ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

シェーンベルク

● 失恋フーガ、あるいは少子化問題処方箋 :オーケストラ・エレティール第56回定期演奏会

日時 2017年9月16日(土)18:00~
会場 武蔵野市民文化会館大ホール
曲目
 J.S.バッハ(シェ-ンベルク編曲)/前奏曲とフーガ 変ホ長調 BWV552「聖アン」
 マーラー/交響曲第5番 嬰ハ短調
指揮 長田 雅人

 エレティールを聴くのは2回目。今回は大編成を要する2曲である。

P9160251

 
 1曲目はバッハ(=見事な対位法)とシェーンベルク(=見事なオーケストレイション)のイイトコ取り。とくに後半のフーガ部分が、連発花火のように多彩で華やかで自由自在で素晴らしかった。バッハの曲はゴチック教会の荘厳さと陰鬱さを思わせるけれど、シェーンベルクの魔術的なアレンジメントによって「極彩色のステンドガラスを通して聖堂に煌びやかな陽光が差し込んできた」といった印象。 
 傑作である。

花火



 配布されたプログラムを読んで知ったのだが、シェーンベルクは26歳(1901年) のとき先輩作曲家であるチェムリンスキーの妹と結婚している。が、8年後に妻は画家と駆け落ちする。つまりコキュにされたのである。妻は戻ってきたが画家は自殺したそうな。
 別記事で書いたが、シェーンベルクが1899年に作曲した『浄夜』はまさに愛する女の不貞を描いた作品である。別の男の子供を宿してしまった女を寛大にも許し受け入れる男の話。なんとシェーンベルクは予言者よろしく、自ら作曲した物語をそのまま生きる羽目になったのである。
 そのうえ、このエピソードには対位法のような第二旋律がある。シェーンベルクの義兄となったチェムリンスキーは社交界随一の美女を愛したが、尊敬する先輩音楽家であるマーラーに分捕られてしまう。アルマ・シントラーのことだ。
 人の心に錠はかけられない、恋愛は自由とは言うものの、芸術家の人生はかくも物狂おしく忙しい。
 

アルマ
魔性の女 アルマ・シントラー

 2曲目は大好きなマーラー5番。
 クラシックの名曲中の名曲であり、星の数ほどある交響曲のうちトップ10に入る人気曲であるのは間違いないけれど、ソルティはこの曲をはじめて聴いてから数十年来、微妙な違和感というか‘引っかかり’を持っていた。「名曲なのは確かだけれど、聴くたびに感動するのも間違いないけれど、一体この曲のテーマは何なのだろう?」という思いである。
 むろん、音楽に(交響曲に)テーマを求めるのは文学かぶれ&精神分析かぶれした現代人の悪い癖なのかもしれない。交響曲に優れた小説や戯曲に見るような構成やストーリー展開の妙を読み取ろうとするのは、推理小説やハリウッド映画を愛するソルティの生理的嗜好に過ぎないのかもしれない。純粋音楽という言葉があるように、音楽はテーマや物語性とはまったく別の領野で、音楽それ自体の輝きによって人を感動させ得るものである。マーラー5番もその証左であって、各楽章の個性やメロディの美しさ、楽器の音色やオーケストレーションの豊かさ、曲調や演奏から受け取る‘気’を味わえば十分であって、そこに何も解釈すべき物語をわざわざ想定しなくてもよいのかもしれない。
「テーマなんて関係ない。そのままで十分に美しい!」

 しかしたとえば、ベートーヴェン《第九》に較べると、あるいは同じマーラーの1番《巨人》や2番《復活》や3番に較べると、5番は統一感がないというかアンバランスな印象を受けるのである。《第九》には「暗から明へ」という流れがあった。第1楽章から第3楽章までの様々な地上的な心境を経験した魂が、最終楽章においてついに「ユリイカ! それは父(神)に帰依する喜びだ!」と高らかに宣言するという劇的ストーリーが読み取れる。マーラー1番は別記事で書いたように「愛と青春の旅立ち」とでも言いたいようなテーマ性を発見(発明)できる。2番はまんま「復活」、3番は「自然」がテーマである。どちらかと言えばマーラーは文学性が濃い作曲家だと思うのである。してみると、5番にも何らかのテーマが托されているのではないか。そう勘ぐってしまうのも無理からぬ話ではないか。
 しかるに、この5番と来たら、楽章ごとにあまりに雰囲気(曲想)が異なっていて、楽章間の有機的つながりがいっこうに見えてこないのである。(音的なつながりは見出せる。有名な第4楽章のメロディが他の楽章中でバリエーションを奏でている)

 第1楽章の‘運命的’はじまりと葬送曲は、マーラーの十八番たる「暗・鬱・孤独・不安・宿命」であろう。
 第2楽章の落ち着きのなさと幾度も繰り返される絶頂と虚脱の意味するものは?
 第3楽章こそ謎である。「暗→明」「鬱→躁」「孤独→愛」「不安→安心」「宿命→恩寵」への転換が聴き取れるのだが、そのきっかけとなるものは何なのか? そして、散漫・冗長と思えるほど長大で独りよがりな構成の意味するものは?
 唐突に彼岸に運ばれる第4楽章。圧倒的に甘美だが、他の楽章から浮きすぎている気がしないでもない。油絵の中に一つだけ水彩画が飾られているような印象だ。
 そして、もっとも謎に包まれた第5楽章。軽快で躁的な曲調はどうやら「暗」から「明」に達したということらしいけれど、あまりに無邪気すぎる。やんちゃすぎる。これをベートーヴェン《第九》最終楽章同様の「喜び」と解してもいいものだろうか? マーラーは「答え」を見つけたと言ってもいいのだろうか? なんだか浅すぎる。(ベートーヴェンが深すぎるだけか)
 
 いま一つの謎は、曲全体に漂う官能性、エロティシズムである。
 第4楽章はまぎれもなく人間の作ったあらゆる音楽の中で、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』と並び最も官能的なものの一つであろう。「タナトス(死)に向かうエロティシズム」といったバタイユ的匂いがある。だからこそ、ヴィスコンティは『ベニスに死す』でこの曲をBGMに選んだのだろうし、モーリス・ベジャールはバレエに仕立てたのであろう。
 この第4楽章の印象があまりに強いので他の楽章にもエロティシズムを付与して聴いているきらいがあるのかもしれない。が、ソルティは5番を聴いているといつも、とくに第3楽章あたりから‘音楽とSEXしているような気分’になるのである。結果、客席で恍惚感に身をゆだねている。


マンジュシャゲ


 今回の長田雅人&エレティールの5番は、ソルティがこれまで(CD含め)聴いた中でもっともテンポがゆったりしていた。最初から最後まで非常に抑制を効かせていた。長田がそのように振った理由は分からないけれど、それによって楽章ごとのキャラクターが明確になり、ソルティが感じる‘引っかかり’と恍惚感を客観的に分析し意味づけするだけの余裕があった。
 結果、ついにこの曲の自分的に納得いく解釈を見出したのである!
 やってみよう。

 第1楽章は、愛を知らない孤独な男の魂である。自我と性欲の重みにつぶされんばかりになっている。あるいは、マスターベーションにおける妄想のSEXである。
 第2楽章の落ち着きなさは、ハンティングに乗り出した男の渇望と高揚と挫折を描いている。いろいろな女と出会い、恋のゲームを楽しみ、口説きに成功してSEXに至る。が、性欲は満足しても心の満足は得られない。頂点に達した後に襲ってくる虚しさと孤独。偽りの愛。
 この曲は最初に第3楽章が作られたそうだが、この楽章こそクライマックスであり、全曲の主要テーマの開陳である。本当の愛との出会い、つまりマーラーにとって運命の相手であるアルマとの出会い、そしてより具体的にはアルマとの‘愛の一夜’があますところなく描かれているのがこの楽章である。(言い切った!)
 これまで並べた黒い碁石がすべて白にひっくり返る。暗から明へ、鬱から躁へ、孤独から愛へ、不安から安心へ、宿命から恩寵へ、陰から陽へ、剛から柔へ、男から女へ。あるいは、それら対極同士が交合し、スパークしながら溶け合って、アンドロギュノス的な一体の魂となる。愛の成就。それが恋人同士の愛の一夜であるならば、冗長だろうが散漫だろうが、他人にはまったく関係ない。
 第4楽章が彼岸的であるのはもはや当然である。熱く激しく愛し合ったあとに訪れる深く天上的な眠り。この世ならぬ美の世界。タントラよろしく、性愛によって人が到達しうる最高の境地を、夢か現か分からぬままに揺曳する。
 ここまで来てやっと、第5楽章の始まりが朝の風景の描写であることに納得がいく。後朝(きぬぎぬ)の章である。大気が目覚め、鳥がそこかしこで鳴き、木や草が露を光らせ、爽やかな風が湖面を吹き渡り、朝日が万物に降り注ぐ。恍惚たる愛の一夜のあとに訪れる‘生’の爆発的喜びと感謝。自然への讃歌と一体感。今や目に映るすべてが輝いて見える!

 結論を言えば、この曲は性愛がテーマ、それも「男の性」を表現している。

 マーラーにとって、アルマという存在が人生において、また表現者としてのアイデンティティにおいて、すこぶる重要な要素であったのは間違いなかろう。5番の第4楽章はまさにアルマに捧げられたものであるし、6番第1楽章第2主題はアルマを表現したものであったし、8番に至っては作品そのものがアルマに献呈されている。アルマと出会った年に作られた5番以降、アルマこそが作曲家マーラーの中心的モチベーションだったのではなかろうか。そして5番は、二人の関係がもっとも密で、もっとも安定し、もっとも幸福だった時の記念碑的作品と言えるのではないだろうか。


花の章


 5番で「究極の愛を得た」と凱歌を上げたマーラーは、その「喜び」を維持できたのか?
 そうは問屋がおろさない、ってことは恋愛経験ある誰もが知っている。
 続く6番において振り下ろされるハンマーの破壊的響きの正体は、男の恋愛幻想の破綻、女性幻想の崩壊を意味していると解釈するのはどうだろう? つまり――たぶんこれまで誰も書いたことがないと思うが――マーラーは、結婚してさほど日が経っていない時期に、妻アルマの不貞の事実を知ってしまったのではなかろうか。
 アルマがマーラーを裏切って建築家ヴァルター・グロピウスに走ったエピソードは良く知られている。それは第8交響曲を初演した1910年のことで、苦痛の極みにいたであろうマーラーはそれでもアルマを許し、グロビウスか自分かを選ぶ自由を彼女に与えた。理由は知るところでないがアルマは結局マーラーのもとを去らなかった。
 マーラーと出会う前のアルマの恋愛事情、マーラーが亡くなったあとのアルマの恋愛遍歴を鑑みるに、アルマという女性は生来ニンフォマニアなところがあったのではないかと思うのである。大変な美女で会話も巧みで、ほっといても男は寄ってくる。彼女もちやほやされることは嫌いではなかった(大好きだった)。こういう女性がたとえ結婚して間もないからといって、子どもを生んだばかりだからといって、夫一人で満足できるとは思えないのである。マーラーは天才で成功者で押しが強くて魅力的な男だったのは間違いなかろうが、肉体的魅力という点では決して他の男より抜きん出てはいなかった。指揮者としての仕事、作曲家としての仕事で多忙を極めていたから、アルマがほうっておかれた可能性は高い。(二人の年齢差は19歳)
 アルマの不貞を知りそれでも突き放せないほどアルマを愛していた(必要としていた)マーラーにとって、以降、アルマの存在は単なる‘生活上のパートナー’‘肉体を持った一人の女’を越えた神話的存在に昇華していったのではないか。それが交響曲第8番第2部『ファウスト』の最終シーンの名ゼリフ「永遠にして女性的なるもの、我らを引きて昇らしむ」につながる。

 こんな不埒で意地悪な想像をするソルティを女性不信と思うかもしれない。が、ソルティは女性のそういった面をも含めて「天晴れ!」と思うほうである。少子化問題の最良の処方箋は、女性がもっと自由に恋愛して、自由にSEXして、父親不明の子どもをバンバン生んで、なおかつ周囲や福祉の助けを得ながら母親一人でも育てられるような社会を作ることだと、なかば本気で思っている。(このさき日本人の既婚率は下がることはあっても上がることはないと思う)

ひよこ
 

 話がそれた。
 シェーンベルク、チェムリンスキー、マーラー。
 大作曲家だろうと、凡人だろうと、男というものは不甲斐なくもつまらない。
 ほんとはそれが言いたかったのである。







● 三鷹の夜は更けゆく :チェンバー・フィルハーモニック東京 第21回演奏会

日時 2017年6月11日(日)19:30~
会場 三鷹市芸術文化センター風のホール
曲目
  1. モーツァルト : セレナード12番 ハ短調 K.388 《ナハトムジーク》
  2. ブラームス : セレナード第2番 イ短調 op.16
  3. シェーンベルク : 浄夜 op.4(1943年改訂版)
指揮 木村 康人

 アマオケの演奏会は土日の午後2時開演が普通なので、日曜の午後7時半開演(終演9時20分)という設定はいかにも唐突である。
 しかしプログラムを見れば納得がいく。「夜」をコンセプトにした曲を揃えたのである。
 セレナードとは「小夜曲」のことで恋人や女性を称えるために演奏される曲を言う。ナハトムジークはドイツ語でまんま「夜の音楽」である。(モーツァルトは「アイネ・クライネ・ナハトムジーク  ト長調K.525」のほうが断然有名である)

 にしてもプログラミングが粋である。
 曲順に「古典派」⇒「ロマン派」⇒「後期ロマン派(現代音楽さきがけ)」と音楽史的配列になっているとともに、曲調も同じ夜であっても「宵の口」⇒「夜更け」⇒「深夜から黎明」といった時間推移を感じさせる。演奏を聴きながら、非常に中味の濃い一夜を過ごした気分になった。
 編成も面白い。
 一曲目が管楽器(オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴット)のみの八重奏、二曲目がヴァイオリンなし(!)約30名、三曲目は弦楽器のみ約30名。つまり、オケの主役とも言えるヴァイオリンが登場するのは休憩後の最後の一曲だけ。この編成の違いから生み出される音色の彩こそが、まさに夜の推移を描写する。それすなわち、恋人たちの愛の推移である。

 チェンバー・フィルハーモニック東京は、2006年創立の音楽愛好家と音楽大学出身者の若手主体による室内オーケストラ。ニューヨーク・スタイルというのがモットーだそうだ。
 同行したアマオケに所属している友人の説明によると、ニューヨーク・スタイル(NYスタイル)とは「開演時刻前からすでに演奏者がステージ上に待機している形」を言うのだそうだ。分かりやすく言えば、‘演奏者が登場するのを客が待つ’のではなく、‘客が揃うのを演奏者が待つ’ということか。休憩後の三曲目がまさにNYスタイルであった。時間の節約になるのは確かである。
 演奏レベルはとても高い。音大出身者が集まっているだけある。小編成でも音に深みと陰影があり、ソロパートは危なげのない自在なものであった。プロとアマの中間といった印象を持った。

 一曲目はモーツァルト印の小品。憧れの人への切ない思いやときめき、夕暮れの庭での心躍る語らい、恋の成就、誤解から来るちょっとした諍い、仲直り・・・・・といった‘青い’恋人たちの恋愛風景が、どちらかと言えば無邪気な(前近代的な)ノリで描かれている。

 二曲目はブラームス印の名品。はじめて聴いたが、とても良く出来ていて美しい。4つの交響曲よりも良いかもしれない。ブラームス印とは、「鬱々とした哀愁から唐突な歓喜へ」という流れを指す。ブラームスはロマン派の人であると同時に典型的近代人なのだと思う。孤独と憂愁を抱える近代的自我が、出口を探して逡巡している様が思い浮かぶのだ。
 その意味で、夏目漱石に近い気がする。漱石は最終的に「則天去私」という出口に到達したらしいが、ブラームスはどうだったのか。
 第4楽章ではピッコロの愛らしくも華やかな響きを加えて、まぎれもなく歓喜の境地が歌われている。
 しかし、美しいけれどそこにやはり陶酔はない。忘我はない。
 
 シェーンベルクの「浄夜」は、ソルティの好きな曲の一つ。この曲の存在を知ったのは、はるか昔に地方のゲイバーで隣り合った男が在郷楽団のメンバーで、クラシック音楽の話をしている際に「この曲は素晴らしいよ」と教えてくれたのである。その夜が‘浄められた’かどうか覚えていないが(笑)、翌日CDを買って聴いた音楽は確かに素晴らしかった。
 この曲はドイツの詩人リヒャルト・デーメル(1863-1920)の同タイトルの詩に感動したシェーンベルクが、詩の内容を音楽で表現したものである。
 その内容が凄い!
 
 二人の人間が、寒々しい木立を歩む。
 月が共に進み、二人は月に見入る。
 月は高い樫の木の上に掛かり、
 遮ぎる雲一つない天の空に
 黒い梢が達している。
 女の声が語る。
  
 子どもができたの。でも、あなたの子じゃない。
 
 (当夜配布のプログラムより引用。訳は指揮者の木村康人による)

 ガビーン!
 
 男の心の声が聞こえるようだ。

 女の告白は続く。

 知らない男に抱かれた。
 それで私は良かった。
 でも今こうして人生の報いを受け。
 あなたに、ああ、あなたに出会ってしまった。

 しばしの動揺と沈黙の後、男は答える。
 「君と僕との間を流れる愛は、すべてを浄化する。だから、その子を産んでおくれ。僕の子として育てよう」

 男は彼女の身重な腰に手を回した。
 彼らの吐息が風の中で抱擁を交わす。
 
 どうだろう?
 「過ちを告白する妊婦」と「女を許し父となるのを引き受ける男」。すべてを超えて結ばれる二人。愛の前に不可能はない。
 昼メロのような、80年代大映ドラマのような、レディースコミックのようなエグさと下世話さである。事前にプリントアウトした詞を同行した友人♂に見せたら絶句していた。
 この詩によってデーメルは何を訴えたかったのだろう? シェーンベルクはどこに感動したのだろう?
 すべてを恋人に告白する女のいじらしさか。
 過ちを犯した女を許す男の度量の広さか。
 罪を引き受けることで贖われる男の闇の暗さか。
 罪を浄めるほどの高みに達しうる愛の力か。
 
 わからない。
 しかし、ソルティは欧米人の作ったこの詩にあまりにも有名な二人の姿をダブらせる。
 言うまでもない。大工のヨハネとその妻マリアである。
 処女懐胎というナンセンスを退ければ、ヨハネとマリアに起ったことは上記の詩の男と女の間に起ったことと同じである。夫以外の男の子供(ローマ兵?)を孕んでしまったマリアは、お人よしで忍耐強い夫ヨセフに告白する。
 「子どもができたの。でもあなたの子じゃない」
 驚きと混乱と苦悩。しばしの沈思黙考のあと、ヨセフは答える。
 「いいよ。生んでおくれ。神の子として育てよう」
 かくしてキリストの誕生である。
  
 敬虔なクリスチャンから総攻撃受けそうな解釈である。が、ブッダと義母の不倫を受け入れた仏教徒ソルティに怖いものはない(笑)。
 実際にデーメルやシェーンベルクがこの詩に聖書をかぶらせたのかどうかは分からないが、次の一節を読むと、明らかに《救い》がテーマになっているのを見て取れる。
 
 君は僕に光をくれた。
 僕自身をまさに子供のようにしてくれたんだ。
 
 過ちを犯した女を許すことで罪障ある自分も救われる。単純に‘度量の広い男像’に自己陶酔しているわけではないのである。(デーメルとシェーンベルクの下半身事情が推察される。)
 
 ついでに、ソルティの中のリアリスト(皮肉屋)は、この詩の女にかしこさを読む。
 女は絶好のタイミングを見計らって告白したのだと思う。
  満月の夜。(男の排卵日)
  月明かりの下。(白い肌の輝き)
  露出の高い衣装。(おそらく胸の谷間くらいは見せている)
  誰もいない森。
  ・・・・・あとは言わない、二人は若い。
 
 ひとたび音楽が始まると、こういった解釈や妄想はどうでもよくなり、弦楽器の織り成す甘美な調べに心は持っていかれる。まさに忘我の極地。

 シェーンベルク「浄夜」は、‘物語’から生まれ‘物語’に依るけれど、出来上がった音楽は‘物語’を超えて‘音楽’という快楽官界に聴く者を連れていく。そここそは、すべての時代のすべての「~派」の違いを超えて存在する、音楽愛好家の聖地である。

 終演後、会場を出たら日曜のきよらかな夜が広がっていた。


 



 

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