世界一流の歌劇場で一ヶ月前にかかったばかりのオペラのライブ映像を、日本にいながら映画館の大スクリーンで観られるという夢の企画<ライブビューイング>も早10周年だとか。
本当のライブに較べれば、感動はおそらく1/30にも満たないだろうけれど、現在最高の指揮者・演出家・歌手陣・管弦楽団・合唱団からなる最高級にして最先端の舞台を、たった3600円で味わうことができるのだから、文明の進歩に感謝するばかりである。


世界の桧舞台でこの役を25年歌い続けているだけあって、履き慣れた靴のようにすっかり馴染んでいる感がある。1988年に同じメトで収録したライヴ映像(VHSで観た←懐かしい!)では、あの(!)パヴァロッティ、シェリル・ミルンズ、エヴァ・マルトンら往年の大歌手に伍して、まったく引けを取らない歌唱と演技を披露し、コソットの後継者が現れたなと思ったものである。
ただあの時は彼女も若かった。25年を経た現在、デンとした腰回りで貫禄たっぷりによたよた歩く中年女の姿は、京塚昌子か森公美子のよう。つまり肝っ玉母さんになった。アズチェーナを演じるにもっとも欠かせない要素である<母親>がそこにいた。
であるがゆえに、単純に、目の前で母親を焼き殺された可哀想な娘、無残にもその手で実の息子を焼き殺してしまった愚かで悲惨な女、ルーナ一族への復讐を誓い、復讐を成し遂げた執念深い狂気の女、という暗くて陰惨なイメージだけでなく、敵の子供を長年育てるうちにわが子のように愛してしまった、中国残留孤児の育ての親にも似た「人類の母」たるイメージが付与されたのである。その意味では、ほかならぬ今こそが、ザジック=アズチェーナの完成型であろう。
アズチェーナが登場してすぐに歌う第2幕の有名なアリア「炎は燃えて」は、聴いて涙するような歌では決してない。なのに、ここで自分は思いがけず落涙したのである。彼女が歌い演じるすべてに、母性が沁みわたっているからにほかならない。
むろん、レオノーラは母親ではない。恋人マンリーコと結ばれて間もないうちに、マンリーコを助けるために毒をあおって自害する。役の位置づけとしてはジュリエット(by裟翁)に近いだろう。最後まで<永遠の恋人>としてのイメージをとどめる。
それは、第4幕第1場のアリア「恋はバラ色の風に乗りて」から、修道僧の合唱「ミゼレーレ」を経て、カバレッタ「私ほどあなたを愛する者はいない」に至るシーンである。
ルイスに案内されて登場し最初の物哀しくも美しいアリアを歌うとき、まだレオノーラは「マンリーコの恋人」である。その後、僧たちの陰鬱な祈りの合唱を聴いて、彼女はマンリーコの処刑の近いのをまざまざと感じて恐怖に震える。悲痛の叫びを上げ続ける。そこへ、塀の中からマンリーコの声がする。
「僕を忘れないでくれ、レオノーラ」
かねがねネトレプコは他の追随を許さぬ素晴らしい美貌と声の持ち主であるとは思っていたけれど、表現の点では単調でつまらないと思っていた。が、いつの間にやら進化していたのだな。謹んで前言撤回する。METのシーズンオープニングの主役を務めるにふさわしいプリマドンナである。
必ずしもすべての女性表現者に当てはまるものではないが、少なくともネトレプコの場合、母親になったことが表現の幅を深めたのは間違いないようである。