ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

  マーラーを聴く

● 復活の日 : オーケストラ・ラム・スール 第11回演奏会

復活ラムスール

日時: 2025年11月3日(月)13:30~
会場: すみだトリフォニーホール大ホール
曲目: 
  • 平林遼: 神秘の存在証明 世界初演
  • マーラー: 交響曲第2番「復活」
  ソプラノ: 隠岐 彩夏
  メゾソプラノ: 藤田 彩歌
指揮: 平林 遼
合唱: コール・ラム・スール

 本年2度目の復活。
 平林遼という指揮者もラム・スールもはじめて。
 なかなか個性的かつ独創性ある指揮者のようで、気に入った。

 まず、舞台に登場してすぐ「オッ!」と注目を集めたのが、その衣装。
 タキシードではない!
 黒地に紫を基調としたカラフルな模様が編みこまれた、『銀河鉄道999』に出てくるプロメシューム(メーテルの母親)を思わせるような、お洒落なドレスシャツを着ている。
 そうよ、指揮者はタキシードを着るものと法律で決まっているわけではない。
 どんどん自分の好きなものを着て、気持ちをアゲアゲにして、いい音楽を作ってくれればそれに越したことはない。
 素晴らしい。

 次に、前プロに自ら作曲した世界初演のオリジナル曲(8分)を持ってきた。
 これが東洋風かつマーラーチック、しかも合唱付きで、場内の空気を一気に『復活』臨戦モードに変えていく。
 「ちょうど、いい曲を前プロに持ってきたもんだなあ」と感心したが、あとからプログラムを読んだら、なんとこの日のために即興的に書いたという。
 『復活』の前に置くのにふさわしい短めの曲がなかったから、という動機らしい。
 「大がかりな儀式のような『復活』を演奏するにあたり、場を浄化する露払い的な曲」と本人が記している。
 やるねえ~。
 しかも、前プロのあとに休憩は入れず、曲の切れ目がそれと分からないままに、『復活』第1楽章に突入。
 「前プロ、たしか8分のはずなのに妙に長いなあ~」と思って、途中でそれと気づき、トイレに行く機会を失った観客も少なくなかったと思う(笑)。
 いや、さすがに7度目の復活という最強ゾンビのソルティは、ちゃんとわかりましたとも。
 会場は7割くらいの入り。盛況であった。

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 率直に言って、これまで7回聴いた『復活』の中では、2019年に杉並公会堂で聴いた金山隆夫&カラー・フィルハーモニック・オーケストラと並ぶベストであった。
 全般に迫力と熱意があふれていた。
 第4楽章のオール・フォルティシモの爆風たるや、巨大なトリフォニーホールが木っ端みじんになるんじゃないかと思うほどだった。
 一つ一つの音が明確で、メリハリが効いていた。
 第1楽章がとくに緩急・強弱・硬軟自在で、扉が開けば別の世界、別の景色が目の前に広がる、遊園地のようなマーラーの音楽世界を見事に現出していた。
 合唱もあたたかみがあって良かった。
 人類は、他人からあたたかい声をかけられることで、ホモ・エレクトスからホモ・サピエンスに進化したのでは?――なんて妄想するほど、どんな腕の立つ演奏家がどんなに頑張っても、楽器では得られない人の声のもつ特質を思った。
 平林はこの曲について、マーラーが「魂の永遠の不滅性=輪廻転生」を表現したものと解釈したようだが(それゆえに東洋タッチで開始したのだろう)、そこのところはソルティはよく分からない。
 マーラーは、生まれ変わってこの世に戻りたかったのかな?
 また、最愛のアルマと出会いたかったのかな?

 素晴らしい演奏に出会った時にソルティに起こる現象として、例によって、身体中のチャクラがビクンと反応し、客席で何度もケイレンした。
 そのたびに“気”が湯気のように湧き上がった。
 しかるに――最近薄々感じていたのだが――これはソルティに憑依していた浮遊霊が浄化されている、すなわち音楽による除霊ってことなのかもしれない。
 鑑賞後に肩こりが楽になったのはそのためかも。
 

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終了後、錦糸町駅横の「てんや」で遅い昼食
いい音楽の後の飯は格別!




















 

 

● 山上マーラー : フライハイト交響楽団 第55回定期演奏会

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日時: 2025年9月23日(火)13時30分~
会場: すみだトリフォニーホール大ホール
曲目:
  • ドビュッシー: 「海」 管弦楽のための3つの交響的描画
  • マーラー  : 交響曲第1番
  • アンコール マーラー:交響的楽章「花の章」
指揮: 山上 紘生

 ここ数日、急に涼しくなって快適至極。
 ――のはずなのだが、年のせいか、急激な気候の変化に体が追っつかず、なんだか疲れて仕方ない。
 いくら寝ても寝足りない気がする。
 今日も、錦糸町まで1時間半かけて行くか行かないか、家を出る直前まで迷っていた。
 10年前(50代前半)ならあり得なかった。
 それでもやっぱり、山上紘生の振るマーラーが気になって、列車に乗った。

 チケットを買ってなかったので、当日券で空いてる席(全指定席1000円)をとったら、2階席の前から5列目中央という、舞台を見るには最高の位置だった。
 もっともソルティ、コンサート中はほとんど目をつぶっているのだが。

 前プロはドビュッシーによる海のスケッチ。
 夜明けの海、昼間の海、波の戯れ、嵐の到来、荒れ狂う海原・・・。
 120年前の初演時に出版された総譜の表紙には、ドビュッシーが選んだ葛飾北斎の『神奈川沖浪裏』が使われたという(上記チラシ参照)。
 フランスに浮世絵ブームが湧いた頃だったのだ。
 それこそ波にもまれる小舟のごとく、全身の力を抜いて、音にまかせて浮遊して聴いていた。
 おかげで、エナジー回復した。

 マーラー第1番の第1楽章もまた、夜明けのスケッチから始まる。
 黎明の高原は、夜を通して空気を震わせていた「ラ音」の不安な響きに覆われている。
 その硬い空気がだんだんと和らいで、空に明るさが増してくる。
 カッコウが鳴いて日が昇る。
 さわやかな高原の朝。
 にぎやかな一日の始まり。
 ラジオ体操でもしようか。

 それはまた、人生の黎明期の比喩でもある。
 不分明な茫漠とした「ラ音」の世界から、この世にやってきたひとつの魂が、赤子として声を上げる。
 周囲はカッコウの声のごとく喜びをもって歓迎してくれる。
 無垢のうちに過ごす楽しい幼年期。
 希望とよろこびに満ちた人生が始まる予感。
 
 しかるに、現実はつねに期待を裏切る。
 苦悩と失望と危険に満ちた人生が口を開けて待っている。
 人生は陽だけではなく、陰もある。

 この第1楽章には、交響曲第1番全体のエッセンスが凝縮されているだけでなく、ここから交響曲第10番まで続くマーラーの音楽全体を包含するテーマが打ち出されている。
 つまり、陽と陰とのせめぎ合い、躁と鬱とのたたかい、生きることをポジティヴにとらえるかネガティヴにとらえるか、といった両極性である。
 自然の美しさや子供の無邪気な声や愛する人との触れ合いは、人生をポジティヴなものに見せてくれる。
 が、それらはすべて一時的で不安定なもので、早晩失われる運命にある。
 その不条理の理由を神に問うも、神は答えてくれない。

 山上の指揮は、この第1楽章において優れていた。
 とくに、陽から陰に移る刹那の微妙な間合い、陽の背後から陰がせり出すなんとも形容のし難い不吉なタッチに、ゾッとするものがあった。
 ソルティがひとりのウツ病経験者であるだけに。 
 
 第2、3楽章は、ひとつひとつの楽器の特色(音色)を生かしつつ手堅くまとめ、この曲の面白さを開示し伝えるのに成功していた。

 やはり、第4楽章は「手に余る」という感を持った。
 それはひとえに山上やフライハイトオケの技量不足ではなく、他の誰がこの曲を振っても第4楽章をまとめるのは難しいのではないかと思う。
 マーラーは、激しい陰と陽のせめぎ合いの果てに、収拾がつかなくなり、最後に“定石通り”陰から陽に転換して凱歌を上げるのだが、どうも無理くり感が強い。
 鬱病患者が投薬によって躁になりました、みたいな不自然さがある。
 マーラーの生きた時代はすでに、ベートーヴェン先輩のように、最後の助けとして神を持ってくることができなかったのである。

 終演後、「ブラボー」が飛び交っていた。
 山上を評価する人が増えているのだろう。
 これからの山上マーラーに期待したい。

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● ベルカントな「復活」 : 豊島区管弦楽団 創立50周年記念 第100回定期演奏会

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日時: 2025年9月20日(土)13:00~
会場: 東京芸術劇場 コンサートホール
曲目:
  • ワーグナー: 歌劇『ローエングリン』第1幕への前奏曲、第3幕への前奏曲
  • マーラー  : 交響曲第2番 ハ短調『復活』
      ソプラノ: 和田 美菜子
      アルト  : 野間 愛
指揮: 和田 一樹
合唱: オルフ祝祭合唱団

 池袋芸劇の大ホール(約2000席)を満席にする豊島オケ&和田一樹の人気は凄い。
 たしかに全席指定1000円という破格値は大きいが、マーラー第2番『復活』は1番や4番や5番にくらべると、そう簡単に「聴きに行こう!」と思えるものでないだけに。
 なんたって、85分の長丁場だもん。
 長丁場を少しも退屈に感じさせない和田の腕前に、多くの人が気づいてきたのだろう。
 どんなフレーズにもなにかしら新しい工夫があって、「オヨヨ?」と思わせ、最初から最後まで気を抜いている暇がないのが、和田の楽曲構成の特徴である。
 今回も、「なるほど、こう来たか!」と唸らせられる箇所が多々あった。

 前プロにワーグナーのオペラ曲をもってきたせいなのか、あるいはテンポが全体にゆったりだったせいなのか、今日の『復活』はよく歌っているなあと思った。
 メロディラインの美しさが強調されている感をもった。
 途中何度も「ベルカント(belcanto)」という言葉が脳裏をよぎった。
 ベルカントは一般に、17世紀から1840年頃までのイタリアの伝統的な声楽様式で、“色彩とニュアンスに富む滑らかな歌い方”(AIアシスタント『ベルカント』より)を指す。
 代表的な作曲家は、イタリアのロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティ、ヴェルディ、せいぜいプッチーニあたりまでだろう。
 なので、マーラーの音楽とベルカントを結びつけるのはお門違いという意見はあろう。
 だが、一見、重厚で複雑極まりなく、暗いイメージのあるマーラーの音楽には、時折、シンプルで美しい旋律が、岩の割れ目から湧き出づる泉のように、キラキラと輝いている。
 それは時に、クラシックというより、遍歴芸人が路上や広場で奏でる手風琴の音楽のような、誰にでもわかりやすい、誰の心にも染み入りやすい、ポピュラー音楽そのもの。
 現代に至るまで世界中で愛され上演され続けているイタリアオペラの人気作品――『セビリアの理髪師』や『ノルマ』や『ルチア』や『椿姫』や『蝶々夫人』など――にふんだんにあふれている美しい(bell)歌(canto)の世界が、ここにはある。

 あれ? 今のフレーズ、なんだかヴェルディの『リゴレット』っぽいなあ。
 あっ、ここプッチーニの『トスカ』に似ている。
 おっ、ここはワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』のようだ。

 そう、交響曲第2番『復活』という大作が、オペラを聴いているかのように感じられた。
 当然、その延長上に第4楽章、第5楽章の声楽パートが乗る。
 すなわち、全体が一つの歌のように感じられた。

沢登り

 正直申せば、クリスチャンでないソルティには、第8番『千人の交響曲』同様、第2番『復活』のテーマが理解できるとは言えない。
 『聖書』の復活エピソードがどれだけクリスチャンにとって重要なものか分からないし、第4楽章以降に導入される独唱や合唱のドイツ語歌詞の日本語訳を読んでも、ピンと来ない。
 マーラーは、この曲の内容に関して、手紙の中でこう述べている。
 
 (第一楽章は)次のような大きな問題を表している。すなわち、汝はいかなる目的のために生きてきたのか、ということである。この問いを聞いた者は解答せねばならず、私はこの解答を終楽章で与えている。 

 しかるに、ソルティには、マーラーが、人の「生きる意味」にどのような解答を与えたのか、終楽章を聞いても判然としない。
 ぶっちゃけ、そのような高尚な意味合いがこの曲に秘されているのか訝しくさえ思う。(それを言ったら、ベートーヴェン第9番第4楽章「歓喜の歌」だって同じなのだが)

 敬虔なクリスチャンの耳には、おそらく、ベートーヴェン第9やマーラーの第2番と第8番が、ソルティの耳に聴こえるのとはまったく違った風に響くのだろう。
 なにかしらスピリチュアルな感動や天啓を受けて、聴いた後は自らの信仰をより固くするのかもしれない。

 そのような聴き方ができないハンディは致し方ない。
 とりわけソルティはテーラワーダ仏教徒なので、絶対神の存在や永遠不滅の魂を信じていない、クリスチャンをはじめ多くの西洋人の共有する「物語」を共有していないのだから。
 ではなぜ、第2番『復活』やベートーヴェン第9に感動できるのか?
 そこが音楽という芸術の秘密であり、脳(=心)という現象の不思議なのだろう。
 ベルカントな『復活』は、その一つの答えである。

 豊島区管弦楽団さん、創立50周年記念おめでとう!
 これからも機会あれば、足を運びます。

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● TA-TA-TA-TAN ! オーケストラ・フォルチェ 第24回定期演奏会

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日時: 2025年6月29日(日)13:30~
会場: 文京シビックホール 大ホール
曲目: 
  • メンデルスゾーン: 劇音楽『真夏の夜の夢』より抜粋
  • マーラー: 交響曲第5番
指揮: 村本 寛太郎

 午前中には奈良大学通信教育学部の学科試験があった。
 試験から解放されたあとの自由な気分ほど、音楽鑑賞に向くものはない。
 たとえ、それがマーラーやショスタコーヴィチであっても。
 よしんばブルックナーでも!

 今回は徹頭徹尾、癒しのコンサートであった。
 『真夏の夜の夢』はシェークスピアのファンタジー劇の付随音楽(BGM)であり、ラストは誰もが知っている『結婚行進曲』で華やかにしめくくられる。
 マーラー5番は、夢見るように甘美なアダージェットで恍惚となったあと、浮かれモードの大団円が待っている。 
 指揮が下りたあとにシビックホールを満たした拍手喝采は、聴衆のボルテージの高まりと満足感の証左であろう。
 全体にパワフルかつメリハリの効いた演奏であった。

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文京シビックホール

 メンデルスゾーンとマーラーの共通点は、ドイツ・ロマン派の作曲家であり、ユダヤ人であること。
 そこが今回のカップリングの意味合いなのかと単純に思って聴いていたら、「なるほど、そうだったか!」とひとつ教えられた。
 『結婚行進曲』の出だしと、マーラー5番第1楽章の出だしは、そっくりではないか!
 『結婚』は「ド」の音、『マーラー5番』は「ド」の♯(シャープ)という違いはあるが、「タ・タ・タ・タン!」を2回繰り返して、そこから前者は明るく、後者は暗く発展していく。
 『マーラー5番』の出だしは、ベートーヴェンの『運命』(ジャ・ジャ・ジャ・ジャーン!)を意識しているという説はよく耳にするが、よもや『結婚行進曲』と似ているとは気づかなかった。
 いや、むしろ、『運命』より『結婚行進曲』のほうが、音型的に近い。
 で、『マーラー5番』の第1楽章は、マーラー自身によって「葬送行進曲」と名付けられている。
 ってことは・・・・マーラーにとって、結婚とは「人生の墓場」?

 いや、そんなことないでしょ。
 『第5番』を作曲した1902年と言えば、世にも稀なる美貌の才媛、19歳年下のアルマ・シンドラーと結婚した年ではないか。 
 もっとも愛にあふれ、結婚の喜びを心身ともに感じていたはず。
 よもや、数年後にやってくる、アルマと建築家グロピウスとの不倫を予期していたわけではあるまいに・・・。
 それとも、「結婚は人生の墓場(第1楽章)」と自分はこれまで思っていたけれど、そこに待っていたのは「甘美なるエロチシズム(第4楽章)」と「爆発する歓喜(第5楽章)」でした、という惚気混じりの告白ですかあ?
 勝手になさい!

アルマ・シンドラー
アルマ・シンドラー

 いま一つ気づいたのは、この曲は、楽章ごとに主役の楽器が変わっていくような面白さがある。
 第1楽章では打楽器とくに小太鼓の切れの良さが目立ち、第2楽章では木管が夜の森のフクロウやナイチンゲール(夜鳴鶯)のように呼びかけ合い、第3楽章では金管が威勢良く吠え立て、第4楽章は弦楽器の天下だ。そして、第5楽章ですべての楽器が互いを主張し合ううちに、一つの波に統合されていく。
 マーラーは、生前は作曲家としてより指揮者としての評価が高かったと言われる。
 やはり、それぞれの楽器の特性を知り、それぞれの楽器の響きが人間の脳や心に与える影響をよく知っていたからこそ、いろんな色彩や感触の音楽を織り上げることができたのだろう。  

 第5番は聴くたびに発見がある。
 








 

● 千人の交響曲 :オーケストラ・ハモン 第50回記念演奏会

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日時: 2025年6月1日(日)15時~
会場: すみだトリフォニーホール 大ホール(錦糸町)
曲目: G.マーラー: 交響曲第8番「千人の交響曲」
     ソプラノ: 中川郁文
     ソプラノ: 冨平安希子
     ソプラノ: 三宅理恵
     アルト : 花房英里子
     アルト : 山下裕賀
     テノール: 糸賀修平
     バリトン: 小林啓倫
     バス  : 加藤宏隆
指揮: 冨平恭平
合唱: Chorus HA'MON、ジュニア合唱団・Uni

 奈良大学通信教育の試験を終えた自分へのご褒美として、この贅沢なコンサートのチケットを用意しておいた。
 重荷が取り払われ、軽くなった心と頭で、ファウストと一緒にいざ天上に赴かん!

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すみだトリフォニーホール

 冨平恭平&オーケストラ・ハモンは、昨年4月に同じマーラーの交響曲第2番『復活』を聴いている。
 2年続けて、大ホールを借りての独・合唱付き大曲に挑むチャレンジ精神と体力が素晴らしい。
 1階席の1/3(1/2か?)ほどを占める大舞台に、大編成のオケと、総勢200人を超える合唱隊と、8人のソリストが立ち並ぶさまは、圧巻であった。
 ソルティは、3階の最後尾に陣取った。

 演奏は輝かしく、オケも歌も言うことなかった。
 とくに、テノールの糸賀修平が良かった。
 高音域がやたら多く、宗教的な熱っぽさと敬虔さが求められる難しいパートを、張りのある美声で歌い切った。
 その声はホールの後ろの壁までしっかり届いた。

 この曲をライブで聴くのは2回目。
 前回は、齋藤栄一指揮&水星交響楽団で、場所は同じすみだトリフォニーホールであった。
 正直言うと、ソルティはまだこの曲の真価に目覚めていない。
 どうもツボにはまらないのだ。
 他のマーラーの交響曲にくらべると、薄っぺらい気がして仕方ない。
 オケと合唱の規模のデカさや使われる楽器の多彩さ、それにゲーテ『ファウスト』のクライマックスを材としたドラマ性は、それだけで聴衆を惹きつけるスペクタクルに満ちている。
 が、それがかえって、「俗受け狙い」「虚仮おどし」という印象をも与えずにはいない。
 とくに、ソルティは、第1部の讃美歌が「讃歌のための讃歌」といったベタっぽさ、「仏つくって魂入れず」的な上っ面感を聴きとってしまう。
 単に自分がクリスチャンではないからだろうか。

 第2部の『ファウスト』はソルティの“青春の一冊”なので、感動しないわけないのだが、残念ながらドイツ語が分からない。
 ベートーヴェン『第9』や、マーラーなら第2番『復活』あるいは第3番であるならば、合唱部分のドイツ語が分からないことは、曲を観賞する上で特段ネックにならない。オケと歌唱が融合して、歌声もまた楽器の一つのように聴けるからだ。歌詞が理解できないことは鑑賞上のマイナスにならない。
 しかるに、『千人の交響曲』の第2部は歌こそが主役であって、『聖書』や『ファウスト』はもちろん、ドイツ語の微妙なニュアンスも含めて歌詞が分からないことには、容易には入り込めない世界を作っているように思われる。
 つまり、この曲の真価を知るためには、ドラマの理解が前提として必要なのではないかと思うのだ。 
 そのため、紗のカーテンを通して曲を聴いているかのような感がどうにも拭いえないのである。

 キリスト教世界観を理解することなしに、『聖書』も『ファウスト』も読んだことなしに、この曲に感動できる人は幸いである。

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● 死ぬときに聴きたい音楽 : ISP第10回記念定期演奏会


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日時: 2024年10月12日(土)18:00~
会場: 横浜みなとみらいホール 大ホール
曲目:
● 外山雄三: 管弦楽のためのラプソディ
● G.マーラー: 交響曲第3番ニ短調
  メゾ・ソプラノ: 金子 美香
指揮: 海老原 光
女声合唱: 東京シティ・フィル・コーア
児童合唱: 江東少年少女合唱団

 みなとみらいホールは初めて。
 みなとみらい駅から構内通路が直結しているので、建物の外観はまったく分からなかった。が、中はたいへん立派だった。
 舞台の後ろにも座席があるアリーナ型で、池袋の東京芸術劇場と妍を競うような巨大パイプオルガンがある。
 加えて、音響の素晴らしいこと!
 音が立体的に響き、身体が音と相対しているというより、音の中に埋もれているような感覚があった。

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 海老原光の指揮は初めて聴いたが、一曲目から、ロマンスグレーのモテ系ルックスとダイナミックな指揮ぶりとで、オケを自在に操る技量の高さとカリスマ性はうかがえた。さすが光る君。

 昨年亡くなった外山雄三作曲による『管弦楽のためのラプソディ』は、日本人なら誰でも心浮き立つ楽しい曲。
 『あんたがた、どこさ』から始まって、『ソーラン節』、『炭坑節』、『串本節』、『信濃追分』、『八木節』と、なじみ深い日本各地の民謡が和洋折衷アレンジでリレーされる。
 使用される楽器も、鐘や拍子木や和太鼓やチャンチキなど日本人のDNAに感応するものが、西洋楽器に加わって異彩を放っている。
 客席の、そしてオケメンバーの緊張をほぐし、心を一つにし、会場を温め、盛り上げ、後半を期待させる。
 前プロとしてこれ以上にないベストチョイス。

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チャンチキ(摺鉦とも言う)
 https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2840890による画像

 マーラーの第3番をナマで聴くのは、3回目。
 回を重ねるごとに、その深い魅力に”耳“が開かれる。
 今回は第1楽章が圧巻であった。

 第1楽章は、6つある楽章の中で一番演奏時間が長く(30~40分)、構成が複雑で、転調が激しく、取っ付きにくい。
 他の楽章――美しいメロディが甘美な境地に誘う第2楽章、大自然の清新な息吹を運んでくる第3楽章、メゾ・ソプラノの清澄にして厳かな響きが耳朶を震わす第4楽章、天使たちの高らかな讃美歌が心地よい第5楽章、そして聴く者をして忘我の陶酔に浸らせる第6楽章――と比べると、第1楽章は実になじみ難い。
 破綻している精神の表現とすら思えるほどに。
 それが今回はとても面白く、豊かに、フレッシュに、感じられた。
 あたかも山歩きしているがごとく。
 
 ソルティのハイカー歴も20年以上になるが、若くて体力・脚力に自信があった40代の頃は、少しでも早く山頂に到達すること、一つでも多くのピーク(頂き)を制覇することが目的であった。
 それこそ、「ファイトォ、一発!」のノリだった。
 50歳を過ぎた頃からそれが変化し、周囲の風景や自然の音を味わいながら、無理せず、ゆっくり歩くことに比重が移った。
 目的は山頂でなく、山頂に至るプロセスそのものとなった。
 針葉樹の道、広葉樹の道、岩づたいのスリリングな鎖り場、清冽な沢登り、風わたる草原、お花畑、せせらぎ、マイナスイオンたっぷりの滝、のどの渇きを癒す湧き水、蚊柱、蜘蛛の巣、つきまとってくるアブ、目の前を横切る蛇や鹿、鶯やコジュケイや郭公の声、山頂からの絶景、名も知らぬ小さな花、不気味な風体のマムシ草、摩滅して正体の分からぬ石仏や碑文、朽ちかけた鳥居や道しるべ、すれ違うハイカーとの挨拶・・・・。
 いつのまにか、趣味は「山登り」でなく、「山歩き」になった。

 今回の第1楽章もまた、山歩きの楽しみを彷彿させるものだったのである。
 山道をひとつ曲がるたびに現れる風物との出会いと発見に心奪われるように、次から次へと現れる予想のつかない曲調の展開にワクワクした。
 前2回に聴いたときは気づかなかった発見がたくさんあった。
 海老原のゆっくりしたテンポがそれを扶けた。
 マーラーの音楽がそもそもそうした性質をもつ、つまり、「山登り愛好者」でなく「山歩き愛好者」向けの音楽なんだと思う。
 構成の完成度とかテーマの統一性とか小難しいことをあれこれ考えるのは止めて、目の前に次々差し出される音楽を、サーカスを見物している子供のように目を丸くして無心に楽しむのがよい。
 第3番の第1楽章は、中でもとりわけバラエティに富んだ、ソルティの愛する高尾山のごときなのである。

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高尾山の山頂広場

 個人的には、第1楽章の濃密度にくらべると、後半に行くほど味が薄くなるような感じを持った。
 トゥッティ(総奏)では気づかれないが、ソロ(独奏)になると、オケメンバーの技量差がどうしても露わになる。
 この曲は、ソロが流れの重要な転換点を請け負うポイントが多々あるので、ソロの重責が非常に大きい。
 そこはごまかしが効かないので、アマオケには試練な曲とあらためて思った。
 そのなかで、コンマス(鈴木悠大)のヴァイオリンは突き抜けて見事だった。

 全般に素晴らしい演奏で、ソルティのあちこちのチャクラは蠢いたり、ツッと射抜かれたり、光の雲に包まれたり、最初から最後まで忙しかった。
 第6楽章こそは、死ぬときに聴きたい音楽とあらためて思った。

 ブラーヴィ!!









● 伏線復活 : フィルハーモニア・ブルレスケ 第20回記念定期演奏会

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日時: 2024年7月14日(日)18:30~
会場: サントリーホール
曲目: 
  • ヴェルディ: 歌劇「運命の力」序曲
  • マーラー: 交響曲第2番「復活」
    ソプラノ: 安藤るり
    アルト: 熊田アルベルト彩乃
指揮: 東 貴樹
合唱: 混声合唱団コール・ミレニアム

 今年3回目の『復活』。
 ブルレスケを聴くのも、2016年のシューマン交響曲第1番、2017年のチャイコ交響曲第5番に続いて3回目である。
 指揮はいずれも東直樹であった。
 過去の自分の記事を読み返すと、かなり好印象をもったオケであることが分かる。
 今回もまた好印象、どころか率直に言って、たいへん感動した。
 今年聞いた『復活』の中では、今のところ一番である。

 前プロのヴェルディ作曲『運命の力』序曲から、オケの上手さと東直樹の賢さ、そしてなによりサントリーホールの音響の素晴らしさが感じられた。
 ソルティが取ったのは2階席の一番前列、中央やや左寄りの席。
 パートごとの楽器の音色がしっかりと独立して、玄妙な響きを持って、耳に届いた。
 これは期待がもてる。

 トイレをしっかり済ませたあとの後半。
 第1楽章では、なにより音の粘着性に感嘆した。
 この粘り気は、納豆ともトロロとも違う、接着剤やヤマトのりとも違う、スライムとも違う、鳥もちとも違う、松ヤニとも違う、「ねるねるねるね」とも違う。
 道路舗装に使うアスファルト?
 近くなってきた。
 ああ、コールタールだ。
 コールタールのような、熱と粘度をもった油状の液体である。
 そして、それはとてもユダヤっぽいテイストに満ちていた。
 つまり、長い宗教的・民族的受難の歴史だ。

 第2楽章は地中海の香り。
 ゆったりしたテンポのせいもあって、ここで前プロの『運命の力』序曲との類似を感じた。
 メロディアスで、ドラマチックで、華やか。
 そう、イタリアオペラの世界。
 ロマン派のヴェルディから、ベッリーニやドニゼッティのベルカントに遡り、しまいにはロココのモーツァルトまで聴こえてきた。

 続く第3楽章で、心はイングランドに飛んだ。
 道化師が観客を挑発するかのような、滑稽ながらどこか意地の悪い主要旋律(ブラックジョーク)のあとから、パグパイプが草原の風に乗り、王室行事のファンファーレが豪華に鳴り響き、ヘンデルが顔を覗かせる。
 
 打って変わって、アジアンテイストの第4楽章。
 と言っても、実際のアジア音楽というよりは、『大地の歌』で描かれたアジアである。
 なんだか世界旅行しているような気分になった。

 もうすぐパリ五輪。
 世界各国からさまざまな人種や民族や国民が、エッフェル塔の下に集まる。
 第5楽章はまさにオール・オ-バー・ザ・ワールドの人間讃歌、人生肯定。
 いつものごとく、合唱が入ってからは滂沱の涙と鼻水であった。

 国際色豊かな『復活』。
 それはもちろん、作曲家マーラーの無国籍性、ジャンルを越境する柔軟性、過去の偉大な作曲家たちの影響と彼らへのオマージュのためであろうけれど、同時に、青年時代にフランスで勉強した東直樹という指揮者の国際感覚ゆえではなかろうか。
 楽章が変わるたびにカラーを変化させる、まるでカメレオンみたいな器用さは、日本人指揮者には珍しい才と思った。

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サントリーホール

 ときに、マーラーの2番と3番の最終楽章の感動の秘密は、よくできた推理小説と同じで、「忘れた頃にやって来る伏線の回収」ってところにあると思う。
 心に染み入る印象的な動機(フレーズ)を最初の方で小出しに示しておく。
 そのあと、崩壊したソナタ形式ならではの予測を裏切り続ける混沌とした展開、荒々しいモチーフの衝突と混合、終点のなかなか見えない長距離トラックの爆走で、聴く者を引きずり回し、途方に暮れさせ、迷宮に追い込む。(大江健三郎の『万延元年のフットボール』を想起する)
 いい加減へとへとになってギブアップしそうな瞬間、不意に懐かしの動機がやって来て、迷宮から一気に引き上げ、愛する者たちが待つ光あふれる天上へと導いてくれる。文字通り、“復活”する。
 人間の心理機構を見事に利用した構成の妙(=伏線復活)は、映画で言えば、『ニュー・シネマ・パラダイス』(たくさんのキスシーンの連続)か、『マイ・フレンド・フォーエバー』(棺の中のシューズ)である。  
 これが泣かないわけがない。

 ブルレスケさん、20周年おめでとう!
 これからもいい音楽を聴かせてください。


 

● 夏越の祓 : オーケストラ・モデルネ・東京 第5回演奏会


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日時: 2024年6月30日(日)14:00~
会場: 埼玉会館 大ホール
曲目:
  • モーツァルト: 歌劇『魔笛』序曲
  • マーラー: 交響曲第9番 ニ長調
指揮: 篠﨑 靖男

 開演1時間前にJR浦和駅に到着。
 時間つぶしになりそうな場所はないかと google map を見たら、駅西口から徒歩10分のところに調神社という名のちょっと大きめな神社がある。
 あっ、そう言えば、今日は水無月晦日(6月30日)。
 日本古来の半年に一度の神事、夏越の祓(なごしのはらえ)ではないか。
 半年間で積もり積もった罪や穢れを祓い落とすチャンスである。
 行くべし。

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JR浦和駅西口

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調神社(771年創建)
「つきじんじゃ」と読む
かつて、調(律令時代の税)を納める倉があったことに由来する
鳥居がないのは、調運搬の邪魔になるため作らなかったからとか

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狛犬のかわりに狛ウサギ
調(つき)=月の連想から月待信仰と結びつき、ウサギを神の使いとするようになった

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手水舎にもウサちゃんがいた

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拝殿
ご祭神は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、豊宇気姫命(とようけびめのみこと)、
素盞嗚尊(すさのおのみこと)
参道に置かれた茅の輪(ちのわ)を8の字を描くように潜ることで穢れを祓う

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スサノオノミコト像
子どもの作った粘土の人形さながら

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神楽殿
干支の龍が描かれたビッグ絵馬

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木々に囲まれた池の静けさが夏の暑さを和らげる

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ここにも白ウサギ

 心も体も(?)清らかになったところで、埼玉会館に向かう。

 オーケストラ・モデルネを聴くのははじめて――と思ったら、2022年6月晴海で聴いていた。
 ソルティの週末アマオケ道楽も8年を数え、聴いたオケ数は軽く70は超える。
 2度目3度目があっても、それを初回と勘違いしていても、不思議ではない。
 だいたいが、大学オケはともかく、社会人オケはみんな同じようなカタカナ名をつけるから、差別化がはかりにくい。 

 モーツァルトの『魔笛』序曲が約7分、マーラーの交響曲第9番が約90分、休憩なしで合わせて約100分。
 途中で腰が痛くなるか、痔が痛くなるか、尿意を我慢できなくなるか、前に後ろに舟を漕いでしまうか、イビキで周囲から白い眼で見られるか・・・・と危惧した。
 もう、還暦だもん。仕方ないよね。
 よっぽど目覚ましい気の入った演奏でないと、昨今のコンサートホールの椅子の心地良い柔らかさと程よい照明のほの暗さには勝てないのだ。
 時節柄、暑かったり肌寒かったり、気圧が乱高下したり、老いの体にかかる負荷もなまなかではない。
 だいたい昼ご飯を食べた後の14時頃が疲労回復モードすなわち眠気のピークに当たるわけで、周りを見たらご高齢の観客の皆様の多くは頭をかしいでいた。
 ソルティは眠ったつもりはないのだけれど、なんか「あっ」という間に終わっていた。
 半覚半睡?
 アルタード・ステイツ(変性意識状態)?
 よくわからない。

 ただ、9番はいつもなら、悲痛・悲哀・悲愴・悲嘆・悲観といったネガティヴなイメージに胸を締めつけられ、甘美なる鬱に漂いながら終焉するのだけれど、今回の9番とくに第4楽章は、ネガティヴな感情を掻き立てることはなく、むしろ、静かさと安らぎのモードが勝っていた。
 諦念の先にある微細な優しさと言おうか。
 浄化された魂の昇天と言おうか。

 そんな印象を受けたのも、コンサート前の大祓いのせいなのかもしれない。
 というのも、いつもは70年代ヒット曲イタリア童謡『チンチンポンポン』の残像のせいで、「よぉーく洗いなよ」と聞こえてしまう第4楽章の回音音型(ミーファミレ#ミソ)が、今日は「よぉーく祓いなよ」と鳴り続けていたのだから。

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埼玉会館





● ゾンビ・イヤー? : プロースト交響楽団 第39回定期演奏会

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日時: 2024年5月19日(日)13:30~
会場: ミューザ川崎シンフォニーホール音楽ホール
曲目:
 ● 山田耕筰: 交響詩「曼荼羅の華」
 ● グスタフ・マーラー: 交響曲第2番ハ短調「復活」
   ソプラノ: 盛田 麻央
   メゾソプラノ: 加納 悦子
指揮: 大井 剛史
合唱: 日本フィルハーモニー協会合唱団

 今年はなんだか『復活』の年みたいで、ソルティが調べた限りでも、
  • 3月10日 サントリーホール/フィルハーモニックアンサンブル管弦楽団(小林研一郎指揮)
  • 4月7日 東京芸術劇場コンサートホール/オーケストラハモン(冨平恭平指揮)
  • 5月19日 本公演
  • 7月14日 サントリーホール/フィルハーモニア・ブルレスケ(東貴樹指揮)
  • 8月2日 大阪フェスティバルホール/大阪フィルハーモニー交響楽団(尾高忠明指揮)
  • 8月6日 広島文化学園HBGホール/広島交響楽団(クリスティアン・アルミンク指揮)
  • 9月16日 サントリーホール/デア・フリューゲル・コーア(角田鋼亮指揮)
 とプロアマ入り乱れての『復活』ラッシュ。
 このマーラー第2番交響曲は、ソプラノとメゾソプラノの独唱者と混成合唱団を必要とするので、そうそう簡単には舞台にかけられない。
 それを思うと、すごいブームである。
 おそらく10月以降も年末まで増えていくだろう。
 いったい、なぜ『復活』?
 演奏会のプログラムが一年以上は前に決まるであろうことを考えると、やっぱり、「コロナからの復活」という思いが、クラシック業界に満ちているためなのではないか?

 首都圏でマーラーの第2番と第3番がかかるなら、可能なかぎり聴きに行きたいと思っているソルティ。
 今年は少なくとも5回は“復活”できそうな気がする。

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ミューザ川崎

 2回目の“復活”となる本公演、実に素晴らしかった。
 公演あるのを知ったのは一週間前。
 ネットではすでにA,B,C席すべて売り切れていた。
 2日前に再度確認したところ、一番安いC席に空きが出た。
 ミューザ川崎はサントリーホールや杉並公会堂同様、舞台を囲むように客席が配置されている(アリーナ型)。
 空きのあったのは、舞台の左右斜め後ろのブロックである。
 オケのほぼ背後から、指揮者を正面45度の角度で見下ろすことのできる席である。
 すぐさまチケット購入した。

 おそらく、もともとこの左右両ブロックは販売予定になかったのだろう。
 というのも、舞台の後ろ側すなわちオケの背後のブロックは合唱団が入るからである。
 合唱団のため余裕をもって空けておいた席を、チケット売り切れになった後も問い合わせが殺到したため、新たに客席として開放したんじゃないかと推測される。
 ソルティが取った席は、オケの最後列をなす打楽器チームをちょうど真横(舞台向かって右袖)から見下ろせる位置で、右側に3つほど空席をはさんだところには合唱団の女性が座った。
 つまり、合唱団に最も近い席だったのである。

 とても面白い席であった。
 指揮者はもちろん、オケ全体の動きがよく見えて――ただし、真下にいるコントラバスとハープ奏者だけは見えなかった――オケメンバーの奮闘ぶりが実感できた。
 オケにも合唱団にも近いので、音や声の迫力が凄かった。
 オケや合唱団や客席のさらに上、ホールの高みにひとり位置して、曲の最後の最後に登場するパイプオルガン奏者の手の動きもよく見えた。
 オケのメンバーの中には、譜面台に紙の楽譜でなくタブレットを置いている人がいた。
 楽譜をパソコンに読み込んで、タッチパネルでページをめくっていた。
 たぶん、エクセルで文書にコメントをつけるように、指揮者からの指示など必要な書き込みなんかも画面上で入力できるのだろう。
 こういうデジタルなやり方が今後広まっていくのかもしれない。

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右隅に合唱団の女性の姿が見える

 山田耕筰の交響詩『曼荼羅の華』を聴くのははじめて。
 とても美しく、儚げな曲であった。
 考えてみると、ソルティは歌曲『この道』、『からたちの花』や童謡『赤とんぼ』、『ペチカ』や映画音楽(原節子主演『新しき土』)の山田耕筰しか知らない。
 日本人のこころに染み入る歌の作り手というイメージが強い。
 が、本曲はマーラーの影響をかなり感じた。
 山田は1910年から3年間ドイツに留学している。
 1911年5月に亡くなったマーラーの葬儀に立ち会ったかもしれない。
 当然、浴びるようにマーラーの曲を聴いたことだろう。
 山田のほかの交響曲を聴いてみたい。

 大井剛史の指揮は2度目。
 前回は府中市民交響楽団共演のショスタコーヴィッチ『レニングラード』だった。
 基本、楽譜に忠実な、これ見よがしな演出をしない正統派指揮者だなあと思ったが、今回の『復活』でその印象は強まった。
 全体に落ち着いたテンポで丁寧に音符をさらっていた。
 そしてそれは、この大曲がもっとも生きる、すなわち、作曲者自身の思いを汲んで内在する美と崇高さをもっとも明瞭にあらしめる行き方と思った。
 第2楽章の揺蕩う美しさ、第3楽章の皮肉めいた諧謔性が、くっきりと浮き彫りにされていた。
 マーラーの交響曲と言うと金管のイメージが強いのだけれど、今回は非常に木管が冴えていた。
 木管が主役と思ったくらい、よく鳴っていた。
 金管は咆哮し、木管は語る。
 マーラーのナイーブな内面が吐露されているのは実は木管なのだな、と思った。
 ヴォリュームを微妙に引き絞って最後まで持っていき、第5楽章のクライマックスでここぞとばかりホールを震わせる fff を放つ。その効果は赫奕たるものがあった。

 合唱の素晴らしさを言い置いてはいけない。
 一糸乱れぬハーモニーの見事さ。
 透明度が高すぎるためその深さに気づかぬ湖のように、清澄な美しい響きのうちに深い慈愛が感じられた。
 さすが半世紀以上の歴史をもつ合唱団である。
 長々とインスツルメント(器楽)を聴いてきたあとで、この合唱が入って来ると、ソルティはいつも感動してしまう。
 それは人の声が持つ“ぬくもり”を再発見するからだ。
 キリスト教徒でない自分が『復活』に感動する最大の理由は、この曲の宗教的価値に共鳴するからではない。
 器楽に対する声楽の勝利を、人工に対する天然の優越を、鮮やかに知らしめてくれるからなのだ。
 と、今回気がついた。

 今年中にあと3回、『復活』するぞ!

ゾンビ男





● 芸劇の死角? : オーケストラハモン 第48回定期演奏会

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日時  2024年4月7日(日)14:00~
会場  東京芸術劇場 コンサートホール
曲目  G.マーラー: 交響曲第2番「復活」
指揮  冨平恭平
ソプラノ  中川郁文
メゾソプラノ  花房英里子
合唱  Chorus HA'MON

 このオケ、1997年発足ということだが、はじめて聴いた。
 これまでの48回の演奏会のうち12回はマーラーの交響曲を取り上げている。
 記念すべき第50回(2025年6月1日予定)では第8番『千人の交響曲』をやることが決まっており、それをもって、生前マーラーが完成させた1番から9番までの交響曲を制覇することになる。
 マーラーに思い入れのあるオケなのだ。

 冨平恭平の指揮は、昨年6月にル・スコアール管弦楽団共演によるマーラー第9番を聴いた。
 音の波動がこちらのチャクラを刺激し、陽炎のようにオーラが湧き上がり、脳内ルックス(lux)が上がった。
 感動の演奏だった証である。
 もっとも、第9番の感動は、チャイコの『悲愴』を聴いたあととドッコイドッコイの暗鬱をともなうので、帰り道にとんこつラーメンでも食べて口直ししなければ、庶民的日常に生還できない類いの感動なのであるが・・・・・。

 今回は、聴いたあとの歓喜が約束されている“テッパン”の第2番なので、休憩なしの90分という長丁場にもかかわらず、とくだん事前に構えることなく、帰りに寄るラーメン屋の目星をつける必要もなく、東京芸術劇場の巨大なホールに足を踏み入れた。
 席は3階席一番前列の、舞台向かって中央やや左寄り。
 舞台後方の高い位置に据えられたパイプオルガンと相対し、オケ全体がよく見える位置であった。
 客席の入りは6~7割くらいか。

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巨大なパイプオルガンがこのホールの目玉

 オケはとても上手で、息が合っており、創立27年の歴史と経験を感じさせた。 
 ル・スコアールの時と同様、オケの配置が通常と異なっていた。
 まるで鏡像みたいに左右入れ替わって、コントラバスとチューバが舞台向かって左に位置し、金管とハープが右に寄せられていた。
 冨平の好みというか、なんらかの考えによるものなのだろうか。
 
 音楽素人のソルティが言うのは口はばったいのだが、この配置は、音の一体感を高めるより、むしろそれぞれのパート(楽器)の特性を引き立たせる効果があるような気がする。
 音楽が一つの大きなうねりとなるのではなく、分散するように響くのだ。
 その結果、いつもなら聴き逃してしまうような、地味目な楽器のちょっとしたパッセージが目立つ。
 曲を聴きなれた耳ならそこに新鮮さを感じ、異なる色彩の音を微細にわたって変幻自在に編み込んで交響曲という一大織物を仕立て上げるマーラーの天才を再認識することだろう。
 ソルティも、「あっ、ここでこんな楽器がこんな介入の仕方をしていたんだ!」と、しばしば驚き、感嘆した。
 一方、音が分散して聴こえるというのは、統一体としての曲の生命が犠牲になるということである。
 あたかもドイツ製の美しいビスクドールの体内をのぞいて機械仕掛けのからくりを見たかのような感に襲われた。

 もっともこれは、オケの配置のためではなくて、ソルティが陣取った場所のせいなのかもしれない。
 芸劇の3階席はオケを聴くには遠すぎる。
 音の洪水に溺れて、音波に揉みほぐされたい人間には物足りない席であった。

 結局、曲に入り込むことができたのは、第4楽章の合唱から。
 「コーラスハモン」はこの演奏会のために結成されたそうだが、実によくまとまって、素晴らしいハーモニーだった。
 とくに男性陣の張りと奥行きのある声が、曲をまとめあげて、迫力と感動の大団円に導いた。
 第50回の『千人の合唱曲』にも参加することが決まっているらしい。
 今から楽しみだ。

P.S. 年間100回以上クラシック演奏会に行くという人のブログに、東京芸術劇場の「3階の前席はお薦めできない」とあった。
 やはり、そうだったのか・・・。
 次から気をつけよう。

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池袋駅東口の線路沿いの公園でひとやすみ

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