家はおるまい。
 いや、極限状態におかれた人間の姿こそがもっとも人間の本質に近い――という意味では純ヒューマニズムなのか?

 藤木芳彦がふと目を覚ますと、雨天の下、クリムゾンの奇岩に囲まれた異様な世界に放置されていた。
 いったい、ここはどこだ? 俺に何があったんだ?
 傍らに置かれている携帯用ゲーム機を作動させると、メッセージが現れた。
「火星の迷宮へようこそ。ゲームは開始された」
 藤木は、自分と同じようにわけもわからず拉致された他の日本人8名と合流するのだが、それは血で血を洗う凄惨な殺戮ゲームの始まりに過ぎなかった。

 このおぞましいサバイバルゲームが展開される舞台となるのは、火星ならぬオーストラリアのパーヌルル国立公園。その広さ 239,723 ヘクタール。
 日本で一番小さい香川県が 187,700ヘクタール。大阪府に次いで3番目に小さい東京都は 219,100ヘクタール。
 東京都がすっぽり入る公園を埋め尽くす褐色の縞模様の奇岩群――それがバングルバングル
 もちろん世界自然遺産である。

バングルバングル
バングルバングル

 作品発表時(99年)には日本人にほとんど知られていなかったパーヌルル国立公園に関する貴志祐介の綿密な取材ぶりに感心する。

 世界は広い。
 自然はきびしい。 
 そして人間は恐い



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● 輪廻転生ミステリー 本:『我々は、みな孤独である』(貴志祐介著)

2020年角川春樹事務所
2022年文庫化

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装画:日田慶治 装幀:鈴木久美

 貴志祐介の本はこれで6冊目(検索カテゴリーを立てた)。
 やっぱり面白い。
 奇抜なプロット、緻密なリアリティ、抜群のストーリーテリング。
 いったん読み始めたら、またたく間に作品世界に入り込んでしまい、寝不足必死になる。
 本書も22時半に、布団の中で寝落ちを目論んでページを開いたが最後、気がつけば深夜1時を回っていた。
 このまま読み続けたい。
 でも、明日の仕事が・・・。
 人と会う約束が・・・。
 生皮をはがすような決心で、しおりを挟んで、文庫本を遠くに放り投げた。 

 本小説をジャンル分けするなら、「スピリチュアル・バイオレンス・ミステリー・サスペンス」といったところ。
 スピリチュアル(精神世界)とバイオレンス(暴力)という、両立しそうもない分野が共存しているところに、貴志祐介らしさがある。
 しかも、貴志の描くバイオレンスは、ありきたりの暴力ではない。
 サディスティックで悪趣味な、読みながら身体の末端に痛みを感じるような暴力である。
 ソルティは、あまりに過激な暴力描写は好まないので、正直、途中でげんなりした。
 自らの性器を咥えたメキシコ人の活け造りとか、貴志祐介のファンの一角をなすであろうサイコパスマニアへの読者サービスとしても、下劣で趣味が悪い。
 もう一つのスピリチュアルという要素がなかったなら、その時点でソルティは離脱していただろう。
 
 そう、本書の一番の魅力は、前世すなわち輪廻転生をテーマにしているところ。
 場末のしがない探偵事務所所長である茶畑は、有名企業の正木会長から依頼を受ける。
 「私は前世で切り殺された。その犯人を突き止めてほしい」
 茶畑は内心それを、怪しげな占い師に洗脳された正木の与太話としか受け取らない。
 が、多額の報酬に釣られて仕事を引き受ける。
 正木をそれなりに納得させるエセ物語をつくるため、彼が語る前世について過去の資料を調べていくと、まさに正木が語った通りの出来事が史実として残っていた。
 これは偶然なのか?
 それとも、占い師が正木を操っているのか?
 だとしたら、いったい何の目的で・・・。
 
 そのうちに、茶畑も自分の前世としか思えない夢を見るようになる。
 すべてを見通すかのような瞳を持つ不思議な女性霊能者との出会いと謎の言葉、行く先々で起こるシンクロニシティ、目の前に次々と示されていく輪廻転生のしるし。
 一方、事務所スタッフの失踪事件に絡んで、幼馴染の暴力団員や日本でのコカイン販促を狙うメキシカン・マフィアなどが茶畑に接近し、周囲は暴力的な色合いを濃くしていく。
 身に迫る命の危険を知りながらも、茶畑は最早、輪廻転生の謎を突き止めずにはいられない。
 
 最後は、正木からの依頼も、メキシカン・マフィアと日本の暴力団との抗争も、探偵事務所の経営も、スタッフ女性とのお安くない関係も、すべての伏線が回収されぬまま打っちゃられて、輪廻転生の謎に飲み込まれてしまう。
 壮大なる宇宙意識の前には、人間の命や日々の営為や人類の歴史など、大海の一滴にも値しない。
 そのあたりの強引さというか、読者置いてきぼりのパラダイム変換は、諸星大二郎の『暗黒神話』を思わせる。
 一種の「夢オチ」とも言える漫画チックな結末は、小説としては、貴志の他の作品にくらべると不出来という声もあろう。
 だが、輪廻転生や唯識や非二元といったスピリチュアルテーマに関心あるソルティは、最後まで興味深く読んだ。
 本作で明かされる輪廻転生の仕組みに則れば、弥勒菩薩はすでに現世に生まれ変わっているのかもしれない。


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おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






 
 
 

● 本:『天使の囀り』(貴志祐介著)

1998年角川書店
2000年角川ホラー文庫

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 本書を読み始めてまもなく、自室の本棚から、ひときわ大きく重たい一冊を抜き出した。
 スミソニアン協会監修『地球博物学大図鑑』(東京書籍)である。
 植物、動物、菌類、微生物など、地球上の生き物5000種以上がフルカラーの写真入りで掲載されている。
 ソルティの宝の本である。

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 霊長類のページを開いて、ウアカリという猿を探した。
 「あった・・・・!」
 やはり、実物の写真はインパクトが違う。
 「頭の禿げ上がった鮮紅色の奇怪な風貌から、現地では『悪魔の猿』と呼ばれている」という、文章による描写だけでは得られない迫真力がある。
 実際に目の前にいきなり現れたら、ゾッとしそう。
 本書の陰の主役は、このウアカリなのである。

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 さらにしばらくして、もう一つの陰の主役――それは人間でないという意味において「陰」というだけであって実質的には真の主役――の特徴を探るために、図鑑の別のページをめくることになった。
 未読の人のために、それが何かは記すべきでないだろう。

 『クリムゾンの迷宮』、『新世界より』、『雀蜂』といった作品から、貴志祐介が動物や昆虫に非常に関心が高く、かつ詳しい人であることは分かっていた。
 本書はその事実をさらに補強する内容で、よくぞまあ(文字通り)微細にわたり調べたものよと感心する。
 徹底的な取材と正確な知識あって、つまりリアリティが学問によって担保されることで、貴志のホラー小説は、ただの怪談から“現実に起こりえそうな脅威”へと飛躍する。
 なので貴志の読者には、ある程度の知的レベルが要求される。
 本書も、生物学や精神医学やギリシア神話への興味と基本的な教養が前提として求められる。 
 そこが、ストーリーやキャラクターの面白さ、アイデアの卓抜さ、エログロやバイオレンスの猟奇性などに加えて言及されるべき、貴志作品の魅力であろう。
 読み終わったとき、数学の難題をクリアしたような気分になる。

 本書は25年も前の作品で、貴志作品の中でも評価が高い。
 面白さは折り紙付き。 
 いまさら評するまでもないので、ちょっと別の視点で気づいたところを述べたい。

 本書の主人公(人間側の主役)である北島早苗は、精神科医であり、ホスピスで働いている。
 彼女がケアしているのは死を前にしたエイズ患者、つまりエイズホスピスなのである。
 1998年とはそういう時代――エイズで死ぬ時代――だった。
 ちょうどその頃から、機序の異なる複数の薬を併用するカクテル療法(多剤併用療法)が始まって、体内でのエイズウイルスの増殖を抑えることができるようになった。
 以後、先進国ではエイズによる死亡率は劇的に下がっていく。
 現在、エイズは死ぬ病気ではない。
 90年代末とは、カクテル療法が間に合って生き延びることができた患者と、いろいろな理由から間に合わずに亡くなっていった患者の、生死を分ける分岐点だったのである。

 早苗のホスピスには、性行為でHIV感染した患者のほか、薬害による患者もいる。
 HIVが混入していた血液製剤を治療薬として使用したため、HIV感染してしまった血友病の男の子である。
 血友病患者らが国相手に長らく闘ってきた薬害エイズ訴訟が和解し、厚労省が加害責任を認めて謝罪したのが、96年3月。
 その後、血友病治療の権威である阿部英医師、血液製剤を製造・販売していた製薬企業、元厚労省の幹部らが逮捕された。
 本書の書かれた当時、日本中が薬害エイズ事件で揺れていた。
 貴志はビビッドな題材をとり入れたわけである。

 さらに、エイズの起源として、アカゲザルという猿に寄生していたウイルスが、なんらかのきっかけで人に感染し、人の体内で変異を繰り返した結果、人から人へと感染する力を持つようになった――という説がまことしやかに唱えられていた。
 刊行時に本書を手にとった人は、おそらくこの物語に、いま目の前にあるエイズの恐怖を重ね合わせて読んだことだろう。

 ほかにも、電子情報保存媒体としてフロッピーディスクやMOが出てきたり、ネット接続するのに電話回線を使用したり、本書はあの時代を感じさせる囀りに満ちている。
 これから読む若い世代には聞こえない囀りに・・・・。




 
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