ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

レオ・ヌッチ を含む記事

● 時代の壁 オペラライブDVD:ヴェルディ作曲『リゴレット』

収録日時 2001年7月21日
開催場所 アレーナ・ディ・ヴェローナ(イタリア)
キャスト
  • リゴレット: レオ・ヌッチ(バリトン)
  • ジルダ: インヴァ・ムーラ(ソプラノ)
  • マントーヴァ公爵: アキレス・マチャード(テノール)
指揮: マルチェッロ・ヴィオッティ
演出: シャルル・ルボー
アレーナ・ディ・ヴェローナ管弦楽団・合唱団・バレエ団

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 タイトルロール(表題役)をつとめたレオ・ヌッチは、他に『トスカ』『ナブッコ』『仮面舞踏会』をDVDで観ている。
 こわもての風格ある舞台姿と性格俳優のような渋い演技力、朗々とした正統的な歌いっぷりが特徴的な名バリトン。
 ここでも古代の野外劇場を埋め尽くす満場の聴衆相手に、非の打ちどころない歌と演技を披露し、スターの存在感を見せつけている。

 インヴァ・ムーラーを聴くのははじめてだが、美しい人である。
 このときすでに40歳近いと思われるが、10代の乙女であるジルダになりきっている。
 観客にそう錯覚させるに十分な清らかさと愛らしさを、計算された歌唱と演技と表情とで作り上げるのに成功している。
 元来リリック・ソプラノなので、たとえばエディタ・グルベローヴァのジルダのような超絶高音と超絶コロラトューラは持っていないのがいささか物足りない向きもあるけれど、「リゴレットが命に代えてでも守りたい宝」という設定を観客に納得させてあまりない。
 この人の椿姫を観てみたい。

 マントーヴァ公爵役のアキレス・マチャードは可もなく不可もなし。
 演奏も演出も手堅く、映像記録として商品化するレベルは十分クリアしている。
 有名なアリアや重唱のアンコールがあるのも、お祭り気分の会場の様子が伝ってきて楽しい。

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アレーナ・ディ・ヴェローナ
《etiennepezzuto92によるPixabayからの画像》

 舞台の出来栄えは文句ない。
 が、やはりソルティはこの演目がどうにも受け入れ難い。
 時代が時代だから仕方ないと重々分かっているものの、あまりにアホらしいプロットにげんなりして入り込めない。
 というのも、この物語の根本動因をなすのは“処女信仰”だからだ。

 手あたり次第に気に入った処女を食い散らかす主君マントーヴァ公爵の魔の手から、最愛の娘ジルダの処女を守り抜きたいリゴレット。
 ところが、ジルダは貧困学生に変装したマントーヴァに恋してしまい、公爵の手下の者どもに拉致されたあげく、いともたやすく処女を奪われてしまう。
 大切な娘が汚された!!
 怒りと嘆きの極みに達したリゴレットは復讐を誓い、殺し屋を雇う。
 が、マントーヴァを助けたい一身のジルダが先回りし、自ら犠牲になって殺し屋の刃を受ける。
 死に逝く娘を前に、なすすべもなく運命を呪うリゴレット。

 書いていても、あまりの世界観のギャップに辟易する。
 娘の処女を守るため教会以外はいっさい外出を許さない父親ってのもナンセンスだし、ジルダの犠牲的精神もまったく意味不明で、これで「涙を流せ」ってのは無理な話。
 が、このプロットに人々が共感し感動できた時代があったのである。
(いや、今でも感動できる人はいるのだろうが)

 評論家諸氏は、同時期のヴェルディの傑作『イル・トロヴァトーレ』をして、「プロットが複雑でリアリティに欠ける」と言うのだが、ソルティにしてみれば、『リゴレット』のほうがよっぽど理解しがたく、不愉快である。
 すばらしいアリアや重唱やオーケストレイションがあふれているので、この作品はヴェルディ前期の傑作の一つとしていまだに上演され続けているのだけれど、今となっては音楽のクオリティをもってしてもカバーできないくらいのポリコレ抵触、いや女性蔑視物件であろう。
 それにくらべれば、リゴレットの背中の瘤なんか目に入らないほどだ。

 何世紀も前の時代劇の設定に、現代の感覚から物申すのはルール違反と分かっているのだが、壁を乗り越えるのにもほどがあるってことを教えてくれる作品である。(少なくともこれが喜劇ならまだ受け入れやすかったかもしれないな)

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Christine EngelhardtによるPixabayからの画像画像




おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● アプリーレ・ミッロの時代 オペラDVD:ヴェルディ作曲『仮面舞踏会』


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収録年 1991年1月
会場  メトロポリタン歌劇場(ニューヨーク)
管弦楽&合唱 同劇場管弦楽団&合唱団
指揮  ジェイムズ・レヴァイン
演出  ピエロ・ファッジョーニ
キャスト
 グスタフ3世 :ルチアーノ・パヴァロッティ(テノール)
 レナート :レオ・ヌッチ(バリトン)
 アメリア :アプリーレ・ミッロ(ソプラノ)
 ウルリカ :フローレンス・クイヴァー(メゾソプラノ)
 オスカル :ハロライン・ブラックウェル(ソプラノ)

 ヴェルディ中期の傑作。
 スウェーデンの啓蒙絶対君主であったグスタフ3世(1746-1792)の暗殺という史実に材を取っている。

 国力増強に努めるとともに社会福祉に力を入れ国民の人気を集めたグスタフ3世は、一部貴族から反感を持たれていた。ある晩ストックホルムのオペラ座で開催された仮面舞踏会の最中、背後から拳銃で撃たれ、それがもとで命を落とした。犯人として捕まったのは、ヤコブ・ヨハン・アンカーストレム伯爵であった。

 本作は、この史実をもとにしながら、グスタフ3世と忠実な部下であり親友でもあるレナート(アンカーストレム伯爵がモデル)、そしてレナートの妻アメリアの三角関係を創作し、暗殺の動機を政治的なものから痴情的なものに転換している。
 すなわち、グスタフとアメリアの関係を誤解したレナートが、華やかなる仮面舞踏会の会場でグスタフを刺し殺すという恋愛悲劇である。
 レナートは、妻として自分を裏切ったアメリアより、友として自分を裏切ったグスタフのほうが許せなかったのだ。
 その直前にグスタフは身分を隠して女占い師ウルリカのところに行き、将来を占ってもらう。
 ウルリカは言う。「おまえは身近な人間の手で殺される」
 この予言が実現してしまったわけで、いかにも大時代的なベタな設定だなと思うが、なんとこれもまた史実で、ウルリカは実在の占い師で暗殺予言も実話らしい。

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 全体にヴェルディらしいドラマチックで重厚な曲調で、アリアや重唱や合唱の出来も良い。
 中だるみのない緊密な音楽構成は、中期の傑作として上げられるのももっとも。

 運命のいたずらで、レナートはグスタフとアメリアが深夜二人きりで会っている現場を目撃してしまう。二人の間に肉体関係はなかったのだが(身も蓋もない言い方でスミマセン)、レナートはてっきり自分がコキュされたと思い込む。
 しかもバツの悪いことに、現場にはグスタフの命を狙う貴族たち一味も潜んでいて、一部始終を見られてしまう。
 この衝撃のシーンにおいて、ヴェルディは、貴族たちの「ハハハ」というレナートへの嘲り笑いを歌にした軽妙な音楽を入れる。 
 もっとも悲劇的なシーンに、もっとも喜劇的な音楽をぶつけて、ドラマをさらに盛り立てるヴェルディの天才性には唸らされるばかり。

 世界のメトである。
 オケや合唱はむろん、出演歌手たちも当時の最高峰を集めて、間然するところがない。
 パヴァロッティは声の素晴らしさは言うまでもないが、王様の衣装が実に良く似合って、あの髭面がイケメンに見える。
 レオ・ヌッチの形式感ある立派な歌唱、抑えた演技は好ましい。
 オスカル役のハロライン・ブラックウェルの明るいコロラトゥーラソプラノと軽快な動きは、暗く陰惨な作品の雰囲気を緩和してくれる。
 そして、アメリア役のアプリーレ・ミッロであるが・・・・

 ソルティが人生ではじめて観たオペラのライブは、1988年メト来日公演の『イル・トロヴァトーレ』(NHKホール)であった。
 このときの指揮者はジュリアス・ルデール。
 予定されていたキャストは以下のとおりだった。
  • レオノーラ:アプリーレ・ミッロ
  • ルーナ伯爵:シェリル・ミルンズ
  • マンリーコ:フランコ・ボニゾッリ
  • アズチェーナ:フィオレンツァ・コソット
 オペラ好きならもうお分かりだろうが、オペラ史に残る名演フィオレンツァ・コソットのアズチェーナが聴きたかった・観たかったのである。
 しかし、理由は忘れたが、直前にコソットが来られなくなって、急遽代役が立てられた。
 ソ連(!)から駆けつけた名歌手エレナ・オブラスツォワがアズチェーナを歌った。
 安くないチケットを買い、字幕を見ないで済むようリブレット(台本)を読みこなし、CDで聴きどころを繰り返し聴き、準備万端整えていたのに、一番の目的が果たされずがっかり・・・・ではあったが、さすが世界のメト、やっぱり素晴らしい舞台だった。
 コソットの不在という大きな穴を埋めてくれた一番の功労者は、しかし、エレナ・オブラスツォワではなかった。
 メトの有望新人ソプラノとして赤丸急上昇のアプリーレ・ミッロだった。
 当時まだ20代だったのではなかろうか。
 よく通る豊麗な声と深い響きが合わさった、まさにヴェルディのヒロインにぴったりの声だった。
 とりわけ第4幕第1場のレオノーラのアリア『恋は薔薇色の翼に乗りて』は絶品で、彼女の歌声によって、昭和バブル期のNHKホールから、月の輝く中世ヨーロッパの古城にタイムスリップしたかのような感覚を抱かされた。
 あの世の主役はミッロだったと思う。

 ソルティの素人判断はともかくとして、ミッロは非常に期待されたソプラノだった。
 もちろんすでにメトのプリマには到達していたのだが、それ以上の存在になる、オペラ黄金時代(1950年代)のテバルティやカラスの域まで行くのではないか、とさえ言われていた。
 本ライブでも、大先輩であるパヴァロッティやレオ・ヌッチにまったく引けを取らない堂々たる歌唱で、ヴェルディの音楽に内包するドラマ性と抒情性を見事に表現しきっている。
 声のコントロールも巧みである。
 これで20代とは!
 たしかに末恐ろしい。

 その後、ソルティがミッロの歌声を生で聴く機会を持ったのは、1992年1月ローマ・オペラ座だった。
 イタリア旅行中のローマでミッロのリサイタルがあると知り、当日券を買った。
 久しぶりに聴くミッロは調子悪そうで、声がよく出ていなかった。
 ライブの途中で、彼女自身が客席に向かって、「今日は風邪をひいて声の調子が良くありません」と弁明しなければならないほどだった。
 その後、ミッロの名前を聴く機会は急速に減った。
 どうも80~90年代初頭がピークだったようだ。
 喉を壊したのだろうか?
 それとも、キャスリーン・バトルに虐められた?

ローマオペラ座
ローマ・オペラ座
 
 本DVDは、デアゴスティーニ発売「DVDオペラコレクション」(2009年創刊)の一枚で、ブックオフで500円で購入した。
 世界的歌手が出演する伝説のオペラライブを収録したLD(レーザーディスク)が1万円以上して、それを観るためのLDプレイヤーが10万円以上した時代を知る者にとって、こうしてワンコインで画質も音響も良い映像ソフトを手に入れられて、自宅の低価格DVDプレイヤーで気軽に視聴できるのは奇跡のようである。







● 浅田真央の翼 オペラDVD:ヴェルディ作曲『ナブッコ』(ファビオ・ルイージ指揮)

上演日  2001年6月9日
会場   ウィーン国立歌劇場
指揮  ファビオ・ルイージ
演出  ギュンター・クレーマー
出演(配役)
ナブッコ:レオー・ヌッチ(バリトン)
アビガイッレ:マリア・グレギーナ(ソプラノ)
フェネーナ:マリーナ・ドマシェンコ(メゾソプラノ)
イズマエーレ:ミロスラフ・ドヴォルスキー(テノール)
ザッカリア:ジャコモ・プレスティーア(バス)
演奏  ウィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団

 ナブッコは『旧約聖書』に出てくる「バビロン捕囚」に材をとっている。

バビロン捕囚(バビロンほしゅう)は、新バビロニアの王ネブカドネザル2世により、ユダ王国のユダヤ人たちがバビロンを初めとしたバビロニア地方へ捕虜として連行され移住させられた事件を指す。バビロン幽囚、バビロンの幽囚ともいう。(ウィキペディア「バビロン捕囚」)
 
 高校時代の世界史の授業を思い出すが、このバビロン捕囚の歴史的意義は「イスラエル民族(ユダヤ民族)のアイデンティティの確立のきっかけとなったところにある」とされている。ネブカドネザル2世(ナブッコ)によって祖国を奪われ神殿を破壊され、捕虜として徹底的に虐げられた逆境の中で、かえって民族としての団結が高まり、神ヤハウェへの揺ぎない信仰を律法遵守という形に結実させたのである。
 そんな歴史的にも宗教的にも大きな出来事を背景として、王ナブッコと娘二人の権力と愛をめぐる相克を描いたドラマが、若きヴェルディの出世作『ナブッコ』である。
 ストーリーは分かりづらいし、構成も無理があるし、テーマも絞りきれていない。音楽はなんだか荒削りで統一感が無い。印象深く美しいメロディーはふんだんに出てくるものの、いずれも流れとは無関係に唐突に繰り出される印象だ。「若書き」という言葉がピッタリくる。
 だが、そうしたもろもろの欠点を踏まえた上で、なおこの作品は魅力的である。
 特に、優れた歌手陣によって歌われ演じられたとき、魔法のようにこの作品の宿している真実(=ヴェルディの魂)が燦然と輝きわたって、聴衆を沸き立たせ、感動に誘う。
 まさにこのライブはその証明である。
 
 ナブッコ役のレオ・ヌッチの圧倒的な貫禄と存在感。登場した瞬間に舞台の色が変わる。
 アビガイッレ役のマリア・グレギーナの張りと艶のある強靭な声と見事なテクニック、繊細な演技。
 ザッカリア役のジャコモ・プレスティーアの哀しみを湛えつつも堂々と威厳ある立ち姿、深みある低音の響き。
 そして、劇中随一の名曲『行け想いよ。金色の翼に乗って』で感動の極みに達する合唱。 
 純粋に歌の素晴らしさを堪能できる。
 
 演出は時代を古代バビロンから現代に移している。登場するユダヤの男達はみな山高帽に背広姿。ナブッコはマフィアのボスのようなブランドスーツに毛皮のコート、娘二人もまたディオールかシャネルかといった感じの(よく知らぬが)ゴージャスなドレスを身にまとう。
 古代バビロニアの王位簒奪劇から、現代の大企業の社長の椅子争いみたいな展開になる。権力欲ギラギラの傲慢な父ナブッコと愛に飢え屈折した烈女アビガイッレの派手な親子喧嘩を見ていると、どうしても大塚家具の一件を思い出してしまう。その点では、この演出はちょっと下世話な方向に流れを持っていってしまうリスクと裏あわせにある。
 ただ、ユダヤ人捕虜達が、おそらくはナブッコの家臣たちによって殺されたのであろう家族や恋人の遺影をめいめいが手にして、『金色の翼に乗って』をしっとりと唱和するとき、山高帽に背広姿の一群が強制収容所に連れて行かれたホロコーストの犠牲者の姿に重なり、予期しなかった感動に襲われる。
 ユダヤ民族の大いなる受難という点で、バビロン捕囚からホロコーストまで、我々はいまも同じ世界を生きているのである。
 
 さて、唐突に話は変わる。
 マオちゃんこと浅田真央がこのまま引退するのか、復帰して平昌(ピョンチャン)冬季オリンピックを目指すのか、その去就が気になるところである。
 個人的にはもう一度あの白鳥のように優美で上品な滑りをショーではなくて緊張感の支配する競技会場で見てみたい気もするけれど、身体的にも精神的にも過酷きわまる選手生活を彼女に強いる権利は誰にもない。これまでたくさんの喜びと勇気と感動を与えてくれたことに感謝するのみだ。
 ただ、もし今一度リンクに立つのであれば、ぜひ彼女に滑って(舞って)ほしい曲が自分にはある。
 それが、何を隠そう、この『行け想いよ。金色の翼に乗って』なのだ。
 イタリア人なら誰もが知っていて第二のイタリア国歌とも称されるこのヴェルディの名曲は、タイトルが示す通り、翼のように軽やかで明るい曲調(ワルツ)でありながら、失われた故郷を思う切なさと哀しみに縁取られ、不屈の精神と希望とに満ちている。優雅で美しい。
 浅田真央にピッタリだと思う。
 この曲を聴きながら、「ここでトリプルアクセル、ここでスピン、ここからステップ」と、マオちゃんの滑る姿を思い描いている自分である。 
 
世界の民謡・童謡」というサイトで聴くことができる。



● 言うも汚らわしい? オペラDVD:プッチーニ作曲『トスカ』(リッカルド・ムーティ指揮)

上演日時  2000年3月14-17日
上演劇場  ミラノ・スカラ座(イタリア)
キャスト
 指揮   リッカルド・ムーティ
 演出   ルカ・ロンコーニ
 出演   トスカ ・・・・・・・マリア・グレギーナ(ソプラノ)
       マリオ・カヴァラドッシ ・・・・・サルヴァトーレ・リチートラ(テノール)
       スカルピア ・・・・・レオ・ヌッチ
 オケ&合唱  ミアノ・スカラ座管弦楽団&合唱団

 オペラハウスとして世界最高峰のスカラ座で、名実共に現代最高峰の指揮者であるムーティが、マリア・グレギーナはじめ当代最高峰の歌手を揃えて創り上げた舞台なので、それこそ現代最高の『トスカ』となっても不思議ではないはずなのだが、どういうわけか退屈な舞台である。
 歌手は素晴らしい。
 マリア・グレギーナははじめて観た(聴いた)が、高音から低音まで非常に良くコントロールされた豊麗な声の持ち主で、演技もなかなか。決して美人ではないが堂々とした舞台姿は、プリマドンナの名にふさわしい貫禄とオーラがある。トスカはまさにはまり役。
 テノールのリチートラも、パバロッティを彷彿とさせるような癖のないまっすぐな歌い方と輝かしい高音で好感持てる。
 レオ・ヌッチのスカルピアは、謹厳実直な高級官僚のような外見と慇懃無礼な振舞いの中に異常なセクシュアリティを隠し持ち、現代的な性的逸脱者の姿を映し出す。マリア・カラスとのコンビで一世を風靡したティト・ゴッビのスカルピア(いかにもSMチックな黒光りする革ブーツ)とは対照的である。
 演出もごく普通である。
 なんで退屈なのだろう?

 思うに、ムーティの指揮が上品過ぎるからである。
 この作品はぶっちゃけ、陰惨で残酷で下品な内容である。トスカの歌う全曲中もっとも有名なアリア『恋に生き、歌に生き』だって、よく考えれば「恋人を助ける代償として一回だけでいいからやらせろと迫るサド男の言葉に途方にくれて」身の上を嘆く歌である。
 哀れ、というより下品でしょう?

 この曲に限らず、プッチーニのオペラにはどことなくSMチックなところがある。
 『ラ・ボエーム』しかり、『蝶々夫人』しかり、『トゥーランドット』しかり・・・。
 内容的にもそうだが、曲調もなんとなく痛めつけるような、締め付けるような、窒息させるような不自然なところがある。「そこが甘美だ」という人も多いのだろうが・・・。
 いずれにせよ、プッチーニのオペラに「上品」という言葉は当たらない。
 舞台が映えるためには、聴衆を熱狂させるためには、あえてドラマチックに(ベタに)振ったほうが面白いのがプッチーニなのではないか。




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