ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

シベリウス

● 作曲家の霊格 :ガリマティアス・ムジクム第38回定期演奏会


ムジクム


日時 2017年7月30日(日)14:00~
会場 武蔵野市民会館大ホール
曲目
  • ロッシーニ : 歌劇『セビリアの理髪師』序曲
  • シベリウス : ヴァイオリン協奏曲 ニ短調
  • ドヴォルザーク : 交響曲第8番 ト長調
アンコール
  • J.S.バッハ : 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番よりルール
  • ドヴォルザーク : スラブ舞曲第1集より 第8番
指揮 広井 隆
ヴァイオリン独奏 印田 千裕

 武蔵野市民文化会館は、JR中央線三鷹駅北口から文化会館通り(通称「かたらいの道」)を歩いて15分ほどのところにある。ホールの前に大きなヒマラヤ杉が威風堂々たる姿をさらしていて、その前を五日市街道が走っている。五日市街道と文化会館通りの交差する一角に、庚申塚が丁寧に祀られている。


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武蔵野市民文化会館

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ヒマラヤ杉

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庚申塚


 ガリマティアス・ムジクムという楽団名は、モーツァルトの作品『音楽のおしゃべり』(K.32 Galimathias Musicum)から取ったとのこと。東京学芸大学出身者を中心に1980年設立され、現在のメンバーは見たところ50~60代中心だろうか。出演者紹介を見ると、女性39人中、「○○子」のつく名前が17名である――ってどういう統計よ(灸)。
 第1回から指揮している広井隆はオケの常任指揮者的存在であろう。

 客席の最後尾である2階席後方に座ったが、演奏始まってすぐ気づいたのは「響きがいい!」。ヒマラヤ杉のせいとは思えぬが、良いホールである。客席も傾斜があり、舞台がよく見える。

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 『セビリアの理髪師』はとても楽しい心はやる曲。コンサートの最初に持ってくるのにぴったりである。
  
 シベリウスのヴァイオリン協奏曲。美しく柔和で滋味深い。やはり、シベリウスは日本人の感性に合う作曲家だと思う。派手でなく、お仕着せがましいところもなく、父性的(=キリスト教的)でない。自然描写にすぐれた人ではあるが、この協奏曲では「北欧のラフマニノフ」とでも言いたいような、優美かつメランコリックな調べが人間的である。

 ドヴォルザーク交響曲8番もまた、テレビ朝日の長寿名番組『世界の車窓から』を思い出させるとっつきやすい曲である。それもそのはず、ドヴォルザークは鉄っちゃんだったらしい。「機関車が手に入るなら、私のすべての曲を捨ててもかまわない」と言ったとか。
 もう親近感100%
 アントニン・ドヴォルザークの伝記を読んだことはないのだが、曲だけの印象から「とても純粋で誠実で廉潔な人」というイメージが湧く。ブラームスやチャイコフスキーやマーラーの「のたうつような苦渋」と較べると、なんとも明るく牧歌的。といって「浅い」のかと言えば、そんなことはない。『遠き山に日は落ちて』で知られる交響曲第9番『新世界より』第2楽章なんか、よく聴くと非常に深くて荘厳である。もっとも大衆的な人気曲『ユーモレスク』も、明るく軽やかな曲想の中に諦念に近い哀感が滲んでいる。
 この交響曲8番も、どこまでも広がる平和な田園風景やダイナミックな峡谷風景の中に、天上的な導きを感じとる。
 霊格の高い人だったのだろうか。

ドヴォルザーク
アントン
 
 帰りは、三鷹駅前の喫茶店で一服する。
 三鷹駅は昔から、南口(三鷹市側)は発展しているが、北口(武蔵野市側)は野暮ったくて開発から取り残されたイメージがあった。
 久しぶりに歩いてみたら、立場が逆転したかと思うほどの刷新ぶり。おしゃれな大人の文化都市といった装いにびっくりした。
 国立を目指しているのか?


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夕なずむ 三鷹駅北口
 


 




● 自然(じねん)交響曲 :国際基督教大学CMS管弦楽団 第93回春季定期演奏会

ICUオケ

日時 2017年4月22日(土)14時~
会場 府中の森芸術劇場どりーむホール
曲目
  • E.グリーグ/交響的舞曲 作品64
  • J.シベリウス/交響曲第2番ニ長調 作品43
  • アンコール J.シベリウス/交響詩「春の歌」
指揮 井崎正浩

 シベリウスは、交響曲第2番について「魂の告白である」と述べたそうだ。自らの娘も含め近親者を次々と失った作曲当時の彼の魂の遍歴――苦しみ、悲哀、絶望、祈り、救い、受容――が歌われているのであろう。
 とりわけ、それが色濃く表れているのが第2楽章である。「ドン・ファン」をモチーフとし「死」をイメージさせる第1主題と、「キリスト」をモチーフとし「祈り」と「救い」をイメージさせる第2主題が交互する。西洋的な、キリスト教文化圏のパラダイムである。それは、現世における「苦悩」を、最終的には神(Vater)の救済と癒しによって「喜び」に昇華させたベートーヴェン《第九》の世界に通ずるものである。
 
 しかし、この交響曲の真価は第3楽章以降、とくに第4楽章にあるように思う。
 
 シベリウスが母国フィンランドの自然を愛し、それを見事に描き出したのは知ってのとおりである。それも写実的であると同時に抽象的に。たとえば、今回のアンコールに取り上げられた『春の歌』にみるように、実際の春の訪れの風景を描写している一方で、長く寒く陰鬱な北欧の冬の終焉を迎えた人々の心の底から湧き出るようなしみじみした歓びが表現されている。自然描写がそのまま心理描写であるところにシベリウスの音楽の特徴があり、そこに和歌や『源氏物語』に原点をもつ日本文学との相似を見るのである。日本人のシベリウス好きの理由はそのへんにあるのではなかろうか。
 
 第4楽章は明らかに「自然」を描いている。
 草も木も花も虫も動物も、あらゆる生命が生まれては死に、死んでは循環し、新たに生まれくる自然。水も風も土も火も、あらゆる現象が生じては滅し、滅しては循環し、形を変えてまた現れる自然。そんなありのままの自然のなりゆきを映し出している。その意味では‘しぜん’というより‘じねん’である。
 シベリウスの苦悩を最終的に癒したのは、「キリスト=宗教」ではなくて自然だったのではないだろうか。自然のありのままの姿(=諸行無常)を知ることで、人間もまた自然の一部であり、生老病死は避けられないのだと、ただ謙虚に受け入れるしかないのだと悟ったのではないだろうか。それこそが彼の「告白」だったのではなかろうか。
 シベリウスは東洋的、それも老荘思想に近いように思うのである。

 国際基督教大学の学生たちの演奏は、正直言えば、決して安定しているとも巧みであるとも言えない。1曲目のグリーグは、ピンと張った弦のような若さゆえの力強さと張力は感じたものの、ハラハラするところもあった。井崎正浩の熟練の棒によって、なんとか瓦解せずにまとまっている印象。例えてみれば、寒い冬の朝に水たまりに張った氷の板を割らずに持ち上げようと懸命にこらえているといった感じを持った。
 しかし、学校名が奇跡を招いたのか。まさにシベリウスの第2楽章「基督(キリスト)」出現あたりから‘気’が充実してきて、後半は未熟さを超越する輝きに達していた。
 はじめて聴く者(ソルティ)が、この交響曲の真価を知るのに十分な演奏であった。

 



 






● シベリウス、シベリウス!:アイノラ交響楽団第13回定期演奏会

日時 2016年4月10日(日)14:00~
会場 杉並公会堂・大ホール
指揮 新田ユリ
演奏 アイノラ交響楽団
曲目
  1.  春の歌 作品16(1984年/初演)
  2.  交響曲第5番 変ホ長調 作品82(1915年/初演)
  3.  吟遊詩人 作品64
  4.  交響曲第5番 変ホ長調 作品82(1919年/最終稿)
  5.  (アンコール)春の歌 作品16(1903年/最終稿)
  6.  (アンコール)アンダンテ・フェスティーヴォ

 アイノラ交響楽団は、フィンランドを代表する作曲家、ジャン・シベリウスの音楽をこよなく愛するアマチュア演奏家によって、2000年12月に設立されました。アイノラとは、フィンランド語で「アイノのいる場所」という意味。シベリウスは最愛の夫人「アイノ」の名にちなみ、ヘルシンキ郊外にあるヤルヴェンパーという街に構えた自邸をそう呼んでいました。彼は、妻とともに自然豊かなアイノラの地を終生愛し、そこで多くの傑作を創り上げました。・・・・・このオーケストラでは、7つの交響曲はじめ、交響詩・音詩を含む数々の管弦楽作品すべての演奏を目標としています。(アイノラ交響楽団公式ホームページより抜粋)

 特定の作曲家の作品を演奏するためのオケがあるとは知らなんだ。しかも、バッハでもモーツァルトでもベートーヴェンでもワーグナーでもなく、シベリウスとは・・・・。
 なんでも日本にはシベリウス愛好家が多く、小泉前首相もその一人であるらしい。
 ソルティは『フィンランディア』しか聴いたことがなかったので、今回が実質的なシベリウス・デビューとなった。
 
 当日券を買うために開演1時間前に杉並公会堂に行ったら、すでに長蛇の列。全席自由だったので、すでにチケットを手にしている人々が少しでも良い席を取ろうと待ち構えていたのである。高齢者が多い。最初見たときは五木ひろしコンサートでもあるのかと思った。
 開演15分前に会場入りすると、8割方埋まっていた。
 シベリウス人気は本物らしい。

 今回の聴きどころは、交響曲第5番の1915年初稿(初演時)バージョンと1919年最終稿バージョンとの両方を演奏することである。シベリウスは自己批判が強い性格で、一度書き上げた作品に満足せず頻繁に手直しをしていた。で、最終的に決定稿となったもの以外の演奏は認めていなかった。「初稿の楽譜はシベリウスの遺族が厳重に管理しており、演奏するには特別の許可が必要」と配布プログラムに書いてある。
 そういった意味で、今回は遺族の特別の許可を得て、『春の歌』と『交響曲第5番』の2つを初稿と決定稿の両方で聴ける特別なプログラムだったのである。

 むろん、ソルティは『春の歌』も『第5番』も初耳なので、新旧を較べて違いを楽しむだけのレベルにはない。ただ、決定稿のほうがやっぱり完成度が高く、風格があるなとは思った。
 それよりも何よりも感じたのは、シベリウスの音楽が実に日本人の感性に合っているということ。ドイツやイタリアの大作曲家ほど人工的でも父性的でも宗教臭くもなく、チャイコフスキーほど悲観的でもなく、ドビュッシーほど幻想的でもない。俳句や水墨画や枯山水や花火の中に‘美’を閉じ込めた日本人の「抽出写実主義」とでも言うようなものと至極似通ったものを、シベリウスの音楽に感じた。
 とくに、『春の歌』はほんの7~8分ほどの短い曲だが、春の喜び、生命力、エロス、美しさ、自然への畏敬の念があますところなく抽出され、多様に表現されている。陶然とする。
 これ一曲だけでシベファンになってしまった。(水野晴郎『シベリア超特急ファン』でもある、自分)

 女性指揮者は初めてだが、丁寧で流麗なタッチで好感持てた。
 楽団員には年長者が多いように見受けられた。
 聴衆の層といい、シベリウスは大人のための作曲家なのかもしれない。

 それにつけても、アマオケ巡りは楽しいな 








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