1940年原著刊行
1970年創元推理文庫(宇野利泰・邦訳)
本書の扉ページの紹介文にこうある。
「発端の怪奇性、中段のサスペンス、解決の意外な合理性の三つが本格推理小説に不可欠な三条件」云々。
ディクスン・カーの小説は、まさに上記の条件を満たしたものばかり。
というより、推理小説黄金期に書かれたディクスン・カーの膨大な作品群によって、上記の三条件が固まって規範化したと言えなくもない。
その意味で、カーこそは本格ミステリーの完成者である。
上記の三条件は、江戸川乱歩が推理小説評論集『幻影城』に書いた文章によるらしい。
本邦の推理小説史上の大御所にさからうのは気が引けるが、ソルティが推理小説に求める三条件はこれと異なる。
すなわち、
すなわち、
- 手がかりのフェアな提示
- 探偵の名推理
- 巧みなトリック
- 意外な犯人
である。
あれ? 四つある?
やはり、推理小説というからには、探偵の推理(謎解き)こそ楽しみたい。
作中で探偵が得られるのと同じだけの手がかりが我々読者にも供せられて、ひらめきと論理を働かせれば、読者もまた、物語の最後に探偵が名指すのと同じ人物を「真犯人」と指摘できる――っていう小説こそ読みたい。
作者が小説のあちこちに巧みに仕掛け、読者の自分がそれと気づかず読み飛ばしてしまった伏線が、最後の最後に探偵(作者)の手によって見事回収されるとき、「してやられた」というマゾヒスティックな快感を覚えるのである。
逆に、作者の狙いをずばりと見抜き、真犯人とそのトリックを第2・第3の殺人が起こる前に当ててみせたとき、「してやったり」という、読者の優越感に浸るのである。
その伝で行くと、ディクスン・カーの作品は、ソルティの求める条件からは外れる。
手がかりのフェアな提供に欠け、登場する探偵の推理は論理より直感に傾き、犯人はおおむね読者が予想した通りの人物である。
『火刑法廷』のように、オカルト的結末が探偵のすべての推理を台無しにしてしまう、クリスティ『アクロイド殺し』どころでない、アンフェアで残念な作品もある。
『火刑法廷』のように、オカルト的結末が探偵のすべての推理を台無しにしてしまう、クリスティ『アクロイド殺し』どころでない、アンフェアで残念な作品もある。
だだし、トリックに関しては、シャーロック・ホームズ( by コナン・ドイル)とブラウン神父( by G.K.チェスタトン)をのぞけば、他の追随を許さない独創性とバラエティの豊かさがあるのは間違いない。
本作の中では、真犯人が奇抜なトリックを用いて、罪をかぶせたい他人の足跡を雪の上につける『空中の足跡』が面白かった。まさに逆転の発想である。
本作の中では、真犯人が奇抜なトリックを用いて、罪をかぶせたい他人の足跡を雪の上につける『空中の足跡』が面白かった。まさに逆転の発想である。
ちなみに、現在のミステリー作家でソルティの求める条件に適う一番手は、アンソニー・ホロヴィッツである。
おすすめ度 :★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損
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