テーラワーダ仏教協会の月例講演会。
会場は代々木にあるオリンピック記念青少年総合センター。
スマナ長老の話を聞き始めて丸3年になるが、最近話の内容が高度と言うか、濃いと言うか、あけすけと言うか、いよいよもって仏教の核心にずばり踏み込んでいくような大胆さと迫力とを感じる。どうも3.11以来、その感じが強まっているような気がしてならない。ひとりひとりが悟ること、変容することの重要性、緊急性が増しているとでも言うかのように。やはりマヤの予言は実現するのか?(笑)
それとも、常連の多い聴衆者のレベルがそれだけ上がってきているのだろうか。
いずれにせよ、聞くたびに焦燥感にかられる。
今回の話も実に深い、実に鋭い、実にシビれるものであった。
サティ(気づき)の重要性を説明するのに、スマナ長老がとっかかりとして持ち出したのは、なんと「この世の仕組み」「認識の仕組み」「生命の仕組み」という大がかりなテーマであった。
考えてみたら、すごいことだ。開口一番、「はい、これからこの世の仕組みについて話します」なんて、誰にでもできることではない。(スマナ長老が実際にそう言ったわけではない。念のため。)
○ すべての生命の認識(知覚)システムは、幻覚をつくる(捏造する)ようにできている。
○ 存在(世界)とは、認識システムによってとらえた情報を主観で組み合わせて作り出したもの(=幻覚)である。
○ 認識システムは、動物・植物・昆虫・人間の別をとらず、一つ一つの生命によって異なるので、「私」の世界と「他人」の世界とが異なるのが当然である。「私」の世界を「他人」が知ることも、またその逆も、不可能である。
○ 「私」は、幻覚を事実と錯覚してしまい、それにとらわれてしまう。それによって「苦」が起こる。
○ 幻覚(捏造)が起こるのは、六門(眼・耳・鼻・舌・身・意)に絶えず入ってくる、色・声・香・味・触・法という情報(データ)を処理する仕方が間違っているため。
○すなわち、
六つの門に情報が触れる
↓
「感じた者」が概念(想)をつくる
↓
概念ができたら思考する
↓
この思考が捏造する
↓
過去・現在・未来にわたって捏造された概念を適用する。
○ アジタ行者とブッダの問答
アジタ: 世は何に覆われている?
ブッダ: 無明によって覆われています。
(六門からの情報により捏造された幻覚が事物の本然の姿を覆い隠している)
アジタ: 人はなぜそのことが分からない?
ブッダ: 疑いと放逸とがあるからです。
アジタ: この無明の状態を固定してしまうものは何か?
ブッダ: 妄想の回転です。
アジタ: その結果起こる危険とは?
ブッダ: 苦が起こることです。
アジタ: あらゆる方向から、絶えず流れ(=情報)が入り込む。どうすれば止められる?
ブッダ: サティ(気づき)がこの流れに対する堤防です。智慧によって無明がなくなります。
と、やっとここでサティが出てくる。
仏教におけるサティとは、「(情報の流入→捏造)という大いなる津波に対して堤防として働くものであり、サティは生命そのものの問題である」と長老は言う。「生きるとは知ることであり、知るとは捏造することです。」
つまり、我々(生命)が生きるとは、それぞれの認識システムを使って捏造した世界(幻覚)を瞬間瞬間作り出していることであり、幻覚の世界に「私」をもって生きるとき、絶え間のない「苦しみ」が生じるのである。
「苦しみ」から離脱するには捏造をやめること。六門から入ってくる情報を、次の段階(概念を作る、あるいは思考が始まる)にまで持っていかずに、即座に楔を打つ。
その楔こそサティなのであろう。
こうしたことを「頭で理解する」ことと、実際に「体験する」こととは違う。体験してこそ納得し確信が持てるのだから。心が裏返るのだから。体験するためには、やはり修行=瞑想が不可欠である。
自分は、頭では理解しているつもりなのだが、なかなか悟れない。
やっぱり、精進が足りないのだろう。