ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

  和田一樹

● ブルックナー・ニューロン 豊島区管弦楽団 第99回定期演奏会

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日時: 2025年4月29日(火) 13時30分~
会場: 所沢市民文化センター・ミューズ アークホール
曲目:
  • ベートーヴェン : 交響曲第5番 ハ短調『運命』作品67
  • ブルックナー  : 交響曲第5番 変ロ長調 WAB.105
指揮: 和田 一樹

 風薫るさわやかな午後、西武新宿線・航空公園駅から所沢ミューズに向かう足取りは、つのる期待で自然と速まった。
 なんと言っても、和田一樹&豊島オケのベートーヴェン『運命』である。
 期待するなと言うほうが無理だろう。
 ブルックナーについてはソルティはまだ開眼していないし、第5番を聴くのも初めてであるが、ひょっとしたら和田一樹&豊島オケなら、ソルティの耳糞のつまった鈍い耳を開いてくれるかもしれない。
 晴れて、ブルオタの仲間入りできるかもしれない。

 約2000席のアークホールは6~7割ほど埋まった。
 心なしか妙齢のオバ様たちが多かった。

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西武新宿線・航空公園駅

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所沢市民文化センター・ミューズ

 圧巻の『運命』!
 和田&豊島オケがこれまでに何回『運命』を演奏しているのか知らないが、もはや自家薬籠中といった感じの完成度。
 今年の初めにすみだトリフォニーホールで豊島オケを聴いた時に、「音のクオリティが上がった?」という印象を持ったが、今回聴いて、それは間違いなかったと実感した。
 ウィークデイに仕事を持ちながら余暇にオケしている人の集まりとはとても思えない。
 オケがまるで一個の生き物のように息づき、動いていた。

 第1楽章は速いテンポのうちに、刻みと粘りのメリハリ鮮やか。
 第2楽章こそ、ケン玉使い和田の真骨頂。
 緩急、強弱、明暗、硬軟、自在に玉を――じゃなくて音をあやつり、壮麗にして豊饒な世界をホログラムのごとくミューズの空間に立ち上げた。
 ホールの音響効果を十分利用した残響による余韻の興趣は心にくいばかり。
 雌伏の第3楽章を経て、第4楽章で爆発する歓喜。

 ソルティはこの曲を、モーツァルト最後の交響曲『ジュピター』に対する、ベートーヴェンなりの挑戦あるいはオマージュじゃないかと思うのである。
 それが明らかになるのが第4楽章で、向かい風の中を決然と立つ獅子のような英雄的な動機と、ピッコロの天上的響きが共通している。
 ここのピッコロは、音色の質や多少の音の狂いなどは構わずに、とにかく自在に、思い切りよく、楽天的に、「はしゃげ!」――が正解。
 ちょうど、小さな子供が元気にはしゃぎ回る声が、たとえ音楽的でなくとも、天上的に響くのにも似て。

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 ブルックナー第5番の感想はこれしかない。
 「う~ん、ブルックナーだ(笑)」
 小津安二郎の映画がまごうかたない小津印――ローポジション撮影、固定カメラ、単調なセリフの繰り返し、童謡の使用など――を身に着けていて、他の監督の作品と間違えっこないのと同様に、ブルックナーの音楽もまた他の誰の音楽とも似ていない。
 ブルックナー印がそこかしこに刻まれている。
 それを心地よく(美しく)感じられるかどうかに、ブルオタになれるかどうかの踏み絵ならぬ登竜門があるのだと思う。
 残念ながらソルティはまだそこには達していない。
 というより、いつか達する日が来るのかどうか・・・。

 ブルックナーを好きになる人は、もともと脳内のブルックナー・ニューロンが人より発達しているんじゃなかろうか。
 そして、その発達は女性より男性のほうに多く見られ、同じ男性でも鉄っちゃん・ニューロンを有している人と相関が高いのではないか。
 ――なんてことを思う。
 今日も、終演後に、「やっと終わった」というオバ様たちの安堵の表情をよそに、「ブラボー!」が多く飛び交っていたが、それはすべて男性の野太い声であった。
 ブルックナーがメインの演奏会では男子トイレに列ができる、「ブルックナー行列」という言葉さえある。

 ブルックナーの音楽はクリスチャンであった作曲家自身の信仰の表現とか言われるが、必ずしもブルオタ=クリスチャンではないと思うし、生粋のクリスチャンが、たとえばバッハの音楽を愛するようにブルックナーの音楽を愛することができるのかどうか、ソルティははなはだ疑問に思う。
 ブルックナーの音楽を難解とは思わない。
 ただ、マーラーやショスタコーヴィチの音楽以上に、聴く人を選ぶのではないか。

 和田一樹&豊島オケでも、ブルックナーの壁は越え難かった。




● BRAVISSIMO! 豊島区管弦楽団 第98回定期演奏会

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日時: 2025年1月11日(土)18:00~
会場: すみだトリフォニーホール 大ホール
曲目:
  • ベルリオーズ: 序曲『海賊』Op.21
  • ドビュッシー: 『海』~管弦楽のための3つの素描
  • リムスキー=コルサコフ: 交響組曲『シェヘラザード』
  • (アンコール) グリエール: バレエ音楽『赤いけしの花』より「ロシア水兵の踊り」
指揮: 和田 一樹

 2025年最初のコンサートは大当たりであった。
 やはり、和田一樹&豊島区管弦楽団はやってくれる。
 1時間半かけて錦糸町の会場まで足を運んだ甲斐があった。

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すみだトリフォニーホール

 和田のコンサートではいつものことだが、1曲目からすでにギアがトップに入っている。
 出だしから「おおっ!」と驚き、居ずまいを正し、舞台に集中し、音楽に入り込む。
 この「つかみはバッチリ!」こそが、他の指揮者を秀抜する和田の音楽の特徴である。
 1曲目から「ブラボー!」が飛んだ。 

 ホールの音響の良さのためもあろうが、豊島区管弦楽団の音のクオリティが以前より1ランクか2ランク上がったような気がした。
 まるで、団員がこの年明けに際して、自分の楽器をより高価なものに一斉に買い替えたかのように思われた。
 ソロ(独奏)もトュッテ(全奏)も危なげなく、柔軟性もあり、見事に尽きる。
 日本のアマオケのレベルを引き上げている筆頭は間違いなくこのオケである。
 和田はいろいろなオケで振っているけれど、やっぱり本領を発揮するのはこのオケである。
 指揮者と団員との信頼関係と理解の深さが音に表れている。
 指揮台の和田の動きも、少年漫画の主人公のように軽やかにして自在。
 団員に愛されていることがよく分かる。 

 2曲目は中休みといった態。
 なんとなくの印象だが、和田と印象派音楽のドビュッシーは合わない感じがする。
 和田の“陽キャラ”資質が向いているのは人間的感情に満ちたドラマチックな音楽であって、海や月光といった自然風景を描写する音楽ではどこか物足りない感がある。
 もちろん十分に素晴らしい演奏なのだが、1曲目と3曲目の寒気がするほど素晴らしい音楽の中では凡庸に響いた。

 3曲目の『シェヘラザード』はフィギユアスケートのプログラム使用曲として用いられることが多い。
 2011-12年のシーズンでは、当時国民的アイドルであった浅田真央がこの曲を使って滑っていた。
 ただ個人的には、この曲を聴くと安藤美姫(2006-07シーズン)の演技を思い出す。
 この曲のエキゾチックで耽美的な雰囲気が似合うのは、浅田真央でなく安藤美姫であった。
 その耽美さを引き出したのは、コンサートマスター花井計のヴァイオリンソロ。
 十全なテクニックで、美しく官能的な響きと繊細さを表現し切った。
 和田の楽譜の読みと構成力の卓抜さは、なんというか、指揮者というよりプロデューサーか映画監督のようで、「この曲はこんな名曲だったのか!?」と驚嘆させられた。
 作曲家としての活動が、曲の再構築を可能にしているのかもしれない。
 コーダ(終結部)の壮麗さときたら、ヴァーグナーの歌劇を思い起させるレベルで、思わず椅子から身を乗り出した。

 ソルティは2階席の中央あたりに座っていて、舞台からの距離はおそらく30mくらいだった。
 しかし、3曲目では楽章が進むにつれ、その距離が縮まっていった。
 20m、15m、10m・・・・。
 最終楽章では、指揮台の上で舞う和田とオケの姿が5mくらい先にあった。
 音楽への没入が高まるにつれ、小柄な和田が大きく見えた。
 こんな体験は、10年以上前に所沢で佐渡裕の『第九』を聴いた時以来。
 広いホールをただ音楽のみが支配していた。

 BRAVISSIMO!

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P.S. 今年度の和田&豊島オケは、4/29にブルックナーの第5番を、9/20の創立50周年記念演奏会ではなんとマーラーの『復活』をやるという! スケジュールを開けておかなくっちゃ!


 



● かんれき力 : 学習院輔仁会音楽部 第68回定期演奏会

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日時: 2024年11月5日(火)18:30~
会場: 杉並公会堂 大ホール
曲目:
  • ワーグナー: リエンツィ序曲
  • ブルックナー: テ・デウム
  • ブラームス: 交響曲第3番
  • (アンコール) ワーグナー: 『ローエングリン』より「エルザの大聖堂への行進」
指揮: 和田 一樹

 還暦の声を聞くようになって、夜が早くなった。
 仕事を終えて帰宅し、夕食後8時くらいに自室に戻ると、もう眠くてたまらない。
 畳んである布団の上に崩れるように倒れ込むと、そのまま3~4時間くらい爆睡する。
 真夜中にすっきり目覚めて、今度はそこからが長い。
 布団をちゃんと敷いて毛布にくるまるが、眠れない。
 読書やスマホの麻雀ゲームをし、何度もトイレに足を運ぶ。
 朝刊配達のバイク音がする頃、ようやくウトウトしてくる。

 一日仕事を終えたあとで、飲み屋や映画館をはしごしたり、スポーツジムに行った帰りにビデオを借りて深夜まで映画を観たり、ボランティアの集まりに参加して仲間と議論したり・・・・なんてことが普通にできた一昔前の体力がなつかしい。
(糖分の取りすぎが原因の一端か?)

 いまではクラシックコンサートも、仕事のある平日の夜は避けて、土日に行くようにしている。
 ありがたいことにアマオケの演奏会はおおむね土日の午後2時開演が多いので、昼食を食べ過ぎさえしなければ、万全の体制でのぞめる。
 本公演は午後6時半開演であったが、有休をとる予定でいたので、安心してチケットを予約した。

 ところがどっこい、急な仕事が入ってしまい、出勤せざるを得なくなった。
 バタバタと追われるように仕事を片付けて、タイムカードを押し、夕食を取る間もなく、JR中央線荻窪駅に向かった。
 TVニュースでお馴染みの生鮮市場アキダイの前を通って、杉並公会堂へ。
 なんとか開演に間に合った。

 ――と、ここまで書けばお分かりのように、今回のコンサートは感想を述べる資格がない。
 勇ましい「リエンツィ」も眠気を吹き飛ばすに至らず、合唱隊と4人のソリストが揃った壮麗な「テ・デウム」も頭を覚醒させるに及ばず(逆に単調なリズムの持続と地味な旋律の繰り返しの多いブルックナー音楽は催眠効果が高いように思う)、20分休憩後の定番ブラームス交響曲第3番でさえ、ステージとの間に透明な膜でもあるかのように、音楽が遠くに感じられた。
 そういう状態の時でさえ、生き生きした音の力で一瞬にして心身を呼び覚ましてくれるのが和田一樹なのだが、今回はソルティの“かんれき力”のほうが強かった。
 アンコール「エルザの大聖堂への行進」でやっと膜が破れた。

 やはり、仕事後のコンサートや映画はもうNGだ。
 客席でのイビキソロくらい、演奏者にも来場者にも申し訳ないものはあるまい。

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● 怒りのショスタコ :横浜国立大学管弦楽団 第122回定期演奏会

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日時: 2024年5月25日(土)
会場: 大田区民ホール・アプリコ 大ホール(蒲田)
曲目:
  • A.ボロディン: 交響詩「中央アジアの草原にて」
  • A.ボロディン: 歌劇「イーゴリ公」よりダッタン人の踊り
  • D.ショスタコーヴィチ: 交響曲第5番「革命」
  • (アンコール) エルガー: エニグマ第9変奏 「ニムロッド」
指揮: 和田 一樹

 和田一樹のショスタコーヴィッチははじめて聴く。
 これまであまり振っていないのではないか?
 どう見ても“陽キャ”の和田と、“陰キャ”の極みとしか思えないショスタコーヴィチは相性が良くないように思われるが、どうなのだろう?
 そんな好奇心を胸に蒲田に馳せ参じた。

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太田区民ホール・アプリコ

 ボロディン『ダッタン人の踊り』については前に書いたことがあるが、やはり、アルタードステイツすなわち意識の変容を引き起こすスピリチュアルな音楽と思う。
 一曲目の『中央アジアの草原にて』も同様で、知らないうちに瞑想状態、いや催眠状態に引き込まれた。
 ボロディンについてはほとんど知らないが、ソロモン・ヴォルコフ編『ショスタコーヴィッチの証言』(1979)によれば、博愛主義者でフェミニストだったという。
 そのあたりのスピリチュアル性が音楽に反映されているのかもしれない。

 ボロディンはまた優れた化学者でもあり(むしろ作曲は副業)、ボロディン反応(別名ハンスディーカー反応)という化学用語を残している。
 意識の変容を起こすこの特徴も「ボロディン反応」と名付けたいところだ。

ボロディン反応
ボロディン反応

 ショスタコーヴィチの第5番『革命』をライブで聴くのは2回目、前回は東京大学音楽部管弦楽団(三石精一指揮)によるものだった。
 その時感じたのは、『革命』という標題はまったく合ってないなあということと、最終楽章で表現される「暗から明へ」の転換はどうにも嘘くさいなあということであった。
 むしろ、第1楽章から第3楽章で表現される「不安・緊張・恐怖・悲愴・慟哭」が限界に達し精神が崩壊したために生じた“狂気”――という印象を持った。
 その後、ショスタコーヴィチの伝記を読んだり、他の交響曲を聴いたり、彼が生きた時代とくにスターリン独裁時代のソ連の内実などを知って、自らが受けた印象があながち間違っていなかったと思った。
 最終楽章は、体裁上は「暗から明」の流れをとって「ソビエト共産党の最終的勝利」、「スターリンの偉大さ」を讃えているように見える。
 が、それは二重言語であり、裏に巧妙に隠されたメッセージは、「ファシズムの狂気」、「独裁者の凱歌」、「強制された歓喜」なのである。
 マーラーに匹敵する天才と官能性を兼ね備えていたショスタコーヴィチが、自らのもって生まれた個性を自由自在に表現することを禁じられた、その“抑圧の証言”こそが、彼の音楽の個性とも特徴ともなってしまったのは、悲劇である。
 が、一方それはまた、「巨大権力による抑圧と迫害」という、ロシアやガザ地区やミャンマーをはじめ現在も世界各地で起こっていて、インターネットで世界中の人々に配信・共有されている“悪夢の現実”を、内側(被害者の視点)から表現しているわけである。
 もしかしたら、しばらく前から音楽的な時代の主役は、「マーラーからショスタコーヴィチに」移っているのかもしれない。


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ガザ地区
 hosny salahによるPixabayからの画像

 和田一樹の第5番を聴いて“革命”的と思ったのは、最終楽章である。
 大太鼓の皮が破れるのではないかと思うほどの爆音の連打にソルティは、「狂気」でもなく、「悪の凱歌」でもなく、「強制された歓喜」でもなく、ショスタコーヴィチの「怒り」を聴きとった。
 それは指揮者の怒りと共鳴しているのやもしれない。
 そうなのだ。
 人民は抑圧する権力者に対して、いろいろな態度を取りうる。
 諦めたり、悲しんだり、絶望したり、流されるままになったり、従順になったり、抑圧に手を貸す側に回ったり、内に引きこもったり、他国に逃避したり・・・・。
 ショスタコーヴィチが置かれた境遇のように、たとえ表立って抗議するのが困難な場合でも、少なくとも怒りは持ち続けることができる。
 怒りは忘れてはならない。
 怒りこそ「革命」の源なのだから。

 横浜国立大学の学生たちの若いエネルギーを怒りのパワーに転換させたのが、今回の第5番だったように思った。
 





● It rains cats & dogs : 豊島区管弦楽団 第九演奏会

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日時 2024年4月29日(月)14時~
会場 東京芸術劇場 コンサートホール
曲目:
  • ブラームス: 大学祝典序曲
  • ワーグナー: 歌劇『トリスタンとイゾルデ』より『前奏曲と愛の死』
  • ベートーヴェン: 交響曲第9番 イ短調 作品125『合唱付き』
   ソプラノ: 和田美菜子
   アルト : 成田伊美
   テノール: 渡辺正親
   バリトン: 小林大祐
指揮: 和田 一樹

 和田一樹&豊島区管弦楽団が第9をやると聞けば、万難を排して、いや万障繰り合わせて参加したい。
 知ったのは一週間前。慌ててネット予約したら、すでに3階席しか残っていなかった。
 芸劇の3階席にはいささか不信感があるのだが、同じ3階席でも前のほうの席でなく、壁際ならいいかもしれない。
 3階席の舞台向かって右手の壁際を選んだ。
 結果的には、音の反響よろしく、舞台も良く見える上席だった。
 指揮者が舞台袖から出て、オケの間をすり抜けて指揮台に達する、いわば“指揮の花道”が丸々望める位置だったので、音合わせが終わっておもむろに登場する和田一樹の表情や足取りをはじめて見ることができた。
 これが面白かった。
 華々しく軽快なブラームスの祝典序曲、ドラマチックで官能的なワーグナーのオペラ曲、そしてメインの第9。
 これから演奏する曲に応じて、和田の表情や足取りや醸し出すオーラが異なっていた。

 あたりまえと言えばあたりまえの話。
 能役者が鏡の間でこれから演じる役に没入するように、指揮者も舞台袖でこれから立ち向かう曲あるいは作曲家に波動を合わせる、いわばチューニングするのだろう。
 本番で指揮者がまとい発散するオーラに感化されて、オケのメンバーたちもまた、楽曲ごとに異なる世界へ旅立つのが容易になるというものだ。
 指揮者とはあの世の作曲家の言葉を伝える審神者(シャーマン)みたいなものかもしれない。

 毎度のことながら、和田の指揮には驚かされる。
 なんといっても、音楽に生命力を漲らせる力が抜群だ。
 曲の経路を知り尽くし、どのツボを押せばどのような効果が生まれるか心得ている中国3千年の鍼灸師のようなテクニックに加え、やっぱり、本人のキャラクターが物を言っているように思う。
 人生は楽しむものであり、音楽は楽しむもの。
 歓喜の人生観の持ち主なのだと思う。 
 陽キャは強い。

 豊島区管弦楽団のうまさも相変わらず。
 玄人はだしの安定したテクニックはアマオケ界のレジェンドと言いたい。
 洗練の極みのプロオケのコンサートで、「CDを聴いているようでつまらない」と感じることがままあるけれど、豊島区管弦楽団は巧くなっても活力を失っていない。
 だから面白い。 
 ソロパートでは、それぞれの楽器が個性豊かに響き、「クラシック=古い、お上品」というイメージを打ち破っていた。

 どの曲も、どの楽章も良かったけれど、今回はとりわけ第9の第2楽章が衝撃的だった。
 テレビゲームのBGMを思わせるような軽快でリズミカルなこの楽章を、客席でリズムを取りながら気持ちよく聞き流していることが多いソルティ。
 今回の第2楽章ときたら、リズムをとるような余裕を与えてくれなかった。
 とにかく激しかった。
 それはまるで夏の嵐。
 一陣の突風が吹いたかと思ったら、空一面がかき曇り、稲妻ひらめき、夕立が大地を容赦なく打つ。
 次々と天から放たれ、中空を引き裂く銀の矢。
 数十キロ四方にとどろき渡る雷鳴。

 It rains cats and dogs. 

 あたかも風神と雷神が睨み合って腕比べしているかのような迫力であった。
(パーカッション、素晴らしかった)

 夏の第九もなかなか面白い。


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東京芸術劇場アトリウム





● ゴールドフィンガー :オーケストラ・ルゼル 第28回演奏会


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日時: 2023年7月9日(日)13:30~
会場: なかのZERO 大ホール
曲目:
  • ワーグナー: 歌劇『タンホイザー』序曲
  • R.シュトラウス: オーボエ協奏曲 ニ長調 
  • チャイコフスキー: 交響曲第4番 へ短調
  • アンコール ワーグナー: 歌劇『ローエングリン』より エルザの大聖堂への行進
オーボエ: 最上 峰行
指揮: 和田 一樹

 「タンホイザー」序曲くらいカッコよくて血沸き肉躍る曲はそうそうないと思う。
 それを「つかみはバッチリ」の我らが和田一樹が一曲目に持ってくるのだから、会場が沸騰しないわけがない。
 一曲目にして「ブラボー」が放たれた。
 たしかに、メインプロ前の食欲増進を企図したアペリチフという位置づけに納まらない出来栄えだった。
 この序曲の中に、「タンホイザー」という聖と性をテーマとするオペラのドラマが凝縮されているわけだが、和田の指揮はそのドラマ性を十分に開示し、表現していたと思う。
 そろそろオペラに挑戦してもよいのでは?
 ぜひとも、『トロヴァトーレ』を振ってほしいなあ。
 
 オーボエ協奏曲ははじめて聴いた。
 モーツァルトを思わせるロココ風の典雅な曲で、華やいだ気分になった。
 ソルティは舞台向かって右側の前から4列目にいたので、指揮台の横に立つオーボエ奏者の姿がよく見えた。
 とにかく指の動きが凄かった。
 よく吊らないものだ。
 楽章に分かれていないので休みもなく、装飾符だらけの難しい曲を、いとも軽やかに鮮やかに奏しきった最上峰行の技術とスタミナに感嘆した。
 そして、ソリストを引き立てながらも、オケとの活気ある対話を作りあげて、シュトラウスの世界を作りあげていく和田の手腕に唸った。
 とくに、オーボエと他の木管との掛け合いが、森の中の鳥同士の会話のようで非常に愉しかった。
 コンチェルトとはこうでなければいけないと思うような名演。
 ときに、オーボエの響きには脳細胞を鍵盤で叩くような頭蓋骨浸透性がある。
 頭が疲れたときはオーボエを聴くといいんだなあと発見した。

オーボエと脳波
 
 今回、コンサートマスター(第1ヴァイオリンのトップ)をつとめる男性の演奏中の動きが激しくて、1曲目では気になって仕方なかった。(目をつむっていればいい話なんだけどね)
 このままだと、2曲目で主役のソリストより目立ってしまうんじゃないか、悪くするとソリストの集中を妨げやしないか、と他人事ながら心配になった。
 ところがどっこい、オーボエ奏者の動きもこれに負けず劣らずダイナミックで、相並んで揺れ動く中年男子2人の周囲には、あたかもボリウッド映画『RRR』の主役男優二人によるナトゥーダンスのような熱く濃い磁場が生じていた。
 さしもの和田一樹も薄く見えるほどで、大層面白かった。
 
 チャイコフスキーの4番は、迫力が凄かった。
 それはしかし、生きる力に満ちた意気軒高たるパワーではないように思った。
 絶望の底をついた人間が見せる、狂気すれすれ自棄っぱちの捨て身パワーである。
 「こんな曲を作る人は自殺しかねないなあ」と、つい思ってしまうような作曲者の不安定な精神状態を垣間見させる。
 実際、この曲はチャイコフスキーが結婚に失敗してモスクワ川で自殺をはかった直後に書かれたものだという。
 作曲という代償行為を通じて精神の危機を脱したのかもしれない。

 シュトラウスで舞い上がった気分が一気に突き落とされて、このまま終わるのはつらいなあと思っていたら、アンコール曲で見事に引き上げて癒してくれた。
 こういうサービス精神&バランス感覚もこの指揮者の才能の一つである。

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なかのZEROホール






 


 
 
 

● 豊島区管弦楽団ニューイヤーコンサート2023


日時: 2023年1月8日(日)
会場: 豊島区立芸術文化劇場(東京建物ブリリアホール)
曲目:
  • ベートーヴェン: 交響曲第7番
  • 武満徹: 系図 -若い人たちのための音楽詩-
  • ストラヴィンスキー: バレエ組曲「火の鳥」(1919年版)
指揮: 和田 一樹
アコーディオン: 大田智美
語り: 都立千早高等学校演劇部員

 昨年は和田一樹の素晴らしいマーラー1番で幕を閉じたが、年明けも和田一樹となった。
 2019年11月開館のブリリアホール(豊島区立芸術文化劇場)に行くのは初めて。
 池袋駅東口(西武があるほうが東口である)から徒歩5分、お隣が豊島区役所。
 この辺を訪れるのは10年ぶり。 
 かつてホームレスや終電逃した酔っ払いのたまり場であった中池袋公園が、明るくモダンな都市空間に変貌しているのにビックリした。
 ソルティも20代の会社員時代、ここのベンチで朝焼けとカラスに蹂躙されたこと度々。

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池袋駅東口

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ブリリアホール

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ホール前の中池袋公園

 TVドラマ『のだめカンタービレ』で一躍人気ナンバーとなったベートーヴェン交響曲第7番、通称ベト7は、年明けを飾るにふさわしい華やかで躍動的な曲。
 10年近く常任指揮者をつとめているだけあって豊島管弦楽団と和田の呼吸はぴったり。
 危うげなところが微塵もない。
 上記ドラマにおいて指揮指導をした和田にとって、ベト7は自家薬籠中といった余裕すら感じる。
 各演奏者のレベルも相当なもの。
 海外ツアーしてもいいんじゃなかろうか。

 珍しいのが2曲目の武満徹『系図』。
 配布プログラムによると、

武満晩年にあたる1992年に作曲された。40年来の親友である詩人、谷川俊太郎の詩集『はだか』から、“自分と家族”に関わる詩を選び、一連のストーリーとなるよう並べ、音楽で彩った。語り手は12歳から15歳の少女が望ましい、と武満は言っていたそうで、若手女優を起用する例が多い。 

 今回語り手の少女は、豊島区にある都立高校の演劇部の女子学生6人がつとめた。
 自らの祖父母、両親のことを順に語り、最後は自分の将来を夢見るという構成。
 しかし、描き出されるのは『サザエさん』や『ちびまる子ちゃん』風の幸福な家族ではなく、むしろ心がバラバラの現代的な一家の姿。
 認知症っぽい祖父、寝たきりの祖母、燃え尽き症候群の父、キッチンドリンカーの母。 
 そこに、映画BGMでも発揮される武満の奇っ怪な音楽が、アコーディオンの庶民的な響きと共にかぶさる。
 正直、どうとらえていいか分からない作品である。
 これで「系図」と言われてもなあ・・・・。
 (よもや虐待の系図ではないよね?)

 女子高生たちの好演には拍手を惜しまないが、本作も含め、今回の曲目選定には疑問が残った。
 普通ならベト7をラストに持って来て、明るく盛り上がって終わりだろう。
 新春でもあり、豊島区90周年のお祝いも兼ねている催しなのだから。
 しかしそうすると、『火の鳥』か『系図』を一番に持って来なければならない。
 それはあまりに無謀だろう。
 ってわけで、ベト7からスタートしたんじゃないかと推測する。

 『火の鳥』をプログラムに入れたのは、もちろん手塚治虫『火の鳥』とのからみである。
 豊島区には手塚治虫、赤塚不二夫、藤子不二雄、石ノ森章太郎らが青春時代を過ごしたトキワ荘があって「マンガの聖地」になっているのだ。
 今春3月には世界最大規模のアニメショップ「アニメイト池袋本店」が、それこそブリリアホールとは豊島区役所をはさんだ反対隣りにオープンする。
 今回の曲目を誰が選んだか知らないが(区長?)、ここぞとばかり「豊島区=アニメ」を強調したかったのだろう。

 ともあれ、一曲一曲の出来は良かったのだけれど、感動が相殺し合うようなバランスの悪いプログラムで、すっきりしない終演。
 こういうこともあるんだなあ~と一つ学んだ。
 5月5日には、和田一樹&豊島区管弦楽団で R.シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」とマーラー交響曲第9番に挑戦するらしい。
 これぞ実力見せどころの名プログラム。
 掛け値なしの必聴コンサートである。




● 躁うつ病交響曲、あるいはA線上の人生: 明治大学交響楽団 第99回定期演奏会


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日時: 2022年12月28日(水)
会場: すみだトリフォニーホール 大ホール
曲目:
  • スッペ: 喜歌劇『軽騎兵』序曲
  • ボロディン: 歌劇『イーゴリ公』より「韃靼人の踊り」
  • マーラー: 交響曲第1番
指揮: 和田一樹

 年末最後はいつもベートーヴェン「第九」で〆るのだが、昨年は聴きそこなった。
 コロナ陽性になって自宅隔離を余儀なくされ、予約していた「第九」に行けなかった。
 隔離明けて、何か一年を〆るのにふさわしいものはないかと i-Amabile をチェックしたら、本ライブがあった。  

 マーラーの全交響曲中、2番「復活」、自然を謳った3番8番「千人の交響曲」あたりは、「第九」の代わりとして年末を〆くくるのにふさわしい。
 6番、7番、9番、10番を聴いた日には、とても目出度く新年を迎えるわけには行くまい。(まあ、あえて取り上げるオケもなかろうが)
 1番、4番、5番は一応「明るく」終わるので、無難なところである。
 和田のマーラーは5番7番を聴いたことがあり、どちらもとても良かった。

 明治大学交響楽団を聴くのは初めてであったが、とにかく大所帯で一番端のヴァイオリン奏者など舞台からこぼれ落ちそうであった。
 音の厚みと力強さは保証されたようなもの。
 それを「つかみはバッチリ」の和田が最初からガンガン鳴らしまくる。
 この指揮者の凄いところは、“生きた音”を作り出す力である。
 演奏が始まってすぐに「おおっ!」と客席から身を乗り出さざるを得なくなるのだ。
 おそらく、オケメンバーとのコミュニケーション力が飛び抜けているのだろう。
 「音」を「楽しむ」という根本をつねに忘れない、忘れさせない男なのだ。
 スッペの『軽騎兵』序曲からすでに会場は熱くなっていた。

 ボロディン「韃靼人の踊り」については、あるエピソードが頭について離れない。
 本で読んだのか誰かに聞いたのか忘れたが・・・・・
 ある人が事故で危篤状態になって医師も周囲もあきらめた。実はその時その人は臨死体験中で、幽体離脱して病室の天井から自分の体を見下ろし、暗いトンネルに引っ張り込まれ、そこを抜けたら光の洪水があった。それから慈愛あふれる宇宙空間のような場所をしばらく幸福感に満たされながら漂っていた。ある音楽が鳴り響いていた。その時はそれと分からなかったが無事回復したあとで偶然曲を聴いて「これだ!」と判明した。それが「韃靼人の踊り」だった・・・・いうスピ話。
 これは「宇宙人の正体は実は韃靼人」と言いたいわけではなく、「韃靼人の踊り」という曲が、深い瞑想状態に入っている人の脳に見られるシーター波、あるいはさらに無意識に近い熟睡状態の時(危篤状態も含む)に見られるデルタ波を、曲を聴く人の脳に生み出しやすいということなのではないか、と一介の似非スピリチュアリストたるソルティは睨んでいる。
 今回も案の定、曲の途中で意識が飛んだ瞬間があった。

宇宙の少女
AmiによるPixabayからの画像

 最後のマーラー1番。
 これがもう寒気がするほど良かった。
 何度も聴いている曲なのに、「自分、はじめて1番を聴いたかも」と思ったほど、斬新で美しく、驚きに溢れていた。
 和田一樹が、あたかも人体のあらゆるツボと経絡を熟知した中国二千年の気功師が奇跡的な施術で患者の生命力を回復させるのと同じように、自ら指揮する曲のツボと経絡を理解し、緩急・強弱・間合い・テンポの微妙なズレなどのテクニックを自在に駆使して、マンネリ化しがちな有名曲に新たな生命力を吹き込むことができるのは知っていた。
 その技術が一段と磨かれたようであった。
 それも耳の肥えた聴衆を驚かすテクニックのためのテクニックという(あざとい)レベルを超えて、もとから曲に内包されていたが未だ知られざりしテーマがテクニックと有機的に結びつくことで露わになるという感覚、言い換えれば「楽譜通りに曲を振っている」というより「曲をその場で彫琢し作っている」という印象を受けた。
 プロフィールによると、和田は作曲も手掛けているらしいから、そのあたりが影響しているのかもしれない。

 そうやって露わにされたマーラー1番であるが、ソルティは今回この曲に「躁うつ病交響曲」というタイトルをつけてもいいのではと思った。
 躁うつ病(現在では双極性障害と呼ばれている)こそが、マーラーの人生にとって愛妻アルマ以上のパートナーだったのではなかろうか。
 躁状態(明)と鬱状態(暗)がしきりに交互する彼の曲の秘密はそこにあるのではなかろうか。

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 マーラーを「暗」から救い上げてくれるのは、信仰をテーマにした2番や8番の成功あるにも関わらず、結局のところ、啓示がやって来るのをただ待つしかない「神」ではなく、より確実な効果が期待できる「エロスと自然」だった。
 だが、それすらも彼の生まれつきの(あるいは幼少期の環境で身についた)鬱気質を払拭することはできなかった。
 最後(9番や10番)は、ベートーヴェンのように「暗」から「明」へ到達することは叶わずに、狂気すれすれの「暗」で終わっている。
 「暗」によって常に圧迫されやがては引きずり落とされる「生」という宿命を背負っていて、その不安と恐怖と癒しようのない悲しみが、マーラーの人生をひいてはその音楽を縁取っているような気がする。
 
 第1楽章の出だしは延々と続く「ラ(A)」で始まるが、この音こそが記憶の底から続いている宿命の響きであり、マーラーのトレードマークであり、「暗」の極みたる狂気に落ちないよう慎重に保持し続けなければなければならない命綱の象徴だったのではなかろうか。
 A線上の綱渡り人生。 
 第4楽章のフィナーレは一応華々しく景気よいものだが、ソルティはいつもここに無理を感じる。
 第1楽章から第3楽章までの流れからして、そして第4楽章の相当に破壊的な出だしからして、とてもとても「明」に到達できるとは思えないのである。
 だが、この華々しさや景気よさが「至福」や「喜び」から来るものではなく、「躁」状態から来るものだと思えば、至極納得がいく。
 本当の「明」ではない。(オケは本当の「明」学だが)

 多くの作家はその処女作において今後展開すべき自身のテーマの種子をまき、その後の作品と人生をそれとなく予告する。
 第1番において、マーラーはまさに名刺代わりに自らのテーマを開陳し、自分が何者かを示している。
 聴く者をして、こんな勝手な想像(創造)をさせて大昔の作曲家と引き合わせてくれるところが、和田一樹が凄いと思うゆえんである。
 指揮棒が下りたとたん、場内にひと際大きな「ブラボー」が響き渡った。
 コロナ禍の「ブラボー」は禁止されていることは当然本人も知っていようが、これはどうしたって一声発せざるを得ないよなと、理解できた。
 
 アンコールはいつものヨハン・シュトラウス1世作曲『ラデツキー行進曲』。
 聴衆とオケが一緒になって曲を作り上げ、音楽を楽しむ場を創出し、一年をhappyな気分で〆る。
 こういったところも和田一樹の愛されるゆえんであろう。
 コロナ陽性も「転じて福」と思える素晴らしいコンサートだった。

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● 英雄と死の舞踏 :西東京フィルハーモニーオーケストラ 第32回定期演奏会


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日時: 2022年7月10日(日)
会場: 保谷こもれびホール(東京都保谷市)
曲目:
  • サン=サーンス: 死の舞踏
  • グラズノフ: 組曲「中世より」
  • シューマン: 交響曲第2番
  • (アンコール)エルガー: エニグマ変奏曲より第9変奏「ニムロッド」
指揮: 和田一樹

 久しぶりの和田一樹。
 コロナ渦のフェルマータ(一時休止)にあって、もっとも再会を待ち望んでいた指揮者であった。

 ソルティが普段、休日に行くクラシック演奏会を選択するのに利用しているのは、i-amabile(アマービレ)というサイトである。
 それによれば和田一樹は、9日(土)にも北区王子の北とぴあで Ensemble Musica Sincera 第1回演奏会の指揮台に立ち、ベートーヴェン揃いのプログラムを振ることになっていた。
 和田のベートーヴェン、非常に聴きたかった。
 が、メインプログラムが交響曲3番「英雄」とあるのを見て、冷めるものがあった。
 というのも、最近非業の死を遂げた元首相が、あたかも「英雄」のように祭り上げられている現状にやり切れないものを感じるからである。
 北とぴあで第3番「英雄」を耳にする聴衆が、ナポレオンをモチーフにしたというこの曲に、亡くなった政治家の姿を重ねる可能性の低くはないことが想像され、その場に身を置くことは避けたかった。

 当然ソルティも故人の冥福を祈るし、暴力には反対である。
 死者を冒瀆する気はない。
 が、あまりに行き過ぎた美化はいただけない。
 安倍さんが「民主主義の護り手だった」とでも言うかのような言説には、正直驚きあきれるほかない。

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保谷こもれびホール

 というわけで、Ensemble Musica Sincera の旗揚げに後ろ髪ひかれつつ、10日の演奏会を選択した。
 会場は西武池袋線の保谷駅よりバスで10分の保谷こもれびホール、西東京フィルは2回目となる。

 配布されたプログラムによれば、グラズノフの組曲『中世より』は「めったに演奏されません」とあり、シューマン交響曲第2番はシューマンの4つの交響曲の中で「もっとも演奏回数が少ない」とある。レアなプログラムなのだ。
 ソルティもはじめて聴く。

 サン=サーンスの『死の舞踏』は、浅田真央のライバルと言われた韓国のフィギュアクイーンことキム・ヨナが、2008-9年のシーズンのショートプログラムに選んだ曲として記憶に残っている。
 キム・ヨナの滑ったプログラムの中で一番完成度が高く芸術性も高かったのは、『死の舞踏』だったと自分は思う。
 サン=サーンスの作った不気味で奇抜で、それでいてどことなく滑稽で躍動感に満ちた音楽を、キム・ヨナは見事な滑りと振り付けと表情とで表現し切っていた。
 
 和田の『死の舞踏』もまたキム・ヨナに劣らず、精彩を放っていた。
 タイトルとは裏腹に、音楽に「生」の力が漲って、瞬く間に聴衆を引き込む。
 「つかみはバッチリ」というこの指揮者の特性を再確認した。
 オケのメンバーひとりひとりに生き生きと演奏させて、ひとつひとつの音符に生命を吹き込み、生きた音楽を紡ぎ出すのはこの人の天性だろう。
 プロオケの正確無比な死んだ音楽より、アマオケの雑音混じりの生きた音楽のほうが、10倍いい!

 二曲目の『中世より』の途中から気持ちの良い忘我に引きずり込まれてしまった。
 最近は、「ちゃんと耳で聴いていなくても、体は音(の波動)を感じているのだから、音楽の効果は得られる。眠っても良し」という催眠療法まがいの身勝手な理屈を採用している。

 三曲目のシューマンはどうも曲自体が、地中で方向性を見失ったモグラのような、優柔不断というか暗中模索というか堂々巡りというか、方向性ある精神の軌跡を感じることができず、聴いていてすっきりしなかった。
 シューマンは自分には合わないようだ・・・・。

 やっぱり昨日のベートーヴェンを選ぶべきだったかな?――と帰り道で一瞬思った。
 が、その夜の選挙速報で、死の上で舞踏するかのような自民党の圧倒的勝利を見て、「やっぱり英雄視は行き過ぎだろう!」と独りごちた。

 2019年にアフガニスタンでペシャワール会の中村哲医師が銃弾に斃れたときと、かくもマスコミや世間の扱いが違うのには、不審を通り越して憤りを感じざるを得ない。
 中村医師こそは平和と民主主義の護り手であり、真の英雄であった!
 
 安倍晋三氏の冥福を祈る。


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● 神ならざる歓喜 豊島区管弦楽団 第89回定期演奏会

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日時 2019年9月16日(月祝)13:30~
会場 すみだトリフォニーホール
指揮 和田一樹
曲目
  • ハンス・プフィッツナー / 付随音楽「ハイルブロンのケートヒェン」序曲
  • フランツ・シュレーカー / 組曲「王女の誕生日」
  • グスタフ・マーラー / 交響曲第7番ホ短調


 すみだトリフォニーホールは錦糸町にある。
 他の場合なら、家から1時間以上かけて行くのは遠慮したいが、和田一樹がマーラー7番を振るとあっては行かなきゃ損だ。
 1800の客席は8割がた埋まった。

 本日の3曲とも上演機会の少ない作品である。
 プフィッツナーとシュレーカーの名前は初めて知った。
 前者はロシア生まれのドイツ人で、大戦中は反ユダヤ主義者としてナチスの愛顧を得た。
 後者はモナコ生まれのユダヤ人で、ナチスの圧力により音楽界から退けられた。
 対照的な二人と、カトリックに改宗したユダヤ人で自らを「ボヘミアン」と称したマーラーを組み合わせるプログラムの妙が面白い。
 ウィキの写真で見る限りにおいてであるが、反ユダヤ主義のプフィッツナーはユダヤ人としか思えない立派なカギ鼻を持っていて、逆にシュレーカーのほうがドイツ人らしい風貌である。
 
 「ハイルブロンのケートヒェン」序曲は、NHK大河ドラマのテーマ曲を思わせる。
 勇ましく風格があり、かつ軽快な出だしは戦国時代の伊達なる武将のイメージ。
 それが中間部で一転し、美しくたおやかで、どこか哀しみを帯びた姫君の風情になる。
 最後はまた初めに戻って、爽快な大団円を迎える。
 独奏も合奏も、豊島区管弦楽団の技量の高さと指揮者との阿吽の呼吸が十分に感じられた。

 組曲「王女の誕生日」は、オスカー・ワイルドの同名童話がもとになっている。
 童話というには、あまりに残酷で悲しい物語で、現代なら障碍者差別としてPC(ポリティカル・コレクトネス)に引っかかりそうな内容である。
 なんとなく能の『恋重荷』に似ている。
 ワイルドの童話と言えば涙なしに読めない『幸福の王子』が有名であるが、一方でこんな残酷な話も書いていたのか。
 
 せむしの小人が野原で遊んでいると、スペイン王家の廷臣たちに捕われ、王女12歳の誕生日のプレゼントとして、おもちゃ代わりに宮廷に連れて行かれる。
 小人は姫君にきれいな衣裳を着せられ、得意になって踊って見せるが、かなしいかな、周りが自分の不恰好さを嗤っていることに気付かない。
 そのうち自分が姫君に愛されているとすら信じ込む始末である。
 だが姫君の姿を捜して王宮に迷い込むうち、自分の真似をする醜い化け物の姿を見つけ出す。
 そしてついにそれが姿見であり、自分の真の姿を映し出しているという現実を悟るや、そのまま悶死してしまう。
 それを見て王女はこう吐き捨てる。
 「今度おもちゃを持ってくるなら、命(心)なんか無いのにしてね。」
(ウィキ「歌劇(こびと)」より抜粋)

 物語をそのまま音楽化しているので、原作を読んでから聴くのがベストだろう。
 美しい王女の誕生祝いの華やかで明るい宴の空気が、おぞましい悲劇へと転じていく成り行きを、濃淡・明暗・緩急つけながらメリハリよく表現していた。 
 
 休憩は、カフェでホットコーヒーを飲む。
 前半で、額と頭頂のチャクラが刺激を受け、ヘルメットでも被っているかのような温圧感が持続する。
 
チャクラの目


 マーラーが完成させた9つの交響曲の中で、第7番は鬼っ子のような存在である。
 演奏される機会が少ないのは、一つの作品としてみた場合、構成に難があるように思えるからであろう。
 演奏する側にとってはこれをどう解釈し表現するかが難しいし、聴く側にとってはこれをどう理解しどこに感動するかが分かりにくい。    
 ほかの8つの交響曲に比べて「物語化しにくい」構成なのだ。

 この7番を語るにベルリオーズの『幻想交響曲』を引いている他のサイトを見かけたが、そう、まるで麻薬中毒患者の幻想か、分裂症患者の妄想と言いたいくらい、支離滅裂な印象を受ける。
 だから、下手な指揮者とオケがやったら、生涯傷として残る失敗になりかねない怖さがある。 
 和田と豊島オケは、よくぞ挑戦したと思う。

 以下は、ソルティ解釈である。

 第1楽章は、苦悩と混乱の世界である。
 マーラーには珍しくない。
 葬送行進曲による「死の予感」もいつも通り。
 マーラーは双極性障害、いわゆる躁鬱病だったんじゃないかな?
 欝のさなかに、第5番で官能の絶頂をともに極め、涅槃の境地に揺蕩うことを許してくれたアルマ(のテーマ)がふたたび忍び寄るが、どういうわけか最早それを素直に受け入れることが叶わない。
 かたくなに抵抗するマーラーであった。 

 第2楽章は、懐旧と自然。
 マーラーが癒しを求める先は、子供時代の懐かしい日々と大自然である。
 とりわけ鉄板は大自然。
 カウベルや鐘の牧歌的な響きは、大自然を謳った第3番を彷彿させる。

 第3楽章はまたしても混乱。
 しかも今度は躁状態に近い混乱である。
 思い出や自然では癒せない苦悩とトラウマが彼にはあるらしい。
 遺伝的なものか。

 第4楽章でアルマ(のテーマ)がよみがえる。
 癒しを求める矛先はやはり官能に向かった。
 存在の深いところでは拒否しているはずの官能に。
 この自己を完全には明け渡すことのできない愛の体験は、第5番第4楽章「アダージョ」ほどにはマーラーを涅槃には連れてってくれない。
 あるいは、再体験は初体験の感動に及ばないってことか・・・。
 (ここでソルティの股間のチャクラがうごめいた)

 第5楽章は、神ならざる歓喜。
 ベートーヴェン第九の最終楽章のような歓喜は、近・現代人にはもはや天啓のようにしか訪れない。
 それは神的、宗教的な歓喜だから。
 マーラーにもたまさかそれが訪れることがあった。
 第2番「復活」や第8番「千人の交響曲」はまさに神がかりである。
 それ以外の歓喜は偽りである。
 官能によるものも!
 神の手によらず、人の手により歓喜を作り出そうとするとき、それはニーチェのような「意志による」歓喜か、病(躁病)による歓喜にならざるをえない。
 この楽章の突発的な、リア充を証明したがっているかのように空々しい、脈絡のない歓喜表現は、それゆえだろう。
 早晩、挫折が訪れることが目に見えている。

 第6番の大破壊と第8番の調和統合の間に位置する7番。
 マーラーのそのときの精神状態がまんま映し出されているのだろう。

 初めて聴く楽曲について、かくも想像力を喚起し語らせてしまう和田&豊島オケの実力は並ではない。
 チャクラマッサージにより気が整って、帰途についた。
 


評価:★★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 

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