ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

  佐々木閑

● 本:『AIという鏡 人の価値とは何か』(佐々木閑、佐々木斎生著)

2026年法蔵館

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 本書の著者二人は親子です。私たちは、仏教学者の父と数学者の息子という、一見交わりにくい分野を専門とする親子の対話を通じてこの本を執筆しました。その一番の目的は、AIによって人類の持つ既存の価値が奪い尽くされたとしても、なお私たちには「生きる意味」や「存在する価値」が残されるという確信を表明し、「我執を捨てて生きる」という新しい道をAI時代の新たな生き方として提案することです。(「はじめに」より)

 佐々木閑の仏教とAIに関する講演は、前に聴いた。 
 AIの驚異的な進化が、世界を根底から変え、人間の生活ばかりか意識をも変えていくことになるだろうとの予測を口にされた。
 本書はその道筋をより丁寧に、より具体的に、より科学的に、さらったものと言える。

 全体が2部からなり、第1部が佐々木親子による対談、第2部が息子の斎生(ときおう)によるAI技術とその背後にある数理の解説となっている。
 前者は縦書きの右開き、後者は横書きの左開き。例えるなら、国語の教科書と数学の教科書の合体形態である。
 さらに言えば、仏教用語が登場する第1部が文系的、数式が並ぶ第2部が理系的。
 むろん、95%文系人間であるソルティが読めたのは第1部のみで、第2部は最初からお手上げだった。
 佐々木斎生は1987年生まれ。専門は代数幾何学。東京大学理学部数学科の出身である。
 
 ソルティは、数理的なことは全然理解できないが、AIが進化していった先に私たちを見舞うであろう究極の問いは想像できる。
 それは、「人間はAIに仕事を奪われてしまうのか?」――ではない。
 学問や芸術や医療やボードゲーム(囲碁や将棋など)やスポーツの領域において、AIが人間を凌駕してしまうことから生じる問い、すなわち、「地上最高の知的生命体の座をAIに譲らなければならないのか?」――でもない。
 あらゆる分野で人間がAIに打ち負かされ、AIに取って代わられることは、人間の尊厳を傷つけ、人間から生きがいを奪っていく可能性がある。
 だが、それは「AIと人間」を別個のものとして比較する視点に基づいた、勝敗レースに過ぎない。
 ウサギと亀とどっちが早いか――みたいなものである。

 より重要な問いは、次のものだ。
 「はたして、人間はAIとどこが違うのだろう?」

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Alexandra_KochによるPixabayからの画像
 
 いや、人間には心がある。喜びや悲しみや怒りや恥を感じることができる。
 人間は美を感じ、自然や人を愛し、過去を振り返って後悔したり、未来に希望を持ったり、適切に判断して自己決定し、他人の気持ちを想像して適切に振る舞うことができる。
 AIが、一見そのように振る舞うことができているように見えたとしても、実際にはそれは入力されたデータに文字通り“機械的に”反応しているだけであって、思考しているわけでも、感情が働いているわけでもない。
 あくまでロボットに過ぎない。
 そうした反論が一般であろう。 

 しかるに、AIが生活の隅々まで入り込み、その反応の“人間らしさ”が、人間とまったく区別できないあるレベルを超えたとき、人間はこういう問いを自らに向けざるをえなくなるだろう。
「ひょっとしたら、人間自身がかつてAIだったんじゃなかろうか?」
「どこかの惑星の宇宙人が開発した最先端AIロボット、それがヒトの正体なのではなかろうか?」
 つまり、人の「心」が数理的・生理的なものに徹底的に還元され尽くして、「私」とか「個性」とか「自己」とかいう概念が幻想であったと、認めざるをえなくなる瞬間の到来である。

 AIとの比較で言えば、「AIには心がない」と思いたくなるけれども、むしろ逆で、「私たちには“人間だけが持つ心”というものがあるんだ」という感覚こそが錯覚だと。
 「AIには心がないじゃないか」というその言葉の投げかけ自体が、実は我欲の一端なのです。「心を持つ自分たちの方が心のないAIよりも優れている」という、自分だけが特別でありたいという、我欲の表れです。

 AIと仏教が出会うのは、この地点である。
 人間たちに、いやでも「無我」を知らしめるAIの暴力的な力に対して、あらかじめ免疫をつけておくために、仏教の「諸行無常・諸法無我・一切皆苦」という教えが役に立つ、という論点。
 なぜなら、到来するAI社会において、もっとも苦しみに苛まされるのは「自我」の強い人間なのである。

 これから私たちが迎える社会とは、ある意味で「すべてが無意味な社会」に他なりません。私たちはその現実を直視し、受け入れる必要があるかもしれない。・・・(中略)・・・「社会にどれほどの影響を与えられるか」といった価値観にしがみつき、他人と比べることで自分の立場を確立しようとしても、虚しさが募るばかりです。なぜなら、社会に最も大きな影響を与えるのは、今後は人ではなくAIだからです。だとすれば、私たちは自分自身の内側に目を向け、一人ひとりが自分自身の生き方や生きがいを築いていく必要があります。

 佐々木親子の予言、はたして当たるのか?
 AIに聞いてみよう。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




 


● 「律」あればこそ 本:『仏教はいかにして多様化したか』(佐々木閑著)

2025年NHK出版

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 「仏教はどのように変容し、どのように多様化したのか」を理解するということは、「なぜ私たちは今、このような仏教世界にいるのか」を理解することであり、そして「今の私たちにとって、仏教はどのような意味を持っているのか」を理解することでもあります。これからますます混迷の度を増すと思われる現代社会で、釈迦がつくり出した仏教の価値観、世界観は重要な視点を我々に与えてくれると確信しています。(本書「はじめに」より)

 ――という趣旨から書かれたコンパクト仏教史(日本版)。
 世界3大宗教の一つとされ、2500年もの歴史を持つ仏教を、わずか160ページほどの冊子にまとめてしまう佐々木の「難しく複雑なことを、わかりやすくシンプルに解説する」相変わらずの手腕に敬服した。
 取り急ぎ日本仏教史のポイントをさらいたいという初学者におススメ。

 いま暴挙は承知の上、さらにそれを500字以内のダイジェスト版にすると、

 紀元前500年頃のインドで釈迦により説かれた教えは、没後100~200年の根本分裂による部派仏教の成立、および紀元前後の大乗仏教興隆を経て、シルクロードを伝って中国に渡り、そこで新たに沢山の経典を加え、538年に日本に入ってきた。
 現世利益を叶えてくれる“新しい神”として受け入れられた(大乗)仏教は、7~8世紀には国を一つにまとめ国を護る手立てとして用いられ、平安初期に最澄・空海が唐からもたらした密教で呪術的要素を加味し、1052年の末法到来に向けて極楽往生を願う貴族の間に急速に広まっていった。
 武家政権に移るとともに一気に大衆化・易行化し、浄土宗・浄土真宗・時宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗など現在まで続く宗派の林立を生み、徳川幕府の統治政策のもと檀家制度による国民総仏教徒化に至った。いわゆる葬式仏教の始まりである。
 明治初期に神仏分離令からの廃仏毀釈というピンチが訪れるも、国策協力することでこれを切り抜け、アジア・太平洋戦争では戦意高揚・一億玉砕のため大いに宗旨と組織力を活用した。戦後、組織の立て直しを図ったが、日本人の宗教離れが加速化し、現在の末期的状況に至る。(486字)

 こうやって流れをふり返った時に、いくつかの疑問が浮かぶ。
 たとえば、
  • なぜ、根本分裂は起きたのか?
  • なぜ、大乗仏教と小乗仏教に分かれたのか?
  • なぜ、大乗仏教にはたくさんの宗派があるのか?
  • 日本の仏教はどういった点が特殊なのか?
 本書は上記の問いについて、実に鮮やかに、実にわかりやすく、答えてくれる。
 特に、部派仏教の成立の背景を、「律(出家集団が守るべき決まり)」の改変あるいは解釈の変更によって解き明かしていく箇所は、良くできた推理小説並みにスリリングで面白く、「なるほど~」と唸らされた。

 仏教における三宝と言えば「仏・法・僧」、すなわち「ブッダ・ブッダの教え・出家集団(サンガ)」のことを指す。
 また、三蔵と言えば「経・律・論」、すなわち「お経・サンガの規則・仏教哲学」のことを言う。
 在家のテーラワーダ仏教徒であるソルティにとって、三宝のうち「僧(サンガ)」はやや遠いところにあり、したがって三蔵のうち「律」は――在家が守るべき五戒をのぞけば――ほとんど関係がない。
 なので、「律」の重要性について、これまであまり考えたことがなかった。

 本書を読んで、「仏・法」を守るためには、「律」によって統制された「僧(サンガ)」の存在がいかに重要であるかを認識させられた。
 仏教が、根本分裂によっていくつもの部派に分かれたのも、大乗仏教が起こったのも、日本仏教が異なる宗旨や経典を奉じるいくつもの宗派を擁しているのも、「あるがままの状態がそのまま悟りである」という天台本覚思想が生まれたのも、日本の仏教宗派が進んで戦争協力(=暴力肯定)したのも、日本のお坊さんが妻帯し酒を飲み風俗で遊ぶのも、すべては釈迦没後の第一結集のときに弟子たちが確認し合った「律」の根幹が崩れてしまったことに因を発していたのである。

 佐々木は、日本仏教の特徴の一つとして、次の点を挙げている。

 律蔵にもとづいて運営されるサンガは存在せず、僧侶の生活を厳密に規定する規則は存在しなかった。これは現代に至るまで続いている特性である。

 その結果、僧侶の妻帯(=お寺の跡を継ぐ息子の存在)という他の仏教国では見られない特異な現象を生み出したわけだが、最も重要かつ深刻なのは暴力の肯定である。

 律蔵では、僧侶が他者に暴力を振るうことは絶対に禁じられています。武器を手にして争うことはもちろん、たとえ教育上の必要によって弟子を叱責する場合でも、暴力を用いることは決して許されません。僧侶が軍隊の行進を見ることさえも禁じられているのです。

 しかし日本仏教では、その律蔵が機能していません。その結果として当然予想できることですが、聖戦思想を利用した暴力が積極的に容認されるようになりました。「仏教の教えを守るためならば僧侶が暴力を振るうことも許される」、あるいは「仏教の教えを守るために暴力的に戦うことは、進んでなすべき善いおこないである」といった暴力肯定の姿勢が容認されるようになったのです。

 「律」がなくとも、「経」と「論」があれば仏教は守られる。「僧(サンガ)」がなくとも、「仏」と「法」があれば仏教は守られる。
 ――と言いたいところだが、現実的には、その時々の政治の状況によって、「経」も「法」も改変され、都合よく解釈されてしまった歴史の経緯がある。

 「反戦の意志があれば、憲法9条がなくとも平和は守れる」という、最近よく耳にする言説を思い出した。

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P.S. 新たに「●読んだ本・マンガ」の下位に佐々木閑カテを立てました。



おすすめ度 :★★★★

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● I & AI : 日本仏教讃仰会主催・佐々木閑講演『仏教と心理学』

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日時 2025年9月20日(土)13:00~15:00
会場 日本交通協会会議室(有楽町・新国際ビル9階)

 2023年11月に続く2度目の聴講。
 80名を超える参加(8割以上高齢者)は、前回の講演の評判が良かったからか。
 
 これまで月例講演に何度か参加しながらも、日本仏教讃仰会については何も知らなかった。
 講演に招かれる講師の陣容を見るに、特段どこかの宗派を背景にもっている組織ではないように思った。
 講師はおおむね僧侶であるが、真言宗、浄土宗、浄土真宗、曹洞宗、臨済宗、無宗派(善光寺など)など多岐にわたっている。
 会員制でもないので、仏教を広く学びたい人の為の有志運営による会とイメージしていた。
 今さっき検索かけたら、公式ホームページがあった。
 最近できたものだろう。
 一昨年あたり、それまで毎月郵便で届いていた講演案内がメールに替わったので、ついにここもITの波に乗ったかと、最後の砦が失われたような一抹の淋しさを覚えたものだ。
 ホームページによると、なんと1941年(昭和16)に浄土真宗大谷派法善寺住職・中山理々によって創設された組織で、80年以上の歴史がある!
 月例講演会(仏教セミナー)は、「特定の宗派にとらわれずに、幅広い著名な講師陣にそのときどきの社会的状況において、仏教がなしえる役割と歴史について」語ってもらう趣旨で開かれている。
 その意図や、良し。

 残念ながら、日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老が講師として招かれたという記録はないので、ここに越えられない壁があると思われる。
 つまり、仏教は仏教でも、大乗仏教による学びがメインなのである。

 ソルティ思うに、テーラワーダ仏教(かつては小乗仏教と呼ばれた)と大乗仏教との間にある溝は、大乗仏教とキリスト教やイスラム教との間にある溝より、ずっと深い。
 大乗仏教とキリスト教・イスラム教との共存(棲み分け)は可能であるが、大乗仏教とテーラワーダ仏教の共存は、釈迦という同じ祖を持ち、同じ仏教という範疇に入れられているだけに厄介なものがある。
 どうしたって、「どっちが正しいか?」、「どっちが釈迦のほんとうの教えなのか?」になってしまうからである。

 その意味で、今回の講師・佐々木閑こそ、日本仏教讃仰会が招くことのできるギリギリの“テーラワーダ的”人選なのではないかと思う。
 佐々木は、現役の僧侶ではないにしても浄土真宗の僧籍を持っているらしいし、仏教研究者・教育者・物書きとしてその名が知られている。
 佐々木の書くものは、明らかに大乗非仏説的、すなわちテーラワーダ仏教寄りなのだが、日本テーラワーダ仏教協会はじめ、どこかのテーラワーダ組織に所属しているわけでもない。
 大乗仏教にも詳しく、その存在価値を認める発言をしている。
 他の宗教や宗派をけなさずに、釈迦の教え(と自身が信じているもの)を語る技量を持っている。
 それに、佐々木が教鞭をとっている花園大学は臨済宗立であるから、あまりにテーラワーダ的言動が過ぎると、いろいろと面倒があるのかもしれない。
 講演の中で、「自分はお釈迦様の教えのスポークスパーソンであって、伝道師ではない」と言っていたが、そのバランス保持の器用さは綱渡りをする曲芸師を思わせる。(別に皮肉ではありません)

綱渡り

 講演の前半は、まさにテーラワーダ的展開。
 スマナサーラ長老の講演を聴いているのと、ほとんど変わりなかった。
 曰く、
  • 仏教は、キリスト教やイスラム教の「神」のような外部の超越的存在を認めない。
  • 自分を救えるのは自分だけ。
  • そのためには、苦しみを作る原因である自分の心を知り、心を変えていくのが基本。仏教が心理学にたとえられるのはそれゆえ。
  • 苦しみが生まれるのは、心がそもそも誤った物の見方(邪見)をし、その情報をもとに世界を構築するから。
  • 邪見の最たるものが「自我」
  • 「自我」は自己中心的な世界を構築し、「永遠の生命(魂)」「アートマン」「自分を救ってくれる絶対神」といった間違った概念を生み出す。
  • だが、現実の世界は「諸行無常」「諸法無我」なので、自我の望みは叶えられない。そこに苦しみが生まれる。
  • 「今より以上の幸せ」を望んでいる「私」こそが苦しみの元凶。
  • 仏教は「幸せ」を願わない宗教。「私」が錯覚であることを悟って、今ここにある苦しみを退治することを目的とする。
  • なので、万人に向かって説き広められる教えではない。それを必要とする者だけに向かって説くのが本分。
  • こんなことを外に出て新橋のサラリーマンに向かって言っても無視されるがいいところ。この場だから言える(笑)

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 個人的にショッキングだったのは後半。
 現在、AI(人工知能)の開発がもの凄い速さで進んでいるが、来たるべきAI社会において人間に何が起こるかに触れられた。
 高齢者ばかりの参加者の顔ぶれを思いやってか、AIの基本構造から話してくれた。
  • AIはプログラムを持っていない。
  • 全世界のすべての情報を数字に直して保持、活用することができる。
  • AIは人間の鏡像。人間の脳の働きを何万倍もの速度、正確さで行うことができる。
  • 人類は自分たちより優れた知的生命体に出会ってしまった。「万物の霊長」の座が奪われていく。
  • AIが今後人間からさまざまな仕事を奪っていく影響も大きいが、より重要(深刻)なのは、AIによって「自我」の概念が徹底的に崩壊する可能性。
  • 「無我」を実感する世界が到来する。
  • そのときに人間は変わりうるのか?
 ここで語られたことは、実は、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』に書かれていたことと同じであった。
 とくに後者の本の中で、ハラリは、生命工学とコンピューターテクノロジーの進歩によって人類の意識に何が起こるかを論じていた。
 ソルティは、ハラリの語る人類の未来像に衝撃は受けたけれど、多くの同世代(アラ還)以上の人と同様、「自分の生きている間には起こらない」と思っている。
 自動運転車くらいは数十年後に普通に街を走っていて、生きていれば自分もその恩恵に与っていると思うが、自己中心的に「私」の幸福(というより快楽)を求める人類の意識を変化させるようなドラスティックなパラダイム変化が、生きている間に生じるとは思えない。
 たとえそういう日が来ても、キリスト教徒やイスラム教徒やユダヤ教徒が「神」の非在を悟り、棄教あるいは改宗するとは思えない。
 否、だからこそ、AI社会が迫る現実との間に混乱が生じるのか。
 う~ん、どうなるんだろう?

 佐々木は、数学者である息子との共著で『仏教とAI』という本を近々刊行するらしい。
 読まなければ。


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GianlucaによるPixabayからの画像


P.S. 本記事の内容はソルティの主観による講演の感想にすぎません。実際の講演内容を必ずしも反映していません。あしからず。










● 本:『ネットカルマ』(佐々木閑著)

2018年角川新書

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 こうやってブログを書いていて言うのもなんだが、時々、スマホやパソコンや WINDOWS のない世界、すなわちインターネットのない世界に行きたいと切に思う。
 生れてから30代初めまではそういう世界に生きてきて、とくに不自由を感じていなかった。
 人との連絡は電話やFAX、手紙や伝言で十分間に合ったし、買い物は店に足を運んで実物を確認しての現金払いで安心も一緒に買えた。
 調べ物をするときは、家の百科事典で不足なら、図書館で本を探した。
 JR時刻表を手に旅行し、その日泊まる宿は現地の電話帳で調べたり、町の旅館組合を訪ねて安宿を紹介してもらった。
 すれ違う誰も自分の素性を知らない、家族や友人の誰も自分の居場所を知らない、その土地にいたことすらあとに残らない、見知らぬ土地をひとり旅することの解放感が心地良かった。
 いまや誰もが、文字通り世界中に張り巡らされた World Wide Web にかかった蜘蛛の餌食のような存在になってしまった。
 わずか30年で、インターネットと無縁で暮らすのが困難なほど、我々の生活スタイルは変わってしまった。
 たとえば、今日一日だけで、ソルティの姿は何台の街のカメラに撮られたのだろう?

 逃れられない罠にかかってしまったような閉塞感は別にしても、ソルティはネットの暴力というものに慣れることができない。
 匿名性を悪用したSNSにおけるデマゴギーや中傷や罵倒、プライヴァシーを侵害した画像や動画の拡散、特定の個人に対する見境ないバッシング、何度もほじくり返される過去のあやまち、未成年を対象とする性犯罪・・・・e.t.c.
 昔なら大目に見られたろう“若気の至り”で将来を破壊された若者、デマで評判を落とされた飲食店やホテル、過去の恋人にモザイク処理なしのヌード画像をあげられた女性、忘れたい(忘れてほしい)過去やつぐなった罪を幾度もネットに上げられそのたび叩かれ貶められる著名人。
 なにより怖いのは、自分がいつ標的にされるかわからないということだろう。
 街を歩いていて、あるいは列車の中で、自分がたまたま何かの事件に巻き込まれたとき、周囲(外野)が一斉にスマホをかまえることを覚悟しなければならないとは、なんていう嫌な時代だろう!

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Tomasz MikołajczykによるPixabayからの画像
 
 本書の副題は「邪悪なバーチャル世界からの脱出」。
 カルマとは仏教用語の業(ごう)、我々のすべての行いを記録するシステムのことである。

 業は私たちがおこなう善いこと、悪いことをすべて記録し、それに応じて様々な結果をもたらします。その業のシステムに縛られながら暮らすことは、私たちに耐えがたい苦しみをもたらすと考えてブッダは仏教を生み出しました。つまり仏教という宗教は、業のパワーから逃れることを第一の目的とする宗教なのです。 

 因果応報、悪因悪果、自業自得、生前の業に応じて六道(天界、人間界、阿修羅道、餓鬼道、畜生道、地獄)のいずれかに生まれ変わる輪廻転生システム・・・・。
 古代インドの人々がその存在を信じ怖れたカルマ(業)の働きは、現代科学の目から見れば迷信に過ぎない。
 ――だったはずだが、すべてをデーターとして記録し消すことが困難なインターネットの登場で、21世紀版「カルマ(業)」が誕生した。
 佐々木はそれをネットカルマと名づけたのである。
 
 佐々木は仏教の業の特性は、以下の3つと指摘する。
  • 第一原則 人がおこなった善悪の行為は、すべてが洩れなく記録されていく。
  • 第二原則 記録された善悪の行為は、業という潜在的エネルギーとなって保存され、いつか必ず、なんらかのかたちで、当の本人にその果をもたらす。
  • 第三原則 業のエネルギーがその果をもたらす場合、それがどのようなかたちでもたらされるかは予測不可能であり、原因となる善悪の行為から、その結果を推測することはできない。
 佐々木は、ネットカルマがいかに上記の仏教の業と似た作用を持っているか、また今後の IT や電子機器の一層の進歩によってますます近づいていくかを、一つ一つ検証していく。
 さらには、ネットカルマのほうが仏教の業よりも非情で残酷になりうることを示す。
 たとえば、仏教の業は個人の範囲でしか働かない。
 個人の犯した悪行の報いをいつの日か受けるのは、当人だけである。
 しかるに、ネットカルマは悪行を犯した当人だけでなく、その家族や下手すると子孫にまで累を及ぼす。
 ある犯罪者の顔と名前がネットにばら撒かれたが最後、その家族や子孫も特定されて、有形無形の被害を受けてしまう可能性がある。

 我々は、もはやまわりをデジタルな記憶媒体で埋め尽くされ、自分の姿を曖昧な忘却によって美化していくということさえも許されなくなってきます。こういう状況の表現としては「つらい暮らし」としか言いようがありません。いつも心の底に、澱のような不幸感を抱きながら、だからと言ってどこかに問題解決の明快な出口が見いだされるあてもなく、鬱々と生きていく。まさにブッダが感じた「生きることの苦しみ」が、ネットカルマによって一層強まっていくことになるのです。 

 もちろん、佐々木は問題を言いっ放しにして済ますことはない。
 ネットカルマの特性が仏教の業とよく似ているのなら、それがもたらす苦しみから抜け出す手立てもまた、ブッダの教えから得ることができる。
 ここからはまさに仏教学者である佐々木の独壇場。
 本書後半では、ネットと適切に付き合いながら、ネットカルマの苦しみをなるべく受けない方法、ネットカルマの被害を克服していく方法を説いている。
  
 ブッダはむろん、いまのインターネット社会のありさまを想像すらしなかったろう。
 が、人間の苦しみに対する特効薬として、ブッダの教えは時代を超えて普遍的な価値を持つ。
 
 サードゥ、サードゥ、サードゥ。
 
 
 
おすすめ度 :★★★

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● 本:『大乗仏教 ブッダの教えはどこへ向かうのか』(佐々木閑著)

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2019年NHK出版新書

 佐々木閑は、おそらく現在最も著名な仏教学者の一人であろう。
 『科学するブッダ』(角川文庫)、『仏教は宇宙をどう見たか アビダルマ仏教の科学的世界観』(化学同人社)はじめ、一般向けの刺激的かつ啓発的な本をたくさん書いているし、NHK『100分で名著』や『こころの時代』などテレビ出演も重ねている。
 仏教学界でなにか論争が持ちあがると、この人が一枚加わっていることも度々。
 『ブッダという男』を書いた清水俊史と、『初期仏教 ブッダの思想をたどる』を書いた馬場紀寿のあいだに勃発した論争(+アカハラ騒動)にも、公正な第三者の立場で介入したようである。
 男気のある人なのだなあ~。

 ソルティはちょっと前に佐々木の講演を聴きに行ったが、仏教に対する深い愛情と揺るぎない信心を感じさせる話しぶりであった。
 基本的には、原始仏教――テーラワーダ仏教(いわゆる小乗仏教)に伝わる『阿含経典』におさめられている釈迦の教え――を拠りどころにする人のようだが、このひと特異のスタンスは、近代科学の実証主義かつ合理的視点をおろそかにしない点と、非仏説であることがもはや否定しようのない大乗仏教を否定しない点であろう。
 これは一見、矛盾しているように思われる。
 近代科学の立場からすれば、『阿含経典』に見られる神秘的記述――神や悪魔の存在、業(カルマ)と輪廻転生、ブッダの示す奇跡の数々など――はNGである。
 中国を通して日本に伝わった大乗仏教の経典には、『阿含経典』をはるかに上回る神秘的記述が盛りだくさん。
 たとえば、56億7千万年後の弥勒菩薩の到来なぞ、人類の寿命どころか、地球の寿命を超えている。
 ありがたくもなんともない。
 科学を重視する人間なら、とうてい受け入れられるものではない。
 「あとがき」で佐々木はこう記している。

 私自身は釈迦の教えを信頼して生きているのですが、釈迦を絶対視するような信者ではありません。つまり、釈迦の教えの中には今の自分にとって必須の、優れた教えがたくさん入っていることは認めても、だからといって釈迦の教えを丸ごと全部、絶対の真理として受け入れるわけではない、という意味です。

 この世界は科学的な法則によって粛々と動いているけれど、その中で暮らす私たちは心の中の煩悩のせいで苦しみ続けなければならない。この状態から抜け出すためには、釈迦の教えのうち、現代の科学的世界観においても通用する部分を抽出して、それを自分の「生きる杖」にするというのは全く当然のことであり、それ以外に自分の心を偽らずに生きる道はないということです。(ゴチはソルティ付す、以下同)

 そしてこのように考えていきますと、「釈迦の仏教」からは大きく逸脱したように見える大乗仏教の様々な教えにも、じつは大きな意義があるということが理解できるようになります。

 本書で紹介したように、同じ大乗とは言っても経典によって様々な世界観があり、それぞれに怪しげな点や信じがたい不自然さを含んでいます。今のわれわれが、それを心底信じるというのはたいへん難しいことです。しかしそこには、生きる苦しみを消してくれるなんらかの作用が含まれていることも事実なのですから、それを正しく見いだして、自分に合ったかたちで取り入れることができれば、「釈迦の仏教」ではなしえないかたちでの救済が可能になるはずです。

 つまり、佐々木個人としては科学的実証性によって濾過したあとの「釈迦の仏教」すなわち原始仏教を「生きる杖」として選ぶけれど、この世には大乗仏教の教えが「生きる杖」になる人もいる以上、それを否定するのは間違っている。生きる苦しみから救い出してくれるものであれば十分な存在価値がある、ということなのだろう。
 要は仏説であるかどうかが問題なのではなく、「生きる杖」として役立つかどうかこそが宗教の存在意義だというわけだ。
 考えてみればあたりまえの話である。
 大乗仏教が「仏説でない」からといって否定するのならば、キリスト教もイスラム教もユダヤ教もヒンズー教も神道も「仏説でない」がゆえに否定しなければならない。
 信仰はあくまで、個々人の心の中に展開するドラマである。
 他人がとやかく言うことではない。

 本書を読む際に押さえておきたいのは、上記のような視点から、佐々木が大乗仏教を語っている点である。
 科学的思考を大切にする学者としての客観性に基づいた発言と、人それぞれの信仰のあり方を尊重するダイバーシティ感覚。このバランスが本書のなによりの特徴であろう。

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 ソルティは、原始仏教により近いテーラワーダ仏教を「生きる杖」にしている。
 このさき大乗仏教のいずれかの宗派にうつることはないだろうし、なんらかの大乗経典を心の支えにすることもないと思う。法事などでよく唱えられる『般若心経』くらいは、便宜上、暗記したいと思っているが。
 とは言え、代表的な大乗経典がどんな成立事情を持ち、どんな内容なのか、およそ知っておきたいと思っていた。
 本書は、紀元前後の大乗仏教の成立事情から始まって、『般若経』、『法華経』、『浄土教』、『華厳経』、『大般涅槃経』といった日本仏教各派で重用されている代表的な経典を解説している。
 佐々木と、佐々木の講義を聴きに来た仏教学者でも僧侶でもない社会人学生との対話形式になっているので、とても読みやすく、わかりやすい。
 新たに知ったこともいろいろあった。
 たとえば、
  • アショーカ王の時代に「破僧」の定義が変更されたことで部派仏教の時代が到来した
  • 日本仏教は実はヒンズー教に近い
  • 奈良時代に鑑真を招いた理由は、授戒儀式によって僧侶を自家生産できるようにするためだった
  • 百年間、未解決だった『大乗起信論』の成立事情に関する問題が、2017年大竹晋によって決着つけられた
 大竹晋、そんなドえらいことをしていたのか!
 『大乗非仏説を超えて』という衝撃的な本の作者だけある。(ソルティの目に狂いはなかったぜ)
 GWに今一度、末木文美士著『日本仏教史』を読み直そうかな。
 
 最後に、佐々木は宗教の未来のカタチについてこう述べている。

 これから時代は、科学的に説明できるか否かがすべての物事の判断基準となるため、仏教はおそらくこの先、どんどん変容を迫られることになるでしょう。それでどんな方向に向かうかと言えば、科学とうまく擦り合わせができないことを「心の問題」に置き換えて解釈するようになっていくはずです。それは仏教にかぎったことでなく、キリスト教やイスラム教も同じです。

 科学と擦り合わせができない教義を掲げても誰も信じないので、絶対神の存在や、輪廻、業、浄土といった神秘的な概念は次第に薄まっていき、最終的には「今をどう生きるか」を示す単純なものになっていくと思われます。

 それを佐々木は「こころ教」と呼んでいる。
 さしずめ教祖は「ココロのボス」か・・・。
おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 仏教セミナー: 佐々木閑氏講演『これからの時代のためのブッダの教え』

日時 2023年11月18日(土)
会場 日本交通協会会議室(有楽町・新国際ビル内)
主催 日本仏教鑚仰会

 8年前中野サンプラザで聴けなかった佐々木氏の話。
 ようやく目の前で聴くことができた。
 『科学するブッダ 犀の角たち』、『仏教は宇宙をどう見たか』など、氏の本には啓発されるところ大である。

 会場の新国際ビルには初めて来たが、有楽町のこのあたりの変わりように驚いた。
 ソルティの記憶の中では灰色のビルディングの並ぶ殺風景なイメージしかなかったのだが、街路樹の続くレンガ敷きの路上にテーブルが置かれ、休日を思い思いに楽しむ人々が往来する様子は、まるでカルチェラタンのよう。カルチェラタン行ったことないのだが。
 あっ、岸恵子!(ウソ)

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左の建物が会場となった新国際ビル

 冒頭一番、佐々木氏は「これからの時代」を「今日よりも明日が悪くなる時代」と断言した。
 改めて言われるまでもなく、多くの日本人が感じていることだろう。
 少子高齢化、慢性化した不景気、広がるばかりの所得格差、国際競争力の低下、値上げラッシュ、地方の衰退、軍備増強、無縁社会に孤立する人々・・・。
 外を見れば、ウクライナ×ロシア戦争、イスラエル×ハマス戦争、気候変動による災害、ナショナリズムの興隆、分断する国際社会・・・。
 戦後日本人が享受してきた「豊かさと安全」が崩れようとしている。

 一方、世界的な潮流として価値観の大きな変容が見られる。
 「より多くの物を手に入れることが幸福」という資本主義イデオロギーの不毛に気づき、商業主義の洗脳から目覚めた人々は、新たな価値観のもと、これまでの生き方を変えようとしている。
 そんな時代にますます重要度を増すのが仏教である、と佐々木氏は説く。

 世間における幸福とは「欲求の充足、夢の実現」。これは私たちが生物として持っている本能的思考。「虹の向こうの夢を追い求める気持ち」が人類を発展させ、そして多くの人を苦しめてきた。(当日講師配布資料より抜粋、以下同)
 
 「欲」を三毒――三つの悪しきもの、残り二つは「怒り」と「無知」――の一つとし、すべてを捨て去っての出家をすすめたブッダの教えが、資本主義と相反するものであるのは間違いない。
 大乗仏教宗派や仏教まがいの新興宗教の中には、この根本が崩れて、お布施という名の集金活動に熱心なところも見受けられるが、本来の仏教は「欲望の充足でなく、欲望を持たない状態を目指す」。
 そして、人の抱く究極の欲望が「永遠の命」である。
 仏教が、キリスト教やユダヤ教やイスラム教と決定的に異なるところは、後者3つが来世信仰すなわち「天国で永遠の幸福のうちに生き続ける私」という、自我(あるいは魂)の存続を最高到達点とするのにくらべ、仏教は(少なくとも原始仏教は)「この世であろうと、あの世であろうと、生き続けることは苦しみであるから、二度とどこにも生まれ変わらないようにしよう」という涅槃寂静をゴールとする。
 また、神や教会などの外部に救いを求めず、あくまで修行によって「自分の力で自分を変える」。
 仏教がいかに既存のほかの宗教と異なることか!
 もっとも、佐々木氏は言う。

 欲求を追い求める人生と追い求めない人生には、優劣も善悪もない。
 どちらの人生を選ぶかは、人それぞれの状況が選択の基準になる。
 ただし、欲求を追い求める人生には、「快楽」と「苦」とがつきまとう。

 佐々木氏の講義(=説教)は、基本的にテーラワーダ仏教のスマナサーラ長老の説くところと同じ。つまり、原始仏教そのもの。
 阿弥陀様の本願とか、弥勒菩薩の救済とか、称名念仏による極楽往生とかを信じる人々にとっては、梯子をはずされて谷底に突き落とされるようなショッキングな内容である。
 以前、日蓮宗のお寺がスマナ長老を迎えて法話を開催したことがあったが、そのときの会場の凍り付いた空気をソルティはよく覚えている。
 本来の仏教は、身も蓋もないほど、人々の抱く生ぬるい幻想をひっぱがす鋭利な刃物なのである。
 ただ、大学教員である佐々木氏の語りは流暢でユーモアがあり、表情や仕草も多彩で、穏やかな雰囲気を発していた。
 時折、鋭い眼光を放つ瞬間もあり、世間向けの仏教伝道者としての顔と、深い学識と思想を湛えた研究者としての顔と、使い分けているのだろうと察しられた。
  
 休憩時、70歳以上が9割がた占める会場を見やりながら、ふと思った。
 こういった話を佐々木氏の教え子である(サトリ世代と言われる)令和の若者たちは、どんなふうに聴くのだろう?
 経済成長と所有資産の拡大こそが幸福と疑わない多くの昭和世代とは、また違った受け取り方をするのだろうか?
 日本におけるテーラワーダ仏教の今後はどうなっていくのだろう?
 
 休憩後、スマホを確認していた佐々木氏から、池田大作の死を教えられた。

(仏教は)社会を変えることで人を救うのではなく、人を救えない社会で苦しむ人たちを受け入れる受け皿、その目的は、社会の片隅で永く存続すること。


※本記事は実際の講義内容のソルティ流解釈に過ぎません。あしからず。



● 本:『仏教は宇宙をどう見たか アビダルマ仏教の科学的世界観』(佐々木閑著)

2013年化学同人社発行。

仏教には三宝と呼ばれるものがある。
仏・法・僧――ブッダと真理と出家者の集まりである。

また、三蔵と呼ばれるものがある。
経蔵 (sutra)と律蔵 (vinaya)と論蔵 (abhidharma)である。
三蔵に精髄している僧侶を三蔵法師と言う。
  • 経蔵 ・・・・ 釈迦の説いたとされる教えをまとめたもの。いわゆる「お経」 
  • 律蔵  ・・・・ 出家集団の規則・道徳・生活様相などをまとめたもの。いわゆる「戒」 
  • 論蔵  ・・・・ 上記の注釈、解釈などを集めたもの。いわば「仏教哲学」

本書はこの3つ目の論蔵(アビダルマ)についての入門書である。

私たちは普通に暮らしている限り、いつでも煩悩を起こしながら生きている。特別な方法を用いない限り、それを断ち切ることはできない。その特別な方法というのが、シャカムニが自力で見つけ出した修行の道、つまり仏教である。おそらくシャカムニ自身は、その道を体系化して説くことはなかった。その時々、相手の状況に合わせて個別に指導したため、教えの内容はきわめて実際的、断片的なものであったに違いない。それを後の時代の修行者たちがきれいにまとめ上げて、誰にでも利用できる一般則として体系化した。それがアビダルマであり、『俱舎論』はそのアビダルマの代表的作品である。

ソルティ実は知らなかったのだが、アビダルマには二系統あるそうだ。
一つはスリランカを中心とするテーラワーダ仏教で伝えられてきたもの。もう一つは、インドとパキスタンの国境地帯のガンダーラと呼ばれる地方で「説一切有部」というグループが発展させ、今に残したものである。説一切有部は今は存在しない。

このブログで触れたことのあるアビダルマは、スリランカ出身のアルボムッレ・スマナサーラ長老が日本テーラワーダ仏教協会にて講義したのをまとめた本なので、前者に当たる。
一方、本書が取り上げているアビダルマは、後者の説一切有部のアビダルマの中でも最も完成された形の一冊『アビダルマコーシャ』であり、それを日本では『倶舎論』と言うのである。

「倶舎」というと奈良時代の南都六宗を思い出すが、まさにその一つである俱舎宗は『アビダルマコーシャ』を研究していた僧のグループだった。
日本でアビダルマを研究していたお坊さんがいたことに驚きを禁じ得ない。
それは、研究していた人がいたという事実に対する驚きではなく、研究していたにも関わらず、その成果が実際の日本仏教には何の影響も及ぼさなかったということに対する驚きである。

大乗仏教圏である日本に入ってきた経蔵(お経)は創作経典であり、ブッダ本来の教え(編纂経典)から遠く離れたものである。それをテキストに仏教の神髄を学ぶのはどうしたって無理がある。ブッダの悟りを求める我が国の歴史上の修行者たちの苦闘の最大の要因は、まさにここにあった。間違ったマニュアルを見ながらネットにつながろうとしても上手くいくわけない。
あれこれ試行錯誤を繰り返し、偶然ネットにつながるシステムを作動させてしまった一握りの天才のみが、我が国では悟ったのであろう。偶然達した僥倖ゆえに、方法を体系化して弟子に伝えることなどできるべくもない。

一方、(佐々木によれば)、日本に入ってきた論蔵(倶舎論)は、テーラワーダ仏教圏で伝えられてきた論蔵と大きな変わりはないそうである。それは、どちらも同じ『阿含経』という経典をベースにしているからで、この『阿含経』こそは初期仏教の代表的経典の一つであり、ブッダの説いた教えに源を発していると言われているのである。
大乗仏教圏とテーラワーダ仏教圏のそれぞれで重用されてきた経蔵の違いに比べれば、論蔵の違いは微々たるもの。佐々木の言葉を借りれば、「大乗仏教の影響を受けずに、おおもとの仏教を体系化した唯一の仏教哲学」である。

「おおもとの仏教は(論蔵という形で)日本に入っていたんじゃないか!!」
と今さらながら驚く。
「なのに、なんで広まらなかったのか?」
「俱舎宗はなぜ消えてしまったのか?」

この謎について調べるのは今後の楽しみとしよう。
ただ、思うに、やはり仏教は研究するものではない、あるいは机上の学問だけでは神髄には触れられないということではあるまいか。修行が伴われていない仏教の価値は、ペーパードライバーのようなもの、ってことじゃないか。

あとがきによれば、本書はあのエキサイティングな名著『科学するブッダ 犀の角たち』(2006年大蔵出版)の続編として企画されたそうである。
 
『犀の角たち』は「科学がどういった点で仏教に結びつくのか」という問題を科学に重点を置いて語った本である。ならば次に書くべきは、仏教に重点を置いて、「仏教のどういったところに科学的思考が現れているか」を語る本でなければならない。ではそれは、一体なにをテーマにした本なのか。科学的思考が現れている仏教の分野とはどこなのか。そこまで考えてきて決心がついた。それはアビダルマである。

ソルティは『犀の角たち』をはじめて読んだとき(2013年)、手放しの賛辞と手土産の感謝に値すると思いつつも、一方どことなく物足りない感を持った。それはまさに上記の点――仏教より科学に重点が傾いている――にあった。
ちゃんと、続編を書いてバランスを取っていたのである。
両方の本をセットで読んでこそ、科学と仏教の二卵性双生児のような関係が了解されよう。
あいかわらず、小難しいことを素人にも分かりやすいよう噛み砕いて伝える佐々木の能力は見事に尽きる。池上彰に通じるものがある。

仏教の物質論、仏教の認識論、仏教の時間論、仏教のエネルギー論、そして因果法則・・・。
微に入り細を穿つ、水も漏らさぬ緻密な理論。
最先端の科学理論と符合するかのような世界認識。
(盆のように丸い世界の真ん中には須弥山が聳えていて云々・・・といったナンセンスもあり)

仏教が、数学と論理学の往年の大家たるインドに誕生したのも、うべなるかな。


一刹那ごとに、今ある存在はすべて消え、全く別の存在が出現してくる。そのデジタルな生滅の連続が「この世の転変」というものである。私もまた、そういう転変世界の一部として生きている。今の私は、私を構成している色法、つまり肉体と、その内部に遍満する心・心所法の複合体として存在しているが、それは一刹那で消滅する。そして次の刹那にはそれとよく似てはいるが同一ではない別の複合体が現れる。それは実体としては全く別物だが、前の刹那の影響を受けて、前の刹那と連続性をもって生じてくるので、あたかも同じ「私」というものが連続して存続しているように思えるが、実際は錯覚である。この意味で私という存在は、「ある程度の全体性を保持しながら刹那ごとの消滅を繰り返す、要素の集合体」と定義することができる。
 

鴨長明さんよ。
これが無常の実態だ。

 
2012年3月屋久島&九州旅行 038
 

● 本:『ごまかさない仏教』(佐々木閑、宮崎哲弥対談)

2017年新潮社

 このところ新潮社から仏教関連の良書の発行が続いている。
 魚川祐司著『仏教思想のゼロポイント』を嚆矢とし、同じ魚川訳のウ・ジョーティカ著『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』や『ゆるす』、宮崎哲弥✕呉智英対談『知的唯仏論―マンガから知の最前線まで―ブッダの思想を現代に問う』他である。おそらく社内に初期仏教に関心の高い、有能な編集者がいるんじゃないかと推測する。ありがたいことだ。

 この本もまた、初期仏教すなわちブッダ本来の教えの核心をつく、目からウロコの刺激的な対談本である。対談者は、科学と仏教の連関を唱えるエキサイティングな名著『科学するブッダ 犀の角たち』を書いた佐々木閑と、中観派の仏教徒を自認する評論家宮崎哲弥。どちらも今をときめく仏教スポークスパースンである。
 本書の裏表紙には『根本から問い直す「最強の仏教入門」』と紹介されている。内容も仏教の三つの宝である「仏(=ブッダ)」「法(=ダンマ)」「僧(=サンガ)」のそれぞれについて、碩学の二人が長い仏教の歴史の根本に立ち戻って、その本質を語り合っている。
 けれど、やはりこれは入門書というには敷居が高い。「仏教ってなに?」と入門書を期待して手にした人は、門前払いを食らうかもしれない。とくに、「法」についての章は、かなり学問的に高度で難解である。察するに、恰好の対談相手を得て熱くなった宮崎の逸る追求心のせいかと思う。これはこれで面白いが、単純に初期仏教について知りたいのなら、岩波文庫から出ているワールポラ・ラーフラ著『ブッダが説いたこと』に如くものはなかろう。
 ある程度初期仏教を学び瞑想修行を実践してきた人が、自らが拠り所とする仏教の基盤をもう一度確かめ、さらなる飛躍を期す布石とするには恰好の本である。

以下引用(すべて佐々木発言)

仏教という宗教は、ふだん他人事として忘れている老病死という人生の最大の苦しみを、我が身のこととして実感した人にとって、はじめて必要となるものなのです。

釈迦の生き方は、苦しみを生み出す世俗の価値観をひっくり返して、正反対の価値観の中で安穏の境涯を手に入れようというものです。したがって当然ながら、仏教の真理というものは、世の流れに逆らう非社会的な視点だということになるわけです。

つまり仏教は、教えを説き広めることによって、すべての人間を幸せにする義務もなければ、そのような課題も持たず、基本的に釈迦の言うことに反応する人だけを受け入れる。他の宗教のように万人に積極的に布教することはしない。仏教に救いを求めている人がいたら、そこではじめて手助けをするというだけ。

一切皆苦の本質は、私たちが生命体であるというところにあります。「四苦」とは、つまり生命体が生命体であるがゆえに必然的に抱え込む苦であり、したがって「決してそこから逃れられない」ものであり、「誰にでも等しく襲いかかる」ものです。

仏教がいう無常とは、無常をよしとする考えではなく、無常という法則性を前提として世界観を構築せよ、ということです。

秩父札所めぐり2日 065


 内容とは別に、対談を読んでいて感じるのは、宮崎哲弥の「言語」に対するこだわりの強さ。やっぱりインテリなんだなあと思った。言語脳が異常に発達しているのではなかろうか。
 一方の佐々木閑は、学者としてのブレない姿勢に感嘆した。もとが理系であったせいもあるかと思うが、仏教を学問として研究するにあたり、純粋に科学的方法――仮説の設定、材料の分析、論理的思考による証明といった――を実直に適用している様が伺える。その語りも客観的かつ論理的である。
 その一環として、本書の最後では、同じ仏教研究者で『浄土真宗は仏教なのか?』の著者である藤本晃(浄土真宗僧侶)のことを「テーラワーダ歴史原理主義者」と呼び、宣戦布告(むろん学問上の)している。以前、サンガ発行の仏教雑誌『サンガジャパン』で、藤本が佐々木の発表した論文について批判したことを受けてのことだ。
 ソルティは、学問としての仏教にはほとんど興味ないし、読んでもどうせ理解できないので、両者の対決にはさして関心がない。藤本が本当に「テーラワーダ歴史原理主義者」なのかどうかも知らない。
 ただ、以下の佐々木の発言には、一顧の価値置くものがあるとは思った。

私自身、釈迦の絶対的信者ですから、テーラワーダ仏教に非常な親近感を持つ人間です。しかしそのテーラワーダが、藤本氏のような強固なテーラワーダ歴史原理主義者の方向に傾きかけている状況をとても心配しています。藤本氏の説に納得するか、それとも疑問を抱くかは、その当の本人のその後の生き方にきわめて大きな影響を与えるということに留意して欲しいのです。
  
 なにごとにせよ、原理主義は好ましくない、という意味において。








 

 

● 本:『日々是修行――現代人のための仏教100話』(佐々木閑著)

2009年筑摩書房より刊行。

 仏教と科学の近似性を追及した名著『犀の角たち』の著者による仏教エッセイ。朝日新聞夕刊に2年にわたって毎週連載された文章をまとめたものなので、広い読者を想定し、わかりやすく、読みやすく、多彩なテーマが楽しい、肩の凝らない読み物になっている。
 ここでも著者は『犀の角たち』同様に、日本人に馴染んでいる大乗仏教ではなくて、初期の仏教つまり2500年前に存在した釈迦の仏教の紹介を目論んでいる。朝日新聞という広く一般大衆が購読する媒体に、元来の釈迦の教えや修行僧(サンガ)の在り様が持続的に紹介され、読者の仏教観に何がしかの変容をもたらしていくことは、非常に意義深いことである。
 花園大学教授である佐々木はもちろん、伝統的な大乗仏教を否定も批判も断罪もしていない。が、釈迦本来の‘正しい’仏教の広まることが、結局は仏教の為になり、世の苦しむ人々の為になることを確信しているのは間違いあるまい。
 100のエピソードを通して、佐々木の仏教への信、若い頃科学者を志したほどの合理精神、縁を大切にする謙虚な心が伝わってくる逸品である。

 では仏教を信じるとはどういうことなのか。それは単に「仏の存在を信じる」のとは違う。仏教を信じるとは、「釈迦の説いた道を信頼する」のである。お釈迦様という人が発見した「悟りへの道」を信頼し、そこに自分の生活をゆだねる。それが仏教を信じるということの本来の意味である。

 一方、このエッセイの、というか著者の隅に置けないところは――隅に置くつもりはもとより無いけれど――釈迦の仏教を全幅賞賛し持ち上げるだけでなく、その欠陥をちゃんと指摘しているところである。まさに合理精神の表われである。

 第二次大戦中、日本は戦争色に染まった。「私は僧侶だから戦争には協力しない」と言って時流に抵抗した人もかなりいたが、逆に戦争を賛美する僧侶も多かった。「アジアの平和を実現するための聖戦だから許される」という理屈である。そして、反戦論者は迫害され、賛美した人は褒められた。ここに、仏教という宗教の持つ問題点がある。社会から非難されないよう、自己の行いを正していくという独特のシステムの裏側には、社会の大勢に迎合してしまう危険性が潜んでいる。
 お布施で生きる以上、世間の顰蹙を買うような行動は絶対に避けねばならないが、一方、あまりにも社会の時流に流されると、教えに背いてしまうことになる。

 「律」の規則のひとつに、「僧侶になるためには、10人以上の同性の僧侶の許可を得なければならない」というものがある。男なら10人以上の男の坊さんが「よし」と言わないと、坊さんになれない。女なら10人以上の尼さんの「よし」が必要である。・・・・・・・・・
 スリランカを中心とする南方諸国で、国が乱れて僧侶の数が減っていき、尼さんの数が10人を切り、女性の僧団が消えたのだ。そして、驚くべきことに、その後1000年、スリランカにもタイにもミャンマーにも、正式の尼さんはいない。せっかく釈迦の説いた悟りの道が、それ以来、女性には閉ざされたままなのだ。最近、なんとかしようという動きがでてきたが、まだ問題山積である。

 釈迦は、非常に高度な平等主義者だった。家柄・血筋で人の価値が決まると考えられていた古代インドで、決然とそれに反旗を翻し、「人の価値は、生まれではなく、心根や行為によって決まる」と説いた。当時としては革新的な主張だ。
 だがその釈迦が作った仏教僧団にも、様々な差別が残った。世間の人びとからもらうお布施だけが頼りの仏教は、当時のインド社会の差別意識に逆らうことができず、障害者や重病人の出家を認めなかったし、男女間に格差を設けて女性修行者を低く見た。その差別は釈迦にも逆らいがたい、きわめて強固な社会常識だったのだ。

 2つ目の引用中の「悟りの道が、女性には閉ざされたまま」というのは間違いである。なぜなら、在家者でも男女問わず「悟る」ことはできるから。
 初期仏教では、預流果、一来果、不還果、阿羅漢果の4つの「悟り」のうち、出家しないと悟れないと断定されているものはない。第3の悟りである不還果を得た人でも、かろうじて在家生活を送ることができる。だが、「解脱」に至る最後の悟りである阿羅漢果を得たら、「自分」という感覚が滅してしまうので、もはや在家生活は不可能である――と言うのである。
 つまり、出家できない女性でも、「悟り」も「解脱」も可能なのである。ただ、雑事の多い在家生活を送りながら修行するよりは、出家して修行に専念するほうが当然進歩が速い。戒も守りやすいし、周囲の理解も得られやすい。その点では、女性差別は確かである。
 
 最後に、著者の合理精神の賜物と解していいのかどうか定かでないが、釈迦の説いた道を信頼している佐々木であるが、明らかに釈迦自身が説いた「輪廻転生」は信じていないらしい。
 こうはっきり述べている。
 
 私は釈迦の信者だが、輪廻の実在性は信じない。つまり、「もはや輪廻しない」という確信こそが真の安らぎをもたらすという、釈迦の精神は尊敬するが、「天の神様」や「地獄の亡者」が実在すると考える、その時代のインド人の世界観を丸ごと鵜呑みにはしないということである。
 

 ソルティ自身は「輪廻(=変化)」については「ある」と確信している。「輪廻転生(=生まれ変わり)」については結論を出すことをペンディングにしている。この二つを混同するのは良くないと思っている。
 輪廻とは結局、「万物流転&不生不滅」の謂いである。
 ――エントロピーの法則&エネルギー保存の法則。
 現代科学の目で見ても、少しもおかしなことではなかろう。


 
 


● 1%の神秘 本:『科学するブッダ 犀の角たち』(佐々木閑著、角川文庫)

科学するブッダ 001 第一級のスリリングな面白さに満ちた本である。
 最先端の科学(物理学、数学、進化論)の様相が、科学素人(99%文系)の自分にもわかりやすく説明されている。工学部と文学部(哲学科)を卒業し、現在仏教系の大学の教師である著者だからこそ為しえた離れ業という気がする。まったくこういう書き手がいてくれないと現代科学の動向など伺うべくもない。
 謝謝。

 面白さの第一は、最先端の科学が、実に不可思議な、合理性を拒否するような、ある意味「非科学的」な地点に達していることを知るからである。
 ある面から見ればそれは「頭打ち」であり「袋小路」である。だが別の見方をすれば、新しいパラダイムに跳躍する飛び込み台のまさに突端にいる、と言うこともできよう。
 そして、面白さに拍車をかけるのは、その新しいパラダイムがどうやら仏教的世界観に近似しているという点である。自分は仏教徒なのでワクワクしてしまうのである。
 最先端の科学と仏教の近似。
 そこに着眼し、両岸に橋をかけようとする野心的で質の高い試みとして、この本は山口修源著『仏陀出現のメカニズム 拡大せし認識領界』(国書刊行会)と双璧と言える。
 

 私は本書で、科学と仏教の関係を論じるが、両者の個々の要素の対応に関しては一切無視した。唯識と脳科学だの、マンダラと量子宇宙だの、つき合わせても意味がない。視点は常に、科学と仏教それぞれが目標とする世界観である。スケールはそこに合わせてある。科学は総体として、どのような方向に向かっているのか。仏教は本来、何を目指して活動していたのか。その向かう先を見定めることによって、科学と仏教の知られざる関係性を明らかにしたい。(標題書より引用、以下同)

 という壮大なる目的のもと、著者はまず科学の方向性について語り始める。
 科学が、右肩上がりの比例グラフのように漸次的ではなく、停滞→ジャンプ→停滞→ジャンプという段階的な過程を経て発展していく様をパラダイムシフトと呼ぶ。
 
 パラダイムシフトとは、頭の中の直覚と、現実から得られる情報とのせめぎ合いにおいて、直覚が負けて情報が勝つ、そういった現象だと考えることができる。「世界はこうあるべし」という脳の生み出す理想世界が、現実を観察することによって得られる外部情報のせいで修正を迫られ、「いやだけど仕方ない」と言いながら軍門に下るのである。
 
 脳の直覚が生み出す完全なる神の世界が、現実観察によって次第に修正されていく、悪く言えば墜落していく、そこに科学の向かう先が読み取れると想定するのである。

 このことを著者は科学の人間化と命名している。
 以下、科学の人間化がこれまでどのように起こってきたかを、物理学、進化論、数学、精神分析学を一つ一つ俎上にのせて調理していく。
 その包丁さばきの鮮やかなること!
 ダーウィン(進化論)とキリスト教(創世記)の攻防も、カントールとクロネッカーの「超限数」をめぐる師弟対決のエピソードも寝食を忘れてしまうほどの面白さにあふれているが、やっぱり圧巻は量子論である。 
 
 量子論は、観測という行為における、観測対象と観測者の関係を根本的に変えてしまった。両者は線を引いて区分けすることなどできない。観測というひとつの行為には、観測の対象と、観測者の両者が不可分のワンセットで含みこまれているのである。電子は重ね合わせの波の状態で存在していると言ったが、量子論の立場から言うと、観測対象と観測者を区分けすることはできず、全体がセットになって世界を作っているのだから、正確には、「電子および、そのまわりの世界は、可能性の重ね合わせの波として存在している」と言わねばならない。
 では、電子のまわりの世界とは何を指すのか。
 文字通り、電子のまわりの世界である。実験装置も、その装置の傍に立っている私も、私が住んでいる日本全域もすべてが電子のまわりの世界である。結局「全宇宙」が電子のまわりの世界になる。電子1個が重ね合わせの波として存在している。それはとりもなおさず、この宇宙の存在すべてが重ね合わせの波として存在しているということである。その中には、観測者である私自身も含まれねばならない。

 エベレットが提出したこうした解釈を「多世界解釈」と呼ぶのだそうである。
 なんともシュール!
 観測者(見る者)と観測対象(見られる物)との関係とは、畢竟するに認識(=心)と存在(=物)との関係である。古来から瞑想者の悟ることの一つは、「見るものは見られるものである(認識=存在)」ということである。観察という行為が、すべからく観察する主体を前提にしている以上、主体の性質そのものがバイアスとならざるをえない。純粋に客観的な、独立して成立している存在や現象など、この世にはありえないということだ。
 
 この事情をいちはやく見抜き指摘した科学者がポアンカレ(1854-1912)であった。
 
 ポアンカレは大量の科学論を残しているが、その基盤は、「科学は人間が生み出したものだ。人間なしには科学的真理というものはあり得ない」という思想である。これは人間が科学を勝手に作り出したという意味ではない。外界は確かに存在しており、科学は、その外界の状況を正しく記述しようとする活動であるから、あくまで外界の状況をもとにして作られている。なにもないところから、人間が自分たちの都合に合わせて気ままに作り出したというものではない。科学の説明が外界の状況と正しく対応すること、それが科学にとっての必須の要件である。
 しかし、外界はあくまで人間に科学を作らせる第一要因にすぎないのであって、外界からの刺激を認識し、思考し、総合して体系化するという作業を行うのは人間側である。したがって科学の中には、人間特有の認識方法、特有の思考方法、特有の総合方法が必ず含まれてくる。だから我々が科学的真理として受け取っている事柄も、実際には人間にのみ当てはまる、人間にとっての真理だということになる。
 
 ポアンカレ、偉大だ。天才だ。その名と違ってポアンとしてなどいない。
 しかし、著者も負けていない。 
 
 こうして人間は、外界からの情報を、人間固有の特殊な形で受け取り、それによって独自の世界像を構築していく。しかしそれが人間にのみ通用する世界像だという意識を持つことはない。世界は実際にそのような様相で存在しているのだ、自分たちの感じている世界像は絶対的なものだ、と確信しながら生活しているのである。
 
 このことを仏教では「無明」と呼ぶのだろう。
 
 さて、これからの科学はどこに向うのか。
 新たなパラダイムはどこらあたりから生まれてくるのか。
 観察という行為において、観察主体が常にバイアスとなってしまうのだから、次なる展開は観察主体のありようを徹底的に調べることだ。
 つまり、人間の認識システムの特徴を研究することが鍵となる。
 そこで、フロイトの精神分析学を土壌にもつ脳科学の出番である。昨今の脳科学の隆盛はこうした背景を知ると納得がいく。
 
 おそらくこれからの科学は、脳科学によって得られる脳の働きに関する知見(料理人の仕事)と、従来の科学理論(出された料理)をつき合わせることで、実際に見ることのできない外部世界の実像(生の食材)を推測するという作業が主になっていくであろう。

 生の食材!!!
 これを一瞥することが「悟り」なのではないだろうか。
 
 著者はここまで延々と、第1章から第3章まで、総ページ数の4分の3を使って科学について書き連ねてきた。
 いよいよ(やっと)仏教の出番である。
 ページを括るのももどかしく第4章に突入したら、あららら・・・。
 なんだか肩すかしであった。
 期待していたのは、仏教とはそもそもどんなもので、仏教の世界観(ブッダの言ったこと)とこれまで著者が懇切丁寧に説明してきた現代科学の知見とが、具体的にどのように似通っているのか、どのように連関しているのか、という照合作業であった。であってこそ、仏教と科学を比較することの意義があるはずだ。
 著者はいきなり結論を持ってくる。 
 

 科学は物質世界の真の姿を追い求めて論理思考を繰り返すうちに神の視点を否応なく放棄させられ、気がついたら、神なき世界で人間という存在だけを拠り所として、納得できる物質的世界観を作らねばならなくなっていた。一方の仏教は、同じく神なき世界で人間という存在だけを拠り所として、納得できる精神的世界観を確立するために生まれてきた宗教である。
 仏教と科学の違いは、仏教とキリスト教の違いよりも小さい。科学の人間化を一本のベクトルとした場合、出発点にはキリスト教をはじめとした一神教世界があり、反対側の到着点に仏教がある。もちろん科学が最終的に仏教になるなどと言うのではない。両者はそもそも求める目的が違う。しかし、その目的を求めて我々が活動する、その活動の場が、仏教と科学では同次元なのである。
 
 続いて著者は、仏教の起源と歴史から語り起こし、経典研究をもとに、以下の点を論証する。 
 
最初期の仏教(釈尊の仏教)だけが持つ三つの特性
 1 超越者(神)の存在を認めず、現象世界を法則性によって説明する。
 2 努力の領域を、肉体でなく精神に限定する。
 3 修行のシステムとして、出家者による集団生活体制をとり、一般社会の余りをもらうことによって生計を立てる。

 すなわち、仏教と科学との近似を論じるのであれば、それは中国を通じて日本に伝わった大乗仏教ではなく、釈尊の言葉(教え)を忠実に伝えた原始仏教でなければならない。経典の勉強と瞑想修行という自己努力によって悟りに達することを根本とする原始仏教こそ、実証的な科学との比較に耐えられる。(といっても著者は大乗仏教の意義を否定してはいない。)
 
 そこで、仏教と科学の関連性について結論を下すなら、仏教と科学は同次元の世界観に立つ人間活動であり、両者を同時に受け入れてもなんら矛盾することがない、ということになる。特に科学の人間化が進んできて、科学の基礎が次第に仏教世界の世界観へと近づいている現代において、仏教と科学の親近性はますます強まっている。
「世界は法則性に沿って展開しているが、その法則性とはあくまでも我々人間が人間独自の視点で構成していくものである。科学は、外部の物質世界を法則性によって理解しようとし、仏教は人間精神を法則性によって理解しようとする。さらに仏教の場合は、その理解した法則性を利用して、自己の向上を目指す。科学も仏教も、人間という存在を視点の中心に据え、現象を法則性によってとらえようとする点では変わることがない」こう考えた人が、仏教と科学を同時に受け入れたとして、どこに矛盾があるのか。


 矛盾はない。
 しかし、「超越者(神)の存在を認めず、現象世界を法則性によって説明すること」(=人間化)という共通項のみを持って科学と仏教とを結びつけるのはいささか大雑把に思える。それなら、経済学と仏教を結び付けてもいいし、将棋やチェスと仏教を結び付けてもいい。
 現代科学と仏教の近似を説くのであれば、やはり「科学の基礎が次第に仏教世界の世界観へと近づいている」ことを具体的に示すべきだろう。
 つまり、先に触れたような、量子論が明らかにした「認識(観察者)」と「存在(観察対象)」の関係をめぐる不可思議や、宇宙のすべてが重ね合わせの波として存在しており主体(自己)さえもそこに含まれるという驚くべき世界解釈が、仏教の世界観の何に相応するかの示唆があってもよかろう。
 「両者の個々の要素の対応については一切無視した」と著者ははじめに述べている。それならそれでよい。照合作業(つきあわせ)は読者にまかせればよい。ただ、少なくとも科学領域について著者が提供したのと同じくらいの検討材料を、仏教についても提供してほしかったと思うのである。
 自分が「肩透かし」と感じた理由は、仏教の世界観を語る上で絶対に欠かせない「無常」「無我」「因縁」の説明が抜けているからである。仏教素人の読者にしてみたら、そこが説明されたあとで第1~3章を再読することではじめて、「今の科学の最先端はこんなにも仏教と近接しているのか!」、そして「ブッダは2000年以上も前にこんなもの凄い知恵に到達していたのか!」と驚嘆と共に合点がゆくと思うのである。

 とはいえ、ここまで書いてきて、やはりこの本はこのように「尻切れトンボ」に終わるほか仕方がない、著者の姿勢は正しかったと思う。
 「無常」「無我」「因縁」をわかりやすく説明するなど、悟った人間であっても困難を極めるだろう。まだ、フラクタル幾何学や相対性理論を説明するほうが簡単かもしれない。
 そしてたとえ「無常」を見事に説明し得たところで、それを読んだ人間が頭で理解する限り、それは真に理解したことにはならない。
 「不立文字」は大乗仏教(禅)の謂いだけれど、ここから先は個々人が修行(=瞑想)によって身をもって知る世界。 
 著者の言うとおり、仏教を宗教たらしめている1%の神秘がここにある。


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