水曜日は基本的に仕事が休みなので、午後1時から始まるこの寄席に参加できる。大抵の人は働いている時間なので、参加者の顔ぶれを見ると主婦やら定年過ぎた男性が多い。「おばあちゃんの原宿」とげぬき地蔵通りのそばという場所柄もあるか・・・。
 にしても、隣りに座ったおばさん連中の笑いの沸点の低いこと! 箸がころがる年頃は半世紀以上前に過ぎただろうに、マクラの段階の軽いジョブからすでに笑う準備が整っている(笑っている)。幸福と言えば幸福なのだろう。
 が、こうした客ばかり増えると、「自分もずいぶん笑いを取れるようになった」と演者が勘違いして自信過剰になるかもしれない。噺家を育てるためには簡単に笑ってあげないことも大切だな。
 ・・・・なんて、おまえ何様のつもり?
 ハイ、巣鴨のお地蔵様。

とげぬき地蔵通り 009
 

20160511甲府1


日時 2016年5月11日(水)午後1時~
会場 スタジオ・フォー(豊島区巣鴨) 
演者と演目
  1. 柳家花ん謝:「青菜」
  2. 立川談吉:「大工調べ」
  3. 柳亭市弥:「粗忽の釘」
  4. 三遊亭好吉:「甲府い」

 「青菜」はわかりやすくてユーモアがありオチも楽しい。寄席のトップにふさわしい演目だ。花ん謝は自分でも言っていたが相当の汗かき。上がり症なのかもしれない。これからの季節、たいへんだな。

 立川談吉は、談志の最後の弟子。北海道帯広生れの34歳。
 なによりの特徴は威勢の良さと元フィギアスケートの織田信成を日干ししたような庶民的な顔立ち。顔面の変形率が高いのは落語家としては利点であろう。
 宿賃の担保に大家に道具箱を持っていかれた大工の与太郎。棟梁に金を借りて道具箱を返してもらいに行く。が、「お金が足りない」と与太郎を邪険に追い返す大家。今度は棟梁自ら乗り込んでいく。ことをうまくおさめるつもりが、言葉の行き違いから火に油を注ぐ結果に。棟梁と大家は大喧嘩を始める。はたで見ている与太郎は思わぬ成り行きにおろおろするばかり・・・。
 怒り狂った棟梁が大家相手に威勢よく啖呵を切るところが最大の見せ場である。
 ここで談吉は才能の片鱗を見せてくれた。張りとツヤのある声で、長く小難しいセリフを噛むことなく一気呵成にまくしたてる。見事な口ぶりに客席から拍手が起こった。
 全般に、本人の性格の表れなのか、‘押し’の強さを感じさせる噺家である。
 
 今日の市弥は良かった。
 前回は演目(「甲府い」)が難しかったこともあるが、「ちょっとオーラーに翳りが・・・。TV出演の影響?」と案じていたのだが、すっかり持ち直して、出会った頃の君がいた。新調したのだろうか、淡い藤色の柔らかそうな生地を仕立てた着物姿に、以前には感じられなかった優美さと風格とを見止めた。
 マクラによると、体調を崩して病院にかかった。医者に運動を進められ、このところジョギングをしている。回復して、おまけに体重もずいぶん減った・・・そうだ。
 確かに顔が一回り小さくなって輪郭がくっきりしている。着こなしの優美さは痩せたため、体幹を鍛えたためか。
 うん、やっぱイケメンはこうでなくちゃ。
 「粗忽の釘」も楽しい演目である。引っ越したばかりの長屋の壁に誤って八寸釘を打ち込んでしまった粗忽者の大工。口うるさい女房に尻を叩かれ、お隣りに事情を説明に行く。壁を貫通した釘は見事仏壇の阿弥陀様の喉元を貫いて・・・。
 単純なストーリーなのだが、それだけに登場人物のキャラの魅力に成否がかかっている。釘の頭の変わりに自分の指を打ってしまったり、あわてて隣りではなく向かいの長屋に飛び込んでしまったり、事情を説明するつもりが女房との馴れ初めをのろけ始めたり・・・。おっちょこちょいで、威勢がよくて、裏表がなくて、単純で、女房に頭が上がらなくて(だが愛してもいて)、図図しくて、KYで(ちょっと古いか)、結論として‘憎めないキャラ’を、市弥は自らの天然キャラとうまく配合させながら演じていた。‘憎めない’長屋の若衆を演じたら、市弥ははまるな。ちょっと蓮っ葉な感じの色っぽいおかみキャラも自分は好きである。(片手で着物の掛衿をくいっと引っ張る仕草がいとおかし。)
 演目がイチヤに合っていただけでなく、「腕を上げたな」と思った。
 隣家に上がりこんだ主人公が、自分を落ち着かせるために煙草を吸うシーンがある。ここでイチヤは観る者を「ほう~!」と感心させるほどの「ため」をつくる。‘間’を取る。ゆったりとした動作で一服する。むろん、それによって粗忽者の主人公が落ち着きを取り戻したことを示すのであるが、それだけではない。このはっとするほど長い‘間’を取ることで、客席の注意を喚起する。「緩急の付け方を知っている役者は観客を惹きつける」と『ガラスの仮面』で月影先生がヘレン・ケラー役の北島マヤを評してのたまったとおり。
 だが、実際に演じている最中に、長い‘間’を入れるというのは冒険である。観客を飽きさせてしまうのではないか、「次のセリフを忘れたのでは?」と不安にさせてしまうのではないか、せっかくここまで持続してきた緊張の糸を途切れさせてしまうのではないか・・・・・などと思ってしまうからである。それができるには、ある程度の自らの芸への自信と客への信頼と経験がなければならない。舞台で汗ばかりかいていたり、‘押し’てばかりでは、なかなかできない芸当である。つまり、これは‘引き芸’の最たるものなのだ。
 「腕を上げたなあ」と思ったのは、そこが目立ったからである。
 
 しんがりの三遊亭好吉。1986年生れの29歳にしては落ち着いている。見た目40歳近いかと思った。老成しているのは外見だけでなく、芸もまたそうであった。
 『甲府い』は前回イチヤが演じた。ストーリーも登場人物のキャラも地味で、最後まで客を飽きさせずに引っ張るのが難しい演目である。
 さあ、どう捌くか。
 いろいろ工夫を凝らしている。話の合間合間にオリジナルの「くすぐり」を入れて、ちょっと笑いを取る。アドリブで客席とコミュニケーションする。豆腐屋の主人夫婦が娘を善吉の嫁に決めるシーンで、親心を演じてしんみりさせる。全体に緩急を上手につけて、話のだらだら感をなくしている。巧みと言っていいだろう。『甲府い』に関しては、イチヤより好吉に軍配が上がろう。
 マクラで、好吉は「先日3時間連続の独演会をやりました」と言って客席を驚かせていたが、この実力とこの若さならそれも驚くほどのことでもないと思った。将来有望である。

 『甲府い』はある意味、演じ甲斐あるネタである。そのまま普通に演じて笑いを取るのが難しい地味なストーリーだけに、だが内容そのものは(落語を愛する)日本人好みのとても‘いい’話だけに、二ツ目歴も長くなって自信がついてきた噺家達が、「この演目で客をひきつけてみたい」と闘志をそそられるのであろう。わかる気がする。
 思うに、この噺をやるときのポイントは、主人公の善吉ではなく、豆腐屋の主人のキャラ作りにあるのではないか。善吉のキャラは、「真面目で謙虚で信心深くておかみさんや子供にもてる」ということから動かせない。どうにも色のつけようがない。一方、豆腐屋の主人ならば、「日蓮 宗の篤い信者で心が広い」という基本キャラは動かせないものの、そこに個性を付け加えることができる。
 たとえば、往年の桂小金治や日テレの徳光和夫アナや織田信成のような「泣きキャラ」にしてみるのはどうだろう。善吉が財布を摺られたと聞いては同情して「泣き」、ご飯を一升五合たいらげたと聞いては感心して「泣き」、真夜中に祈りながら水をかぶる善吉の心根を知っては感動して「泣き」、娘を嫁にと思っただけで感極まって「泣き」、善吉が身延山に願ほどきに行くと聞いて法華信者の琴線を弾かれて「泣き」、とにかくよく泣くキャラにしてみる。実際に、そのつど涙を流し、ハンカチで洟をすすり、感謝の念を込めて経の一つでも唱えさせてみる。
 どうだろう。面白くないか?
 あるいはまた「オネエの主人」ってのはどうだろう?
 男色家という意味ではなくて、教育評論家の尾木ママみたいなキャラにしてみるとか。
 あるいはまたずっと年齢を引き上げて、小津映画の笠智衆みたいなお爺さんキャラにしてみるのは?
すると、かかあは東山千栄子か、杉村春子か。 
 いろいろ考えてみると面白い。
 
 巣ごもり寄席のはねた後は、地蔵通り商店街にある「ときわ食堂」に寄って腹いっぱい食べるのがいつもの楽しみ。この店は新鮮な魚が焼いても揚げても美味しいのだが、それ以上にご飯とお味噌汁と漬物がいける。メニューも豊富でいつも選ぶのに苦労する。
 さすがに「ゴマ入りがんもどき」はない。
 

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