ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

  ウミウシ映画

● 映画:『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(ダニエル・クワン&ダニエル・シャイナート監督)

2022年アメリカ
140分

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 第95回米国アカデミー賞の作品賞、主演女優賞、助演男優賞、助演女優賞、監督賞、脚本賞、編集賞の7部門を受賞した話題作。
 ついでにソルティ創設の「ウミウシ映画」殿堂入りの栄誉を与えたい。

 とにかく今までに観たことのない類いの映画である。
 基本は、『マトリックス』風多次元SFで、そこに『スターウォーズ』風宇宙サイズ家族ドラマの味わい、ジャッキー・チェン風カンフーアクションの勢い、『ロード・オブ・ザ・リング』風な光と闇との戦い、フィリップ・ラショー的お下品コメディを加味し、ニヒリズム(虚無主義)の哲学モードを包含し、諸星大二郎『暗黒神話』的飛躍感はなはだしい。
 よくわからない、でしょ?
 140分と長尺であるが、展開が極めてスピーディーで、映像がマジカルにしてキッチュなので、最後まで飽きることがない。
 多人種多民族多文化の坩堝(るつぼ)だからこそ今までにないものを生み出すことができる、ハリウッド映画の多様性と冒険性を評価したい。

 本作をより楽しみ理解するには、最先端の理論物理学の「マルチバース理論」、およびニヒリズム(虚無主義)の最終形態である「実存的ニヒリズム」をちょこっと齧っておくといいかもしれない。

多元宇宙論またはマルチバースは、複数の宇宙の存在を仮定した理論物理学の説である。多元宇宙は、理論として可能性のある複数の宇宙の集合である。・・・・多元宇宙が含むそれぞれの宇宙は、並行宇宙(パラレルワールド)と呼ばれることもある。

実存的ニヒリズムとは、人間存在は無意味であり不条理である。例え何かの意味を見付けたとしても、最終的には死というもの自体は避けられないという考え方。

(以上、ウィキペディア『多次元宇宙論』、『ニヒリズム』を参照)

 実存的ニヒリズムは、実は仏教――それも大乗仏教ではなく、ブッダの教えに基づくテーラワーダ仏教(初期仏教)――に近似している。
 19世紀にテーラワーダ仏教の存在を知った西欧人が、それを「魂の消滅(アネアンテイスマン)を志向し、すべてを否定する宗教=虚無の信仰(ニヒリズム)」と怖れおののいたことが、ロジェ=ポル・ドロワの本に述べられている。
 この映画に出てくる“マルチバースの崩壊を導くブラックホール的ベーグル”は、あたかも初期仏教の比喩のようである。
 しかるに、ニヒリズム(虚無主義)とは、「主義を持つ個人(自我)」の存在を前提にした西洋近代的自我から生み出された概念なので、諸法無我=自我の存在を否定する初期仏教とは異なる。
 仏教は無主義なのである。

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 ちなみに、「ウミウシ映画」の定義は下記の通り。

観ているうちに「一体、なにこれ?」と頭の中が疑問符だらけになり、予想のしようもない明後日方向のシュールな展開にあぜんとし、見終えた後もなんと人に説明していいか分からない類いの、ジャンル分けを拒む映画。





おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 「ウミウシ映画」殿堂入り :『MEN 同じ顔の男たち』(アレックス・ガーランド監督)

2022年イギリス
100分

 観ているうちに「一体、なにこれ?」と頭の中が疑問符だらけになり、予想のしようもない明後日方向のシュールな展開にあぜんとし、見終えた後もなんと人に説明していいか分からない類いの、ジャンル分けを拒む映画――それがウミウシ映画である。

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Kevin Mc LoughlinによるPixabayからの画像

 本作も、英国の瀟洒なカントリーハウスと美しい森を舞台にした、オーガニックでナチュラルでヒーリング系な映像(と音楽)から始まるので、スローフードやSDGS志向の女性観客をターゲットにした、傷ついた女性の心の回復物語と思っていた。
 たしかに、主人公の女性(ジェシー・バックリー)は恋人に別れ話を切り出し、言い争いの末に男は女を殴り、女は男に最後通牒を突きつけ、絶望と怒りから男は女の目の前で飛び降り自殺し、女は自らを責め苛むことになった。
 孤独と静寂と美しい自然とが、彼女の心を癒し、新しい出会い&人生が始まるのだろう。

 と思いきや、チン×ンぶらぶらの裸の男の出現を機に、物語はサスペンスホラーへと突入する。
 人里離れた森の邸にたった一人で住む若い女性を、男たちは放っておかない。
 どこかオタクっぽい家主の男、ストーカーまがいの裸の男、精神不安定な若者、下心みえみえの神父、男尊女卑丸出しの警官。
 おかしなことに、彼らはみな同じ顔をしている。
 そのあたりからストーリーは現実を離れ、悪夢かSFか、さもなくば主人公の妄想?――のオカルトファンタジー領域に入っていく。
 深夜の邸に一人、家を取り囲む男たちの気配に怯え、包丁を握りしめる主人公。
 やはり最後はスプラッタホラーになるのか?

 と思いきや、裸の男がギリシア神話のサテュロスのような恰好をして現れたとたん、物語は完全に「ウミウシ」領域に飛躍する。
 一体、なにこれ?
 予想すらしなかった展開にあぜんとしつつ、本来なら神聖であるべき営みのグロテスク映像に観る者の思考は麻痺させられる。

 すべては主人公のトラウマが生んだ妄想なのか?
 それともMEN(男たち)は実在したのか?
 この映画をどう解釈したらよいのか?

 ・・・・ウミウシとしか言いようがない。
 
 あえて言うなら、ソルティはジェンダーバイアス・ホラーとでも言いたい気がした。
 女にとって、理解できないMEN(男たち)の行動は十分ホラーになり得るという。
 
 一人五役でMEN(男たち)を演じ分けるロリー・キニアという役者が凄い!
 途中まで、それぞれ別の役者が演じているのかと思っていた。
 英国舞台出身俳優の実力をまざまざと知る。
 


おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● ウミウシ追加 映画:『カオス・ウォーキング』(ダグ・リーマン監督)

2021年アメリカ
109分

 西暦2257年の未知の惑星を舞台とするSF。
 原作はパトリック・ネスの同タイトルのシリーズ物のヤングアダルトSF小説で、東京創元社より『混沌(カオス)の叫び』の題名で刊行されている。

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 ネットを見ると、本作の評価はあまり芳しくない。
 たしかにツッコミどころ満載で、SFなのに基本的な状況(=世界観)の説明も手を抜いている、というかズボラな感が否めない。
 ストーリーも荒削りで強引なところがある。
 原作を読んでいないので分からないが、本来、長編シリーズとして創作されているものを、たった109分の映画に短縮してそれなりに結末をつけたところに、無理があったのではないかと思う。

 しかしながら、ソルティはかなり面白く鑑賞した。
 ★4つである。
 『ボーダー 二つの世界』、『バクラウ 地図から消された村』、『ブルー・マインド』と同様、ソルティが新たに作った「ウミウシもの」というジャンルに放り込みたい作品なのである。
 つまり、たしかにSF映画には違いないが、ただそれだけではすまない、「なんだか定義しづらい新しい風変りな要素」を匂わせるクセモノである。

 カオス・ウォーキング(Chaos Walking)の意味は、映画の冒頭にクレジットで説明される。

The noise is a MAN’S thoughts unfiltered
and without a filter a MAN is just a Chaos Walking.

 字幕ではこう訳している。

ノイズとは露わになった人間の思考である。
頭の中がむき出しの人間はただの混沌(カオス)だ。

 西暦2200年代、地球に似た惑星に入植した人類第一波は、原住民であるスパクルとの闘いを強いられた。
 が、それ以上に厄介だったのは、この惑星では人間の思考がそのまま露わにされてしまい、お互いの頭の中が分かってしまう点だった。
 結果的に、自らの思考を制御できる者がリーダーとなって、他の者の思考をコントロールできる力を得て、一つの共同体を作っていた。
 ただし、その共同体には女性が一人もいなかった。
 女性は、男性とは違って、惑星の影響を受けることなく、思考がダダ洩れになることはなかった。
 が、スパクルに虐殺されたのであった。
 主人公トッド・ヒューイット(トム・ホランド)は、人類とスパクルとの闘いのあとに生まれ、このようないきさつをまったく知らない。

思考の流れ

 面白かった点の一つは、この思考のダダ洩れと制御というアイデアである。
 2001年公開の映画『サトラレ』(監督:本広克行、出演:安藤政信)を観たことある人なら、思考のダダ洩れという現象の厄介さは分かるだろう。
 あの映画では主人公の青年の思考のみが周囲にダダ洩れし、本人はそのことを知らないという設定だった。
 本作は、共同体に住んでいるリーダー以外のすべての男の思考がダダ洩れなのである。
 うるさいったらない。
 近くにいる相手に自らの考えていることを「サトラレ」たくなければ、頑張って思考を制御しなければならない。
 まったく別のことを無理矢理考えるか、主人公トッドみたいに「僕の名前はトッド・ヒューイット」と頭の中で繰り返すか・・・。
 このシチュエイションが、ソルティがやっているヴィパッサナー瞑想(あるいはマインドフルネス瞑想)との類似を思わせたのである。

 ヴィパッサナー瞑想においては、妄想は退治しなければならない敵である。
 過去や未来にさまよってしまう意識を「いま、ここ」の現象に向ける。
 お腹の「ふくらみとちぢみ」といった体の感覚、耳介がとらえた外界の音、いま意識の底から湧き上がってきた思考や感情・・・こういったものを瞬間瞬間キャッチして、すべて捨て去る。
 まさにトッドがやっている思考の制御の訓練なのである。
 それができなければ、人は妄想にとらわれて、「歩く混沌(カオス・ウォーキング)」に堕してしまい、輪廻を繰り返す――というのがブッダの教えである。

瞑想カエル


 いま一つ面白かったのは、この思考のダダ洩れという現象が男にだけ起こったという設定である。
 一般に、「男の考えることはロクでもないことばかり」って言うのは、同じ男なら説明するまでもないし、男と付きあったことのあるたいていの女も知り尽くしていよう。
 とくに、エッチなことや暴力的なことを考える度合いにおいて、女と男では格段の違いがあろう。(ソルティは女になったことがないので確証はできません。が、歴史的に見て妥当な見解でしょう)
 種明かしすると、トッドの暮らす共同体に女性が一人もいないのは、スパクルのせいではなかった。
 女に思考がバレることに我慢ならなくなった男たちが、女を虐殺したのである。
 爾来、この共同体では、「男とは敵を殺すもの」と定義され、それが奨励されている。
 男たちは日々徒党を組んで狩りに精を出している。
 
 ある日、地球から第2波の入植組がやって来る。
 本船から偵察隊として送られてきたロケットは、大気圏外で炎上し、地上に墜落してしまう。
 生き残ったのは、ヴァイオラ(デイジー・リドリー)という名の若い女性一人。
 トッドは初めて見た女性に衝撃を受け、次第に惹かれていくが、その頭の中はヴァイオラに筒抜けである。(この不均衡な2人のやりとりはおかしい)
 共同体の長であるプレンティス(マッツ・ミケルセン)は、自らの権益を危うくしかねない第2波の入植を阻むために、偵察者ヴァイオラを暗殺せんとする。
 トッドはヴァイオラを助けるべく、共同体から一緒に逃げ出す。
 プレンティスは、他の男たちの思考をコントロールして自らに従わせ、2人のあとを追う。
 逃げる2人が駆け込んだのは、別の共同体。
 そこは、農耕や牧畜がおこなわれている平和な村で、なんと女性や子供も暮らしていた。
 共同体のリーダーは黒人女性ヒルディで、彼女の指導のもとで男たちも働いていた。
 
 プレンティスを長とする共同体とヒルディを長とする共同体の違いが、ちょうどマッチョイズムな軍隊組織とフェミニズムな市民社会の比喩のようで、面白い。
 本作は、原作者やダグ・リーマン監督の意図がどうであったかは知らないが、極めてジェンダーコンシャスな映画になっているのである。
 また、プレンティスの共同体で暮らすトッドを育てたのは、村から離れて暮らす男のカップルであり、彼らはプレンティスの思考制御を受けないという設定も意味深である。
 女性がいないのだから男同士がつるむのは仕方ないが、どう見てもこのカップルは夫婦のよう。
 トッドはゲイカップルに育てられた男の子なのだ。
 この点も、反マッチョ。

 このように解釈するならば、最初に言及した「カオス・ウォーキング」の定義もちょっと変わってくる。
 英文中のMANは、「人間」でなく「男」と解せる。
 すると、邦訳はこうなる。

 ノイズとはダダ洩れの男の思考である。思考を制御できない男は、単なる混沌(歩くカオス)にすぎない。
 
 ずいぶん痛烈じゃないか。
 実際は女の思考もそれなりにカオスだけど、男のそれほどには害はない・・・と思う。
 なんと言っても、戦争を起こすのは大概男たちであり、殺人事件の加害者の8割近くは男である。
 原作を読みたくなった。

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 Karin HenselerによるPixabayからの画像



おすすめ度 :★★★★


★★★★★
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★★    いい退屈しのぎになった
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● けったいな水産ホラー 映画:『ブルー・マインド』(リーザ・ブリュールマン監督)

2018年スイス
101分

 女性監督による作品。
 ジェーン・カンピオン監督『ピアノ・レッスン』とウィノナ・ライダー主演『17歳のカルテ』を思わせる女子映画で、そこに往年の高部知子主演のTVドラマ『積木くずし』(最高視聴率45.3%!)とそこはかとないレズビアニズムの香り、さらにはカフカ『変身』とアンデルセンの某童話を合体させた感じ。
 つまり、まったく既存の物語におさまりきらない奇妙な映画である。
 レンタルショップのホラーコーナーに置いてあったのだが、これは『ボーダー 二つの世界』や『バクラウ 地図から消された村』とともに、ソルティが作った「ウミウシもの」という新ジャンルに放り込みたい。

ウミウシ


 主役の少女が金魚を食べるシーンで、大女優・小川眞由美を思い出した。
 岩下志麻との対談で語られていたことだが、何かの映画の撮影中、生きた金魚を口に入れて噛み切った小川の芝居を見て、共演していた志麻サマは「卒倒しそうになった」という。
 小川が、「金魚って意外と骨があるのね」と笑いながら返していたのがさすが!
 小川眞由美という女優の役者魂を示すエピソードである。 
 そうそう、『積木くずし』で不良少女を演じた高部知子の母親役が小川であった。
 高部知子はニャンニャン事件と呼ばれたスキャンダルを起こして芸能界失脚、その後、精神保健福祉士の資格を取って、現在は依存症患者のカウンセラーとして活躍している。
 不良少女と呼ばれた過去を乗り越え、見事に新しい人生を切り開いた。

 映画とまったく関係ないことを書いているが、つまり、なんとも評価しようのない、ネタバレなしには説明しようのない、けったいなホラーなのである。
 ジェンダー差別するわけではないが、思春期の女性の生理や感性を通してのみ理解し得る作品なのではなかろうか。
 男の鑑賞者にはたぶん、金魚ほどにも咀嚼できない。






おすすめ度 :★★★

★★★★★
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● ウミウシもの2 映画:『バクラウ 地図から消された村』(クレベール・メンドンサ・フィリオ、ジュリアーノ・ドルネレス監督)

2019年ブラジル、フランス
131分、ポルトガル語、英語

 『ボーダー 二つの世界』(2018)に奉った「ウミウシもの」という新ジャンル枠を、本作にも捧げたい。
「いったいこれはなんの映画なの?」という、戸惑いと驚きと奇天烈感に満たされる作品である。
 宗教(カルト)コミュニティ映画のように始まり、LGBTQ映画のような多様性のニュアンスが立ち込め、それが不意に犯罪・スプラッタ映画の残虐シーンに突入し、サイコパスホラーの色を帯び、ガンマンが跋扈する西部劇のような展開を経て、村人総出の百姓一揆のごとき戦闘バトルでクライマックスを迎える。
 悪徳政治家の卑劣な企みから「おらが村」を守りぬいた住民たちの勇気と団結の物語と言えば聞こえはいいが、村人の中には世間で「殺しのプロ」と恐れられる凶悪犯はじめ前科者、娼婦や娼夫、オカマやヌーディストもあたりまえに(なんら差別を受けずに)暮らしていて、勧善懲悪とも言いかねる。
 なんとも不思議な味わいの映画。
 
 80年代LGBT映画の傑作『蜘蛛女のキス』で世界デビューした往年の美女ソニア・ブラガが、無頼なレズビアンの医師役で出演。圧倒的存在感をみせている。
 
 
蜘蛛女のキス
『蜘蛛女のキス』におけるソニア・ブラガ



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
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● ウミウシもの 映画:『ボーダー 二つの世界』(アリ・アッバシ監督)

2018年スウェーデン・デンマーク合作
110分

 これは10年に1本のとんでもない映画。
 解説を、論評を、評価を、比較を拒む、なんとも言い表しようのない“はじめて”の映像体験が味わえる。
 似たような映画を上げることすらできない。
 あえて上げれば、主人公ティーナの風貌から、ジーラ博士が登場する『猿の惑星』シリーズかジェームズ・キャメロン監督『アバター』(2009)であろうか。

 どういうジャンルに属するか決めることすら困難である。
 サイキックなのやら、差別がテーマの社会問題系なのやら、LGBT物なのやら、SFなのやら、怪奇ホラーなのやら、犯罪物なのやら、恋愛なのやら、スピリチュアルなのやら、ミュータントなのやら、哲学なのやら、エログロなのやら・・・・。
 今まで作られてきた何万本の映画によって形成されたジャンル概念を吹き飛ばしてしまう破壊力。
 「いったい、これは何なの!?」という叫びが出るのを押しとどめながら、鑑賞した。
 ウミウシものとでも名付けようか。


ウミウシ


 ある意味、これまでのメロドラマに対するアンチテーゼというか、ハリウッド流恋愛映画に挑戦状を叩きつけたというあたりが、もっとも当たっていそうな気がする。
 すなわち、「美男美女が運命的な出会いをし、互いの孤独を埋めるように惹かれ合い、すれ違いや勘違いを繰り返した末、嵐の夜に薪の燃える小屋でついに結ばれ、澄んだ池の中で裸で向かい合って濃厚なキスを交わし、美しい森の中を追いかけっこしては草の上に倒れてはげしく愛し合う。ところが男には女に隠していた暗い秘密があり、そのため犯罪事件に巻き込まれ当局に追われ、二人は結局別れなければならなくなる」――という“ありきたり”のメロドラマに対するアンチテーゼである。
 この映画の基本プロットはまさに上に書いたとおりで、ただ一つ違うのは、「二人は美男美女ではなかったのです」ということである。
 もしこれをハリウッドの美男美女(たとえば往年のニコール・キッドマンとトム・クルーズ)を起用してやったとしたら、凡庸過ぎて、陳腐すぎて、ありきたり過ぎて、「観て損したな」と思うのは必定である。
 二人の主人公が、男でもなく、女でもなく、美男美女でもなく、「美女と野獣(♂)」でもなく、「美男と野獣(♀)」でもなく、スタイル抜群でもなく、上品でもなく、賢くもなく、リッチでもなく・・・・すなわち、メロドラマにとうてい耐えられるようなヴィジュアルでも、恋愛映画の主役をはれるようなキャラクターでもないという点において、逆にすべてのハリウッド式メロドラマの偏移性・差別性(=美に対する異常な信仰ぶり)が暴露されてしまった感がある。
 
 観始めたころは「醜い」としか思えなかった主人公ティーナが、話が進むにつれだんだんと目に馴染んできて、観終わるころは「愛らしい」とさえ思えるようになっている自分を発見する。
 観る者は、物心ついてからメディアによって植え付けられている「ヴィジュアル信仰」に気づかされることになる。
 

 
おすすめ度 : ★★★★

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