ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

アルボムッレ・スマナサーラ

● シングルベル 初期仏教講演会:『過去からの解放~なぜ「今」をしっかり歩けないのか?~』(演者:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

日時 2017年12月23日(土)13:30~
会場 なかのZERO小ホール
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 開演前の会場を見渡すと男ばかり。
 はて、なぜ?
 まさかクリスマス・イヴ・イヴの土曜日だからってわけじゃあるまい。仏教徒にクリスマスは関係ないよなあ~。それとも、仏教もキリスト教も関係なく、クリスマスはもはや女の決戦日か? 
 あるいは、本日のテーマのせいなのだろうか?
 「過去からの解放」って言うけれど、どちらかと言えば過去にとらわれがちなのは男のほうだ。別れた昔のパートナーに未練たらたらなのは大抵男のほうだ。つき合う相手の過去にこだわるのも男のほうだ。学歴や職歴や地位といった過去の経歴に執着するのも男のほうだ。そして、年齢を忘れたがるのは女のほうだ。男にくらべれば、女のほうが圧倒的に過去から自由である。とするなら、女にはあまり関心のないテーマなのかもしれない。

 さて、スマナ長老の話をかいつまんで紹介すると、

●過去には2種類ある。一つは、「人が生きてゆく流れ」のことで「何をやったか」という変えることのできない事実(=史実)である。本人だけでなく第三者が客観的に指摘できる類いのものだ。

●もう一つは、史実を貪・瞋・痴の感情で調理し捏造した主観的ストーリーである。人は、自分の過去の出来事を適当に選択して解釈・編集し、「自我」の栄養とも住処ともなる都合のいい物語をつくる。その物語に導かれて生きようとするので、失敗して不幸になる。なぜなら、それは第一の過去の定義である「史実」と一致しないフィクションだから。 

●なぜそういった物語が生まれてしまうのか。それは、我々の認識システムには生得的な欠陥(=無明)があるから。「眼・耳・鼻・舌・身・意」というレセプターに「色・声・香・味・触・法」という外的データが触れたとたん、「快・不快・どちらでもない」といったような好悪・判断が自動的に働いてしまう。

●「快」を求め執着し(=欲)、「不快」を厭い憎悪する(=怒)ことが繰り返されるうちに、一定の判断基準をもった「自我」が生まれる。「自我」はいつも「ありのままの事実」を感情で歪曲してしまう。

●過去とは、主観と感情で捏造した経験と判断の塊である。人は、過去に縛られて苦しむ羽目になる。つまり、自分が掘った苦しみの落とし穴に自分自身で落ちる。まさに自業自得。

●すべての経験は「わたし(自我)」という器に入れられているので、人はどんなに苦しくてもそれを捨てることができなくなっている。

●第一の過去(=史実)と第二の過去(=物語)を区別する方法はいたって簡単。「私は〇〇です」と覚えているすべての記憶は後者である。この幻覚の過去をこそ捨つるべき。
 例.(ソルティ創作)
  第一の過去 「××年前に交通事故にあって、下半身不随になりました」
  第二の過去 「私は交通事故の被害者です」

●第二の過去から解放される最速にして最良の方法は、上記の認識システムに介入し、物語をつくろうとする働きに即座に楔を打つこと。それがヴィパッサナー瞑想である。 

●ヴィパッサナー瞑想を、「人間のすべての行為にはゴール(=目的)が存在しない」という事実を発見して心が変わるまで、そして因果法則を発見するまで、徹底して行ってみることで解脱に達する。

 ・・・・・といった内容であった。


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 人間が、自ら作った「物語」に縛られてほかならぬ自分自身を苦しめている、というのは至極納得がいく。
 たとえば、「クリスマスは家族や恋人と一緒に過ごすのが幸福である」という、おおむねバブル期(80年代)に商業的に作られた物語がある。その物語に子供の頃から洗脳され、信じ込み、周囲とも物語を分かち合い、「クリスマスに独りで過ごす人間」を憐れんだりバカにしたりしていると、今度は自分が「クリスマスに独りで」過ごさざるをえなくなったとき、「クリスマスに独りで過ごす自分=不幸」という烙印を自分自身に適用することになる。
 自分を不幸にするのは自分の思考(=信念=過去)にほかならない。まさに墓穴を掘るというやつだ。

 いったい人はこうした「物語」をどれだけ身内に抱えていることか!
 物語の多くが「むかし、むかし・・・」で始まることが示すように、物語とはまさに過去そのものなのである。
 その意味で、「過去からの解放」とは「物語からの解放」にほかならないわけで、出だしに戻ると、物語に閉じ込められ閉塞しがちなのは――通常のイメージとは違って――女よりもむしろ男なのかもしれない。
 稲垣××のクリスマスソングを引き合いに出すまでもなく、ソルティの周囲を見ても、“シングル”ベルに身もだえるのは、昨今、独り身の女よりもむしろ独り身の男のような気がする。

 むろん、ソルティは今年もシングルベルを安楽に過ごしましたとさ。



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※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の主観的解釈に過ぎません。





● ただOSのみ :初期仏教月例講演会 『性格の完成~「ありのまま」は危ない!』 (講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

日時 2017年6月3日(土)14:00~
会場 日暮里サニーホール
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 今回のテーマは性格について。
 仏教では、性格を語る上では業についての理解が欠かせない。性格と業は切り離せないのである。

 業とは行為(身・口・意)でありカルマである。我々が毎瞬毎瞬、体・言葉・心で行っているあらゆる行為(=業)は、そのまま、それに応じた結果をもたらすポテンシャルエネルギー(潜在力)を形成する。それがカルマ(=業)である。カルマを理解しやすい一番の例は、食べ物と体との関係じゃなかろうか。良い物を食べれば健康になり、悪い物を食べれば病気になる。結果をもたらすまでに体内で起こっている一連の活動――咀嚼、消化、吸収、分解、各組織への運搬e.t.c.――が潜在力である。
 カルマは、一つの生の中である程度のタイムスパンを持って起きている。たとえば、煙草の吸い過ぎでガンになった、というように。一方、複数の生をまたいでも作用している。それが輪廻転生と言われるものだ。たとえば、今生でグルメの限りを尽くしたけれど食欲が満たされることなく肥満が原因で亡くなった⇒⇒⇒来世で豚に生まれ変わる、といったように。
 「因があって、業を形成し、果を生じる」というカルマシステム(=輪廻)は、秒刻みの短いスパンから、何世紀にもわたる長いスパンまでを包含する概念なのである。

 仏教では「生命は業から生まれ、業を相続する」とする。過去に作られた業ゆえに我々(生命)はこの世に生れ落ち、その業の内容に応じて一人一人の置かれている環境に違いが生じている。つまり、人が先天的に持っている資質や生まれつき与えられている環境は業の働きによる。本人には選ぶことのできない・変えることのできない部分である。
 性格もこの業の一つなのだと言う。

 各生命の個性は業が作ります。性格とは業が個人のために作ったOS(Operation System)です。(スマナ長老の言葉、以下同)

 なので、基本性格は生涯を通じて変わらない。自分や他人の性格を変えようと努力しても無駄ということだ。
 だが、性格をまったく変えられないかと言えばそうでもない。基本性格は変えられなくとも、そこに上乗せすることができる。

 OSの上に人は自由にアプリケーションソフトをインストールし、環境を管理することで、好みの性格に変えられます。 

 このときアプリケーションソフトとして使えるものが、「家族・育ち・教育・他人の影響・年齢・職業・住む場所等々」、いわゆる後天的要因である。これらが因となって業を形成することで、‘性格の変化’という果をもたらすわけである。先天的なものと後天的なもの――性格は「2段構え」と言うことができる。

 性格に良し悪しはありません。業なのでポテンシャル(潜在力)が合理的で正しい結果を出します。

 仏教では結局、新たな業を作らず、業の影響から逃れ、次の再生を遮断すること(=解脱)を最終目的としている。なので、優秀なアプリケーションソフトを搭載して世間的に「良い性格」と言われているものを身に着けたところで、「そんなことしても意味ないですよ。生まれ変わりますよ」ということなのだろう。
 仏教における性格の完成とは、「新たな業をつくらない」ことにある。

 性格を完成する道は、以下の通りです。
    • 戒・定・慧を身につける。
    • まず善行為から始める。
    • 五戒を守る。
    • 慈悲喜捨の実践や呼吸瞑想。
    • ヴィパッサナー瞑想。

 さて、上記の修行を積むことで、新たな業が形成されず、悟りに達し解脱したとする。仏道修行の最終目標である阿羅漢になったとする。
 阿羅漢には業がないのであろうか? 性格がないのであろうか?

 そうではない。
 阿羅漢といえども過去の業を消すことはできない。過去に自らが起こした行為の結果は、生きている限り、その身に受けなければならないのである。
 999人殺しの大悪人アングリマーラの逸話が有名である。ブッダに出会って改心し、仏弟子となって修行に励み阿羅漢になったけれど、アングリマーラ長老の身の上には不可解な事故がついて回った。托鉢している最中、農夫が鳥や犬を追い払うために投げた石や棒がなぜか長老の頭に当たって出血したり・・・。それを嘆くと、ブッダはこう言った。

「堪えなさい。あなたは、行為の結果として何十万年も地獄で受けるはずの結果を、現世で受けているのです」(中部86)
 何十万年も地獄で受けるはずのカルマが、棒が当たって頭が割れたくらいで済むはずがありません。来世以降に地獄で受けるはずの悪いカルマはなくなってしまったけれど、今生で受ける分のカルマはどうしても避けられず、受けてしまうということです。(藤本晃著『悟りの階梯』、サンガ発行)

 同じように、過去生の業の結果である今生の基本性格は、阿羅漢になっても消えることがない。OSである以上、生きている限りはずせない。
 別記事で阿羅漢の多様性(=個性)について考察し、クリシュナムルティの言を引用した。曰く、「最終的な悟りに至っても独自性(Individual Uniqueness)は残る」と。
 カルマシステムの観点からこの「独自性」を解き明かすことができるのである。

 我々修行者がやっていることは、後から搭載した「自己」という名前の数々のアプリケーションソフトを一つ一つはずしていって、最終的にOSだけの状態に立ち返ることなのであろう。 

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 最後にスマナ長老からの心が明るくなる一言。

人間なら皆、良い業を持っています。

 仏道修行のできる人間として生まれたことが途轍もない福音なのである(キリスト教的?)。



サードゥ、サードゥ、サードゥ



※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の主観的解釈に過ぎません。




● 命の価値 初期仏教月例講演会:「死に方入門」(講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

日時 2017年3月 12日 (日) 13:30 ~ 16:30
場所 一橋講堂(東京都千代田区)
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 月例講演会が一橋講堂で行われるのは初めてじゃないだろうか。
 事前に地図で確認して出かけたものの、地下鉄東西線・竹橋駅から地上に出て、同じような高層ビルが立ち並ぶ中、案の定、迷ってしまった。スマホを持っていないと、こういう時不便である。
 立派な会場(494席)で、休日午後いっぱい借りると22万3千円かかる。月例講演会でよく使われる中野ZEROは同条件で6万900円なので、ずいぶんと開きがある。なにか安く借りられるツテでもあるのか。余計な心配だが・・・。

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 今回のタイトルは「死に方入門」。
 仏教徒でない一般市民ならギョッとするかもしれない。スマナ長老自ら「まるで死ぬことを勧めているみたいじゃないですか」と苦笑いされていた(おそらく事務局がつけたのだろう)。
 このタイトルに別に何の違和感も不自然も感じなかった自分にちょっと驚く。ここ数年の仏道修行と介護の仕事で、いかに死が身近に(あたりまえのことに)なっているかを感じた。たしかに、働き始めた最初の頃は親しくなった利用者の死に際し悲しみや動揺を覚えたものだが、最近は淡々と見送っている。「死」に免疫ができるのは良くないことだろうか?

 講演内容は、「仏教は死をどうとらえているか、仏教徒は死とどう向き合うべきか」といったあたりで、別記事で紹介したスマナ長老の著書『老いと死について さわやかに生きる智慧』(大和書房)、『老いていく親が重荷ですか。』(河出書房新社)に連なるものであった。
 いつものように前半は座席で舟をこいでいた。神田川をそれこそ中野あたりまで遡ったかもしれない。いびきをかかないようにだけ注意。
 最近は眠かったら逆らわずに寝る。というのも、スマナ長老の話が世間モードから出世間モードに移って仏法の核心に近づくや、パッと目が覚め、瞬時に頭が冴えると分かったからである。よくできている。

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 以下、思わずメモをとったスマナ長老のコメント。

● 正しい花の咲き方、散り方というのはありません。どんな咲き方、散り方も自然のままです。同じように、正しい死に方はありません。死は常に正しいのです。一方、正しい生き方なら可能です。

 死は常に正しい。
 これは、広い意味で業論であろう。
 介護の仕事をしていると、人の様々な老い方、死に方を目撃することになる。
  • 心身を蝕む病いに苦しみ、入退院を繰り返し、最後は救急搬送で病院に運ばれ、死を迎える人がいる。
  • すべての不幸や不遇を周囲のせいにして、せっかく訪ねてくれた家族・友人に怒りをぶつけ、職員に八つ当たりし、食事や服薬や入浴を拒否し、施設のトラブルメーカーとなる人がいる。
  • 入所時以降、まったく顔を見せない息子を恨む一方で、半ば諦めている人がいる。
  • 認知が進み、ちゃんとトイレの始末ができないのに、プライドばかり高くて職員の介入を執拗に拒む人がいる(ほうっておくと、他の人の部屋で放尿・放便する)。
  • 子供や孫やひ孫たちがちょくちょく訪れては散歩に連れ出してもらい、楽しい一時を過ごす人がいる。
  • 職員とも周囲の利用者ともまったくコミュニケーションをとらず、自室に閉じこもっている人がいる。
  • 認知はあれど人の役に立つのが好きで、進んでコップ洗いを手伝ってくれる人がいる。
  • 家族に見守られながら、穏やかに息を引き取っていく人がいる。
 人の老い方、死に方は百人百様である。
 心あるスタッフなら、すべての利用者に、人生の最後の時間を穏やかに、安らかに、心地よく過ごしてもらいたいと思う。それはスタッフ自身の楽にもつながる。口癖のように「死にたい」「殺して」を繰り返し、しんどい思いをしている利用者に日々接するのは、スタッフにとっても辛いことである。医療従事者でないので身体的な痛みはどうにもできないけれど、せめて精神的な苦痛は少しでも和らげてあげたい。それに、トラブルメーカーが一人いるだけでフロアは混乱に陥り、スタッフは気力消耗し、バーンアウトの可能性が高まる。
 ソルティもしんどい思いをしている利用者を前に、「なんとか楽な気持ちにしてあげられないものか」、「もっと家族が訪問してくれればいいのに」と思う。あるいは、「いい加減、自分を苦しめるだけのつまらないプライドを捨てたらいいのに」、「こんな苦しみを最新医療によって引き伸ばすことに何の意味があるのだろう。これこそ虐待」と思ったりする。他人の苦しみを前に、何もできないことの無力感や苛立ちに襲われ、そのうち、いちいち感情的に反応するのが自分を苦しめるだけと思い、感情を抑えつけるのが習性となる。利用者のしんどさに鈍感になる。すると、業務が着々と滞りなく進むようになり、形だけはベテランになっていく。
 こういう落とし穴が介護の仕事にはある。
 いや、介護だけでなく、医療や保育や福祉相談など人のケアに関わる仕事には共通してある陥穽だろう。

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 感情をなくした鉄面皮にならずに、なんとか無力感や苛立ちと付き合う道はないものか・・・・と探ったところで、業論に至った。
 つまり、どのような老いを迎えるか、どのような死に方をするかは、言葉の真の意味で「自業自得」なのだと気づいた。
「このように生きてきたから、このような老いを迎えている」
「このように生きてきたから、このような死に方をする」
 すべては因果応報、因縁のルールに則っているのだ。
 たとえば、親を施設に入れたが最後、全然訪ねて来ない子供たち(もちろん立派な社会人である)について、ソルティは(ご利用者に代わって?)憤りを覚えることが多いのだが、そのような子供になった一番の原因はやはり親自身の育て方にあるのは間違いない。育てたように子は育つし、育てられたように親を看取る。親は結局、自分の蒔いた種を刈り取るほかないのである。現役時代、仕事や趣味にかまけて子供をほったらかしにしてた挙句、今度は自分がほったらかしにされる。
 そのような視点からすれば、人は誰もみな、正しく「老いて」、正しく「死んで」いる。
 もちろん、「自業自得だから苦しんでいる人をほうっておけ」ということにはならない。それだったら介護という仕事の意味がない。本人の心の苦しみは、純粋に本人の生き方(=思考パターン、妄想ループ)の結果に過ぎないので、他人が――それこそ人生の最後に介護を縁としてほんのちょっと知り合っただけの人間が――それを変えることは不可能に近い。けれど、少なくとも苦しみに寄り添うことはできる。それで十分なのだ。
 一時の感情に振り回されずに状況を正しく見て、ご利用者と適切な距離を持って関わる心の持ち方として、業論は役に立つ。
 思うに、ソルティが現在介護の仕事に携わっているのもそれなりの因縁を持つ「自業自得」に違いない。


● 慈悲喜捨、無常、苦、無我などの真理を学んで、観察して理解し、納得するならば、年老いてボケになって世の中のどうでもいいものは忘れてしまっても、心は無常に、苦に、慈悲喜捨に定着します。

 せっかく修行して真理を悟ったとしても、ボケたらどうなるのだろう? 全部無駄になってしまうのだろうか? ボケたら智慧は失われるのか? ボケたまま死んで輪廻転生して、来世は木瓜の花にでも生まれ変わるのだろうか?
 そんな疑問があった。
 この言説は大いなる安心をくれた。


● 安楽死とは、医者が殺人を犯すのを許すことです。命を助けるべき医者を殺しの専門家にしてはいけません。なぜなら、人の病に真剣にあたることができなくなるからです。

 これは納得。
 一度、安楽死に手を貸した医者が、命に対する敷居が低くなるのは想像に難くない(漫画『ブラックジャック』に登場するドクター・キリコを想起する)。一度人を殺した犯罪者が、次からはさして抵抗を感じずに人殺しできるのと同様、いったん「死」を肯定したら命は安くなる。
 一方、 


● 命は無常だから価値がありません。生きるとは、命とは、無常の流れに過ぎません。無価値の流れです。 

 これぞ出世間の智慧。
 多くの人には受け入れ難い言説であろう。命こそ最大の価値というのが、現代人の信念である。大乗仏教でも命に多大な価値を置く言説ばやりである。
 
 生きることに意味はなく、命にはなんの価値もない。

 この、ある意味‘悪魔的な’言説が本来の仏教である。
 これを認めて受け入れるのはどんなにか難しいことだろう!
 しかし、よくよく考えてみれば、命に価値があると人が思うのは、「自分が死にたくない!」からである。死んだら、いろいろな欲望が果たせなくなるからである。「自分は死にたくない」→「きっと他の人も(生命も)同じ思いだろう」→「命は大切だ」となる。つまり、命そのものに価値を見ているのではなく、欲望に価値を置いているのだ(←別にそれが悪いことだと言っているわけではない)。
 あるいは、「命が生まれるのは、天文学的な確率で起こる奇跡である」→「命は大切だ」となる。しかるに、天文学的な確率で起こることに‘価値がある’と考えるのも、きわめて打算的な発想である。ダイヤモンドに価値があると言うのと変わりない。
 価値とか、意義とか、目的とか、超越的な存在(神意)とかないところに、ただ生まれて、ただ死んでいくのが、生命である。
 (原始)仏教のこのスタンスは、下手すると‘命’の軽視につながりやすい。生命が輪廻転生するという考え方がさらにそれに拍車をかける。なぜなら、「どうせ生まれ変わるのだから、今ある命が消えてもたいしたことない」と結論付ける傾向を生んでしまうからである。ここまで来ると、ポア思想を現実化したオウム真理教と大差なくなってしまう。(むろん、これは‘邪見’の最たるものだ!)
 
 テーワラーダ仏教(原始仏教)における命の意味とはなんなのか。それと慈悲の関係はどうなっているのか。
 そのあたりを学ぶ(悟る?)必要を感じる。
 
 
サードゥ、サードゥ、サードゥ


※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の内容のソルティなりの解釈にすぎません。


 

● 介護の仕事12 イカルスの翼 本:「老いていく親が重荷ですか。」(アルボムッレ・スマナサーラ著)

2016年河出書房新社刊行。

 喫緊の社会問題にして極めてパーソナルな問題でもある老人介護についての本である。
 80歳にならんとする両親(おかげで二人とも健康)を持ち、老人ホームで働いている介護士であり、加えて仏教徒でもあるソルティにとって、まさに自分のために書かれたような本である。
 スマナ長老は以前に、『老いと死について さわやかに生きる智慧』(大和書房)という本を書いている。ブッダの教えをもとに、誰にとっても避けられない老いと死を、賢く冷静に穏やかに迎えるコツを助言されている。本書はその続編とも姉妹編とも言える内容で、今度は立場を変えて、老いや死の只中にある親に対して子供はどのように向き合ったらよいか、どのような心構えで介護したらいいかを説いている。なので、両冊揃えて読むといいと思う。
 今回もまた話のポイントとなるのはブッダの教えである。生老病死は仏教の中心テーマであり、生老病死の苦しみからいかにして脱するかを説いたのがブッダだからである。仏教の独壇場と言っていい。
 まず、仏教では老いや死をどうとらえているか。

 そもそも、仏教においては「生」と「死」は同義語であり、いわばコインの裏表のような関係です。生きることは、死ぬことなのです。生きている以上、最後に待ち受けているのは死です。その事実は決して変わりません。私たち“人”は、毎日毎日、一歩一歩、生きることによって死へと近づいています。今生きているということは少しずつ死んでいっているということです。
 そうした観点から言えば、「老いる」という発想自体がありません。
 私たちは、ただ変化しているだけです。

 お釈迦様はこう言っています。
「年をとる、老化する、死に向かって生きていくという現実を素直に認め、認識できる人こそ、この世でもっとも幸せに生きられる人である」
(以上『老いと死について さわやかに生きる智慧』より引用)
 
 老いや病気を不幸だと思わないこと。
 いまある状況を、自然な変化なのだと考えること。
 (本書より) 

 これが大前提である。
 老いや死に直面している当事者はむろんのこと、彼らを介護する者もまた上記のことをしっかりと認識して心に落としておけば、不安や恐れや苛立ちを乗り越え、できることを淡々と理性的に行うことができる。来るべき最期に向かってソフトランディングできるのである。

 以下、ソルティが心に留めた介護する者へのアドバイスを引用する。

1. 美しく諦めること
 
 介護問題に直面した人は、それは業が自分に与えた宿題であると思い、正しく対応すれば、介護を受ける側もする側も幸福で穏やかにいられるのです。
 運命を自分の思いどおりに変えることは不可能です。それにも法則があります。運命または業に真っ向から抵抗するのではなく、現実を受けとめるという「諦め」が必要なのです。
 仏教用語の「諦め」は、降伏という意味ではなく、状況を理解して納得することを言います。

 Never Give Up(決して諦めるな)は、長嶋的ではあっても、仏教的ではない。諦めが悪い人のことを「往生際が悪い」というが、まさに「生」に対する執着を表す言い回しである。
 本来、「諦める」は「明らむ」、つまり「物事の真理を明らかにする」ことなのだ。


2. 認知症への処し方
 
 脳の機能がかなり低下している場合も、介護する人の感情はちゃんと伝わっています。認知症の介護における救いはそこにあります。
 知識が通じなければ、「感情」でコミュニケーションすればいいのです。

 まさにその通り。ソルティも5年の介護経験を通じてコツを習得した。逆に、このコミュニケーションスタイルが身についた結果、認知症でない高齢者に無意識にこれを適用してしまうと、意外に嫌がられるのである。普通の大人は、知識や理屈で感情を糊塗する傾向があるからだ。


3. 介護は修行

 介護者は、自分の目の前で、刻々と死に向かって進んでいる人の姿を観察することになります。すると「生きるとはいかに虚しいのか」とありありと見えてきます。

 さらに観察すると、それでも人は「生きていきたい」と願い、弱く衰えた身体にしがみついて生を渇望する「存在欲」が見えてくるはずです。「人生とは何か?」と、まざまざと観察するのだと言えるでしょう。

 自分が4K(危険、きつい、汚い、給料安い)と言われ、一般に人気のない介護の仕事を続けていられるモチベーションの一つは、それが「修行になる、善行為になる」というところにある。ブッダの四門出遊のエピソードに象徴されるように、「老」「病」「死」を深く観察することが「道」へと人を誘う。その意味で、介護は「他人のため」ではなく、「自分のため」である。

 すでに数百人となった利用者との出会いと別れの中で、「いったいどういう老い方が一番幸福なんだろう?」「どういう最後が楽なんだろう?」と問い続けてきた。それは結局、「どういう生き方が一番幸福なんだろう?」につながるわけだが・・・。
 今のところ一つ自信を持って言えるのは、「結局最後にモノを言うのは、その人の性格だ」ということ。老人ホームに入って、家族も知り合いも遠のき、財産も学歴も業績も地位も関係なくなり、暇をつぶしてくれると同時にアイデンティティの源泉にもなった様々な道具立て(酒や趣味や仕事や特技や家事)も身体的・環境的変化によって奪われていく。最後まで残るのは性格だけなのだ。認知症になっても性格はちゃんと残る。
 性格がいい人は幸福である。本人も自分の環境を受け入れて穏やかに過ごせるし、性格の良さゆえに介護者からも優しくケアされるから、ますます幸福度が増す。
 老人ホームというまったく同じ環境の中にあって、そこを天国とするも地獄とするも、その人の性格次第という面は少なからずある。むろん、介護保険の制度や施設運営自体にも改善の余地は山ほどあるけれど・・・。


4. 傲慢をなくす
 
 仏教では、病気で倒れている人や不幸で力を失っているような人を見たら、このように考えます。「これは生命本来の姿なのです。私も同じです。私もいつかこうした状態になる可能性は高いのです。私も老いて死にます。この方々は私に、私の将来を見せてくれているのです」
 こう思うと傲慢さがなくなり、自分自身をいたわるように、相手のお世話をする気持ちになれるのです。

 ソルティのような中高年スタッフのメリットの一つは、対象となる高齢者との年齢差が(比較的ではあるが)小さい点にある。世代間ギャップが小さいから、若い世代たとえば平成生まれのスタッフに比べれば、通じる話が圧倒的に多い。昔の風俗や習慣、昔の歌や映画やスター、昔の出来事や風物や食べ物、昔の価値観など、共通ネタや共感できるテーマが多い。それらが、相手の考えや気持ちを理解するときの手がかりになることも少なからずある。
 また、自分もまた老いの入口に入ったことで、頭が働かなくなることや身体が言うことを聞かなくなることを身をもって実感しつつある。メンドクサイ文明から取り残されていく不安と淋しさも感じつつある(最近ついにスマホを解約した)。老いは他人事ではない。‘ゴーマンかまして’いる場合じゃない。


5. 介護の最終目的 

 誤解を恐れずにあえて言えば、私は介護の最終目的、最良の介護とは、親を幸せに死なせてあげることだと思っています。

 介護でいちばん大事なのは、心の悩みをなくすことです。
 親の気持ちを常に安らいだものにしてあげること。やさしい言葉をかけ、笑顔を向けること。・・・・・・
 最高の心のケアとは、この世に対する執着をなくせるように、アドバイスをすることです。

 「これぞスマナ節」の大胆発言。
 だが、これこそ仏教の核心である。良い転生(生まれ変わり)を繰り返した挙句の果てに輪廻から解脱すること、もはや二度と生を受けないことが、仏教の最終目的だからだ。そして、良い転生を得るには、幸せな最期を迎える必要がある。亡くなる瞬間の心の状態が次の転生先を決めるとされているからである。
 

 こうしてみると、仏教は本当に近代西洋社会の価値観とはズレていることが分かる。
 近代西洋社会の特徴は、①個人主義、②進歩主義、③合理主義、④民主主義、といったところにある。このうち③と④は仏教の価値観とそれほど齟齬をきたさない。仏教――少なくともテーラワーダ仏教では合理的であることを重視する。神秘主義や実証されない事柄への信仰をありがたがらない。「カーラマー経」の教えに見る通りだ。④も、出家の集まりであるサンガが非常に民主的に運営されていたことから立証されよう。
 問題は①と②である。
 西洋の個人主義は、自己の発見(コギト・エルゴ・スム)と自己の確立から、「自己主張」「自己実現」「自己決定」への道を切り拓いた。端的に言えば、「自己」の絶対化・固定化である。これが仏教の「諸法無我」と袂を分かつ。仏教では「自己」は幻想であり、自己の固定化こそが苦しみの要因であるとする。
 次に、進歩主義は、植民地主義や資本主義のバックボーンとなったと同時に、個人においては夢と野心の追求(=利益と欲望の充足)を許すことになった。これが環境破壊や資源枯渇、個人においては精神的ストレスを生んだ。この進歩主義の背景には、ダーヴィンの進化論はじめ近代科学の発展が大きく作用していることは言うまでもない。一方、仏教は末法思想や輪廻転生思想に見るように、進歩主義を採らない。人類は(生命は)智慧を開発しない限り、無明に置かれたまま永遠に転生を繰り返す。そして、智慧とは「諸行無常」「諸法無我」「一切行苦」。一切が変化して、一切が苦であるなら、そこに進歩などあり得ない。
 そこで―――だ。

 そこで、現代の日本の福祉制度の理念および制度体系は、アメリカやイギリスやドイツや北欧諸国などの近代西洋社会がつくった枠組みに則っている。これは、文明開化後の日本が西洋をモデルとし、戦後の日本の制度全般がGHQによって彫琢されたことの延長上に、そして戦後日本社会および日本人の価値観がアメリカナイズされたことの帰結としてある。イスラム教国と比較してみれば分かりやすい。日本は近代西洋文明の末席(?)に連なっている。個人主義、進歩主義は、現代日本人の意識を規定している。
 介護の世界においてもそれは浸透し、利用者の「自己決定と自己実現」は金科玉条のごとく唱えられている。最後まで自己の可能性を追求してやりたいことをやって死ぬのが理想という考えも広まっている。いつまでも若く、いつまでも美しく、いつまでも強く、いつまでも青春で、いつまでも輝いて――。
 平均寿命が90歳に至らんとしている昨今、ある程度まではそれも良いと思う。
 しかし、誰の生の最後にも「死」という着地点がある。
 今の日本の介護現場、日本人の「老い」は、太陽という輝かしい「生」を目指して右肩上がりに飛び続けるイカルスみたいだ。老いて病んだ人を「生」の側に押し戻そうとひたすら努力している。その結果、多くの老人たちは、死や老いについての心構えも準備もないままに、それといきなり直面することになり、パニックに陥る。太陽の熱で翼が溶けたイカルスさながら、錐揉みしながら「死」に向かって墜落していく。まるでゼロ戦のように。

 なぜ、ソフトランディングという選択をしないのだろう?

Icarus3
マルク・シャガール作「イカロスの失墜」

 



● CMの効用 初期仏教月例講演会:『Vinnana(識)の理解』(講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

日時 2016年10月1日(土)18:30~
会場 代々木オリンピックセンター・カルチャー棟小ホール
内容 「識の理解~仏教とはこころの勉強と育成です~」
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 今回は、仏教の基本的事項を網羅したアビダンマ風の講演であった。メモをとった用語をざっと見るだけでも、
  • 名(ナーマ)と色(ルーパ)
  • 欲界(六道)、色界、無色界
  • 業(カルマ)、行(サンカーラ)、識(ヴィンニャーナ)
  • 五蘊(色・受・想・行・識)
  • 心と心所
  • サマーディ瞑想とヴィパッサナー瞑想 ・・・等々
 自分の知識や理解度を確かめるいい機会になった。同時に、仏法の基本の「き」だけでも、今一度体系的に学び直したいなあと思った。来年1月の社会福祉士国家試験が済んだら、ポー・オー・パユットーの『仏法』を読み直そう。

 さて、識とは「心」のことである。
 仏教では、「心」とは認識する働きのことを言う。何をどのように認識するかは問題ではない。「心」とは単純に外界なり内界なりを「知覚する機能」であって、そこに内容はない。生命であることの条件は、この「識=心=知覚する機能」を持っていることにある。
 人が、悲しくなったり、楽しくなったり、欲望でヒリヒリしたり、怒りでフツフツしたりするのは、「心」のせいではなくて、その都度その都度「心」に溶け込んでいる「心所」のせいであるとする。「悲しい」心所が「心」に溶ければ悲しくなるし、「怒り」の心所が「心」に溶ければ怒りとなる。心所とはいわば「心の成分」である。その数は54種類に分類されている。
 スマナサーラ長老は、心と心所の関係を、水と水に溶けている成分の関係にたとえられた。そもそもの水(H2O)には味も色もついていない。それが、たとえば水にコーヒーの粉が溶ければコーヒーになり、茶の成分が溶ければお茶になり、アルコールが溶ければ酒になる。すべてのドリンク(水溶液)は「水」という液体を溶媒とし、そこに何(溶質)が溶けているかによっていろいろな飲み物に分類される。
 ソルティは、テレビ受像機(心)とテレビ番組(心所)の関係にたとえて理解している。テレビ受像機は電波を受信して映像に変換する装置に過ぎない。そこに感情的要素はまったくない。文字通り‘機械的に’動いている。しかし、モニター(さすがにブラウン管はもうないだろう・・・)に映し出される番組の内容によって、視聴者は悲しくなったり、楽しくなったり、怒りにかられたり、物欲や性欲をたぎらせたりする。番組の映っていない砂嵐の画面なぞ面白くも何ともない。
 
 さて、巷でよく言う「心を知る」とはどういうことか。

 こころは認識機能なので、認識機能で認識機能を認識することはできません。
 
 つまり、「心を知る」ことなんて不可能である。

 心は、自らと同時に生起する心所を認識するのです。

 「心を知る」とは「心所を知る」ことにほかならない。
 「あっ、いま心の中に、悲しみがある、喜びがある、怒りがある、欲望がある・・・・e.t.c」とその場その場で心の様態を認識すること、すなわち「気づくこと」――これがサティ(念)である。

 「心を育てる」とはどういうことか。
 もうお分かりだろう。
 「心所を育てること」である。
 心所には54種類あると書いたが、これが善心所(24種類)、不善心所(12種類)、善悪どちらでもない無因心(18種類)に分けられる。むろん、育てるべきは善心所である。
 「怒り・欲・無知」に代表される不善心所を、「信や念や慈悲や智慧」に代表される善心所に変えていくことは、「心」の機能そのものを強化する。テレビの喩えで言えば、「良い番組をたくさん増やしていくことがテレビ受像機そのものの性能をアップさせる」といったところか。(現実にはあり得ない話だが・・・)
 善心所を育てて「心」の機能を強化することによって、

ありのままにものごとを認識することができて、真理を発見します。

 すなわち、「悟る」のである。

 そして、一番の善心所が何かといえば「サティ(念)=気づき」であり、サティを育てることで悟りに達せんとするのがヴィパッサナー瞑想というわけである。
 仕組みを聞いて、なんだか非常にすっきりした。
テレビと視聴者
 ここで面白いのは、というか気をつけなければいけないのは、瞑想によりサティの力が高まることが、「気づいている‘自分’がいる」という錯覚につながりやすいことである。「悲しみがある、喜びがある、怒りがある、欲がある」とある程度客観的に淡々と自分の心の中(心所)を観察できるようになると、観察者としての自分を立ち上げてしまうのだ。サティ(念)という心所が、ほかの53の心所から分離されて、あたかも「心所を24時間チェックしている自分がいます」という幻影を生み、マトリョーシカみたいに入れ子構造の「私s」がつくられる。

 しかし、それは間違いである。
 テレビ番組がニュース→天気予報→ホームドラマ→スポーツ番組→バラエティ・・・・・と時間帯で次から次へと変わっていくように、心に溶け込む心所もまた時々刻々移り変わっていく。喜び→物欲→怒り→悲しみ→無気力→性欲→賢者タイム→慈悲・・・というように。サティ(気づき)もまた、その流れの中に包含され繰り返し現れては消えていく心所の一つに過ぎないのである。
 サティをCM、それ以外の心所をテレビ番組と考えると分かりやすいかもしれない。
 視聴者は、たとえばサスペンスドラマを見てストーリーや役者の演技に心奪われ、恐怖や不安や興奮などの感情をかきたてられ、自らを登場人物のように感じて現実とフィクションの境界を忘れることがある。そんな瞬間、CMがやってきて視聴者をお茶の間の現実に引き戻す。「これはドラマだよ。フィクションだよ。少し頭を冷やしなさい」というふうに。サティとは、妄想からありのままの現実に人を連れ戻すCM――それもトイレに立ちたくなるような味気ない――みたいなものである。
 そして、朝から深夜までの放送時間中、CM枠をできるだけ多く入れていくことがヴィパッサナー瞑想の極意というわけだ。
 
 あまり適切な喩えでないかもしれない。が、少なくとも「気づいている自分、悟りに近い自分」という別のドラマを立ち上げてしまう牽制にはなろう。

Consciousness is not Self.
気づきもまた「私」ではありません。

 それゆえ、「私が瞑想をしている」という言い方は誤謬なのである。


サードゥ、サードゥ、サードゥ



※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の内容のソルティなりの解釈にすぎません。


 

● あとは野となれ山となれ 初期仏教月例講演会:『「承認欲求のトリセツ」~ひとは誰に認めてもらうべきなのか?~』(講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

日時 9月 10日 (土) 14:00~
会場 日暮里サニーホール(東京)
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 400名定員のホールはほぼ満席。
 近くの席の会話を聞いていたら、「泊り込みで関西から来ました」という参加者も。東京に住み、毎月のようにスマナ長老やマハーカルナー禅師の生の姿に触れ、生の声を聴き、じかに教えを受けられるのは幸運なことである。
 というのも、今日のスマナ長老のオーラ。
 凄かった。
 演席の背後に黒い幕が垂れていたせいもあり、長老の身体から放射状に広がる白い煙のような光背が客席からよく見えた。まるで繭の中で語っているかのようであった。
 長老から発する熱波は、珍しく前の方の席に座っていたソルティのところまで及び、全身が温かく微細な波動に包まれ、全細胞が喜びに打ち震えるかのように振動し、体内温度が上昇した。
 伺うところによると、ひと月ほど母国スリランカに帰られて、村の子どもたちと交流したらしい。日本で溜まった垢を落として、すっかりリフレッシュされたのだろうか。
 
 面白かったのは、長老が、「いま日本人に話しているのとまったく同じような話をスリランカで(むろん現地語で)したけれど、聴衆はまったく食いついてこなかった」と言われたこと。原始仏教のお家元であるスリランカのほうが、庶民レベルでより仏法への関心と理解が深く、悟りを目指して瞑想修行している在家の人も多いのかと思っていたけれど、そうでもないらしい。
 時々思うのだけれど、平成の世の日本人ってのが、世界で一番テーラワーダ仏教を理解できる素地(=波羅蜜)を持っているんじゃないだろうか。

虹をわたって 001


 今回のテーマは「承認欲求」。
 「他人に認められたい」「社会的な尊敬が欲しい」といった欲求である。
 アメリカの心理学者マズローの欲求段層説では、5段階のピラミッドの上から2番目に来る。下位3つの欲求がある程度満たされると、この「自尊と尊敬の欲求」とも言われる「承認欲求」が出現する。
 つまり、誰にでも備わっている。

マズローの五段階
2017社会福祉士の合格教科書』(飯塚慶子著、医学評論社)より引用
 
 スマナ長老は言う。
 
承認欲求は無始なる過去からあり、解脱に達するまではあり続けるものです。 
 
 つまり、阿羅漢になるまでは承認欲求から完全に自由になることはできない。『私』が存在する限り、承認欲求も存在するわけである。(阿羅漢には『私』が無い)
 人が承認欲求を持つのはなぜか。
 それは、「他人に認めてもらえないと自信が持てない」からである。他人の存在も社会の目もまったく関係なしに、一人で自信満々のうちに完結しているというのは(阿羅漢でない限り)ありえない。
 というのも、
 
客観的に物事を観察するならば、何に対しても自信が持てるはずはありません。なぜならば、すべては無常なので先が見えないからです。
 
 まさしく。
 ある一つのことで成功しても、その成功がこの先ずっと続くことはあり得ない。自分も変わるし、相手も変わるし、状況も変わる。かつてのミリオンセラー連発のヒットメイカーが、時代が変わるとまったく売れなくなるのを見ると、その事情は明らかだ。好きな相手への恋が成就しても、二人の関係が永遠にハッピーに続くことはお伽話でない限りあり得ない。「体力だけは自信があります!」と言う体育会系男子も、頭脳明晰を誇った東大卒エリートも、寄る年波には勝てない。自信が持てるのはせいぜい一時だけ。それも「現状が変わらない」と言う間違った認識(=思い込み)に支えられてのことである。
 大概、人は自信と自信喪失の間を行ったりきたりしながら、最後は自信喪失のままに生涯を終える。 

 一方、自信がまったく持てないのも困りものである。仕事も恋愛も人間関係も、ある程度の自信がないとうまくいかないのは明白である。常にオドオドし失敗におびえている人間は、お望みどおりの結果(=失敗)を呼び寄せてしまい、自信喪失の悪循環にはまり込んでしまう。
 どうしたらいいのだろうか。

ポイントは自信を確信に置き換えることです。

 これが今回の法話の肝であろう。
 ソルティも「なるほど。ウン、これは使える!」と心の中で唸った。
 ここで言う「確信」とは別の言葉にすると「確認」である。つまり、サティ(念)のことだ。流行の言葉で言えば「マインドフルネス」ということだ。

仕事、勉強、料理、洗濯など、すべての行為を確認しながら行うことが大切です。行うことに確信があれば十分です。自信は要りません。
 
 つまり、「いまここ」の目の前のやるべきことについて、しっかりと注意を向け、集中し、自分ができる最良のことをすれば、それで十分ということだ。仕事についても、対人関係においても。

 ソルティの従事している介護の仕事を例にとる。
 経験のない新人のうち、たとえば片麻痺のある高齢者を車椅子からトイレの便座へ移乗するのは神経を使うものである。安全に、介助する者の負担を最小にして、ご利用者に不快感やしんどさを与えないようできるだけ短時間で、移乗介助を一連の流れとしてスムーズに行えるようになるまで、半年くらいかかる。それまでは、流れをコマ切れにした一つ一つの作業――「車椅子のブレーキをかける」→「利用者に手すりを握ってもらう」→「利用者の足の位置を確認する」→「利用者を車椅子から立たせる」→「片手で利用者を支えながら片手で衣類を下ろす」→「汚れたパットを慎重に抜き取る」→「利用者の体の向きを変え便座に座らせる」等々――について、指差し確認するかのように、確実にクリアしていかなければならない。
 慣れてくると、一連の作業を特段考えることなく分割せずに行えるようになる。体が覚えてしまうのだ。「自分もできるようになってきたなあ~」などと思うのである。
 しかし、最も事故を起こしやすいのは、この慣れてきた局面(開始後半年~1年くらい)と言われる。
 新人のうちは、一つ一つの作業に全神経傾けているので、介助技術自体は未熟でも事故は起こりにくい。慣れてきて「自信がついてくる」と、一つ一つの作業への注意力が薄れ、確認がおろそかになって、かえって事故につながりやすい。「自信がつく」ことが、事故をまねくわけだ。
 介護の仕事について5年目となるソルティも、今では上記の介助をご利用者と雑談しながら、あるいは鼻歌まじりに行えるようになった。新人の頃には考えられないくらい熟達したと思う。一方、時々、思わぬミスも生じるのである。たとえば、「車椅子のブレーキをかけ忘れた」「利用者の足を車椅子のフットレストに乗っけたまま利用者を立ち上がらせた(車椅子ごと前に倒れる危険がある)」「パットを抜き取る際に失禁していた大便を床にぶちまけてしまった」等々・・・。自信がつくことは、「大丈夫だろう」という過信に容易につながりやすく、その結果初歩的なミスを招くのである。
 最近は新人の指導につくことも多くなったが、もたついているように見える新人の介助を見ていると、一つ一つの作業について丁寧な確認を行うことの大切さを逆に教えられる。結局それが一番大切なのだ。
 自信ではノーミスは保証できないけれど、確認作業ならノーミスは保証できる。

 対人関係についても、「あの人に嫌われているのでは?」とか「あいつは気に喰わない」とか「あの人とどうやって付き合ったらいいんだろう?」とか「こんなことしたら、人からどう思われるだろう?」など、いろいろ考え頭を悩ますよりは、いま目の前にいる相手に誠心誠意向き合えば、それで十分なのである。その積み重ねが‘関係’を作っていくのだから。
 
 ポイントは、「時間」というものを‘線’や‘面’でとらえないで、「いまここ」という‘点’でのみ、とらえることだと思う。「いまここ」に集中し、「あとは野となれ山となれ」と鷹揚にかまえる。
 その結果は、自信にはつながらないかもしれない。が、「あの人は信頼できる」という評価を得、他人や社会から認められることには益するだろう。なぜなら、失敗のない「いまここ」を重ねていけば、「失敗のない」人生をいやでも生み出してしまうからである。

自分の義務を果たすだけで人生は精一杯です。それ以上、妄想するものではありません。ある程度認められたら十分です。


 自分がヴィパッサナ瞑想修行をしている理由の一つは、意識を「いまここ」に定着させる訓練(=脳神経の回路形成)をしているのだろう。
 妄想のない人生は、そのまま幸福なのだ。
 

サードゥ、サードゥ、サードゥ。



※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の内容のソルティなりの解釈にすぎません。






 

● 結論ばかりが人生だ : 初期仏教講演会(講師:スマナサーラ長老)

日時:2016年4月9日(土)14時~
会場:日暮里サニーホール(東京都荒川区)
主催:日本テーラワーダ仏教協会 
テーマ:『「立ち止まらず、もう一歩前へ」~勇気を出して概念を手放せ~』

 心地よい春風が吹く行楽日和にも関わらず、定員400名ほどのホールはほぼ満席。マハーカルナー禅師の人気沸騰ぶりといい、初期仏教は一時的なブームを超えて、すっかり日本社会に根を下ろしたように思う。
 釈迦国の王子だったブッダがそうだったように、物質的豊かさと自我を満たしてくれる(ように見える)様々な‘物語’が崩壊した果てに訪れる「虚しさ」が否応なく辿り着くのは、ここでしかないのだろう。
 おそらく、今後日本における初期仏教の主役を張るのは、いわゆる「さとり世代」になるんじゃないかと予測する。

 あいかわらずのスマナ節炸裂。
 話が終わりに近づくにつれて、ぐんぐん核心に迫っていき、聴いているこちらの頭もぐんぐん覚醒していく。
 聴くことがそのまま瞑想体験になる。
 最後には脳細胞が痺れたようにジンジンと脈動しているのを感じた。
 
 思わず書き留めたスマナ語録。そのソルティ流解釈。

「結論ばかりの人生」
日本人はYES/NOをはっきり言わない、自分の意見を持たないと言われるが、それはウソ。みんな見解を持っている。対立を恐れて口にしないだけ。どんなことにも見解を持っている。結論ありきで生きている。
 巷を賑わすスキャンダラスなニュースに対するネット上の匿名コメントを見ていると、本当にそう思う。一億総評論家時代。しかも意地悪な・・・・。

「見解は戦い、勝敗を招く」
見解を持つとは、各々が「眼・耳・鼻・舌・身・心」を通して得た固有のデータをもとに概念を組み合わせ、固定した判断をすること。客観的な正しい見解などない。見解はすべからく邪見。各々が見解に執着するから戦いが起こる。

「知識は重い。智慧には重さがない」
知識は貯めること。智慧は反対に見解を捨てること。見解から自由になること。捨てることで現れる開放感・自由・安らぎ、これこそが幸福。

「あらゆる見解を捨てた境地が解脱」
仏道修行によって世間的な見解を一つ一つ捨てていったら、ブッダの言ったことが真実とわかる。「地球は丸い」と言うのと同じく立証された事実とわかる。が、それもまた一つの見解にすぎない。頭で「諸行無常・諸法無我・一切行苦」を理解しているうちは、それもまた見解。解脱とはそれさえ捨てること。

 つまり、こうなる。
 A.あらゆる見解は邪見である。 
ならば、
 B.「あらゆる見解は邪見である」という見解もまた邪見である。
この矛盾を解く第三の道は、
 C.見解のない世界(=ありのままの世界)



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● すべての生命は認知症である:初期仏教講演会『どっちがほんもの?~正しいことの真偽を問う』

日時  2016年1月9日(土)午後1時半~
会場  なかのゼロ小ホール
講師  アルボムッレ・スマナサーラ長老
主催  日本テーラワーダ仏教協会

 550席あるホールは8割がた埋まっていた。
 相変わらず若い層(50代以下)が目立つ。新たな参加者も増えている。『仏教思想のゼロポイント』の好評に見るように、「いよいよ初期仏教が浸透してきたなあ」という感をもった。

 今回もまた途中まで、座席で瞑想まがいの傾眠をしていた。
 午前中に用事で都心に出向いたら、すっかりバテてしまった。用事そのものは疲れることなかったが、どうも都会の人混みにいるとエネルギーが消耗してしかたない。知らずに気が奪われていくようだ。ただの老化や運動不足による体力低下・気力低下とは違うのは、逆方面への運動――すなわち山登りなら何時間歩こうがこんなに疲れることはないってことだ。むしろ、筋肉疲労はあれども気はリフレッシュし充実している。
 気を奪われない方法を学ばない限り、都心はできるだけ避けるほかないようだ。

 が、しっかりと目が覚めて頭が冴えたのが、説法的には重要な後半部だったのはいつもながらうまくできている。スマナサーラ長老の講演はいつも、前半が俗世間用(在家向け)の内容で、後半が出世間用(修行者向け)の内容になっているからだ。
 タイトルの「正しいことの真偽を問う」の結論は最初からはっきりしている。「人の持つ意見・思考・思想・主義・主張・論に正しいものなどない」である。これらはすべて‘見解’であって、個々人がそれぞれの知識や性格や教育や信仰や体験や好みや利害を素材として創り上げた、純粋に主観的な‘ものの見方’に過ぎない。
 だから、見解は人の数だけある。似かよった見解をもつ大集団が自分の立場を安定保持するために、「これが正常」「これが常識」「これが普通」と決め付けることはある。が、それでもなおそれが客観的に正しいわけではない。ただ多数派というだけだ。
 このことを各人が理解しない限り、この世から争いが無くなることはない。「自分が正しい」と各人や各集団が思い込んで主張している限り、絶対に平和的解決は起こりえない。
 「自分が‘絶対に正しい’なんてことはあり得ない」という一歩引いた理解の仕方、言うなれば絶対性から相対性への転換が必要なのだが、これが難しいのである。なぜなら、‘自己を相対化する’とは、自我の正体を暴いて、ニュートラルな立場から再調教する手続きが必須だからであり、再調教の目的はつまるところ、自我=アイデンティティの空洞化なのだから。キリスト教ともイスラム教とも違う仏教のスタンスはまさにここにある。(以上、講演テーマに関連してのソルティの見解含む。)

 スマナ長老の話より。ブッダが指摘した人が見解をつくる際のもとになる5つのもの。
1. 信仰
2. 好み
3. 言い伝え・伝統
4. 理屈・思考
5. 自分の意見・見解と合う他人のそれ 

 今回、面白かった長老の言葉。
 
「すべての生命は認知症です」

 すべての‘生命は’と言っているところがポイントであろう。
 すべての‘人間は’なら、上記に書いたように、各個人の物事に対する認識の仕方はそもそもが見解という「自我プリズム」で捻じ曲げられていて客観的な真実とは程遠い、というだけの話である。(これだけでも容易に理解しがたい話なのだが・・・)
 すべての‘生命は’といった場合、もっと根源的なところを言っている。
 すなわち、それぞれの生命は、自然(神?)によって与えられた生まれついての「種」としての認識機能(知覚手段)を持っている。人間なら、視覚(目)・聴覚(耳)・嗅覚(鼻)・味覚(舌)・触覚(体)というように。仏教ではこれに法(意)を加えて六処とする。蛇には聴覚がないと言われる。ミミズには視覚がないと言われる。犬の嗅覚はヒトの1億倍という説もある。イルカやコウモリは人間にない探知機能(ソナー)を持っていると言われる。それぞれの生命(種)は、外界を認識するためのそれぞれのツールを有している。逆に言えば、認識される外界の姿はそれぞれの生命によって異なるということである。
 では、どの生命が認識した外界の姿が正しいのだろうか?
 我々人間?
 犬 (逆立ちしたGOD)?
 イルカ?
 ゴキブリ?
 ET?
 樹齢7000年の縄文杉?
 畑の白菜?
 「盲人象を撫でる」のことわざ通り、どの生命も外界の一部をそれぞれの認識限界内で捉えているに過ぎない。
 だから、「すべての生命は認知症」なのだ。

 キリスト教徒ならこう言うかも知れない。
「その通りです。ただ唯一、全知全能の神様だけが世界の正しい姿を知っておられるのです」
 全知全能の神様を認識する人間の認識が偏っているのだから、何をかいわんや。

 介護の仕事で認知症の高齢者と日々向き合って対応の難しさにボヤいている自分であるが、「自分もまた二重の意味で(人間として、生命として)認知症にほかならないんだ」と謙虚に思った年明けである。


2016冬



 


● 永久不満機関 本:『沙門果経』(アルボムッレ・スマナサーラ著、サンガ文庫)

2009年5月刊行(文庫版2014年4月発行)。
 
沙門果経 001

 確実なブッダ口伝の教えとしてテーラワーダ仏教(初期仏教)の世界で2500年以上前から伝えられてきた経典である。
 沙門とは出家修行者のこと。
「仏教で出家すると、どんな果報(利益)がありますか?」というマガダ国のアジャータサットゥ王の問いに、ブッダが長時間にわたり順を追って丁寧に回答したものである。

戒律を守ることによる果報、サマタ瞑想(止行、四禅)による果報、ヴィパッサナー瞑想(観行)による果報(六神通)が、順を追って説かれ、また、冒頭部ではいわゆる「六師外道」の思想と仏教との思想比較も盛り込まれるなど、初期仏教のあり方を総合的に説明するとても貴重かつ代表的な経典となっている。(ウィキペディア「沙門果経」より抜粋)

 問いかけを行ったのがアジャータサットゥ王であるというのがミソである。
 この王は、ブッダの従兄弟でありながらブッダの命を狙い教団の分裂をはかった悪名高きダイバダッダに唆されて、実の父であるビンビサーラ王を幽閉・殺害して王位を奪ったとされている。仏典の代表的な悪人なのである。
 その後、アジャータサットゥは自らの罪に懊悩し、ブッダのもとに赴き、悔い改めて仏教に帰依するようになった。ただし、育ててくれた親を殺害するという逆罪を犯したため、ブッダ直々の説法を聴いたにもかかわらず悟りに至れず、死後は地獄に堕ちたとされている。
 
 例によって、スマナサーラ長老の解説は平易な日本語で分かりやすく、しばしば使われる喩えも適切で面白く、当時の時代背景や文化や習慣の説明も加えながら、古い仏典を生き生きと現代に蘇えらせるのに成功している。何より素晴らしいのは、日本の仏教研究者による翻訳と違って、ご自身がテーラワーダの一沙門であり、戒の守り手であり、瞑想の実践者にして指導者であり、沙門の果報をいままさに得ている立場の人による解釈である、という点に尽きる。13歳で出家して50年以上沙門として生きてこられ、自らの血肉となった体験に裏打ちされた言葉なのである。説得力は十全。実際、この経典のこれ以上のレベルの邦訳は考えられまい。
 このような書を日本語で読める幸運に感謝するほかない。
 

以下、引用。

 仏教の立場でいうと、人の話は否定か肯定かと先を急ぐよりは、まずそのまま理解しておいたほうがよいのです。理解というのは「認めた」という意味ではありません。

 仏教では人間は自由だとも、自由でないとも言わないのです。すごく複雑です。意志と言ったとたん、自分が自由なような感じがするのですが、なぜそんな意志が生まれたかということを見ると、そこに条件が出てきてしまう。ですから意志自体も、まったく不自由ではないのですが、自由でもないのです。
 仏教では判断力というものを大事にしています。正しく判断することができれば、正しい意志ができあがるというのです。

 仏教という哲学から見れば、生命の生きる目的は人格を完成すること、つまりありったけの煩悩をなくすことです。

 ひとことで言えば、仏法というのは存在に対する執着にあきれ果てるためにあるのです。存在を賛嘆するのではなく、存在のはかなさやみじめさ、いくら努力しても生きることは不安で空しく終わることを強調するのです。これは、一方的に生を賛嘆する俗世間の人々にとっては、素直に受け入れ難いかもしれません。
 でもそれが、聞く耳を持てるようになり、自分でも真剣に自分の生のことを考えるようになってくると、あきれ果てることができるようになります。

 仏教では、最終的に達するべき目的は明確です。輪廻を回転しながら生きることにはなんの意味もなく、それを脱することこそが、生命にとってはゴールなのです。ゴールに達したら、「やっと苦しみが終わった」「やるべきことは終わった」という絶対的な安心感が生まれます。その時点で一切の義務は終了するのです。


 「生きる目的は何か?」という問いは、古来から人類の最大かつ最深なテーマであるが、仏教はすでにそれについて2500年前に答えを出している。
「生きる目的とは、もうこれ以上生きなくても済むようになること」

 なるほど、仮に人類に‘生きる目的’が事前に明確に顕されていて、誰もが生まれつきそれを知っているとしたら、人は何の迷いもなくその‘生きる目的’を果たすために生きていくだろう。で、それが達成された暁には、「ああ、これで終わった。もうこれ以上生きる必要はありません」と終了宣言し、死ぬまでの残された時間を文字通り‘余生’として安穏に暮らすことだろう。逆に言えば、「もうこれ以上生きる必要はありません」と見切りがついた時点で、人は‘生きる目的’を達成したことになる。
 人類が「生きたい、生き続けたい、生まれ変わりがあるなら再生したい」と願うのは、まさに「生きる目的」がブラックボックス化されているからという単純な理由による。回答がないという苛立ちがエネルギーとなって生き続けているのであろう。
 それが無知(=無明)の正体なのかもしれない。



 



 

● 孤独な修行者 :日本テーラワーダ仏教協会月例講演『えっ、私が悪いの!? 疑うべきそれぞれの常識』(話者:アルボムッレ・スマナサーラ長老) 

日時 2015年6月26日(金)18:30~
会場 中野ZERO小ホール(東京都中野区)

 幸いなことに早番だったので参加できた。
 日中は段取りよくテキパキと業務を進め、定時になるや更衣室に直行。褥瘡についての学習会参加を呼びかける館内放送が響く中、迷いも無く施設をあとにした。
 中野サンモール商店街でかき揚そばを食べ、途中にあるベローチェで眠気覚ましのコーヒーを飲み、中野ZEROに向かった。

 アルボムッレ・スマナサーラ長老による月例講演会に参加するようになってからずいぶんになる。
 今では、自分にとって月のもっとも大切な行事(一日)であり、仏法について学び、俗世間から離れた視点から自分自身や世間や社会を見直す機会となり、かつ修行のモチべーションを高めることのできる有意義な時間である。出られるときは必ず参加するようにしている。会場が職場からわりに近いことも幸運である。
 
 今日もまた6割がた埋まった会場の後方の座席について、講演中の印象的な言葉をメモしようとノートとボールペンを手に、パワーポイント映写されたスクリーンに対峙した。
 が、なにせ8時間の重労働(介護)のあと、しかも今日は午後から入浴介助。汗をかいて体はクタクタである。
 講演冒頭の日常読誦(読経)が済むやいなや、瞼は垂れ下がり、首はコクンと前にうなだれた。
 40代半ばまではこんなことなかったのに・・・。
 かき揚そばは失敗だった。コーヒーだけで良かった。
 よって、講演は後ろ半分しか参加できなかった。
 情けねえ・・・
 
 しかし、話されている内容はおおむね理解できるものであった。
 人間の持つあらゆる意見・論・見解・印象は、つまるところ各人の主観に過ぎないので、他の人と完全な一致を見るわけがない。そのことに気づかず、お互いの意見に固執し、あい争ってもなんの解決にも至らない。コミュニケーションがうまくいくはずもない。まず、自分の意見が単なる主観に過ぎないことを自覚し、「自分が間違っている」可能性のあることを常に自覚しなければならない。
――というような内容であった。(これも主観的な解釈かも。半分寝ていたし。)

 テレビ朝日の『朝まで生テレビ』が始まったばかりの大学生の頃(1987年)、夜更かしして夢中になって観ていた。天皇制や部落問題などタブーとされる話題も果敢に取り上げて、斯界の著名人らによる議論の応酬や、いい大人たちの感情の幼稚な暴発ぶりを見るのが面白かった。
 しばらく見ていて、「ああ」と腑に落ちたことがあった。
 それは、「あらゆる意見・哲学・論は結局その話者の主観に過ぎず、自らのアイデンティティを支えるための自己正当化に過ぎない」という気づきであった。科学分野における論(万有引力の法則とか相対性理論とか)はとりあえず別として、洋の東西問わず、歴史上のいかなる哲学も、社会的なトピックに関するいかなる論も、もとより正解はないのである。多数派だから正解と言うこともないのである。それぞれが自己のアイデンティティの正当化を図ろうとする延長上に、もっともらしい理屈をこねているに過ぎない。
 それがわかってから、自らの意見こそが「絶対に正しい」と信じ込んで相手を言い負かそうと必死になっている出演者らがアホに見えてきて、番組自体馬鹿らしくなって、見るのを止めてしまった。
 たが、今思うにあれは、討論することでどっちが正しいかを決めようとしたのではなく、意見の多様性を視聴者に知らしめようとしたのでもなく、いわんや視聴者の意識を高めようとしたのでもなく、単なる「机上プロレスショー」だったのである。田原総一朗はアンパイヤだったのだ。
 もとより視聴率が取れなくては番組にならない。
 (だが、上記の気づきを視聴者の一人である自分にもたらしてくれたのだから、製作者や出演者には感謝すべきだろう。)

 さて、講演内容はともかく、今回「なぜ自分がこの月例講演会に参加するのか」に思い当たった。
 もちろん、法話を聞きたい(=仏法を学びたい)というのが一番ではある。
 が、今日のように半分眠って過ごしていても「十分来た甲斐があった」と思うわけである。
 それはなぜか。
 一つには、サンガ(仏道修行の仲間たち)に出会えるからである。
 ふだん自分はたった一人で本を読んで仏法を学び、たった一人で瞑想している。テーラワーダ仏教を学んでいてお互いに励ましあえるような友人、いわゆる法友を持っていない。お寺(京王新宿線の幡ヶ谷にある)に行くことも滅多にない。孤独な修行者である。
 孤独な修行者はときに迷うのである。
 
 自分がやっていることは正しいのか。
 こんな世間的価値観とはかけ離れた仏教というものに、時間やお金や気力や能力を費やしてあたら人生を無駄にしていないか。
 何年も修行をしているのに結果が見えない。このまま続けていてもいいものか。
 こんな陰気臭いことをする代わりに、もっと生活を、もっと人生を楽しむべきではないか。
 自分の欲求に忠実であるべきでないか。
 自分は仏教に依存することで、‘何か’から、あるいは人生そのものから逃げているのではないか。
・・・・・・等々。

 仏教的観点で言えば、これらは自我の策略である。
 修行の進展によって正体が暴かれ弱毒化されていく‘自我’が、なんとか生きのびようとして、修行を邪魔せんと修行者の中に迷いを生じさせるのである。
 お釈迦様でさえ、菩提樹の下に座し解脱に達する最後の瞑想中に、悪魔の声を聞いたのである。

 君はやせ細り、体が黒ずんでいる。あなたは死の瀬戸際にある。
 死が千分なら、あなたの命は(ただの)一分。君よ、生きたまえ。生きることが優れているでしょう。生きていて、諸々の善行為を行いたまえ。・・・・・・
 あなたの修行は何の役にも立たない。修行の道は厳しい。成し遂げることは難しい。
(アルボムッレ・スマナサーラ著『日本人が知らないブッダの話』学研発行)

 お釈迦様はこのように答え、悪魔を退けた。

 私はムンジャを挟んでいる。命は惜しまない。敗北して生きるよりは、戦って死ぬ方がよい。

 ムンジャとは草の葉っぱのことで、昔インドで戦士たちがターバンにムンジャを挟んで死ぬ覚悟で戦いに赴いた故事に由来する。
 
 自分とお釈迦様を較べるつもりは毛頭ないものの、やはり瞑想が進むほどに、仏教にはまり込むほどに悪魔の声も強くなるのは事実である。
 そんなときに、同じ修行者の多く集まる月例講演会に参加し、別段会話をせずとも、「これだけの仲間がいるのだ。自分一人ではないのだ」と知ることは、悪魔を退ける力となる。
 仏教では、仏法僧を三宝とするが、僧(サンガ)――広くとらえて在家信者の集まり――にはそれなりの意義があるのだ。
 そろそろ法友が必要なのかな・・・。

 今一つの理由は、やはりスマナサーラ長老の存在に触れることにある。
 自分の軸がしっかりせずに右に左に揺れている自分が――仏教を知ってその振幅は以前より小さく単純な動きになったが――しっかりしたアンカー(碇)がほしいとき、スマナサーラ長老の確固たる存在感は‘効く’のである。姿を見るだけで安心するのである。
 これに関しては、当のスマナサーラ長老がこんなことを書いている。

 なぜ、一部の人々には影響力があって、他の人々には影響力がないのでしょう。
 両者を分けるのは、「生き方に自信を持っているか否か」ということです。「私はこういう理由で、このような生き方をしています」と、自分自身で自分の生き方に対して確信を持つこと。それが影響力の源になるのです。生き方が優柔不断・曖昧ということでは、影響力はまったく生まれません。(日本テーラワーダ仏教協会会報『Patipadaパティパダ』2015年6月号智慧の扉より)

 確かに、自分がこれまでに出会った影響力のある人々を思い起こすと、上記の言葉がぴったり当てはまる。
 何を信奉しているか、何を語っているか、何の仕事をしているか、どんな地位にあるか、どんな風采であるか、世間的に有名か否かなどは、あまり関係ない。自分の選んだ生き方について自信を持ち、日々それを基盤にして生き、それなりの覚悟のある人が、良きにつけ悪しきにつけ、自分に対する影響力を行使している。
 スマナサーラ長老はまさにその典型である。 
 
 サンガに出会い、長老に出会い、「やっぱり自分には仏教しかない」と納得し(なかば諦め)、会場を後にしたのであった。


サードゥ、サードゥ、サードゥ

ハスの花ピンク


 








● クールでドライ 本:『迷いと確信 大乗仏教からテーラワーダ仏教へ』(山折哲雄、アルボムッレ・スマナサーラ対談)

迷いと確信2007年サンガ刊行。

 日本でテーラワーダ仏教を教え続けて20年以上になるスマナサーラ長老は、これまでにいろいろな著名文化人と対談を重ねている。
 ざっと思いつくままに上げてみるだけでも、
① 玄侑宗久(臨済宗僧侶、作家)
② 立松和平(作家)
③ 鈴木秀子(聖心会シスター、評論家)
④ 南直哉(曹洞宗僧侶)
⑤ 有田秀穂(脳生理学者、医師)
⑥ 夢枕獏(作家)
⑦ 香山リカ(精神科医、評論家)
⑧ 瀬戸内寂聴(天台宗僧侶、作家)
⑨ 養老孟司(解剖学者)
⑩ 小飼弾(プログラマー、実業家)
 錚々たる顔ぶれである。
 自分がもっとも面白く読んだのは、④南直哉との対談『出家の覚悟』と⑩小飼弾との対談『働かざるもの、飢えるべからず』(ともにサンガ発行)である。
 対談相手によって、話されるテーマや雰囲気や話の難易度はずいぶん異なる。
 一般に、僧職相手の場合がもっとも話の密度が濃く、仏教用語が飛びかうためもあって難しく、丁々発止のやりとりが炸裂している印象がある。どうしても、大乗仏教V.S.テーラワーダ仏教の構造になってしまうし、無常や無明や輪廻転生や悟りなど仏教の真髄に触れる対話になってくるから、そこは乗る船は違えども同じ仏弟子同士、切るか切られるかの真剣勝負である。読者はそこに面白みを感じ、かつ学ぶわけである。

 宗教学者として著名な山折哲雄(父親が浄土真宗本願寺派の僧侶であったらしい)との充実した対話が楽しめるこの本もまた、ブッダその人や仏法に関わる話題はむろんのこと、日本仏教の歴史や現状、現代日本社会の諸問題、仏教的な見方やライフスタイルが日本人の生死にどう役立ってくるか・・・といったことを縦横に語り合っていて興味はつきない。
 特に「仏教カウンセリングの実践」と題した第三章において、①‘妄想ループ’が人の苦しみをつくり出していること、②それは認識の欠陥(=無明)によって起こること、③それを断ち切るためには観察(ヴィパッサナー瞑想)が有効であること、をまことにシンプルに語って、全編中もっとも対話--というか言葉の真の意味での‘問答’――が白熱し、ページをくくる手が震える。いわば、この本のキモである。
山折:    無明はどこから来るのですか。
スマナサーラ: どこからも来ません。
山折:         人間であれば、必ず無明ですか。
スマナサーラ:  「生命であれば」無明です。
山折:         存在それ自体が無明であると。
                   では、存在をそのままの形にしている限り、悟れないことになる。
スマナサーラ:  存在は正当化すると悟れません。  

 上記のすべての対談において共通して言えるのだが、スマナサーラ長老の語りの論理的なことにはほとほと感心する。
 これは、ギリシア論理学と並び称される強靭な論理学の歴史と体系を誇るインド文化圏(スリランカ)に長老が生まれ育ったことに由来するのだろう。元来、理知的で科学的な頭脳の持ち主(理系)でもあるのだろう。その上で、客観的に事実に基づいて観察することを重視するテーラワーダ仏教のマスターなのだから、これは本邦のちょっとやそっとの学者や評論家では敵うところではない。
 上記のどの対談を読んでも、スマナ長老の語りが圧倒的に明晰で論理的で、事実と事実でないものを伝えるときの言葉の配慮が行き届き、十二分にクリティカルシンキングおよび弁論のトレーニングが為されているのが感じられるのにくらべ、日本人の対談相手は全般、情緒的で直感的で、どこまでが実際のデータ(テキストや統計など)にもとづいた意見(事実)で、どこからが伝聞や憶測で、どこからが本人の体験や考えなのかの区別があいまいである。「そのときそのときの気分で思いついたことを話している」といった印象すら受ける。
 日本語の特質のせいでないことはもはや明らかである。
 スマナ長老のセリフのはしばしにそうした特徴は伺われる。
○ その場合はデータがないと研究になりません。
○ 論理的にはその可能性があったといえます。しかし、それにはデータを出して調べなければならない。
○ 私の個人的な経験で言えば、できない人の方が少ないです。
○ どうやって死後を言えるんでしょうか。仏教は厳密に論理的な世界です。過去世は歴史だから言えるんです。来世はまだ現象化していないから。言えるはずがありません。
○ それはインドで書かれた経典でないから、私は勉強していないのでわからないんです。
○ それは日本人の問題であって、それに私が答える必要はないと思います。
○ 山折:阿難尊者の優しい穏やかな表情というのは、わが国の平安時代から鎌倉時代にかけての代表的な釈迦仏とか阿弥陀如来仏とか大日如来と非常によく似ていると言っていいかもしれない。その点では単に、美男におわす、だけではないのではないか。
 スマナサーラ:遺伝的に言えば、顔、形はお釈迦様に似ていないとだめです。兄弟ですから。
 まったくクールでドライである。(ビールの宣伝か)

 さて、二日間にわたる対談の最後に山折はこう慨歎する。
 スマナサーラさんのお話を伺って、つくづく思ったことが一つだけあるんです。それは、同じ仏教といいながら、テーラワーダ仏教の伝統というのは、一種の「確信の仏教」、つまりブッダの生き方を確信する人々の仏教だ、ということです。それに対して大乗仏教とは、誤解を招きやすい言い方になりますが、「迷いの仏教」ではなかったのかと。「確信の仏教」対「迷いの仏教」。これがテーラワーダ仏教と日本の仏教の大きな違いではないかということです。
 今まさに日本における仏教というのは、この「迷いの仏教」の伝統の中で迷いに迷っているという感じがします。とはいっても、それは必ずしも悪いことじゃないんです。ただ、その重点の置き方は大きく違っている。人間生きるか死ぬかという問題についても、テーラワーダ仏教の側からは、つねに確信する者の声や響きが聞こえてくる。だからこそまさにテーラワーダ仏教なのでしょう。(ソルティ注:テーラワーダとは「長老」の意) これに対して大乗仏教というのは、常に大衆の側に立って考え続けてきた。迷わざるを得ないわけです。その究極の状態に日本の仏教はきているのかもしれない。

 この潔さは、山折氏の学者としての、あるいは一人の人間としての謙虚さや柔軟性を十二分に示していよう。
 と同時に、氏が大乗仏教の研究者ではあっても僧侶ではないところにも拠るのかもしれない。
 いずれにせよ、パラダイムを変える力をもつ大胆にして鋭敏な洞察である。



 





● 王様の涙 初期仏教講演会:『やめたいことはやめられる~ブッダに学ぶ「やめる」訓練』(演者:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

 12月6日(土)中野ゼロにおける日本テーラワーダ仏教協会主催の月例講演会。

 今回のテーマは、‘やめたいのにやめられない’好ましくない習慣(悪癖)を如何にしてやめるか、というもの。
 仏道修行を生きる糧としているのになかなか飲酒がやめられない自分にとって、ドキッとするテーマである。

 開口一番、スマナ長老は宣言する。

「やめたいのにやめられない」と言うのは嘘です。本当にやめたいのだったらとっくにやめているはずです。実は‘やめたい’と思っていないのです。自分の意思で好んでやっているのです。

 まさに図星。
 飲酒をやめたほうが絶対に修行がはかどると分かっているのに、飲んでいる時間や酔っ払っている時間をもっと有効に使えるのは明らかなのに、「まあこれくらいいいではないか」と自分を甘やかしているのが事実である。
 「理性を失って、あとから後悔するような言動をしないでいられるレベルまでならOK」とか、「自分一人で部屋でたしなむ程度(缶ビール一缶)なら、誰に迷惑かけるでなし、よいだろう」とか、「赤ワインは健康ドリンク(ポリフェノールたっぷり)であってお酒のうちには入らない」とか、「若干の飲酒は寝つきを良くするから」とか・・・いろいろ理屈をつけて飲み続けている。
 お酒が好きか、赤ワインが好きか、酔っている状態が好きかと言うと、実のところそうでもない。
 では、なぜ飲むのか。
 自己分析するに、一つには「あまりストイックなお堅い人間にはなりたくない」という牽制が働くからである。自分に厳しい人間は他人にも厳しくなりがちなので、車の運転操作で言うところのある程度の‘あそび’があったほうが良いのではないか、と思うからである。(これもまた言い訳?)
 もう一つは――こっちのほうが真相を突いていると思うが――飲酒に依存しなかったら、もっと大変なものに、人生を狂わせてしまうほど厄介なものに依存してしまいそうだからである。
 たぶん、多くのアルコール依存症やニコチン依存症の人の深層心理にこの思考が働いているような気がする。
「明らかに自己破壊につながるもっと依存性の強い‘あっち’を我慢しているのだから‘こっち’くらい許してよ」
「‘こっち’くらいでなんとか制御しているおかげで、もっと自分をダメにするであろう‘あっち’の習慣に行かないで済んでいるんだ」
--という思考である。
 このからくりというか内心の弁明は、当事者でなければわからない。外側からカウンセラーやソーシャルワーカーや医師や保健師が、いくら本人に「お酒をやめろ」「タバコをやめろ」と言ったところで、このからくりを理解しない限り、立て板に水であろう。当事者ですら自覚していないのが普通かもしれない。

 そんなわけで飲酒をやめないでいる自分なのだが、どういうわけか、最近自分の友人たちでお酒をやめる人が続出している。「あんなに日本酒好きだった奴が!」「週末になると必ず飲み屋に出入りしていた奴が!」次々と、「自分お酒をやめました」宣言をしてくる。
 いったい、何が起こっているのだろう?
 たしかに、自分の友人たちはもういい歳(40~50代)である。体の負担を感じてもおかしくはない。人生ももう秋、お酒を飲んで無駄にする時間がもったいないと思っても不思議ではない。自分もまた「お酒の席で話したことや起こったことや意気投合したかに見える人間関係は、そのときは非常に意義を感じたり、価値を感じたり、得したような気分になったりするが、醒めてみると、結局益するものが少ない」と、飲酒生活30年でいい加減気付いている。
 飲酒で得することと損することを比べれば、やっぱり針はマイナスに振れるであろう。

 話を戻して。
 「やめたいのにやめられない」は欺瞞であり、「やりたいからやっているのだ」と正直にはっきりと自覚することが大切である。
 「やりたい」は欲望であり、心に生じる様々な感情や気分(=悪感情)をもとに熾ってくる。この悪感情がうごめいている段階で、それをしっかりと認識し、それに流されないで客観的に分析する。いま悪感情と言ったが、仏教では感情はすべからく悪感情である。感情による判断は決まって間違っている。
 以下、スマナ長老直伝の仏教による「悪感情に打ち勝つための方法」。

1. まず、心に様々な感情が湧く。
2. そのとき、「この感情でいる私は幸福、楽しみ、安らぎを感じていますか? 苦しみ、不幸を感じていますか?」とチェックする。
3. 行為をしたくなった時も同様にチェックする。
4. 行為するときも、して終わってからも、同様にチェックする。
すると、
5. 正道が徐々に現れる。
6. 行為と感情の関係がわかるようになる。どのような感情が、どのような行為を引き起こすかを発見できるようになる。
7. 正しい行為によって、自分がどのように幸福になっているのかを理解する。
8. 自分の正しい行為で他者も幸福になるのだと発見する。
さらに、
9. 無知のせいで、無常なる現象に執着していたことも、執着が不幸を司っていたことも、執着はもともと成り立たないことも、発見する。
10. 執着を減らす生き方をすることで幸福に生きられることも、執着を捨てることで究極の幸福に達するのだということも発見する。

 人間がやっているすべてのことは、原始脳が司る「存在欲(=生きていたい!)」と「恐怖感(=死にたくない!)」から熾っています。あらゆる感情は、この「存在欲」か「恐怖感」を基盤として、そこから派生しています。人間は、原始脳(獣の脳)に支配されています。大脳が原始脳に支配されているのです。
 不幸と苦しみを作り出す原始脳の支配を破って、客観性と理性で働ける大脳に支配権を与えることが仏道修行です。

 いつもながら大胆すぎる。
 人が働くことも、子供を生み育てることも、家族を養うことも、勉強して偉い学者になることも、政治家になることも、練習を重ねて超一流のアスリートになることも、芸術を創造することも、友達をつくることも、恋愛することも、他の人を助けることも、すべてが原始脳の働きと言うのである。そして、そこから脱出しなさいと言うのである。

 と、ここまで書いてきて気づいた。
 自分が飲酒をやめられない今一つの理由は、真の仏教徒になることへのためらいの表れなのだ。こんな途方もない、ある意味‘非人間的な’思想を本気で受け入れて、彼岸に渡ってもいいものかどうか、深い崖の前でおびえているのである。(むろん、この感情こそエゴの仕業であろう。)

王様の涙




● 本:『人に愛されるひと 敬遠されるひと』(アルボムッレ・スマナサーラ著、角川文庫)

愛される人敬遠される人1998年国書刊行会より刊行。
2012年角川文庫より発行。

 仏教的観点から説く人間関係の極意。
 通勤電車の中で気軽に読めるくらい、やさしく、わかりやすく書かれている。
 が、やはりスリランカ上座仏教長老の本である。
 一見、女性向け月雑誌かPHP研究所が取り扱いそうな成功哲学風テーマと表装を装いながら、中味ははじめから終わりまで、釈尊の言説からはずれることない骨太の仏教書。
 冷徹な人間観察から導き出された‘ありのままの’事実にみぞおちを突かれるところが随所にある。
 冷徹な人間観察とは、つまるところ、人は無明に閉ざされている
 
 以下、引用。 
 

 世界中でほんとうにつき合いにくい存在というのは人間です。人間はいちばんつき合いにくい。それをまず覚えておいてください。人間には社会性はまったくありません。・・・・・偉そうに「人間というのは社会的な動物だ」などと言う学者がいますが、「何をバカなことを言うのですか」と言いたいのです。
 
 自分のことしか考えない私たちが、なぜ人とつき合いたがるのでしょうか。それは自分のためなのです。つまり自分の利益のために他人とつき合いたがるのです。損をするために人とつき合う人はいません。
 
 人とつき合うときに大切な心構えをいくつかお話しします。まず第一に大切なことは、自分はわがままであると正直にきちんと認め、嘘をつかないことです。
・・・・・・・次に何をどうすればいいのでしょうか。次はとても大切なポイントですからよく覚えておいてください。それは「何があっても驚かない」ということです。・・・・・・私からあえて言うならば、人が人を殺すことも当たり前なのです。一人の人が十人も二十人も殺しても、また当たり前のことなのです。
 
 悟りをひらくということは一般的にも、また仏教でも非常にむずかしいこととされています。しかしそのむずかしい悟りをひらくこと以上に、「人とうまくつき合う」ということは、さらにむずかしいことなのです。
 
 悟りを開くための修行は、少しまじめにがんばれば意外と早く終了できるのです。「生命として解脱をしました」と落ちつくことができます。
 でも残念ながら、「人とつき合う」という修行だけは終わりのない一生の修行です。「もうこれでいい」という終わりはありません。卒業することのない教育なのです。
 
 仏教から言えば、正しい人間関係というのは、「私」の、「私個人」の修行であって、「私」の心を清らかにすることであって、「私」が、「私自身」が立派な人間になることなのです。
 
 心は本来は清らかな仏性だ。神からいただいた魂だなどというのは仏教とはまったく逆の立場です。仏教では、心というのは、真っ暗で、汚くて、臭くて、悪そのものだというのです。心をちょっとでも放っておいたらどれほど悪いことをするか分からないと言うのです。自分の心に対しても、どんな悪いことをするか分からないぞと常に警戒しておくことが必要なのです。
 


● 犀の角 仏教講演会『結果を出すチーム力』(講師:アルボムッレ・スマナサーラ)

 11/7(金)中野ゼロ 日本テーラワーダ仏教協会主催の月例講演会。

 いつものように開始間際に会場に入って席に着き、おもむろに周りを見渡し、なんとなく変な感じがした。
「なんだ?」
 しばらくしてハッと気がついた。
「男が多い!」
 会場にいる約300名のうち9割以上が男性である。
 いつもは男女半々くらいか、若干女性のほうが多い印象があるのに・・・。
 いったい、どういうことか。
 スマナ長老に急に男性ファンが増えたのか?
 女性会員に人気のイケメン僧侶が、どこか別のところで法話をおこなっているのか?
 何か女性会員に総スカン食うようなことを事務局がしでかしたのか?
 ・・・・・と、数秒のうちに様々な憶測が頭の中を駆けめぐったが、答えは単純であった。
 本日のテーマ、副題は「元気な組織、ダメな組織」。
 男は組織論が好きなのである。
 これが「仲のいいグループ、仲間割れするグループ」とでも副題を立てれば、おそらく女性参加者がもっと増えたであろう。

 話の内容は、まさに組織論で、上手くいく組織のあり方というものを仏教的観点から説明するものであった。

 今回、もっとも面白かったのは、原始仏教経典『スッタニパータ』の中の有名な「犀の角」の解釈についてであった。
 『スッタニパータ』は数多い仏典のうちもっとも古く、お釈迦様の言葉を最も忠実に伝えているものとみなされている。邦訳では岩波文庫から中村元氏の訳により『ブッダのことば』というタイトルで出ている。
 「犀の角」の教えは、その最初のほうに出てくる。
 

あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況や朋友をや。犀の角のようにただ一人歩め。(岩波文庫『ブッダのことば』)

 という偈(げ=詩句)から始まって、

今のひとびとは自分の利益のために交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。(同上)

 という偈まで、41ある偈の末語がすべて「犀の角のようにただ独り歩め」で終わる。
 岩波文庫の中村元氏の解説を読むと、こう書いてある。 

「犀の角」の譬喩によって、「独り歩む修行者」「独り覚った人」の心境、生活を述べているのである。 「犀の角のごとく」というのは、犀の角が一つしかないように、求道者は、他の人々からの毀誉褒貶にわずらわされることなく、ただひとりでも、自分の確信にしたがって、暮らすようにせよ、の意である。(同上) 


 これに対してスマナ長老は異を唱えた。 

「犀の角」は聖者が自らの心境を語ったものです。「汝、~せよ」と他人に命じるものではありません。

 原始仏教経典は古代インドの俗語であるパーリ語で伝えられているのだが、その厳密な文法解釈から、末尾は命令形ではないと言うのである。
 すなわち、悟った人(=聖者)が己の心のありようを披瀝した独白(モノローグ)であって、弟子たちや在家信者に「このように振る舞いなさい」と説いているものではない。
 上記の最後の偈を、スマナ長老は次のように和訳した。

人は何かの理由あって人づきあいする。自利を目指さないつきあいは珍しい。自利のみを目指す人間は不潔です。聖者は犀の角のように独り歩む。  

 中村元氏の訳とは、かなりニュアンスが違ってくる。
 中村訳だと、「人づきあいにおいて自分の利益をめざさないような人は少ない(特に今日では)」という意味になる。スマナ訳だと、「(いつの世にあっても)人は自分の利益をめざして人づきあいするものである」と解釈できる。
 中村訳は、世俗の人間関係のありようを嘆いているようにとれる(『徒然草』の吉田兼好風に)。スマナ訳は、人間存在のありよう(=無明)を根源において喝破している。
  すごい違いだ。

  よくよく考えるに、スマナ訳の否定できなさが痛感される。
 人が誰かと付き合おう(仲良くしよう、関わろう)とするのはなぜか?
1. それによって物質的利益が得られる。
 例.金持ちとつきあって贅沢ができる。
   上司に可愛がられて出世して収入増。
2. それによって精神的利益が得られる。
 例.恋人ができて心や性欲が満たされる。
    家族ができて生きがいができる。
    友達ができて寂しさや退屈が満たされる。
    有名人と知り合って友人に自慢できる。
3. それによってスピリチュアルな欲求が満たされる。
 例.他人に奉仕(ボランティア)して自己イメージがUPして気分がいい。
    世界を救うために自己犠牲を払い、自分の存在価値が生み出せる。
    見知らぬ人に親切にすることで善業を積み、極楽往生できる。

  人が誰かと関わろうとするのは、究極的には「自分のため(エゴのため)」であるというのは、心の奥の奥まで覗き込んで正直に分析するならば、ごまかしようのない事実である。
 聖者はそのことを知っているから「独り歩む」のであろう。
 聖者でない我々は、せめて「相手のためにやっています」と言いたがる表面的な動機の底に潜むエゴの声を自覚(自己覚知)しながら、「100%自分のため」よりは、「70%自分のため、30%世のため人のため」を目指して、人と関わっていきたいものである。 



● 初期仏教講演会:『継続力~目的に達するために』(講師:アルボムッレ・スマナサ-ラ長老)

10月10日(金)中野ゼロ

 日本テーラワーダ仏教協会主催の月例講演会への参加は、自分にとって、月のもっとも大切な行事となっている。
 スマナ長老の話を聞き、喝を入れてもらい、日々の瞑想修行のモチベーションを高める。同時に、世間的価値にすっぽり覆われた日常生活(世俗)から一瞬心を引き離して、自分のあり方や日常の物事を相対化して客観的に見る機会となる。それによって、またルーティンな生活に、新たな気持ちで向き合えるのである。
 そしてまた、どういうわけか、スマナ長老の話はいつも、その時々の自分の気持ちや瞑想修行の進捗状況にピッタリ来るような、心のうちに抱えている問いに対して見事に「解」をもたらすような、不思議な符号(=シンクロニシティ)がある。
 今回も、自分が今まさにぶつかっている壁の存在を察知して(他心通?)、それを乗り越える方法を具体的に示し、励ましてくれるかのようなテーマと内容で、講演終了後に「わかりました。やってみます」と心の中でつぶやいた。


 今回のテーマは、目的に達するための継続力について。(以下、概要) 
 

「世に魔法はありません」
ゆえに、成功するためには地道な努力が必要である。
しかし、努力だけでは成し遂げられない。結果がでるまで継続することが重要。
一般に(俗世間的に)、人が継続するためのモチベーションとして用いているのは、「欲や怒りや嫉妬や恨みや傲慢などの悪感情」である。
しかし、「貪(欲)・瞋(怒り)・痴(無知)」で始めたことは、「貪・瞋・痴」で断念することになる。最終的には不幸になる。
「欲--たとえば、金儲けしたい、いい暮らしがしたい、出世したい、ひとかどの人物になりたいetc.--がなければ、そもそも商売や仕事ができないではないか」と反論したいと思うが、それは間違いである。
仏教的戦略は以下の通り。
1. まず、怒りを捨てること。悪感情から起こる「やる気」は堂々と断念すべき。
2. 欲を慈悲喜捨に変換すること。生きることは慈悲喜捨を実践するためにあるのだと決めてしまえば、何一つもあれこれ考えたり、悩んだり、心配したりする必要はない。
3. 理性と慈しみで目的を設定する。目的がない行為は決まって悪感情の衝動から生じている。慈悲喜捨で設定された目的ならば、やればやるほど明るくなる、元気になる、喜びと充実を感じる。
4. つまり、自然と目的に達するまで進むので、継続力は問題にならない。


しかし、慈悲喜捨で実践しても努力を止めたくなることがある。
それは、心に潜んでいる悪感情(=煩悩)のせいである。
悪感情が割り込んでくるたびに、慈悲喜捨でもってその感情を潰すことがポイント。
慈悲喜捨で生きれば、人生、自分のせいで失敗することはない。


 と、ここまでが世間的なレベルの話である。
 あまり知られていないが、仏教には、世間的レベルの教えと、出世間的レベルの教えの二種類がある。
 単純に言えば、前者は在家信者向けの教えで、「いかにすればこの世で人と争うことなく幸福に生きられるか。死んだら天国に生けるか。良い生まれ変わりができるか」という教えである。後者は出家者向けの教えで、「いかにすれば苦を終わらせることができるか。この世から離脱できるか。生まれ変わらなくて済むようになるか」という教えである。
 スマナ長老の話は――初期仏教の説法は、というべきか――だから、二段構えになることが多い。
 後半は、出世間的な「継続力」の話であった。
 ここからが仏教の本領であり、いまだに衝撃を感じることなしに聴くことは難しい。
 
生きることに目的はない。
存在欲(渇愛)によって、誰でも何かをしながら、死ぬまでただ闇雲に闘っているだけ。
ゆえに生きることは空しい(=一切皆苦)。
出世間的な生き方とは、生きることを断念するのではなく、そこから脱出する。
すなわち、生きることを乗り越えることを、生きる目的として設定する。
それが仏道の実践である。
「貪・瞋・痴」という本能に抵抗し、打ち勝つことが、真の精進である。

 今回、ドキッとした表現に「存在の罠」というのがあった。
 どういう意味か。


私たちは、普通に働いて、普通に家族を養って、普通に生活を送っていても、知らずに悪に染まってしまう。なぜなら、欲や怒りという煩悩こそが人の(動物の)本能だからである。世間の流れに沿った生き方は、人を安心させるが、実は危険なものである。  

 つまり、この世に存在するということ自体、あらかじめ罠にはめられているようなものだ、という意味である。
 本当に、仏教は西欧人の好きな「ブラボー、人生!!」とは程遠いところにある。
(ある意味、‘反社会(反近代)的’という烙印を押されても仕方ない気がするのだが、‘脱社会的(脱近代的)’というべきだろう。その昔‘ポストモダン’という言説が流行ったけれど、仏教こそが真の‘ポストモダン‘なのかもしれない。) 


 さて、スマナ長老の話は続く。 

仏道を実践すると、必ず本能の反撃があります。「貪・瞋・痴」の攻撃を受けます。
煩悩は、修行中に「妄想」として現象化します。
そうすると、修行を止めたくなります。
瞑想中に妄想が起きたときには、
① 座る場所を変える
② 修行の方法を変える(座る瞑想から立つ瞑想にする)
などの方法をとります。
日常生活では、
① 仏法を学ぶ
② 慈悲の瞑想を行なう
③ 社会奉仕をする
などして、煩悩に対する抵抗力をつけるのがポイント。
結果がでるまで、あきらめないでください。

 ――といった内容であった。

 今回、驚いたのは、最後の質疑応答で手を挙げた参加者の中に、16歳の男子高校生がいたことである。
 このような話をわざわざ平日(おそらく学校が終わってから)聞きに来て、大人たちで埋まっている会場の中で挙手するとは、たいしたものである。
「自分がこれから生きていくにあたって、これだけはしておいたほうがいいというものは何かありますか?」
というような質問内容だったと記憶する。
 彼のような子供は、教室で‘浮く’のだろうか。
 孤独を担わざるをえないのだろうか。
 この先社会で生きづらさを感じることになるのだろうか。
 それとも、意外にいまどきの‘マジョリティ’なのだろうか。 


 ともあれ、このような十代が存在するという発見が、「よし、おじさんも一つ頑張らねば」というやる気につながったのは事実である。
 2時間話したスマナ長老と同じだけの効果を、ほんの5分で成し遂げるとは!

 後世、畏るべし。 


Water lilies



● 本:『無知の壁 「自分」について脳と仏教から考える』(養老孟司、アルボムッレ・スマナサーラ対談、サンガ新書)

無知の壁 2014年刊行。

 2003年ベストセラー第一位『バカの壁』を書いた解剖学者と、テーラワーダ仏教(原始仏教)の長老との対談である。
 聞き手の釈徹宗は浄土真宗本願寺派の僧侶で、当ブログで紹介した『いきなりはじめる仏教生活』の著者である。

 最先端科学と原始仏教との相性の良さ(=符合する部分の多さ)をここでもまた確認することになる。
 聴衆を前にした対談(2011年5月に開催された講演会がもとになっている)で、お互いを尊重している二人の演者の話がきちんと噛み合っていることもあり、また釈徹宗が上手に聞き手&進行役をつとめていることもあり、とても読みやすく、わかりやすく、対談にありがちな話題の拡散も見られず、面白くて有意義な本になっている。

 以下、スマナ長老の発言。


●過去でこの身体に触れた情報は、今生きているこの身体には関係ないのです。今の身体と過去の身体は違うものです。「かつて楽しかった」「かつて苦しかった」「かつて強かった」「かつていじめられた」「かつて幸せだった」などは、今生きている身体にはなんの関係もない、どうでもいいことです。七十歳になる人が「かつて若かった」と言っても、「だからなんですか」という話でしょう。しかし、過去の認識データを、すべて自我という錯覚概念で一つの体系にまとめて一本化するのです。それが知識という働きです。過去はすでに消えたのです。再現されません。ですから、まったく不要なものだと思っても差しつかえないのです。


●無知の状態とは、どんな生命も本能的に持っている生存欲(存在欲)の状態です。理性とは着々と学んでいくもので、自分のこと、周りのことを理解するということです。一般人は知識レベルで止まります。知識もまた本能に管理されています。ですから知識はより楽に生きることと、より効率よく敵を殺すことを専門的にやっているのです。理性とは物事を自分中心に考えるのではなく、客観的な事実として調べることです。自分という主観が割り込むと、理性が働かなくなります。理性の代わりに感情が支配権をとります。智慧とは理性という踏み台を使って、人格を向上することです。・・・・・・・
 順番でいえば、本能・感情の衝動で生きることは無知で、物事を学んで生きる能力を上げることが知識で、人格的によりよい人間になることは理性で、人格を向上して本能に打ち勝って、心の汚れをなくすことが智慧ということになります。

 
 

● 講演:『なぜブッダを念じると幸福になるのか?』(演者・アルボムッレ・スマナサーラ)

 9月6日(土)中野ゼロで開催された日本テーラワーダ仏教協会主催の月例講演に参加した。
 今回の講演はずいぶん刺激的で面白かった。
 歳をとると、どうしても講演の最中に眠くなる。いったん椅子に座ると日常の疲れが浮上してきて、それを癒そうとするモードに体は自動的に入る。また、昨今はパワーポイントとプロジェクターを使ったスクリーン映写講義がどこでも主流だが、それは人を眠くさせる。画面を見やすくするために会場をいくぶん暗くせざるを得ないし、スクリーンに映った文字を読むのに目が疲れる。結果、睡眠モードに突入する。
 案の定、講演の始まった最初の30分ほどは座席で目をつぶって、うつらうつらしていた。
 しかし、スマナ長老が「思考」の構造の説明に入ったあたりから、俄然、意識は覚醒し、集中力は高まり、目はランランとしてきた。

 まず、スマナ長老はこう断言する。 

「思考が人生を作り出します。」

 これは精神世界で人口に膾炙する黄金律の一つである。 
 有名なところでは、アメリカの作家ナポレオン・ヒル(1883- 1970)の『思考は現実化する』(Think and Grow Rich)が思い浮かぶ。「日常何をどう考えているのかが、その人の未来や運命を大きく左右する。だから、自らの思考に注意せよ」といったものである。
 さして、目新しい言説ではない。
 が、ナポレオン・ヒルは「願望実現」の秘訣という意味で、これを言ったのである。スマナ長老の(仏教の)意図するところは、これとはだいぶ異なることがおいおい明らかにされる。

 スマナ長老は仏教的な思考の構造の説明に入っていく。
 ここからが面白い。
 思考には三つの層があるという。

第一層  私たちが普段気づいている思考や感情(表面思考)
第二層  私たちがたまに気づく思考や感情。いわゆる「無意識」(背面思考)
第三層  その人が持って生まれた基礎となる思考や感情(基礎感情または潜在煩悩)


 これをコンピュータのプログラムに喩えると、
第一層  アプリケーションソフト(文書作成、表計算、IE、メールソフトなど)
第二層  基本ソフト(WINDOWS、MAC OSなど)
第三層  BIOS(バイオス)


 最も深いところにある潜在煩悩(第三層)は、その人のカルマを深いところで形成している、本人を含め周囲の誰からも気づかれることのない思考や感情の層であり、生まれ変わっても持ち続けるのだという。
 この潜在煩悩は、たまに目覚めることがあるが、そのときは相当危険なのだという。(トランスパーソナル心理学で言うところの「スピリチュアル・エマージェンシー」という概念に相当するのかもしれない。)
 たまに、「わけもなく人を殺したくなった」と言って実際に何の恨みも利害関係もない相手を殺害する人間が現れたり、「なぜあんな立派な人があのような卑劣な犯罪を犯したのか皆目見当もつかない」といった事件が世間を騒がしたりするが、それはこの潜在煩悩の覚醒によるものだという。それは当人の把握していないカルマが起こした事象なので、本人も周囲の人間も専門家も、この種の事件には納得のいく説明を与えることができない。また、潜在煩悩が覚醒する時を予測することは誰にもできない。
 この三つの思考の層は、独立しているのではなく、互いにフィードバックしている。
 表面の思考は、背面の思考(無意識)に影響を与え、背面の感情の変化は基礎感情(潜在煩悩)に影響を与える。背面で起こった感情は、表面の感情を刺激し、それに反応して表面の感情は新たな思考や妄想を作り出す。日常生活で我々が軽い気持ちで思考したことは、感情を刺激し、それが背面レベルに影響を与え、潜在レベルにもなんらかの形で蓄積される。
 一つの層で起こった思考や感情の波は、他の二つの層に伝わって、そこで何らかの変容を起こして、再び最初の層に還ってくる。
 思うに、その行ったり来たりの波及効果の積み重ねがある一定の傾向をつくって、その人の性格、人生、カルマを作っていくのであろう。

 興味深いのは、第二の層である背面思考いわゆる無意識がもっとも活発に働くのは夜寝ているときであり、それゆえに、それがどんな性質のものか本人が知ることができるのは、朝目覚めた瞬間だという。
 つまり、朝目覚めた刹那の感情や気分というものが、その人の背面思考(無意識)の質を表している。
 これを聞いて合点がいったのは、自分自身(ソルティ)、昔から朝目覚めた瞬間が一日のうちで最悪(最低)の気分であることが多いからである。二日酔いではない。なにか「非常にもの悲しい、ブルーな気分」に覆われて目が覚めることが多い。特に憂鬱の原因となるような具体的な悩みもストレスもないのに――である。
 この気分は、頭を枕につけた状態で5~10分くらいすると靄のように消えていくのが通常である。学校のこと、仕事のこと、今日やるべきこと、いま心を占めている事象(喜怒哀楽)が、ウワッと気団のごとく頭に(心に?)入り込んできて、最初のブルーな感情をどこかに追いやってしまうのである。そこから一日が始まる。
 あるいは、目覚めてから読経するのがここ数年の日課となっているのだが、それによってブルーな気分は払拭され、「過去のこと、先のことを思い煩うなかれ。目の前の一日をしっかりと生きればよい」と平常心を纏う。そこから一日が始まる。
 そうしてみると、自分の無意識(背面)、潜在煩悩(基礎)は、かなりリスキーな性質のものなのかもしれない。
 くわばら、くわばら。

 さて、スマナ長老は進める。 

「すべての生命は、貪(欲)・瞋(怒り)・痴(無知)をさらに刺激する方法で思考します。すべての生命の本能は貪・瞋・痴です。」
 すなわち、我々の思考とは常に「煩悩」を増やすものでしかない。
 であれば、フィードバックシステムによって、表面の思考は他の二つの層にも影響を及ぼすのであるから、生命が生きること(=思考すること)は、「存在」をより悪い状況へ転化させることでしかない。  
「すべての生命はほうっておくと自動的に不幸になります。」
 ここが、ナポレオン・ヒルの思考論とは異なるところだ。「願望実現」という(世間的に見れば)ポジティブな思考でさえ、それが欲である以上、結局は不幸の引き金にすぎないと言うのである。
 

 仏教はそこにどう介入するか。
 答えは単純である。
 背面感情(無意識)、とくに基礎感情(潜在煩悩)には、我々は直接接触することができない。それらをコントロールすることも、変えることもできない。
 だが、第一層の表面思考(意識的な思考)は認識し、接触し、コントロールすることができる。我々が「なんとかできる」のはこの層に対してだけである。

意識的な感情(思考)を制御することが「鍵」です。
 第一層の汚れが取り除かれ澄んでくるにしたがい、フィードバックシステムによって、第二層、第三層の汚れも取り除かれ、次第に澄んでくる。無意識や、潜在煩悩の強い力によって、表面に現れる思考や行為がネガティブにコントロールされる危険も減ってくる。


 では、どのように意識的な思考(感情)を制御するか。


その1 サティ(念)の実践は究極の方法である。
 つまり、ヴィパッサナー瞑想を実践せよ。
 「思考」が現れた途端に、それに気づき、「欲なら欲」「怒りなら怒り」「嫉妬なら嫉妬」・・・と心の中で実況中継する。これをすることで、「思考」が身口意(行為・言葉・感情)に及ぼす破壊的な影響をダムのごとく抑えることができる。

その2 汚れた思考(貪・瞋・痴)をその都度正しい思考に置き換える。
 汚れた思考が起こってきたら――というより、ほとんどの思考は貪・瞋・痴であり、汚れているのだが――「思考」が起こってきたら、すぐにそれを強制終了させ、負の流れを生まないような「正しい思考」に置き換える。たとえば、
1.ブッダや阿羅漢など、聖者のことを念じる。 
2.ブッダの九徳を念じる。
3.仏法を学ぶ。
4.慈悲の瞑想を行なう。


 古来、いろいろな宗教や宗派において、祈りや念仏やお題目や真言やらの言葉を唱えることが推奨されてきた意味は、実はここにあるのかもしれない。
 すなわち、祈りや真言それ自体が持つ力によって「願いを叶える」とか「奇跡を起こす」というのは勘違いであって、大切なのは、すくなくともそれらを一所懸命唱えているあいだは、煩悩を増幅させる「思考」をストップさせることができる、ということなのかもしれない。
 もしそうだとしたら、煩悩が生じたときにすぐさま、数学の問題を解くのもあり?


 ちなみに、「ブッダの九徳」とは以下の通り。
 
世尊は、
①阿羅漢であり、
②正自覚者であり、
③明行具足者であり、
④善逝であり、
⑤世間解であり、
⑥無上の調御丈夫であり、
⑦天人師であり、
⑧覚者であり、
⑨世尊である。
ブッダに、私は生涯帰依したてまつる。

サードゥ、サードゥ、サードゥ
 



● 本:『日本の未来』(アルボムッレ・スマナサーラ著、サンガ新書)

日本の未来 2014年刊行。

 副題は「アイデアがあればグローバル化だって怖くない!」
 日本在住30年以上になるスリランカ出身の初期仏教のお坊さま(長老)から見た、日本という国と文化、日本人。その現状と問題点が率直に、縦横無尽に、語られる。
 そして、仏教の智慧に裏打ちされた日本の明るい未来への指針とアドバイスが、親身に、ユーモアたっぷりに、告げられる。

 取り上げられるテーマは実に多彩。
 日米関係、日中関係、日朝関係、靖国参拝問題、ゴミ問題、原発問題、開発問題、軍備武装と自衛隊、TPP問題、東京オリンピック開催、出生前診断・・・・。
 スマナサーラ長老の日本及び日本人に関する知識と理解の深さには感嘆せざるをえない。


以下、引用。

●仏教の人間は、将来や未来のことを心配しない、悩まない、そういう訓練をします。だからといって、いい加減ではありません。何も考えずに行動したりはしません。将来のことをまじめにいろいろ考えはします。これまでの状況から、将来のことをなんとなく読んだりもします。予測できないわけではなく、むしろ、仏教の智慧がいくらかでもあれば、将来について的確な見通しがもてたりするものです。
 しかし、だからといって、将来のことをあれやこれやと気にはしません。逆に、心配したり憂えたりしないよう、気をつけています。
 仏教は、「今、しっかり生きてみなさい」と教えます。今の時間を、何の失敗もしないで、後悔するはめにならないように、「ああ、よかった!」と思えるように生きてみれば、すべての問題は解決します。いつも、テーマは「今」だけなのです。

●日本人が世界のリーダーになってくれたらありがたいのです。日本人には、その資格があるのです。本当はアジアの国々が、中国さえもそう期待していたのです。日本人は最低でも、アジアのリーダーシップをとってくれるだろう、と。それを裏切ったのです。それで今、その結果を受けているのです。・・・・・・・
 リーダーシップとは自我を張らないことです。人の心配をするのです。人の幸福を願うのです。

●たった一人でも慈悲の実践をすると、周りが幸せになります。慈悲の実践とは世界平和とか、そんなちっぽけなことのためにやるものではないのです。すべての生命が平和で豊かで、お互い仲よく生きるための道なのです。慈悲の実践をすると、人間や地球上の生命だけではなく、神々まで豊かになる。「神々に守られますよ」と、お釈迦様ははっきりおっしゃっています。

● ありのままの私、になるの? 講演:「どうして仲良くできないの?」(講師:アルボムッレ・スマナサーラ)

 7月12日(土)中野ゼロで開催されたテーラワーダ仏教協会主催の月例講演会に参加。
 テーマ(副題)は「差別と区別の違いを知る」

 開口一番、スマナ長老が発したのは次の英文。

  Mankind is born to kill.
  人は殺すために生まれてきた。

 いつもながら大胆な発言、大胆な人である。
 しかし、初期仏教を学び瞑想を日課とするようになって数年の自分は、もはやこの程度の発言で度肝を抜かれることはない。
 これは言葉を変えて言えば、「人間は無明に閉ざされている」ということだろう。
 無明の原因は無知で、無知の最たるものは「自我が存在する」と思っていることである。
 自我というのは常に「自分は正しい」と思っている。
 当然だ。他者との違いのうちにしか「自分」は存在しないからである。「自分」が存在する限り、その「自分」はいつも「他者」を必要としつつ否定する。
 つまり、born to kill だ。
 だから、人間は生まれつき区別するようにできている。
 スマナ長老は言う。
 「区別に感情が入ると差別になります。人は感情に支配されているので、すべての区別が自動的に差別になってしまうのです。」
 区別を差別にしないためにはどうしたらよいか。
 感情に支配されないこと。理性(智慧)で生きること。慈悲を育てること。
 そのためにはどうしたらよいか。
 ヴィッパサナー瞑想で智慧を育てること。慈悲の瞑想ですべての生命を慈しむ心を育てること。
 講話の結論がいつも修行の励行に結びつくのがスマナ長老の話である。というか、まことの仏教である。

 今回、刺激的で面白かったスマナ発言。

● 仏性とはすべての生命に備わっている無明です。

 仏性は大乗仏教の創り出した概念である。ブッダは仏性なんて言っていない。「一切衆生悉有仏性」は妄想である。スマナ長老、当然仏性の存在を否定するのかと思っていたら、「すべての生命が本来は悟っている(仏である)というのは間違い。あえて仏性を定義するならば、それは無明でしょう。」と言う。
 なんて大胆な!
 が、なるほど。
 生命は無明ゆえに輪廻転生しながら生存し続ける。すべての生命に備わっているものを挙げるとしたら、それは確かに「無明」である。


● 「自分に正直に生きる」のはとんでもないこと。

 --と言ったスマナ長老の一言からの連想。
 『アナ雪』の大ヒットは、主題歌に一因があろう。「ありのままの、わたしに、なるの~♪」というフレーズが、若者たちの心をとらえたのだと思う。
 ありのままの私。
 このフレーズ、実は自分もよく使ってきた。
 セクシュアル・マイノリティの自助&支援活動の中で、もっとも良く唱和され見聞きする標語の一つだから。
 ゲイやレズビアンであることを家族や友人に隠し、ヘテロセクシュアルを演じ、自己否定して生きてきた当事者が、仲間によってエンパワーされ自己肯定し前向きに生きていく(カミングアウトする)ことを決意する心情が、「ありのままの私」という表現に托される。
 それは大切な概念であり、プロセスである。
 セクシュアル・マイノリティだけではない。世間や社会や家族からの有形無形の圧力に屈して「偽りの自分」を演じ続けている人々がいる。自分でもそれが「偽りの自分」であると気づかない人々がいる。そのうちに仮面が素肌に張り付いてしまって、仮面が素面になって、本当の顔がどこかに消えてしまう。
 人は自分を肯定できないときは、他人も肯定できない。自分を大切にできない人は、他人も大切にすることができない。(慈悲の瞑想の一番初めに「私の幸福」を念じるのは、そういう意味からではないかと推測している。)
 だから、ブッダが看破したように「自己」が蜃気楼のように実体のないものであるとしても、いったんは自己を肯定し、「ありのままの私」を受け容れることは重要だと思う。

 しかし、それとは別次元で「ありのままの私になる」は微妙な問題をはらんでいる。

 多くの場合、「ありのままの私」で意味されるものは、「子供の頃の無邪気な自分=欲望に忠実な自分」である。
 社会や世間によって毒されていない「子供の頃の無邪気な自分」が善良なものであるなら、言い換えれば、本人が愛のある、賢明な庇護者のいる家庭に育ったならば、「ありのままの私」にはそれほど害はないだろう。そこに還元することは本人をも周囲をも幸せにするかもしれない。
 一方、子供の頃の環境がいびつなものであり、それが本人の性格形成に深いところで影響を及ぼしているのなら、「ありのままの私」に戻ることは本人にとっても周囲にとっても危険であろう。

 不当な抑圧や人としての尊厳を踏みにじるような矯正には大いに反逆すべきである。
 が、「人が社会の中で、他者や社会に関わって、生きている」ということをないがしろにするような扇動は、ちょっといただけない。
 どうも最近の「ありのままブーム」を見ていると、自由奔放に欲望のまま生きることが「本当のあなたらしさ」というニュアンスを感じる。
 その裏に、羊(ディズニー)の皮を被った狼(アメリカンな資本主義)の陥穽を感じる、と言ったらうがちすぎ、もといヘソ曲がりだろうか。



 

● 本:『ブッダの実践心理学第三巻 心所の分析』(アルボムッレ・スマナサーラ、藤本晃共著) 

治りませんようにほか 003 2007年刊行。

 テーラワーダ(上座部)仏教では二種類の瞑想が奨励されている。
 慈悲(喜捨)の瞑想とヴィッパサナー瞑想である。

 慈悲の瞑想は、以下の4つのフレーズを心をこめて唱えるだけでいい。

 私が幸せでありますように(慈)
 私の悩み苦しみがなくなりますように(悲)
 私の願いごとが叶えられますように(喜)
 私に悟りの光が現れますように(捨)

 二巡目からは、上の「私」のところに、「私の親しい人々」「私の嫌いな人々」「私を嫌っている人々」「生きとし生けるもの」を入れて、それぞれの対象について慈悲喜捨を願っていく。
 簡単な瞑想であり、いつでもどこでも行うことができる。自分は、毎朝の読経の際に1セット唱えているが、それ以外のときも気が向いたら心の中で唱えるようにしている。駅の階段を昇るとき、ホームで列車を待っているとき、列車に揺られているとき、職場(老人ホーム)の更衣室で着替えているとき、休憩時間、帰り道の横断歩道の信号待ち、買い物途中のエレベーターで、皿洗い中、お風呂の中、トイレの便器に腰掛けて・・・。
 簡単な瞑想だが、不思議と唱えると自信が生まれてくる。いろいろな事象や人間関係が好転してくる。鏡に映る顔つきも、老けてきたのは仕方ないけれど、何だか吉相になってきたような気がする。

 ヴィッパサナー瞑想は、別名「気づき(念)の瞑想」とか「観瞑想」と呼ばれる。
 基本は座禅を組み、目を閉じて、身体や心に起こる現象をありのままに気づき、その場その場で「実況中継」していく。
 「(腹の)ふくらみ、ちぢみ、ふくらみ、ちぢみ・・・」
 「(足の)痛み、痛み、痛み、痛み・・・・」
 「(何かの)音、音、音、音・・・・」
 「退屈している、退屈している・・・・」
 「妄想している、妄想している・・・・」
 「怒っている、怒っている・・・・」
 「眠気、眠気、眠気・・・・」
 人間の認識の生じる六つの窓口(眼耳鼻舌身意)に注意を向けて、瞬間瞬間入ってくる六つの情報(色声香味触法)を丁寧に拾っていく作業と言える。
 これもまた一見簡単そうに見えるのだが、実は難しい。
 まず座禅し続ける難しさ。慣れないうちは15分も座っていると足が痛んでくる。
 どうにか慣れてくると、次は心があちこちに彷徨い出して、念が途切れる。「実況中継」を忘れて、今日の夕食のことや明日の仕事のことや助平なことを考えている。あるいは知らぬ間にぼっーとまどろんでいる。
 この瞑想を始めて4年以上になる今は、1時間以上足の痛みを感じずに座ることができるようになった。妄想にとらわれることも少なくなった。たとえとらわれても比較的短時間で気づいて「実況中継」に戻ることができるようになった。
 しかし、次の困難が待っていた。
 それは、暇な時間にあえてヴィパッサナー瞑想をしようという気力がなかなか起きないことである。
 忙しくて時間がないときほど瞑想がしたくなる。座りたくなる。休日が待ち遠しい。
 で、休日になって自由に使える時間ができると、瞑想しないでネットにかまけたり本を読んだり家事をしたり山登りに行ったり、こうしてブログを書いたりする。「時間はいっぱいあるから今でなくてもいい」なんて言い訳を頭の中でしているうちに、一日が終わってしまう。
 何が起こっているのか。
 なんでさぼりたいのか。
 答えはこれだ。 

生命の本能は、貪瞋痴です。本能に合わせて生きることは、楽に感じるのです。ですから人は、楽な道を選ぶのです。その楽な道は、貪瞋痴の本能なので、不善です。不幸の結果を出します。苦しむこと、不幸になることが目に見えても、人が不善の道を歩むのは貪瞋痴という本能のせいです。(標題書)

 瞑想は、本来はまったくやりたくないことなのです。心の流れにまったく正反対のことですから。「心がやりたくないこと、心が嫌がること」の第一位は、確実に「瞑想すること」です。競争なし、断トツの一位です。だから瞑想するためには、どうしても、精進が必要なのです。(同上)

 瞑想は本能とのたたかいなのだ。
 そりゃあ難しくてあたりまえだ。


 スマナサーラ長老によるアビダンマ講義第三弾は「心所」について。
 「心所」とは何か。
 心の中身(成分)のことである。

 仏教心理学の基本概念は、「認識」です。認識はどのように生まれるのか、認識の中身は何なのか、認識はどれくらいあるのか、という課題が仏教心理学です。

 仏教では、心とは「認識する働き(システム)」のことである。一つの生命に必ず一つ備わっている機能である。機能なので、そこに内容はない。
 しかし、言うまでもなく、心はいろいろと変化する。怒ったり、悲しくなったり、楽しくなったり、嬉しくなったり、嫉妬したり、恨んだり、後悔したり、退屈したり、落ち込んだり、有頂天になったり、疑ったり、物惜しみしたり、優しくなったり・・・。
 こうした感情や気分のことを心所と言い、心がいろいろ変化するのは、瞬間瞬間、さまざまな心所が心の中に溶けているから、とするのである。
 たとえてみれば、テレビ(受像機)=心、テレビ番組=心所といった感じか。テレビ自体は電波を受信し映像を映す働きを持った箱にすぎないが、モニターに流れる番組の内容によって、視聴者を悲しくさせたり、笑い転げさせたり、怒らせたり、退屈させたり・・・という違い(色)が生まれる。
 仏教ではこの番組内容(=心所)を52種類に弁別している。
 単純に言えば、人間の心に起こる感情の種類を分析し、善いもの、善くないもの、どちらでもないものに分類し、リストアップしたのである。

 このように感情を緻密に分析し言語化しグループ毎に取りまとめてリスト化していく意味はなんだろう?  

 心は水の如く、善いも悪いも何もない。その心に怒りが溶けたら、怒っている心になる。その心に慈しみの感情が溶けたら、優しい心になる。だから一人の人が、たまに怒りっぽくなったり、たまに嫉妬深くなったり、たまに慈しみの心になったりする。どれでもできるのです。
 我々にとって、心よりも心所が一番大事なことなのです。ただ生きている・認識しているということは、そんなに大事ではありません。どう生きているかということ、どう生きるべきなのかということが、大事なポイントです。

 そしてまた、ヴィッパサナー瞑想する観点からすると、意識に浮かんできた思考や雑念や感情や気分にとらわれないように、たちまち気づいて、命名して、「実況中継」するために、心所の種類をあらかじめ知っておくことは意義があるのだろう。


 以下、本書より引用&コメント(青字)。


● 無知とは

 厳密に仏教の立場から言うなら、無知とは、「すべてが無常であること、消滅変化していくこと、瞬間瞬間、そのときに現れる一時的な現象であること、だからものは存在しないこと、空であることを分かっていない状態」なのです。

 何ものにも「本来の自分」というものもない。私たちはよく「今はちょっと歳を取っていて調子が悪いんだ」などと言いますが、それは何かに比べて言っているのです。では、「本来の自分」とはどんな調子か、どんな歳か、どんな状態か、言えますか? そんな「本来の自分」というものはないのです。いつでもいるのは「その時々の自分」であって、一瞬前の自分は今の自分ではないし、今いる自分は次の瞬間の自分とは違うだろうし、その時々にいるだけなのです。

 「本当の自分」幻想はしつこいものである。「今はいろいろあって輝けて(はじけて)いないけれど、本当の自分はこんなじゃないんだ。」「今は巣篭もり中で、まだ本気を出していないだけ。」と思いながら数十年を過ごしてしまう。だが、その数十年の姿(=周囲から見られた姿)以外に「本当の自分」はなかろう。


● 反省と後悔の違い

 反省と後悔の違いは、反省がポジティブ志向で、後悔はネガティブ志向であることです。反省する人は、過ちをバネにして良い人間になる。後悔する人は、過ちを頭の中で再現して罪を加算してゆくのです。

● 最大の罪とは 
 仏教では、最大の罪は邪見だと説きます。邪見は見解、知識、思想、哲学などにかかわるものです。百人を殺すよりは、百人に何かを教えてあげることの方が簡単です。影響力のある人なら、たくさんの人々の心に邪見を植えつけることができるのです。人間は、財産よりも自分の見解に固執するのです。この邪見の伝統は、何世紀にもわたってでも拡げることが可能です。というわけで、邪見が他の罪より重いのです。

● 自業自得について  
 すべての生命は自分の業で生きているのです。自業は自得なのです。要するに自分の行為の結果なのです。犯罪者が裁かれて社会から隔離される。それは犯罪を起こした人の行為の結果なのです。幸福に生きている人々も、自分の為した業で幸福になっているのです。ということは、生命は「自立」しているということです。苦しんでいる人々の苦しみは、その人の為した業の結果なのです。人が人を殺したとしましょう。被害者は加害者のせいで死んだわけではありません。被害者に殺される業があったところで、心の汚れた愚か者に遭遇するのです。加害者が新たな重罪を蓄積したのです。被害者が加害者に対して恨みを持つ必要はないのです。

 これは微妙な問題である。犯罪被害者に向かって、「被害にあったのは加害者のせいではない。あなたの業(カルマ)ゆえだ」と言うのは慈悲にかける行為であろう。
 また、「自業自得」という言葉は一般に起きた悪い結果について使われることが多いが、本来は善いも悪いもない。「原因があって結果が生じた」というだけのニュートラルな意味合いである。


●自我について

 「自我を捨てなさい。執着を捨てなさい」と言われると、人は嫌な気分になる。「こんな大事なもの、捨てなさいと言われても捨てられるわけがない」と思います。ブッダの話を聴くと、大損するのではないかと思ってしまいます。
 しかし、自我を捨てても執着を捨てても何の損もありません。始めから自我がないのです。あるのは「自我があるという幻想」です。幻覚が消えたところで、良くなるのであって、悪くなるはずがないのです。

 かつてクリシュナムルティにこう質問した人がいる。
「自我を捨てることで、私に何の益(goods)があるのですか?」
「それ自体が良いこと(good)なのです」


● 二つの瞑想の違い

 慈悲喜捨の瞑想は、「どうすればみんなと仲良く幸福で生きていられますか」という問題に答えてくれる。ヴィッパサナー瞑想は、「生きること自体をどうやって乗り越えられるか」という問題に答えを出す。だからまったく正反対なのです。生命と一緒にどうやって生きていられるか、ということと、どうやって生命と関係なくなるか、どうやって輪廻から脱出するかという二つだからです。


 評論家の宮崎哲弥が「仏教の劇薬性」という言葉を使っているが、本来の仏教の革新性というか破壊性は途方もないものである。
 悟ったばかりのブッダはこう考えた。

 苦労して体験した。今語る気持ちは起きない。
 欲と怒りに染まっている人々に、この法は理解しがたい。
 これは逆流を進む完全たる道。深遠で精密である真理は、無明の闇に覆われた、欲がある人には発見できない。


 仏教は思想や理論や言葉が難しいのではない。
 人間の本能に逆行するがゆえに、実践が難しいのである。


 サードゥ サードゥ サードゥ


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ソルティはかたへのメッセージ

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