ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

アルボムッレ・スマナサーラ

● 認識と存在のあいだ、または2300円の真理 本:『ブッダの実践心理学 第二巻 心の分析』(アルボムッレ・スマナサーラ/藤本晃共著)

ブッダの実践心理学 最近、自分の読書傾向が限定されている。
 一つは仕事に関するもので、介護や老いや死をテーマにしたもの。面白くはあるが、いわば必要にかられて読んでいる本たち。
 もう一つは仏教に関するものである。

 もともと自分の読書範囲は広くない。社会問題系の新書、ミステリー、スピリチュアル本、ごくたまに小説くらい。それらが今やすっかりお見限りである。例外は、故ナンシー関のエッセイと漫画くらいか。
 特に、あれほど手当たり次第に渉猟したスピリチュアル本に関心がなくなった。江原啓之、山川紘矢・亜希子夫妻、シャーリー・マクレーン、『聖なる予言』、『神との対話』、プレアデス、ラザリス、ラムサ、シルバーバーチ、ロバート・モンロー、ラマナ・マハリシ、サイババ、グルジェフ、エックハルト・トール、和尚(ラジニーシ)、様々な冥想の本・・・・。クリシュナムルティでさえ、もはや進んで手に取ろうとは思わない。それらの本が並ぶ書店のコーナーに行っても、立ち読み以上のことはしない。

 スピリチュアルショッピングに終息をつけたのは、テーラワーダ仏教およびヴィパッサナー瞑想との出会いである。
 仏教の本質に触れて、「これ以上の思想はない」と思った。
 否、思想という言葉は正しくない。
 哲学? それも違う。
 やっぱり、“真理”という言葉がふさわしい。
「これ以上の真理はきっとないな」と思ったので、他をあたる必要を感じなくなったのである。仏教は「信仰でなくて確信」とスマナサーラ長老が言うとおりである。


 この確信の中味は何かというと、自分の場合、瞑想によって「認識」と「存在」との関係を悟ったことにある。「自分」と「世界」と言い換えてもよい。
 それまで自分はこう思っていた。
「周囲にまず確固たる‘世界(存在)’があって、それを‘自分’が認識している。すなわち、自分(人間)は世界のオブザーバー(観察者)である。」
 しかし、瞑想で気づいた事実はそうではなかった。

「‘認識’が、‘有’から‘世界(存在)’を切り出している。」
「目の前にある‘世界’は、‘自分(人間)’にとってのみ、このような色彩と形状と運動とをもって現れている。」


 この事実に気づいたときに、十代の頃からずっと抱えていた疑問が氷解した。
 それは次のような疑問だった。

「誰もいない夜のジャングルはどんな姿をしているのだろう?」

 たいてい次のような答えが返ってこよう。
「そんなのカメラを設置して撮影しておけば分かるじゃん」
 しかし、それは(自分にとって)正解ではなかった。
 なぜなら、カメラで撮影された映像をあとから見る瞬間、それは人間の目によって見られている(変換されている)からである。あくまでも、人間によって見られたジャングルの姿でしかない。自分が知りたいのは「人間が見ていないときのジャングルはどんな姿なのだろう?」というものであった。
 当然ながら、正解は「決して、人はその姿を知ることができない」である。
 この疑問(ジャングル・クエスチョン)が浮かび上がるたび、常にこの結論に達していながらも、その問いの奥に隠れている驚くべき事実に自分は思い至らなかった。頭の配線がつながっていなかった。

 もう一つの問い(ジュラシック・クエスチョン)。

「人類が登場する前の地上の風景を描きなさい」

 紙と鉛筆を渡された大方の人は次のような絵を描くだろう。
 ソテツのような樹木の間をティラノサウルス以下数匹の恐竜が闊歩している。草陰には哺乳類が身を潜めている。空にはプテラノドンが飛び交い、背景では火山が火を噴いている。
 子供の頃に見た科学系の絵本や『ジュラシック・パーク』をはじめとする恐竜映画の映像記憶がこうした景色を作り上げる。

ジュラ紀の世界


 そこで、次の問い。

「この風景を見ているのは誰ですか?」

答1 「原始人です」
 ・・・・「ブー。人類が登場する前、と言いましたね」

答2 「草陰のハリモグラ(哺乳類)です」
 ・・・・「なるほど。だけど、ハリモグラはこのように世界を見ているでしょうか?」

 ハリモグラの視覚も聴覚も決して人間のそれと同じではない。人間が見るようには、世界を見ていない。(たとえば、犬は色彩を峻別できないと言われる)
 恐竜が見る風景、鳥類が見る風景、ハリモグラが見る風景・・・みんな違うのである。あとから出現した人類が見る風景が唯一「正解(真実)」であるというのは人間中心主義という誤りである。
 と言うより、上に掲げた絵(ネットから適当に拾ったものだが)のような光景なぞ、この地上にかつて存在した試しなど決してないのである。なぜなら、そのように認識できる生命(=人間)がそこにはいなかったからである。 
 逆に、人類が絶滅したあとの世界を想像するのも同様のことが言える。そこには、人間より精緻な認識システムを持った生命体が出現しているかもしれない。彼らが見る「世界」は、人間の想像する「世界」とはまったく様相が異なるであろう。


正解 「我々人類は決してその風景を知ることができない」

 あるいは、こうも言える。   
「誰が見ているか(主体)をあらかじめ設定することによってのみ、はじめて風景(客体)を描くことが可能となる」 (「可能となる」であって「できる」ではない。人間が他の生命がどう世界を認識しているかを知ることはできないから) 

 そのあたりの事情を、本書ではこう述べている。 

それぞれの身体が、環境を知るために情報を感じられる感受性を持っているのです。人間で言えば、眼耳鼻舌身という五つの場所が身体にある。それらのチャンネルを通して、色声香味触という情報(環境)を知るのです。
 知る能力は、すべての生命に同じではありません。チャンネルが五つも付いていない生命もいます。例えばミミズは目も耳もありません。一方、ワシの目の力、犬の鼻の力、コウモリの耳の力などは、人間よりはるかに鋭いのです。
 生命は知った情報を「意」というチャンネルで認識・概念にするのです。認識・概念は生命すべてに共通するものではなく、それぞれの生命に個別な主観なのです。(標題書より引用)


 人間の認識している「世界」が唯一絶対的なものとして客観的に存在しているのでは、ない。
 おそらく、唯一絶対的な世界は存在しない。それぞれの生命(人間、動物、魚類、鳥類、昆虫、植物、菌類、微生物、宇宙人、幽霊e.t.c.)に一対一対応で固有の「世界」が現れている。(厳密に言えば、同じ種の中でも個体間で異なった「世界」に生きている)
 自分の推測ではこうだ。
 何か「世界(存在)」を生み出すもとになる要素は「有る」のだろう。それは、電磁波のようなものかもしれない。暗黒物質なのかもしれない。ありとあらゆるところに満ちているその「有」から、あたかも複数の彫刻家が同じ石膏からそれぞれの裸婦像を彫り出すように、それぞれの「生命=認識」が「世界=存在」を切り出している。
 「世界」は生命の数だけある相対的なものである。どれか一つが「真実の」世界というのではない。
 端的に言えば、「認識」=「存在」なのだ。

 このことを悟ると自動的に次の結論に達する。


 科学がやっていることはすべて、つまるところ人間の認識能力を量的に拡大しているにすぎない。望遠鏡の機能が高まれば、より遠くの星雲が発見できる。顕微鏡の精度が高まれば、より小さい粒子を発見できる。だが、それは結局人間の認識システムそのものを超えることは絶対にない。人間である以上、質的変換はあり得ない。どこまで行っても、「この目で見る」「この耳で聞く」「この鼻で嗅ぐ」「この舌で味わう」「この身体で感じる」以上のことはできない。人間が「世界」を知るための窓口は基本的にそれしかないからである。

∴このやり方では真理を知ることはできない。
 
 ここまで来れば、量子物理学の第一定理とも言うべき不確定性原理はごくごく当然の話だと納得できる。

● 観測または測定されるまでは、量子は特定の性質を持たず、同時に複数の状態で存在する。これらの状態は、「実際の」ものではなく、「潜在的な」ものであり、観測や測定を受けたときに量子がとりうる状態である(これは、観測者または測定器が、可能性の海から量子を釣り上げるようなものである。一つの量子が海から釣り上げられると、それは仮想的な存在ではなくなり、現実の存在となる。)
● ある量子が一組のパラメータからなる実際の状態をとっているときでも、私たちはこれらのパラメータのすべてを同時に観測したり測定したりすることはできない。あるパラメータ(たとえば位置やエネルギー)を測定すると、他のパラメータ(速度や観測時間など)はあいまいになる。
 (『叡智の海・宇宙』(アーヴィン・ラズロ著、日本教文社)

 これは、「認識システムそのものが物質の存在のあり方に関わっている」ことの科学的証明である。
 現代科学が到達した結論を、ブッダは2000年以上も前に披瀝しているのである。西洋科学も哲学も、お釈迦様の手のひらの上の孫悟空に過ぎなかったのだ。


 なぜ、西洋がそんな誤謬を犯してきたかと言うと、「私」という主体があり、それに対して「環境」という客体がある、という二元論を前提として進歩(退歩?)してきたからである。この「環境」という言葉を「世界」「神」「自然」「宇宙」「物質」と変えてもよい。
 「私」がある、がそもそもの元凶だ。 

人間はどのように考えているのでしょうか。人間はだいたい「私がいる」という前提で考えています。しかし、「私がいる」という概念を証明しようとしない。前提ですから、証明する必要もないと思うでしょう。しかし、この前提がもし間違っているならば、人類が築き上げてきたすべての哲学・宗教などは的はずれになってしまうでしょう。根拠のないものになってしまうでしょう。
「ブッダが革命を起こした」と言う由縁がここにあります。ブッダは「私がいる」という前提に、挑戦したのです。なぜ自我意識が生まれるのか、そのからくりは何なのか、本当に実体として変わらない自我というものはあるのかを観察してみたのです。そこで発見した事実が仏教なのです。(標題書より引用)


 第二巻心の分析では、「心とは何か」を定義し、解脱に向かって心の成長していく段階を瞑想との絡みでつぶさに説明している。
 2300円は文庫としては破格の高値であろう。
 しかし、真理の値段と考えれば、破格の投げ売りである。


 
 サードゥ サードゥ サードゥ




● 「無い幸福」より「有る不幸」 B.E.2557年釈尊祝祭日ウェーサーカ法要に行く

KC3Z0001 5月12日(土)渋谷区立文化総合センター大和田さくらホールにて。

 この施設は渋谷駅から徒歩5分。天文台のドームの目立つ新しい建物である。さくらホールの収容人数は729名。6割方埋まっていたから450名ほどの参加か。

 ウェーサーカはお釈迦様の「誕生」「成道(悟達)」「般涅槃(死)」の3つのできごとを一度にお祝いする記念日で、5月の満月の日に行われる。(満月は25日)
 日本テーラーワーダ仏教協会が主催する年に一度のこのイベントが、自分にとって一年でもっとも重要な日になりつつある。出席するため、職場にしっかりと希望休を出しておいた。
 と言って、ブッダの誕生日や悟った日や亡くなった日を記念する意図は自分にはない。
 誕生日も含めて何かの記念日というのは基本的にナンセンスだと思っている。季節はめぐり暦は一年で一周するので、我々は時間が循環するものとどこかで思っている。だから、誕生日とか「○○の日」などというものをお祝いするのである。
 だが、時間は循環などしない。一方向に流れていくだけだ。同じ日など一日たりともない。昨年の5月12日と今年の5月12日には何の関係もない。月や星の位置関係ですらまったく同じと言うことはありえない。昨年庭に咲いたポピーと今年のポピーはまったく別物である。年齢という概念ですら本当は意味のないものだ。人の成長の度合いは個々人によって違うのだから。

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 自分がウェーサーカを大切にするのは、修行のための動機付けになるからである。たまに人為的にでもこういった区切りを設定して、スマナサーラ長老の話を聞き、渇を入れてもらわないことには、怠け心を払拭できないからである。

 最近、仕事のハードさを言い訳として、酒は飲むわ、瞑想はさぼるわ、と自分を甘やかしている。瞑想してもサティ(念)が続かず、知らぬ間に妄想に入り込んでいることが多い。
 現在進行中の片思いのせいもある。実際、恋愛ほど妄想の膨らむものはない。妄想から成り立っていると言っても過言ではない。相手が自分に示したささいな言動をもとに、それを客観的な事実として冷静に捉えるかわりに、自分にとって都合のよい物語をまたたく間に作り上げてしまう。満たされない思いは「苦」であるが、それすらも「喜」と感じてしまうほど、頭はバカになる。
 その意味で、恋愛ほど妄想の性質、自我の罠を観察(ヴィパッサナー)できる絶好の機会はない。それをネタに瞑想しようとチャレンジするのだが、やっぱりいつでも負けてしまう。相手の魅力がそれほど強いのだ。(ってバカじゃん)

 そんなたるみがちな自分を見通すかのように、今日のスマナ長老の話は、「釈尊の教えの基本」という、瞑想を習った頃の初心に自分を帰らせ、「お前少し頭冷やせよ」とのぼせや浮つきを取り除くような、心に今一度仏教という確固たる杭を打たれたかのような、力強く破壊的で叡智に満ちたものであった。
 そうだ。これが「本当の」仏教だった・・・・。


●講演の骨子
釈尊の教えの基本 ~信仰のかわりに確信~
1.生きることは苦である。
2.私たちは自分自身が作った鎖(煩悩)で束縛されて、自由はない。
3.私たちは幸福を目指して不幸の方へと進む。
4.他に頼って、助けられること、救われることを望んでいる。
5.自分が作った束縛を絶つことで自由を得る。智慧が生じる。
6.智慧こそが唯一の財産である。
7.智慧によって執着をなくすことにより、究極の幸福に達する。
8.究極の幸福は、「あの世」でなく「今」この世で体験するもの。 


130512_1557~01 一番最初の「生きることは苦」という仏教の根本命題を、我々はなかなか理解できない。理解したがらない。「だって楽しいこと、嬉しいこともあるじゃん」と思う。「生=苦」と認めてしまうと、よけい生きるのがつらくなるだけだと思う。希望がないと思う。鬱にでもなりかねないと思う。
 だから、なかなかその先に行けない。
 生まれつきハンディキャップをもっているとか、事故にあってカタワになったとか、愛する家族を誰かに皆殺しにされたとか、そんな心理療法や趣味娯楽では変えることのできない、時間が癒やすことのできない重荷を背負った人なら、「生きることは苦」はかえって受け入れやすいかもしれない。仏道へ入りやすいかもしれない。
 だが、若くて健康でエネルギーが有り余っていて、家族や友人にも恵まれ、将来が輝いて見える時に、「生きることは苦」は歯牙にもかからない空言だ。
 自分も若い頃はそうであった。20代の時、ブッダがどういうことを言っているか知ろうと思い、岩波文庫の『ブッダのことば』を手に取ったが、とても最後まで読めなかった。究極の悲観主義だと思った。「昔のインド人は本当に苦しみばかりの人生だったのだなあ」と思った。
 今はどうか。青春もとうに過ぎて、体のあちこちにガタが来て次第に老いが見えてきた現在、そして数々の希望がくじかれ、夢が破れ、活力も損なわれつつある現在、「生きることは苦」はずいぶんと受け入れやすい。
 老人ホームで働くようになって、一層その言葉は身に沁みる。これまでどんな境遇にあろうが、金持ちだろうが、地位が高かろうが、かつては美しかろうが、子供や孫に恵まれていようが、その生涯が様々な素晴らしい思い出に彩られていようが、今現在、日々心身を責めさいなむ「老い」と「病」と、遠からずやってくる「死」とに、誰もが囚われている。どんなに楽しい思い出も、誉れ高い業績も、認知症になれば意味はない。

 「生きることが苦」という事実は、もっと簡単に確認できる。
 我々は、「楽」をなくすには何もしなくてもよい。ベッドで寝ているのは楽だ。だが、そのまま寝続ければ、体は痛んでくる、心は退屈してくる。何もしなくても楽は消えていく。
 一方、「苦」をなくすには何かしなければならない。寝ているのが苦痛になったら、起きあがらなくてはならない。腹が痛くて苦しいのなら、薬を飲まなければならない。
 つまり、人間の基本設計は、常に「苦」を感じるようにできているということだ。「苦」にせっつかれて我々は「何か」をし続ける。それが生きるということなのである。
 であるから、スマナ長老が言うように、幸福の定義は「楽がたくさんあること」ではない。楽は必ず苦に転じるからだ。「何かを得ること」でもない。得た物は必ず失われるからだ。
 

幸福を正しく定義するなら、「苦しみがない状態」ということになります。 

 
 世間には、「有る幸福」と「有る不幸」、「無い幸福」と「無い不幸」の4つがある。
 人が一番求めるのは「有る幸福」である。何もかも手に入れた成功者を羨むのはそのためだ。一方、人が一番忌み嫌うのは「無い不幸」である。ホームレスが社会で一番貶められるのはそのためだ。
 「有る不幸」は、「不幸」という点では「無い不幸」とまったく変わりはないのであるが、どういうわけか人は「無い不幸」より「有る不幸」を選ぶ。「有る」=所有する、ということはそれだけ魅力的なのであろう。少なくとも他人と比較して優越感に浸ることができる。我々は「有ること=幸福」という観念――それは多分長い原始時代に培われたのだろう――に強く洗脳されている。だから、反射的に「無い=不幸」と思ってしまうのである。
 人が最も理解できないもの、到達しがたいものが「無い幸福」である。
 多くの人は、そんなもの負け犬の遠吠えくらいにしか思っていない。
 それがどんな状態か想像することすらできないので、「無い幸福」を選ぶくらいなら、むしろ「有る不幸」を進んで選ぶのが世間一般である。アル中でDVの夫と別れられない妻なんてその典型だ。
 「無い不幸」と「無い幸福」は、実は表裏一体である。外側から見た状況は、ほとんど一緒であろう。ホームレスは和訳すれば「出家」である。清貧をこよなく愛した聖フランチェスコと、隅田川周辺のブルーテントの住人は同じくらい「何も持っていない」。(実際にはブルーテント派の方がいろいろ所有している。)

 仏教は「無い幸福」を目指す道なのだと思う。

 しかるに、この恋は捨てがたい。
 どういった因縁が陰で働いているものやら。
 お釈迦様、どうか因縁を見極めるための執行猶予をください。(笑)



● 本:『ブッダの実践心理学 第一巻 物質の分析』(アルボムッレ・スマナサーラ、藤本晃共著、サンガ文庫)

アビダンマ 001 孫悟空(『西遊記』)に出てくる三蔵法師と言えば夏目雅子を思い出す。
 三蔵法師とは名前ではない。モデルとなったのは玄奘(げんじょう)という名の中国(唐時代)の実在の坊さんである。三蔵法師とは「仏教の三蔵に精通した僧侶」を意味する尊称である。

 三蔵とは何か。
 三蔵は仏教の聖典である三つを言う。


経蔵 (sutra) ・・・・・ 釈迦の説いたとされる教えをまとめたもの。いわゆる「お経」。
律蔵 (vinaya) ・・・・ 出家集団(サンガ)の規則・道徳・生活様相などをまとめたもの。いわゆる「戒」。
論蔵 (abhidharma)・・・・ 上記の注釈、解釈などを集めたもの 。いわば「仏教哲学」。

 上の二つはわかりやすい。読みやすい。
 多くの「経」は、ブッダが庶民に向かって相手のレベルに合わせてやさしく説いたものだから当然である。ブッダはまた、こむずかしい抽象的な議論を好まなかった。「戒」は集団の日常生活を規定するものだから、わかりにくかったら困る。
 「論蔵」はなんだか難しいのである。
 それもそのはず。論蔵はブッダが説いたものではなく、その死後に頭のいい僧侶達によって記述され、まとめられていったものだからである。
 論蔵とはアビダルマ。アビとは「最勝の」と言う意味の接頭辞、ダルマは「ブッダの教え」であるから「ブッダの最勝の教え」という意味である。

お釈迦様は、悟りを開いてから亡くなるまでの四十五年間、いろいろなところでいろいろな相手にいろいろなふうに話しましたが、四十五年間さまざまに説き続けた教えを全部まとめて、その内容は結局どんなものであったか、と学問的にエッセンスだけを取り出してみると、簡単に、明確になります。そのエッセンスを、お釈迦様の教えの基本的論理という意味で、アビダンマと言うのです。


 この本(シリーズ)は、日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老が、会員たちを前にアビダルマの講義をしたものをまとめたものである。
 本があるのは知っていたが、なかなか手をつけようとは思わなかった。ざっとページをめくるだけでも仏教用語がたくさん並んで難しそうであったし、ハードカバーの一冊一冊が厚くて、それが7巻まである。値段も高い。
 何より、知識よりも智慧の方が大切である。座学よりも坐禅である。そうでなくとも「頭でっかち」になりやすい自分なので、興味はあったけれど近づかないようにしていた。

 スマナ長老の教えを受けてヴィパッサナー瞑想と慈悲の瞑想をはじめて丸4年。
 毎日熱心にやっていた時期もあれば、だらけていた時期もある。五戒をちゃんと守っていた期間もあれば、自分を甘やかした期間もある。(今は甘やかしている期間だ。特に仕事後、山登り後の酒が止められない)。転職したり体調が変化したりストレスがあったりで、同じレベルの熱心さで瞑想を続けるのは難しい。
 とは言え、4年間続いたのはそれなりに成果を感じているからである。
 体調が良くなった(特に腰痛と痔)。以前より気持ちが安定し、ささいなことで悩まなくなった。怒らなくなった。よく眠れる。頭も冴える。他人の悪口を言ったり聞いたりするのが自然とイヤになり、「ありがとう」という言葉が自然と口をついて出るようになった。人間関係も家族関係もまず良好である。コンビニの店員など見知らぬ人から親切にされることが多くなった(気がする)。年を取ったせいもあろうが、「我ながら落ち着いたなあ~」と思う。若い頃は、晴れた休日など外に(街に)出かけないでいると罪悪感を覚えるほどの落ち着かなさ(ムラムラ感)に衝かれていたが、今はなるべく賑やかなところは遠慮したい。
 一等の成果は智慧につながったことである。
 これは瞑想をはじめて一年経った頃から感じられるようになった。
「ぬあ~んだ。結局この世にはナーマ(認識、心)とルーパ(対象、物)しかないんだ」とか「認識があるから対象が存在し得るんだ」とか、いろいろ見えてきた。
 こういう智慧は本で読むだけでは、頭で理解するだけではダメなのである。身をもって知るには瞑想するしかない。身をもって知ってこそ心は変容するのである。

 智慧が出てくると、今度はその智慧がどのように仏教では説明されているか、どのような言葉でブッダや過去の阿羅漢たちが語っているのかが知りたくなる。或いは、自分はこう悟ったけれど、それが正しいのかどうか確認したくなる。

 どこかに書かれていないのか?
 
 そう思っていたところ文庫版が出た。
 で、やっとアビダンマに手をつけてみようと思ったのである。

 まあ、書いてある、書いてある。
 瞑想をしていて自分が発見したことが、当たり前のように其処かしこに散りばめられている。以前は難しいと思っていた記述が水が砂に染みこむようにすらすらと入って来る。以前ならきっと特に引っかかることなく読み流していたであろう部分で、奥深い意味に気づいてハッと息が詰まる。「そうだったのか~」と唸ることしきり。


 アビダルマってこんなに面白かったのか!
 
 むろん、秘密はスマナ長老の説法にある。長老自身が序文の中で、共著者の藤本晃に感謝してこう言っている。

 「アビダルマ説法」はそれほど難しくはありません。強いて言えば喉が渇くくらいです。人が気楽にやりたい放題、話を脱線させながらおこなった講義を、整理整頓されたまともな本にすることは気が遠くなるほど難しい作業だと思います。

 「やりたい放題、話を脱線させながら」の部分が滅法(笑)面白いのである。スマナ長老の他の本や普段の講演でも時にドキッとするほどストレートな発言に触れる瞬間がある。そのたびに「そこまで言い切ってしまうのか」「初期仏教ってこんなにも過激なのか」と驚く。それ以外の部分は、直截的表現を厭う日本人に合わせてか、在家信者や一般読者を対象としているせいか、オブラートに包んだように曖昧で穏やかな物言いになっている。
 この本でのスマナ長老は、おそらく少人数の気のおけない会員を相手にした講義であったせいだと思うが、自由闊達、融通無碍に仏法を語っている。そこが一番の魅力である。
 とりわけ、本題に入る前の長い長い序章「アビダンマ早分かり」は、仏教の真髄が凝縮された驚くべき部分であると思う。まったく1ページ、1行たりとも疎かには読めない。ポイントにマーカーを引こうと思ったら、全ページ真っ黄黄になってしまいかねない。


以下、引用。


● アビダンマの目的

 ものごとの真理をとことん納得したら、自分がやりたい快楽を追いかける道が、馬鹿馬鹿しく見えるのです。欲望、快楽、知識、名誉、財産、ありとあらゆるこの世のものを目指していく道が、馬鹿馬鹿しく見えるのです。嫌になるのです。本能的に嫌になりますから、それからは自分の意思で、正しい道を歩んでみよう、励んでみようという気持ちが生まれます。
 アビダンマの目的は、修行する気持ちを起こさせること、そして、修行の過程において自分の心をどう理解してどう進むのかと、その道筋を示すことです。 


● 我々が生きている世界は3つだけ

 認識機能(心)があって、認識機能と同時に生まれるありとあらゆる感情(心所)があって、それから、認識機能がそこで機能する物質的な世界(色)があります。

 我々が生きているすべての世界はその三つだけです。世界にはそれ以外何もないのです。


●初期仏教は煎じ詰めれば「認識論」

 人間の問題は認識することから生まれるのですから、認識の範囲の中だけで、心と物質のはたらきを徹底的に分析するのが、初期仏教の立場です。
 
 我々が分かっているのは、眼、耳、鼻、舌、身に触れる色、声、香、味、触という五つのエネルギーだけです。我々が知っている「客観的な世界・宇宙」はその五つだけなのです。その五種類以外の物があるかないかさえ、私たちは知りません。

 生命のはたらきといえば、認識することだけなのです。他のことには何の関係もありません。


●悟り(涅槃)とは

 認識の仕組みが、苦しみ、無常であると分かったら、心が何か変わるはずです。その変わる瞬間に、現象でない状態、現象の超越という状態を、その瞬間だけ体験する。この瞬間が涅槃です。


●我々は変化するものしか認識できない(=諸行無常) 

我々が認識するものは、変化だけです。もし何も変化しないなら、何も認識しなくなります。同じ状態が繰り返し続くだけでも、認識できなくなります。例えば同じ音をずーっと聞いていると聞こえなくなります。同じ味をずーっと味わっていると、その味さえ分からなくなります。変化しないと認識できないのです。


●性格について 

性格を構成しているものは、ほとんどカルマです。・・・ですから人に「あなたの性格を変えてください」と言っても、そんなことはできることではありません。

●「無」について 
仏教で言う無は、物質が物質でいられなくなって、宇宙が消えて、エネルギーがいっぱい溜まっている状態ですから、何もないという意味の無ではない。


●人として生を受けたこと 

悪業や罪を犯せば、人間には生まれることはできません。人間に生まれたということは、前世で間違いなく善いカルマを作ったということなのです。


●自由意思について

人間には、善いことをすることも悪いことをすることも可能です。それは自由だからではなく、悪いことをしようとする原因を抑えると、善いことができるようになり、善いことをしようとする心を育てずにいると、悪いことをするようになるのです。因果法則でそれぞれ違った結果になります。


 繰り返し熟読玩味したい本である。
 文庫版第二巻の発売を修行しながら待つことにしよう。


 それにしても、玄奘が命を賭してガンダーラに求めた三蔵を、日本にいながらこんなに手軽に学習できるとは、我々は何と良いカルマを持っていることか!



● 輪廻転生と無我 本:『「老い」と「死」を語る』(中村元著、駒澤大学出版会)

中村元「老いと死を語る」 長い間、日本で仏教の大家と言ったら、瀬戸内寂聴でも五木寛之でもひろさちやでも、ましてや大川隆法でもなく、中村元(はじめ)であった。
 その地位に氏を登らせたのは『ブッダのことば』『真理のことば・感興のことば』『仏弟子の告白』など岩波文庫の仏典邦訳シリーズであろう。氏の他の業績は知らないが、岩波文庫で仏典を邦訳する(できる)というのは、他の追随を許さぬその道のエキスパートであり、自他共に認める仏教理解の泰斗であることを意味している。
 正確に言えば、中村氏は僧侶ではなかった(たぶん)から「仏教研究の大家」と言うべきなのかも知れないが、仏の教えを実際に生きる人(=悟りをひらいた出家者)の姿は大衆の目にはあまり触れないから(たとえば108歳まで婬戒を守り修行一筋に生きた永平寺の宮崎奕保禅師)、世間的には「仏教に詳しい人=仏教の大家」という理解になるのも無理はない。もっとも中村元氏は仏教を研究していただけではなく、仏教徒として智慧と慈愛に満ちた半生を送った人であるらしい。(1999年逝去)

 そんな中村氏が「老いと死」を語るというのだから読まないわけにはいかない。書店で見つけ即買った。

 期待して読み始めたのだが、内容は「ブッダは老いについてこういうことを言っている」「死についてこの経典ではこう書かれている」といった仏説の紹介に終始していて肩すかしであった。仏教を生涯研究し続け、85歳(当時)という「老い」の真っ直中にいて「死」を目前にしている中村氏の、個人的な感慨なり覚悟なり達した境地なり老死を前にまざまざと知った仏説の真意(深意)なりが吐露されているかと思っていたのである。
 どこかの講演録をテキスト化したものなので、講演時間やテーマや対象者のレベルの関係もあって仏説紹介レベルにとどまったのかもしれない。あるいは、仏説そのものが個人の見解と一致するほどに、もはや「我」を表現することなど思いも寄らないほどに、仏教徒としての中村氏の心のありようが澄んでいたのかもしれない。

 そんななかで、一箇所引っかかる部分があった。
 それは輪廻転生をめぐる説明である。
 中村氏、こう言っている。
 

  仏教では、輪廻ということを説きます。そうしますと、結局、仏教も輪廻の主体を説くことになるのではないかと、疑問に思われる方もいるかと思います。しかし一方で、仏教は無我ということを説いています。この両説はどういう関係になっているのでしょうか。
 仏教がなぜ、輪廻ーー生まれ変わるということを説いたかというと、当時、インド一般の民衆は信仰として生まれ変わりを信じていました。ジャイナ教でも、他の宗教でもそうです。ですから、民衆を教化するためには、それを一応承認したというわけです。本当のところは、イエスとも、ノーとも言えないのです。つまり一方では、生まれ変わる、輪廻の主体があるということを言い、片方では死後に霊魂があるともないとも言えないという。両者は矛盾しているわけです。
 ところで、それはおかしいことなのでしょうか。いやそれは構わないのです。なぜかと言いますと、仏教では人間の心の奥にあるエゴイズム、元々人間にある我執にとらわれないようになれということを教えることが第一の目的であるために、その手段としてこのようなことを言ったからです。

  
 ブッダが輪廻転生を説いたのは、輪廻転生を信じる当時の民衆に仏教の真髄「我執にとらわれるな」ということを教えるための手段として、つまり方便であったと言っているのである。


 これは違う。

 ブッダは輪廻転生を自らの確かめた事実として語ったのである。方便なんかではない。中村氏自身が訳した『真理のことば』(ダンマパダ)にちゃんと書かれている。

 わたくしは生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た。家屋の作者をさがしもとめてー。あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。
 家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。(岩波文庫『真理のことば』153,154の偈) 


 これはブッダが菩提樹の下で悟りをひらき、輪廻から解放された安堵と喜びを表現した言葉である。家屋とは「人間の個体」のことである(と中村氏は注を付している)。
 さらに、ブッダはこうも言っている。
 

 二軒の家の間に立っている人が、その家人たちが一方の家から出てもう一方の家に入ったり出たりするのをありありと観察することができるように、私は生命の転生を知る天眼通によって、衆生がカルマに牽かれて善い境遇や悪い境遇に転生することを、そして、それぞれの転生先で優劣美醜の差を得ることを知っています。・・・・比丘たちよ、このことを私は、他の沙門やバラモンたちから聞いて語っているのではありません。そうではなく、私が自分で知った、自分で見た、自分で体験した、そのことだけを私は語っているのです。(中部130) (藤本晃著『悟りの階梯』、サンガ)


 「比丘たちよ」と語っているところに注目してほしい。
 ブッダはこの言葉を民衆に向かって言ったのではない。出家して比丘サンガに入って解脱を目指して修行している比丘たちに対して言ったのである。

 中村氏はなぜこんな勘違いをしたのだろう?


 客観的に(科学的に)証明できない輪廻転生という現象について、そしてブッダが輪廻転生を事実として認めたということについて、すんなりと受け入れたくない気持ちはわからないでもない。西洋近代思想に囚われた現代人にとって、科学的に証明できないことや自然科学の法則に反することは簡単に信じてはならないことであり、眉唾であり、「オカルト」に属することである。それを単純に信じ込んで周囲に吹聴する人間は洗脳されやすい「危ない」人間とみなされてしまう。いろいろな宗教団体が起こす突飛な事件がその見解の正当性を裏付けていく。
 ブッダ及び仏教を奉じる自分自身を、そんな「オカルト」一派に仲間入りさせたくないという気持ちが、仏教の中の「諸行無常」「諸法無我」「一切皆苦」「慈悲喜捨」は良くとも「輪廻転生」はちょっと・・・・・という言説をつくっていくのかもしれない。
 他の宗教に較べると、極めて論理的で精密で実証主義を重んじ「最先端の科学的知見」との整合性すらも獲得しつつある仏教の、唯一の突っこみどころが「輪廻転生」であり「神、悪魔についての言及」なのである。それあるかぎり仏教は結局「天地創造」「処女懐胎」「復活」を唱えるキリスト教(のナンセンス)と大差ないということになってしまうのだから。

 自分も仏教を学び瞑想実践するようになって数年になるが、仏教の中でもっとも理解できない部分がこの「輪廻転生」であった。
 仏典に出てくる「神と悪魔」の存在についてはそれに較べればどうということはない。よく解釈されるようにそれらを修行者の「心の声(良心と誘惑)」とみなすこともできるし、「神」を修行を励ますサンガの仲間達、「悪魔」を修行の邪魔をする俗世間の比喩としてとらえることもできる。ブッダや比丘たちの無意識が投影された集団幻覚であってもよい。なんなら、人間とは別次元に住む存在(幽霊、妖怪、宇宙人e.t.c)としたってよい。
 つまるところ、神や悪魔の存在はブッダの教えそのものについてはほとんど関わりをもたないからである。それこそ、「教え」を効果的に大衆に伝えるための演出、修飾、誇張と位置づけることも可能である。
 一方の輪廻転生は厄介である。たんなる比喩や誇張ではすまされない。

 ポイントは二つある。

 まず、輪廻転生(生まれ変わり)という現象自体があるのかないのかという点である。
 前世のことを鮮明に記憶していている人物がいて、第三者が調査してみたらその人の証言通りの事実が過去にあったという、まさに生まれ変わりとしか思えないようなケースも調べればたくさんある。有名なところではダライ・ラマがそうである。
 「無我」(「自分」という感覚は幻想である)が現代科学によって証明されてきているように、輪廻転生もいつの日か科学的に納得できる説明がなされる日が来るのかもしれない。その日まで事の真偽を保留にしておくのが賢いのだろう。ブッダが言ったからといって無条件に信じる必要もない。
 結局のところ、輪廻転生があるかないかという問題は仏道修行そのものにはまったく影響しないからである。というのも、ブッダのような天眼(超能力)を持たない一般人にとっては「来世でいいところに生まれたいから修行する」「永遠に続く輪廻転生の苦しみから解脱したいから修行する」というのは修行の理由にはならないからである。前世を見る能力がないのに来世の幸福のために修行するというのはナンセンスである。自分で確かめていないことを、ブッダが言ったからといって頭から信じ込んでいるのはまさに「信仰」であって、それこそまことの仏教徒の態度としてはふさわしくない。
 また、輪廻転生が実在するとして、ある人が今生での修行の成果によって来世で良い境遇に生まれたとしても、来世にいる当人は前世(今生)のことを覚えていないのが普通だから、「前世で頑張って修行しておいて良かった。来世のために今生も頑張って修行しよう」とは思わないだろう。今生で酷い悪行を犯し、それが露見せずに罰を受けることなく死んだとする。その報いを来世で受けるのは、記憶がつながっていない限り(天眼を持っていない限り)、今生の「自分」とは別人格の「他人」である。
 つまり、輪廻転生という現象はそれを見る能力がない人にとっては、何ら意味を持たないのである。そこに左右されることは馬鹿らしい。
 仏道修行の目標は「修行によって智慧を開発し、煩悩を減らし苦しみを無くすこと」である。輪廻転生のあるなしはとりあえず棚上げしておけばよい。

 次のポイント。
 ブッダの言うとおり輪廻転生があるとして、「では、いったい何が生まれ変わるのか」という点である。先に挙げた中村元氏の言葉の最初の部分に集約されるように、「生まれ変わりがある(輪廻転生)」と「永続する主体は存在しない(諸法無我)」は矛盾するように見える。
 この禅問答のような謎は、仏教を学ぶ者にとって長い間解きほぐせない難題であった。

 繰り返すが、釈尊は無我説、つまり人をはじめ、物には不滅の霊魂は存在しないとする説を立てたが、この立場からは、一般にいう輪廻思想はでてこない。なぜならば、輪廻するには輪廻する主体がなければならないからである。輪廻の主体は霊魂であると古代インド人は考えていたのだから、釈尊の無我説からは輪廻思想は生まれてきそうもない。
 では、輪廻を否定したのだろうか。そうとも言い切れない。(田上太秀著『仏陀のいいたかったこと』、講談社学術文庫)


 後生の仏教徒は、ゴータマ・ブッダのこの姿勢が結局わからなかった。無我説は、有我説と、不毛な水かけ論が延々と続くという事態を招いた。また、輪廻の主体としてのアートマン(ソルティ注:「我」)がないなら、輪廻転生や因果応報をどう説明すればよいのかという問題の解決に大いに苦心することとなった。とてもではないが無理なことを説明するために、多大な学問的努力が払われた。皮肉なことに、それゆえ仏教「哲学」は、千年の長きにわたって、インドの哲学界をリードしつづけることができたのである。(宮元啓一著『ブッダ 伝統的釈迦像の虚構と真実』、光文社文庫)


 この謎、矛盾が、テーラワーダ仏教を学び瞑想を始めたばかりの自分の大きなジレンマであった。瞑想をしていても、ともすればこの謎が頭を占めてしまい集中できないこともあった。
「いったいブッダは、なぜ何が輪廻転生するか、はっきり言わなかったのだろう?」
 上に書いたように輪廻転生のあるなしは問題ではなかった。あるならあるでいい。とりあえず修行には関係ない。
 問題は、輪廻転生する主体の存在を否定しておきながら輪廻転生を説いたブッダのスタンス(真意)がわからないところにあった。こんな矛盾することを平気で語っているブッダのアバウトさに困惑したのである。ブッダの生きていた時代、この謎について質問した修行者もいたようだが、ブッダは明確には答えなかった。
 輪廻転生のあるなしより、それについて整合性ある説明がないことに、中村先生同様、自分も戸惑ったのである。「こんないい加減なことを言いっぱなしにするなら、仏教も信用できない」と思いかねないほどに・・・・。


 しかるに、テーラワーダ仏教のスマナサーラ長老はこう述べている。
 

 みんながもっているのは、私という変わらない何かのサブスタンスが、死後あちこちに引っ越しするというような理解ですね。そんな原始的な話ではありません。個といえるもの、常住不変の魂・霊魂のような実体は成り立たないのだと、仏教は厳しく語っています。無我説があったうえでの輪廻の話です。輪廻を理解したければ、「難しいもの」とお釈迦さまが注意された、因縁法則を理解することになります。
 しかし、心配いりません。解脱に達しようと思って実践を続けると、ものの見事に自分で発見するのです。・・・・・・・
 端的にいえば、「無常がわかれば、輪廻がわかる」ということです。今の現象は瞬時に消えて、新たな現象が生まれる。それは限りなく続く。輪廻とは変化し続けるのだという意味の言葉です。
(アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉対談『出家の覚悟』、サンガ)


 無我説があったうえでの輪廻。
 実践を続けると、ものの見事に発見する。


 中村氏は仏教の研究者としてはまぎれもなく超一流であったが、実践者としては道半ばだったのだろうか。 (他人のことはほっとけ←ギャグ)


 それにしても、そもそも「輪廻転生には主体が必要」と考えるのはなぜだろう?
 そう考えるのは「誰」だろう?



● 摩天楼法話会:『真理を喜ぶものは、安らぎを得る』(講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

常圓寺 004 9月25日(火)西新宿駅にある常圓寺祖師堂にて。

 こんな繁華街のど真ん中、新宿駅から目と鼻の先にお寺があるとは知らなんだ。青梅街道をはさんだ向かい側には都庁はじめ高層ビルが林立している。相当な地価だろう。
 境内には墓園もあって、お彼岸最終日のこの日、墓参りに訪れた人々の姿がちらほらと見えた。便利なところにお墓があったものである。

 常圓寺は日蓮宗のお寺であ常圓寺 002る。
 日蓮というと他宗派をいっさい認めない排他的イメージがあるのだが、昨今の日蓮宗はそんなこともないらしい。
 それでも、それがどんなに偉くて有名であろうとも、大乗仏教の他宗派のお坊さんを講師に招くことは考えられまい。やはり、小乗仏教すなわち原始仏教(テーラワーダ)の長老だからこそ、スマナサーラ氏は招かれたのだろう。何というか、分家の行事に本家の長男がよばれてご挨拶みたいな感じだろうか。仏教の根本を今一度見直そうという、日本大乗仏教の焦りと反省みたいなものだろうか。

常圓寺 001 祖師堂というだけあって、お堂の正面には仏像ではなく日蓮上人が祀られている。
 参加者は80名くらい、ほぼ満席だった。
 法話の前に、全員で法華経を唱える時間が設けられていた。


 今日の話のポイントは、真理を知ることで平和が訪れる、というタイトルどおりの内容であった。(とわざわざ書くくらい、その日のタイトルとスマナ長老が実際にする話とはギャップがあることが多いのである。)
 以下、概略する。


● 人々が争ったり喧嘩したりするのは、曖昧なこと、はっきりと事実が判明していないことについてである。
 例)真の神はエホバかアラーか?
   聖書とコーランどちらが正しいか?
   尖閣列島は日本のものか中国のものか?
● 私たちは事実については喧嘩をしない。
 例)地球は丸い。
   ガンになったら病院に行って治療する。
   人の死亡率は100%。
● ゆえに、真理を知ったら最早争う必要がない。平和である。安らぎに満たされる。
● 真理を喜ぶ生き方とは、何が真理か自分で調べて確かめてみようとする姿勢のことを言う。
● ブッダの伝えた真理とは、「一切行苦」「諸法無我」「諸行無常」などである。
● 仏教は、しかし、上記の「真理」を押しつけることはない。ブッダの言葉が本当かどうか各自で徹底的に調べてみなさい。挑戦してみなさい。


 というような骨子であった。


 そうなのだ。キリスト教徒とイスラム教徒とが争うのは、神の正体が曖昧だからである。いつの日か大空から全知全能の神が降りてきて、全人類の前で生命や自然を創り出す奇跡を行い、「私が神です。当然名前はありません。エホバもアラーも神ではなく、私が地ならしに派遣した弟子たちです。」とでも言明すれば、最早宗教戦争はなくなるだろうに。
 事実については誰もが納得せざるを得ない。
 あるいは、誰もが納得せざるを得ない事実が、真理なのである。

 では、我々は真理をどうやって知ることができるのだろうか?
 肝心なのはそこである。
 「ブッダの言ったことが真理だから、それをよく学んで信じなさい。」と言うのでは、キリスト教やイスラム教と何ら変わりはなくなる。あらかじめ真理(の書)があって、それに従うのは信仰である。それではいっこうに問題が解決しないのは見てきたとおりだ。

 そもそも、「私」が「真理」を発見する、という言い方自体に誤謬がある。
 受動態にすると分かりやすい。

 「真理」は「私」によって発見される。


 つまり、この「真理」は、発見された時点ですでに「私」というバイアスがかかっているのである。そこには、「私」の過去の経験、知識、欲望、怒り、コンプレックス、プライド、トラウマ等々が、多かれ少なかれ投影されてしまっているのである。それは、「私」にとっての「真理」であって、他人が見たら「真理」どころか「誇大妄想」「危険思想」「トンデモ本の世界」に過ぎないのかもしれない。
 実際、新興宗教の最終解脱したとか言う教祖が語る「真理」を見れば、この構造は手に取るようにわかる。
 「真理」が誰もが納得し誰にでも通用する事実の謂いであるのなら、「真理」は断じて「私のもの」「誰それのもの」であってはならないのである。
 結論として、「私」は「真理」を知ることはできない。


 では、どうやって・・・???


 「私」にできるのは、「私」の中味を観察し吟味し、その構造を調べ尽くすこと、そして、これまで「真理」として語られてきたこと、唱えられてきたこと、信じられてきたこと、伝えられてきたことについて否定もしくはペンディングすること、だけである。もちろん、それが仏教だろうとも・・・。
 クリシュナムルティはこう述べている。

 信ずるな。ただし、諸君自身をも含むいかなるものも。
 諸君の不信と共にぎりぎりまで歩め。
 そうすれば、疑い得たあらゆるものは虚偽であったことを、そして最も激しい<懐疑の炎>に耐えうるもののみが真理であることを見出すであろう。
 なぜなら、そうなってもなおかつ残るものが、懐疑をその自己浄化過程とする<生>にほかならないからである。(ルネ・フェレ著『クリシュナムルティ 懐疑の炎』より)



 仏教においては、カーラーマ経の中の10項目の教えが有名である。

 大乗仏教と原始仏教の最大の違いは、おそらく、大乗仏教が仏教を「信仰」にしてしまったところにあると思う。
 本来の仏教は、信仰とはかけ離れた実証主義の精神そのものなのである。(大乗の中では禅が実証主義だと思うが、禅は「悟り」を信仰にしてしまったように思う。)

 仏教の性質は、テーラワーダ仏教を学ぶ者が日常唱える「法の六徳」の中に明確に表されている。



 世尊の法は
1. 善く、正しく、説き示された教えです。
2. 実証できる(いつでも誰でも体験できる)教えです。
3. 普遍性があり、時の経過に耐えうる教えです。
4. 何人も試して、確かめてみよ、と言える教えです。
5. 実践者を涅槃に導く教えです。
6. 賢者たちによって各自で悟られるべき(他力救済を説かない)教えです。



常圓寺 003




● 初期仏教月例講演会:「正しい自己診断(セルフチェック)~自分で自分をチェックするための方法~ 」(講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

 9月9日(日)夜、新宿区牛込箪笥区民ホール。
 大江戸線の「牛込神楽坂駅」真上にある新しいホールである。
 400名近い席はほぼ満席であった。

コスモス 008 タイトルからすると、仏教的に正しい自己診断の方法を教えてくれるものかと期待するが、スマナ長老はのっけからこれを否定する。

「自分を正しく診断するのは現実的には無理です。」


 なぜならば、
・ 一回の自己診断ですべてがうまくいくというのは誤解である。
・ すべての人はそもそも自分自身を最大に評価している。
・ 完璧な診断リストは存在しない。
・ 診断リストは多数存在し、リストを作った人の能力にも限界がある。
・ 多数のリストの中から一つを選ぶとき、「自我」というバイアスがかかる。(自分にとって都合の良いリストを選びがち)
・ リストを持つ時点で、自分の人生を他人にまかせてしまうことになる。
・ 自分でリストを作る場合でも、結局は世間の考え方を参考にせざるをえない。(すなわち、世間の評価を基準とすることになる) 


 リストとは何のことか?
 生きる上での指針であり、哲学・思想であり、信条であり、主義であり、宗教である。
 どういったリストを選ぼうとも、上記のような理由があるため、人は正しい自己診断には至らないと言うのである。
 だが、生きていく上で自己制御は必要である。自分自身をどのようにコントロールし、どう身を処すればよいのだろうか?

「to do リストも、not to doリストも役に立ちません。」


 と、スマナ長老は言う。
 仏教の五戒やモーゼの十戒のような「~するな」という教えも、カント倫理学のような「~すべし」という定言命令も、根本的な解決にはならない。
 なぜなら、新たな時代の新たな環境のもと、新たに起こってくる事態に対して、新しい命令を次々と追加していかなければならないからである。(国会で一年間に制定される法律の数は50本以上である!)


 「仏教は、心そのものを根本的に改良する方法を伝えます。」


 と、ここからが本日の講演の主眼である。
 いつも前置き部分に時間をかけるのがスマナ長老の話の特徴と言える。もっとも大事なところを時間に追われるようにサラッと流してしまうのである。

 さて、お釈迦様が語る自己診断法には、出家のためのものと、在家信者のためのものがある。
 出家のためのものとして「十項目の経典(DASA DHAMMA SUTTA)」がある。在家信者のためのものとしてスマナ長老が挙げたのは、「カーラーマ経典」であった。

 このように私は聞いた。あるとき、世尊(お釈迦さま)はカーラーマ族の町に入られた。そこでカーラーマ族の人々は、世尊にこのように訊ねた。
 「世尊よ、ある沙門、バラモンたちがやってきて、彼らは自分の説だけを正しいと言い、他の説を罵(ののし)り、誹(そし)り、けなし、無能よばわりいたします。さらにあるとき、またちがう他の沙門、バラモンたちがやってきて、彼らもまた、自分の説だけが正しいと言い、他の説を罵り、誹り、けなし、無能よばわりいたします。
 いったい、だれが誠を語り、だれが偽(いつわ)って語っているのか、という疑いがあります。どうぞ、私たちにだれが正しいのかを教えてください。」


 お釈迦様は答える。

 「カーラーマ族の人々よ、あなたがたが疑うのは当然のことである。そして、疑いのあるところに惑(まど)いは起こるものである。あなたがたはある説かれたものを真理として受け取るときに、
① 人々の耳に伝えられるもの、例えば秘伝や呪文(じゅもん)、神の啓示などに頼ってはいけない。
② 世代から世代へと伝え承けたからといって頼ってはいけない。
③ 古くからの言い伝え、伝説、風説などに頼ってはいけない。
④ 自分たちの聖書や教典に書いてあるからといって頼ってはいけない。
⑤ 経験によらず頭のなかの理性(思弁)だけで考えることに頼ってはいけない。
⑥ 理屈や理論に合っているからといってそれに頼ってはいけない。
⑦ 人間がもともと持っている見解等に合っているからというような考察に頼ってはいけない。
⑧ 自分の見方に合っているからというようなことだけで納得してはいけない。 
⑨ 説くものが立派な姿かたちをしているからといって頼ってはいけない。
⑩ 説いた沙門が貴い師であるというような肩書などに誤魔化されてはいけない。 


 この経典は、「真理か否か他人に頼らず自ら実践して確かめよ」という仏教の基本姿勢を示すものとしてつとに有名なのであるが、上記の対話には続きがあって、そこで自らの心を改良するやり方について説いていると言うのである。 

 その方法とは、「潜在衝動をチェックする」ことである。

1. 貪・瞋・痴のどれか一つが潜在衝動として心の中に表れてきたら、すかさずチェックする。衝動をチェックできると、それが消える。
   例)「いま私の心に上司に対する怒りの感情が出てきたゾ」
2. 貪・瞋・痴に動かされたしまったときに起こる可能性ある行為とその結果を思い浮かべる。
   例)「相手を殴ったらその瞬間は気分がいいけれど、会社をクビになって家族が困るだろう」
3. このように自己診断したあと、慈悲の瞑想で治療する。
    上司が幸せでありますように、
    上司の悩み苦しみがなくなりますように
    上司の願い事が叶えられますように
    上司に悟りの光が現れますように。
4. 四方八方の無量の生命に対して慈悲喜捨を念じる。
    生きとし生けるものが幸せでありますように、
    生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように、
    生きとし生けるものの願い事が叶えられますように、
    生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように。
5. すると、心の闇(=自我)が破れ、平安が訪れる。 

 この方法は、他人に頼ることなく、自分で判断し、自分でチェックできる心の制御法であり、心を根本的に改良する方法である。
 
 と、自分の理解できる範囲で講話をまとめてみた。
 「潜在衝動をチェックする」とは、別の言葉で言えば「気づき」であり「サティ(念を入れる)」であろう。自らの心の中を観察して、浮かび上がってくる衝動(感情)に流されず、その尻尾をつかまえて、その正体(怒りか、欲か、無知か)を暴き出し、すかさず楔(くさび)を打て、ということと理解する。

 別の経典中にずばりそのものを見つけた。

 比丘達よ。まだ大悟していない正覚前の菩薩のとき、思念を二つに分けてはどうだろうかという考えが起こった。欲尋と瞋尋と害尋とを一方に、出離尋と無瞋尋と無害尋と一方においた。
 不放逸に、精進し努力しているとき、欲尋が生じると、私に欲尋が生じたと知った。この欲尋は自分を苦しめるために、他人を苦しめるために、自分と他人を苦しめるためにある。これが慧を消滅させ、涅槃に行くのを抑えるものである、と知った。
 それが自分を苦しめるためにあることを思慮してみていると、欲尋は消滅した。他人を苦しめるため、両者を苦しめるためのもので、慧を消滅させ、抑圧するもので、涅槃にならない、と思慮して見ていると、欲尋は消滅した。私は欲尋を捨て、生じた欲尋を軽くし、すべてをすっかりなくすことができた。(第9巻中部根本19)


 これは面白いことに、有能なカウンセラーがカウンセリングを行う際に行っていることと同じである。
 クライエント(相談者)の語る話の中味や態度について、カウンセラーも人間である以上、肯定的であれ否定的であれ、何らかの感情を抱かざるを得ない。その感情があまりに強くなると、クライエントをありのままに受け止めるのが難しくなる。その感情は自然とカウンセラーの表情やそぶりや話し方に現れて、クライエントに何らかの影響を与えることになる。転移や逆転移を起こすきっかけになる。
 熟練したカウンセラーは、相手の話を聴きながら、自分の心の声も同時に聴いているのである。
「あっ、いまちょっとムカってきた。」「あっ、いまうんざりしている。」「あっ、いまクライエントに欲情している。」e.t.c
 このように気づくことによって、カウンセラーは浮かび上がってきた衝動(感情)に無自覚に身を任せることなく、その衝動をコントロールする位置に立てるのである。


 現代カウンセリングで用いられている技法を2000年以上も前にブッダは説いているのである。
 それどころか、最近はブッダの瞑想法(ヴィパッサナー)をベースにした「マインドフルネス認知療法」というのが世界的に注目されているらしい。

 心に浮かぶ思考や感情に従ったり、価値判断をするのではなく、ただ思考が湧いたと一歩離れて観察するという、マインドフルネスの技法を取り入れ、否定的な考え、行動を繰り返(自動操縦)さないようにすることで、うつ病の再発を防ぐことを目指す。(ウィキペディア「マインドフルネス認知療法」より抜粋)


 やっぱりブッダはすごい。


コスモス 001 ところで、今回会場となった神楽坂は、20年以上前に5年ほど勤めていた職場がある。
 実に、20年ぶりに界隈を散歩した。
 勤めていた会社の建物も、社員がよく利用していた喫茶店やそば屋もちゃんと残っていたけれど、先輩とよく行った飲み屋やたまに独りでランチを食べたカフェなどが無くなっていた。神楽坂全体がすっかりオシャレになり、華やいでいた。
 会社を辞めた時、20年後の自分をまったく想像できなかった。生きているかどうかも確信できなかった。(そんなに長生きしたくないと思っていた。)

 まさか、介護の仕事をやるとは・・・!
 20年前の自分が「もっともやりそうにない」仕事の一つである。

 まさか、仏教の講演を聴くようになるとは・・・!
 20年前の自分は完璧に無宗教であった。


 不思議なものだ。

● 本:『老いと死について さわやかに生きる智慧』(アルボムッレ・スマナサーラ著)

老いと死について 「老い」と「死」について語らせたら、ブッダの右に出る者はいない。仏教の独壇場である。
 もちろん、ここで言う仏教とは、大乗仏教ではなく、ブッダの教えをそのままに今に伝えるテーラワーダ仏教のことである。
 その意味では、このスマナサーラ長老の新著は、「無常」や「無我」についての著書と並んで、まことの仏教の何たるかを端的に伺い知ることができる恰好の本であり、また、高齢化社会を突き進んでいく我々日本人にとって「待ちに待った」本と言うことができよう。

 正直のところ、仏教思想の中にしか、人類が「老い」や「病」や「死」と敢然と向き合い、従容として受け入れ、なおかつ幸福でいられるための秘訣は他に見つかるまいと思っている。再生医療やクローン技術にいくら期待をかけても、それがいくら進歩しようとも、光の壁を突破できないのと同様、「老病死」の壁は乗り越えられまい。技術の進歩は決して幸福にはつながるまい。そのことが未だに分からない有様を「無明」と言うのだろう。
 この本を、各市町村の役所は、地域に住むお年寄り達に敬老の日のプレゼントとして贈呈したらどうだろうか。あるいは、介護保険の被保険者(65歳)となった記念に・・・。
 それは冗談だが、自分は、次に帰省した際、年老いた両親に読んでもらうべく、置いて帰るつもりである。
 
 以下、引用。

 お釈迦さまはこう言っています。
 「年をとる、老化する、死に向かって生きていくという現実を素直に認め、認識できる人こそ、この世でもっとも幸せに生きられる人である」
 
 幸福とは、凪いだように穏やかな心のことです。何を映しても動揺しない鏡のように、波一つない水面のように、平穏な心を育てることが、人にとって真の幸福なのです。
 
 親のために子供ができる最大の孝行は、「道徳的で清らかな執着のない心を持って最期を迎えられるように親をサポートする」ことに尽きます。


 「悟った人は、執着もないまま何のために生きているのか」と聞いてくる人がいます。そんなとき、私はこう答えます。
目的があって生きているのではなく、ただ死ぬのを待っているだけです


 あなたは、自分の老いや死について考えたいと思い、本書を手にとってくださったのでしょう。もしそうなら、あなたが本当に考えるべきは、やがてやってくるであろう死にどのように備えたらいいのかということではありません。
 
目の前にある「今」を力強く生きる。
 それが最も大切なことです。


 仏教では、どんなとき、どんな相手に対しても、事実をありのままに話すことが大切とされています。自分の意志や感情、主張はいっさい挟みません。
 本人にはがんの告知をせず、家族がその事実をひた隠しにするようなケースが今でもありますが、それは大変に思い上がった行為であり、本人にとってとんでもない不幸です。
 確実にまもなく死ぬ時期がわかっている病気の場合は、なおさら本人に伝えるべきです。残された日々をどのように過ごしていくかを本人の自由に決めさせるのは、まわりの人たちがやらなくてはならない仕事です。


 どの言葉も確信に満ちている。日本人が好むあいまいさやぼかしや婉曲的なところがまったくない。まことの仏教とは、切り立った岩壁の如く、かくも激烈なる、毅然たる、劃然たる思想なのである。日本人が仏教にイメージしがちな、「まんまるい、ほんわかした、癒し系の、菩薩風の」ものとは違う。
 
 ところで、老いを語るのに欠かせない要素の一つは「孤独」であろう。
 老いて子供は独立し、仕事も辞めて、連れ合いに先立たれ、孤独が道連れとなる日が来る。
 これまで孤独と付き合う準備をしてこなかったツケが回ってくるのである。
 ふと見ると、無縁社会の「孤独死」がポッカリと口を開けている。
 スマナ長老、処方箋はないものでしょうか。

 存在とは、天涯孤独です。よいでもなく悪いでもなく、それが命の自然な姿なのです。孤独をなくすのではなく、孤独に慣れることが賢い生き方になるのです。
 人生は孤独なものであり、厳しいけれどそれが現実です。現実である以上、生きていくためには、人は孤独に対する「免疫」をつけなければなりません。

 孤独を、いかに楽しいものにできるかが、その人の人生を決め、さらには次の人生も決めます。自分がひとりになったとき、どうするか。
 ひとりになるまいとするのではなく、ひとりになることを大前提にして、人生をプログラムしてください。それは、子育てをどうするか、マイホームの購入をどうするか、出世をどうするかについてプログラムするよりも、ずっと重視すべきことなのです。

 仏教では、「気の合う友だちは、ひとりでもいれば十分です」と教えます。それを孤独というのなら、そうでしょう。孤独とは結果的に、必要のないものや余分なものを手放すことだからです。


 孤独、恐るるに足らず。
 今から「孤独力」を磨いておこう。


● 本:『一生、仕事で悩まないためのブッダの教え』(アルボムッレ・スマナサーラ著、知的生き方文庫、三笠書房)

一生仕事で悩まない 人が仕事に関して抱える様々な悩みについて上座仏教(テーラワーダ)の立場から回答したものである。
 すなわち、ブッダならこう答えるだろう。

 この本を手にしたのは、自分が一ヶ月ほど前から介護という新しい職種、老人ホームという新しい職場に飛び込んで、いろいろなストレスを感じている真っ最中だからである。
 仕事を覚える大変さ、同僚や利用者の顔と名前を覚える大変さ、職場の雰囲気に馴染むまでの緊張感、次第に見えてくる人間関係とそこへの配慮、何もできないことの焦りと苛立ち、年下の先輩から叱りつけられる情けなさ・・・・。転職にあたって予想はしていたので「まあ、こんなものだろう」と思うくらいの余裕はあるが、何度重ねても新しい仕事、新しい職場に馴染むのは一苦労である。
 そう。いつの間にか転職の多い人生になってしまった。
 アルバイトも含め一年以上続いたものをピックアップすれば、これで7回目となる。40代後半という年齢ではきっと多いほうだろう。一番長く続いたもので8年ちょっとである。
 「転がる石に苔生さず」ということわざは良くも悪くも解釈できるというが、自分はどっちだろう。

 振り返ってみると、自分の転職は常に人生のリセットのようなものであった。積み上げてきたすべてをチャラにしてゼロから再スタートするみたいな。前職で蓄積された経験や技術を踏み台にして次の職場を選択するという考えがハナからないし、一つの職場を辞めるときに次の職場が決まっていたことも一度もない。
 だから、仕事と仕事の合間には無職の日々が入る。失業保険や退職金で生計を立てながら、人生の中休みとかうそぶきながら次の仕事を探すのである。綱渡りの人生、というよりも空中ブランコの人生である。
 よくまあ、やって来られたなあと思う。

 一つには、養うべき家族がいないことがある。自分一人を食わせれば良いので腰が軽いのだ。
 一つには、地位や名誉や贅沢には関心がないことがある。金のかかる趣味もないので、生活保護レベルの収入があれば快適に暮らせる。
 将来への不安、老後の心配はあるにはあるが、こればかりは金があっても家族があっても決して安泰できるわけではないと知っている。むしろ、健康が重要である。いまのところあちこちにガタは来ているものの、まずまず健康と言える。
 
 一つの職場である程度働いて仕事をそれなりにこなせるようになると、どういうわけか次に駒を進めなければという思いが募ってくる。「ここで自分ができること、やるべきことは終わった」という声が胸の奥から聞こえてくる。そうなると、次なる道も確かに見えていないのにリセットボタンを押してしまうのである。
 それは、思慮の結果ではなく、直感に近い。
 世間一般からすれば、愚か者なのだろう。

 しかし、この年齢になって気づいてきたのだが、個々の間では一見何の脈絡もないように思われる過去の仕事やそこで得た経験の一つ一つが、こうやっていくつか揃ってみると、ジグゾーパズルのピースが埋まっていくように一つの大きな絵が浮かび上がってくるような気がするのである。
 その図柄が何かはまだ明瞭にはなっていないが、「こうなるべくしてなったんだな」という受容の気持ちは、過去の自分、今の自分を肯定する力になる。
 思考よりも直感のほうが賢いのかもしれない。

 さて、新しい職場に飛び込むときは、自分をサラにして臨まなければならない。過去の仕事で得た地位や肩書きやプライドは邪魔にこそなれ役には立たない。それを振りまいていたら新しい職場に馴染むことはできまい。人間関係もうまくいくはずがない。

 新人というのは、何でもいいから勉強し、少しでも役に立つ人間になれるよう、ひたむきに努力しなければなりません。
 新人が我を張って「ああだ、こうだ」と不満をいうなど、あり得ない話なのです。
 人に何かを教わるときは、そのくらい徹底した意識が必要です。

 学校を卒業したら、もう学ばなくていいとでも思っているのでしょうか。
 そんなことは絶対にあり得ません。
 生きている限り、一生学び続ける。それが、人間の本来の姿です。

 
 幾つになっても学ぶことができる。誰からでも学ぶことができる。
 その幸せを噛みしめなければいけないなと思う。

 ブッダの教えは常に心強い指針となる。


● 本:『くじけないこと』(アルボムッレ・スマナサーラ著、角川SSC新書)

くじけないこと こういうタイトルの本を書店で手に取り買ってしまったのは、自分が今まさに「くじけ」そうになっているからである。
 「何に?」と言えば、現在通っているホームヘルパー2級を取るための介護の学校というかカリキュラムにである。


 初めの頃は、何十年ぶりかの学校生活にワクワクし、はじめて知る介護の世界にも、世代の異なる様々なバックグラウンドを持つクラスメートにも新鮮な思いを感じ、そこそこ張り切って通っていたのだが、だんだんしんどくなってきた。


 原因の一つは、体力・気力の低下である。
 6時間同じ教室に閉じ込められて机に座っていること(もちろん休み時間はある)が、これほどしんどいとは思わなかった。よく中学・高校時代は来る日も来る日もこれをやっていたなあと感心する。その上、放課後には部活動なんかもやっていたのだから、元気がありあまっていたのだろう。
 当初は、授業がすんだら週二回はジムとプールに通って体力づくりを、週一回はボランティアを、などと目論んでいたのだが、ひと月もせずに挫折してしまった。
 とにかく、疲れるのである。
 頭はぼうっとして授業がなかなか吸収できないは、目は老眼入ってきてしょぼしょぼするは、肩は凝るは、腰は痛むは、風邪はひくは、満身創痍である。夜になると、両足にびっしょり汗をかいて夜中に起きてしまう。朝目覚めてもすっきりしない。どころか寝る前より疲れを感じている。更年期障害なのかもしれない。
 年を取ることのしんどさをまさに自分の体で学んでいる。

 もう一つは、集団生活の息苦しさ、うざったさである。
 もともと集団生活は苦手だったのだが、どうも忘れていたらしい(苦笑)。
 自分と同年代が半分、自分より若いのが半分くらいのクラスであるが、若者のノリについていけない。ついていきたいとも思わないし、ついていかなければいけないわけでもないが、授業中の私語はあたりまえ、実技でのおふざけはあたりまえ(ふざけすぎて設備の一部を壊したりする)、まるで中学校からそのままやって来たような感じなのである。「男っていつまでたっても子供?」なんて目を細めているレベルじゃない。
 見ているとどうも、今の30代あたりを境目に授業態度が変化しているような気がする。確かに40代の自分の学生時代はまだ先生の力が効いていて、授業中は簡単に私語できない空気があった。今の先生は本当にたいへんだろうなあ~と思う。
 小中学校とは違って、誰に強制されたではなく、自分から望んで介護を学びに来ているのだから(就職につながる死活問題なのだから)ちょっとは真面目に学べばいいのに・・・というのは通用しない。真面目とか真剣であることが「カッコ悪い」という風潮があるようだ。
 おそらく、彼らが生まれた頃から「お笑い」ばかりになってしまったテレビの影響が強いのだろう。何かにつけ冗談を言わなければならない、ウケなければならない、沈黙に耐えられないというある種の強迫観念に支配されているかのように思われる。
 一方で、いわゆる「空気を読む(KY)力」はなるほどたいしたものである。周囲の状況や雰囲気をとっさに読んで、そこに自分を合わせていくのがうまい。孤立しないように、浮かないように気を使う。

 こういった力学が作用している教室の中では、本当に重い悩みを抱えている人やマイノリティは生きづらいだろうなあ~と推測できる。いや、実際には、誰もが何らかの悩みや不安を持っているはずなのだが、そうした他人の暗さや重さや弱さと向き合うスキルというか根性というか耐性を欠いているような気がする。それは、逆に言うと、運命のいたずらで自分がもしそういう立場になったとき、非常に弱いということだ。自分自身の重さや暗さと向き合うことができないし、周囲を信じ助けを求めることもできないからだ。
 そう言えば、ちょっと前にNHK教育テレビで「一番の親友には自分の悩みを打ち明けられない」という十代の声を聴いた。むしろ、顔も名前も知らないネット上の相手のほうが安心して何でも相談できるのだという。
 老人介護なんて、つまるところ人の弱さ・暗さ・重さと向き合う仕事だと思うが、大丈夫なんだろうか?

 とは言うものの、そうした息苦しさ、うざったさを感じてしまうのは、自分もその力学の中に埋没している証拠である。私語を注意するでもなく、おふざけをたしなめるでもなく、クラスの中で「どこまで自分を出すか」考えている自分がいる。
 やれやれ・・・。 


 くじけることは、自分の考えたこと、あるいは思い込みにしがみついた瞬間に起こります。なぜなら、物事はもともと思い通りにいかないものだからです。
 では、自分の思考から、どのように離れればいいのでしょう。
 思いつめて出した結論ではなく、客観的に自分の立場や考え方を捉えてみることです。そうすると、今まで見えていなかった解決策が見つかったりするものです。

 この世で何が完璧ですか。変わらないものなんかが、何かあるでしょうか。不完全な自分が、不完全な知識で、不完全なデータに基づいて、最終判断して安心するとは、どういうことでしょう。
 人生は「とりあえずの判断」にしましょう。これが、くじけない方法です。


 はっきり言います。無常を認める人にとっては、衰えて死んでしまうことも楽しい出来事です。


 すべてが無常であることを知り、楽しみがその瞬間ごとのものであることが理解できれば、すべての変化を受け入れられるようになります。無常を知る人は、決してくじけません。


 キーワードはやはり「無常」。
 固定的なものは一つもなく、すべてが変化する。
 うまく成し遂げたところで、それもまた崩れる。
 失敗したところで、それもまた過ぎ去る。
 人との出会いも然り。

 考えすぎるからくじけそうになるのだろう。
 結果にこだわるから不安になるのだろう。
 自我を張るから疲れるのだろう。
 目の前のことをできる範囲で、結果に頓着せず、できれば楽しんで、片付けていくよりない。

 

● 講演:「気づき」の迷宮 ~サティの実践とは何か?(演者:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

 テーラワーダ仏教協会の月例講演会。
 会場は代々木にあるオリンピック記念青少年総合センター。

 スマナ長老の話を聞き始めて丸3年になるが、最近話の内容が高度と言うか、濃いと言うか、あけすけと言うか、いよいよもって仏教の核心にずばり踏み込んでいくような大胆さと迫力とを感じる。どうも3.11以来、その感じが強まっているような気がしてならない。ひとりひとりが悟ること、変容することの重要性、緊急性が増しているとでも言うかのように。やはりマヤの予言は実現するのか?(笑)
 それとも、常連の多い聴衆者のレベルがそれだけ上がってきているのだろうか。
 いずれにせよ、聞くたびに焦燥感にかられる。

 今回の話も実に深い、実に鋭い、実にシビれるものであった。
 サティ(気づき)の重要性を説明するのに、スマナ長老がとっかかりとして持ち出したのは、なんと「この世の仕組み」「認識の仕組み」「生命の仕組み」という大がかりなテーマであった。
 考えてみたら、すごいことだ。開口一番、「はい、これからこの世の仕組みについて話します」なんて、誰にでもできることではない。(スマナ長老が実際にそう言ったわけではない。念のため。)

 
○ すべての生命の認識(知覚)システムは、幻覚をつくる(捏造する)ようにできている。

○ 存在(世界)とは、認識システムによってとらえた情報を主観で組み合わせて作り出したもの(=幻覚)である。

○ 認識システムは、動物・植物・昆虫・人間の別をとらず、一つ一つの生命によって異なるので、「私」の世界と「他人」の世界とが異なるのが当然である。「私」の世界を「他人」が知ることも、またその逆も、不可能である。

○ 「私」は、幻覚を事実と錯覚してしまい、それにとらわれてしまう。それによって「苦」が起こる。

○ 幻覚(捏造)が起こるのは、六門(眼・耳・鼻・舌・身・意)に絶えず入ってくる、色・声・香・味・触・法という情報(データ)を処理する仕方が間違っているため。

○すなわち、
 六つの門に情報が触れる
       ↓
 「感じた者」が概念(想)をつくる
       ↓
 概念ができたら思考する
       ↓
 この思考が捏造する
       ↓
 過去・現在・未来にわたって捏造された概念を適用する。

○ アジタ行者とブッダの問答
 アジタ: 世は何に覆われている?
 ブッダ: 無明によって覆われています。
      (六門からの情報により捏造された幻覚が事物の本然の姿を覆い隠している)
 アジタ: 人はなぜそのことが分からない?
 ブッダ: 疑いと放逸とがあるからです。
 アジタ: この無明の状態を固定してしまうものは何か?
 ブッダ: 妄想の回転です。
 アジタ: その結果起こる危険とは?
 ブッダ: 苦が起こることです。
 アジタ: あらゆる方向から、絶えず流れ(=情報)が入り込む。どうすれば止められる?
 ブッダ: サティ(気づき)がこの流れに対する堤防です。智慧によって無明がなくなります。


 と、やっとここでサティが出てくる。
 仏教におけるサティとは、「(情報の流入→捏造)という大いなる津波に対して堤防として働くものであり、サティは生命そのものの問題である」と長老は言う。「生きるとは知ることであり、知るとは捏造することです。」

 つまり、我々(生命)が生きるとは、それぞれの認識システムを使って捏造した世界(幻覚)を瞬間瞬間作り出していることであり、幻覚の世界に「私」をもって生きるとき、絶え間のない「苦しみ」が生じるのである。
 「苦しみ」から離脱するには捏造をやめること。六門から入ってくる情報を、次の段階(概念を作る、あるいは思考が始まる)にまで持っていかずに、即座に楔を打つ。
 その楔こそサティなのであろう。 

 こうしたことを「頭で理解する」ことと、実際に「体験する」こととは違う。体験してこそ納得し確信が持てるのだから。心が裏返るのだから。体験するためには、やはり修行=瞑想が不可欠である。
 自分は、頭では理解しているつもりなのだが、なかなか悟れない。

 やっぱり、精進が足りないのだろう。
 

● 怒りと欲 本:『怒らないこと2』(アルボムッレ・スマナサーラ著、サンガ発行)

 怒らないこと2012年最初に読んだ本。

 自分もかなりのスマナファン、もといブッダファンであるのは認めるにやぶさかでない。

 この本はベストセラーとなった『怒らないこと』の続編であり、この本自体もベストセラーとなった。
 そのことにちょっと驚いた。
 スマナ長老のいずれかの著書が遅かれ早かれベストセラーリストに載るであろうことは予想していたが、それが『怒らないこと』であるとは思わなかった。
 世の中の人は、それほど日々「怒って」いるのであり、怒る自分を「どうにかしたい」と思っているがゆえのベストセラーなのであろうが、周囲がそんなふうであるとは思っていなかったのである。
 一昔前は、路上でも電車内でも飲み屋でも顔を真っ赤にして怒っている人、声を荒げて喧嘩している人を頻繁に見かけたものであるが、ここ最近目にすることがほとんどなくなったし、職場を含む自分の周囲で感情をむき出しにして怒る人も少ない。引きこもりがちな自分の生活のせいもあろうが、日本人はよく言えば「冷静に、我慢強く、おとなしく」、悪く言えば「無感情に、内向的に、臆病に」なっているように思われる。
 なによりも自分自身、最近ほとんど「怒った」という記憶がない。

 愚痴を言う、ケチをつける、皮肉を言う、批判する、イライラする、ムッとする、あきれる、ということは多々ある。これらも、もちろん「怒り」には変わりない。が、自分の中で抱えきれなくなるほどの感情には肥大しない。直接的にその原因となった対象に向かって、感情的なふるまいとなって跳ね返ることもない。暖炉に花瓶を投げつけたスカーレット・オハラや、ちゃぶ台をひっくり返した星一徹がよほど新鮮である。
 自分の中に怒りをため込んで、便秘状態になっているのに、そのことにすら気づいていないのかもしれない。いや、もっと悪いことに、行き場のない怒りのエネルギーが自己破壊に向かっている可能性だってある。
 くわばら、くわばら。

 大体、昔から他の人が「怒り」を感じるような場面で「哀しみ」を感じることの方が多かった。
 また、怒ってもそれが長続きしない。怒りの感情を自分の中に持ち続けている気分の悪さに自分自身が参ってしまうからだ。復讐や敵討ちは自分には向かない。愛する家族を殺害された遺族が、犯人の死刑を求めて、何もかも投げ打って残りの人生をかけて闘いに身を投じる姿は、無理もないと思うし、事件の真相と犯人への適切な処遇を求めることには大いに同感するけれど、怒りという原動力でそれをやり続けることは自分にはおそらくできないだろう。
 怒るのにも才能があるのかもしれない。

 自分にとって問題の多いのは、いつでも「怒り」よりも「欲」であった。
 欲に振り回されて、ずいぶん人生を棒に振ってきたと思う。まあ、「人生とは結局、欲に振り回されることである」と言えないこともないが・・・。

 であるから、この本の中で、スマナサーラ長老がこう述べているのにヒヤっとさせられた。

 「怒り」のバージョン違いに「欲」というものがあります。「苦」を感じると「怒り」が起こりますが、そのとき、「これがなくなってほしい、こうなってほしい」と希望します。この「ほしい」に焦点のあたった感情が「欲」です。
 たとえば、お金がない状態でいるとします。「なんでお金がないんだ」と思っているあいだは怒りの感情です。それが、「大金持ちになりたい」というふうに先を意識すると「欲」になります。今の状況・現実に焦点をあてると「怒り」です。その現実がなくなった状況を妄想すると「欲」です。現在を見るか、将来に期待するかという差で、怒りか、欲が生じるのです。

 つまり、自分には「怒り」が少ないのではなくて、「怒り」が「欲」に変じているだけということだ。しかも、現実を見ていないというおまけまでつく。
 う~む。とすると、「怒り」を長く抱えていられない性分が、かえって「欲」を強めているのかもしれん。

 新年早々のショック。




●  枝に座ってその枝を伐採することはできない 講演:『嫉妬しないこと 誰かの美徳を喜ぶこと』(講師:アルボムッレ・スマナサ-ラ)

代々木からの富士山 12/18開催、テーラワーダ仏教協会の月例講演会。
 最近は満席続きで、予約必須になっている盛況ぶり。
 代々木のオリンピックセンターの窓から見える夕映えの富士山がきれいであった。

 いくつか心に残った言葉を羅列する。
 
○ 嫉妬は怒りのあまたある顔の一つ。自分の無能に対する怒りが「嫉妬」。一方、自分の失敗に対する反抗が「後悔」。

「枝に座って、その枝を伐採することはできない」
 貪瞋痴(どんじんちー欲、怒り、無知)も煩悩も心の本能(土台、精神的基礎)なので、そもそも「自我」がそれらを無くすことは無理な話。「自分」で「自分」を治そうとすることは誤り。

○ 貪瞋痴は心の本能であっても、常にいっぺんに機能するわけではない。状況によって悪い面が表れる。しかし、繰り返し同じ感情が起こると、心はそれに慣れてしまい、「性格」となる。

○ 欲や怒りが成長や発展の起爆剤となるというのは邪見。

○ 嫉妬の解毒剤は「喜び(ムディター)」
 他人を観察して自分の中に「喜び」が生じるように、敢えて、おのれの見方にバイアスをつけるのがコツ。これは「常に喜びや楽しみを求めている」という生命の法則にかなっているので、「正思惟」である。

○ 嫉妬を解毒する「美徳発見の探検」のやり方
1. 自分が気に入っている相手を何人か選ぶ。(性欲や愛着を起こすような相手は避けること)
2. その生命の善いところ(美徳、長所)を思い浮かべ、心の中で微笑んでみる。
3. その相手がもっと幸せになったらいいなあと思う。
4. 短所は無視する。長所を拡大する。相手が喜びを感じることを調べて共感する。


 いつもながら、明快で、歯切れ良く、ユーモアに縁取られた講演であった。
 不思議なことには、いつも、自分がまさに今抱えている問題や疑問に対する答えが示されるような気がするのである。まるでスマナ長老が自分の状況を透視しているかのように・・・。

 ところで、「生きることは苦」「すべては無常」という鉄壁の法則をとことん悟るためにテーラワーダ仏教徒は修行しているわけであるが、これと上記の「生命は常に喜びや楽しみを求めている」という法則は一見矛盾する。

 この矛盾を解く鍵こそ、「無知」であろう。
 生きることは本来「苦」にほかならないのに、そのことに気づかない、そのことを認めたがらない。それゆえに、生命は喜びや楽しみを求める。そもそも、喜びや楽しみを求めるということ自体が、「生=苦」のまぎれもない証拠であるのだが・・・。

 無知により仮りの喜びや楽しみを求める人々に、あえて共感し、その喜びの成就を願う。自分自身はそれが「苦」であり「無常」であると認識していても・・・。


 それが「慈悲」なのだろうか。 


● 本:『小さな「悟り」を積み重ねる』(アルボムッレ・スマナサーラ著、集英社新書)

001 よく本を出す人である。

 前に書いたものの改定新版を別にしても、毎月数冊ずつ新著が出ているのではないだろうか? 日々の講話がそのまま本になるからであろう。
 在日30年、日本語の能力も驚くべきものだ。
 母国語とは異なる国に行って、仏教という壮大にして深遠な思想をその国の言葉で大衆に伝えるという、想像するだに難儀な仕事をやって、今のところ成功をおさめているのであるから、フランシスコ・ザビエルや欧米に禅を広めた鈴木大拙に比肩できるような天才と言ってよいのだろう。
 その場合、日本がもともと大乗仏教の国であったということは伝道に際してプラスにも働いただろうが、テーラワーダ(原始仏教)と大乗仏教の齟齬ゆえに逆風もすさまじかった(すさまじい)だろう。日本の伝統仏教を信奉する者にしてみれば、「お前たちの仏教は偽物だ。仏の教えではない」と批判されているようなものだからである。
  
 とはいうものの。
 キリスト教の国、とりわけアメリカやラテン国家でテーラワーダを伝道することに比べれば、まだ日本はやりやすいと思う。それらの国では、国民の有する価値観や人生観が、東アジアの伝統的なそれとは違いすぎるからだ。

 テーラワーダ、というよりブッダの教えは、近代西欧文明の志向するものとはほとんど真逆に位置する。それは、近代西欧文明の出発点が、ルネサンスの人間中心主義やデカルトの「我思う、ゆえに我あり」にある以上、どうしてもそうならざるをえない。
 なぜなら、ブッダの教えは生命中心主義であり(最終的には生命からの脱却を目指しているが)、自我の否定にあるからだ。

 現代日本に生活する我々の価値観や人生観は、すっかり近代西欧文明に洗脳されている。その中には「平等」や「人権」のように大切な概念もある。が、一方、個人個人の欲望の追求と実現こそが幸福であるとする考え方が、終わりのない戦争と貧富の拡大と環境悪化と人権侵害と深い孤独を生んでいるのも事実である。

 この本で語られる言葉が、我々が通常正しいと思っている概念をすべてひっくり返していくように見えるのは、スマナサーラ長老が稀代の天邪鬼のように思われるのは、戦後日本人がいかにアメリカナイズされてしまったかの証左なのである。
 たとえば、こんなふうだ。

 
・ 人が考えるのはバカだからである。
・ 運命という考え方は間違っている。
・ 人生は尊いものではない。
・ あきらめる力が幸福をもたらす。
・ 自分探しは最後に自分を見失う。
・ 生きることに本来自由はない。
・ ポジティブすぎると人は成長しない。
・ 人間は本来自立できない生き物である。
・ 豊かすぎると人は奴隷の生き方を強いられる。
・ 愛はほんとうは悪いものである。
・ 「何もしない」という刺激こそ求めよ。
・ 過去の経験と記憶は思っているほど役に立たない。
・ 矛盾を当たり前として生きる。

 
 かくのごとし。

 心に留めるべきは、近代西欧文明によって洗脳され条件付けられた「自分」に気づいて、そのプログラムを解除し、新たに仏教というプログラムをダウンロードせよ、と言っているのではないところだ。

 プログラムをダウンロードすべき「自分」などそもそも存在しない、と言うのである。



 

● 講演:「人生はつらいことだらけだけど」(演者:アルボムッレ・スマナサーラ)

 日本テーラワーダ仏教協会主催の月例講演会に参加。
 東京代々木・国立オリンピック記念青少年総合センターにて。

 講師のアルボムッレ・スマナサーラは、スリランカ出身の上座仏教(テーラワーダ)長老である。
 『怒らないこと』(サンガ)、『心がスーッとなるブッダの言葉』(成美文庫)などのベストセラーを含む膨大な数の著書がある。押しも押されもせぬ日本の上座仏教界のリーダー的存在、というか今や日本人の精神的指導者の一人と言ってよいだろう。
 300名定員の会場はほぼ満席であった。

 今なぜスマナサーラ長老がこれだけ人気を集めるのか。今なぜ上座仏教なのか。

 会場に集まった一人一人に、それぞれの理由と求めるものがあるのだろう。
 だが、共通しているのは、既成の仏教教団(いわゆる大乗仏教系)では飽き足らないものを感じていること。かといって、キリスト教やイスラム教は文化基盤があまりに違いすぎる。近代以降の新興宗教は、統一協会やオウム真理教の事件以降、どうしても「うさんくさい」感じをぬぐいきれない。でも一方で、心の拠り所はほしい・・・。
 そこへ颯爽と現れたのが、スマナサーラ長老であった。

 もっとも、上座仏教自体は、明治時代に主要な経典が翻訳され研究されるようになっていたし、母国で上座仏教を信仰する在日のタイやミャンマーの人々を中心として、各地にお寺やサンガが存在してはいた。
 しかし、広く一般の日本人に紹介され、浸透するきっかけとなったのは、やはり、すぐれた語学力と他文化理解のセンスを持ち、スピーチ能力に長け、カリスマ性を宿すスマナサーラ長老の来日(1980年)、そしてその教えを広めるべく、1994年に日本テーラワーダ仏教協会が設立されたことが大きいだろう。

 「1994年」という年は、もしかしたら、第2の仏教伝来の年として、将来の歴史教科書に掲載されるかもしれない。そのくらい、大乗仏教と上座仏教は、別物なのである。

 近代化の進む中、廃仏毀釈して国家神道への道を歩み出した日本人は、敗戦で「神」を喪った。その後、「金」という神様に乗り換え、経済復興を果たしたけれども、バブル崩壊でその信仰も潰えてしまった。そこへ起きたのがオウム真理教事件であった。これで、決定的に宗教は「禍々しいもの」「うさんくさいもの」に堕ちてしまった。
 もはや特定の宗教を信仰していること自体が、他の人には大っぴらには言えないような「隠れキリシタン」ならぬ「隠れ信者」にされてしまったのである。何を信仰するか、あるいは信仰を持つ持たないの是非は別として、これは国際的には異常なことといっていいだろう。
 そうして、隠れ信者以外の多くの日本人は、確かな宗教的基盤を持たない存在の相対性の不安の中に置かれることになった。鬱や統合失調やパニック障害など、2000年以降の日本人の精神疾患の増加はこれを抜きにしては考えられないと思う。
 そこへ不意打ちしたのが、今回の震災・津波・原発事故である。

 上座仏教は、希望や目標を失い暗い森をさ迷う日本人に、新たな希望の光を、足場とする確かな梯子を与えてくれるのだろうか?

 スマナサーラ長老は言下に否定する。
「夢や希望を持つこと自体が大きな間違い」
「夢や希望という幻想と、現実とのギャップが、不満・落ち込み・怒り・妬み・憎しみ・失望・嘆きの原因」
仏教は信仰ではない。論理的で実践的な心の科学。仏教は理解し、実践するもの」
「生きることに意味はない。存在というのはもとから無価値」

 1500年の歳月を経て、我々日本人がはじめて知った仏教の真髄、お釈迦様の言葉は、想像を遙かに超えたとてつもない言説のオンパレードであった。
 それは、コペルニクスも真っ青の、存在意義の大転換を我々に迫る。
 これだけの哲学(哲学と言っていいのかどうかはわからないが)は、空前絶後だ。19世紀の西洋人が仏教を理解できず、「虚無の信仰」と怖れたのもまったく頷ける。

 果たして、どれだけの日本人が仏の教えを理解し、実践し、納得し得るだろうか?
 正直、まだ自分はその衝撃を受けとめ切れていない。
    

テーラワーダ仏教協会のホームページは
http://www.j-theravada.net/


2012秋の関西旅行 002

● 受動意識仮説の衝撃 本:『脳はなぜ「心」を作ったのか』(前野隆司著)

前記事の続き。

心と脳との関係についての3つの見解。

1. 心(意識)と脳(体)はまったくの別物である。(心身二元論)
2. 脳が心を作り出した。心(意識)は脳(体)の産物である。(身的一元論、唯物論)
3. 心が脳を作り出した。脳(体)は心(意識)の働きによって生み出された。(心的一元論、唯心論)

 偏見を承知で言うと、1は文系の人が、2は理系の人が、3は宗教系(スピリチュアル)の人が抱きやすい考え方だと思う。
 そして、1と3は、ある意味、魂の存在を信じることや、肉体上の死後の生を夢想することにつながる。2は、「死んだら終わり。はい、それまでよ~。」である。

 自分はどうか。1と3の中間くらいである。(2というわけではない。1のような気もするし、3のような気もするってことだ)
 もちろん、なんらかの根拠があるわけではなくて、「2が本当だったら、なんか嫌だなあ~」と思うからである。
 なんで嫌かと言うと、いまある「私」という意識は肉体によって産み出されたものにすぎず、肉体の崩壊=死とともに消失し、あとには何も残らないというふうに考えることが、「つまらない」「冒涜的」「屈辱的」「人間の尊厳を壊しかねない」「社会的にリスキー」と思うからである。要は「わたしがかわいい」のである。
 「社会的にリスキー」というのは、天国も地獄も来世の存在をも否定することは、「生きている間に好き勝手しよう」という刹那的な考えを蔓延させると思うからだ。21世紀の現代でも、やはり人々の心のどこかには天罰とか因果応報とか自業自得という観念が巣くっている。(例:震災についての石原慎太郎発言) それが、やけになって他人を傷つけたり自殺したりせずに、なんとか最期までまっとうに生き抜くためのよすが、砦となっているからだ。

 しかし、「そう思いたい」という願望や幻想、「そういうふうにしておいたほうが無難」といった方便と、科学的事実とは、分けて扱われなければなるまい。

 前野は、徹底した身的一元論者。2番である。
 茂木健一郎は、著書を読む限り、世に華々しく登場した最初のうちは明らかに2番だったが、徐々にあやしくなってきて「魂」とか言い始めている。今では1番に近いのではないか。(なるほど、この人には文系に対する憧れのようなものを感じる。)
 
 ところで、ここまで、「心」と「意識」を同一のもののように扱ってきたが、前野の見方に従って、次のように分別しよう。これは、脳科学者の松本元の説だそうだ。
 
心を成り立たせる部品は5つ・・・・ 知(知性、知力)、情(感情)、意(意図、意思決定する働き)、記憶と学習、意識 

 これ以外に「無意識」がある。無意識を心に含めるかどうかは微妙なところだ。無意識だけで生きている生物、たとえば微生物に「心がある」とは言いにくい。

 さて、意識とは、「知・情・意・記憶と学習」全体を主体的に統合する作用だと一般に考えられている。これは普段、我々が「私が知る」「私が考える」「私が感じる」「私が意図する」「私が決定する」「私が記憶する」「私が思い出す」「私が学ぶ」と認識していることを考えれば、首肯できるところだ。5つの部品のうち、上の4つはどれも「私」すなわち意識において起こっていると実感できる。

 知・情・意・記憶と学習については、脳科学の進歩によって、ある程度、そのシステムが解明途上にある。少なくとも、脳のどこの部分で働きを担当しているかがマッピングされている。
 一方、意識については、一体どこにあって、どんなふうに働いているのか(どのような生化学的作用が意識を立ち上げているのか)がまったくわかっていない。
 なぜ、科学的な法則で説明可能であるはずの肉体(脳)から、科学的にその存在すら証明できない心(意識)が生まれたのか。どうやってそれは他の部品を統括できるのか。「私」が認識する対象の生々しさ(夕日の赤、鳥の声、お好み焼きの匂い、アイスクリームの甘さ、絹の下着の肌触り、いわゆるクオリア)は一体なぜ、どうやって生まれるのか。「私」という感覚はなぜ、どうやって生まれたのか。
 わからないことだらけである。
 まさに、お手上げ。

 この人類最大の謎の一つに、前野が出した答えが、「受動意識仮説」である。

 自分とは、外部環境と連続な、自他不可分な存在。そして、「意識」はすべてを決定する主体的な存在ではなく、脳の中で無意識に行われた自律分散演算の結果を、川の下流で見ているかのように、受動的に受け入れ、自分がやったことと解釈し、エピソード記憶をするためのささやかな無知な存在。さらに、意識の中でもっとも深遠かつ中心的な位置にあるように思える自己意識のクオリアは、最もいとしく失いたくないものであるかのように感じられるものの、実は無個性で、誰もが持つ錯覚に他ならない。

 
 クオリアとは、エピソード記憶のどこを強調するかを決め、索引をつけるためのものなのだ。
 
 <私>とは、記憶とも「知」「情」「意」の多様さとも関係なく、ただ単に、ピュアに、「<私>というクオリアは<私>である」、という決まりが脳の中に定義された結果、作り出されたクオリアに過ぎないと考えられる。 (標題書より、以下同)


 ポイントは、心と体を合わせもった途轍もなく見事な「自分」というシステム全体の、主役であり、主体でもあるとこれまで考えられていたイシキ君について、『いや、そうではない。あいつは実は主役ではなくて脇役に過ぎない。本当の主役はムイシキ君だ。ただ、上演の関係上、都合がいいからイシキ君には自分が主役だと思わせておこう。』というところにある。
 真の主役は、舞台と客席と舞台裏で起こるすべてのことを把握して統括管理している演出家ムイシキ君である。そして、イシキ君の正体はと言えば、演出家の思うがままにしゃべり演じることができる、イケメンだけが取り柄のスター気取りの看板役者のようなもの。

 無意識のできごとを単純化して、錯覚し、わかったような気になっている井の中の「私」というのが、生命の真実なのだ。

 一体全体、なぜ、生命は、自然は、そんなことをしたのか?

 「無意識」の小びとたちの多様な処理を一つにまとめて個人的な体験に変換するために必要十分なものが、「意識」なのだ。「意識」は、エピソード記憶をするためにこそ存在しているのだ。「私」は、エピソードを記憶することの必然性から、進化的に生じたのだ。

 生物は進化の過程において、記憶力を発達させてきた。それは生き残るために有利な条件だからだ。サケが生まれ育った川に帰ってくるような本能による記憶装置だけでは、環境の大きな変化に対応できない。敵に襲われた場所と時間と状況を覚えておくことができなければ、予防することができず、また同じ状況を繰り返し作ってしまう。虫歯の痛みを覚えておけなければ、毎食後に歯を磨くという面倒くさい行為をやり続けることができず、健康を害してしまう。
 記憶力が優れている類人猿ほど、高い確率で生き残っていく。
 そして、記憶をエピソードとして、「物語」として脳内に残すことができるようになったのが人間なのである。まさにそのために、物語を体験し記憶に残すために、巧まずして生じたのが「意識」であり、「私」なのである。
 つまり、単に記憶力が向上した結果として、「意識」や「私」が生まれただけであり、そこに何も「ミッシングリング」とか、宇宙人による類人猿ロボトミー(脳手術)を持ち出してくる必要はない、ということだ。

 どうだろう?
 
 コロンブスの卵というか、コペルニクス的転換というか。
 あまりにも単純な説明なので、かえって真実らしい気がしてこないだろうか?
 意識に関するさまざまな難題、ゴルディアスの結び目を一挙に断ち切る説ではないか。
 自分は一読、感嘆の声を挙げた。

 この説のなんともビックリするところは、これがまたしてもブッダが言ったことに符合していることだ。

諸法無我。
「私」というのは幻想に過ぎない。心と体の中のどこを探しても「私」の実態はない。

 ブッダの言葉を現代までそのままの形で伝え続けるテーラワーダ仏教の長老アルボムッレ・スマナサーラはこう述べている。

人は、感じたものは、認識します。そして認識があるから、「私が知った」ということに自動的になるのです。「私は知った」という気持ちは一生続くので、「私」という概念、「私に魂がある」という強烈な誤解が、この「受(感覚)」から生まれるというわけです。この「感じる」というはたらきから、「私」という考え方が出てきます。なにかを感じるから「私はいる」と思ってしまうのです。(『心の中はどうなってるの?』サンガ) 


ブッダ、すげえ~!!
 

 前野がブッダの説いたところと同様の結論に至るのは、もはや不思議でもなんでもない。

あぁ、何十億人もの我が人類は、何千年もの長い時間、死を恐れ続けてきた。それは<私>という存在のこのあまりのはかなさを知らずして、その存在の終焉を恐れていたということだったのだ。なんという無知。
・・・・・私たちが理解したいと願い、失うことを心から恐れていたものは、なんと、無個性でだれもが持つ、単なる<私>という錯覚のクオリアだったのだ。

 ただし、前野説と仏法には大きな違いがある。

 ブッダは輪廻転生を伝えた。生まれ変わりのシステムから抜けることを「解脱」と言ったのである。これは、肉体の死後もなんらかの現象が引き続いていることを含意している。ブッダはそれが何であるか言明していないようだが、少なくとも「私」でないことだけは確実である。ともあれ、ブッダは一元論者ではない。
 もう一点。
 前野の説は、「すべてを決定しているのは無意識である」と言い切ってしまうことで、結果的に宿命論に陥ってしまいかねない。なにしろ、「私の意志」すら、私のものではなく、無意識による民主主義的多数決の結果というのだから。人間が向上するも堕落するもすべて無意識のせいになりかねない。
 それとも、無意識は常に個人や社会の向上を、種としての生き残りを目指して良心的に働いているはず、という前野自身の楽観主義のなせるわざか。
 現実の社会を見る限り、どうもそうとは思えない。
 ブッダは、輪廻からの解脱方法として、あるいは幸福への必須条件として修行や智慧や慈悲を重んじた。なぜなら、人間が何の努力もしないで心の赴くがままに(無意識のなすがままに)生きていれば、人も社会も必ず堕落すると考えていたからだ。
 ブッダは宿命論者ではなかったのである。


 ひとつだけ確かに言えることは、前野説を受け入れるための最大の反対者は、二元論者でも唯心論者でもなく、「私(意識、心)」そのものだという点である。
 有史以来、人類が、それこそ古今東西の偉大なる宗教家や哲学者や科学者が、「私」や「心」について考え続けた挙げ句、最後に到達した答えが、「私も意識も心もイリュージョン(錯覚)である。そもそも、そんなことを考えること自体、無意識のしわざであって、残念ながら、あなたはそれに気づかないで、自分が高尚なことを考えていると錯覚しているだけのオメデタい奴にほかならない。」では、あまりにお間抜けではないか!
 いったいどんな卑屈な「アイデンティティ(私)」が、この結末を素直に受け入れられるだろうか?


前野の受動意識仮説。
トンデモ本と取るか、意識の本質に迫る画期的なパラダイム転換の書と取るか。


より深い洞察を期待して、次作を待ちたい。




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