好きな作家を10人挙げよ、と言われたら下のようになる。(順不同)

チャールズ・ディケンズ ・・・・「大いなる遺産」 「デービッド・コッパーフィールド」
ジェーン・オースティン ・・・・・「高慢と偏見」 「エマ」
ヘンリー・ジェイムズ  ・・・・・「鳩の翼」 「ねじの回転」
オスカー・ワイルド   ・・・・・「サロメ」 「ウィンダミア夫人の扇」
E.M.フォースター  ・・・・・「眺めのいい部屋」 「モーリス」
カズオ・イシグロ    ・・・・・「私を離さないで」 「日の名残り」
コナン・ドイル     ・・・・・「バスカービル家の犬」 「ボヘミアの醜聞」
G.K.チェスタトン  ・・・・・「ブラウン神父の醜聞」 「ブラウン神父の秘密」
アガサ・クリスティ   ・・・・・「そして誰もいなくなった」 「アクロイド殺し」

そして、P.G.ウッドハウス、である。

なんと日本の作家が一人も入っていない。
なんと全員、イギリス作家である。ヘンリー・ジェイムズはアメリカ生まれで、最後にイギリスに帰化したが、作風から言っても、作品に取り上げた舞台から言っても、イギリス作家とみていいだろう。

もっと若い頃なら、このリストに、

三島由紀夫
トルーマン・カポーティ
トーマス・マン
江戸川乱歩
エドガー・アラン・ポー
橋本治
大江健三郎

あたりが加わって、10個の枠をめぐってしのぎを削ったことだろうが、これらの作家は今では、若い時代に、若いが故にかかった流感みたいな存在になってしまった。人生いろいろあって、年をくって、世間を知って、いまだに読んで面白い、繰り返し読みたいと思うのは、上記10人だ。

それにしてもなぜイギリスなんだろう?

1. イギリス人のユーモアが好きだから。
2. 階級社会(特に上流社会)を垣間見る面白さがあるから。
3. どんな時でも冷静で自分スタイルを失わないイギリス人を「あっぱれ」あるいは「滑稽」と思うから。
4. イギリスならではの風景や慣習に惹かれるから。
 たとえば、霧と煙に包まれたロンドン、石畳を走る辻馬車、どこまでも続く緑なす田園、優雅なカントリーハウス、午後のお茶、謹厳実直な執事たち、噂好きのオールドミスたち、ガーデニングに精を出す主婦、世間知らずの牧師(ブラウン神父は別)、パブリック・スクールetc.

自分の数え切れない前世のうち、かなり濃厚なそれはイギリス人の時だったのかもしれない、と思う。
だが、何より自分が好きなのはイギリス人のユーモア感覚だ。これはしびれる。

ユーモアというのは、自らを客観視するところに生まれると言う。
絶体絶命のピンチ、思わず赤面する恥辱的な事態、にっちもさっちもいかない四面楚歌、急を要する危機的状況。そんなとき、人は緊張し、我を忘れ、顔はこわばり、体はガチガチ、目の前のことしか考えられなくなる。
まさにその瞬間、ふと自分からはなれ、第三者の目で自分の心と置かれている状況を観察して、自分自身を笑いとばし、状況を楽しむ。少なくとも、状況を受け入れる。
そこで口をついて出る言葉が、ユーモアとなるのだ。
だから、ユーモアは冷静さと対になっている。

そう、イギリス小説と言ったら、ユーモアと階級社会と言っていい。

10人の作家の中で、一番最近(ほんの3年前に)知ったのがウッドハウスである。
これは痛恨だ。こんなに面白い作家をなぜもっと早く知らなかったのだろう。イギリスでは皇室御用達の国民的人気作家だというのに・・・。

数年前から国書刊行会から森村たまきさんの訳でウッドハウスコレクションが出るようになって、今ちょっとしたブームになっている。特に、ちょっと脳みそは足りないが気のいいご主人バートラム・ウスター青年と、頭脳明晰で有能な執事ジーヴスの物語は、少女マンガ化されるほどの人気沸騰ぶり。自分もためしに一冊図書館で借りたが最後、あとは立て続けに10冊ばかり読んでしまった。
それくらい、文句なしに、掛け値なしに、圧倒的に、面白いのである。
こんな面白い本が今までわが国の本屋の一画を占めていなかったのは、ほとんど犯罪と言っていい。
ウッドハウスを読まずに「イギリス人とユーモア」を語るなかれ、ってくらいである。

中身はどの作品をとっても変わりは無い。
カントリーハウスを舞台にした、恋と陰謀と勘違いと主人公のドジが織り成すドタバタ喜劇(スラップスティック)である。読んだ本のタイトルをメモでもして残しておかないと、次に借りるとき、その本を読んだかどうか分からなくなってしまうほど似たり寄ったりだ。
水戸黄門と同じ、偉大なるワンパタン。
むろん、それでいいのである。
そして、黄門様の印籠の役目を果たすのが、ジーヴスの冴え渡る知恵である。


階級社会の面白いところは、本来なら一流大学を出て学者や政治家になってエリートコースを歩いていてもおかしくないほどの頭脳の持ち主が、下流階級に生を受けたばかりに、ちょっと脳みその足りない気のいい青年貴族の執事としての一生を終える、それで満足する、というところであろう。

社会的にはもったいない人材の不登用であるが、ジーヴスは置かれた境遇に愚痴の一つもこぼさない。ほんの1ミリ片方の眉の端を上げるだけである。

すぐには変えることが困難なものにぶつかったときの、もっとも高貴な人間の態度のとり方。
それがユーモアなのかもしれない。