ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

 ★マーラーを聴く

● 100分間の桃源郷 :マーラー交響曲第3番(都民交響楽団第122回定期演奏会)

都民交響楽団 001


日時 2016年7月31日(日)14時~
会場 東京文化会館大ホール(上野)
指揮 末廣誠
アルトソロ 菅有実子

 マーラー交響曲第3番ニ短調は、「世界で一番長い交響曲」としてギネスブックに載っていたそうである。
 その後もっと長い交響曲が次々と作られた。ルーマニアの作曲家ドミトリー・ククリン(1885-1978)の交響曲第12番は演奏時間なんと6時間に及ぶと言う。実際に全楽章一挙に上演されたことがあるのかどうか不明だが、ここまで来ると「長くするだけなら誰だってできるよ。問題は質だよ」と軽口の一つでも叩きたくなる。
 現在でも世界中で頻繁に上演されていて、質も評価も人気も高く、クラシック愛好家がこぞって聴きに行く交響曲――という条件を課すならば、マーラーの第3番こそ「一番長い交響曲」と言ってさしつかえないだろう。
 全6楽章、合わせて100分ある。
 ベートーヴェンの《第九》が60分強ということを考えれば、100分は異常に長い。映画の100分は結構短く感じるものだが、音楽の100分はいかに?
 退屈しないだろうか。
 眠らないで聴けるだろうか。
 途中でトイレに行きたくならないだろうか。
 満席の会場で閉所恐怖症が勃発しないだろうか。
 ・・・・・・ 
 はじめてライブで聴くにあたり、いろいろ懸念はあった。
 というのも、この曲を最初から最後まで通して聴いたことがなかったからである。
 
 ソルティが持っているCDは、レナード・バーンスタイン指揮、ニューヨーク・フィルハーモニック演奏の1961年録音版である。これは、ソニー・クラシカルが1990年に『バーンスタイン マーラー:交響曲全集』という16枚組みのボックス仕様で発売したもので、10の交響曲のほか、交響曲「大地の歌」、歌曲集「なき子をしのぶ歌」「少年の魔法の角笛」が入っている。当時日本はマーラー人気が凄かった。お酒のCMのBGMに「大地の歌」の一節が使われていたのを覚えている。
 このBOX、当時確か2万円近くしたと思う。大学を出て最初に勤めた会社を退職するときに上司だったHさんから餞別としていただいたのである。むろん、ソルティがマーラー好きを公言していた為である。今思うに、本当に自分みたいな「生意気で協調性のない、たかだか5年ばかし勤めた使えない‘新人類’社員」にこんな高価なものをくれたものだ。よっぽどソルティが目の前からいなくなるのが嬉しかったのだろうか(苦笑)。

都民交響楽団 002
 
 以来、「今日は1番、今日は5番、今日は歌曲かな」とその日の気分に合わせてBOXからディスクを一枚選んでは時折聴いていた。
 やっぱり、映画『ベニスに死す』で有名なアダージョのある5番、若々しく聞きやすい1番「巨人」、霊妙な美しさが快眠を約束する4番、もろ東洋風の「大地の歌」あたりが聴く頻度が高い。一方、2番「復活」、3番、6番「悲劇的」、7番「夜の歌」、9番は個人的にとっつきにくく、最初から最後まで集中力を持って聴くのが困難で、貰った当初に2、3回聴いた後は宝の持ち腐れ状態になっていた。とりわけ、3番は前述のとおり長いので全体像が把握しづらく、聴いている途中で眠ってしまったり、気が散ってしまったりで、その真価が分からなかった。
 端的に言って、まだマーラーを理解できるレベルに達していなかったのだろう。(「好きだ」なんてよく言えたものだ)

 今回の演奏会は事前申し込み制で、抽選により招待券が送られてくる仕組みであった。つまり入場無料である。「これは利用しなくては!」と申し込んだ。
 どうせ聴くなら十分楽しみたい。
 招待券が届いたその日から予習が始まった。
 仕事から帰ると、上記のバーンスタインのCDをBGMのように流す。食事しながら風呂につかりながら寝入りながら耳になじませる。BOX付属の解説書やウィキペディアを利用して各楽章のテーマや構成や聴きどころを学ぶ。休日は、楽章ごとに分けて集中して聴き、主題(第1主題、第2主題)を聴き分け、ホルンやクラリネットなど独奏部分を押さえる。歌唱部分(第4楽章、第5楽章)については和訳を読みながら聴いた。
 《第九》を除けば、一つの曲をこんなにじっくり調べたのははじめてかもしれない。
 
 当日は昼ご飯を抜き、会場近くのカフェで「ごまバナナジュース」で滋養をつけた。
 直前にトイレに行き、最後の一滴までしっかり絞る。
 準備万端、客席に着いた。
 9割以上の客入り。席は4階のほぼ正面最後列であった。
 
 都民交響楽団を聴くのはたぶんはじめて。アマオケの中では新交響楽団と並び称される実力との評判。この招待システムでいつも1000名を超える観客を集めている。入団時だけでなく入団後も4年に1回の更新オーディションを課している。質の高さは自他共に認めるものと言っていいのだろう。
 指揮の末廣誠は1994年から2005年まで都民交響楽団の常任指揮者をつとめ、その後も数多くの共演を重ねている。団員からの信頼の最も厚い指揮者であろう。配布されたプログラムには、末廣自らによる曲目“快”説が4ページにわたり載っていた。これが軽妙洒脱、面白くて親切で‘読ませる’。『マエストロ・ペンのお茶にしませんか?』というエッセイを出しているようだが、ぜひ読んでみたいと思わせる文才である。

 まず初めに、今日演奏する作品は全部で約1時間40分かかります。途中で休憩は挟みませんので、御用をお足しになりたい方は、読んでいる場合ではありません! すぐさまそちらを優先されるようお願いします。(パンフレットより)


 末廣の指揮棒が動いて、休憩なしの100分1本勝負が始まった。
 出だしのホルンの壮麗なこと! 
 8本のホルンが一糸乱れず揃って、1本の巨大なホルンのように高らかに鳴り響いた。よっぽど8人揃って練習したに違いない。この先への期待で背筋がゾクゾクした。
 オケのレベルの高さは評判に違わない。弦楽器、金管楽器、木管楽器、打楽器、ハープ、どれもが自信を持って音を出していて、明確かつ艶がある。トロンボーン、オーボエ、クラリネット、ポストホルンなどの独奏部分では、それぞれの奏者の月並みでない技量と曲想に対する感性のしなやかさが伺える。各楽章のフィナーレの迫力は4階席のソルティを、脱水中の洗濯物のごとく、椅子の背に張り付けた。
 たいしたものである。
 そもそもこの第3番を――高度な技術と深い解釈力と多様な表現力、かつそれらを100分間持続しながら完走できるだけの体力と気力とが要求されるこの難しい曲を――上演できること自体、オケの力量と自信の表明であろう。いったい、クラシック愛好家の耳をそれなりに満足させるレベルでこの大作を上演できるアマオケが日本にどれくらい存在するだろうか?
 特に、第1楽章と第2楽章はオケと指揮者の緊張感がいい方向に作用して、非常に緊密度ある純度の高い音楽が楽しめた。「このまま最後まで行ったら凄いことになる」と思うほどに・・・。第3楽章でやや失速した感があった。
 だが、失速したのは聴き手の耳のほうだったかもしれない。第2楽章までですでに40分以上集中力を保ってきたのだから。
 人間の生理として、同じ強さの集中力が持続できるのはせいぜい40~50分だろう。学校の授業を思いかえせば了解できる。このあたりで休憩を入れるか、あるいは全身の緊張を解いてリラックスできるような調べ(たとえばアダージョ)を入れると、その後の楽章に向き合うエネルギー補填ができる。(ベートーヴェンの《第九》は約30分経過したところで第3楽章アダージョに入る)
 この曲の場合、第4楽章のアルトの深みある独唱(菅有実子さんは姿も声も美しく眼福&耳福!)と第5楽章の児童合唱団の何とも心洗われる純粋なボーイソプラノによって、ここまでの疲れが癒される仕組みになっている。あたかも使用する脳が左脳から右脳に切り換わるかのように、別の部分の脳細胞が新たに刺激を受け働き出し、これまで酷使してきた脳細胞に一時の休息が与えられる。実際、純粋な器楽音楽を聴くときと、歌唱付きの音楽(人間の声)を聴くときとでは、聴き手の脳の働きは異なるのではないだろうか。
 
 そういうわけで、いよいよラストの第6楽章に入ったとき、ソルティの脳は右も左も全開であった。脳のすべてで、すなわち心身のすべてで、マーラーの音楽を受け入れ、身をゆだね、心地良くシートに溺れることができた。
 
 この第6楽章をなんと形容したらいいのだろう?
 
 朝露に濡れて蕾をひらく真紅の薔薇。
 夜明け間近の山間にたなびく紫雲。
 宇宙飛行士が目にする自転する青き地球。
 激しい戦闘が終わった焼け野原に降り注ぐ最初の雨。
 人類が目撃した最初の陽の出。
 人類が見る最後の日の入り。
  
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 第3番は自然を表現したものと言われる。
 実際、そのとおりなのだろう。が、第6楽章を聴いていると、人間も自然も含めた‘偉大さ’に対する畏敬の念のようなものが湧き起こる。
 西洋人ならそれを「神」とか「愛」とか呼ぶだろう。
 仏教徒のソルティは「慈悲」と呼びたい。

 第6楽章が聴き手を誘う桃源郷は、それまでの75分の地上的かつ人間的感情のマグマあっての爆発であり飛翔である。
 これほどの至福が待っているのなら、100分なんて屁のカッパ。
 
 Hさん、ありがとう。
 ようやく自分もマーラーを聴けるようになりました。 



 
  
  

● コンマスの偉力 :マーラー交響曲第4番ほか(戸田交響楽団第61回定期演奏会)

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日時 2016年9月11日(日)14:00~
会場 戸田市文化会館・大ホール(埼玉県)
指揮 笹崎榮一
管弦楽 戸田交響楽団
ソプラノ独唱 東城弥恵
ゲストコンサートマスター 降旗貴雄(NHK交響楽団)
曲目
  • チャイコフスキー:バレエ音楽『白鳥の湖』より抜粋
  • マーラー:交響曲第4番 ト長調
  • アンコール チャイコフスキー:『白鳥の湖』よりチャルダッシュ

 都民交響楽団による『マーラー3番』を聴いてからというもの、ソルティの頭の中は(というより)耳の中はマーラーでいっぱいである。毎晩、バーンスタイン&ニューヨーク・フィルハーモニックによる1961年録音の『3番』第6楽章をプレイヤーにかけて床に入る日々が続いている。
 だいたい15分くらいで寝入ってしまうので、最後までは聴けない。クライマックスの大音量のところで半ば目が覚めて、意識の奥のほうでフィナーレの大太鼓打ち鳴らしを心臓の鼓動のように感じながら、また寝入ってしまう。
 しばらくは、機会あればマーラーを聴きに行って、その音楽の不思議な魅力の理由を探りたいと思う。

降旗コンマス 004


 戸田市文化会館はJR埼京線戸田駅から歩いて7分。
 1210席ある大ホールは、ほぼ満員であった。
 ソルティは2階席の舞台向かって右手の袖に陣取った。

 
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 『4番』はマーラーの交響曲の中では短くて(と言っても60分弱)、オケの規模も小さくて、ソプラノの声楽で美しくしめやかに終わるという、他とちょっと異なるところがある。
 鈴の音を取り入れた第一楽章は、どことなく牧歌的で親しみやすい雰囲気がある。第二楽章のヴァイオリン・ソロによるいわゆる‘死神のメロディ’も恐ろしいというよりどこかユーモラスで奇妙な味わいがある。第三楽章はひたすら美しい。天上の聖人たちの愉しい生活を歌った第四楽章は、ソルティが聖書に出てくる人々にそれほど親しんでいないからなのか、どうにも共感できない。なんとなく地上に置き去りされた感を味わい、淋しい気持ちの入り混じった拍手を送ることになる。
 
 今回はしかし、メインのマーラーよりも『白鳥の湖』のほうが断然良かった!
 壮麗で、美しく、哀しく、ドラマチックだった。
 「やっぱりチャイコは天才的メロディメーカーだなあ~」とつくづく思った。
 立役者は、何と言っても、ゲストコンマスの降旗貴雄である。
 
 オーボエ・ソロによる有名な主旋律(情景)のあと、主役オデッタは追ってきた王子に自らの悲しい身の上を打ち明ける。親の犯した罪が原因で、昼は白鳥になり、夜の間だけ人間に戻れるというさだめを背負ったのである。このストーリーをヴァイオリン・ソロが語る。
 降旗が第一音を発した瞬間から、舞台上の空気が変わり、劇場内の空気が一変した。
 
 音色が違う!
 
 なんというノーブル(高貴)で、生命力に満ちた、浸透力ある響きだろう!
 なんという表現力か!
 
 もちろんNHK交響楽団に所属するプロの使っているヴァイオリンは、アマチュアの使っているものとは、質も(値段も)比較にならないに違いない。弦も弓も最高級のものだろう。
 だが、この音色は楽器の質自体の問題ではない。
 たとえば、『白鳥の湖』という話をまったく知らない人でも、この曲がどういう場面に使われているかを知らない人でも、降旗のヴァイオリンを聴いて涙することだろう。「物語」で泣かせるのではない。音色と表現力によって心を打つのである。
 しかも、降旗の演奏が突出していることで、他の演奏者たちとの距離がプリマと群舞くらいに開いてしまい、アマチュアたちの素人ぶりが目立ってしまうかと思えば、そんなことはなかった。
 逆に、降旗の見事な演奏による感化により楽団全体のレベルが一気に上昇したのである。技巧があがったのではない。想像力と集中力が焚きつけられて「物語世界」への突入を可能ならしめたのだ。当然、客席もそれに続いた。

 これがコンサートマスターの偉力か。
 これがプロか。
 痺れた。

 

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● 「破壊せよ」とマーラーは言った :ザッツ管弦楽団第15回定期演奏会

日時 2016年10月9日(日)14:00~
会場 すみだトリフォニーホール大ホール(東京都墨田区)
曲目
  • ブルッフ/ヴァイオリン協奏曲第1番 ト短調(ヴァイオリン:佐藤 舞)
  • マーラー/交響曲第6番「悲劇的」イ短調
アンコール
  • 服部隆之/NHK大河ドラマ『真田丸』のメインテーマ
  • ジョン・ウィリアムズ/『スター・ウォーズ』のテーマ
指揮 田部井 剛

 すみだトリフォニーホールは、JR総武線「錦糸町」駅から、スカイツリーを右手に見ながら歩いて10分ほどのところにある。音響効果にすぐれた、とても良いホールである。外観は普通のオフィスビルのようでそっけないが、内装はシックでお洒落で好感が持てる。ちょっとした飾りのデザインが目を引いた。

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ザッツ管弦楽団は2002年に発足。メンバーは、駒場高校オーケストラ部卒業生・成蹊大学・学習院大学・青山学院大学・法政大学・立教大学などの各大学学生、卒業生によって構成されており、平均年齢は20代後半。「熱く!楽しく!」をモットーに、年に1度(10月)の演奏会を行っている。(公式ホームページ参照)

 「熱く!楽しく!」は当たっている。
 今回初めて聴いたが、何よりも「音楽を楽しもう!観客を楽しませよう!」という心意気&サービス精神が感じられた。指揮者・田部井剛は過去15回のザッツのコンサートのうち13回を振っている。常任指揮者のような存在であろう。彼もまたザッツのモットーを体現している。あるいは彼の音楽や演奏会に対する考え方および性格が、オケのスピリットに反映しているのかもしれない。
 分かりやすいところでは、本番が始まる前に楽団員の数名が舞台に登場してプレコンサートをしてくれる。せわしない日常から離れて会場入りした聴衆たちは、徐々に音楽を聴く体勢に入っていく。
 そして、アンコールの選曲。
 マーラー6番の直後にこの2曲を持ってくるのはなかなか勇気のいることだろう。が、プロなら臆することもアマチュアなればこそできる。「観客を楽しませる」ことを優先するのなら、これは大正解。しかも、『スター・ウォーズ』のテーマでは、指揮の田部井が黒マントを羽織りダースベイダーのマスクをかぶって登場するわ、会場の照明を完全に落として舞台上の楽団員が掲げるペンライトで宇宙空間を表現するわ、と演出が憎い。
 1800席ほどの客席は8割方埋まっていた。おそらくリピーターが多いのだろう。特定ファンがついているのだろう。ソルティもまた聴きに来たいと素直に思った。
 そしてまた、このオケのチラシのデザインが毎回とても素晴らしい。アールヌーボーとゴシック風の折衷みたいな感じ。誰の作品だろう?

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 サービス精神だけでなく演奏も素晴らしかった。技術的にかなりのレベルで、マーラーの難解な曲をやるのに十分及第点に達している。音に熱がこもっている。切れ味の鋭さと迫力は、ザッツ(Sats)という歯切れのいいオケ名にふさわしい。(どういう意味があるのか or なんの略語なのかは知らないが・・・)
 田部井はプロフィールの写真を見る限りは、若かりし頃の田村正和みたいなクールな二枚目風の印象であるが、指揮台に立つと一変、情熱的で細かい身体表情は‘炎のマエストロ’コバケンを思わせる。今後注目したい人である。
 
 名曲である。ヴァイオリン協奏曲としては、チャイコフスキーやベートーヴェンやメンデルスゾーンやブラームスの有名曲に決して引けを取らないと思う。全体にドラマティックで美しいメロディーがふんだんにあふれている。ヴェルディのオペラの序曲や間奏曲を聴いているような華やかさと荘厳さも感じられた。
 ブルッフの名がほとんど知られていないのはいったいなぜ?
 ・・・と不思議に思ったが、今回配布されたパンフレットによると、マックス・クリスティアン・フリードリヒ・ブルッフ(1838-1920)はドイツのケルン生まれ。民族的な題材を活用した音楽で当時名声を博していたが、
 
彼の死後から15年経った、1935年、ドイツはアドルフ・ヒトラー及び国家社会主義ドイツ労働者党の支配下に置かれ、ユダヤの音楽が禁じられました。
 
 ブルッフの作曲した『コル・ニドライ』という曲がユダヤ教の典礼歌に基づいていたため、彼はユダヤの血を引いているのではないかと疑われてしまう。
 
そして、ナチスの政権下では彼の作品の上演が禁止に。そのため、彼の音楽は以降演奏されることもなく、人々の記憶から急速に忘れ去られていったのです。
 
 音楽も芸術も政治とは無関係でいられないのである。
 でも、こうやって没後100年近く経って極東の国で頻繁に演奏されているのだから、政治より芸術のほうが生命力は強い。
 
 マーラー6番は『悲劇的』というタイトルで知られている。マーラー自身がつけたものではないらしいが、曲自体がまさに「悲劇的」な印象を聴く者に与えるので固有名詞のようになってしまった。
 このイメージの形成に与っている原因の一つは、ほかの多くの交響曲が「暗から明へ」という曲調の展開を持っている――代表的なのはベートーヴェン『第九』――のに比べ、マーラー6番は「明から暗へ」と展開し、最後は「暗」も「暗」たる運命の一撃(フォルティシモ)と気息奄々たるピアニシモのピチカート(弦を弾く)で曲が終焉するからである。
 もう一つは、この曲の第4楽章にはなんとハンマー(槌)が楽器として登場し、苦悩から立ち直ってポジティブ志向で勢いをつけた曲が凱歌を上げようとする瞬間に、舞台上に設置された木の台に「ガン!」と打ち下ろされるのである。
 2度も!
 それは日本の正月の餅つきみたいに活気ある目出度いものではむろんない。村の鍛冶屋が「しばしも休まず」打ち続ける槌(つち)の響きのように賑やかで生産的なものでもない。しいて言えば、中世ヨーロッパの死刑執行人が打ち下ろす首切りの斧に近いイメージである。(ここは一つの見どころ、聴きどころになっている)
 2度のハンマーと最後の運命の一撃によって、希望を打ち砕かれ、完膚なきまで叩きのめされ、再起不能となり、暗い絶望のうちに息絶えていく人間――というイメージが「悲劇的」でなくてなんだろう。

 ソルティは6番をナマで聴いた(見た)ことがなかった。
 今回聴くにあたって、繰り返しバーンスタインのCDを聴いて予習した。
 「ところどころ非常に切なく美しい部分はあるけれど、まさに‘悲劇的’で、夢も希望もない暗澹たる曲だなあ」と思った。
 なぜ、マーラーはこんな曲を作ったんだろう?
 なぜ、こんな不吉な、気持ちが暗くなって、聴いた後しばらくは落ち込みそうな曲が人気あるんだろう?
 チャイコの6番『悲愴』とどっこいどっこいのネガティブエンディング――と思った。
 
 ところが――である。
 聴くと見るとは大違い。
 家で一人でCDで聴いているのと、実際のコンサート会場で100名以上のオケの姿を目の前にしながら聞いているのとでは、まったく違った印象を受けたのである。
 何よりもまず実演では迫力が違う!
 100名の(若い)演奏者が所狭しと舞台に並んでいるのは壮観であり、華がある。その大所帯が生み出す音の奔流、音の嵐、音の壁、音の色彩、音の爆発、音の豊穣たるや、パワフルというほかなく、生命力が漲っている。それは「死」のイメージとはほど遠いものである。
 次に、この曲で使用される楽器の多彩さ。
 マーラーは交響曲に変わった楽器を取り入れることで有名だったのだが、ここでもハンマー以外にも、ムチ、カウベル(牛の首につける鐘)、鐘などが使われ、チェレスタ、木琴、鉄琴、銅鑼なども登場する。聴覚的に賑々しく愉快なのである。
 おかげで打楽器チームの忙しいこと! 舞台を見ていると、面白いように出たり入ったり、前後左右に動いたりしている。
 そして、ハンマー場面が近づいてくるときの期待感。打ち手(今回は女性!だった)がどこからともなく現れ、重そうなハンマーを振り上げ、木の台に向かって打ち下ろすシーンは、演劇的ですらある。
 この曲は、視覚的効果が無視できないほど大きいのだ。自身、高名な指揮者でもあったマーラーが、上演における視覚的効果を考えなかったはずがあるまい。(ハンマーシーンでは誰だって打ち手に視線が行くだろう) そこから受ける印象は‘エネルギッシュ’に尽きる。
 家で聴いていた時とは違い、「悲劇的」「破滅的」という印象は受けなかったのである。
 
 別のコンサート会場でもらった今回のザッツのチラシに、指揮の田部井のメッセージが載っていた。
 
「伝統とは怠惰のことだ」と喝破したマーラーにとって、鉄槌の轟音は希望が無残に打ち砕かれる音なのか、それとも悪しき伝統を断ち切る希望の一閃なのか。
 
 この一文を読んだとき、ソルティはあまり共感できないと思った。
「いくらなんでも、この暗い6番に‘悪しき伝統を断ち切る希望の一閃’を聴くのは行き過ぎ、田部井の牽強付会だろう」と思った。
 しかし、実際の生演奏に接して、この田部井の言葉、解釈に納得がいった。
 6番は、死とか絶望とか破滅とか悲劇とかいったネガティヴな言葉で収めるには、あまりにパワフルで、エネルギッシュで、面白い! 高層ビルをダイナマイトで破壊するのを見るような爽快感すらある。(たとえ、アンコール2曲がなくても自分はすっきり満足したと思う)
 
 この曲は「悲劇的」でも「破滅的」でもない。
 「破壊的」なのだ。
 その点、チャイコの6番『悲愴』とは似て非なるものである。考えてみれば、チャイコが6番の初演のわずか9日後に亡くなった、つまり6番が実質的な遺言になったのにくらべ、マーラーは6番を発表した後も次々と傑作交響曲をものにし、名声を高め、7年余りを充実のうちに生きるのである。6番で破滅しているわけがない。
 
 破壊とは、新しいものを生むために、古いものを打ち壊すことである。
 いったい、マーラーは何を破壊せんとしたのだろう?
 ベートーヴェンに代表される古典的な交響曲か。
   それに連なるロマン派の感傷的な交響曲か。 
 19世紀という時代の遺物か。(6番の完成は1904年である)
 それとも、運命のパートナーたるアルマ・シントラーと出会う前の‘青臭い’自分か。(二人は1902年に結婚し、翌年第一子をもうけている)
 
 その答えは、6番の曲の中に秘められているのだろう。
 (いずれ、ソルティ流解釈をお目にかけたい)


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● マーラー交響曲第1番「巨人」 :OB交響楽団第191回定期演奏会

日時 2016年10月16日(日)14:00~
会場 かつしかシンフォニーヒルズ・モーツァルトホール
指揮 田久保裕一
曲目
  • モーツァルト/交響曲第38番ニ長調K504「プラハ」
  • マーラー/交響曲第1番ニ長調「巨人」(花の章付き)
  • アンコール チャイコフスキー/『くるみ割り人形』より「花のワルツ」

 ここ一年ばかり、アマオケめぐりが趣味となって実感したことの一つに、「あちこちに良いホールがあるんだなあ」というのがある。機能的で音響効果に優れ、どこからでも舞台がそれなりによく見えるよう配置された座り心地良い椅子が並び、内装やインテリアにも品がある。そんなホールが下町のど真ん中にデンと構えていたりする。悪名高きバブルの残した数少ない恩恵と言うべきか。
 かつしかシンフォニーヒルズもその一つで、バブル終息期(1992年)にオープンしている。
 葛飾区は、先ごろ最終回を迎えた秋本治作の世界最長の少年マンガ『葛飾区亀有公園前派出所』で全国的(世界的?)に有名になった東京の代表的な下町である。京成電鉄の青砥駅で降りると、いかにも‘両さん’が歩いていそうな下町風(昭和風)の商店街が広がっていて、10分ほど歩いたところに不意にモーツァルトの立像を抱いたモダンで美しいシンフォニーヒルズが出現する。いっきに昭和から平成を回避してウィーンに来たかのような印象を受ける。

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 OB交響楽団を聴くのは2回目。
 オケのメンバーの平均年齢が高いのが最大の特徴(ベテラン揃い)で、長所も短所もそこに由来する。なにせ数年後には200回に達する演奏歴を誇っている。
 前回書いたが、オケの音に厚みと粘りがある。技術はまったく問題ない。団員の呼吸も合っている。最初から最後まで統一感を保持できる。安心して聴いていられる。やはり‘スライム’を連想した。

スライム

 一方で、新鮮味のない、譜面どおりの上手な演奏に終わってしまう可能性がある。
 特に、前回のシューベルトや今回のモーツァルトのような古典的な形式の有名曲をやると、短所が顕わになりがち。なぜかわからないが、『プラハ』はテンポも終始ゆっくりでメリハリに欠いていたので、ますます短所が強調されて、前回の『未完成』同様、凡庸で退屈なものになってしまった。モーツァルトの曲は、たとえオペラ『ドン・ジョバンニ』のような悲劇であろうと、旋律の輝かしさと心はやる疾走感が生命線であることに変わりはない。古典的な曲をやるのならもう一工夫ほしいところである。
 それとも、スロースターターの団員たちの指と心を温めるための戦術なのだろうか?
 
 一曲目が終わってちょっとがっかりして、せっかく誘った友人に申し訳ない気持ちになった。が、そこはやはりスライム。二曲目で見事リベンジした。

 マーラー交響曲1番は、若々しさと独創性が漲って、新しい時代の天才音楽家の登場を告げるに十分なノベルティ(新奇さ)と刷新の気風に満ちている。4つの楽章(今回は‘花の章’含め5楽章だった)のそれぞれが非常に印象的で、耳について残りやすく、ヴィジュアル喚起し、それこそ‘両さん’のようにキャラが立っている。実際、どの楽章も甲乙つけがたく魅力的で、面白い。

 第1楽章は「カッコウ行進曲」とでも名づけたいような、楽しくさわやかで希望に満ちた調べ。自然賛歌であり、同時に生の喜びの押さえきれない表出であり、これから始まる人生への期待を歌っているように感じる。
 
カッコウ

 第2楽章は、通常なら省かれる「花の章」。
 当初第2楽章として構想されたのだが、後にマーラー自身の手により削除されたと言う。青年時代のマーラーの恋愛がモチーフと言われるだけあって甘美で夢見るような調べ。メロディラインの美しさでは、交響曲5番のアダージョと双璧と言っていいかもしれない。これほど聴く人の心をつかむ名曲を埋もれさせるのはもったいない。ぜひ、今後も挿入してほしいものである。

花の章

 第3楽章は、もっともソルティが好きな部分。ここは何といっても低弦が繰り返し刻むリズム「バン・ボ・バンバン・ボ」が心地よい。専門用語で「オスティナート」と言うらしい。この浮き立つように快適なリズムに乗って、人生の門出および順風満帆の社会生活が歌われる。終わりのほうでは、優美な民族音楽風のワルツが奏でられ、華やかな社交界と大人の恋愛模様とでもいったブルジョアっぽい風景が描かれる。指揮者として頭角を現し女性関係も賑やかだったマーラーのイケイケ青春時代を表現しているかのようである。

順風まんぱん

 人生、山あり谷あり。
 第4楽章は一転して暗く沈うつな曲調。「挫折、哀愁、宿命、鬱」といった言葉が思い浮かぶ。
 マーラーは双極性障害いわゆる躁鬱病だったんじゃないかと思う。すべてが「上手く行っている」と意気軒昂になるかと思えば、どこからか宿命の「スラブ的な」調べが鳴り響いてきて、すべてが「暗く見えてくる」。あたかも運命が「お前には幸福になる資格はない」とでも言っているかのよう・・・。
 だが、この楽章が聴く者をそれほど暗澹たる気分にさせないのは、使われている主要旋律のもとになっているのがおなじみのフランス民謡『鐘が鳴る』だからである。この曲がNHKの子供番組の中で『グーチョキパーでなにつくろう』という手遊び歌として紹介されてヒットしたことが示すように、子供にも覚えやすい単純なメロディで『かえるのうた』のように輪唱(カノン)して楽しむことができる。
 実際ここでも、コントラバスから開始された主要旋律を他の楽器が次々と追いかけて、多彩な音色を重ねながら輪唱して行くさまは、とても聴きごたえがあって面白い。だから、暗く沈うつではあるけれど、のちの交響曲5番や6番の第1楽章のようには重々しく深刻な印象は与えない。(しかも、この楽章の中間部には、のちの「アルマのテーマ」につながる情熱的で包み込むような美しい旋律が挿入される。)

鐘


 「引きこもりの平和」とでも言うべき、静かで穏やかな心境で終わった第4楽章は、シンバルの一撃とともにいきなり破られる。その印象はまさに、

泰平の 眠りを覚ます 上喜撰
たった四杯で 夜も寝られず

 すなわち、幕末(1853年)のペリーによる黒船来航の際の日本である。まさかマーラーを聴いて、この狂歌が思い浮かぶとは!(ちなみに上喜撰とはお茶の銘柄。蒸気船とかけてある)
 その意味では、この第4楽章から第5楽章の転換は、ベートーヴェン《第九》の第3楽章から第4楽章の転換と似ている。《第九》同様、ここは平和を破られた悲劇と言うよりも、「見せかけの安眠を貪っている場合じゃない。目覚めよ!危急のときだ。世界はお前を待っている。さあ、活動せよ!」と、覚醒を誘う叱咤の声という感じがする。
 
青春は終わった。ここからが本当の大人の社会。
自分の足と才覚とで難事に立ち向かえ(第1主題)。
その先には、(もしかしたら)アルマのように美しく女性らしいパートナーが待っているかもしれない(第2主題)。

 ここから先は、この曲を作っていた当時のマーラーには未知数だったのだろう。なんとなく苦しい展開部になっている。
 ただ、成功に対する強い野心と確信が30歳手前のマーラーにはあった。全曲のフィナーレは、金管楽器の吹き鳴らす強く輝かしい凱歌で聴く者を圧倒する。

勝利の女神


 こんな独自の解釈をしたくなるくらい、OB交響楽団の演奏と田久保裕一の指揮は、表現豊かで素晴らしかった。ソロパートが多いこの曲こそ、腕の達者なベテランメンバーが揃っているこのオケにはふさわしい。どのソロも難なくこなしていて「さすが」であった。粘りのあるスライム感は、マーラーを構成するモチーフの一つである「スラブ的(ユダヤ的?)因縁」を表現するのにうってつけである。古典派の交響曲に比べると複雑で支離滅裂なようにも思えるマーラーのカオス世界も、しっかりした技術と長年の経験と調和のとれたOBオケだからこそ、方向性を見失ってバラバラに空中分解することなく、最後まで凛とした力強いフォルムを呈示できる。
 OBオケ、意外にも(失礼!)マーラー合っている。
 
 田久保裕一は、今年の11月にウィーンの楽友協会大ホールで、この「巨人」を振る予定らしい。このレベルなら拍手喝采&「ブラヴォー!」を受けると思う。
  誘った友人も「こんなにマーラーが面白いとは思わなかった」と満足そうであった。ほっとした。
 
 帰りの駅のホームから、タイタン(巨人あるいは土星)ならぬ満月が、滴るような赤い光を放っているのが眺められた。

 
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● カッコいい奴! マーラー:交響曲第2番「復活」(学習院輔仁会音楽部)

マーラー復活20161227


日時 2016年12月27日(火)18:30~
場所 東京芸術劇場コンサートホール(池袋)
指揮 山下一史 
演奏 学習院輔仁会音楽部
ソリスト 
髙橋絵理(ソプラノ)
中島郁子(メゾソプラノ) 
曲目  
  • J.ブラームス/「運命の歌」op.54 
  • G.マーラー/交響曲第2番ハ短調「復活」

 マーラー(1860‐1911)「復活」の自筆譜が11月29日、ロンドンのサザビーズのオークションにかけられ、楽譜としては史上最高値の455万ポンド(約6億3500万円)で落札されたというニュースが流れた。
 落札者の名前は公表されていないが、元の所有者はアメリカの実業家ギルバート・キャプランである。
 このキャプランの人生ほど「カッコいい!」ものはなかなかないと思う。
 
 キャプランは24歳のとき(1965年)、高名な指揮者レオポルド・ストコフスキーの「復活」リハーサルを見学して衝撃を受けた。その後、27歳で経済誌の創刊者として成功し財を築く。30歳過ぎてから大好きな「復活」を指揮するためにだけ、サー・ゲオルグ・ショルティについて一から指揮法を学び始める。むろん、それまでに音楽教育を受けたことはない。情熱と努力と現在ならオタクと言うにふさわしい‘復活’愛の甲斐あって、40代なかば、ついに指揮者としてデビューする。その後は世界中の著名なオーケストラと100回以上「復活」だけを演奏、録音も残している。
 
「復活」以外にはレパートリーも皆無であり、「復活」の指揮以外の音楽的キャリアもこれといって無い。しかし、「復活」に関しては世界的にも第一人者と目されている。中年以降に音楽以外の分野から転じて成功した指揮者、ただ一曲だけを振り続けた指揮者という、世界でもまず他に例のない珍しい特性を二つも兼ね備えた稀な存在である。1988年発売したロンドン交響楽団との演奏は、マーラー作品のCDとしては史上最高の売り上げを記録した。(ウィキペディア「ギルバート・キャプラン」より抜粋)

 ぬあんてカッコいい奴なんだ!
 まるで「復活」のために生まれてきたみたいな男だ。(キャプランは今年の元旦に亡くなっている)
 映画にしたら絶対に面白いと思う。(むろん、タイトルは「復活の人」、BGMは「復活」を中心とするマーラーメロディに決まっている)
 キャプランの創刊した経済誌はおそらく早晩消えゆくだろう。が、キャプランの録音した「復活」のレコード、および自費購入したマーラーの自筆譜をもとに自ら研究を重ねて校訂した、もっとも作曲家の意図に忠実な楽譜「キャプラン版」は、今後も世界のどこかで「復活」が上演される限り、残り続けるのは間違いない。
 
 さて、学習院輔仁会(ほじんかい)とはなんぞや?
 やんごとなき皇室の名前から拝借?

学生の間には運動関係団体のほか多くの小団体があった。そのため第4代三浦梧樓院長は学生全体を包括する組織の設立を勧め、その結果全学生の中心機関として学習院輔仁会が創設された。輔仁会の活動は明治22(1889)年より始まり、会全体の行事として輔仁会大会や陸上運動会があった。会の名は『論語』(顔淵篇)の「君子以文会友、以友輔仁」(君子は文をもって友を会し、友をもって仁をたすく)より選んだものである。(学習院ホームページより) 
 
 「君子は詩書礼楽の文をもって友達を集め、集めた友達によって仁の成長を助ける」
 
 学生による「復活」がどんなものか興味津々。
 というかソルティは‘ナマ復活’初めてであった。
 一曲目のブラームス「運命の歌」もはじめてだが、なによりも合唱の声の若さに感動した。
 世にこれより上手い合唱団はあまたあるだろうが、声の若さ・張り・純粋さという点で一頭地を抜いている。というのも、結局ドイツ語の、それもキリスト教がらみの歌詞なんて大多数の日本人は(ソルティ含む)深く理解できないのだから、表現力や発音の正確さよりも声の美しさやハーモニーのほうが大切なんである。(そもそもマーラーが歌曲集は別として、交響曲に付す歌詞にそれほど重点をおいていたようにはどうも思えないんだが・・・)
 
 休憩を挟んでいよいよ「復活」。
 まずは芸劇の広い舞台をびっしり埋め尽くすオケ&合唱団に圧倒される。
 オケだけで130人はいる。そこに100人は超える合唱隊が入る。舞台が抜けそうだ。
 こんな大編成を必要とする曲を作ったマーラーも凄いが、プロ指揮者やプロ歌手を含めて大編成をまかなってしまう輔仁会も凄い。さすが皇族御用達。
 そしてまた、ソプラノとメゾソプラノの声の美しいこと。とくに、メゾソプラノの中島郁子(二期会会員)の声と姿の存在感は半端ではない。舞台の中心にいて堂々たる歌唱をとどろかすさまは、五百羅漢の中心に千手観音がいるかのような神々しさであった。
 
 演奏は学生としては「ここまでできれば十分」といえるレベルで、立派であった。
 こんなに長くて(80分)、こんなに重くて、こんなに複雑で、こんなに壮大な曲をよくもまあここまで頑張ったと思う。それがなんとワンコイン(予約500円)なのだから、「ありがとう」と言うほかない。
 
 この「復活」、神(=偉大なる者)への讃歌しかも合唱付きという点で、ベートーヴェン「第九」の後釜として日本人の年末の恒例行事になり得るのではないか、といったことをどこかの音楽評論家だか指揮者だかが書いていた。各楽章のユニークな個性とか、最終楽章の感動的な盛り上がりとか、終演後に約束される絶対的幸福感とか、まさに「第九」に匹敵する祝典曲と言えよう。
 しかし、惜しむらくは長い。
 80分以上ある。
 特に、第1楽章(20分以上)と第5楽章(30分以上)が長すぎて、下手すると飽きてしまうか寝入ってしまいかねない。ここのところを各々10分ずつ削って、全体を60分以内に収めたら、十分「第九」に太刀打ちできると思うのだが・・・。いや、5分ずつでもいい。あるいは、1楽章と2楽章を削って、3楽章から演奏すれば60分以内で結構な満足が得られよう。(ああ、そうか。プログラムをこれ一曲にしぼって、2楽章と3楽章の間に20分の休憩を入れればいいのだ。後半が始まるときに合唱団が舞台に上がれるから丁度いい)
 今回、ソルティはこれを聴くために有給休暇を取った。仕事(介護)を終えたあとに参加することもできたのだが、たぶんそれだと肉体的・精神的に疲れきっているから、途中で寝てしまうのは確実と考えた。結果的に正解で、80分間、寝ることも飽きることもなく音楽に向き合えた。
 マーラーの交響曲を消化するにはそれなりの準備が要る。
 だが、準備さえできていれば、日常では味わえないような格別な感動と幸福が待っている。
 
 さて、今年は22個のアマオケコンサートに出かけ、たくさんの曲と出会った。
 クラシック音楽の広さと奥深さを垣間見て、これから先、カバーできないほどの名曲や名演奏との出会いが待っていると思うとワクワクする。
 年の終わりに、マーラーの人生、キャプランの人生に思いを馳せながら、最近できた年下の友人と「復活」を聴けたことは実に幸せであった。まさに「仁を輔く」だ。
 
 少なくともソルティは、「復活」を年末行事に組み込むことになりそうだ。



 
 
 
 

● 彼岸に一番近い曲 マーラー5番:ユーゲント・フィルハーモニカー 第11回 定期演奏会

日時 2017年 3月25日 (土) 13:30~
会場 すみだトリフォニーホール 大ホール(墨田区錦糸町)
曲目
  • M.ラヴェル: バレエ音楽≪ダフニスとクロエ≫第2組曲
  • G.マーラー: 交響曲第5番 嬰ハ短調 
  • アンコール M.ラヴェル: 亡き王女のためのパヴァーヌ
指揮 三河 正典


ユーゲント・フィルハーモニカーは、財団法人「日本青年館」の音楽行事(オーケストラ・フェスタ、全国高等学校選抜オーケストラ・ヨーロッパ公演、日本ユンゲ・オーケストラ・ヨーロッパ公演)に参加したメンバーが中心となって2006年3月に創設されたオーケストラです。現在団員約70名を越えるオケにまで成長しました。3月の定期演奏会を中心に、福祉施設や普段生のオーケストラに触れる機会のない農村への訪問演奏、その他、行楽施設の各種イベントやテレビ番組での依頼演奏など幅広い活動を行っています。(ユーゲント・フィルハーモニカー公式ホームページより抜粋)

 
 すみだトリフォニーホールは、シックで広々として居心地よく、音響効果も優れている。1801席のうちの1142席が埋まったらしい。さすがクラシック指折りの大人気曲である。

 ラヴェル≪ダフニスとクロエ≫第2組曲は、もともとバレエ音楽なので、交響曲や協奏曲のような、曲自体で完結した構造的な美しさは期待できない。しかし、フレーズの美しさたるや絶品である。
 ラヴェルはオーケストレーションの魔術師と言われる。有名な『ボレロ』やムソルグスキーのピアノ曲を管弦楽用に編曲した『展覧会の絵』などは、まさにその称号の正当性を立証するものである。
 と同時に、ラヴェル音楽の特徴は「色彩の豊かさ」にあると思う。
 ラヴェルの音楽は、聴く者の閉じたマブタの裏に、様々な色彩の衣装を付けた踊り子たちを映し出していく。最初は一人の踊り子(単色)から始まり、微妙なグラデーションをつけながら一人また一人と増えていき、色を重ね、色と色とがあちこちで反射し、引き立て合い、異なった色の組み合わせがまったく別の色を生み出し、終いにはあふれんばかりの色彩の群舞の中にいる自分を、聴く者は発見する。
 その色彩は、アンリ・マティスやゴーギャンのようにベタで大胆なものではなく、シャガールのように幻想的なものでもなく、パウル・クレーの抽象絵画のような明るさとはかなさとに満ちている。
 あくまでもフラジャイル。
 本来、視覚とは関係ない音楽になぜこんなに「色」を感じるのだろう?
 世の中には共感覚を持つ人がいて、特定の音を聴くと特定の色が浮かぶという。ラヴェルはまさにその一人だったのではなかろうか。
 そして、ラヴェルの音楽は、それを聴く者の共感覚――つまり「音」と「色」それぞれを認識・管轄する脳細胞の両方――を同時に刺激する効果を持っているのではなかろうか。
 
共感覚(きょうかんかく、シナスタジア)は、ある刺激に対して通常の感覚だけでなく異なる種類の感覚をも生じさせる一部の人にみられる特殊な知覚現象をいう。 例えば、共感覚を持つ人には文字に色を感じたり、音に色を感じたり、形に味を感じたりする。(ウイキペディア「共感覚」)


クレー
パウロ・クレー作「本通りと脇道」
(ミュンヘン・ヴァルナー・フォーヴィンケル美術館所蔵) 

 
 マーラーの5番ほどソルティがよく聴く交響曲はない。ただしCDで、という補足がつく。ライブではやっぱりベートーヴェン《第九》が群を抜いている。
 今回久しぶりにライブでマーラー5番を聴いて、この曲の圧倒的な名曲ぶりを再認識するとともに、CDで聴く音楽とライブで聴く音楽の違いをまざまざと感じた。 
 今更ソルティのような素人がやる意義はまったくないと承知のうえ、次のように比較できよう。

1.「平面的・同時的」V.S.「立体的・波状的」 
 部屋でCDを聴くとき、音波の旅する距離は圧倒的に短い(イヤホンの場合など、ほぼゼロである)。広い空間を持つホールでは、音波は空気を振動させながら、比較的長い距離を旅して聴く者の耳に到達する。
 そして、CDはすべての楽器の音が、同時に・同じ場所(スピーカーorイヤホン)から発される。ライブでは、それぞれの楽器の置かれている位置の違いによって、あるいはそれぞれの楽器の音色が持つ周波数の違いによって、それぞれの楽器の出す音が微妙な時間的・空間的差異を持って聴く者の耳に届く。これが、音が平面的・同時的に聴こえるか、立体的・波状的に聴こえるかの違いを生み出す。
 とくに違いが顕著に分かるのは、全楽器で出すフォルティシモ。CDでは本当にいっぺんに、あたかも一音のように「バンッ!」と鳴り響く。ライブだと、フォルティシモにも微妙な色合いが混じって、重層的に聴こえる。

2.「中心的」V.S「周縁的」
 弦楽器が情熱的なメロディ(主題)を奏でる後ろで、ピッコロが剽軽なツッコミを入れたり、トランペットが軽快に伴走したり、オーボエが冷静な抑止をしたり・・・という周縁の面白さを味わうのが、管弦楽を聴く楽しみなわけである。今回も、「ああ、ここにこんな美しいクラリネットのフレーズがあったのか」とか「こんなところにトライアングルが使われていたのか」・・・といろいろ発見があった。
 CDだと、どうしてもそのとき主要なメロディを奏でている楽器に気を取られてしまう。やはり、音の発生元が一つというところに主因はあるのだろう。スピーカーの数を増やしてサラウンドにすれば、ある程度はその弊害を改善することができるのかもしれないが、庶民の家では限界がある。

3.「聴覚的」V.S.「視覚・触覚的」 
 ライブが視覚的というのは説明するまでもない。舞台上にびっしり並んだ大編成オケの威圧感も、演奏者や指揮者の動きや表情を見る楽しみも、ステージ上にイケメンや美女を探す歓びも、ライブでなければ味わえない。
 一方の触覚的とは、指揮者や演奏者や客席の発する‘気’、楽器の発する生の音の波動をじかに体感できることに尽きる。特に音波は、当然、聴いている者の鼓膜だけでなく、身体全体に接触し、全細胞に浸透し、震わしている。いったんデジタル情報に変換され機械的に再合成された音楽信号と、生の音とでは、明らかに波動の質が異なる(と思う)。

4.「いつかどこかで」V.S.「いまここで」
 家でCDを聴くとは、いつかどこかで発された演者の‘気’の微かな残滓を、いまここで味わおうとする行為である。一方、ライブでは、いまここで演者の発した‘気’が、音波に乗って客席に運ばれ、いまここで聴く者の‘気’と遭遇し、何か新たなものが生まれる。言い換えれば、ライブとは‘いまここ’を演者と聴く者とが共有する体験である。
 あらゆる芸術の中で、音楽が一番官能的になり得るのは、音楽が一番セックスに近いのは、それゆえだろう。その意味では、
家でCD=アダルトサイトを見ながらのマスターベーション
ホールでライブ=生セックス
と言えるかもしれない。

 「この世でもっとも彼岸に近い曲」と言われる(byソルティ)第4楽章の甘美さは、極上のセックスに匹敵する悦びをもたらしてくれて、完璧にシートに溺れた。1141人に囲まれてそんな恥態をさらした自分が、ちょっと変態な気がしたほどである。
 今回はユーゲント・フィルと三河正典にオト(音)されました。


タドジオ






● 失恋フーガ、あるいは少子化問題処方箋 :オーケストラ・エレティール第56回定期演奏会

日時 2017年9月16日(土)18:00~
会場 武蔵野市民文化会館大ホール
曲目
 J.S.バッハ(シェ-ンベルク編曲)/前奏曲とフーガ 変ホ長調 BWV552「聖アン」
 マーラー/交響曲第5番 嬰ハ短調
指揮 長田 雅人

 エレティールを聴くのは2回目。今回は大編成を要する2曲である。

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 1曲目はバッハ(=見事な対位法)とシェーンベルク(=見事なオーケストレイション)のイイトコ取り。とくに後半のフーガ部分が、連発花火のように多彩で華やかで自由自在で素晴らしかった。バッハの曲はゴチック教会の荘厳さと陰鬱さを思わせるけれど、シェーンベルクの魔術的なアレンジメントによって「極彩色のステンドガラスを通して聖堂に煌びやかな陽光が差し込んできた」といった印象。 
 傑作である。

花火



 配布されたプログラムを読んで知ったのだが、シェーンベルクは26歳(1901年) のとき先輩作曲家であるチェムリンスキーの妹と結婚している。が、8年後に妻は画家と駆け落ちする。つまりコキュにされたのである。妻は戻ってきたが画家は自殺したそうな。
 別記事で書いたが、シェーンベルクが1899年に作曲した『浄夜』はまさに愛する女の不貞を描いた作品である。別の男の子供を宿してしまった女を寛大にも許し受け入れる男の話。なんとシェーンベルクは予言者よろしく、自ら作曲した物語をそのまま生きる羽目になったのである。
 そのうえ、このエピソードには対位法のような第二旋律がある。シェーンベルクの義兄となったチェムリンスキーは社交界随一の美女を愛したが、尊敬する先輩音楽家であるマーラーに分捕られてしまう。アルマ・シントラーのことだ。
 人の心に錠はかけられない、恋愛は自由とは言うものの、芸術家の人生はかくも物狂おしく忙しい。
 

アルマ
魔性の女 アルマ・シントラー

 2曲目は大好きなマーラー5番。
 クラシックの名曲中の名曲であり、星の数ほどある交響曲のうちトップ10に入る人気曲であるのは間違いないけれど、ソルティはこの曲をはじめて聴いてから数十年来、微妙な違和感というか‘引っかかり’を持っていた。「名曲なのは確かだけれど、聴くたびに感動するのも間違いないけれど、一体この曲のテーマは何なのだろう?」という思いである。
 むろん、音楽に(交響曲に)テーマを求めるのは文学かぶれ&精神分析かぶれした現代人の悪い癖なのかもしれない。交響曲に優れた小説や戯曲に見るような構成やストーリー展開の妙を読み取ろうとするのは、推理小説やハリウッド映画を愛するソルティの生理的嗜好に過ぎないのかもしれない。純粋音楽という言葉があるように、音楽はテーマや物語性とはまったく別の領野で、音楽それ自体の輝きによって人を感動させ得るものである。マーラー5番もその証左であって、各楽章の個性やメロディの美しさ、楽器の音色やオーケストレーションの豊かさ、曲調や演奏から受け取る‘気’を味わえば十分であって、そこに何も解釈すべき物語をわざわざ想定しなくてもよいのかもしれない。
「テーマなんて関係ない。そのままで十分に美しい!」

 しかしたとえば、ベートーヴェン《第九》に較べると、あるいは同じマーラーの1番《巨人》や2番《復活》や3番に較べると、5番は統一感がないというかアンバランスな印象を受けるのである。《第九》には「暗から明へ」という流れがあった。第1楽章から第3楽章までの様々な地上的な心境を経験した魂が、最終楽章においてついに「ユリイカ! それは父(神)に帰依する喜びだ!」と高らかに宣言するという劇的ストーリーが読み取れる。マーラー1番は別記事で書いたように「愛と青春の旅立ち」とでも言いたいようなテーマ性を発見(発明)できる。2番はまんま「復活」、3番は「自然」がテーマである。どちらかと言えばマーラーは文学性が濃い作曲家だと思うのである。してみると、5番にも何らかのテーマが托されているのではないか。そう勘ぐってしまうのも無理からぬ話ではないか。
 しかるに、この5番と来たら、楽章ごとにあまりに雰囲気(曲想)が異なっていて、楽章間の有機的つながりがいっこうに見えてこないのである。(音的なつながりは見出せる。有名な第4楽章のメロディが他の楽章中でバリエーションを奏でている)

 第1楽章の‘運命的’はじまりと葬送曲は、マーラーの十八番たる「暗・鬱・孤独・不安・宿命」であろう。
 第2楽章の落ち着きのなさと幾度も繰り返される絶頂と虚脱の意味するものは?
 第3楽章こそ謎である。「暗→明」「鬱→躁」「孤独→愛」「不安→安心」「宿命→恩寵」への転換が聴き取れるのだが、そのきっかけとなるものは何なのか? そして、散漫・冗長と思えるほど長大で独りよがりな構成の意味するものは?
 唐突に彼岸に運ばれる第4楽章。圧倒的に甘美だが、他の楽章から浮きすぎている気がしないでもない。油絵の中に一つだけ水彩画が飾られているような印象だ。
 そして、もっとも謎に包まれた第5楽章。軽快で躁的な曲調はどうやら「暗」から「明」に達したということらしいけれど、あまりに無邪気すぎる。やんちゃすぎる。これをベートーヴェン《第九》最終楽章同様の「喜び」と解してもいいものだろうか? マーラーは「答え」を見つけたと言ってもいいのだろうか? なんだか浅すぎる。(ベートーヴェンが深すぎるだけか)
 
 いま一つの謎は、曲全体に漂う官能性、エロティシズムである。
 第4楽章はまぎれもなく人間の作ったあらゆる音楽の中で、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』と並び最も官能的なものの一つであろう。「タナトス(死)に向かうエロティシズム」といったバタイユ的匂いがある。だからこそ、ヴィスコンティは『ベニスに死す』でこの曲をBGMに選んだのだろうし、モーリス・ベジャールはバレエに仕立てたのであろう。
 この第4楽章の印象があまりに強いので他の楽章にもエロティシズムを付与して聴いているきらいがあるのかもしれない。が、ソルティは5番を聴いているといつも、とくに第3楽章あたりから‘音楽とSEXしているような気分’になるのである。結果、客席で恍惚感に身をゆだねている。


マンジュシャゲ


 今回の長田雅人&エレティールの5番は、ソルティがこれまで(CD含め)聴いた中でもっともテンポがゆったりしていた。最初から最後まで非常に抑制を効かせていた。長田がそのように振った理由は分からないけれど、それによって楽章ごとのキャラクターが明確になり、ソルティが感じる‘引っかかり’と恍惚感を客観的に分析し意味づけするだけの余裕があった。
 結果、ついにこの曲の自分的に納得いく解釈を見出したのである!
 やってみよう。

 第1楽章は、愛を知らない孤独な男の魂である。自我と性欲の重みにつぶされんばかりになっている。あるいは、マスターベーションにおける妄想のSEXである。
 第2楽章の落ち着きなさは、ハンティングに乗り出した男の渇望と高揚と挫折を描いている。いろいろな女と出会い、恋のゲームを楽しみ、口説きに成功してSEXに至る。が、性欲は満足しても心の満足は得られない。頂点に達した後に襲ってくる虚しさと孤独。偽りの愛。
 この曲は最初に第3楽章が作られたそうだが、この楽章こそクライマックスであり、全曲の主要テーマの開陳である。本当の愛との出会い、つまりマーラーにとって運命の相手であるアルマとの出会い、そしてより具体的にはアルマとの‘愛の一夜’があますところなく描かれているのがこの楽章である。(言い切った!)
 これまで並べた黒い碁石がすべて白にひっくり返る。暗から明へ、鬱から躁へ、孤独から愛へ、不安から安心へ、宿命から恩寵へ、陰から陽へ、剛から柔へ、男から女へ。あるいは、それら対極同士が交合し、スパークしながら溶け合って、アンドロギュノス的な一体の魂となる。愛の成就。それが恋人同士の愛の一夜であるならば、冗長だろうが散漫だろうが、他人にはまったく関係ない。
 第4楽章が彼岸的であるのはもはや当然である。熱く激しく愛し合ったあとに訪れる深く天上的な眠り。この世ならぬ美の世界。タントラよろしく、性愛によって人が到達しうる最高の境地を、夢か現か分からぬままに揺曳する。
 ここまで来てやっと、第5楽章の始まりが朝の風景の描写であることに納得がいく。後朝(きぬぎぬ)の章である。大気が目覚め、鳥がそこかしこで鳴き、木や草が露を光らせ、爽やかな風が湖面を吹き渡り、朝日が万物に降り注ぐ。恍惚たる愛の一夜のあとに訪れる‘生’の爆発的喜びと感謝。自然への讃歌と一体感。今や目に映るすべてが輝いて見える!

 結論を言えば、この曲は性愛がテーマ、それも「男の性」を表現している。

 マーラーにとって、アルマという存在が人生において、また表現者としてのアイデンティティにおいて、すこぶる重要な要素であったのは間違いなかろう。5番の第4楽章はまさにアルマに捧げられたものであるし、6番第1楽章第2主題はアルマを表現したものであったし、8番に至っては作品そのものがアルマに献呈されている。アルマと出会った年に作られた5番以降、アルマこそが作曲家マーラーの中心的モチベーションだったのではなかろうか。そして5番は、二人の関係がもっとも密で、もっとも安定し、もっとも幸福だった時の記念碑的作品と言えるのではないだろうか。


花の章


 5番で「究極の愛を得た」と凱歌を上げたマーラーは、その「喜び」を維持できたのか?
 そうは問屋がおろさない、ってことは恋愛経験ある誰もが知っている。
 続く6番において振り下ろされるハンマーの破壊的響きの正体は、男の恋愛幻想の破綻、女性幻想の崩壊を意味していると解釈するのはどうだろう? つまり――たぶんこれまで誰も書いたことがないと思うが――マーラーは、結婚してさほど日が経っていない時期に、妻アルマの不貞の事実を知ってしまったのではなかろうか。
 アルマがマーラーを裏切って建築家ヴァルター・グロピウスに走ったエピソードは良く知られている。それは第8交響曲を初演した1910年のことで、苦痛の極みにいたであろうマーラーはそれでもアルマを許し、グロビウスか自分かを選ぶ自由を彼女に与えた。理由は知るところでないがアルマは結局マーラーのもとを去らなかった。
 マーラーと出会う前のアルマの恋愛事情、マーラーが亡くなったあとのアルマの恋愛遍歴を鑑みるに、アルマという女性は生来ニンフォマニアなところがあったのではないかと思うのである。大変な美女で会話も巧みで、ほっといても男は寄ってくる。彼女もちやほやされることは嫌いではなかった(大好きだった)。こういう女性がたとえ結婚して間もないからといって、子どもを生んだばかりだからといって、夫一人で満足できるとは思えないのである。マーラーは天才で成功者で押しが強くて魅力的な男だったのは間違いなかろうが、肉体的魅力という点では決して他の男より抜きん出てはいなかった。指揮者としての仕事、作曲家としての仕事で多忙を極めていたから、アルマがほうっておかれた可能性は高い。(二人の年齢差は19歳)
 アルマの不貞を知りそれでも突き放せないほどアルマを愛していた(必要としていた)マーラーにとって、以降、アルマの存在は単なる‘生活上のパートナー’‘肉体を持った一人の女’を越えた神話的存在に昇華していったのではないか。それが交響曲第8番第2部『ファウスト』の最終シーンの名ゼリフ「永遠にして女性的なるもの、我らを引きて昇らしむ」につながる。

 こんな不埒で意地悪な想像をするソルティを女性不信と思うかもしれない。が、ソルティは女性のそういった面をも含めて「天晴れ!」と思うほうである。少子化問題の最良の処方箋は、女性がもっと自由に恋愛して、自由にSEXして、父親不明の子どもをバンバン生んで、なおかつ周囲や福祉の助けを得ながら母親一人でも育てられるような社会を作ることだと、なかば本気で思っている。(このさき日本人の既婚率は下がることはあっても上がることはないと思う)

ひよこ
 

 話がそれた。
 シェーンベルク、チェムリンスキー、マーラー。
 大作曲家だろうと、凡人だろうと、男というものは不甲斐なくもつまらない。
 ほんとはそれが言いたかったのである。







● ムラムラ君 : OB交響楽団第194回定期演奏会

日時 2017年10月28日(土)14:00~
会場 ティアラこうとう大ホール(東京都江東区)
曲目
 ワーグナー/楽劇『トリスタンとイゾルデ』より「前奏曲と愛の死」
 マーラー/交響曲第5番 嬰ハ短調
指揮 太田 弦

フルトヴェングラー 001


 音楽好きなら誰でも「人生最大のレコード体験」というのを持っていると思う。生演奏によるライブ体験とは別に、自宅でレコードやCDを聴いて人生観や音楽観が変わるほどの衝撃を受け、以降音楽に(そのジャンルに、その演奏家に、その歌手に)のめり込むようになった体験のことである。
 ソルティの場合、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』がまさにそれだった。
 CDプレイヤーが世に出回るようになってまだそれほど経っていない、20代半ば頃である。ヴェルディ『トロヴァトーレ』との出会いからオペラを聴くようになり、しばらくはヴェルディやプッチーニやベッリーニやドニゼッティなどのイタリアオペラを追っていた。ドイツオペラはモーツァルトくらいだった。なによりマリア・カラスに夢中だった。
 それがようやく落ち着いて、「そろそろワーグナーにチャレンジしようか」と思い、手はじめに秋葉原の石丸電気レコードセンター(今はもう無い)で購入したのが、東芝EMI発売1952年ロンドン録音のフルトヴェングラーの『トリスタンとイゾルデ』全曲であった。共演はフィルハーモニア管弦楽団、コヴェント・ガーデン王立歌劇場合唱団である。


フルトヴェングラー 003

 
 購入したその夜、おもむろに聴きはじめた瞬間から全曲終了までの約4時間、ソルティは当時住んでいた板橋の1Kの安アパートから、どこか上のほうにある別の場所に運び去られていた。次から次へと潮のように押し寄せる半音階的和声の攻撃と、うねるように昇り詰めていく螺旋状のメロディに、上等の白ワインを飲んだかのごとく酩酊した。音楽というものが、あるいはオペラというものが、「麻薬であり、媚薬であり、劇薬である」ととことん知った。男でもこれほど長時間のオルガズムを経験できるのだ、とはじめて知った記念日(?)でもある。
 歌手がまた凄かった。
 イゾルデは20世紀最大のワーグナーソプラノであるキルステン・フラグスタート。同CD付属の解説書によると、

 1935年メトロポリタン歌劇場で『ワルキューレ』の練習に際して、彼女が歌いはじめたその瞬間、その歌唱のあまりのすばらしさに指揮者は驚嘆のあまりバトンを落としてしまい、ジークムント役の歌手は茫然として自分の出を忘れてしまった程であった。

 これはまったく誇張でも粉飾でもない。ヴォリューム(声量)といい、輝きといい、鋼のごとき力強さといい、人間が持ち得る最も偉大な声であるのは間違いない。20世紀どころか今のところ人類史上ではなかろうか。
 トリスタンはルートヴィッヒ・ズートハウス。これもフラグスタートの相手役として遜色ない素晴らしい歌唱である。
 フルトヴェングラーはベルリン・フィル共演のベートーヴェン交響曲3番『英雄』、5番『運命』、9番『合唱付』など伝説的名演を数多く残しているが、それらの多くは1940年代のライブ録音ゆえ、音質の悪さも否定できない。名歌手を揃えたスタジオ録音のこのレコードこそが、後代のクラシックファンが聴けるフルトヴェングラー生涯最高の名演奏と言えるのではなかろうか。
 実をいうと、ソルティはこのCDを上記の一回しか聴いていない。その体験があまりに衝撃的で素晴らしかったので、もう一度聞いてそれ以下の感動だったらと思うと、怖くて聴けないのである。CDはケースに入ったまま今もレコード棚の奥のほうに並んでいる。こんなお蔵入りもある。

 さて、OB交響楽団の今回のテーマは、ずばり「愛」である。
 人類最高の恋愛物語の一つである『トリスタンとイゾルデ』は言うまでもないが、マーラーの5番も「アルマ交響曲」と名付けてもいいくらい、結婚したばかりの美しき妻の影響下に作曲されている。別記事でソルティは「男の性」がテーマと解釈した。
 まあ、なんと淫猥にして危険なラインナップであろうか。本来ならこういう演奏会こそ猥褻規定に引っかかるものなのだろう・・・(笑)
 指揮の太田弦(おおたげん)は1994年生まれの20代。舞台に登場した姿はまだあどけなさの残るのび太似のお坊ちゃん。オケの大半のメンバーの孫世代ではなかろうか。すでに日フィルや読響を指揮しているというから、才能の高さはその道のプロに認められているということか。OB交響楽団のようなベテラン&壮年オケがこういう勢いある若手と組むことを大いに評価したい。新しいものとの出会いこそが音楽を活性化する。
 
 出だしからOBのうまさが光る。独奏も合奏も安定している。よく練れている。太田の指揮は、繊細さと精密さが身上と思われる。ゴブラン織りのタペストリーのような、あるいは工学的技術の粋を集めた精密機械を連想した。

タペストリー


 と、分析できたのも最初のうち。1曲目『トリスタンとイゾルデ』の後半の「愛の死」から、舞台から放たれた音の矢がソルティの胸を直撃し、アナーハタチャクラが疼きだした。自分では曲を聴きながら、過去のいかなる甘いor苦い恋愛体験も感情的ドラマも思い出しても連想しても反芻してもいなかったので、まったく不意を突かれた。純粋に音の波動が、聴診器のようにこちらの体をスキャンして、必要なポイントを探り当てて掘削開始したように思われた。
「あらら?こりゃ不思議」と思っているうちに休憩時間。 

 2曲目マーラー5番。OBとマーラーの相性の良さを再認識。若いオケではここまでスラブ的粘っこさをうまく表現できないだろう。独奏もみな上手い。
 第2楽章の終結から今度は股間のムーラダーラチャクラがうごめきだした。くすぐったいような、気持ちいいような変な感触である。第3楽章に入ると、それが背筋を伝って這い上がり、首の後ろをちょっとした痛みを伴って通過して、頭頂に達した。ぼわんとあたたかな光を感じる。ホール内のルックス(照明)が上がった気がした。耽美的な第4楽章に入ると、光は眉間のアージュニャーチャクラ、いわゆる第三の目にしばらく点滅しつつ憩っていたが、最終楽章でスッと体の前面を下に降りた。華やかなクライマックスではオールチャクラ全開となった。
 体中の凝りがほぐれ、気の通りが良くなって、活気がよみがえった。
 終演後、最寄り駅に向かっていたら、ひさかた忘れていた“ムラムラ君”に襲われた。どうにもこうにも落ち着かないので途中の公園で瞑想すること40分。ムラムラ君は何かに変容したようである。
 やっぱり、音楽は麻薬だ。

ムラムラ君

ムラムラ君




 

● ポストモダンなマーラー : 西東京フィルハーモニーオーケストラ第25回定期演奏会(指揮:和田一樹)

西東京フィル


日時 2018年7月22日(日)14:00開演
会場 西東京市保谷こもれびホール
演目

  • チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35
  • マーラー/交響曲 第5番 嬰ハ短調
指揮  和田 一樹
ヴァイオリン独奏:﨑谷 直人(神奈川フィルハーモニー管弦楽団・ソロコンサートマスター)


 猛暑の中、外出する気力を呼び起こす演奏会などそうそうあるものじゃない。たとえ、それがチャイコのヴァイオリン協奏曲とマーラー5番という大好きなカップリングであるとしても・・・。
 指揮者和田一樹にはその気力を呼び起こすだけの引力がある。


P7220004
西武池袋線・保谷(ほうや)駅


 保谷駅にははじめて降りた。急行の停まらないマイナーな私鉄沿線駅らしい庶民的雰囲気である。会場のこもれびホールまで徒歩15分。もちろん歩いて行くなど話にならない。保谷庁舎行きのバスに乗った。
 662席のメインホールはほぼ満席だった。


P7220003
こもれびホール

西東京フィルハーモニーオーケストラは、管弦楽合奏を通じて音楽に親しむこと、そして、地域の音楽文化に貢献することを目的として1998年6月に生まれました。発足当時は保谷フィルハーモニーオーケストラという名称でしたが、2001年の田無市と保谷市の合併により市の名前が西東京市になったことで、現在の名称に改称しました。(西東京フィルハーモニーオーケストラのホームページより抜粋)


 チャイコのヴァイオリン協奏曲は、独奏の崎谷直人の圧倒的技巧に引き込まれた。背もスラっと高くてカッコいい。あれを目の前でやられて落ちない女性がいるだろうか。
 男っぽい厚みのある音色で、一本造(いちぼくづくり)の彫刻家のように、全体をザクッザクッと大胆に直感的冴えをもってノミで削り、細かいところを繊細な気配りをもって小刀で削るといった印象であった。
 和田は協奏曲もうまい。第1、第2楽章でソリストを引き立てて思う存分遊ばせながら、第3楽章で見事にオケとの対話を演出、最終的に和田一樹ならではのチャイコに仕立てていくあたり、やはり並みの才能ではない。

 和田のマーラーは2度目である。前回の演奏はやや不発で、和田の狙っているところがうまく表現できなかったような中途半端な印象をもった。
 今回は西東京フィルの安定した力強い演奏とソロパートの上手さを伴侶に得て、どうやら「和田のマーラー」の何たるかが見えてきた。
 
 これまでにソルティが数多く聴いてきた5番と「どこか違う」という印象は、第1楽章からずっと感じていた。だが、いったいそれが何なのか言葉にできなかった。分析できない、言葉にできない音楽素人のもどかしさよ。
 ただ、《葬列のように》という指示がついている第1楽章は全然《葬式》を連想させず、《嵐のように激しい》はずの第2楽章は意外に「あっさり」していて、ソロパートの多い第3楽章では「遊び心」をふんだんに感じ、『ベニスに死す』のラストシーンを想起せずに聴くことはもはや困難な第4楽章では指揮者の目線は「彼岸」より「此岸」を向いているように感じた。そして、完全に自己肯定的で喜悦にあふれた第5楽章の祝典ノリ。 
「これはマーラーか?」
「これは5番か?」
と思わず胸の中で呟いた。

 マーラーと言うと「近代的自己の申し子」みたいなイメージがある。
 神が死んだ世界に独りぼっちで投げ出され、孤独と憂愁と自己否定と、それでもなお絶えて止まぬ独立心と自己拡張と自由への希求と、その狭間で生じる他者との関係性という煉獄、永遠に先送りされる愛の成就。マーラーの音楽は、こういった近代的テーマに換言されよう。むろん、本邦の夏目漱石や三島由紀夫同様、時代精神を背負う(あるいは先取る)からこその天才なのである。
 多くの指揮者は、こうした近代的テーマの顕現をいかに深くマーラーの楽譜の中に読み取るか、同じ近代に生きる人間としていかに切迫に自分事としてそれを理解し、いかに巧みに音として再現・表現していくか、に身を砕く。聴衆もまた、己の中に知らず持たされている近代的テーマを、マーラーの音楽を聴くことを通して浮上させ、発見し、確認し、共感するのである。
 ここでは、「創るマーラー✕表現する演奏家✕受け取る聴衆」の近代的テーマをめぐる三位一体は完璧であった。ソルティもその枠組みの中でマーラーを聴いてきた。何と言っても、ソルティもまた近代的価値観の中で生まれ育ち、それをずっと内面化し続けてきた人間だからである。マーラーの5番に「物語」を読みたくなってしまうのはそのせいである。

 だが、日本社会はすでにポストモダン(脱近代)に入っているのやもしれない。上にあげたような近代的テーマを愚直に内面化することから免れた若い世代が、日本社会に続々登場しているのかもしれない。

ポストモダンとは・・・

 現代という時代を、近代が終わった「後」の時代として特徴づけようとする言葉。各人がそれぞれの趣味を生き、人々に共通する大きな価値観が消失してしまった現代的状況を指す。現代フランスの哲学者リオタールが著書のなかで用いて、広く知られるようになった。リオタールによれば、近代においては「人間性と社会とは、理性と学問によって、真理と正義へ向かって進歩していく」「自由がますます広がり、人々は解放されていく」といった「歴史の大きな物語」が信じられていたが、情報が世界規模で流通し人々の価値観も多様化した現在、そのような一方向への歴史の進歩を信ずる者はいなくなった、とされる(『ポスト・モダンの条件』1979年)。
出典:朝日新聞出版発行「知恵蔵」


 和田のマーラー5番を聴いて、「どこかこれまでのマーラーと違う」と感じたのは、この脱近代性ゆえである。その演奏は、「苦悩する近代人マーラー」という物語を次々と裏切っていくのである。痛快なまでに!
 和田の年齢は知らないが、おそらくポストモダンなキャラの主なのではあるまいか。

 ポストモダンなマーラー。
 それすなわち「脱マーラー」でもあるのだけれど、マーラーだっていつまでも「苦悩するボヘミアン」の役柄ばかり押し付けられたくないにちがいない。
 「近代的」解釈を払拭されてもなお、マーラーの音楽は素晴らしい。
 和田一樹はそこを教えてくれたのである。

 すっかり気力充填して、帰りは駅まで歩いた。やっぱ暑かった
 途中でかりんとうの美味しそうな店があったので、つい寄った。
 (究極のポストモダン――それは大阪のおばちゃんノリである)


かりんとう店2


かりんとう
いろいろな味が楽しめる小袋
なんと土日セールで100円ぽっきり!





● マーラー『復活』 : カラー・フィルハーモニック・オーケストラ第12回演奏会

復活の光



日時 : 2019年3月3日(日)19:30開演
会場 : 杉並公会堂・大ホール
曲目 : マーラー/交響曲第2番「復活」
指揮 : 金山 隆夫
独唱 : ソプラノ  浪川 佳代 、 アルト はやかわ 紀子
合唱 : 合唱団ACE

 日曜の午後7時半という開演時刻にも関わらず、場内は8割がた埋まっていた。
 さすがマーラー、さすが「復活」。

 カラー・フィルハーモニック・オーケストラは、2014年8月より活動スタートしたアマオケで、後期ロマン派の楽曲を中心に演奏している。初めて聴いたが、息がピッタリ合っていて、安定度が非常に高い。
 「こんなにうまいアマオケがいたのか!」と驚いた。
 金山隆夫の指揮は2度目だが、別オケで聴いた前回は残念ながら真価がわからなかった。今回は、文句なしの名演で、カーテンコールに何度も呼び戻された。
 調べてみたら、第1回演奏会からこのオケの指揮を担当している常任指揮者のような存在らしい。客演の時とまったくレベルが異なったのも道理であった。オケの面々が、金山の思うところをしっかり把握し、表現しているがゆえの完成度なのであった。

 とは言え、指揮者の個性が光る演奏と言うのとはまた違う。奇を衒った仕掛けも、ユニークな解釈も、挑戦的な表現もない。楽譜に忠実に、伝統に逆らわず、丁寧に音をさらった演奏という印象を持った。
 だが、ことこの「復活」に関しては、それが最適だと十分に教えてくれる演奏であった。
 つまり、指揮者の余計な解釈やイメージや下心が入っていないおかげで、作曲者マーラーの意図が素直に伝わってくるように感じられたのである。金山隆夫は、エゴをうまくコントロールできる人なのかもしれない。

 どの楽章も甲乙つけがたく素晴らしい出来で、徹頭徹尾、こちらのチャクラは揉まれっぱなしだった。最終楽章のコーラス入りからは荘厳かつ神秘的な世界を現出し、胸のチャクラが何かを叫んでいるようで、無性に泣けてしようがなかった。
 合唱団ACEは2018年秋に結成された合唱団とのことだが、この質の高さはなんだろう?
 たおやかな澄み切った歌声は教会の聖歌隊もかくやと思うほどであった。

 こんな素晴らしい演奏を無料で聴ける一夜が与えられたことに対して Something Great に感謝した。




評価: ★★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

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