《第九》も二度目の参加となると、気持ちの上で余裕が出てくる。
一度目は覚えるのに精一杯だったドイツ語の歌詞――とくにドイツ語を含むゲルマン語に特有のウムラウト(変母音)の発音――についても、歌いこんでいくうちに口馴染んで、しまいには諳んじられるまでになった。
すると、歌詞の内容にも思いが及ぶようになった。
今度の指揮者が曽我大介であることも大きい。
曽我氏(1965年生まれ)は、《第九》に相当入れ込んでいるらしく、2012年に音楽之友社から世界初の合唱する人に焦点を当てた「《第九》合唱譜」を制作している。

今回、自分が使ったのもこれである。
他の指揮者と較べるほどの知識や経験はないので、はっきりしたことは言えないが、曽我氏がドイツ語の発音や文法上の区切りや詩の効果としての脚韻、すなわち言葉を非常に大切にしていることは、実際の指導においてビンビン感じとることができた。(この人は比喩がとてもうまい。ユニークで面白くて的確な比喩で曲を理解するきっかけを与えてくれる。)
曽我氏はまた、同じ音楽之友社から2013年に『《第九》虎の巻 歌う人・弾く人・聴く人のためのガイドブック』という本を出している。
まさに《第九》のオーソリティなのである。

20年前に歌った時は、「喜びを歌っているんだなあ。世界平和を希求しているんだなあ」くらいの大雑把な把握で、一つ一つの単語や詩句にたいした注意を払わなかった。
今回は、もう少し《第九》を深く知ろうと思い、上記の本を読んでみた。
《第九》という小宇宙を前にしてこの総譜を読み取ろうとする時、もちろん楽譜自体も色々なことを教えてくれますが、《第九》を取り巻く様々な世界を知ることによって、その知識が光となって総譜を後ろから照らしてくれるのです。・・・・・《第九》にまつわる世界の知識を深めることは、演ずるものの表現にその知識によって制限をかけるのではなく、より豊かな可能性を示してくれるものだと思うのです。(上掲書より抜粋)
と、前書きにあるように、《第九》をより深く楽しく聴き、より豊かに正しく歌いor弾き、ベートーヴェンの偉大さを改めて感じるような内容となっている。
第2章では、実際に《第九》を歌う人のために、五線譜付きのきめ細かい歌い方のレッスン(攻略法)もある。舞台に立つ上での懇切丁寧なアドバイスまで載せている。
ほかにも、興味深いトリビア満載で、読み物としても面白いものになっている。
例えば、
○ Symphony(シンフォニー)を「交響曲」と訳したのは、森鴎外である。
○ 現代に至るまでの《第九》演奏の方向性を決定づけた(改変した)のは、ワーグナーである。その主な特徴として、①楽器の追加によるメロディラインの強化、②細かなテンポの変化や強弱の指示、フレーズの区切りの明確化、が挙げられる。(このある意味ベートーヴェンの意図からは‘逸脱した’流れを原点に戻そうとする動きが、ロジャー・ノリントンに代表される「ピリオド奏法」なわけである。)
○ 日本における《第九》の初演は、1918年6月1日、徳島県鳴門市にあった坂東捕虜収容所におけるドイツ人捕虜たちによるものであった。このエピソードは映画『バルトの楽園』(出目昌伸監督、2006年)で描かれている。
○ 世界で一番多くのコンサートで《第九》を演奏しているのは、コバケンこと小林研一郎である。
○ ベートーヴェンはコーヒーを淹れるときに、一人当たりコーヒー豆を必ず60粒数えた。
等々。
さて、当然、この本には《第九》の歌詞が載っている。(番号はソルティ付す)
1.おお友よ、これらの調べではない!我々はさらに心地よく、喜びあふれる歌を歌おうではないか2.歓喜よ!神々の麗しき霊感でありエリューシオンの乙女(である歓喜)よ、(歓喜の)女神よ、我らは燃える胸を躍らせながら君の聖域に踏み入る3.君(歓喜)の柔らかな翼の下時流が強く切り離したものを君の不思議な力は再び結び合わせ、すべての人々は兄弟となる4.真の友を得るという大きな成功を収めた者、心優しき妻を得た者もそうだ、地上にただ一つの魂でも我が物であると呼べる者たちも彼の歓声に合わせよそしてそれがどうしてもできなかった者はこの集いから泣きながらそっと立ち去るがよい5.すべての生き物は自然の乳房から歓喜を飲み、すべての善人とすべての悪人は歓喜のバラ色の道をたどる。6.喜びは口づけと葡萄酒と死の試練を受けた友を我々に与えた虫けらにはただの快楽のみが与えられた、しかし智天使ケルビムは神の御前に立つ(喜びが与えられたのだ)7.華麗なる天空を天の星々が朗らかに飛びゆくように、勝利に向かう英雄のように喜々として仲間たちよ、自らの道を進め8.抱き合え、諸人!この口づけを全世界に!仲間たちよ、この星空のかなたに必ずや心優しき父なる神が住むにちがいない。9.諸人よ、ひざまずいたか?世界よ、創造主を予感するか?星空の彼方に彼(創造主)を探し求めるのだ!星々の上に彼は必ず住んでいるにちがいない。
一読するまでもなく分かるのは、これがもろキリスト教の宗教観を根底としているということである。《第九》の初演は1824年。コペルニクスの地動説こそ唱えられていたものの進化論にはまだ早い。まだまだキリスト教的世界観は広く深く強く西欧を覆い尽くしていたであろう。
その点だけでも、2015年に生きる日本人がこの詩を十全に理解できるとは思われないのである。ドイツ語のできない自分が《第九》を歌うのは、譬えてみれば、日本語のできないドイツ人が結婚式で『高砂や~』を披露するようなものかもしれない。
たとえば、第6節に登場する「死の試練を受けた友」とは何のことだろう?
人間のモータル性――神と対照的に「死すべき運命にある」という古代ギリシア的人間観――を意味しているのだろうか?
それもあるのかもしれない。
だが、キリスト教の真摯な信者であればすぐにピンと来よう。
これは、十字架に掛けられたイエス・キリストのことであろう。であればこそ、その直前の「口づけ(=ユダへの接吻)」「葡萄酒(=キリストの血)」の連関が見えてくる。
まあ、「唯一神」も「魂の存在」も信じないテーラワーダ仏教徒であるソルティには、はなから理解できない(理解しても仕方のない)世界である。
が、看過できない部分もある。
第4節である。
真の友を得るという大きな成功を収めた者、心優しき妻を得た者もそうだ、地上にただ一つの魂でも我が物であると呼べる者たちも彼の歓声に合わせよそしてそれがどうしてもできなかった者はこの集いから泣きながらそっと立ち去るがよい
これはある意味、「村八分」「いじめ」の宣告である。
親友も愛妻も得られなくて孤独に苦しんでいる人に対して、「この集いの場から出て行け」という、生傷に塩を擦り込むようなマネをしている。続く第5節で「すべての悪人」も「歓喜のバラ色の道をたどる」と言っているところをみると、「孤独な人間は悪人より天国に遠い」とみなしているようにも思える。(悪人正機説?)
歌っていても気分の良ろしくない箇所である。ドイツ語だからいいようなものの、日本語でこれを歌うならば、自分は参加しないか、この部分は口を噤むであろう。(ベートーヴェンはこの部分をピアニシモにしている。)
曽我大介氏も同様な思いがあるようで、「この部分の歌詞は個人的に抵抗がある」と上掲書で述べている。
いったい、ベートーヴェンはどういう思いでこの歌詞を採用したのだろうか?
《第九》の歌詞の原典は、いわずと知れた同時代の花形詩人フリードリッヒ・シラー(1759-1805)の頌歌『歓喜に寄せて』である。シラーは、こういう無慈悲なことを「しらーっ」とした顔で言える人間だったのか?
上掲書には、シラーの詩の全文が掲載されている。
自分ははじめて全部を読んだのだが、これがビックリするような革新的な内容なのである。
まず第一に、長い!
全9節からなる100行以上に及ぶ長大な詩であり、ベートーヴェンが《第九》に採用したのは、そのわずか3節のみ、冒頭の1/3だけなのである。
次に、そのテーマであるが、むろん「歓喜」は多様に謳われている。
しかるに、ベートーヴェンが取り上げなかった詩の後半(第6節以降)は、むしろ「許しと慈悲」が主要テーマなのだ!
人が神々に報いることはできない、しかし彼らに倣おうとするのは素晴らしい悲嘆する者も貧しい者もこぞって出て来い、恨みや復讐は忘れてしまえ、我々の宿敵でさえ許すのだ、涙を彼に強いるな彼に懺悔を求めるな。(合唱)我々のブラックリストは破いてしまえ!和解を全世界に!兄弟(同胞)よ――星空の彼方では我々が裁くように、神が裁いてくれる
圧巻なのは最後の節である。
暴君の鎖に助けを、罪人にも寛大さを、死の床には希望を極刑には慈悲を!死者たちもまた生きるのだ!兄弟よ 飲み、そして調べを合わせよ、すべての罪人たちは許されるのだ、そして地獄はもはやない
すごいではないか!
アムネスティの綱領もかくやとばかりの寛容性、人権感覚、そして現代性である。と同時に、やっぱり‘真の意味での’キリスト教原理主義の発露、すなわち「汝の敵を愛せよ」の精神である。
27歳のときにこの詩を発表し若者たちの熱烈な支持を得たシラーは、40歳になってから「この詩は若気の至り」と言って最後の節を削ってしまった。なんだか考えさられるエピソードである。SEALDsの活動を快く思わぬ元全共闘のオヤジみたいな感じか・・・。
それはともかく。
シラーの詩の全部を読めば、先にあげた《第九》の歌詞の第4節の無慈悲さも緩和される。「すべての罪人たちは許されるのだ、そして地獄はもはやない」とまで言っているのだから、孤独な人間もその中に入っている。村八分されているわけではない。
そもそもこの詩を頌歌というのは、発表当時、実際に曲をつけて歌われていたからである。形として「集いの歌」となっているように、居酒屋などでミューズ(詩神)の霊感を受け感極まった一人が立ち上がって独唱し、それに他の酔客たちが応えるように合唱するという、仲間同士の交歓を寿ぎ、絆を確かめる歌なのである。
だから、孤独を愛好し一緒に唱和する気のない者はこの盛り上がりにふさわしくないから、祝いの酒がまずくなるから、「そっと泣きながら出てゆけ」ということになる。つまり、仲間同士の結束と友愛の素晴らしさ(とみんなで酒を飲む楽しさ)を反語的に称え上げるために、村八分的存在をつくりあげたとみることができる。
要は、シラーに関して言えば、この一節をそれほど真剣にとらえる必要はないということだ。
不思議なのは、なぜベートーヴェンが、長大なほかにカッチョいい部分のたくさんある詩の中から、わざわざこの一節を選んだのだろうという点である。
親友もなく心優しき妻もいない中年男が、孤独と無聊を慰めるために年末に《第九》のコンサート会場に来たところ、舞台上の合唱団全員からこう突きつけられるのだ。
「親友も心優しき妻もいない孤独なお前は、この場から立ち去りなさい」
客席の半分以上は空になることだろう(笑)。
しかも、第4節の「心優しき妻を得た者」の中に当のベートーヴェンは入っていない。彼は生涯結婚が「どうしてもできなかった」一人である。(ソルティよ、お前もだ。)
自分を揶揄するような、貶めるようなフレーズを、なぜわざわざ採択したのだろう?
自虐?
不思議である。
(単に、この部分が音楽的に語呂が良かっただけなのかもしれないが。)
‘若気の至り’という観点からすれば、ソルティ自身はむしろ、シラーの削られた最後の一節よりも、この《第九》の第4節のほうが未熟な気がする。
自分たちの絆(=仲間意識)を強めるために‘村八分’をダシにするという点でもそうだが、親友であれ、愛妻であれ、他人の魂を「我が物とする」という思考が幼稚でついていけない。魂の存在を信じるか否かは別として、他人の心や魂はその人自身のものであって、いくらそれが愛し合う関係であったとしても他人の所有物ではない。
--というのが現代を生きる大人の常識であろう。
《つづく》