ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

  若尾文子

● 禁欲は罪? 映画:『越前竹人形』(吉村公三郎監督)

1963年大映
102分、白黒

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 竹細工を生業とする青年喜助(演・山下洵一郎)と遊廓出身の玉枝(演・若尾文子)のはかなく哀しく“清らかな”恋を描く。
 原作は水上勉の同名小説。

 まずもって讃えるべきは宮川一夫によるモノクロ撮影。
 水墨画のように清潔で枯淡なタッチで描き出される、昭和初期の日本の地方や遊廓の風景が美しい。
 西洋の白と黒が、光と影、善と悪、神と悪魔の二項対立の象徴として用いられるのにくらべ、日本の白と黒は、物を対比させるより、むしろその中間の淡さを抽出するために用いられているようなところがある。
 だから、全体的には青墨のような淡いグレーのトーンに物語が収斂される。
 これは風土や国民性の持っている性質のあらわれなのかもしれない。
 川端康成が言った「古き日本の哀しみ」に通じるような・・・。

 その淡い世界の中の若尾文子が美しい。
 役柄は遊女、すなわち遊郭で働く女郎であるが、“バロック”と称された気品は隠すことができず、聖女のようにさえ見える。
 その聖と俗との絶妙なバランスが、竹人形の姿に重ねられる。
 美貌ゆえに看過されがちだが、若尾の魅力は声色にもある。
 相手をじらすような、なだめるような、甘えるような、有無を言わさぬような、耳について残る印象的な響き。
 若尾がNHK大河ドラマ『武田信玄』(1988)のナレーション役(「今宵はここまでにいたしとうございます」)で一世を風靡したのも道理である。

 若尾の相手役をつとめる山下洵一郎は、大映に入社したばかりの新人。
 大映の看板女優としてすでに100本以上の映画に出演していた若尾相手に緊張したと思うが、職人気質の真面目で無口な男を、初初しく好演している。
 その後、脇役専門で数多くのテレビドラマや「にっかつロマンポルノ」を含む映画に出演している。

 渡し船の船頭役で中村鴈治郎が出ている。
 チョイ役だが、強烈な印象。
 どんな役をやっても群を抜くリアリティを付与する天性の役者である。

 物語の骨格は、「父親の妾に恋慕し懊悩する息子」という、『雁の寺』、『白蛇抄』同様の水上文学の定番。
 水上先生の好きなセクシュアル・ファンタジーだったのだろう。
 ここでは、ひとり者の喜助が、亡くなった父親が世話していた遊女に会って惚れてしまい、女の年季明けを待って嫁に迎え入れるという設定。
 面白いのは、せっかく嫁にとったのに、喜助はいっこうに玉枝を抱こうとしない。
 毎晩、玉枝そっちのけで竹人形づくりに励んでいる。
 寝るときは、玉枝とは別の部屋に布団を敷いて寝ている。
 禁欲青年なのだ。
 毎晩客をとるのが仕事だった玉枝が、好きな相手と一緒にいながら、何年もほったらかしにされるという皮肉。
 結局、この禁欲主義が悲劇の端緒となる。
 喜助のつくった竹人形を買いに来た京都の男が、偶然玉枝の昔の馴染み客であったことから、玉枝はその男に犯され、あろうことか身ごもってしまう。
 この時代、堕胎は罪であった。
 途方に暮れた玉枝は、あちこちをさまよう。

 本作の教訓は、「意味のない禁欲は身の為ならず」である。




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● 若尾文子と三島由紀夫 本:『美徳のよろめき』(三島由紀夫著)

1957年講談社
1960年新潮文庫

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 初読である。
 「美徳のよろめき」というタイトルからソルティがいつも連想するのは、若尾文子であった。
 本作が映画化されたときに主演の倉越節子を演じたのは、若尾ではなく、月丘夢路である。TVドラマでは、川口敦子(1961)、藤谷美和子(1993)が演じている。
 若尾が主演した三島作品は、『長すぎた春』、『お嬢さん』、『獣の戯れ』の3作であり、いずれも若尾の代表作たりえなかった。
 ほかに、三島由紀夫と共演で『からっ風野郎』というヤクザ映画の珍品に出ているが、これは三島原作ではない。

 若尾文子はむしろ、谷崎潤一郎と相性が良かった。
 『瘋癲老人日記』、『卍』、『刺青』は、いずれも若尾文子の魅力全開の傑作である。
 これらの作品の中で、若尾は、「自らの若さとセックスアピールを武器にその虜になった男や女を手玉にとる」キャラクターを演じている。
 つまり、谷崎のようなマゾヒストにとって、理想の“女王様”である。

 20歳のときに出演した『十代の性典』がヒットし、若尾は一躍人気女優の仲間入りしたが、その際に「性典女優」という有り難くないニックネームを奉られた。
 若尾自身はその名称を嫌ったようだが、その後、溝口健二監督『祇園囃子』、『赤線地帯』によって鍛えられ本格的な女優への道を歩むようになってからも、エロチックなイメージは常にまとわりついていた。いや、むしろ、濃厚になったというべきか。
 今度は、「確信犯的に」そうしたイメージを自らの“売り”にしたようにさえ思える。

 ソルティが女優としての若尾文子をいつ認識したのかよく覚えていないのだが、思春期の頃には、「性的な匂いのする、PTAに嫌われる大人の女優」と位置付けていた。
 休日の昼下がりにテレビ東京あたりで放映された水上勉原作×川島雄三監督『雁の寺』を、こっそり観たせいかもしれない。(同じ水上なら小柳ルミ子主演『白蛇抄』のほうがエロかった)

 一方、若尾文子には着物の良く似合う大和撫子風“耐える女”のイメージや、黒川紀章によっていみじくも譬えられた“バロック”風貴婦人のイメージもあり、大女優として侵しがたい気品を備えていた。
 三島作品に適合するのは、若尾のこの気品あるたたずまいである。
 淑女や貞女と言うにふさわしい美しい女性が、ふとしたきっかけで道を踏み外し、秘められていた女の情念を暴発させる。
 このギャップ(=美徳のよろめき)こそ、若尾文子という日本を代表する映画女優の持ち味であり、かつ三島作品の女主人公の典型であると思うので、ソルティは若尾にこそ、『鹿鳴館』の朝子、『愛の渇き』の悦子をスクリーンで演じてもらいたかったのである。(浅丘ルリ子の朝子や悦子も悪くはなかったが)

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折り目正しい家庭に育った有閑夫人のほんの火遊びが、いつの間にか本気の恋にかわっていく。彼女は妊娠・堕胎するところまで行くが、運よく、破綻が来る前に身を引くことができた。

 単純化すれば、これだけの話である。
 令和の現在なら物語の種になりえようもない、陳腐な不倫妻ストーリー。
 本作が刊行された1957年では、相当スキャンダラスに受け取られたのだろうか?
 この本はベストセラーとなり、「よろめき」という言葉が流行ったというから、夫の浮気は「男の甲斐性」でも、妻の浮気は――「不倫」と言う表現は80年代以降である――世間的には許されない、マスメディアの格好の餌食になり得る、それゆえ話題沸騰のテーマであったのだろう。
 ソルティが十代の時分(70年代)、芸能ニュースを騒がせたゴシップの一つに、藤間紫の不倫騒動があった。彼女は、藤間勘十郎という立派な亭主がいて一男一女をなしているにもかかわらず、16歳年下の市川猿之助と関係を持ち、同棲するに至った。
 世間の藤間紫に対するバッシングの凄まじいことったらなかった。
 80年代になるとバブル景気とフェミニズム旋風の中、女性の性の解放が進んだ。  
 テレビでは『金曜日の妻たちへ』はじめ人妻不倫ドラマが大流行りした。そこでは、“不倫”とは名ばかりで、ホイホイと浮気する人妻たちに罪悪感や背徳感などほとんど感じられなかった。
 世間には、「不倫してこそ女は磨かれる」と言わんばかりのファッション感覚すら漂っていた。(バブル期トレンディドラマの人気男優だった石田純一の「不倫は文化だ」も当初は名言扱いだったはず)
 「美徳」も「よろめき」もすっかり死語になったのである。

 本書の解説で山田詠美も触れているが、令和の現在のほうがよっぽど人妻の不倫に対する世間の目は厳しい。
 不倫が発覚した女性有名人に対するバッシングのさまは、一周回って60~70年代に戻ったかのようである。
 CMを下ろされたり、ドラマを降板したり、芸能生命を絶たれかねない勢いである。
 もっとも、浮気した家庭持ちの男性有名人に対する目もずいぶんと厳しくなったので、その点では男女平等になったと言えるかもしれない。
 要は、性道徳に関する世間の目が硬化した(ように見える)のである。

 その原因や背景を考察するのは一筋縄ではいかない作業なので別の機会に譲るが、現代の性を巡る言論空間(特にSNS)の面白いと思う点を一つ上げると、旧統一教会を代表とするような保守的・父権主義的な価値観を持つ人のコメントと、セクシュアルライツ(性の人権)やフェミニズム(女性の権利)を訴える革新的・平等主義的な価値観をもつ人のコメントが、妙に一致するように見えることである。
 たとえば、前者の「純潔を守り、家庭を大切にせよ」という理念から発しられたコメントは、後者の「男の浮気やDVを批判し、女性と子供の権利を守る」という理念から発しられたコメントと、表面上は一致する。
 100字前後の短いコメントからは発言者の思想背景まで見えないので、「この人はどういう立場の、どういった所属の人だろう?」と頭をひねること度々である。

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 話がどんどん『美徳のよろめき』から逸れていく(笑)。
 本作、途中までは面白かった。
 主人公の節子と不倫相手の土屋とが“男女の関係”に至るまでが面白くて、そこから先は妙に理屈っぽさが勝って、「三島の悪いところが出ているなあ」という感がした。
 節子が、自らの恋の悩みを相談しに、酸いも甘いも知り尽くした年長の男女の一対を訪れる場面なんか、小説と言うより論文のような生硬さである。
 『美しい星』しかり、『音楽』しかり、『仮面の告白』しかり、『禁色』しかり、『豊饒の海』しかり、三島の長編小説は、後半になると質や勢いが落ちる傾向がある。(戯曲はこの限りでない)
 本作でも、心臓を鷲掴みされるような見事な比喩やレトリックは、ほぼ前半に集中していた。たとえば、
  • 節子の月経は毎月遅れ気味で、大そう長くつづいた。そのあいだには得体の知れぬ悲しみが来る。その期間はいわば真紅の喪である。(P.16)
  • 冬の明け方の白い空は石女を思わせた・・・・(P.40)
  • 美徳はあれほど人を孤独にするのに、不道徳は人を同胞のように仲良くさせる・・・(P.75)
  • どんな邪悪な心も心にとどまる限りは、美徳の領域に属している、と節子は考えていた。(P.57)
 『美徳のよろめき』の節子は、あまりものを深く考えない、考えられない、状況に流されやすい、お人形さんのような女性である。(不倫相手の子供を孕む可能性を考えていないあたりが抜けている、というかキャラとしてのリアリティが薄弱。)
 それゆえに、一瞬の「よろめき」で事は済み、退屈な日常に復帰できた。
 思うに、若尾文子が演じてきた女性たちは、日常を打ち壊して、常識的世界を超えてしまう強さとしたたかさを秘めていた。
 節子は若尾文子の役ではなかった。


P.S. 現在、若尾文子映画祭が角川シネマ有楽町で開催中である。未見のものを何本か観たい。
  


おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● 大映三大女優・美の饗演 映画:『女経』

1960年大映
100分、カラー

 3話から成るオムニバス映画。
 タイトルの「女経」とはどういう意味かと思ったら、なんと!

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第一話 「耳を噛みたがる女」 (監督:増村保造 撮影:村井博)
 トップバッターは若尾文子。
 だるま船に暮らす色っぽくしたたかなホステス紀美を演じている。
 「おんな」を使って男を振り回す、まさに若尾らしい役どころ。
 だるま(達磨)船とは幅が広い木造の和船で、昭和初期頃に貨物の運送に使用されていたが、のちに港湾労働者を中心にその中で水上生活する者が増えていった。
 小栗康平監督の映画『泥の河』(1981)は、大阪の安治川で水上生活する昭和30年代の家族の話を扱っているが、東京でも隅田川で見られたらしい。
 80年代にはなくなったという。
 紀美が最初の婚約者に捨てられたのは、水上生活者であったことによる。
 リアリティを追求する増村演出がここでも光っている。

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若尾文子(公開当時27歳)


第二話「物を高く売りつける女」 (監督:市川崑 撮影:小林節雄)
 掛け値なし「日本一」の美女と謳われた山本富士子が、不動産業界を舞台にやはり「おんな」を武器に詐欺を働く。
 これほどの美女に引っかからない男がいようか。
 カモにされる相手は船越英二、2時間ドラマの帝王・船越英一郎の父親である。
 着物姿の山本の艶やかなこと!
 市川崑の演出は、金田一耕助シリーズを彷彿とする。

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山本富士子(当時29歳)


第三話「恋を忘れていた女」 (監督:吉村公三郎 撮影:宮川一夫)
 ラストを飾るはグランプリ女優の京マチ子
 京都で修学旅行生相手の旅館やバーを営む商売一筋のやり手の女将。
 それが昔の恋人と再会することによって「おんな」を取り戻し変わっていく。
 『羅生門』、『雨月物語』、『破戒』の宮川一夫のカメラとともに、『安城家の舞踏会』でも見せた吉村演出が素晴らしい!
 京マチ子もただ美しいだけでなく、ラストの橋の場面など非常に「おんな」っぽく撮れている。
 3話のうち、これがベスト。

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京マチ子(当時36歳)


 3人の女に共通するのは、美しい外見の裏にある“したたかさとがめつさ”であろう。
 「きれいなバラには棘があるから気をつけよ、ご同輩」というのが男性観客に説く女経の骨子に見える。
 だが、彼女たちの“したたかさとがめつさ”の背景には、男社会で学のない女が一人、身を持ち崩さずに凛として生きていくことの難しさがある。
 枕営業が横行した昭和時代なら特に。
 
 1960年の観客と2021年の視聴者とでは、観るべきものが異なって当たり前。
 またそれを可能にするのが名作と言われるゆえんであろう。



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
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● お爺ちゃんのくせに生意気よ! 映画:『瘋癲老人日記』(木村恵吾監督)

1962年大映
99分、カラー

 『刺青』、『卍』に並ぶ谷崎潤一郎原作×若尾文子主演の変態性欲シリーズの一作。
 瘋癲(ふうてん)と読む。誰でもフーテンの寅さんを連想するが、瘋癲には二通りの意味がある。

① 精神の状態が正常でないこと。また、その人。
② 通常の社会生活からはみ出して、ぶらぶらと日を送っている人。
(小学館『大辞林』)

 寅さんや現在のソルティは二番目の意味における瘋癲で、この小説および映画の瘋癲老人は一番目の意味である。

 山村聰演じる77歳の卯木督助の「正常でない精神状態」とは、究極まで洗練されたマゾヒズムと足フェチである。自分の入る墓のデザインを、仏足石ならぬ、大好きな嫁サチ子(=若尾文子)の足跡をかたどったものにしよう、つまり、死んだ後も永遠に嫁の足に踏まれ続けたいと執念を燃やすのだから、恐れ入る。
 原作は未読だが、それなりに純文学しているのだろうと想像する。が、映画はもはや「老人の性」とか「人間の性愛の深淵」とかいう、もっともらしいテーマは飛び越えて、シュールなギャグの世界に到達している。 
 いや、公開当時(58年前)と現在における、変態性欲に対する社会の認知やイメージが変わったせいなのかもしれない。SMやフェチズムはもはや「変態」とは言えないところまで、一般化、娯楽化している。現代の日本人は、この死にぞこないの変態老人の姿を、まるで一昔前の志村けんの爺ギャグのように楽しむことができるほど大人(?)になった。


仏足石と赤い花
仏足石


 別記事で、俳優山村聰の代表作は『東京物語』と書いたが、とんだ偏狭、誤解であった。
 この映画の山村の芝居こそ、日本映画史に残る怪演の一つである。『東京物語』の取り澄ました長男が、こんな浅ましいエロ爺になるとは! 荒い鼻息を吐きながら、若尾文子(実際にはスタント女優)の足のすねに頬ずりする姿は、素か演技かわからないあきれた変態ぶりである。

 木村恵吾監督(1903-1986)は、オペレッタ映画の狸御殿シリーズで知られている。同じ谷崎潤一郎原作『痴人の愛』を宇野重吉×京マチ子共演で撮っている。これ、見てみたい。
 確かな演出の腕、構図や色彩感覚にも優れ、ユーモアとアイロニー精神もある。

 山村聰と東山千栄子が出てきて、日本家屋内のローアングル(足フェチゆえに自然そうなる)が多いせいか、どうも1953年公開の『東京物語』を思い出してしまう。列車や無人の路地などの空ショットの挿入や音楽の使い方などもよく似ており、「こりゃ、確信犯じゃないか?」という気がする。
 小津安二郎が、笠智衆を使って描き出した老人の枯淡の境地、原節子を使って描き出した貞淑でやさしい日本の嫁、両者を使って描き出した性愛を捨象した人と人とのうるわしい関係を、山村聰と若尾文子を使って揶揄しているんじゃないか。「人間が生きるとはそんなきれいごとじゃないよ!」と、同い年生まれ(!)の小津安二郎を、その代表作『東京物語』をパロることで揶揄、挑発しているんじゃないか――という邪推さえ働く。

 調子に乗って、すねから膝、膝から太ももへと頬ずりしてくる督助を、嫁のサチ子は邪険にはねつける。そのセリフが、「お爺ちゃんのくせに生意気よ!」
 一見、老人虐待の言辞のように思われるが、文字通り「足蹴に」された当の本人は、それをたいへん悦んでいるのだから、これは虐待でも差別でもなくて、至高のケアそのもの。体にかけられる尿を、「女王様の聖水」と思う心理と同じである。
 
 いまやテレビ放映は絶対できない、とんでもなく面白い変態映画。
 若尾文子は、『昼顔』のカトリーヌ・ドヌーブを軽く超えている。 



おすすめ度 : ★★★★

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● 映画:『女系家族』(三隅研次監督)

1963年大映
1時間51分カラー

原作:山崎豊子
脚本: 依田義賢
撮影: 宮川一夫

 何度もテレビドラマ化されている山崎豊子の人気作。
 大阪船場の老舗問屋の莫大な遺産相続をめぐる三姉妹の骨肉の争い、そこに亡くなった当主の愛人が身重姿になって乗り込んでくると来たら、面白くないわけがない。
 かてて加えて、監督三隅、脚本依田、撮影宮川と日本映画最盛期の天才スタッフを揃え、大映の誇る二大美人女優若尾文子と京マチ子を主要な役に配している。

 この時期、日本映画界はテレビに押され観客激減、斜陽産業と目されていた。
 大映自体もまた、大黒柱の長谷川一夫、看板スターの山本富士子を相次いで失い、苦戦を強いられていた。
 ある意味、大映の最後の輝きを示す記念碑的名品と言えるかもしれない。
 
 長女役の京マチ子も、愛人役の若尾文子もいいが、なんと言っても印象に残るのは、店の番頭役の二代目中村鴈治郎、および姉妹の叔母役の浪花千栄子である。
 この二人は、助演賞級の名演技。
 それぞれの映画俳優としてのキャリアの頂点と言ってもいいのではないか。
 
 女優たちやきらびやかな着物を美しくみせる撮影も素晴らしい。
 専門的なことは知らないが、この頃のカラー技術がもっとも日本家屋や伝統的風物を映すのに適しているように思う。
 コクと彩がある。
 
 何度もテレビ化されているが、ソルティはそのどれをも見ていない。
 が、この映画に勝るものはないと断言できる。



評価:★★★★

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● 映画:『氷点』(山本薩夫監督)

1966年大映
97分
 
 三浦綾子の原作を読んで、辻口夏江を演じる若尾文子が見たくなった。
 美しくおしとやか、振る舞いあくまで涼やかなれど、その実エゴイスティックで〝よろめき゛やすい――という二面性を持つ、なかなか複雑な夏江というキャラクターを、海千山千の若尾がどう演じるかが興味の的であった。
 
 やはり若尾は大女優というにふさわしい。
 この作品の主役は殺人犯の娘である辻口陽子(安田道代→現:大楠道代)のはずなのだが、映画のヒロインは完全に若尾文子である。原作から抜け出てきたかのように、辻口夏江を見事に映像化している。というか、そもそもこの辻口夏江という女性は、これまでに若尾が演じてきた数々のヒロインたちの統合のような、象徴のようなキャラクターなのだ。あたかも三浦綾子が、あらかじめ若尾文子をイメージして夏江を創造したのではないかと思われるほど。若尾も演じるにあたってそれほど苦労しなかったのではあるまいか?
 この夏江役、若尾以外では南田洋子も良かったかもと思った。南田もまた上記の二面性を演じられる女優だと思う。ただその場合、娘のことを「陽子ちゃん」と呼ばなければならないので、ややこしい結果になったろう。
 
 夏江の息子・辻口徹役の山本圭が思いのほか下手くそで学芸会ばりの演技。藤尾辰子役の森光子はさすがの名演。夏江の(心の)不倫相手・村井靖夫役の成田三樹夫がニヒルで恰好よくて驚いた。夏江が〝よろめく゛のも無理はない。

 映画としては、原作に忠実に、原作のイメージを壊さずに、無難に作り上げた凡作である。


評価:★★

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● 聖女か、娼婦か 映画:『赤い天使』(増村保造監督)

1966年大映
95分

 容赦ないリアリティ。
 えげつないまでの赤裸々さ。
 強烈無比なるインパクト。
 これは生涯忘れ得ぬ一本である。
 
 原作の有馬頼義は直木賞作家。最も有名な作品は、吉永小百合と後藤久美子の主演で2回映画化されている『ガラスの中の少女』である。
 
 本作は、戦地の病院や診療所で傷病兵の世話に明け暮れる看護婦・西さくら(=若尾文子)の献身を描いた作品。容赦ないリアリティは、実際に満州で3年間の従軍経験を持つ作者の見聞と、傷口に本物の蛆をたからせて撮影したという増村監督の完璧主義によるものだろう。

 テーマを一言で言うなら、「戦争と性」ということになる。
 映画では滅多にお目にかかれないテーマであるが、それをここまであからさまに描き出したものは古今東西見当たるまい。実際、「ここまであけすけに描くか」、「若尾文子にここまでさせるか」と、衝撃が走った。
 むろん、若尾は脱いではいない。露出度の高いシーンはやはり替え玉であろう。そのものずばりのセックスシーンもない。西さくらは看護婦であって、娼婦ではない。断じてポルノ映画ではない。
 しかし、夜の見回りの際に病室で兵士たちに犯されるわ、両腕のない兵士のためにマスを手伝うわ、惚れた上官医師のインポを治すために徹夜の奮闘するわ・・・、大映もよく大事な看板女優にこんなことさせるなあとビックリする。いや、若尾はよく嫌がらずにこんな役を引き受けるなあと感心する。プロ根性?
 そう、不可解にして好奇心を掻き立てられるのは、若尾文子の「性」に対する認識のありようである。
 ポルノ女優ではなしに、ここまで「性」に肉迫した女優、しかも汚れたイメージのつかなかった女優、しかも稀にみる演技派女優――は、古今東西ほかにおるまい。
 なんとも不思議な位置づけの女優である。

 従軍慰安婦問題を扱った『主戦場』を観たすぐあとに、この作品に当ったのは奇妙な巡り合わせである。慰安婦問題はまさに「戦争と性」を語るに避けては通れないテーマであるから。
 両者が大きく異なるのは、西さくらは看護婦であり、自分の意志と愛と性欲とで戦地における自らの性のあり方を自己決定している――少なくとも本人がそう自覚している点にあろう。もっとも、赴任早々に集団レイプの洗礼を受けた西さくらのその後の「自己決定」が、どの程度 “自律” したものと言い得るのか分からないが。(それを言うなら、いかなる「自己決定」も幻想にすぎないと言いたいところだが・・・)

 思春期の少年が見たら、白衣姿の若尾文子が生涯、夜の枕元に棲みつくのは間違いない。


看護師

評価:★★★★★  

★★★★★ 
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● 映画:『華岡青洲の妻』(増村保造監督)

1967年大映
99分

脚本 新藤兼人
原作 有吉佐和子

 世界初の全身麻酔による外科手術を成功させた江戸時代の医師・華岡青洲(1760-1835)。
 その母と妻、すなわち姑と嫁の愛憎と壮絶なたたかいを描いた作品である。
 有吉の小説は読んでいない。

 青洲を市川雷蔵、母於継(おつぎ)を高峰秀子、妻加恵を若尾文子といった錚々たる大スターたちが演じている。三人とも甲乙つけがたい素晴らしい演技だが、役の上では於継のアクの強いキャラが目立つので、そこに芸歴三十数年の貫禄を加えた高峰秀子が一番印象に残る。高峰秀子は、どんな役でも演じられるカメレオンのような女優である。

 原作が『悪女について』の有吉なだけに、このドラマを「男の野心と栄誉のために犠牲となった二人の女の悲劇」といったふうにフェミニズム的に読むこともできるのだろうが、ここはやはり、時代を超えて受け継がれる姑と嫁の壮絶バトル、高峰と若尾の意地をかけた女優バトルとして観るのが面白い。であればこそ、この作品は何度も映画化、テレビドラマ化、舞台化される人気作品となっているのだろう。

 舞台では文学座の杉村春子による姑役が多い。
 嫁役を、初代水谷八重子、水谷良重、小川真由美、池内淳子、太地喜和子、坂東玉三郎といった、これまた錚々たるメンバーが演じている。観られなかったのが残念だ。
 特に、於継はたいへんな美貌の人として描かれているので、そこを杉村がどう化けたかが見たかった。美内すずえ『ガラスの仮面』の作中劇『二人の王女』に登場する美貌のアルディス姫を、平凡な顔立ちの少女・北島マヤが見事に演じきったような具合だったであろうか。
 
 杉村春子を筆頭に、樹木希林、太地喜和子、市原悦子、泉ピン子、田中裕子、小林聡美(三谷幸喜元夫人)、昨今では安藤サクラや渡辺直美、こうした決して「美人」とは言い難い実力派女優たちの主役の座をかけた奮闘ぶりを見るのも、映画やドラマを観る楽しみの一つである。



評価:★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● したたかなアフロディーテ 映画:『女は二度生まれる』(川島雄三監督)

1961年大映
99分

 川島雄三監督(1918-1963)は享年45歳という短い生涯に51本もの映画を撮っている。監督デビューが1944年『還ってきた男』であるから、1年間に2~3本のペースで作っていたことになる。映画会社の撮影所システムが機能し次々と作品が量産されていたプログラムピクチャー全盛期とはいえ、すごい精力である。若い頃から筋萎縮性側索硬化症(ALS)を患っており、自らの死を常に見つめ続けていたこともあるのだろうか。

 若尾文子とはこの作品のほかに、『雁の寺』『しとやかな獣』を撮っている。30年くらい前に観た記憶があるが、『しとやかな獣』は傑作であった。
 今思えば、このタイトルほど若尾文子という女優のイメージを一言で表しているものはない。「バロック」なのか「フォービズム」なのか知らぬ素顔はともあれ、出演作品における若尾は、触れれば落ちなん可憐で美しい外見の裏に、したたかさとたくましさとエロチシズムを隠し持った幾人もの女を演じ続けた。それはまさに「しとやかな獣」あるいは「したたかなアフロディーテ」といった風であった。

アフロディーテ
ボッティチェッリ『ヴィーナスの誕生』
ローマ神話でアフロディーテは「愛と美の女神ヴィーナス」に対応する


 岩下志麻、岸恵子、吉永小百合、最近亡くなった京マチ子等々、あまたいる伝説的な銀幕女優の中で、若尾文子ほどPTAに睨まれそうな女優はいないんじゃないかと思う。
 若者の奔放な性を描いた(と言っても現代から見たらおママゴトである)『十代の性典』に始まり、『祇園囃子』の芸者や『赤線地帯』で働く売春婦、『妻は告白する』や『清作の妻』に見る狂気な愛、『しとやかな獣』や『刺青』で見事演じきった悪女、そして『瘋癲老人日記』『卍』『獣の戯れ』など文芸作品というアリバイのもとに惜しみなく発揮された変態的エロス。誰もが認める堂々の主演級大女優でありながら、若尾ほど性の匂い、不徳の匂いをまき散らしてきた女優はほかにいまい。
 といっても、若尾は脱いではいない。乳首もヒップも出していない。ベッドシーンでは、うまく布団やシーツで隠したり、カメラアングルで逸らしたり、露出度の高い場合は替え玉を使っていたんじゃないかと思う。ヌードにならずに、ここまでエロスを醸したところが天晴れである。いや、隠すことでかえって高まるエロの本道を極めたのか。

 『女は二度生まれる』も、そのものずばり女の性を描いている。
 靖国神社そばにあった芸者置屋に起居し、踊りも三味線もできない「専門」芸者として働く小えん(=若尾文子)。専門とはつまり売春である。金さえ貰えば誰でも相手にする性に無頓着な女、一方、商売以外で自分が気に入った男があれば簡単に寝てしまう性に奔放な女でもある。売れっ子芸者(遊女)からバーのホステスに転身し、それから建築士(=山村聡)の妾となり、建築士の死によって芸者に舞い戻る。こうした小えんの人生の一コマと奔放な男関係を軽妙なタッチで描いた作品である。

 ミソと言えるのは、小えんを終始、明るく屈託のない女として描いていることだろう。
 一般に、日本人が「性」に纏わせがちな、淫靡な、後ろ暗い、汚れたイメージがここにはない。今風に言えば「ドライ」なのだが、かと言って事務的で情趣がないというわけでもない。一回一回は情があり、色もあれば涙もある。が、相手の男に強くこだわるふうではない。可愛くて、さばさばしている。フランス小説の『マノン』みたいな感じか。
 めそめそしたり、むくれたり、怒ったり、華やいだり、子供のように天真爛漫な娼婦を演じる若尾の演技が素晴らしい。

 刹那的、享楽的に生きてきた小えんが、徐々に老いてきて、頼りとする旦那にも死なれ、社会の現実を目にするところで映画は終わる。
 かつて岡惚れした板前は今や妻子持ちの一家の主となって、相も変わらず年下の男と遊び回る小えんの前に現れる。かつて片思いした学生はエリート社員となって座敷に現れ、自分が連れてきた顧客の性の相手に、小えんをあてがおうとする。
 屈託が失われたとき、女は「しとやかな獣」に変身するのだろうか。


評価:★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損








● 映画:『清作の妻』(増村保造監督)

1965年大映
93分

 貧しい家計を扶けるために裕福な呉服屋の爺さんの妾にさせられたお兼(=若尾文子)は、絶望と孤独のうちに生きている。幸い爺さんが急死し、多額の遺産をもらい母親と故郷に帰るも、周囲の目は冷たく村八分が続く。
 そこへ村の模範青年である清作(=田村高廣)が手柄を立て除隊され帰ってきた。前途洋々の清作は村じゅう総出で歓迎される。
 母親が病死すると、お兼は親戚で精神薄弱の兵助(=小沢昭一)を引き取り、無為な日々を送る。
 いつしか清作とお兼は惹かれ合うようになり、周囲の反対を押し切って結婚する。ようやく孤独が癒され、生まれて初めての幸福に酔いしれるお兼。
 しかし、日露戦争が勃発し、清作は戦地に赴く。あとに残されたお兼は陰にひなたに村民から侮蔑を受けつつ、苦しみの日々を送る。男たちからは貪婪と好奇の目で見られ、女たちからは嫉妬と蔑みの目で見られ、身の置き所がない。
 名誉の負傷で村に一時帰還した清作との束の間の逢瀬。互いの体をむさぼる二人。
 ふたたび清作が戦地に戻ろうとする祝いの席で、お兼は手にした五寸釘で清作の両目をつぶす。


 なんとも陰惨で暗い映画である。
 愛する男を戦地に行かせないためにその体を傷つけるエゴイスティックで衝動的で残虐な振舞いは、阿部定を思わせる。明らかに、お定同様、本編のお兼もまた、情の強い、自らの感情を抑えられない、気狂いである。
 若尾文子は、持ち前の勘の良さと凄まじい演技力とで、お兼を見事に肉体化している。とくに後半はアクション映画と言ってもいいくらいに走り回るシーンがあるのだが、まったく無駄のない、しかし激情あふれる迫力の演技を見せ、一瞬も目が離せない。
 「静」は退廃的な美しさ、「動」は手負いの狐のような命ぎりぎりの激しさ、「静」から「動」への変幻も自在。やはり途方もない女優である。

カメリア


 最後まで観て気づいたのだが、この映画を陰惨で暗いものにしているのは、お兼の狂気や不幸ではなかった。
 挙国一致の戦時下のファッショ、日本の村社会の閉鎖性と陰湿ないじめ、女性蔑視と裏腹のマッチョイズム(男権主義)、「個」たることを許さない集団圧力(ピアプレッシャー)――こうしたものこそが、観ていて気持ちが悪くなる要因であった。
 一人の女の狂気に近い愛を描きながらも、この作品の隠れた主要テーマは「個」対「社会」にあるのではないか。

 清作は刑を終えたお兼を兵助とともに迎え、お兼を許す。「盲になり周囲からつまはじきにされる身となって、やっとお前の気持ちがわかった」と言って・・・。
 妾で前科者のお兼、盲目で兵隊失格の烙印を負った清作、生まれつき精神薄弱な兵助。社会から馬鹿にされ後ろ指さされる三者が身を寄せ合い、村はずれのあばら家で狭い畑を耕して暮らすラストに、狂った社会から脱出し「個」として生きるためには狂った個人になるほかない、という逆説を読みとった。


評価:★★★

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★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
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