ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

クリシュナムルティ

● 本:『ある瞑想家の冒険 悟りに至るまでの半生、そしてその後』(ボブ・フィックス著)

2014年ナチュラルスピリット社刊行。

 タイトルどおり生涯を瞑想に捧げた男の自叙伝である。
 これがまあ、面白い。まことに冒険家のように風変わりで破天荒で目まぐるしい半生が描き出されている。ここに書かれていることがすべて事実なら人生はジョークである。ギャグである。精神世界とはまったく無縁に生きてきて、一介のサラリーマンとしてこつこつ地道に働いて家族を養ってきた定年間際のお父さんが読んだら、憤死するかもしれない。茫然とするかもしれない。自らの人生に懐疑的になるやもしれない。いや、そもそも本書の内容が理解できず、最初の数ページで捨て去ることだろう。

 著者のボブ・フィックスは、若い頃から哲学や宗教に興味を持ち、大学生のときインドに行って修行したいという望みを持つ。教師や両親に反対されて、代替案として当時アメリカでブームを巻き起していたTM瞑想(超越瞑想)を学ぶことになる。

超越瞑想(Transcendental Meditation、略称:TM)は、インド人のマハリシ・マヘーシュ・ヨーギー(1918-2008)によって1950年代に知られるようになった、ヒンドゥー教に由来するマントラ瞑想法である。この瞑想法では、毎日2回、マントラ(真言。静かに復唱する単語、音、または語句)を15~20分間心の中で唱えて、心を静め、徐々に神経活動を抑え、意識を深みに導くことで、開放された気づきの状態、最高の境地、純粋意識に達することを目的とする。(ウイキペディア『超越瞑想』より抜粋)

 TM瞑想によって‘悟り’を得たボブは、その後運命におのれを任せるように次から次へと新しい体験に挑むことになる。
 TMの教師として普及に貢献
  ⇒ 瞑想仲間らとテレビ局を立ち上げ成功させる
   ⇒ 原油ブローカーとして挫折
    ⇒ サラブレットの飼育と販売
     ⇒ 住宅ローンの販売
      ⇒ アセンデッド・マスターをチャネリングし始める
       ⇒ チェンマイ(タイ)でヒーリングの勉強
        ⇒ フルフィルメント瞑想の開発
         ⇒ 世界各地で瞑想法の伝授とヒーリング・・・。
 たびたび来日してワークショップや講演会も行っている。旺盛なるチャレンジ精神とフットワークの軽さはさすがアメリカンだなあと感心する。
 途中で気づいたが、ボブ・フィックスはニューエイジのバイブル的図書である『アセンション』(1994)の著者であった。90年代日本の世紀末スピリチュアルブームを山川紘矢・亜希子夫妻らと共に牽引した一人なのであった。
 
 上記のアセンデッド・マスターとは、過去に肉体を持って地上に生存し悟りを開き、昇天したあとは人類の成長を見守りサポートする役目を果たしている霊的指導者のことを言う(らしい)。有名どころでは、モーゼ、イエス・キリスト、聖母マリア、大天使ミカエル、ブッダ、孔子、サナート・クマラ、弥勒菩薩(マイトレーヤ)、サンジェルマン伯爵マザー・テレサなどの名が上げられるようだ。
 ジッドゥ・クリシュナムルティ少年が、神智学協会によってマイトレーヤの乗る器として見出され、英才教育を受け、「世界教師」という肩書きのチャネラーになることを期待されたことは、よく知られている。
 一方ボブは、サナート・クマラに特に強く庇護・指導されているようで、たびたびクマラをチャネリングしている。

 我々はこのチャネラー、ボブに、この覚醒のプロセスに手を貸し、地上に再び高等評議会を設立すべく、十四万四千名のマスターを集結させるよう依頼した。地球は破滅へ向かっている。この母なる大地のカルマを取り除くために手を打たなければ、地球は自らの猛烈な変化によって破壊されるであろう。すぐに手を打たなければ、激しい地震や火山爆発、津波、そして深刻な被害をもたらす嵐を経験することになろう。アセンデッド・マスターは誰もそのようなことを望んでいない。あなたがたひとりひとりが目醒め、自らの悟りの叡智を手にすれば、そのすべてを回避できる。今こそ惑星地球に悟りの時代を創造するときなのだ!(サマート・クマラのメッセージ)

 サナート・クマラは、日本は世界中が追従するような悟りの見本になると、多くの人々に告げている。日本は、地球の世界各国を悟りに導けるようなリーダーとなる。そして、あらゆる文化の人々を導き、彼らが人間として最高の理想を生きて、享受しうる可能性を余すところなく楽しめるような世界をつくっていく。

 ちなみにこのサナート・クマラはかつて金星人だったらしく、250万年前に地上に降り立った。その聖なる地が京都の鞍馬山だそうである。そういうわけで、日本はボブにとって非常に重要な意味を持つ国であるらしい。(確かに鞍馬寺にある魔王殿は650万年前に金星から護法魔王尊が地球に降り立ったという伝承がある。その誤差400万年・・・)

魔王殿
鞍馬寺奥の院・魔王殿


 これまで読んだ‘ナチュスピ’の本――トニー・パーソンズ富平正文ジェニファー・マシューズ――とはちょっと(大分?)毛色が異なっている。
 ソルティの主観だが、TM瞑想まではまだ常識人の理解範囲にあるが、チャネリングを始めたあたりから何だか‘あらぬ方向にイっちゃった’という感じがする。でも、ボブ当人にしてみれば、そこからがむしろ「この世において自分がやるべき使命の発現」なのだろう。

 なんだかよくわからない。
 毎日ヴィパッサナ瞑想を実践し休日には初期仏教の法話をいそいそと聞きに行くソルティもまた、世間から見れば「イっちゃった人」の範疇に容易に入るのかもしれないし・・・・。
 人それぞれである。
 ただ、悟りへの道にはオウム(=魔境)という落とし穴があることだけは、日本人なら肝に銘じなければなるまい。

一切を懐疑し、かくして懐疑の苦悩から確信が生まれ出るようにしなければならない。自分が疲れていたり、あるいは不幸であるときにのみ懐疑してはならない――それは誰にでもできることだ。恍惚の瞬間に懐疑を招き寄せよ。なぜなら、そのとき残るもののうちに、真なるものと偽りなるものとを発見することであろうから。(ルネ・フェレ著『クリシュナムルティ・懐疑の炎』、瞑想社発行) 

 最終的にクリシュナムルティは、マイトレーヤの乗り物になることを拒絶したのであった。



 




● 本:『オープン・シークレット』&『何でもないものがあらゆるものである―無・存在・すべて―』(トニー・パーソンズ著)

青い鳥


①『オープン・シークレット』
 1995年原著刊行
 2016年ナチュラルスピリット社より発行
②『何でもないものがあらゆるものである―無・存在・すべて―』
 2007年原著刊行
 2015年ナチュラルスピリット社より発行

 『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』を読んでいて、そこに登場する‘わかっちゃった人たち’の数人が共通して言及している人の名前があった。真理探求の旅において、その人物に出会ったことで意識が高まったとか決定的な体験を持ったとか一様に述べている。どうやらいま欧米でもっとも人気のあるスピリチュアルマスター(?)あるいは覚者の一人らしい。
 それがトニー・パーソンズである。

1933年にロンドンで生まれる。21歳のとき、見かけの目覚めがあり、長年この「公然の秘密」を世界中の人々と分かち合ってきた。彼の講話とワークショップは主にヨーロッパで開かれている。(上記②に掲載のプロフィールより)

 例によって、パーソンズもまた若い頃から精神的不全感を抱え、キリスト教や現代的なセラピーやスピリチュアリティの世界を探訪してきた。が、どれによっても不全感が拭われることはなかった。

 ある日、私はロンドン郊外の公園を横切っていた。歩きながら、起こるか起こらないかわからない未来の出来事に対する期待で頭が完全に占領されていることに気がついた。そうして、そうした予測を手放して、ただ歩きとともにあることを選んだように思えた。一歩一歩の感触、圧力がそれぞれまったく違い、ある瞬間にあったものがつぎの瞬間には消えていて、同じ形で繰り返されることが決してないことに私は気づいた。
 こうしたすべてが起こっていたそのとき、自分が歩くのを観察している自分から、歩きがただあるということへの移行が起こった。それから起こったことはまったく描写不可能だ。どうしても不完全になるが、言葉を使って表すとすれば、完全な静寂があらゆるものの上に降りてきたようだった。ありとあらゆるものから時間がなくなり、私はもう存在していなかった。私は消え、経験する者はいなくなっていた。(上記①より引用)

 これが21歳のときの体験とすれば1954年である。それから最初の著作である『オープン・シークレット』を発表するまでの40年以上、パーソンズは外側から見れば普通の成功した男として暮らしてきた。(まあ今も普通の男には違いないが)
 建設業で財を築き、結婚して四人の子供を作り、プールつき豪邸に住んでヨットやフェラーリを乗り回し、それから家庭を離れて英国内のOSHOのコミューンに関わり、出版業で成功する。極めてやり手なのである。誰もが羨む人生を歩んできた「勝ち組」と言える。
 それが結局こうしてスピリチュアルな世界に戻ってきたわけだから、21歳のときの体験がいかに強烈なものであったか、それと比べれば社会的成功が彼にとっていかに虚しいものであったかを伺い知ることができる。こうした経歴は、商才に長けていたグルジェフを思わせる。

 上記2冊を読むと、間違いなくパーソンズも覚者の一人であると知られる。つまり、歴代の有名な覚者――グルジェフ、クリシュナムルティ、OSHO、ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ e.t.c.――と同様のことを言っている。
 ①の本では、パーソンズの子供の頃から悟りに至るまでの精神遍歴が明かされる。そして、彼の‘教え’のエッセンスが簡潔に過不足なく語られている。わずか68ページの薄い本なので、あっという間に読むことができる。しかし、そこに凝縮されている‘教え’を、言葉の上だけでなく、知的・論理的にでもなく、身をもって得心するのは至難の技である。(と言うと、当のパーソンズから「その時間的思考が一番の障害」と指摘されそうだが・・・)
 ②の本は、パーソンズの開催しているワークショップで実際に参加者とパーソンズとの間で交わされた対話を中心に編集されたものである。なので、パーソンズの個性や他人を導く際のスタンス、ミーティングの雰囲気を伺うことができる。参加者がパーソンズに投げかける問いは、悟っていない我々が当然のように抱き得るものなので、この本を読む者は自らを参加者の立場に置いてパーソンズと話しているような気分になる。
 「濡れ手に粟」「のれんに腕押し」ではないが、パーソンズの答えのあまりのつかみどころのなさ・取りつく島のなさに、煙に巻かれたようなもどかしい気になる瞬間もあれば、「目からウロコ」の瞬間もある。ピッタリくる表現を探すなら、「瞬時瞬時、足場がすくわれる」感覚ということになろうか。
 
 グルジェフを思わせると書いたが、実のところ読んでいて一番「似ているな」と思ったのはクリシュナムルティである。
 他の覚者たちと一線を画すパーソンズの‘教え’の明確な特徴は、真理に至るための方法論の拒絶である。
 
 熱意、受容が必要だとか、あるいは肉体―精神を浄化することが必要だというのは、誤った考えであることは明らかです。内側に注意を向け、「自分の本質」や、非常に多くを約束してくれながらも素早く来ては去って行く気づきの状態を発見するようには、招待もされないことでしょう。ここではどんな種類のスピリチュアルなアイスキャンデーも提供されません。
 探求者が指針やプロセス、あるいは何かになる教えを必要としていることに対しては、何の妥協もありません。ここにはいかなる特別な父親も母親もいなければ、所属すべきスピリチュアルな家族もいません。どんな種類の魔法もカリスマも譲渡もありません・・・・・何も売っていません。ただ小さい「自分」というおとぎ話を、終了することができるかもしれないだけです。(上記②より引用)
 
 明らかにクリシュナムルティとスタンスを同じくする。
 
‘真理’は道なき領域であり、いかなる道をたどろうとも、いかなる宗教、いかなる教派によろうとも、諸君はそれに近づくことはできない。(ルネ・フェレ著、大野純一訳『クリシュナムルティ 懐疑の炎』めるくまーる社)

 すべての探求手段を否定するこのスタンスゆえに、パーソンズのワークショップの参加者および読者は途方にくれることになる。当然である。そもそもワークショップに参加すること自体、本を読むこと自体、探求にほかならないからだ。
 この矛盾が漫才のように面白い問答となって顕われる。

参加者 : 気づきや存在のそのレベルに到達するために、私にできることが何かありませんか?
パーソンズ : 何もありません。それは何もできない誰かがいるからでなく、誰もおらず、達成すべきレベルもないからです! それがないので、他のどんなレベルもありません。何もなく、かつあらゆるものだけがただあります。

参加者 : つまり、これを聞きに来ていることには、絶対的に何の意味もないのですか?
パーソンズ : はい。まったく何の意味もありません。 
参加者 : しかし、本当にないのですか?
パーソンズ : はい。でもあなたは来ることをやめるでしょうか?
(上記②より引用。発話者の表示はソルティ付す)

 漫才のようでもあり、禅問答(公案)のようでもある。言葉で言い表せないものを言葉を使ってできるだけ誠実に伝えようとすると、どうしてもこんなふうになってしまうのだろう。

 ところで、「真理に至る道はない」というのは真理であろうか?
 悟るための方法論は、伝統的なものであれ現代的なものであれ、日常的なものであれ非日常的なものであれ、すべてナンセンスなのだろうか?
 もしそうなら、五戒や八正道や瞑想法を提唱したブッダは間違っていたことになる。五戒を守ることも、仏法の勉強をすることも、瞑想することも、善行為をすることも、慈悲を育くむことも、智慧を開発することも、意味がないことになる。仏教は否定されよう。
 どうなのだろう?
 さらに、いろいろな覚者、いろいろな宗教団体等によって、千差万別の悟りに至る方法論が提唱され実践されている現実がある。たとえば、同じ瞑想でもサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の違いがあるし、同じヴィパッサナー瞑想でもマハーシ系とゴエンカ系とで違いがある。「いやいや、必ずしも悟るのに瞑想は必要ない。慈悲行や念仏こそ悟りへの道」という大乗仏教系もあれば、千日回峰のような苦行を重んじる宗派もある。宗教ではないが、『奇跡のコース(The Course of Miracle)』のような自己学習型のスピリチュアル・ワークブックもあれば、特殊な周波数を発するCDを聴いて体外離脱をはかり真実を知るというものもある。まさに百花繚乱である。その様を表すのに、「悟りとは山登りのようなものだ。頂上は一つであるが、そこに至る山道はいろいろある」と言われたりする。山登りが趣味のソルティには納得しやすい喩えであるが、実際のところ、このような多様性が生まれる背景にはなにがあるのだろうか?
 

理由1 覚者それぞれの悟りの質やレベルの違いから 

 「悟り」と一言でいっても、覚者それぞれによって違うものを見ている可能性がある。
 世の中には掃いて捨てるほどの自称他称‘覚者’がいる。信者からのお布施や女性(男性)信者との身体的エネルギー交流や権威誇示やパワーコントロールが目的の詐欺同然の自覚的インチキ覚者もいる。一方、自覚的でない誇大妄想系の覚者もいる。悪い人ではないけれど「イッちゃってる」タイプである。
 これらは大概、普通の常識なり良識なり科学的知識があれば見抜けるものであろう。たとえば、「尊師の入ったお風呂のお湯を飲めば悟りに近づける」とか「プレアデス星雲から発された光線が地球の次元を上昇させます」なんて言説を妄信できるのは、頭の悪い証拠である。こういったものは、現実社会に適応できない自我が、なんとか延命するために編み出した、自我にとって都合の良い逃避先である。自我は生き延びるためならどんな「物語」でも創る。グルと信者はその逃避先で「物語」の共同創作者にして共同読者になる。
 それとは別に、真理の香りを体現している‘本物’の覚者もいる。何をもって‘本物’とするかは難しいところであるし、‘本物’と‘ニセモノ’の境は限りなく曖昧であるようにも思う。これまで様々な‘本物’と言われている古今東西の覚者の本を読んできたソルティの印象では、‘本物’には次のような言説を最大公約数として指摘できよう。
  • 自我は幻想であり、自我を終焉することで悟りは顕現する。
  • 過去や未来は幻想である。実際にあるのは「いまここ」だけである。
  • 見るものは見られるものである。
 しかるに、こうした‘本物’の覚者間においても、それぞれの悟りに微妙な違いを感じることがある。
 これに関して、日本トランスパーソナル心理学/精神医学会会長である石川勇一が興味深いことを書いている。

 トランスパーソナルの代表的思想家であったケン・ウィルパーは、悟りの定義を次のように述べています。「悟りとは、その段階まで進化した、すべての状態とすべての段階、および、その時点のすべての存在との一体化である」(『インテグラル・スピリチュアリティ』春秋社、2008)。 
  
 ウィルパーの悟りの定義は、トランスパーソナル学や新霊性運動を代表しているといってもよい考え方です。しかも、もっとも幅広い知見に基づき、よく吟味され洗練された理論に基づいているといえます。新霊性運動は一枚岩ではありませんが、おしなべてウィルパーのように大いなるものとの合一、ワンネスが最終ゴールと捉えられています。梵我一如が悟りであるというヴェーダの思想や、大乗仏教、タオイズム、諸々の神秘主義思想においても、これと同様の悟りの理解は数多く見出すことができます。

 このようにウィルパーはあらゆる段階・状態・存在との一体化が、人間の普遍的な悟りであると理論化したのですが、これはブッダの説いた悟り、すなわち解脱とは定義が異なっています。初期仏教のすべての目標は、煩悩の矢を引き抜いて、煩悩が顕在的にも完全に「吹き消された状態」である涅槃(nibbana)に至ること、すなわち解脱することです。

 目的が煩悩を滅した解脱にあるのか、非二元的な一体化にあるのか、ここが初期仏教と、トランスパーソナルや霊的諸伝統との決定的な違いであると思います。

(以上、『サンガジャパン』26号(サンガ発行)掲載の石川勇一著『二つの河を渡って 心理学、トランスパーソナル、初期仏教のあいだ』より引用)

 同じ「悟り」という言葉・概念を用いているにしても、その実質なりレベルなりが異なっている可能性があるということだ。つまり、到達した山頂が違っていた。あるいは、同じ山ではあるけれど、中には8合目を山頂と勘違いして満足している人もいる。
 ならば、それぞれの覚者が指し示す山頂への道(=方法論)が異なってくるのは無理からぬところである。
 ちなみに、「非二元(Non Dual)の教え」を核とするトニー・パーソンズの悟りは、明らかに上記のトランスパーソナルの悟りに該当すると思うのだが、「段階」とか「進化」といったものを否定している点でウィルパーとはまったく異なっている。


理由その2 覚者それぞれの‘個性’の違いから 

 いまここに同じ山頂に到達した二人の覚者がいるとしよう。まったく同じ‘真理’を見て、まったく同じ境地に達した二人である。
 彼らは、無明に苦しむ衆生の姿を見て、慈悲の念を起こし、自らが達した境地へ衆生を導かんと、説法と布教を開始しようと決断する。
 二人は同じやり方(=方法論)を採るであろうか?
 最終的な悟りに達した覚者(仏教で言う「阿羅漢」)からは「自我=自己意識」が消えると言う。なので「個性」というものはないはずと思うのだが、クリシュナムルティによると、「個人の独自性(individual uniqueness)」は残るらしい。これは「エゴ」ではなくて、「普遍的な生に固有の区別であり、個人性からすべてのエゴイズムが一掃された時に残る、個人性の純粋に抽象的なフォルム(型)」なのだという。(1928年のクリシュナムルティとE.A.ウッドハウスの対話より)
 クリシュナムルティの言葉どおり、悟後の覚者に何らかの‘独自性’が残るなら、説法と布教に乗り出そうとする際に、その独自性が「個性」となって顕現する可能性はあろう。
 魚川祐司が次のように書いている。
 
 覚者・解脱者たちにとっては、悟後の「行為」はその全てが純粋な「遊び」である。そして「遊び」である以上、その仕方は「自由」だから、利他の実践へと踏み出す場合、その範囲や形式に関しては、彼らに裁量の余地が存在する。言い換えれば、仏教徒はみな「物語の世界」の外部へと至ることを試みるが、そのことに成功した後に、未悟の衆生に対してどのような物語を示現するか(あるいは、そもそもそのことを全く行わないか)は、本人の「自由裁量」にしたがう可能性として、本質的には常に未決定のまま開かれているということだ。

 現状の仏教の多様性は驚くほどのものであり、その中には互いに矛盾する思想や実践も、多く包含されている。ゆえに、そのうちのどれが「正しい仏教」であり、どれが「本当の仏教」なのかということが、仏教者のあいだでしばしば問題として論じられることがある。だが、私としては、そうした多様性は覚者それぞれの「物語の世界」への対応の仕方の差異によって生じるものなのだから、それらのうちのあるものが「正しく」て、あるものが「間違っている」と、決めつける必要はないと思う。
(以上、魚川祐司著『仏教思想のゼロポイント』より引用)

 この観点をとれば、クリシュナムルティやトニー・パーソンズは、その本然の‘独自性’を自由裁量のうちに存分に発揮して、「未悟の衆生が捕まろうとする‘物語’をその場で徹底的に容赦なく叩き潰す」という方法論を用いている、と解釈することができるのかもしれない。
 

 以上、悟りの方法論の有る無し、あるいは方法論の多様性について、乱暴に考察してみた。もっといろいろな観点があると思うが、ここらがソルティの限界である。それに、そもそもこんな考察(=妄想)したところで頂上に一歩も近づけるわけでないことは最初から分かっていた。
 休日を半日使っての単なる「暇つぶし」「遊び」であった。


 自分を待ち受けているつぎの「スピリチュアルな」高揚感に向けて行進しているときに、私たちが理解し損ねているように思えるのは、自分の探している宝物はそうやって向かおうとしている先にではなく、今まさに歩いているその足どりの単純な性質のなかにあるということだ。今よりも良い状況を見つけようとして時間のなかで突進しているとき、毎瞬姿を現している「存在すること」という花を、私たちは踏みつけている。(『オープン・シークレット』より)


dandelion-321843__340


● 叩き上げ V.S. エリート  本:『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』(J.クリシュナムルティ対談集)

2003年原著刊行
2016年コスモス・ライブラリーより邦訳発行
正田大観、吉田利子共訳
大野純一監訳

 ブッダとクリシュナムルティの説いたことはほぼ同じであった。
 意外でもなんでもない。二人とも完全な悟りに達した覚者であってみれば、まったく同じ境地からまったく同じものを見ていたわけであるから、言説も同じになる。同じでなければならない。二千年以上の歳月を超えて、二人の賢者は「真理」という土俵の上でほぼ同格で向かい合っている。
 この「ほぼ」というところが一つのポイントである。
 正確に言えば、ブッダとクリシュナムルティには決定的な違いが一つあって、それは「悟り(解脱)に至る方法論を説いたか説かなかったか」というところにある。『道』の有る無しだ。 
 ブッダは四聖諦にみるように、説法を開始するそもそもの最初から「苦の滅に至る道」、いわゆる道諦を明らかにした。八正道を説き、瞑想方法を詳細に伝えた。それが仏教すなわちブッダの教えとして、主としてテーラワーダ仏教の中で脈々と今に伝えられている。
 一方、クリシュナムルティ(1895-1986)はこれもそもそもの最初から「真理に至る道はない」と断言した。いっさいの方法論を拒絶し、「どうすれば?」という聴衆の問いを封じ込めた。「真理はいまここで見るもの」という姿勢を生涯‘頑なまでに’くずさなかった。 

 本書は Can Humanity Change? J.Krishnamurti in Dialogue with Buddhists(人は変われるか?クリシュナムルティと仏教徒の対話)というタイトルで2003年にクリシュナムルティ財団より発行された本の邦訳である。
 2部構成になっている。
 第1部は1978年6月に行われたクリシュナムルティと仏教徒を含む複数の相手からなる5回の対話録。この参加者がすこぶる魅力的で、ソルティが久しぶりにクリシュナムルティの本を手にした主たる理由である。
  • ワルポーラ・ラーフラ・・・・スリランカのテーラワーダ仏教の学僧。優れた仏教入門書である『ブッダが説いたこと』(岩波文庫)の著者。
  • イムガルト・シュレーゲル・・・・オーストリア出身の禅僧。京都大徳寺で修行。ロンドンに禅センターを設立し禅の布教につとめた。
  • デヴィッド・ボーム・・・・アメリカ出身の理論物理学者。量子力学から探求されたホログラフィクパラダイム理論で有名。クリシュナムルティとは対談を重ねており、お互いに深い影響を及ぼし合った。
  • メアリー・ジンバリスト・・・・クリシュナムルティの晩年、世話役兼秘書役としてもっとも近くに付き添った女性。
  • スコット・フォーブス・・・・・クリシュナムルティの設立した学校の校長をつとめたアメリカ人。
  • ジッドゥ・ナラヤン・・・・クリシュナムルティの甥っ子。
  • フィロズ・メータ・・・・インド出身のピアニスト、著述家、講演者。
 このうち仏教徒と言えるのは最初の二人であろう。
 
 第2部は、「なぜわたしたちは変われないのか?」というタイトルのもとに集められた1956~1981年にわたるクリシュナムルティの講演録10篇から成る。
 中の1篇(1965年)の質疑応答の場で、「あなたが四十年も語り続けているのに、たったひとりの人間も変わっていないのはなぜでしょうか?」とクリシュナムルティが参加者から問われる場面がある。「クリシュナムルティでは悟れない」というのは、すでに1965年の時点で真理を求める人々の間で知れ渡っていたことが知られる。実際、クリシュナムルティ自身、亡くなる直前に「私の話を聞いて悟った人は誰一人もいなかった」と述懐したとか。
 むろん、クリシュナムルティの知らないところで、クリシュナムルティの本を読んで悟った人間は当時も現在もいるのかもしれない。ただ、仏典に残されているように、ブッダの話を聴いてその場で即座に悟った人が何千人もいたことに比べれば、クリシュナムルティの説法効果が微弱であるのは指摘せざるを得ないだろう。
 
 やはり、面白いのは第1部。当時の仏教界のスーパースターとも寵児とも言えるワルポーラ・ラーフラが、現代の覚者クリシュナムルティとどう絡むか、どう共鳴し、どう是認され、どう説諭され、どう齟齬をきたすか。あらゆる宗教組織や方法論を否定したクリシュナムルティが自らの教えと寸分違わない仏教とどう対峙するか。そのあたりが読みどころである。
 ソルティはこの第1部を5回繰り返し読んだ。それくらい読み込まないと、腑に落ちなかった。表面的な言葉の理解はさほど難しくない。難解な仏教用語や哲学用語が並んでいるわけではないし、文法的あるいは論理的に破綻しているわけでもない。なるほど内容自体は、この本ではじめてクリシュナムルティを知る人にとっては難解でチンプンカンプンかもしれない。が、ソルティはかつてクリシュナムルティをずいぶん読み込んだので、彼特有の表現や言い回しや論理の飛躍には慣れている。
 ただ、どうにもすっきりした読後感が得られないのである。もどかしい思い、隔靴掻痒の感とともに対話は終了してしまう。面白くて啓発的であるのは間違いないけれど、全般に分かりにくさとまどろっこしさを感じる。
 いったいその理由はどこにあるのだろう?
 それを探るために5回は読む必要があったのである。
 
 第一の理由として、むろんテーマそのものの難しさがある。
 「知識は人間を条件づけるか」「心理的な進歩はあるか」「二元性とはなにか」「自己同一化は避けられるか」「人間に自由意志は存在するか」等々、哲学的なテーマが次から次へと繰り出される。これは、クリシュナムルティの講話や本に付随する性質であるので止む終えないところである。

 
 第二の理由として、言葉の定義の問題がある。
 ある一つの言葉が対話の中に出てきたとき、参加者それぞれがその言葉に異なった定義や解釈を持っていると、やがて話が噛み合わなくなってくる。慎重なクリシュナムルティはそこで言葉を定義することから始めることが多い。たとえば、「現実とは何か」「意志とは何か」「言葉とは何か」といったように。それが時に、ある種のわずらわしさ、対話を停滞させるもどかしさにつながる。
 極端な例では、参加者が探求を始める前提(=準備段階)として、Aという言葉をすったもんだの議論の果てに「AはBである」と定義することに合意を得た。と、次に「では、Bとはなんでしょう?」と問いかけ、またしてもすったもんだの議論が始まる。いつしか定義づけの蟻地獄にはまっていく。で、もともとの探求課題から話の流れが逸れて、「いったい何の話をしていたんだっけ? 最初の問いはなんだったっけ?」という事態になる。読者もまた対話の脈絡が追えなくなる。
 本編でも、クリシュナムルティの脱線にしびれを切らした(かどうかは不明だが)ラーフラが、「わたしたちは今どこにいるのでしょう?」と論点を戻そうとする場面がたびたび見られる。脱線の多い職場の会議みたいに、最終的に何が明確になったのかよく分からないまま、時間切れとなっているような印象を受ける。 
 逆から見れば、これは我々が普段あまり深く考えずに使用している言葉や概念が、いかに各人の条件付けによって歪められた主観的な産物であるかの証左である。クリシュナムルティはそれをこそ問題にしているのであろう。

 
 第三の理由は、対話参加者自身の自己同一化の問題がある。
 クリシュナムルティは、「あらゆる伝統的・宗教的・政治的・文化的な条件付けは自己同一化を招き、腐敗の原因となる。真理を見るためには、個人はそれらの頚木から自らを解放しなければならない」と説いた。対談においても、そのようなバックグラウンドを背負った相手には容赦なくそれを指摘し、ありのままの(裸の)個人として「今ここ」にいることを求めた。
 残念なことに、ここでのワルポール・ラーフラおよびイムガルト・シュレーゲルは、最後の最後まで「仏教徒」の立場から離れられないでいる。クリシュナムルティの言説に対し、二言目には「ブッダはこう言いました」「仏典ではこうあります」という言辞を上らせる。あげくのはてにクリシュナムルティにこう指弾される。
 
 わたしは、ブッダについてあなたが語ることを聞いていました。ただ、聞いていたのです。わたしにはわかりません。あなたは引用し、たぶんあなたの引用は完璧でしょうし、正しく引用しているでしょうが、しかし、あなたは自分自身をわたしには明かしてはおらず、それに対してわたしはあなたに自分自身を明かしています。だから、わたしたちは直接ではなく、ブッダを通じて関係を持っているのです。それは、わたしが自分の犬をとても気に入っているとき、あなたもその犬が気に入るとすれば、そのとき、わたしたちの関係は犬好きを基盤にするようになる、ということです。

 どう見ても、ラーフラ、形勢不利。
 他の参加者がどうかと言えば、多くは西洋人的な思考重視の分析癖を持って会話に参加している。クリシュナムルティの言葉を「ただ聞く」のではなく、即座に自分の経験と知識に合わせて自分なりに解釈し、頭の中で自分の言葉に置き換えて、同意や反論や理屈づけを始める。いわば「自分」というフィルターを通して聞いている。(たいてい人はそのように他人の話を聞いている。)
 ここでもクリシュナムルティはスコット・フォーブスに対して、こう指摘する。

 あなたは、聞くとほぼ同時にそれについて考え始めますが、その考えは実際の観察を妨げます。わたしは、そこを言っているのです。ギリシャ人からヒンドゥー人まで、わたしたちの全精神構造は観念の上に成り立っています。そしてわたしたちは、観念は実際に起こっていることではない、実際に聞いていることではない、と言っているのです。

 ここには「聞く」ということの難しさがある。真に「聞く」ためには、人は自らの思想や思考や価値観や好き嫌いといったアイデンティティを形成するものをいったん留保して、アイドリングさせつつ、瞬間瞬間自己覚知しながら、耳を傾けなければならない。
 
 誰もが認める仏教の権威であり、『ブッダが説いたこと』という掛け値なしに偉大な本を書いたラーフラでさえ――あるいはそれほど偉大だったゆえか――仏教徒の立場や経験を離れて「裸の個人として」クリシュナムルティに対峙することができなかったのは、読んでいて残念だし、もったいない気がする。ラーフラが若い頃からクリシュナムルティの熱心な愛読者であり、こうして実際に会って直接言葉を交わす機会を得ることは、おそらく彼の人生における最も貴重な体験であろうと推測できるがゆえに、なおさらである。(修行に励む仏教徒にとって「阿羅漢」と接する機会を持つことは計り知れない益であろう)
 結局、この対談でラーフラが得たのは、「クリシュナムルティはやっぱりブッダと同じ真理を見ている」という確証だけのように思われる。仏教界に持ち帰るには最高の土産だろうが・・・。
 その意味で、対話参加者の中でもっともクリシュナムルティと話が噛み合っているように思えるのは、物理学者のデヴィッド・ボームである。二人の対談集『生の全体性』(平河出版社)や『真理の種子』(めるくまーる)に見るように、ボームほどクリシュナムルティと共に深いところまで達した対談者はいない。おそらくこれは、ボームが提唱したホログラフィックパラダイムという理論とクリシュナムルティの‘世界観’が相似しているからであろうし、科学者でありながら「対話」というものをすこぶる重視したボームの資質およびコミュ力の高さによるのであろう。
 本書の対話がもどかしく感じられる一因は、上記2書と比較してしまうからである。対話の質の問題だ。

デヴィッド・ボーム: 洞察はひとを変容させると思いますか?
クリシュナムルティ: それは先日議論しましたね。洞察は精神の状態を変えるだけではなく、脳細胞そのものも変化させます。


 第四の理由は、第三と関連するが、それぞれの参加者の「対話」への参加姿勢の違いに因る。対話の場をどうとらえているかである。
 クリシュナムルティの姿勢はここでも一貫している。対話は、何かを証明する場でも、何かをアピールする場でも、何かを確認し合う場でも、況やどちらが正しいかを議論する場でもない。一緒に真理を探究する場である。対話を通して「条件付け」を発見し、各自が囚われている思考という牢屋の構造を見抜き、その場で解放を得ること。これこそ、クリシュナムルティが対話に際して参加者各々に要求する姿勢である。
 つまり、「今この場で悟りなさい!」
 しかし、クリシュナムルティと対談した多くの人間にとって、それは高すぎる敷居であった。悟りの重要性は分かっていても、悟りたいとは思っていても、なかなか敷居を越えることができない。それほどまでに、思考は頑強で、自我は根強い。
 あるいは、最初から対話の目的が、クリシュナムルティという一風変わった人物に対する好奇心からであったり、紹介記事を書くこと、議論のための議論、すでに自ら持っている理念や思想について有名な覚者からお墨付きをもらうこと、ケチをつけて仮面をはがすこと、単純に癒しを得るため、崇め奉ること、お悩み相談・・・・等々であれば、最初から対話が噛み合うべくもない。
 同じ目的を持ち、同じレベルの真剣さと熱意と自己覚知の姿勢で持って対談に臨まなければ、遠くまで行くことは叶わない。
 対談中、クリシュナムルティは会話のさなか、たびたび相手に問いかける。
あなたはどんなふうに聞いていますか?」
あなたは事実としてこれを見ていますか?」
あなたはどうなのですか?」
 言葉を理屈として理解する、頭で理解するのは、本当の理解ではない。自分の存在(=アイデンティティ)が根幹から揺らがないような納得は、本当の理解ではないということだろう。


 第五の理由は、「なぜクリシュナムルティは方法論を提示しなかったか」「なぜクリシュナムルティで悟った人は一人もいないのか」に関わることである。
 クリシュナムルティの伝記や若い頃のいろいろなエピソードを読むと、彼が少年の頃から特異体質の持ち主であったことが伺える。いつも一人でぼんやりとして、困っている人がいれば誰にでも自分の持ち物・食べ物をあげてしまう。教師たちには知恵遅れだと思われていた。その後、神智学協会のリードビーダーに見出されてロンドンに連れて行かれ、救世主たるべく様々な帝王教育を受ける。が、クリシュナムルティはいっさい誰によっても何によっても洗脳されることなく、ついには自分を長とする教団を解散してしまう。
 つまり、クリシュナムルティはそもそもの最初から何の条件付けも受けておらず、長じてから条件付けされることもなかったのである。これは、通常の人間では有り得ないことである。クリシュナムルティ自身、自分を「生物学的変種」と言っている。
 また、クリシュナムルティが自らの苦しみを解決するために何らかの宗教に頼ったとか特定の師についたとか、あるいは悟りを得るために苦行したとか瞑想修行したとかいう話もほとんどなくて、青年時代のある神秘体験によって悟りは向こうからやってきた。王位と家族を捨てねばならぬほどの苦悩や虚しさを味わい、悟りを得るために難行苦行したブッダとの違いは明らかである。ブッダが叩き上げの覚者だとしたら、クリシュナムルティはエリートの覚者である。この両者の違いが、最初に述べた方法論の提示の有無に影響しているのではなかろうか。
 
 テーラワーダ仏教では、悟りには「預流果」「一来果」「不還果」「阿羅漢果」の四段階があり、悟りは不退転であるとする。つまり、一度到達したレベルは生まれ変わっても消えることがない。預流果や一来果で亡くなった人間は、生まれ変わったらすでに悟りの状態から人生を開始する。当然、自我が薄い。三毒(欲・怒・無知)に冒されている周囲の人間とはどこか違っているだろう。そのまま出家してさらなる悟りを目指すか、社会にあっては篤志家として尊敬されるのであろうか。
 単なる憶測に過ぎないが、クリシュナムルティはもしかしたら生まれたときから預流果あるいは一来果だったのかもしれない。だとしたら、預流果未満の凡人たる衆生の境地を理解するのは困難であったろう。
 
 家を捨てたブッダは、たくさんの師に就いて教えを乞うた。瞑想の奥義を窮めた。死ぬほど苦しい修行も経験した。そして、それらすべてを「役に立たない」と捨てて一人菩提樹の下に座し、神秘体験もLSDもなく純粋に自らの力で悟りを得た。その成功体験をもとに八正道や瞑想方法を編み出した。悟るために何が役に立ち、何が役に立たないか、十全に知っていたのである。
 一方、生まれながらのエリートであり神秘体験によって覚者となったクリシュナムルティは、「如何にして」というと問い自体が理解できなかったのではなかろうか。彼にしてみれば、なかなか悟れない凡人に対して、「なんで、そんなに苦労しているの? ただ、目の前の真理を見ればいいだけじゃん」と言うほかなかったのではあるまいか。むろん、自らが絡めとられたことのない条件付けを解く方法論を提示できるはずもない。彼にとって「悟るのに時間は要らない」は明らかに‘真’なのである。
 我々凡人が知りたいのはまさに「どうすれば」という方法論――たとえそれが向こう岸に着いたあとは捨てなければならない筏に過ぎないとしても――であってみれば、それを提示してくれないクリシュナムルティにある種の不満を抱くのも無理からぬ話である。
 クリシュナムルティと対談相手の話が、最終的なところでいつも噛み合わなくなるように思えるのは、そして、60年以上世界各地でひたすら語り続けながら、自分に続く者を生み出せなかった彼の徹底的な孤高の理由はそこらにあるのではなかろうか。

ハスの花ピンク

 
 ソルティ自身について言えば、クリシュナムルティを浴びるように読みつつ自己流で瞑想していた30代は、なかなか進展がなく、自己変容も起こらなかった。クリシュナムルティから離れ、依るべきなにものも持たない唯物的な数年ののち、テーラワーダ仏教と出会って仏法の勉強とヴィッパサナ瞑想を開始したら、ゆくりもなく智慧に預かった。自分が変わり、三毒が弱まってきたのを実感している。
 十数年ぶりにクリシュナムルティとこうやって向き合ってみたら、30代のときとは理解の深さがまったく異なっていた。クリシュナムルティの言っていること、言わんとしていることが、なんの抵抗もなくすんなり入ってくる。それも文意の理解つまり頭での理解ではなく、瞑想して納得した‘事実’として理解できる。
 「クリシュナムルティは正しかった」と今こそ思えるのである。

 孤独、絶望、さまざまなかたちの憂鬱、悲しみ、恐怖、これらは人間に共通の運命です。それは明らかです。人間の意識は、その中身で作られ、そしてその中身が、そのようなすべてなのです。世界中の人類は、彼らの特定の名前とかたちを別にすれば、多かれ少なかれ似たようなものです。それに同意なさいますか?




● 本:『ブッダの実践心理学第三巻 心所の分析』(アルボムッレ・スマナサーラ、藤本晃共著) 

治りませんようにほか 003 2007年刊行。

 テーラワーダ(上座部)仏教では二種類の瞑想が奨励されている。
 慈悲(喜捨)の瞑想とヴィッパサナー瞑想である。

 慈悲の瞑想は、以下の4つのフレーズを心をこめて唱えるだけでいい。

 私が幸せでありますように(慈)
 私の悩み苦しみがなくなりますように(悲)
 私の願いごとが叶えられますように(喜)
 私に悟りの光が現れますように(捨)

 二巡目からは、上の「私」のところに、「私の親しい人々」「私の嫌いな人々」「私を嫌っている人々」「生きとし生けるもの」を入れて、それぞれの対象について慈悲喜捨を願っていく。
 簡単な瞑想であり、いつでもどこでも行うことができる。自分は、毎朝の読経の際に1セット唱えているが、それ以外のときも気が向いたら心の中で唱えるようにしている。駅の階段を昇るとき、ホームで列車を待っているとき、列車に揺られているとき、職場(老人ホーム)の更衣室で着替えているとき、休憩時間、帰り道の横断歩道の信号待ち、買い物途中のエレベーターで、皿洗い中、お風呂の中、トイレの便器に腰掛けて・・・。
 簡単な瞑想だが、不思議と唱えると自信が生まれてくる。いろいろな事象や人間関係が好転してくる。鏡に映る顔つきも、老けてきたのは仕方ないけれど、何だか吉相になってきたような気がする。

 ヴィッパサナー瞑想は、別名「気づき(念)の瞑想」とか「観瞑想」と呼ばれる。
 基本は座禅を組み、目を閉じて、身体や心に起こる現象をありのままに気づき、その場その場で「実況中継」していく。
 「(腹の)ふくらみ、ちぢみ、ふくらみ、ちぢみ・・・」
 「(足の)痛み、痛み、痛み、痛み・・・・」
 「(何かの)音、音、音、音・・・・」
 「退屈している、退屈している・・・・」
 「妄想している、妄想している・・・・」
 「怒っている、怒っている・・・・」
 「眠気、眠気、眠気・・・・」
 人間の認識の生じる六つの窓口(眼耳鼻舌身意)に注意を向けて、瞬間瞬間入ってくる六つの情報(色声香味触法)を丁寧に拾っていく作業と言える。
 これもまた一見簡単そうに見えるのだが、実は難しい。
 まず座禅し続ける難しさ。慣れないうちは15分も座っていると足が痛んでくる。
 どうにか慣れてくると、次は心があちこちに彷徨い出して、念が途切れる。「実況中継」を忘れて、今日の夕食のことや明日の仕事のことや助平なことを考えている。あるいは知らぬ間にぼっーとまどろんでいる。
 この瞑想を始めて4年以上になる今は、1時間以上足の痛みを感じずに座ることができるようになった。妄想にとらわれることも少なくなった。たとえとらわれても比較的短時間で気づいて「実況中継」に戻ることができるようになった。
 しかし、次の困難が待っていた。
 それは、暇な時間にあえてヴィパッサナー瞑想をしようという気力がなかなか起きないことである。
 忙しくて時間がないときほど瞑想がしたくなる。座りたくなる。休日が待ち遠しい。
 で、休日になって自由に使える時間ができると、瞑想しないでネットにかまけたり本を読んだり家事をしたり山登りに行ったり、こうしてブログを書いたりする。「時間はいっぱいあるから今でなくてもいい」なんて言い訳を頭の中でしているうちに、一日が終わってしまう。
 何が起こっているのか。
 なんでさぼりたいのか。
 答えはこれだ。 

生命の本能は、貪瞋痴です。本能に合わせて生きることは、楽に感じるのです。ですから人は、楽な道を選ぶのです。その楽な道は、貪瞋痴の本能なので、不善です。不幸の結果を出します。苦しむこと、不幸になることが目に見えても、人が不善の道を歩むのは貪瞋痴という本能のせいです。(標題書)

 瞑想は、本来はまったくやりたくないことなのです。心の流れにまったく正反対のことですから。「心がやりたくないこと、心が嫌がること」の第一位は、確実に「瞑想すること」です。競争なし、断トツの一位です。だから瞑想するためには、どうしても、精進が必要なのです。(同上)

 瞑想は本能とのたたかいなのだ。
 そりゃあ難しくてあたりまえだ。


 スマナサーラ長老によるアビダンマ講義第三弾は「心所」について。
 「心所」とは何か。
 心の中身(成分)のことである。

 仏教心理学の基本概念は、「認識」です。認識はどのように生まれるのか、認識の中身は何なのか、認識はどれくらいあるのか、という課題が仏教心理学です。

 仏教では、心とは「認識する働き(システム)」のことである。一つの生命に必ず一つ備わっている機能である。機能なので、そこに内容はない。
 しかし、言うまでもなく、心はいろいろと変化する。怒ったり、悲しくなったり、楽しくなったり、嬉しくなったり、嫉妬したり、恨んだり、後悔したり、退屈したり、落ち込んだり、有頂天になったり、疑ったり、物惜しみしたり、優しくなったり・・・。
 こうした感情や気分のことを心所と言い、心がいろいろ変化するのは、瞬間瞬間、さまざまな心所が心の中に溶けているから、とするのである。
 たとえてみれば、テレビ(受像機)=心、テレビ番組=心所といった感じか。テレビ自体は電波を受信し映像を映す働きを持った箱にすぎないが、モニターに流れる番組の内容によって、視聴者を悲しくさせたり、笑い転げさせたり、怒らせたり、退屈させたり・・・という違い(色)が生まれる。
 仏教ではこの番組内容(=心所)を52種類に弁別している。
 単純に言えば、人間の心に起こる感情の種類を分析し、善いもの、善くないもの、どちらでもないものに分類し、リストアップしたのである。

 このように感情を緻密に分析し言語化しグループ毎に取りまとめてリスト化していく意味はなんだろう?  

 心は水の如く、善いも悪いも何もない。その心に怒りが溶けたら、怒っている心になる。その心に慈しみの感情が溶けたら、優しい心になる。だから一人の人が、たまに怒りっぽくなったり、たまに嫉妬深くなったり、たまに慈しみの心になったりする。どれでもできるのです。
 我々にとって、心よりも心所が一番大事なことなのです。ただ生きている・認識しているということは、そんなに大事ではありません。どう生きているかということ、どう生きるべきなのかということが、大事なポイントです。

 そしてまた、ヴィッパサナー瞑想する観点からすると、意識に浮かんできた思考や雑念や感情や気分にとらわれないように、たちまち気づいて、命名して、「実況中継」するために、心所の種類をあらかじめ知っておくことは意義があるのだろう。


 以下、本書より引用&コメント(青字)。


● 無知とは

 厳密に仏教の立場から言うなら、無知とは、「すべてが無常であること、消滅変化していくこと、瞬間瞬間、そのときに現れる一時的な現象であること、だからものは存在しないこと、空であることを分かっていない状態」なのです。

 何ものにも「本来の自分」というものもない。私たちはよく「今はちょっと歳を取っていて調子が悪いんだ」などと言いますが、それは何かに比べて言っているのです。では、「本来の自分」とはどんな調子か、どんな歳か、どんな状態か、言えますか? そんな「本来の自分」というものはないのです。いつでもいるのは「その時々の自分」であって、一瞬前の自分は今の自分ではないし、今いる自分は次の瞬間の自分とは違うだろうし、その時々にいるだけなのです。

 「本当の自分」幻想はしつこいものである。「今はいろいろあって輝けて(はじけて)いないけれど、本当の自分はこんなじゃないんだ。」「今は巣篭もり中で、まだ本気を出していないだけ。」と思いながら数十年を過ごしてしまう。だが、その数十年の姿(=周囲から見られた姿)以外に「本当の自分」はなかろう。


● 反省と後悔の違い

 反省と後悔の違いは、反省がポジティブ志向で、後悔はネガティブ志向であることです。反省する人は、過ちをバネにして良い人間になる。後悔する人は、過ちを頭の中で再現して罪を加算してゆくのです。

● 最大の罪とは 
 仏教では、最大の罪は邪見だと説きます。邪見は見解、知識、思想、哲学などにかかわるものです。百人を殺すよりは、百人に何かを教えてあげることの方が簡単です。影響力のある人なら、たくさんの人々の心に邪見を植えつけることができるのです。人間は、財産よりも自分の見解に固執するのです。この邪見の伝統は、何世紀にもわたってでも拡げることが可能です。というわけで、邪見が他の罪より重いのです。

● 自業自得について  
 すべての生命は自分の業で生きているのです。自業は自得なのです。要するに自分の行為の結果なのです。犯罪者が裁かれて社会から隔離される。それは犯罪を起こした人の行為の結果なのです。幸福に生きている人々も、自分の為した業で幸福になっているのです。ということは、生命は「自立」しているということです。苦しんでいる人々の苦しみは、その人の為した業の結果なのです。人が人を殺したとしましょう。被害者は加害者のせいで死んだわけではありません。被害者に殺される業があったところで、心の汚れた愚か者に遭遇するのです。加害者が新たな重罪を蓄積したのです。被害者が加害者に対して恨みを持つ必要はないのです。

 これは微妙な問題である。犯罪被害者に向かって、「被害にあったのは加害者のせいではない。あなたの業(カルマ)ゆえだ」と言うのは慈悲にかける行為であろう。
 また、「自業自得」という言葉は一般に起きた悪い結果について使われることが多いが、本来は善いも悪いもない。「原因があって結果が生じた」というだけのニュートラルな意味合いである。


●自我について

 「自我を捨てなさい。執着を捨てなさい」と言われると、人は嫌な気分になる。「こんな大事なもの、捨てなさいと言われても捨てられるわけがない」と思います。ブッダの話を聴くと、大損するのではないかと思ってしまいます。
 しかし、自我を捨てても執着を捨てても何の損もありません。始めから自我がないのです。あるのは「自我があるという幻想」です。幻覚が消えたところで、良くなるのであって、悪くなるはずがないのです。

 かつてクリシュナムルティにこう質問した人がいる。
「自我を捨てることで、私に何の益(goods)があるのですか?」
「それ自体が良いこと(good)なのです」


● 二つの瞑想の違い

 慈悲喜捨の瞑想は、「どうすればみんなと仲良く幸福で生きていられますか」という問題に答えてくれる。ヴィッパサナー瞑想は、「生きること自体をどうやって乗り越えられるか」という問題に答えを出す。だからまったく正反対なのです。生命と一緒にどうやって生きていられるか、ということと、どうやって生命と関係なくなるか、どうやって輪廻から脱出するかという二つだからです。


 評論家の宮崎哲弥が「仏教の劇薬性」という言葉を使っているが、本来の仏教の革新性というか破壊性は途方もないものである。
 悟ったばかりのブッダはこう考えた。

 苦労して体験した。今語る気持ちは起きない。
 欲と怒りに染まっている人々に、この法は理解しがたい。
 これは逆流を進む完全たる道。深遠で精密である真理は、無明の闇に覆われた、欲がある人には発見できない。


 仏教は思想や理論や言葉が難しいのではない。
 人間の本能に逆行するがゆえに、実践が難しいのである。


 サードゥ サードゥ サードゥ


● 摩天楼法話会:『真理を喜ぶものは、安らぎを得る』(講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

常圓寺 004 9月25日(火)西新宿駅にある常圓寺祖師堂にて。

 こんな繁華街のど真ん中、新宿駅から目と鼻の先にお寺があるとは知らなんだ。青梅街道をはさんだ向かい側には都庁はじめ高層ビルが林立している。相当な地価だろう。
 境内には墓園もあって、お彼岸最終日のこの日、墓参りに訪れた人々の姿がちらほらと見えた。便利なところにお墓があったものである。

 常圓寺は日蓮宗のお寺であ常圓寺 002る。
 日蓮というと他宗派をいっさい認めない排他的イメージがあるのだが、昨今の日蓮宗はそんなこともないらしい。
 それでも、それがどんなに偉くて有名であろうとも、大乗仏教の他宗派のお坊さんを講師に招くことは考えられまい。やはり、小乗仏教すなわち原始仏教(テーラワーダ)の長老だからこそ、スマナサーラ氏は招かれたのだろう。何というか、分家の行事に本家の長男がよばれてご挨拶みたいな感じだろうか。仏教の根本を今一度見直そうという、日本大乗仏教の焦りと反省みたいなものだろうか。

常圓寺 001 祖師堂というだけあって、お堂の正面には仏像ではなく日蓮上人が祀られている。
 参加者は80名くらい、ほぼ満席だった。
 法話の前に、全員で法華経を唱える時間が設けられていた。


 今日の話のポイントは、真理を知ることで平和が訪れる、というタイトルどおりの内容であった。(とわざわざ書くくらい、その日のタイトルとスマナ長老が実際にする話とはギャップがあることが多いのである。)
 以下、概略する。


● 人々が争ったり喧嘩したりするのは、曖昧なこと、はっきりと事実が判明していないことについてである。
 例)真の神はエホバかアラーか?
   聖書とコーランどちらが正しいか?
   尖閣列島は日本のものか中国のものか?
● 私たちは事実については喧嘩をしない。
 例)地球は丸い。
   ガンになったら病院に行って治療する。
   人の死亡率は100%。
● ゆえに、真理を知ったら最早争う必要がない。平和である。安らぎに満たされる。
● 真理を喜ぶ生き方とは、何が真理か自分で調べて確かめてみようとする姿勢のことを言う。
● ブッダの伝えた真理とは、「一切行苦」「諸法無我」「諸行無常」などである。
● 仏教は、しかし、上記の「真理」を押しつけることはない。ブッダの言葉が本当かどうか各自で徹底的に調べてみなさい。挑戦してみなさい。


 というような骨子であった。


 そうなのだ。キリスト教徒とイスラム教徒とが争うのは、神の正体が曖昧だからである。いつの日か大空から全知全能の神が降りてきて、全人類の前で生命や自然を創り出す奇跡を行い、「私が神です。当然名前はありません。エホバもアラーも神ではなく、私が地ならしに派遣した弟子たちです。」とでも言明すれば、最早宗教戦争はなくなるだろうに。
 事実については誰もが納得せざるを得ない。
 あるいは、誰もが納得せざるを得ない事実が、真理なのである。

 では、我々は真理をどうやって知ることができるのだろうか?
 肝心なのはそこである。
 「ブッダの言ったことが真理だから、それをよく学んで信じなさい。」と言うのでは、キリスト教やイスラム教と何ら変わりはなくなる。あらかじめ真理(の書)があって、それに従うのは信仰である。それではいっこうに問題が解決しないのは見てきたとおりだ。

 そもそも、「私」が「真理」を発見する、という言い方自体に誤謬がある。
 受動態にすると分かりやすい。

 「真理」は「私」によって発見される。


 つまり、この「真理」は、発見された時点ですでに「私」というバイアスがかかっているのである。そこには、「私」の過去の経験、知識、欲望、怒り、コンプレックス、プライド、トラウマ等々が、多かれ少なかれ投影されてしまっているのである。それは、「私」にとっての「真理」であって、他人が見たら「真理」どころか「誇大妄想」「危険思想」「トンデモ本の世界」に過ぎないのかもしれない。
 実際、新興宗教の最終解脱したとか言う教祖が語る「真理」を見れば、この構造は手に取るようにわかる。
 「真理」が誰もが納得し誰にでも通用する事実の謂いであるのなら、「真理」は断じて「私のもの」「誰それのもの」であってはならないのである。
 結論として、「私」は「真理」を知ることはできない。


 では、どうやって・・・???


 「私」にできるのは、「私」の中味を観察し吟味し、その構造を調べ尽くすこと、そして、これまで「真理」として語られてきたこと、唱えられてきたこと、信じられてきたこと、伝えられてきたことについて否定もしくはペンディングすること、だけである。もちろん、それが仏教だろうとも・・・。
 クリシュナムルティはこう述べている。

 信ずるな。ただし、諸君自身をも含むいかなるものも。
 諸君の不信と共にぎりぎりまで歩め。
 そうすれば、疑い得たあらゆるものは虚偽であったことを、そして最も激しい<懐疑の炎>に耐えうるもののみが真理であることを見出すであろう。
 なぜなら、そうなってもなおかつ残るものが、懐疑をその自己浄化過程とする<生>にほかならないからである。(ルネ・フェレ著『クリシュナムルティ 懐疑の炎』より)



 仏教においては、カーラーマ経の中の10項目の教えが有名である。

 大乗仏教と原始仏教の最大の違いは、おそらく、大乗仏教が仏教を「信仰」にしてしまったところにあると思う。
 本来の仏教は、信仰とはかけ離れた実証主義の精神そのものなのである。(大乗の中では禅が実証主義だと思うが、禅は「悟り」を信仰にしてしまったように思う。)

 仏教の性質は、テーラワーダ仏教を学ぶ者が日常唱える「法の六徳」の中に明確に表されている。



 世尊の法は
1. 善く、正しく、説き示された教えです。
2. 実証できる(いつでも誰でも体験できる)教えです。
3. 普遍性があり、時の経過に耐えうる教えです。
4. 何人も試して、確かめてみよ、と言える教えです。
5. 実践者を涅槃に導く教えです。
6. 賢者たちによって各自で悟られるべき(他力救済を説かない)教えです。



常圓寺 003




● 東と西とが出会う時 本:クリシュナムルティ・懐疑の炎(ルネ・フェレ著、瞑想社)

 久しぶりのクリシュナムルティの本。クリシュナムルティ・懐疑の炎

 と言っても、クリシュナムルティ自身が書いたものではなく、クリシュナムルティの教えの熱心な共鳴者にして理解者であるルネ・フェレが、クリシュナムルティについて解説した本である。

 第一部では、インドの貧しい家庭に生まれた少年が、いかにして「世界教師」の器として英国のブルジョワのスピリチュアリスト達に見出されたか。青年時代にどのような精神的成長を遂げていったか。そして、どのようにして覚醒したか(悟りに至ったか)を紹介する。
 そこに、著者は何にもまして「懐疑の精神」を認める。既存の伝統、宗教組織、教義、哲学、霊的体験(それがいかに神秘的なものであろうとも)、権威、イデオロギーについて、鵜呑みにするのではなく、むしろ徹底的に否定する。その否定につぐ否定の道行きの先にしか真理はあらわれない。
 結果、クリシュナムルティは自らを営々と養い育ててくれた母体自体(神智学協会、星の教団)をも最終的に否定し、決別することになる。

 第二部ではクリシュナムルティの教えの核心を、彼と長年の知遇を得た著者の理解のままに、著者自身の言葉で語る。
 「異様なまでに凝縮され、研ぎ澄まされたクリシュナムルティ論」と訳者である大野純一があとがきで書いている通り、実に考え抜かれ、時の中で熟成され、言葉も引用も選び抜かれ、無駄な説明を徹底的に省いた、高い緊張感と緊密な論理をはらんだ文章である。一行たりともおろそかには読めない。ルネ・フェレのクリシュナムルティ理解が半端でないことが知られる。たんなる解説書とか伝記の域を超えて、この本自体が一つの哲学書というか思想書と言うべきであろう。

 序文を書いた英訳者は愚かにも、「本書をクリシュナムルティの教えの入門書とみなされたい」と述べているが、なかなかどうして入門書のレベルではない。適切な喩えではないかもしれないが、大乗仏教の真髄を凝縮している般若心経みたいなものだ。般若心経を大乗仏教の入門書とは言えまい。
 クリシュナムルティを相当読んできた読者が手にしてはじめて、真価を発揮する本である。一文一文があたかもタグであるかのようで、そこをクリックすれば、クリシュナムルティという広大なサイバースペースにある、膨大な彼の著書の中の他の言葉群や、他の人間が記した彼の伝記中のエピソードにつながる、そんな感じである。
 
 自分も一時、相当クリシュナムルティを読んだ。クリシュナジーにイカれたと言ってもよい。
 覚者、光明を得た人、現代の仏陀、孤高の哲人、世界教師、真理を知る人・・・。
 その神秘的な生い立ちと、古代ギリシャの哲学者のような印象的な風貌、そして、世界的な学者であろうと宗教家であろうと政治家であろうとマスコミであろうと、いかなる対談相手をも凌駕する、洞察力と観察力と存在感。また、詩人としての才能も豊かであり、同じ大野純一が訳している『生と覚醒のコメンタリー』(春秋社)などは、自然描写と彼の哲学とが客観的で抑制の効いた詩的な文体のうちに見事に融合した、第一級の随筆である。ことあるごとに本棚から抜いては、あちらこちらのエピソードを読み返し、しばし黙想にふけったものである。(いまこれと同じことをナンシー関の本に対してやっている。)
 
 しかし、あるとき、引越しを機に、持っていたすべてのクリシュナ本を友人の経営している古本屋に売ってしまった。
 なぜか?
 「もういいや」と思ったのである。
 
 亡くなって25年になる今も依然としてクリシュナムルティの人気が高いのは、どの程度本気なのかは問わず、「悟り」を求める人が多いからであろう。「真理」と言いかえてもよい。自分もまたその一人である。それが、個人においても、社会においても、唯一の「苦」からの離脱の道だと思うからだ。
 悟りとは何なのか、悟った状態とはどんなものなのか、悟るためには何をすればいいのか、悟った人は世界をどのように見ているのか・・・・。
 そういうことを知りたくて、クリシュナムルティの本を何冊も購入しては熟読してきたのであった。それが、どの本も結局、同工異曲、同じ言説の繰り返しに過ぎないとわかっていても。(真理は一つなのだから、当たり前の話なのだが)

 しかるに、たった一つ、疑問があった。
 クリシュナムルティは一切、真理にいたる手段、方法について語っていないのである。自分自身が悟りながら、世界中を旅して悟ることの重要性について膨大な聴衆に伝え、自己変容を促しながらも、「そこに至る道はない」と無情にも言い放つのである。
 
 これは最初からわかっていたことだった。
 
 クリシュナムルティが、孤高の覚者として、何ものにも縛られない一人の世界教師として、最初の咆哮を放ったのは、いわばクリシュナムルティが「クリシュナムルティ」になったのは、1929年オランダのオーメン集会。何千人という会員の前で、自らが長であった「星の教団」の解散宣言をした時である。
 彼の第一声がこうである。 

 「私は言明する。<真理>は道なき領域であり、いかなる道をたどろうとも、いかなる宗教、いかなる教派によろうとも、諸君はそれに近づくことはできない。これが私の見解であり、私はそれを絶対かつ無条件に支持するものである」。

 この言葉がクリシュナムルティ自身を縛ってしまった、とは言わない。
 しかし、クリシュナムルティは執拗に(と言っていいだろう)方法論を語ることをその後の生涯にわたって拒否した。結果として、クリシュナムルティの周囲で、またはクリシュナムルティの言葉を聴いて「悟った」人間の話はまったく聞かないのである。
 むろん、悟った人間は「私は悟った」とは言わないからかもしれない。自己主張や自己定義や自己顕示の欲望から自由なのが「悟っている」ということであるならば。
 
 ある意味では、「一切の方法論に懐疑の目を向け、それが内包する欺瞞~自我(エゴ)が存続するための巧妙な手口~を徹底的に暴き、それを否定する」という方法論を提唱したと言ってもよいのかもしれない。そうやって、すべてを徹底的に洞察し、虚偽を虚偽として見抜き、退けたさきに、「それ」が訪れる可能性がひらける。

 人が、自分自身の避けがたい問題から逃避しようとする一切の企ては失敗に帰着するということを悟るに至るとき、彼は真の孤独の何たるかを知るであろう。クリシュナムルティが単独性(aloneness)と呼ぶものは、たんなる寂しさではなく、真の、根源的孤独である。彼は全的裸形と全的責任の苦悶を経なければならない。彼は己の最も内奥の苦痛であり、そしてそのなかで彼が生きている社会風土に助けられて無数の自己欺瞞の下にひた隠しにしてきた、基本的恐怖に直面しなければならない。彼はいまや、この恐怖に充分に気づく。それは彼の骨髄までしみ通り、彼をその氷のような手で締め付ける。けれども、この死の苦悶は新生の陣痛に他ならない。彼の恐怖の叫びは、突如として最終的な解放の歌になる。苦悩はそのクライマックスに達し、そして突然消え去る。人は、一切の<私>意識が置き去りにされた後の、ある新しい、名状しがたい状態のまばゆい光のなかへ入る。

 筋道は明瞭だ。
 しかし、誰がこの困難極まりない道程、自分が正しい方向に進んでいるのかどうかさえ検討がつかないような道を、たった独りで、誰の助けも、何の手段も用いることなく遂行できるだろう? それができるのは、クリシュナムルティのように「選ばれた」人のみではないか、と皮肉の一つも言いたくもなる。
 そしてまた、こうも思う。
 いかに生来の資質に恵まれていようとも、クリシュナムルティ自身もまったく独力で「そこ」に達したわけではない。少年の彼を見出し、然るべく教育した人々がいて、何がしかの霊的知識を与えつつ、世界教師への道を整えてくれた組織が存在し、個人的にもヨガや瞑想を指導してくれた師がいたはずである。それらがなければ、彼は生まれ故郷のインドにいて、バラモンの伝統のままに生き、ちょっとぼんやりした、仕事のできない貧相な男のままで一生を終えていたことだろう。・・・・・

 言いたいことは分かった。もう言葉は十分だ。
 要は、頼りにする杖を持つなということだろう。
 ならば、まずクリシュナムルティを片づけよう。
 そうして、自分はクリシュナムルティのすべての本を手放したのであった。


 クリシュナムルティの教えは、よく革命的と言われる。
 その通りである。
 しかし、実のところ、それは西洋人にとって革命的なのであって、東洋人、とりわけ仏教徒にとってはなんら目新しいものではない。もっと断定的に言えば、仏陀の教えをそのままに伝える南方系の仏教を学ぶものにとっては今さらの言説のオンパレードである。
 クリシュナムルティの教えは、まったくのところ仏陀のそれとかわりがないのである。(その意味では、両人がインドから出たということは何か因縁を感じる)
 たとえば、上記の引用文は、そのまま仏陀の教えの中核となる「四聖諦」と重なる。
 まず、一切行苦に対する認識があり(苦諦)、そこには渇愛という原因があることを見抜き(集諦)、それを終わらせることができることを確信し(滅諦)、そのための道を示す(道諦)。仏陀もまた「苦」こそが、解放への手がかりになることを説いたのである。
 しかも、仏陀にあってクリシュナムルティにないものがある。そう、4つめの道諦、真理へ至るための方法論である。仏陀は、道諦の具体的な内容として八聖道を伝えたのであった。

 クリシュナムルティが革命的と称えられる最大のポイントは、近代西洋文明の根本基盤となっている「自我」を否定したところにあろう。確固たる自我があると考えることがそもそもの誤りであって、その自我の固定化と拡張傾向こそが諸悪の根源と喝破したのである。そして、自我の形成にあずかるところ大である「思考」を、害悪以外の何ものともみなさなかった。

 これもまた仏陀の専売特許である。
 諸法無我。そして、思考を退治するための修行方法としての観冥想(ヴィパッサナー)。


 クリシュナムルティは、幼くして東洋(インド)から西洋(イギリス)に渡り、上流階級の間で西洋文化の洗礼を受け、西洋的学問やマナーを基礎から身につけた。日常会話も講話もクイーンズイングリッシュだったと言う。
 だからこそ、西洋的概念と語彙を使って、古くから東洋に伝わる教えを、西洋人に理解しやすいスタイルのうちに伝え広めることができたのだ。
 だからと言って、別にクリシュナムルティを貶めるつもりは毛頭ない。仏陀と同じ真理にほとんど独力で達した。それは、圧倒的に偉大なことである。

 そうして、西洋はクリシュナムルティを通じて、ようやく仏陀を発見するのである。

 

記事検索
最新記事
月別アーカイブ
最新コメント
ソルティはかたへのメッセージ

ブログ管理者に非公開のメッセージが届きます。ブログへの掲載はいたしません。★★★

名前
メール
本文