5/12土曜日、テーラワーダ仏教協会主催のウェーサーカ祭に参加した。(渋谷区立文化総合センター大和田)

 ブッダの誕生・成道・入滅という三つの偉大なできごとを記念するイベントで、テーラワーダ仏教諸国(タイ・ミャンマー・カンボジア・スリランカ・ラオスなど)では最も神聖で盛大な法要とされている。
 日本では4月8日がブッダの誕生日とされ、甘茶を誕生仏に注ぐ花祭りが行われているが、テーラワーダでは誕生・成道・入滅の3つともが5月(インド暦のウェーサーカ月)の満月日に起きたと伝えられ、国の祝日になっているのである。

 参加するのは4回目になる。
 いつの間にか毎年恒例の行事になってしまった。このイベントに参加することで、マンネリに陥りがちな瞑想修行にカツを入れ、新たなエネルギーを充電するのである。

 参加者は200名くらいだったろうか。例年より若干少ないような気がする。
 いつものように、日本の大乗仏教各宗派の僧侶達とテーラワーダの僧侶達とが客席の間を縫って入場し、舞台に上がる。
 面白いのは、舞台左右に居並んだ二つのグループの僧侶達を客席から見ていると、ずいぶんと雰囲気が違うのである。
 日本の僧侶達は、大方黒い法衣を着て金色の袈裟をまとっている。座禅を組むように背筋をピンとのばして椅子に座り、長時間でも微動だにしない。宗派は違っても統一された規律を感じさせ、整然として見事である。読経の声もきれいに揃っている。
 一方、テーラーワーダ(主にスリランカの僧)の僧侶達は、日本では目立つことこの上ない派手なオレンジ色の袈裟をまとい、大きな団扇を手にしている。椅子にべったりと腰掛け、大切な儀式の最中とは思われないほどくつろいでいる。熱いのか団扇で顔をあおっている者もいる。隣の僧侶と耳打ちしている者もいる。読経は各人てんでばらばら、節を一つに合わせようという思いもないようだ。
 これだけパッと見ると、日本の僧侶達のほうがカッコいいし、格が高そうに、精神的にランクが上のように見える。普段の修行の成果がこういうところに顔を覗かせるのかと思ってしまう。
 しかし、これは国民性というものだろう。日本人はやはり、規律と統一を美しいと感じるし、儀式の中に美や崇高さを見出したがる傾向がある。告別式がいい例である。
 だが、外面の美や崇高さが内面のそれと連動しているかと言えば、そういうわけではない。    
 例えば、規律と統一と言えば軍隊だろうが、軍隊にスピリチュアルな高さを求める者は三島由紀夫のような倒錯者をのぞけばよもやおるまい。
 加えて、仏教の悟りの第一段階である預流果(よるか)を得た人の特徴として「戒禁取(かいごんしゅ)」がある。特定のしきたりや行にこだわるのは意味がないと悟ることである。迷信や占いの類い、儀礼、典範、作法、禁忌などがナンセンスとわかって、それらにとらわれないのである。
 今回日本に招かれた舞台上のテーラワーダの長老達は、少なくとも預流果は得ておられるだろうから、こういった儀式(法要)に臨む際も、日本人のようにしゃちほこ張って生真面目に振る舞うことはないのであろう。

 さて、余興として、カンボジアの古典舞踏を鑑賞したあと、休憩を挟んで、行事の目玉であるスマナサーラ長老の記念法話を聞く。
 今日のテーマは「在家はどのように生きればよいのか」。
 ブッダと、そのいとこであるマハーナーマとの対話を記録した経典から説かれる。

 マハーナーマの上記の問いに対して、「それは素晴らしい質問です」と褒め讃えたあとブッダは次のように答える。
 
「5つのものを育てなさい。」
 
1.信(確信・納得)
 これは「信仰」ではない。仏教は信仰するものではない。物事を客観的に徹底的に自分で調べて納得することである。

2.精進
 決して怠け者にならないように。人間はほうっておくと怠けるようにできている。

3.念(気づき)
 いつも気づきを保てるように。

4.定(集中力)
 集中力が現れるように励みなさい。心が混乱した人間にならないように。

5.智慧
 無知の人間にはならないように。
 
「そのための6つの実践方法があります。」
 
1.仏を念じる
 と言っても、「南無阿弥陀仏」などのいわゆる念仏ではない。完全に悟った人、真理に達した人(如来)のことをいろいろ調べ、その人のようになりたいと励むこと。

2.法を念じる
 ブッダの説いた法(ダンマ)について自分で観察する。

3.僧を念じる
 ブッダ同様、真理に達した阿羅漢達のことをいろいろ調べ、その人達のようになりたいと励むこと。

4.戒(道徳)を念じる。
 汚点なく、隙間なく、自分が戒律を守っていることを観察する。

5.チャリティを念じる。
 自分の普段行っている布施行為、寄付行為、ボランティアなどを観察する。

6.神々のことを念じる。
 この神はキリスト教やイスラム教にみる一神教の神ではない。仏教にはその種の神はいない。経典に出てくる神は、人間とは別次元(天界)に住む生命のことで、創造者でも完全無欠でもない。それなりの力は持っているが、悟りに達しておらず、凡夫同様、ブッダに教えを乞う存在である。だから、神を念じるとは「祈る」ことではない。
 経典を読むと、ある神が生前どのような良い行いをしたおかげで、死後天界に行けたかが書かれている。こうした神の行いを観察して、善行為をつくるよすがにしなさいということ。


 ウェーサーカらしいテーマの法話だったのだが、はじめたばかりの仕事(介護)の疲れで眠くてたまらなかった。もったいない。
 テーラワーダの僧侶達による最後の祝福の読経もあたかも子守歌のように心地よく・・・・・。