ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

アガサ・クリスティ

● 仏教的。 映画:『イレブン・ミニッツ』(イエジー・スコリモフスキ監督)

英題 11 Minutes
公開 2015年
脚本 イエジー・スコリモフスキ
上映時間 81分
製作国 ポーランド、アイルランド

 アガサ・クリスティの作品に『ゼロ時間へ』(原題:Towards Zero)というのがある。これは、殺人事件がまず最初に起こって、それから真犯人とトリック解明という解決に向けて時間が(叙述が)流れていく通常の推理小説とは趣向を異にし、様々なエピソードや閉塞した人間関係のもたらす結節点として殺人事件が最後に起こる――というクリスティの着想のユニークさの光る作品である。「ゼロ時間へ」とはすなわち、殺人事件(ZERO)に向かって秒読みされていく時間の流れのことである。名探偵ポワロもミス・マープルも登場しない地味な作品であるが、間違いなくクリスティの傑作のひとつに数えられる。ソルティの大好きな作品である。
 人間性に関心ある読者にとって真に興味深いのは、殺人事件が起こってからの名探偵の活躍ではなくて、事件が起こるまでの複雑な経緯や殺人犯の動機の成り立ちや「そのような悲劇にしか決着し得なかった」因縁を知ることにある。
 この映画を見ていて『ゼロ時間へ』が思い出されたのは、まさにこれが、機械仕掛けの時計のごとく正確に無慈悲に時を刻んでいく複数の物語(=因縁)が、一つの圧倒的な悲劇に結実していくさまを描いているように思えるからである。
 
 ワルシャワを舞台に、17時から17時11分までの11分間に起こる複数の出来事が並列的に描かれていく。
① 役を得るべく大物プロデューサーとの面接に出かける美人女優。その夫は結婚したばかりの妻の動向にやきもきし面接現場であるホテルに駆け付ける。
② 同じホテルの階下では不倫カップルがポルノビデオを観ている。休憩時間が終了すると男は窓から外に出て窓ふき掃除用のゴンドラに乗る。女はホテル前のバス停に向かう。
③ 明日結婚を控えているにもかかわらず、配達先の人妻との情事にふけるバイク便の青年。その父親は何の罪か知らぬがムショから出たばかりで公園でホットドッグの屋台をやっている。親子は約束通りホテル前で落ち合う。
④ その屋台でホットドッグを購入したのは朗らかなシスターたちと犬を連れた若い女性。その女性はいまさっき恋人と喧嘩別れしたばかり。
⑤ 下町の古いアパートメントで命がけの救命活動を行う救命士たち。現場には破水した妊婦と騒ぐ子供ら、いましも息を引き取った老いた男がいる。救急車は患者を乗せてホテル前を通過する。
⑥ 孤独な少年は質屋に強盗に入るが、質屋の主人は首を吊って死んでいた。パニックった少年は何も盗まずに質屋を立ち去り、やって来たバスに乗る。少年を追うように年老いた男も同じバスに乗る。男はついさっきまで川原で風景画を描いていた。
⑦ 少年と年老いた男を乗せたバスは、ホテル前のバス停で不倫中の女とシスターたちを乗せる。
⑧ そして、ゼロ時間がやって来る・・・・・・

 入り組んだように見える筋を見抜くためには一度観るだけでは不十分であろう。ソルティは倍速なしで2回観てしまった。
 入り組んだように見えるのは、脚本のせいでも、演出のせいでも、出来事自体の複雑さのせいでもない。11分の間に同時進行している複数の物語が、代わる代わる小出しに語られていくためである。本当なら、画面(スクリーン)を物語の数だけ分割して、ありのままにリアルタイムで表現され、かつ複眼的に観られるべきなのである。実際、すべては同時進行で起こっているのだから。

 それぞれの因縁によって、特定の「時」×特定の「場」に集められてしまった人々にもたらされる惨劇。天罰のごとき悲劇に見合うだけの罪を犯した者は、登場人物の中にどれだけいるのか。この作品はそんな運命の不可解さを描いている。
 映画のラストは、画面(スクリーン)がまさに細胞分裂のように無限に細かく分割されていく。物語は無数にあり、因縁は無限に生じ、我々は因縁の網の中にがんじがらめに取り込まれている。いかなる「時」のいかなる「場」も、因縁によって規定されている。そんな世のありようを示唆しているように感じた。

 


評価:B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!





 

● 本:『イギリス風殺人事件の愉しみ方』(ルーシー・ワースリー著)

2013年原著刊行。
2015年NTT出版より邦訳発行。

 著者はイギリス在住の学芸員、歴史家。ロンドン塔、ケンジントン宮殿、ハンプトン・コート宮殿など、主要な王宮を監督管理する仕事をする一方、歴史教養番組の監修・出演をこなしている。

 本書は、「いかに英国人が殺人事件を愉しみつつ消費していったか、つまり19世紀初頭から今日まで延々と続く殺人にまつわる現象を追究すること」をテーマとしている。
 英国人と殺人事件は昔から相性がいい。
 歴史に残る凶悪犯罪者の蝋人形を飾ったマダム・タッソー館「恐怖の部屋」は、同じ通りにある名探偵シャーロック・ホームズ(withワトソン)の住居とともに世界中から観光客が訪れる犯罪マニアの‘聖地’となっているし、推理小説の黄金時代がクリスティやチェスタトンやドロシー・セイヤーズなどイギリス作家によって主導されたことにも、それが表れている。
 考えてみれば、お国の偉大な芸術家シェイクスピアの作品も、『マクベス』、『オセロ』、『ハムレット』、『ジュリアス・シーザー』(ブルータス、お前もか)はじめ、殺人事件のオンパレードである。(『源氏物語』に殺人事件って出てきたか?) 
 
 SMチックな国民性ゆえ?
 階級社会の怨念?
 料理がまずいから?
 
 本書で取り上げられるのは、しかし、イギリス人の殺人嗜好癖の理由ではなく、以下のようなテーマ。
  • 「犯罪事件が娯楽へと変貌」したきっかけとなった1811年の「ラトクリフ街道殺人事件」。これはマスメディアがセンセーションを引き起こした最初の事例となった。
  • ロンドン警視庁(スコットランド・ヤード)が誕生した経緯(1829年)。警官の採用条件に身長規定あり(約170センチ以上)。→現在ではないようだ(参照
  • フランス革命後に渡英したシングルマザーのマダム・タッソーが蝋人形館を設立するまでの苦労話。
  • 犯罪者の心理に深い興味を持ち、公開処刑見物にまで出かけたチャールズ・ディケンズ。当時腕利きとして知られたフィールド警部に付き従ってスラムの夜警巡回もしている。
  • 見世物となった最後の絞首刑(1849年)の顛末。主役は「バーモンジー殺人事件」の下手人マリア・マニング。
  • 19世紀で最も悪名を馳せた毒殺者ウィリアム・パーマー医師と毒物学者の攻防。
  • 「最初にして最良の推理小説」とT・S・エリオットに言わしめたウィルキー・コリンズ『月長石』成功の秘話。
  • ついに登場した名探偵たち・・・・シャーロック・ホームズ、エルキュール・ポワロ、ピーター・ウィムジー卿e.t.c
  • 第二次世界大戦勃発と推理小説黄金期の終焉 
  ・・・・・等々。

 イギリス好き、推理小説好きのソルティには、実に興味深く面白い本であった。(自分もイギリス人同様、殺人嗜好癖があるってことか・・・。自爆。)
 
 著者は1920-30年代の推理小説黄金期が終焉した理由について考察し、次のように述べている。

第二次世界大戦中の原子爆弾、アウシュビッツで生じた未曾有の恐怖は、社会秩序、階層に対する信頼そのものを根底から揺り動かした。旧来の価値観、信念はもろとも崩壊し、それにつれて犯罪者に対する考え方も変化していった。1948年の犯罪処罰法では、正義実現のための懲戒的処罰に変わり、犯罪者更正、社会復帰教育・訓練を前提とした処罰が理念として打ち出された結果、1964年、絞首刑がついに廃止された。こうした変遷にともない、従来の推理小説の安定した世界が打ち棄てられ、スパイ、スリラーといった不確実で不安定きわまる世界が招来されたのであった。(本書より)

 確かに、ミステリーの女王アガサ・クリスティの推理小説をいま読むと、その保守性・伝統志向、「ウヨッキー」なところに辟易することがある。彼女はもちろん「勝ち組(それも大変な)」だったので、自らの獲得した社会的立場を正当化し既得権益を守るために、保守的・体制派になるのは別段不思議なところはない。
 だが、そればかりでなく、時代というものがまだまだ平和で、人類や国家や法を信用できる希望を残しており、悪と善とがくっきり分かたれ最終的には正義が勝つという‘お目出度い’価値観が許された、そんな牧歌的で楽天的な精神風土があったのである。
 
 個人的にも、黄金期の推理小説群にもっとも熱い愛情を注ぎ、心ゆくまで堪能できたのは、まだ社会も世間も人間も「右」も「左」もよくは知らない高校時代の頃だった。熱い紅茶とクッキーを傍らに置き、『アクロイド殺し』や『そして誰もいなくなった』やエラリー・クイーンの国名シリーズに強烈なスリルと興奮とを覚えていたあの至福の時間こそ、ミステリーとの蜜月だったのである。



 
 
 

●  映画:『ドリームハウス』(ジム・シェリダン監督)

 2011年アメリカ、カナダ製作。


 小説や映画に接するとき、通常、我々は物語の主役あるいは語り手の視点に同調する。
 主役や語り手の目を通して見られたものを共に見、耳を通して聴かれた言葉を共に聴き、経験する現実を共に(と言っても当然バーチャルではあるが)経験し、語り手や主役の心情を察しながら、共感しながら、共鳴しながら、物語を味わっている。
 たとえ、それがハンニバル・レクターのような猟奇殺人者であってその行動には到底共感できないとしても、物語に浸っている間は、読者はハンニバルの体験している現実を自分のものとし、彼の思考や心情にのっとって、彼の見方にしたがって物語の中の現実を見ている。いわば、主役や語り手の心の中を旅している。
 物語に接する際の前提として、我々は主役や語り手の経験する現実を信用できるものとしてとらえる。「詐欺師の告白」といった物語であってさえ、よもやこの詐欺師が「嘘を語る=読者までだます」はずがないと、何の確証ないのに信じて疑わない。
 その理由は、我々のだまされやすさ、人の好さにあるのではなくて、「物語」そのものが持っている機構だからである。つまり、あえて作者が読み手(観る者)にあらかじめ保証するまでもない「お約束」なのだ。このお約束があればこそ、我々は安心して物語の中に入っていくことができるのである。

 この機構に最初にひびを入れたのはアガサ・クリスティなのではなかろうか。
 寡聞にしてよく知らないのだが、クリスティの入れたひびが文学史上もっとも大きく、もっとも巧みで、もっともよく知られているのは間違いあるまい。
 もちろん、『アクロイド殺し』のことを言っている。
 実はあれと同じような「語りのトリック」を子供の頃モーリス・ルブランの作品中に読んで驚いたことがある。タイトルは忘れたが、語り手は豪華旅客船の中で起きた盗難事件騒ぎについてあたかも第三者の如く述べていくのだが、結局、語り手=真犯人=ルパンであったことが最後の最後に明かされる。びっくりしたものである。
 ポワロよりルパンのほうが古い。
 ただ、クリスティのほうがもっと狡猾に、もっと大胆に、もっと意識的に、このトリックを使っているので、桂冠はやはりクリスティに捧げるべきであろう。
 以来、ミステリーにおいてこの類のトリックは枚挙にいとまないほど連発することとなった。

 さて、映画ではどうだろう。
 やはり寡聞にしてよく知らないのだが、思いつくもっとも古いのは『未来世紀ブラジル』(テリー・ギリアム、1985年)である。全編ではなくて途中からの部分的ではあるが、主人公の経験する現実は実は妄想だった・・・・というトリックが仕掛けられていた。
 見事なのは、そのトリックが、『アクロイド殺し』はじめ大抵の推理小説においてはトリックのためのトリックにしかならない(読者を「ぎゃふん」と言わせるのが最大の目的である)のにくらべ、『ブラジル』ではトリックが明かされた瞬間、観る者は非常に切ない、非常に哀しい、非常にやり切れない感情を抱くことになる。なぜなら、主人公の現実が実は妄想だったという事実そのものが、作品そのものが持つテーマ(=権力に思考まで支配される管理社会)の恰好のサンプルとして提示されるからである。トリックが物語のテーマと有機的な結合を果たしているのだ。
 次に思い出すのは、ミッキー・ローク主演の『エンゼルハート』(アラン・パーカー監督、1987年)である。主人公は連続殺人事件を捜査する刑事であるが、真犯人はほかならぬ自身であった・・・という話である。観る者をだましていると言えないのは、主役の刑事自身が無意識のうちに殺人を重ねているので、自分が犯人だということに最後まで気づかないからである。
 映画における「語りのトリック」は、その後SF作家フィリップ・K・ディックの小説が次々と映画化されるに及んで一気に花開いた。
 いわゆるディック感覚である。
 『シックスセンス』(1999)や『アザーズ』(2001)あたりがディック感覚氾濫へのきっかけになったのではないかと思うのだが、今となっては犯罪サスペンスやサイコスリラーやオカルト映画を観るとき、頭の中でディック感覚ふうトリックを想定せずに観ることがないと言ってよい。そのくらいこの手のトリックが3番煎じ、4番煎じになった。

 『ドリームハウス』もまたそうなのである。
 観ている途中で、トリックに気づいてしまった。
 「あ~あ、またか」という感じで、そこにもはや意外性に対する驚きも、だまされた悔しさも、ましてや快感もないのであるが、よくできてはいる。
 そして、「語りのトリック」が観る者に明かされたあとに、もう一つトリックが用意されている。 
 ひねったな。
 ディック感覚がもはやマンネリであることにアメリカ映画界も分かっているのだろう。

評価:C+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!



  

記事検索
最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ別アーカイブ
最新コメント
ソルティはかたへのメッセージ

ブログ管理者に非公開のメッセージが届きます。ブログへの掲載はいたしません。★★★

名前
メール
本文