ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、寺社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

  マーラーを聴く

● ゾンビ・イヤー? : プロースト交響楽団 第39回定期演奏会

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日時: 2024年5月19日(日)13:30~
会場: ミューザ川崎シンフォニーホール音楽ホール
曲目:
 ● 山田耕筰: 交響詩「曼荼羅の華」
 ● グスタフ・マーラー: 交響曲第2番ハ短調「復活」
   ソプラノ: 盛田 麻央
   メゾソプラノ: 加納 悦子
指揮: 大井 剛史
合唱: 日本フィルハーモニー協会合唱団

 今年はなんだか『復活』の年みたいで、ソルティが調べた限りでも、
  • 3月10日 サントリーホール/フィルハーモニックアンサンブル管弦楽団(小林研一郎指揮)
  • 4月7日 東京芸術劇場コンサートホール/オーケストラハモン(冨平恭平指揮)
  • 5月19日 本公演
  • 7月14日 サントリーホール/フィルハーモニア・ブルレスケ(東貴樹指揮)
  • 8月2日 大阪フェスティバルホール/大阪フィルハーモニー交響楽団(尾高忠明指揮)
  • 8月6日 広島文化学園HBGホール/広島交響楽団(クリスティアン・アルミンク指揮)
  • 9月16日 サントリーホール/デア・フリューゲル・コーア(角田鋼亮指揮)
 とプロアマ入り乱れての『復活』ラッシュ。
 このマーラー第2番交響曲は、ソプラノとメゾソプラノの独唱者と混成合唱団を必要とするので、そうそう簡単には舞台にかけられない。
 それを思うと、すごいブームである。
 おそらく10月以降も年末まで増えていくだろう。
 いったい、なぜ『復活』?
 演奏会のプログラムが一年以上は前に決まるであろうことを考えると、やっぱり、「コロナからの復活」という思いが、クラシック業界に満ちているためなのではないか?

 首都圏でマーラーの第2番と第3番がかかるなら、可能なかぎり聴きに行きたいと思っているソルティ。
 今年は少なくとも5回は“復活”できそうな気がする。

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ミューザ川崎

 2回目の“復活”となる本公演、実に素晴らしかった。
 公演あるのを知ったのは一週間前。
 ネットではすでにA,B,C席すべて売り切れていた。
 2日前に再度確認したところ、一番安いC席に空きが出た。
 ミューザ川崎はサントリーホールや杉並公会堂同様、舞台を囲むように客席が配置されている(アリーナ型)。
 空きのあったのは、舞台の左右斜め後ろのブロックである。
 オケのほぼ背後から、指揮者を正面45度の角度で見下ろすことのできる席である。
 すぐさまチケット購入した。

 おそらく、もともとこの左右両ブロックは販売予定になかったのだろう。
 というのも、舞台の後ろ側すなわちオケの背後のブロックは合唱団が入るからである。
 合唱団のため余裕をもって空けておいた席を、チケット売り切れになった後も問い合わせが殺到したため、新たに客席として開放したんじゃないかと推測される。
 ソルティが取った席は、オケの最後列をなす打楽器チームをちょうど真横(舞台向かって右袖)から見下ろせる位置で、右側に3つほど空席をはさんだところには合唱団の女性が座った。
 つまり、合唱団に最も近い席だったのである。

 とても面白い席であった。
 指揮者はもちろん、オケ全体の動きがよく見えて――ただし、真下にいるコントラバスとハープ奏者だけは見えなかった――オケメンバーの奮闘ぶりが実感できた。
 オケにも合唱団にも近いので、音や声の迫力が凄かった。
 オケや合唱団や客席のさらに上、ホールの高みにひとり位置して、曲の最後の最後に登場するパイプオルガン奏者の手の動きもよく見えた。
 オケのメンバーの中には、譜面台に紙の楽譜でなくタブレットを置いている人がいた。
 楽譜をパソコンに読み込んで、タッチパネルでページをめくっていた。
 たぶん、エクセルで文書にコメントをつけるように、指揮者からの指示など必要な書き込みなんかも画面上で入力できるのだろう。
 こういうデジタルなやり方が今後広まっていくのかもしれない。

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右隅に合唱団の女性の姿が見える

 山田耕筰の交響詩『曼荼羅の華』を聴くのははじめて。
 とても美しく、儚げな曲であった。
 考えてみると、ソルティは歌曲『この道』、『からたちの花』や童謡『赤とんぼ』、『ペチカ』や映画音楽(原節子主演『新しき土』)の山田耕筰しか知らない。
 日本人のこころに染み入る歌の作り手というイメージが強い。
 が、本曲はマーラーの影響をかなり感じた。
 山田は1910年から3年間ドイツに留学している。
 1911年5月に亡くなったマーラーの葬儀に立ち会ったかもしれない。
 当然、浴びるようにマーラーの曲を聴いたことだろう。
 山田のほかの交響曲を聴いてみたい。

 大井剛史の指揮は2度目。
 前回は府中市民交響楽団共演のショスタコーヴィッチ『レニングラード』だった。
 基本、楽譜に忠実な、これ見よがしな演出をしない正統派指揮者だなあと思ったが、今回の『復活』でその印象は強まった。
 全体に落ち着いたテンポで丁寧に音符をさらっていた。
 そしてそれは、この大曲がもっとも生きる、すなわち、作曲者自身の思いを汲んで内在する美と崇高さをもっとも明瞭にあらしめる行き方と思った。
 第2楽章の揺蕩う美しさ、第3楽章の皮肉めいた諧謔性が、くっきりと浮き彫りにされていた。
 マーラーの交響曲と言うと金管のイメージが強いのだけれど、今回は非常に木管が冴えていた。
 木管が主役と思ったくらい、よく鳴っていた。
 金管は咆哮し、木管は語る。
 マーラーのナイーブな内面が吐露されているのは実は木管なのだな、と思った。
 ヴォリュームを微妙に引き絞って最後まで持っていき、第5楽章のクライマックスでここぞとばかりホールを震わせる fff を放つ。その効果は赫奕たるものがあった。

 合唱の素晴らしさを言い置いてはいけない。
 一糸乱れぬハーモニーの見事さ。
 透明度が高すぎるためその深さに気づかぬ湖のように、清澄な美しい響きのうちに深い慈愛が感じられた。
 さすが半世紀以上の歴史をもつ合唱団である。
 長々とインスツルメント(器楽)を聴いてきたあとで、この合唱が入って来ると、ソルティはいつも感動してしまう。
 それは人の声が持つ“ぬくもり”を再発見するからだ。
 キリスト教徒でない自分が『復活』に感動する最大の理由は、この曲の宗教的価値に共鳴するからではない。
 器楽に対する声楽の勝利を、人工に対する天然の優越を、鮮やかに知らしめてくれるからなのだ。
 と、今回気がついた。

 今年中にあと3回、『復活』するぞ!

ゾンビ男





● 芸劇の死角? : オーケストラハモン 第48回定期演奏会

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日時  2024年4月7日(日)14:00~
会場  東京芸術劇場 コンサートホール
曲目  G.マーラー: 交響曲第2番「復活」
指揮  冨平恭平
ソプラノ  中川郁文
メゾソプラノ  花房英里子
合唱  Chorus HA'MON

 このオケ、1997年発足ということだが、はじめて聴いた。
 これまでの48回の演奏会のうち12回はマーラーの交響曲を取り上げている。
 記念すべき第50回(2025年6月1日予定)では第8番『千人の交響曲』をやることが決まっており、それをもって、生前マーラーが完成させた1番から9番までの交響曲を制覇することになる。
 マーラーに思い入れのあるオケなのだ。

 冨平恭平の指揮は、昨年6月にル・スコアール管弦楽団共演によるマーラー第9番を聴いた。
 音の波動がこちらのチャクラを刺激し、陽炎のようにオーラが湧き上がり、脳内ルックス(lux)が上がった。
 感動の演奏だった証である。
 もっとも、第9番の感動は、チャイコの『悲愴』を聴いたあととドッコイドッコイの暗鬱をともなうので、帰り道にとんこつラーメンでも食べて口直ししなければ、庶民的日常に生還できない類いの感動なのであるが・・・・・。

 今回は、聴いたあとの歓喜が約束されている“テッパン”の第2番なので、休憩なしの90分という長丁場にもかかわらず、とくだん事前に構えることなく、帰りに寄るラーメン屋の目星をつける必要もなく、東京芸術劇場の巨大なホールに足を踏み入れた。
 席は3階席一番前列の、舞台向かって中央やや左寄り。
 舞台後方の高い位置に据えられたパイプオルガンと相対し、オケ全体がよく見える位置であった。
 客席の入りは6~7割くらいか。

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巨大なパイプオルガンがこのホールの目玉

 オケはとても上手で、息が合っており、創立27年の歴史と経験を感じさせた。 
 ル・スコアールの時と同様、オケの配置が通常と異なっていた。
 まるで鏡像みたいに左右入れ替わって、コントラバスとチューバが舞台向かって左に位置し、金管とハープが右に寄せられていた。
 冨平の好みというか、なんらかの考えによるものなのだろうか。
 
 音楽素人のソルティが言うのは口はばったいのだが、この配置は、音の一体感を高めるより、むしろそれぞれのパート(楽器)の特性を引き立たせる効果があるような気がする。
 音楽が一つの大きなうねりとなるのではなく、分散するように響くのだ。
 その結果、いつもなら聴き逃してしまうような、地味目な楽器のちょっとしたパッセージが目立つ。
 曲を聴きなれた耳ならそこに新鮮さを感じ、異なる色彩の音を微細にわたって変幻自在に編み込んで交響曲という一大織物を仕立て上げるマーラーの天才を再認識することだろう。
 ソルティも、「あっ、ここでこんな楽器がこんな介入の仕方をしていたんだ!」と、しばしば驚き、感嘆した。
 一方、音が分散して聴こえるというのは、統一体としての曲の生命が犠牲になるということである。
 あたかもドイツ製の美しいビスクドールの体内をのぞいて機械仕掛けのからくりを見たかのような感に襲われた。

 もっともこれは、オケの配置のためではなくて、ソルティが陣取った場所のせいなのかもしれない。
 芸劇の3階席はオケを聴くには遠すぎる。
 音の洪水に溺れて、音波に揉みほぐされたい人間には物足りない席であった。

 結局、曲に入り込むことができたのは、第4楽章の合唱から。
 「コーラスハモン」はこの演奏会のために結成されたそうだが、実によくまとまって、素晴らしいハーモニーだった。
 とくに男性陣の張りと奥行きのある声が、曲をまとめあげて、迫力と感動の大団円に導いた。
 第50回の『千人の合唱曲』にも参加することが決まっているらしい。
 今から楽しみだ。

P.S. 年間100回以上クラシック演奏会に行くという人のブログに、東京芸術劇場の「3階の前席はお薦めできない」とあった。
 やはり、そうだったのか・・・。
 次から気をつけよう。

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池袋駅東口の線路沿いの公園でひとやすみ

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● 自虐派の男たち : 新交響楽団第264回演奏会


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日時 2024年1月8日(月・祝)14:00~
会場 東京芸術劇場コンサートホール(豊島区)
曲目
  • フランツ・シュレーカー: 『あるドラマへの前奏曲』
  • グスタフ・マーラー: 交響曲第10番(クック版)全曲
指揮: 寺岡 清高

 新春一発目のコンサートは、モーツァルトかドヴォルザークあたりの比較的軽めの景気のいい曲を選びたい、と思うのはごく当然の人情だろう。
 とくに今年は年明けから大事件続きで、気分が滅入りがちなのだから。
 予定では、1月7日の和田一樹指揮による豊島区管弦楽団ニューイヤーコンサートに行くつもりだった。
 J.シュトラウスのウィンナーワルツ、『ハリーポッターと賢者の石』組曲、ドヴォルザーク交響曲第8番というラインナップは、まさに新しい年を華やかに希望をもってスタートするにふさわしい。
 だが、7日午前中の高尾山初詣のあとに寄った麓の温泉で、湯上りについ生ビールを頼んだのがいけなかった。
 最近はほんの少しのアルコールでも眠くなってしまうソルティ。
 もはや、午後からのコンサートに行く気力は残ってなかった。

 かくして、事前にチケット予約していた本コンサートをもって、すなわちマーラーの10番という、あらゆる交響曲の中でも屈指の悲嘆さと落ち込み誘発力をもつ曲をもって、2024年を始めることになってしまった。

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東京芸術劇場

 案の定、寺岡清高の指揮棒が下りた全曲終了後、広い会場を揺るがす喝采をよそに、ソルティは座席に深く沈んだまま、固まった。
 前回、齊藤栄一指揮×オーケストラ・イストリアの演奏で10番を聴いたときは、終演後約3分間拍手に加われなかった。
 今回はまるまる5分間、体が動かなかった。
 曲の表現する“世界”に捕まってしまい、そこから抜けられなかった。
 暗、鬱、狂気、破壊、悲哀、郷愁、死の受容、諦念・・・・といった“世界”に。

 この10番には、マーラーの1番から9番までの交響曲と『大地の歌』をはじめとする歌曲のすべてが、断片的に織り込まれているような気がする。
 あっ、ここは1番の第2楽章、ここは4番の第2楽章、ここは5番のアダージョ、ここは『大地の歌』の一節・・・・といったふうに、マーラーの作ったすべての動機が、マーラーの様々な表情が、つまりはマーラーという芸術家を構成する要素が、ゲームセンターのモグラたたきのように、入れ替わり立ち替わり、顔を出しているように思う。
 ユダヤ的郷愁に包まれた幼年時代、恋も仕事もイケイケの青春時代、アルマとの甘美な性愛、自然の癒し、向かうところ敵なしの成功街道、子供の死、精神の危機、神への懐疑・・・・いろんな場景の描かれたスケッチ帳をめくるが如く。
 その意味で、9番同様、「ザ・マーラー総集編」といった趣きなのであるが、10番において重要なのは、次々と繰り出されるどの要素も、みな当初の形から“変異”しているという点である。
 どの要素も、どのスケッチも、黒く縁取りされて、死の影がまとい、悪魔の哄笑が響き、破壊の槌音に苛まれている。
 それはあたかも、自ら構築した世界をメタ化しているかのよう。
 自らの人生をカッコに括って、外から見て、嘲笑し慨嘆し破砕しているかのよう。
 マーラーよ、そこまで自虐的にならなくても・・・・。

 ひょっとしたら、この10番を作っている最中に、マーラーが精神分析の創始者であるフロイトと知り合って、精神分析という方法を知ったことが、曲づくりに影響を及ぼしたのではなかろうか?
 表面に現れている現象の奥に、当人が自覚できない無意識の流れがあるという精神分析の基本コンセプトが、マーラーをして自らの人生ドラマを「メタ化」せしめたのではないか。
 そんな妄想を起こさせるような、容赦ない自己分析、自己嗜虐である。
 あるいは、この全曲版が(第1楽章をのぞけば)マーラー自身の手によってではなく、音楽学者クックという他人の手によって編まれたことが、そのような印象を与えるのかもしれない。
 マーラーが最終的に想定していた形とは、異なった仕上がりになっている可能性もあるかも。
 いずれにせよ、聴く者の精神状態が安定している時でないと、聴くのはきつい曲である。

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HeungSoonによるPixabayからの画像

 フランツ・シュレーカー(1878‐1934)は、20世紀初頭にウィーンやベルリンで活躍したオペラ作曲家である。
 入口で配布されたプログラムによると、今回演奏された『あるドラマへの前奏曲』という曲も、自作台本のオペラ『烙印を押された者たち』の前奏曲として準備されたらしい。
 ワーグナー、マーラー、シェーンベルクの影響を思わせる官能的でキメの細かい見事なオーケストレーションと、オペラ作曲家としての手腕を感じさせるメロディアスな部分が光っている。
 こんな才能ある作曲家が埋もれたのは、なにゆえ?
 それはシュレーカーがユダヤ人だったから。
 すなわち、ナチスによって「退廃音楽」とレッテルを貼られ、否定され、戦後の復権を待たずに世を去ってしまったから。
 運に恵まれない音楽家だったのだ。
(いや、ヒトラーが政権を握る前に亡くなったのは恵まれていたのか)

 1918年に初演されたオペラ『烙印を押された者たち』は、ストーリーのあらましだけ読むと、かなりエロくてエグイ。
 江戸川乱歩の『パノラマ島奇談』とアンドルー・ロイド・ウェバー作曲の『オペラ座の怪人』をミックスしたような感じ。
 つまり、孤独で醜い男の恋と破滅の物語である。
 そもそも、シュレーカーに「醜い男の悲劇」を書いてほしいと依頼したのは、同じ作曲家仲間のツェムリンスキーだった。
 ツェムリンスキーはその不細工ゆえに、付きあっていた女性に振られてしまったが、それが相当のトラウマになったことは、彼の手になる交響詩『人魚姫』からも推測される。
 その女性こそ、マーラーの妻となったアルマ・シントラーであった。
 ツェムリンスキーもまた、マーラーに負けず劣らず自虐の人だ。
 
 いや、マーラー10番から一年を始めたソルティも、十分自虐派の一人だ。  

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喝采を浴びる新交響楽団と寺岡清高








 


 

● サーカスの夜 :カラー・フィルハーモニック・オーケストラ第21回演奏会


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日時 2023年7月17日(月・祝)19:40~
会場 杉並公会堂大ホール
曲目 マーラー:交響曲第5番
指揮 金山 隆夫

 土日の演奏会はふつう14時開演が多い。
 が、今の時期、昼日中の外出&移動はなるべく避けたい。
 なんたって最高気温38度、都会は天然サウナである。
 この遅い開演時間、非常に助かった。
 
 金山隆夫&カラーフィルは、2019年3月にたいへん感動的なマーラー『復活』を聴いて以来。
 今回も同じマーラー、しかも最も好きな第5番なので期待大であった。
 客席は半分くらいの入り。
 入場無料!なので、もっと埋まるかと思った。

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JR荻窪駅

 ソルティがクラシック演奏会に足繁く通うようになって20年くらいになるが、素晴らしい演奏と出会ったときの証を上げるなら、
  1.  演奏時間を短く感じる
  2.  知っている曲が、まるで初めて聴いた曲のように新鮮に感じられる
  3.  作曲家と出会ったような気分になる
  4.  体中のチャクラがうずき、気の流れが活性化する 
 4つすべてが揃う演奏会にはごくたまにしか巡り合えない。
 運よく当たった時はミューズ(音楽の神)に感謝のほかない。
 本日はまさにミューズさまさまであった。

 約70分の演奏時間が体感的には30分くらいに思えた。
 ヴィスコンティの映画『ベニスに死す』でお馴染みの甘美なヴァイオリンの調べが流れたとき、「えっ、もう第4楽章!?」と驚いたのなんの。
 いつも、第1楽章から第3楽章までの約40分強の長丁場を、クライマックスたる第4楽章を最大の喜びをもって迎えるための試練のように思いながら聴いていることが多い。
 忍耐と言うほどではないが、より高く飛ぶための雌伏期間といった感じで。
 が、今回はあっという間だった。
 テンポそのものは1楽章と2楽章は通常よりゆっくりめだったのだから、不思議なことよ。
 雌伏期間どころか、それぞれの楽章が主役と言っていいくらい聞きどころ満載だった。

 これまでおそらく30回以上は聴いていて耳がマンネリ化している第5番が、初めて聴いた曲のように感じられた。
 すべての楽章が新鮮、というか斬新だった。
 といって、金山の指揮には聴衆を驚かすような奇を衒ったところもなければ、21世紀を生きる音楽家ならではの新解釈なんてものもない。
 非常に丁寧に、楽譜に忠実に、振っただけのように思えた。
 だのにこの新しさ。
 いままで聴いていた5番とは別の曲のような気さえした。
 もしかして別バージョンの楽譜が新たに見つかった?・・・・なんて思うほど。

 いつもは座席の背に体を預けて目を閉じて聴いているソルティだが、今回は途中から身を乗り出して舞台を注視しながら聴いていた。
 自然と集中力が高まった。
 体のあちこちのチャクラがうずき、滞っていた気のかたまりがほぐれて体内を駆け上がるごとに、感電したかのように身体が痙攣した。
 左右が空席で良かった(笑)

チャクラと仏
 
 以前、この第5番を自分なりに解析して、「男の性」を表現していると書いたことがある。
 音楽を無理やり物語に変換することで、曲を理解した気になっていた。
 まあ、そういった聴き方もまた、クラシック音楽を聴く楽しみ方の一つとして「あり」と思う。
 が、今回の演奏ときた日には、まったく物語化を許さなかった。
 ただ音楽のみ!

 思うに、“物語化を許す”とは音楽が物語に負けているのである。
 音楽の力が、表現の力が弱いから、退屈した脳は、「この曲のテーマはなんだろう?」などと勝手に考察し始めるのだ。
 今回は、音楽の力が圧倒的で、物語をつくる脳の部位が封殺されていたのである。
 退屈している暇がなかった。

 そうやって余計な物語を介在させずに音楽と向き合えた結果、作曲家マーラーと直接出会えた気がした。
 「マーラーよ。お前は“こんな”作曲家だったのか!」
 “こんな”とは“どんな?”。
 それは、「パッチワークの楽しさ」といったようなもの。
 いろいろな国や民族の音楽ありーの、クラシック古典調ありーの、童謡風ありーの、教会音楽ありーの、メロドラマ調ありーの、ヨーロッパ宮廷舞踏風ありーの、軍隊調ありーの、チンドン屋風ありーの、ジプシー風ありーの、なんでもござれの世界である。
 ただそれを最近はやりの“多様性”と言うにはちょっとハイブロウすぎる。
 むしろ、“ごった煮”とでも言いたい庶民臭さ、アクの強さ。
 目まぐるしく表情や言語を変えてゆく音楽は、一見統合失調症的で支離滅裂に思えるが、前後の脈絡を“物語的に”追わずにその場その場の流れに身を浸して、「去る者は追わず来る者は拒まず」で楽しんでしまえば、目くるめく体験が待っている。
 そこではたとえば、ホルンのちょっとした音はずしやテンポの乱れさえ、“ごった煮”の一部に包含され、世界をいっそう豊かに、面白くするのに役に立つ。

 この“なんでもござれ”のパッチワーク的楽しさ、サーカスを思わせた。
 スリル満点の綱渡り、離れ業炸裂の空中ブランコ、滑稽だがどこか哀しい道化師のパントマイム、小人たちのコミカルな軽業、調教された虎の火の輪くぐり、玉乗りする熊、胴体を切断される美女、景気づけの花火、アコーディオンや笛太鼓・・・・。
 そう。サーカステントの中で、目の前で次々と展開されるショーをあっけにとられて見ている小さな子供のような気分であった。
 他の作曲家とは一線を画すマーラーの音楽の特質がまざまざと知られた。

 金山団長に拍手!
 お代は見てのお帰りに。(出口で募金箱に投入しました)

猛獣使い



 

● よ~く洗いなよォ : ル スコアール管弦楽団 第53回演奏会

日時: 2023年6月25日(日)13:30~
会場: すみだトリフォニーホール大ホール
曲目: 
  • マルティヌー: リディツェ追悼
  • マーラー: 交響曲第9番
指揮: 冨平 恭平

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 リディツェとはチェコ共和国の中部やや西、中央ボヘミア州にある村です。第二次世界大戦の悲劇の舞台として知られています。
 1942年5月27日に発生したナチス・ドイツの高官ラインハルト・ハイドリヒの暗殺事件、その犯人をリディツェ村が匿っていたと判断したナチスは6月10日に村の成人男性を全員銃殺し、女性と子供は強制収容所に送りました。
(配布されたプログラムより抜粋)

 チェコの作曲家で、ナチスのブラックリストに載っていたためアメリカに亡命していたボフスラフ・マルティヌーは、この事件を知って衝撃を受け、1943年8月、数日間で約8分間の曲を作った。
 それが一曲目の『リディツェ追悼』。
 こんな事件があったとは、こんな曲があったとは、ついぞ知らなかった。
 ナチスの暴虐は測り知れない。
 破壊された村は今は記念施設となっており、その近くにリディツェ村は再建されているそうな。
 この曲が演奏されるたび、ドイツ国民は自らの罪を恥じ入ることになろう。

アウシュビッツの子供
 
 ル スコアールは1996年8月に発足したアマオケで、フランス語で「広場」を意味するという。
 過去53回の演奏会のプログラムで取り上げた作曲家で一番多いのはマーラー(13回)とのこと。
 演奏会の曲目は毎回団員の投票で選んでいるというから、マーラー好きの団員が多く、演奏にも自信があるということだ。
 期待が高まった。

 休憩をはさんで、90分の旅が始まった。
 いつもと違ったのは、オケの配置。
 第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが向かい合わせに配置され、ステージ向かって左側にコントラバスが並び、右側にハープ奏者。
 残念ながらソルティは、オケの配置の違いによる音響効果を聴き分けるところまで耳が達者でないので、その試みの成否については何とも言えない。
  
 楽章が進むにつれて、オケの集中力が高まり、尻上がりに調子を上げていく。
 哀切極まる第4楽章は、息の合った見事なアンサンブルのうちに、ソロ奏者のテクニックとナイーブな感性が冴え、目頭が熱くなった。
 指揮棒が下りたあともしばらく会場を静寂が占めたのは、聴衆の気持ちがすぐには拍手モードに切り変わらなかったためだろう。
 素晴らしい演奏であった証である。
 
 2階席正面にいたソルティのチャクラもずいぶん反応した。
 第1楽章では胸のチャクラがうずき、第2楽章では股間のチャクラが圧迫され、第3楽章では眉間のチャクラに“気”が集中し、第4楽章では前頭葉が明るく灯った。
 身体のあちこちの“気”の滞りが、音波によって刺激され、解きほぐされていくような感があった。
 音楽による全身マッサージ。
 梅雨時のうっとうしい空模様でくさくさしていた気持がすっきりした。
 
 ときに――。
 第3楽章の途中から入って来て、第4楽章で主役に躍り出て、全曲の終わりまで様々な楽器で何度も繰り返される音型「ミ・ファミレ♯ミ」が、頭の中でどうしても、「よ~く洗いなよォ」と変換されてしまう。
 1976年に日本でヒットした『チンチンポンポン』というコミックソングのメロディの一部にそっくりなのだ。
 もとはイタリアの童謡で、「チンチンポンポン( cin cin pon pon )」とは汽車ポッポのことを意味していたと思う。
 それが日本語に訳された時、いとけない兄と妹が一緒に風呂に入った時に交わした会話という設定になり、エッチな意味合いを帯びることになった。
 令和の今では、放送禁止レベルの内容である。
 
 第9交響曲はマーラーの白鳥の歌とも言える渾身の作で、甘美な思い出のうちに「死に絶えるように」消えゆく痛切な曲なのに、「ミ・ファミレ♯ミ」が出てくるたびに、「よ~く洗いなよォ」と変換され、泡だらけの可愛い男児と女児が脳裏に浮かぶ始末。
 ほんと困ったことだ。(ソルティはロリコンでもショタコンでもない、念のため)

チンチンポンポン
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● 本:『作曲家◎人と作品シリーズ マーラー』(村井翔著)

2004年音楽之友社

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 ショスタコーヴィチ編に続き、マーラー編を手にとった。
 ユニークなのは、著者の村井は音楽学者や音楽評論家ではなく、フロイト、ラカン精神分析学と20世紀オーストリア文学を専門とする大学教授であるところ。
 神経症を患っていた晩年のマーラーがフロイトと会って、「精神分析的な会話」を持ったことはよく知られている。
 マーラーはその会話から、自分自身についての気づき(たとえば「母親への固着」)や、自らの音楽についての気づき(たとえば「崇高な悲劇性と軽薄な娯楽性の併置」)を得たという。
 本伝記の一番の特徴は、フロイト精神分析学的視点から、マーラーやその妻アルマの言動やマーラーの楽曲を読み解いているところだろう。
 「エディプス・コンプレックス」「無意識の願望」「隠蔽記憶」「否定」「反動形成」といった専門用語が出てくる。
 フロイトを知らない読者にとっては、ちょっと難しいかもしれない。
 ある程度、精神分析をかじったことのある人にとっては、とても興味深い内容である。

 読んでいて最も合点がいった箇所、「うんうん、そのとおり!」と思ったのは、マーラーとベートーヴェンの音楽を比較した次の文章であった。

 ベートーヴェンの音楽は目的地が明確で――ソナタ形式は再現部とコーダを目指して進む――展開が必然的であるがゆえに、聴き手は常に注意を集中して聴いていなければならず、自由な連想が入りこむことを許さない。・・・(中略)・・・つまり、そこではまだ作曲家が音楽作品の構造と時間を完全にコントロールしうると信じられていたのであり、聴衆にもそのような聴き方が要求されていたのだ。

 これに対し、硬直した作曲技法のアカデミックな規範や芸術音楽/通俗音楽という二分法に対する反逆という形でマーラーが試みたのは、閉塞した「現実のヴェール」を引き裂き、もはや不可能なユートピアとしての「自然の音」をかいま見させることであった。だから、もはやベートーヴェンのように聴き手の主体を縛る力を持たぬマーラーの音楽は、「突発」の瞬間さえ聴き逃さぬようにすれば、後は緊張を解いて無意識的な連想に身を委ね、ある程度リラックスした状態で聴き流すことができる。そうでなければ、演奏時間80分もの交響曲を聴き通すことはできまい。これが、多様な受容に対して「開かれた」マーラー音楽の特性を形作っているのだ。

 ベートーヴェンやブラームスなど古典派やロマン派の交響曲を聴きなれた人が、マーラーに「開眼する」とはまさに上記のことなのだと思う。
 作曲家によってコントロールされた「構造と時間」――それは現代人にとっても、偉大で、美しく、感動的なものには違いない――を十分に味わうためには、聴き手もまたその「構造と時間」を理解して、そこに入り込まなければならない。
 その聴き方に慣れてしまったクラシック愛好家がマーラーの音楽をはじめて聴いたとき、それはつかみどころがなく、構造も破綻していて、ただただ冗長に感じられる。
「なんだこれ? この精神分裂的な騒音モドキのどこがいいのか? もう眠るしかない」
と、「構造と時間」を理解するのを諦めて、客席に身を沈め、半ば無意識状態になって、次々と向きや強さや深さや透明度を変えていく流れにただ身をまかせたとき、マーラーの音楽の面白さが発見できる。
 あえて言えばそれは、「自我」の明け渡しみたいなものだ。
 「自我」を明け渡すことで、その一層下にある「無意識」と出会う感じ・・・。

 考えてみたら、マーラーの音楽は夢と似ている。
 よく知っている平凡なストーリーの中に、唐突に無関係な事物が入り込んで来て、まったく別の方向に持っていかれ、整合性も必然性もないトンチンカンな場面が連続し、しかし、それ(夢)を見ている当人は何の不思議も感じていない。
 だけど、感情的な部分ではつながりがあるので、目覚めたときには、たとえ夢の内容を覚えていなくとも、その感情の余韻だけは枕元に漂っている。

初夢

 本書後半には、マーラーの代表的な曲の解説が載っている。
 驚いたのは、少なくとも交響曲はすべて扱っているだろうと思ったら、第2番『復活』と第8番『千人の交響曲』が抜けている。
 著者はこの2曲をあまり評価していないらしい。
 第2番と第8番は、マーラーが生きている間に自らの指揮で初演し大成功を収めた決定的作品で、死後も傑作の名をほしいままにし、一般的人気も高い。
 第2番にとりつかれ、第2番を演奏するためだけに、中年になって実業家から指揮者に転身したギルバート・キャプランという男もいるくらいである。 
 個人の好みは自由であるし、紙幅の関係もあるのだろうが、本書が村井の独立した単著ではなく、「人と作品」シリーズの一巻であることを考慮すれば、ずいぶん思い切った“断捨離”である。

 最後に――。
 やはりアルマとの出会いがなければ、マーラーはマーラー足り得なかった、少なくとも、第5番からあとの交響曲は生まれていなかったか、まったくつまらないものになっていたんじゃないか――。
 本書を読んであらためてそう思った。
  
 

おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損







● 生まれたところに還る旅 : フライハイト交響楽団 第50回記念演奏会

日時: 2023年1月22日(日)13時30分~
会場: すみだトリフォニーホール 大ホール
曲目: 
  • バッハ(シェーンベルク編曲): 前奏曲とフーガ
  • マーラー: 交響曲第9番
指揮: 森口真司

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錦糸町駅北口(墨田区)

 フライハイト(Freiheit)とはドイツ語で「自由」の意。
 1996年創設時の第1回演奏会の曲目も、このマーラー交響曲第9番だったという。
 団員にとっては深い思い入れのある曲であろう。

 旗揚げ公演にこの曲を選ぶってのもユニークである。
 マーラーが完成させた最後の交響曲となった9番は、やり切れないほど切なく哀しい曲調で、作曲者の指示により「死に絶えるように」終わる。
 そのため、死や別れのイメージで語られることが多い。
 旗揚げにマーラーを選ぶなら、景気よく終わって人気も高い1番や5番あたりが無難であろう。
 そういった固定観念に縛られない姿勢こそが、オケ名の由来かもしれない。

 最初のバッハは、手ならしといったところか。
 独奏も合奏も安定して、よくまとまったオケの力が伺い知れた。
 多彩な色調のシェーンベルク編曲のバッハからマーラーへ、というプログラム構成もうまい。
 たしかに、9番を聴くにはそれなりの心の準備が要る。
 いきなり突き落とされてはかなわない。 

 9番をライブで聴くのは実はこれが初めて。
 やっぱり、家でディスクで聴くのとは違って、一つ一つの音が立ち上がって、ホログラムのごとく客席上の空間に像を結ぶ。
 家で聴くと陰々滅滅とした印象ばかりが先立ち、イメージがなかなか広がらなかった。
 空間もまた、オーケストラの重要な楽器の一つなのだ。

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すみだトリフォニーホール

 今回受けた印象を一言で言えば・・・・母胎回帰。
 第一楽章の初っ端、マーラーにしては素朴で単調にして優しいメロディが歌われる。
 甘美にしてどこか懐かしい。
 それはまるで子守歌のよう。
 遠い記憶の底、揺りかごの中で聞いた母の声。

 疾風怒濤の彼の人生を表すような第2楽章・第3楽章を経て、第4楽章はまた、泣く子をあやす声がけのような単調な「ミ・ファミレ♯ミ」の繰り返し。
 その途中、第一楽章冒頭の子守歌が顔を出す。
 子守歌で始まり、子守歌で終わる。
 その円環が、母胎回帰という印象につながったのである。
 
 この第9番は第1番『巨人』の焼き直し、というかバージョンアップ決定版という感じがする。
 幼少⇒青春⇒「明」と「暗」の綱引き・・・・と展開するマーラーの個人史だ。
 若かりし第1番ではまだ未来が見えなかったがゆえに、無理なこじつけ感のある「明」で仕上げた第4楽章であったが、今ははっきりした正体を現しているがゆえに、自然な流れで第1~第3楽章から引き取られている。
 それはやはり「明」ではなかった。
 と言って「暗」でもない。
 すべてを受け入れる優しい「哀」である。
 つまり、第1番でマーラー自身が提出した問いの答えが、第9番だったのではないか。

 放っておくと“陰キャ”に陥りがちなマーラーを、“陽キャ”に引き上げてくれるエレメントは、自然(3番、4番)、エロス(5番、6番)、神(2番、8番)の3つであった。
 うち、エロスの源の最たるものが最愛の妻アルマであったのは言うまでもない。
 しかるに、この9番にはもはや、自然も、エロスも、神も、見当たらない。
 9番を完成させたあとに降りかかったアルマの不倫事件を持ち出すまでもなく、いずれのエレメントもマーラーには効かなくなってしまったようである。

 空漠とした心を抱えたマーラーが行きついた先は、母の胸だったのではないか。
 (その解釈から言えば、第8番のラストの『ファウスト』の有名な一節、「永遠にして女性的なるもの、われらを牽きて昇らしむ」は、まさに母性原理以外のなにものでもない)
 
 母胎とは生と死の境である。
 第9番は、「生まれたところに還る旅」なのではあるまいか。
 
 その意味で、まさにフライハイト50回記念にふさわしい選曲。
 長々と続いた拍手も納得至極の好演であった。

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● 躁うつ病交響曲、あるいはA線上の人生: 明治大学交響楽団 第99回定期演奏会


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日時: 2022年12月28日(水)
会場: すみだトリフォニーホール 大ホール
曲目:
  • スッペ: 喜歌劇『軽騎兵』序曲
  • ボロディン: 歌劇『イーゴリ公』より「韃靼人の踊り」
  • マーラー: 交響曲第1番
指揮: 和田一樹

 年末最後はいつもベートーヴェン「第九」で〆るのだが、昨年は聴きそこなった。
 コロナ陽性になって自宅隔離を余儀なくされ、予約していた「第九」に行けなかった。
 隔離明けて、何か一年を〆るのにふさわしいものはないかと i-Amabile をチェックしたら、本ライブがあった。  

 マーラーの全交響曲中、2番「復活」、自然を謳った3番8番「千人の交響曲」あたりは、「第九」の代わりとして年末を〆くくるのにふさわしい。
 6番、7番、9番、10番を聴いた日には、とても目出度く新年を迎えるわけには行くまい。(まあ、あえて取り上げるオケもなかろうが)
 1番、4番、5番は一応「明るく」終わるので、無難なところである。
 和田のマーラーは5番7番を聴いたことがあり、どちらもとても良かった。

 明治大学交響楽団を聴くのは初めてであったが、とにかく大所帯で一番端のヴァイオリン奏者など舞台からこぼれ落ちそうであった。
 音の厚みと力強さは保証されたようなもの。
 それを「つかみはバッチリ」の和田が最初からガンガン鳴らしまくる。
 この指揮者の凄いところは、“生きた音”を作り出す力である。
 演奏が始まってすぐに「おおっ!」と客席から身を乗り出さざるを得なくなるのだ。
 おそらく、オケメンバーとのコミュニケーション力が飛び抜けているのだろう。
 「音」を「楽しむ」という根本をつねに忘れない、忘れさせない男なのだ。
 スッペの『軽騎兵』序曲からすでに会場は熱くなっていた。

 ボロディン「韃靼人の踊り」については、あるエピソードが頭について離れない。
 本で読んだのか誰かに聞いたのか忘れたが・・・・・
 ある人が事故で危篤状態になって医師も周囲もあきらめた。実はその時その人は臨死体験中で、幽体離脱して病室の天井から自分の体を見下ろし、暗いトンネルに引っ張り込まれ、そこを抜けたら光の洪水があった。それから慈愛あふれる宇宙空間のような場所をしばらく幸福感に満たされながら漂っていた。ある音楽が鳴り響いていた。その時はそれと分からなかったが無事回復したあとで偶然曲を聴いて「これだ!」と判明した。それが「韃靼人の踊り」だった・・・・いうスピ話。
 これは「宇宙人の正体は実は韃靼人」と言いたいわけではなく、「韃靼人の踊り」という曲が、深い瞑想状態に入っている人の脳に見られるシーター波、あるいはさらに無意識に近い熟睡状態の時(危篤状態も含む)に見られるデルタ波を、曲を聴く人の脳に生み出しやすいということなのではないか、と一介の似非スピリチュアリストたるソルティは睨んでいる。
 今回も案の定、曲の途中で意識が飛んだ瞬間があった。

宇宙の少女
AmiによるPixabayからの画像

 最後のマーラー1番。
 これがもう寒気がするほど良かった。
 何度も聴いている曲なのに、「自分、はじめて1番を聴いたかも」と思ったほど、斬新で美しく、驚きに溢れていた。
 和田一樹が、あたかも人体のあらゆるツボと経絡を熟知した中国二千年の気功師が奇跡的な施術で患者の生命力を回復させるのと同じように、自ら指揮する曲のツボと経絡を理解し、緩急・強弱・間合い・テンポの微妙なズレなどのテクニックを自在に駆使して、マンネリ化しがちな有名曲に新たな生命力を吹き込むことができるのは知っていた。
 その技術が一段と磨かれたようであった。
 それも耳の肥えた聴衆を驚かすテクニックのためのテクニックという(あざとい)レベルを超えて、もとから曲に内包されていたが未だ知られざりしテーマがテクニックと有機的に結びつくことで露わになるという感覚、言い換えれば「楽譜通りに曲を振っている」というより「曲をその場で彫琢し作っている」という印象を受けた。
 プロフィールによると、和田は作曲も手掛けているらしいから、そのあたりが影響しているのかもしれない。

 そうやって露わにされたマーラー1番であるが、ソルティは今回この曲に「躁うつ病交響曲」というタイトルをつけてもいいのではと思った。
 躁うつ病(現在では双極性障害と呼ばれている)こそが、マーラーの人生にとって愛妻アルマ以上のパートナーだったのではなかろうか。
 躁状態(明)と鬱状態(暗)がしきりに交互する彼の曲の秘密はそこにあるのではなかろうか。

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 マーラーを「暗」から救い上げてくれるのは、信仰をテーマにした2番や8番の成功あるにも関わらず、結局のところ、啓示がやって来るのをただ待つしかない「神」ではなく、より確実な効果が期待できる「エロスと自然」だった。
 だが、それすらも彼の生まれつきの(あるいは幼少期の環境で身についた)鬱気質を払拭することはできなかった。
 最後(9番や10番)は、ベートーヴェンのように「暗」から「明」へ到達することは叶わずに、狂気すれすれの「暗」で終わっている。
 「暗」によって常に圧迫されやがては引きずり落とされる「生」という宿命を背負っていて、その不安と恐怖と癒しようのない悲しみが、マーラーの人生をひいてはその音楽を縁取っているような気がする。
 
 第1楽章の出だしは延々と続く「ラ(A)」で始まるが、この音こそが記憶の底から続いている宿命の響きであり、マーラーのトレードマークであり、「暗」の極みたる狂気に落ちないよう慎重に保持し続けなければなければならない命綱の象徴だったのではなかろうか。
 A線上の綱渡り人生。 
 第4楽章のフィナーレは一応華々しく景気よいものだが、ソルティはいつもここに無理を感じる。
 第1楽章から第3楽章までの流れからして、そして第4楽章の相当に破壊的な出だしからして、とてもとても「明」に到達できるとは思えないのである。
 だが、この華々しさや景気よさが「至福」や「喜び」から来るものではなく、「躁」状態から来るものだと思えば、至極納得がいく。
 本当の「明」ではない。(オケは本当の「明」学だが)

 多くの作家はその処女作において今後展開すべき自身のテーマの種子をまき、その後の作品と人生をそれとなく予告する。
 第1番において、マーラーはまさに名刺代わりに自らのテーマを開陳し、自分が何者かを示している。
 聴く者をして、こんな勝手な想像(創造)をさせて大昔の作曲家と引き合わせてくれるところが、和田一樹が凄いと思うゆえんである。
 指揮棒が下りたとたん、場内にひと際大きな「ブラボー」が響き渡った。
 コロナ禍の「ブラボー」は禁止されていることは当然本人も知っていようが、これはどうしたって一声発せざるを得ないよなと、理解できた。
 
 アンコールはいつものヨハン・シュトラウス1世作曲『ラデツキー行進曲』。
 聴衆とオケが一緒になって曲を作り上げ、音楽を楽しむ場を創出し、一年をhappyな気分で〆る。
 こういったところも和田一樹の愛されるゆえんであろう。
 コロナ陽性も「転じて福」と思える素晴らしいコンサートだった。

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● 喜ばしき降伏:フィルハーモニック・ソサエティ・東京 第10回定期演奏会


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日時 2022年11月6日(日)14:00~
会場 ミューザ川崎 シンフォニーホール
曲目 マーラー:交響曲第3番 ニ短調
指揮 寺岡 清高
メゾソプラノ 中島 郁子
合唱 東京アカデミッシェカペレ
児童合唱 すみだ少年少女合唱団

 前の晩は12時前に床に就いて、たっぷり8時間は寝た。
 9時に朝ごはんを食べて、昼飯は抜いた。
 開演2時間前に最後の水分を取って、開演30分前にトイレを済ませた。
 指定予約した席は1階席の一番前列だった。
 周囲1.5mは空席。
 考えられる限り最高のマーラー第3番を聴く用意が整った。
 これから100分間、待ったなしの一本勝負が始まる。

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ミューザ川崎

 第1楽章が一番の難関。
 長いうえに構成がつかみにくい。
 荒れ狂った波に、右に左に、上に下に、ゆるく激しく、引きずり回される。
 終わったと思ったらまだ続く。
 船酔い寸前!
 最もマーラーらしい、意地悪な楽章と言えなくもない。
 この楽章の狙いは聴衆のぬるま湯的日常を揺さぶり、実存不安に突き落とすことにあるような気さえする。
 寺岡のタクトはきびきびと容赦なく突き進む。

 打って変わって第2楽章は甘ったるさ全開。
 優しいフレグランス満ちるお花畑でしばし夢心地。
 これはもしやケシの花か・・・。

 清新な気が吹き込まれる第3楽章。
 動物たちの躍動と自然讃歌はまるで「ダーウィンが来た!」
 世界は人間なしで完成していた。
 自然も大地も、なんの過不足なく調和していた。
 そこに、唐突に現れるポストホルンの響き。
 人類の登場――。
 生物界にどよめきが走る。

 人間界は深い悲しみと憂いに閉ざされている。
 世界は痛みに覆われている。
 果てしない戦争と自然破壊によって滅ぼされた大地と生き物たち。
 人々の孤独と叶えられなかった祈りが、虚空に残響のようにこだまする。
 第4楽章のメゾソプラノの荘厳な歌唱はあたかも被災地に響く鐘の音のよう。

 天使たちが歌っている。
 天使たちがはしゃいでいる。
 苦しみ多い地上から解き放たれた魂は、永遠を目指して、天使に伴われて飛翔する。
 軽やかに、明るく、屈託なく。
 ちょうど、メフィストフェレスの魔の手から逃れたファウストのように。

 そして・・・第6楽章。
 長い長い歳月を経て、大地は再びよみがえる。
 焦土に降り注ぐ最初の雨。
 廃墟を優しく照らす落日の光。
 大地にあまねく満ちる大宇宙の慈悲が、ふたたび生命の誕生を予感している。
 
地球


 第3番をライブで聴くのはこれが2回目なのだが、ソルティはこの曲の肝をつかんだような気がする。
 第3楽章のポストホルンこそ、全曲の転回点であり、前半と後半をつなぐ要である。
 すなわち、自然界への人類の登場。
 なので、このポストホルンはとっても重要。
 個人的には、傲岸なほどの自信をもってしっかりと吹き鳴らしてほしい。
 (マーラーがどういう指示を出しているかは知らないが・・・)
 何か決定的なことが世界に起きたのだ、もう後戻りはできないのだ、と聴衆に知らしめてほしい。
 その衝撃で、ここまででかなり疲れている聴衆の耳を覚醒させ、集中力を今一度呼び戻し、ドラマチックな後半部に備えさせてほしい。
 声楽が入る第4楽章からは一気呵成に進んでほしい。
 
 第6楽章は、これまで頑張って聴き続けてきたことへのご褒美みたいな感すらある。
 長い紆余曲折があったからこその歓び。
 心も身体もすべて音楽に預けて、喜ばしき降伏の中で感涙に咽ぶのだ。

金山出石寺夕焼け


 マーラー交響曲第3番を、音響のすぐれた立派なホールで、それなりのレベルのオケの生演奏で、庶民価格(1500円)で聴けるという歓びは、なにものにも代えがたい。
 平和と安全と文化的豊かさとが揃わなければ実現しない奇跡である。
 いまの日本に生まれて良かったとつくづく感じる。
 そして、この贅沢な日常ができる限り続くことを祈らざるを得ないし、クラシックを愛する者なら、やはり平和のために何かしなければならないと思うのである。

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終演後、川崎駅前の家系ラーメンでお腹も満たされた
平和ってやっぱり美味しい











 
  
 

● 水星交響楽団第60回定期演奏会 : マーラー第8番「千人の交響曲」

日時 2019年11月4日(月)14時~
会場 すみだトリフォニーホール
指揮 齋藤栄一

錦糸町のすみだトリフォニーホールに行くたびに気になっていたことがある。
国技館がある総武線両国駅から錦糸町駅に向かう高架の線路沿い、進行方向左手に、一瞬、窓ガラスを色とりどりのカーテンで飾った建物が見えるのだ。
アート系の学校か事務所だろうか?
あっという間に通り過ぎてしまうので、確かめようもない。


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面白いのは、高架を走っている総武線の列車の窓からのみ、この色彩美が楽しめることだ。
当のビルの中にいる人たちにしてみれば、各部屋ごとにカーテンの色が違うというだけの話であって、自分たちが見て楽しむことはできないはずである。
あたかも、列車通勤するストレスフルなお父さんたちへの贈り物のよう。
今回は両国駅出発時からスマホを準備し、カメラに収めることができた。


マーラー交響曲第8番の実演に接するのははじめて。
1910年の初演では出演者1030名を数え、「千人の交響曲」の異名をとった曲である。
今回、(物好きにも)プログラムに載っている出演者を数えたところ、

水星交響楽団     135名
合唱(成人)     297名
合唱(児童)       73名
ソリスト        8名
指揮者         1名
計          514名 

千人には遠く及ばないが、ステージを埋め尽くす黒と白のコスチュームは壮観であった。
むろん、トュッティ(全員演奏、全員合唱)でフォルテの迫力は大ホールを揺るがせんばかり。
終演時の盛大な拍手も当然至極であった。

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この曲の成功は、第二部のゲーテ『ファウスト』の使用にあるとつくづく感じる。
あの人類の至宝たる大傑作の最も感動的な場面すなわちファウスト救済シーンを、文学史上もっとも格調高く美しく深遠な詩文をそのままに、音楽で表現しきった点が、成功の大部を担っていよう。
むろん、大傑作にひるまず挑戦したマーラーの勇気と自信、そして奇跡の詩文に相応の響きを添わせることができたマーラーの天才的音楽性あってのことである。
ドイツが生んだ二人の大天才の協同作業なのだ。

それに比べると、第一部(神への讃歌)は確かに壮麗で荘厳で構成も見事で圧巻の出来栄えではあるけれど、魂の込め具合は第二部に敵わない。
マーラーの神(=父)への讃歌には、なんとなく無理なものを、どことなくぎこちなさを感じてしまう。
それは、近代的知性の抱く神に対する疑念、父権に対する揺らぎと相応しているのかもしれない。

一方、第二部を聴いていると、マーラーあるいは近代的知性が陥った苦しみが、

自然によって慰められ
子供によって贖われ
女性によって救われる

という構図が見えてくる。
近代的知性の苦しみとは、つまるところ、父権社会=男性原理の限界の露呈なのである。

「ファウスト」最後の一節、90分に及ぶ長い交響曲のクライマックスを飾るかの有名な「神秘の合唱」には、あたかも観音信仰のごとき、あるいはフロイトに対するユングの反発のごとき、女性原理への崇敬が顕されている。

すべて移ろい行くものは
永遠なるものの比喩にすぎず
かつて満たされざりしもの
今ここに満たさる
名状すべからざるもの
ここに遂げられたり
永遠にして女性的なるもの
われらを牽きて昇らしむ
(新潮文庫、高橋義孝訳)


マーラーの交響曲の中でも7番と並んで演奏回数の少ない8番を、舞台に乗せてくれただけでも、水星交響楽団には感謝である。


さて、感動も醒めやらぬまま両国駅まで歩くことにした。
くだんの建物の正体をいざ確かめん!

総武線の高架沿いに墨田区を横断していく。
途中で三ツ目通りの中央分離帯の柵に阻まれながらも、なおも進んでいくと、
到着しました!

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やはり、水平の視線を保てるある程度の高さから見ないと、美しさが十全に味わえない。
高架の反対側からはどうか?
回ってみると、マンションが建っていた。
マンションの5階以上の住人ならば、ベランダから、スカイツリーを背景としたカラフルなレイアウトを楽しむことができよう。
しかし、その場合、総武線の架線や電柱が邪魔になる。
やはり、列車の窓からが一番のビューポイントのようだ。

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さて、この建物の正体はなにか?
知ってびっくり。
保育園であった。


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