ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●死刑制度は止めよう!

● 映画:『帝銀事件 死刑囚』(熊井哲監督)

1964年日活
108分、白黒

帝銀事件死刑囚
主役の信欣三

 戦後間もない1948年(昭和23年)1月26日、東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店で、死亡者12人に及ぶ毒殺強盗事件が発生した。
 本作は帝銀事件をテーマにした熊井哲の初監督作品である。

 前半は毒殺事件の再現と警察や新聞記者らによる捜査の様子、後半は容疑者として逮捕された画家・平沢貞通の取り調べと裁判の模様、が描かれる。
 平沢貞通は有罪となり最高裁で死刑が確定した。
 が、刑の執行も釈放もされないまま39年間を獄中で過ごし、この映画の公開から20年以上経った1987年(昭和62年)5月10日、獄中で病死した。
 95歳であった。

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平沢貞通画伯

 この事件については、松本清張が『日本の黒い霧』で取り上げているほか、横溝正史の『悪魔が来りて笛を吹く』でも「天銀堂事件」と名を変えて素材にされている。
 一言でいって、たいへん不気味な事件である。

 平沢貞通は冤罪の可能性が限りなく高く、真犯人は731部隊(大日本帝国陸軍関東軍防疫給水部本部)の関係者ではないかとする説が濃厚である。
 総力挙げて犯人探しに取り組んでいた警察が、731部隊に目をつけた途端、GHQからストップがかかったという。
 のちに反権力の社会派作家として名を成した熊井哲は、むろん、冤罪事件としてこれを描き、国家の謀略と暴力を告発している。
 綿密な取材に裏打ちされたリアルかつスリリングな演出と、信欣三、内藤武敏、笹森礼子、北林谷栄、鈴木瑞穂といった大スターではないが実力派の役者たちの起用が、ドキュメンタリー性を高め、作品にリアリティと品格をもたらしている。

 冒頭の毒殺場面において、真犯人は後ろ姿しか見せていない。
 その声は加藤嘉が担当している。

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青酸カリ入りの液体を薬と偽って銀行員に処方する真犯人
731部隊は中国で捕虜に対して同様の実験をおこなっていた



おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 本:『赤後家の殺人』(カーター・ディクスン著)

1935年原著刊行
2012年創元推理文庫

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 「赤後家」とは何のことかと思っていたら、「赤い(血塗られた)+後家(未亡人)」、英語ならred widow、フランス語なら la veuve rouge という隠語が示す、恐ろしき器具のことであった。
 ギロチンである。

 先祖代々、赤後家部屋すなわちギロチン部屋と呼びならわされている“開かずの間”において、客として呼ばれたヘンリ・メルヴェル卿はじめ屋敷の住人たちの目の前で起こる密室殺人。
 犯人はどこから部屋に入って、どうやって殺人を行い、どうやって立ち去ったのか?
 カーお得意の不可能犯罪である。

 その部屋がギロチン部屋と呼ばれるようになったのにはもっともな理由があって、過去に一人っきりでこの部屋にいた4人が謎の死を遂げているからであり、さらには、この屋敷に住む一族がフランスの有名な処刑人サンソン家の血を引いているからである。

 死刑執行人の家系であったサンソン家の存在はまぎれもない史実。 
 とくに4代目当主シャルル=アンリ・サンソン(1739-1806)は、フランス革命に際して、ルイ16世と王妃マリーアントワネットはじめ、ダントン、ロベスピエール、シャルロット・コルデーらの首を刎ねたことで知られる。
 残虐な男のイメージを持たれがちだが、アンリ・サンソン自身は死刑廃止論者、しかも王党派だったという。
 自分が嫌なことでも仕事ならやらねばならない。
 ドイツならシュミット家の例にも見るように、家業は継ぐものという時代だったのである。

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kalhhによるPixabayからの画像

 赤後家部屋の由来や血塗られた歴史が、登場人物の一人によって語られる部分が興趣深い。
 歴史オタク、怪奇オタクだったカーター・ディクスンの面目躍如。
 人を殺す部屋という発想や冒頭の謎の提示の仕方はさすが巨匠の腕前、ぐんぐん引き込まれた。
 が、そこをのぞけば、小説としての出来は良くない。

 登場人物の描き分けが中途半端なため誰が誰なのか曖昧になって、途中何度も扉裏の登場人物表に立ち戻ることになった。もっとも、ソルティの記憶力の低下のためかもしれないが。
 構成もずさんで、次から次へと話が展開するため、読むほどに混乱し、いらいらするばかり。
 メルヴェル卿の独善とわがままに振り回されるマスターズ警部同様、読者も鼻面をあちこち引き回されて、じっくり推理の筋道を見つける暇がない。
 明晰な語り口の欠如という、カーター・ディクスンのミステリーの欠点がここに集約されている。

 事件の時系列や各々のアリバイや証拠や証言といったその時点で分かっている事実をきちんと整理して読者の前に呈示し、解明すべき謎がどこにあるのかリスト化することによって、読者が事件全体を概観し、容疑者一人一人について犯行の動機と機会を検討し、真犯人やトリックを自ら論理によって推理する――本格推理小説ならではの楽しみを与えてくれないのである。
 だから、最後にメルヴェル卿によって差し出されるトリックの解明には、催眠術師による目くらましを喰らった気分にさせられる。
 見事に引っかけてくれたことの快感とはほど遠く、詐欺にあったようなすっきりしない気分で読み終わる。

 メルヴェル卿なりフェル博士なりに、ホームズにおけるワトスン、ポワロにおけるへイスティングズのような客観的な記録者を相棒として付ければ、この欠点は回避できたのにと思う。
 逆に言えば、明晰な語りをあえて取らないことで、読者を煙に巻いている。
 物語が面白ければ、その欠点はある程度まで許容の範囲と思うけれど、本作は読者の心理を無視し過ぎ。 

 これが名作と言われるのは腑に落ちない。



おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損






● 本:『ルポ 死刑』(佐藤大介著)

2021年幻冬舎新書

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 副題は「法務省がひた隠す極刑のリアル」。
 著者は1972年生まれ。
 毎日新聞社、共同通信社での記者活動を経て、現在、共同通信社の編集員兼論説委員を務める。
 
 著者の基本姿勢は死刑廃止なのだと思うが、ここではそれを声高に訴えていない。
 むしろ問題としているのは、副題にある通り、日本の死刑制度の実態が法務省によって徹底的に伏せられていて、国民に正確な情報が伝えられていない点である。
  •  死刑囚はどのような日常を送っているのか。
  •  外部とのやり取りはどの程度許されているのか。
  •  日々なにを思って過ごしているのか。
  •  誰がどう死刑執行日を決めるのか。
  •  どのように受刑者に伝えられるのか。
  •  死刑がどのように行われ、誰と誰が立ち会っているのか。
  •  担当する刑務官はどのような思いを抱えているのか。e.t.c.
 死刑制度の是非はいったん別として、米国では情報を公開することで議論が起き、それだけ死刑制度について考えることができる。一方、日本では密行主義で情報はほとんどなく、死刑が行われながらも議論は深まらない。死刑は国家が合法的に命を奪える究極の権力行使であるのにもかかわらず、多くの人々は無関心という状態が日常化している。 

 我々国民は、死刑に関する十分な情報を与えられないまま、死刑制度の是非を議論する環境に置かれている。
 確かにこれはおかしい。
 国がどのように一人の国民を監禁し抹殺したかを、他の国民たちが知ることができないのは、殺された対象がどんな人間であるかに関わらず、由々しき事態だ。
 国家が一国民に対しどのようなことをなし得るかが不透明にされているからだ。
 民主主義の根幹にかかわる問題である。

 本書では、死刑囚、元死刑囚の遺族、弁護士、刑務官、死刑囚の世話をする衛生夫、検察官、法務省官僚、牧師や神父や僧侶などの教誨師などへのインタビューやアンケートなどをもとに、日本の死刑囚の置かれている状況や彼らの思い、死刑執行までの具体的な段取りが、でき得る限りに描き出されている。
 日本の死刑は絞首刑だが、これは明治6年に作られた法律によるもので、140年変わっていないという。
 科学も医学も薬学も進み、もっと穏やかな殺害方法があるだろうに、「絞首刑は苦痛がもっとも少なく、残虐性なし」と結論付けた1828年の学者論文をもとに、いまだに他の手段を検討することなく続けられている。
 サディストか。
 死刑執行方法見直しの議論は民主党政権時代に持ちあがっていたのだが、2012年末の総選挙で民主党が惨敗し、政権が再び自民党に戻ったことで立ち消えてしまった。
 ときの法相は谷垣禎一、首相は安倍晋三であった。
 
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Heinz HummelによるPixabayからの画像

 ソルティは基本、死刑廃止論者である。
 が、時々、「こいつだけは死刑もやむを得ない」と思わざるをえないような、残虐極まりない卑劣な犯行、個人的に許しがたいと感じる犯罪者が出現し、そのたび心が揺れ動く。
 すぐに思いつくのが、1988年2月に起きた「名古屋アベック殺人事件」であり、同じ年の11月に東京都足立区で起きた「女子高生コンクリート詰め殺人事件」である。
 この2つの犯罪の凄惨なまでの残虐さは言語に絶するもので、被害者の受けた恐怖や苦痛や絶望、被害者遺族の受けた打撃や苦痛や喪失感を想像すると、「目には目を、歯には歯を」ではないが、加害者にも同等の苦しみを与えなければ承知できない、「死刑は当然」と当時思った。
 個人的にソルティは、女性が男達によって拉致監禁され、暴行され、強姦を繰り返される類いの犯罪が一番嫌いで、許し難く思うのだ。

 びっくりしたことに、本書にはなんとこの「名古屋アベック殺人事件」の加害者、それも6人の加害者のうちの主犯格Nが登場する。
 一審でNは未成年であったものの死刑判決を受けた。そこまではソルティも知っていた。
 その後、二審での6年余りに及ぶ審議の結果、無期懲役が下り、判決が確定した。
 現在、無期懲役囚として岡山刑務所に収容されていて、著者は数年前からNと面接や手紙のやり取りを行ってきた。
 「そうか。生きていたのか・・・」
 驚くとともに、いまや40代になるNという男の変化に戸惑った。
 服役態度の良い模範囚であり、被害者遺族への謝罪や償いを心がけ、更生の途上にあるらしい。
 35年前のNと同一人物なのかと思わず疑ってしまった。

 それに輪をかけて驚いたのは、被害者女性の父親とNとが文通をしているという事実であった。
 一体そんなことが可能なのか!
 大切な娘をこれ以上ないほど残酷なやり方で殺されて、自ら復讐することも叶わずに、人生を滅茶苦茶にされ、せめてもの慰みの「死刑判決」すら「無期懲役」に減刑されてしまった。
 そんな憎き相手と文通できるこの父親の存在に愕然とした。
 もちろん許しているわけではなかろうが、それとは別に、“人と人として”相手と対峙できる度量というか、精神性に恐れ入った。
 韓国のドキュメンタリー『赦し――その遥かなる道』(チョウ・ウクフィ監督)を観たとき、妻と子供を殺された父親が、その殺人犯の減刑運動をしているエピソードを知って、ぶったまげた。
 それはキリスト教など宗教的バックボーンのある特別な人の場合と思っていたけれど、日本にも同じような人がいたのである。
 この父親がいる以上、ソルティはもはや、「名古屋アベック殺人事件」の犯人を断罪することができなくなった。

観音さま

 世界各国の約7割が死刑を廃止、または事実上廃止しているなかで、日本は少数派に属している。そうした中、米国が連邦レベルでの死刑執行を停止したことから、先進国主体の経済協力開発機構(OECD)加盟国(38ヵ国)で通常犯罪に対する死刑執行を続けているのは、日本だけと言うことができる。

 日本には日本独自の文化や風習や価値観がある、外国の目を気にしてそれに合わせる必要はないと言うのは一見カッコよいけれど、意地を張って国際連盟脱退の二の舞のようなことにならなければよいのだが・・・・。
 あとからどれだけ高くついたことか。




おすすめ度 :★★★

★★★★★
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● 映画:『ウォーデン 消えた死刑囚』(ニマ・ジャウィディ監督)

2019年イラン
90分、ペルシア語

 原題 Sorkhpust は、調べたところペルシア語で「インド人」って意味らしいのだが、なぜインド人なのか不明。
 ウォーデン(warden)は英語で「刑務所長」の意である。
 
 イランの砂漠の中にある巨大刑務所のお引越し中に、死刑囚が一人いなくなった。
 脱獄でもされた日には大事件である。
 刑務所長は、男がまだ所内のどこかに身を隠していると確信し、部下を集めて必死に探し回る。
 死刑囚のことをよく知るソーシャルワーカーの女性がやって来るが、彼女は男の無実を訴え、刑務所長と対立する。
 完全撤退の期限が刻々と迫るなか、刑務所長は、男を隠れ処からおびき出すべく、ある作戦を決行する。
 
 かくれんぼミステリーという、わかりやすい設定。
 沢口靖子主演の『科捜研の女』に出てくるような最新科学機器を使えば、すぐに男の居場所がわかりそうなものなのに、全館に向けて拡声器で投降を呼びかけたり、捜査犬を使ったり、ごきぶりバルサンのように煙でいぶり出そうとしたり、非常に原始的。
 イランの地方刑務所ってまだこんなレベルなの?――と思ったら、これは1960年代を舞台とする話であった。
 たしかに、中庭に置かれた首吊りの死刑台は前世紀の遺物である。

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kalhhによるPixabayからの画像

 一つ一つのショットが素晴らしい。
 構図も色彩も照明もカメラワークも手練れている。
 そのため、刑務所があたかも中世のお城のように美しく見える。
 最後まで死刑囚の姿を映し出さないやり方も巧い。
 姿の見えない主人公が、かえって存在感を増して、サスペンスを高めている。
 三島由紀夫の『サド侯爵夫人』を思い出した。

 ソーシャルワーカーの女性が元AKBの前田敦子そっくりである。
 敦ちゃん、いつの間にイラン映画にデビューしたの?・・・と思った。
 男尊女卑のイメージの強いイスラム教国の、男性社会の権化である刑務所という空間に、ヒジャブをつけない一人の女性ソーシャルワーカーがこうやって人権擁護の仕事をしていることに驚いた。
 60年代のイランで、こんな状況があったのだろうか?

 刑務所長を演じる男優は、一見、貫禄ある冷徹な物腰のうちにナイーブさと優しさを秘めた男を作り上げている。
 邦画で言えば、往年の松竹三羽ガラスである上原謙・佐分利信・佐野周平を足して3で割った感じ。(かえってよくわからない?)
 すなわち、イイ男である。

 物語的には予想通りのヒューマニズムな結末でそこに意外性はないが、脚本、演出、撮影、演技、音響効果ほか非常に完成度の高い作品で、またひとりイラン映画に一流監督が誕生したことを告げてあまりない。





おすすめ度 :★★★★

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● 本:『死刑について』(平野啓一郎著)

2022年岩波書店

 この作家の小説は読んだことがないのだが、ツイッターではよく見かける。
 その政治的スタンスはソルティとほぼ一緒で、作家の中では信頼の置ける人という印象がある。
 死刑についても廃止の立場をとっている。
 本書は、平野が2019年に大阪弁護士会主催の講演会で話した内容が元になっている。

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 京大法学部に在籍していた平野は、もともと死刑存置派(死刑はやむを得ない)だった。
 それが20代の終わりにフランス生活を体験し、死刑反対を当然のこととする文化人と交流するうちに、自らの立場を問い直すようになった。
 30代はじめに犯罪被害者遺族の生をテーマとする『決壊』(2008年)という小説を書いたことで心が変化し、死刑制度に嫌気がさして、死刑反対を明言するようになった。
 以後、死刑廃止を訴えている。

 平野が死刑に反対する理由は、ソルティが解するところ以下の通り。
  1. 冤罪の可能性を払拭できない・・・警察のずさんな捜査や証拠の隠滅や捏造、自白強要の実態がある。(袴田事件が典型的)
  2. 加害者の生育環境が悲惨なことが多い・・・行政や立法の不作為が結果として犯罪者を生み出しているのに、個人のみに責任追及してよいのか。
  3. 死刑は国家による殺人である・・・人を殺してもよい社会のままでよいのか。国の倫理を加害者と同じレベルに堕落させてよいのか。
  4. 犯罪抑止効果に対する疑問・・・死刑による犯罪抑止効果のないことは証明されている。
  5. 死刑囚の反省・教育効果に対する疑問・・・死刑と向き合わせることで加害者を反省させ改悛させるという方法が、人の更生のあり方として正しいのか。恐怖をもって他人を変えようとするのは、生徒への体罰と変わらない。
 どれももっともな意見で、スッと入った。
 むろん、平野は、犯罪被害者に対する社会的な支援の必要性も強く訴えている。
 これまで死刑反対を訴える人たち(人権派弁護士などのリベラル派)の言葉が、なかなか世間に受け入れられなかった理由の一つは、被害者遺族の置かれた苦境を軽視してきたからと述べている。

 死刑について考えていく時、被害者がどこまでも尊重され、被害者を社会的にどう救済していくべきかを考えることはとても重要です。人間に対する優しさという、とても単純だけど、大切な価値観が社会に浸透していくことで、孤立し困窮している被害者を社会が包摂し支えていくことが進んでいくのだと考えます。

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 次に平野は、日本で死刑が支持される理由を挙げている。
  1. 人権教育の失敗
  2. メディアの影響・・・わかりやすい勧善懲悪ストーリーの弊害
  3. 死をもって償う文化・・・切腹に代表される
  4. 宗教的背景が欧米とは異なる・・・「裁きは神のもの」「汝の敵を愛せよ」という文化ではない
  5. バブル崩壊以降の自己責任論の高まり
 1の人権教育についてこう語る。

 人権というものが、欧米の思想において、どのような歴史的な経緯をたどって確立されたのか、そして、どのようにして近代化とともに日本に導入されてきたのか。そういう思想が存在しない社会も有り得た中で、それを尊重する方向を目指して歩んできて、歩み続けようとしている。人間にとって、そのことがどういう意味を持つのか。そうではない世界とどちらがよかったのか。そういうことを考えさせることが、人権についての根本的な教育ではないでしょうか。

 1970年代に埼玉県で義務教育を受けたソルティは、人権教育を受けなかった。
 外部から講師を招いての人権講演会というものもなかった。
 「思いやりを大切に」「人に迷惑をかけないようにしよう」式の道徳の授業があっただけである。
 わずかに高校に入ってから同和教育まがいを1時間受けたが、関連ビデオを視聴するだけのアリバイ的授業(「同和教育やりました」)で、とても人権教育と言えるものではなかった。(通学圏内で起きた狭山事件すら学ばなかった)
 公民や倫理社会の授業では、日本国憲法はじめ西欧史の権利章典やら人権宣言やらも学習したが、それは試験のために暗記する文言以上の意味は持たなかったように思う。
 最近の教育現場についてはよく知らないが、映画『教育と愛国』に描かれているような教育現場への不当な政治的圧力を見聞きするに、人権教育も後退しているんじゃないかと危惧する。
 つまり、多くの日本人は人権教育をないがしろにされたまま、人権のなんたるかを理解しないまま、社会に出てきている。

 ソルティは幸い(?)自らがゲイというマイノリティだったからこそ、社会人となってから差別について考え、人権について学ぶ機会を自ら作って来られたが、そうでもなければ、普通に大過なく生きているマジョリティが人権について学ぶ僥倖はなかなか訪れまい。
  
 国民の人権意識が低いことで一番得するのは、ほかならぬ国家権力という名の支配者層である。
 彼らにとっては、国民が「人のもつ普遍的権利」などという厄介なものに目覚めてしまわないよう、下からあがってくるイッシューはなんであれ、個々人の価値観や道徳観や感情レベルの問題に引き落とし、賛成派と反対派がいつまでも喧嘩してくれている方が都合がよい。
 死刑制度の議論も、同性婚の議論も、同じような沼にハマっているように思う。
 

 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★
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● 本:『死刑のある国で生きる』(宮下洋一著)

2022年新潮社

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 著者の宮下洋一は、高度生殖医療や安楽死など、人間の誕生と死をめぐる現場を取材し、本を書いている。
 スペインとフランスを拠点とし、欧米諸国を飛び回って取材できるだけの国際感覚、語学力、交渉力、行動力、取材力、そして思弁性を兼ね備えた才能あるジャーナリストである。
 本書の一番の特徴は、人権理念の強い欧米における死刑制度――ヨーロッパでは独裁国家であるベラルーシをのぞき死刑は廃止されている――を取材することで、日本の死刑を巡るさまざまな状況を相対化し、「死刑のある国=日本」で生きるとはどういうことなのかを考えるきっかけを与えてくれるところにある。
 執筆動機をこう語っている。

 死刑制度が犯罪抑止につながるとか、死刑廃止こそが人権の尊重であるとか、一般的な存続の議論も重要だろう。しかし私が知りたいのは、多くの国々が世界の潮流として、死刑廃止を決めてきた中で、日本がその実現に向かわない理由、そしてその潮流に乗る必要がそもそもあるのかどうかだ。それを各国の現場を取材しながら見極めたい。

 本書でメインに取り上げられているのは、以下のようなエピソードである。
  1. おのれの妻子を殺した44歳の死刑囚との面会、および1年4か月後の処刑の様子(アメリカ)
  2. フランスの死刑制度廃止(1981年9月)に決定的な役割を果たした元・司法大臣ロベール・バダンテールへのインタビュー(フランス)
  3. 勤めている介護施設で11人の高齢者を殺害し、懲役40年を受けて服役中の男の地元の声(スペイン)
  4. 刑を終えて出所した殺害者と、彼に殺された被害者遺族とが、わずか50メートルのところに暮らしている村の様子(スペイン)
  5. おのれの妻子6人を手にかけたものの、犯行当時の記憶を失っている30代の死刑囚との面会(日本)
  6. おのれの義母と妻子を殺した死刑囚の減刑を求め、加害者家族を支える会を立ち上げた地元の人々(日本)
  7. 犯人Aに叔父を殺されたにもかかわらず、その死刑執行に反対する被害者遺族である住職と、同じ犯人Aに家族を惨殺され、「犯人が苦しみ続けるなら死刑でなく終身刑でもかまわない」と言う被害者遺族(日本)
  8. 正当防衛という名目のもと、警察官による「現場射殺」が増えているフランスの現状(フランス)
 いずれのエピソードにおいても、お国事情や事件のあらましなど、理解の前提となる知識を簡潔に上手にまとめる手腕、臨場感ある情景や対話の描写など、書き手としての巧さを感じさせる。
 日本とは異なる風土、価値観を有する異国の事情は興味深い。
 それぞれの現場に出向いて、当事者や周囲の人々の声を聞き、取材をひとつ終えるごとに、揺れ動いていく著者の心境や変化していく視点、深まっていく思考のあとが辿られる。
 死刑制度をどう考えるかは、国により、地域により、文化により、歴史により、なされた犯罪の質により、語る人の立場や思想により、それこそ千差万別。そこに「正しいor 正しくない」という判定は容易に下せない――というのが、本レポートより浮かび上がってくる見解であろう。

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 そんな中、ヨーロッパ各国は死刑廃止に舵を切り、日本は死刑を存続させている。
 最終的に著者は、「日本においては死刑制度はこのまま残したほうがいい」という結論に達したようだ。
 その理由をこう述べている。

 国際社会は日本に対し、死刑を廃止するよう求めている。しかしそれは、文化、宗教、生活様式が異なる国の人々が考える「普遍的価値観」であり、それは日本のそれとは相容れないのではないか。

 日本人は、罪人が罪を自覚して償うのであれば、たとえ死刑が執行されても「浄土へ還る」ことができるという宗教観を有しているように思える。それは、欧米人には理解し難い日本特有の価値観であるのかもしれない。
 その視座からも、日本人にとって死刑とは、罪人が国家によって処刑され、地獄に落ちるというキリスト教的な発想よりも、国家が個人を悔悛させながら、死をもって浄土へ向かわせるという感覚のほうが近いのではないか。

 日本取材を始めた当初から、私は、日本人にとっての正義とは何かについて、考えを深めてきた。それは、国民が生きる価値をどう解釈するのかに関わってくる。欧米のように神を信じる宗教的な社会とは違い、世俗的なありのままの社会で生きる日本人は、個人よりも集団との関係性の中で、その価値を発見し、幸せを見出そうとしているように見える。
 言い換えれば、身内の死は、家族のみならず、集落全体の悲しみにつながる。つまり、殺人犯に対する被害感情は、被害者遺族だけでない多くの人々が感受する。私は、死を語り合う際に、欧米と日本では、その感受の領域に本質的な差があると思っている。

 結局、日本人は、欧米人のそれとは異なる正義や道徳の中で暮らしていることになる。だからこそ、西側先進国の流れに合わせ、死刑を廃止することは、たとえ政治的に実現不可能ではなくとも、日本人にとっての正義を根底から揺るがすことになりかねない。

 それぞれの国で、独自の価値観に則った裁きがあれば、それでいいのではないか。

 以上の考察で示されるように、本書は、死刑制度という題材を巡ってなされた日本人論、比較文化論ということもできる。
 個人主義、権利意識の高いヨーロッパでの生活の長い著者の言だけに、傾聴に値するところである。

 一方、ソルティは、この結論は最初から(取材前から)準備されていたのではないかという印象も受けた。
 一つには、エピソードが語られる順番である。
 上記1~8のエピソードは取材した順番通りに時系列で並んでいるので、そこに著者の編集上の作為は認められないものの、このエピソードの順に読んでいったら、読者は、著者と同じ見解(=日本においては死刑制度はやむを得ない)に達しやすいだろうなあと思った。
 もしこれが、8の「現場射殺」のエピソードから始まって、2のバダンデールへのインタビューを経て、1の「処刑現場への様子」で終わっていたら、全体としては同じ内容であっても、そこから著者が達したのとはまったく反対の結論を導き出せそうな気がする。
 つまり、取材の順番(仕事の遂行計画)を決める段階において、著者の中である種のストーリーができていた可能性があるのではなかろうか。
 そもそも、執筆動機に見る通り、最初から著者は「死刑制度の是非」を問うことをテーマとしているのではない。
 日本が、死刑廃止の世界的「潮流に乗る必要があるのかどうか」を問うているのだ。
 「死刑なしでは社会は収まらないのではないか」という問いを長い間もっていたと、著者は述べている。
 してみると、本書の狙いは、日本で死刑制度を残すべきもっともな理由を探すことにあったのではなかろうか。

 あとがきで、思わず目を疑うような箇所があった。

 生まれ育った国の下で、人はその社会に適応する術を身につけ、喜びを見つけたり、正義を見出したりしていく。そして、その国で培われた伝統や文化、制度や道徳を重んじながら暮らしているのである。
 しかし、異国の異質な価値観の押しつけや干渉に譲歩すれば、遅かれ早かれ、国の基盤は揺らいでいくだろう。西洋諸国が提唱する「ヒューマンライツ」(人権)は、全世界に通用する普遍の権利と言えるのか。私は、この点に違和感を持ち続けていた。
(ゴチはソルティ付す)

 普遍的価値としての「人権」に疑いを抱いている。
 これはかなり危険な、そして反動的な思想ではなかろうか。(中川八洋の著作を想起した)
 ことは、死刑制度に対する是非の問題だけでは済まない。
 人種差別、民族差別、女性差別、性的少数者差別、部落差別、障害者差別、高齢者差別、病人差別、言論・表現の自由、集会の自由、信仰の自由、教育の自由、幸福追求の自由、生存権に関わる問題である。
 人権思想の輸入あってはじめて我が国民はこうした差別を弾劾できる言葉を手に入れ、現在あたりまえのものとして行使している数々の権利に目覚めたのである。
 それらを著者は、西洋由来だからと言って、否定したいのだろうか。
 ちょっと理解に苦しむ。
 著者が、人権概念の普遍性について普段から「違和感を持ち続けていた」のであれば、死刑制度についても最初から「結論ありき」だったのではないかという疑いを持たざるを得ない。

 一読者として言わせてもらえば、死刑制度や安楽死について調べたり書いたりするのもよいが、著者にイの一番にやっていただきたいのは、ヒューマンライツ(人権)について違和感を持つようになった経緯に関する自己省察である。
 それを言論・表現・出版の自由を駆使して、ぜひ発表してほしい。

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おすすめ度 :★★★

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● ツボにはまった20年 本:『死刑のある国ニッポン』(森達也、藤井誠二共著)

2015年河出文庫

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 現在、世界195ヵ国のうち、7割の国は死刑を廃止または停止しており、実際に死刑を執行しているのは54ヵ国のみという。
 また、経済協力開発機構(OECD)38ヵ国のうち、死刑制度があるのはアメリカ・韓国・日本のみで、アメリカは半分の州で廃止または停止、韓国は1997年を最後に執行していない
 一方、日本の死刑の執行件数の推移を見ると、60年代132件→70年代94件→80年代15件、と減少し続け、このまま死刑廃止に向かうかと見えたものが、90年代36件→2000年代46件→2010年代48件、とぶり返している。
 明らかに、国際社会の潮流と逆行している。
 2019年の世論調査では、日本人の約8割(!)は死刑制度を容認している。

 なぜ、日本では死刑制度が廃止されないのか?
 なぜ、日本人の多くは死刑を肯定しているのか?

 著者の一人である森達也は、次のような理由を挙げる。
  • 体感治安がメディアの扇動によって急激に悪化していること。(実際の治安は必ずしも悪化していないにもかかわらず)
  • 日本人は多数派につきたいとするメンタリティが強いこと。
  • 掟やルールにそむく者に対しての罪責感や、強い権力に対しての従属意識が強いこと。
  • 多くの人が死刑の実態を知らないこと。
  • 被害者遺族への表層的な共感が、被害者への救済よりむしろ加害者への憎悪に転換していること。
 むろん、これらの背景には、生殺与奪つまり国民の生命を奪うことができるという、考えられ得る限り最大の権力を、簡単には手放したくない勢力の思惑があるのだろう。(それはおそらく、「社会が変わってしまう」から同性婚に反対する勢力と、かなりの程度まで重なるように思う)

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 本書は、死刑廃止派の森達也と、死刑存置派(あるいは反廃止派)の藤井誠二による対談かつ討論である。
 と言っても、「リベラルV.S.保守」「左翼V.S.右翼」といったような真っ向から対立する、あるいは反目し合う者同士の対決ではない。
 元オウム真理教信者の日常を描いた『A』シリーズや、業界タブーの内実を暴いた『放送禁止歌』などで知られる森達也が反体制・反権力であることは言うまでもないが、戦後沖縄の売春街を綿密な取材と調査でレポートし、日本とアメリカの狭間で翻弄され続けた沖縄の姿を浮き彫りにした『沖縄アンダーグラウンド』を著した藤井誠二もまた、体制の徒ではない。
 藤井のデビュー作は、出身地である愛知県の管理教育批判であるというから、基本的には反体制・反権力の人と言っていいだろう。
 本書は、反体制という同じ舟に乗っている者同士の、死刑制度をめぐる「異見」の衝突である。

 なので、議論の前提となる部分において、両者の認識はかなりの部分、共通している。
 たとえば、
  • 論理的にはもはや死刑制度を延命させる理由は存在しない。(死刑に犯罪抑止効果はない)
  • 死刑のやり方や死刑情報についてきちんと国民に公開すべきである。
  • 冤罪をなくすために警察や検察は最大限の努力と改革をすべきである。
  • 硬直化した司法システムは変えるべきだが、いまの裁判員制度には問題が多い。
  • 犯罪被害者や遺族の権利やケアを充填させることが重要である。
  • 横ならびの犯罪報道に見られる思考停止ぶり。
 これらの共通認識を踏まえた上で、両者は討議の席につく。

 本書は、死刑制度に関する様々な論点が取り上げられて、この問題の整理に役だつばかりでなく、オウム真理教地下鉄サリン事件(1995年)以降の日本社会の司法やメディアや治安維持をめぐる状況が概観されており、死刑制度を支える日本的状況について考察する一助となるものである。
 死刑制度をどう思うかは、問われた人間の世界観や宗教観や人間観、つまりはアイデンティティの深いところを如何するリトマス試験紙であることが分かる。

リトマス試験紙

 藤井は、死刑制度存置を主張する理由を次のように述べる。

 何人殺しても、いかなる非道なやり方で殺しても、その加害者の命は守られるということがどうしても納得できないからです。いままで議論してきたように矛盾点はある。最後の最後に残るのは、「殺された側」の尊厳や応報感情をどのように考えていくのか、ということに尽きると思います。何人殺しても、大量殺戮をしても、国家がその命を保障するということについては、どう考えてもぼくの中で倫理的に受け入れがたい。

 藤井がこのような考えに達した背景には、犯罪被害者や遺族の取材を通して、この国で彼らの置かれてきた劣悪な状況――それは最近ようやく改善されつつある――を知るとともに、彼らの思いを真摯に聞き続けたことにあるようだ。
 もともと死刑は廃止したほうがいいと漠然と思っていたものが、取材を通して被害者の現実を知った結果、「殺された側の声や痛みを看過してきた自分に対しての慚愧の念に苛まれ」たのである。
 被害者側に共感すれば、「死刑反対!」とは簡単に言えなくなるのは自明の理であろう。

 一方、死刑廃止を確信的に唱える森達也の理由は、簡潔にして明晰。
 命の尊厳である。

 命とは法やシステムで規定されるようなものではない。

 人は人を殺す本能を持っていない。なぜなら人は群れる動物だから。戦争や殺人がなくならない理由は人間に闘争本能があるからだという人は多いけれど、人には闘争本能はあっても、殺戮の本能は保持していません。あるいは殺戮の本能がもしあったとしても、これを抑制する本能が強く働いている。

 人は人を殺してはいけない。殺させてもいけない。人を殺したことを理由に殺してもいけない。

 人を殺さないこと、人を助けることは、人間の本能(本然と言うべきか)であると言う。
 すなわち、ぬち(命)ど宝
 人を殺した人間の命もまた
 だから、江戸時代の武士のような仇討ちはすべきでない。
 被害者遺族によっても、国家によっても、新たな殺人は生み出すべきでない。
 簡潔にして明晰だけれど、被害者遺族はもとより、世の死刑存置派を説得するにはあまりに強引な、あまりに“お花畑”な、性善説にもとづいた(ある意味スピリチュアルな)言説ととられかねない。
 森の唱える「元来、人は人を殺せないようにできている=本能説」があちこちで批判を浴びたことは、本書で森自身が告白している。
 当然ここでも、対談相手の藤井を折伏することも宗旨替えさせることも叶わず、「森節だなあ」などと笑われている。
 むしろ、次の理屈のほうが説得的であるかもしれない。

 死刑が犯罪抑止に役立っていないことが明らかになった今、死刑存置には論理的整合性がないことは、藤井さんも同意しますね。残された理由は遺族の応報感情です。でも死刑制度の根拠が遺族の応報感情だけであるとするならば、天涯孤独の人が被害者になった場合は、死刑を適用すべきではないということになります。だって遺族がいないのだから。あるいは遺族が死刑を求めていない場合は、その要望に沿った軽い罰でとどめなくてはならなくなる。
 ならば近代司法の根本原理である罪刑法定主義は、その瞬間に崩壊します。この国は近代司法国家の看板を下ろさなければならなくなる。その覚悟はありますか?

サフランモドキ

 ソルティ自身は死刑反対派である。
 その理由を以前、別記事につたない文章で書いたことがあるし、国家が手を下す今一つの殺人である戦争との絡みから考察したこともある。
 だが、鬼畜の所業としか思えない残虐で常軌を逸した事件のニュースを見聞きするとき、ソルティの信念も揺らぐ。
 とくに、女性や子供に対する性暴力には憤りを覚えることが多い。
 「死刑でなく、去勢して男性ホルモンを枯渇させたらいい」と思うことがしばしばある。
 とても人権派とは言えまい。
 正確にはたぶん、反マッチョ派なのだ。

 森達也と藤井誠二。
 死刑制度をめぐる2人のスタンスの違いは、なんとなく、ノンフィクションライターとしての2人のスタイル(作風)の違いと呼応するところがあるような気がする。
 ソルティはこれまで、森の書いたものは『放送禁止歌』や『オカルト』など数冊、藤井の書いたものは『沖縄アンダーグラウンド』一冊しか読んでいないのだが、2人のスタイルが対照的であることは感じられた。

 森の場合は、対象となる相手を取材しながら、「自分はどう思ったのか、どう揺れたのか、どう軌道修正したのか」も記録・表出するスタイルを取る。
 対象を描き出すと共に、取材する過程で湧き上がってきた自らの葛藤や煩悶や逡巡や気づきも、読者の前にさらけ出す。
 単なる観察者の立場に身を置いて客観的に対象をレポートするのではなく、対象との接触・交流において変化を余儀なくされてゆく自分自身をも組み込んで、現象を関係性において描き出していく。
 その作風は、藤井からすれば「内的なロードムービー」のように映る。

 一方、藤井の場合は、自らは一歩も二歩も後ろに退いて対象を観察し、事実を淡々と掘り起こして読者に伝えていく。
 そこでは、藤井自身が感じた葛藤や煩悶や内省や気づきの表出は最小限に抑えられる。
 こう述べている。

 事実の重みによって読む者が考えることを迫られるとき、取材者がちょろちょろ顔を出すのはじゃまなのかなと思うこともあります。

 『沖縄アンダーグラウンド』はまさにこのスタンスで書かれていた。
 いわば、ハードボイルド。
 取材の合い間に那覇市のバーでグラスを傾ける藤井の姿に、北方謙三や大沢在昌がダブって見えたほどだ。
 事実の重みは確かに伝わった。
 戦後沖縄の売春街の様相、そこで働く女性たちの姿を活写した力作であるのは間違いない。
 たいへん優れた取材者であり書き手であり、学ぶところ多かった。
 だが、藤井誠二という人間が見えてこない。
 そこに物足りなさを覚えた。
 というのも、『沖縄アンダーグラウンド』はいわば、戦後沖縄のおんなたちが、徹底的に日米の男たちに搾取された物語なのである。
 ならば、同じ男として、そのことをどう思ったか、自分が属するジェンダーの持つ加害者性をどう引き受けるのか、女を買うことを自らはどう感じているのか、男の性欲とその攻撃性をどう捉えているのか、が問われて然るべきであろう。
 それがまったくなかった。
 まるで、自らはきれいなままで、堕ちていくおんなたちを観察しているみたいで、しかも米軍の慰安所(=性の防波堤)から始まった売春街が消滅していくことをあたかも惜しんでいるみたいな書きぶりで、「なんだかなあ」と思ったのも事実である。
 売春街を「浄化」しようとする地元の女性団体へのシビアな視線も、フェミニスト運動家を揶揄する昭和時代のオジサンのような匂いを感じた。
 藤井誠二という人はもしかしたら、基本マッチョなんじゃないだろうか。
 だとしたら、マッチョと死刑廃止とでは反りが合わないだろう。

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 本書の最終章で、森はノルウェーにおける刑事司法の現状について紹介している。

 死刑はもちろん、終身刑もありません。現在の最高刑は禁固21年です。受刑者が出所した後の住居や仕事の斡旋など支援制度も充実しているし、被害者遺族や加害者家族に対する補償や支援制度も、国と民間レベルで整っています。そういった下支えが、寛容化政策を支えています。

 そして、2011年にノルウェー国内で77人もの犠牲者を出した連続テロ事件の犯人の刑が禁固21年で確定したことに対し遺族からまったく不満の声は上がらなかったこと、そればかりか、後日花を手に現場を訪れた犯人の母親に対し犠牲者の遺族の一人がいたわりの声をかけて抱きしめた、というエピソードを紹介している。
 それを聞いた藤井の感想そのままに、「同じ地球の話とは思えない」。
 同性婚や夫婦別姓の問題を挙げるまでもなく、過去20年間で、日本がいかに先進諸国の中で遅れを取ったかがまざまざと知られる。
 そして、その20年間こそ、旧統一教会と安倍元首相率いる政府自民党との癒着が、日本中で、あらゆる領域で進行していた“ツボにはまった20年”だったのである。

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● 本:『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 冤罪、虐殺、正しい心』(菅賀江留郎著)

2016年洋泉社発行

 戦後間もない静岡県で3つの冤罪事件が立て続けに起った――幸浦事件(S23)、二俣事件(S25)、小島事件(S25)。
 いずれも逮捕された容疑者に一審、二審とも死刑判決がなされ、最高裁で引っくり返って無罪が確定した。
 そのすべての事件の捜査に最初から関わって容疑者を自白させたのは、数えきれないほどの犯人検挙の実績をもち表彰されること五百回余という、県警きっての名刑事・紅林麻雄であった。
 その後も同じ静岡で起きた冤罪事件――島田事件(S29)、丸正事件(S30)、そして令和のいまも審理の続く袴田事件(S41)なども、元凶をつくったのは紅林刑事その人と云われている。
 紅林麻雄とはいったいどういう人物だったのか?
 なぜ同じ静岡県で冤罪事件が繰り返されたのか?
 それはどうすれば防げたのか?
 
 ――といったあたりが本書の主筋なのだが、副題が語っているように「道徳感情こそがその原因」というのが著者の主張である。
 道徳感情が冤罪の原因?
 普通、逆ではないのか? 道徳的でないから冤罪が起こるのでは?
 それとも、ここでいう道徳とは明治時代に世間に跋扈したという自己責任・自助努力を強調する通俗道徳のことなのか?
 

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ラファエロ作「堕天使を駆逐する聖ミカエル」をあしらった表紙


 掛け値なしの力作にして労作である。
 小口35ミリ、500ページを優に超える分量。
 巻末に上げられた参考文献たるや、300は数える。
 しかも、当事者のオリジナル証言が載っている一次資料が多く、先行する他の本からの引用や孫引きに頼らない正確さ重視の徹底した取材姿勢がうかがえる。
 “書庫派”を自認するだけあって、手間ひま惜しまず、根気よく丹念に調べ上げている。

 さらに、テーマの広がりと深さは特筆に価する。
 少なくとも5冊分のテーマと内容が凝縮されている感をもった。
 筆致もまたドラマチックなまでに熱く、「このことを世に知らしめたい」という著書の半端ない情熱が伝わってくる。 


「あとがき」にこうある。
〈二俣事件〉というあるひとつの冤罪事件について書くつもりが、冤罪すべての根本原因を解き明かし、さらには冤罪や殺人だけでなく、大恐慌や戦争、テロや革命に至る人間の歴史を動かす原理がじつは〈道徳感情〉であるなどという、その悲劇の克服法までをも含めた人間の本性についての壮大なる統一理論を展開する羽目になってしまいました。

 テーマの広がりと深さというのはまさに上の通りで、点が線となり、線が面となり、面が立体となり、立体が時空を超えるような、目くるめくスリリングな展開には興奮を覚える。
 一方、いろいろなテーマや人物エピソードを盛り込みすぎて全体に散漫な印象になっており、また、核となる冤罪事件の原因についての究明が後半になると具体性を失ってどんどん形而上学的になっていき、全般、焦点が曖昧になってしまった感がある。
 著者もその点は自覚しているようで、「この世のすべてを解き明す現代版〈造化の秘鍵〉を打ち立てるが如くになんでもかんでもぶち込んで大風呂敷を広げているよう」と自ら言っている。

 本書の後半で著者は、冤罪の原因を突き詰めていくとアダム・スミスの「道徳感情論」に行き当たると言う。
 そして、道徳感情は人類が進化の過程で身に着けた社会的性質(いわば認知バイアス)であり、それゆえ人間の本性である、冤罪は起こるべくして起こる――という結論につなげている。
 ソルティはアダム・スミスにも進化理論にも詳しくないので、この結論が当たっているかどうかは分からない。
 まことに興味深いテーマではあるが、ちょっと論理の飛躍が過ぎるんじゃないかという感を持った。

 なぜなら、実際には犯人を上げられずにお蔵入りする事件も数多くあり、そしてその際にたとえ怪しい容疑者がいたとしても多くの刑事たちは、紅林刑事のような拷問による自白強要や証拠のでっち上げなどしないのであるから、「冤罪=人間の本性」と結論付ける前にもっと個別の問題として精査すべき点はたくさんあろう。
 たとえば、紅林刑事のパーソナリティなり、静岡県警の体質なり、日本の捜査手法なり、裁判制度なり、組織間の縄張り争い(縦割り行政)なり、我が国の人権意識なり、マスコミの報道姿勢なり・・・・。
 いや、著者が決してそのあたりの追究や考察も疎かにはしていないことは前半で示されている。
 要は、前半と後半の作風のギャップのせいかもしれない。

 具体的な冤罪事件をめぐる検証ドキュメントという社会派スタンスと、冤罪という現象をめぐって見えてくる人間存在の解明という現象学的スタンス。
 両者の接合具合にすっきりしないものを感じた。 
 後半部におけるかなり強引にして粗雑な理論の展開が、前半部のせっかくの緻密なデータ調査による事件や世相の解析の価値を減じてしまった気がする。 
 はじめからどちらか一方にテーマを絞って、構成を組み立てて論じたのなら、もっとすっきりした読後感が得られたのではないか。
 そこを読者サービス満点と取るか、欲張りすぎ・気負いすぎと取るか、無理筋ととるか・・・・。
(ソルティは、5冊分の内容を1冊に詰め込んだのは「もったいない」という気がするが)

 菅賀江留郎(かんがえるろう)はもちろん筆名。
 詳しいプロフィールは不明。
 「少年犯罪データベースを主宰。書庫に籠もって、ただひたすら古い文献を読み続ける日々を送っている」とある。
 力量ある、個性的な作家であることは間違いない。
 今後の仕事に期待大である。 
 


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● 本:『死刑囚』(アンデシュ・ルースルンド&ベリエ・ヘルストレム著)

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2006年原著刊行
2018年早川書房

 『三秒間の死角』でファンになったスウェーデンのミステリー作家の過去作を追う。
 『三秒間』と同じエーヴェルト・グレーンス警部シリーズの第3作である。邦訳されていない第4作をはさみ、5作目の『三秒間』へと時系列で続く。警察機構に属しながらも KY(いささか表現が古い?)で一匹狼風のグレーンス警部はなかなか魅力的な御仁である。

 本作は邦訳で540ページの大著のうえ、メインテーマが「死刑制度の是非を問う」と来ている。どうしたって重厚な社会派ミステリーとならざるをえない。読みでは保証する。
 とはいえ、スウェーデンにおいて死刑制度はもはや議論の対象ではない。今を去ること40年以上前(1974年)、憲法改正によって死刑制度は廃止されている。現在では、多くの国民にとって死刑 NG は自明の理で、訳者あとがきによると、「死刑は前時代的、非人道的であるとの認識が浸透している」とのこと。彼らから見ると、日本は「前時代的で非人道的」なお国柄なのである。

 著者はくだんのテーマを展開するにあたって、死刑制度のある国アメリカを対置させる。
 アメリカのオハイオ州の刑務所に少女殺しの罪で収容されていた死刑囚ジョンは、死刑廃止論者らの奇策によって脱走に成功し、スウェーデンに高飛びした。新しい名前と職を得て、結婚し子供をつくり、それなりに幸福に暮らしていた。
 ところが、生まれつき怒りをコントロールできないジョンは暴力事件を起こしてしまう。グレーンス警部に逮捕され、身元が調べられた結果、正体がばれてしまう。事態は即刻アメリカに伝えられる。
 死刑囚の引き渡しを要求するアメリカと、死刑になることが分かっている人間を強制送還することに反対するスウェーデン世論との対立が沸き起こる。

 むろん、スウェーデン人である著者二人の姿勢は死刑反対である。
 反対理由の一つとして著者がプロットに仕掛けたのは、「冤罪の可能性」である。無実の人間が死刑になってしまう可能性がゼロでない以上、死刑制度は NG ということだ。『狭山事件』、『足利事件』、『名張毒ぶどう酒殺人事件』と、本邦でも冤罪あるいはその可能性の高い事件は少なくない。
 ミステリーに欠かせない意外な結末と兼ねて、著者は少女殺しの真犯人と、尋常でないその動機を用意する。ジョンはまさしく冤罪だったのである。
 しかも、最後にもう一つ別の冤罪も作り上げ、ジョンの死刑を望むもっともな理由を持つ死刑推進派のリーダー的存在をその罠に陥れる。つまり、アメリカをして、二人の無辜のアメリカ人を死刑に処させしめる。

 真犯人の常軌を逸した動機と、最後に読者に提示される冤罪の罠。
 そこに至るまでの丁寧で念入りな筋運びに比して、この結末はかなり強引で不自然で酷過ぎる。ソルティは著者同様、死刑反対の立場をとるものだが、さすがにこの結末には共感できなかった。
 

評価:★★

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● 名張毒ぶどう酒殺人事件 映画:『眠る村』

眠る村ちらし


2018年東海テレビ放送
プロデューサー:阿武野勝彦
監督:齊藤潤一、鎌田麗香
語り:仲代達矢
96分

 知る人ぞ知る傑作ドキュメンタリー『ヤクザと憲法』などで現在熱い注視を浴びる東海テレビドキュメンタリー劇場第11弾。
 ポレポレ東中野で鑑賞した。

 恥ずかしいことに、この映画で語られている『名張毒ぶどう酒殺人事件』をソルティは知らなかった。
 村の懇親会の席で毒の盛られたぶどう酒を口にした女性5人が殺されたことも、当時35歳の奥西勝が逮捕されたことも、奥西が自供をひるがえして1審無罪を勝ち取ったことも、2審で逆転死刑判決が下されたことも、最高裁への上告が棄却されたことも、奥西が独房から再審を求めるも却下され続けたことも、2015年に奥西が85歳で獄死したことも、闘いを引き継いだ高齢の妹が支援者とともに今も兄の無実を訴え続けていることも、なにも知らなかった。事件が起こったのが昭和36年という、ソルティが生まれる少し前であったことが大きい。自分が生まれた前後十年くらいの事件って、盲点になりがちなのである。

 カメラは、事件の舞台となった三重県と奈良県にまたがる小さな山村である葛尾に入り、いまや残り少なくなった当時を知る村人にマイクを向ける。東海テレビが撮り続けてきた事件に関する過去のフィルムが適宜挿入され、山里を恐怖のどん底に陥れ、葛尾という名を一躍全国に知らしめた毒殺事件の全容が再構成される。

 そこで明らかになるのは、
  • 決定的な物証がなかったこと
  • 奥西に対する警察の自白強要があったらしいこと
  • 裁判官が当時から今に至るまで自白調書だけをもとに裁定を下し、その後に出てきた科学的鑑定による反証の数々を無視し続けていること
  • 奥西が逮捕されたとたん、複数の村人の証言が奥西に不利となるよう翻ったこと
  • 奥西の家族は村八分となって故郷を離れ、身を隠し息をひそめ、苦しい生涯を送ったこと。また今も送り続けていること
  • 奥西家の墓が、村人の手によって村の共同墓地から掘り起こされ、畑の中へ追いやられたこと
  • 奥西勝は友人が少なく、また分家のため村落内での立場が低かったこと
などである。

 観ていて連想せざるを得ないのは、同じ時代(昭和38年)に埼玉県で起きた「狭山事件」である。(こちらはソルティ地元の事件で、部落差別とからまって全国的にも有名になったので、本を読んで知っていた)
 決定的な物証の不在、被疑者の逮捕当初の自白重視の裁定、検察側の提出する物証の明らかな矛盾、数度にわたる再審請求の棄却、被疑者の共同体内での立場の弱さ(狭山事件の被疑者・石川一雄は被差別部落出身だった)、強固な家制度を基盤に持つ村落共同体のゆがみ、今も再審を求める支援運動が続いていること・・・。
 共通点はたくさんある。
 が、もっともソルティが看過できないと思うのは、もし奥西勝や石川一雄が無実ならば、つまりこれらが冤罪事件だったならば、真犯人が半世紀以上野放しになっていたという事実である。時効が成立した現在、生きていればどこかで子供や孫に囲まれ、のうのうと余生を送っていることだろう。
 
 それにしてもつくづくむごいと思うのは、奥西勝は35歳から85歳までの50年間、石川一雄は24歳から56歳までの32年間(現在80歳で仮出獄中)、人生の盛りを獄中で過ごさなければならなかったということである。
 映画の中で、今も葛尾に暮らす当時を知る高齢男性は、奥西勝についてなかば憐憫を込めてこう呟く。

「むしろ、生まれてこないほうが良かった」

 キリストがユダに対して告げた言葉とまったく同じ。
 (ソルティ、実はユダは冤罪だったと思っている)



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