ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

死刑制度は止めよう!

● 本:『死刑について』(平野啓一郎著)

2022年岩波書店

 この作家の小説は読んだことがないのだが、ツイッターではよく見かける。
 その政治的スタンスはソルティとほぼ一緒で、作家の中では信頼の置ける人という印象がある。
 死刑についても廃止の立場をとっている。
 本書は、平野が2019年に大阪弁護士会主催の講演会で話した内容が元になっている。

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 京大法学部に在籍していた平野は、もともと死刑存置派(死刑はやむを得ない)だった。
 それが20代の終わりにフランス生活を体験し、死刑反対を当然のこととする文化人と交流するうちに、自らの立場を問い直すようになった。
 30代はじめに犯罪被害者遺族の生をテーマとする『決壊』(2008年)という小説を書いたことで心が変化し、死刑制度に嫌気がさして、死刑反対を明言するようになった。
 以後、死刑廃止を訴えている。

 平野が死刑に反対する理由は、ソルティが解するところ以下の通り。
  1. 冤罪の可能性を払拭できない・・・警察のずさんな捜査や証拠の隠滅や捏造、自白強要の実態がある。(袴田事件が典型的)
  2. 加害者の生育環境が悲惨なことが多い・・・行政や立法の不作為が結果として犯罪者を生み出しているのに、個人のみに責任追及してよいのか。
  3. 死刑は国家による殺人である・・・人を殺してもよい社会のままでよいのか。国の倫理を加害者と同じレベルに堕落させてよいのか。
  4. 犯罪抑止効果に対する疑問・・・死刑による犯罪抑止効果のないことは証明されている。
  5. 死刑囚の反省・教育効果に対する疑問・・・死刑と向き合わせることで加害者を反省させ改悛させるという方法が、人の更生のあり方として正しいのか。恐怖をもって他人を変えようとするのは、生徒への体罰と変わらない。
 どれももっともな意見で、スッと入った。
 むろん、平野は、犯罪被害者に対する社会的な支援の必要性も強く訴えている。
 これまで死刑反対を訴える人たち(人権派弁護士などのリベラル派)の言葉が、なかなか世間に受け入れられなかった理由の一つは、被害者遺族の置かれた苦境を軽視してきたからと述べている。

 死刑について考えていく時、被害者がどこまでも尊重され、被害者を社会的にどう救済していくべきかを考えることはとても重要です。人間に対する優しさという、とても単純だけど、大切な価値観が社会に浸透していくことで、孤立し困窮している被害者を社会が包摂し支えていくことが進んでいくのだと考えます。

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 次に平野は、日本で死刑が支持される理由を挙げている。
  1. 人権教育の失敗
  2. メディアの影響・・・わかりやすい勧善懲悪ストーリーの弊害
  3. 死をもって償う文化・・・切腹に代表される
  4. 宗教的背景が欧米とは異なる・・・「裁きは神のもの」「汝の敵を愛せよ」という文化ではない
  5. バブル崩壊以降の自己責任論の高まり
 1の人権教育についてこう語る。

 人権というものが、欧米の思想において、どのような歴史的な経緯をたどって確立されたのか、そして、どのようにして近代化とともに日本に導入されてきたのか。そういう思想が存在しない社会も有り得た中で、それを尊重する方向を目指して歩んできて、歩み続けようとしている。人間にとって、そのことがどういう意味を持つのか。そうではない世界とどちらがよかったのか。そういうことを考えさせることが、人権についての根本的な教育ではないでしょうか。

 1970年代に埼玉県で義務教育を受けたソルティは、人権教育を受けなかった。
 外部から講師を招いての人権講演会というものもなかった。
 「思いやりを大切に」「人に迷惑をかけないようにしよう」式の道徳の授業があっただけである。
 わずかに高校に入ってから同和教育まがいを1時間受けたが、関連ビデオを視聴するだけのアリバイ的授業(「同和教育やりました」)で、とても人権教育と言えるものではなかった。(通学圏内で起きた狭山事件すら学ばなかった)
 公民や倫理社会の授業では、日本国憲法はじめ西欧史の権利章典やら人権宣言やらも学習したが、それは試験のために暗記する文言以上の意味は持たなかったように思う。
 最近の教育現場についてはよく知らないが、映画『教育と愛国』に描かれているような教育現場への不当な政治的圧力を見聞きするに、人権教育も後退しているんじゃないかと危惧する。
 つまり、多くの日本人は人権教育をないがしろにされたまま、人権のなんたるかを理解しないまま、社会に出てきている。

 ソルティは幸い(?)自らがゲイというマイノリティだったからこそ、社会人となってから差別について考え、人権について学ぶ機会を自ら作って来られたが、そうでもなければ、普通に大過なく生きているマジョリティが人権について学ぶ僥倖はなかなか訪れまい。
  
 国民の人権意識が低いことで一番得するのは、ほかならぬ国家権力という名の支配者層である。
 彼らにとっては、国民が「人のもつ普遍的権利」などという厄介なものに目覚めてしまわないよう、下からあがってくるイッシューはなんであれ、個々人の価値観や道徳観や感情レベルの問題に引き落とし、賛成派と反対派がいつまでも喧嘩してくれている方が都合がよい。
 死刑制度の議論も、同性婚の議論も、同じような沼にハマっているように思う。
 

 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● 映画:『ウォーデン 消えた死刑囚』(ニマ・ジャウィディ監督)

2019年イラン
90分、ペルシア語

 原題 Sorkhpust は、調べたところペルシア語で「インド人」って意味らしいのだが、なぜインド人なのか不明。
 ウォーデン(warden)は英語で「刑務所長」の意である。
 
 イランの砂漠の中にある巨大刑務所のお引越し中に、死刑囚が一人いなくなった。
 脱獄でもされた日には大事件である。
 刑務所長は、男がまだ所内のどこかに身を隠していると確信し、部下を集めて必死に探し回る。
 死刑囚のことをよく知るソーシャルワーカーの女性がやって来るが、彼女は男の無実を訴え、刑務所長と対立する。
 完全撤退の期限が刻々と迫るなか、刑務所長は、男を隠れ処からおびき出すべく、ある作戦を決行する。
 
 かくれんぼミステリーという、わかりやすい設定。
 沢口靖子主演の『科捜研の女』に出てくるような最新科学機器を使えば、すぐに男の居場所がわかりそうなものなのに、全館に向けて拡声器で投降を呼びかけたり、捜査犬を使ったり、ごきぶりバルサンのように煙でいぶり出そうとしたり、非常に原始的。
 イランの地方刑務所ってまだこんなレベルなの?――と思ったら、これは1960年代を舞台とする話であった。
 たしかに、中庭に置かれた首吊りの死刑台は前世紀の遺物である。

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kalhhによるPixabayからの画像

 一つ一つのショットが素晴らしい。
 構図も色彩も照明もカメラワークも手練れている。
 そのため、刑務所があたかも中世のお城のように美しく見える。
 最後まで死刑囚の姿を映し出さないやり方も巧い。
 姿の見えない主人公が、かえって存在感を増して、サスペンスを高めている。
 三島由紀夫の『サド侯爵夫人』を思い出した。

 ソーシャルワーカーの女性が元AKBの前田敦子そっくりである。
 敦ちゃん、いつの間にイラン映画にデビューしたの?・・・と思った。
 男尊女卑のイメージの強いイスラム教国の、男性社会の権化である刑務所という空間に、ヒジャブをつけない一人の女性ソーシャルワーカーがこうやって人権擁護の仕事をしていることに驚いた。
 60年代のイランで、こんな状況があったのだろうか?

 刑務所長を演じる男優は、一見、貫禄ある冷徹な物腰のうちにナイーブさと優しさを秘めた男を作り上げている。
 邦画で言えば、往年の松竹三羽ガラスである上原謙・佐分利信・佐野周平を足して3で割った感じ。(かえってよくわからない?)
 すなわち、イイ男である。

 物語的には予想通りのヒューマニズムな結末でそこに意外性はないが、脚本、演出、撮影、演技、音響効果ほか非常に完成度の高い作品で、またひとりイラン映画に一流監督が誕生したことを告げてあまりない。





おすすめ度 :★★★★

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● 本:『ルポ 死刑』(佐藤大介著)

2021年幻冬舎新書

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 副題は「法務省がひた隠す極刑のリアル」。
 著者は1972年生まれ。
 毎日新聞社、共同通信社での記者活動を経て、現在、共同通信社の編集員兼論説委員を務める。
 
 著者の基本姿勢は死刑廃止なのだと思うが、ここではそれを声高に訴えていない。
 むしろ問題としているのは、副題にある通り、日本の死刑制度の実態が法務省によって徹底的に伏せられていて、国民に正確な情報が伝えられていない点である。
  •  死刑囚はどのような日常を送っているのか。
  •  外部とのやり取りはどの程度許されているのか。
  •  日々なにを思って過ごしているのか。
  •  誰がどう死刑執行日を決めるのか。
  •  どのように受刑者に伝えられるのか。
  •  死刑がどのように行われ、誰と誰が立ち会っているのか。
  •  担当する刑務官はどのような思いを抱えているのか。e.t.c.
 死刑制度の是非はいったん別として、米国では情報を公開することで議論が起き、それだけ死刑制度について考えることができる。一方、日本では密行主義で情報はほとんどなく、死刑が行われながらも議論は深まらない。死刑は国家が合法的に命を奪える究極の権力行使であるのにもかかわらず、多くの人々は無関心という状態が日常化している。 

 我々国民は、死刑に関する十分な情報を与えられないまま、死刑制度の是非を議論する環境に置かれている。
 確かにこれはおかしい。
 国がどのように一人の国民を監禁し抹殺したかを、他の国民たちが知ることができないのは、殺された対象がどんな人間であるかに関わらず、由々しき事態だ。
 国家が一国民に対しどのようなことをなし得るかが不透明にされているからだ。
 民主主義の根幹にかかわる問題である。

 本書では、死刑囚、元死刑囚の遺族、弁護士、刑務官、死刑囚の世話をする衛生夫、検察官、法務省官僚、牧師や神父や僧侶などの教誨師などへのインタビューやアンケートなどをもとに、日本の死刑囚の置かれている状況や彼らの思い、死刑執行までの具体的な段取りが、でき得る限りに描き出されている。
 日本の死刑は絞首刑だが、これは明治6年に作られた法律によるもので、140年変わっていないという。
 科学も医学も薬学も進み、もっと穏やかな殺害方法があるだろうに、「絞首刑は苦痛がもっとも少なく、残虐性なし」と結論付けた1828年の学者論文をもとに、いまだに他の手段を検討することなく続けられている。
 サディストか。
 死刑執行方法見直しの議論は民主党政権時代に持ちあがっていたのだが、2012年末の総選挙で民主党が惨敗し、政権が再び自民党に戻ったことで立ち消えてしまった。
 ときの法相は谷垣禎一、首相は安倍晋三であった。
 
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Heinz HummelによるPixabayからの画像

 ソルティは基本、死刑廃止論者である。
 が、時々、「こいつだけは死刑もやむを得ない」と思わざるをえないような、残虐極まりない卑劣な犯行、個人的に許しがたいと感じる犯罪者が出現し、そのたび心が揺れ動く。
 すぐに思いつくのが、1988年2月に起きた「名古屋アベック殺人事件」であり、同じ年の11月に東京都足立区で起きた「女子高生コンクリート詰め殺人事件」である。
 この2つの犯罪の凄惨なまでの残虐さは言語に絶するもので、被害者の受けた恐怖や苦痛や絶望、被害者遺族の受けた打撃や苦痛や喪失感を想像すると、「目には目を、歯には歯を」ではないが、加害者にも同等の苦しみを与えなければ承知できない、「死刑は当然」と当時思った。
 個人的にソルティは、女性が男達によって拉致監禁され、暴行され、強姦を繰り返される類いの犯罪が一番嫌いで、許し難く思うのだ。

 びっくりしたことに、本書にはなんとこの「名古屋アベック殺人事件」の加害者、それも6人の加害者のうちの主犯格Nが登場する。
 一審でNは未成年であったものの死刑判決を受けた。そこまではソルティも知っていた。
 その後、二審での6年余りに及ぶ審議の結果、無期懲役が下り、判決が確定した。
 現在、無期懲役囚として岡山刑務所に収容されていて、著者は数年前からNと面接や手紙のやり取りを行ってきた。
 「そうか。生きていたのか・・・」
 驚くとともに、いまや40代になるNという男の変化に戸惑った。
 服役態度の良い模範囚であり、被害者遺族への謝罪や償いを心がけ、更生の途上にあるらしい。
 35年前のNと同一人物なのかと思わず疑ってしまった。

 それに輪をかけて驚いたのは、被害者女性の父親とNとが文通をしているという事実であった。
 一体そんなことが可能なのか!
 大切な娘をこれ以上ないほど残酷なやり方で殺されて、自ら復讐することも叶わずに、人生を滅茶苦茶にされ、せめてもの慰みの「死刑判決」すら「無期懲役」に減刑されてしまった。
 そんな憎き相手と文通できるこの父親の存在に愕然とした。
 もちろん許しているわけではなかろうが、それとは別に、“人と人として”相手と対峙できる度量というか、精神性に恐れ入った。
 韓国のドキュメンタリー『赦し――その遥かなる道』(チョウ・ウクフィ監督)を観たとき、妻と子供を殺された父親が、その殺人犯の減刑運動をしているエピソードを知って、ぶったまげた。
 それはキリスト教など宗教的バックボーンのある特別な人の場合と思っていたけれど、日本にも同じような人がいたのである。
 この父親がいる以上、ソルティはもはや、「名古屋アベック殺人事件」の犯人を断罪することができなくなった。

観音さま

 世界各国の約7割が死刑を廃止、または事実上廃止しているなかで、日本は少数派に属している。そうした中、米国が連邦レベルでの死刑執行を停止したことから、先進国主体の経済協力開発機構(OECD)加盟国(38ヵ国)で通常犯罪に対する死刑執行を続けているのは、日本だけと言うことができる。

 日本には日本独自の文化や風習や価値観がある、外国の目を気にしてそれに合わせる必要はないと言うのは一見カッコよいけれど、意地を張って国際連盟脱退の二の舞のようなことにならなければよいのだが・・・・。
 あとからどれだけ高くついたことか。




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