KC3Z0001 5月12日(土)渋谷区立文化総合センター大和田さくらホールにて。

 この施設は渋谷駅から徒歩5分。天文台のドームの目立つ新しい建物である。さくらホールの収容人数は729名。6割方埋まっていたから450名ほどの参加か。

 ウェーサーカはお釈迦様の「誕生」「成道(悟達)」「般涅槃(死)」の3つのできごとを一度にお祝いする記念日で、5月の満月の日に行われる。(満月は25日)
 日本テーラーワーダ仏教協会が主催する年に一度のこのイベントが、自分にとって一年でもっとも重要な日になりつつある。出席するため、職場にしっかりと希望休を出しておいた。
 と言って、ブッダの誕生日や悟った日や亡くなった日を記念する意図は自分にはない。
 誕生日も含めて何かの記念日というのは基本的にナンセンスだと思っている。季節はめぐり暦は一年で一周するので、我々は時間が循環するものとどこかで思っている。だから、誕生日とか「○○の日」などというものをお祝いするのである。
 だが、時間は循環などしない。一方向に流れていくだけだ。同じ日など一日たりともない。昨年の5月12日と今年の5月12日には何の関係もない。月や星の位置関係ですらまったく同じと言うことはありえない。昨年庭に咲いたポピーと今年のポピーはまったく別物である。年齢という概念ですら本当は意味のないものだ。人の成長の度合いは個々人によって違うのだから。

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 自分がウェーサーカを大切にするのは、修行のための動機付けになるからである。たまに人為的にでもこういった区切りを設定して、スマナサーラ長老の話を聞き、渇を入れてもらわないことには、怠け心を払拭できないからである。

 最近、仕事のハードさを言い訳として、酒は飲むわ、瞑想はさぼるわ、と自分を甘やかしている。瞑想してもサティ(念)が続かず、知らぬ間に妄想に入り込んでいることが多い。
 現在進行中の片思いのせいもある。実際、恋愛ほど妄想の膨らむものはない。妄想から成り立っていると言っても過言ではない。相手が自分に示したささいな言動をもとに、それを客観的な事実として冷静に捉えるかわりに、自分にとって都合のよい物語をまたたく間に作り上げてしまう。満たされない思いは「苦」であるが、それすらも「喜」と感じてしまうほど、頭はバカになる。
 その意味で、恋愛ほど妄想の性質、自我の罠を観察(ヴィパッサナー)できる絶好の機会はない。それをネタに瞑想しようとチャレンジするのだが、やっぱりいつでも負けてしまう。相手の魅力がそれほど強いのだ。(ってバカじゃん)

 そんなたるみがちな自分を見通すかのように、今日のスマナ長老の話は、「釈尊の教えの基本」という、瞑想を習った頃の初心に自分を帰らせ、「お前少し頭冷やせよ」とのぼせや浮つきを取り除くような、心に今一度仏教という確固たる杭を打たれたかのような、力強く破壊的で叡智に満ちたものであった。
 そうだ。これが「本当の」仏教だった・・・・。


●講演の骨子
釈尊の教えの基本 ~信仰のかわりに確信~
1.生きることは苦である。
2.私たちは自分自身が作った鎖(煩悩)で束縛されて、自由はない。
3.私たちは幸福を目指して不幸の方へと進む。
4.他に頼って、助けられること、救われることを望んでいる。
5.自分が作った束縛を絶つことで自由を得る。智慧が生じる。
6.智慧こそが唯一の財産である。
7.智慧によって執着をなくすことにより、究極の幸福に達する。
8.究極の幸福は、「あの世」でなく「今」この世で体験するもの。 


130512_1557~01 一番最初の「生きることは苦」という仏教の根本命題を、我々はなかなか理解できない。理解したがらない。「だって楽しいこと、嬉しいこともあるじゃん」と思う。「生=苦」と認めてしまうと、よけい生きるのがつらくなるだけだと思う。希望がないと思う。鬱にでもなりかねないと思う。
 だから、なかなかその先に行けない。
 生まれつきハンディキャップをもっているとか、事故にあってカタワになったとか、愛する家族を誰かに皆殺しにされたとか、そんな心理療法や趣味娯楽では変えることのできない、時間が癒やすことのできない重荷を背負った人なら、「生きることは苦」はかえって受け入れやすいかもしれない。仏道へ入りやすいかもしれない。
 だが、若くて健康でエネルギーが有り余っていて、家族や友人にも恵まれ、将来が輝いて見える時に、「生きることは苦」は歯牙にもかからない空言だ。
 自分も若い頃はそうであった。20代の時、ブッダがどういうことを言っているか知ろうと思い、岩波文庫の『ブッダのことば』を手に取ったが、とても最後まで読めなかった。究極の悲観主義だと思った。「昔のインド人は本当に苦しみばかりの人生だったのだなあ」と思った。
 今はどうか。青春もとうに過ぎて、体のあちこちにガタが来て次第に老いが見えてきた現在、そして数々の希望がくじかれ、夢が破れ、活力も損なわれつつある現在、「生きることは苦」はずいぶんと受け入れやすい。
 老人ホームで働くようになって、一層その言葉は身に沁みる。これまでどんな境遇にあろうが、金持ちだろうが、地位が高かろうが、かつては美しかろうが、子供や孫に恵まれていようが、その生涯が様々な素晴らしい思い出に彩られていようが、今現在、日々心身を責めさいなむ「老い」と「病」と、遠からずやってくる「死」とに、誰もが囚われている。どんなに楽しい思い出も、誉れ高い業績も、認知症になれば意味はない。

 「生きることが苦」という事実は、もっと簡単に確認できる。
 我々は、「楽」をなくすには何もしなくてもよい。ベッドで寝ているのは楽だ。だが、そのまま寝続ければ、体は痛んでくる、心は退屈してくる。何もしなくても楽は消えていく。
 一方、「苦」をなくすには何かしなければならない。寝ているのが苦痛になったら、起きあがらなくてはならない。腹が痛くて苦しいのなら、薬を飲まなければならない。
 つまり、人間の基本設計は、常に「苦」を感じるようにできているということだ。「苦」にせっつかれて我々は「何か」をし続ける。それが生きるということなのである。
 であるから、スマナ長老が言うように、幸福の定義は「楽がたくさんあること」ではない。楽は必ず苦に転じるからだ。「何かを得ること」でもない。得た物は必ず失われるからだ。
 

幸福を正しく定義するなら、「苦しみがない状態」ということになります。 

 
 世間には、「有る幸福」と「有る不幸」、「無い幸福」と「無い不幸」の4つがある。
 人が一番求めるのは「有る幸福」である。何もかも手に入れた成功者を羨むのはそのためだ。一方、人が一番忌み嫌うのは「無い不幸」である。ホームレスが社会で一番貶められるのはそのためだ。
 「有る不幸」は、「不幸」という点では「無い不幸」とまったく変わりはないのであるが、どういうわけか人は「無い不幸」より「有る不幸」を選ぶ。「有る」=所有する、ということはそれだけ魅力的なのであろう。少なくとも他人と比較して優越感に浸ることができる。我々は「有ること=幸福」という観念――それは多分長い原始時代に培われたのだろう――に強く洗脳されている。だから、反射的に「無い=不幸」と思ってしまうのである。
 人が最も理解できないもの、到達しがたいものが「無い幸福」である。
 多くの人は、そんなもの負け犬の遠吠えくらいにしか思っていない。
 それがどんな状態か想像することすらできないので、「無い幸福」を選ぶくらいなら、むしろ「有る不幸」を進んで選ぶのが世間一般である。アル中でDVの夫と別れられない妻なんてその典型だ。
 「無い不幸」と「無い幸福」は、実は表裏一体である。外側から見た状況は、ほとんど一緒であろう。ホームレスは和訳すれば「出家」である。清貧をこよなく愛した聖フランチェスコと、隅田川周辺のブルーテントの住人は同じくらい「何も持っていない」。(実際にはブルーテント派の方がいろいろ所有している。)

 仏教は「無い幸福」を目指す道なのだと思う。

 しかるに、この恋は捨てがたい。
 どういった因縁が陰で働いているものやら。
 お釈迦様、どうか因縁を見極めるための執行猶予をください。(笑)