ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、寺社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

アルボムッレ・スマナサーラ

● シングルベル 初期仏教講演会:『過去からの解放~なぜ「今」をしっかり歩けないのか?~』(演者:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

日時 2017年12月23日(土)13:30~
会場 なかのZERO小ホール
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 開演前の会場を見渡すと男ばかり。
 はて、なぜ?
 まさかクリスマス・イヴ・イヴの土曜日だからってわけじゃあるまい。仏教徒にクリスマスは関係ないよなあ~。それとも、仏教もキリスト教も関係なく、クリスマスはもはや女の決戦日か? 
 あるいは、本日のテーマのせいなのだろうか?
 「過去からの解放」って言うけれど、どちらかと言えば過去にとらわれがちなのは男のほうだ。別れた昔のパートナーに未練たらたらなのは大抵男のほうだ。つき合う相手の過去にこだわるのも男のほうだ。学歴や職歴や地位といった過去の経歴に執着するのも男のほうだ。そして、年齢を忘れたがるのは女のほうだ。男にくらべれば、女のほうが圧倒的に過去から自由である。とするなら、女にはあまり関心のないテーマなのかもしれない。

 さて、スマナ長老の話をかいつまんで紹介すると、

●過去には2種類ある。一つは、「人が生きてゆく流れ」のことで「何をやったか」という変えることのできない事実(=史実)である。本人だけでなく第三者が客観的に指摘できる類いのものだ。

●もう一つは、史実を貪・瞋・痴の感情で調理し捏造した主観的ストーリーである。人は、自分の過去の出来事を適当に選択して解釈・編集し、「自我」の栄養とも住処ともなる都合のいい物語をつくる。その物語に導かれて生きようとするので、失敗して不幸になる。なぜなら、それは第一の過去の定義である「史実」と一致しないフィクションだから。 

●なぜそういった物語が生まれてしまうのか。それは、我々の認識システムには生得的な欠陥(=無明)があるから。「眼・耳・鼻・舌・身・意」というレセプターに「色・声・香・味・触・法」という外的データが触れたとたん、「快・不快・どちらでもない」といったような好悪・判断が自動的に働いてしまう。

●「快」を求め執着し(=欲)、「不快」を厭い憎悪する(=怒)ことが繰り返されるうちに、一定の判断基準をもった「自我」が生まれる。「自我」はいつも「ありのままの事実」を感情で歪曲してしまう。

●過去とは、主観と感情で捏造した経験と判断の塊である。人は、過去に縛られて苦しむ羽目になる。つまり、自分が掘った苦しみの落とし穴に自分自身で落ちる。まさに自業自得。

●すべての経験は「わたし(自我)」という器に入れられているので、人はどんなに苦しくてもそれを捨てることができなくなっている。

●第一の過去(=史実)と第二の過去(=物語)を区別する方法はいたって簡単。「私は〇〇です」と覚えているすべての記憶は後者である。この幻覚の過去をこそ捨つるべき。
 例.(ソルティ創作)
  第一の過去 「××年前に交通事故にあって、下半身不随になりました」
  第二の過去 「私は交通事故の被害者です」

●第二の過去から解放される最速にして最良の方法は、上記の認識システムに介入し、物語をつくろうとする働きに即座に楔を打つこと。それがヴィパッサナー瞑想である。 

●ヴィパッサナー瞑想を、「人間のすべての行為にはゴール(=目的)が存在しない」という事実を発見して心が変わるまで、そして因果法則を発見するまで、徹底して行ってみることで解脱に達する。

 ・・・・・といった内容であった。


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 人間が、自ら作った「物語」に縛られてほかならぬ自分自身を苦しめている、というのは至極納得がいく。
 たとえば、「クリスマスは家族や恋人と一緒に過ごすのが幸福である」という、おおむねバブル期(80年代)に商業的に作られた物語がある。その物語に子供の頃から洗脳され、信じ込み、周囲とも物語を分かち合い、「クリスマスに独りで過ごす人間」を憐れんだりバカにしたりしていると、今度は自分が「クリスマスに独りで」過ごさざるをえなくなったとき、「クリスマスに独りで過ごす自分=不幸」という烙印を自分自身に適用することになる。
 自分を不幸にするのは自分の思考(=信念=過去)にほかならない。まさに墓穴を掘るというやつだ。

 いったい人はこうした「物語」をどれだけ身内に抱えていることか!
 物語の多くが「むかし、むかし・・・」で始まることが示すように、物語とはまさに過去そのものなのである。
 その意味で、「過去からの解放」とは「物語からの解放」にほかならないわけで、出だしに戻ると、物語に閉じ込められ閉塞しがちなのは――通常のイメージとは違って――女よりもむしろ男なのかもしれない。
 稲垣××のクリスマスソングを引き合いに出すまでもなく、ソルティの周囲を見ても、“シングル”ベルに身もだえるのは、昨今、独り身の女よりもむしろ独り身の男のような気がする。

 むろん、ソルティは今年もシングルベルを安楽に過ごしましたとさ。



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※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の主観的解釈に過ぎません。





● ただOSのみ :初期仏教月例講演会 『性格の完成~「ありのまま」は危ない!』 (講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

日時 2017年6月3日(土)14:00~
会場 日暮里サニーホール
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 今回のテーマは性格について。
 仏教では、性格を語る上では業についての理解が欠かせない。性格と業は切り離せないのである。

 業とは行為(身・口・意)でありカルマである。我々が毎瞬毎瞬、体・言葉・心で行っているあらゆる行為(=業)は、そのまま、それに応じた結果をもたらすポテンシャルエネルギー(潜在力)を形成する。それがカルマ(=業)である。カルマを理解しやすい一番の例は、食べ物と体との関係じゃなかろうか。良い物を食べれば健康になり、悪い物を食べれば病気になる。結果をもたらすまでに体内で起こっている一連の活動――咀嚼、消化、吸収、分解、各組織への運搬e.t.c.――が潜在力である。
 カルマは、一つの生の中である程度のタイムスパンを持って起きている。たとえば、煙草の吸い過ぎでガンになった、というように。一方、複数の生をまたいでも作用している。それが輪廻転生と言われるものだ。たとえば、今生でグルメの限りを尽くしたけれど食欲が満たされることなく肥満が原因で亡くなった⇒⇒⇒来世で豚に生まれ変わる、といったように。
 「因があって、業を形成し、果を生じる」というカルマシステム(=輪廻)は、秒刻みの短いスパンから、何世紀にもわたる長いスパンまでを包含する概念なのである。

 仏教では「生命は業から生まれ、業を相続する」とする。過去に作られた業ゆえに我々(生命)はこの世に生れ落ち、その業の内容に応じて一人一人の置かれている環境に違いが生じている。つまり、人が先天的に持っている資質や生まれつき与えられている環境は業の働きによる。本人には選ぶことのできない・変えることのできない部分である。
 性格もこの業の一つなのだと言う。

 各生命の個性は業が作ります。性格とは業が個人のために作ったOS(Operation System)です。(スマナ長老の言葉、以下同)

 なので、基本性格は生涯を通じて変わらない。自分や他人の性格を変えようと努力しても無駄ということだ。
 だが、性格をまったく変えられないかと言えばそうでもない。基本性格は変えられなくとも、そこに上乗せすることができる。

 OSの上に人は自由にアプリケーションソフトをインストールし、環境を管理することで、好みの性格に変えられます。 

 このときアプリケーションソフトとして使えるものが、「家族・育ち・教育・他人の影響・年齢・職業・住む場所等々」、いわゆる後天的要因である。これらが因となって業を形成することで、‘性格の変化’という果をもたらすわけである。先天的なものと後天的なもの――性格は「2段構え」と言うことができる。

 性格に良し悪しはありません。業なのでポテンシャル(潜在力)が合理的で正しい結果を出します。

 仏教では結局、新たな業を作らず、業の影響から逃れ、次の再生を遮断すること(=解脱)を最終目的としている。なので、優秀なアプリケーションソフトを搭載して世間的に「良い性格」と言われているものを身に着けたところで、「そんなことしても意味ないですよ。生まれ変わりますよ」ということなのだろう。
 仏教における性格の完成とは、「新たな業をつくらない」ことにある。

 性格を完成する道は、以下の通りです。
    • 戒・定・慧を身につける。
    • まず善行為から始める。
    • 五戒を守る。
    • 慈悲喜捨の実践や呼吸瞑想。
    • ヴィパッサナー瞑想。

 さて、上記の修行を積むことで、新たな業が形成されず、悟りに達し解脱したとする。仏道修行の最終目標である阿羅漢になったとする。
 阿羅漢には業がないのであろうか? 性格がないのであろうか?

 そうではない。
 阿羅漢といえども過去の業を消すことはできない。過去に自らが起こした行為の結果は、生きている限り、その身に受けなければならないのである。
 999人殺しの大悪人アングリマーラの逸話が有名である。ブッダに出会って改心し、仏弟子となって修行に励み阿羅漢になったけれど、アングリマーラ長老の身の上には不可解な事故がついて回った。托鉢している最中、農夫が鳥や犬を追い払うために投げた石や棒がなぜか長老の頭に当たって出血したり・・・。それを嘆くと、ブッダはこう言った。

「堪えなさい。あなたは、行為の結果として何十万年も地獄で受けるはずの結果を、現世で受けているのです」(中部86)
 何十万年も地獄で受けるはずのカルマが、棒が当たって頭が割れたくらいで済むはずがありません。来世以降に地獄で受けるはずの悪いカルマはなくなってしまったけれど、今生で受ける分のカルマはどうしても避けられず、受けてしまうということです。(藤本晃著『悟りの階梯』、サンガ発行)

 同じように、過去生の業の結果である今生の基本性格は、阿羅漢になっても消えることがない。OSである以上、生きている限りはずせない。
 別記事で阿羅漢の多様性(=個性)について考察し、クリシュナムルティの言を引用した。曰く、「最終的な悟りに至っても独自性(Individual Uniqueness)は残る」と。
 カルマシステムの観点からこの「独自性」を解き明かすことができるのである。

 我々修行者がやっていることは、後から搭載した「自己」という名前の数々のアプリケーションソフトを一つ一つはずしていって、最終的にOSだけの状態に立ち返ることなのであろう。 

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 最後にスマナ長老からの心が明るくなる一言。

人間なら皆、良い業を持っています。

 仏道修行のできる人間として生まれたことが途轍もない福音なのである(キリスト教的?)。



サードゥ、サードゥ、サードゥ



※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の主観的解釈に過ぎません。




● 命の価値 初期仏教月例講演会:「死に方入門」(講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

日時 2017年3月 12日 (日) 13:30 ~ 16:30
場所 一橋講堂(東京都千代田区)
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 月例講演会が一橋講堂で行われるのは初めてじゃないだろうか。
 事前に地図で確認して出かけたものの、地下鉄東西線・竹橋駅から地上に出て、同じような高層ビルが立ち並ぶ中、案の定、迷ってしまった。スマホを持っていないと、こういう時不便である。
 立派な会場(494席)で、休日午後いっぱい借りると22万3千円かかる。月例講演会でよく使われる中野ZEROは同条件で6万900円なので、ずいぶんと開きがある。なにか安く借りられるツテでもあるのか。余計な心配だが・・・。

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 今回のタイトルは「死に方入門」。
 仏教徒でない一般市民ならギョッとするかもしれない。スマナ長老自ら「まるで死ぬことを勧めているみたいじゃないですか」と苦笑いされていた(おそらく事務局がつけたのだろう)。
 このタイトルに別に何の違和感も不自然も感じなかった自分にちょっと驚く。ここ数年の仏道修行と介護の仕事で、いかに死が身近に(あたりまえのことに)なっているかを感じた。たしかに、働き始めた最初の頃は親しくなった利用者の死に際し悲しみや動揺を覚えたものだが、最近は淡々と見送っている。「死」に免疫ができるのは良くないことだろうか?

 講演内容は、「仏教は死をどうとらえているか、仏教徒は死とどう向き合うべきか」といったあたりで、別記事で紹介したスマナ長老の著書『老いと死について さわやかに生きる智慧』(大和書房)、『老いていく親が重荷ですか。』(河出書房新社)に連なるものであった。
 いつものように前半は座席で舟をこいでいた。神田川をそれこそ中野あたりまで遡ったかもしれない。いびきをかかないようにだけ注意。
 最近は眠かったら逆らわずに寝る。というのも、スマナ長老の話が世間モードから出世間モードに移って仏法の核心に近づくや、パッと目が覚め、瞬時に頭が冴えると分かったからである。よくできている。

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 以下、思わずメモをとったスマナ長老のコメント。

● 正しい花の咲き方、散り方というのはありません。どんな咲き方、散り方も自然のままです。同じように、正しい死に方はありません。死は常に正しいのです。一方、正しい生き方なら可能です。

 死は常に正しい。
 これは、広い意味で業論であろう。
 介護の仕事をしていると、人の様々な老い方、死に方を目撃することになる。
  • 心身を蝕む病いに苦しみ、入退院を繰り返し、最後は救急搬送で病院に運ばれ、死を迎える人がいる。
  • すべての不幸や不遇を周囲のせいにして、せっかく訪ねてくれた家族・友人に怒りをぶつけ、職員に八つ当たりし、食事や服薬や入浴を拒否し、施設のトラブルメーカーとなる人がいる。
  • 入所時以降、まったく顔を見せない息子を恨む一方で、半ば諦めている人がいる。
  • 認知が進み、ちゃんとトイレの始末ができないのに、プライドばかり高くて職員の介入を執拗に拒む人がいる(ほうっておくと、他の人の部屋で放尿・放便する)。
  • 子供や孫やひ孫たちがちょくちょく訪れては散歩に連れ出してもらい、楽しい一時を過ごす人がいる。
  • 職員とも周囲の利用者ともまったくコミュニケーションをとらず、自室に閉じこもっている人がいる。
  • 認知はあれど人の役に立つのが好きで、進んでコップ洗いを手伝ってくれる人がいる。
  • 家族に見守られながら、穏やかに息を引き取っていく人がいる。
 人の老い方、死に方は百人百様である。
 心あるスタッフなら、すべての利用者に、人生の最後の時間を穏やかに、安らかに、心地よく過ごしてもらいたいと思う。それはスタッフ自身の楽にもつながる。口癖のように「死にたい」「殺して」を繰り返し、しんどい思いをしている利用者に日々接するのは、スタッフにとっても辛いことである。医療従事者でないので身体的な痛みはどうにもできないけれど、せめて精神的な苦痛は少しでも和らげてあげたい。それに、トラブルメーカーが一人いるだけでフロアは混乱に陥り、スタッフは気力消耗し、バーンアウトの可能性が高まる。
 ソルティもしんどい思いをしている利用者を前に、「なんとか楽な気持ちにしてあげられないものか」、「もっと家族が訪問してくれればいいのに」と思う。あるいは、「いい加減、自分を苦しめるだけのつまらないプライドを捨てたらいいのに」、「こんな苦しみを最新医療によって引き伸ばすことに何の意味があるのだろう。これこそ虐待」と思ったりする。他人の苦しみを前に、何もできないことの無力感や苛立ちに襲われ、そのうち、いちいち感情的に反応するのが自分を苦しめるだけと思い、感情を抑えつけるのが習性となる。利用者のしんどさに鈍感になる。すると、業務が着々と滞りなく進むようになり、形だけはベテランになっていく。
 こういう落とし穴が介護の仕事にはある。
 いや、介護だけでなく、医療や保育や福祉相談など人のケアに関わる仕事には共通してある陥穽だろう。

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 感情をなくした鉄面皮にならずに、なんとか無力感や苛立ちと付き合う道はないものか・・・・と探ったところで、業論に至った。
 つまり、どのような老いを迎えるか、どのような死に方をするかは、言葉の真の意味で「自業自得」なのだと気づいた。
「このように生きてきたから、このような老いを迎えている」
「このように生きてきたから、このような死に方をする」
 すべては因果応報、因縁のルールに則っているのだ。
 たとえば、親を施設に入れたが最後、全然訪ねて来ない子供たち(もちろん立派な社会人である)について、ソルティは(ご利用者に代わって?)憤りを覚えることが多いのだが、そのような子供になった一番の原因はやはり親自身の育て方にあるのは間違いない。育てたように子は育つし、育てられたように親を看取る。親は結局、自分の蒔いた種を刈り取るほかないのである。現役時代、仕事や趣味にかまけて子供をほったらかしにしてた挙句、今度は自分がほったらかしにされる。
 そのような視点からすれば、人は誰もみな、正しく「老いて」、正しく「死んで」いる。
 もちろん、「自業自得だから苦しんでいる人をほうっておけ」ということにはならない。それだったら介護という仕事の意味がない。本人の心の苦しみは、純粋に本人の生き方(=思考パターン、妄想ループ)の結果に過ぎないので、他人が――それこそ人生の最後に介護を縁としてほんのちょっと知り合っただけの人間が――それを変えることは不可能に近い。けれど、少なくとも苦しみに寄り添うことはできる。それで十分なのだ。
 一時の感情に振り回されずに状況を正しく見て、ご利用者と適切な距離を持って関わる心の持ち方として、業論は役に立つ。
 思うに、ソルティが現在介護の仕事に携わっているのもそれなりの因縁を持つ「自業自得」に違いない。


● 慈悲喜捨、無常、苦、無我などの真理を学んで、観察して理解し、納得するならば、年老いてボケになって世の中のどうでもいいものは忘れてしまっても、心は無常に、苦に、慈悲喜捨に定着します。

 せっかく修行して真理を悟ったとしても、ボケたらどうなるのだろう? 全部無駄になってしまうのだろうか? ボケたら智慧は失われるのか? ボケたまま死んで輪廻転生して、来世は木瓜の花にでも生まれ変わるのだろうか?
 そんな疑問があった。
 この言説は大いなる安心をくれた。


● 安楽死とは、医者が殺人を犯すのを許すことです。命を助けるべき医者を殺しの専門家にしてはいけません。なぜなら、人の病に真剣にあたることができなくなるからです。

 これは納得。
 一度、安楽死に手を貸した医者が、命に対する敷居が低くなるのは想像に難くない(漫画『ブラックジャック』に登場するドクター・キリコを想起する)。一度人を殺した犯罪者が、次からはさして抵抗を感じずに人殺しできるのと同様、いったん「死」を肯定したら命は安くなる。
 一方、 


● 命は無常だから価値がありません。生きるとは、命とは、無常の流れに過ぎません。無価値の流れです。 

 これぞ出世間の智慧。
 多くの人には受け入れ難い言説であろう。命こそ最大の価値というのが、現代人の信念である。大乗仏教でも命に多大な価値を置く言説ばやりである。
 
 生きることに意味はなく、命にはなんの価値もない。

 この、ある意味‘悪魔的な’言説が本来の仏教である。
 これを認めて受け入れるのはどんなにか難しいことだろう!
 しかし、よくよく考えてみれば、命に価値があると人が思うのは、「自分が死にたくない!」からである。死んだら、いろいろな欲望が果たせなくなるからである。「自分は死にたくない」→「きっと他の人も(生命も)同じ思いだろう」→「命は大切だ」となる。つまり、命そのものに価値を見ているのではなく、欲望に価値を置いているのだ(←別にそれが悪いことだと言っているわけではない)。
 あるいは、「命が生まれるのは、天文学的な確率で起こる奇跡である」→「命は大切だ」となる。しかるに、天文学的な確率で起こることに‘価値がある’と考えるのも、きわめて打算的な発想である。ダイヤモンドに価値があると言うのと変わりない。
 価値とか、意義とか、目的とか、超越的な存在(神意)とかないところに、ただ生まれて、ただ死んでいくのが、生命である。
 (原始)仏教のこのスタンスは、下手すると‘命’の軽視につながりやすい。生命が輪廻転生するという考え方がさらにそれに拍車をかける。なぜなら、「どうせ生まれ変わるのだから、今ある命が消えてもたいしたことない」と結論付ける傾向を生んでしまうからである。ここまで来ると、ポア思想を現実化したオウム真理教と大差なくなってしまう。(むろん、これは‘邪見’の最たるものだ!)
 
 テーワラーダ仏教(原始仏教)における命の意味とはなんなのか。それと慈悲の関係はどうなっているのか。
 そのあたりを学ぶ(悟る?)必要を感じる。
 
 
サードゥ、サードゥ、サードゥ


※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の内容のソルティなりの解釈にすぎません。


 

● 介護の仕事12 イカルスの翼 本:「老いていく親が重荷ですか。」(アルボムッレ・スマナサーラ著)

2016年河出書房新社刊行。

 喫緊の社会問題にして極めてパーソナルな問題でもある老人介護についての本である。
 80歳にならんとする両親(おかげで二人とも健康)を持ち、老人ホームで働いている介護士であり、加えて仏教徒でもあるソルティにとって、まさに自分のために書かれたような本である。
 スマナ長老は以前に、『老いと死について さわやかに生きる智慧』(大和書房)という本を書いている。ブッダの教えをもとに、誰にとっても避けられない老いと死を、賢く冷静に穏やかに迎えるコツを助言されている。本書はその続編とも姉妹編とも言える内容で、今度は立場を変えて、老いや死の只中にある親に対して子供はどのように向き合ったらよいか、どのような心構えで介護したらいいかを説いている。なので、両冊揃えて読むといいと思う。
 今回もまた話のポイントとなるのはブッダの教えである。生老病死は仏教の中心テーマであり、生老病死の苦しみからいかにして脱するかを説いたのがブッダだからである。仏教の独壇場と言っていい。
 まず、仏教では老いや死をどうとらえているか。

 そもそも、仏教においては「生」と「死」は同義語であり、いわばコインの裏表のような関係です。生きることは、死ぬことなのです。生きている以上、最後に待ち受けているのは死です。その事実は決して変わりません。私たち“人”は、毎日毎日、一歩一歩、生きることによって死へと近づいています。今生きているということは少しずつ死んでいっているということです。
 そうした観点から言えば、「老いる」という発想自体がありません。
 私たちは、ただ変化しているだけです。

 お釈迦様はこう言っています。
「年をとる、老化する、死に向かって生きていくという現実を素直に認め、認識できる人こそ、この世でもっとも幸せに生きられる人である」
(以上『老いと死について さわやかに生きる智慧』より引用)
 
 老いや病気を不幸だと思わないこと。
 いまある状況を、自然な変化なのだと考えること。
 (本書より) 

 これが大前提である。
 老いや死に直面している当事者はむろんのこと、彼らを介護する者もまた上記のことをしっかりと認識して心に落としておけば、不安や恐れや苛立ちを乗り越え、できることを淡々と理性的に行うことができる。来るべき最期に向かってソフトランディングできるのである。

 以下、ソルティが心に留めた介護する者へのアドバイスを引用する。

1. 美しく諦めること
 
 介護問題に直面した人は、それは業が自分に与えた宿題であると思い、正しく対応すれば、介護を受ける側もする側も幸福で穏やかにいられるのです。
 運命を自分の思いどおりに変えることは不可能です。それにも法則があります。運命または業に真っ向から抵抗するのではなく、現実を受けとめるという「諦め」が必要なのです。
 仏教用語の「諦め」は、降伏という意味ではなく、状況を理解して納得することを言います。

 Never Give Up(決して諦めるな)は、長嶋的ではあっても、仏教的ではない。諦めが悪い人のことを「往生際が悪い」というが、まさに「生」に対する執着を表す言い回しである。
 本来、「諦める」は「明らむ」、つまり「物事の真理を明らかにする」ことなのだ。


2. 認知症への処し方
 
 脳の機能がかなり低下している場合も、介護する人の感情はちゃんと伝わっています。認知症の介護における救いはそこにあります。
 知識が通じなければ、「感情」でコミュニケーションすればいいのです。

 まさにその通り。ソルティも5年の介護経験を通じてコツを習得した。逆に、このコミュニケーションスタイルが身についた結果、認知症でない高齢者に無意識にこれを適用してしまうと、意外に嫌がられるのである。普通の大人は、知識や理屈で感情を糊塗する傾向があるからだ。


3. 介護は修行

 介護者は、自分の目の前で、刻々と死に向かって進んでいる人の姿を観察することになります。すると「生きるとはいかに虚しいのか」とありありと見えてきます。

 さらに観察すると、それでも人は「生きていきたい」と願い、弱く衰えた身体にしがみついて生を渇望する「存在欲」が見えてくるはずです。「人生とは何か?」と、まざまざと観察するのだと言えるでしょう。

 自分が4K(危険、きつい、汚い、給料安い)と言われ、一般に人気のない介護の仕事を続けていられるモチベーションの一つは、それが「修行になる、善行為になる」というところにある。ブッダの四門出遊のエピソードに象徴されるように、「老」「病」「死」を深く観察することが「道」へと人を誘う。その意味で、介護は「他人のため」ではなく、「自分のため」である。

 すでに数百人となった利用者との出会いと別れの中で、「いったいどういう老い方が一番幸福なんだろう?」「どういう最後が楽なんだろう?」と問い続けてきた。それは結局、「どういう生き方が一番幸福なんだろう?」につながるわけだが・・・。
 今のところ一つ自信を持って言えるのは、「結局最後にモノを言うのは、その人の性格だ」ということ。老人ホームに入って、家族も知り合いも遠のき、財産も学歴も業績も地位も関係なくなり、暇をつぶしてくれると同時にアイデンティティの源泉にもなった様々な道具立て(酒や趣味や仕事や特技や家事)も身体的・環境的変化によって奪われていく。最後まで残るのは性格だけなのだ。認知症になっても性格はちゃんと残る。
 性格がいい人は幸福である。本人も自分の環境を受け入れて穏やかに過ごせるし、性格の良さゆえに介護者からも優しくケアされるから、ますます幸福度が増す。
 老人ホームというまったく同じ環境の中にあって、そこを天国とするも地獄とするも、その人の性格次第という面は少なからずある。むろん、介護保険の制度や施設運営自体にも改善の余地は山ほどあるけれど・・・。


4. 傲慢をなくす
 
 仏教では、病気で倒れている人や不幸で力を失っているような人を見たら、このように考えます。「これは生命本来の姿なのです。私も同じです。私もいつかこうした状態になる可能性は高いのです。私も老いて死にます。この方々は私に、私の将来を見せてくれているのです」
 こう思うと傲慢さがなくなり、自分自身をいたわるように、相手のお世話をする気持ちになれるのです。

 ソルティのような中高年スタッフのメリットの一つは、対象となる高齢者との年齢差が(比較的ではあるが)小さい点にある。世代間ギャップが小さいから、若い世代たとえば平成生まれのスタッフに比べれば、通じる話が圧倒的に多い。昔の風俗や習慣、昔の歌や映画やスター、昔の出来事や風物や食べ物、昔の価値観など、共通ネタや共感できるテーマが多い。それらが、相手の考えや気持ちを理解するときの手がかりになることも少なからずある。
 また、自分もまた老いの入口に入ったことで、頭が働かなくなることや身体が言うことを聞かなくなることを身をもって実感しつつある。メンドクサイ文明から取り残されていく不安と淋しさも感じつつある(最近ついにスマホを解約した)。老いは他人事ではない。‘ゴーマンかまして’いる場合じゃない。


5. 介護の最終目的 

 誤解を恐れずにあえて言えば、私は介護の最終目的、最良の介護とは、親を幸せに死なせてあげることだと思っています。

 介護でいちばん大事なのは、心の悩みをなくすことです。
 親の気持ちを常に安らいだものにしてあげること。やさしい言葉をかけ、笑顔を向けること。・・・・・・
 最高の心のケアとは、この世に対する執着をなくせるように、アドバイスをすることです。

 「これぞスマナ節」の大胆発言。
 だが、これこそ仏教の核心である。良い転生(生まれ変わり)を繰り返した挙句の果てに輪廻から解脱すること、もはや二度と生を受けないことが、仏教の最終目的だからだ。そして、良い転生を得るには、幸せな最期を迎える必要がある。亡くなる瞬間の心の状態が次の転生先を決めるとされているからである。
 

 こうしてみると、仏教は本当に近代西洋社会の価値観とはズレていることが分かる。
 近代西洋社会の特徴は、①個人主義、②進歩主義、③合理主義、④民主主義、といったところにある。このうち③と④は仏教の価値観とそれほど齟齬をきたさない。仏教――少なくともテーラワーダ仏教では合理的であることを重視する。神秘主義や実証されない事柄への信仰をありがたがらない。「カーラマー経」の教えに見る通りだ。④も、出家の集まりであるサンガが非常に民主的に運営されていたことから立証されよう。
 問題は①と②である。
 西洋の個人主義は、自己の発見(コギト・エルゴ・スム)と自己の確立から、「自己主張」「自己実現」「自己決定」への道を切り拓いた。端的に言えば、「自己」の絶対化・固定化である。これが仏教の「諸法無我」と袂を分かつ。仏教では「自己」は幻想であり、自己の固定化こそが苦しみの要因であるとする。
 次に、進歩主義は、植民地主義や資本主義のバックボーンとなったと同時に、個人においては夢と野心の追求(=利益と欲望の充足)を許すことになった。これが環境破壊や資源枯渇、個人においては精神的ストレスを生んだ。この進歩主義の背景には、ダーヴィンの進化論はじめ近代科学の発展が大きく作用していることは言うまでもない。一方、仏教は末法思想や輪廻転生思想に見るように、進歩主義を採らない。人類は(生命は)智慧を開発しない限り、無明に置かれたまま永遠に転生を繰り返す。そして、智慧とは「諸行無常」「諸法無我」「一切行苦」。一切が変化して、一切が苦であるなら、そこに進歩などあり得ない。
 そこで―――だ。

 そこで、現代の日本の福祉制度の理念および制度体系は、アメリカやイギリスやドイツや北欧諸国などの近代西洋社会がつくった枠組みに則っている。これは、文明開化後の日本が西洋をモデルとし、戦後の日本の制度全般がGHQによって彫琢されたことの延長上に、そして戦後日本社会および日本人の価値観がアメリカナイズされたことの帰結としてある。イスラム教国と比較してみれば分かりやすい。日本は近代西洋文明の末席(?)に連なっている。個人主義、進歩主義は、現代日本人の意識を規定している。
 介護の世界においてもそれは浸透し、利用者の「自己決定と自己実現」は金科玉条のごとく唱えられている。最後まで自己の可能性を追求してやりたいことをやって死ぬのが理想という考えも広まっている。いつまでも若く、いつまでも美しく、いつまでも強く、いつまでも青春で、いつまでも輝いて――。
 平均寿命が90歳に至らんとしている昨今、ある程度まではそれも良いと思う。
 しかし、誰の生の最後にも「死」という着地点がある。
 今の日本の介護現場、日本人の「老い」は、太陽という輝かしい「生」を目指して右肩上がりに飛び続けるイカルスみたいだ。老いて病んだ人を「生」の側に押し戻そうとひたすら努力している。その結果、多くの老人たちは、死や老いについての心構えも準備もないままに、それといきなり直面することになり、パニックに陥る。太陽の熱で翼が溶けたイカルスさながら、錐揉みしながら「死」に向かって墜落していく。まるでゼロ戦のように。

 なぜ、ソフトランディングという選択をしないのだろう?

Icarus3
マルク・シャガール作「イカロスの失墜」

 



● CMの効用 初期仏教月例講演会:『Vinnana(識)の理解』(講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

日時 2016年10月1日(土)18:30~
会場 代々木オリンピックセンター・カルチャー棟小ホール
内容 「識の理解~仏教とはこころの勉強と育成です~」
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 今回は、仏教の基本的事項を網羅したアビダンマ風の講演であった。メモをとった用語をざっと見るだけでも、
  • 名(ナーマ)と色(ルーパ)
  • 欲界(六道)、色界、無色界
  • 業(カルマ)、行(サンカーラ)、識(ヴィンニャーナ)
  • 五蘊(色・受・想・行・識)
  • 心と心所
  • サマーディ瞑想とヴィパッサナー瞑想 ・・・等々
 自分の知識や理解度を確かめるいい機会になった。同時に、仏法の基本の「き」だけでも、今一度体系的に学び直したいなあと思った。来年1月の社会福祉士国家試験が済んだら、ポー・オー・パユットーの『仏法』を読み直そう。

 さて、識とは「心」のことである。
 仏教では、「心」とは認識する働きのことを言う。何をどのように認識するかは問題ではない。「心」とは単純に外界なり内界なりを「知覚する機能」であって、そこに内容はない。生命であることの条件は、この「識=心=知覚する機能」を持っていることにある。
 人が、悲しくなったり、楽しくなったり、欲望でヒリヒリしたり、怒りでフツフツしたりするのは、「心」のせいではなくて、その都度その都度「心」に溶け込んでいる「心所」のせいであるとする。「悲しい」心所が「心」に溶ければ悲しくなるし、「怒り」の心所が「心」に溶ければ怒りとなる。心所とはいわば「心の成分」である。その数は54種類に分類されている。
 スマナサーラ長老は、心と心所の関係を、水と水に溶けている成分の関係にたとえられた。そもそもの水(H2O)には味も色もついていない。それが、たとえば水にコーヒーの粉が溶ければコーヒーになり、茶の成分が溶ければお茶になり、アルコールが溶ければ酒になる。すべてのドリンク(水溶液)は「水」という液体を溶媒とし、そこに何(溶質)が溶けているかによっていろいろな飲み物に分類される。
 ソルティは、テレビ受像機(心)とテレビ番組(心所)の関係にたとえて理解している。テレビ受像機は電波を受信して映像に変換する装置に過ぎない。そこに感情的要素はまったくない。文字通り‘機械的に’動いている。しかし、モニター(さすがにブラウン管はもうないだろう・・・)に映し出される番組の内容によって、視聴者は悲しくなったり、楽しくなったり、怒りにかられたり、物欲や性欲をたぎらせたりする。番組の映っていない砂嵐の画面なぞ面白くも何ともない。
 
 さて、巷でよく言う「心を知る」とはどういうことか。

 こころは認識機能なので、認識機能で認識機能を認識することはできません。
 
 つまり、「心を知る」ことなんて不可能である。

 心は、自らと同時に生起する心所を認識するのです。

 「心を知る」とは「心所を知る」ことにほかならない。
 「あっ、いま心の中に、悲しみがある、喜びがある、怒りがある、欲望がある・・・・e.t.c」とその場その場で心の様態を認識すること、すなわち「気づくこと」――これがサティ(念)である。

 「心を育てる」とはどういうことか。
 もうお分かりだろう。
 「心所を育てること」である。
 心所には54種類あると書いたが、これが善心所(24種類)、不善心所(12種類)、善悪どちらでもない無因心(18種類)に分けられる。むろん、育てるべきは善心所である。
 「怒り・欲・無知」に代表される不善心所を、「信や念や慈悲や智慧」に代表される善心所に変えていくことは、「心」の機能そのものを強化する。テレビの喩えで言えば、「良い番組をたくさん増やしていくことがテレビ受像機そのものの性能をアップさせる」といったところか。(現実にはあり得ない話だが・・・)
 善心所を育てて「心」の機能を強化することによって、

ありのままにものごとを認識することができて、真理を発見します。

 すなわち、「悟る」のである。

 そして、一番の善心所が何かといえば「サティ(念)=気づき」であり、サティを育てることで悟りに達せんとするのがヴィパッサナー瞑想というわけである。
 仕組みを聞いて、なんだか非常にすっきりした。
テレビと視聴者
 ここで面白いのは、というか気をつけなければいけないのは、瞑想によりサティの力が高まることが、「気づいている‘自分’がいる」という錯覚につながりやすいことである。「悲しみがある、喜びがある、怒りがある、欲がある」とある程度客観的に淡々と自分の心の中(心所)を観察できるようになると、観察者としての自分を立ち上げてしまうのだ。サティ(念)という心所が、ほかの53の心所から分離されて、あたかも「心所を24時間チェックしている自分がいます」という幻影を生み、マトリョーシカみたいに入れ子構造の「私s」がつくられる。

 しかし、それは間違いである。
 テレビ番組がニュース→天気予報→ホームドラマ→スポーツ番組→バラエティ・・・・・と時間帯で次から次へと変わっていくように、心に溶け込む心所もまた時々刻々移り変わっていく。喜び→物欲→怒り→悲しみ→無気力→性欲→賢者タイム→慈悲・・・というように。サティ(気づき)もまた、その流れの中に包含され繰り返し現れては消えていく心所の一つに過ぎないのである。
 サティをCM、それ以外の心所をテレビ番組と考えると分かりやすいかもしれない。
 視聴者は、たとえばサスペンスドラマを見てストーリーや役者の演技に心奪われ、恐怖や不安や興奮などの感情をかきたてられ、自らを登場人物のように感じて現実とフィクションの境界を忘れることがある。そんな瞬間、CMがやってきて視聴者をお茶の間の現実に引き戻す。「これはドラマだよ。フィクションだよ。少し頭を冷やしなさい」というふうに。サティとは、妄想からありのままの現実に人を連れ戻すCM――それもトイレに立ちたくなるような味気ない――みたいなものである。
 そして、朝から深夜までの放送時間中、CM枠をできるだけ多く入れていくことがヴィパッサナー瞑想の極意というわけだ。
 
 あまり適切な喩えでないかもしれない。が、少なくとも「気づいている自分、悟りに近い自分」という別のドラマを立ち上げてしまう牽制にはなろう。

Consciousness is not Self.
気づきもまた「私」ではありません。

 それゆえ、「私が瞑想をしている」という言い方は誤謬なのである。


サードゥ、サードゥ、サードゥ



※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の内容のソルティなりの解釈にすぎません。


 

● あとは野となれ山となれ 初期仏教月例講演会:『「承認欲求のトリセツ」~ひとは誰に認めてもらうべきなのか?~』(講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

日時 9月 10日 (土) 14:00~
会場 日暮里サニーホール(東京)
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 400名定員のホールはほぼ満席。
 近くの席の会話を聞いていたら、「泊り込みで関西から来ました」という参加者も。東京に住み、毎月のようにスマナ長老やマハーカルナー禅師の生の姿に触れ、生の声を聴き、じかに教えを受けられるのは幸運なことである。
 というのも、今日のスマナ長老のオーラ。
 凄かった。
 演席の背後に黒い幕が垂れていたせいもあり、長老の身体から放射状に広がる白い煙のような光背が客席からよく見えた。まるで繭の中で語っているかのようであった。
 長老から発する熱波は、珍しく前の方の席に座っていたソルティのところまで及び、全身が温かく微細な波動に包まれ、全細胞が喜びに打ち震えるかのように振動し、体内温度が上昇した。
 伺うところによると、ひと月ほど母国スリランカに帰られて、村の子どもたちと交流したらしい。日本で溜まった垢を落として、すっかりリフレッシュされたのだろうか。
 
 面白かったのは、長老が、「いま日本人に話しているのとまったく同じような話をスリランカで(むろん現地語で)したけれど、聴衆はまったく食いついてこなかった」と言われたこと。原始仏教のお家元であるスリランカのほうが、庶民レベルでより仏法への関心と理解が深く、悟りを目指して瞑想修行している在家の人も多いのかと思っていたけれど、そうでもないらしい。
 時々思うのだけれど、平成の世の日本人ってのが、世界で一番テーラワーダ仏教を理解できる素地(=波羅蜜)を持っているんじゃないだろうか。

虹をわたって 001


 今回のテーマは「承認欲求」。
 「他人に認められたい」「社会的な尊敬が欲しい」といった欲求である。
 アメリカの心理学者マズローの欲求段層説では、5段階のピラミッドの上から2番目に来る。下位3つの欲求がある程度満たされると、この「自尊と尊敬の欲求」とも言われる「承認欲求」が出現する。
 つまり、誰にでも備わっている。

マズローの五段階
2017社会福祉士の合格教科書』(飯塚慶子著、医学評論社)より引用
 
 スマナ長老は言う。
 
承認欲求は無始なる過去からあり、解脱に達するまではあり続けるものです。 
 
 つまり、阿羅漢になるまでは承認欲求から完全に自由になることはできない。『私』が存在する限り、承認欲求も存在するわけである。(阿羅漢には『私』が無い)
 人が承認欲求を持つのはなぜか。
 それは、「他人に認めてもらえないと自信が持てない」からである。他人の存在も社会の目もまったく関係なしに、一人で自信満々のうちに完結しているというのは(阿羅漢でない限り)ありえない。
 というのも、
 
客観的に物事を観察するならば、何に対しても自信が持てるはずはありません。なぜならば、すべては無常なので先が見えないからです。
 
 まさしく。
 ある一つのことで成功しても、その成功がこの先ずっと続くことはあり得ない。自分も変わるし、相手も変わるし、状況も変わる。かつてのミリオンセラー連発のヒットメイカーが、時代が変わるとまったく売れなくなるのを見ると、その事情は明らかだ。好きな相手への恋が成就しても、二人の関係が永遠にハッピーに続くことはお伽話でない限りあり得ない。「体力だけは自信があります!」と言う体育会系男子も、頭脳明晰を誇った東大卒エリートも、寄る年波には勝てない。自信が持てるのはせいぜい一時だけ。それも「現状が変わらない」と言う間違った認識(=思い込み)に支えられてのことである。
 大概、人は自信と自信喪失の間を行ったりきたりしながら、最後は自信喪失のままに生涯を終える。 

 一方、自信がまったく持てないのも困りものである。仕事も恋愛も人間関係も、ある程度の自信がないとうまくいかないのは明白である。常にオドオドし失敗におびえている人間は、お望みどおりの結果(=失敗)を呼び寄せてしまい、自信喪失の悪循環にはまり込んでしまう。
 どうしたらいいのだろうか。

ポイントは自信を確信に置き換えることです。

 これが今回の法話の肝であろう。
 ソルティも「なるほど。ウン、これは使える!」と心の中で唸った。
 ここで言う「確信」とは別の言葉にすると「確認」である。つまり、サティ(念)のことだ。流行の言葉で言えば「マインドフルネス」ということだ。

仕事、勉強、料理、洗濯など、すべての行為を確認しながら行うことが大切です。行うことに確信があれば十分です。自信は要りません。
 
 つまり、「いまここ」の目の前のやるべきことについて、しっかりと注意を向け、集中し、自分ができる最良のことをすれば、それで十分ということだ。仕事についても、対人関係においても。

 ソルティの従事している介護の仕事を例にとる。
 経験のない新人のうち、たとえば片麻痺のある高齢者を車椅子からトイレの便座へ移乗するのは神経を使うものである。安全に、介助する者の負担を最小にして、ご利用者に不快感やしんどさを与えないようできるだけ短時間で、移乗介助を一連の流れとしてスムーズに行えるようになるまで、半年くらいかかる。それまでは、流れをコマ切れにした一つ一つの作業――「車椅子のブレーキをかける」→「利用者に手すりを握ってもらう」→「利用者の足の位置を確認する」→「利用者を車椅子から立たせる」→「片手で利用者を支えながら片手で衣類を下ろす」→「汚れたパットを慎重に抜き取る」→「利用者の体の向きを変え便座に座らせる」等々――について、指差し確認するかのように、確実にクリアしていかなければならない。
 慣れてくると、一連の作業を特段考えることなく分割せずに行えるようになる。体が覚えてしまうのだ。「自分もできるようになってきたなあ~」などと思うのである。
 しかし、最も事故を起こしやすいのは、この慣れてきた局面(開始後半年~1年くらい)と言われる。
 新人のうちは、一つ一つの作業に全神経傾けているので、介助技術自体は未熟でも事故は起こりにくい。慣れてきて「自信がついてくる」と、一つ一つの作業への注意力が薄れ、確認がおろそかになって、かえって事故につながりやすい。「自信がつく」ことが、事故をまねくわけだ。
 介護の仕事について5年目となるソルティも、今では上記の介助をご利用者と雑談しながら、あるいは鼻歌まじりに行えるようになった。新人の頃には考えられないくらい熟達したと思う。一方、時々、思わぬミスも生じるのである。たとえば、「車椅子のブレーキをかけ忘れた」「利用者の足を車椅子のフットレストに乗っけたまま利用者を立ち上がらせた(車椅子ごと前に倒れる危険がある)」「パットを抜き取る際に失禁していた大便を床にぶちまけてしまった」等々・・・。自信がつくことは、「大丈夫だろう」という過信に容易につながりやすく、その結果初歩的なミスを招くのである。
 最近は新人の指導につくことも多くなったが、もたついているように見える新人の介助を見ていると、一つ一つの作業について丁寧な確認を行うことの大切さを逆に教えられる。結局それが一番大切なのだ。
 自信ではノーミスは保証できないけれど、確認作業ならノーミスは保証できる。

 対人関係についても、「あの人に嫌われているのでは?」とか「あいつは気に喰わない」とか「あの人とどうやって付き合ったらいいんだろう?」とか「こんなことしたら、人からどう思われるだろう?」など、いろいろ考え頭を悩ますよりは、いま目の前にいる相手に誠心誠意向き合えば、それで十分なのである。その積み重ねが‘関係’を作っていくのだから。
 
 ポイントは、「時間」というものを‘線’や‘面’でとらえないで、「いまここ」という‘点’でのみ、とらえることだと思う。「いまここ」に集中し、「あとは野となれ山となれ」と鷹揚にかまえる。
 その結果は、自信にはつながらないかもしれない。が、「あの人は信頼できる」という評価を得、他人や社会から認められることには益するだろう。なぜなら、失敗のない「いまここ」を重ねていけば、「失敗のない」人生をいやでも生み出してしまうからである。

自分の義務を果たすだけで人生は精一杯です。それ以上、妄想するものではありません。ある程度認められたら十分です。


 自分がヴィパッサナ瞑想修行をしている理由の一つは、意識を「いまここ」に定着させる訓練(=脳神経の回路形成)をしているのだろう。
 妄想のない人生は、そのまま幸福なのだ。
 

サードゥ、サードゥ、サードゥ。



※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の内容のソルティなりの解釈にすぎません。






 

● 結論ばかりが人生だ : 初期仏教講演会(講師:スマナサーラ長老)

日時:2016年4月9日(土)14時~
会場:日暮里サニーホール(東京都荒川区)
主催:日本テーラワーダ仏教協会 
テーマ:『「立ち止まらず、もう一歩前へ」~勇気を出して概念を手放せ~』

 心地よい春風が吹く行楽日和にも関わらず、定員400名ほどのホールはほぼ満席。マハーカルナー禅師の人気沸騰ぶりといい、初期仏教は一時的なブームを超えて、すっかり日本社会に根を下ろしたように思う。
 釈迦国の王子だったブッダがそうだったように、物質的豊かさと自我を満たしてくれる(ように見える)様々な‘物語’が崩壊した果てに訪れる「虚しさ」が否応なく辿り着くのは、ここでしかないのだろう。
 おそらく、今後日本における初期仏教の主役を張るのは、いわゆる「さとり世代」になるんじゃないかと予測する。

 あいかわらずのスマナ節炸裂。
 話が終わりに近づくにつれて、ぐんぐん核心に迫っていき、聴いているこちらの頭もぐんぐん覚醒していく。
 聴くことがそのまま瞑想体験になる。
 最後には脳細胞が痺れたようにジンジンと脈動しているのを感じた。
 
 思わず書き留めたスマナ語録。そのソルティ流解釈。

「結論ばかりの人生」
日本人はYES/NOをはっきり言わない、自分の意見を持たないと言われるが、それはウソ。みんな見解を持っている。対立を恐れて口にしないだけ。どんなことにも見解を持っている。結論ありきで生きている。
 巷を賑わすスキャンダラスなニュースに対するネット上の匿名コメントを見ていると、本当にそう思う。一億総評論家時代。しかも意地悪な・・・・。

「見解は戦い、勝敗を招く」
見解を持つとは、各々が「眼・耳・鼻・舌・身・心」を通して得た固有のデータをもとに概念を組み合わせ、固定した判断をすること。客観的な正しい見解などない。見解はすべからく邪見。各々が見解に執着するから戦いが起こる。

「知識は重い。智慧には重さがない」
知識は貯めること。智慧は反対に見解を捨てること。見解から自由になること。捨てることで現れる開放感・自由・安らぎ、これこそが幸福。

「あらゆる見解を捨てた境地が解脱」
仏道修行によって世間的な見解を一つ一つ捨てていったら、ブッダの言ったことが真実とわかる。「地球は丸い」と言うのと同じく立証された事実とわかる。が、それもまた一つの見解にすぎない。頭で「諸行無常・諸法無我・一切行苦」を理解しているうちは、それもまた見解。解脱とはそれさえ捨てること。

 つまり、こうなる。
 A.あらゆる見解は邪見である。 
ならば、
 B.「あらゆる見解は邪見である」という見解もまた邪見である。
この矛盾を解く第三の道は、
 C.見解のない世界(=ありのままの世界)



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● すべての生命は認知症である:初期仏教講演会『どっちがほんもの?~正しいことの真偽を問う』

日時  2016年1月9日(土)午後1時半~
会場  なかのゼロ小ホール
講師  アルボムッレ・スマナサーラ長老
主催  日本テーラワーダ仏教協会

 550席あるホールは8割がた埋まっていた。
 相変わらず若い層(50代以下)が目立つ。新たな参加者も増えている。『仏教思想のゼロポイント』の好評に見るように、「いよいよ初期仏教が浸透してきたなあ」という感をもった。

 今回もまた途中まで、座席で瞑想まがいの傾眠をしていた。
 午前中に用事で都心に出向いたら、すっかりバテてしまった。用事そのものは疲れることなかったが、どうも都会の人混みにいるとエネルギーが消耗してしかたない。知らずに気が奪われていくようだ。ただの老化や運動不足による体力低下・気力低下とは違うのは、逆方面への運動――すなわち山登りなら何時間歩こうがこんなに疲れることはないってことだ。むしろ、筋肉疲労はあれども気はリフレッシュし充実している。
 気を奪われない方法を学ばない限り、都心はできるだけ避けるほかないようだ。

 が、しっかりと目が覚めて頭が冴えたのが、説法的には重要な後半部だったのはいつもながらうまくできている。スマナサーラ長老の講演はいつも、前半が俗世間用(在家向け)の内容で、後半が出世間用(修行者向け)の内容になっているからだ。
 タイトルの「正しいことの真偽を問う」の結論は最初からはっきりしている。「人の持つ意見・思考・思想・主義・主張・論に正しいものなどない」である。これらはすべて‘見解’であって、個々人がそれぞれの知識や性格や教育や信仰や体験や好みや利害を素材として創り上げた、純粋に主観的な‘ものの見方’に過ぎない。
 だから、見解は人の数だけある。似かよった見解をもつ大集団が自分の立場を安定保持するために、「これが正常」「これが常識」「これが普通」と決め付けることはある。が、それでもなおそれが客観的に正しいわけではない。ただ多数派というだけだ。
 このことを各人が理解しない限り、この世から争いが無くなることはない。「自分が正しい」と各人や各集団が思い込んで主張している限り、絶対に平和的解決は起こりえない。
 「自分が‘絶対に正しい’なんてことはあり得ない」という一歩引いた理解の仕方、言うなれば絶対性から相対性への転換が必要なのだが、これが難しいのである。なぜなら、‘自己を相対化する’とは、自我の正体を暴いて、ニュートラルな立場から再調教する手続きが必須だからであり、再調教の目的はつまるところ、自我=アイデンティティの空洞化なのだから。キリスト教ともイスラム教とも違う仏教のスタンスはまさにここにある。(以上、講演テーマに関連してのソルティの見解含む。)

 スマナ長老の話より。ブッダが指摘した人が見解をつくる際のもとになる5つのもの。
1. 信仰
2. 好み
3. 言い伝え・伝統
4. 理屈・思考
5. 自分の意見・見解と合う他人のそれ 

 今回、面白かった長老の言葉。
 
「すべての生命は認知症です」

 すべての‘生命は’と言っているところがポイントであろう。
 すべての‘人間は’なら、上記に書いたように、各個人の物事に対する認識の仕方はそもそもが見解という「自我プリズム」で捻じ曲げられていて客観的な真実とは程遠い、というだけの話である。(これだけでも容易に理解しがたい話なのだが・・・)
 すべての‘生命は’といった場合、もっと根源的なところを言っている。
 すなわち、それぞれの生命は、自然(神?)によって与えられた生まれついての「種」としての認識機能(知覚手段)を持っている。人間なら、視覚(目)・聴覚(耳)・嗅覚(鼻)・味覚(舌)・触覚(体)というように。仏教ではこれに法(意)を加えて六処とする。蛇には聴覚がないと言われる。ミミズには視覚がないと言われる。犬の嗅覚はヒトの1億倍という説もある。イルカやコウモリは人間にない探知機能(ソナー)を持っていると言われる。それぞれの生命(種)は、外界を認識するためのそれぞれのツールを有している。逆に言えば、認識される外界の姿はそれぞれの生命によって異なるということである。
 では、どの生命が認識した外界の姿が正しいのだろうか?
 我々人間?
 犬 (逆立ちしたGOD)?
 イルカ?
 ゴキブリ?
 ET?
 樹齢7000年の縄文杉?
 畑の白菜?
 「盲人象を撫でる」のことわざ通り、どの生命も外界の一部をそれぞれの認識限界内で捉えているに過ぎない。
 だから、「すべての生命は認知症」なのだ。

 キリスト教徒ならこう言うかも知れない。
「その通りです。ただ唯一、全知全能の神様だけが世界の正しい姿を知っておられるのです」
 全知全能の神様を認識する人間の認識が偏っているのだから、何をかいわんや。

 介護の仕事で認知症の高齢者と日々向き合って対応の難しさにボヤいている自分であるが、「自分もまた二重の意味で(人間として、生命として)認知症にほかならないんだ」と謙虚に思った年明けである。


2016冬



 


● 永久不満機関 本:『沙門果経』(アルボムッレ・スマナサーラ著、サンガ文庫)

2009年5月刊行(文庫版2014年4月発行)。
 
沙門果経 001

 確実なブッダ口伝の教えとしてテーラワーダ仏教(初期仏教)の世界で2500年以上前から伝えられてきた経典である。
 沙門とは出家修行者のこと。
「仏教で出家すると、どんな果報(利益)がありますか?」というマガダ国のアジャータサットゥ王の問いに、ブッダが長時間にわたり順を追って丁寧に回答したものである。

戒律を守ることによる果報、サマタ瞑想(止行、四禅)による果報、ヴィパッサナー瞑想(観行)による果報(六神通)が、順を追って説かれ、また、冒頭部ではいわゆる「六師外道」の思想と仏教との思想比較も盛り込まれるなど、初期仏教のあり方を総合的に説明するとても貴重かつ代表的な経典となっている。(ウィキペディア「沙門果経」より抜粋)

 問いかけを行ったのがアジャータサットゥ王であるというのがミソである。
 この王は、ブッダの従兄弟でありながらブッダの命を狙い教団の分裂をはかった悪名高きダイバダッダに唆されて、実の父であるビンビサーラ王を幽閉・殺害して王位を奪ったとされている。仏典の代表的な悪人なのである。
 その後、アジャータサットゥは自らの罪に懊悩し、ブッダのもとに赴き、悔い改めて仏教に帰依するようになった。ただし、育ててくれた親を殺害するという逆罪を犯したため、ブッダ直々の説法を聴いたにもかかわらず悟りに至れず、死後は地獄に堕ちたとされている。
 
 例によって、スマナサーラ長老の解説は平易な日本語で分かりやすく、しばしば使われる喩えも適切で面白く、当時の時代背景や文化や習慣の説明も加えながら、古い仏典を生き生きと現代に蘇えらせるのに成功している。何より素晴らしいのは、日本の仏教研究者による翻訳と違って、ご自身がテーラワーダの一沙門であり、戒の守り手であり、瞑想の実践者にして指導者であり、沙門の果報をいままさに得ている立場の人による解釈である、という点に尽きる。13歳で出家して50年以上沙門として生きてこられ、自らの血肉となった体験に裏打ちされた言葉なのである。説得力は十全。実際、この経典のこれ以上のレベルの邦訳は考えられまい。
 このような書を日本語で読める幸運に感謝するほかない。
 

以下、引用。

 仏教の立場でいうと、人の話は否定か肯定かと先を急ぐよりは、まずそのまま理解しておいたほうがよいのです。理解というのは「認めた」という意味ではありません。

 仏教では人間は自由だとも、自由でないとも言わないのです。すごく複雑です。意志と言ったとたん、自分が自由なような感じがするのですが、なぜそんな意志が生まれたかということを見ると、そこに条件が出てきてしまう。ですから意志自体も、まったく不自由ではないのですが、自由でもないのです。
 仏教では判断力というものを大事にしています。正しく判断することができれば、正しい意志ができあがるというのです。

 仏教という哲学から見れば、生命の生きる目的は人格を完成すること、つまりありったけの煩悩をなくすことです。

 ひとことで言えば、仏法というのは存在に対する執着にあきれ果てるためにあるのです。存在を賛嘆するのではなく、存在のはかなさやみじめさ、いくら努力しても生きることは不安で空しく終わることを強調するのです。これは、一方的に生を賛嘆する俗世間の人々にとっては、素直に受け入れ難いかもしれません。
 でもそれが、聞く耳を持てるようになり、自分でも真剣に自分の生のことを考えるようになってくると、あきれ果てることができるようになります。

 仏教では、最終的に達するべき目的は明確です。輪廻を回転しながら生きることにはなんの意味もなく、それを脱することこそが、生命にとってはゴールなのです。ゴールに達したら、「やっと苦しみが終わった」「やるべきことは終わった」という絶対的な安心感が生まれます。その時点で一切の義務は終了するのです。


 「生きる目的は何か?」という問いは、古来から人類の最大かつ最深なテーマであるが、仏教はすでにそれについて2500年前に答えを出している。
「生きる目的とは、もうこれ以上生きなくても済むようになること」

 なるほど、仮に人類に‘生きる目的’が事前に明確に顕されていて、誰もが生まれつきそれを知っているとしたら、人は何の迷いもなくその‘生きる目的’を果たすために生きていくだろう。で、それが達成された暁には、「ああ、これで終わった。もうこれ以上生きる必要はありません」と終了宣言し、死ぬまでの残された時間を文字通り‘余生’として安穏に暮らすことだろう。逆に言えば、「もうこれ以上生きる必要はありません」と見切りがついた時点で、人は‘生きる目的’を達成したことになる。
 人類が「生きたい、生き続けたい、生まれ変わりがあるなら再生したい」と願うのは、まさに「生きる目的」がブラックボックス化されているからという単純な理由による。回答がないという苛立ちがエネルギーとなって生き続けているのであろう。
 それが無知(=無明)の正体なのかもしれない。



 



 

● 孤独な修行者 :日本テーラワーダ仏教協会月例講演『えっ、私が悪いの!? 疑うべきそれぞれの常識』(話者:アルボムッレ・スマナサーラ長老) 

日時 2015年6月26日(金)18:30~
会場 中野ZERO小ホール(東京都中野区)

 幸いなことに早番だったので参加できた。
 日中は段取りよくテキパキと業務を進め、定時になるや更衣室に直行。褥瘡についての学習会参加を呼びかける館内放送が響く中、迷いも無く施設をあとにした。
 中野サンモール商店街でかき揚そばを食べ、途中にあるベローチェで眠気覚ましのコーヒーを飲み、中野ZEROに向かった。

 アルボムッレ・スマナサーラ長老による月例講演会に参加するようになってからずいぶんになる。
 今では、自分にとって月のもっとも大切な行事(一日)であり、仏法について学び、俗世間から離れた視点から自分自身や世間や社会を見直す機会となり、かつ修行のモチべーションを高めることのできる有意義な時間である。出られるときは必ず参加するようにしている。会場が職場からわりに近いことも幸運である。
 
 今日もまた6割がた埋まった会場の後方の座席について、講演中の印象的な言葉をメモしようとノートとボールペンを手に、パワーポイント映写されたスクリーンに対峙した。
 が、なにせ8時間の重労働(介護)のあと、しかも今日は午後から入浴介助。汗をかいて体はクタクタである。
 講演冒頭の日常読誦(読経)が済むやいなや、瞼は垂れ下がり、首はコクンと前にうなだれた。
 40代半ばまではこんなことなかったのに・・・。
 かき揚そばは失敗だった。コーヒーだけで良かった。
 よって、講演は後ろ半分しか参加できなかった。
 情けねえ・・・
 
 しかし、話されている内容はおおむね理解できるものであった。
 人間の持つあらゆる意見・論・見解・印象は、つまるところ各人の主観に過ぎないので、他の人と完全な一致を見るわけがない。そのことに気づかず、お互いの意見に固執し、あい争ってもなんの解決にも至らない。コミュニケーションがうまくいくはずもない。まず、自分の意見が単なる主観に過ぎないことを自覚し、「自分が間違っている」可能性のあることを常に自覚しなければならない。
――というような内容であった。(これも主観的な解釈かも。半分寝ていたし。)

 テレビ朝日の『朝まで生テレビ』が始まったばかりの大学生の頃(1987年)、夜更かしして夢中になって観ていた。天皇制や部落問題などタブーとされる話題も果敢に取り上げて、斯界の著名人らによる議論の応酬や、いい大人たちの感情の幼稚な暴発ぶりを見るのが面白かった。
 しばらく見ていて、「ああ」と腑に落ちたことがあった。
 それは、「あらゆる意見・哲学・論は結局その話者の主観に過ぎず、自らのアイデンティティを支えるための自己正当化に過ぎない」という気づきであった。科学分野における論(万有引力の法則とか相対性理論とか)はとりあえず別として、洋の東西問わず、歴史上のいかなる哲学も、社会的なトピックに関するいかなる論も、もとより正解はないのである。多数派だから正解と言うこともないのである。それぞれが自己のアイデンティティの正当化を図ろうとする延長上に、もっともらしい理屈をこねているに過ぎない。
 それがわかってから、自らの意見こそが「絶対に正しい」と信じ込んで相手を言い負かそうと必死になっている出演者らがアホに見えてきて、番組自体馬鹿らしくなって、見るのを止めてしまった。
 たが、今思うにあれは、討論することでどっちが正しいかを決めようとしたのではなく、意見の多様性を視聴者に知らしめようとしたのでもなく、いわんや視聴者の意識を高めようとしたのでもなく、単なる「机上プロレスショー」だったのである。田原総一朗はアンパイヤだったのだ。
 もとより視聴率が取れなくては番組にならない。
 (だが、上記の気づきを視聴者の一人である自分にもたらしてくれたのだから、製作者や出演者には感謝すべきだろう。)

 さて、講演内容はともかく、今回「なぜ自分がこの月例講演会に参加するのか」に思い当たった。
 もちろん、法話を聞きたい(=仏法を学びたい)というのが一番ではある。
 が、今日のように半分眠って過ごしていても「十分来た甲斐があった」と思うわけである。
 それはなぜか。
 一つには、サンガ(仏道修行の仲間たち)に出会えるからである。
 ふだん自分はたった一人で本を読んで仏法を学び、たった一人で瞑想している。テーラワーダ仏教を学んでいてお互いに励ましあえるような友人、いわゆる法友を持っていない。お寺(京王新宿線の幡ヶ谷にある)に行くことも滅多にない。孤独な修行者である。
 孤独な修行者はときに迷うのである。
 
 自分がやっていることは正しいのか。
 こんな世間的価値観とはかけ離れた仏教というものに、時間やお金や気力や能力を費やしてあたら人生を無駄にしていないか。
 何年も修行をしているのに結果が見えない。このまま続けていてもいいものか。
 こんな陰気臭いことをする代わりに、もっと生活を、もっと人生を楽しむべきではないか。
 自分の欲求に忠実であるべきでないか。
 自分は仏教に依存することで、‘何か’から、あるいは人生そのものから逃げているのではないか。
・・・・・・等々。

 仏教的観点で言えば、これらは自我の策略である。
 修行の進展によって正体が暴かれ弱毒化されていく‘自我’が、なんとか生きのびようとして、修行を邪魔せんと修行者の中に迷いを生じさせるのである。
 お釈迦様でさえ、菩提樹の下に座し解脱に達する最後の瞑想中に、悪魔の声を聞いたのである。

 君はやせ細り、体が黒ずんでいる。あなたは死の瀬戸際にある。
 死が千分なら、あなたの命は(ただの)一分。君よ、生きたまえ。生きることが優れているでしょう。生きていて、諸々の善行為を行いたまえ。・・・・・・
 あなたの修行は何の役にも立たない。修行の道は厳しい。成し遂げることは難しい。
(アルボムッレ・スマナサーラ著『日本人が知らないブッダの話』学研発行)

 お釈迦様はこのように答え、悪魔を退けた。

 私はムンジャを挟んでいる。命は惜しまない。敗北して生きるよりは、戦って死ぬ方がよい。

 ムンジャとは草の葉っぱのことで、昔インドで戦士たちがターバンにムンジャを挟んで死ぬ覚悟で戦いに赴いた故事に由来する。
 
 自分とお釈迦様を較べるつもりは毛頭ないものの、やはり瞑想が進むほどに、仏教にはまり込むほどに悪魔の声も強くなるのは事実である。
 そんなときに、同じ修行者の多く集まる月例講演会に参加し、別段会話をせずとも、「これだけの仲間がいるのだ。自分一人ではないのだ」と知ることは、悪魔を退ける力となる。
 仏教では、仏法僧を三宝とするが、僧(サンガ)――広くとらえて在家信者の集まり――にはそれなりの意義があるのだ。
 そろそろ法友が必要なのかな・・・。

 今一つの理由は、やはりスマナサーラ長老の存在に触れることにある。
 自分の軸がしっかりせずに右に左に揺れている自分が――仏教を知ってその振幅は以前より小さく単純な動きになったが――しっかりしたアンカー(碇)がほしいとき、スマナサーラ長老の確固たる存在感は‘効く’のである。姿を見るだけで安心するのである。
 これに関しては、当のスマナサーラ長老がこんなことを書いている。

 なぜ、一部の人々には影響力があって、他の人々には影響力がないのでしょう。
 両者を分けるのは、「生き方に自信を持っているか否か」ということです。「私はこういう理由で、このような生き方をしています」と、自分自身で自分の生き方に対して確信を持つこと。それが影響力の源になるのです。生き方が優柔不断・曖昧ということでは、影響力はまったく生まれません。(日本テーラワーダ仏教協会会報『Patipadaパティパダ』2015年6月号智慧の扉より)

 確かに、自分がこれまでに出会った影響力のある人々を思い起こすと、上記の言葉がぴったり当てはまる。
 何を信奉しているか、何を語っているか、何の仕事をしているか、どんな地位にあるか、どんな風采であるか、世間的に有名か否かなどは、あまり関係ない。自分の選んだ生き方について自信を持ち、日々それを基盤にして生き、それなりの覚悟のある人が、良きにつけ悪しきにつけ、自分に対する影響力を行使している。
 スマナサーラ長老はまさにその典型である。 
 
 サンガに出会い、長老に出会い、「やっぱり自分には仏教しかない」と納得し(なかば諦め)、会場を後にしたのであった。


サードゥ、サードゥ、サードゥ

ハスの花ピンク


 








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