ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

ジェンダー

● 男のすなる介護といふもの 本:『俺に似たひと』(平川克美著、医学書院)

俺に似た人 2012年発行。

 子供が親を介護するとき、ジェンダー的に見れば4つのパターンがある。

① 息子が父親を介護する。(♂対♂)
② 息子が母親を介護する。(♂対♀)
③ 娘が父親を介護する。(♀対♂)
④ 娘が母親を介護する。(♀対♀)


 それぞれのパターンの介護の特質や良い面・悪い面、介護する者と介護される者との関係においてどんな特徴が見られるか、研究してみるときっと面白いだろう。(誰かもうやっているか?)
 もっとも、ジェンダーよりも、個々の家族におけるしきたりや環境、長年築かれた親子関係や個々人の性格と言った個別性のほうが、介護のあり方を決める主要な要素だという意見もあろう。杓子定規に4つの類型に分けて分析する必要など、そもそもないのかもしれない。いずれにせよ、多くの場合、介護する子供は介護する親の性を選べないし、逆もまた同じなのだから。
 それでも、この私小説というか介護記録を読んでいると、ジェンダーについて思いをはせざるを得ないのである。
 これは、上記①のパターン、息子(♂)が父親(♂)を介護し見取る物語である。

 『介護はプロに、家族は愛を』(石川治江著)という本の中に、「男は介護を仕事としてまっとうする」という言葉が出てくるが、まさに著者の平川克美が父親に対して行った介護は、たんたんと、合理的で、事務的で、日増しに悪いほうへと変化していく事態に対して最後まで感情に流されずに冷静に対応している、ように見える。それは、一身上に起こったかなり感情を揺さぶられざるを得ない体験を小説化するときに、あえて取った方法論、すなわち「文体」という戦略でもあろうが、やはり、男であり息子であり、加えて団塊の世代である著者は、「このようにしか書けなかった」=「このようにしか末期の父親と向き合えなかった」のではないかと思われる。
 それは、おそらく介護される男(=父親)のほうでも事情は同じであったろう。
 介護してくれる相手が、異性の妻であったり娘であったり、まったく血のつながりのない女性のヘルパーであったならば、この父親はまた別の顔を見せていたのではないだろうか。
 そういう意味で、「男」が「男」を介護することの戸惑いと限界とある種の潔さ(美学?)を感じさせてくれる。
 「父親」vs「息子」というロール(役割)、「男」というロールを離れて、両者が向かい合うことは最後までついに訪れなかった。
 男という生き物の不器用さに今さらながら胸を搏たれる。

 母親の急逝のあと、実家に一人で住む父親を「通い」でなんとか見守っていた著者は、次第に悪化していく父親の物忘れや歩行障害に同居を決意する。緊急入院、せん妄状態を経て、本格的な在宅介護の生活が始まる。しばらくは、男二人の平穏な日常が続き、著者は仕事と介護との単調な生活をたんたんとこなしていく。
 しかし、老衰は不可逆である。
 誤嚥性肺炎による再度の緊急入院を機に、父親は最後の転轍点を越えてしまう。医師に勧められるままに胃瘻の手術を行うも、二ヵ月後には息を引き取る。

 あっという間に衰弱していく父親の症状とそれに合わせ募っていく介護の負担の模様を客観的にたどりながら、そこを一番内側の円とし、著者の身の回りで起こる様々な変化―甥の結婚式、年若い同僚の死、著書がベストセラーになる、新しく始まった大学院の講義、母親の一周忌―を第二の円に、いわゆる「外界」で起きている大きな変化―アメリカ初の黒人大統領の誕生、民主党への政権交代、中東の春、東日本大震災、福島第一原発事故、高峰秀子の死、東京スカイツリーの完成―を一番外側の円に、「私ごと」と「世界」とを同心円状に描いていく。
 この構成が見事に成功して、もっとも私的で内向きな身内の介護の話が、それとまったく関係ないかのように勝手に動いている「外界」の変化と、奇妙な符牒を示す。「個」と「世界」とが深いところで浸透し合い、響き合っている様相は、橋口亮輔監督の傑作映画『ぐるりのこと』を想起する。橋口監督はこのテーマを意図的に狙ったのだと思うが、著者はどこまで意識的なのだろう?

 父親との介護の一年半、俺のなかで時間は停止していた。いや、正確には外界のニュートラルな時間とは別の、さまざまな感情に支配された濃密な時間のなかにいたというべきかもしれない。
 それは人知れぬ極めて個人的な時間であり、そうであるがゆえに切実な時間でもあった。そこで何が起きようが誰も振り向きもしないし、世界にはどんな影響も与えない。それでも、世界はこういった小さな時間の堆積であるほかないのだ。そのことを理解するまでに、ひとは多くの無駄な時を浪費し、難儀な経験を積み重ねなければならない。

 
 この本の今ひとつの面白味(という言葉は不適切であるが)は、高齢者を介護する誰もが時に襲われる無力感の本質、老いと死とをめぐる最も難解にしてタブーとされる疑問を正直に吐露している点である。

 体調が今以上によくなると見込めないことは、俺も父親も分かっていた。町会長に復帰することも、自分の足で歩いて動き回ることも、何か新しい趣味を始めることもできないのは明白だった。・・・・・
 これから先、何年生きていけるのか分からなかったが、そこに希望というものがほとんど存在しないことだけは、はっきりしていた。俺は、老いて、病んで、なおも生きるということの意味を考えないわけにはいかなかった。

 食事と入浴以外に、楽しみも興味もなくなって、ただ繰り返すだけの生活というものに積極的な意味を見出すことは、誰にとっても容易なことではない。

 いったい何のために、(胃瘻の)手術なんかしたのだろうと思う。
 俺もドクターも、何か重大なことを見落としているのではなかろうか。
 今の父親に対してすべきことは、もっと別のことであったはずではなかったのか。
 病を治すという行為に意味があるのは、あくまでも病の先に普段の生活が待っていることが前提である。あるいは、とりあえず緊急の危機から脱出するということ。しかし、このときの父親にとっての誤燕性肺炎や歩行困難やせん妄は、果たして「病」だったのだろうか。


 著者が感じたこの疑問は、しかし、奥底がある。
 それは、つまるところ、高齢者に限らず、ひとが生きることの根底には「生きることの無意味、無価値」が横たわっているという、峻厳たる事実である。ひとが生き甲斐や希望を必要とすることは、とりもなおさず、元来の「生」とは、「甲斐」も「希望」も存在しない、きわめてニュートラルな性質なものであることを如実に物語っている。
 個々のひとに限らない。人類や生き物が地上に存在することにも、意味も甲斐も価値もない。(意味や甲斐や価値を求めるのは、そもそも人類だけであるが・・・。)


 この小説は、また、人が人を理解することの難しさ、「男」が「男」を理解することの難しさを描いていて秀逸である。

 俺と父親との間には、何十年にもわたるわだかまりがあった。別にこれといった事件があったわけではないのだが、話をすると決まって最後は大きな声を上げ、やがてふたりとも黙ってしまう。俺は、政治信条も、思想も、宗教も、生活習慣も違うこの父親とは和解することができないのではないかと、どこかで諦めていたのだろう。
 しかし、一年半一緒に父親と暮らすなかで、以前は相容れなかったかに思えたことが、実は取るに足りないものであったこと、ものの考え方も性格もよく似ているということを思い知らされた気がした。


 結局、著者は父親と「和解」はしたけれど「理解」はできずじまいであった。
 その点で一つ気になるのは、この感動的な物語においてまったく主観的な経験としては触れられていない、著者と父親との間でまったく一言も会話が交わされていない大切な事柄が存在するということだ。
 それは何か。
 言うまでもない。妻の死、著者にとっては母親の死についてである。
 伴侶の突然の予期せぬ死のあと、たった一年半のうちに、父親は衰弱し亡くなったのである。傍から見たらどう考えたって、妻の死が呼び水になったとしか思えない。
 父親の最期を理解しようと思うのなら、なによりもまず、一足先に亡くなった妻との関係、妻の死をどう受け止めているのか、人生の伴侶を喪った心の空隙をどう感じているのか、が想像されなければなるまい。著者と父親との間で対話されなければなるまい。
 しかし、そこの記述がまったく見られないのである。
 意図的であろうか?
 いやいや、意図的に割愛するにはこのトピックは重要すぎる。

 思うに、著者自身が無意識に母親の死を封じ込めていたのではないかと思うのである。そうでもしなければ、続く父親の難儀な介護生活に立ち向かえるだけの気力が起きなかったのではなかろうか。
 2人の男、夫と息子が、二人して、もっとも大切なもの(妻と母親)の喪失に向き合うことを暗黙の内に避けていたとしたら、それこそが2人の男が最後に果たした共謀(共同作業)だったのかもしれない。

  
 この小説中、もっとも心がどよめいたくだり。
 危篤の知らせを受けて、著者は病院に向かって車を走らせる。

 これまで毎日のように病院へ見舞いに通っていたが、父親に会いたいと思ったことはほとんどなかった。息子としての義務を果たすように、あるいはそこに苦しむ父親がいたので、とにかく病院へ行く必要があるのだというくらいの気持ちであった。(太字:ソルティ)


 相手が母親だったらどうだろう?
 やっぱり、ジェンダーの影響力について思いをはせざるをえない。


● 本:『男おひとりさま道』(上野千鶴子著、法研)

男おひとりさま道 男も女も年を取ったら同じ。肉体も頭脳も衰えるし、社会的な役割も失っていく。孤独も死の不安も同様にある。ようやっと、訪れた男女平等。
 と言いたいところだが、やはりジェンダー差が歴然とある。

 姉妹書(兄妹書?)の『おひとりさまの老後』と比べて読むと、つくづく「男」がひとりきりで年を取るのは難しいと感じる。
 経済的な面では、一般に現役時代から収入の多い男のほうが有利かもしれないが、それ以外の面で、男が女に勝てるものはほぼない。勝つとか負けるとか言っている時点で、己が男たるゆえんか(笑)。

 しかし、冗談ではない。
 現役時代、仕事ひとすじで来て家庭のことはすべて妻にまかせてきた男が、定年退職したあと、妻に離婚あるいは死別されたら、どうなるか。
① 家庭のことができない。掃除も料理も洗濯もままならない。
② 人間関係を失う。仕事以外の人間関係を築いてこなかったツケが回ってくる。今から友達を作ろうにも作り方がわからない。続かない。
③ やることがない。仕事一筋で趣味もなければ、「毎日が日曜日」は、日々退屈地獄となる。
 
  その上、娘や息子らとも疎遠になっていたら、病気に冒されたら、下手すると「ゴミ屋敷で孤独死」もあり得る。
 そうならないようにするにはどうしたらいいか。
 痒いところに手の届くように、具体的に懇切丁寧に指南してくれるのが、この本である。


 いまどき離婚するカップルは珍しくないし、どんなに仲の良い夫婦でも同時に死ねるわけではない。妻のほうが先立つこともざらだ。再婚という手もあるけれど、それ相応の財産と人間的魅力とがなければ、男やもめに来てくれる女性を見つけるのは難しいだろう。そうなると、「年老いて男ひとり」は避けられない。でなくとも、自分みたいに非婚シングルのまま年を取る男もこの先どんどん増えるだろう。
 男が「おひとりさま」で生きていく、生きられる技術を身につけておくのは必須と言えよう。


 著者の提唱するメニューの中で、面白いと思ったもの。


1.「おひとり力」をつける。

 これは、ひとりでいることがちっとも苦にならず、むしろ至福を感じることができる能力。そのためには、一人きりでも楽しめる趣味や娯楽やライフワークを持つことが鍵である。
(自分の場合、おひとり力はかなりのポイントだと思う。一人でできる趣味ばっかり持っている)


2.弱さの情報公開

 本文から。

 男が女とちがうのは、同じくらい弱いのに、自分の弱さを認められない、ということだ。弱さを認めることができない弱さ、といおうか。これが男性の足をひっぱることになるのは、老いるということが、弱者になることと同じだからだ。 

 そう。自分の弱さを認められなければ、他人に「ヘルプ」と言うことができない。いざというときに助けてもらえない。「強い」男を演じ続けるのも大概にしなければなるまい。

3.友人を作るなら「選択縁」


 選択縁とは、血縁でもなく、地縁でもなく、社縁でもない、自ら選べる縁。

 (選択縁は)志や教養、趣味、思想信条、ライフスタイル、学歴や経済水準などで、あらかじめスクリーニングされているから、打率が高い。よりすぐりの釣り堀のなかで、気の合う相手を選べばよい。 

 
 要は、趣味の友達であったり、ボランティア仲間であったり、同じ宗教の徒であったり。
 言うまでもなく、そうした縁につながるよすがをある程度若いうちから持っていることが有利となろだろう。五十の手習いはものになるが、七十の手習いはなかなか厳しそうだ。
 そして、選択縁づきあいに成功するための「七戒」というのが白眉である。

 その1 自分と相手の前歴は言わない、聞かない
 その2 家族のことは言わない、聞かない
 その3 自分と相手の学歴は言わない、聞かない
 その4 おカネの貸し借りはしない
 その5 お互いに「先生」や「役職名」で呼び合わない
 その6 上から目線でものを言わない、その場を仕切ろうとしない
 その7 特技やノウハウは相手から要求があったときだけ発揮する

 なんだかまるで「オタク」の交流ルールみたいである。オタク男には結構楽しい老後が待っているのかもしれないな~。
 この七戒がわざわざ披瀝されるのは、「男」が他人とのつきあいにおいて思わずやってしまう過ちが、この七つの反対の行動ということだ。
 ご同輩よ、気をつけよう!

 
 著者にとって、男が良いおひとりさまの老後を過ごそうと思うのなら「男」の鎧を脱ぎ捨てなさい、つまり「男を下りる」に限る、ということになろう。
 確かに、「下りた」ところで、金玉がついている以上、男は男にかわらないのだ。それがもはや役に立たないものであったとしても・・・。
 筋金入りのフェミニストの面目躍如たる結論だとは思う。男の幸福を願う著者の愛も感じる。

 けれど、バカは死ななきゃ治らないっていうからな。

 バカのまま死ぬのも「おひとりさま道」と覚悟するのもありだろう。


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