ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

アビダンマ

● 本:『ブッダの実践心理学第三巻 心所の分析』(アルボムッレ・スマナサーラ、藤本晃共著) 

治りませんようにほか 003 2007年刊行。

 テーラワーダ(上座部)仏教では二種類の瞑想が奨励されている。
 慈悲(喜捨)の瞑想とヴィッパサナー瞑想である。

 慈悲の瞑想は、以下の4つのフレーズを心をこめて唱えるだけでいい。

 私が幸せでありますように(慈)
 私の悩み苦しみがなくなりますように(悲)
 私の願いごとが叶えられますように(喜)
 私に悟りの光が現れますように(捨)

 二巡目からは、上の「私」のところに、「私の親しい人々」「私の嫌いな人々」「私を嫌っている人々」「生きとし生けるもの」を入れて、それぞれの対象について慈悲喜捨を願っていく。
 簡単な瞑想であり、いつでもどこでも行うことができる。自分は、毎朝の読経の際に1セット唱えているが、それ以外のときも気が向いたら心の中で唱えるようにしている。駅の階段を昇るとき、ホームで列車を待っているとき、列車に揺られているとき、職場(老人ホーム)の更衣室で着替えているとき、休憩時間、帰り道の横断歩道の信号待ち、買い物途中のエレベーターで、皿洗い中、お風呂の中、トイレの便器に腰掛けて・・・。
 簡単な瞑想だが、不思議と唱えると自信が生まれてくる。いろいろな事象や人間関係が好転してくる。鏡に映る顔つきも、老けてきたのは仕方ないけれど、何だか吉相になってきたような気がする。

 ヴィッパサナー瞑想は、別名「気づき(念)の瞑想」とか「観瞑想」と呼ばれる。
 基本は座禅を組み、目を閉じて、身体や心に起こる現象をありのままに気づき、その場その場で「実況中継」していく。
 「(腹の)ふくらみ、ちぢみ、ふくらみ、ちぢみ・・・」
 「(足の)痛み、痛み、痛み、痛み・・・・」
 「(何かの)音、音、音、音・・・・」
 「退屈している、退屈している・・・・」
 「妄想している、妄想している・・・・」
 「怒っている、怒っている・・・・」
 「眠気、眠気、眠気・・・・」
 人間の認識の生じる六つの窓口(眼耳鼻舌身意)に注意を向けて、瞬間瞬間入ってくる六つの情報(色声香味触法)を丁寧に拾っていく作業と言える。
 これもまた一見簡単そうに見えるのだが、実は難しい。
 まず座禅し続ける難しさ。慣れないうちは15分も座っていると足が痛んでくる。
 どうにか慣れてくると、次は心があちこちに彷徨い出して、念が途切れる。「実況中継」を忘れて、今日の夕食のことや明日の仕事のことや助平なことを考えている。あるいは知らぬ間にぼっーとまどろんでいる。
 この瞑想を始めて4年以上になる今は、1時間以上足の痛みを感じずに座ることができるようになった。妄想にとらわれることも少なくなった。たとえとらわれても比較的短時間で気づいて「実況中継」に戻ることができるようになった。
 しかし、次の困難が待っていた。
 それは、暇な時間にあえてヴィパッサナー瞑想をしようという気力がなかなか起きないことである。
 忙しくて時間がないときほど瞑想がしたくなる。座りたくなる。休日が待ち遠しい。
 で、休日になって自由に使える時間ができると、瞑想しないでネットにかまけたり本を読んだり家事をしたり山登りに行ったり、こうしてブログを書いたりする。「時間はいっぱいあるから今でなくてもいい」なんて言い訳を頭の中でしているうちに、一日が終わってしまう。
 何が起こっているのか。
 なんでさぼりたいのか。
 答えはこれだ。 

生命の本能は、貪瞋痴です。本能に合わせて生きることは、楽に感じるのです。ですから人は、楽な道を選ぶのです。その楽な道は、貪瞋痴の本能なので、不善です。不幸の結果を出します。苦しむこと、不幸になることが目に見えても、人が不善の道を歩むのは貪瞋痴という本能のせいです。(標題書)

 瞑想は、本来はまったくやりたくないことなのです。心の流れにまったく正反対のことですから。「心がやりたくないこと、心が嫌がること」の第一位は、確実に「瞑想すること」です。競争なし、断トツの一位です。だから瞑想するためには、どうしても、精進が必要なのです。(同上)

 瞑想は本能とのたたかいなのだ。
 そりゃあ難しくてあたりまえだ。


 スマナサーラ長老によるアビダンマ講義第三弾は「心所」について。
 「心所」とは何か。
 心の中身(成分)のことである。

 仏教心理学の基本概念は、「認識」です。認識はどのように生まれるのか、認識の中身は何なのか、認識はどれくらいあるのか、という課題が仏教心理学です。

 仏教では、心とは「認識する働き(システム)」のことである。一つの生命に必ず一つ備わっている機能である。機能なので、そこに内容はない。
 しかし、言うまでもなく、心はいろいろと変化する。怒ったり、悲しくなったり、楽しくなったり、嬉しくなったり、嫉妬したり、恨んだり、後悔したり、退屈したり、落ち込んだり、有頂天になったり、疑ったり、物惜しみしたり、優しくなったり・・・。
 こうした感情や気分のことを心所と言い、心がいろいろ変化するのは、瞬間瞬間、さまざまな心所が心の中に溶けているから、とするのである。
 たとえてみれば、テレビ(受像機)=心、テレビ番組=心所といった感じか。テレビ自体は電波を受信し映像を映す働きを持った箱にすぎないが、モニターに流れる番組の内容によって、視聴者を悲しくさせたり、笑い転げさせたり、怒らせたり、退屈させたり・・・という違い(色)が生まれる。
 仏教ではこの番組内容(=心所)を52種類に弁別している。
 単純に言えば、人間の心に起こる感情の種類を分析し、善いもの、善くないもの、どちらでもないものに分類し、リストアップしたのである。

 このように感情を緻密に分析し言語化しグループ毎に取りまとめてリスト化していく意味はなんだろう?  

 心は水の如く、善いも悪いも何もない。その心に怒りが溶けたら、怒っている心になる。その心に慈しみの感情が溶けたら、優しい心になる。だから一人の人が、たまに怒りっぽくなったり、たまに嫉妬深くなったり、たまに慈しみの心になったりする。どれでもできるのです。
 我々にとって、心よりも心所が一番大事なことなのです。ただ生きている・認識しているということは、そんなに大事ではありません。どう生きているかということ、どう生きるべきなのかということが、大事なポイントです。

 そしてまた、ヴィッパサナー瞑想する観点からすると、意識に浮かんできた思考や雑念や感情や気分にとらわれないように、たちまち気づいて、命名して、「実況中継」するために、心所の種類をあらかじめ知っておくことは意義があるのだろう。


 以下、本書より引用&コメント(青字)。


● 無知とは

 厳密に仏教の立場から言うなら、無知とは、「すべてが無常であること、消滅変化していくこと、瞬間瞬間、そのときに現れる一時的な現象であること、だからものは存在しないこと、空であることを分かっていない状態」なのです。

 何ものにも「本来の自分」というものもない。私たちはよく「今はちょっと歳を取っていて調子が悪いんだ」などと言いますが、それは何かに比べて言っているのです。では、「本来の自分」とはどんな調子か、どんな歳か、どんな状態か、言えますか? そんな「本来の自分」というものはないのです。いつでもいるのは「その時々の自分」であって、一瞬前の自分は今の自分ではないし、今いる自分は次の瞬間の自分とは違うだろうし、その時々にいるだけなのです。

 「本当の自分」幻想はしつこいものである。「今はいろいろあって輝けて(はじけて)いないけれど、本当の自分はこんなじゃないんだ。」「今は巣篭もり中で、まだ本気を出していないだけ。」と思いながら数十年を過ごしてしまう。だが、その数十年の姿(=周囲から見られた姿)以外に「本当の自分」はなかろう。


● 反省と後悔の違い

 反省と後悔の違いは、反省がポジティブ志向で、後悔はネガティブ志向であることです。反省する人は、過ちをバネにして良い人間になる。後悔する人は、過ちを頭の中で再現して罪を加算してゆくのです。

● 最大の罪とは 
 仏教では、最大の罪は邪見だと説きます。邪見は見解、知識、思想、哲学などにかかわるものです。百人を殺すよりは、百人に何かを教えてあげることの方が簡単です。影響力のある人なら、たくさんの人々の心に邪見を植えつけることができるのです。人間は、財産よりも自分の見解に固執するのです。この邪見の伝統は、何世紀にもわたってでも拡げることが可能です。というわけで、邪見が他の罪より重いのです。

● 自業自得について  
 すべての生命は自分の業で生きているのです。自業は自得なのです。要するに自分の行為の結果なのです。犯罪者が裁かれて社会から隔離される。それは犯罪を起こした人の行為の結果なのです。幸福に生きている人々も、自分の為した業で幸福になっているのです。ということは、生命は「自立」しているということです。苦しんでいる人々の苦しみは、その人の為した業の結果なのです。人が人を殺したとしましょう。被害者は加害者のせいで死んだわけではありません。被害者に殺される業があったところで、心の汚れた愚か者に遭遇するのです。加害者が新たな重罪を蓄積したのです。被害者が加害者に対して恨みを持つ必要はないのです。

 これは微妙な問題である。犯罪被害者に向かって、「被害にあったのは加害者のせいではない。あなたの業(カルマ)ゆえだ」と言うのは慈悲にかける行為であろう。
 また、「自業自得」という言葉は一般に起きた悪い結果について使われることが多いが、本来は善いも悪いもない。「原因があって結果が生じた」というだけのニュートラルな意味合いである。


●自我について

 「自我を捨てなさい。執着を捨てなさい」と言われると、人は嫌な気分になる。「こんな大事なもの、捨てなさいと言われても捨てられるわけがない」と思います。ブッダの話を聴くと、大損するのではないかと思ってしまいます。
 しかし、自我を捨てても執着を捨てても何の損もありません。始めから自我がないのです。あるのは「自我があるという幻想」です。幻覚が消えたところで、良くなるのであって、悪くなるはずがないのです。

 かつてクリシュナムルティにこう質問した人がいる。
「自我を捨てることで、私に何の益(goods)があるのですか?」
「それ自体が良いこと(good)なのです」


● 二つの瞑想の違い

 慈悲喜捨の瞑想は、「どうすればみんなと仲良く幸福で生きていられますか」という問題に答えてくれる。ヴィッパサナー瞑想は、「生きること自体をどうやって乗り越えられるか」という問題に答えを出す。だからまったく正反対なのです。生命と一緒にどうやって生きていられるか、ということと、どうやって生命と関係なくなるか、どうやって輪廻から脱出するかという二つだからです。


 評論家の宮崎哲弥が「仏教の劇薬性」という言葉を使っているが、本来の仏教の革新性というか破壊性は途方もないものである。
 悟ったばかりのブッダはこう考えた。

 苦労して体験した。今語る気持ちは起きない。
 欲と怒りに染まっている人々に、この法は理解しがたい。
 これは逆流を進む完全たる道。深遠で精密である真理は、無明の闇に覆われた、欲がある人には発見できない。


 仏教は思想や理論や言葉が難しいのではない。
 人間の本能に逆行するがゆえに、実践が難しいのである。


 サードゥ サードゥ サードゥ


● 認識と存在のあいだ、または2300円の真理 本:『ブッダの実践心理学 第二巻 心の分析』(アルボムッレ・スマナサーラ/藤本晃共著)

ブッダの実践心理学 最近、自分の読書傾向が限定されている。
 一つは仕事に関するもので、介護や老いや死をテーマにしたもの。面白くはあるが、いわば必要にかられて読んでいる本たち。
 もう一つは仏教に関するものである。

 もともと自分の読書範囲は広くない。社会問題系の新書、ミステリー、スピリチュアル本、ごくたまに小説くらい。それらが今やすっかりお見限りである。例外は、故ナンシー関のエッセイと漫画くらいか。
 特に、あれほど手当たり次第に渉猟したスピリチュアル本に関心がなくなった。江原啓之、山川紘矢・亜希子夫妻、シャーリー・マクレーン、『聖なる予言』、『神との対話』、プレアデス、ラザリス、ラムサ、シルバーバーチ、ロバート・モンロー、ラマナ・マハリシ、サイババ、グルジェフ、エックハルト・トール、和尚(ラジニーシ)、様々な冥想の本・・・・。クリシュナムルティでさえ、もはや進んで手に取ろうとは思わない。それらの本が並ぶ書店のコーナーに行っても、立ち読み以上のことはしない。

 スピリチュアルショッピングに終息をつけたのは、テーラワーダ仏教およびヴィパッサナー瞑想との出会いである。
 仏教の本質に触れて、「これ以上の思想はない」と思った。
 否、思想という言葉は正しくない。
 哲学? それも違う。
 やっぱり、“真理”という言葉がふさわしい。
「これ以上の真理はきっとないな」と思ったので、他をあたる必要を感じなくなったのである。仏教は「信仰でなくて確信」とスマナサーラ長老が言うとおりである。


 この確信の中味は何かというと、自分の場合、瞑想によって「認識」と「存在」との関係を悟ったことにある。「自分」と「世界」と言い換えてもよい。
 それまで自分はこう思っていた。
「周囲にまず確固たる‘世界(存在)’があって、それを‘自分’が認識している。すなわち、自分(人間)は世界のオブザーバー(観察者)である。」
 しかし、瞑想で気づいた事実はそうではなかった。

「‘認識’が、‘有’から‘世界(存在)’を切り出している。」
「目の前にある‘世界’は、‘自分(人間)’にとってのみ、このような色彩と形状と運動とをもって現れている。」


 この事実に気づいたときに、十代の頃からずっと抱えていた疑問が氷解した。
 それは次のような疑問だった。

「誰もいない夜のジャングルはどんな姿をしているのだろう?」

 たいてい次のような答えが返ってこよう。
「そんなのカメラを設置して撮影しておけば分かるじゃん」
 しかし、それは(自分にとって)正解ではなかった。
 なぜなら、カメラで撮影された映像をあとから見る瞬間、それは人間の目によって見られている(変換されている)からである。あくまでも、人間によって見られたジャングルの姿でしかない。自分が知りたいのは「人間が見ていないときのジャングルはどんな姿なのだろう?」というものであった。
 当然ながら、正解は「決して、人はその姿を知ることができない」である。
 この疑問(ジャングル・クエスチョン)が浮かび上がるたび、常にこの結論に達していながらも、その問いの奥に隠れている驚くべき事実に自分は思い至らなかった。頭の配線がつながっていなかった。

 もう一つの問い(ジュラシック・クエスチョン)。

「人類が登場する前の地上の風景を描きなさい」

 紙と鉛筆を渡された大方の人は次のような絵を描くだろう。
 ソテツのような樹木の間をティラノサウルス以下数匹の恐竜が闊歩している。草陰には哺乳類が身を潜めている。空にはプテラノドンが飛び交い、背景では火山が火を噴いている。
 子供の頃に見た科学系の絵本や『ジュラシック・パーク』をはじめとする恐竜映画の映像記憶がこうした景色を作り上げる。

ジュラ紀の世界


 そこで、次の問い。

「この風景を見ているのは誰ですか?」

答1 「原始人です」
 ・・・・「ブー。人類が登場する前、と言いましたね」

答2 「草陰のハリモグラ(哺乳類)です」
 ・・・・「なるほど。だけど、ハリモグラはこのように世界を見ているでしょうか?」

 ハリモグラの視覚も聴覚も決して人間のそれと同じではない。人間が見るようには、世界を見ていない。(たとえば、犬は色彩を峻別できないと言われる)
 恐竜が見る風景、鳥類が見る風景、ハリモグラが見る風景・・・みんな違うのである。あとから出現した人類が見る風景が唯一「正解(真実)」であるというのは人間中心主義という誤りである。
 と言うより、上に掲げた絵(ネットから適当に拾ったものだが)のような光景なぞ、この地上にかつて存在した試しなど決してないのである。なぜなら、そのように認識できる生命(=人間)がそこにはいなかったからである。 
 逆に、人類が絶滅したあとの世界を想像するのも同様のことが言える。そこには、人間より精緻な認識システムを持った生命体が出現しているかもしれない。彼らが見る「世界」は、人間の想像する「世界」とはまったく様相が異なるであろう。


正解 「我々人類は決してその風景を知ることができない」

 あるいは、こうも言える。   
「誰が見ているか(主体)をあらかじめ設定することによってのみ、はじめて風景(客体)を描くことが可能となる」 (「可能となる」であって「できる」ではない。人間が他の生命がどう世界を認識しているかを知ることはできないから) 

 そのあたりの事情を、本書ではこう述べている。 

それぞれの身体が、環境を知るために情報を感じられる感受性を持っているのです。人間で言えば、眼耳鼻舌身という五つの場所が身体にある。それらのチャンネルを通して、色声香味触という情報(環境)を知るのです。
 知る能力は、すべての生命に同じではありません。チャンネルが五つも付いていない生命もいます。例えばミミズは目も耳もありません。一方、ワシの目の力、犬の鼻の力、コウモリの耳の力などは、人間よりはるかに鋭いのです。
 生命は知った情報を「意」というチャンネルで認識・概念にするのです。認識・概念は生命すべてに共通するものではなく、それぞれの生命に個別な主観なのです。(標題書より引用)


 人間の認識している「世界」が唯一絶対的なものとして客観的に存在しているのでは、ない。
 おそらく、唯一絶対的な世界は存在しない。それぞれの生命(人間、動物、魚類、鳥類、昆虫、植物、菌類、微生物、宇宙人、幽霊e.t.c.)に一対一対応で固有の「世界」が現れている。(厳密に言えば、同じ種の中でも個体間で異なった「世界」に生きている)
 自分の推測ではこうだ。
 何か「世界(存在)」を生み出すもとになる要素は「有る」のだろう。それは、電磁波のようなものかもしれない。暗黒物質なのかもしれない。ありとあらゆるところに満ちているその「有」から、あたかも複数の彫刻家が同じ石膏からそれぞれの裸婦像を彫り出すように、それぞれの「生命=認識」が「世界=存在」を切り出している。
 「世界」は生命の数だけある相対的なものである。どれか一つが「真実の」世界というのではない。
 端的に言えば、「認識」=「存在」なのだ。

 このことを悟ると自動的に次の結論に達する。


 科学がやっていることはすべて、つまるところ人間の認識能力を量的に拡大しているにすぎない。望遠鏡の機能が高まれば、より遠くの星雲が発見できる。顕微鏡の精度が高まれば、より小さい粒子を発見できる。だが、それは結局人間の認識システムそのものを超えることは絶対にない。人間である以上、質的変換はあり得ない。どこまで行っても、「この目で見る」「この耳で聞く」「この鼻で嗅ぐ」「この舌で味わう」「この身体で感じる」以上のことはできない。人間が「世界」を知るための窓口は基本的にそれしかないからである。

∴このやり方では真理を知ることはできない。
 
 ここまで来れば、量子物理学の第一定理とも言うべき不確定性原理はごくごく当然の話だと納得できる。

● 観測または測定されるまでは、量子は特定の性質を持たず、同時に複数の状態で存在する。これらの状態は、「実際の」ものではなく、「潜在的な」ものであり、観測や測定を受けたときに量子がとりうる状態である(これは、観測者または測定器が、可能性の海から量子を釣り上げるようなものである。一つの量子が海から釣り上げられると、それは仮想的な存在ではなくなり、現実の存在となる。)
● ある量子が一組のパラメータからなる実際の状態をとっているときでも、私たちはこれらのパラメータのすべてを同時に観測したり測定したりすることはできない。あるパラメータ(たとえば位置やエネルギー)を測定すると、他のパラメータ(速度や観測時間など)はあいまいになる。
 (『叡智の海・宇宙』(アーヴィン・ラズロ著、日本教文社)

 これは、「認識システムそのものが物質の存在のあり方に関わっている」ことの科学的証明である。
 現代科学が到達した結論を、ブッダは2000年以上も前に披瀝しているのである。西洋科学も哲学も、お釈迦様の手のひらの上の孫悟空に過ぎなかったのだ。


 なぜ、西洋がそんな誤謬を犯してきたかと言うと、「私」という主体があり、それに対して「環境」という客体がある、という二元論を前提として進歩(退歩?)してきたからである。この「環境」という言葉を「世界」「神」「自然」「宇宙」「物質」と変えてもよい。
 「私」がある、がそもそもの元凶だ。 

人間はどのように考えているのでしょうか。人間はだいたい「私がいる」という前提で考えています。しかし、「私がいる」という概念を証明しようとしない。前提ですから、証明する必要もないと思うでしょう。しかし、この前提がもし間違っているならば、人類が築き上げてきたすべての哲学・宗教などは的はずれになってしまうでしょう。根拠のないものになってしまうでしょう。
「ブッダが革命を起こした」と言う由縁がここにあります。ブッダは「私がいる」という前提に、挑戦したのです。なぜ自我意識が生まれるのか、そのからくりは何なのか、本当に実体として変わらない自我というものはあるのかを観察してみたのです。そこで発見した事実が仏教なのです。(標題書より引用)


 第二巻心の分析では、「心とは何か」を定義し、解脱に向かって心の成長していく段階を瞑想との絡みでつぶさに説明している。
 2300円は文庫としては破格の高値であろう。
 しかし、真理の値段と考えれば、破格の投げ売りである。


 
 サードゥ サードゥ サードゥ




● 本:『ブッダの実践心理学 第一巻 物質の分析』(アルボムッレ・スマナサーラ、藤本晃共著、サンガ文庫)

アビダンマ 001 孫悟空(『西遊記』)に出てくる三蔵法師と言えば夏目雅子を思い出す。
 三蔵法師とは名前ではない。モデルとなったのは玄奘(げんじょう)という名の中国(唐時代)の実在の坊さんである。三蔵法師とは「仏教の三蔵に精通した僧侶」を意味する尊称である。

 三蔵とは何か。
 三蔵は仏教の聖典である三つを言う。


経蔵 (sutra) ・・・・・ 釈迦の説いたとされる教えをまとめたもの。いわゆる「お経」。
律蔵 (vinaya) ・・・・ 出家集団(サンガ)の規則・道徳・生活様相などをまとめたもの。いわゆる「戒」。
論蔵 (abhidharma)・・・・ 上記の注釈、解釈などを集めたもの 。いわば「仏教哲学」。

 上の二つはわかりやすい。読みやすい。
 多くの「経」は、ブッダが庶民に向かって相手のレベルに合わせてやさしく説いたものだから当然である。ブッダはまた、こむずかしい抽象的な議論を好まなかった。「戒」は集団の日常生活を規定するものだから、わかりにくかったら困る。
 「論蔵」はなんだか難しいのである。
 それもそのはず。論蔵はブッダが説いたものではなく、その死後に頭のいい僧侶達によって記述され、まとめられていったものだからである。
 論蔵とはアビダルマ。アビとは「最勝の」と言う意味の接頭辞、ダルマは「ブッダの教え」であるから「ブッダの最勝の教え」という意味である。

お釈迦様は、悟りを開いてから亡くなるまでの四十五年間、いろいろなところでいろいろな相手にいろいろなふうに話しましたが、四十五年間さまざまに説き続けた教えを全部まとめて、その内容は結局どんなものであったか、と学問的にエッセンスだけを取り出してみると、簡単に、明確になります。そのエッセンスを、お釈迦様の教えの基本的論理という意味で、アビダンマと言うのです。


 この本(シリーズ)は、日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老が、会員たちを前にアビダルマの講義をしたものをまとめたものである。
 本があるのは知っていたが、なかなか手をつけようとは思わなかった。ざっとページをめくるだけでも仏教用語がたくさん並んで難しそうであったし、ハードカバーの一冊一冊が厚くて、それが7巻まである。値段も高い。
 何より、知識よりも智慧の方が大切である。座学よりも坐禅である。そうでなくとも「頭でっかち」になりやすい自分なので、興味はあったけれど近づかないようにしていた。

 スマナ長老の教えを受けてヴィパッサナー瞑想と慈悲の瞑想をはじめて丸4年。
 毎日熱心にやっていた時期もあれば、だらけていた時期もある。五戒をちゃんと守っていた期間もあれば、自分を甘やかした期間もある。(今は甘やかしている期間だ。特に仕事後、山登り後の酒が止められない)。転職したり体調が変化したりストレスがあったりで、同じレベルの熱心さで瞑想を続けるのは難しい。
 とは言え、4年間続いたのはそれなりに成果を感じているからである。
 体調が良くなった(特に腰痛と痔)。以前より気持ちが安定し、ささいなことで悩まなくなった。怒らなくなった。よく眠れる。頭も冴える。他人の悪口を言ったり聞いたりするのが自然とイヤになり、「ありがとう」という言葉が自然と口をついて出るようになった。人間関係も家族関係もまず良好である。コンビニの店員など見知らぬ人から親切にされることが多くなった(気がする)。年を取ったせいもあろうが、「我ながら落ち着いたなあ~」と思う。若い頃は、晴れた休日など外に(街に)出かけないでいると罪悪感を覚えるほどの落ち着かなさ(ムラムラ感)に衝かれていたが、今はなるべく賑やかなところは遠慮したい。
 一等の成果は智慧につながったことである。
 これは瞑想をはじめて一年経った頃から感じられるようになった。
「ぬあ~んだ。結局この世にはナーマ(認識、心)とルーパ(対象、物)しかないんだ」とか「認識があるから対象が存在し得るんだ」とか、いろいろ見えてきた。
 こういう智慧は本で読むだけでは、頭で理解するだけではダメなのである。身をもって知るには瞑想するしかない。身をもって知ってこそ心は変容するのである。

 智慧が出てくると、今度はその智慧がどのように仏教では説明されているか、どのような言葉でブッダや過去の阿羅漢たちが語っているのかが知りたくなる。或いは、自分はこう悟ったけれど、それが正しいのかどうか確認したくなる。

 どこかに書かれていないのか?
 
 そう思っていたところ文庫版が出た。
 で、やっとアビダンマに手をつけてみようと思ったのである。

 まあ、書いてある、書いてある。
 瞑想をしていて自分が発見したことが、当たり前のように其処かしこに散りばめられている。以前は難しいと思っていた記述が水が砂に染みこむようにすらすらと入って来る。以前ならきっと特に引っかかることなく読み流していたであろう部分で、奥深い意味に気づいてハッと息が詰まる。「そうだったのか~」と唸ることしきり。


 アビダルマってこんなに面白かったのか!
 
 むろん、秘密はスマナ長老の説法にある。長老自身が序文の中で、共著者の藤本晃に感謝してこう言っている。

 「アビダルマ説法」はそれほど難しくはありません。強いて言えば喉が渇くくらいです。人が気楽にやりたい放題、話を脱線させながらおこなった講義を、整理整頓されたまともな本にすることは気が遠くなるほど難しい作業だと思います。

 「やりたい放題、話を脱線させながら」の部分が滅法(笑)面白いのである。スマナ長老の他の本や普段の講演でも時にドキッとするほどストレートな発言に触れる瞬間がある。そのたびに「そこまで言い切ってしまうのか」「初期仏教ってこんなにも過激なのか」と驚く。それ以外の部分は、直截的表現を厭う日本人に合わせてか、在家信者や一般読者を対象としているせいか、オブラートに包んだように曖昧で穏やかな物言いになっている。
 この本でのスマナ長老は、おそらく少人数の気のおけない会員を相手にした講義であったせいだと思うが、自由闊達、融通無碍に仏法を語っている。そこが一番の魅力である。
 とりわけ、本題に入る前の長い長い序章「アビダンマ早分かり」は、仏教の真髄が凝縮された驚くべき部分であると思う。まったく1ページ、1行たりとも疎かには読めない。ポイントにマーカーを引こうと思ったら、全ページ真っ黄黄になってしまいかねない。


以下、引用。


● アビダンマの目的

 ものごとの真理をとことん納得したら、自分がやりたい快楽を追いかける道が、馬鹿馬鹿しく見えるのです。欲望、快楽、知識、名誉、財産、ありとあらゆるこの世のものを目指していく道が、馬鹿馬鹿しく見えるのです。嫌になるのです。本能的に嫌になりますから、それからは自分の意思で、正しい道を歩んでみよう、励んでみようという気持ちが生まれます。
 アビダンマの目的は、修行する気持ちを起こさせること、そして、修行の過程において自分の心をどう理解してどう進むのかと、その道筋を示すことです。 


● 我々が生きている世界は3つだけ

 認識機能(心)があって、認識機能と同時に生まれるありとあらゆる感情(心所)があって、それから、認識機能がそこで機能する物質的な世界(色)があります。

 我々が生きているすべての世界はその三つだけです。世界にはそれ以外何もないのです。


●初期仏教は煎じ詰めれば「認識論」

 人間の問題は認識することから生まれるのですから、認識の範囲の中だけで、心と物質のはたらきを徹底的に分析するのが、初期仏教の立場です。
 
 我々が分かっているのは、眼、耳、鼻、舌、身に触れる色、声、香、味、触という五つのエネルギーだけです。我々が知っている「客観的な世界・宇宙」はその五つだけなのです。その五種類以外の物があるかないかさえ、私たちは知りません。

 生命のはたらきといえば、認識することだけなのです。他のことには何の関係もありません。


●悟り(涅槃)とは

 認識の仕組みが、苦しみ、無常であると分かったら、心が何か変わるはずです。その変わる瞬間に、現象でない状態、現象の超越という状態を、その瞬間だけ体験する。この瞬間が涅槃です。


●我々は変化するものしか認識できない(=諸行無常) 

我々が認識するものは、変化だけです。もし何も変化しないなら、何も認識しなくなります。同じ状態が繰り返し続くだけでも、認識できなくなります。例えば同じ音をずーっと聞いていると聞こえなくなります。同じ味をずーっと味わっていると、その味さえ分からなくなります。変化しないと認識できないのです。


●性格について 

性格を構成しているものは、ほとんどカルマです。・・・ですから人に「あなたの性格を変えてください」と言っても、そんなことはできることではありません。

●「無」について 
仏教で言う無は、物質が物質でいられなくなって、宇宙が消えて、エネルギーがいっぱい溜まっている状態ですから、何もないという意味の無ではない。


●人として生を受けたこと 

悪業や罪を犯せば、人間には生まれることはできません。人間に生まれたということは、前世で間違いなく善いカルマを作ったということなのです。


●自由意思について

人間には、善いことをすることも悪いことをすることも可能です。それは自由だからではなく、悪いことをしようとする原因を抑えると、善いことができるようになり、善いことをしようとする心を育てずにいると、悪いことをするようになるのです。因果法則でそれぞれ違った結果になります。


 繰り返し熟読玩味したい本である。
 文庫版第二巻の発売を修行しながら待つことにしよう。


 それにしても、玄奘が命を賭してガンダーラに求めた三蔵を、日本にいながらこんなに手軽に学習できるとは、我々は何と良いカルマを持っていることか!



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