9月9日(日)夜、新宿区牛込箪笥区民ホール。
 大江戸線の「牛込神楽坂駅」真上にある新しいホールである。
 400名近い席はほぼ満席であった。

コスモス 008 タイトルからすると、仏教的に正しい自己診断の方法を教えてくれるものかと期待するが、スマナ長老はのっけからこれを否定する。

「自分を正しく診断するのは現実的には無理です。」


 なぜならば、
・ 一回の自己診断ですべてがうまくいくというのは誤解である。
・ すべての人はそもそも自分自身を最大に評価している。
・ 完璧な診断リストは存在しない。
・ 診断リストは多数存在し、リストを作った人の能力にも限界がある。
・ 多数のリストの中から一つを選ぶとき、「自我」というバイアスがかかる。(自分にとって都合の良いリストを選びがち)
・ リストを持つ時点で、自分の人生を他人にまかせてしまうことになる。
・ 自分でリストを作る場合でも、結局は世間の考え方を参考にせざるをえない。(すなわち、世間の評価を基準とすることになる) 


 リストとは何のことか?
 生きる上での指針であり、哲学・思想であり、信条であり、主義であり、宗教である。
 どういったリストを選ぼうとも、上記のような理由があるため、人は正しい自己診断には至らないと言うのである。
 だが、生きていく上で自己制御は必要である。自分自身をどのようにコントロールし、どう身を処すればよいのだろうか?

「to do リストも、not to doリストも役に立ちません。」


 と、スマナ長老は言う。
 仏教の五戒やモーゼの十戒のような「~するな」という教えも、カント倫理学のような「~すべし」という定言命令も、根本的な解決にはならない。
 なぜなら、新たな時代の新たな環境のもと、新たに起こってくる事態に対して、新しい命令を次々と追加していかなければならないからである。(国会で一年間に制定される法律の数は50本以上である!)


 「仏教は、心そのものを根本的に改良する方法を伝えます。」


 と、ここからが本日の講演の主眼である。
 いつも前置き部分に時間をかけるのがスマナ長老の話の特徴と言える。もっとも大事なところを時間に追われるようにサラッと流してしまうのである。

 さて、お釈迦様が語る自己診断法には、出家のためのものと、在家信者のためのものがある。
 出家のためのものとして「十項目の経典(DASA DHAMMA SUTTA)」がある。在家信者のためのものとしてスマナ長老が挙げたのは、「カーラーマ経典」であった。

 このように私は聞いた。あるとき、世尊(お釈迦さま)はカーラーマ族の町に入られた。そこでカーラーマ族の人々は、世尊にこのように訊ねた。
 「世尊よ、ある沙門、バラモンたちがやってきて、彼らは自分の説だけを正しいと言い、他の説を罵(ののし)り、誹(そし)り、けなし、無能よばわりいたします。さらにあるとき、またちがう他の沙門、バラモンたちがやってきて、彼らもまた、自分の説だけが正しいと言い、他の説を罵り、誹り、けなし、無能よばわりいたします。
 いったい、だれが誠を語り、だれが偽(いつわ)って語っているのか、という疑いがあります。どうぞ、私たちにだれが正しいのかを教えてください。」


 お釈迦様は答える。

 「カーラーマ族の人々よ、あなたがたが疑うのは当然のことである。そして、疑いのあるところに惑(まど)いは起こるものである。あなたがたはある説かれたものを真理として受け取るときに、
① 人々の耳に伝えられるもの、例えば秘伝や呪文(じゅもん)、神の啓示などに頼ってはいけない。
② 世代から世代へと伝え承けたからといって頼ってはいけない。
③ 古くからの言い伝え、伝説、風説などに頼ってはいけない。
④ 自分たちの聖書や教典に書いてあるからといって頼ってはいけない。
⑤ 経験によらず頭のなかの理性(思弁)だけで考えることに頼ってはいけない。
⑥ 理屈や理論に合っているからといってそれに頼ってはいけない。
⑦ 人間がもともと持っている見解等に合っているからというような考察に頼ってはいけない。
⑧ 自分の見方に合っているからというようなことだけで納得してはいけない。 
⑨ 説くものが立派な姿かたちをしているからといって頼ってはいけない。
⑩ 説いた沙門が貴い師であるというような肩書などに誤魔化されてはいけない。 


 この経典は、「真理か否か他人に頼らず自ら実践して確かめよ」という仏教の基本姿勢を示すものとしてつとに有名なのであるが、上記の対話には続きがあって、そこで自らの心を改良するやり方について説いていると言うのである。 

 その方法とは、「潜在衝動をチェックする」ことである。

1. 貪・瞋・痴のどれか一つが潜在衝動として心の中に表れてきたら、すかさずチェックする。衝動をチェックできると、それが消える。
   例)「いま私の心に上司に対する怒りの感情が出てきたゾ」
2. 貪・瞋・痴に動かされたしまったときに起こる可能性ある行為とその結果を思い浮かべる。
   例)「相手を殴ったらその瞬間は気分がいいけれど、会社をクビになって家族が困るだろう」
3. このように自己診断したあと、慈悲の瞑想で治療する。
    上司が幸せでありますように、
    上司の悩み苦しみがなくなりますように
    上司の願い事が叶えられますように
    上司に悟りの光が現れますように。
4. 四方八方の無量の生命に対して慈悲喜捨を念じる。
    生きとし生けるものが幸せでありますように、
    生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように、
    生きとし生けるものの願い事が叶えられますように、
    生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように。
5. すると、心の闇(=自我)が破れ、平安が訪れる。 

 この方法は、他人に頼ることなく、自分で判断し、自分でチェックできる心の制御法であり、心を根本的に改良する方法である。
 
 と、自分の理解できる範囲で講話をまとめてみた。
 「潜在衝動をチェックする」とは、別の言葉で言えば「気づき」であり「サティ(念を入れる)」であろう。自らの心の中を観察して、浮かび上がってくる衝動(感情)に流されず、その尻尾をつかまえて、その正体(怒りか、欲か、無知か)を暴き出し、すかさず楔(くさび)を打て、ということと理解する。

 別の経典中にずばりそのものを見つけた。

 比丘達よ。まだ大悟していない正覚前の菩薩のとき、思念を二つに分けてはどうだろうかという考えが起こった。欲尋と瞋尋と害尋とを一方に、出離尋と無瞋尋と無害尋と一方においた。
 不放逸に、精進し努力しているとき、欲尋が生じると、私に欲尋が生じたと知った。この欲尋は自分を苦しめるために、他人を苦しめるために、自分と他人を苦しめるためにある。これが慧を消滅させ、涅槃に行くのを抑えるものである、と知った。
 それが自分を苦しめるためにあることを思慮してみていると、欲尋は消滅した。他人を苦しめるため、両者を苦しめるためのもので、慧を消滅させ、抑圧するもので、涅槃にならない、と思慮して見ていると、欲尋は消滅した。私は欲尋を捨て、生じた欲尋を軽くし、すべてをすっかりなくすことができた。(第9巻中部根本19)


 これは面白いことに、有能なカウンセラーがカウンセリングを行う際に行っていることと同じである。
 クライエント(相談者)の語る話の中味や態度について、カウンセラーも人間である以上、肯定的であれ否定的であれ、何らかの感情を抱かざるを得ない。その感情があまりに強くなると、クライエントをありのままに受け止めるのが難しくなる。その感情は自然とカウンセラーの表情やそぶりや話し方に現れて、クライエントに何らかの影響を与えることになる。転移や逆転移を起こすきっかけになる。
 熟練したカウンセラーは、相手の話を聴きながら、自分の心の声も同時に聴いているのである。
「あっ、いまちょっとムカってきた。」「あっ、いまうんざりしている。」「あっ、いまクライエントに欲情している。」e.t.c
 このように気づくことによって、カウンセラーは浮かび上がってきた衝動(感情)に無自覚に身を任せることなく、その衝動をコントロールする位置に立てるのである。


 現代カウンセリングで用いられている技法を2000年以上も前にブッダは説いているのである。
 それどころか、最近はブッダの瞑想法(ヴィパッサナー)をベースにした「マインドフルネス認知療法」というのが世界的に注目されているらしい。

 心に浮かぶ思考や感情に従ったり、価値判断をするのではなく、ただ思考が湧いたと一歩離れて観察するという、マインドフルネスの技法を取り入れ、否定的な考え、行動を繰り返(自動操縦)さないようにすることで、うつ病の再発を防ぐことを目指す。(ウィキペディア「マインドフルネス認知療法」より抜粋)


 やっぱりブッダはすごい。


コスモス 001 ところで、今回会場となった神楽坂は、20年以上前に5年ほど勤めていた職場がある。
 実に、20年ぶりに界隈を散歩した。
 勤めていた会社の建物も、社員がよく利用していた喫茶店やそば屋もちゃんと残っていたけれど、先輩とよく行った飲み屋やたまに独りでランチを食べたカフェなどが無くなっていた。神楽坂全体がすっかりオシャレになり、華やいでいた。
 会社を辞めた時、20年後の自分をまったく想像できなかった。生きているかどうかも確信できなかった。(そんなに長生きしたくないと思っていた。)

 まさか、介護の仕事をやるとは・・・!
 20年前の自分が「もっともやりそうにない」仕事の一つである。

 まさか、仏教の講演を聴くようになるとは・・・!
 20年前の自分は完璧に無宗教であった。


 不思議なものだ。