ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

  笠井潔を読む

● 本:『対論 1968』(笠井潔、絓秀実共著)

2022年集英社新書

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 全共闘世代(1947~49年生まれ)である小説家の笠井潔と文芸評論家の絓秀実が、“1968年”をテーマに語り合った対談本。
 外山恒一(とやまこういち)という1970年生まれの政治活動家が聞き手をつとめている。
 この人については知らなかったが、なかなか過激な男のようだ。

 絓秀実をこれまで数十年間、「けい・ひでみ」と解してきた。
 「すが・ひでみ」である。
 絓という字は、音読みで「カイ」、訓読みで「しけ」。
 その意味は「繭の上皮。粗悪な絹糸・真綿の材料となる」(小学館『大辞泉』)。
 どこから「すが」が出てくるのか?
 Wordの漢字変換でも出てこない。

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LoggaWigglerによるPixabayからの画像

 全共闘世代にとって、1968年という年は特別なものであるらしい。
 そのことの意味がソルティにはよく分かっていなかった。 

 だいたいソルティが常々不思議に思っていたのは、1960年と1970年の二つの安保闘争がマスメディア等で語られる際に、60年安保の象徴というかハイライトがまさに1960年6月19日の日米安全保障条約承認の周辺、すなわち唐牛健太郎が活躍した6月10日の羽田空港のハガチー事件、あるいは樺美智子が圧死した6月15日の国会前デモに当てられるのに対し、70年安保のそれは1970年6月22日の安保条約自動延長決定の周辺ではなくて、1968年10月の新左翼による新宿騒擾事件であるとか、1969年1月の東大安田講堂事件であるとか、1972年2月の連合赤軍あさま山荘事件に当てられる点である。
 どれも安保とは直接関係ない。
 いずれも日本中を騒然とさせた大事件であったし、ビジュアル的なインパクトからマスメディアが繰り返し取り上げたがる理由も分からないでもない。
 が、それによって70年安保が、日本の平和と自立を求める市民運動というより、暴力的かつ反社会的かつ陰惨な結末で終焉した若者たちのあやまちといった偏ったイメージでしかとらえられなくなってしまった感は否めない。

 同じ安保闘争と言っても、60年安保と70年安保は質的にずいぶん異なるように思われる。
 60年安保が日米安全保障条約の撤廃や岸信介首相退陣を求めることに焦点が置かれた、わかりやすい社会運動であるのにくらべ、70年安保はそれ以外の付帯物があまりに多い。
 全共闘をリーダーとする学園紛争であるとか、ベトナム戦争反対運動であるとか、沖縄返還問題であるとか、三里塚闘争であるとか、セクト化した新左翼の内ゲバであるとか、三島由紀夫と全共闘の対決であるとか・・・。  
 焦点がどこにあるのかよくわからない。
 安保問題はむしろ後景に退いてしまったかのように思える。
 おそらく、その謎を解くのが“1968年”なのだろう。

安田講堂
東大安田講堂

 青年活動家として当時を生きた笠井と絓の対論は、左翼用語はもちろんのこと、ソルティが聞いたことない事件や活動家や団体の名前が次から次へと飛び出し、内輪話的なものや小難しい思想談義もあり、外山や編集サイドの注釈をもってしてもすべてを理解するのは難しい。
 池上彰と佐藤優の『日本左翼史』シリーズを読んでいなかったら、まったくのチンプンカンプンだったろう。
 三人の発言からいくつか拾う。

笠井 日本に限らず“68年”の最も重要なポイントは“大衆蜂起”・・・・

笠井 戦後民主主義の国民運動だった60年安保を、学生や市民の群衆運動としての“68年”が乗り越えた・・・・

外山 “68年”の最重要のスローガンは“戦後民主主義批判”・・・・

 “68年”のメインのスローガンの一つだった“大学解体”が、全共闘学生たちの闘争とは無関係に、すでに実質的に始まっていたということでもあると思います。逆に、“60年”の学生たちは、“大学解体”なんて夢にも思わなかったでしょう。

笠井 “68年”が画期的だったのは、「失われた30年」の間に生まれ育った若者には想像もつかないだろうけれども、“豊かな社会”を拒否する叛乱だった・・・・

笠井 “68年”とは一体何だったのか、その後もずっと考え続けて、やがて閃いたのは、1848年の革命がそうであったのと同じような意味で、“68年”も“世界革命”だったということ・・・・

 強引にまとめると、1968年とは、「戦後民主主義を批判する大衆レベルの革命の機運が最高度に高まった年」ということになろう。
 その延長線上に70年安保を位置づけるならば、たしかに60年安保と70年安保の意味はまったく異なってくる。
 いや、“68年革命”を、60年にせよ70年にせよ安保闘争の枠組みに入れて論じること自体が誤っているのかもしれない。
 安保条約の撤廃を求めて声を上げデモに行った(全共闘世代以外の)国民の多くは、さすがに戦後民主主義を否定することまでは考えていなかったであろうから。(戦後ずっと自民党政権が続いていたことが示すように)

 いったい、なぜ全共闘あるいは新左翼の若者たちは戦後民主主義を批判し、革命を望んだのか?
 笠井はこう記す。

 今風に言えば“承認”をめぐる不全感や飢餓感が、日本の“68年”を駆動させていたことは確かですね。それが敗北していった果てに、政治性を一切脱色したアイデンティティ探究が青年たちの間に広がって、それが“自分探し”と呼ばれるようになる。つまり、“自分探し”自体が、“68年”の敗北の一形態なんだ・・・

 平和で繫栄する戦後社会の頽落に耐え難いものを感じ、黙示録的な破局と世界の一新を渇望していた青年たちが、その果てに「戦争とか火の海の世界が一瞬見えた気がした」、「戦争なんだ」と一瞬だけにしても信じた。その「妄想」の帰結を、連合赤軍の大量「総括」死として否応なく突きつけられたとき、足許が崩れ落ちていくような衝撃に見舞われ、暗澹たる精神状態に陥っていく。

 これはまさに笠井潔の『哲学者の密室』の主題そのものである。
 哲学者パルバッハ(ハイデガーがモデル)の説く「死の哲学」に魅せられた気概ある若者は、ヒトラーの説く理想国家「第三帝国」の建設に共鳴しナチスを支持するが、やがてホロコーストという大量「総括」死を否応なく突きつけられ、信仰とアイデンティティの瓦解をみる。
 であるのならば、“1968年”とは笠井にとって、「死の哲学」を信じ充実感をもって生きられた“至福の時間”だったということになるであろうし、同時に、決して繰り返してはいけない“魔の時”ということにもなるはず。
 そうしたアンヴィバレントな思いが笠井の発言からは感じとれる。
 一方、絓にとっての“1968年”はそこまでの実存的意味合いはなかったようで、同じ全共闘世代でも受け取り方はさまざまであることが察しられる。(当たり前の話だが)

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 革命を夢見る権利はだれにでもある。
 政治運動に身を捧ぐ自由もだれにでもある。
 さらには、理想に燃えていた青春時代を反芻するのも個人の勝手である。
 だが、自らの個人的な疎外感や空虚を埋めるために、「平和で繁栄する戦後民主主義社会」に満足してそれなりに幸福を感じて生きている大衆を下に見て、戦争や革命を志向するのはハタ迷惑な行為であろう。
 それこそ90年代にオウム真理教の幹部たちがやったことだ。
 「生」の強度がほしいのなら、ウクライナでもガザ地区でもアフガニスタンでもロッククライミングでも山口組でもSMクラブでもハプニングバーでも、受け入れ皿はいくらでもあろう。

 「1968年」論は、国内だけでなく世界の動向も含めて、いろいろな人が書いている。 
 遅ればせながら、少しずつ追っていこうかな。
 

 
おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 愚者の楽園 本:『哲学者の密室』(笠井潔著)

1992年光文社
2002年創元推理文庫

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 お盆休みは例によって4泊5日の秩父リトリートをした。
 今回携えていった本が、『スマナサーラ長老が道元禅師を読む』と本文庫であった。
 本書はとにかくブ厚い。
 小口45ミリ、1000ページを優に超える。
 普通の文庫ミステリーの3~4冊分はある。
 そして、かなり難解。
 日本のミステリー作家ではもっとも難解な笠井潔の作品の中でも、もっとも難解で重厚である。
 まとまった時間がある時に、腰を落ち着けて一気に読むのでなければ、なかなか読み通せないと思い、リトリートまで待っていた。
 宿の密室に一人こもって完読した。

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 途中まで読んで驚いた。
 なんとまあタイムリーでヴィヴィッドな小説であったことか!
 ソルティは本書の内容について、事前にほとんど知らなかった。
 『バイバイ、エンジェル』、『薔薇の女』、『サマー・アポカリプス』、『オイディプス症候群』など素人探偵矢吹駆シリーズのミステリーであること、マルティン・ハイデガーをモデルにした哲学者が出てくるらしいこと、密室殺人が扱われることの3点をのぞいては。
 読むにあたって、文庫の裏表紙や扉ページに書かれている内容紹介にも目を通さなかった。
 もちろん、ハイデガーを読んだこともなく、どんな哲学を提唱したのか、どんな経歴を持つ人物だったのか、まったく知らなかった。

 驚いたわけは、本書の殺人事件の背景をなすのがナチスのホロコースト、すなわち強制収容所におけるユダヤ人大虐殺だったからである。
 『ナブッコ』といい、『ソドムとゴモラ』といい、呼ばれたようにタイムリーでヴィヴィッドな作品に巡り合ってしまう。
 無意識のなせるわざか。
 むろんタイムリーでヴィヴィッドとは、イスラエルによるガザ地区侵攻と民間人虐殺を踏まえての謂いである。

 舞台は1970年代のパリ。
 成功した実業家フランソワ・ダッソーの屋敷で殺人事件が発生。
 被害者は数日前にパリに着いたばかりのボリビア人旅行者ルイス・ロンカル。
 後頭部を強打され、背中から心臓を鋭利な刃物で貫かれていた。
 しかるに部屋は完全な密室であり、凶器は見当たらなかった。
 捜査に関わることになった矢吹駆とナディア・モガールは、ロンカルの正体がナチスのコフカ強制収容所の元所長であること、事件当夜ダッソー家に招かれていた客たちがかつてコフカ収容所に収容されていたユダヤ人関係者であったことを知る。

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アウシュビッツ強制収容所
Dimitris Vetsikas
によるPixabayからの画像

 構成は3部に分かれている。
 第1部は1970年代初夏のパリ。ダッソー家での三重の密室殺人事件の謎が提出され、犯行動機に第2次世界大戦時のナチスのホロコーストが関係していることが匂わされる。
 第2部は1945年真冬の第三帝国ポーランド領にあるコフカ収容所。所長ロンカルの冷酷な管理の下、各地から連行された多くのユダヤ人が、あるはガス室に送り込まれ虐殺され、あるは強制労働に従事していた。ロンカルはユダヤ人女性ハンナを小屋に囲って性的奴隷にしていた。
 ソ連軍の侵攻を前に撤退が決まった収容所において突如勃発した爆破事件と囚人脱走。その最中に発生したハンナ射殺事件の謎が提出される。これもまた三重の密室であった。
 第3部はふたたびパリに戻る。ナディアと矢吹それぞれの推理が語られ、すべての謎が解明される。そこには20世紀最大の哲学者の秘密が隠されていた。

 四半世紀はなれた二つの時代に起きた三重の密室事件の謎を解き、それぞれのトリックと真犯人を暴くという点で、まぎれもなくゴージャスな本格推理小説である。
 不可能犯罪が提出される、事件現場の見取り図が掲示される、容疑者たちの事件前後の行動が時系列で整理される、プロの刑事や素人探偵らの推理合戦が白熱する、事件現場でトリックの実現性が検証される、名探偵の鮮やかな推理が事件を解決に導く・・・・。
 本格推理ファンのツボを押さえた笠井の小憎らしいほどのサービス精神に感激する。
 そう、これこそ本格推理の醍醐味。
 ページをめくる手が進む。
 
 と思いきや、打って変わって重厚なテーマが顔をのぞかせる。
 ナチスのホロコーストという人類史上未曾有の悲劇は、どうしたって重厚な語りにならざるをえない。読む者は重苦しい気持ちを抱かざるを得ない。
 強制収容所の地獄を生き延びたユダヤ人とその子供たち、収容所で働いていた元ナチス党員、同じユダヤ人でありながら仲間を監督する仕事をしていた囚人頭(カポ)、青年時代に対独レジスタンス活動に身を投じたフランス人、ナチスに加担していたドイツ人哲学者・・・。
 戦後数十年たっても決して拭い去ることのできない苦痛や怒りや恐れや悲しみや罪悪感や恥が、登場人物それぞれの心にわだかまっている。
 コフカ収容所でカポをしていたダッソーの父親は、脱走後に生き延びてフランスに帰国、戦後は実業家として成功した。晩年になって彼が自宅内につくったコフカ収容所のパノラマセットの描写には鬼気迫るものがある。
 
 ずしんと心が重くなるホロコーストの物語に輪をかけて、ページをめくる手を重くするのが時々出てくる哲学談義。
 20世紀哲学の雄マルティン・ハイデガーをモデルとしたマルティン・パルバッハ、同じくエマニュエル・レヴィナスをモデルとしたエマニュエル・ガドナスという人物が登場し、現象学的存在論やら死の哲学やら技術文明批判やら革命論やら、小難しい議論が繰り広げられる。
 推理小説と思想小説の融合。
 これぞまさに笠井ミステリーの真骨頂なのである。
 哲学の素養を欠き、ハイデガーもレヴィナスも読んでいないソルティには、高すぎるハードル、いやそれは3000m級の山登りに近い。
 リトリート中でなければ、途中挫折した可能性大であったろう。
 本格推理ファンでも、本書を読み通すことのできる者は限られるのではなかろうか。

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 推理小説としてみた場合、二つの密室殺人のうち、第1部(70年代ダッソー家)については見事で、ソルティはトリックを思いつかなかった。犯人も当てられなかった。
 ただ、屋敷の滞在客はみな共通の犯行動機を持った強い絆で結ばれた仲間なので、『オリエント急行殺人事件』のように“全員が犯人”という二番煎じの真相はないとしても、犯人をかばうための口裏合わせは当然想定していいだろう。
 それぞれの証言は最初から当てにならない。犯行前後の各人の行動は信用し難い。 
 どの証言も信用できないなら、分かっている確実な証拠から推理を組み立てるという作業が成り立たず、そこは推理小説としては弱い部分かなあと思った。

 第2部(1945年コフカ収容所)の密室事件については、設定自体に無理があり、ご都合主義な感が強いように思った。
 ユダヤ人が大量にガス室に送り込まれ、犬のように殺される現場にあって、ひとりのユダヤ人情婦ハンナの死の謎をめぐって大騒ぎすることのバランスの悪さはとりあえず置くとしても、密室の設定自体が不自然。
 真犯人が、ロンカルにハンナ殺しの罪を着せたいのならば、ハンナを密室に閉じ込めて自殺にみせかける意図が不明。他殺体とわかるようにさらして置くのが自然であろう。
 小屋にやってきてハンナの死を知ったロンカルもまた、小屋の外から鍵をかけられて(死体と一緒に)閉じ込められてしまう。
 ロンカルが中から小屋の鍵を開けられない以上、ハンナ(の死体)とロンカルが中にいることを知る第三者が外から鍵をかけたと推測するのが自然だろう。
 ハンナ殺しの真犯人はその第三者であって、ロンカルは罠にはめられたと考えるのが無理のない推定だろう。
 ナディアら探偵たちが本来推理すべきは、第三者が足跡を残さずに小屋から立ち去った方法であり、第三者が誰なのか、である。
 ところがなぜかナディアらは、ロンカルがわざわざトリックを使って中から小屋の鍵をかけて、自身をハンナの死体と一緒に密室に閉じ込めたと断定する。
 思考回路のおかしさにちょっとついていけない。
 また、真犯人はかつてハンナを愛した男だったわけだが、復讐相手であるロンカルをその場で射殺しなかった理由もよくわからない。
 収容所の爆破騒動と囚人脱走のどさくさに紛れてロンカルを射殺してもバレはしなかったろうに。(なんて言ったら、その後の物語が成立しないが・・・)
 いろいろな疑問は生じたものの、第2部についての犯人の推測は当たった。(ほとんどの読者は推測がつくと思うが) 

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 思想小説としては・・・・まあ満腹になった。
 パルバッハ(ハイデガー)哲学のいろいろなテーマが取り上げられていて、目も眩むような高踏的言説のオンパレードにくじけそうになったが、中心となっている命題はおおむね理解できた。
 「人間はいつか必ず死ぬ。その事実を直視し、自分の使命を見つけてそれに果敢に立ち向かえ。限られた「生」を尊厳を持って本来の自分を生きよ。目的もない生ぬるい日々を享楽にまみれて生きる豚になるな。英雄となれ。」
 というのがパルバッハの「死の哲学」の肝で、元ナチの真犯人も矢吹駆もパルバッハに深い影響を受け、そのように生きんとしてきた。
 ところが、ホロコーストという無名のユダヤ人の大量の死体を前にして、真犯人が抱いていた「死の哲学」は瓦解する。というのも、「二十世紀の世界を襲った底知れない凡庸の地獄を、戯画的なまでに典型化した場所が収容所」だったからだ。
 かつてマルクス主義革命に身を投じ挫折した体験を持つ(らしい)矢吹もまた、「死の哲学」の正当性に揺らぎを感じている。
 なんと言っても、パルバッハの哲学こそがドイツ国民の英雄志向を煽り、ヒトラーの登場を用意し、ナチスの蛮行を可能にしたからである。パルバッハ自身、ナチス党員であった。
 しかるに、戦後になってパルバッハは、「自分が支持していたのは初期の頃のナチスであって、長いナイフの夜(レーム事件)以降のヒトラー独裁となったナチスは認めていない。ホロコーストについて知ったのは戦後になってからだ」とうそぶき、自らの哲学の過ちを認めようとしなかった。
 その嘘が、コフカ収容所元所長ロンカルの所持していたある証拠によって暴かれ、パルバッハの欺瞞が徹底的にさらけ出される。
 つまるところ、「死の哲学」の断罪が思想小説としての本書の主題である。
 むしろ、笠井の書きたかったのはこちらであろう。
 笠井自身が、若い時に左翼運動に傾倒し、挫折し転向した経歴を持つからだ。(その苦い体験を“自己批判”的に描いたのが処女作『バイバイ、エンジェル』である)

 「死の哲学」の断罪という本書の主題に触れてソルティが自然と想起したのは、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』であった。(本書と同じ年に刊行されている!)
 フクヤマによると、人間を行動に駆り立てる気概(自尊心)は歴史を動かす大きな要因の一つであるが、民主主義と自由主義経済の登場によって「歴史の終わり」が宣言されたとき、気概はその発散場所を失った。
 あとに残るは、闘うべき大義を見つけられずに気概を失い、欲望を満たすことを日々の目的とする「最後の人間」である。 
 
 「最後の人間」の人生とはまさに西欧の政治家が有権者に好んで与える公約そのもの、つまり肉体的安全と物質的豊かさである。これがほんとうに過去数千年にわたる人類の物語の「一部始終」なのだろうか? もはや人間をやめ、ホモサピエンス属の動物となりはてた自分たちの状況に、幸福かつ満足を感じていることをわれわれは恐れるべきではないのか?(三笠書房刊『歴史の終わり』より抜粋) 

 パルバッハが唱えた「死の哲学」とは、まさに気概の賞揚、大義への自己犠牲、尊厳ある生と死のすすめである。その対極に来るのは、「数と公共性が最終的に勝利した愚者の楽園」の中で「最後の人間」として生きることである。 
 「歴史が終わった」平和な世の中で「終わりなき日常」に耐えられない者たちは、気概を発散できる場所を求めて革命運動やテロリズムや戦争を待望する。矢吹駆の宿敵であるニコライ・イリイチのような扇動者に洗脳されて、“誤った”大義に絡めとられていく。『バイバイ、エンジェル』のアントワーヌ青年のように。
 矢吹は語る。

どうしても世界に意味を感じられない、平和な時代に窒息しそうだ、本当の人生を見つけることができない。そうした解消されないニヒリズムは、抗いえない猛烈な力で、青年を必然的にテロリズムの方向に押しやる。

凡庸なものを嫌悪する青年が、魂の真実や生の輝きを渇望して、死の観念の蟻地獄に落ちてしまう。

 本書の真犯人もまた、「死の哲学」に殉じるかたちでその生を全うした。
 彼にはそう生きるよりほかに選択がなかった。
 一方、「死の哲学」をパルバッハともに断罪した矢吹駆は、はたしてこの先どう生きていくのだろうか?
 彼とっては凡庸で無意味でしかない「愚者の楽園」と、どうつきあっていくのだろうか?
 ナディアとの恋愛の可能性はあるのだろうか?
 この探究にこそ、本シリーズの意義が、すなわち笠井潔のライフワークがあるのだろう。

 今回のリトリートに、本書と道元の解説本を持っていったところに、不思議な符牒いや因縁を感じた。

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おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 本:『薔薇の女 〈アンドロギュヌス〉殺人事件』(笠井潔著)

1983年角川書店

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 求道者探偵・矢吹駆シリーズ『バイバイ、エンジェル』、『サマー・アポカリプス』に継ぐ3作目。
 これでやっと、第4作にしてシリーズ随一の傑作かつ難解作と言われる『哲学者の密室』を読むことができる。(殺人ウイルスを扱った第5作『オイディプス症候群』はコロナ騒ぎに触発されて先読みしてしまった)
 もっとも、このシリーズを完全に理解したいのなら、前作や笠井のほかの著作を読む前に、哲学や思想史の勉強をしたほうがよいのかもしれない。
 というのも、このシリーズは本格推理小説+哲学批評のようなスタイルをとっているからだ。
 『哲学者の密室』にはマルティン・ハイデッガー批判が出てくると聞くし、本作『薔薇の女』ではエロティシズム論で知られるジョルジュ・バタイユを彷彿とする人物が出てきて、矢吹駆と討論する場面がある。
 哲学の基本的な教養を欠いているソルティは、第一義としてフーダニット(Who done it ?)あるいはハウダニット(How done it ?)の本格推理小説として楽しんでいるのであるが、ちょっと賢くなったような気にさせてくれる難解な哲学的部分もまた、ワイダニット(Why done it ?)すなわち「人生とはなんぞや?」「社会とはなんぞや?」というなかなか解けないミステリーを毎回提示して刺激を与えてくれるので、読み甲斐がある。

 今回はまたアンドロギュヌス(両性具有者)という題材をモチーフにしている。
 遠い昔、「オカマ」「男女」と馬鹿にされたことのあるLGBTの一人として、興味深く読んだ。
 アンドロギュヌスは現在ならLGBTのT(トランスジェンダー)に含まれる。
 トランスジェンダーの多くを占める「心と体の“性別”が異なる人々」とは違って、外見上だけを問題とした場合の概念、つまり体において男性と女性の両方の特徴を示している人を言う。
 端的に言えば、胸に二つの乳房があり股間に陰茎(と睾丸)がある人だ。
 逆のパターン、つまり胸が男のように平らで股間に女性器がついている場合も論理的には該当するはずであるが、見た目のわかりやすさや衝撃のためか、アンドロギュヌスと言えば〈乳房+ペニス〉というのが古来からの通念である。

 本書刊行当時、まだLGBTの存在や人権問題が社会で顕在化していなかった。
 そのため、見た目でそれと知られてしまうトランスジェンダーとりわけ両性具有の人たちに対する差別や偏見には、今以上にきびしいものがあった。 
 両性具有者は「半陰陽」、「ふたなり」、「シーメール(shemale)」などと呼ばれ、文学や絵画など芸術において非日常的存在として神秘化され祀り上げられる一方で、日常生活ではキワモノ扱いされていたことは否定できない。(草彅剛がトランスジェンダーを演じた『ミッドナイト・スワン』では、服を破かれ乳房を晒された草彅が「化け物」とののしられるシーンがある)

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 ともあれ。
 本作におけるアンドロギュヌスのモチーフは、それほど深いものではない。
 両性具有者が登場するわけでもなければ、性別適合手術を望む男性なり女性なりが殺人事件にからむわけでもない。
 複数の死体(4人の女性と1人の男性の死体の一部づつ)を組み合わせて“アンドロギュヌス人形”を作らんとする異常な人間の犯行およびその解決を描いたものである。
 両性具有者が殺人の首謀者であったり、両性具有者を狙った連続殺人が描かれたりしているわけでないので、LGBT諸君は安堵されたし。

 考えてみたら、笠井潔作品は残虐な殺人シーンが多く出て来る割には、性的リビドーに彩られた陰惨なサイコミステリーとは一線を画している。
 ある意味、健全なのである。
 そんなところも、クリスティやカータ-・ディクスンやエラリー・クイーンなど本格推理小説の古典のスタイルを汲む、王道を行っていると思う。

 
 

 
おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 左翼風ミステリー??? 本:『バイバイ、エンジェル』(笠井潔著)

1979年原著刊行
1995年創元推理文庫

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 笠井潔のデビュー作にして、『サマー・アポカリプス』、『薔薇の女』、『哲学者の密室』、『オイディプス症候群』へと続く探偵・矢吹駆シリーズの第一作。
 
 所はパリの中心街。
 ある冬の朝、裕福で男好きな中年女性が自らのアパートメントで殺された。
 現場の状況から、彼女が外出する直前、訪ねてきた顔見知りに襲われたと推定される。 
 死体のそばの壁には、血で書かれた A の文字。
 玄関のドアには、姦通をテーマにしたナサニエル・ホーソンの小説『緋文字』が挟まれていた。
 痴情のもつれが原因なのか?
 それとも金目当てか?
 なによりショッキングだったのは、死体には首がなかったのである。

 まったくもって、本格ミステリーファンの魂を鷲づかみにするような設定。
 そこに修行者の如くストイックでニヒリスティックな日本人の青年が、現象学という素人には耳慣れない学問を武器に、犯人探しに乗り出す。
 これで熱中しない本格ミステリーファンがいるだろうか?
 舞台をフランスに設定したことで、日本的な因習や文化やしがらみから切り離された、ドライで個人主義な人間模様が用意されていることが、ますます「本格探偵小説」的色合いを濃くするのに役立っている。
 つまり、江戸川乱歩や横溝正史や松本清張よりも、アガサ・クリスティやエラリー・クイーンやディクスン・カーに近い装いを呈している。
 トリックの奇抜さや登場人物たちの推理合戦の面白さ、魅力ある探偵とワトスン役女子の存在など、「本格ミステリーここにあり!」と思わず叫びたくなる小説なのである。
 ちなみに、ソルティは女性殺しの下手人と首が持ち去られた理由を、早いうちに見抜きました 

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VictoriaによるPixabayからの画像

 日本のいわゆる新本格ミステリームーブメントが、1987年発表の綾辻行人『十角館の殺人』に始まったことはよく言われるところだけれど、本作を読むと、「いや、その前に笠井潔がいたじゃないか!」という思いにかられる。
 新本格ミステリーの定義というか特徴が、「横溝正史に代表される日本的土俗や情念から切り離されていながらも、松本清張に代表される社会派ミステリーの世俗的陳腐を排し、純粋にトリックと謎解きの面白さに焦点を置く清潔さ」というところにあるのなら、矢吹駆シリーズはまさに新本格ミステリーじゃないかと思うのである。
 しかるに、なぜ後出の綾辻行人に栄冠を譲ってしまったのか?

 理由はいろいろあるのだろうけれど、やはり、笠井潔作品の“難しさ”が一番の因なのではないかという気がする。
 矢吹駆が推理の方法として採用する現象学というものも一般読者には理解困難な代物であるし、そこを大目に見るとしても、本作のクライマックスで矢吹と連続殺人の黒幕的存在との間で交わされる議論の応酬は、とんでもなく高レベルで、大方の読者はそこで置いてきぼりにされてしまうだろう。
 それは、現実に起きた殺人事件の真相をめぐって、追及する探偵と否認する犯人との息詰まる対決という次元を大きく超えて、一種の哲学討論、思想対決の様相を見せているのである。

矢吹: 抽象的なもののみに向かって自己燃焼する、真空放電の紫の火花にも似た情念。それは、過酷で破滅的な極限への意志、眼を灼きつくすほどの鮮烈なものへの意志、そして全宇宙を素手で掴みとりたいという狂気じみた論理的なものへの意志です。そしてそれは、なによりもぎりぎりと全身を締めあげる間断ない自己脅迫です。

黒幕: 政治こそが革命の本質を露わに体現する場所です。組織は革命が棲まう肉体です。私たちは、最後の、決定的な蜂起を準備するための武装した秘密政治結社なのです。社会を全的な破滅へと駆りたてる武装蜂起こそ、観念の激烈な輝きが世界を灼きつくす黙示録の瞬間の実現なのです。


 ――てな調子である。
 このような思想バトルの描写が、学生運動家だった笠井潔の若き日の苦い挫折体験やその後の思想形成にもとづいているのは、笠井がその後に書いたものを読めば納得できる。
 あさま山荘事件に象徴される連合赤軍の酸鼻極まる結末により新左翼運動は瓦解したわけだが、何が一番間違っていたかと言えば、佐藤優が池上彰との対談の中で述べているように、

理想だけでは世の中は動かないし、理屈だけで割り切ることもできない。人間には理屈で割り切れないドロドロした部分が絶対にあるのに、それらすべて捨象しても社会は構築しうると考えてしまうこと、そしてその不完全さを自覚できないことが左翼の弱さの根本部分だと思うのです。(『激動 日本本左翼史』講談社現代新書)

 本作中の矢吹駆のセリフを用いれば、「普通に生きられない自分をもてあました果てに、観念で自分を正当化してしまう」ことであり、もっと単純に言えば、「世間知らずの頭でっかち」ということである。(実はソルティは、令和コンプライアンスの背景の一部に、この種の「観念の徹底化」の匂いを感じている)
 連合赤軍的な心性と思考で秘密結社を作り武装蜂起を企図する黒幕に矢吹が対峙する時、それはおそらく、左翼活動に打ち込んでいた過去の自分に向けて、その後転向した笠井自らが説教しているのであろう。(「バイバイ、エンジェル」とは、笠井流「グッバイ、青春」なんじゃなかろうか?)
 その意味で、本作はきわめて自伝的色合いの濃い作品であると思うし、推理小説でありながらも思想小説の域に達している。
 思想派ミステリーとでも言おうか。
 (左翼風ミステリーと言いたいところだが、笠井は自分を「左翼」と捉えていないようだ)
 
 このような小難しい思想的・政治的要素を取り除いて、「痴情のもつれ」や「遺産目当て」のような凡庸な動機を犯人に持たせたならば、本作はずっと大衆受けしたはずと思うし、笠井は新本格の旗手になったのではないかと想像するが、それではやはり笠井潔は笠井潔足り得なかったであろう。
 いったい笠井以降、思想派ミステリーの系譜はつながっているのかどうか、寡聞にして知らず。





おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● アベノクライシスを超えて 本:『国家民営化論』(笠井潔著)

1995年光文社刊行
2000年文庫化

 現在の政局、3年前には想像つかなかった。
 いや、昨年7月に安倍元首相が暗殺された直後ですら、ここまで元安倍派(清和会)や自民党が危機的状況(=ABE NO CRISIS)に陥ることになるとは思わなかった。
 世の中は分からないものである。
 希望を失ってはいけない。
 これが一発の銃弾からでなく、一票の力によるものだったら、良かったのに・・・・。

 安倍晋三のやってきたことを一言で言えば、「戦後民主主義の破壊」である。
 それを確信犯的におこなった。
 集団的自衛権容認による「戦争のできる国」への移行だけでなく、大日本帝国のような全体主義国家体制への道を開こうとしていた。
 少なからぬ日本人がそれに賛同し、安倍政権を支持していることに、ソルティは絶望しか感じなかった。
 2013年からの10年間の日本はソルティにとって暗黒の時代であったが、旧統一教会との癒着やこのたびの組織主導による裏金づくりの暴露を通じて、ついに安倍派の正体が白日の下に晒され、民主国家に生きる誰にとっても暗黒の10年であったことが証明されようとしている。
 もちろん、安倍元首相の国葬が憲政史上の汚点であったことも・・・・。
 
 一方、安倍晋三が自らの信じる「日本の進むべき姿(国家像)」をどの政治家よりも明確に描き、国民に提唱し、その実現に向かって行動していたのは確かであろう。
 迷いのないその姿勢と実行力、そして人を味方につける魅力は、政治家として評価すべき点かもしれない。
 田中角栄、中曽根康弘、小泉純一郎をのぞけば、日本の歴代の首相になかなか見られないカリスマ性に、心酔する人も多かったのだろう。
 あたかも、自分たちがどんなところに連れて行かれるか分からぬままに、心地良い笛の調べに乗せられて、得体の知れない男のあとをついていく、おとぎ話の子供たちのように。

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WikiImagesによるPixabayからの画像

 元安倍派の崩壊が現実味を増しているいま、早急に求められるべきは安倍晋三が説いたのとは異なる、多くの国民が賛同できる「日本の進むべき姿(国家像)」の創出であろう。
 それを打ち出せないと、第2、第3の安倍晋三が現れて、大日本帝国へと続く同じ道に国民を引きずり込むだけである。
 日本会議や神社本庁や創価学会や保守系マスメディアなど、安倍政権を支えた反動系ステークホルダーが再び集結し、倒れた神輿を立て直し、同じ曳き回しを繰り返すばかりである。
 
 自分はどんな国に住みたいのか。
 刻々と移り変わる先の見えない世界情勢の中で、所与の条件を踏まえながら、日本はどう振舞うべきか。
 この二つの問いの最適の共通解となるような新しい国家像を考えなければならない。

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 本書はその意味で、新しい社会のあり方を自分なりに考えようとする者にとって、固定観念を打ち破り、思考の枠を広げ、想像力と創造力を励起し、自由な発想を可能ならしめるブレインストーミングの役割を果たすような、一つの国家論の提起である。
 いや、正確には国家論ではない。脱・国家論である。
 国家民営化の意味するところは、国家の仕事をすべて市場に解消し、最終的には国家を解体してしまおうというのだから。

 社会主義の崩壊以後の時代であるからこそ、新しい社会批判の原理を探究することが、切実に求められているのではないか。

 リベラリズムでも新保守主義でも、社会民主主義の新形態としての「第三の道」でもない、独立生産者の自由な連合という方向で、人類の21世紀社会を展望すること。グローバル経済の潜勢力を歴史的前提に、可能なかぎり国民国家の敷居を低くすることから出発し、今後数世紀という時間的射程で、世界国家の君臨なき世界社会の形成をめざすこと。

 笠井はそれを「ラディカルな自由社会」と名付けている。
 2022年刊行の『新・戦争論 「世界内戦」の時代』(言視舎)において、笠井が目指しているものが「世界国家なき世界社会」であること、そしてそれを実現する手段は「自治・自律・自己権力を有する無数の集団を下から組織し、近代的な主権国家を解体していくこと」であると説かれていた。
 ソルティが知らなかっただけで、ソ連崩壊(1991年)直後から、笠井はすでに自分なりの理想の社会像を追究し、描き出し、唱えていたのである。

 どんな国を作るか――ではなくて、国は要らない。当然、国民もいない。
 社会主義でも共産主義でも保守主義でも権威主義でも全体主義でもない。
 左でも右でもない。
 重要なのは、国のような権力(=暴力装置)による支配から個人を解放すること。
 経済的にも思想的にも個人の自由を最大限保障すること。
 アナキズム(無政府主義)と言っていいだろう。

 笠井の構想する「ラディカルな自由社会」とは、具体的にどのようなものなのか。
 国家民営化の意味するところはなにか。
 以下のような具体案が挙げられている。
  • 遺産相続の廃止と家制度の解体
  • 育児費用の社会負担
  • 教育の民営化
  • 売春の自由化
  • 安楽死、自殺の権利
  • 警察、刑務所の民営化
  • 裁判の民営化
  • 死刑の廃止
  • 企業寿命制の導入
  • 天皇制の民営化(宗教組織にする)
  • 個人的武装自衛権と決闘権の保障
  • 市民軍の結成
e.t.c.

 上記の内、いくつか補足する。

 ●教育について
 むろん、文部省は廃止される。教科書の検定などは不要である。教育サーヴィスを提供する企業は、どんな教科書を利用しようと、どんな教え方をしようと自由である。ただし社会は、その教育企業が生徒に、最低限度の教育サーヴィスを提供しているかどうか、なんらかのかたちで確認しなければならない。そのためには社会が生徒に、定期的に簡単なテストを実施すればよい。しかし、その場合でも、テストされるのは生徒ではないことに注意する必要がある。テストの対象は、企業が提供している教育サーヴィスの質なのである。

 ●売春について
 組織的な強制労働が根絶され、女性から多様な就業機会を奪う社会的差別のシステムが解体されたとき、売春は消滅するだろうか。消滅してもかまわないが、自由な意思で性サーヴィス労働を選択する女性が存在する場合には、売春の権利は擁護されなければならない。

 ●安楽死と自殺について
 ラディカルな自由主義は、安楽死の権利を、ひいては自殺の権利を主張する。人間には自殺する権利がある。自殺するために、より肉体的に苦痛の少ない方法を求める権利がある。国家の究極的な犯罪性は、ハイエクやフリードマンが考えたように、個人の経済的自由を侵害するところにあるのではない。生および死の自己決定の権利を侵害するところに、国家というリヴァイアサンの最大の抑圧性がある。

 ●天皇制について
 天皇制は民営化され、市場化されなければならない。そのうち打倒される運命の君主や、改選されるのが原則の元首などを曖昧に擬態しないで、宗教的主体として自己徹底化するのがよい。どのような「新しい神」と競争をしても、「日本最古」の神が宗教市場で最終的な勝利をおさめうると確信する以上は。

 ――といった調子である。
 ずっと読んでいると、“過激(ラディカル)”というより、“トンデモ”本、あるいはSF小説のアイデア帳のような気がしてくる。 
 やはり、プロの小説家の想像力&創作力ってすごい。

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Emmanuel CATEAUによるPixabayからの画像

 ソルティはこれまで真面目にアナキズム(無政府主義)について考えたことがない。その必要性を思ったこともない。
 生まれた時から日本という国はあって、インフラも法律も制度もある程度整っていて、衣食住に困ることなく、大過なく60年を過ごしてきたからである。
 靖国神社に行くような愛国主義者ではないが、日本国民であることに満足している。
 これだけ物質的に豊かで安全で平和な国はないと思う。
 ひょっとしたら、「戦後80年間の日本は世界人類史におけるプライムタイムであった」と、後年の歴史学者が記す日が来るやもしれない。
 
 国家というものが、たとえ、対外戦争や死刑制度にみるように「暴力装置」であるとしても、それは必要悪なのではないか。
 国家のような上位権力のないところで、人と人とが必要な物を分け合って平和裡に暮らしていけるだろうか。
 トマス・ホッブズの言う「万人の万人に対する闘争」になるだけではないか。
 弱肉強食のキリングフィールドが待っているだけではないか。
 富の偏在を調整する機能も、集約して配分する機能もなかったら、「持てる者(勝ち組)」と「持てない者(負け組)」の差は広がる一方で、最終的には古代バビロニアの奴隷制のような社会に戻るだけではないか。
 勝ち組同士が、より多くの利得、より多くの権力を求めてシノギを削る、群雄割拠の戦国時代が現出するだけではないか。

 アナキズムを唱える人は、性善説に立っている“オメデタイ”人なのだろうと、ソルティは思ってしまうのだ。  
 悲観主義? 現実主義?
 そう、仏教徒であるソルティは、人類が「欲、怒り、無知」の三毒から卒業することはないと思っている。
 ある朝、人類がいっせいに悟りでもしない限り。

 本書の価値は、「おまえにとって国とは何か?」「日本とは何か?」という問いを、読者ひとりひとりに突きつけるところにあると思う。

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国破れてサンガあり



おすすめ度 :★★★★

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もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● あの頃の生き方を 本:『転生の魔』(笠井潔著)

2017年講談社
2022年文庫化

 主人公はアメリカ帰りの70代の私立探偵飛鳥井ナントカ(下の名前は不明)。
 シリーズ4冊目となる本作で初めて接した。
 タイトルに惹かれたのだが、残念ながら輪廻転生がテーマではなかった。

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 ミステリー作家としての笠井潔の力量は、名探偵矢吹駆シリーズの『サマー・アポカリプス』、『オイディプス症候群』で確認済みであったし、社会評論家および思想家としてのスタンスや彫りの深さは『8・15と3・11 戦後史の死角』、『新・戦争論 「世界内戦」の時代』で織り込み済みであった。
 ソルティは、“遅れてきた”キヨシファンを自認している。

 昔から本格ミステリーとペダントリー(衒学趣味、蘊蓄がたり)は相性が良い。
 黄金時代のヴァン・ダインとか世界的ベストセラーになったウンベルト・エコー著『薔薇の名前』とか、本邦なら小栗虫太郎や中井英夫や京極夏彦など、ペダントリー型ミステリーは枚挙にいとまない。
 その中にあって、笠井潔のペダントリーはユニークさにおいて突出している。
 笠井の場合のそれは、圧倒的な教養や学識のひけらかしによって探偵あるいは作家の優秀性を読者に知らしめるためだけでもなく、物語の主筋から読者の目をそらすことでトリックを覆い隠すためだけでもなく、マニアックな専門用語やオカルトなど非日常的言説の奔流によって雰囲気を醸して物語的効果を高めるためだけでもなく、たんに枚数を稼ぐためだけでもない。
 そのペダントリーの本質は、団塊の世代の社会運動家のちには思想家としての笠井潔自身の、人生をかけた凄まじい思想闘争の過程で産み落とされた月足らずの胎児たちである。
 つまり、笠井潔の思想の破片が物語のあちこちに散らばっている。
 逆に言えば、自らの思想を簡潔かつ効果的に表現し読者に伝達したいがために、ミステリーという形式を選んだという気さえする。
 これは笠井のライフワークと言われる矢吹駆シリーズにおいて特に顕著な特徴であろうが、本シリーズも例外ではない。
 「解説にかえて――笠井潔入門、一歩前」で批評家の杉田俊介が書いているように、飛鳥井シリーズの特徴は、本格探偵小説と政治・社会思想とハードボイルドが「モザイクのように組み合わさっている」ところにある。
 その政治・社会思想こそが笠井ミステリーにおける“血肉を伴った”ペダントリーなのである。

 その意味で、伝奇ロマンである『ヴァンパイヤー戦争』シリーズこそ未読なので分からないが、少なくとも笠井ミステリーは、読者を選ぶ。
 おそらく、ヴァン・ダインや中井英夫や京極夏彦よりずっと厳しく、読者を選別する。
 本格推理小説ファンの中でも、政治思潮や社会改革とくに戦後の内外の左翼運動に関心があり、国家権力に抵抗するためデモや署名活動などに参加したことのあるような読者こそ、選ばれた“キヨシ推し”であろう。
 って、ソルティではないか!

 60代の女性山科三奈子から飛鳥井が受けた依頼は、人探しであった。2015年7月15日国会議事堂前で行われた安保関連法案反対デモの動画を見た山科は、参加者の中に43年前に行方不明になった友人の昔のままに若い姿を発見したという。彼女は転生者なのか?
 半信半疑で依頼を引き受けた飛鳥井は、左翼活動盛んなりし43年前のクリスマスに、とある大学構内で起きた女子学生蒸発事件の真相を探る羽目になる。
 飛鳥井は、いまや高齢者となったかつての活動家たちをひとりひとり訪ね歩き、過去の事件の再構成を試みる。

 『サマー・アポカリプス』や『オイディプス症候群』同様、本作も単純に推理小説として読めば、それほど高いレベルにあるわけではない。
 トリックも特段凝っているわけでなく、真犯人や動機も意外性に富んでいるわけでもなく、探偵の推理が卓抜なわけでもない。(謎の出し方のうまさは抜群だ)
 ソルティをページに釘付けにし、下りるべき駅を乗り過ごしてしまったり、コーヒー一杯で暗くなるまでマクドナルドに留め置いたり、朝刊配達のバイクの音に我に返り慌てて本を閉じ枕に頭を落としたりと、強烈な磁力を発揮したのは、やはり笠井潔の思想性である。
 それすなわち、若い頃に革命を夢見て徒党を組んで闘った「左」の若者たちが、連合赤軍あさま山荘事件に象徴される決定的誤謬と挫折を経て、自分をどう“総括”し、どう社会と折り合いをつけ、どうその後の人生を展開してきたか。80年代のバブル景気、90年代のソ連崩壊やオウム真理教事件、2000年代の9.11同時多発テロやアフガニスタン紛争、2010年代の東日本大震災や安倍政権の横暴とどう向き合ってきたか。さらには、分断と凋落の進む現在の日本をどう見ているか。――ということへの関心である。
 いまだに革マル派を名乗り、赤いビラを配っている団塊世代。
 事あるたびに国会議事堂前に足を運び、シュプレヒコールを上げる団塊世代。
 就職を機に転向し、企業戦士として働き、退職して暇をもてあます団塊世代。
 若い時マルクスにかぶれたものの、マイホームをもって自民党支持になった団塊世代。
 政治運動から足を洗い、新興宗教に入信した団塊世代。
 そして、ラディカリストを自認し、「世界国家なき世界社会」を唱える笠井潔。 
 変わってしまった者と、変わらないままの者。
 その違いはどこにあるのだろう?
 解明すべきミステリーはそこにある。

 あの頃の生き方を あなたは忘れないで
 (荒井由実『卒業写真』)

 この小説の面白さは、老境を迎えた団塊の世代の一つのスケッチになっているところにある。

国会議事堂




おすすめ度 :★★★

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● ホモ・ミリターレ 本:『新・戦争論 「世界内戦」の時代』(笠井潔著)

2022年言視舎

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 「考えたくないことは考えない、考えなくてもみんなで頑張ればなんとかなる」という、日本に固有の自己欺瞞的な精神構造を「ニッポン・イデオロギー」と定義し、それが日本社会における「空気」の支配と歴史意識の欠落をもたらしていることを検証した『8・15と3・15 戦後史の死角』(2012年NHK出版)を読んで、ソルティは笠井に大いに共鳴した。
 重要な問題ほど議論を後回しに、決定を先送りにし、いざとなるとその場の空気に引っ張られて成り行き決行するニッポン・イデオロギーは、太平洋戦争(8・15)や福島第一原発臨界事故(3・15)だけでなく、このたびの安倍元首相国葬においても遺憾なく発揮されていた。

 上記書で笠井は、このニッポン・イデオロギーを克服するための処方箋として、「原発拒否」と「親鸞」という2つのキーワードを上げていたが、いまひとつピンと来ないところがあった。
 笠井潔という、たいへんな博識で理論家で鋭い世界認識と深い洞察力をもつ人間が、いったい何を目指しているのか、笠井の政治的立ち位置がどこらにあるのか、よく分からなかった。
 若い頃に学生運動をやっていたことは確かだし、彼の手による『オイディプス症候群』などのミステリーを読めば、いまも左の人・反権力の人であるのは間違いないのだが・・・。

 本書を読んで、やっと笠井の目するところが見えてきた。
 ちょっと驚愕した。
 
 21世紀の今日、アメリカと中国で同時革命が勝利し、樹立された新政府が国際ルールを合意してしまえば、世界はそれに従わざるをえないことになる。ただし、その新権力は、なにもしません。なにもしないことに意味がある。大衆蜂起の自己組織化運動を肯定し、容認しているだけでいい。そして大小無数の自己権力体が下から積み上げられて国の規模まで成長し、あるいは国境を越えて横に連合していく過程で、静かに退場していくこと。なにもしないことを「する」、これが樹立された「革命」政権の仕事ならざる仕事です。

 わたしは全共闘時代にルカーチ主義のコミュニストでした。連合赤軍事件や『収容所群島』の体験からポリシェヴィズムは放棄し、マルクス主義批判に転じましたが、ラディカルであることをやめたつもりはありません。だからリベラリストとは立場が違います。リベラルというのは主権国家、主権権力は否定できないものとして前提にしたうえで、そこから自由の領域を少しずつ拡大していこうという立場です。・・・・・(略)
 ラディカリストが求めるのはリベラル、リバティとしての自由ではなくフリーダムです。日本語にしてしまうと同じ「自由」ですが、リバティとフリーダムの違いについてはハンナ・アレントが『革命論』で論じています。どう違うかというと、フリーダムは権力と関係がないのです。権力に関係した、権力からの相対的な自由ではなく、権力とは無関係である自由、いわば絶対的自由です。

 主権国家・主権権力を否定し絶対的自由の獲得を目指すというと、反国家主義・反近代主義の無政府主義者のように思えるが、このへんの正確な定義はソルティにはわからない。
 笠井が最終的に目しているのは「世界国家なき世界社会」というもので、それを実現する手段は、「自治・自律・自己権力を有する無数の集団を下から組織し、近代的な主権国家を解体していくこと」だという。
 う~ん。ソルティの貧困な想像力では今ひとつイメージが結ばれない。
 ともあれ、ここまでラディカルな人だとは思わなかった!
 もはや社会主義者・共産主義者という枠組みにすらはまらない。

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 本書は、『自閉症裁判』『ルポ 認知症ケア最前線』『評伝 島成郎』などの著作をもち、『飢餓陣営』という批評誌を発行している佐藤幹夫の問いかけに対して笠井が答えるという形式をとっている。
 語り言葉なので読みやすい。
 一番の特色は、「戦争論」と冠しているように、近代以降の戦争の特質の変容についての笠井の解釈が呈示されていることである。
 近代以降の戦争を、19世紀の国民戦争(植民地をめぐる列強同士の戦争)⇒20世紀の世界戦争(第1次、第2次世界大戦~冷戦)⇒21世紀の世界内戦(湾岸戦争~アメリカ同時多発テロ~現在)という3つの時代区分でとらえ、それぞれの特徴を世界情勢と絡めてわかりやすく説明している。
  • 国際法というルールの下で“紳士的”に行われた国民戦争は、日露戦争を最後に途絶えたこと。
  • 世界戦争とは、国家間の争いを終結してくれる強い力を持つ“メタ国家”を抽出するための、国家総動員体制による勝ち抜き戦であったこと。
  • その勝者となったアメリカの覇権と核の平和によって一時は「歴史の終わり」が宣言されたものの、2001年9月11日の同時多発テロを契機にアメリカもまた世界国家(世界警察)としての地位から転落したこと。
  • 世界はいまや複数の国家や武装ボランティア組織や民間軍事組織などが入り混じる、大義もルールもない修羅場と化し、いわば世界内戦の状態にあること。
  • また、近代的な福祉国家というものが、国家総動員を旨とする世界戦争の国内体制として必然的に生じたこと。
  • それが世界内戦時代への移行によって「自国ファースト」の新自由主義に取ってかわり、福祉政策の縮小や排外主義や格差社会をもたらしたこと。
  • 秋葉原事件の加藤智大、やまゆり園事件の植松聖など、いわゆる“中流”の没落によって疎外された者の暴力はこうした文脈でとらえることができること。
 まさに戦争こそが人間社会を駆動する力学であり、人間社会の質を定めていく主要モチーフであることがまざまざと解き明かされていく。
 人類はホモ・サピエンスならぬ、ホモ・ミリターレ(homo militare たたかうヒト)なのだ。

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剣の騎士

 次に、こういった世界情勢の変貌のもと、日本はどんな立場に置かれてきたかが概観される。
 鎖国で近代化の遅れた日本は、明治維新後、懸命に近代化をはかり、列強の仲間入りを果たそうとした。
 その成果が、不平等条約の改正と、国民戦争の形式で行われた最後の戦いである日露戦争の勝利であった。
 その後、世界戦争で敗北し、憲法9条と日米安保で縛られる“アメリカの犬”となった。
 アメリカの傘の下、奇跡的な復興を果たし、戦後70年以上続いた平和と経済的発展を謳歌した。
 その歴史上稀なるお花畑的安寧も、バブル崩壊と世界王者アメリカの権威失墜と世界内戦の始まりによって風前の灯火となっている。
 北朝鮮の挑発やロシアのウクライナ侵攻や中国の脅威を前に、天皇と日米安保と平和憲法と沖縄問題の四すくみで動きが取れなくなっている。
 その根本的な原因は、日本の「不徹底な敗戦」にある。必要なのは「本土決戦」のやり直しだ、というのが笠井の説である。

 日本の「68年」世代がドイツの同世代と違ったのは、親たちの思想的不徹底性と退廃がさらに痛切に感じられた点でした。なにしろ本土決戦さえやらないで、天皇を担いで一目散に逃げだしたわけだから。親たちの世代が自己保身から不徹底な「終戦」に逃げ込み、悪かったのは軍閥や戦争指導部で、自分たち一般国民は軍国主義と侵略戦争の被害者だと居直っている。その結果の平和で豊かな戦後民主主義社会には、その根本のところで倫理的な欠落や空白があって、そのため自分たちは生の不全感を抱え込んで苦しんでいる。この空虚感を埋めて本当に生きるためには、親世代が自己保身的に放棄した本土決戦を再開し、最後までやりぬくことだ・・・・・。

 ここまで率直に内面を開示してくれた全共闘世代の発言を見るのは初めてかもしれない。
 むろん、すべての全共闘世代の思いを代弁するものではなかろうが、彼らの親世代に対する不信感の根底にはこのような感情があったのかと、腑に落ちるものがあった。
 しかし、今の時代にやり直せる「本土決戦」とは何なのか。
 それに対する笠井の答えが面白い。
 「移民を無制限に受け入れること」である。

 そうなると市民社会のいたるところで、隣近所レヴェルでも言葉の通じない外国人と否応なく付き合わなければならなくなる。ごみの捨て方を教えるというレヴェルから始めて、さまざまなコミュニケーションの努力が求められることでしょう。・・・(略)・・・国家の統治形態でない本物の民主主義は、さまざまな国や地域から吹き寄せられてきた、難民のような人々が否応なく共同で生活する場所、先住民と移民とが雑居していたニューイングランドや、カリブ海の海賊共同体のような場所で生まれます。(ゴチはソルティ付す)

 つまるところ、笠井の言う「本土決戦」の先にある徹底的な敗戦とは、ニッポン・イデオロギーや天皇制のような“国体”を棄却して、他者との共生から生まれる新たな共同体、本物の民主主義を生み出すためのガラガラポンなのだろう。
 せっかくの無条件降伏によって日本は(ドイツのように)生まれ変わる機会を得たのに、GHQの戦略による中途半端な占領政策=敗戦処理によってその機を逸してしまった、ということだ。
 笠井のこの見解が的を射ているものなのかどうか、ソルティには判断できない。
 広島や長崎への原爆投下ほどの決定的な本土決戦=敗北があるのか、という異論も出てこよう。
 もし、1945年に皇統が絶たれ天皇制が廃止されていたら、何か大きな変容が日本人に訪れていただろうか?(安保闘争以上に、天皇制復活運動が盛り上がったのではあるまいか)

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 本書の発行は2022年9月30日だが、佐藤による笠井へのインタビューは2020年9月と2022年6月の2回に分かれている。
 ロシアによるウクライナ侵攻という異常事態の発生を機に、2回目のインタビューが持たれた。
 第3章では、世界内戦時代を背景とするロシア×ウクライナ戦争について論じられている。
 ここでも国民戦争⇒世界戦争⇒世界内戦の流れの中でロシア=ソ連がどのような立場にあったかが検証されるとともに、ロシアの核使用の現実性やメディア戦略を組み入れたハイブリッド戦争の様相が語られる。
 アメリカやNATO諸国が唱える「武力による現状変更は許さない」という一見“正義の味方”的言説が、実質的には既得権を持つ国家の権益維持であるがゆえ、既得権を持たぬ国々に対しては何ら説得力を持たず、戦争の抑止にはつながらないというのはもっともなところ。

 本書を手に取ったのは、国防について考えるための『蒙古襲来』『新・国防論』に続く教材第3弾としてであった。
 早くも第3弾において、ソルティは自らの限られた視野と思考の壁を思い知った。
 なぜなら、本書は戦争論は語っていても国防は語っていないからである。
 日本という主権国家をあくまでも守らなければならないというのが国防論であるなら、主権国家の否定すら射程に入れる本書は国防論ではない。
 そう、何のための国防なのかという視点がそもそもソルティには欠けていた。
 領土や国体やニッポン・イデオロギーを守るための防衛なのか。
 それとも市民――行政機構として国の下に置かれる「市」の民という意味ではなく、自己決定権を持った自立した自由な個人という意味での市民――を守るための防衛なのか。
 
 国家を守るための国防軍か、市民を守るための市民軍か。この選択を正面から提起しなければならない。市民軍の本格的な組織化に向けて構想を練る必要があります。個人や家族、自立的な民間組織を基礎的な戦闘単位として位置づけるとか、それを自治体ごとに集約するとか。絶対主義の常備軍以来の中央集権的な軍隊に対する、分散的に自由に運動する小規模な戦闘単位が、必要な場合は集結して戦えるような下からの組織。反復訓練によって、規範を内面化し身体化する規律訓練システムは、軍隊からはじまって監獄や病院から学校や工場にまで広まったわけですが、それとはまったく異なる分子的な戦闘主体を産出しなければならない。
 自衛隊の国軍化に9条平和主義を対置するのではなく、現代的な戦争機械として市民軍の組織化を対置すべきです。

 人民の権力は憲法という紙切れの中にあるのではない、議会という閉じられた特権的な場所にあるわけでもない。人民の権力は街頭から生じる。蜂起する大衆の意志こそが人民主権の実質をなしている。

 笠井潔は本気である。
 青雲の志をかくも失っていない男も珍しい。
 「凄いな」と思う一方、連合赤軍や革マル派の残党と同じく、見果てぬ夢を追い続けている少年革命家(ゆたぼん?)という印象を拭うこともできない。
 笠井の目する世界の実現を信じるには、ソルティはあまりに性善説からほど遠い。
 もっとも、ソルティがたまに夢想するアーサー・C・クラーク的世界平和プロセス――圧倒的な力を持つ宇宙人が飛来し、地上の独裁者や核を一瞬のうちに消滅させ、既存の国家機構や差別的な制度を取っ払って、地上に平和をもたらしてくれる――にくらべれば現実性があるけれど。

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愚者
 



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 




● 弁証法的権力とウイルス禍 本:『オイディプス症候群』(笠井潔著)

2002年光文社
2006年カッパ・ノベルズ

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 『8・15と3・11 戦後史の死角』、『サマー・アポリカプス』に次いで、3度目の笠井ワールド探訪。

 小口の厚さ40ミリ、二段組で700ページを超える大作ミステリー、といったことを差し引いても、この本を読むのはちょっと覚悟がいる。
 ギリシア神話、監獄論、性愛論、現象学・・・・等々、ミステリーの解決とはさほど関係のない学術的な話が無駄に多い、つまり衒学的なのである。
 同じ衒学ミステリー作家であるヴァン・ダインや京極夏彦と比べても、笠井のミステリーは、より難解で饒舌で哲学的である。
 そこが読者を選ぶゆえんであり、また、熱狂的な読者を持つゆえんでもあろう。

 たとえば、この小説の登場人物たちがひけらかす煩わしい蘊蓄をすべてとっぱらって推理小説の骨子のみ残すとしたら、ミステリーとしてはかなりつらいものであることが明らかになるだろう。
 プロットや推理には杜撰な点が多く、突っ込みどころ満載なのである。

 一例を挙げよう。

 この小説(連続殺人事件)の舞台となるのは、ギリシアのクレタ島付近に浮かぶミノタウロス島という架空の島である。
 ミノタウロスと言えば、古代ミノアの王妃パシパエと牡牛の間にできた牛頭人身の怪物である。
 ギリシア神話では、父王ミノスにより迷宮に閉じ込められ、年ごとに少年少女7人ずつの生贄を要求する。

 その伝説が色濃く残る島をアメリカの製薬会社の大富豪が購入し、古代ミノアの王宮を模した豪壮な別荘を建てた。
 この孤島の館に招かれた10人の男女が次々と謎の死を遂げていく。
 要はクリスティ『そして誰もいなくなった』のパロディである。
 登場人物たちは、「次の犠牲者は自分かもしれない」と脅えながら、犯人と犯行方法について推理合戦を繰り広げる。生き残っている者の中に真犯人がいる前提で、互いが互いを疑いながら・・・・・。
 殺害の一つは館内の密室で行われており、そこから遺体が消失するという謎も含まれる。
 四方を海に囲まれた離れ小島の中の閉ざされた部屋、という二重の密室である。
 
 この状況設定から、本格推理小説の定石として、読者が当然有りうべきことと考え、登場する素人探偵たちに最初に検討してほしいと願うのは、館に仕込まれている迷宮の存在であろう。
 迷宮が存在するのなら、なにも容疑者を館に招かれた10人だけに絞る必要はない。
 もとから島内にいて迷宮に潜んでいる者がいてもおかしくはない。
 密室殺人も、「実は部屋の中に迷宮への隠し扉があった」で簡単に解決してしまう。
 迷宮の有無の検討と調査は、合理的な推理を展開しようと思うならば、探偵たちにとって必須の手続きとなるはずである。
 ところが、登場人物たちの誰一人も、迷宮の存在について思いつく様子もなく、口にもしない。
 これはあまりにも不自然である。
 最終的には、館に迷宮が存在することが明らかとなり、真犯人はまさに迷宮に潜んでいた招待客以外の人物なのであるから、「なんて頭の回らぬ探偵たちだ・・・」と、読み手はあきれざるをえない。
 プロット自体に不自然を感じる。
 『サマー・アポリカス』でも思ったが、笠井は推理小説としての整合性やリアリティにさほど拘っていないように思われる。

ミノタウロス
ミノタウロス


 しかしながら、この推理小説としての杜撰さが欠点と思えないところに、まさに笠井ミステリーの真骨頂がある。
 その秘密がつまり、衒学による目くらましなのである。
 読み手は、幅広い分野における圧倒的な量の知識と、それを支える著者の深い教養、そして哲学性に降伏してしまう。
 それも、ヴァン・ダインのように、ただ単に知識をひけらかしてページを稼いでいるのとは違う。
 評論家でもある笠井の、自らの人生経験に裏打ちされ、思考によって鍛え抜かれた社会哲学が、作品の基調となっているのである。
 その意味で、衒学による目くらましという表現は当たっていない。
 むしろ、ミステリーの体裁を借りた哲学書というべきかもしれない。
 
 そしてまた、「杜撰=つまらない」でないことを、笠井ミステリーは教えてくれる。
 単純に、すごく面白いのだ。
 天才的着想、卓抜な構成力、興味をそそる謎の提供、素人探偵と一緒に推理ゲームに参加する愉しみ、姿恰好が目に浮かぶようなキャラクター描写、巧みな伏線の配置と意外な結末、重厚感・・・・・。
 多少のアラは大目に見てしまわざるを得ない魅力にあふれている。
 
 着想の天才性という点でソルティが唸らされた点を挙げる。

 ここで言うオイディプス症候群とは、ずばり後天性免疫症候群(エイズ)のことである。
 この小説は、エイズ=HIVが「謎の奇病」として世界に出現して間もない時代を背景としている。

 HIVの感染経路は3つ――血液感染、性行為感染、母子感染である。
 当時、血液感染の中で特に問題となったのは、輸血に用いられる血液製剤の中にHIVが混入し、それにより多くの血友病患者がHIV感染し、エイズを発症して亡くなった事件であった。
 日本では薬害エイズ事件として知られるが、世界各地で製薬企業や厚生行政や血友病専門医の無作為責任が問われる裁判が起きた。
 一方、性行為感染では、男性同性愛者間でのHIV感染が顕著であり、70年代を通じて高まる一方だったゲイリブの気運の中で、性の自由を謳歌していたゲイコミュニティを直撃した。
 この『オイディプス症候群』では、初期のエイズ事情を語るに欠かせない、まさに二つのトピック――血液製剤とゲイセックス――を、一連の殺人事件の動機を構成する要素として取り上げ、見事に融合させている。
 しかも、息子を殺された一家族の復讐劇と、HIVを社会転覆の武器として利用するテロリストの陰謀、というレベルの異なる二つの事象を、齟齬することなく並べて物語ることに成功している。
 この着想と構成力、そして筆力には脱帽するほかない。

 読んでいて思わず手が止まった箇所がある。
 カッパ・ノベルズ版の624ページ。
 
 『弁証法的権力と死』を読んだきみには説明するまでもないことだと思うけど、世界の未来は暗澹としている。反対者や批判者の存在までも否定的契機として内部化し、際限なく膨張し続ける弁証法的権力に世界は遠からず完全に呑みこまれてしまうんだから。
 弁証法的権力とは闘うことができない。批判すれば批判するほど、闘えば闘うほど、歴史の終点である完璧な権力の膨張と普遍化を助けてしまうんだから。屈服しても闘争しても結果は同じなんだ。しかしIVは、自己運動する完璧な権力がはじめて直面する異様きわまりない敵だ。IVは闘わない。システムの内部に潜入しシステムが自滅するように仕向けるだけだ。社会にたいしてIVの流行が果たす役割と、生体においてIVが果たす役割には並行性がある。IVに感染してはじめて僕は、弁証法的権力を内側から食い荒らし、ぼろぼろにしてしまう素晴らしい武器を手にすることができたんだ。

 IVとあるのは、オイディプス症候群を引き起こすウイルスにつけられた名前であり、つまりHIV(ヒト免疫不全ウイルス)に当たる。
 このセリフの主は、自身IV感染者であり、オイディプス症候群の蔓延による社会混乱と国家権力崩壊を企図するテロリストである。
 彼はそのために、相手選ばずの無軌道なセックスを繰り返す。ミノタウロス島で起こる一連の殺人事件の真犯人(の一人)でもある。 
 
 「弁証法的権力」の説明から読み手が連想するのは、まさに現在の安倍自民党政権であり、その権力の徹底された先に登場しうる中国のような独裁政権による管理社会であろう。右も左も関係ない。
 あたかも笠井は、この小説が書かれた2002年の段階(時の首相は小泉純一郎)で、今の日本の政治状況を予言していたかのようである。
 
 ただし、このテロリストが企図したように、HIVが弁証法的権力を「内側から食い荒らし、ぼろぼろにしてしまう」武器として働いたかと言えば、HIV登場約40年後の現在の世界状況からして、「そんなことはなかった」と結論せざるを得ない。
 幸か不幸か、HIVは既存の権力構造に致命的な打撃を与えなかった。(少なくとも、今のところ)
 一つには、HIVが先進国では薬によって抑えられて、エイズが慢性病の一種となったがゆえに。
 一つには、HIVが先進国ではほぼ性行為でしか感染せず、それは様々な手段で予防できるがゆえに。
 一つには、途上国でのHIV流行はメガ・ファーマーと呼ばれる巨大製薬企業の莫大な利益を生むチャンスをつくり、グローバル資本主義に拍車をかける結果となったがゆえに。
 また、我が国に限って言えば、HIV拡大防止というもっともな名目で、純潔教育のような特定の倫理を標榜する保守団体と結びつく形で、国家権力による個人の性行動への介入と統制を許してしまったがゆえに。 
 自由を求める大衆の力の源泉となる性のエネルギーを、国家が管理統制する道を開いてしまったのではないか――というのが、過去20年以上HIVに関する市民活動に携わってきたソルティの偽らざる実感である。
 わかりやすい例で言えば、学校現場における性教育の後退やジャンダーフリー・バッシング、それに浮気した家庭持ちのタレントに対するいじめまがいの制裁である。


迷路


 そしていま、新型コロナウイルス登場である。
 現段階で予想して、新型コロナウイルスの社会的影響の大きさは、HIVのそれを凌駕していくのではないかと思われる。
 ソルティは安倍政権の終焉をこそ望むけれど、むろんテロには反対である。
 このコロナウイルス騒ぎが一刻も早く終息することを望んでいる。
 ただ、誰もが当事者とならざるをえないこのウイルスの流行が、どんな社会構造の変化を地球レベルでもたらすことになるのか、人々の意識や行動にどのような影響を及ぼすのか、気になるところではある。




おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 読者への挑戦状 本:『8・15 と 3・11 戦後史の死角』(笠井潔著)

2012年NHK出版

 笠井潔と言えばミステリー作家である。読んだことはないがそう思っていたので、こういった真面目な社会評論を書く人とは知らなかった。これが本業の傍らの手すさび?と思ったら大間違い。きわめて質の高い、鋭い、並み居る評論家を恥じ入らせるに十分な内容である。プロフィールをみると、1948年生まれで学生運動をしていたとある。若い頃から、社会的関心高く、読書量はんぱなく、思考訓練を積んできた人なのであろう。
 終戦記念日、近所の古本屋で見つけて購入した。

815と311


 本書のテーマを簡潔に言えば、日本および日本人論ってことになる。日本とはいかなる国か、日本人とは何者かということを、近・現代史上の二つの大事件を手掛かりに論じている。それが、8・15(=日米戦争)と3・11(=福島原発事故)である。
 70年という時を隔て、一見関係なさそうに見える二つの大事件に共通して存在し、両者を結びつけるものとして、ニッポン・イデオロギーという概念が呈示される。

 ニッポン・イデオロギーが必然的にもたらした二つの破局、8・15と3・11は、たんに並列的に存在しているわけではない。「終戦」の歴史的な結果として福島原発事故は生じている。8・15を真に反省し教訓しえなかった日本人が、「平和と繁栄」の戦後社会の底部に3・11という災厄の種を蒔いた。これこそ戦後史の死角である。3・11という破局的な体験が突きつけている意味を真に了解するには、8・15で切断されたように見える戦前日本の錯誤を明らかにしなければならない。

 難解な読み物を想像するかもしれないが、そんなことはない。巻措く能わない面白さで一気読みした。
 さすが本格ミステリーの大御所である。読者を物語に引きずり込むプロローグ(つかみ)の上手さ、切れ味鋭い論理、容赦ない真実の探求姿勢、謎が謎よぶサスペンス、トリック解明のスリルと説得力、心髄にこたえる真相。社会評論でありながら、やっぱりミステリー作家の手腕ここにあり、といった感じである。
 とりわけ面白いのが、つかみにあたる序章。日本(東宝)が生んだ国際的スター怪獣ゴジラを登場させる。
 ゴジラが、日米戦争の「戦死者の亡霊」を象徴しているという説ははじめて知った。海から上がってきて、東京に上陸し、怒りの雄叫びをあげながら、平和と繁栄をむさぼる戦後の日本を破壊する。その平和と繁栄こそは、大戦の反省も戦死者の追悼もなおざりのまま、敵国アメリカによってもたらされた民主資本主義下に花開いたものであった。
 「なるほどなあ」と感嘆した。
 同時に、ではソルティは子供の頃ゴジラをどう見ていたかを思い返したとき、ハッと気づくものがあった。
 自分は「ゴジラ=アメリカ」と無意識ながら受け取っていた。
 つまり、海の向こうからやって来て、放射能を巻き散らしながら日本に上陸し、日本の街を(国会議事堂を)破壊する、恐ろしく強い者=アメリカの比喩ととらえていたのである。それが証拠には、その後に東宝がモスラを登場させたとき、「モスラ=日本」と即座に受け取ったからである。ザ・ピーナッツの神秘的な唄によって、南海の孤島の緑深き森から甦るモスラ(=蚕)こそは、日本的アニミズムの象徴であろう。そんなに強くないところも日本っぽい気がした。


蚕2


 さて、ニッポン・イデオロギーとはなんであろう?  

 日米戦争の経緯を簡単に見てきたが、一目瞭然といわざるをえないのは、戦争指導者の妄想的な自己過信と空想的な判断、裏づけのない希望的観測、無責任な不決断と混迷、その場しのぎの泥縄式方針の乱発、などなどだろう。

 国会事故調が福島原発事故の「人災」性として列挙した、権威を疑問視しない反射的な従順性、集団主義、島国的閉鎖性など、あるいは目先の必要に目を奪われた泥縄式の発想、あとは野となれ山となれ式の無責任など・・・(略)

 笠井は、日米戦争について、開戦を決定する過程や戦時中の戦艦大和の無謀な出撃、ポツダム宣言受諾、手のひらを返したように鬼畜米英からアメリカ礼賛に変貌した戦後日本人の姿を追っていく。そこには、当ブログでも取り上げた猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』や、岸田秀✕山本七平対談『日本人と「日本病」について』に述べられているような、日本人の宿痾とも呼びうるような負の国民性が伺える。
 福島原発事故についても同様に、戦後の原子力政策が闇雲な原発建設につながった経緯をたどり、東電を含む原子力ムラの閉鎖的体質と計画性の致命的欠如を、暴き出していく。加えていえば、3・11後の対応の拙劣さと責任の曖昧化、そして再びの原発推進路線は、ニッポン・イデオロギーによる専横以外の何物でもあるまい。別記事で取り上げた若杉冽『原発ホワイトアウト』や朝日新聞特別報道部編『プロメテウスの罠』などで指摘されているところに通じる。

 「空気」の支配と歴史意識の欠落を二本の柱とするニッポン・イデオロギーの背景には、日本に固有の自己欺瞞的な精神構造がある。

 このあたりは、ソルティも認識していた。いや、現実直視する勇気があり、冷静にものを見る目のある日本人なら誰だって、ニッポン・イデオロギーの存在とその長所と短所には気づいていることだろう。そしてそれが、多様な文化との折衝が避けられない国際社会においては、人類が原子力という魔物を手にしてしまった現代においては、むしろ短所に傾くであろうことも・・・。

 問題は、このニッポン・イデオロギーをいかにして克服できるのかである。
 そのためには、そもそもこれがどうやって生まれたのかを検証する必要がある。
 本書の一番の魅力は、そこを丁寧に行っているところにある。推理小説でいえば、まさにトリックの謎解きにあたるワクワク部分であり、ミステリー作家笠井潔の本領発揮である。

 ソルティが解したところ、次の4点がニッポン・イデオロギーの形成に関わっている。
① 土着のアニミズム的心性
② 風土に合わない稲作文化
③ 天皇制による支配システム
④ 外来文化の変容と吸収

 順に見ていこう。

① 土着のアニミズム的心性
 天皇制以前の神道的部分である。狩猟採集民に共通して見られる山川草木はじめ自然そのものに神を見る多神教的世界観。丸山眞男はその核心を「つぎつぎになりゆくいきほい」と表した。

 「いきほい」をもって、「なりゆく」自然の、無限とも思われる繁殖力に人々は感嘆し、畏怖の念さえ覚える。こうした感嘆、この畏怖がアニミズム的な宗教意識の背景にある。

 日本の徳は勢いと不可分である。中国思想とは真逆に、徳ある者が勢いを得るのではなく、「いきほい」に感応した者に徳があると見なされる。「いき」は息=空気であり、ようするにアニマだ。霊(アニマ)に感応しうる者が共同体を支配する。 


② 風土に合わない稲作文化 
 国民の性格は風土に規定される。日本人は「熱帯的、寒帯的の二重性格」を有しているとする和辻哲郎の風土論を踏まえ、笠井はそれを風土に合わない稲作文化との関係からとらえ直す。

 自然環境的に不適切な作物を無理に栽培するため、集団的な農作業が過重なまでに義務化された。契約や規律を撹乱する者を排除しなければ、全員が共倒れになりかねない。
 生産経済が普及して以降の日本列島住民の心性は、不適切な自然環境で稲作を選好した事実を規定としている。過重で単調な反復作業に耐え(「頑張ればなんとかなる」)、しかも集団的な農作業(「みんなで一緒に」)のため共同体的な相互抑圧に耐えるという二点が、この国の住民の心性を根本的に規定してきた。
 この精神的抑圧が、ときとして「日本の特殊な現象としてのヤケ(自暴自棄)」という激情の嵐を生じさせる。しかも「忍従に含まれた反抗はしばしば台風的なる猛烈さをもって突発的に燃え上がるが、しかしこの感情の嵐のあとには突如として静寂なあきらめが現れる」。    


③ 天皇制による支配システム
 ここでは吉本隆明による「グラフト国家論」を援用としている。グラフトとは「接ぎ木」のことである。
 解するに、これは侵略の一つのシステムのことである。16世紀スペイン人がインカ帝国を滅ぼしたように、あるいは17~18世紀にアメリカ入植者がインディアンを虐殺して土地をのっとったように、もとから土地に住んでいた民族を滅ぼし、その共同体を破壊するという典型的な侵略のシステムがある。古代日本の場合、これとは異なった形での侵略が起こった。

 それ以前にあった共同体における宗教的・イデオロギー的な中枢・核といったものを、次の共同体あるいは国家の権力は、自分たちのイデオロギー構造の中に包括してしまうことです。既存の共同体の宗教的な、あるいはイデオロギー的な中核の部分だけをとりいれてしまうと、どういうことがおこるかと申しますと、自分たちがすでに遠い以前からそれを掌中にしていたのだというイデオロギー的な擬制が可能になります。(吉本隆明『敗北の構造―吉本隆明講演集』弓立社)


 笠井は、出雲の国譲りの神話を例に挙げている。オオナムチを信仰していた古代出雲の共同体は、アマテラスを信仰する高天原勢力(のちの天皇制につながる)の侵略にあって支配権を譲った。その際、オオナムチは大国主命(オオクニヌシノミコト)と改名され、アマテラスの弟であるスサノオの子孫と位置付けられた。もとからの出雲の共同体の人々は、虐殺されることなく、オオナムチの信仰を許されたまま、高天原勢力の支配下におさまった。平和的な王権簒奪(支配される側から見れば自主的隷属)といったところか・・・。
 なるほど、このグラフト国家論を適用すれば、諏訪大社の謎伊勢神宮の謎に迫ることができるのかもしれない。もといた土地の神が名前と役割を変えられて、イザナミ・イザナギ・アマテラスを発端とする神統譜にグラフト(接ぎ木)される。天皇制に組み入れられていく。
 面白いなあとウキウキしていたら、しっぺ返しが待っていた。
 このグラフト国家的侵略システムが、まさにポツダム宣言受諾以降の日本で、戦勝国アメリカ(GHQ)との関係において自主的に敢行されてしまったというのである。

 奴隷である事実を隠蔽し忘却することで実際的に、あるいは理念的に保身をはかるという絶妙の自己欺瞞システムが、日本文化の基底には埋めこまれている。なにも大昔のことに限らない。8・15の翌日から日本人の大多数が望んだのは、まさに「継ぎ目」の消去だったのではないか。
 東条英機をはじめとする少数の軍国主義者が暴力と洗脳で、自分たちを「無謀な戦争」に巻きこんだ。戦争の被害者である日本国民を、軍国主義から解放してくれたのがアメリカだ。マッカーサーに与えられた戦後憲法こそ、われわれが望んだものだ。

 笠井の容赦ない追究の槍は、戦後日本人の欺瞞を突く。
 痛いッ。
 これぞ本当の自虐史観の名にふさわしい


④ 外来文化の変容と吸収

 日本列島に棲まう太古からの精霊たちは、海を渡って襲来する世界宗教や絶対観念の暴威に屈服し、いったんは征服される。しかし長い年月をかけて、仏教や儒教からキリスト教やマルクス主義にいたる普遍的で絶対的な輸入観念を骨絡みにし、最終的には消化し吸収してきた。だから日本に存在するのは、征服され頽落したアニミズム的心性と、原型をとどめないまでに変形された輸入観念の奇妙な折衷形態である。

 6世紀に大陸から入ってきた仏教が日本風に変わっていく様相は末松文美士『日本仏教史』に、16世紀にフランシスコ・ザビエルによってもたらされたキリスト教が日本という「すべてのものを腐らせていく沼」の中で変容していく様子は遠藤周作『沈黙』に描き出されている。マルクス主義もまた、日本的な学生運動や政治闘争のあげくの果てに、連合赤軍事件という目も当てられない悲惨な結末に堕してしまった。

 挫折し頽落したアニミズム的基層は、原型をとどめないまでに外来の観念や思想を変形してしまう。両者の複合体であるニッポン・イデオロギーは、いったんは成功を収めるが、歴史意識を欠如した「空気」による決定によって、繰り返し大破局を招かざるをえない。


原爆ドーム


 われわれはニッポン・イデオロギーを克服することができるのだろうか?
 それとも、8・15と3・11に続く第3の――そしておそらく最後の――破局の到来を指をくわえて待つしかないのだろうか?

 この問いかけに対して、笠井は二つの処方箋を掲げている。

 まず、原発拒否を梃子として、ニッポン・イデオロギーにNOを突きつけること。

 事故を起こす危険があるから原発に反対するのではない。社会に埋めこまれて際限なく肥大化する権力装置だから、諸個人の自由を必然的に制限し剥奪するシステムだからこそ、原発は否定されなければならない。
 8・15にはじまる戦後日本の「平和と繁栄」は、さまざまな意味で原発に依存してきた。あえて原発を拒否することは、「ゴジラ」と化して日本列島を襲った戦争犠牲者たちに、真に向き合うための唯一の道である。

 すなわち、ほとんど無意識レベルで日本国民に共有され、日々更新され、日本をすっぽり覆っているニッポン・イデオロギーという権力構造を見抜き、それに支えられ延命している原子力政策に対して、その権力構造の非人間性ゆえにNOと言おう、ということであろう。
 蓋し、正論である。原子力を扱えるだけの成熟は、まだ日本人には、否、人類には到来していない

 そして、もう一つの処方箋として挙げられているのは親鸞である。

 もしも8・15と3・11を超える契機として、日本人の宗教意識を再評価するのであれば、頽落したアニミズムとしての「神道の神々」ではなく、親鸞の絶対他力思想にこそ注目しなければならない。

 それによって、「日本独自の歴史意識が形成されはじめることを期待しよう」と笠井は結ぶ。

 謎の解明部分の密度に比べると、処方箋の呈示部分はかなり手薄で粗雑な感があるのは否めない。紙幅の関係があるのかもしれない。まだ、笠井自身も答えを探っている途中なのかもしれない。あるいは、ニッポン・イデオロギーの存在に気づき、それに支配されていることを各自が意識化することが、一番の克服手段ということなのかもしれない。人は、無意識レベルにある動機づけには抵抗できないのだから。
 であるなら、本書を書くこと、読むこと、広めることが何よりの処方箋である。


百日紅

 
 当ブログ内の多くの記事とリンクすることから分かるように、本書は、ソルティの日本および日本人に関する問題意識とほぼ重なるものであった。笠井の幅広い知識と鋭い洞察力、緻密な論理とで、自分が漠然と考えていることが文章化され、クリアに証明されていくのを見るのは、胸のつかえがとれるような爽快感があった。もっとも、暗澹たる気持ちを伴った爽快感ではあるが・・・。
 何でもっと早く笠井潔を読まなかったのだろう?

 本書を読んで疑問に思った点が二つある。

 一つは、ニッポン・イデオロギーはどのようにして相続されるのだろうか、ということである。
 どのようなシステムによって相続されるのかが判明することなしに、そこから脱出することは難しいと思うのである。

 家庭や共同体や教育機関や社会の中で、子供が長ずるにしたがい洗脳されてゆくのか。
 暮しの中に溶け込んだ神道や儒教や仏教の無数のしきたりを通して、知らず体が覚えこんでいくのか。
 日本人のDNAに書き込まれているのか。
 それとも、日本列島を包む大気の中に、目に見えない分子のように存在しているのか。
 同じ日本人でも、帰国子女のように海外生活が長ければそれに染まらないのか。
 日本に生まれ、日本で育った在日やアイヌや沖縄の人々はどうなのか。
 大部分の日本人が稲作から離れたこれからもなお、それは引き継がれていくのか。
 天皇制がなくなれば、自然消滅するのか。
 ・・・・e.t.c

 いま一つは、親鸞についてである。
 親鸞についてはよく知らない。三國連太郎の監督した映画『親鸞 白い道』を観て、『歎異抄』を読んだくらいである。他力本願や悪人正機説は言葉としては知っているレベル。
 なので、はずしているかもしれない。
 親鸞の教え(=浄土真宗)がニッポン・イデオロギー克服の手段、すくなくとも契機となるという笠井の意見には賛同できない。
 むしろ、逆じゃないかとさえ思える。
 他力本願、阿弥陀さまにすべてをおまかせするという「あなたまかせ」な態度こそは、日本人の「神風」妄想に通じるものじゃなかろうか。年金問題も少子高齢化問題もエネルギー問題も、「お国にまかせておけばなんとかなる」という、現実逃避と行き当たりばったりと自助努力の放棄を助長するものではなかろうか。それこそ、戦時中の浄土真宗本願寺派第22世宗主・大谷光端(1871-1948)の言説に見るように、国体を正当化するのに恰好な論理となったではないか。

 大谷光端は、大慈大悲の阿弥陀如来とその教えに信従する信徒との関係を、天皇と臣民との関係に適用することによって、大慈大悲の如来のごとき天皇の聖旨にただひたすら信従すべきであるという、臣民の道を説いていたのである。それは信徒のあるべき心的態度の臣民道への拡大・適用を意味した。(栄沢幸二著『近代日本の仏教家と戦争 共生の倫理とその矛盾』289ページ、専修大学出版局、2002年発行)

 だいたい、親鸞の教えがニッポン・イデオロギー克服に役立つのなら、浄土真宗信徒が一番多い日本はとっくの昔にそこから脱しているはずである。
 親鸞では無理、と思う。

 では、誰か?
 あるいは、何か?

 各自が自らの頭で考えてみることが肝要だ。

 ここは本格推理小説の人気ある仕掛けさながら、「読者への挑戦状」とするのが適切であろう。









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