ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●なんなら、奈良(奈良大学通信教育日乗)

● なんなら、奈良27(奈良大学通信教育日乗) アスカは怖い

 ――と言っても、エヴァンゲリオンのアスカ・ラングレーではない。
 日本国家誕生の地とも言われる飛鳥盆地である。
 スクーリング第4弾「考古学特殊講義」では、飛鳥時代の遺跡をめぐって日本誕生の過程を考古する旅であった。

飛鳥盆地
甘樫丘(あまがしのおか)から望む飛鳥盆地

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大小の山に囲まれた盆地は外敵から守るのに適していた

 講師は、相原嘉之先生。
 昨年2月19日にNHKで放映された『歴史探偵-飛鳥の巨石は何を語る?-』に出演されている。
 ソルティはこの番組をたいへん興味深く視聴した。
 が、解説されたのが奈良大学の先生で、通信教育学部のスクーリングを担当されているとは気づかなかった。
 しかも、プロフィールによると、1967年大阪生まれで、奈良大学文化財学科の卒業生とのこと。
 先輩からじきじき教わる栄誉に浴せたのであった。
  • 1日目 学内講義・・・・概説と飛鳥の諸宮、飛鳥の寺院と古墳
  • 2日目 学外実習 
    キトラ古墳(四神の館)⇒川原寺跡⇒飛鳥宮跡⇒酒船石遺跡⇒飛鳥寺⇒石舞台古墳⇒飛鳥資料館
  • 3日目 学内講義・・・・飛鳥の遺跡について、まとめとレポート作成
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半年ぶりの奈良大学キャンパス
3日間とも良く晴れて暖かかった

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学食の日替わり定食(480円)
香菜と豚肉の炒め物がご飯によく合い、美味しかった!

 講義内容は(ソルティにとって?)かなり高度かつ濃いものだった。
 考古学の基礎知識はもちろん、古代史、関西方面の地理、仏教と葬送文化、主要人物たちの事績や系譜や人物関係などの前提知識がないと、なかなかついていかれないレベル。
 通学生とは違って、スクーリングの限られた時間内でいろいろなことを一気に学ばなければならない通信教育のたいへんさを思った。
 4ヵ月かけて『考古学概論』をしっかり学ばされた学んだ苦労が、ここで報われた。
 世の中、無駄なことってないなあ。
 貴重なスクーリング機会を十二分に生かすためには、テキスト科目を取る順番も工夫するのがベターと実感した。
 それと、山岸涼子の『日出る処の天子』は読んでおきたい。
 厩戸皇子はじめ漫画のキャラが飛鳥の地に揺曳するかのようで、“聖地”巡礼の気分が味わえる。

 最終日の午後にレポート課題が出された。
 これが結構ハード。
 なかなか難しいテーマ2つを制限時間60分で原稿用紙にまとめなければならなかった。(持ち込み可だが電子機器類の使用は不可)
 講義をしっかり聞いて適宜メモを取っておかないと、容易には回答できない。
 「昨日の学外実習の印象を書きなさい」レベルのものを予想していたソルティは、大甘樫の丘だった。

 以下、2日目の学外実習について。

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近鉄・樫原神宮前駅に集合

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奈良観光のバス2台に分乗
約80名の受講者+お手伝いのゼミ学生さんを乗せて、いざ飛鳥へ!

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キトラ古墳
7世紀末から8世紀初め頃に作られた。
1983年、石室内に彩色壁画が発見され、高松塚古墳に次いで2例目となる大陸風壁画古墳として一躍有名になった。(後ろ姿は解説する相原先生)

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四神の館
ファイバースコープを使ったその後の調査で、青龍、白虎、天文図、朱雀、十二支像が確認された。が、カビ被害が発生していたため、2022年11月までにすべての壁画がはぎ取られ、現在、四神の館に保管されている。(予約制で観ることができる)

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キトラ古墳の内部模型
石室に埋葬された人物(50~60代男性)の正体は不明である

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壁画の玄武(亀)

キトラという名前は、
  1. 最初に発見された壁画である亀(キ)と虎(トラ)から取った
  2. 古墳の南側の小字「北浦(きたうら)」が訛った
  3. 古墳が明日香村阿部山集落の北西にあることから、北を司る玄武(亀)と西を司る白虎(虎) から命名された
という3つの説がある。
1983年と言えばつい最近のこと(でしょう?)なのに、命名の由来がはっきりしないのが不思議である。ソルティは渡来系の語彙(古代朝鮮語)かと思っていた。

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川原寺跡
660年代の創建
天智天皇が母・斉明天皇の菩提を弔うために建てたと言う。
中金堂があった場所に、現在、真言宗豊山派の弘福寺が建っている。

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川原寺の再現模型(飛鳥資料館にて)

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飛鳥宮の井戸の跡
694年に藤原京に遷都する前にあった「飛鳥●●●宮」と称される宮城はすべてここに重なって造営された。それぞれの宮の実態を探る発掘作業はいまも進行中。
645年の乙巳の変(かつては大化の改新と習った)で蘇我入鹿が討たれたのもこのあたりとか。

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ここに天武天皇が造った巨大な宮城(飛鳥浄御原宮)があった。
この先の発掘調査次第で、「何が出てくるか分からない⇒これまでの歴史認識が大きく変わるかもしれない」ゆえの「アスカは怖い」なのである。「あんた、バカぁ?」のアスカ・ラングレーではない。

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酒船石遺跡
昨年5月の奈良旅では、丘の上にある酒船石は見たものの、こちらは素通りしてしまった。
2000年に、湧き水を木製の樋で引いて亀形の石槽に溜める古代の導水施設が発見された。周囲の石敷や石垣も当時のままである。巨石&土木工事マニアであった斉明天皇が建造したもので、祭祀場と目されている。
(解説される相原先生)

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飛鳥寺(安居院)
蘇我馬子が造った日本最初の本格的伽藍を備えた寺院。
飛鳥盆地の北端に位置する。
平城遷都とともに移転し、元興寺と名を変えた。

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飛鳥大仏
飛鳥時代の土台から動いていないことが確認されている。
ここに南向きに座って、飛鳥の歴史を1400年以上目撃してきた。(目のあたりは当時の造形が残っているという)

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飛鳥大仏の視線の先を望む
「こんなに狭い、奥まった(田舎めいた)土地で日本国家の基盤が形成されたのか!」と感慨もひとしお。

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石舞台古墳
蘇我馬子の墓である。
蘇我氏が飛鳥盆地の一等地をことごとく占めているのを実感。
大化の改新は起こるべくして起こった。
天皇中心の国家をつくらんとした聖徳太子の遺志は中大兄皇子によって叶えられたのだ。

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古墳めぐりゆえ階段や坂が多く、運動不足の中高年にはなかなかきつい。
昭和ヒトケタかと思われる男性もおられ、その学習意欲と根性には感嘆しきり。

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飛鳥資料館
飛鳥で発見された遺物の宝庫。
見学時間が限られていたのと疲れとで、じっくり観られなかった。
またの機会に。

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飛鳥資料館のパンフレット(表面)

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飛鳥資料館のパンフレット(裏面)
主要展示物を配した凝ったデザインがすばらしい

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斉明天皇時代に造られた石造物(レプリカ)
噴水の機能を持つ
なんか道祖神的なものを感じる自分はおかしい???

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猿石(レプリカ)
斉明天皇は水と石にとり憑かれた女帝だった模様。
度重なる土木工事に徴用された庶民の悲鳴が聞こえる。

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天智天皇が造った日本初の水時計(漏刻)
時を管理する=人民を支配する、の意図があった。
豊臣秀吉や徳川家康が、活字=印刷文化=マスコミを支配ようとしたのと同様であろう。現在にも通じる為政者のやり口である。

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高松塚古墳壁画(レプリカ)

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塼仏(せんぶつ)
粘土で型を抜き、焼いて作った板状の仏像。
唐から伝来し、近畿地方を中心に7世紀後半から奈良時代にかけて作られた。
装飾としてお堂の一面に貼り付けるなどした。
上記の仏像は、様式的に、神秘的な表情が特徴的な法隆寺の救世観音像(飛鳥時代)と、カワイイ系の深大寺の釈迦如来像(白鳳時代)とのちょうど中間地点に位置するように思える。

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古代飛鳥の想像ジオラマ
左上の小山が甘樫丘、その右手の広場が飛鳥寺西方遺跡(槻木の広場)
大きな槻(ケヤキ)があったという。
この広場での蹴鞠会がきっかけで中大兄皇子と中臣鎌足はタッグを組むことになった。
その右手が飛鳥寺である。

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帰りの車窓からニ上山を望む

 飛鳥時代は、国内の文献史料のほとんど無い古墳時代と、官僚機構ができあがってそれなりに文献が残っている奈良時代の間にあって、文献史学と考古学のカバー領域の重なりにある。
 『古事記』や『日本書紀』の記述はあるが、為政者の都合のいいように編纂されているので、どこまで史実かわからない。
 そこを考古学の方法論を用いて実証していくところに、この時代を研究する醍醐味があるのかな~と思った。

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● なんなら、奈良26(奈良大学通信教育日乗) 日本考古学発祥の地

 横浜から東京方面に向かうJR京浜東北線が大森駅を発車してすぐ左手に、「大森貝塚」と書かれた大きな石碑が現れる。
 20代の学生の頃からずっと車窓から見かけていた光景なのに、一度も行ったことがなかった。
 大森貝塚は、アメリカから来日した動物学者エドワード・モース(1838-1925)が、明治10年(1877)6月19日に横浜から新橋へ向かう列車の車窓から発見した。
 日本で最初に学術調査が行われたことから「日本考古学発祥の地」と言われている。
 考古学を学ぶ者なら、やはり一度は足を運んでおきたいではないか。
 しっかり防寒対策して出かけた。

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JR大森駅ホームにある記念碑

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大森駅北口から歩いて6分
昭和っぽさが色濃く残る街並み(昭和遺跡?)

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大森貝塚は、現在の大田区と品川区にまたがっており、両区それぞれに石碑が存在する。

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大田区の石碑
昭和5年(1930)建立

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「モース教授により1877年に発見された」と記されている

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目の前を走り抜ける京浜東北線
日本人の誰も遺跡に気づかなかったのが不思議
考古学的視点がまだなかったのだろう

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歩道の敷石が楽しい

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大森貝塚遺跡庭園(品川区)
入場無料・無休だが夕刻には門が閉ざされる

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貝塚は残っていない
木立あり、小山あり、噴水あり、ベンチありの公園である
鬼ごっこの小学生、キャッチボールする親子、談笑する主婦
区民の憩いの場になっていることが察しられた

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噴水広場
30分に1度、ミストが噴射される

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貝塚跡
発掘調査で実際に貝塚が発見された地点

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貝塚展示ブース
実際の貝層を利用して、発見当時の貝塚を復元
スズキ、クロダイ、マアジ、サバ、ウミガメ、ウナギ、
ニホンジカ、イノシシ、アナグマ、タヌキ、イヌ
などの骨も発見された

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土器を手にするモース博士
雨水が溜まらないよう底に穴が開いていた

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当然海辺にあったのです
江戸時代には海苔の養殖で栄えた
浅草海苔の主要産地は大森だったそうな

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庭園内には縄文時代の人々の暮らしを解説するパネルがある

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品川区の石碑
昭和4年(1929)建立
後の調査の結果、こちらの地点が正しい発掘調査地と判明
(両碑は約300m離れている)

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 庭園から品川駅方向にさらに10分ほど歩いたところに、区立品川歴史館がある。
 開館40周年を迎えるというので、昭和の公民館的なアナログ施設を想像していたら、これが大違い。
 大規模な改修工事が行われ、デジタル仕様に生まれ変わって2024年4月に再オープン。
 きれいで、見やすく、面白い。
 大森貝塚とここをセットで訪ねたい。

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品川歴史館
9時から17時、月曜休
一般100円

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縄文時代から現代までの品川の歴史をたどるデジタル年代記が面白い

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灯火用あるいは香炉として用いられた土器があるとは知らなかった
縄文人もアロマテラピーをしていた?

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鎌倉時代の常滑大甕(とこなめおおがめ)
愛知県知多半島の常滑で作られた大甕を、品川にあった御殿山まで、海岸沿いに船で運んだ。
途中で割ったら打ち首ものだった?

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貝塚の上に戦争遺跡
人類がまったく進化していないことを知らしめる

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2階の休憩スペースから、大画面の「品川区の歴史」動画を鑑賞できる。
これが素晴らしい出来!
アニメ制作はアダチマサヒコによる

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歴史関係の図書も充実

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モースコーナーもある

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モースが発表した発掘調査報告書
これぞ日本考古学発祥の証拠である

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庭園散策で気分転換
梅・桜・紅葉など、四季折々の風情が楽しめる

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書院・茶室は現在も利用されている

遺跡の発掘
目の前にいつも見ていても、気づかないことがある
これがモース博士が我々にくれた教訓だろう











● なんなら、奈良25(奈良大学通信教育日乗) 現説デビュー


北青山三丁目遺跡現説

 現説――すなわち遺跡の現地説明会ってのに参加してみたいなあと思って、ネットで探していたら、「北青山三丁目遺跡」現地説明会が開催されるのを知った。
 地図を見たら、表参道駅から徒歩5分というアクセスの良さ。
 1/24(土)の午前2回、午後2回の計4回、各40分の説明&見学会が実施される。
 ここ数日、東京でも日中ヒトケタ台の寒さが続いてアウトドアは厳しいが、超厚手スパッツとマフラーで防御すれば何とかなるだろう。
 13:00からの回に参加した。

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表参道
突きあたりに明治神宮
日が照って風もなく、思ったより寒くなかった

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浄土宗善光寺
1601年(慶長6年)創立
青山通りに面して建つ
江戸時代、青山は善光寺の門前町であった

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2016年東京都が青山北町アパートの建て替えと再開発計画を発表
その工事現場が会場である

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青山通りの歩道橋から工事現場を臨む
広い!

看板2
UR都市機構による開発
住宅棟のほか商業施設も作られる模様
“オサレ”な1等地だもんね~

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図のA1、A2はすでに完成している
現在工事中はB1部分
ここの遺跡を順次発掘している

看板1
発掘を行っているのは多摩市にある東京都埋蔵文化財センター

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工事現場、兼、発掘調査現場

 画像はここまで。
 撮影OKだったが、調査途中なのでネットに上げるのはNGとのこと。

 現場説明会に行くのははじめてだったので、どのくらいの人が来るのか見当つかなかった。
 寒いし、大々的に告知もしてなさそうだし、ひょっとしてソルティひとりだけの可能性もなきにしもあらず・・・・・
 ――なんて思っていたら、とんだ世間知らず。
 ざっと100人近い参加者がいた。
 それも老若男女入り混じり、子連れの若い夫婦や高校生らしきもいて、遺跡発掘に対する関心の高さに驚いた。
 まあ、近所の住民が多かったと思うが・・・・・。

 東京都埋蔵文化財センターの職員さんから概要の説明を受けたあと、二手に分かれて発掘現場を見学した。
 これまでの発掘調査で、旧石器時代、縄文時代、古代~中世、近世、近現代の遺構と遺物が発見されているという。
  • 旧石器時代: 黒曜石製の石器1点
     この近くで黒曜石が採れたのは、伊豆の神津島、箱根、長野の和田峠である。つまり、そのどこかと交易があった。
  • 縄文時代: 陥し穴(おとしあな)2基
     鹿や猪などの獲物を追い込んで罠にかけたものと思われる
  • 古代~中世: 大型の陥し穴1基
  • 近世: 多量の陶磁器等を廃棄した土坑や柱穴、耕作痕
     江戸時代、このあたりには青山百人組同心(鉄砲隊)の屋敷があった
  • 近代: 青山師範学校の建物跡
  • 現代: 青山北町アパートの前身に関連すると思われる建物の礎石や簡易便所の埋甕など
 今回の見学会では、青山師範学校の建物基礎跡、上水道管、排水施設、空襲で焼け焦げた定規やチョークや硯などの文具を見学し、説明を聞くことができた。


青山師範学校
青山師範学校
東京学芸大学(小金井市)の前身校の一つ
  • 明治6年(1873)東京府庁舎内に開設された小学校教員講習所が始まり
  • 明治33年(1900)北青山に新校舎を建てて移転
  • 明治41年(1908)校名を「東京府青山師範学校」とする
  • 昭和11年(1936)世田谷区下馬(現・学芸大学附属高校)へ移転
 1900~1936年の36年間、当地で教員を目指す生徒たちが生活(全寮制)していたのである。
 その後も、空いた校舎をいくつもの中学校が臨時的に使用していたが、昭和20年(1945)5月の山の手大空襲で焼失。
 しばらく仮設住宅があったと思われるが、「もはや戦後ではない」という言葉が生まれた翌昭和32年(1957)、青山北町アパートの建設が始まった。

 今回見学した青山師範学校跡の下の地層(関東ローム層)には、江戸時代の屋敷跡があり、その下には古代~中世の遺構があり・・・・・。
 同じ一つの土地にいくつもの時代が重なって、いくつもの人間の暮らしがあったという、当たり前のことを実感した。

 青山師範学校の建物跡から見つかったレンガには桜の刻印があり、そこからそれが小菅刑務所(現・東京拘置所)の囚人たちによって作られたものであることが分かるとか、戦争末期の校舎内に「避所(退避所ではない)」と呼ばれる穴が設けられ、空襲の際いったんそこに逃げ込んだ生徒たちは、火事になったら穴から飛び出て消火活動することが課せられたとか、遺跡から見えてくる歴史の深さ・面白さに唸らされた。

 現地説明会、楽しい!
 今後も機会を見つけて、足を運んでみよう。
 新たな趣味の発掘か(笑)

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おみやげにもらった3 in 1充電ケーブル


















 
 





● なんなら、奈良24(奈良大学通信教育日乗) 豊臣兄弟の手柄?

 昨年12月半ばに受けた書誌学の試験結果が郵送されてきた。
 無事、合格(80点)。
 ほっとした。

 事前に提示されている5つの設題のうち、当日出題されたのは「初印本と後印本の区別の方法について述べよ(出題番号9)」だった。
 もちろん、ソルティは5つの設題すべてについて自分なりに回答を作成し、がむしゃらに暗記して試験に臨んだ。
 が、5つの中で一番自信が持てない回答がまさに9番だった。
 字数は500字に届かず、答案用紙の1/3も満たない。
 これで大丈夫だろうか?
 試験直前、「9」という数字が板書されたのを見たとき、「あちゃー!」と心の中で叫んだ。
 記憶したままを書き写すほかなかったが、20分ほどで終えてしまい、試験会場から一番早く退出した人間になってしまった。
 正直、合格するかどうか自信がなかった。
 高尾山初詣(DA・I・KI・CHI!)が効いたのかもしれない。

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高尾山頂から

 今回、書誌学を学んで初めて知り、「へえ~」と感心したことの一つは、豊臣秀吉と活字印刷との関係であった。
 日本の印刷は古来、版木に文字を左右逆に彫ってその上に墨を塗り、料紙を置き、バレンでこすって印刷する、いわゆる製版印刷が主流であった。
 室町時代になって活字印刷が始まるのだが、そのきっかけを作ったのが秀吉の朝鮮侵攻(1592文禄の役&1597慶長の役)だったのである。
 秀吉の武将である小西行長、加藤清正らが、書物や工人とともに銅活字を略奪してきたのが、日本における活字印刷の端緒となった。
 これを古活字版と言う。
 ちなみに、活字印刷とは、1字ずつ独立した文字を彫刻し、これを配列組み合わせて原版にし、印刷する方法である。

 実は、活字印刷の流入にはもう一つ別のルートがあった。
 天正18年(1590)、布教のために長崎にやって来たスペインやポルトガルのキリスト教宣教師たちもまた、活字印刷機・アルファベット活字・付属器具・印刷技師を持ち込み、印刷を始めた。
 これをキリシタン版と言う。
 よく知られるように、徳川家康は厳しい禁教対策をとった。
 慶長18年(1613年)に出されたキリスト教禁止令により、キリシタン版は姿を消すことになり、以後は古活字版のみが定着した。
 キリシタン版は、宣教師やキリシタン学校の教師用の教科書(『平家物語』や『後漢朗詠集』などの文学書もあった)と、修道士や信徒用の宗教書など、禁止までの約20年間に50点に及ぶ書籍が印刷されたと思われるが、現存するのは約30点のみである。

踏み絵
江戸時代の踏み絵

 秀吉のもたらした古活字版は、江戸時代初期に隆盛を極め、徳川家康自らが銅活字を鋳造し出版事業を行ったほか、『日本書紀』、『万葉集』、『伊勢物語』、『竹取物語』、『枕草子』、『古今集』、『太平記』などが初めて出版され、多くの人が日本の古典に触れる機会をつくった。
 また、印刷出版が商売として成り立つ基礎がつくられ、京都の本屋新七をはじめとする本屋が生まれた。
 これが、昨年のNHK大河ドラマ『べらぼう』で描かれた寛政期の蔦屋重三郎ら出版プロデューサらの輩出につながるのである。(もっとも、古活字版は50年ほどで廃れたので、『べらぼう』に出てきた本は、基本的に製版印刷の袋綴である)

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徳川家康鋳造の銅活字

 今年の大河ドラマはまさに『秀吉兄弟』。
 豊臣秀吉と秀長の天下取りまでの苦難と兄弟愛が描かれる。
 秀吉の朝鮮侵攻と活字印刷のはじまりも描かれるかなあ~と思ったが、調べてみると弟・秀長が亡くなったのは、天正19年(1591)、朝鮮侵攻の前年である。
 秀長は朝鮮侵攻に関わっていないのであった。
 ドラマで朝鮮侵攻まで描かれるか分からない。 
 秀吉の右腕で、ただ一人直言できるいさめ役であった秀長が生きていれば、秀吉の無謀な朝鮮侵攻はなかったかもしれない。
 でも、その場合、古活字版は登場しなかった。
 日本の印刷の歴史は違ったものとなっていたかもしれない。

 奈良大学で歴史文化財を学ぶようになって得た特典の一つは、大河ドラマを見る楽しみが格段と増したことである。
 とくに今回は、秀長を演じる仲野太賀と、秀吉を演じる池松壮亮の両人とも、演技が達者(かつイケメン)なので、見ごたえがある。

飛雲閣
京都の飛雲閣(国宝)
秀吉が建てた聚楽第の一部を移築したものではないかと言われる。






























● キュートな神たち :静嘉堂@丸の内「たたかう仏像」展

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 JR東京駅丸の内南口から徒歩5分、皇居のお濠に面した明治生命館1階に静嘉堂(せいかどう)@丸の内はある。
 三菱2代目社長岩崎彌之助と4代目社長岩崎小彌太の親子によって創設・拡充された文庫美術館で、国宝7件、重要文化財84件を含む約6500件の東洋古美術品と約20万冊の古典籍を所有している。
 静嘉堂の母体はいまも世田谷区にあるらしいのだが、創設130周年を迎えた2022年10月より、現在の丸の内明治生命館にて展示活動を始めたとの由。
 ソルティは、昨年日比谷図書文化館で見つけたチラシで、その存在を知った。
 1月2日から開催されている「たたかう仏像」展に足を運んでみた。

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明治生命館(重要文化財)
1934年(昭和9)竣工。
古典主義を採り入れた我が国近代洋風建築の代表作。
設計は岡田信一郎。
背後に建つのは明治安田生命ビル。

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明治生命館1階ホワイエ
ここで1杯1000円のコーヒーを飲むのもオツなもの。

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静嘉堂@丸の内入口
休日だったので混んでいた。
じっくり観るならウィークデイ(月曜休館)がおすすめ。

 今回は、四天王・十二神将・不動明王など甲冑を身につけ怒りの表情を見せる 「たたかう仏像」をテーマに、彫刻・絵画・刀剣などが4部屋に分かれて展示されている。
 さらに、仏像の鎧のルーツと言われる中国・唐時代の神将俑も紹介されている。  
 こちらは17年ぶりの展示とのこと。
 ちょうど学芸員さんの特別レクチャーがある日だったので、鑑賞前に見どころを聴くことができた。

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中国・唐時代(7世紀後半)の神将俑
俑(よう)とは、中国の墓の中に納められた人型の副葬品。
もっとも有名なのは、秦始皇帝陵の兵馬俑である。

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唐時代(8世紀)の神将俑

神将俑
奈良大学のスクーリングで訪れた天理参考館でみかけたこの2人。
野球拳をしているかと思ったが、墓を守る神将俑だったのね。

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秦始皇帝陵兵馬俑
Allan LeeによるPixabayからの画像

 ここの収蔵品の中でもっとも貴重とされているのは、南宋時代(12~13世紀)に建窯で作られた曜変天目という名の茶碗であろう。
  ソルティは陶器についてまったくのド素人なのでその価値がよくわからないが、プルシアンブルーの見込み(茶碗の内側部分)に玉虫色に輝く泡状の斑紋が散らばって、あたかも星雲や銀河を宿す宇宙空間の如き美しさ。
 完全な形で残っているのは日本に3碗しかなく、もちろん国宝指定されている。
 一見の価値あり。(これだけ撮影NGであった)

 ソルティが一番惹かれたのは、鎌倉時代につくられた十二神将立像。
 もともと京都・浄瑠璃寺の三重塔内にあって、平安時代に作られた薬師如来像を囲んでいたらしい。
 それが明治時代に流出し、所有主を転々としたあげく、現在、トーハク(東京国立博物館)に5体、静嘉堂に7体あるとのこと。
 像の素晴らしさから一時は運慶作ではないかと議論が盛り上がったが、修復作業中の平成29年(2017)、静嘉堂にある亥神像の頭部背面から墨書銘が発見された。
 そこには「安貞二年 八月、九月」と書かれていた。
 運慶が亡くなったのはそれより5年前の貞応2年(1223)なので、運慶作ではないことが証明されたのである。
 しかし、運慶作であろうがなかろうが、素晴らしさは変わりない!
 運慶以後の鎌倉彫刻の写実性と迫力を備えながらも、人間らしい、というか童子のような自由奔放な感情の発露とキュートさが感じられる。
 ソルティは、運慶の三男・康弁がつくった興福寺国宝館の木造天燈鬼・龍燈鬼立像を連想してしまった。
 康弁でないとしても、運慶の息子、孫たちによってつくられた可能性は高いと思う。  

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寅神
すべてヒノキの寄木造である

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卯神
頭上にそれぞれの干支(えと)の動物を乗せている。

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午神
今年の干支です

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え~と?

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酉神
「エイ、エイ、オー!」
歯や舌の緻密な表現が、先秋、東京国立博物館で開催された興福寺北円堂展の広目天を思わせる(康弁作と考えられている)。

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亥神

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矢が曲がっていないか確かめている。
実に人間っぽい表情と仕草ではないか。

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なんと! 兜を外すことができる!
この頭の中に墨書銘があったのか・・・

 今回展示されなかった残り2体と、東博にある5体の十二神将像も観てみたい。
 しかし、休日とはいえ、あんな混んでいるとは思わなかった。
 若い人も多かった。
 仏像人気ってほんまもんなんだ。
 次回は、空いているウィークデーに行こう。
 一杯1000円のコーヒーもおごってみよう。

コーヒー














 







● 本年も仏像三昧 本:『ミズノ先生の仏像のみかた』(水野敬三郎著)

2019年講談社

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 先日、半蔵門ミュージアムに行ったときに購入した本。
 水野敬三郎(1932- )は、美術史学者にして日本の仏像研究の第一人者。半蔵門ミュージアム館長を2019年3月まで務めていた。(現在、名誉館長)
 ソルティが目下学んでいる奈良大学通信教育の美術史概論のテキストも、水野敬三郎監修『日本仏像史』(美術出版社)である。
 業績と言い、後進への多大なる影響と言い、日本の仏像研究界の大長老と言ってもいいんじゃなかろうか。
 ソルティは他に、水野が1985年に出した『奈良・京都の古寺めぐり 仏像の見かた』(岩波ジュニア新書)を読んでいる。
 いずれの本も、仏像の歴史や一つ一つの仏像のつくられた背景、造仏の技術面など、水野の該博にして深い知識は今さら言うまでもないことだが、ソルティがもっとも唸らせられるのは、仏像の像容を解説する際の水野の表現力の巧みさである。  
 豊富な語彙、適確な言葉の選び方、目の付けどころの鋭さ、仏像が観る者に与える印象をわかりやすく品格もって言語化する文学センス。
 どうやってこのような表現力を身に着けたんだろう?
 表現したいことをなかなかうまく言語化できないもどかしさにいつも苛立つソルティは、我が言語脳の未熟な配線を思い知らされるのである。(同じ思いはナンシー関のエッセイを読むときにも起こる)

 それはさておき、この本、面白かった。
 ソルティは仏像鑑賞のためのガイドブックのたぐいを数冊持っている。
 大概、まずはじめに仏像のつくられた歴史や日本に入ってきた経緯が簡単に記される。
 次に、仏像を見分けるのに役立つ基礎知識(衣装、髪型、表情、手のかたち、持物、姿勢、光背、台座などの種別)が解説される。 
 そして、各論的に仏像の種類ごと(如来・菩薩・明王・天部など)に章を分けて、ひとつひとつの仏像の特徴が紹介される。如来なら、釈迦如来・阿弥陀如来・大日如来・薬師如来・昆廬舎那如・・・といったふうに。
 これはこれで勉強になるし、鑑賞の役に立つし、人に蘊蓄を垂れる際の虎の巻となるのだが、肝心の仏像の見方という点では、表面的過ぎるきらいがある。
 目の前の仏像の名前を知り、造られた年代や素材を知り、衣装や髪形や手のかたちや持物や姿勢などをガイドブックを参考に確認し、「ハイ、終わりました」となってしまう可能性がある。
 それだけではもったいない。
  • だれが、いつ、どういった理由から、仏像を造った(造らせた)のか?
  • その種類の仏像を選んだ理由は何か?(たとえば、薬師如来なら病気平癒の為)
  • その素材を用いた理由は何か?(たとえば、運慶は北円堂の弥勒仏を造るのに、当時一般的に用いられていたヒノキでなくカツラを使った)
  • その時代の仏教信仰はいかなるものか?
  • その時代の美意識はいかなるものか?
  • 中国や朝鮮半島の影響をどの程度受けているか?
  • 仏師の新たな工夫はどこに見られるか?
  • 時代によって、どのような変化(様式)が見られるか、またその背景には何があるか?
  ・・・・等々

 こういったところまで想像の翼を広げてこそ、仏像鑑賞の面白味や醍醐味はあろう。
 シャーロック・ホームズが目の前に置かれた一通の手紙から、会ったことのない差出人のことを推理して、詳しくその素性を語ることができるように、仏像研究者は仏像を手掛かりにいろいろなことを推察する。
 仏像がつくられた時代の社会風潮や文化や政治や国際関係、人々の信仰や苦しみや願い、とくに仏教に対するスタンス、施主(注文主)と仏師(作り手)の関係、造仏技術の進歩・・・e.t.c.
 本書はまさにそのような“一歩進んだ仏像のみかた“のノウハウを伝えてくれる。
 仏像ビギナーの聞き手がミズノ先生に問いかけるQ&A形式なので、読みやすく、わかりやすい。
 各時代の有名な仏像を掲載したカラー口絵はじめ、ミズノ先生の説明の理解を助けるイラストもふんだんにある。
 ソルティがこれまでに観てきた仏像が多く紹介されているが、読後、もう一度実物を“ミズノ目線”で見直したいという思いに駆られた。

 以下、ソルティが「へえ~、そうだったのか」と感嘆の声を上げた知見を紹介。

ミズノ:じつは、日本の仏像は、コーカソイドとモンゴロイドがごちゃまぜになった顔なのです。そのごちゃまぜになった顔が基本になって、そこからいろいろな顔立ちが表現されています。

 コーカソイドは白色人種・ヨーロッパ人種、モンゴロイドは黄色人種・モンゴル人種である。言うまでもなく、中国人・朝鮮人・日本人は後者である。 
 仏像が最初にガンダーラでつくられたとき、ギリシア・ローマ文化の影響を受けて、顔立ちはコーカソイドであった。鼻根が高く、鼻筋が通っている、ルシウス(=阿部寛)系である。
 大乗仏教とともに仏像が中国に伝わると、仏像の顔はモンゴロイド系いわゆる「平たい顔族」に変貌した。
 が、興味深いことに、如来や菩薩の鼻だけはコーカソイドのままだった。
 6世紀に日本に仏教が到来し、日本でも仏像がつくられ始める。
 やっぱり、日本でも完全モンゴロイド化せずに、鼻だけは高さを保った。
 一方、如来や菩薩以外の仏像(明王や天部など)の鼻は普通にモンゴロイド化した。
 ミズノ先生は「当時の人々がコーカソイドの鼻のかたちになにか聖なるものを感じていたのではないか」と推測している。
 今でも、日本人が整形したいパーツの第1位は「鼻」のコーカソイド化だもんね。

ガンダーラ仏
コーカソイドの仏像

ミズノ:日本では平安時代後期に寄木造り、内刳りが流行しました。つまり像の中は空洞です。そこで目を刳りぬいて内刳りの中から水晶のレンズをあてる玉眼という技法が誕生したというわけです。
 
 玉眼で最も有名なのは、興福寺北円堂の無着・世親像であろう。
 2つの像がまるで生きているように見えるのは、まさに表情をたたえたあの瞳の輝きのためである。
 玉眼は中国にはなく、日本で発明されたのだという。
 仁平元年(1151)奈良・長岳寺の阿弥陀像がもっとも古い使用例で、像の作者は運慶の父・康慶ではないかという研究者もいる。

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奈良国立博物館・仏像館の展示

ミズノ:人間には、男女を問わず実の体型と虚の体型がある。実の体型というのは、胸が厚くて前に張り出して、お腹のほうがひっこんでいる。虚の体型は逆に胸が薄くて後ろに引けて、お腹のほうが前に出てくる。

 実の体型の人は朝に強い「朝型」、虚の体型の人は夜になると元気が出てくる「夜型」なのだそうだ。
 漢方で言う「陽」の体質と「陰」の体質に相応するように思われる。
 平たく言えば、「ガッシリ系」と「なよなよ系」みたいな感じか。
 仏像にも虚の体型と実の体型があって、初期のガンダーラの仏像はみな実の体型だった。ガッシリしている。
 中国にも実の体型のまま伝わってきたが、6世紀北魏時代に虚の体型に変わったという。
 日本に入ってきた仏像は北魏の仏像がもとになっているので、虚の体型から始まった。
 法隆寺の百済観音はまさに虚の体型の典型。(たしかになよやか)
 これが7世紀後半くらいから初唐の影響を受けて、だんだん実の体型に変わっていく。
 平安初期の神護寺の薬師如来像、新薬師寺の薬師如来像などは完全に実の体型。
 平安後期になると、定朝が出てきて「仏の本様」は虚の体型になる。
 これは浄土信仰の流行と関連し、浄土にやさしく迎えいれてくれる阿弥陀如来には虚の体型こそふさわしかったからではないかとミズノ先生は言う。
 鎌倉時代になると、やはり強さを求める武士の影響からか、実の体型が好まれるようになる。

神護寺薬師如来
神護寺薬師如来

ミズノ:もともと建築用材であったヒノキを使って、しかも製材した角材を像の中心で左右から合わせて仏像をつくってしまうというのは、非常に大きな意識の変化だと思います。一木造における、仏像の中枢部に対する畏敬の念とか、木そのものに霊性が宿るという観念、あとは奈良時代以来の檀像の意識とかが、次第に薄れてきた結果といえるかもしれません。

 「大理石の塊の中にすでに像が内包されている。私の仕事はそれを取り出すことだけだ」と、かのミケランジェロが言ったとか言わなかったとか・・・・。
 要は、西洋の彫刻は大理石の大きな塊を外側からノミで削っていき、形を整えていく。
 木造彫刻の場合も、一本の太い丸太を削って、像を整形していくイメージがある。
 そこで、ミケランジェロに比すべき芸術家である運慶が、一本の丸太の前に無念無想で座し、木の中にいる大日如来を感得している絵が思い浮かぶ。
 しかし、これは見当違いの想像であった。
 確かに平安時代中期までの木造の仏像は、頭部と胴体部を同じ一本の木から彫り出す、いわゆる一木造であった。
 が、藤原時代に定朝が出現してから後は、頭と胴体部を複数の材木を寄せてつくり、さらに像内を深く内刳りする寄木造が主となったのである。
 運慶や快慶をはじめとする鎌倉仏師たちは、寄木造の手法を用いて仏像をつくった。
 寄木造の利点として上げられるのは以下の通り。(勉強の成果
  1. 内刳りがしやすい(像が軽くなる、内部に物が入れられる)
  2. 分業により作業の効率化が図れる(いわゆるプレハブ工法)
  3. 大きな像の制作が可能(木の大きさに限定されない)
  4. 輸送にも便利(分解して運べる)
 たった2か月余りで完成した東大寺南大門の仁王像のように、大規模な仏像の制作を短期間で行うことが可能になったのは、寄木造が発明されたればこそである。
 一木造から寄木造へ。
 この変化を単に、機能性や利便性や作業効率の点からばかり考えてはいけないよ、とミズノ先生は言っている。
 寄木造は、仏像の頭と胴体をいくつかに分割して作る。
 仏の頭や顔を割る。
 たしかに、それは大きな意識の変化がなければ簡単にはできないことである。
 家をつくるのとはわけが違う。
 古来あった仏像や神木に対する畏敬の念が、消失とは言わないまでも、合理性の前に薄まったのである。
 ひょっとしたら、一木造に最後までこだわっていたために時代の波に乗れず、消え去っていった仏師もいたやもしれない。

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康成作、金峯山寺仁王門・金剛力士立像(南北朝時代)
像高約5mの像を吉野山から奈良国立博物館まで運び入れることができるのも寄木造りなればこそ

 知れば知るほど、仏像鑑賞の奥の深さに感じ入る。
 今年もいろいろな仏像との出会いが待っている。
 “敬派”のはしくれとして鑑賞眼を磨いていきたい。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● 1089(トウハク)舞台裏ツアーに行く

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 東京国立博物館(東博=1089)では、不定期で『文化財を未来につなぐ・博物館舞台裏ツアー』を行っている。
 本館の第17室(保存と修理)から始まり、普段職員しか入れない本館地下通路を通って中庭に出て、法隆寺宝物館の裏手にある管理棟を職員が案内してくれる。 
 管理棟は、文化財の調査・研究・修復を行なう施設で、2019年に竣工した東博の最も新しい建物である。
 東博の内部に侵入し、文化財の保存・修復に関する取り組みを学ぶ、またとないチャンス。
 奈良大学通信教育で学んだ『文化財保存科学』の復習を兼ねて、ツアーに申し込んだ。
 参加料金は一般3,000円(税込)のところ、貧乏学生のソルティは2,500円(税込)だった。

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 当日10時半に本館受付に集合。
 参加者は10名、女性が多かった。
 各々に渡されたヘッドフォンを頭に付け、先頭で誘導してくれるスタッフのマイクを使った説明を聞きながら、展示室の中へ。ほかの来館者の鑑賞の邪魔にならないための配慮である。
 撮影は本館の中と管理棟において可能だった。
 スタッフによる口頭説明のほか、モニターを使ったわかりやすいレクチャーや、実際の修復現場の見学もあり、質問にも応じてもらった。
 申し込んだ甲斐あるワクワク体験であった。

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管理棟

管理棟廊下
作業室内は気温や湿度が一定に保たれ、飲食は厳禁。
当然、通路からガラス窓越しの見学である

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博物館にやってきた文化財の現状を詳細に記録

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修復の過程も詳細にカルテに記録
学芸員の仕事はマメで器用で根気よくないとできない
ソルティには到底無理

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最新の科学機器により文化財を診断
今や科学技術なしの文化財保存・修復はあり得ない

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蛍光X線分析装置
物質の化学組成や化合状態を知ることができる
家一軒買えるお値段だとか

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大型CT撮影装置(垂直型)
360度の方向からX線を照射する、いわゆるCTスキャンにより、
3Dデータとして対象を立体的に把握できる

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CTスキャンを用いて模造された縄文時代の遮光器土偶
外側も内側も原型まんまの凹凸がある

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修復に使うさまざまな道具が並ぶさまは、
おしゃれ工房みたいなイメージ

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日本画の接着剤として用いられている膠とふのり

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屏風に用いる和紙もいろいろ
本格修理は年間約70件、対症修理は年間約500点以上行っているという

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東博では、作品保護の観点からジャンルごとに展示期間を定め、展示替えを行っている。たとえば、浮世絵は4週間が限度という。
ふた月続く展覧会の前半と後半で展示品の一部が変わるのは、鑑賞者に再度足を運んでもらうための工夫かと思っていた。

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最後におみやげをもらった!
UTAMAROO !

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庭園

 美しく懇切丁寧な展示の裏に、たくさんの地道で根気のいる作業があることを実感した。















 

● なんなら、奈良23(奈良大学通信教育日乗) 再提出2発目  

 高市内閣が成立してからというもの、ソルティは鬱っぽい。
 むろん、戦前(大日本帝国)の日本にどんどん逆戻りしていく気配が増して、軍靴の響きが近づいていると感じるからである。
 高市早苗がああいう人なのは先刻承知なので今さら驚く話でもない。 
 ショックなのは、自民党議員が決選投票で彼女を選んでしまったという事実、そして(ホントかどうか怪しいと思うが)70%とかいう国民の支持率の高さである。
 昭和時代にはまったく考えられないことである。
 「自民党も日本国民もすっかり変わってしまった! 世代が代わるというのはこういうことなのか!」と暗澹たる思いがする。
 田中角栄元首相が、新人議員にいつも言っていた言葉が思い起こされる。

戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。平和について議論する必要もない。だが、戦争を知らない世代が政治の中枢となったときはとても危ない。 

田中角栄
田中角栄元首相

 そんな鬱っぽい状態にあって届いた考古学概論レポート「再提出」の知らせは、黒い縁取りがありました♪――じゃなくて、ソルティを2日間ほど落ち込ませた。
 テキストはもちろん、多くの本やネット記事を読みこみ、千葉の国立歴史民俗博物館まで足を運び、1ヵ月半かけて作成した渾身のレポート(のつもり)だったので、徒労感がはなはだしかった。
 「この1ヵ月半を返してくれよォ~!」
 合格を前提に立てた今後の勉強計画も作り直さなければならなくなった。
 トホホ・・・・

 まあしかし、「もしかしたら蹴られるかも・・・」という予感はしないでもなかった。
 というのも、考古学概論のレポート設題に、「考古学とはどのような学問であるのか、自由に論じなさい」とあったので、ソルティはかなり“自由に”論じてしまったのである。
 おおむね、指定された6400字+αのうち、テキストとサブテキストに沿った部分は1/3(2200字+α)で、残り2/3(4400字+α)はテキストにないことばかり書いた。
 ソルティのつもりでは、考古学と関係あるテーマを複数取り上げ、「考古学とはどういう学問か」を自分なりの視点から論じたのだが、先生からの講評には、「あまりにも考古学と直接関係のない内容が多すぎます」とあった。
 結局、テキスト内容をふくらませたレベルの“自由度”が求められていたらしい。

 実はソルティ、そのあたりの注意ポイントは先刻承知であった。
 昨年12月に奈良学友会関東支部による学習相談会(東京会場)に参加したときに、卒業されたOB/OGからそのへんの秘訣は授けられていたし、ネットに掲載されている卒業生の体験談からも「“自由に”という文句につられてはいけない」という教訓を得ていた。
 分かっていたのにやってもうた。
 まるでオレオレ詐欺に引っ掛かった高齢者のよう・・・・。

オレオレ詐欺

 しかし、今回ソルティは“自由に”書かずにはいられなかった。
 というのも、考古学概論についてのレポートを書くために、人生ではじめて考古学関係の本をあれこれ読んだり、千葉くんだりまで遠足したりしているうちに、考古学の面白さを発見すると同時に、現在、考古学がたいへんな転換点に置かれていると思ったからである。
 その背景の一つが、考古学におけるAI技術を含む自然科学的方法の驚異的な成果である。
 たとえば、ナスカの地上絵の発見率が、AIの利用によって、これまでの16倍高まったとか、古代ゲノム(遺伝情報)研究によって、日本人の起源が「縄文人+弥生期渡来人+古墳期渡来人」の三重構造と判明した、とか凄すぎるではないか!
 もう一つが、『万物の黎明』という本の刊行(2021年)である。
 この本は、『負債論』『ブルシット・ジョブ』などの著書がある人類学者デヴィッド・グレーバー(2020年9月逝去)と考古学者デヴィッド・ウェングロウの共著で、邦訳は酒井隆史訳で2023年9月に光文社から刊行された。
 ソルティは、邦訳発行時に書店の平棚で見かけ、タイトルからスピリチュアル本と思って手に取った。
 が、違った。
 考古学か人類学の本で、難しそうで、しかも分厚い。
 すぐ棚に戻したのであった。
 それがこうして、奈良大学の学生になり、考古学を学ぶことになったおかげで、再び手に取ることになったのである。
 そして、この本がかなり衝撃的な、人類の歴史認識を揺るがせるような、パラダイム変化をもたらす可能性を秘めた爆弾であると察した。
 実際、世界でも日本でも、多くの人類学者や考古学者や歴史学者が、本書に衝撃を受け、影響されて、自らの研究の見直しを始めている。
 現在NHK教育テレビでやっている『3か月でマスターする古代文明』という番組も、間違いなく『万物の黎明』を下敷きにしている。
 すでに影響は広範囲に及んでいるのである。
 (個人的にも、高市内閣由来の“鬱っぽさ”を解消してくれる薬になった)

万物の黎明

 ソルティは、今回レポートを書くにあたり、どうしても上記2点を指摘せざるをえなかった。
 たとえ、設題の趣旨からはずれていようとも、書かずにはいられなかった。
 このたびの学びの最大の成果はそこにあったからである。
 よろしい。「再提出」も甘んじて受けましょう。

 今は、間近に迫る書誌学の試験の勉強(というより暗記)に追われている。
 本来ブログ記事をのんびり書いている余裕はない。
 とり急ぎ、現在奈良大学通信教育学部で学んでいる学友諸兄(姉)の参考になればと思い、一筆啓上申し上げた次第。

P.S. 卒業した暁には、「奈良大学通信教育・再提出レポート&不合格答案集」を記事に上げようと思っています。原稿が溜まりますように(笑)












● 運慶行列、あるいは四天王像の秘密(東京国立博物館)

 11/16(日)放送のNHK日曜美術館で、東博開催中の『運慶 祈りの空間 興福寺北円堂』展が取り上げられたので、平日の午前中でも結構混むだろうなあと予想していた。
 開館10分前に到着したら、正門前にはチケットを事前購入している60名近くがすでに並んでいた。
 その最後尾についたが、どんどん後ろに人が付き、列が長くなっていく。
 それとは別に、これからチケットを買う人たちの列がある。
 全部が全部、運慶目当てとは限らないが、混むのは間違いない。
 展覧会開始10日後の9月18日に来たときは、まったく並ぶことなく入場し、余裕で鑑賞できたのに・・・・。
  
 開門と同時の運慶ダッシュを避けるための措置だろう。
 「運慶展をご覧になる方はこちらにお並びください」
 というスタッフの声に誘導され、運慶展ポスターを手にした別のスタッフに先導され、アヒルの行列よろしく敷地内を遠回りしながら本館に近づいていく。
 運慶行列のお通りだ!
 伊豆の願成就院、逗子の浄楽寺、岡崎の瀧山寺、都内の半蔵門ミュージアムで、運慶を1時間近く独り占めできたことを思うと、このギャップはなんか滑稽である。
 北円堂ならではか? 
 それでも早起きしたおかげで、待たされることなく、特別5室に入場できた。
 身動き取れないほどではないが、気を付けて歩かないと人にぶつかる程度の混み具合だった。(ある程度入れたら、入場制限している)

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 中央にまします弥勒如来像、無着像、世親像の素晴らしさは、云わんかたない。
 運慶の最高傑作であると同時に、法隆寺の百済観音像、中宮寺の菩薩半跏像、興福寺の阿修羅像、宝菩提院願徳寺の菩薩半跏像、宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像などと並んで、日本の彫刻の最高峰に位置するのは間違いない。
 いや、世界の彫刻の中でも、ミケランジェロの「ダビデ」やロダンの「考える人」やバチカンの「ベルヴェデーレのアポロ」などに匹敵する人類の宝である。
 人間の精神性の深さを表現したものとしては、レンブラントの人物画に匹敵するのではなかろうか。
 観る角度によって印象ががらりと変わる無着と世親の不思議な表情は、千変万化する人間の心模様そのものであり、観る者の心の投影であり、また、真剣な学問と修行の末に2人の仏教者が達した境地、“この世の一切を分け隔てなく包含する慈悲”のあらわれのような気がする。
 少なくとも、“無の境地”ではない。

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無着(上)と世親(下)

 今回は、四天王像をよく見たかった。
 仏教や国を守護し、外敵を威嚇・退治する役を担った四天王は、それぞれに武器や宝物を手にし、おっかない顔して四隅に立っている。
 像の前に立つと、「睨まれている」、「見透かされている」、「怒られてる」、「威嚇されている」という畏怖感に襲われる。
 しかるに、今回じっと見ているうちに、怒っているような表情のうちに、より繊細な感情が秘められていて、4体それぞれ、かなり違いがあるように思った。

 持国天は、観る者を正面からぐっと睨み、「お前は何者だ?」と誰何し、威嚇する。
 4体のうち、もっともストレートに怒りを表出している。
 が、その奥に感じるのは、この男の生真面目さ、誠実さ。
 大事な仕事をまかせるなら、この男を措いてほかにない。

 増長天は、つかみどころがない。
 剣を前にかまえて、相手を威嚇しているようにも見える。
 ネズミを前にした猫のように、相手の出方を観察しているようにも見える。
 かと思えば、角度によっては、深い思索中の哲学者のようにも見える。
 さまざまな印象を装うことによって、相手を翻弄するのを楽しんでいるように見える。

 広目天は、激しい感情の爆発が特徴的。
 4体の中で一番気が短そう。
 だが、その爆発の原因を怒りのせいとするのは早とちりかもしれない。
 大きく開いた口からのぞくチャーミングな歯列や、その奥で震える舌は、「ひょっとしてこの男、怒っているのではなくて、哄笑しているんじゃないか?」と感じさせる。
 自由闊達な体の動きも、喜びの爆発ゆえではないか。

 多聞天こそ、不可思議である。
 多聞天=毘沙門天は四天王のリーダーであり、もっとも風格がもとめられる存在であるはずなのに、この男、像の前に立つ者と目を合わせようとしない。
 威嚇するのを忘れてしまったようだ。
 その視線は、左手に掲げた宝塔に向いている。
 なんだか自分の世界に籠っているメンタル系男子みたい。
 しかも、その表情、なんだか泣いているように見える。

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右下より時計回りに
持国天・増長天・広目天・多聞天

 持国天の「怒」、増長天の「楽」、広目天の「喜」、多聞天の「哀」。
 そう、この四天王は、あたかも「喜怒哀楽」の表現のようなのだ。
 これらの像を造るにあたって、設計図となるデッサンを書いたのは、あるいは寄木造の原型となる何分の1かの雛型を造ったのは、総監督であった運慶の可能性が高い。
 もし、雛型を作ったのが運慶で、それぞれの像を実際に担当したリーダーが運慶の長男(湛慶)、次男(康運)、三男(康弁)、四男(康勝)であるのならば、この四天王は、息子たちの性格をつかんでいる父・運慶が、それぞれの像に託して4人の息子たちを写し取ったものなのではないか、とさえ思えてくる。
 すなわち、真面目で誠実な湛慶、飄々としてつかみどころのない康運、天真爛漫で感情表現ゆたかな康弁、そして、ナイーブでスピリチュアルな気質をもつ康勝。
 4つの像の表情の多様さと深みの秘密は、眼の前の息子たち兼弟子たちを深い愛情をもって育ててきた父のまなざしに由来するのではないか、と思うのである。

 もう一つ感銘を受けたのは、四天王像のたくましい体つき。
 がっしりした肩、力強い腕、見事な背筋、でっぷりした腰回り、どっしりした脚、全身から発する野性。
 やはりこれは、運慶と関東武者の出会いの産物なのではないかと思う。
 京都の糖尿病予備軍の貴族たち、奈良のインテリ僧侶たち、都会育ちの垢ぬけた平家の武者たちを見慣れていた運慶の目に、草深い東国で野山を駆けまわって狩りをし、藁と汗にまみれて農作業をし、礼儀も風流も知らない武骨な関東武者たちの姿や生態は、きわめて新鮮なものに映ったのではなかろうか。
 野性のもつ生命力との遭遇が、運慶の中にある野生をも目覚めさせて、これまでの仏像にない力強い表現を生んだのではないか。

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東博本館より上野公園噴水広場を望む

 1時間弱で鑑賞終了。
 会場の外に出たら、本館入口前に20mほどの運慶行列ができていた。
 「ただいま10分待ちです」とスタッフが連呼する。
 平日でこれなら、休日はどうなることやら。
 展覧会終了まで、この状態が続くのは間違いあるまい。

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東洋館のシアターで「VR作品 興福寺阿修羅像」を鑑賞
やっぱり、和風美少年だな
先月亡くなったビョルン・アンデルセンの少年時代とはタイプが異なる


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入口で学生メンバーズパス(1200円)を購入
東京・京都・奈良・九州の4つの国立博物館の常設展を何度でも鑑賞できる
学生ってほんとにお得!
使いまくるぞ~















 




  
 
  

● なんなら、奈良22(奈良大学通信教育日乗) 大学生のためのレポート・論文術

 考古学概論のレポートを提出しホッとしているところ。
 何を書いたらいいのか分からなかった白紙状態から、テーマを見つけて、構成を考えて、材料を探し、資料を読み込んで、なんとか文章に仕立て、間違いがないか何度も読み返し・・・・。
 奈良大学通信教育部行きメールの送信ボタンをクリックしたときは、我が子をサバイバルキャンプに送り出す母親のような気分だった。

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Sasin TipchaiによるPixabayからの画像

 レポート作成にあたって、本文に苦労するのは毎度のことであるが、意外に頭を悩ませるのは引用の仕方である。
 既刊の図書や新聞記事からの、あるいは先行論文からの引用は、ちゃんと引用元を表示しないといけない。
 それをしないと、剽窃や盗用になってしまう。
 著作権侵害になってしまう。
 なので、レポートの最後に引用文献や参考文献を列挙するのであるが、その表記の仕方がいまいちよくわからない。

 考えてみたら、学術レポートを書くのは実に40年ぶり。
 すっかり書き方を忘れているのも無理ない。
 しかも、ソルティは英文科の学生だったので、卒論は英文提出だったのである。(いま思うとなんと無謀な!)
 10年ほど前に社会福祉士の資格を取るために通信教育を受けたときも、レポートはどっさり(1年半で33本!)書いたが、テキストを要約すればいいレベルだったので、他の文献からの引用は必要なかった。
 日本語のレポートや論文の場合、どうやって引用表記すればいいのか?

 いや、そんなに悩むことないっしょ?
 【筆者の名前、本のタイトル、出版社、刊行年、引用ページ】
 でいいでしょうに――と思うところだが、40年前と格段に状況が変わった。
 インターネットの登場である。
 いまや、ネット上の記事というか資料からの引用・参照が当たり前の時代である。
 たとえば、今回の考古学概論レポートの場合、6つのサイトの記事を参照した。
 国立大学が2カ所、大手新聞社が1カ所、有名民間企業の外郭団体が1カ所、国立研究法人が1カ所である。
 一応、“怪しくない”=信頼性が高いと思われるサイトを選んだけれど、どうなんだろう?
 選ぶ基準が難しい。
  • ネット上の記事ならどれでも引用していいのか? たとえば、Wikipediaや他者ブログはどうなのか?
  • 著作者(たとえばブログ主)の許可を取る必要はあるのか?
  • 図表や画像も引用(コピペ)していいのか?
  • 末尾の引用(参照)文献一覧にどうやって表記するのか?
  • 論文などが pdf. でそのまま掲載されている場合、「ネットで読んだ」ことを示すべきなのか?
  • 論文を作成した後に、引用した記事が削除されてしまったらどうするのか?
 等々、よくわからないことが多い。
 〈論文 引用方法〉とネットで検索すると、大学関係はじめいろいろな記事が上がってきて丁寧に引用方法を教えてくるが、サイトによって言ってることが違うので、ますます混乱してしまう。
 そんなわけで、やっぱり昭和世代。最後は本に頼りたい。
 小笠原喜康著・近藤たかし作画『マンガでわかる 大学生のためのレポート・論文術』という本を見つけた。
 2002年に刊行されてから累計で50万部のロングセラーになっているそうだ。

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2020年講談社発行版

 たしかに、とても読みやすい。
 知りたいポイントがわかりやすくまとまっている。
 論文の書式やレイアウトや段落のつけ方といった基礎の基礎から、文献・資料の集め方、引用・参照のルール、わかりやすい文章をつくるコツ、論文の基本的な組み立て方など、初心者には大助かりの、痒いところに手が届く内容である。
 とりわけ、ネットを使った先行論文の検索方法や関連図書の探し方、ネット資料の表記の仕方が書かれているのが嬉しい。
 それによると、ネットからの引用の記載の基本は、以下の通り。
  1. 資料のある場所のURLを記載。
  2. 記事に日付がある場合にはそれを記載。
  3. 記事の取得日(アクセスした日)を必ず記載。
  4. 可能な限り、サイトの管理者・情報提供者を記載。
例.
 “なんなら、奈良20(奈良大学通信教育日乗)入学まる1年”(2025-09-   
   27掲載),『ソルティはかた、かく語りき』,  
   https://saltyhakata.livedoor.blog/archives/10437061.html
   (2025-11-15取得)

 検索した記事の中には、「サイトの最新更新日を記載すること」と書かれているものもあったが、本書ではそこまで求めていない。
 最新更新日って最近のサイトではほとんど記載されていないし、調べるのは結構手間がかかるみたいだし、日付がたくさんあっても混乱するだけなので、今回の提出レポートには付さなかった。
 なにせ、ネットからの資料の入手は新しい事態なので、上記以外はっきりしたルールが決まってはいないようだ。
 つまるところ、レポートや論文を読んでくれる先生の意向に合わせるのがベストなのだろう。

奈良大学旧校舎破風「學」
奈良薬師寺内にある南都正強中学旧校舎(奈良大学の前身)








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