アメリカの著名ジャーナリストであるビル・モイヤーズが、神話学の大家ジョーゼフ・キャンベルに、神話をめぐる様々なテーマについてインタビューする。裏表紙の解説に「驚異と感動の名著」とあるが、まさにその通り。人生でぜひとも読んでおきたい本の一冊と言っていい。しかも、読みやすく、面白い
それだけのパワーを宿しているのは、なんといってもキャンベルの人間性が十全に引き出されているからであり、その点で聞き手としてのビル・モイヤーズの卓抜さ、そして二人の間にある信頼と親愛の深さを称え上げなければなるまい。この対談の翌年に83歳でキャンベルが亡くなっていることを思えば、これはまさに白鳥の歌なのである。
神話とは何か。神とは何か。世界中にある神話の共通基盤は何か。神話によく出てくるテーマとは? 男の神と女の神との違いは? 神話の意義は? これからの神話の行方は?
神話学への興味から、こういった問いを抱えてぺーじをめくることもできる。むろん、キャンベルから適切な答えを得られるだろう。
しかし、この本の類いまれなる意義は別のところにある。
それは、「神話とは何か云々」とは別に、キャンベルという一人の人間が神話と人生とから何を学んだかが、驚くほどの率直さで語られていること。
そう、キャンベルという人間こそが、キャンベルという個性において種を宿し、花開き、熟し、見事に結実した思想とその言葉のきらめきこそが、読み手を惹きつける。
思わず線を引いたキャンベルの言葉。(赤字はソルティのコメント)
○ 人々はよく、われわれみんなが探し求めているのは生きることの意味だ、と言いますね。でも、ほんとうに求めているのはそれではないでしょう。人間がほんとうに求めているのは<いま生きているという経験>だと私は思います。純粋に物理的な次元における生命経験が自己の最も内面的な存在ないし実体に共鳴をもたらすことによって、生きている無上の喜びを実感する。それを求めているのです。
たしかに、<いま生きているという経験>の最中には、人は決して「生きる意味」なぞ問わない。たとえば、震災や戦火に見舞われているようなとき。たとえば、恋愛の真っ直中にいるとき。
○ あらゆる神話は限界領域内の特定の社会で育ってきました。それからそれは他の神話と衝突し、相互関係を持ち、やがて合体して、より複雑な神話になるのです。でも、現代は境界がありません。今日価値を持つ唯一の神話は地球というこの惑星の神話ですが、私たちはまだそういう神話を持っていない。私の知るかぎり、全地球的神話にいちばん近いのは仏教でして、これは万物に仏性があると見ています。「万物に仏性」は大乗仏教の謂いだ。仏教が人間だけでなく「生きとし生けるものすべて」に対して慈悲喜捨を持つよう説いているのは確かである。
○ 個人の成長―依存から脱して、成人になり、成熟の域を通って出口に達する。そしてこの社会との関わり方、また、この社会の自然界の宇宙(コスモス)との関わり方。それをすべての神話は語ってきたし、この新しい神話もそれを語らなくてはなりません。
「大人とは何か、成熟とは何か」―そこが曖昧で不透明になってしまったのが、いまの日本社会である。成長についての新しい神話(物語)が必要なのかもしれない。
○ 生はその本質そのものと、その性格において、恐るべき神秘です。殺して食うことによって生きるという、この生きざまのすべてが。しかし、多くの苦痛を伴った生に対して「ノー」と言うこと、「そんなものはないほうがよかった」と言うのは、子供っぽい態度です。ブッダが喝破したように「生きることは苦であり、すべては無常」である。その認識の次に、「では、どう生きていくか」が来る。ナチスのユダヤ人強制収容所を生き延びたヴィクトール・V・フランクルの著作『それでも人生に「イエス」と言う』を思い起こす。
○ もし自分の至福を追求するならば、以前からそこにあって私を待っていた一種の軌道に乗ることができる。そして、いまの自分の生き方こそ、私のあるべき生き方なのだ・・・・・。そのことがわかると、自分の至福の領域にいる人々と出会うようになる。その人たちが、私のために扉を開いてくれる。
これぞ精神世界の黄金律。
○ 英雄はなにかのために自分を犠牲にするーこれがその倫理性です。一方、別の見方からすれば、その英雄が自らを捧げた思想が許し難いものだということだって、もちろんあります。相手側の立場から判断すればそういうことになる。が、だからといって、なされた行為に本来備わっているヒロイズムは損なわれません。伊藤博文は日本人にとって英雄だが、韓国人にとっては極悪人。彼を暗殺した安重根(アン・ ジュン・グン)は抗日運動の英雄である。
○ 私たちの意識は、自分こそ万事を取りしきっていると思っていますね。しかし、そうじゃない。意識は人間全体の中では二次的な器官であって、それが主人になってはいけないんです。意識は肉体を備えた人間性に従属し、それに仕えなければ。もし意識が支配者になってごらんなさい、意識して政治的意図だけで生きるダース・ベーダーみたいな人間になりますよ。ここでいう意識とは、「自我」または「思考」のことだろう。前野隆司『脳はなぜ心をつくったのか』を想起した。(→ブログ記事。http://blog.livedoor.jp/saltyhakata/archives/4973785.html )
○ いきいきとした人間が世界に生気を与える。これには疑う余地はありません。生気のない世界は荒れ野です。人々は、物事を動かしたり、制度を変えたり、指導者を選んだり、そういうことで世界を救えると考えている。ノー、違うんです! 生きた世界ならば、どんな世界でもまっとうな世界です。必要なのは世界に生命をもたらすこと、そのためのただひとつの道は、自分自身にとっての生命のありかを見つけ、自分がいきいきと生きることです。
「生きた世界ならば、どんな世界でもまっとう」
これはすごい文句だ。近代的進歩主義価値観をひっくり返す。我々は、つまり、どんな瞬間でもすでに完全な世界に生きているし、生きることができる。自分がいきいきと生きさえすれば。
○ 最終的には人生は偶然で成り立っている。例えば、あなたの両親が出会ったことも! 偶然、あるいは偶然のように見えるものを通して、はじめて人生は理解できる。そこでの課題は、責任を追及したり説明したりすることではなくて、立ち現れてきた人生をどう扱うかということです。
○ 西洋の伝統の最善の部分には、生きた実体としての個人を認め、それを尊重することが含まれています。社会の役割は個人を啓発することです。逆に、社会を支えるのが個人の役割だという考えは間違っています。
「あなたの国があなたのために何ができるかを問うのではなく、あなたがあなたの国のために何ができるのかを問うてほしい」(1961年ジョン・F・ケネディの大統領就任演説)
○ 私は生に目的があるとは信じません。生とは自己増殖と生存持続の強い欲求を持った多く のプロトプラズムにほかなりません。(モイヤーズ:まさか・・・・・まさか、そんな。) ちょっと待ってください。純粋な生は、ひとつの目的を持っているとは言えません。まあ見てごらんなさい。生は至るところで無数の違った目的を持っているんです。しかし、あらゆる生命体(incarnation)は、ある潜在能力を持っており、生の使命はその潜在能力を生きることだ、とは言えるかもしれません。そのためにはどうすればいいか。私の答えは、「あなたの至福を追求しなさい」です。あなたの無上の喜びに従うこと。あなたのなかには、自分が中心にいることを知る能力があります。プロトプラズムとは、細胞の中の原形質のこと。「生きることに目的はない」というキャンベルの衝撃的な言葉に、ビルが一瞬絶句するところが面白い。そのあとに、「生には使命がある」と続く。これまた、下記のフランクルの言葉と相通ずる。
「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。「人生こそが問いを出し私たちに問いを提起している」からです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。
(『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル/山田邦男、松田美佳訳、春秋社)
これ以上、何も言うことはない。
あたかも、インドのグルか、禅の師か、『スター・ウォーズ』のオビ=ワン・ケノービーのような含蓄ある言葉の数々。
折に触れ、繰り返し手にとって、再読したい本である。