ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

  三島由紀夫

● その火を飛び越して来い 映画:『潮騒』(森永健次郎監督)

1964年日活
82分、カラー

 三島由紀夫原作のこの有名なロマンスはこれまでに5回映画化されている。
  • 1954年(昭和29年) 監督:谷口千吉 主演:青山京子&久保明
  • 1964年(昭和39年) 監督:森永健次郎 主演:吉永小百合&浜田光夫
  • 1971年(昭和46年) 監督:森谷司郎 主演:小野里みどり&朝比奈逸人
  • 1975年(昭和50年) 監督:西河克己 主演:山口百恵&三浦友和
  • 1985年(昭和60年) 監督:小谷承靖 主演:堀ちえみ&鶴見辰吾
 ソルティ世代(60年代前半生まれ)は、百友コンビの1975年版に思い入れが深い。
 団塊の世代なら、当然、小百合サマ主演の本作であろう。
 同時上映が、石原裕次郎&浅丘ルリ子の『夕陽の丘』(松尾昭典監督)だったというから、今思えば最高に贅沢なプログラムである。
 他にも、個性的な風貌とたしかな演技力で気を吐いた石山健二郎、清川虹子、高橋とよ等ベテランが脇を固めており、伊勢湾にある神島の美しい風景や中林淳誠による抒情的なギターBGMと相俟って、質の良い映画に仕上がっている。
 半世紀以上前の日本の小島の漁村文化の風景は、記録としても興味深い。
 (神島に行ってみたいな)

神島
ウィキペディア「神島」より

 原作者である三島は第1作の1954年版を気に入っていたらしいが、本作はどう評価したのだろうか?
 気になるところである。
 とりわけ、主役の漁師久保新治を演じた浜田光夫をどう思っただろう?
 ソルティの受けた感じでは、浜田は演技は悪くないが、都会的な匂いが多分にあり(潮の匂いというより地下鉄の匂い)、漁師としての肉体的逞しさにも欠けるように思う。
 ふんどしも似合わないだろう。(有名な「その火を飛び越して来い」のシーンではふんどし姿にならない)
 個人的には過去5作の新治役の中では鶴見辰吾が一番イメージ的にしっくりくるが、まあ全作観ていないので何とも言えない。

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有名な「火越え」シーン
原作の書かれた50年代には神島にジーンズは入ってなかったろう

 小百合サマはあいかわらず可愛らしく華がある。
 美少女には間違いないけれど、角度によっては意外と芋っぽく見える瞬間があり、島の長者の娘初江として、それほど場違いな感じはしない。
 なにより溌剌としたオーラーが若さを発散して惹きつける。
 
 島の海女たちのリーダーおはる(高橋とよ)が、初江(小百合)が生娘かどうか確かめるため、仕事を終えた仲間と語らう浜辺で、初江の乳房を観察するシーンがある。
 80年代までなら上映に際して別になんら問題の生じなかったシーンであるけれど、令和の現在はなんらかの脚色(=取り繕い)が必要になって来よう。
 この小説が、85年を最後に映画化されていないのは、そのあたりの事情もあるのかな?
 昭和文学ってのは、ジェンダー視点からはかなり悪者になってしまった。
 
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小百合の乳房を確認する高橋とよ
このあと「おらのは古漬けだ」というセリフが来る






おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● 三島由紀夫主演 映画:『からっ風野郎』(増村保造監督)

1960年大映
96分

 当時35歳の三島由紀夫がヤクザの若親分を演じ、その素人演技が酷評された一種の珍品。
 期待しないで観たのだが、まったく期待通りの学芸会レベルの芝居に、「やっぱり期待した通りの期待はずれだったな」と、よくわからない感想に追い込まれてしまった。

 名優として映画史にその名が刻まれる志村喬や若尾文子は別として、共演の船越英二や神山繁、根上淳や水谷良恵(現・八重子)、果ては役者よりテレビタレントとして水を得た川崎敬三でさえ、相当の芝居達者に見えてしまうほどの、主役とそれ以外の演技力の落差!
 もしかしたら、この三島の棒読みセリフと素人芝居の滑稽な味わいにアイデアを得て、増村監督はその後テレビで一大ブームを巻き起こした大映ドラマ――堀ちえみの『スチュワーデス物語』に代表される――のスタイルを思いついたのではなかろうか。
 としたら、この作品の意義も捨てたものではない。

 こき下ろしているばかりに見えるが、芝居の上手下手とは別の次元で、三島由紀夫の愛すべき魅力はとらえられている。
 無防備なまでの不器用さがそれである。
 三島由紀夫の運動能力の無さについては、どこかで石原慎太郎が暴露していたけれど、この作品はまさにそれを証明している。
 自らの肉体を思い通りコントロールする能力を欠いているように見えるのだ。
 本作中の三島の演技で唯一素晴らしいと思ったのが、ラストシーンにおいて神山繁演じる殺し屋に刺されたあとの死体(の演技)であるというのが、まさにその間の事情を物語っている。

 それを思うと、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地において三島由紀夫が自らの腹切りをちゃんと成し遂げたことが不思議な気がする。
 もっとも切腹だけではすぐには死ねない。
 介錯人が斬首することで自決は完成する。
 三島由紀夫はここでも森田必勝という共演者に助けられたのだった。


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若尾文子と三島由紀夫 



おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 男たち、美しく 映画:『戦場のメリークリスマス』(大島渚監督)

1983年日本、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド
123分、日本語&英語

 本作は、リアルタイムで劇場で観た初めての大島渚作品だった。
 というより、初めて観た大島渚であった。

 当時人気絶頂のビートたけしと坂本龍一、演技素人の二人が主役級で出演。
 ロック界の大物スター、デヴィッド・ボウイと坂本との東西を代表する美形対決。
 坂本の作曲した印象に残るテーマ音楽が繰り返しCMで流された。
 話題に事欠かず、前評判から高かった。

 蓋を開けたら予想をはるかに上回る大ヒット。
 映画館には若者、とくに戦争映画には珍しく若い女性たちの列ができた。
 ある意味、1981年公開の深作欣二監督『魔界転生』と並んで、日本における“腐女子熱狂BL映画”の幕開けを宣言した記念碑的作品と言えよう。
 キャッチコピーの「男たち、美しく」は、まさに時代の需要を敏感に汲み取ったものである。

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左から坂本龍一、デヴィッド・ボウイ、ビートたけし、トム・コンティ

 ソルティもそのあたり期するものあって鑑賞したと思うのだが、一言で言えば「よくわからない」映画であった。
 腐女子的楽しみという点をのぞけば、なぜこの映画がそれほど高い評価を受け、世界的な人気を博しているのか、理解できなかった。
 最初から最後まで残酷な暴力シーンに満ちているし、それらは太平洋戦争時の日本軍の外国人捕虜に対する行為なので同じ日本人として罪悪感や恥ずかしさを持たざるを得なかったし、それを全世界に向けて何の言い訳もせずに手加減なく晒してしまう大島監督に対する怒りとは言えないまでも不愉快な思いがあった。
「なんで日本人の監督が、わざわざ日本人の恥部を今さら世界中に見せるんだ!」
 同じように太平洋戦争時の東南アジアにおける日本軍の日常を描いた、市川崑監督『ビルマの竪琴』と比べると、その差は歴然としている。

 さらに、テーマがわかりにくかった。
 日本軍の旧悪を暴き日本人という民族の奇態さを描きたいのか、戦争の狂気や愚かさを訴えたいのか、日本軍に代表される東洋と連合軍に代表される西洋との文化的・思想的・倫理的違いを浮き彫りにしたいのか、それとも敵同士の間にさえ生まれる男同士の友情に焦点を当てたいのか、ホモフォビア社会の中でいびつになった同性愛者を描きたいのか・・・・。
 いろいろな要素がごっちゃ混ぜになっている感を受けた。
 本作は、実際にインドネシアのジャワ島で日本軍の捕虜になった南アフリカの作家・ローレンス・ヴァン・デル・ポストの体験記を原作としているので、ある一つのテーマに基づいて作られた作品というより、現実のいろいろな見聞を盛り込んだ「ザ・捕虜生活」としてあるがままに受け取るのが適当なのかもしれない。
 実際、海外では『Furyo』(俘虜)というタイトルで上映された国も少なくない。

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 そういうわけで、公開時は「よくわからない」映画だったのであるが、約40年ぶりに見直してみたら、それもその間に、『青春残酷物語』『太陽の墓場』『日本の夜と霧』『日本春歌考』『マックス、モン・アムール』『御法度』といった大島渚監督の他の作品を何本か観た目で見直してみたら、新たに気づくところが多かった。

 まず、顕著なのが、坂本龍一演じるヨノイ大尉であるが、これは明らかに三島由紀夫、あるいは三島由紀夫に対する大島ならではのオマージュである。
 ヨノイ大尉は、2・26事件に参与できなかった悔恨を抱える国粋主義者で、剣道と文学をたしなむクローゼット(隠れホモ)という設定。原軍曹(ビートたけし)を典型とする野蛮で暴力的な日本兵の中で、ストイックなまでの神道精神を貫いている。晩年の三島を彷彿とさせる。
 そういう男があまつさえ敵方の外国男を好きになってしまうという矛盾と葛藤が面白い。

 次に、大島の遺作である松田龍平主演『御法度』(1999)において極められた「マチョイズム(ホモソーシャル社会)の中に投げ込まれた同性愛(ホモセクシュアル)」というテーマの先鞭をつけた映画である。
 生き死にがかかっている闘いの場においては、規律ある上下関係と集団の大望成就のために自己を放棄するマチョイズムこそ、重要であり役に立つ。
 上下関係を曖昧にし集団より自己の欲望や特定の仲間との関係を重視する同性愛は、集団の規律やモラルを乱しかねない。
 だから、デヴィッド・ボウイ扮するセリアズ少佐に惚れてしまったヨノイ大尉は、軍のリーダーとして役に立たなくなってしまった(更迭させられた)のであり、美貌の剣士である加納惣三郎(松田龍平)は、新選組を内側から崩壊させる危険因子として、最後には沖田総司(武田真治)に斬られてしまうのである。
 敵と戦い打ち倒すためには、「男(マッチョ)」でありつづけなければならない。 

 次に言及すべきは、ビートたけしの存在感。
 演技力がどうのこうのといったレベルを超えたところで、強く印象に刻まれる。
 当時お笑い一筋でテレビ芸人としてのイメージの強かったたけしを、この役に抜擢した大島の慧眼には驚くばかり。
 有名なラストシーンでの艶やかな顔色と澄み切った笑顔は、たけしが映画作りの面白さに目覚めた証のように思える。
 
 本作では原軍曹とロレンス中佐(トム・コンティ)の間で、何度か「恥」をめぐる会話が交わされる。
 敵の捕虜になること自体を「恥」と考える日本人と、捕虜になることは「恥」でも何でもなく、捕虜生活をできるだけ快適に楽しく過ごそうとする西洋人。
 捕虜になって辱めを受けるくらいなら切腹を選ぶ日本人と、それを野蛮な風習としか思わず、何があっても生き抜くことこそ重要とする西洋人。
 戦地における傷病者や捕虜に対する待遇を定めたジュネーブ条約(1864年締結、日本は1886年加入)の意味を理解できない日本人と、一定のルールの下に戦争することに慣れている西洋人。
 東洋と西洋、いや日本人と欧米人とのこうした違いは、『菊と刀』や『海と毒薬』はじめ、いろいろなところで語られてきた。
 映画公開後に「毎日新聞」(1983年6月1日夕刊)に掲載された大島渚自身による自作解題によると、外国のマスコミから受けた本作に対する様々な質問の中に、次のようなものがあったそうだ。

 オーシマは、この映画で日本の非合理主義が敗れ、ヨーロッパの合理主義が生き残ったとしている。後者が前者よりすぐれていると思っているのか。

 それに対して大島はこう答えたそうな。

 ニッポンは戦争で示した非合理主義を戦後の経済や生産の中に持ちこんで、それを飛躍的に発展させたかもしれない。しかしそのエネルギーは負けたことから来たのだ。そしてそれを支えた我々はもう疲れた。次の世代は合理主義を身につけて世界の中で生きるだろう。

 40年経って、日本人はどれくらい合理主義を身に着けたのだろう?



P.S. 驚いた! 記事投稿後に知ったが、今日1月15日は大島渚監督の9回目の命日だった。あの世の監督に「書かされた」?

 



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 福沢かづという生き方 本:『宴のあと』(三島由紀夫著)

1960年新潮社より原著刊行
2020年新潮文庫新版

 1959年(昭和34年)におこなわれた都知事選出馬者(元外務大臣・有田八郎)をモデルにしたことで日本初のプライバシー裁判となった作品として有名だが、こういったセンセーショナルなアオリ文句は、もういい加減、解説からはともかく帯などの紹介文からは削られるべきだろう。
 60年以上も前の事件であるし、有田八郎と付き合いのあった現役政治家はもうこの世にいないのだし、もちろん三島由紀夫も。
 三面記事のようなアオリ文句が、この作品を三島が手すさびに書いた、男が主人公の政治(腐敗)小説のように読者に誤解させ、本来の価値を翳らせてしまいかねない。
 この作品が、海外でかえって高く評価されているのは、まさにそうした事情によるのではないか。

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 この小説の素晴らしさは、福沢かづというヒロインの魅力につきる。
 おそらく、三島の全作品中、『鹿鳴館』の朝子、『サド侯爵夫人』のサン・フォン伯爵夫人、『黒蜥蜴』の緑川夫人に並ぶ個性豊かな魅力キャラである。
 日本の小説を見渡しても、これだけ情熱的で行動力にあふれ、傍で見ていて面白くて愛らしいヒロインはそういないだろう。
 読み始めたら、小説のプロットとかテーマとか文学性なんかは二の次で、よく泣き、よく動き、よく働き、よく愛し、よく装う、天真爛漫なかづの魅力に惹かれてしまう。
 保守派の政治家や高級官僚の利用する一流料亭の女将としての華やかさと気風の良さ、革新派の夫・野口雄資のためドブ板選挙を厭わず精力的に手伝う行動力と人心掌握。
 映画化したらどの女優がこの役にふさわしいだろうか?とずっと考えながら読んでいた。

 ウィキによると、成瀬巳喜男のメガホン、山本富士子のかづ、森雅之の野口雄資という顔触れで企画があったらしいが、プライバシー裁判のせいで流れてしまったとの由。
 なんともったいない!
 なるほど着物の似合う美貌の山本富士子は一流料亭の女将として申し分なく、貫禄も十分だ。
 が、夫の選挙のために駆けずり回る行動力とパワー、買い物中の主婦の足を止めてマイクの前から離さない田中真紀子のような庶民に訴えるカリスマオーラーは、上品な山本では足りない気がする。
 いろいろな女優の顔を思い浮かべた結果、「この人なら」というのに当たった。

 岡田茉莉子である。
 美貌と情熱、行動力と気風の良さ、言うことなかろう。
 岡田茉莉子と仲代達矢のコンビだったらピッタリだったと思う。

岡田茉莉子
岡田茉莉子


 バロックのような華麗なる修辞と心理分析に長けているがゆえに、ややもすると人工的な印象がつきまとう三島作品の中にあって、本作は題材の性質上もあって過度な修辞も精密な心理分析も抑えられている。
 それがかえって作品全体に自然なタッチをもたらし、三島の修辞抜きの素の文章のうまさが引き立ち、余裕綽々たる洒脱な風情さえ漂っている。
 ときに差し込まれる比喩の見事さ。

夜になって冷たい風が募って、空にはあわただしい雲のゆききの奥に、壁に刺した画鋲のような月があった。

何か野口のベッドには、吹きさらしのプラットフォームのような感じがある。それでも彼は、かづよりも寝つきがいいのである。 

かづの心はありたけの嘘を考えていた。陽気な言いのがれは彼女の天分の一部で、どんな窮地に立っても、狭い軒下をくぐり抜けて飛ぶ燕のように、たちまち身をかわすことのできるかづなのに、この場合に限って何も言わないことこそ最良の言いのがれだろうと思われた。

・・・彼は今一刻も早く、残り少ない自分の人生を不動なものにしたくてうずうずしていた。もう修理や改築や、青写真の書き直しや、プランの練り直しはご御免であった。彼の心も肉体も、すでにあらゆる不確定に堪えなかった。フルーツ・ジェロのなかの果物の一片のように、身をおののかせながら、少しも早くゼラチンの固まってくれる時を待っていた。

 本作を『鹿鳴館』のように、男の論理と女の情念の擦れ違いの物語、男の理想と女の現実との相克を描いた一種の恋愛劇と読むことは可能であろう。
 『サド侯爵夫人』のように、男にひたすら尽くすことに情熱を傾けてきた女がふとしたはずみで男に愛想をつかして捨て去る話と読むこともできよう。
 あるいはまた、かづが「政治と情事は瓜二つ」と直感で見抜いたように、日本の政治の浪花節的な性質=非論理性に対する三島自身の風刺と読むことも可能であろう。
 しかしながら、読み終わって残るのは、福沢かづの愛すべき驕慢ぶりと“水盤にたっぷりと湛えられた乳のような”白い肌である。
  



おすすめ度 :★★★★

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もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 平岡家のマナー 映画:『三島由紀夫vs東大全共闘50年目の真実』(豊島圭介監督)

2020年
108分

 今から半世紀以上前の1969年(昭和44年)5月13日に東京大学駒場キャンパス900番教室(現・講堂)で行われた、三島由紀夫と東大全共闘の討論会のドキュメンタリー。
 TBSが録画保存していたフィルムをもとに、スタッフによる注釈や三島をよく知る作家や学者などによる解説、そして実際に討論会に参加していた元学生(今や70代の爺サマ)によるコメントを加えて編集したものである。
 ナレーターを東出昌大がつとめている。

 この討論に先立つ4ヶ月前、学生らによって占拠された東大安田講堂は機動隊の突入によって陥落した。東大闘争は収束したが、1972年の連合赤軍事件にはまだ間があり、共産主義革命を夢見る学生たちの機運は高まる一方であった。
 一方、この討論の約1年後、三島由紀夫は自決した。私設の防衛組織である楯の会を前年10月に結成し、自衛隊体験入隊で鍛え、憲法改正のための自衛隊クーデーターをすでに目論んでいた頃と思われる。
 反体制・反権力を掲げる血気盛んな1000人の左翼の若者が待ち構える中に、天皇崇拝を大っぴらに口にする右翼作家が単身乗り込んでいき、言葉による対決を行なったのである。


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壇上の三島と学生たち(しかし男ばかり・・・)


 たいへん面白かった。
 108分、半ば興奮しながら夢中になって視聴した。 
 そのことがまず意外であった。
 というのも、この映画(DVD)の存在をしばらく前から知ってはいたものの、観るのにためらいを感じていたからである。
 ソルティは、石原慎太郎の三島評を俟つまでもなく、マッチョになってからの、あるいは政治的発言を盛んに口にするようになってからの三島由紀夫の言動になんとなく嘘くさいものを感じていて、天皇の復権を目指し国軍創設を呼びかけるナショナリスティックな物言いには反感というより茶番に近い滑稽さを見ていた。軍服を着て日本刀を振り回し、自分ではない何者かになろうとする三島の姿に痛々しさしか感じられなかった。
 『仮面の告白』、『金閣寺』、『サド侯爵夫人』など国際級の作品をいくつも発表した人が、何者かに憑りつかれたように訳のわからないことを口にし、自ら進んで道化を演じ、これまで築き上げた業績と栄光を反故にするかのように破滅へ向かって突き進んでいく。
 三島の古くからの親しい友人であり霊能者でもある美輪明宏は、晩年の三島を霊視して、「2・2・6事件の将校が憑いている」と言ったそうだが、そうしたオカルティックな理由を持ち出すのがもっとも納得いくような三島の狂気的行動と凄惨な死に様に、近寄りがたいものを感じていたのはソルティだけではあるまい。(むろん、三島自決事件のときソルティはまだ小学生だったので、後年、三島文学に触れるようになってからの印象である)


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市ヶ谷自衛隊駐屯地での三島

 
 今回、怖いもの見たさでDVDを借りて、自決一年前の三島の姿を直視したら、ずいぶん印象が変わった。
 討論の最初のうちこそ、何者かに憑りつかれたような不自然な表情の硬さと、どこを見ているのか分からない虚ろな眼光がちょっと不気味であった。
 が、討論が進むにつれ、どうやらそれは緊張であったらしいことが分かってくる。
 そりゃあ、単身敵地に乗り込むのだから、緊張して当り前だ。

 頭のいい学生(なんたって東大生!)との討論の内容や、どっちが優勢か、あるいはどっちが正しいか、最終的にどっちが勝ったか、なんてことはソルティにはさほど興味がない。(あまりに話が観念的過ぎて付いていけない部分もあった)
 また、三島がしばしば口にする「殺し合う」とか、自らの将来を予告するような「自決する」とか、あるいは非合法の暴力の肯定といった過激な言辞にもさほど惹かれなかった。
 ソルティにとってこの討論会の一番の魅力、この記録映像の最大の価値は、三島由紀夫という男の対人姿勢を垣間見たところにある。
 別の言葉で言えばマナーである。
 主義でも思想でもルックスでも論客ぶりでも断じてなかった。

 三島は講堂をぎっしり埋めている、あるいは三島と共に壇上にいる学生たちに対して、終始、真摯に向き合い、敬意を持って遇し、相手の話に耳を傾け、対話において誠実で率直であろうと務め、ユーモアにあふれている。
 まず、この三島のユーモアというのが意外であった。
 ユーモアがあるというのは精神が硬直化していない一つの証拠であるから、三島が「何者かに憑りつかれて」我を無くしているというのは、少なくともこの段階ではどうやら当たっていない。
 『仮面の告白』による華々しい文壇登場の時からまったく変わらず、自らを相対化できる視点を携えているのである。

 また、三島の言葉は決して頭でっかちではない。己の実感から離れた思想や主義を振りかざしているのではない。
 実社会経験に乏しい学生たちはどうしても頭でっかちになりがち、つまり、行動が思想や主義によって牽引される傾向にある。(その最悪の結果が連合赤軍事件であろう)
 その思想や主義もまた、生活者の実感が伴わない借り物めいた感じが漂う。そもそもどのような条件付けのもとに自らがそういった思想や主義を抱くようになったかという点ついて自覚に乏しい。歴史的存在としての自分についておおむね鈍感である。(だからこそ、若者は今までにない新しいものが生み出せるのだが)
 たとえば、被差別部落に生まれ貧困と不平等に苦しんできた大正時代の若者がロシア革命を知って共産主義に希望を抱くような具合には、戦後生まれのインテリで資本主義社会において「勝ち組」を約束された東大生には、共産主義革命に対する切なる願望も内からの止むにやまれぬ慫慂もありはしないだろう。現実的な飢えや痛みから生み出され選ばれた思想ではない。

 一方、三島の皇国思想の背景には、まず日本文化や歴史についての深い造詣と理解があり、国や天皇のために戦い散っていった同朋を見送りながら戦前戦中を生き抜いてしまった事実があり、戦後民主主義の建設過程で神から人間になってしまった天皇や鬼畜米英から親米へと豹変した日本人を複雑な思いで見ながらも、その後に訪れた豊かさを「時代の寵児」として誰よりも享受してきた自分に対するアンビバレントな思いがあり、加えて三島独特の大儀の死と美とが結合したエロチシズムへの希求があった。
 三島の内的洞察力はこうした自らの条件付けと思想や欲望の成り立ちを当然自覚していたはずである。その自覚があればこそ、「自分は日本人として生まれ、日本人として死ぬことに満足している」というセリフが出てくる。
 天皇制や資本主義はもとより、日本人という国籍からの離脱さえ夢見る学生たちには、到底理解できる相手ではないだろう。
 ここには三島由紀夫=平岡公威という一人の男が背負ってきた重み(業)がある。そして、「歴史的存在としての人間を無視できるのか」という学生たちへの、戦後日本人への問いかけがある。

 三島がそうした条件付けからの解放を望まないのは、おそらく本映画の中でフランス文学者の内田樹が解説している通り、「国家の運命と個人の運命とがシンクロしていた時代に存在したある種の陶酔」を求めているからであろうし、作家の平野啓一郎が指摘している通り、「生き残った者の疚しさと苦悩」ゆえであろう。
 遺作となった『豊饒の海』で三島は仏教の世界に足を踏み入れている。
 あるいは三島には、すべての条件付けから解放されるべく、瀬戸内寂聴(やはり本作に登場している)のように出家して、悟りに向けて修行するという選択肢だってあったのかもしれない。であったなら、自殺することはなかった。
 が、それを決して許さないもの――自分一人だけが国家や文化や制度から解放されて生きのびることを良しとしないもの、あるいはダンディズム?――が彼の中には厳然とあったのだろう。


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Pete 😀によるPixabayからの画像


 さて、マナーの話に戻る。
 三島がマナーを持って学生たちと向き合っているのは、彼らを「他者」として認めているからにほかならない。
 この他者をめぐる問題が、この討論会の、あるいはこの映画の、あるいは三島由紀夫自身の最大にして究極のテーマであったのだと思う。
 最初の10分間スピーチの中で、三島は次のようなことを述べている。

・私は安心している人間が嫌いだ。
・私は当面の秩序を守るために妥協するという姿勢が嫌いだ。
・私は知性(知識・思想)でもって人の上に君臨するのが嫌いだ。

 これは、「自己充足して他者と向き合おうとしない人間が嫌いだ」ということを言外に匂わせている。
 そのあと、司会を務める制服姿の学生(木村修)は三島への最初の質問として、奇しくも「自己と他者」の問題を投げかける。正直、彼の質問自体は要領を得ない稚拙なものであるが、他者という言葉を“いの一番”にぶつけたセンスは素晴らしい。(たぶん、横で構えていた三島もビックリしたのではないか)

 三島はおおむねこんなことを答える。

 エロチシズムにおいて、他者とは「どうにでも変形されうるようなオブジェ」であるべきで、意志を持った主体ではない。
 一方、(真の)他者とは、自分の思うようにはならない意志を持った主体であり、それとの関係は対立・決闘あるのみで、全然エロチックなものではない。
 自分はこれまで、エロチシズムにおける他者を作品のテーマとして描いてきたけれど、もうそれには飽きた。
 私は(真の)他者がほしくなった。
 だから、君たちが標榜する共産主義を敵(=他者)と決めた。

 この告解は衝撃的である。
 三島文学の大きな特徴は「他者との関係の不可能性」にあった。
 関係が不可能なところにエロチシズムが存在したのである。
 それは、川端文学や谷崎文学にも、いや三島以前のほぼすべての男性作家について言えるところであろう。
 基本、男のエロスは自己充足的=オナニズムだからである。
 三島はそれとは決別して、他者を探す旅に出たのだ。
 エロスでも暴力でもなく、言葉によって他者と出会う可能性を探ったのだ。
 共産主義を志向する若者たちを、自らの意志を持つ「他者」と認めればこそ、対等の立場で敬意を持って対話しようとしたのである。
 それが三島のマナーの持つ意味の一つである。


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壇上の三島と進行役の木村青年


 英国の推理作家G.K.チェスタトンのブラウン神父シリーズの中に『共産主義者の犯罪』という一編がある。
 共産主義による社会転覆と神の抹殺を標榜する名門大学の教授が、大学関係者が集う夕食会の席で、伝統破壊者らしい言辞を披露して同僚の不興を買いながらも、その一方、大学特製の葡萄酒を煙草を吸いながら口にすることはついにできなかった、という話である。
 思想や主義はいくらでも標榜できるし転向もできるけれど、生まれ育ちの中で身に着けたマナーは容易には変えられないという逆説。
 本映画で確認できる三島の品格あるマナーこそ、まさに後年筋肉と共に身に着けた思想や主義以前に、人気作家になるはるか以前に、三島由紀夫ならぬ平岡公威が平岡家の伝統の中で身につけた文化であると同時に、ほとんど無意識と言っていいくらい深いところで三島を規定している気質、すなわち人柄というものである。
 「主義主張が異なる相手に対しても、対話する際には敬意と忍耐をもって遇せよ」という三島の中の定言命令である。
 その品格は1000人の学生の目にはたしてどのように映ったのか。

 上記の木村修が発言の途中で三島のことを思わず、「三島センセイ」と言ってしまい、すぐに自らの権威盲従的失言に気づき、苦し紛れの弁明をする場面がある。
 木村の生真面目な愛されキャラのおかげで会場も三島も爆笑、一気に会場の雰囲気は和らぐ。
 おそらく、木村は思想や主義を超えたところにある三島由紀夫の人柄を敏感に察し、それに感化されたのだろう。 
 いまや70代になった木村がインタビューで当時を振り返るシーンがある。
 それによると、討論会が終わって木村が三島にお礼の電話を入れたところ、その場で楯の会に誘われたという。敵からの勧誘である。
 非常に面白い、かつ意味深なエピソードである。
 三島が実は、個人の思想や主義なんてさほど重要とは思っていない、人と人とが「肝胆相照らす」には思想や主義なんかより大切なことがある、とでも言っているかのようだ。

 尚武を気取る三島は口にしなかったけれど、他者との関係には対立・決闘だけでなく、互いを理解しようとする意志すなわち愛だってある。
 900番教室の学生に対する三島のマナーの根底にあるのは愛なのだと思う。
 この映画が感動的なのはそれゆえだ。

 それにしても、半世紀前には絵空事でナンセンスとしか思えなかった三島の言辞――天皇制をめぐる問題と憲法改正――が、今日焦眉の政治的テーマとなっているのは驚くばかりである。
 そして、900番教室を埋め尽くし口角泡飛ばして政治や社会を語った東大生が、いまやテレビのクイズ番組でアイドルのように扱われているのを見るにつけ、ソルティもそこに生きてきた日本の50年という歳月を奇妙なものに思う。


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現在の東京大学駒場の900番教室



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損









● 本:『三島由紀夫 石原慎太郎 全対話』

2020年中公文庫

 1956年から69年に誌上で行われた三島由紀夫と石原慎太郎の全対話9編、併せて1970年の毎日新聞紙上での論争を収録している。
 「戦後日本を象徴する二大スタア作家の競演」という裏表紙の謳い文句に偽りはない。

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 上記の写真は1956年撮影と注釈にあるから、おそらく二人が初めて対談した『文學界』昭和31年4月号の際に撮ったものであろう。
 場所は当時文藝春秋社ビルがあった銀座界隈と思われる。
 時に三島由紀夫31歳、石原慎太郎24歳、7つ違いであった。

 昭和40年生まれと昭和47年生まれ、あるいは平成3年生まれと平成10年生まれの違いはそれほど大きくはない。
 しかし、大正14年生まれと昭和7年生まれの違いは看過できないほど大きいと思う。
 なぜなら、三島は多感な青春期に太平洋戦争、徴兵検査、広島・長崎原爆投下、ポツダム宣言受諾、天皇の人間宣言、日本国憲法発布を経験しているのであり、一方、石原の青春は戦後に始まったからである。
 両者の国家観、天皇観、戦争観、日本人観、そして死生観には埋められない深い溝があると想像される。
 その意味では、ともにブルジョア育ちで戦後に文壇に躍り出て一躍マスコミの寵児として持て囃されたという共通項こそあれど、三島は戦前・戦中の意識を背負った作家、石原は戦後の空気を象徴する作家という違いが指摘できよう。
 
 さらに、この写真で気づくのは二人の身長差である。
 181㎝と長身の石原に対し、三島は163㎝、20㎝近い差がある。
 撮影ではそのギャップが目立たないように、三島を前景に置き、かがんで手すりにもたれているような姿勢を取らせ、下半身はカットするという工夫が取られている。
 だが、ちょうど頭一つ分の二人の顔の位置の差は、そのまま二人の身長差であろう。
 これに象徴されるように、生まれながらの美丈夫でスポーツマンであった石原に対し、三島はコンプレックスを持たざるをえなかった。
 三島が貧弱な肉体改造のためボディビルを始めたのが、石原が『太陽の季節』で華々しくデビューした直後だったのは一つの符号である。
 二人の対話は、三島が己の肉体にそれなりに自信を持てるようになった頃、マッチョへの道、武芸への道、革命の志士への道を歩みだすターニングポイントに立ったあたりから始まったのである。

 本書の一番の面白さは、戦後のスタア作家でマスコミの寵児という共通項を持ちながらもまったく対照的な二人の対話を通して、それぞれのキャラ(本質)が浮かび上がってくるところにある。
 両人は、互いに小説家としての才能と仕事を認め合い、「友人ではなくとも味方」として認識し、互いの作品への忌憚ない批評を行い、男同士ならではの女性論や結婚論を開陳し合い、ときには文壇の先輩後輩という立場を離れて意見を闘わせている。
 先輩作家であり時代のヒーローである三島に対する新人作家・石原のタメグチに近い応答は、無礼と思う前に有吉弘行のようなふてぶてしさに感心するほどであり、それを平気で許してしまう三島の度量というか愛情(だろうな、やっぱり)は貴重なものである。
 石原慎太郎という男は、若い頃から偉そうだったんだな~。

破れ障子


 三島由紀夫は、漱石や芥川龍之介や谷崎や川端や太宰治など明治以来の文豪の流れをくむ根っからの物書きで、「書くこと=生きること」タイプのインドア人間。
 一方、石原慎太郎は、小説のほかにも映画を作ったり、ヨットやオートバイラリーをやったり、政治をやったり、女と遊んだり、「行動すること=生きること」タイプのアウトドア人間。
 この違いは両人の“自意識”に対するスタンスの差にあるようだ。
 三島は石原を「自意識において破滅しない作家」と評する。

三島 この人たちはどうほうっておいても、どんなにいじめても、自意識の問題で破滅することはない。それは悪口いえば無意識過多ということになるよね。・・・(中略)・・・自意識というものがどういうふうに人間をばらばらにし、めちゃくちゃにしちゃうかという問題にぶつかったときに、耐えうる人と耐え得ない人があるんだね。

 三島は「自意識において破滅する作家」の典型として太宰治を上げているが、むろん、三島自身も間違いなくその一人であった。三島の有名な太宰批判は、一種の同族嫌悪であろう。
 別の言い方をすれば、三島にとって自意識は常に「邪魔になる」ものであったのに対し、石原の自意識は常に「宝になるもの、自慢になるもの」であった。
 我が国の明治以来の文学の伝統は、「厄介なる自意識(近代的自我)をどう社会の中に位置づけるか」みたいなところにあったわけだが、石原はその本流からは逸れているのかもしれない。(ソルティは石原の対談集はともかく小説を読んだことがないので推測にすぎんが)

 両者の違いが鮮明に表れるのは、『守るべきものの価値』と題された最後の対談(昭和44年11月実施)である。この対談のちょうど一年後に三島は自決している。
 石原による「あとがきにかえて」(2020年に行ったインタビュー)によれば、この対談の最初のテーマは『男は何のために死ねるか』だったそうで、対談の皮切りに両人が「せーの」で提出し合ったこの問いに対する回答はまったく同じ、「自己犠牲」であった。
 ところが、対談を通して判明していくのは、この「自己犠牲」の中身がまったく異なることである。
 「最後に守るべきものは何か」という問いに対して、三島が出した答えは「三種の神器」すなわち天皇制である。
 これは、天皇こそが日本文化の要であり、日本を他国から弁別できる最終的なアイデンティティは天皇制だけだ、という三島の思想によっている。
 それを死守するための自己犠牲なのだ。
 一方の石原は「自分が守らなければならないもの、あるいは社会が守らなければならないもの」は、自由だと言う。

石原 僕の言う自由はもっと存在論的なもので、つまり全共闘なり、自民党なり、アメリカンデモクラシーが言っているもののもっと以前のもので、その人間の存在というもの、あるいはその人間があるということの意味を個性的に表現しうるということです。つまり僕が本当に僕として生きていく自由。

 自らの自由、あるいは自由な表現を守るための「自己犠牲」は尊い、というのが石原のポリシーなのである。
 同じ「自己犠牲」でもベクトルは真逆である。
 三島が没我的・他律的であるのに対し、石原は自己顕揚的・自律的である。
 あるいはこの違いこそ、「お国のため」、「君のため」を幼い頃より叩きこまれた戦前・戦中派と、「自分ファースト」の戦後派の違いなのかもしれない。
 両人はこの違いにおいて、激しく意見を衝突させる。

三島 形というものが文化の本質で、その形にあらわれたものを、そしてそれが最終的なもので、これを守らなければもうだめだというもの、それだけを考えていればいいと思う、ほかのことは何も考える必要はないという考えなんだ。
石原 やはり三島さんのなかに三島さん以外の人がいるんですね。
三島 そうです、もちろんですよ。
石原 ぼくにはそれがいけないんだ。
三島 あなたのほうが自我意識が強いんですよ。(笑)
石原 そりゃァ、もちろんそうです。ぼくはぼくしかいないんだもの。ぼくはやはり守るのはぼくしかないと思う。
三島 身を守るというのは卑しい思想だよ。
石原 守るのじゃない、示すのだ。かけがえのない自分を時のすべてに対立させて。
三島 絶対、自己放棄に達しない思想というのは卑しい思想だ。
石原 身を守るということが?・・・・ぼくは違うと思う。
三島 そういうの、ぼくは非常にきらいなんだ。
石原 自分の存在ほど高貴なものはないじゃないですか。かけがえのない価値だって自分しかない。

 図式的な見方になるが、

 三島由紀夫 =自己否定的=生の否定=肯定できる他者(美、天皇)の顕揚と仮託
 石原慎太郎 =自己肯定的=生の肯定=他者不要(あるいは自分を顕揚してくれる他者のみ必要)
 
 両者はちょうどネガとポジのよう。
 どっちが生活者として幸福かといったら、自ら「太陽」であり「天然」であり「王様」である石原のほうであろう。
 どっちが文学者として幸福か、つまり後世に残るかといえば、むろん三島である。
 なぜなら、他者不要の文学なんて意味がないから。

「あとがきにかえて」の最後で、石原はこう述べている。

 結局、あの人は全部バーチャル、虚構だったね。最後の自殺劇だって、政治行動じゃないしバーチャルだよ。『豊饒の海』は、自分の人生がすべて虚構だったということを明かしている。最後に自分でそう書いているんだから、つらかったと思うし、気の毒だったな。三島さんは、本当は天皇を崇拝していなかったと思うね。自分を核に据えた一つの虚構の世界を築いていたから、天皇もそのための小道具でしかなかった。彼の虚構の世界の一つの大事な飾り物だったと思う。

金閣寺


 ソルティも、ここで石原の言っていることはかなりの程度まで当たっているように思う。
 ただ、石原の人を貶めるような物言いには、文学者として最早決して同じレベルに立つことができない先輩・三島に対する男の嫉妬のようなものが感じられる。
 悪名高い石原のホモフォビアも、三島への嫉妬心から来ると思えば存外理解しやすい。
 恩知らずな奴。




おすすめ度 :★★★★

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● 本:『昔は面白かったな 回想の文壇交遊録』(石原慎太郎、坂本忠雄著)

2019年新潮新書

 坂本忠雄は1935年生まれ。元『新潮』編集長で、三つ年上の石原とはかつての作家と担当編集者の間柄。
 80をとうに回った二人が、昔話に花を咲かせる対談集である。
 むろん、主役は慎太郎。坂本はそこここで慎太郎を持ち上げ気分良くさせながら、名伯楽さながら、話を引き出している。


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 川端康成、三島由紀夫、小林秀雄、大岡昇平、江藤淳、大江健三郎といった戦後の文壇を彩った作家たちとの交流、佐藤栄作、田中角栄、美濃部亮吉、アンドレ・マルローら大物政治家の知られざる顔、石原自身による自作の誕生秘話など、興味深いエピソード盛り沢山で一気に読んでしまった。

 押しも押されもせぬベストセラー作家であり、映画スターであり、政治家であり、ヨットやスポーツカーや射撃の達人であり、太平洋戦争を知る最後の世代であり、そのうえ昭和の大スター石原裕次郎の実兄である。話が面白くないわけない。
 石原慎太郎を「好きか嫌いか」と聞かれたら「嫌い」と答えるソルティだけれど、「面白いと思うかどうか」と問われたら「面白い」と言わざるを得ない。(ただし、小説は読んでいない)
 本書を読むと、文学者にありがちな湿った面倒くさい自意識や、政治家にありがちな表裏を使い分ける陰湿さとは程遠い、慎太郎の分かりやすい性格がうかがえる。
 やはり、育ちが良いのだろう。

 ここで披露される数々のエピソードの中でもっとも印象に残ったのは、慎太郎夫婦が平成天皇と美智子妃にお茶に呼ばれたときの話である。
 平成天皇が葉山の別荘にご静養に行かれるときに「何時間も泳ぎ回るので心配」、と口にされた美智子妃に、慎太郎はこう言い放つ。

「あんなところ、海は遠浅で危ないことなんかありませんよ。伊豆の姉崎の別荘下なら僕もダイビングで時々潜りますけど、回遊魚も来るきれいな海ですよ。陛下も素潜りじゃなくてダイビングで深く潜って海の底を眺められると、人生観変わりますよ」

 平成天皇は「はあ、人生観ですか」と言ったきり、うつむいてしばらく黙ってしまわれたという。

 石原慎太郎と言えば「失言の王者」といったイメージがあるが、もしかしたらアスペルガーの気があるのかもしれないな。


尾瀬
尾瀬沼


おすすめ度 : ★★★

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● メルヴィルと三島 本:『ビリー・バッド』(ハーマン・メルヴィル著)

1924年原著出版
2012年光文社古典新訳文庫

 ロン・ハワードの『白鯨とのたたかい』を観て、メルヴィルの『白鯨』を読もうかと一瞬思ったが、やっぱりそこまでの気力は湧かなかった。
 そのかわり、メルヴィルの遺作(死後出版)で分量の少ない『ビリー・バッド』に手を出した。
 これもまた『白鯨』同様、メルヴィルが得意とした海洋小説である。

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 傑作である。
 
 メルヴィルには他に『筆耕バートルビー』という時代を越えた傑作がある。
 学生時代に授業で読んで衝撃を受けた。
 『ビリー・バッド』はそれに勝るとも劣らない内容と表現と完成度をもち、出版から100年後に現代人が読んでも、言葉にするのが難しいような感動と衝撃を与えてくれる。

 メルヴィルは生きているうちは小説家として高い評価を受けることがなく、筆一本で生活することもできず、死ぬまで困窮なままであった。
 亡くなったあと数十年してようやくその真価が認識され、評価が年々高まり、ついにはホーソンやヘミングウェイやフォークナーと並ぶ偉大なるアメリカ作家の殿堂入りを果たした。
 彼の表現したテーマが時代の制約を離れた高みにあり、大衆が追いつくまでにタイムラグが生じたのである。

 ビリー・バッドはハンサムで朗らかで逞しく、子どものように純粋、誰からも愛される21歳の水夫。英国軍艦ベリポデント号の人気者である。
 ビリーに嫉妬する上官クラガートは、ビリーを罠に陥れようと、ヴィア艦長に偽りの告発をする。「ビリーは艦内の反乱を陰で扇動している」と。
 クラガートの言葉を信用してはいないものの、役目として艦長は二人を艦長室に呼び寄せ、対峙させる。
 クラガートの出鱈目な讒言を目の前で聞いたビリーは、驚きと怒りのため、生来のどもりが出来し、言い訳することができない。
 つい手が出てしまい、艦長の目の前でクラガートを殴り殺してしまう。
 英国海軍の規律にしたがい、艦長はビリーを処刑せざるを得なくなった。

 あらすじは単純なのだが、この小説の解釈=メルヴィルの意図をめぐって過去にさまざまな読みがなされてきたことが、本書解説(大塚寿郎)に述べられている。
 キリスト教的(神学的)、政治的、道徳的、作者の個人体験、なかにはクラガートのビリー・バッドに対する同性愛感情を読む解釈もあるらしい。
 このような「不確定性」や「曖昧性」――ヘンリー・ジェイムズに通じる?――から、メルヴィルの小説を「ポストモダン的」と評する向きも多い。

その定義自体が曖昧なポストモダニティーだが、簡単に言ってしまえば近代西欧を支えてきた思想と制度に対して懐疑的態度を示す状況のことである。(本書解説より)

 確かに『筆耕バートルビー』は、近代西洋的な仕事観、人生観に対する一種のアンチテーゼと言えなくもない。
 クラガートを殴り倒した後は一切の弁明を拒否し、艦長に命じられるまま粛々と船上の処刑場に赴くビリーの姿に、そしてマストにロープで吊り下げられる直前にヴィア艦長を讃える言葉を放ったビリーのありかたに、西洋近代的な価値(たとえば、自由、人権、平等、生き甲斐、自己追求、自己実現、いのちの尊厳といった)とは異なる「何か崇高なもの」を見るのはありかもしれない。

 ソルティはこの小説を読んでまっさきに、三島由紀夫を思った。
 三島の『午後の曳航』の解剖される船乗り、『豊饒の海』(中でも第2巻の『奔馬』の切腹する飯沼青年)、『鹿鳴館』で革命家の父に撃たれる息子久雄を想起した。
 そして、なによりも三島の愛した聖セバスチャンの殉教を。

 若く美しく無垢なるものが、栄光のうちに処刑される。
 メルヴィルもまたそれをこそ描きたかったのではないかと思った。
 そこに、三島ほどのエロチシズムを托していたかどうかは分からないけれど。 


聖セバスチャン
グイド・レーニ画『聖セバスチャンの殉教』 




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● DVD:劇団四季の『鹿鳴館』(三島由紀夫・作)

2009年10月自由劇場にて収録
NHKエンタープライズ発行

作  三島由紀夫
演出 浅利慶太
衣装 森英恵
音楽 林光
キャスト
 朝子   :野村玲子
 影山伯爵 :日下武史
 清原栄之輔:山口嘉三
 清原久雄 :田邊真也
  
 『鹿鳴館』は、『サド侯爵夫人』と並ぶ三島戯曲の傑作であり人気作である。国内での上演回数だけなら後者を上回るであろう。過去には杉村春子、岩下志麻、黒木瞳を主演にテレビドラマ化され、浅丘ルリ子主演で映画化されている。文学性高くテーマのやや難解な『サド侯爵夫人』に比べると、娯楽性高くわかりやすい人情劇なのである。
 ソルティは残念ながら生の舞台に接したことはない。黒木瞳の2008年テレビ版と、浅丘ルリ子の1986年映画版(市川崑監督、東宝)のみ観ている。ウィキ「鹿鳴館」によると、この映画版は、

現在権利上の問題で封印されている。作品そのものの版権と原盤のありかが不明確で、そのためソフト化はもちろん上映も困難だという。

 なんともったいない!
 浅丘ルリ子の朝子は適役で素晴らしく美しいのに!
 共演者も、菅原文太(影山伯爵)、石坂浩二(清水永之輔)、中井貴一(清水久雄)、沢口靖子(大徳寺顕子)、岸田今日子(大徳寺侯爵夫人)と錚々たる顔ぶれが揃っているのに!
 鹿鳴館のセットも豪華で、市川監督の演出もさえているのに!
 まさに幻の鹿鳴館だ。

鹿鳴館


 劇団四季の『鹿鳴館』は初演時から評判が高く、気になっていた。近所の図書館にDVDがあった。
 モニターを通して観る芝居は、ライブの臨場感や迫力、舞台上の役者と観客の織り成す“気”の交感が削がれるという欠点は無視できない。
 が、メリットもある。
 カメラが自由に移動するので、様々な距離と角度から舞台を楽しめる。遠くから舞台全景を見渡し、近寄って役者の細かい演技を見る。上手から、下手から、正面から、見事なセットと森英恵デザインの美しい衣装をつけた役者たち、そして考え抜かれたカメラアングルとがつくるカットを、一幅の絵画のように鑑賞することができる。とりわけ、遠い客席からは見えにくい役者の表情や細かい動きを見ることができるのは、録画鑑賞の大いなる利点である。

 この舞台はDVD化による永久保存もうなづける、たいへん充実した彫りの深い舞台である。実際の舞台に足を運んだ人でも、新たにDVDで観ることで、別の舞台を見るかのように一層楽しむことができよう。
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 劇団四季の役者たちの発声と滑舌の良さを褒めるのは失礼であろう。プロなら当たり前のことだ。セリフ回しの達者ぶりも。
 ただ、三島戯曲のセリフは高踏できらびやかな修辞に富んでいて、実際の会話では使われないような類いなので、下手すると歯が浮くような滑稽なものになりかねない。中世フランス貴族、しかもある意味伝説上の人物を描いた『サド侯爵夫人』ならば、セリフの非現実性はそれほど不自然にうつらないが、近代日本の人情劇ではなかなか適合難しい。そこを不自然を感じさせることなく見事人情劇に定着させているのは、演出と訓練の賜物であろう。
 奥行きを感じさせるセットづくり、ドレスや着物や花飾り(假屋崎省吾がクレジットされていた)といった美術も、貴族の邸や鹿鳴館の豪勢と格調とをうまく醸し出している。
 
 役者はみな安定した演技をみせている。綻びがない。
 朝子役の野村玲子は熱演というにふさわしい。終幕に向けて次第に盛り上がっていき、最後に爆発する感情の流れをしっかりコントロールして、舞台に緊張感を漲らせる。
 影山伯爵役の日下武史は、さすがベテランというほかない飛び抜けた演技力で、魅せてくれる。どことなく昭和天皇を思わせる独特の恬淡とした喋り口調と緩慢な動きにより、個性的で威厳と魅力をそなえた影山伯爵を創造している。影山伯爵は、権謀術数に優れた冷徹な政治家かつフィクサーで、善なる主人公の敵役、悪役の位置づけには相違ない。日下はそこに深みを与え、単なる冷血漢ではない、「愛に不器用な」影山伯爵像を創り出している。彼は、彼なりに朝子を深く愛していたのだと、観客は悟ることができよう。

 この戯曲は男の論理(=政治、理想、計略)と女の論理(=愛、現実、感情)とが拮抗する物語である。あるいは、『サド侯爵夫人』同様、「女」の視点から描く「男」の姿である。むろん、女の典型が朝子、男の典型が影山伯爵や清原永之輔である。
 朝子と清原の息子久雄が、女(母親)の論理と男(父親)の論理との間で揺れ動き、最後には父親の手による銃弾を受けて殺されるというマゾヒスティックな筋書きに、作者三島由紀夫の分身と密やかなる欲望を見ると言ったら、うがち過ぎだろうか。 

 2017年に日下武史が、昨年浅利慶太が相次いで亡くなった。
 このDVDはまさに二人の芸術家の最良の仕事の記録となった。


評価:★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 金閣寺って何宗? 映画:『炎上』(市川崑監督)

1958年大映
99分

原作 三島由紀夫『金閣寺』
脚本 和田夏十、長谷部慶治
撮影 宮川一夫
音楽 黛敏郎

 映画化に際して当の金閣寺からクレームが入り、金閣寺という名が使えず、驟閣寺(しゅうかくじ)と変更している。タイトルも『炎上』となった。

 原作では、寺に火をつけた主人公の青年が裏山に上り「生きよう」と独語するところで終わるのだが、この映画では自殺に失敗し警察に捕まって尋問を受け、その後列車から飛び降り自殺するラストになっている。後者が事実に即しているらしい。
 また、原作の「美に対する執着と憎悪」といった抽象的で映像化しづらい放火動機が、「どもりに対する劣等感と世の腐敗に対する憤り」といったあたりに変更されている。まあ、こちらのほうが多くは芸術家でない観る者にしてみれば、わかりやすく、納得しやすい。
 それ以外は、ほぼ原作どおりと言ってよい。
 
 主人公のどもりの青年溝口を演じる市川雷蔵が、これ以上にない適役ぶりを発揮している。同じ市川監督の『破戒』でも見せたが、暗い影ある孤独な青年をやらせたら他の追随を許さない。原作者の三島も市川監督も、この雷蔵の演技を手放しで褒めたらしいが、それも納得である。
 また、驟閣寺住職を演じる二代目中村鴈治郎と、溝口の友人で足に障害を持つ戸刈を演じる仲代達矢も存在感たっぷりで、画面を引き締めている。金壺眼の仲代達矢の眼力は、モノクロ映画だと一層映える。
 
 50代のソルティは、三島の原作を読んでも、市川によるこの映画を観ても、いまひとつ金閣寺放火の動機が理解しきれない。主人公の溝口に好意を持てないのはむろん、共感も難しい。そのためか、この映画も鬱陶しいだけの印象に終始した。
 現実の放火犯であった林養賢は、精神鑑定により統合失調症と診断されたらしい。常人とは異なる、常人には見当のつかない、精神障害者特有の思考回路(論理)が働いていたと考えた方が、すんなりとは来る。
 あるいは、ソルティが青年期の危機から遠く離れて、若い頃抱えていた性的欲求不満と連動した物狂おしさや、「何者か」に成らなければならない焦燥感や、ひりひりする孤独感を体感として忘れてしまったせいなのかもしれない。
 そんな体感を慰めるべく、しばしば京都に旅し、寺巡りしたことは覚えているのだが・・・。 

 
金閣寺
金閣寺は臨済宗。なんとなく意外。



評価:★★

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