2025年中央公論新社
三島由紀夫生誕100周年を記念して出版された一冊。
三島と親交のあった2人の後輩作家によるエッセイ6編と、2つの対談が収録されている。
いま、それぞれの文章の発表された時期とその時の2人の年齢を時系列で並べると、次のようになる。
- 1970年12月 石原(38)
- 1971年1月 野坂(40)
- 1971年2月 野坂(40)
- 1972年12月 野坂(42)&石原(40)対談
- 1995年12月 野坂(65)&石原(63)対談
- 2000年6月 石原(68)
- 2000年11月 石原(69)
- 2001年8月 野坂(71)
三島由紀夫が自決した1970年11月25日直後のそれぞれの追悼文から始まって、2年後(三回忌)の対談、25年後の対談、30年後のそれぞれの回想文が掲載されている。
事件から時間が経過するにつれての、また野坂と石原の加齢につれての、語り口の変化がなかなか興趣深い。
おおむね直後の追悼文は、事件に対する驚きと戸惑いの向きが強い。無理もない。
事件後2年経過し、三島由紀夫という人物および自らと三島との関係を語る視座を得た1972年12月の対談は、両者ともに思うところを率直に述べている。
事件後四半世紀が経ち、両人が三島の享年はおろか還暦も越えた1995年の対談以降は、舌鋒が柔らかくなり、過ぎ去った時代や在りし日の三島の姿を偲ぶ懐旧のニュアンスが現れている。
野坂は2015年に85歳で、石原は2022年に90歳で亡くなった。
三島由紀夫の死後、数多くの三島論が出版され、それは現在も続いている。(ソルティがよく利用する都心の図書館の棚を見たら、ざっと30冊の三島論が並んでいた)
また、文学者らによる対談も多い。
ソルティが読んだのはほんの一部に過ぎないが、総じて言えるのは、一つは男性論者によるものが圧倒的に多いことであり、一つは、数ある三島語りの中でこの石原慎太郎と野坂昭如によるものが最も故人に対して辛辣だということである。
2人が作家デビューするにあたって、他のどの先輩作家からよりも三島由紀夫から目をかけられ引き立てられたことを重ね合わせると、「恩知らず」と思えるほどである。
同じ時代に文壇で活躍し三島と親交のあった安部公房と大江健三郎による三島語りにくらべると、その差は歴然としている。
その差がどこから出てくるのかは新旧の文壇事情に詳しくないソルティには分からない。が、一通りでなく世話になった先輩作家に対する恩を仇で返すような野坂と石原の物言いの裏には、心理学で言うところの防衛機制、いわゆる「否認」に近いものを感じる。
いったい何を否認しているのか?
『三回忌に思う』と題された1972年12月の対談より引用する。
野坂 さまざまな虚構を張りめぐらしながらも、彼自身としてはとにかく一生懸命やったわけですよね、ひたむきに、矮小な体にムチ打って。しかし彼のボディビルと同じように、まとった衣装はぜんぜん自分に合っていなかった。ある時期は、その合っていないということをエネルギーにしていたんだろうけれども、そのエネルギーが絶えちゃったとき、今度は自分がまとった衣装の重さに押しひしがれて、最後は悲鳴をあげていたような感じだな。
石原 ほんとにあの人は、自分がかかえる、アンビバレンツなものはアンビバレンツなものとしてかかえてるっていうことに耐えられなかったんでしょうね。
石原 あの人の精神のメカニズムを象徴するものは、結局、肉体にたいするコンプレックスでしょうね。それを是正するために人工的につくった機能性のない肉体というものが、結局、あの人を亡ぼしたんだ。
野坂 あれだけはじめに虚構を描いていたけれども、やがて虚構を生きざるをえなかった。自分自身の生き方、自分の肉体そのものが虚構だったことに気づいたときの三島さんの気持を考えると、物書きのはしくれとしては、ほんとに涙なくしてはいられない気がする。
三島と同じ流行作家であり、三島と同じようにマスコミに持て囃されたタレントであった2人の分析は、ほぼ同じである。
すなわち、「肉体上のコンプレックスからボディビルを始めたことに象徴されるように、ある種の欠落を糊塗するために仮面をかぶり、虚構の自分を意識的に演じ続けた。その無理が限界に達して、ああいう悲惨な最期に至った。」
欠落とはなにか?
次の野坂の言葉がそれを示唆している。
野坂 ぼくは小学校のときに、虚弱児童だったんです。相撲だけは強かったけど、ものすごく気が弱くて、喧嘩はぜんぜんできなかった。そして、なにぶん戦争中だし、このままじゃ男として世の中に生きていけないと思って、ある時期、喧嘩ばかりしてました。気を強く見せようと・・・・。ぼくはつまり昔に、無理していた覚えがあるから、石原さんより、三島さんの持っていたものについて同情があるというか、それをからかいの対象とするよりも、「いやあ、あなたも大変ですね」って感じでね。(ゴシックはソルティ付す)
つまり、男としてのコンプレックス。
男らしさ(マチョイズム)の欠落である。
昭和時代のマチョイズム、とくに戦前戦中のマチョイズムは、令和の現在とは比べものにならないほど確たる規範として日本社会を覆っていた。
昭和元年に生まれ、天皇を神と仰ぐ軍国主義教育を受け、国のために死ぬことをなによりヒロイックな雄々しい行為として教えられてきた三島由紀夫すなわち平岡公威少年が、長じて、自らの類まれなる文才とは裏腹に、貧相で脆弱な肉体と運動能力の欠如、そして異性に対する性的能力の空転を知った時、相当な自己否定に襲われたことは想像に難くない。
20才のときの徴兵検査の(意図的な?)不合格は、深い恥の感覚を植え付けただろう。
だが、三島の強い自意識とプライド、それに戦後マスコミによって作り上げられ世間に流布された時代のヒーローとしてのイメージは、自らの中の「女性性=弱さ」を受け入れ肯定することを許さなかった。(そもそも、「女性性=弱さ」とみなすところがマチョイズムの誤謬である)
豪快な高笑い、ボクシング、ボディビル、筋肉誇示、剣道、居合い、自衛隊体験、葉隠れ、軍服をまとってのパレード・・・・e.t.c.
さまざまな鳥の羽を自らの体にあしらって孔雀ばりに装ったイソップのカラスの物語のように、三島由紀夫は「男らしさ」という羽で、持って生まれた資質を覆い隠した。
その羽が借りものだとバレる前に、あの行為に及んだのである。
しかし、ここでソルティが指摘しようとしているのは、野坂と石原が容赦なくあぶり出したような“虚構に生き虚構に死んだ”三島由紀夫の欺瞞や悲哀ではない。
三島由紀夫を侮辱するつもりは毛頭ない。
三島由紀夫を侮辱するつもりは毛頭ない。
そうではなくて、マチョイズムそのものの虚構性を言いたいのである。
時代や地域や文化の違いにより、「男らしさ」の定義や内実は異なる。
たとえば、昭和時代には男の化粧品CMなんてあり得なかった。
国民的人気と輝かしい実績を誇る大谷翔平のような野球選手が、スキンケア商品のCMに出てお肌ペタペタなんて図は考えられなかった。
そんなことをした日には、次の打席では球場中の客から笑い者にされ、「おかま」と囃し立てられたであろう。
多かれ少なかれ、意識的であれ無意識的であれ、世の男達はマチョイズムに支配された社会の中で、周囲から馬鹿にされ見下されないよう「男らしさ」を身につけていく。
「男」という虚構を演じている。
野坂昭如や石原慎太郎が、なぜこれほど三島由紀夫という人物について、また最終的に自決につながった政治的行動の意味について一致した見解を示せるのかと言うと、野坂も石原も世のマチョイズムに支配されて生きてきたし、その虚構性にある程度自覚的だったからではなかろうか。
身近にいて一時は敬愛の対象であった三島由紀夫が、あまりに大っぴらに、あまりに分かりやすく、あまりに身も蓋もないかたちで、「男」の虚構性を暴露してしまったがゆえに、そこと距離を置くために、必要以上にバッシングしたのではなかろうか。
あたかも、観客に手品の種明かしをするマジシャンに対して、同業者が抱く思いにも似て・・・・。
三島論を書く人間に男が多いというのも、そこと関係しているような気がする。
つまり、三島由紀夫は「マチョイズム」という荒野の逆説的なランドマーク、「男らしさ」という天盤の道を誤らせる北極星のようなもので、三島を評する男たちは、自然、おのれと三島との距離を測ってしまうのではないかと思うのである。
さらに付け加えれば、それはまた、(極右と極左からの)政治的距離でもあるし、文学的才能における距離でもあるし、自らの信念を遂行した行為者としての距離でもあるし、米国追従の戦後民主主義社会からの距離でもあるし、天皇制からの距離でもある。
三島由紀夫は、戦後の日本社会に生きる者に、自らの立ち位置を顧みさせるさまざまな座標軸を提供した。
それが「三島由紀夫という存在」の意味であり、三島が読まれ、語り続けられる大きな理由なのではないかと思うのである。
おすすめ度 :★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損







































