ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●死刑制度は止めよう!

● 本:『ルポ 死刑』(佐藤大介著)

2021年幻冬舎新書

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 副題は「法務省がひた隠す極刑のリアル」。
 著者は1972年生まれ。
 毎日新聞社、共同通信社での記者活動を経て、現在、共同通信社の編集員兼論説委員を務める。
 
 著者の基本姿勢は死刑廃止なのだと思うが、ここではそれを声高に訴えていない。
 むしろ問題としているのは、副題にある通り、日本の死刑制度の実態が法務省によって徹底的に伏せられていて、国民に正確な情報が伝えられていない点である。
  •  死刑囚はどのような日常を送っているのか。
  •  外部とのやり取りはどの程度許されているのか。
  •  日々なにを思って過ごしているのか。
  •  誰がどう死刑執行日を決めるのか。
  •  どのように受刑者に伝えられるのか。
  •  死刑がどのように行われ、誰と誰が立ち会っているのか。
  •  担当する刑務官はどのような思いを抱えているのか。e.t.c.
 死刑制度の是非はいったん別として、米国では情報を公開することで議論が起き、それだけ死刑制度について考えることができる。一方、日本では密行主義で情報はほとんどなく、死刑が行われながらも議論は深まらない。死刑は国家が合法的に命を奪える究極の権力行使であるのにもかかわらず、多くの人々は無関心という状態が日常化している。 

 我々国民は、死刑に関する十分な情報を与えられないまま、死刑制度の是非を議論する環境に置かれている。
 確かにこれはおかしい。
 国がどのように一人の国民を監禁し抹殺したかを、他の国民たちが知ることができないのは、殺された対象がどんな人間であるかに関わらず、由々しき事態だ。
 国家が一国民に対しどのようなことをなし得るかが不透明にされているからだ。
 民主主義の根幹にかかわる問題である。

 本書では、死刑囚、元死刑囚の遺族、弁護士、刑務官、死刑囚の世話をする衛生夫、検察官、法務省官僚、牧師や神父や僧侶などの教誨師などへのインタビューやアンケートなどをもとに、日本の死刑囚の置かれている状況や彼らの思い、死刑執行までの具体的な段取りが、でき得る限りに描き出されている。
 日本の死刑は絞首刑だが、これは明治6年に作られた法律によるもので、140年変わっていないという。
 科学も医学も薬学も進み、もっと穏やかな殺害方法があるだろうに、「絞首刑は苦痛がもっとも少なく、残虐性なし」と結論付けた1828年の学者論文をもとに、いまだに他の手段を検討することなく続けられている。
 サディストか。
 死刑執行方法見直しの議論は民主党政権時代に持ちあがっていたのだが、2012年末の総選挙で民主党が惨敗し、政権が再び自民党に戻ったことで立ち消えてしまった。
 ときの法相は谷垣禎一、首相は安倍晋三であった。
 
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Heinz HummelによるPixabayからの画像

 ソルティは基本、死刑廃止論者である。
 が、時々、「こいつだけは死刑もやむを得ない」と思わざるをえないような、残虐極まりない卑劣な犯行、個人的に許しがたいと感じる犯罪者が出現し、そのたび心が揺れ動く。
 すぐに思いつくのが、1988年2月に起きた「名古屋アベック殺人事件」であり、同じ年の11月に東京都足立区で起きた「女子高生コンクリート詰め殺人事件」である。
 この2つの犯罪の凄惨なまでの残虐さは言語に絶するもので、被害者の受けた恐怖や苦痛や絶望、被害者遺族の受けた打撃や苦痛や喪失感を想像すると、「目には目を、歯には歯を」ではないが、加害者にも同等の苦しみを与えなければ承知できない、「死刑は当然」と当時思った。
 個人的にソルティは、女性が男達によって拉致監禁され、暴行され、強姦を繰り返される類いの犯罪が一番嫌いで、許し難く思うのだ。

 びっくりしたことに、本書にはなんとこの「名古屋アベック殺人事件」の加害者、それも6人の加害者のうちの主犯格Nが登場する。
 一審でNは未成年であったものの死刑判決を受けた。そこまではソルティも知っていた。
 その後、二審での6年余りに及ぶ審議の結果、無期懲役が下り、判決が確定した。
 現在、無期懲役囚として岡山刑務所に収容されていて、著者は数年前からNと面接や手紙のやり取りを行ってきた。
 「そうか。生きていたのか・・・」
 驚くとともに、いまや40代になるNという男の変化に戸惑った。
 服役態度の良い模範囚であり、被害者遺族への謝罪や償いを心がけ、更生の途上にあるらしい。
 35年前のNと同一人物なのかと思わず疑ってしまった。

 それに輪をかけて驚いたのは、被害者女性の父親とNとが文通をしているという事実であった。
 一体そんなことが可能なのか!
 大切な娘をこれ以上ないほど残酷なやり方で殺されて、自ら復讐することも叶わずに、人生を滅茶苦茶にされ、せめてもの慰みの「死刑判決」すら「無期懲役」に減刑されてしまった。
 そんな憎き相手と文通できるこの父親の存在に愕然とした。
 もちろん許しているわけではなかろうが、それとは別に、“人と人として”相手と対峙できる度量というか、精神性に恐れ入った。
 韓国のドキュメンタリー『赦し――その遥かなる道』(チョウ・ウクフィ監督)を観たとき、妻と子供を殺された父親が、その殺人犯の減刑運動をしているエピソードを知って、ぶったまげた。
 それはキリスト教など宗教的バックボーンのある特別な人の場合と思っていたけれど、日本にも同じような人がいたのである。
 この父親がいる以上、ソルティはもはや、「名古屋アベック殺人事件」の犯人を断罪することができなくなった。

観音さま

 世界各国の約7割が死刑を廃止、または事実上廃止しているなかで、日本は少数派に属している。そうした中、米国が連邦レベルでの死刑執行を停止したことから、先進国主体の経済協力開発機構(OECD)加盟国(38ヵ国)で通常犯罪に対する死刑執行を続けているのは、日本だけと言うことができる。

 日本には日本独自の文化や風習や価値観がある、外国の目を気にしてそれに合わせる必要はないと言うのは一見カッコよいけれど、意地を張って国際連盟脱退の二の舞のようなことにならなければよいのだが・・・・。
 あとからどれだけ高くついたことか。




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 映画:『ウォーデン 消えた死刑囚』(ニマ・ジャウィディ監督)

2019年イラン
90分、ペルシア語

 原題 Sorkhpust は、調べたところペルシア語で「インド人」って意味らしいのだが、なぜインド人なのか不明。
 ウォーデン(warden)は英語で「刑務所長」の意である。
 
 イランの砂漠の中にある巨大刑務所のお引越し中に、死刑囚が一人いなくなった。
 脱獄でもされた日には大事件である。
 刑務所長は、男がまだ所内のどこかに身を隠していると確信し、部下を集めて必死に探し回る。
 死刑囚のことをよく知るソーシャルワーカーの女性がやって来るが、彼女は男の無実を訴え、刑務所長と対立する。
 完全撤退の期限が刻々と迫るなか、刑務所長は、男を隠れ処からおびき出すべく、ある作戦を決行する。
 
 かくれんぼミステリーという、わかりやすい設定。
 沢口靖子主演の『科捜研の女』に出てくるような最新科学機器を使えば、すぐに男の居場所がわかりそうなものなのに、全館に向けて拡声器で投降を呼びかけたり、捜査犬を使ったり、ごきぶりバルサンのように煙でいぶり出そうとしたり、非常に原始的。
 イランの地方刑務所ってまだこんなレベルなの?――と思ったら、これは1960年代を舞台とする話であった。
 たしかに、中庭に置かれた首吊りの死刑台は前世紀の遺物である。

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kalhhによるPixabayからの画像

 一つ一つのショットが素晴らしい。
 構図も色彩も照明もカメラワークも手練れている。
 そのため、刑務所があたかも中世のお城のように美しく見える。
 最後まで死刑囚の姿を映し出さないやり方も巧い。
 姿の見えない主人公が、かえって存在感を増して、サスペンスを高めている。
 三島由紀夫の『サド侯爵夫人』を思い出した。

 ソーシャルワーカーの女性が元AKBの前田敦子そっくりである。
 敦ちゃん、いつの間にイラン映画にデビューしたの?・・・と思った。
 男尊女卑のイメージの強いイスラム教国の、男性社会の権化である刑務所という空間に、ヒジャブをつけない一人の女性ソーシャルワーカーがこうやって人権擁護の仕事をしていることに驚いた。
 60年代のイランで、こんな状況があったのだろうか?

 刑務所長を演じる男優は、一見、貫禄ある冷徹な物腰のうちにナイーブさと優しさを秘めた男を作り上げている。
 邦画で言えば、往年の松竹三羽ガラスである上原謙・佐分利信・佐野周平を足して3で割った感じ。(かえってよくわからない?)
 すなわち、イイ男である。

 物語的には予想通りのヒューマニズムな結末でそこに意外性はないが、脚本、演出、撮影、演技、音響効果ほか非常に完成度の高い作品で、またひとりイラン映画に一流監督が誕生したことを告げてあまりない。





おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損


 
 

● 本:『死刑について』(平野啓一郎著)

2022年岩波書店

 この作家の小説は読んだことがないのだが、ツイッターではよく見かける。
 その政治的スタンスはソルティとほぼ一緒で、作家の中では信頼の置ける人という印象がある。
 死刑についても廃止の立場をとっている。
 本書は、平野が2019年に大阪弁護士会主催の講演会で話した内容が元になっている。

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 京大法学部に在籍していた平野は、もともと死刑存置派(死刑はやむを得ない)だった。
 それが20代の終わりにフランス生活を体験し、死刑反対を当然のこととする文化人と交流するうちに、自らの立場を問い直すようになった。
 30代はじめに犯罪被害者遺族の生をテーマとする『決壊』(2008年)という小説を書いたことで心が変化し、死刑制度に嫌気がさして、死刑反対を明言するようになった。
 以後、死刑廃止を訴えている。

 平野が死刑に反対する理由は、ソルティが解するところ以下の通り。
  1. 冤罪の可能性を払拭できない・・・警察のずさんな捜査や証拠の隠滅や捏造、自白強要の実態がある。(袴田事件が典型的)
  2. 加害者の生育環境が悲惨なことが多い・・・行政や立法の不作為が結果として犯罪者を生み出しているのに、個人のみに責任追及してよいのか。
  3. 死刑は国家による殺人である・・・人を殺してもよい社会のままでよいのか。国の倫理を加害者と同じレベルに堕落させてよいのか。
  4. 犯罪抑止効果に対する疑問・・・死刑による犯罪抑止効果のないことは証明されている。
  5. 死刑囚の反省・教育効果に対する疑問・・・死刑と向き合わせることで加害者を反省させ改悛させるという方法が、人の更生のあり方として正しいのか。恐怖をもって他人を変えようとするのは、生徒への体罰と変わらない。
 どれももっともな意見で、スッと入った。
 むろん、平野は、犯罪被害者に対する社会的な支援の必要性も強く訴えている。
 これまで死刑反対を訴える人たち(人権派弁護士などのリベラル派)の言葉が、なかなか世間に受け入れられなかった理由の一つは、被害者遺族の置かれた苦境を軽視してきたからと述べている。

 死刑について考えていく時、被害者がどこまでも尊重され、被害者を社会的にどう救済していくべきかを考えることはとても重要です。人間に対する優しさという、とても単純だけど、大切な価値観が社会に浸透していくことで、孤立し困窮している被害者を社会が包摂し支えていくことが進んでいくのだと考えます。

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 次に平野は、日本で死刑が支持される理由を挙げている。
  1. 人権教育の失敗
  2. メディアの影響・・・わかりやすい勧善懲悪ストーリーの弊害
  3. 死をもって償う文化・・・切腹に代表される
  4. 宗教的背景が欧米とは異なる・・・「裁きは神のもの」「汝の敵を愛せよ」という文化ではない
  5. バブル崩壊以降の自己責任論の高まり
 1の人権教育についてこう語る。

 人権というものが、欧米の思想において、どのような歴史的な経緯をたどって確立されたのか、そして、どのようにして近代化とともに日本に導入されてきたのか。そういう思想が存在しない社会も有り得た中で、それを尊重する方向を目指して歩んできて、歩み続けようとしている。人間にとって、そのことがどういう意味を持つのか。そうではない世界とどちらがよかったのか。そういうことを考えさせることが、人権についての根本的な教育ではないでしょうか。

 1970年代に埼玉県で義務教育を受けたソルティは、人権教育を受けなかった。
 外部から講師を招いての人権講演会というものもなかった。
 「思いやりを大切に」「人に迷惑をかけないようにしよう」式の道徳の授業があっただけである。
 わずかに高校に入ってから同和教育まがいを1時間受けたが、関連ビデオを視聴するだけのアリバイ的授業(「同和教育やりました」)で、とても人権教育と言えるものではなかった。(通学圏内で起きた狭山事件すら学ばなかった)
 公民や倫理社会の授業では、日本国憲法はじめ西欧史の権利章典やら人権宣言やらも学習したが、それは試験のために暗記する文言以上の意味は持たなかったように思う。
 最近の教育現場についてはよく知らないが、映画『教育と愛国』に描かれているような教育現場への不当な政治的圧力を見聞きするに、人権教育も後退しているんじゃないかと危惧する。
 つまり、多くの日本人は人権教育をないがしろにされたまま、人権のなんたるかを理解しないまま、社会に出てきている。

 ソルティは幸い(?)自らがゲイというマイノリティだったからこそ、社会人となってから差別について考え、人権について学ぶ機会を自ら作って来られたが、そうでもなければ、普通に大過なく生きているマジョリティが人権について学ぶ僥倖はなかなか訪れまい。
  
 国民の人権意識が低いことで一番得するのは、ほかならぬ国家権力という名の支配者層である。
 彼らにとっては、国民が「人のもつ普遍的権利」などという厄介なものに目覚めてしまわないよう、下からあがってくるイッシューはなんであれ、個々人の価値観や道徳観や感情レベルの問題に引き落とし、賛成派と反対派がいつまでも喧嘩してくれている方が都合がよい。
 死刑制度の議論も、同性婚の議論も、同じような沼にハマっているように思う。
 

 
おすすめ度 :★★★★

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● 本:『死刑のある国で生きる』(宮下洋一著)

2022年新潮社

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 著者の宮下洋一は、高度生殖医療や安楽死など、人間の誕生と死をめぐる現場を取材し、本を書いている。
 スペインとフランスを拠点とし、欧米諸国を飛び回って取材できるだけの国際感覚、語学力、交渉力、行動力、取材力、そして思弁性を兼ね備えた才能あるジャーナリストである。
 本書の一番の特徴は、人権理念の強い欧米における死刑制度――ヨーロッパでは独裁国家であるベラルーシをのぞき死刑は廃止されている――を取材することで、日本の死刑を巡るさまざまな状況を相対化し、「死刑のある国=日本」で生きるとはどういうことなのかを考えるきっかけを与えてくれるところにある。
 執筆動機をこう語っている。

 死刑制度が犯罪抑止につながるとか、死刑廃止こそが人権の尊重であるとか、一般的な存続の議論も重要だろう。しかし私が知りたいのは、多くの国々が世界の潮流として、死刑廃止を決めてきた中で、日本がその実現に向かわない理由、そしてその潮流に乗る必要がそもそもあるのかどうかだ。それを各国の現場を取材しながら見極めたい。

 本書でメインに取り上げられているのは、以下のようなエピソードである。
  1. おのれの妻子を殺した44歳の死刑囚との面会、および1年4か月後の処刑の様子(アメリカ)
  2. フランスの死刑制度廃止(1981年9月)に決定的な役割を果たした元・司法大臣ロベール・バダンテールへのインタビュー(フランス)
  3. 勤めている介護施設で11人の高齢者を殺害し、懲役40年を受けて服役中の男の地元の声(スペイン)
  4. 刑を終えて出所した殺害者と、彼に殺された被害者遺族とが、わずか50メートルのところに暮らしている村の様子(スペイン)
  5. おのれの妻子6人を手にかけたものの、犯行当時の記憶を失っている30代の死刑囚との面会(日本)
  6. おのれの義母と妻子を殺した死刑囚の減刑を求め、加害者家族を支える会を立ち上げた地元の人々(日本)
  7. 犯人Aに叔父を殺されたにもかかわらず、その死刑執行に反対する被害者遺族である住職と、同じ犯人Aに家族を惨殺され、「犯人が苦しみ続けるなら死刑でなく終身刑でもかまわない」と言う被害者遺族(日本)
  8. 正当防衛という名目のもと、警察官による「現場射殺」が増えているフランスの現状(フランス)
 いずれのエピソードにおいても、お国事情や事件のあらましなど、理解の前提となる知識を簡潔に上手にまとめる手腕、臨場感ある情景や対話の描写など、書き手としての巧さを感じさせる。
 日本とは異なる風土、価値観を有する異国の事情は興味深い。
 それぞれの現場に出向いて、当事者や周囲の人々の声を聞き、取材をひとつ終えるごとに、揺れ動いていく著者の心境や変化していく視点、深まっていく思考のあとが辿られる。
 死刑制度をどう考えるかは、国により、地域により、文化により、歴史により、なされた犯罪の質により、語る人の立場や思想により、それこそ千差万別。そこに「正しいor 正しくない」という判定は容易に下せない――というのが、本レポートより浮かび上がってくる見解であろう。

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 そんな中、ヨーロッパ各国は死刑廃止に舵を切り、日本は死刑を存続させている。
 最終的に著者は、「日本においては死刑制度はこのまま残したほうがいい」という結論に達したようだ。
 その理由をこう述べている。

 国際社会は日本に対し、死刑を廃止するよう求めている。しかしそれは、文化、宗教、生活様式が異なる国の人々が考える「普遍的価値観」であり、それは日本のそれとは相容れないのではないか。

 日本人は、罪人が罪を自覚して償うのであれば、たとえ死刑が執行されても「浄土へ還る」ことができるという宗教観を有しているように思える。それは、欧米人には理解し難い日本特有の価値観であるのかもしれない。
 その視座からも、日本人にとって死刑とは、罪人が国家によって処刑され、地獄に落ちるというキリスト教的な発想よりも、国家が個人を悔悛させながら、死をもって浄土へ向かわせるという感覚のほうが近いのではないか。

 日本取材を始めた当初から、私は、日本人にとっての正義とは何かについて、考えを深めてきた。それは、国民が生きる価値をどう解釈するのかに関わってくる。欧米のように神を信じる宗教的な社会とは違い、世俗的なありのままの社会で生きる日本人は、個人よりも集団との関係性の中で、その価値を発見し、幸せを見出そうとしているように見える。
 言い換えれば、身内の死は、家族のみならず、集落全体の悲しみにつながる。つまり、殺人犯に対する被害感情は、被害者遺族だけでない多くの人々が感受する。私は、死を語り合う際に、欧米と日本では、その感受の領域に本質的な差があると思っている。

 結局、日本人は、欧米人のそれとは異なる正義や道徳の中で暮らしていることになる。だからこそ、西側先進国の流れに合わせ、死刑を廃止することは、たとえ政治的に実現不可能ではなくとも、日本人にとっての正義を根底から揺るがすことになりかねない。

 それぞれの国で、独自の価値観に則った裁きがあれば、それでいいのではないか。

 以上の考察で示されるように、本書は、死刑制度という題材を巡ってなされた日本人論、比較文化論ということもできる。
 個人主義、権利意識の高いヨーロッパでの生活の長い著者の言だけに、傾聴に値するところである。

 一方、ソルティは、この結論は最初から(取材前から)準備されていたのではないかという印象も受けた。
 一つには、エピソードが語られる順番である。
 上記1~8のエピソードは取材した順番通りに時系列で並んでいるので、そこに著者の編集上の作為は認められないものの、このエピソードの順に読んでいったら、読者は、著者と同じ見解(=日本においては死刑制度はやむを得ない)に達しやすいだろうなあと思った。
 もしこれが、8の「現場射殺」のエピソードから始まって、2のバダンデールへのインタビューを経て、1の「処刑現場への様子」で終わっていたら、全体としては同じ内容であっても、そこから著者が達したのとはまったく反対の結論を導き出せそうな気がする。
 つまり、取材の順番(仕事の遂行計画)を決める段階において、著者の中である種のストーリーができていた可能性があるのではなかろうか。
 そもそも、執筆動機に見る通り、最初から著者は「死刑制度の是非」を問うことをテーマとしているのではない。
 日本が、死刑廃止の世界的「潮流に乗る必要があるのかどうか」を問うているのだ。
 「死刑なしでは社会は収まらないのではないか」という問いを長い間もっていたと、著者は述べている。
 してみると、本書の狙いは、日本で死刑制度を残すべきもっともな理由を探すことにあったのではなかろうか。

 あとがきで、思わず目を疑うような箇所があった。

 生まれ育った国の下で、人はその社会に適応する術を身につけ、喜びを見つけたり、正義を見出したりしていく。そして、その国で培われた伝統や文化、制度や道徳を重んじながら暮らしているのである。
 しかし、異国の異質な価値観の押しつけや干渉に譲歩すれば、遅かれ早かれ、国の基盤は揺らいでいくだろう。西洋諸国が提唱する「ヒューマンライツ」(人権)は、全世界に通用する普遍の権利と言えるのか。私は、この点に違和感を持ち続けていた。
(ゴチはソルティ付す)

 普遍的価値としての「人権」に疑いを抱いている。
 これはかなり危険な、そして反動的な思想ではなかろうか。(中川八洋の著作を想起した)
 ことは、死刑制度に対する是非の問題だけでは済まない。
 人種差別、民族差別、女性差別、性的少数者差別、部落差別、障害者差別、高齢者差別、病人差別、言論・表現の自由、集会の自由、信仰の自由、教育の自由、幸福追求の自由、生存権に関わる問題である。
 人権思想の輸入あってはじめて我が国民はこうした差別を弾劾できる言葉を手に入れ、現在あたりまえのものとして行使している数々の権利に目覚めたのである。
 それらを著者は、西洋由来だからと言って、否定したいのだろうか。
 ちょっと理解に苦しむ。
 著者が、人権概念の普遍性について普段から「違和感を持ち続けていた」のであれば、死刑制度についても最初から「結論ありき」だったのではないかという疑いを持たざるを得ない。

 一読者として言わせてもらえば、死刑制度や安楽死について調べたり書いたりするのもよいが、著者にイの一番にやっていただきたいのは、ヒューマンライツ(人権)について違和感を持つようになった経緯に関する自己省察である。
 それを言論・表現・出版の自由を駆使して、ぜひ発表してほしい。

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おすすめ度 :★★★

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● ツボにはまった20年 本:『死刑のある国ニッポン』(森達也、藤井誠二共著)

2015年河出文庫

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 現在、世界195ヵ国のうち、7割の国は死刑を廃止または停止しており、実際に死刑を執行しているのは54ヵ国のみという。
 また、経済協力開発機構(OECD)38ヵ国のうち、死刑制度があるのはアメリカ・韓国・日本のみで、アメリカは半分の州で廃止または停止、韓国は1997年を最後に執行していない
 一方、日本の死刑の執行件数の推移を見ると、60年代132件→70年代94件→80年代15件、と減少し続け、このまま死刑廃止に向かうかと見えたものが、90年代36件→2000年代46件→2010年代48件、とぶり返している。
 明らかに、国際社会の潮流と逆行している。
 2019年の世論調査では、日本人の約8割(!)は死刑制度を容認している。

 なぜ、日本では死刑制度が廃止されないのか?
 なぜ、日本人の多くは死刑を肯定しているのか?

 著者の一人である森達也は、次のような理由を挙げる。
  • 体感治安がメディアの扇動によって急激に悪化していること。(実際の治安は必ずしも悪化していないにもかかわらず)
  • 日本人は多数派につきたいとするメンタリティが強いこと。
  • 掟やルールにそむく者に対しての罪責感や、強い権力に対しての従属意識が強いこと。
  • 多くの人が死刑の実態を知らないこと。
  • 被害者遺族への表層的な共感が、被害者への救済よりむしろ加害者への憎悪に転換していること。
 むろん、これらの背景には、生殺与奪つまり国民の生命を奪うことができるという、考えられ得る限り最大の権力を、簡単には手放したくない勢力の思惑があるのだろう。(それはおそらく、「社会が変わってしまう」から同性婚に反対する勢力と、かなりの程度まで重なるように思う)

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 本書は、死刑廃止派の森達也と、死刑存置派(あるいは反廃止派)の藤井誠二による対談かつ討論である。
 と言っても、「リベラルV.S.保守」「左翼V.S.右翼」といったような真っ向から対立する、あるいは反目し合う者同士の対決ではない。
 元オウム真理教信者の日常を描いた『A』シリーズや、業界タブーの内実を暴いた『放送禁止歌』などで知られる森達也が反体制・反権力であることは言うまでもないが、戦後沖縄の売春街を綿密な取材と調査でレポートし、日本とアメリカの狭間で翻弄され続けた沖縄の姿を浮き彫りにした『沖縄アンダーグラウンド』を著した藤井誠二もまた、体制の徒ではない。
 藤井のデビュー作は、出身地である愛知県の管理教育批判であるというから、基本的には反体制・反権力の人と言っていいだろう。
 本書は、反体制という同じ舟に乗っている者同士の、死刑制度をめぐる「異見」の衝突である。

 なので、議論の前提となる部分において、両者の認識はかなりの部分、共通している。
 たとえば、
  • 論理的にはもはや死刑制度を延命させる理由は存在しない。(死刑に犯罪抑止効果はない)
  • 死刑のやり方や死刑情報についてきちんと国民に公開すべきである。
  • 冤罪をなくすために警察や検察は最大限の努力と改革をすべきである。
  • 硬直化した司法システムは変えるべきだが、いまの裁判員制度には問題が多い。
  • 犯罪被害者や遺族の権利やケアを充填させることが重要である。
  • 横ならびの犯罪報道に見られる思考停止ぶり。
 これらの共通認識を踏まえた上で、両者は討議の席につく。

 本書は、死刑制度に関する様々な論点が取り上げられて、この問題の整理に役だつばかりでなく、オウム真理教地下鉄サリン事件(1995年)以降の日本社会の司法やメディアや治安維持をめぐる状況が概観されており、死刑制度を支える日本的状況について考察する一助となるものである。
 死刑制度をどう思うかは、問われた人間の世界観や宗教観や人間観、つまりはアイデンティティの深いところを如何するリトマス試験紙であることが分かる。

リトマス試験紙

 藤井は、死刑制度存置を主張する理由を次のように述べる。

 何人殺しても、いかなる非道なやり方で殺しても、その加害者の命は守られるということがどうしても納得できないからです。いままで議論してきたように矛盾点はある。最後の最後に残るのは、「殺された側」の尊厳や応報感情をどのように考えていくのか、ということに尽きると思います。何人殺しても、大量殺戮をしても、国家がその命を保障するということについては、どう考えてもぼくの中で倫理的に受け入れがたい。

 藤井がこのような考えに達した背景には、犯罪被害者や遺族の取材を通して、この国で彼らの置かれてきた劣悪な状況――それは最近ようやく改善されつつある――を知るとともに、彼らの思いを真摯に聞き続けたことにあるようだ。
 もともと死刑は廃止したほうがいいと漠然と思っていたものが、取材を通して被害者の現実を知った結果、「殺された側の声や痛みを看過してきた自分に対しての慚愧の念に苛まれ」たのである。
 被害者側に共感すれば、「死刑反対!」とは簡単に言えなくなるのは自明の理であろう。

 一方、死刑廃止を確信的に唱える森達也の理由は、簡潔にして明晰。
 命の尊厳である。

 命とは法やシステムで規定されるようなものではない。

 人は人を殺す本能を持っていない。なぜなら人は群れる動物だから。戦争や殺人がなくならない理由は人間に闘争本能があるからだという人は多いけれど、人には闘争本能はあっても、殺戮の本能は保持していません。あるいは殺戮の本能がもしあったとしても、これを抑制する本能が強く働いている。

 人は人を殺してはいけない。殺させてもいけない。人を殺したことを理由に殺してもいけない。

 人を殺さないこと、人を助けることは、人間の本能(本然と言うべきか)であると言う。
 すなわち、ぬち(命)ど宝
 人を殺した人間の命もまた
 だから、江戸時代の武士のような仇討ちはすべきでない。
 被害者遺族によっても、国家によっても、新たな殺人は生み出すべきでない。
 簡潔にして明晰だけれど、被害者遺族はもとより、世の死刑存置派を説得するにはあまりに強引な、あまりに“お花畑”な、性善説にもとづいた(ある意味スピリチュアルな)言説ととられかねない。
 森の唱える「元来、人は人を殺せないようにできている=本能説」があちこちで批判を浴びたことは、本書で森自身が告白している。
 当然ここでも、対談相手の藤井を折伏することも宗旨替えさせることも叶わず、「森節だなあ」などと笑われている。
 むしろ、次の理屈のほうが説得的であるかもしれない。

 死刑が犯罪抑止に役立っていないことが明らかになった今、死刑存置には論理的整合性がないことは、藤井さんも同意しますね。残された理由は遺族の応報感情です。でも死刑制度の根拠が遺族の応報感情だけであるとするならば、天涯孤独の人が被害者になった場合は、死刑を適用すべきではないということになります。だって遺族がいないのだから。あるいは遺族が死刑を求めていない場合は、その要望に沿った軽い罰でとどめなくてはならなくなる。
 ならば近代司法の根本原理である罪刑法定主義は、その瞬間に崩壊します。この国は近代司法国家の看板を下ろさなければならなくなる。その覚悟はありますか?

サフランモドキ

 ソルティ自身は死刑反対派である。
 その理由を以前、別記事につたない文章で書いたことがあるし、国家が手を下す今一つの殺人である戦争との絡みから考察したこともある。
 だが、鬼畜の所業としか思えない残虐で常軌を逸した事件のニュースを見聞きするとき、ソルティの信念も揺らぐ。
 とくに、女性や子供に対する性暴力には憤りを覚えることが多い。
 「死刑でなく、去勢して男性ホルモンを枯渇させたらいい」と思うことがしばしばある。
 とても人権派とは言えまい。
 正確にはたぶん、反マッチョ派なのだ。

 森達也と藤井誠二。
 死刑制度をめぐる2人のスタンスの違いは、なんとなく、ノンフィクションライターとしての2人のスタイル(作風)の違いと呼応するところがあるような気がする。
 ソルティはこれまで、森の書いたものは『放送禁止歌』や『オカルト』など数冊、藤井の書いたものは『沖縄アンダーグラウンド』一冊しか読んでいないのだが、2人のスタイルが対照的であることは感じられた。

 森の場合は、対象となる相手を取材しながら、「自分はどう思ったのか、どう揺れたのか、どう軌道修正したのか」も記録・表出するスタイルを取る。
 対象を描き出すと共に、取材する過程で湧き上がってきた自らの葛藤や煩悶や逡巡や気づきも、読者の前にさらけ出す。
 単なる観察者の立場に身を置いて客観的に対象をレポートするのではなく、対象との接触・交流において変化を余儀なくされてゆく自分自身をも組み込んで、現象を関係性において描き出していく。
 その作風は、藤井からすれば「内的なロードムービー」のように映る。

 一方、藤井の場合は、自らは一歩も二歩も後ろに退いて対象を観察し、事実を淡々と掘り起こして読者に伝えていく。
 そこでは、藤井自身が感じた葛藤や煩悶や内省や気づきの表出は最小限に抑えられる。
 こう述べている。

 事実の重みによって読む者が考えることを迫られるとき、取材者がちょろちょろ顔を出すのはじゃまなのかなと思うこともあります。

 『沖縄アンダーグラウンド』はまさにこのスタンスで書かれていた。
 いわば、ハードボイルド。
 取材の合い間に那覇市のバーでグラスを傾ける藤井の姿に、北方謙三や大沢在昌がダブって見えたほどだ。
 事実の重みは確かに伝わった。
 戦後沖縄の売春街の様相、そこで働く女性たちの姿を活写した力作であるのは間違いない。
 たいへん優れた取材者であり書き手であり、学ぶところ多かった。
 だが、藤井誠二という人間が見えてこない。
 そこに物足りなさを覚えた。
 というのも、『沖縄アンダーグラウンド』はいわば、戦後沖縄のおんなたちが、徹底的に日米の男たちに搾取された物語なのである。
 ならば、同じ男として、そのことをどう思ったか、自分が属するジェンダーの持つ加害者性をどう引き受けるのか、女を買うことを自らはどう感じているのか、男の性欲とその攻撃性をどう捉えているのか、が問われて然るべきであろう。
 それがまったくなかった。
 まるで、自らはきれいなままで、堕ちていくおんなたちを観察しているみたいで、しかも米軍の慰安所(=性の防波堤)から始まった売春街が消滅していくことをあたかも惜しんでいるみたいな書きぶりで、「なんだかなあ」と思ったのも事実である。
 売春街を「浄化」しようとする地元の女性団体へのシビアな視線も、フェミニスト運動家を揶揄する昭和時代のオジサンのような匂いを感じた。
 藤井誠二という人はもしかしたら、基本マッチョなんじゃないだろうか。
 だとしたら、マッチョと死刑廃止とでは反りが合わないだろう。

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 本書の最終章で、森はノルウェーにおける刑事司法の現状について紹介している。

 死刑はもちろん、終身刑もありません。現在の最高刑は禁固21年です。受刑者が出所した後の住居や仕事の斡旋など支援制度も充実しているし、被害者遺族や加害者家族に対する補償や支援制度も、国と民間レベルで整っています。そういった下支えが、寛容化政策を支えています。

 そして、2011年にノルウェー国内で77人もの犠牲者を出した連続テロ事件の犯人の刑が禁固21年で確定したことに対し遺族からまったく不満の声は上がらなかったこと、そればかりか、後日花を手に現場を訪れた犯人の母親に対し犠牲者の遺族の一人がいたわりの声をかけて抱きしめた、というエピソードを紹介している。
 それを聞いた藤井の感想そのままに、「同じ地球の話とは思えない」。
 同性婚や夫婦別姓の問題を挙げるまでもなく、過去20年間で、日本がいかに先進諸国の中で遅れを取ったかがまざまざと知られる。
 そして、その20年間こそ、旧統一教会と安倍元首相率いる政府自民党との癒着が、日本中で、あらゆる領域で進行していた“ツボにはまった20年”だったのである。

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おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 本:『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 冤罪、虐殺、正しい心』(菅賀江留郎著)

2016年洋泉社発行

 戦後間もない静岡県で3つの冤罪事件が立て続けに起った――幸浦事件(S23)、二俣事件(S25)、小島事件(S25)。
 いずれも逮捕された容疑者に一審、二審とも死刑判決がなされ、最高裁で引っくり返って無罪が確定した。
 そのすべての事件の捜査に最初から関わって容疑者を自白させたのは、数えきれないほどの犯人検挙の実績をもち表彰されること五百回余という、県警きっての名刑事・紅林麻雄であった。
 その後も同じ静岡で起きた冤罪事件――島田事件(S29)、丸正事件(S30)、そして令和のいまも審理の続く袴田事件(S41)なども、元凶をつくったのは紅林刑事その人と云われている。
 紅林麻雄とはいったいどういう人物だったのか?
 なぜ同じ静岡県で冤罪事件が繰り返されたのか?
 それはどうすれば防げたのか?
 
 ――といったあたりが本書の主筋なのだが、副題が語っているように「道徳感情こそがその原因」というのが著者の主張である。
 道徳感情が冤罪の原因?
 普通、逆ではないのか? 道徳的でないから冤罪が起こるのでは?
 それとも、ここでいう道徳とは明治時代に世間に跋扈したという自己責任・自助努力を強調する通俗道徳のことなのか?
 

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ラファエロ作「堕天使を駆逐する聖ミカエル」をあしらった表紙


 掛け値なしの力作にして労作である。
 小口35ミリ、500ページを優に超える分量。
 巻末に上げられた参考文献たるや、300は数える。
 しかも、当事者のオリジナル証言が載っている一次資料が多く、先行する他の本からの引用や孫引きに頼らない正確さ重視の徹底した取材姿勢がうかがえる。
 “書庫派”を自認するだけあって、手間ひま惜しまず、根気よく丹念に調べ上げている。

 さらに、テーマの広がりと深さは特筆に価する。
 少なくとも5冊分のテーマと内容が凝縮されている感をもった。
 筆致もまたドラマチックなまでに熱く、「このことを世に知らしめたい」という著書の半端ない情熱が伝わってくる。 


「あとがき」にこうある。
〈二俣事件〉というあるひとつの冤罪事件について書くつもりが、冤罪すべての根本原因を解き明かし、さらには冤罪や殺人だけでなく、大恐慌や戦争、テロや革命に至る人間の歴史を動かす原理がじつは〈道徳感情〉であるなどという、その悲劇の克服法までをも含めた人間の本性についての壮大なる統一理論を展開する羽目になってしまいました。

 テーマの広がりと深さというのはまさに上の通りで、点が線となり、線が面となり、面が立体となり、立体が時空を超えるような、目くるめくスリリングな展開には興奮を覚える。
 一方、いろいろなテーマや人物エピソードを盛り込みすぎて全体に散漫な印象になっており、また、核となる冤罪事件の原因についての究明が後半になると具体性を失ってどんどん形而上学的になっていき、全般、焦点が曖昧になってしまった感がある。
 著者もその点は自覚しているようで、「この世のすべてを解き明す現代版〈造化の秘鍵〉を打ち立てるが如くになんでもかんでもぶち込んで大風呂敷を広げているよう」と自ら言っている。

 本書の後半で著者は、冤罪の原因を突き詰めていくとアダム・スミスの「道徳感情論」に行き当たると言う。
 そして、道徳感情は人類が進化の過程で身に着けた社会的性質(いわば認知バイアス)であり、それゆえ人間の本性である、冤罪は起こるべくして起こる――という結論につなげている。
 ソルティはアダム・スミスにも進化理論にも詳しくないので、この結論が当たっているかどうかは分からない。
 まことに興味深いテーマではあるが、ちょっと論理の飛躍が過ぎるんじゃないかという感を持った。

 なぜなら、実際には犯人を上げられずにお蔵入りする事件も数多くあり、そしてその際にたとえ怪しい容疑者がいたとしても多くの刑事たちは、紅林刑事のような拷問による自白強要や証拠のでっち上げなどしないのであるから、「冤罪=人間の本性」と結論付ける前にもっと個別の問題として精査すべき点はたくさんあろう。
 たとえば、紅林刑事のパーソナリティなり、静岡県警の体質なり、日本の捜査手法なり、裁判制度なり、組織間の縄張り争い(縦割り行政)なり、我が国の人権意識なり、マスコミの報道姿勢なり・・・・。
 いや、著者が決してそのあたりの追究や考察も疎かにはしていないことは前半で示されている。
 要は、前半と後半の作風のギャップのせいかもしれない。

 具体的な冤罪事件をめぐる検証ドキュメントという社会派スタンスと、冤罪という現象をめぐって見えてくる人間存在の解明という現象学的スタンス。
 両者の接合具合にすっきりしないものを感じた。 
 後半部におけるかなり強引にして粗雑な理論の展開が、前半部のせっかくの緻密なデータ調査による事件や世相の解析の価値を減じてしまった気がする。 
 はじめからどちらか一方にテーマを絞って、構成を組み立てて論じたのなら、もっとすっきりした読後感が得られたのではないか。
 そこを読者サービス満点と取るか、欲張りすぎ・気負いすぎと取るか、無理筋ととるか・・・・。
(ソルティは、5冊分の内容を1冊に詰め込んだのは「もったいない」という気がするが)

 菅賀江留郎(かんがえるろう)はもちろん筆名。
 詳しいプロフィールは不明。
 「少年犯罪データベースを主宰。書庫に籠もって、ただひたすら古い文献を読み続ける日々を送っている」とある。
 力量ある、個性的な作家であることは間違いない。
 今後の仕事に期待大である。 
 


おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
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● 本:『死刑囚』(アンデシュ・ルースルンド&ベリエ・ヘルストレム著)

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2006年原著刊行
2018年早川書房

 『三秒間の死角』でファンになったスウェーデンのミステリー作家の過去作を追う。
 『三秒間』と同じエーヴェルト・グレーンス警部シリーズの第3作である。邦訳されていない第4作をはさみ、5作目の『三秒間』へと時系列で続く。警察機構に属しながらも KY(いささか表現が古い?)で一匹狼風のグレーンス警部はなかなか魅力的な御仁である。

 本作は邦訳で540ページの大著のうえ、メインテーマが「死刑制度の是非を問う」と来ている。どうしたって重厚な社会派ミステリーとならざるをえない。読みでは保証する。
 とはいえ、スウェーデンにおいて死刑制度はもはや議論の対象ではない。今を去ること40年以上前(1974年)、憲法改正によって死刑制度は廃止されている。現在では、多くの国民にとって死刑 NG は自明の理で、訳者あとがきによると、「死刑は前時代的、非人道的であるとの認識が浸透している」とのこと。彼らから見ると、日本は「前時代的で非人道的」なお国柄なのである。

 著者はくだんのテーマを展開するにあたって、死刑制度のある国アメリカを対置させる。
 アメリカのオハイオ州の刑務所に少女殺しの罪で収容されていた死刑囚ジョンは、死刑廃止論者らの奇策によって脱走に成功し、スウェーデンに高飛びした。新しい名前と職を得て、結婚し子供をつくり、それなりに幸福に暮らしていた。
 ところが、生まれつき怒りをコントロールできないジョンは暴力事件を起こしてしまう。グレーンス警部に逮捕され、身元が調べられた結果、正体がばれてしまう。事態は即刻アメリカに伝えられる。
 死刑囚の引き渡しを要求するアメリカと、死刑になることが分かっている人間を強制送還することに反対するスウェーデン世論との対立が沸き起こる。

 むろん、スウェーデン人である著者二人の姿勢は死刑反対である。
 反対理由の一つとして著者がプロットに仕掛けたのは、「冤罪の可能性」である。無実の人間が死刑になってしまう可能性がゼロでない以上、死刑制度は NG ということだ。『狭山事件』、『足利事件』、『名張毒ぶどう酒殺人事件』と、本邦でも冤罪あるいはその可能性の高い事件は少なくない。
 ミステリーに欠かせない意外な結末と兼ねて、著者は少女殺しの真犯人と、尋常でないその動機を用意する。ジョンはまさしく冤罪だったのである。
 しかも、最後にもう一つ別の冤罪も作り上げ、ジョンの死刑を望むもっともな理由を持つ死刑推進派のリーダー的存在をその罠に陥れる。つまり、アメリカをして、二人の無辜のアメリカ人を死刑に処させしめる。

 真犯人の常軌を逸した動機と、最後に読者に提示される冤罪の罠。
 そこに至るまでの丁寧で念入りな筋運びに比して、この結末はかなり強引で不自然で酷過ぎる。ソルティは著者同様、死刑反対の立場をとるものだが、さすがにこの結末には共感できなかった。
 

評価:★★

★★★★★
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● 名張毒ぶどう酒殺人事件 映画:『眠る村』

眠る村ちらし


2018年東海テレビ放送
プロデューサー:阿武野勝彦
監督:齊藤潤一、鎌田麗香
語り:仲代達矢
96分

 知る人ぞ知る傑作ドキュメンタリー『ヤクザと憲法』などで現在熱い注視を浴びる東海テレビドキュメンタリー劇場第11弾。
 ポレポレ東中野で鑑賞した。

 恥ずかしいことに、この映画で語られている『名張毒ぶどう酒殺人事件』をソルティは知らなかった。
 村の懇親会の席で毒の盛られたぶどう酒を口にした女性5人が殺されたことも、当時35歳の奥西勝が逮捕されたことも、奥西が自供をひるがえして1審無罪を勝ち取ったことも、2審で逆転死刑判決が下されたことも、最高裁への上告が棄却されたことも、奥西が独房から再審を求めるも却下され続けたことも、2015年に奥西が85歳で獄死したことも、闘いを引き継いだ高齢の妹が支援者とともに今も兄の無実を訴え続けていることも、なにも知らなかった。事件が起こったのが昭和36年という、ソルティが生まれる少し前であったことが大きい。自分が生まれた前後十年くらいの事件って、盲点になりがちなのである。

 カメラは、事件の舞台となった三重県と奈良県にまたがる小さな山村である葛尾に入り、いまや残り少なくなった当時を知る村人にマイクを向ける。東海テレビが撮り続けてきた事件に関する過去のフィルムが適宜挿入され、山里を恐怖のどん底に陥れ、葛尾という名を一躍全国に知らしめた毒殺事件の全容が再構成される。

 そこで明らかになるのは、
  • 決定的な物証がなかったこと
  • 奥西に対する警察の自白強要があったらしいこと
  • 裁判官が当時から今に至るまで自白調書だけをもとに裁定を下し、その後に出てきた科学的鑑定による反証の数々を無視し続けていること
  • 奥西が逮捕されたとたん、複数の村人の証言が奥西に不利となるよう翻ったこと
  • 奥西の家族は村八分となって故郷を離れ、身を隠し息をひそめ、苦しい生涯を送ったこと。また今も送り続けていること
  • 奥西家の墓が、村人の手によって村の共同墓地から掘り起こされ、畑の中へ追いやられたこと
  • 奥西勝は友人が少なく、また分家のため村落内での立場が低かったこと
などである。

 観ていて連想せざるを得ないのは、同じ時代(昭和38年)に埼玉県で起きた「狭山事件」である。(こちらはソルティ地元の事件で、部落差別とからまって全国的にも有名になったので、本を読んで知っていた)
 決定的な物証の不在、被疑者の逮捕当初の自白重視の裁定、検察側の提出する物証の明らかな矛盾、数度にわたる再審請求の棄却、被疑者の共同体内での立場の弱さ(狭山事件の被疑者・石川一雄は被差別部落出身だった)、強固な家制度を基盤に持つ村落共同体のゆがみ、今も再審を求める支援運動が続いていること・・・。
 共通点はたくさんある。
 が、もっともソルティが看過できないと思うのは、もし奥西勝や石川一雄が無実ならば、つまりこれらが冤罪事件だったならば、真犯人が半世紀以上野放しになっていたという事実である。時効が成立した現在、生きていればどこかで子供や孫に囲まれ、のうのうと余生を送っていることだろう。
 
 それにしてもつくづくむごいと思うのは、奥西勝は35歳から85歳までの50年間、石川一雄は24歳から56歳までの32年間(現在80歳で仮出獄中)、人生の盛りを獄中で過ごさなければならなかったということである。
 映画の中で、今も葛尾に暮らす当時を知る高齢男性は、奥西勝についてなかば憐憫を込めてこう呟く。

「むしろ、生まれてこないほうが良かった」

 キリストがユダに対して告げた言葉とまったく同じ。
 (ソルティ、実はユダは冤罪だったと思っている)



評価: ★★★★

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● 本:『なぜ僕は「悪魔」と呼ばれた少年を助けようとしたのか』(今枝仁著、扶桑社)

2008年刊行。
悪魔と呼ばれた少年
光市母子殺害事件の元弁護人による本。‘泣き虫弁護士’という異名を持つ。

光市母子殺害事件とは、1999年(平成11年)4月14日に山口県光市で発生した凶悪犯罪。当時18歳1か月の少年Aにより主婦(当時23歳)が殺害後屍姦され、その娘の乳児(生後11カ月)も殺害された上財布が盗まれた。
 Aは強姦致死罪容疑・殺人罪容疑・窃盗罪容疑の罪状で裁判となり、死刑判決を言い渡されて、確定した(2012年3月)。現在再審請求中である。
 (ウィキペディアより抜粋)

 この本を買ったのは、残虐極まりない殺人を犯した少年A(本書ではF君と表記)がいったいどんな人間なのか、どんな背景(生育歴)を持っているのか、そして光市事件の真相はどのようなものだったのか、を知りたいと思ったからである。
 当時マスコミがこぞって報じたようにF君は生まれついての「鬼畜」「悪魔」なのか。
 レイプや殺人を目的とした計画的犯行だったのか。
 そこにはまったく情状酌量の余地はないのか。
 
 当時は、被告に対する集団リンチのようなマスコミの過剰偏向報道、および橋下徹(現大阪市長、当時タレント弁護士)の某番組内での発言をきっかけとして全国的に起きた弁護団への懲戒請求騒ぎに、なんだか薄ら寒いものを感じ、事件報道に近づかないようにしていた。自分(ソルティ)にとって怖いのは常に、一人の冷酷な殺人者よりも、‘感情的でファッショな大衆’である。
殺人百科 手元にある『別冊歴史読本 殺人百科データファイル』(新人物往来社)の記述をみても、F君は今に至るまで反省の色をまったく見せない極悪非道の卑劣な人間として描かれている。死刑になって当然であり、それを回避させる少年法の存在意義を問い質す論調となっている。
 実際のところ、どうなのだろう?
 F君の弁護団に一時所属し、身元引受人にまでなっている著者・今枝仁から見た被告の姿、事件のあらましはどんなものなのか。

 そんな動機から手に取った本なのだが、これが実に面白かった。
‘面白い’などと言うと顰蹙を買うかもしれない。誤解ないように言うと、面白いのは今枝仁の人となりである。面白い今枝仁が書いたものだから‘面白い’のである。
 今枝仁は、1970年山口県生まれ。現在45歳。広島弁護士会に所属している。98年司法試験に合格、2000年東京地方検察庁の検察官に任官するも翌年退官し、一転刑事事件の弁護士となる。光市母子殺害事件の裁判が最高裁により破棄差し戻しとなり、広島高裁で差し戻し控訴審が開かれることになった2006年に、安田好弘弁護士を筆頭とする21人の大弁護団に加入、F君と接見を重ねる。弁護団内の意見対立から翌2007年に弁護人を解任されているものの、現在もF君の身元引受人となっている。
 今枝はこの本を書いた理由をこう述べる。 

 思えば、僕とF君との人間関係は、単なる被告人と弁護人との関係を超えた、一人間同士の信頼関係に拠るところが大きかった。僕はこの裁判が終わっても、また、判決でどういう結果がもたらされようとも、彼の命ある限り僕は彼のすべてを見続け、側に寄り添って支えていくつもりだ。F君に約束した通り、僕が見た光市母子殺害事件の真実と被告人F君の人物像、そして、なぜ彼がこのような事件を犯したのかについて、本書において、僕なりの言葉で明らかにしたいと思っている。
 

 本書を出版する一番の目的は、光市母子殺害事件などの問題を通じ、刑事司法の中でその一翼を担うべき刑事弁護とはいったいどのようなものであり、いかに困難を伴った活動であるかを明らかにし、その趣旨や意義を正しく理解した上で評価、批判するべきだということを社会に訴えることにある。



 内容は上記2つの執筆理由に十分見合ったものである。
 だが、本書の総ページ数の1/3が、著者今枝仁の弁護士になるまでの詳細な生育歴と来歴、つまり自分史であり、そこが面白いのである。
 それは今枝の自己顕示欲やナルシズムの発露を意味しているのではない。今枝自身の生育歴のうちに、なぜ今枝がF君をはじめとする刑事被告人すなわち世間から恐れられ嫌悪される凶悪犯罪者を弁護する仕事を選ぶようになったのか、なぜ特にF君にシンパシーを感じ身元引受人にまでなったのかを、読者に理解させるエッセンスが滾っているのである。
 
 学歴社会信奉の父親の期待を一身に受けて育った今枝は、小学生の時から父に連れられ大手進学塾の「模試荒らし」をし、県内1位、全国3位という成績を得る。地元の名門進学校である広島学院中学校に入学、一路東大を目指す。
 が、中学3年の頃から、親からも教師からも期待される「完璧な優等生」を演じ続ける無理が心身を蝕み始める。いわゆる過剰適応、またはアダルトチルドレンというやつだろうか。
 そして、より今枝少年の心を蝕んだのは、ほかでもない父親からの虐待であった。  
 父は、僕の勉強以外にも、機嫌が悪くなると家の中の物を引っくり返したり、家族に当り散らしたりしていた。家族に何の非がなくても、父の機嫌が悪いときに訪れる天災のようなものであり、僕たちはその災いが訪れないように祈るしかなかった。家族は、父の機嫌を窺いながらビクビク生活し、突如として現れる暴力に怯えていた。父の僕に対する暴力は、「体罰」を超えて「虐待」と呼ぶに十分なものであった。タバコの火による「根性焼き」の痕は今でも残っているし、顔が真っ青に腫れ上がるまでの「ビンタ100発」などは、先生や友人たちに理由を聞かれても説明に困るほどだった。 
 中学3年生の途中から引きこもりになり、精神安定剤や睡眠薬に頼るようになる。幻覚、金縛りに苦しみ、やり場のない焦燥感から家族に暴力を振るうようになる。

「自分が望んだ訳でもないのに、無理やり勉強させられて新学校に入れられ、人生を狂わされた」、「どうしてくれるんや」、そう叫んでは親を責め、殴り、足蹴にした。小さい頃から親に暴力を受けて育った僕にとって、親に暴力を加えることへの抵抗感はそれほどなかった。  
 エスカレート進学した高校にも通うことなく、ついには自殺を企図し睡眠薬をガブ飲みする。ここにいたって両親もやっと「目が覚め」、福岡にある思春期心療内科病棟に息子を託す。
 17歳から22歳までの約5年間を、今枝は同じような心の病に苦しむ同世代の友人たちと過ごすことになる。  
 
僕は初めて、多様な価値観や人それぞれの生き様というものを実感した。
・・・・・・
 それまでの僕には、「エリートコースに乗り、優秀な成績を修めて一流の大学を卒業し、恵まれた人生を送る」のが人生の成功であり、そうでない人生は失敗であり不幸だった。しかし、僕が心療内科病棟で見たいろいろな人たちの人生や生き様は、それまでの僕の価値観を根底から否定するようなものだった。難病を抱え、一見、不幸に見えるような状況でも、何気ないささやかな笑顔から窺うことのできる幸福や、当時の僕自身のように心に光が差さず暗闇の中でむやみやたらに手探りで道を探し回って徘徊し続けるような不幸、いろいろな人生やいろいろな幸不幸を垣間見、肌に感じた。
 そして僕はそこで長い時間をかけ、自分なりに「生きることと死ぬこと」の意味を学び、自分なりの考えを抱き始め、再出発の準備を進めていった。

 高校を3回留年したあげく中退し、大検を取得。医師を目指して勉強するが方針転換して上智大学法学部に入学。学習塾やホストクラブや裁判所で働きながら司法試験の勉強に専念し、その間に学生時代に知り合った女性と結婚、3回目の挑戦で見事合格する。
 
 このような生育歴が今枝仁という男を、そして弁護士を作ったのであった。

 僕は、客観的に見ればかなり「突っ張った」弁護士だろう。自分が正しいと思ったら、周囲との摩擦や対立も恐れないし、対立当事者や社会から反発を受けることもまったく辞さない。
 
 犯罪を犯した人、あるいは犯したとされている人たちを、「自分とは違う人種」とばかりに、他人事のように突き放して見ることが僕にはできない。どんな事件のどんな被疑者被告人にも、彼らが人間である以上、やはり顔を見て対話すれば共感できる部分は多少なりともあるし、共感すれば入り込んでしまう。・・・・・・僕が独特で奇異な自分の生育歴を明らかにしたのも、僕の半生や考えてきたこととF君を取り巻く事情に類似した点があることを示し、僕がなぜF君に共感する部分があり「F君を助けたい」と心から願ったのか、少しでも伝えたかったからだ。

 と言って今枝は死刑廃止論者ではない。
 僕の場合、弁護士になる前に裁判所にいたし、その後は検察官もしていたので、法曹としてはまず被害者や遺族の目線に立ちましたが、誤判の問題は深刻であり死刑の適用については謙抑的になるべきだとは思います。
 ただ一方で、やはり、どうしても死刑にせざるを得ない被告人も実在すると思う、死刑廃止論に与することはできないし、現実的にも日本で死刑が廃止できるとは思えません。

 そう語りながらあえて弁護人を引き受けたわけだから、今枝はF君の犯罪は死刑に相当しないと考えるわけである。
 むろん「永山基準」というものはある。
 1968年に起きた連続ピストル射殺事件の犯人・永山則男に対し、最高裁が死刑判決を下す際に、①犯罪の性質、②動機、③殺害方法の残虐性、④被害者の数、⑤遺族の被害感情、⑥社会的影響、⑦犯人の年齢、⑧前科、⑨犯行後の情状――の「9項目」について考察し、やむをえない場合に限り極刑に処すこともある、とした前例(判例)である。④の被害者の数については、3人以上だと死刑という見方が一般的であると考えられている(永山は4人殺害した)。この基準に従うと、母親と幼児の2名を殺害した当時18歳で前科のないF君は死刑にあたらない。
 だが、永山基準だけではなく、F君の生育歴にやはり情状酌量すべきものがあると、今枝は思っているようだ。自分もまたこの本で初めてF君の生育環境を知って、「やっぱりなあ」という感を強く持った。
 
 F君の父親は家庭内暴力の常習者であった。F君の実母は夫から一週間の通院が必要なほどの暴行を受けていた。給料も家に入れず賭け事に使ってしまう。1981年に生まれたF君は幼いときから父親が母親に暴力を振るうのを見て育つ。その後、暴力はF君にも向かう。ゴムボートから海に突き落とされたり、浴槽の水に頭を押さえつけられたり、左耳の鼓膜が破れるほど殴られたり、理由も分からず突然襲ってくる父親の暴力に怯え、常にビクビクしながら生活していた。
 1993年、F君12歳の歳に、実母は自宅ガレージで首を吊って自殺する。

 人生で一番ショックだったのは、母親の自殺だ。母親と僕とはへその緒で繋がっていた。勉強も、母のためだけに頑張った。折りたたみの机で、母が横に座り勉強した。・・・・・・・母が死ぬ前から、僕は生きることへの執着がなくなっていた。母の死により、僕には、『気持ち』そのものがなくなってしまった。母の中に、大切なものを置き忘れてきた。それで、僕には自分というものがなくなってしまった」(弁護側心理鑑定人との面接でのF君の言葉)
  
 心的外傷体験(トラウマ)の存在によって、犯した犯罪が免責されるべきではない。罪は償うのが当然だ。
 一方、多くの凶悪殺害者が幼少時に‘魂を殺されるような’被虐待体験を持っているという事実は、そしてその地獄のような環境から子供を救い出す手立てを周囲も社会もまったく講じられなかったという事実は、決して看過されてはならないことである。ある意味で、社会の福祉の欠如が後年になって社会に報復したのが、こうした犯罪の姿なのではないだろうか。カンヌグランプリを取ったドイツ映画『白いリボン』(ミヒャエル・ハネケ監督、2009年)を想起する。
 このような考え方は、世間一般的ではないのかもしれない。
 だから、光市事件についても誰も責任を取るつもりのない偏向・捏造報道が連日垂れ流しであったし、F君へのバッシングは中世の魔女狩りそのものであった。橋下弁護士の発言によって焚きつけられた多くの視聴者が、自分では事実関係を調べずに、懲戒請求のなんたるかも知らずに、F君弁護団に対して懲戒請求を起こした。
 確かに弁護団のマスコミ対応にも稚拙で愚昧なところはあったと思う。
 だが、どんな凶悪な殺人者にも裁判を受ける権利はある。弁護人を立てる権利はある。

 今枝は現在、橋下徹弁護士に対し、テレビ番組を通じて弁護団への懲戒請求を扇動したとして民事訴訟を起こしている。

 まともに刑事弁護活動をしたことがある弁護士なら、刑事弁護というものが、たとえ社会全般から憎まれ唾棄されているような被告であっても、その言い分に従い、誠実に弁護しなければならず、その上で社会から弁護人に対しても批判や痛罵があろうとも、最後の1人になっても被告人を擁護すべき立場にあることを当然理解しているだろうし、刑事事件のマスコミ報道がいかに偏向していて、その報道を鵜呑みにしてしまうことで刑事事件や刑事弁護の本当の姿が歪曲されたり、ときにはまったく見えなくなってしまうという現実も理解しているはずだ。弁護士を肩書きにテレビ番組に出演する以上、こういった刑事弁護の意義や困難性と、マスコミ報道を鵜呑みにすることの危険性を、社会に説明し理解を求めようとするのが、本来の姿ではないだろうか。

 「被害者や遺族の気持ちを考えたら、そんな凶悪犯の弁護などできないはずだ」という意見があるが、それは違う。おそらくは、そういう人たちの気持ちを推し量り、共感を持とうとする心ある弁護士こそが、弁護士稼業としては何の利益にもならない凶悪事件の弁護を引き受けていくのである。感受性が乏しく、人間味に欠けたような弁護士は、何の得にも成らない凶悪事件を避けるだろう。凶悪事件の弁護人というのは、大体において、想像力に欠けた無神経な人物ではなく、感受性が強く優しい人間が務めているものだろうと僕は信じている。


 死刑判決を受けたF君(33歳)は広島拘置所に収監されている。
 安部政権下において、どのような判断が下されるのか。
 「うちわ辞職」の松島みどり前法務大臣は「死刑已む無し」の人だったようだが、今度の上川陽子大臣はいかに?

 今枝仁弁護士の今後の活躍と織田信成に負けない号泣風景を期待しようではないか。

号泣のぶなり





● 本:『ドキュメント 死刑囚』(篠田博之著、ちくま新書)

死刑囚2008年発行。

 この書は、平成の世になって世間を騒がせた3人の凶悪殺人者にして死刑囚についてのドキュメントである。著者は獄中の3人の死刑囚と長期間交流し、裁判を傍聴し、自ら編集長をつとめる月刊誌「創」を通じて、彼らの「肉声」を世に発信してきた。

 3人とは誰か。


宮崎勤(みやざきつとむ)
    1988~89年に埼玉県で起こった連続幼女誘拐殺害事件の犯人。
    1989年7月 逮捕
    2006年2月 死刑確定
    2008年6月27日 死刑執行
小林薫(こばやしかおる)
    2004年11月に奈良県で起こった幼女誘拐殺害事件の犯人。
    2004年12月 逮捕
    2006年10月 死刑確定
    2013年2月 死刑執行(本書発行後)
宅間守(たくままもる)
    2001年6月8日に大阪・池田小学校で起こった児童無差別殺害事件の犯人。
    同日、逮捕
    2003年9月 死刑確定
    2003年12月 獄中結婚
    2004年9月 死刑執行

 事件から10~20年以上の歳月が過ぎた現在でも、この3人の起こした事件の比類ない残酷さと社会に与えた衝撃は、生々しく思い起こすことができる。3人の風貌(逮捕時の映像)も、それぞれの審判の過程を通して明らかになった特異な生育環境や性格、精神鑑定が必要とされた言動の奇矯ぶりとともに、いまだに澱のように記憶の底に残り続けている。
 著者は、3人の死刑囚の共通点を次のように述べる。

 力の弱い子どもを犯行の対象にし、精神鑑定で「反社会性人格障害」と診断されたことはもちろん共通だが、それ以外に、例えば3人とも親、特に父親を激しく憎悪していた点である。
 3人とも社会から疎外され、社会とコミュニケーションを保てなかった人物だが、彼らにとって家庭とは、家族とはいったい何だったのだろうか。彼らと接触しながら、私は何度もそのことに思いをはせるようになった。

 こういった記述から明らかなように、著者は3人が冷酷無比にして凶悪な犯行に至った背景に、環境要因とりわけ家族関係を措定している。
 むろん、3人と同じような悲惨な家庭、抑圧的な親、被虐待体験を持ったからといって、すべての子どもが長じて人格障害なり犯罪者なりになるわけではない。むしろ、そうはならない人間のほうが圧倒的に多いだろう。そこには、環境要因に加えて遺伝的要因(気質)が大きく影響するであろう。
 また、当人が家庭とは別のところ(地域社会や学校など)で、どのような人と出会い、どのような経験を積んでいくかという、ある意味「運」の良し悪しというものも作用するであろう。
 そういった複数の「負」の要因が複雑に重なり合った結果として、3人のような犯罪者が生まれると考えられる。
 だが、幼い頃の家庭環境がもっとも大きな要因であることは間違いあるまい。他の要因がすべて「正(+)」であっても、その一つの「負(-)」だけで、すべての「正」を引っくり返すだけの強さを持つであろう。他のすべての要因が「負」ばかりであったとしても、つまり長じて運悪く不幸続きであったとしても、幼い頃の家庭環境が「正」であれば、おそらく人はそれほど破壊的にも破滅的にもならずに、生きていけるであろう。(遺伝子的に反社会的行動しかとれないケースや、殺人を犯してしまうような「カルマ=潜在煩悩」を背負っている場合は別として)。
 むろん、だからと言って、3人が犯した罪が免責されるわけでも、許されるわけでもない。
 著者もまた、3人との交流によって、また事件の背景や3人の生育歴をくわしく知るに及んで、3人にある種の「情」を覚えているように見える。が、ぎりぎりのところで踏みとどまって、3人を擁護し罪の軽減を主張することはしていない。客観的な姿勢は保たれている。


 3人のいまひとつの共通点は、死刑が宣告されたこと、そして、3人とも積極的に死刑になることを希望したところにある。

 もともと社会から疎外され、現実社会に自分の居場所がないと思っていた彼(ソルティ注:小林薫)は、自宅に連れ込んでいたずらをしようと考えた幼女が死に至った現実に直面し、これで自分は死刑になるのだと、遺体を陵辱し、母親に「娘はもらった」というメールを送るなど、むしろ残虐な行為に突き進む。(略)・・・法廷ではいっさい争わずに、むしろ「死刑にしてほしい」と一貫して証言した。


 宅間守死刑囚の場合は、もっと自覚的に、自分を疎外するこの社会に復讐するために凶悪犯罪を犯した。死刑を宣告されてからも、早く執行してほしいと言い続けて、確定から約1年間という異例の早さで死刑を執行された。


 宮崎勤死刑囚の場合も、最期まで死刑判決の意味や、自分の置かれた状況をきちんと理解していたかどうか疑わしい。殺害したとされる4人の幼女や遺族への言葉はいっさいなかったし、むしろ自分は良いことをしたのだという趣旨の言葉さえ口にしていた。

 死刑に犯罪抑止効果がないのは科学的に証明されている。
 そのうえ、「死刑にされたい」がために人殺しをしたり、より残虐な罪を上乗せしたりする人間がいるのだから、死刑にはむしろ犯罪推進効果がある、というべきだろう。
 本書で、著者は死刑制度に対して疑義を呈している。  

 犯罪を犯した人が「罪を償う」とはどういうことなのか。彼らをどう処遇することが本当の問題解決につながるのか。これだけ動機不明と言われる事件が頻発する現実を見るにつけ、死刑こそが有効で重い処罰なのだという思い込みで現実に対処するのは、ほとんど思考停止というべきではないのか。

 「死刑になりたい」から凶悪犯罪を起こした人間を死刑に処するのは、犯人の「思うツボ」だから、死刑ではなく終身刑にして「‘蛇の生殺し’のような生き地獄を味あわせては」という論者もいる。
 それに対して獄中の宅間守の行なった反論は冴えている。

 そこで考えてみよう。もし国が、私の執行を「本人の思うツボ」だと、いつまでたってもしなかったとしよう。そうしたら、社会にいる無差別殺人をしよう、あるいは、恨みによる複数人の殺人をしようと考えている者は、生け捕りにされたら、何年も何年も不快な思いをさせられると思う。そしたらどうするか。無差別殺人ならその場で自爆する事、自刃する事を考えるであろう。
 無差別殺人は、生け捕りにされる無差別殺人より、自らもその場で死ぬ無差別殺人の方が、大量に殺せるのです。

 イスラム自爆テロを考えれば、宅間の言うことは事実であると頷ける。


 ヒューマニズム(人権尊重)の見地から死刑廃止を訴える者が、何らかの答えを用意しなければならないテーマがここにはある。
 すなわち、本人が強く死刑を希求しているときに、「死刑反対」運動をするのは、当人の希望や自己決定に逆らうことになる。獄中の死刑囚を生かそうとする外の人間たちの善意あふれる行動は、本人にとって迷惑千万であり、善意の押しつけになってしまう。死刑より残酷な「生(サバイバル)」を強要するのは、人権の観点からどうなのか。
 なかなか死刑を執行してくれないことに業を煮やした死刑囚が、独房で自殺を図ったとしたら、元も子もない。
 死刑廃止を訴えるならば、それと共に「では、宅間守や小林薫や宮崎勤のような死刑を希求する人間を、社会はどう処遇していくのか」という代替案が必要であろう。
(ある意味、これは「尊厳死(安楽死)」をどう考えるかというテーマと通底するところがある。)


 さて、自分(ソルティ)は死刑制度には反対である。
 その理由は別記事でまとめた通りなのであるが、いま一つそこに書かなかった理由を自分の中に発見した。
 それは、戦争犯罪との関連である。
 上記の3人が行なった犯行は確かに極悪非道である。鬼畜の所業と言ってよい。
 しかし、日本人はアジア太平洋戦争中にそれと同じような、いや、それをはるかに上回る残虐な虐待・殺人行為を大量に行なっているのである。
 わかりやすい例が731部隊の行なった捕虜(マルタ)の人体実験の数々である。それは実験という名の拷問であった。
 731部隊に関わった人々は、戦後、実験結果を戦勝国であるアメリカに引き渡すことを条件に、戦犯たることを免れた。誰一人も処罰を受けなかった。それどころか部隊の幹部連中は、実験で得られた技術を活用し、戦後、医療系企業を設立し金儲けをはかり、また医学会の重鎮となっていく。
 戦時中のことで、「お国のために」やったことで、アメリカの利益を図ったがゆえに放免されて、あれだけの残虐行為の罪が帳消しにされる一方で、なぜ一市民が平和時に起こした殺人のために「お国によって」死刑の宣告を受けなければならないのか。
 この不条理に自分はまったく納得がいかない。
 宮崎勤や宅間守を死刑にするのであれば731部隊の首謀者も(もうほとんどが没しているだろうが)死刑に処すべきであるし、731部隊の殺人者を無罪放免するのならば国は他の誰をも「人殺し」によって裁く権利は持っていまい。
 もちろん、このような不条理は日本国に限って言えることではない。


一人殺せば殺人者、百万人殺せば英雄。殺人は数によって神聖化する。
One murder makes a villain. Millions a hero. Numbers sanctify.
 byチャーリー・チャップリン




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