マークス寿子 10か月の無職状態を経て就職して2か月経つが、いまだに失業中の自由気儘な日々が懐かしく思われる。
 好きな時に起きて、一日中誰にも何にも縛られずに好きなことをして、好きな時に眠る。世間があくせくと働いている時に、人のいない静かな山道を歩いたり、空いているプールでコースを独り占めしたり、暑さ寒さから避難して行きつけの喫茶店で何時間も本を読み、物を書く日々。本当に幸せだった。
 それができたのも、失業保険をもらっていたからである。
 もともとの給料が低かったので、月々もらえる額はたいしたことなかったが、勤続年数と年齢との関係で8か月間+延長1か月間受給できた。
 その間、介護の学校に、これもハローワークの制度を利用して受講料無料、交通費支給で通い、ヘルパー2級を取ることができ、それが今の老人ホームの仕事につながった。
 これらすべて実費でまかなうとしたら、月13万円の生活保護レベルの生活費計算でも150万円はかかるだろう。下手すると就職前に破産していたかもしれない。
 社会福祉というのは誠にありがたいものである。

 もっとも、失業するまでの数年間、自分は雇用保険を払い続けてきたし、失業中もきちんとハローワークに通って求職活動をしていたので、失業保険を受給することに何ら後ろめたい思いはなかった。しっかりと有意義に利用させていただいた。

 10か月という長期にわたって公的扶助を受けていると、それが当たり前になってしまい、「働かないでこの生活が続けられたらラクチンだなあ~」と思うようになる。人は本来怠惰な動物で、ほうっておくと安きに流れる。
 自分の場合、期限付きの失業保険だからイヤでも自活の道に復帰せざるを得なかったからいいようなものの、これが期限の確定されていない生活保護だとか障害年金だったらどうだろう? 公的扶助におんぶして、たとえ働けるような状態になったとしても、なかなか復帰できないかもしれない。社会(職業生活)からの離脱期間が長引けば長引くほど、当人の年齢が高ければ高いほど、復帰へのバリアが険しくなることは想像に難くない。「なんとか今もらっている扶助を引き延ばす方法はないものか」とあれこれ算段してしまう気持ちも正直分からないではない。
 そうやって、いつのまにか自立心(自活心)を失い、公的扶助に依存するいわゆる「福祉ゴロ」になってしまうのであろう。

 
 この本でマークス寿子が、過剰な福祉政策の弊害として、繰り返し警鐘を鳴らしているのも、この点である。

 今でこそ、北欧諸国やオランダに王座は譲ってしまったけれども、世界一の福祉大国の名声を最初に獲得したのは60年代の英国であった。「ゆりかごから墓場まで(from the cradle to the grave)」という有名なスローガンのもと、医療・教育・老人福祉・障害者福祉・失業者対策・受刑者施策・住宅政策など、さまざまな領域で手厚い福祉政策が進められていったのである。

 1960年代の終わりまでに、英国社会の福祉制度の基礎は完成したと考えられるが、それは弱い者も貧しい者も。強者や金持と同様に、いや、むしろそれ以上に、社会の一員として大切である、という考え方に基づいていた。恵まれない人々の生活を守り、権利を尊重するのは、社会のメンバー全員が人間として当然なすべき義務である、という理想主義が熱狂的に受け入れられていた時代であった。

 英国の福祉の凄さを語るうえで、一等最初に来るべきはやはりNHS(国民保健制度)であろう。簡単に言えば、すべての医者は公務員として位置づけられ、医療費はすべて国庫負担(無料)というものである。
 これは今でも存続しているが、普通の日本人の感覚からすれば凄いことである。
 病気になっても医療費について心配せずに治療が受けられるのは大した安心である。と同時に次のことが予測つく。有料なら我慢するか家で養生して治してしまうようなちょっとした体調の変化でも、無料なら簡単に病院にかかるであろうと。
 病院に通って待合室でおしゃべりすることが楽しみとなっている老人の存在はよく冗談のネタになるが、英国でも同様な問題が発生したのである。

 この素晴らしい制度にも大きな問題があった。その第一は、医療制度に必要な費用は増大する一方で、どんどん国庫赤字がふくれていったこと、第二は、医者にとって経済的なインセンティブ(励み)がなかったことである。
 国民保健制度において色濃く表れたような、福祉全般に見られたこの種の問題を「英国病」と言う。

 英国病(The British disease)またはイギリス病とは、1960年代以降のイギリスにおいて、経済が停滞する中、充実した社会保障制度や基幹産業の国有化等の政策によって、国民が高福祉に依存する体質となったり、勤労意欲が低下したり、既得権益にしがみついたりすることによって、さらに経済と社会の停滞を招くという現象を病理的に例えた言葉である。(ウィキペディア「英国病」より)

 この背景があってはじめて、80年代の「鉄の女」マーガッレト・サッチャー及び新保守主義の登場が理解されるのである。


 さて、著者は「英国病患者」に手厳しい。


 働かなくても食べていけて、勉強しなくても就職できる世の中ならば問題はないのだが、そんな世の中は存在しそうもない。
 現在の福祉国家の最大の問題は、福祉政策の普遍化に伴って、このような心理問題が浮かび上がってきたことである。これを依存症(dependency)と呼ぶ。「中毒(addict)」と呼ぶ人さえいる。
 自分では何もできない人、自立しようとしない人のことである。それならば、こういう人は、頂くものを頂くだけで満足しているかというと、決してそうではない。自分の能力にふさわしい仕事をくれない社会が悪い、と開き直ったり、仕事に就いても、ちょっとしたことで不満を持って辞めてしまう。その挙句に、反社会的、反抗的態度をとったり、反政府キャンペーンを起こしたりする。

 英国に顕在した上のような現象は、福祉国家に必ずついて回るものであり、日本でも昨今、生活保護費不正受給のニュースがやたらに喧伝されている。著者が言うように、「福祉国家が人間を成長させ、豊かにさせるものであるためには、もう一度、福祉と人間性の問題を考えるところから始めなければならない」のは事実であろう。

 しかし、いまわが国で本当に憂えなければならないのは、「福祉ゴロ」の増加そのものよりも、真面目に働いて税金を納めている人々を憤慨させて、政府や経済界にとって都合の良い福祉予算の削減を可能にさせてしまうような世論形成を企む「情報操作ゴロ」の存在ではなかろうか。
 なんといっても、わが国の社会福祉状況は、王座を奪われた英国の現状にすらほど遠いのである。それも、単に政治レベルの話ではない。国民の社会福祉に対する意識レベルの話である。

 英国には元来キリスト教を基盤としたチャリティ(慈善)の精神が生き続けている。その延長上に発達したNPOやNGOの活動も盛んであり、自分が共鳴する活動に対して寄付したり自分のできることでボランティア活動をすることが日常生活の一コマになっている。たとえ、国家が福祉政策を後退させても、英国民の中に深く根付いているチャリティ精神を後退させることはできない。むしろ、「助け合い」の精神はいっそう高まるであろう。この点は、本書の中で著者が書いている通りである。
 一方、日本では地域社会が壊れて互助の精神が失われて久しいが、それに代わるべき新たなコミュニティとして期待されているNPOやNGOの活躍は始まったばかりである。どの団体も資金集め、人集めには苦労している。
 そんな状況で、行政が福祉政策を後退させるのは、弱者の切り捨て以外の何物でもなかろう。


 それはまさに「墓場から墓場へ」である。