ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●なんなら、奈良(奈良大学通信教育日乗)

● ドキュメンタリー映画:『越後奥三面 山に生かされた日々』(姫田忠義監督)

1984年民族文化映像研究所
145分

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新文芸坐(池袋)にて鑑賞

 民族文化映像研究所(民映研)は、姫田忠義らが 1976年に設立した、民俗学をテーマにした映画を製作する団体。
 日本列島の津々浦々に伝わる生活や民俗を撮影し、2013年に姫田が没するまでに、フィルム作品119本、ビデオ作品150本にのぼる記録映画を制作している。
 本作は、1971年に着工した奥三面ダム(2001年完成)の建設により今は水没してしまった、新潟県村上市の三面(みおもて)集落の春夏秋冬と人々の暮らしを描いている。


三面集落のあった地点を見下ろすようにメモリアルパークがある

 まるで民俗学のテキストのような作品。
 1200年の歴史をもつ山奥の孤村で、先祖代々受け継がれてきた生業(農業・林業・狩猟・採集)、衣食住、信仰伝承、年中行事、口承文芸などが、一年間のサイクルで映し出される。
 撮影スタッフは、同集落に家と畑を借り、4年間調査取材したという。
 村人たちとの深い関係が築かれたからこそ、ここまで微に入り細を穿ったありのままの暮らしが撮影できたのだろうし、また、まもなく失われていく故郷の姿を記録に残しておきたいという村人たちの悲痛な思いが映像化実現を可能にしたものと思われる。
 同じ頃にやはりダム建設で消滅した、岐阜県揖斐郡徳山村を舞台にした神山征二郎監督『ふるさと』という映画がある。

ダム

 ソルティは奈良大学通信教育において民俗学を履修したが、残念ながら、テキストや本などの活字からだけであった。
 こうして映像を通じて、古い歴史をもつ日本の山村の春夏秋冬の暮らしぶりをかいま見ることで、人々の体温や息づかいや思いに触れたように感じられた。
 本来なら、現地に直接行って、この目で見、この耳で聴いてこその、いわゆるフィールドワーク(民俗調査)あってこその民俗学なのだが、令和現在、もはや三面のように、数百年前からの暮らしぶりを保っている村落など、見つけることが叶わない。
 一年の半分を雪に閉ざされた三面は、もっとも近くの町に出るにも40kmの山越えを必要とした。
 ガラパゴス的に残った“昔の日本”だったのである。

 春になると、一家総出で川を上ってワラビを採りに行く“ワラビキャンプ”の模様をはじめ、季節ごとの仕事や行事や祭礼が興味深い。
 中でも、昨今話題となっている熊狩りの一部始終を映した部分が、驚ろきもし、今となっては非常に稀少な記録と思えた。
 そう、三面は「マタギ村」としても知られていたのである。

 村の男たちは、昔ながらのマタギ装束を身に着け、猟銃を手に、根雪の残る春まだ浅き山に入り、熊の巣穴を一つ一つ調べていく。
 それも、実際に熊が冬眠している巣穴に這いつくばって体ごと入り込んでいくのである。
 なんて危険なことを!
 と驚くけれど、マタギたちは熊の生態――冬眠中の熊は簡単には起きない――をよく知っているのだろう。
 撃ち取った熊は、全身無駄なく、様々な用途に用いられる。
 このようなマタギたちがいなくなったことが、現在の熊害(ゆうがい)につながっているのではなかろうか?

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マタギ装束を身に着けた男たち
 
 本作を観てすぐに気づくのは、登場する村人が40歳以上の中高年と女子供ばかりという点である。
 昭和の終わり頃には、20~30代の若者たちは、三面から山を越えて町に出て、2次産業・3次産業に従事していたのである。
 「あんな不便な田舎はいやだ!」
 「男尊女卑・年功序列の伝統に縛られた窮屈な社会から逃げたい!」
 「何をやるにも、人の眼や噂がつきまとう頑迷固陋な部落は嫌だ!」
 「もっといろいろな人と出会いたい!」
 「もっと広い世界を見たい!」
 「生まれた子供にもっと“いい”教育をほどこしたい!」
 当時ソルティと同年配だった若者たちの気持ちはよく分かる。
 たとえ、ダム建設の話がなくとも、三面集落は消える運命にあったのかもしれない。

 できれば、白川郷・五箇山の合掌造り集落のように、奥三面の集落もその生業や風習や年間行事と共に、文化遺産として残してほしかった。
 そう思ったけれど、ゲイであるソルティもまた、もし三面に生まれていたら、きっと村をあとにしていただろう。
 生まれ育った伝統社会の中で生きづらさを抱える人間は常にいる。
 本作には、そういった閉鎖された集落が持つマイナス面が描かれていない。
 それは民俗学でなく、社会学の仕事であろう。
 そこのところを想像で補いつつ玩味されたし。

山菜



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● ホトケの風はエーゲ海から吹く 本:『仏像の誕生』(高田修著)

1987年岩波新書刊行
2026年講談社学術文庫

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 新刊かと思ったら、40年前の本だった。
 学術書の復刊はうれしいけれど、古い本だと情報も古いままなので、書いてあることをそのまま鵜呑みにしてしまうと、とんだ勘違いをしてしまいかねない。
 この40年間の研究の進展により、情報が刷新されている可能性があるからだ。
 その点が気になったものの、巻末に現役の仏像研究者による補足説明を兼ねた解説がとくに付与されていないのは、「仏像の誕生」に関する研究の現在地が40年前とたいして変わっていないためなのだろうと思い、読むことにした。(解説のかわりに、仏像マニアとして有名なみうらじゅんの解題が載っている)
 編集サイドにおいては、学術書を復刊する際には、研究の現在地とのギャップの有無を付記してほしいものである。

 さて、仏像の誕生に関しては、いくつかの謎がある。
  1.  なぜ、お釈迦様が亡くなられてからおよそ500年以上もの間、仏像が作られなかったのか?
  2.  それが突然、紀元前後に作られるようになったのはなぜか?
  3.  最初に仏像が作られたのはどこか? いつか?
  4.  それはどういう像であったか?
  5.  紀元前後の大乗仏教の興隆と仏像の誕生との間には因果関係があるのか?
 たとえば、1の謎については、宗教学者の島田裕巳が、「インドに仏像が誕生するのはブッダが亡くなって600年以上経ってから。こんなタイムラグが生じたのは、仏像のモデルとなるブッダの存在が曖昧だったから」といった趣旨の驚くべき見解を、『ブッダは実在しない』(2015年角川新書)という著書の中で述べている。

 3の謎については、現パキスタン北西部のガンダーラ地方と現インド北部の都市マトゥラーの2つの候補地が、過去100年近くにわたり熾烈な元祖争いを続けている。
 とくにお釈迦様生誕地=仏教発祥地のインド(マトゥラー)勢にしてみれば、仏像誕生の栄誉が異国とりわけ因縁深きパキスタンにとられるのは、許しがたきところであろう。

 5の謎については個人的に興味がある。
 仏像の誕生も、大乗仏教の興隆も、紀元前後のほぼ同じ時期に起こっている。
 これは偶然ではなく、そこに何らかの因果関係があるはずと勘繰るのはむしろ自然であろう。
 「諸行無常」「無執着」「私(釈迦)ではなく法を拠り所にしなさい」というのが、お釈迦様の教えの根幹なので、本来、偶像崇拝はまったく非仏教的である。
 それを500年以上守り抜いてきた原始仏教が、在家主義で信仰祈願の要素の強い大乗仏教の大波にさらわれたとき、仏像が生まれたのではないかとソルティは考えるわけである。
 そのあたりはどうなのだろう?

 本書において著者の高田は、上記5つの謎について、これまでの主要な学説を紹介しつつ、歴史学的・美術史的・考古学的根拠に基づいて、自分なりの推理を述べている。
 文庫版で180ページにも満たない分量で、簡潔にわかりやすく、論理的かつ広い視野を持って要点をまとめあげる筆力は素晴らしい。
 復刊に値する書であると十分納得した。
 高田修(1907-2006)は、インド哲学・仏教美術を専門とし、職歴の最後は東北大学名誉教授であった。

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 以下、高田の説をポイントを絞って紹介する。

1 なぜ、お釈迦様が亡くなってからおよそ500年以上もの間、仏像が作られなかったのか?

 私は『増一阿含経』に説かれている経文にもとづき、より妥当な説明ができると考える。その文は漢訳だけにあってこれに相当する原典が伝わっていないが、この経の二カ所には次のような注目すべき文言が見出される。必要な部分だけを示すと、「如来の身は不可思議である。如来の身は造作することも、またこれを模則して長いとか短いとかいうこともできない」(巻21〈29-6〉)、また、「如来はこの世界で最も尊く、諸天(神々)の中にもこれと等しいものはなく、また像猊することもできない」(巻22〈30-3〉)とある。
 すなわち仏は造作することも、長短などを憶測する(測る)ことも、また像猊(形象化)することもできない存在である。いいかえると、滅尽してしまった仏だから再現できないというのではなく、偉大で特別な存在、神以上の神であるがゆえに、普通の人間の能力ではこれを具体的に色や形で表出することが不可能であるという意味にほかならない。

 お釈迦様があまりにも偉大過ぎて、畏れ多くて、とうてい人間業では表現できないということだろう。
 それゆえ、最初期の仏伝図においては、お釈迦様の姿は明示されず、方形の台座や樹下の仏座、傘蓋を立てた仏座、仏足跡、仏塔、菩提樹、輪宝などで象徴的に表現されたのである。

仏足跡
仏足跡

 実は、この謎は日本人にとってはあまり不思議なものではないはずである。
 というのも、日本で神像が作られ始めたのは、やっと平安時代に入ってから(9世紀初め)であり、天照大神にせよ須佐之男命にせよ、神を形象化するという発想を日本人もまた持たなかったからである。
 平安時代に神像の制作が始まったのも、先に仏像というモデルがあり、神仏習合という思想が起こったればこそ。
 ゼウスやアポロやヴィーナスはじめ、神像をバンバン作った古代ギリシア・ローマ人と日本人とでは、(おなじ多神教文化であっても)感性が異なるのだ。

男女神坐像
平安時代の男女神坐像
(奈良国立博物館・仏像館)

2 仏像が突然、紀元前後に作られるようになったのはなぜか?
 高田はその原因をガンダーラ地方へのギリシア・ローマ文化の伝播に帰している。
 すなわち、神像を作ることになんの抵抗も持たないギリシア・ローマ出身の彫工たちの存在である。

 最初期の仏伝図に見られる主役の仏の現われ方はきわめて自然で、そこにいささかのためらいとか抵抗とかがあったような形跡はない。これはガンダーラ美術が仏像不表現に固執した古代初期の中インド仏教美術とは無関係に発生してきたことを示すもので、同時に当地方で制作に当たった最初期の彫工たちの立場とも密接に関連したからに相違ない。すなわち西方的な文化基盤を持ち、中インドの先例を全く知らない彼ら彫工たちが、仏伝図の主役を描くのに、果して思想的あるいは技法的に何らかの抵抗を覚えたであろうか。神々を擬人的に考え、人間の姿に表現し慣れてきたギリシア系美術の伝統からすれば、たとえ超人的で偉大な存在の仏であると教えられたとしても、これを仏伝図に登場する主役の人物として表現するのに何のはばかるところもなかったのではないか。

 そうして、これまで仏座や菩提樹などで象徴的にしか表現されなかったお釈迦様が、人間の姿として表されるようになった。
 つまり、仏像の誕生である。

3 最初に仏像が作られたのはどこか? いつか?
 上記の見解が示唆するように、高田はギリシア・ローマ文化の洗礼を受けたガンダーラ地方を仏像誕生の地と想定しており、仏伝図から単独仏像への流れを次のように記している。

 この美術(ソルティ注:ガンダーラ美術)がもっぱら仏教に奉仕する美術としてスタートするのは、仏教建造物の荘厳に仏伝図を扱い始めてからであり、まず主役の仏がごく自然な姿で仏伝図のなかに登場し、やがてその主役だけが強調されて大きく表現されるようになる。・・・・(略)・・・・。単独の仏像は仏伝図におけるこのような主役強調の段階からさらに進んで、その主役である仏だけを独立させ、礼拝供養のための像としたもので、ここに偶像崇拝の対象である仏の像が成立したことを意味する。

 高田は、ガンダーラにおける仏伝図の中の仏像の登場を紀元1世紀末期、単独仏像の出現を紀元2世紀前半と推定している。
 一方、マトゥラーの仏像の出現を紀元2世紀初期とし、ガンダーラで仏が形象化されたという事実がマトゥラーに伝わって、マトゥラーでもとより栄えていた仏教文化に影響を及ぼしたものとみている。

 マトゥラーの仏の出現を促したのは、仏像不表現の殻がすでにガンダーラで破られたというその事実の情報であったという以外には考えられない。すなわちマトゥラーの仏教徒はこの事実を伝聞することによっていち早く反応し、独自の手法になる仏の像表現に踏切るに至ったと推定される。

4 それはどういう像であったか?
 ガンダーラとマトゥラーとでは違いがある。

ギリシア・ローマ風の写実的な手法により、インドの生んだ仏教の主題や思想を表現した美術であり、東西文化の交流によって生まれた混血の美術

なので、その像は古代ギリシア・ローマ彫像によく似た作風である。ぶっちゃけて言えば、欧米人っぽい。
 一方、マトゥラーの仏像は、

インド固有の古い伝統的な手法になる純インド様式のもの

で、インド人っぽい。
 詳細に比較すれば、相好や衣の表現などにさまざまな違いが指摘できるのだが、ソルティ思うに、衣の表現が薄く体の線が強調され、よりエロティックなのがマトゥラー仏の特徴の一つではなかろうか。
 温暖な地中海性気候のギリシア・ローマと、暑季には45℃を超えるインドの気候の差の反映と言えよう。

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ガンダーラ・ブッダ
(東京国立博物館蔵)

5 紀元前後の大乗仏教の興隆と仏像の誕生とには因果関係があるのか?

 ガンダーラにおける造像のはじまりに対し、大乗教徒の関与があったらしい徴証はなく、また一方、当地方で部派仏教とくに有部の仏教が優勢であったにしても、その実在論的な仏教思想が仏像の起源に積極的な根拠を与えたとも断言できないであろう。

 大乗仏教がマトゥラー仏の出現に関与したと見られるような証跡はどこにも求められないのである。それよりも見逃せないのは、マトゥラーにおける造像の初期に、新たに表出された仏の形像が、抵抗もなく容易に仏教徒によって受容されている事実でなければならない。

 どうやら、「大乗仏教の興隆=仏像の誕生」というわけではないらしい。
 むしろ銘記すべきは、大乗と小乗の別なく、出家集団でなく在家信者らこそが、お釈迦様の形象化を望み、喜んだという点ではなかろうか。
 世界中どこであっても、偶像崇拝は大衆の常である。

 ただし、大乗仏教の興隆と拡大が、仏像の多様化と量産を促進したのは間違いない。
 それは、日本の仏像事情を見ても明らかで、日本のお寺で、根本教祖たるお釈迦様の像(釈迦如来像)が本尊として祀られているのを見ることは非常に稀で、阿弥陀如来や薬師如来や観音菩薩が圧倒的に多い。
 逆に、テーラワーダ仏教(旧小乗仏教)国のタイやミャンマーやスリランカでは、仏像と言えば釈迦如来像である。

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釈迦如来像
(東京深大寺)

 日本の仏像は、ガンダーラ系仏像がシルクロードに乗って中国に到来し、同地で中華的変容を遂げたあと、朝鮮半島を経由し、6世紀前半に百済からもたらされた。
 すなわち、ギリシア・ローマ・西アジア・インド・中国・朝鮮の味が混じり合った“多国籍仏”として到来したということになる。
 そこに和風が加わっていったわけだから、仏像最終変態形と言ってもよいだろう。
 面白いのもあたりまえ。
 仏像を観れば世界が見える。



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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● なんなら、奈良33(奈良大学通信教育日乗) 和歌の霊力

 現在、歴史文学論に取り組んでいる。
 テキストは浅田徹著『和歌と暮らした日本人』(淡交社)。
 一般向けに書かれた教養本なので、文字が大きく、小口も薄く(180ページほど)、文章も平易で読みやすい。
 初学者が和歌の世界について知るには恰好の本である。
 これまでに履修した科目のテキストの中で、一番ラクに、楽しく読めた。

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 提出レポートもまた、サブテキストの『学習指導書』に課題文が載せられ、考察すべきポイントやレポートのまとめ方について、懇切丁寧に記してある。
 その指導に従ってレポートを作成すればいいので、これも比較的ラクに、迷いなく書き上げることができた。(『考古学概論』のレポート作成時とは対照的←注:新しい『学習指導書』では設題が一部変更されている)
 ソルティはもともと和歌は好きなほうなので、取り組みやすかった。
 先日、レポート合格通知を手にした 

 いまは、科目試験のための答案を作成しているところである。
 この4月から出題範囲が5題から10題に増えたが、思った以上にたいへん。
 「テキストもレポートも、易しくてラッキー!」と思っていたら、そうは問屋がおろさなかった。
 というのも、「楽に読めるテキスト=内容が軽い」ので、テキストだけでは答案を作成することができないのである。
 1~10番まで10個の課題ごとに、テキスト以外の関連本を探し出して、読んで、設題の意図に添った和歌の具体例を見つけて、まとめなければならない。
 やっと8番の『武士にとって歌とはどのようなものか』までたどりついたが、ここまでにいったい何冊の本を借りたことか!
 やっぱり、どの科目も一筋縄ではいかない。

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 先日、日比谷図書文化館に行ったら、『古今和歌集と伊勢物語』と題する展示の案内チラシ(上記)を見つけた。
 千代田区神田にある天理ギャラリーで、平安末期から江戸時代までの『古今和歌集』と『伊勢物語』の写本(古典籍)が展示されているという。
 主催は奈良の天理大学附属天理図書館。
 文化財学購読Ⅱのスクーリングで天理参考館にお邪魔したので、親しみを感じる。 

天理参考館

 『古今和歌集』と言ったら、和歌のバイブルである。
 和歌について学ぶ者は、『古今和歌集』を避けて通れない。
 とくに、紀貫之が書いた序文(仮名序と言う)が有名である。

力を入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をもやはらげ、たけき武士の心をも慰むるは歌なり

 和歌には、天地や神仏の心を動かし、人の感情を和らげる不思議な力がある、という。
 ここはひとつ、『古今和歌集』の写本に接して、和歌の霊力をこの身に充填し、答案作成を一気に乗り切ろうと思い、神田に足を運んだ。

外堀通り
外堀通り
地下鉄淡路町駅下車、徒歩3分

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天理ギャラリーのある東京天理ビル
ギャラリー内は撮影禁止だった

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 藤原俊成筆の『古今和歌集』写、藤原定家筆の『伊勢集』写、寛政の改革を行った松平定信筆の『小野小町集』写――定信の重箱の隅をつつくような几帳面な性格がうかがえる細かさ!――など、平安末期から江戸時代までの写本が40点近く展示されていて、なかなか見ごたえあった。
 また、書誌学で習った日本の古典籍の装訂の歴史の復習にもなった。
 上記画像は、三十六歌仙のひとり、平安時代初期の歌人・伊勢。(トーハク開催中「アイルランド チェスター・ビーティー コレクション」に出展の絵巻より)

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天理参考館発行のパンフレット類
世界各地の民俗資料、考古資料のコレクションは一見の価値あり!

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最寄りの「ゆで太郎」で腹ごなし

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幸せとはかき揚げの最初のひと齧り

 午後から日比谷図書文化館で、記念講演『校訂と注釈―古典学の断面―』があった。
 院政期と戦国期における『古今和歌集』の写本に関する話という。
 講師は、慶應義塾大学文学部教授の小川剛生(たけお)氏。中世文学・和歌文学を専門としている。
 内容的に小難しそうな感じはしたが、答案作成の参考になればと思い、参加した。
 

 参加者100名以上いただろうか。
 各人がどういった動機から参加しているのかは分からないが、実社会ではほとんど役に立たない、こんなトリビアなテーマに関心を持ち、休日の午後を当てる人が少なくないことに驚いた。
 天理教関係の人が多かったのか?
 それとも、現在進行形で国文学を教え、学んでいる人たち?
 自分がその中にいるのが不思議な気がした。
 それもこれも、奈良大学通信教育学部に入学したからこそである。

 思えばこの一年半あまり、これまで行ったことのなかった文化施設に足を運んだり、人生初のイベントに参加したり、初体験がずいぶんあった。
 新たな扉を開いて、未知の世界に足を踏み入れた。
 通学組ではない通信教育組だからこそ、レポートや答案作成のためのネタを求めて、アンテナを張って、少しでも参考になりそうなものはないかと、感度を研ぎ澄ますことができているのかもしれない。
 分かりやすいところでは、図書館はじめ公共施設に貼ってあるポスターやチラシを意識的にチェックするようになった。

 つくづく思ったが、日常の中に学びの場ってたくさんある。
 とりわけ、都心に住んでいる人間は、官民問わず無料あるいは低価格で利用できる文化施設が非常に多いし、週末ごとに様々な文化イベントがどこかで打たれているので、その気さえあれば、スケジュールがすぐに埋まってしまう。
 どこに行くにもアクセスが良い。
 Wifiの利用できるカフェや図書館もいっぱいある。
 文化的にたいへん恵まれている。
 地方在住の学生諸君にはなんだか申し訳ない。

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日比谷公園内の埴輪

 講演内容は(ソルティには)ちょっと高度であった。
 腹の満ち足りた昼下がり、眠り込まないよう、手にしていたシャーペンを太ももに何度も突き刺した(ウチョ)。
 気を抜くと、スクリーンに映されている『古今和歌集』写本の墨で書かれた仮名文字が、うねうねとミミズのように動き出す。
 視線を落として、手元のチラシの講師プロフィールに目をやって、びっくらこいた。
 小川剛生氏は、『武士はなぜ歌を詠むか 鎌倉将軍から戦国大名まで』という本を書いている。
 それこそ、現在ソルティが悪戦苦闘している歴史文学論の設題8番「武士にとって歌とはどのようなものであったか」のテーマ、そのものずばりではないか!(あとで気づいたが、テキスト『和歌と暮らした日本人』の巻末の参考文献に上がっていた)
 講演終了後、さっそく日比谷図書館に寄って、本を借りた。
 やはり、和歌の力はあなどれない。

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角川学芸出版、2008年発行









● なんなら、奈良32(奈良大学通信教育日乗) 日本史の復習

 文化財学購読Ⅱのスクーリングで藤原京の広大な跡地に立った時、「こりゃあ、日本史をやり直さないといかん」と痛感した。
 古代史における藤原京の占める比重が、知らないうちに爆上がりしていた。

藤原京跡
藤原京跡
右手に耳成山を望む

 考えてみれば、40年以上前の大学入試で日本史を勉強して以降、日本史を学ぶ機会を持たなかった。
 時代劇や戦国物のドラマやゲームには関心なかったし、NHK大河ドラマも初回から最終回まで通して視聴したのは、佐久間良子がねねを、西田敏行が秀吉を演じた1981年『おんな太閤記』が最後で、それ以降は追っていなかった。(2022年『鎌倉殿の13人』からは毎回視聴している)
 ある時代の特定のテーマについて、あるいは特定の人物について、興味を持ち歴史関連本を読むことはあったが、日本史を通して復習することはなかった。
 そのため、この40年間で日本史教科書の記述がずいぶん変化していることに疎かった。
 当然、新たな発見や研究成果によって、40年前に身につけた知識は古くなっていたのである。
 一番驚いたのは、鎌倉幕府の成立年が1192年から1185年に変わっていたことだろうか。

源頼朝肖像

 これでは、せっかく奈良大学で過去の文化財や文学や出来事について学んでも、新しい酒を古い革袋に入れるがごとく、とんだ勘違いをしかねない。
 とり急ぎ、大きく変わった点についてのみ、吉川弘文館発行『ここまで変わった日本史教科書』でさらった。

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秩父武甲山

 このゴールデンウィークは秩父でリトリートした。
 毎度の読書や瞑想や散策に加え、一日のうち数時間を日本史の復習に当てようと思い、受験生時代にお世話になった山川出版の日本史教科書を購入し、持って行った。
 社会人のためにとくに編纂された2017年発行のテキストである。
 ただ読むだけではなかなか身につかないと思い、簡単な入試用の問題集も用意した。
 頭にハチマキの受験生に戻った気分で机に向かい、疲れたら初夏の秩父を歩いて、目と頭を休ませた。

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 たしかに、いろいろ変わっていた。
 隔世の感ってやつ。
 が、むしろ、忘れてしまったことのあまりの多さにあきれた。
 とくにソルティの場合、鎌倉時代の後半あたりからの記憶がおぼろで、楠木正成がどういう人物か、応仁の乱の原因は何だったか、江戸時代の三大改革は何か、明治以降の主な首相の名前と事績など、イチから学び直すことばかりであった。
 これで文化財歴史学科の学生とは、お恥ずかしい・・・・。

 一般に、社会人学生が現役の学生にかなわないところは、まさにこの点であろう。
 現役学生諸君は、高校の授業と受験勉強で学習したばかりの最先端の知識を土壌にして、大学ではそこに新たな種を捲けるのだから。
 WINDOWSだってヴァージョンアップしなければ、新しいソフトは読み込めない。
 40年前のOSではどうしようもない。
 
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 今回新たな目で日本史教科書を読んで、ハタと気づいたことがあった。
 40年前の学生時代は、日本史を「自分とは関係ない“他人事”」のように読んでいた。
 今現在(10代の)自分がいる地点=昭和50年代の日本と、そこで習っている過去数千年の日本の歴史とが、断絶している二つのもののように見えていた。
 それはおそらく、歴史の勉強を“試験のために”仕方なくやっている――人名や年号などを暗記するのが最優先――というスタンスだったためだろう。
 “現在”との関係で歴史を見るという学び方ができなかったのだ。 

 が、理由はそれだけではない。
 自分のいる昭和50年代の日本が、“出来あがった社会”に思えていた。
 平和で、豊かで、治安が良くて、大人たちはみな懸命に働き、子供たちはみな学校で学び、おおむね判で押したような規則正しい一日や一年が繰り返され、学校卒業後の人生のルートも生まれや学歴であらかた決まってしまうように思えた。
 空前の景気に日本中が浮かれたバブルの頃などは、リッチでイケイケの日本がこのまま永遠に続くものと思われた。
 ロッキード事件やリクルート事件に代表されるような政財界の腐敗や自民党内の派閥争いはあるものの、日本史の授業で学ぶような大きな内乱や対外戦争や極端な貧困や差別や独裁政権はすでに文字通り過去の話で、ある種の“達成”が果たされた地点に自分たちがいるものと感じられた。

 その思いに拍車をかけたのが、1989年に起こったベルリンの壁崩壊や中国天安門事件、91年のソ連解体とそれに続いて起こった東欧社会主義国の民主化である。
 それは、自由主義経済と国民主権を楯の両面とする「リベラルな民主主義」の勝利宣言と映った。
 いわゆる、歴史は終わった

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 それが間違いであったことを、2000年以降の国内および国外の状況は知らしめている。
 金一族の独裁下にある北朝鮮はともかくとして、誰が、現在の中国やロシアやイスラエルやアメリカ!の姿を思い描けただろうか。
 誰が、西欧諸国のナショナリズム(自国ファースト)と排外主義の高まりを予知しえただろうか。
 誰が、憲法9条や基本的人権の改悪を臆面もなく訴えるリーダーを、日本国民の多くが支持する日が来ることを予想し得ただろうか!
 “歴史の終わり”など幻想もいいところだった。
 それをして「お花畑に住んでいた」と言うなら、まさにその通りであろう。

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 今回、日本史の教科書を読んでいて最もヴィヴィッドに感じたのは、明治維新による近代化からアジア・太平洋戦争に至るまでの歴史の流れが、敗戦後のGHQによる民主化(日本改造)から令和現在に至るまでの流れと、よく似ている点であった。
 外圧による徹底的な欧化の洗礼を受けて、国を挙げて「脱亜入欧」に取り組んできた日本。
 変わり身の早さと言えば聞こえはいいが、あたかも過剰適応したアダルトチルドレンのように欧米に追従し、どこかに無理が蓄積されていた。
 そのバックラッシュとしての国粋主義の高まりが、やがて社会全体の右傾化へとつながっていく。
 この流れが、明治維新後と太平洋戦争後とで二重写しのように思われたのである。
 すなわち、
  • 黒船=マッカーサー
  • 近代化=民主化
  • 列強の仲間入り=GNP2位の経済大国への成長
  • 第1次世界大戦後の好景気=バブル景気
  • 大正デモクラシー=フェミニズムをはじめとするマイノリティ運動
  • 1920年代の金融恐慌=バブル崩壊からの不況
というように。
 いまはちょうど、国外では国際連盟成立後の国際協調が行き詰まりを見せ、国内では政党内閣にかげりが見え始める頃合い、昭和初め頃の空気感だろうか。
 いみじくもタモリが「新しい戦前」と言ったのも頷ける。
 歴史は繰り返す。 

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 昭和6年、“軍部の独走”による柳条事件(かつて柳条事件と習った)が勃発、満州事変へと拡大し、2・26事件を経て、日本は日中戦争の泥沼へとはまり込んでいく。
 この“軍部の独走”というのが、40年前に近現代史を習った時の決まり文句だった。
 独走する軍部をだれも止められなかった。悪いのは軍部だ、と。
 しかるに、最新の教科書では次のような記述がほどこされていた。

かねてから“満蒙の危機”を国民に強くうったえていた多くの有力新聞は、満州事変がおこるといっせいに日本軍の行動をたたえる記事や写真で紙面をうめつくした。このようなジャーナリズムの活動をつうじて、満州事変における軍事行動を全面的に支持する熱狂的な世論がつくりだされた。若槻内閣の不拡大方針は失敗し、軍部をおさえることができないまま、1931(昭和6)年12月、内閣総辞職に追いこまれた。(P.321)

 軍部の独走は確かにあったが、政府はそれをおさえ込もうとしていた。
 それができなかったのは、好戦的なマスメディアのキャンペーンであり、それに乗せられた圧倒的な国民の声だったのである。
 大正14年に成立した普通選挙法(25歳以上の男子すべてに選挙権を付与)により、時の内閣を選ぶ権利が国民に存した以上、戦争責任の大半は国民にあったと言うべきだろう。
 そこもまた、令和の現在と変わりない。
 ソルティが、現首相の支持率70%というマスコミ報道を憂慮せざるを得ない所以である。

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● 伊藤若冲「動植綵絵」 PART2 @トーハク

 前回の15幅に続き、残り15幅を観に行った。
 大型連休中とは言え、平日だったので、ゆっくり観ることができた。

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東京国立博物館 表慶館

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今回は外国人客が目立った。
そもそも、いまの若冲人気の立役者は、日本人ではなく、アメリカの美術収集家ジョー・D・プライス(1929ー2023)。2006年に東京国立博物館で開催された『プライスコレクション「若冲と江戸絵画」展』で人気に火がついた。

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Phoenix(フェニックス)=不死鳥

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手塚治虫の“火の鳥”を想起させる色っぽさ

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スズメたちの語らいが聞こえてくる

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コイ科のオイカワと思われる。
ヤマベ、ハエなどとも呼ばれる。
色描写の見事さ!

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タケノコ貝の一種か?
若冲の絵には風変わりな生き物が散見する。

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謎の水中生物
AIの見立てでは、古生代カンブリア紀に生息していたハルキゲニア。
But,若冲がそれを知っていたとは想像つかない。
一体、どこからモデルを得たのだろう?

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続いて本館へ

 現在、アイルランドのチェスター・ビーティー卿(1875–1968)の膨大なコレクションの中から、選りすぐりの日本の物語絵25点を特別展示中(~7/20)。
 絵巻物好きにはたまらない逸品ぞろいである。

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『竹取物語』の一コマ(17世紀、紙本着色)
お婆さん、若い!
翁が鎌でなく刀剣持っているのも、いとをかし。 

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『源氏物語』より、若紫発見シーン(17世紀、紙本着色)
少女を垣間見(覗き見)している光源氏。
このあと自宅へ拉致し、妾にする。
清水の舞台みたいな邸が愉しい。

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『平家物語』より「富士川の戦い」
鳥のはばたきを敵来襲と勘違いして逃げ惑う平家方の武者たち。

どの絵も保管状態が良く、色あざやか。
日本から流出したおかげで戦災を免れたか。

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伊藤若冲筆『乗興舟』(江戸時代)
若冲は晩年、相国寺の僧・大典顕常とともに京都から大坂まで淀川下りをした。
その楽しい思い出を共作でかたちにした版画巻。
やっぱり、2人はLOVELOVEだったんだろう。

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大典が詩文を書いた

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終点の天満橋に「若冲」の落款あり

トーハク庭

 トーハクは広い庭もあって、緑も多い。
 弁当持って一日過ごせる。
 来るたびに発見がある。
 還暦にして博物館の愉しさに目覚めた。

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聖徳太子16歳像(鎌倉時代、木造)














● 若冲・永徳・運慶・隠れキリシタン@トーハク

 皇居三の丸尚蔵館は、皇室で代々受け継がれてきた絵画・書・工芸品・歴史資料などを収蔵する美術館。
 今秋リニューアルオープンする。
 そのプレイベントとして、現在、トーハク(東京国立博物館)表慶館にて、高精細複製された伊藤若冲『動植綵絵』と狩野永徳『唐獅子図屏風』が公開されている。
 いずれも三の丸尚蔵館にあるオリジナルを、(株)キャノン・京都文化協会・文化財活用センターの協力が生んだ最新技術と伝統技術の融合によって、忠実に再現したものである。
 古い映画のデジタルリマスターみたいなものか?
 技術的なことはよく分からないが、本物そっくりの作品を間近でじっくり観られるらしい。
 小雨降る平日、上野駅に降り立った。

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東京国立博物館・表慶館
実はここに入るのははじめて。
京都国立博物館旧本館と同じ片山東熊による設計。

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平常展観覧料(一般1000円)のみで鑑賞できる。
ソルティは顔パス、じゃなくて学生メンバーズパス(年会費1200円)で入館。
(すでに元はじゅうぶん取った)

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4/17~5/17まで開催
『動植綵絵』は全部で30点。
うち15点が展示されていた。
入替後の後期(5/2~)にまた行きたいが、大混雑の予感がする。
ガラスケースがないので、30cmの至近距離で絵を見ることができる。
撮影も可。

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伊藤若冲(1716~1800)と言えば鶏。
色彩と構図がもたらす迫力が凄い!

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近寄ってさらにびっくり!
ほとんど細密画の世界。
若冲はおそらくサヴァン症候群だったろう。

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雌雄でなくオス同士のつがい。
若冲と相国寺禅僧・大典顕常の生涯続いた親密な関係を匂わせる。
そもそも『動植綵絵』は相国寺に寄進する目的で描かれた。

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セルフポートレートで有名な芸術家の森村泰昌が、この絵は男色の隠喩であると言っていた。
たしかに菊の花は古来男色の象徴である。
2つの青い岩が男根sなのだという。

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若冲の「白」はあでやか。
会場には高精細複製技術の概要を伝える映像が流れていた。
高性能カメラによる撮影+コンピュータ解析と目視による色合わせ+世界最高レベルの印刷技術(基底材は絹)、そこに古来よりの金箔・金泥や表装の伝統技術が加わる。
筆使いはもちろん、絵の具だまりすら再現する複製技術に驚嘆した。

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孔雀の羽の模様部分に金泥が塗られている。

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桃とオオルリ

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菊とスズメ

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雪の中のサザンカ

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芍薬にとまるアオスジアゲハ

唐獅子屏風
狩野永徳『唐獅子図屏風』
223.6cm × 451.8cm
信長や秀吉に重用された永徳(1543~90)の代表作。

 国宝2点をたっぷり堪能したあとは本館1Fへ。
 ここで、なんとびっくり!
 足利・光得寺の厨子入り大日如来が展示されていた!
 運慶作と言われる国内の仏像のうち、ソルティが観ていなかった最後の2体のうち1体である。(残り1体は神奈川・称名寺の大威徳明王像)
 保全のため光得寺から東博に移されていることは聞きかじっていたけれど、まさかこんなタイミングでなんら苦労なしに出会えるとは思わなかった。
 トーハクさんってば味なことする。

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北条政子の妹婿であった足利義兼が運慶に依頼したとされる。
樺崎寺に納められた大日如来像(現在半蔵門ミュージアムにある)と同時期につくられ、こちらは義兼が身近に置いて拝んだものと推測されている。
明治期の廃仏毀釈以前に光得寺の所蔵となった。

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言われてみれば(笑)、ハリのある頬の具合や、智拳印に組んだ両腕と胸郭とが生み出す空間の感じが、半蔵門の大日如来とも、奈良・円城寺の大日如来とも、よく似ている。
重要文化財にとどまっているのは、あとから金箔を押したからだろう。
このときソルティの周囲は外国人ばかり。
誰も足を止めないのが珍妙。
「運慶だよ、運慶!」

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和歌山・道成寺の毘沙門天像(平安前期)
どっしりした勇壮感のうちにも軽みを備える見事な造形。
道成寺って、たしか安珍・清姫の物語で有名な・・・・。

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康円作『渡海文殊菩薩群像』
安倍文珠院の快慶作のものとくらべると迫力負けするが、各像の表情は人間っぽくて趣きがある。

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 驚くのはまだ早かった。
 フロアを順路通りに進んでいくと、本館4室で「隠れキリシタン」関係資料の展示をおこなっていた。
 ソルティは最近、『カクレキリシタンの実像』と題する本を読んだばかり。
 なんというタイミング!
 トーハクさん、ソルティの心を見抜いてますね。
 今回展示されているのは、江戸幕府による禁教令が発布されたあとに、長崎奉行所が取締りの際に信徒から押収した品々。
 明治以降、これらは長崎県に引き継がれたが、取り扱いに困った長崎県が国に引き取ってもらい、その後、内務省社寺局を経てトーハクに収蔵された。

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イエス・キリスト像

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聖母子像の踏絵(真鍮製)
目鼻がすっかり摩滅している。
いったい何千回踏まれたことか?

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観音菩薩立像(17世紀中国製)
浦上村の潜伏キリシタンだった吉蔵が所持していた白磁製の観音像。
「ハンタマルヤ(サンタマリア)」と呼ばれ信仰されていた。

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いったいに観音菩薩像をマリア像の代わりに拝んでいたようだ。

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寿星立像(中国、磁製)
寿命をつかさどる寿星の化身。
寿星とは竜骨座のアルファ星カノープスのこと。
日本では七福神の中の「寿老人」として知られている。
天草で押収された寿星像は「丸やさま」と呼ばれていたという。

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守裂(スカプラリオ)と呼ばれる携帯用のお守り。
聖母マリアや聖人などの図柄が刷られた2枚の布を紐でつなぎ、胸と背中に当たるようにして首からかけた。

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聖母像(親指のマリア)
17世紀にイタリアで制作されたもの。
イタリア人宣教師ジョバンニ・バッティスタ・シドッチ(1667~1714)が持参したもの。
宝永5年(1708)、シドッチは屋久島に上陸し、間もなく薩摩藩に捕らえられた。江戸に送られ、新井白石の取り調べを受けたのち、殉教した。
名の由来は、マントから親指だけが覗いているからであろう。

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上野駅そばや
約2時間の鑑賞
上野駅構内で天ぷらそばを食べて、身も心も満足した。

























 

● なんなら、奈良31(奈良大学通信教育日乗) 祝!卒論提出資格

 3月中旬に受けた「文化財修復学」のスクーリングと「考古学概論」の試験結果が届いた。
 どちらも無事合格、ホッとした。
 とくに、「考古学概論」はなかなか苦労したので、これで手を離れると思うと、胸の土層から遺物が取り除かれる思い(笑)
 なにより重要なのは、これで卒業論文を書く資格が得られたことである。

 大学から送られてきた「ハンドブック」によれば、卒論を提出するためには、最低限、次の単位を修得する必要がある。
  1.  これまでに76単位以上を修得している。(3年次編入生は入学後12単位以上)
  2.  文化財学(or 史学)講読Ⅰを修得している。
  3.  文化財学(or 史学)演習ⅠあるいはⅡを修得している。
  4.  概論5科目のうち、2科目以上を修得している。
 2024年10月1日入学のソルティの場合、3年次が修了した時点(2025年9月30日)で上記それぞれについて、
  1.  80単位修得
    入学時に修得 64単位
    3年次に修得 16単位(7科目)
             計 80単位
  2.  3年次に文化財学購読Ⅰを修得(テキスト科目)
  3.  3年次に文化財学演習Ⅰを修得(スクーリング科目)
  4.  3年次に美術史概論を修得(テキスト科目)
 1~3は3年次終了時点ですでにクリアしたので、今回の「考古学概論」修得により4の条件も満たし、次の履修登録(本年9月)で卒業論文を登録し、合わせて卒業論文計画を提出することに相成ったわけである。
 ソルティは最初から3年計画で卒論を仕上げる心づもりでいたが、3年次編入生で最短2年で卒業したい人は、6400字のレポートが課せられる概論を3年次に2つ以上修得しなければならないのだから、大変である。
 ネットの体験談ブログを読んでいると、仕事をしながら2年間で卒業したという人もいるようで、ほんとに優秀だと思う。

 4年次に入ってからは、ここまでに2つのテキスト科目(「書誌学」、「考古学概論」)と3つのスクーリング科目(「考古学特殊講義」、「文化財学演習Ⅱ」、「文化財修復学」)を修得している。
 つまり、入学してからここまで(4/10現在)で、計28単位(+64単位)を修得。
 卒業に必要な単位は60単位(+64単位)なので、約半分達成ということになる。

 ソルティは、卒論合格後もしばらくは奈良大学に籍を置き、いろいろ学びたいと思っている(万年学生プラン適用)ので、ここからちょっと学科のほうはペースダウンするつもり。
 夏の終わりまでには卒業論文のテーマを決めなければならないし、来年はそれこそ卒論に全力投入することになるだろう。 
 この夏は、いろいろな所に行って、いろいろなイベントに参加して、いろいろな本を読んで、「これだ!」と思うテーマが下りてくるのを待つ。

 道半ばなれど、とりあえずワインでKP!
 
 

● なんなら、奈良30(奈良大学通信教育日乗) 大和古道の旅人

 2泊3日のスクーリングを終えたあと、天理にある奈良健康ランドに泊まった。
 入館料大人2200円のところ、60歳以上と学生は1320円である!(深夜料金は別途1650円)
 受付で嬉々として学生証を提示したけれど、あとから気づいたがシニアでよかった(笑)

 これまでこの施設に行くときは、JR郡山駅(豊臣秀長のお城がある町)か近鉄平端駅発着の無料送迎バスを利用していた。今回も平端駅からの送迎バスで入店した。
 が、調べてみたら近鉄二階堂駅から歩いて15分の距離にあった。
 バスの発車時刻に合わせて行動しなくてもよいのであった。
 露天風呂やヒノキ風呂や薬草風呂やサウナを満喫し、広い休憩スペースのリクライニングチェアですっかりくつろいだ翌朝、二階堂駅へ向けて出発した。

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奈良健康ランド

 二階堂駅まではほぼまっすぐの一本道。
 これがなんと由緒ある道、すなわち大和古道だったのである!

 大和古道とは、日本の古代道路のうち、大和国内に設置されたもの。
 奈良盆地の中央より東側を南北に平行して伸びる三本の縦貫道、つまり、平城京(現・奈良市)と藤原京(現・橿原市)をつなぐ幹線道路で、東側より順に、上ツ道(かみつみち)、中ツ道(なかつみち)、下ツ道(しもつみち)と呼ぶ。
 三道は、ほぼ4里(約2120m)の等間隔をなしており、現在でも形跡が残っている箇所も存在する。

大和の古道2
大和古道
文化財学購読Ⅱ
のスクーリング時に奈良文化研究所・藤原京跡資料室で撮影した資料

 上ツ道は、桜井市から奈良盆地東端の山沿い(山辺の道近く)を北上して、天理市を経て奈良市中部(猿沢池)に至る。
 中ツ道は、橿原市の天香具山北麓から奈良市北之庄町に至る。南は藤原京の東京極をなし、北は平城京の東京極をなしていた。
 下ツ道は、藤原京の西京極から、奈良盆地の中央を北上し、平城京の朱雀大路につながる。橿原市から天理市にかけては、現在の国道24号とおおむね合致・平行する。
 奈良健康ランドから近鉄二階堂駅に向かう道は、下ツ道の一部だったのである。

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敷設年代は、7世紀半ば頃と推定されている。

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 『日本書紀』に壬申の乱の時に武士が通ったとある。
 奈良の寺社詣、伊勢、吉野、高野山参りの信仰遊山の道でもあった。
 710年に藤原京から平城京に遷るときは、元明天皇はじめ貴族や役人や僧侶たちはこの道を通ったに違いない。

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地蔵堂
 ここに膳夫姫(かしわでひめ)ゆかりの膳夫寺があったという。
 膳夫姫と聞いてピンとくる人は、相当の古代史通あるいは仏像通あるいは漫画通である。
 法隆寺金堂の釈迦三尊像は、聖徳太子とその后である膳夫姫の追善供養のために鞍作止利がつくったものである。
 また、山岸涼子作『日出処の天子』には、蘇我毛人にふられた聖徳太子が自暴自棄になって、知的障害のある膳夫姫を妻とするエピソードが創作されている。
 二階堂という地名は、膳夫寺のお堂が二階造りに似ていたことに由来すると言う。


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二階堂駅へ続く道沿いには古風で洒落たつくりの家々が並び、いまも古道の風情を醸している。

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二階堂駅
近鉄二階堂駅

 奈良の奥深さ、奈良旅の面白さを感じた朝であった。








● 桜井のハリウッド

 スクーリング翌日は休みをとって、寺社めぐりするのが恒例となっている。
 月曜日なのでどこも空いていて、ゆっくり見物することができる。(ただし博物館系は定休日である)
 今回は、聖林寺の十一面観音菩薩像と安倍文珠院の快慶作・渡海文殊群像を拝観することにした。
 どちらも、JR桜井駅から自転車で回れる距離にある。

10:30 JR桜井駅
     自転車レンタル
10:45 崇峻天皇陵
11:00 聖林寺(40分滞在)
12:00 安倍文珠院(40分滞在)
12:50 安倍の山城跡と土舞台
13:10 JR桜井駅
     自転車返却

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JR桜井駅
奈良から天理・三輪・畝傍を通って大和高田に至るJR桜井線は、山の辺の道沿いに走って、桜井駅で90度右転回し、藤原京跡を横断する。車窓からは、大小の古墳や寺社や三輪山や大和三山が眺められ、いにしえから変わらぬのどかな光景が広がる。古代史好きにはたまらない聖地列車である。

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電動自転車をレンタルした「ザ・トリシクル 輪」
桜井駅徒歩4分。3時間借りて1500円だった。

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談山神社の第一鳥居
藤原鎌足を祀る神社で、木造の十三重塔で有名。
やや離れているので今回は行かなかった。

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談山神社に向かう多武峰(とうのみね)街道の途中に崇峻天皇陵がある。
入口が分かりづらい。

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崇峻天皇(553?~592)
あまり知られていないが、歴史上唯一、臣下(東漢駒)に暗殺された天皇である。黒幕は蘇我馬子で、事件後、馬子の姪である額田部皇女が推古天皇として即位した。山岸涼子のコミック『日出処の天子』では、馬子と聖徳太子と額田部皇女の3者による謀殺説がとられている。

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陵の近くには崇峻天皇の営んだ倉橋柴垣宮跡がある。
飛鳥からずいぶん離れた山間である。
蘇我氏から距離を置きたかったあらわれだろうか。

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駅方向に少し戻ると聖林寺が見えてくる。
清らかな森に抱かれた風情は、まさにその名の通り、
ハリウッド・テンポー(Holly Wood Temple)。

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聖林寺
和銅5年(712)藤原鎌足の長男・定慧が創建。
もとは天台宗の寺だったと思われるが、江戸時代に真言宗の律院となった。

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境内からは三輪山と箸墓古墳(卑弥呼の墓ではないかと議論されている)を一望することができる

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ご本尊は、江戸時代中期に寺僧が作った巨大な石の子安延命地蔵。これだけ大きな石を一体どこから運んできたのだろう? 
ほかにも鎌倉後期の阿弥陀三尊像や勇壮なる毘沙門天像――なぜか宝塔を持っていない。毘沙門天ではないのでは?――など、なかなか見甲斐あるお堂である。

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階段を昇って特別に作られた収蔵庫へ

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十一面観音菩薩像(8世紀後半、木心乾漆造)
もともとは三輪山の神宮寺である大御輪寺(だいごりんじ)の本尊だった。明治初期の廃仏毀釈の嵐を免れるため、大御輪寺と親交の深かった聖林寺に移されたと言われている。

【ソルティ所感】
 209cmのスレンダーな姿と両足の外側に垂れる天衣の優美な曲線が、法隆寺の百済観音を想起させる。が、この像のなによりの特徴は、胸のすぐ下の位置で胴が搾られているところだろう。ウエストにしては高すぎる。人体を模した写実ではない。
 その不自然に搾られた胴と両腕の生み出す空間、および両足を包む裙と左右に垂れた天衣とが形づくる空間とが、像を浮き立たせ、軽やかさを与えている。側面から見ると、正面から見たときほどスレンダーでなく、どっしり充実している。
 失われた光背のかわりに、上半身を白い人工の光で取り巻く設計が目覚ましい効果を生んでいる。この展示室の設計自体も見どころであろう。いつまでも見ていたい仏像である。

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安倍文珠院
大化元年(645)、安部倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が安倍一族の氏寺として建立。鎌倉時代に現在地に移転。こんな立派な由緒ある寺とは思わなかった。

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広い境内に、小山(展望台)あり、池あり、古墳あり、神社あり、お花畑あり、お堂あり・・・の見どころたっぷりのお寺だった。もっと知られてもいい。安倍一族でなくとも、文珠系(卯年生まれ)でなくとも、行かないのは勿体ない。

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白山堂
室町時代建立。ご祭神は菊理媛神(くくりひめのかみ)。
白山信仰と陰陽道の結びつきにより、安倍晴明ゆかりの当山に勧請された。

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ウォーナー博士の報恩供養塔
第2次世界大戦において、親友のハル国務長官に戦争防止を進言した。開戦すると、アメリカ政府と軍の上層部に対し、京都と奈良の文化的価値を説き、両古都を戦禍から守るのに尽くした。この人のお陰で、我々はいま京都や奈良の文化財を学び鑑賞することができるのである。奈良大学文化財歴史学科の学生たるや、一度はたずねてウォーナー詣をしておきたい。

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晴明堂
創建者の安倍倉梯麻呂と安倍清明とのつながりははっきりと分かっていない。晴明がこの寺で陰陽道の修行をし、展望台から星の観察をしたとされている。

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展望台からの景色
毎年の干支の絵が花で描かれる。これは上から見ないと分からない。
★(五芒星)はもちろん晴明のシンボル。

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大和三山(耳成、香久山、畝傍)と二上山をいっぺんに眺めることができるのは、ひょっとしてここだけでは?

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二上山
一度登った山とは気心が知れる。見守られているような気になる。これはヤマノボラーでないとわからない心境である。それにしても、この展望台は非常に気持ちがいい。晴明伝説を信じたくなるようなパワースポットである。

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文珠池の上に建つ金閣浮御堂
安倍仲麻呂、安倍晴明の像が置かれている。そのうち、安倍晋三の像も加わるかもしれない?

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西古墳
7世紀後半頃つくられた古墳で、国の特別史跡に指定されている。
横穴式石室の中に入ることができる。

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壁面の美しさ!
内部は当時のまま保存されており、良質な花崗岩で石組みされている。
当時の技術の高さに驚いた。
創建者の安倍倉梯麻呂の墓と伝えられている。

安倍文珠院本堂
本堂

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快慶作・渡海文殊群像(国宝)
左から、維摩居士(ゆいまこじ)、須菩提(すぼだい)、獅子に乗った文殊菩薩、善財童子、優填王(うでんのう)
獅子に乗った文殊菩薩の高さは約7m。思ったよりずっと大きかった。堂々たる迫力ある群像である。文珠菩薩と獅子は接合されていない(乗っているだけ)なので、現在地震対策の修理工事のための基金を集めている。
〈画像はお寺でもらったパンフレットより〉

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快慶仏の特徴の一つである切れ長の目の美青年は、男優で言えば、石濱朗や沖田浩之や菅田将暉を想起する。快慶はゲイ色があったんじゃないかなあ~。

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東博にある康円作の善財童子や奈良西大寺本堂の善財童子とくらべると、動きも表情も軽やか。一方、優填王(うでんのう)の威風堂々たるさまは、東大寺南大門の阿形像に通じるものがある。快慶の仏像は運慶にくらべると地味だが、観ていると敬虔な気持ちにさせられる。

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卯年生まれのソルティは文珠様が守護本尊

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土舞台
聖徳太子がはじめて国立の演劇研究所と劇場を設けた場所。「芸能発祥の地」とされ、過去には森繁久彌など演劇人が詣でている。

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太子は、百済から伝えられた伎楽舞を少年たちに習わせたという。

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安倍の山城跡
南北朝時代に、北朝方の細川顕氏がここに陣を構えたという。
右手に三輪山を望む。

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正面に広がる奈良盆地
はるかに春日山や若草山まで確認できた。
知られざる絶景スポット。

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天気の良かったこともあるが、桜井はすがすがしさに満ちていた。
こころ洗われる一日であった。










● なんなら、奈良29 (奈良大学通信教育日乗) 膠(にかわ)の復権

 冬季最後のスクーリングの申込〆切り直前に、考古学概論レポートの合格通知が届いた
 これで学科試験を受けることができる。
 それは嬉しいのだが、懸念が一つあった。
 本年4月から学科試験の出題範囲が5題から10題に増えるので、答案作成および暗記に使う労力が倍増するのだ。
 ここはどうあっても3月中に考古学概論の試験を受けて、単位を取ってしまいたい。
 東京会場での試験日程はすでに終了しているので、試験を受けるなら奈良大学まで行かなければならない。
 といって、試験を受けるためだけに日帰りで奈良に行くのも勿体ない。
 2月のスクーリングで10日間連続で休みを取って同僚に迷惑をかけた手前、いささか気が引けるのであるが、背に腹は代えられない。
 残りの有休をつぎ込んで、文化財修復学のスクーリングを申し込んだ。

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JR奈良駅

【1日目】 講義 
  • 江戸時代後期から明治時代初期の絵具について
  • 膠(にかわ)について
【2日目】 講義と実習 
  • 板絵の破損劣化について
  • 剥落止め処置材料の変遷と修復処置について
  • 実習:膠絵具の剥離剥落疑似サンプル作製
  • 実習:基礎的な剥落止め処置
  • 実習:膠絵具の彩色(絵馬制作)
【3日目】 講義とレポート作成
  • 社寺建造物彩色の調査と様々な修復方法について
  • レポート作成
 お寺や神社の彩色が劣化する要因と修復方法について、膠について、江戸時代の絵具について等々、知らなかったことばかりで興味深かった。
 また、今回は学外実習こそなかったが、実習室に移動しての絵具や膠や筆を使った彩色実習があり、中学時代の美術の授業を思い出した。
 膠を混ぜた胡粉(ごふん)を団子状に練って白色絵具を作ったり、湿らせた指に藍棒をこすりつけて藍色絵具をつくったり、自分で作り出した絵具を用いて絵馬を作成したり、いろいろな体験ができて楽しかった。

 講師は、山内章先生。
 京都生まれで、美術学校で日本画を学んだのち、文化財保存修復の世界に飛び込んだ。
 社寺の建物の壁画や葛飾北斎が晩年に描いた肉筆画の修復などを専門とされている。
 「ミスター膠」「膠博士」とお呼びしたいくらい膠について詳しく、日本ではほとんど作られなくなった天然の膠を作るために、2011年に自ら一般社団法人天野山文化遺産研究所を立ち上げられた。
 自らの豊富な文化財保存修復の現場体験をもとに、実例を映像で示しながら、素人にもわかりやすい講義をしていただいた。
 スクーリングを重ねるたびに、奈良大学の講師陣の素晴らしさをつくづく感じる。
 入学して良かったなあ。

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昼休みの学食風景
このひとときがうれしい。
一番最初に受講したスクーリングで一緒だったK氏と一年ぶりに再会。
互いの進捗状況を報告した。
奈良大学の通信教育で卒業まで漕ぎつける人は5人に1人以下という。
途中脱落組が結構多いのだ。
「ひょっとしてやめたのかと思ったよ」とK氏。
いやいや頑張ってます。

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デミグラスソースのハンバーグ定食
ご馳走感あったな

にかわ【膠】
動物の皮、腱(けん)、骨、結合組織などを水で煮沸し、溶液を濃縮・冷却・凝固してつくった低品質のゼラチン。牛馬などの獣類からのものを獣膠(じゅうこう)、魚類からのものを魚膠(ぎょこう)という。淡黄褐色ないし暗褐色の固形物。水に浸すと吸水膨潤し、加温するとゾルに、冷却するとゲルになる。接着剤に用いられるほか、写真乳剤、製紙、染色などに広く用いられる。
(小学館『日本国語大辞典精選版』より)

膠
膠(にかわ)
ゼラチン(gelatin)という英語名のほうが知られているかもしれない。
我が国の彩色文化において、紙や布や木や漆に絵具を接着するための固着剤として伝統的に用いられてきたほか、バイオリンや伝統家具の接着や墨の原料としても活用されてきた。長所は可逆性があること、短所は耐水性に欠けカビが生じやすいこと。(山内先生は現在、短所をカバーする膠の開発に取り組んでいる)

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実習室
学生さんたちが絵具や膠の準備をしてくれたり、片付けしてくれたり、いろいろお世話になった。ありがとうございました。

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左の板は、膠の性質を学ぶための実験中
右の板は、絵馬を描くために下地を白絵具で塗ったもの

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膠の性質を学ぶ実験
1.水で溶いただけの絵具(粉)は乾いてから指で擦れば落ちる。
2.膠を混ぜた絵具は板面に付着し落ちない。(左半分の黄土)
3.濃度の高い膠をさらに上塗りすると、かえって剥落しやすくなる。これは先に塗った絵具(粉)が濃い膠に引っ張られて板の表面から浮き上がってしまうため。(右半分の白)

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藍色をつくる藍棒

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用意された色を混ぜて、自分が求める色を作り出すのが難しい

みなの絵馬
受講者59名が作成した絵馬(ぼかしています)
絵の上手な人が多くてびっくらこいた!
なんで筆でまっすぐの線が引けるの???
つくづく自分は不器用かつ絵ごころがないと痛感した。
これが成績評価の対象でなくてホント良かった。

 文化財学購読Ⅰで文化財保存科学について学んだとき、膠やふのりなど伝統的な材料に代わって、アクリル樹脂などの現代科学材料を用いた保存修復技術が進んでいるという印象を持った。
 しかるに、考古学分野での遺構や遺物についてはともかくとして、絵画や建築や仏像彫刻などの美術工芸品においては、現在、膠絵具で彩色された物の修復処置は膠を用いるのが基本になっているとのこと。アクリル樹脂は、絵の質感が変化してしまう、アクリル樹脂自体が変色するなどの問題が浮上してきたのである。
 1000年以上使われてきた実績があり、その性質が十分理解されている膠の復権が果たされたのである。

 最終日のレポートは「持ち込みなし・90分一本勝負・原稿用紙3枚程度」というルールであった。
 事前にテーマが伝えられるので考える時間も調べる時間もある。文化財特殊講義のレポートほど大変ではないので安心されたし。
 ただし、事前学習に書いてある「近隣の寺社の建造物彩色を見ておく」はきちんとやっておくことをおすすめします。

秩父神社社殿
秩父神社の社殿
天正20年(1592)徳川家康の寄進により建立された。

お元気三猿
社殿の壁画のひとつ「お元気三猿」
2019~2023年に伝統的な工法による修復工事が行われ、建てられた当時の色彩が蘇った。

お元気三猿修復前
修復前(2018年)
よく見ると、配色がずいぶん変わっている。
前回昭和40年代の修復工事のとき、ややいい加減だったらしい。
今後、寺社の彩色や修復工事を見る楽しみが増えた。

 ときに、ソルティは膠と言えば、住井すゑ著『橋のない川』を想起する。
 明治の終わりから大正にかけての奈良盆地の被差別部落・小森を舞台にした大河小説である。(ソルティは2023年春、小森のモデルになった御所市柏原に足を運び、水平社博物館を見学した)
 理不尽な差別に耐え続けてきた小森の人々が、やがて人権に目覚め、声を上げ、立ち上がり、水平社設立へとつながっていく流れが、リアリティ豊かに描かれている。
 その中で、小森部落の主要な産業として、草履表の漂白とともに膠づくりが出てくる。
 漂白に使う亜硫酸ガスの匂い、牛の皮や骨を煮るとき発生する臭気が、周囲からの差別をさらにきついものとする要因として描かれていた。

 日本の芸能のルーツが「河原者」と呼ばれた被差別の民から生まれたことはよく言われるが、竹細工や武具・太鼓・三味線といった皮製品や漆器・木器製作など、日本の伝統工芸もまた、差別された人々の手によって生産・製造されてきたものが少なくない。
 我が国の文化財の保存・修復を考えるときは、こうした視点を忘れてはならないと思う。
 現在、日本で伝統的な製法で膠を作っているのは姫路市だけだという。

DSCN8150
食堂の上の学生ラウンジ
仲間と団欒したり、食後のコーヒーを飲んだり、読書したり、スマホいじったり、学科試験の勉強したり・・・・使い勝手のいい、落ち着ける空間である。
スクーリング終了後、ソルティもここで考古学概論の答案を一心不乱に暗記した。
単位取得できますように!

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大学から高の原駅に向かう途上で見た夕焼け
いかなる天才も、この色彩を再現することはできまい。









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