ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

ウ・ジョーティカ

● 私は苦しんで、そうして人間になっています。 本:『スノー・イン・ザ・サマー』(ウ・ジョーティカ著、魚川祐司訳)

 『自由への旅』を読んで、すっかりウ・ジョーティカ・ファンになってしまったソルティ。またもミャンマー仏教書ライブラリーよりダウンロード&プリントアウトし、毎日少しずつ読み進めた。

 この本は、80年代から90年代前半にかけて、ウ・ジョーティカ師が友人たちに書き送った手紙から編纂されている。師は1947年生まれであるから、30歳半ば~40歳半ばの知力・気力とも充実した、世間的に言うなら男盛りの脂の乗り切った頃に書かれた文章である。 
 そもそもが公表を前提としていない友人たちへの私信ということもあって、飾らない率直な表現、様々なテーマに関する個人的見解のストレートな表明、家族や友人たちへの惜しみない愛情と誠実さの発露――が特徴的である。僧侶としてのウ・ジョーティカ師ではなく、一人の人間としてのウ・ジョーティカの心の中を覗いているような気がするほど、書き手を身近に感じられる。
 また、古今東西のたくさんの哲学書や宗教書や心理学の本からの引用があり、師が並外れた読書家であることが伺える。インテリ中のインテリなのだ。

 一方、『自由への旅』は、師が50歳のときの講義の記録である。テーマも「ウィパッサナー瞑想」に絞られている。
 その意味で、二つの本を較べたときに、対照的な印象を受けるのは当然といえば当然である。
 が、そうした体裁上の違いばかりでなく、10年という歳月におけるウ・ジョーティカ師の瞑想者としての進化をどうしてもそこに感じざるを得ない。なんというか、筆致の無駄のなさというか、ある種の‘恬淡さ’を後発の書には感じるのである。枯淡の境地か。
 『スノー・イン・ザ・サマー』は掛け値なしに素晴らしい。仏道修行者(=マインドフルネスの実践者)必読の本である。仏教徒でなくとも、孤独や人生に悩む者もまた一読感じ入ることの多い名著であろう。これを書いた時点(年齢)におけるウ・ジョーティカ師の‘人として’の成熟は、畏れ入るばかりである。

 そして10年。
 それを超えてさらに進化していったのだ。
 それが可能なのがウィパッサナー瞑想なのだ。 


以下、引用。

 孤独というものは、自分の周囲に誰もいないことから来るものではなく、自分にとって重要であると思われる物事についてコミュニケーションがとれないこと、もしくは他者が認められないと感じるような見解を保持していることから来るものです。誰かが他の人よりたくさんのことを知っていたら、その人は孤独になる。
 しかしながら、孤独というのは必ずしも人付き合いと相反するものではありません。孤独な人ほど人付き合いに敏感な存在もありませんし、人付き合いが上手くいくのは、各個人が彼/彼女の個体性を心に留めて、自身と他者を同一化しない時だけだからです。

 あなたにできる最上のことは、心のいまある状態を、自身を責めたり正当化したりすることなく、それを違った状態にしたりそこから逃げ出そうとしたりすることなく、また後ろめたく思ったり恥ずかしく思ったりすることなく、認めて、気づいて、知ることです。

 自分自身と自分の生き方を本当に肯定できている時、はじめてあなたは、本当に他者を助けることができるのです。ですから、自分の心と深く繋がることが、とても大切なのですよ。

 私は、人々がどれほどさみしいか知っています。あなたがどれほどさみしいかも知っていますよ。私がどれほどさみしいかを、私は知っていますからね。私は自分の人生を、静かに、穏やかに、そして独りで暮らす仕方を学んできました。しかし、誰かと本当に心と心でふれあうことは、素晴らしいことだと思っています。
 私はたくさん苦しんで、それで僧侶になっています。
 私はもっと苦しんで、そうして人間になっています。

 私たちはそれぞれが、誰かが自分をさみしく感じないようにできるだろうと期待している。目的を果たす手段としての関係性は、常に失望に終わります。さみしさから逃げること。これが、私たちのほとんどが、ほとんどの時間を費やして行っていることです。

 真誠であり続けるためには、私たちは変わらなければなりません。きつくなり過ぎてしまった皮を脱ぎ捨てる蛇のように、私たちは自分の大好きな夢を脱ぎ捨てなければならない。きつ過ぎて息ができなくなったと愚痴をこぼす代わりに、より楽に自分が呼吸できるようにするために、私たちは古い皮を脱ぎ捨てて、新しい皮を育てなければならないのです。
 しかし、その新しい皮を脱ぎ捨てる時が来たら、ためらってはならないということも覚えておかねばなりません。いつだって、古い皮を脱ぎ捨てるというのは辛いことです。新しい皮は環境と接することに耐えられるほど、まだ十分に強くなっていないので、自分がとても脆弱で、ひどく感じやすい状態になってしまいますからね。




  

● 本:『自由への旅 ~ウィパッサナー瞑想、悟りへの地図~』(ウ・ジョーティカ著、魚川祐司訳)

 インターネットのミャンマー仏教書ライブラリーよりダウンロード&プリントアウトし、毎日少しずつ読み進めた。
 卓抜なる仏教解説書『仏教思想のゼロポイント』の著者、ニー仏こと魚川祐司が翻訳している。どうやらウ・ジョーティカ師は、魚川が私淑しているお坊さまのようである。

 ウ・ジョーティカ師はムスリムの家庭に生まれ、カトリックのミッション・スクールに通い、大学では電気工学を学んで、さらに結婚して二女を設け、それから出家して瞑想指導者になるという、複雑な経歴の持ち主である。
 それだけの複雑な人生を歩んできた方だから、当然、家族や周囲の人々との関係にも、複雑なコンフリクトが色々とあった。彼の著作には、そのことが包み隠さず書かれていて、それが彼の実践している瞑想によってどのように変化していったかが、豊富な知識と経験の裏打ちによって、丁寧に描写されている。
 世界の人々が、ウ・ジョーティカ師の著作を読んで感銘を受けるのは、彼が私たちと同様の日常的な問題に深く悩んだ上で、それを仏教の実践によって一つ一つ乗り越えているからであり、形而下的な煩悶と形而上的(に感じられる)瞑想の境地が、そこで有機的に結びついているからだろう。(Note「ニー仏」のページより抜粋)
 
 本書はたいへんな名著にして、涙が出るほど有難い実用書である。
 だが、仏教に関心のない一般の人にとっては何の役にも立たない。
 仏教に興味があっても瞑想をやったことのない人にとっても何の役にも立たない。
 瞑想は瞑想でも、サマタ瞑想――わが国で伝統的かつ大衆的に実践されている最も一般的な瞑想である――をやっている人にとっても何の役にも立たない。
 ただただ、テーラワーダ仏教に伝わる「悟りに至る瞑想」と言われるウィパッサナー瞑想を実践している人にとってだけ、はじめて役に立ち、実用書としての真価を発揮し得る。
 だから、本書が書物となって書店に並ぶ日が来る可能性は、今のところないだろう。(来てほしいけれど)
 その意味で、本書を邦訳して(無料で!)ネットに挙げてくれた魚川は、非常に良い業(カルマ)を積んだと断言できる。ウィパッサナー瞑想によって智慧を開発し悟りを目指す日本の仏教徒たちに、またとない指南書を提供してくれたのであるから。
 まずは謹んで感謝したい。
 
 ウィパッサナー瞑想の指南書としては、同じくミャンマーのマハーシ長老が書いた『ミャンマーの瞑想 ウィパッサナー観法』(国際語学社より1995年発行)という、すでに古典と言ってもいい名著がある。『自由への旅』はそれに勝るとも劣らない画期的な‘虎の巻’である。

ミャンマーの瞑想 001
 

 ウィパッサナー瞑想の凄いところは、きちんと瞑想のやり方をそれなりの師から学んで、教えられたとおりに日々真面目に実践すれば、「誰でも、必ず、同じような過程をたどって、前もって示されている智慧が現れて、前もって示されているある種の精神状態に達し、前もって示されているいくつかのスランプにはまり、前もって示されている11段階の智慧のステップを徐々に上がって、最終的に悟りに達する」ところである。
 つまり、普遍性と実証性とが、2000年のテーラワーダ仏教の歴史とその間の何十万人かの悟達者の存在によって証明されているのである。まぐれや偶然や生まれついての能力による悟りではなく、純粋に個人個人の精進による悟りが可能なのである。
 であるからこそ、テーラワーダ仏教徒が毎日読経する「ダンマ(法)の六徳」ではこう言っている。
 
 世尊の法は、
① 善く、正しく説き示された教えである。
② 実証できる教えである。
③ 普遍性があり、永遠たる教えである。
④ 「来たれ、見よ」と言える確かな教えである。
⑤ 実践者を涅槃に導く教えである。
⑥ 賢者たちによって各自で悟られるべき教えである。 

 普遍性と実証性がかくも高らかに宣言できる理由は、おそらくウィパッサナー瞑想が科学的根拠を持っているから、と自分は考える。すなわち、ウィパッサナー瞑想は人間の脳に影響を及ぼし、脳の構造を不可逆的に変容させる仕組みを持っているのではないかと思う。シナプスの接続変換とか脳内物質の増加とか普段は使用されていない‘残り70%の’脳細胞の活性化とか、なにかそんなことと関係しているのかもしれない。いやしくも人間の脳であればそこに共通した構造や働きが想定できるから、誰にとっても起こりうるわけだ。
 自分の場合、ウィパッサナー瞑想をはじめた当初、頭が締め付けられるような感覚をおぼえ、知恵熱のように頭の中が熱くなったのを覚えている。(実際に熱はなかった。)
 その後も瞑想をしていると、脳を下から突き上げるような痛みを感じたり、脳が頭蓋骨の中で前転したかのような奇怪な刺激を感じたり、脳の一部が空になったような突き抜け感を覚えたりした。前頭葉あたりがうずいて、そこから何かが額の裏を通って滴り落ちるような感覚もときに起こる。瞑想が脳に何らかの作用を起こしているという感じは拭えない。
 その真偽はともかく、自分がウィパッサナー瞑想を続けている理由は、明らかに「前もってテキストに示されている」通りの現象が、まったくその通りに起こり続けているので、瞑想の効用を信じないわけにはいかないからである。このまま行けば、いつかは悟りに達するのだろうと思わざるを得ない。

 本書でウ・ジョーティカ師は、ウィパッサナー瞑想の実践者がたどる階梯を、第一の智慧から始まって第十一の智慧に至るまで、そしてその先の涅槃(=悟り)について、詳しく丁寧に解説している。実際の瞑想合宿(リトリート)の場で、参加者を前にして行っている講話なので、非常に分かりやすい言葉で具体的に語られており、章末には瞑想に関する質疑応答もついている。魚川の訳も的確で、読みやすく、よどむところがない。ここでもまた『仏教思想のゼロポイント』同様、瞑想実践者ならではの深い理解が礎になっていることが感じとれる。
 そして、言い忘れちゃいけない本書の何よりの魅力は、魚川が上に示唆したとおり、ウ・ジョーティカ師の誠実で、率直で、賢明で、慈悲深いパーソナリティが全編漂っている点である。道を求める実践者をあたたかくサポートする師のまなざしは紙面の奥から読者に降り注ぎ、穏やかで心を落ち着かせる師の声は行間から読者の耳朶を震わす。瞑想すると、こんなに素晴らしい人格に至れるのだという見本のようである。
 実践者が、いつも手元に置いて繰り返し読みたい本である。(やっぱり、刊行してほしいな。サンガさん、お願いします。)

 以下、引用。
 
 実際のところ、ウィパッサナーの洞察智には、三つの洞察智、つまり無常・苦・無我しか存在しません。しかし、無常・苦・無我を経験する度合いの差異によって、諸々の洞察智が、異なることになるのです。
 
 瞑想において得た洞察智は、あなたの日常生活、あなたの世俗的な問題にも、適用が可能です。瞑想においてのみならず、人生全体を生きるための正しい態度を、あなたは育てる。あなたの人生全体にとって、それは正しい態度なのです。
 
 死ぬ準備ができている人には、生きる準備ができているのです。私たちのほとんどは、生命活動を行っているけれども、本当の意味で生きているわけではありません。私たちは生に対して、あまりにも多く抵抗している。私たちは本当の意味で注意を払っておらず、また人生から十分に学んでもいないのです。
 
 よいことであれ悪いことであれ、物事は私たちがそれに値するから起こるのです。ひとたびこのことを、非常にはっきりと理解すれば、あなたは非難することをやめてしまいます。自分の業を非難することすらやめてしまうのです。両親や政府を、非難することもやめてしまう。
 私たちはいつも非難しています。責任を、他者や状況に押し付け続けている。十分な責任をとってはいないのです。
 物事は自分がそれに値するから起きているということを、ひとたび理解すれば、あなたは学び、成長し、そして変化する。そうすれば、物事はどんどんよくなっていきます。
 
 涅槃へと導く唯一の道は、あなた自身の精神的と身体的プロセスを観察することです。


サードゥ、サードゥ、サードゥ


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