ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●なんなら、奈良(奈良大学通信教育日乗)

● なんなら、奈良13(奈良大学通信教育日乗) 民俗学の周辺

 4月中旬に提出した民俗学のレポートが早、返って来た。
 「奈良大学通信教育学部 文学部 文化財歴史学科」の名が表に入っている角2封筒を開ける瞬間、年末ジャンボの当選番号を確かめる時のように、ドキドキする。
 自分なりに精一杯がんばって書いたつもりではあるが、「設題意図を誤って理解していたかもしれない」、「オリジナリティが足りなかったもしれない」、「引用が適切でなかったかもしれない」、「誤字脱字が多かったかもしれない」などとマイナス面をいろいろ考えて、「再提出」の可能性を思ってしまうのだ。
 封筒を自分の部屋に持ち帰って、心を落ち着けて封を切った。
 「合格」だった

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 これで民俗学も単位修得のための筆記試験にのぞむことができる。
 このゴールデンウィークは、前半こそ3日間の奈良旅を満喫したが、後半はほぼ毎日図書館に通い詰めて、民俗学の勉強に明け暮れた。
 というのも、テキスト科目は、レポートを提出したら完了というわけにはいかないからだ。
 修得試験に出される5つの設題――あらかじめ提示されている――について、試験当日5つの設題のうちからどれが出されてもいいよう、解答を用意して、試験当日までに暗記しておかなければならない。
 つまり、テキスト科目の単位を取るためには、3200字(2単位)あるいは6400字(4単位)のレポートを1本と、1000字~1400字くらいのレポート5本を作成しなければならない。
 1教科につき都合6本のレポートを作成しなければならないわけで、これがなかなか大変なのである。(2026年4月からは修得試験の出題が10題からの選択になるようだ。戦々恐々

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 ほとんどの教科は、大学から送られてきたテキストとサブテキストをしっかり読んで、それを要約することでレポートを仕上げることができる。
 通信教育も大学の講義には違いないので、先生の日常の講義(=テキスト内容)をどこまでちゃんと理解できているかが問われるのである。
 そこを勘違いして、生徒がテキスト内容とは異なる自分なりの発想や斬新な説を打ち出したレポートを提出して見事に撃沈――という例が結構多いという話を、昨年、奈良学友会関東支部による学習相談会に参加したときに先輩方から聞いた。
 不合格という結果を受け入れ難くて、同じような内容で何度もトライしてそのたび突き返される、あたかも講師と紙面上でバトルしているような生徒さんもいるらしい。
 我々は院生でも博士課程でもないただの学部生なので、まずは教科内容の基本的理解が大切なのである。
 と言って、テキストやウィキペディアの丸写しやChatGPTにたよるのは論外であろう。
 テキストを読み理解した内容を“自分自身の言葉で”いかに表現するか、というところがポイントなのではないかと思う。

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 そのあたりの塩梅を飲み込みながら、ここまでレポートを作成してきたのだが、民俗学の場合、ちょっと違った。
 レポート課題も修得試験の設題も、(サブ)テキストの要約では全然どうにもならないものばかりだった。
 自分で課題を選んで、テキスト以外の関連図書を探して、それを熟読し、読み手にわかるように簡潔にまとめ上げなくてはならないのだった。
 たとえば、修得試験の5つの設題のうち2つは次のようなものである。
  • 盆行事について民俗調査し考えたことを述べよ。
  • 民話・伝説を民俗調査し報告し考えたことを述べよ。
 「それぞれ民俗文化(伝承文化)の具体例を観察して、自分の文章にて報告しなさい」と、講師からの注意書きがついている。
 つまり、日本国内に無数にある地域固有の盆行事(あるいは民話・伝説)からどれか一つを選んで、それを観察して報告しなさい、ということである。
 実際には、我々素人が、民俗学者やプロアマ問わない民俗研究家らによる専門的調査の手がいまだ入っていない盆行事や民話・伝説をこれから見つけ出して、一から調査するのはまず簡単ではないので、「民俗調査した報告書からとりあげても構わない」という。
 そこで、埼玉県民であるソルティは、埼玉県各地の盆行事や民話・伝説を最寄りの図書館で調べ、自分が興味を持った対象を選び、それについて書かれた民俗資料を探し出して目を通し、自分の言葉でまとめた。

 秩父ファンのソルティは、秩父のA村で戦国の頃より行われてきた盆行事と、B村で伝えられてきた妖怪伝説を選んだ。
 これらを調べる作業は実に面白かった。(試験には出題されないかもしれないが)
 ソルティは趣味の山歩きの際にB村は通りかかったことがあり、くだんの妖怪伝説あるのを知っていた。が、秩父の山奥にあるA村には行ったことがない。
 せっかく調べたのだから、いつの夏にかA村に行って盆行事を見学する機会があればと思うのだが、過疎化と少子高齢化でA村の盆行事も年々縮小されている様子がうかがえる。存続の危機にある。いや、A村自体、廃村の可能性無きにしもあらず。
 早く行かないと見る機会は永遠に奪われてしまうかもしれない。

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 民俗学というのは別に、戦前の古い時代の民俗のみを対象とする学問と決まっているわけではない。
 常光徹著『うわさと俗信 民俗学の手帖から』(河出書房新書)のように現代の都市伝説を対象としてもいいし、なんなら日活ロマンポルノを手掛かりに昭和時代の性風俗や男女のセクシュアリティのありようを調べてみるのもありだろう。
 現代民俗学という言葉もある。
 ではあるが、何百年も続いてきた地域の行事が次々と消えていく現状をみるに、柳田国男が創設した民俗学というものが、まるで、戦前まで綿々と続いてきた日本の伝統文化や民俗の“待ったなしの記録保存作業”であったかのように思われるのだ。

 ともあれ、民俗学の6つのレポートは完成した。
 これから、ここまでにレポート通過した4つの科目の試験勉強に入る。
 ひとまず小休止。

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● 2025春の奈良旅3 古代まつり

 前回飛鳥に来たのがいつだったか思い出せない。
 いや、藤原京を飛鳥に含むとすれば、3月の奈良大学通信教育スクーリングで訪れている。
 が、ソルティの中では、やはり、聖徳太子や推古天皇や蘇我氏が活躍した頃の政治・文化の中心地を飛鳥とみなしたいのである。
 つまり、山岸涼子作『日出処の天子』の舞台である。 (ただし、斑鳩宮はかなり離れている)

日出処の天子

3日目(4/27)晴れ
09:00 橿原神宮駅前
     自転車レンタル
09:20 明日香村
09:40 甘樫丘展望所
10:20 飛鳥寺(安居院)
10:50 飛鳥坐神社
11:00 酒船石
11:15 岡寺
12:00 石舞台古墳
     昼食
13:00 天武・持統天皇陵
13:20 近鉄橿原線・飛鳥駅
     自転車返却
13:30 飛鳥駅発
15:00 JR京都駅発

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近鉄橿原線・橿原神宮前駅
駅前のレンタサイクル店に開店と同時に行くも、電動アシスト付きは予約で押さえられていた。普通の自転車で Let's GO !

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住宅街が終わり、畑と空が広がる。
そこは明日香村。
時間の流れがゆるやかになった。

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まずは甘樫丘(148m)に登り、北側の大和三山にご挨拶。
三山を含む広い平野(ほぼ目に入る地域)が藤原京の跡地である。
デカさが実感される。

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香久山

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耳成山

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畝傍山

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南側に飛鳥京の跡地を望む

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畑仕事している男性に飛鳥寺への道をきいたら、とても親切に教えてくれた。観光客ずれしていないんだな。

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飛鳥寺
蘇我馬子の発願により推古天皇4年(596)に創建された日本最初の寺院。
安居院という名をもつ。

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本尊の飛鳥大仏(釈迦如来坐像)
609年、鞍作鳥(くらつくりのとり)によって造られた日本最古の仏像。
高さ3m、銅15トン、金30kgが用いられたというから、聖徳太子や蘇我氏の仏教受容の気合いのほどが偲ばれよう。
鎌倉時代の火災による破損のため、当初の部分が残っているのは顔面の上半分と右手指3本。そのせいか国宝には指定されておらず、撮影自由であった。

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アーモンド形の目はたしかに、アルカイックスマイルと並ぶ飛鳥仏の特徴である。

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飛鳥寺より甘樫丘を望む。
中心やや左下に見えるのは、蘇我入鹿の首塚。
うららかだ。

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飛鳥坐(あすかにいます)神社
創建不明の古社。
大国主神の御子である事代主神(ことしろぬしのかみ)を主祭神とする。
お多福と天狗が夫婦和合の「種つけ」をし、稲の豊穣・子宝を願う天下の奇祭「おんだ祭り」で有名。
現在の宮司は飛鳥家87代目当主である。

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酒船石
長さ約5.3m、最大幅約2.3m、高さ約1mの謎の花崗岩。
酒を醸造したという説からこの名で呼ばれているが、用途不明。

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卜占(水占い)に使われたという説もある。

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岡寺
663年、義淵僧正による創建と伝わる。
国宝の義淵僧正像(木心乾漆像)は超国宝展でお会いできた。

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本堂
日本最大(約4.6m)の塑像である如意輪観音さまがいらっしゃる。
右手は施無畏印、左手は与願印、足は結跏趺坐というオーソドックスな像容が意外。六臂(六本の手)をもち片膝を立てて思惟する通常の如意輪観音とはまったく異なる。奈良時代の作と伝わるが、あとから作り直された部分が多そう。子供の粘土細工のような稚拙さがかえって可愛い。

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三重塔
1986年に514年ぶりに再建された。

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岡寺より見下ろす飛鳥の里
ここまでの登りが人力自転車には最もきつかった。

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ふと空を見上げると龍が泳いでいた。
いいことありますように。

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石舞台古墳
今は石が露出しているが、もともとは土がかぶせてあり、一辺約50mの方墳をなしていた。
蘇我馬子の墓とされる。

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飛鳥のシンボルというにふさわしい存在感。
この角度からだと、馬子(『日出処の天子』に出てきた熊親爺)が横たわっているように見える。
中は空洞(石室)になっている。

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馬子の頭側から中に入れる。

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長さ約7.8m、幅約3.4m、高さ約4.8mの花崗岩の石室。
江戸間の6畳×2間くらいの広さ。
ここに馬子の遺体を入れた棺や副葬品が納められていたのだろう。

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玄室内より見た出入口
夏は涼しいかもしれない。

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石舞台古墳を見ながらおにぎりをほおばる。
芝生広場で家族連れが遊ぶ平和な光景。
奈良っぽい。

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飛鳥では外国人観光客をまったく見なかった。
この良さが知れ渡るのも時間の問題だろう。

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天武・持統天皇陵(野口王墓)
叔父と姪の夫婦である。

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現在の墳丘は東西5.8m、南北4.5m、高さ9mの円墳状だが、本来は八角形の五段築城で、周囲に石段をめぐらしてあった。
以下、ウィキペディア「野口王墓」より抜粋。

本古墳は1235年(文暦2年)に盗掘にあい、大部分の副葬品が奪われた。その際、天武天皇の棺まで暴かれ、遺体を引っ張り出したため、石室内には天皇の遺骨と白髪が散乱していたという。持統天皇の遺骨は火葬されたため銀の骨壺に収められていたが、骨壺も奪い去られ、無残な事に中の遺骨は近くに遺棄されたという。

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近鉄橿原線・飛鳥駅
ここで自転車を返却。いい運動になった。

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13:30飛鳥駅発で、京都発15時の新幹線にぎりぎり間に合った。
まだまだ飛鳥は見残しが多い。
飛鳥資料館、飛鳥宮跡、高松塚古墳にも行きたかった。
向後のお楽しみ。

仏教美術と自然と信仰と歴史、そして奈良の人々の穏やかさに浸った、楽しい3日間であった。


おわり












● 2025春の奈良旅2 花まつり

 地図で言えば、奈良の都の右下あたり。三重県に接している宇陀市。
 その大半は森林である。
 2日目は宇陀の古刹・室生寺と、同じ路線にある観音様で有名な長谷寺(桜井市)に足を延ばした。
 両寺とも、満開の花に迎えられた。

2日目(4/26)晴れ
09:45 近鉄大阪線・室生大野口駅
     自転車レンタル
10:30 室生寺(2時間15分stay)
13:00 龍穴神社
13:15 吉祥龍穴
13:45 昼食「室生路」
14:30 室生大野口駅
     自転車返却
15:00 長谷寺駅
15:20 長谷寺(90分stay)
17:15 長谷寺駅
18:00 近鉄橿原線・橿原神宮前駅
宿泊 橿原市内

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近鉄大阪線・室生口大野駅

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駅舎は高台にある。
駅前のレンタサイクル店で電動アシスト付自転車を借りる。
ここから素晴らしいサイクリングロードが始まる。

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宇陀川に沿って新緑の中を行く。

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渓谷美に立ち止まることたびたび。

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約30分で室生寺到着。

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太鼓橋から
参道には古風な旅館や食堂が並び、雰囲気バツグン。

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室生寺
680年、天武天皇の勅命で修験道の祖・役小角が創建したと伝わる。
空海ゆかりの真言宗寺院である。
かつて女人禁制だった高野山に対し、女性の参詣が許されていたことから「女人高野」と呼ばれた。

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仁王門

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石楠花(しゃくなげ)の見頃であった

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ツツジ科ツツジ目
あまりの美しさから修験者が錫杖(しゃくじょう)を投げて修行を忘れたことから錫投げ(シャクナゲ)と呼ばれるようになった――という謂れは今ソルティが作った出鱈目である。

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ここから奥の院まで心臓破りの石段が始まる。

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弥勒堂
鎌倉時代の杮葺きのお堂

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金堂
平安時代初期のお堂
拝観料を払って内陣を拝み、スマホ撮影することができた。

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国宝・釈迦如来像、薬師如来像(右)、文殊菩薩像(左)
平安時代初期のカヤ製の一木造

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十二神将より2体(鎌倉時代)
武器を持っていないので正体が分からず。

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本堂
室生寺本尊の如意輪観音菩薩像(平安時代)が安置されている。
カヤの風合いが残る素朴なタッチの像。

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五重塔
平安時代初期の建立。五重塔としては法隆寺の次に古い。
丹塗りの組物が緑に映えて美しい。

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奥の院まで、数百段の杉木立の石段が続く。
もう少し時期が遅ければ、汗だくになるところ。

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清水の舞台のような建物が見えれば終点

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内陣に黄金の位牌がずらりと並ぶ位牌堂であった

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奥の院には、ほかに大師堂、御朱印をもらえる社務所がある。
位牌堂の周囲の欄干に腰を下ろせる場所がある、
宇陀の風に吹かれて一服しつつ、高野に思いを飛ばすのもオツ。
「わが身をば 高野の山に とどむとも 心は室生に 有り明の月」(伝・空海詠)

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位牌堂に飾られている地獄絵

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下山して宝物殿へ。
ここには素晴らしい仏像がある。
美しい色彩と模様の光背をもつ女性的で優美な十一面観音菩薩(約196cm)、
ダイナミックな表情とポーズがハートを鷲掴みする十二神将、
国宝・釈迦如来坐像は奈良国立博物館「超国宝展」出稼ぎ出張中でパネル展示であった。

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本坊・慶雲殿

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街の喧騒を離れた自然のふところで、命の洗濯ができる素晴らしいお寺であった。

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自転車で龍穴神社へ10分。

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龍穴神社
水の神・高龗神(たかおかみのかみ)を祀る。
奈良時代から平安時代にかけて雨乞いの神事が営まれた。
パワースポットとして人気を集める。
そこからさらに山道を登ること15分。

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吉祥龍穴
ここが龍穴神社の奥の院、パワーの源である。
電動アシストでなければ厳しい登りであった。

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禁域の滝

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沢のほとりに建つ遥拝所。
なにやら熱心に祈願している先客がいた。

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竜神が棲むという龍穴。これがご神体。
このあたりの空気は清浄にして崇高なものがあった。

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里に下りて遅めの昼食
「室生路」さんはメニュー豊富。

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黒毛和牛たっぷりの肉うどんが旨かった。
コーヒーの無料サービスもあった。
御馳走様!

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近鉄大阪線・長谷寺駅へ。
地元民らしき男性に長谷寺へ行く近道を教わった。

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お店や旅館の並ぶ参道はつい寄り道、買い食いしたくなる。
・・・しました。

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昔ながらの旅館が並ぶ。
紫式部もこの参道に泊まったのだろう。

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長谷寺
727年、聖武天皇の勅願により十一面観音菩薩を祀ったのが長谷信仰のはじまりと言われる。
真言宗豊山派の総本山でもある。
(結局、本日は弘法大師参りってことか・・・)

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登廊(のぼりろう)
仁王門から本堂まで399段の屋根付き石段が続く。
室生寺は日本人参拝客のみだった。ここは外国人も多かった。

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牡丹の見頃であった。

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小倉百人一首を選んだ藤原定家と父・俊成の塚があった。
「来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ」(定家)  
(夕なぎの松帆の浜辺で、いくら待っても来ない人を待っている私は、浜で焼いている藻塩草のように身をこがしているのです)

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本堂
1650年、徳川家康により造営された。

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本堂から西に望む丹色の五重塔が、緑の中に美しい。
1954年建立。

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本尊・十一面観世音菩薩立像
10mを超す楠製の巨大像に圧倒された。
1538年、東大寺僧実清作と伝わる。(紫式部はこれを拝んでいない)
内陣に入って巨大な爪先に触れながら、下から見上げることができる。
ジャイアント観音と言うにふさわしい迫力。

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大手毬の群生
子手毬(コデマリ)の兄貴分かと思ったが、実は別系統。
コデマリはバラ科、オオデマリはスイカズラ科である。

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牡丹園の向こうに本殿を望む
日本的な美の粋。

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近鉄橿原線・樫原神宮前駅へ。

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駅から徒歩10分強の宿にチェックイン。
周囲に畑が広がり、畝傍山を東に望む里山ロケーション。

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ふつうのアパートの一室を宿として活用している。
家にいるような落ち着きと家財が揃った便利さ。
管理人さんの顔を見ることなくチェックイン・アウトした。
(訪ねて来られたが、ちょうど風呂上がりで出られなかった)

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風呂上がりに付近を散歩。
古代飛鳥の人々も同じ夕焼けを見たであろう。




つづく。






  

● 2025春の奈良旅1 国宝まつり

 鈴木亮平に誘われ、ゴールデンウィーク直前に3日間の奈良旅。
 奈良のイケメンならぬ、イケ仏たちに会うがため。

1日目 国宝まつり
 斑鳩の里(法隆寺~法起寺~法輪寺)
 奈良国立博物館・超国宝展
2日目 花まつり
 室生寺の石楠花
 長谷寺の牡丹
3日目 古代まつり
 飛鳥巡り(甘樫丘~飛鳥寺~岡寺~石舞台古墳~天武・持統天皇陵)
 
 3日間とも駅前で自転車をレンタルし、効率的かつ気分良く、名所・名跡を巡ることができた。
 暑くもなく、寒くもなく、うららかに良く晴れて、それほど混み合うこともなく、花も新緑も仏も里山もすこぶる美しく、素晴らしい時が持てた。

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鈴木亮平 in 石舞台古墳

1日目(4/25)晴れ
 前泊 京都市内
 08:30 JR法隆寺駅
     自転車レンタル
 08:45 法隆寺(2時間半stay)
 11:40 法輪寺(30分stay)
 12:30 法起寺(40分stay)
 13:30 JR法隆寺駅
     自転車返却
 14:00 JR奈良駅
     自転車レンタル
 14:20 奈良国立博物館・超国宝展(2時間半stay)
 17:10 近鉄奈良駅
 宿泊 天理市内

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JR法隆寺駅
駅前の喫茶店で自転車を借りる(一日600円)。
バス便が少ないので、斑鳩の里めぐりには自転車が非常に便利。
地図をもらい、道順や駐輪場所も教えてもらった。

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法隆寺
前回来たのは2年前の春。
今回どうしてもこの時期に来たかったのには訳がある。

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夢殿に直行。

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御開帳(4/11~5/18)の救世観音を見たかった。
楠製の一木造で金箔を押している。宝冠は金銅製。
7世紀前半の作で作者不明。
聖徳太子の等身大の像として有名だが、思いのほか小ぶりに感じた。
像高約180cmはソルティより20cm高いはずなのだが。
離れたところから金網越しに見たせいであろうか?
いまひとつ迫力(霊力)が感じられなかった。
修学旅行生到着前を狙ったので、ゆっくり拝むことができた。
(画像は法隆寺発行のパンフレットより)

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もちろん、お隣の中宮寺に寄り、弥勒菩薩の神秘的な微笑に癒された。

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西院伽藍
修学旅行生が続々やって来た。
小学生が一人一台タブレットPCを持って学習していたのには驚いた。

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境内には素晴らしい古木がある

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法隆寺の裏手にある天満池
このあたりは池が多い。
年間降水量が少なく、大きな川や湖もない大和平野の農民たちは、用水不足に悩まされてきた。つまり、人造池である。

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天満池から法隆寺を望む。

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池のほとりに立つ斑鳩神社
祭神は菅原道真公
それゆえ天満池と言うのだ。

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法輪寺
聖徳太子の御子の山背大兄王子(やましろおおえのおうじ)創建と伝わる。

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三重塔は昭和19年(1944)落雷で焼失。
昭和57年(1975)に再建された。

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講堂
飛鳥時代の薬師如来像、虚空蔵菩薩像、平安時代の十一面観音菩薩像、鎌倉時代の聖徳太子2歳像、室町時代の聖徳太子16歳像、江戸時代の妙見菩薩像など、バラエティに富む仏像たちがずらり。時代ごとの仏像の様式の違いを学ぶのに恰好の陳列。
中でも、邪鬼ならぬ米俵に乗った毘沙門天(平安時代)は珍しい。お寺の人の話によると、江戸時代に改造されたとか。豊作を願う当時の里人の生んだ変体仏であろう。

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のどかな畑中の道を薫風に吹かれて快適サイクリング

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法起寺
聖徳太子が法華経を講義した岡本宮を、のちに寺に改めたと伝えられる。
太子建立7ヵ寺の1つに数えられている。

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ご本尊・十一面観音菩薩立像
像高350cm  
10世紀後半頃の作と伝わる。

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講堂
元禄7年(1694)に再建したもの。
どことなく城郭風である。

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国宝の三重塔
慶運3年(706)建立と伝わる。
現存する日本最古の三重塔である。  
Simple is beautiful.

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三重塔の中を覗く。
いかにも初期の塔らしい簡素な構造。

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法輪寺や法起寺まで足を延ばす人は少ない。
それだけに、静かでゆったりした斑鳩の里の気を満喫できた。

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奈良国立博物館へ移動

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これが今回の旅の目玉の一つ。
約110件の国宝が一堂に集められた贅沢極まりない展覧会。
仏像好きにとっては万博どころでない空前絶後の仰天企画である。
ソルティは学生なので、観覧料一般2200円のところ学生1500円。
――と思ったら、奈良大学は博物館のメンバーシップ会員になっているので、学生証を見せればなんと400円で入れる! 
超オトク!

主役級の役者たちが共演する昭和時代の年末特番ドラマ(『忠臣蔵』とか)のような豪華さに、圧倒されっぱなしだった。

大物キャスト紹介(ほんの一部、おおむね時代順)
  • 百済観音(法隆寺)・・・法隆寺では模刻が留守番していた。
  • 四天王立像(法隆寺)・・・飛鳥時代の木像の傑作。文科系の広目天が渋い。
  • 天寿国繍帳(中宮寺)・・・聖徳太子妃の橘大郎女の発願にて、太子が往生した天寿国のありさまを描いたもの。現存する日本最古の刺繍。
  • 釈迦如来倚像(深大寺)・・・三鷹からいらしてたのね。
  • 維摩居士坐像(法華寺)・・・肖像彫刻の傑作。個性爆発のユイマ。
  • 義淵僧正坐像(岡寺)・・・奈良時代にこのリアリティ。義淵(643-728)は法相宗の僧侶。
  • 釈迦如来坐像(室生寺)・・・どっしりした安定感。下腹のたるみに親近感。
  • 菩薩半跏像(宝菩提院願徳寺)・・・どこから見ても隙のない完璧な美はグレタ・ガルボか原節子のよう!
  • 吉祥天像(薬師寺)・・・2次元から飛び出てきそうな高貴な天女絵。むかし教科書でお目にかかった。
  • 金地螺鈿細毛抜形太刀(春日大社)・・・鞘に刻まれた何匹もの大和猫のデザインがキュート
  • 大日如来坐像(円城寺)・・・若き運慶の出世作。天才の出現を告げてあまりない。
  • 病草子(京都国立博物館)・・・ふたなり(半陰陽)、痔瘻の男、口臭のきつい女など、病者をリアリスティックに描いた平安末期の珍絵巻。
  • 重源上人坐像(東大寺)・・・運慶作か? 皺のひとつまで、生きているかのようなリアリティ。重源上人は平重衡によって焼かれた南都の復興に尽くした人。
  • 天燈鬼・龍燈鬼立像(興福寺)・・・奈良大学通信教育学部パンフレットの表紙を飾る。運慶の息子・康弁の手による。
 2時間半、集中して見続けてフラフラになった。
 おそらく今日一日で見た国宝の数は、過去60年間分のそれを上回るであろうし、この先もこれほどたくさんの国宝を一度に見ることはまずあるまい。
 国宝バブリーな一日であった。

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疲れた頭と体を天理の温泉で休めた。


つづく。








● なんなら、奈良12(奈良大学通信教育日乗) カンムリワシの暗号解読

 入学して2週間後、履修登録した科目のテキスト数冊が家に届いたとき、パラパラと中味を見て、いちばん手強そうと思ったのは『古文書学』であった。
 博物館で展示されている古文書の巻き物なんかを少しでも読めたらカッコいいじゃん、と思って履修登録したのだが、あまりに内容が高度過ぎる!
 『日本人の手習い 古文書入門』なんて、いかにも易し気にうたっているけれど、まったく入門レベルではない。

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テキスト教材

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古文書の例
(上のテキストとは関係ありません)

 ソルティのようなまったくの古文書ビギナーと、このテキストが想定している読者の間には、河岸段丘のごとき数段のギャップが存在する。
 とうてい読みこなせるものではない。
 しかも、事前に大学から送られた科目修得試験の設題集――あらかじめ出題された5つの問題の中から、試験当日いずれか1題が出題される。つまり、5題すべての回答をあらかじめ準備して記憶しておく必要がある――を見ると、ミミズがのたくったような墨書きの文章が載っていて、「これを楷書に書き改めて解説しなさい」とある。
 いやあ、無理無理、カンムリワシ(完無理ワシ)。

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LapinVertによるPixabayからの画像

 テキストを読めるレベルに達するためには、ほんとにほんとの初心者入門レベルから始める必要があると思い、図書館でその手の本を探し出し、他の教科の勉強をする合間に少しずつ読んできた。
 4,5冊くらい読んだろうか。
 とにかく、旧仮名遣いに馴れなければならないわ(たとえば「ちょうちょう」でなくて「てふてふ」)、漢字も現在は使われていない異体字が多いわ(たとえば「」でなくて「體・躰」)、候(そうろう)文や証文独特の堅い言い回しには面食らうわ、高校の漢文の授業を思い出させる返り点(レ)や「一・二点」が必要な文章が頻繁に出てくるわ、同じ日本人が書いた文章とは思えない。
 たとえ楷書で書かれていたって、読み解くのは難しい。(現代のアメリカ人やフランス人は200年前の同国人の書いた文章を難なく読める。日本人はそれができなくなってしまった。恐ろしいことだ。)
 そのうえに、くずし字である。
 厄介なのはくずし方は一様でなく、一つの漢字(たとえば「御」という字)にいくつものくずし方があるところ。
 「一体全体、どうやったらこれを“御”と読めるの?」と思うようなものも多い。

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「御」のくずし字の例
(柏書房『新編 古文書解読辞典』より)

 それでも今のところ面白く学習できているのは、昔読んだコナン・ドイル作のミステリー短編『踊る人形』を思い出すからだ。
 名探偵シャーロック・ホームズが、踊る人形の絵が並んでいる暗号文を、論理的思考によって見事に解読していく物語である。
 そう、古文書を読むのは暗号解読に等しい。


踊る人形
暗号文書
 ビギナー本を数冊読んだところで、「やっぱり、独学だけじゃ駄目だ。専門家から実地で習わないと進歩しない」
 そう思って、ネットで古文書講座を探したところ、千代田区の日比谷図書文化館(日比谷公園内にある)で「古文書塾てらこや」なるものが開催されていた。
 まずは体験講座を受けてみたら、これがなかなか面白かった。
 そのまま4月からの入門コース(全5回)を申し込んだ。
 いま、通い始めたところである。

 驚いたのは、古文書学習はとても人気があり、受講者が多い。
 一教室40名近い。
 ひょっとしたら、今やっているNHK大河ドラマ『べらぼう』が江戸時代の本屋の話で、毎回くずし字満載の古文書が画面に映し出されるからなのかもしれない。 
 配布された古文書のテキストを先生と一緒に読んでいると、なんだか少し読めるようになった気がするのだけれど、気のせいである。せいぜい「完無理ワシ」の「完」が取れたくらいか。
 ただ、古文書学習は抵抗感を解くのがまず先決で、「習うより慣れろ」が正解――ということを察しつつある昨今である。

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日比谷公園

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日比谷図書文化館


P.S. 実はTOPPANN(株)が古文書解読アプリ『古文書カメラ ふみのは』を開発している。スマホのカメラで解読したい古文書資料を撮影すると、コンピュータが自動的に解読してくれる。(1日30回まで無料) 精度70%という。なんたる福音! IT革命、ここにあり。


● 二つの墓をもつ男

 2018年の秋に四国88札所歩き遍路をしたとき、ゴール間近い86番志度寺に隣接する自性院境内に、平賀源内の墓があった。
 香川県さぬき市志度は平賀源内の生まれ故郷なので、なにも驚くことはないのだが、それ以前にソルティは、東京都台東区橋場にある源内の墓をたずねていたので、「どっちが本当の墓なんだろう?」と思った。
 その場でスマホを取り出して調べたところ、遺体が葬られたのは橋場のほうで、志度にあるのは妹婿の平賀権太夫が建てた参り墓との由であった。どのサイトを見たかは覚えていない。
「そうだよなあ。江戸はあまりに遠すぎる。人を殺めた罪人とて、家族や親類縁者にとっては大切な血族。参拝できるお墓が地元にほしいよな」

 源内は安永8年(1779)11月、酒に酔った上でのいざこざから2人の男に斬りかかり、うち1人を死に至らしめた。すぐ江戸伝馬町の牢屋敷に入れられたが、判決が出ないまま、12月18日に病死した。享年51歳。
 当時橋場にあった曹洞宗総泉寺に源内の菩提を弔ったのは、親友の杉田玄白である。『解体新書』で有名な人だ。
 その後、総泉寺は1923年(大正12年)の関東大震災で罹災したため板橋に移転した。源内の墓はそのまま橋場に残された。
 
源内の参り墓
志度の自性院にある源内の墓

源内の埋め墓
台東区橋場にある源内の墓

 四国遍路を無事結願し東京に戻ってから、何かの折に、日本にはかつて両墓制があったのを知った。
 民俗学の父と言われる柳田国男が昭和の初め頃に学術誌で取り上げてから、その分野では広く知られ、研究・議論されるようになっていたのだ。

両墓制とは、遺体の埋葬地と墓参のための地を分ける日本の墓制習俗の一つである。遺体を埋葬する墓地と詣るための墓地を一つずつ作る葬制で、一故人に対し二つの墓を作ることから両墓制と呼ばれる。遺体の埋葬墓地のことを埋め墓(葬地)、墓参のための墓地を詣り墓(まいりはか、祭地)と言う。
基本的に一般民衆の墓を対象にし、その成立、展開は近世期以降である。両墓制は土葬を基本とし、遺体処理の方法がほとんど火葬に切り替わった現在では、すでに行われなくなった習俗と言ってよい。(ウィキペディア『両墓制』より抜粋)

 なぜこのような風習が起こったか、はっきりと分かっていない。
 死に対するケガレ意識が強かった時代、村の居住地から離れたところに遺体を埋めて、それとは別に、ふだんお参りしやすいところに供養のための墓を立てたという説が有力である。
 たしかに、土葬が普通だった時代、遺体を埋めた墓所から腐臭が漂ってきたり、野犬に掘りこされ食い散らかされたり、蛆虫や鳥から病原菌が人に広がったりする危険はあったろう。
 火葬が一般化するにつれて消えていったことは、まさに心理面でも衛生面でも死穢に対する忌避感が大きかったことを示しているのではないかと思う。

 平賀源内の場合ももしや両墓制?
 橋場にあるのが埋め墓で、志度にあるのが詣り墓?
 ――そう思って調べてみたところ、両墓制の風習があった地域は限られていて、近畿地方に圧倒的に多く、関東、中部、中国、四国にはピンポイントに存在した。
 香川県では、東側の瀬戸内海沿岸の村や島々に集中し、高松より西側には見られない。
 志度は西側の海辺に位置するので、両墓制はなかったと言っていいだろう。
 しかも、幕府が遺体の引き渡しを許さなかったので、志度にある墓にも、橋場にある墓にも、源内の遺骨は埋まっていないという説もある。
 両墓どころか、両空?
(源内を贔屓していた老中の田沼意次が、密かに牢から逃がし、地方にかくまったという説もある)

回向院
南千住回向院(えこういん)

 橋場の近くには、江戸時代の名だたる処刑場である小塚原刑場があった。
 江戸時代の初期の頃は、処刑された遺体はそのまま野ざらしにされ、夏になると臭気が充満し、野犬やイタチが食い散らかして地獄のような有様だったと言う。
 寛文7年(1667)に本所回向院の住職である弟誉義観(ていよぎかん)が、刑場の隣りに常行堂を建て、死者の埋葬と供養を行った。これが後の南千住回向院である。
 杉田玄白はここで死体の腑分け(解剖)を行い、オランダの医学書『ターヘル・アナトミア(解体新書)』の記述の正確性に驚いたのであった。
 順当に考えれば、平賀源内の遺骨は回向院に埋められた可能性が高いのではなかろうか?

 ともあれ、平賀源内が2つの墓をもつのは、生まれ故郷の志度でも、亡くなった江戸の地でも、多くの人から愛され、その死を惜しまれたからであるのは間違いない。

志度の海
源内の愛した志度の海



● 民俗学の父 本:『柳田国男入門』(鶴見太郎著)

2008年角川学芸出版

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 現在、奈良大学の通信教育で「民俗学」を勉強中。
 ソルティがこれまでに読んだ民俗学関連の本は、柳田国男『遠野物語』、宮本常一『忘れられた日本人』、小松和彦『悪霊論 異界からのメッセージ』他、赤松啓介と上野千鶴子の夜這いをめぐる対談、六車由美『驚きの介護民俗学』、在野の研究家の筒井功を数冊。
 三角寛のサンカ本も何冊か読んだが、あれは民俗学ではなくて娯楽小説の一種だろう。
 永久保貴一諸星大二郎のコミックも民俗学の範疇に入るかもしれない。 
 興味の向くままに読み散らかしただけで、民俗学を体系的に学んだことはない。
 ほぼイチから始めなければならない。

 まず必要なのは、「民俗学とは何か」を知ることである。
 民俗学と言えば、柳田国男である。
 柳田国男がどんな人物で、何を目指していたか、どんな研究を行ったかを知るのが先決と思い、「入門」を謳う本書を借りた。
 鶴見太郎は1965年生まれの歴史学者。名前から推察される通り、評論家&哲学者の鶴見俊輔(1922-2015)の息子である。

 図書館で借りた本なので文句をつけるのも大人気ないと思うが、「看板に偽りあり」であった。
 入門レベルの内容では全然なかった。
 むしろ、柳田国男や日本民俗学についてある程度の知識や見識を持っている中級者が、これまでに言及されていない新たな視点から、柳田国男を読み解くものになっているように感じた。
 内容をちゃんと確認しないで本を借りる癖がどうも治らない。

 とは言え、本書で取り上げられ分析されている柳田国男の一面、というより柳田を含む昭和時代の学者の言説を読み解く際の留意点は、知って得るところがあった。
 つまり、戦前や戦時下における言論・思想統制の問題である。

 柳田国男は「日本民俗学の父」という一般によく知られた顔をもつと同時に、東京帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)出身のインテリであり、農商務省(現在の経済産業省・農林水産省)に勤めたお役人であり、貴族院書記官長(現在の衆議院事務総長/参議院事務総長に相当)まで昇りつめた高級官僚であった。
 今の言葉で言えば、上級国民である。
 太平洋戦争の始まる前には退職しているものの、体制側・権力側の人間とみなされてもおかしくはなかった。
 当然、戦前・戦時下にあっては、大日本帝国の元高級官僚として、また、世間に名の知られた言論人として、戦意高揚に向けて国民を指導することが期待されたであろう。
 柳田が当時の国策や大東亜戦争について内心どう思っていたのかはよく知らないが、国や軍部の方針を表立って批判することはなかった。
 それをしたら、間違いなく、研究を続けられなくなったはずだ。
 本書によれば、自らの頭で調べ考え判断することなく、政府やマスコミの流す情報を信じ込み、焚き付けられ、自ら戦意高揚に巻き込まれていった日本国民の事大主義を憂えていたようである。  
 だが、柳田は、国を批判し逮捕され転向を迫られた社会主義者の友人・知人らと交流を続けながらも、自身は特高に睨まれることなく精力的に研究や執筆を続け、戦前・戦中を無難に生き抜き、戦後になっても火野葦平のように「戦犯」の汚名を着せられることなく、学者として一家を成した。
 この器用な生き方、状況判断に優れたバランス感覚こそ、柳田国男の特質の一つなのではないかと思った。

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Peggy und Marco Lachmann-AnkeによるPixabayからの画像

 ひとり柳田国男に限らず、戦前・戦中の学者の言説は、言論・思想統制というバイアスを抜きにして、読み解くことはできない。
 戦後生まれで言論や表現の自由を当たり前に享受している我々は、つい忘れてしまいがちだけれど、権力や世間からの圧力が厳然とあった時代の人が残した言葉を読むとき、曖昧な言い回しや暗示的な表現の裏にある真意を汲み取らなければならないのである。
 時代や政治体制との関係を離れて、その時代に生きた個人の発した言葉を読むことはできない。
 そこにあらためて気づかせてくれた点で、本書を読んだ甲斐があった。

 敗戦の翌年(1946年)、柳田は次のような文章を綴っている。

 日本人の予言能力は既に試験せられ、全部が落第といふことにもう決定したのである。是からは蝸牛の匐ふほどな速力を以て、まづ予言力を育てゝ行かねばならぬのだが、私などはただ学問より以外には、人を賢くする途は無いと、思って居る。

 鶴見はこれを次のように読み解いている。

 少なくとも柳田にしてみれば、本来民俗学には単に現在の生活改善という域には止まらず、日常の営みの中から将来起こり得ることを推察するという隠れた重大な課題が含まれていた。具体的に言えば、それは自分たちがとる行動や態度によって、どのような影響が生まれるのか、その結果をあらかじめ想定できる力を養うことである。しかしアジア・太平洋戦争が生んだ惨禍という厳然たる事実を前にした時、明らかに日本人の「予言能力」はことごとく外れたものと受け止めざるを得ない。そしてそれは一部の指導者の責任にのみ帰せられるものではなく、広く日本人全体の懸念事項として考えて行かなくてはならない――柳田らしい暗示に富んだ言い回しだが、大略はその線にあるといってよい。

 暗示に富んだ言い回し。
 これが柳田国男の言説の特徴であるらしい。




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 本:「ここまで変わった日本史教科書」(高橋秀樹、三谷芳幸、村瀬信一著)

2016年吉川弘文館

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 10代のとき習った日本史の中味が、40年経過してずいぶん変わっているのを薄々察していながらも、なかなか更新する機会が持てなかった。
 奈良大学通信教育学部のスクーリングで、広大な藤原京の跡地に立った時、刷新の必要性を強く感じた。
 とり急ぎ、主要な変更点だけでも抑えるべく本書を手に取った。
 が、これもすでに10年近く前の刊行物である。
 そのうち、最新の日本史教科書に目を通したい。
 備忘のため、ソルティの脳内記憶と大きく変わった点を列挙する。

1. 年号の変化
  • 鎌倉幕府の成立 1192年→1185年
    源頼朝が征夷大将軍に任命された年(1192)から、全国に守護・地頭を置いた年(1185)に変化している。ただ、これも確定したものでない。つまるところ、「何をもって幕府の成立とするのか」で、学者間で意見が分かれている。
2. 名称の変化
  • 縄文式土器、弥生式土器→縄文土器、弥生土器
  • 大和朝廷(4世紀)→ヤマト政権
  • 任那(みまな)→加耶(かや)・・・任那日本府の実態が疑問視されている
  • 大化の改新(645)→乙巳(いつし)の変
  • 薬子の変(810)→平城上皇の変
  • 前九年の役、後三年の役、西南の役→前九年戦争、後三年戦争、西南戦争
  • 元寇→蒙古襲来
  • 応仁の乱→応仁・文明の乱
  • 島原の乱→島原・天草一揆
3. 消えた内容(用語)
  • 武家造・・・鎌倉時代の武士の屋敷を指したが、いまは「寝殿造」のバリエーションの一つとされ、廃語となった。
  • 御家人を前に縷々演説した北条政子の話は捏造(実際は御簾の中にいた)
  • 忠臣蔵を取り上げている教科書は、いまや全体の6%のみ
  • 江戸時代には「士農工商」という身分制度があった→「武士」と「百姓・町人」の二つに分けて説明。また、百姓=農民ではない
  • 慶安のお触書(1649)・・・現在では幕府の公布した法令ではないという学説が有力。
4. 増えた内容
  • 藤原京の成立(694)と規模の大きさ
  • 江戸時代の遊女など、各時代の女性像を扱う教科書もある
  • アイヌ史や北方史や琉球史
5. 解釈の変化
  • かつては、「縄文時代=縄文土器+狩猟採集」、「弥生時代=弥生土器+稲作」とされていたが、その後、縄文遺跡からの水田遺構の発見があい次ぎ、この図式が崩れた。時代区分を、土器の相違によって分けるか(BC3世紀頃)、稲作の開始によって分けるか(BC5世紀頃)で、弥生時代の始まりが変わってくる。議論がまとまっていない。
  • 聖徳太子(厩戸皇子)の格付け低下・・・冠位十二階、十七条憲法、遣隋使派遣など、これまで聖徳太子の事績とされてきたものが、推古政権全体の政治と位置づけられている。
  • 894年遣唐使の廃止によって国風文化が興った→遣唐使は838年を最後に実施されていなかった。中国文化の基盤の上に国風文化が生まれた。遣唐使の制度は「廃止」されたわけでなく、894年の回が「停止」になっただけ。
  • 神護寺にある源頼朝の肖像画のモデルは、足利直義の可能性が高い。(甲斐善光寺にある木像の頼朝こそ実際の姿に近い)
  • 関ヶ原の戦い(1600)の西軍大将は、石田三成でなく毛利輝元。
  • 「賄賂まみれの悪徳政治家」という田沼意次のイメージは払拭されて、経済振興をはかった人と評価されている。(NHK大河ドラマ『べらぼう』では渡辺謙が演じてイメージアップに貢献している)
  • 江戸時代は「鎖国」していたという概念が薄れ、「四つの口」を通して海外と交流していたとする解釈が増えている。

 歴史上の事件や事象を何と呼ぶか、そこには使い手やその時々の評価・歴史観、後世の価値観などが入り込みやすい。研究用語のみならず、史料に出てくる言葉であっても、その史料の書き手の見方が投影されている。また、その時代には意識されていなかったものの、後の時代になって、差別的であるとの理由などで忌避されていった用語もある。

 歴史は残された史料というレンズの破片を通して映し出された像であり、その像は必ずしも「真実」ではないこと、「正しい」歴史的評価など存在しないことに気づかせ、それを知ることこそが、「正しい」歴史学習の姿なのかもしれない。
 
 それにつけても、日本史だけでこれだけの変化がある。
 世界史と来た日には、どんだけ脳内記憶が古くなっていることやら!

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Clker-Free-Vector-ImagesによるPixabayからの画像




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● なんなら、奈良11(奈良大学通信教育日乗) 入学半年後の雑感

 入学して半年がたった。
 ここまでをふりかえる。
  • 単位取得 2科目
    文化財学演習Ⅰ、文化財学購読Ⅱ(いずれもスクーリング)
  • レポート合格 3科目
    平安文学論、文化財学購読Ⅰ、美術史概論(いずれもテキスト科目)
 レポート合格した3科目は、5月から始まる修得試験に合格することで、単位取得となる。
 今年度(9月末まで)の目標として、スクーリング3科目、テキスト5科目の単位取得を掲げているので、いまのところ、まずまず順調に推移と言っていいように思う。
 テキスト科目の筆記試験通過がどのくらい難しいかが、後半の鍵を握りそうだ。
 最初に提出した平安文学論のレポートでいきなり「再提出」を喰らったものだから、この先どうなるものか危ぶんだけれど、冬のスクーリングで会った仲間たちの噂話から、平安文学論は「採点がなかなかきびしい」科目として知られているようなので、2回で合格はむしろ寿ぐべきことなのかもしれない。
 現在、4科目目の民俗学に取り組んでいるところである。

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 ふりかえると、やはり、奈良でのスクーリングの愉しさが印象に強い。
 自宅でのテキスト学習で新しい知識を得ることはもちろん面白いし、いろいろな文献を渉猟しながら幾度も推敲を重ねレポートを仕上げていく過程も、“物を書く喜び”を満たしてくれる。
 が、斯界のプロフェッショナルによるライブ講義は、生涯を調査や研究や教育に捧げた人間の情熱や人となりや深い教養にじかに触れるぶん、学ぶことの喜びが大きかった。
 これがZOOM講義ではやはり味気なかったろう。コロナ禍の学生たちにはお気の毒であった。(この先、同じような疫禍のないことを祈る)
 また、全国から集まった仲間たちと同じ時と空間を共有できたことも、モチベーションを高めるのに役立った。
 文化財歴史学に興味を持つ人の特性なのか、コロナ禍の“無言行”を引きずっているためなのか、いったいにもの静かな人たちの集まりという印象を受けたけれど、言動のはしばしに向学心の高さや人生経験、それに第二の人生を学びによって楽しもうという意気込みが感じられ、さすが平均年齢60歳の大学生たちと、親しみとともに頼もしく思った。奈良愛は言うに及ばず・・・。
 
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東大寺南大門

 もともと奈良の古い仏教文化をもっと知りたいなあ~というところから始まったチャレンジであるが、学べば学ぶほど、現地に通えば通うほど、奈良愛が高まっていき、いろんな遺跡や社寺や仏像を訪ね、その偉大さや美しさを味わい、来歴を調べ、謎の解明を自分なりに図りたくなる。
 皇族や貴族から、僧侶や官僚や庶民、渡来人、奴婢にいたるまで、いにしえの日本人の“物語”に思いを馳せたくなる。
 この半年でつくづく思ったが、ひとつのことを学ぶと、それに関連したことが気になって、調べたくなってしまう。
 いまはインターネットという便利なものがあるから、ある程度の知識や情報は即座に手に入れることができる。(ただしネット情報は玉石混交で間違いも多いことは踏まえておく必要がある)
 ネットのない時代はいちいち事典や本を探して調べなければならなかったのだから、ほんと学習者には便利な時代になったものである。
 ネット情報だけでは飽き足らないものについては、関連本を検索し、図書館で借りることになる。(読みたい本が増えて困る

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三角縁神獣鏡

 ある程度の年齢になってから人文系を学び直すことの面白さは、数十年間の社会生活で身に着けた知識や雑学、経験や世間知、多角的なモノの見方が、それなりに生かされるところにあると思う。
 十代の頃は、教科書の内容をテストに備えて覚えるだけで精一杯で、紙背にあるその時代を生きた日本人の価値観や死生観や喜怒哀楽を洞察するところまで、なかなか行かなかった。
 歴史、国語(古文・漢文)、美術、音楽、地理、倫理社会などの教科も、それぞれが脳の別々の場所に収納されるばかりで、各教科で学んだことを連関させて、より包括的な視点から時代を見るには、脳のモジュールが未熟であった。
 また、社会人となってから読んだ本、観た映画、旅の記憶、友人や年輩者から聞いた話、日々の仕事やプライベートにおける様々な経験などがタグとなって、歴史を机上だけの狭いものから、自らの人生上の出来事に照合させながら理解を深められる生きたドラマとして体験できる。

 そうやって学んだ先に何かあるのか?――と聞かれたら、「別に何もない」と答えるほかないのだけれど、知的快楽は肉体的快楽や心理的快楽より、自分にとっても他人にとっても害が少ないのではなかろうか?
 学びの旅には終わりがないし、たいして費用もかからないし、一人でもできるし、認知症予防にもなるので、老後の暇つぶしには最適だと思う。 

 いまの望みは、奈良と京都の中間に家を借りて長期滞在し、心ゆくまで両都を探索することである。
 ――って、まずは単位をとらなけりゃな。

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奈良大学キャンパス






 

● 不空羂索観音の手のひらの間 本:『東大寺のなりたち』(森本公誠著)

2018年岩波新書

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 著者は、2004年から2007年まで第218世東大寺別当・華厳宗管長を務めた東大寺長老である。イスラム学者としても著名で、イスラム関連の著書や訳書でも高い評価を得ている。イスラムに詳しい仏教者というユニークな存在である。

 本書は、タイトルそのままに奈良東大寺のなりたちを記したものである。
 東大寺誕生の経緯から語り起して、創建者である聖武天皇(701-756)の生涯や政治姿勢や篤い仏教信仰、奈良時代最大イベントである盧遮那大仏開眼(752年)の模様、聖武天皇没後に起きた藤原仲麻呂の乱(764)や宇佐八幡神託事件(769)や藤原種継暗殺事件(785)といった権力闘争劇、そして桓武天皇による平安京遷都までが、様々な文献資料を引きながら綴られ、そうした激しい歴史の流動を東大寺がどのように乗り切ったかが語られる。
 東大寺のなりたちを語るとは、聖武天皇の生涯を追うことであり、奈良時代の歴史をたどることであり、仏教国教化への道を俯瞰することであると実感した。

 さすがに学者だけあって、事実をもとに論拠を明確にしながら推論を重ねる記述には説得力がある。
 ただ、聖武天皇びいきになるのは、立場上、仕方ないのだろう。
 盧遮那大仏や各地の国分寺・国分尼寺の造営が、鎮護国家のみならず民の幸せを一心に願う聖武天皇の慈悲深い御心から発した事業であることに嘘偽りはないと思うが、そのために駆り出されて何十日何百日も酷使され、あるいは、なけなしの財を供出させられる民の苦しみや不満についてはまったく触れておらず、こうした度重なる公共事業が食いぶちのない民を救う福祉政策の一環だったと解釈するに終わっているのは、疑問を持たざるを得なかった。
 完成した大仏を、民は拝むことができなかったというではないか。

東大寺大仏

 東大寺が誕生するまでの経緯を追った部分は、非常に興味深かった。
 現在、創建当時の姿が残る唯一の仏堂は、大仏殿の東の丘にある法華堂(三月堂)であるが、どうやらこれはまた、東大寺で一番最初に建てられたお堂、すなわち東大寺の生まれるもとになったお堂らしいのだ。
 724年即位の4年後、聖武天皇と光明皇后の間に待ちに待った王子が生まれた。
 が、王子は一歳の誕生日を前に病死してしまう。
 深い悲しみのなか、王子の菩提を弔い冥福を祈るために建てられたのが、のちに法華堂と呼ばれることになる羂索院なのである。733年創建と伝わる。
 その名が示すように、いまの法華堂の本尊である不空羂索観音はそのときに造られた像なのである。
 その後、羂索院を含む金鍾寺(こんしゅじ)が、寺域を接する福寿寺と合併され、742年に大和国の国分寺と定められて金光明寺と名を変えた。さらに大仏鋳造の始まった頃(747年)から東大寺と呼ばれるようになった。
 いまある巨大な東大寺の発端は、幼い息子の死を悼み冥福を祈る父と母の思いだったのである。
 であるから、聖武天皇と光明皇后がふだん暮らし政務を執っている平城京の大極殿から東大寺が見えること(東大寺建立前は羂索院=法華堂が見えること)に大きな意味があったのであり、本尊・不空羂索観音の胸の前で合わせた両手のひらの間に水晶の珠が光っていることに、参拝する者は思いを馳せるべきなのである。

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掌中の珠

 現在法華堂にある10体の仏像のうち、創建時からの像は、本尊・不空羂索観音と毎年12月16日に公開される執金剛神の2体のみで、ほかの8体(梵天、帝釈天、四天王、金剛力士の阿形・吽形)はあとから入って来たものらしい。
 中央の本尊と、それを覆い隠すような周囲の3m大の進撃の巨人たちの不思議なバランスの秘密は、そこにあった。
 では、本尊と執金剛神と共にもともとあった像は何かと言えば、現在東大寺ミュージアムにある日光・月光菩薩、戒壇堂にある四天王の計6体だったようだ。それなら不空羂索観音とバランス的にちょうどいいサイズである。
 仏像は動くから面白い。

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現在の法華堂内陣の仏像配置
(法華堂の案内パンフレットより)

 カリスマ性のあった聖武天皇&光明皇后の亡き後、血で血を洗う政権争いが勃発する。
 これまで偉大な両親のもと乳母日傘でぼんやりしていた安部内親王=孝謙天皇が、稀代の怪僧たる道鏡というパートナーを得て俄然覚醒し、政敵である藤原仲麻呂や淳仁天皇を追いやって称徳天皇として重祚するくだりは、非常にドラマチックである。
 心なしか著者の筆も乗っているようで、次の個所など思わず吹き出してしまった。

 (称徳)天皇は継承の選択肢として、天の加護を受けた出家者もありうるのではないかとその可能性を模索した。つまり道鏡法王にさらなる権威付けとして、「天」からの認定を期待するようになっていったのである。
 どこから漏れたのか、称徳天皇の心中を推し量って鋭く反応したのは宇佐八幡神宮であった。(丸カッコ内ソルティ補足)

 いつの時代でも、いずこの国でも、権力に目がくらんだ連中のやることは似たり寄ったりだ。
 ここでちょっと不思議に思うのは、大事な神託を告げたのが、なぜ宇佐八幡であって伊勢神宮ではないのかという点である。
 お伊勢さんより八幡さんのほうが歴史が古い(=由緒がある)ということを、当時の人々が知っていたから?
 それとも、日本は大事なことは昔から USA に従うという慣例ゆえ?
 いずれにせよ、いまの宇佐八幡の宮司をめぐる騒動を読むと、とても国家的大事について神託を告げられる力があるとは思えない。

 本書の終わりは、855年5月の地震で東大寺大仏の頭が落下してしまった件である。
 開眼から100年も経てば、弱い部分から破損するのは仕方あるまい。
 時の天皇は文徳であった。

 新造するか修理するか、なかなか方針の定まらないところに、右京出身の忌部(斎部)文山なる者が提案した修理計画が採用された。それは轆轤の技術を駆使し、雲梯を巧みに組み合わせて落ちた仏頭を断頭に引き上げ、大仏の頸部に鎔鋳して、新造のようにするというものであった。

 修理事業の総監督を任されたのは、空海の十大弟子の一人、真如
 彼こそは、薬子の乱に失敗し出家を余儀なくされた平城天皇の第3皇子、高岳親王その人である。このとき皇太子であった親王も廃嫡の憂き目にあい、仏門に入ることになったのである。
 この大事業をつつがなく終えた後、真如は仏教の奥義を極めるため、インドへ向けて旅立った。
 が、途中シンガポールあたりで虎に襲われて亡くなったという言い伝えが残っている。
 一方、日本で初めてのクレーンを開発した忌部文山は、その功を認められ、従五位下すなわち貴族に列せられたそうである。


P.S. 本書は、奈良大学通信教育のスクーリングの際、担当教師が紹介してくれました。お礼申し上げます。

 


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