ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

アルボムッレ・スマナサーラ

● クールでドライ 本:『迷いと確信 大乗仏教からテーラワーダ仏教へ』(山折哲雄、アルボムッレ・スマナサーラ対談)

迷いと確信2007年サンガ刊行。

 日本でテーラワーダ仏教を教え続けて20年以上になるスマナサーラ長老は、これまでにいろいろな著名文化人と対談を重ねている。
 ざっと思いつくままに上げてみるだけでも、
① 玄侑宗久(臨済宗僧侶、作家)
② 立松和平(作家)
③ 鈴木秀子(聖心会シスター、評論家)
④ 南直哉(曹洞宗僧侶)
⑤ 有田秀穂(脳生理学者、医師)
⑥ 夢枕獏(作家)
⑦ 香山リカ(精神科医、評論家)
⑧ 瀬戸内寂聴(天台宗僧侶、作家)
⑨ 養老孟司(解剖学者)
⑩ 小飼弾(プログラマー、実業家)
 錚々たる顔ぶれである。
 自分がもっとも面白く読んだのは、④南直哉との対談『出家の覚悟』と⑩小飼弾との対談『働かざるもの、飢えるべからず』(ともにサンガ発行)である。
 対談相手によって、話されるテーマや雰囲気や話の難易度はずいぶん異なる。
 一般に、僧職相手の場合がもっとも話の密度が濃く、仏教用語が飛びかうためもあって難しく、丁々発止のやりとりが炸裂している印象がある。どうしても、大乗仏教V.S.テーラワーダ仏教の構造になってしまうし、無常や無明や輪廻転生や悟りなど仏教の真髄に触れる対話になってくるから、そこは乗る船は違えども同じ仏弟子同士、切るか切られるかの真剣勝負である。読者はそこに面白みを感じ、かつ学ぶわけである。

 宗教学者として著名な山折哲雄(父親が浄土真宗本願寺派の僧侶であったらしい)との充実した対話が楽しめるこの本もまた、ブッダその人や仏法に関わる話題はむろんのこと、日本仏教の歴史や現状、現代日本社会の諸問題、仏教的な見方やライフスタイルが日本人の生死にどう役立ってくるか・・・といったことを縦横に語り合っていて興味はつきない。
 特に「仏教カウンセリングの実践」と題した第三章において、①‘妄想ループ’が人の苦しみをつくり出していること、②それは認識の欠陥(=無明)によって起こること、③それを断ち切るためには観察(ヴィパッサナー瞑想)が有効であること、をまことにシンプルに語って、全編中もっとも対話--というか言葉の真の意味での‘問答’――が白熱し、ページをくくる手が震える。いわば、この本のキモである。
山折:    無明はどこから来るのですか。
スマナサーラ: どこからも来ません。
山折:         人間であれば、必ず無明ですか。
スマナサーラ:  「生命であれば」無明です。
山折:         存在それ自体が無明であると。
                   では、存在をそのままの形にしている限り、悟れないことになる。
スマナサーラ:  存在は正当化すると悟れません。  

 上記のすべての対談において共通して言えるのだが、スマナサーラ長老の語りの論理的なことにはほとほと感心する。
 これは、ギリシア論理学と並び称される強靭な論理学の歴史と体系を誇るインド文化圏(スリランカ)に長老が生まれ育ったことに由来するのだろう。元来、理知的で科学的な頭脳の持ち主(理系)でもあるのだろう。その上で、客観的に事実に基づいて観察することを重視するテーラワーダ仏教のマスターなのだから、これは本邦のちょっとやそっとの学者や評論家では敵うところではない。
 上記のどの対談を読んでも、スマナ長老の語りが圧倒的に明晰で論理的で、事実と事実でないものを伝えるときの言葉の配慮が行き届き、十二分にクリティカルシンキングおよび弁論のトレーニングが為されているのが感じられるのにくらべ、日本人の対談相手は全般、情緒的で直感的で、どこまでが実際のデータ(テキストや統計など)にもとづいた意見(事実)で、どこからが伝聞や憶測で、どこからが本人の体験や考えなのかの区別があいまいである。「そのときそのときの気分で思いついたことを話している」といった印象すら受ける。
 日本語の特質のせいでないことはもはや明らかである。
 スマナ長老のセリフのはしばしにそうした特徴は伺われる。
○ その場合はデータがないと研究になりません。
○ 論理的にはその可能性があったといえます。しかし、それにはデータを出して調べなければならない。
○ 私の個人的な経験で言えば、できない人の方が少ないです。
○ どうやって死後を言えるんでしょうか。仏教は厳密に論理的な世界です。過去世は歴史だから言えるんです。来世はまだ現象化していないから。言えるはずがありません。
○ それはインドで書かれた経典でないから、私は勉強していないのでわからないんです。
○ それは日本人の問題であって、それに私が答える必要はないと思います。
○ 山折:阿難尊者の優しい穏やかな表情というのは、わが国の平安時代から鎌倉時代にかけての代表的な釈迦仏とか阿弥陀如来仏とか大日如来と非常によく似ていると言っていいかもしれない。その点では単に、美男におわす、だけではないのではないか。
 スマナサーラ:遺伝的に言えば、顔、形はお釈迦様に似ていないとだめです。兄弟ですから。
 まったくクールでドライである。(ビールの宣伝か)

 さて、二日間にわたる対談の最後に山折はこう慨歎する。
 スマナサーラさんのお話を伺って、つくづく思ったことが一つだけあるんです。それは、同じ仏教といいながら、テーラワーダ仏教の伝統というのは、一種の「確信の仏教」、つまりブッダの生き方を確信する人々の仏教だ、ということです。それに対して大乗仏教とは、誤解を招きやすい言い方になりますが、「迷いの仏教」ではなかったのかと。「確信の仏教」対「迷いの仏教」。これがテーラワーダ仏教と日本の仏教の大きな違いではないかということです。
 今まさに日本における仏教というのは、この「迷いの仏教」の伝統の中で迷いに迷っているという感じがします。とはいっても、それは必ずしも悪いことじゃないんです。ただ、その重点の置き方は大きく違っている。人間生きるか死ぬかという問題についても、テーラワーダ仏教の側からは、つねに確信する者の声や響きが聞こえてくる。だからこそまさにテーラワーダ仏教なのでしょう。(ソルティ注:テーラワーダとは「長老」の意) これに対して大乗仏教というのは、常に大衆の側に立って考え続けてきた。迷わざるを得ないわけです。その究極の状態に日本の仏教はきているのかもしれない。

 この潔さは、山折氏の学者としての、あるいは一人の人間としての謙虚さや柔軟性を十二分に示していよう。
 と同時に、氏が大乗仏教の研究者ではあっても僧侶ではないところにも拠るのかもしれない。
 いずれにせよ、パラダイムを変える力をもつ大胆にして鋭敏な洞察である。



 





● 王様の涙 初期仏教講演会:『やめたいことはやめられる~ブッダに学ぶ「やめる」訓練』(演者:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

 12月6日(土)中野ゼロにおける日本テーラワーダ仏教協会主催の月例講演会。

 今回のテーマは、‘やめたいのにやめられない’好ましくない習慣(悪癖)を如何にしてやめるか、というもの。
 仏道修行を生きる糧としているのになかなか飲酒がやめられない自分にとって、ドキッとするテーマである。

 開口一番、スマナ長老は宣言する。

「やめたいのにやめられない」と言うのは嘘です。本当にやめたいのだったらとっくにやめているはずです。実は‘やめたい’と思っていないのです。自分の意思で好んでやっているのです。

 まさに図星。
 飲酒をやめたほうが絶対に修行がはかどると分かっているのに、飲んでいる時間や酔っ払っている時間をもっと有効に使えるのは明らかなのに、「まあこれくらいいいではないか」と自分を甘やかしているのが事実である。
 「理性を失って、あとから後悔するような言動をしないでいられるレベルまでならOK」とか、「自分一人で部屋でたしなむ程度(缶ビール一缶)なら、誰に迷惑かけるでなし、よいだろう」とか、「赤ワインは健康ドリンク(ポリフェノールたっぷり)であってお酒のうちには入らない」とか、「若干の飲酒は寝つきを良くするから」とか・・・いろいろ理屈をつけて飲み続けている。
 お酒が好きか、赤ワインが好きか、酔っている状態が好きかと言うと、実のところそうでもない。
 では、なぜ飲むのか。
 自己分析するに、一つには「あまりストイックなお堅い人間にはなりたくない」という牽制が働くからである。自分に厳しい人間は他人にも厳しくなりがちなので、車の運転操作で言うところのある程度の‘あそび’があったほうが良いのではないか、と思うからである。(これもまた言い訳?)
 もう一つは――こっちのほうが真相を突いていると思うが――飲酒に依存しなかったら、もっと大変なものに、人生を狂わせてしまうほど厄介なものに依存してしまいそうだからである。
 たぶん、多くのアルコール依存症やニコチン依存症の人の深層心理にこの思考が働いているような気がする。
「明らかに自己破壊につながるもっと依存性の強い‘あっち’を我慢しているのだから‘こっち’くらい許してよ」
「‘こっち’くらいでなんとか制御しているおかげで、もっと自分をダメにするであろう‘あっち’の習慣に行かないで済んでいるんだ」
--という思考である。
 このからくりというか内心の弁明は、当事者でなければわからない。外側からカウンセラーやソーシャルワーカーや医師や保健師が、いくら本人に「お酒をやめろ」「タバコをやめろ」と言ったところで、このからくりを理解しない限り、立て板に水であろう。当事者ですら自覚していないのが普通かもしれない。

 そんなわけで飲酒をやめないでいる自分なのだが、どういうわけか、最近自分の友人たちでお酒をやめる人が続出している。「あんなに日本酒好きだった奴が!」「週末になると必ず飲み屋に出入りしていた奴が!」次々と、「自分お酒をやめました」宣言をしてくる。
 いったい、何が起こっているのだろう?
 たしかに、自分の友人たちはもういい歳(40~50代)である。体の負担を感じてもおかしくはない。人生ももう秋、お酒を飲んで無駄にする時間がもったいないと思っても不思議ではない。自分もまた「お酒の席で話したことや起こったことや意気投合したかに見える人間関係は、そのときは非常に意義を感じたり、価値を感じたり、得したような気分になったりするが、醒めてみると、結局益するものが少ない」と、飲酒生活30年でいい加減気付いている。
 飲酒で得することと損することを比べれば、やっぱり針はマイナスに振れるであろう。

 話を戻して。
 「やめたいのにやめられない」は欺瞞であり、「やりたいからやっているのだ」と正直にはっきりと自覚することが大切である。
 「やりたい」は欲望であり、心に生じる様々な感情や気分(=悪感情)をもとに熾ってくる。この悪感情がうごめいている段階で、それをしっかりと認識し、それに流されないで客観的に分析する。いま悪感情と言ったが、仏教では感情はすべからく悪感情である。感情による判断は決まって間違っている。
 以下、スマナ長老直伝の仏教による「悪感情に打ち勝つための方法」。

1. まず、心に様々な感情が湧く。
2. そのとき、「この感情でいる私は幸福、楽しみ、安らぎを感じていますか? 苦しみ、不幸を感じていますか?」とチェックする。
3. 行為をしたくなった時も同様にチェックする。
4. 行為するときも、して終わってからも、同様にチェックする。
すると、
5. 正道が徐々に現れる。
6. 行為と感情の関係がわかるようになる。どのような感情が、どのような行為を引き起こすかを発見できるようになる。
7. 正しい行為によって、自分がどのように幸福になっているのかを理解する。
8. 自分の正しい行為で他者も幸福になるのだと発見する。
さらに、
9. 無知のせいで、無常なる現象に執着していたことも、執着が不幸を司っていたことも、執着はもともと成り立たないことも、発見する。
10. 執着を減らす生き方をすることで幸福に生きられることも、執着を捨てることで究極の幸福に達するのだということも発見する。

 人間がやっているすべてのことは、原始脳が司る「存在欲(=生きていたい!)」と「恐怖感(=死にたくない!)」から熾っています。あらゆる感情は、この「存在欲」か「恐怖感」を基盤として、そこから派生しています。人間は、原始脳(獣の脳)に支配されています。大脳が原始脳に支配されているのです。
 不幸と苦しみを作り出す原始脳の支配を破って、客観性と理性で働ける大脳に支配権を与えることが仏道修行です。

 いつもながら大胆すぎる。
 人が働くことも、子供を生み育てることも、家族を養うことも、勉強して偉い学者になることも、政治家になることも、練習を重ねて超一流のアスリートになることも、芸術を創造することも、友達をつくることも、恋愛することも、他の人を助けることも、すべてが原始脳の働きと言うのである。そして、そこから脱出しなさいと言うのである。

 と、ここまで書いてきて気づいた。
 自分が飲酒をやめられない今一つの理由は、真の仏教徒になることへのためらいの表れなのだ。こんな途方もない、ある意味‘非人間的な’思想を本気で受け入れて、彼岸に渡ってもいいものかどうか、深い崖の前でおびえているのである。(むろん、この感情こそエゴの仕業であろう。)

王様の涙




● 本:『人に愛されるひと 敬遠されるひと』(アルボムッレ・スマナサーラ著、角川文庫)

愛される人敬遠される人1998年国書刊行会より刊行。
2012年角川文庫より発行。

 仏教的観点から説く人間関係の極意。
 通勤電車の中で気軽に読めるくらい、やさしく、わかりやすく書かれている。
 が、やはりスリランカ上座仏教長老の本である。
 一見、女性向け月雑誌かPHP研究所が取り扱いそうな成功哲学風テーマと表装を装いながら、中味ははじめから終わりまで、釈尊の言説からはずれることない骨太の仏教書。
 冷徹な人間観察から導き出された‘ありのままの’事実にみぞおちを突かれるところが随所にある。
 冷徹な人間観察とは、つまるところ、人は無明に閉ざされている
 
 以下、引用。 
 

 世界中でほんとうにつき合いにくい存在というのは人間です。人間はいちばんつき合いにくい。それをまず覚えておいてください。人間には社会性はまったくありません。・・・・・偉そうに「人間というのは社会的な動物だ」などと言う学者がいますが、「何をバカなことを言うのですか」と言いたいのです。
 
 自分のことしか考えない私たちが、なぜ人とつき合いたがるのでしょうか。それは自分のためなのです。つまり自分の利益のために他人とつき合いたがるのです。損をするために人とつき合う人はいません。
 
 人とつき合うときに大切な心構えをいくつかお話しします。まず第一に大切なことは、自分はわがままであると正直にきちんと認め、嘘をつかないことです。
・・・・・・・次に何をどうすればいいのでしょうか。次はとても大切なポイントですからよく覚えておいてください。それは「何があっても驚かない」ということです。・・・・・・私からあえて言うならば、人が人を殺すことも当たり前なのです。一人の人が十人も二十人も殺しても、また当たり前のことなのです。
 
 悟りをひらくということは一般的にも、また仏教でも非常にむずかしいこととされています。しかしそのむずかしい悟りをひらくこと以上に、「人とうまくつき合う」ということは、さらにむずかしいことなのです。
 
 悟りを開くための修行は、少しまじめにがんばれば意外と早く終了できるのです。「生命として解脱をしました」と落ちつくことができます。
 でも残念ながら、「人とつき合う」という修行だけは終わりのない一生の修行です。「もうこれでいい」という終わりはありません。卒業することのない教育なのです。
 
 仏教から言えば、正しい人間関係というのは、「私」の、「私個人」の修行であって、「私」の心を清らかにすることであって、「私」が、「私自身」が立派な人間になることなのです。
 
 心は本来は清らかな仏性だ。神からいただいた魂だなどというのは仏教とはまったく逆の立場です。仏教では、心というのは、真っ暗で、汚くて、臭くて、悪そのものだというのです。心をちょっとでも放っておいたらどれほど悪いことをするか分からないと言うのです。自分の心に対しても、どんな悪いことをするか分からないぞと常に警戒しておくことが必要なのです。
 


● 犀の角 仏教講演会『結果を出すチーム力』(講師:アルボムッレ・スマナサーラ)

 11/7(金)中野ゼロ 日本テーラワーダ仏教協会主催の月例講演会。

 いつものように開始間際に会場に入って席に着き、おもむろに周りを見渡し、なんとなく変な感じがした。
「なんだ?」
 しばらくしてハッと気がついた。
「男が多い!」
 会場にいる約300名のうち9割以上が男性である。
 いつもは男女半々くらいか、若干女性のほうが多い印象があるのに・・・。
 いったい、どういうことか。
 スマナ長老に急に男性ファンが増えたのか?
 女性会員に人気のイケメン僧侶が、どこか別のところで法話をおこなっているのか?
 何か女性会員に総スカン食うようなことを事務局がしでかしたのか?
 ・・・・・と、数秒のうちに様々な憶測が頭の中を駆けめぐったが、答えは単純であった。
 本日のテーマ、副題は「元気な組織、ダメな組織」。
 男は組織論が好きなのである。
 これが「仲のいいグループ、仲間割れするグループ」とでも副題を立てれば、おそらく女性参加者がもっと増えたであろう。

 話の内容は、まさに組織論で、上手くいく組織のあり方というものを仏教的観点から説明するものであった。

 今回、もっとも面白かったのは、原始仏教経典『スッタニパータ』の中の有名な「犀の角」の解釈についてであった。
 『スッタニパータ』は数多い仏典のうちもっとも古く、お釈迦様の言葉を最も忠実に伝えているものとみなされている。邦訳では岩波文庫から中村元氏の訳により『ブッダのことば』というタイトルで出ている。
 「犀の角」の教えは、その最初のほうに出てくる。
 

あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況や朋友をや。犀の角のようにただ一人歩め。(岩波文庫『ブッダのことば』)

 という偈(げ=詩句)から始まって、

今のひとびとは自分の利益のために交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。(同上)

 という偈まで、41ある偈の末語がすべて「犀の角のようにただ独り歩め」で終わる。
 岩波文庫の中村元氏の解説を読むと、こう書いてある。 

「犀の角」の譬喩によって、「独り歩む修行者」「独り覚った人」の心境、生活を述べているのである。 「犀の角のごとく」というのは、犀の角が一つしかないように、求道者は、他の人々からの毀誉褒貶にわずらわされることなく、ただひとりでも、自分の確信にしたがって、暮らすようにせよ、の意である。(同上) 


 これに対してスマナ長老は異を唱えた。 

「犀の角」は聖者が自らの心境を語ったものです。「汝、~せよ」と他人に命じるものではありません。

 原始仏教経典は古代インドの俗語であるパーリ語で伝えられているのだが、その厳密な文法解釈から、末尾は命令形ではないと言うのである。
 すなわち、悟った人(=聖者)が己の心のありようを披瀝した独白(モノローグ)であって、弟子たちや在家信者に「このように振る舞いなさい」と説いているものではない。
 上記の最後の偈を、スマナ長老は次のように和訳した。

人は何かの理由あって人づきあいする。自利を目指さないつきあいは珍しい。自利のみを目指す人間は不潔です。聖者は犀の角のように独り歩む。  

 中村元氏の訳とは、かなりニュアンスが違ってくる。
 中村訳だと、「人づきあいにおいて自分の利益をめざさないような人は少ない(特に今日では)」という意味になる。スマナ訳だと、「(いつの世にあっても)人は自分の利益をめざして人づきあいするものである」と解釈できる。
 中村訳は、世俗の人間関係のありようを嘆いているようにとれる(『徒然草』の吉田兼好風に)。スマナ訳は、人間存在のありよう(=無明)を根源において喝破している。
  すごい違いだ。

  よくよく考えるに、スマナ訳の否定できなさが痛感される。
 人が誰かと付き合おう(仲良くしよう、関わろう)とするのはなぜか?
1. それによって物質的利益が得られる。
 例.金持ちとつきあって贅沢ができる。
   上司に可愛がられて出世して収入増。
2. それによって精神的利益が得られる。
 例.恋人ができて心や性欲が満たされる。
    家族ができて生きがいができる。
    友達ができて寂しさや退屈が満たされる。
    有名人と知り合って友人に自慢できる。
3. それによってスピリチュアルな欲求が満たされる。
 例.他人に奉仕(ボランティア)して自己イメージがUPして気分がいい。
    世界を救うために自己犠牲を払い、自分の存在価値が生み出せる。
    見知らぬ人に親切にすることで善業を積み、極楽往生できる。

  人が誰かと関わろうとするのは、究極的には「自分のため(エゴのため)」であるというのは、心の奥の奥まで覗き込んで正直に分析するならば、ごまかしようのない事実である。
 聖者はそのことを知っているから「独り歩む」のであろう。
 聖者でない我々は、せめて「相手のためにやっています」と言いたがる表面的な動機の底に潜むエゴの声を自覚(自己覚知)しながら、「100%自分のため」よりは、「70%自分のため、30%世のため人のため」を目指して、人と関わっていきたいものである。 



● 初期仏教講演会:『継続力~目的に達するために』(講師:アルボムッレ・スマナサ-ラ長老)

10月10日(金)中野ゼロ

 日本テーラワーダ仏教協会主催の月例講演会への参加は、自分にとって、月のもっとも大切な行事となっている。
 スマナ長老の話を聞き、喝を入れてもらい、日々の瞑想修行のモチベーションを高める。同時に、世間的価値にすっぽり覆われた日常生活(世俗)から一瞬心を引き離して、自分のあり方や日常の物事を相対化して客観的に見る機会となる。それによって、またルーティンな生活に、新たな気持ちで向き合えるのである。
 そしてまた、どういうわけか、スマナ長老の話はいつも、その時々の自分の気持ちや瞑想修行の進捗状況にピッタリ来るような、心のうちに抱えている問いに対して見事に「解」をもたらすような、不思議な符号(=シンクロニシティ)がある。
 今回も、自分が今まさにぶつかっている壁の存在を察知して(他心通?)、それを乗り越える方法を具体的に示し、励ましてくれるかのようなテーマと内容で、講演終了後に「わかりました。やってみます」と心の中でつぶやいた。


 今回のテーマは、目的に達するための継続力について。(以下、概要) 
 

「世に魔法はありません」
ゆえに、成功するためには地道な努力が必要である。
しかし、努力だけでは成し遂げられない。結果がでるまで継続することが重要。
一般に(俗世間的に)、人が継続するためのモチベーションとして用いているのは、「欲や怒りや嫉妬や恨みや傲慢などの悪感情」である。
しかし、「貪(欲)・瞋(怒り)・痴(無知)」で始めたことは、「貪・瞋・痴」で断念することになる。最終的には不幸になる。
「欲--たとえば、金儲けしたい、いい暮らしがしたい、出世したい、ひとかどの人物になりたいetc.--がなければ、そもそも商売や仕事ができないではないか」と反論したいと思うが、それは間違いである。
仏教的戦略は以下の通り。
1. まず、怒りを捨てること。悪感情から起こる「やる気」は堂々と断念すべき。
2. 欲を慈悲喜捨に変換すること。生きることは慈悲喜捨を実践するためにあるのだと決めてしまえば、何一つもあれこれ考えたり、悩んだり、心配したりする必要はない。
3. 理性と慈しみで目的を設定する。目的がない行為は決まって悪感情の衝動から生じている。慈悲喜捨で設定された目的ならば、やればやるほど明るくなる、元気になる、喜びと充実を感じる。
4. つまり、自然と目的に達するまで進むので、継続力は問題にならない。


しかし、慈悲喜捨で実践しても努力を止めたくなることがある。
それは、心に潜んでいる悪感情(=煩悩)のせいである。
悪感情が割り込んでくるたびに、慈悲喜捨でもってその感情を潰すことがポイント。
慈悲喜捨で生きれば、人生、自分のせいで失敗することはない。


 と、ここまでが世間的なレベルの話である。
 あまり知られていないが、仏教には、世間的レベルの教えと、出世間的レベルの教えの二種類がある。
 単純に言えば、前者は在家信者向けの教えで、「いかにすればこの世で人と争うことなく幸福に生きられるか。死んだら天国に生けるか。良い生まれ変わりができるか」という教えである。後者は出家者向けの教えで、「いかにすれば苦を終わらせることができるか。この世から離脱できるか。生まれ変わらなくて済むようになるか」という教えである。
 スマナ長老の話は――初期仏教の説法は、というべきか――だから、二段構えになることが多い。
 後半は、出世間的な「継続力」の話であった。
 ここからが仏教の本領であり、いまだに衝撃を感じることなしに聴くことは難しい。
 
生きることに目的はない。
存在欲(渇愛)によって、誰でも何かをしながら、死ぬまでただ闇雲に闘っているだけ。
ゆえに生きることは空しい(=一切皆苦)。
出世間的な生き方とは、生きることを断念するのではなく、そこから脱出する。
すなわち、生きることを乗り越えることを、生きる目的として設定する。
それが仏道の実践である。
「貪・瞋・痴」という本能に抵抗し、打ち勝つことが、真の精進である。

 今回、ドキッとした表現に「存在の罠」というのがあった。
 どういう意味か。


私たちは、普通に働いて、普通に家族を養って、普通に生活を送っていても、知らずに悪に染まってしまう。なぜなら、欲や怒りという煩悩こそが人の(動物の)本能だからである。世間の流れに沿った生き方は、人を安心させるが、実は危険なものである。  

 つまり、この世に存在するということ自体、あらかじめ罠にはめられているようなものだ、という意味である。
 本当に、仏教は西欧人の好きな「ブラボー、人生!!」とは程遠いところにある。
(ある意味、‘反社会(反近代)的’という烙印を押されても仕方ない気がするのだが、‘脱社会的(脱近代的)’というべきだろう。その昔‘ポストモダン’という言説が流行ったけれど、仏教こそが真の‘ポストモダン‘なのかもしれない。) 


 さて、スマナ長老の話は続く。 

仏道を実践すると、必ず本能の反撃があります。「貪・瞋・痴」の攻撃を受けます。
煩悩は、修行中に「妄想」として現象化します。
そうすると、修行を止めたくなります。
瞑想中に妄想が起きたときには、
① 座る場所を変える
② 修行の方法を変える(座る瞑想から立つ瞑想にする)
などの方法をとります。
日常生活では、
① 仏法を学ぶ
② 慈悲の瞑想を行なう
③ 社会奉仕をする
などして、煩悩に対する抵抗力をつけるのがポイント。
結果がでるまで、あきらめないでください。

 ――といった内容であった。

 今回、驚いたのは、最後の質疑応答で手を挙げた参加者の中に、16歳の男子高校生がいたことである。
 このような話をわざわざ平日(おそらく学校が終わってから)聞きに来て、大人たちで埋まっている会場の中で挙手するとは、たいしたものである。
「自分がこれから生きていくにあたって、これだけはしておいたほうがいいというものは何かありますか?」
というような質問内容だったと記憶する。
 彼のような子供は、教室で‘浮く’のだろうか。
 孤独を担わざるをえないのだろうか。
 この先社会で生きづらさを感じることになるのだろうか。
 それとも、意外にいまどきの‘マジョリティ’なのだろうか。 


 ともあれ、このような十代が存在するという発見が、「よし、おじさんも一つ頑張らねば」というやる気につながったのは事実である。
 2時間話したスマナ長老と同じだけの効果を、ほんの5分で成し遂げるとは!

 後世、畏るべし。 


Water lilies



● 本:『無知の壁 「自分」について脳と仏教から考える』(養老孟司、アルボムッレ・スマナサーラ対談、サンガ新書)

無知の壁 2014年刊行。

 2003年ベストセラー第一位『バカの壁』を書いた解剖学者と、テーラワーダ仏教(原始仏教)の長老との対談である。
 聞き手の釈徹宗は浄土真宗本願寺派の僧侶で、当ブログで紹介した『いきなりはじめる仏教生活』の著者である。

 最先端科学と原始仏教との相性の良さ(=符合する部分の多さ)をここでもまた確認することになる。
 聴衆を前にした対談(2011年5月に開催された講演会がもとになっている)で、お互いを尊重している二人の演者の話がきちんと噛み合っていることもあり、また釈徹宗が上手に聞き手&進行役をつとめていることもあり、とても読みやすく、わかりやすく、対談にありがちな話題の拡散も見られず、面白くて有意義な本になっている。

 以下、スマナ長老の発言。


●過去でこの身体に触れた情報は、今生きているこの身体には関係ないのです。今の身体と過去の身体は違うものです。「かつて楽しかった」「かつて苦しかった」「かつて強かった」「かつていじめられた」「かつて幸せだった」などは、今生きている身体にはなんの関係もない、どうでもいいことです。七十歳になる人が「かつて若かった」と言っても、「だからなんですか」という話でしょう。しかし、過去の認識データを、すべて自我という錯覚概念で一つの体系にまとめて一本化するのです。それが知識という働きです。過去はすでに消えたのです。再現されません。ですから、まったく不要なものだと思っても差しつかえないのです。


●無知の状態とは、どんな生命も本能的に持っている生存欲(存在欲)の状態です。理性とは着々と学んでいくもので、自分のこと、周りのことを理解するということです。一般人は知識レベルで止まります。知識もまた本能に管理されています。ですから知識はより楽に生きることと、より効率よく敵を殺すことを専門的にやっているのです。理性とは物事を自分中心に考えるのではなく、客観的な事実として調べることです。自分という主観が割り込むと、理性が働かなくなります。理性の代わりに感情が支配権をとります。智慧とは理性という踏み台を使って、人格を向上することです。・・・・・・・
 順番でいえば、本能・感情の衝動で生きることは無知で、物事を学んで生きる能力を上げることが知識で、人格的によりよい人間になることは理性で、人格を向上して本能に打ち勝って、心の汚れをなくすことが智慧ということになります。

 
 

● 講演:『なぜブッダを念じると幸福になるのか?』(演者・アルボムッレ・スマナサーラ)

 9月6日(土)中野ゼロで開催された日本テーラワーダ仏教協会主催の月例講演に参加した。
 今回の講演はずいぶん刺激的で面白かった。
 歳をとると、どうしても講演の最中に眠くなる。いったん椅子に座ると日常の疲れが浮上してきて、それを癒そうとするモードに体は自動的に入る。また、昨今はパワーポイントとプロジェクターを使ったスクリーン映写講義がどこでも主流だが、それは人を眠くさせる。画面を見やすくするために会場をいくぶん暗くせざるを得ないし、スクリーンに映った文字を読むのに目が疲れる。結果、睡眠モードに突入する。
 案の定、講演の始まった最初の30分ほどは座席で目をつぶって、うつらうつらしていた。
 しかし、スマナ長老が「思考」の構造の説明に入ったあたりから、俄然、意識は覚醒し、集中力は高まり、目はランランとしてきた。

 まず、スマナ長老はこう断言する。 

「思考が人生を作り出します。」

 これは精神世界で人口に膾炙する黄金律の一つである。 
 有名なところでは、アメリカの作家ナポレオン・ヒル(1883- 1970)の『思考は現実化する』(Think and Grow Rich)が思い浮かぶ。「日常何をどう考えているのかが、その人の未来や運命を大きく左右する。だから、自らの思考に注意せよ」といったものである。
 さして、目新しい言説ではない。
 が、ナポレオン・ヒルは「願望実現」の秘訣という意味で、これを言ったのである。スマナ長老の(仏教の)意図するところは、これとはだいぶ異なることがおいおい明らかにされる。

 スマナ長老は仏教的な思考の構造の説明に入っていく。
 ここからが面白い。
 思考には三つの層があるという。

第一層  私たちが普段気づいている思考や感情(表面思考)
第二層  私たちがたまに気づく思考や感情。いわゆる「無意識」(背面思考)
第三層  その人が持って生まれた基礎となる思考や感情(基礎感情または潜在煩悩)


 これをコンピュータのプログラムに喩えると、
第一層  アプリケーションソフト(文書作成、表計算、IE、メールソフトなど)
第二層  基本ソフト(WINDOWS、MAC OSなど)
第三層  BIOS(バイオス)


 最も深いところにある潜在煩悩(第三層)は、その人のカルマを深いところで形成している、本人を含め周囲の誰からも気づかれることのない思考や感情の層であり、生まれ変わっても持ち続けるのだという。
 この潜在煩悩は、たまに目覚めることがあるが、そのときは相当危険なのだという。(トランスパーソナル心理学で言うところの「スピリチュアル・エマージェンシー」という概念に相当するのかもしれない。)
 たまに、「わけもなく人を殺したくなった」と言って実際に何の恨みも利害関係もない相手を殺害する人間が現れたり、「なぜあんな立派な人があのような卑劣な犯罪を犯したのか皆目見当もつかない」といった事件が世間を騒がしたりするが、それはこの潜在煩悩の覚醒によるものだという。それは当人の把握していないカルマが起こした事象なので、本人も周囲の人間も専門家も、この種の事件には納得のいく説明を与えることができない。また、潜在煩悩が覚醒する時を予測することは誰にもできない。
 この三つの思考の層は、独立しているのではなく、互いにフィードバックしている。
 表面の思考は、背面の思考(無意識)に影響を与え、背面の感情の変化は基礎感情(潜在煩悩)に影響を与える。背面で起こった感情は、表面の感情を刺激し、それに反応して表面の感情は新たな思考や妄想を作り出す。日常生活で我々が軽い気持ちで思考したことは、感情を刺激し、それが背面レベルに影響を与え、潜在レベルにもなんらかの形で蓄積される。
 一つの層で起こった思考や感情の波は、他の二つの層に伝わって、そこで何らかの変容を起こして、再び最初の層に還ってくる。
 思うに、その行ったり来たりの波及効果の積み重ねがある一定の傾向をつくって、その人の性格、人生、カルマを作っていくのであろう。

 興味深いのは、第二の層である背面思考いわゆる無意識がもっとも活発に働くのは夜寝ているときであり、それゆえに、それがどんな性質のものか本人が知ることができるのは、朝目覚めた瞬間だという。
 つまり、朝目覚めた刹那の感情や気分というものが、その人の背面思考(無意識)の質を表している。
 これを聞いて合点がいったのは、自分自身(ソルティ)、昔から朝目覚めた瞬間が一日のうちで最悪(最低)の気分であることが多いからである。二日酔いではない。なにか「非常にもの悲しい、ブルーな気分」に覆われて目が覚めることが多い。特に憂鬱の原因となるような具体的な悩みもストレスもないのに――である。
 この気分は、頭を枕につけた状態で5~10分くらいすると靄のように消えていくのが通常である。学校のこと、仕事のこと、今日やるべきこと、いま心を占めている事象(喜怒哀楽)が、ウワッと気団のごとく頭に(心に?)入り込んできて、最初のブルーな感情をどこかに追いやってしまうのである。そこから一日が始まる。
 あるいは、目覚めてから読経するのがここ数年の日課となっているのだが、それによってブルーな気分は払拭され、「過去のこと、先のことを思い煩うなかれ。目の前の一日をしっかりと生きればよい」と平常心を纏う。そこから一日が始まる。
 そうしてみると、自分の無意識(背面)、潜在煩悩(基礎)は、かなりリスキーな性質のものなのかもしれない。
 くわばら、くわばら。

 さて、スマナ長老は進める。 

「すべての生命は、貪(欲)・瞋(怒り)・痴(無知)をさらに刺激する方法で思考します。すべての生命の本能は貪・瞋・痴です。」
 すなわち、我々の思考とは常に「煩悩」を増やすものでしかない。
 であれば、フィードバックシステムによって、表面の思考は他の二つの層にも影響を及ぼすのであるから、生命が生きること(=思考すること)は、「存在」をより悪い状況へ転化させることでしかない。  
「すべての生命はほうっておくと自動的に不幸になります。」
 ここが、ナポレオン・ヒルの思考論とは異なるところだ。「願望実現」という(世間的に見れば)ポジティブな思考でさえ、それが欲である以上、結局は不幸の引き金にすぎないと言うのである。
 

 仏教はそこにどう介入するか。
 答えは単純である。
 背面感情(無意識)、とくに基礎感情(潜在煩悩)には、我々は直接接触することができない。それらをコントロールすることも、変えることもできない。
 だが、第一層の表面思考(意識的な思考)は認識し、接触し、コントロールすることができる。我々が「なんとかできる」のはこの層に対してだけである。

意識的な感情(思考)を制御することが「鍵」です。
 第一層の汚れが取り除かれ澄んでくるにしたがい、フィードバックシステムによって、第二層、第三層の汚れも取り除かれ、次第に澄んでくる。無意識や、潜在煩悩の強い力によって、表面に現れる思考や行為がネガティブにコントロールされる危険も減ってくる。


 では、どのように意識的な思考(感情)を制御するか。


その1 サティ(念)の実践は究極の方法である。
 つまり、ヴィパッサナー瞑想を実践せよ。
 「思考」が現れた途端に、それに気づき、「欲なら欲」「怒りなら怒り」「嫉妬なら嫉妬」・・・と心の中で実況中継する。これをすることで、「思考」が身口意(行為・言葉・感情)に及ぼす破壊的な影響をダムのごとく抑えることができる。

その2 汚れた思考(貪・瞋・痴)をその都度正しい思考に置き換える。
 汚れた思考が起こってきたら――というより、ほとんどの思考は貪・瞋・痴であり、汚れているのだが――「思考」が起こってきたら、すぐにそれを強制終了させ、負の流れを生まないような「正しい思考」に置き換える。たとえば、
1.ブッダや阿羅漢など、聖者のことを念じる。 
2.ブッダの九徳を念じる。
3.仏法を学ぶ。
4.慈悲の瞑想を行なう。


 古来、いろいろな宗教や宗派において、祈りや念仏やお題目や真言やらの言葉を唱えることが推奨されてきた意味は、実はここにあるのかもしれない。
 すなわち、祈りや真言それ自体が持つ力によって「願いを叶える」とか「奇跡を起こす」というのは勘違いであって、大切なのは、すくなくともそれらを一所懸命唱えているあいだは、煩悩を増幅させる「思考」をストップさせることができる、ということなのかもしれない。
 もしそうだとしたら、煩悩が生じたときにすぐさま、数学の問題を解くのもあり?


 ちなみに、「ブッダの九徳」とは以下の通り。
 
世尊は、
①阿羅漢であり、
②正自覚者であり、
③明行具足者であり、
④善逝であり、
⑤世間解であり、
⑥無上の調御丈夫であり、
⑦天人師であり、
⑧覚者であり、
⑨世尊である。
ブッダに、私は生涯帰依したてまつる。

サードゥ、サードゥ、サードゥ
 



● 本:『日本の未来』(アルボムッレ・スマナサーラ著、サンガ新書)

日本の未来 2014年刊行。

 副題は「アイデアがあればグローバル化だって怖くない!」
 日本在住30年以上になるスリランカ出身の初期仏教のお坊さま(長老)から見た、日本という国と文化、日本人。その現状と問題点が率直に、縦横無尽に、語られる。
 そして、仏教の智慧に裏打ちされた日本の明るい未来への指針とアドバイスが、親身に、ユーモアたっぷりに、告げられる。

 取り上げられるテーマは実に多彩。
 日米関係、日中関係、日朝関係、靖国参拝問題、ゴミ問題、原発問題、開発問題、軍備武装と自衛隊、TPP問題、東京オリンピック開催、出生前診断・・・・。
 スマナサーラ長老の日本及び日本人に関する知識と理解の深さには感嘆せざるをえない。


以下、引用。

●仏教の人間は、将来や未来のことを心配しない、悩まない、そういう訓練をします。だからといって、いい加減ではありません。何も考えずに行動したりはしません。将来のことをまじめにいろいろ考えはします。これまでの状況から、将来のことをなんとなく読んだりもします。予測できないわけではなく、むしろ、仏教の智慧がいくらかでもあれば、将来について的確な見通しがもてたりするものです。
 しかし、だからといって、将来のことをあれやこれやと気にはしません。逆に、心配したり憂えたりしないよう、気をつけています。
 仏教は、「今、しっかり生きてみなさい」と教えます。今の時間を、何の失敗もしないで、後悔するはめにならないように、「ああ、よかった!」と思えるように生きてみれば、すべての問題は解決します。いつも、テーマは「今」だけなのです。

●日本人が世界のリーダーになってくれたらありがたいのです。日本人には、その資格があるのです。本当はアジアの国々が、中国さえもそう期待していたのです。日本人は最低でも、アジアのリーダーシップをとってくれるだろう、と。それを裏切ったのです。それで今、その結果を受けているのです。・・・・・・・
 リーダーシップとは自我を張らないことです。人の心配をするのです。人の幸福を願うのです。

●たった一人でも慈悲の実践をすると、周りが幸せになります。慈悲の実践とは世界平和とか、そんなちっぽけなことのためにやるものではないのです。すべての生命が平和で豊かで、お互い仲よく生きるための道なのです。慈悲の実践をすると、人間や地球上の生命だけではなく、神々まで豊かになる。「神々に守られますよ」と、お釈迦様ははっきりおっしゃっています。

● ありのままの私、になるの? 講演:「どうして仲良くできないの?」(講師:アルボムッレ・スマナサーラ)

 7月12日(土)中野ゼロで開催されたテーラワーダ仏教協会主催の月例講演会に参加。
 テーマ(副題)は「差別と区別の違いを知る」

 開口一番、スマナ長老が発したのは次の英文。

  Mankind is born to kill.
  人は殺すために生まれてきた。

 いつもながら大胆な発言、大胆な人である。
 しかし、初期仏教を学び瞑想を日課とするようになって数年の自分は、もはやこの程度の発言で度肝を抜かれることはない。
 これは言葉を変えて言えば、「人間は無明に閉ざされている」ということだろう。
 無明の原因は無知で、無知の最たるものは「自我が存在する」と思っていることである。
 自我というのは常に「自分は正しい」と思っている。
 当然だ。他者との違いのうちにしか「自分」は存在しないからである。「自分」が存在する限り、その「自分」はいつも「他者」を必要としつつ否定する。
 つまり、born to kill だ。
 だから、人間は生まれつき区別するようにできている。
 スマナ長老は言う。
 「区別に感情が入ると差別になります。人は感情に支配されているので、すべての区別が自動的に差別になってしまうのです。」
 区別を差別にしないためにはどうしたらよいか。
 感情に支配されないこと。理性(智慧)で生きること。慈悲を育てること。
 そのためにはどうしたらよいか。
 ヴィッパサナー瞑想で智慧を育てること。慈悲の瞑想ですべての生命を慈しむ心を育てること。
 講話の結論がいつも修行の励行に結びつくのがスマナ長老の話である。というか、まことの仏教である。

 今回、刺激的で面白かったスマナ発言。

● 仏性とはすべての生命に備わっている無明です。

 仏性は大乗仏教の創り出した概念である。ブッダは仏性なんて言っていない。「一切衆生悉有仏性」は妄想である。スマナ長老、当然仏性の存在を否定するのかと思っていたら、「すべての生命が本来は悟っている(仏である)というのは間違い。あえて仏性を定義するならば、それは無明でしょう。」と言う。
 なんて大胆な!
 が、なるほど。
 生命は無明ゆえに輪廻転生しながら生存し続ける。すべての生命に備わっているものを挙げるとしたら、それは確かに「無明」である。


● 「自分に正直に生きる」のはとんでもないこと。

 --と言ったスマナ長老の一言からの連想。
 『アナ雪』の大ヒットは、主題歌に一因があろう。「ありのままの、わたしに、なるの~♪」というフレーズが、若者たちの心をとらえたのだと思う。
 ありのままの私。
 このフレーズ、実は自分もよく使ってきた。
 セクシュアル・マイノリティの自助&支援活動の中で、もっとも良く唱和され見聞きする標語の一つだから。
 ゲイやレズビアンであることを家族や友人に隠し、ヘテロセクシュアルを演じ、自己否定して生きてきた当事者が、仲間によってエンパワーされ自己肯定し前向きに生きていく(カミングアウトする)ことを決意する心情が、「ありのままの私」という表現に托される。
 それは大切な概念であり、プロセスである。
 セクシュアル・マイノリティだけではない。世間や社会や家族からの有形無形の圧力に屈して「偽りの自分」を演じ続けている人々がいる。自分でもそれが「偽りの自分」であると気づかない人々がいる。そのうちに仮面が素肌に張り付いてしまって、仮面が素面になって、本当の顔がどこかに消えてしまう。
 人は自分を肯定できないときは、他人も肯定できない。自分を大切にできない人は、他人も大切にすることができない。(慈悲の瞑想の一番初めに「私の幸福」を念じるのは、そういう意味からではないかと推測している。)
 だから、ブッダが看破したように「自己」が蜃気楼のように実体のないものであるとしても、いったんは自己を肯定し、「ありのままの私」を受け容れることは重要だと思う。

 しかし、それとは別次元で「ありのままの私になる」は微妙な問題をはらんでいる。

 多くの場合、「ありのままの私」で意味されるものは、「子供の頃の無邪気な自分=欲望に忠実な自分」である。
 社会や世間によって毒されていない「子供の頃の無邪気な自分」が善良なものであるなら、言い換えれば、本人が愛のある、賢明な庇護者のいる家庭に育ったならば、「ありのままの私」にはそれほど害はないだろう。そこに還元することは本人をも周囲をも幸せにするかもしれない。
 一方、子供の頃の環境がいびつなものであり、それが本人の性格形成に深いところで影響を及ぼしているのなら、「ありのままの私」に戻ることは本人にとっても周囲にとっても危険であろう。

 不当な抑圧や人としての尊厳を踏みにじるような矯正には大いに反逆すべきである。
 が、「人が社会の中で、他者や社会に関わって、生きている」ということをないがしろにするような扇動は、ちょっといただけない。
 どうも最近の「ありのままブーム」を見ていると、自由奔放に欲望のまま生きることが「本当のあなたらしさ」というニュアンスを感じる。
 その裏に、羊(ディズニー)の皮を被った狼(アメリカンな資本主義)の陥穽を感じる、と言ったらうがちすぎ、もといヘソ曲がりだろうか。



 

● 本:『ブッダの実践心理学第三巻 心所の分析』(アルボムッレ・スマナサーラ、藤本晃共著) 

治りませんようにほか 003 2007年刊行。

 テーラワーダ(上座部)仏教では二種類の瞑想が奨励されている。
 慈悲(喜捨)の瞑想とヴィッパサナー瞑想である。

 慈悲の瞑想は、以下の4つのフレーズを心をこめて唱えるだけでいい。

 私が幸せでありますように(慈)
 私の悩み苦しみがなくなりますように(悲)
 私の願いごとが叶えられますように(喜)
 私に悟りの光が現れますように(捨)

 二巡目からは、上の「私」のところに、「私の親しい人々」「私の嫌いな人々」「私を嫌っている人々」「生きとし生けるもの」を入れて、それぞれの対象について慈悲喜捨を願っていく。
 簡単な瞑想であり、いつでもどこでも行うことができる。自分は、毎朝の読経の際に1セット唱えているが、それ以外のときも気が向いたら心の中で唱えるようにしている。駅の階段を昇るとき、ホームで列車を待っているとき、列車に揺られているとき、職場(老人ホーム)の更衣室で着替えているとき、休憩時間、帰り道の横断歩道の信号待ち、買い物途中のエレベーターで、皿洗い中、お風呂の中、トイレの便器に腰掛けて・・・。
 簡単な瞑想だが、不思議と唱えると自信が生まれてくる。いろいろな事象や人間関係が好転してくる。鏡に映る顔つきも、老けてきたのは仕方ないけれど、何だか吉相になってきたような気がする。

 ヴィッパサナー瞑想は、別名「気づき(念)の瞑想」とか「観瞑想」と呼ばれる。
 基本は座禅を組み、目を閉じて、身体や心に起こる現象をありのままに気づき、その場その場で「実況中継」していく。
 「(腹の)ふくらみ、ちぢみ、ふくらみ、ちぢみ・・・」
 「(足の)痛み、痛み、痛み、痛み・・・・」
 「(何かの)音、音、音、音・・・・」
 「退屈している、退屈している・・・・」
 「妄想している、妄想している・・・・」
 「怒っている、怒っている・・・・」
 「眠気、眠気、眠気・・・・」
 人間の認識の生じる六つの窓口(眼耳鼻舌身意)に注意を向けて、瞬間瞬間入ってくる六つの情報(色声香味触法)を丁寧に拾っていく作業と言える。
 これもまた一見簡単そうに見えるのだが、実は難しい。
 まず座禅し続ける難しさ。慣れないうちは15分も座っていると足が痛んでくる。
 どうにか慣れてくると、次は心があちこちに彷徨い出して、念が途切れる。「実況中継」を忘れて、今日の夕食のことや明日の仕事のことや助平なことを考えている。あるいは知らぬ間にぼっーとまどろんでいる。
 この瞑想を始めて4年以上になる今は、1時間以上足の痛みを感じずに座ることができるようになった。妄想にとらわれることも少なくなった。たとえとらわれても比較的短時間で気づいて「実況中継」に戻ることができるようになった。
 しかし、次の困難が待っていた。
 それは、暇な時間にあえてヴィパッサナー瞑想をしようという気力がなかなか起きないことである。
 忙しくて時間がないときほど瞑想がしたくなる。座りたくなる。休日が待ち遠しい。
 で、休日になって自由に使える時間ができると、瞑想しないでネットにかまけたり本を読んだり家事をしたり山登りに行ったり、こうしてブログを書いたりする。「時間はいっぱいあるから今でなくてもいい」なんて言い訳を頭の中でしているうちに、一日が終わってしまう。
 何が起こっているのか。
 なんでさぼりたいのか。
 答えはこれだ。 

生命の本能は、貪瞋痴です。本能に合わせて生きることは、楽に感じるのです。ですから人は、楽な道を選ぶのです。その楽な道は、貪瞋痴の本能なので、不善です。不幸の結果を出します。苦しむこと、不幸になることが目に見えても、人が不善の道を歩むのは貪瞋痴という本能のせいです。(標題書)

 瞑想は、本来はまったくやりたくないことなのです。心の流れにまったく正反対のことですから。「心がやりたくないこと、心が嫌がること」の第一位は、確実に「瞑想すること」です。競争なし、断トツの一位です。だから瞑想するためには、どうしても、精進が必要なのです。(同上)

 瞑想は本能とのたたかいなのだ。
 そりゃあ難しくてあたりまえだ。


 スマナサーラ長老によるアビダンマ講義第三弾は「心所」について。
 「心所」とは何か。
 心の中身(成分)のことである。

 仏教心理学の基本概念は、「認識」です。認識はどのように生まれるのか、認識の中身は何なのか、認識はどれくらいあるのか、という課題が仏教心理学です。

 仏教では、心とは「認識する働き(システム)」のことである。一つの生命に必ず一つ備わっている機能である。機能なので、そこに内容はない。
 しかし、言うまでもなく、心はいろいろと変化する。怒ったり、悲しくなったり、楽しくなったり、嬉しくなったり、嫉妬したり、恨んだり、後悔したり、退屈したり、落ち込んだり、有頂天になったり、疑ったり、物惜しみしたり、優しくなったり・・・。
 こうした感情や気分のことを心所と言い、心がいろいろ変化するのは、瞬間瞬間、さまざまな心所が心の中に溶けているから、とするのである。
 たとえてみれば、テレビ(受像機)=心、テレビ番組=心所といった感じか。テレビ自体は電波を受信し映像を映す働きを持った箱にすぎないが、モニターに流れる番組の内容によって、視聴者を悲しくさせたり、笑い転げさせたり、怒らせたり、退屈させたり・・・という違い(色)が生まれる。
 仏教ではこの番組内容(=心所)を52種類に弁別している。
 単純に言えば、人間の心に起こる感情の種類を分析し、善いもの、善くないもの、どちらでもないものに分類し、リストアップしたのである。

 このように感情を緻密に分析し言語化しグループ毎に取りまとめてリスト化していく意味はなんだろう?  

 心は水の如く、善いも悪いも何もない。その心に怒りが溶けたら、怒っている心になる。その心に慈しみの感情が溶けたら、優しい心になる。だから一人の人が、たまに怒りっぽくなったり、たまに嫉妬深くなったり、たまに慈しみの心になったりする。どれでもできるのです。
 我々にとって、心よりも心所が一番大事なことなのです。ただ生きている・認識しているということは、そんなに大事ではありません。どう生きているかということ、どう生きるべきなのかということが、大事なポイントです。

 そしてまた、ヴィッパサナー瞑想する観点からすると、意識に浮かんできた思考や雑念や感情や気分にとらわれないように、たちまち気づいて、命名して、「実況中継」するために、心所の種類をあらかじめ知っておくことは意義があるのだろう。


 以下、本書より引用&コメント(青字)。


● 無知とは

 厳密に仏教の立場から言うなら、無知とは、「すべてが無常であること、消滅変化していくこと、瞬間瞬間、そのときに現れる一時的な現象であること、だからものは存在しないこと、空であることを分かっていない状態」なのです。

 何ものにも「本来の自分」というものもない。私たちはよく「今はちょっと歳を取っていて調子が悪いんだ」などと言いますが、それは何かに比べて言っているのです。では、「本来の自分」とはどんな調子か、どんな歳か、どんな状態か、言えますか? そんな「本来の自分」というものはないのです。いつでもいるのは「その時々の自分」であって、一瞬前の自分は今の自分ではないし、今いる自分は次の瞬間の自分とは違うだろうし、その時々にいるだけなのです。

 「本当の自分」幻想はしつこいものである。「今はいろいろあって輝けて(はじけて)いないけれど、本当の自分はこんなじゃないんだ。」「今は巣篭もり中で、まだ本気を出していないだけ。」と思いながら数十年を過ごしてしまう。だが、その数十年の姿(=周囲から見られた姿)以外に「本当の自分」はなかろう。


● 反省と後悔の違い

 反省と後悔の違いは、反省がポジティブ志向で、後悔はネガティブ志向であることです。反省する人は、過ちをバネにして良い人間になる。後悔する人は、過ちを頭の中で再現して罪を加算してゆくのです。

● 最大の罪とは 
 仏教では、最大の罪は邪見だと説きます。邪見は見解、知識、思想、哲学などにかかわるものです。百人を殺すよりは、百人に何かを教えてあげることの方が簡単です。影響力のある人なら、たくさんの人々の心に邪見を植えつけることができるのです。人間は、財産よりも自分の見解に固執するのです。この邪見の伝統は、何世紀にもわたってでも拡げることが可能です。というわけで、邪見が他の罪より重いのです。

● 自業自得について  
 すべての生命は自分の業で生きているのです。自業は自得なのです。要するに自分の行為の結果なのです。犯罪者が裁かれて社会から隔離される。それは犯罪を起こした人の行為の結果なのです。幸福に生きている人々も、自分の為した業で幸福になっているのです。ということは、生命は「自立」しているということです。苦しんでいる人々の苦しみは、その人の為した業の結果なのです。人が人を殺したとしましょう。被害者は加害者のせいで死んだわけではありません。被害者に殺される業があったところで、心の汚れた愚か者に遭遇するのです。加害者が新たな重罪を蓄積したのです。被害者が加害者に対して恨みを持つ必要はないのです。

 これは微妙な問題である。犯罪被害者に向かって、「被害にあったのは加害者のせいではない。あなたの業(カルマ)ゆえだ」と言うのは慈悲にかける行為であろう。
 また、「自業自得」という言葉は一般に起きた悪い結果について使われることが多いが、本来は善いも悪いもない。「原因があって結果が生じた」というだけのニュートラルな意味合いである。


●自我について

 「自我を捨てなさい。執着を捨てなさい」と言われると、人は嫌な気分になる。「こんな大事なもの、捨てなさいと言われても捨てられるわけがない」と思います。ブッダの話を聴くと、大損するのではないかと思ってしまいます。
 しかし、自我を捨てても執着を捨てても何の損もありません。始めから自我がないのです。あるのは「自我があるという幻想」です。幻覚が消えたところで、良くなるのであって、悪くなるはずがないのです。

 かつてクリシュナムルティにこう質問した人がいる。
「自我を捨てることで、私に何の益(goods)があるのですか?」
「それ自体が良いこと(good)なのです」


● 二つの瞑想の違い

 慈悲喜捨の瞑想は、「どうすればみんなと仲良く幸福で生きていられますか」という問題に答えてくれる。ヴィッパサナー瞑想は、「生きること自体をどうやって乗り越えられるか」という問題に答えを出す。だからまったく正反対なのです。生命と一緒にどうやって生きていられるか、ということと、どうやって生命と関係なくなるか、どうやって輪廻から脱出するかという二つだからです。


 評論家の宮崎哲弥が「仏教の劇薬性」という言葉を使っているが、本来の仏教の革新性というか破壊性は途方もないものである。
 悟ったばかりのブッダはこう考えた。

 苦労して体験した。今語る気持ちは起きない。
 欲と怒りに染まっている人々に、この法は理解しがたい。
 これは逆流を進む完全たる道。深遠で精密である真理は、無明の闇に覆われた、欲がある人には発見できない。


 仏教は思想や理論や言葉が難しいのではない。
 人間の本能に逆行するがゆえに、実践が難しいのである。


 サードゥ サードゥ サードゥ


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