ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

ダグラス・アダムス

● 因果の海、または脱「宇宙」暴論 本:『宇宙の果てのレストラン』(ダグラス・アダムス著、河出文庫)

6月の菜園2013 008 1980年刊行。
 2005年河出書房新社より発行。

 傑作SFコメディ小説『銀河ヒッチハイクガイド』の続編。
 今回は宇宙創世の謎を解く、人類誕生の真実に迫る、というまったくもって大がかりなテーマを軸に、元銀河大統領ゼイフォード、ペテルギウス星人フォード・プリーフェクト、元地球人トリリアン♀とアーサー・デント♂、鬱型ロボットマーヴィンの4人と1体が、気の遠くなるほど広大な宇宙を何百万年という時を越えて縦横無尽に駆けめぐる一大活劇。
 冴えたブラックジョークとナンセンスでシュールな展開は前作同様。
 著者アダムスの希有な才能を堪能することができる。
 とりわけ人類誕生の背景をめぐるエピソードが秀逸。
 アダムスが人類をどのように評価していたか伺うことができる。
 「糞の役にも立たないノータリン」
 残念なのは、それがブラックジョークではなくて真実であることだ。

 ところで、別記事「認識と存在のあいだ」で書いたように、「認識=存在」である。
 人類誕生以前の地上の風景を我々は知ることができない。古生物学がやっていることは、「現在の人類がタイムマシーンで人類誕生以前の世界に行ったとしたら、世界はどう見えるか」というアプローチに過ぎない。それは、犯行現場にいなかった人間の証言をもとに実際の犯行を再現するようなものであるから、客観的事実なんてものとはほど遠い。禅の公案に「父母未生以前の本来の面目は如何に?」というのがある。「両親が誕生する前、お前はどこにいた?」という意味らしいが、これと通ずるところがある。
 人類が今持っているような認識システム(見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる、考える)を手にして初めて、この「世界」は生まれたのである。それまで(人類誕生以前)そこにあったのは、「恐竜が認識する世界」であり「鳥類が認識する世界」であり「魚類が認識する世界」である。
 我々人類が見ているこの「世界」は、まさに人類の、人類による、人類のために存在する「世界」なのである。
 
 これを敷衍すると、こうも言える。
 「宇宙の誕生は人類の誕生と同時であり、その終焉は人類の終焉と同時である」
 いま我々が認識している宇宙の姿は、人類にだけ「このように」見えている。「このように」現れている。他の生命体は人類が「宇宙」として認識しているもの(空間、物体、現象)を、まったく違う色彩、形状、運動で認識しているかもしれない。そのどちらが正しいのか、決める手立てはまったくない。
 人類中心主義から脱すれば、すべては相対的である。この「宇宙」もまた、人類の、人類による、人類のための「宇宙」なのである。
 
 では、我々人類が認識している、あるいは他の無数の生命体が各々のやり方で認識している「世界」「宇宙」の素になっているものはあるのだろうか?
 
 ある、と思う。
 たとえば、物理法則などは地球上に棲むどの生命体も無視できないであろう。宇宙でもある程度通用するであろう。
 何らかのルールというか法則は最低限あるはずだ。
 自分はそれが「因果法則」なのではないかと思う。
 
 はじめに「因果の海」ありき。

 広大無辺のその海の一隅に、それぞれの生命が「認識」という名の光を投げかける。スポットされて浮かび上がった部分が、その生命の「宇宙」「世界」として立ち現れる。
 そんなイメージだ。
 
 「宇宙」or「世界」⊂「因果の海」
 
 だから、我々は因果をくまなく知ることはできない。
 ブッダが、「因果法則なんて簡単に理解できます」と口走った弟子のアナンダ尊者を、「そんな簡単なものではありません」とたしなめたように。
 一方、我々の「宇宙」「世界」で瞬間瞬間起こっていることで「因果の海」から漏れる事象はたった一滴すらもない。
 そんなイメージだ。


 

● これぞイギリス式 本:『銀河ヒッチハイク・ガイド』(ダグラス・アダムス著、河出文庫)

銀河ヒッチハイクガイド 1979年出版。2005年河出文庫発行。

 中学生の頃、実家で祖母と『奥様は魔女』を観ていたときのことである。
 楽しそうに観ている自分に祖母が聞いた。
「テレビの中で笑っている声がする場面で、やっぱり面白いと思う?」
「うん、面白い」と自分は答えた。
 祖母は感心したような顔をした。
「おばあちゃんには、どこがおかしいのかさっぱりわからないよ。」

 祖母がお笑いやジョークを理解できない堅物だったわけではない。『笑点』や漫才番組や『八時だよ、全員集合!』を観て声を立てて笑っていたから。彼女が理解できず共感できなかったのは、アメリカ人の笑いのツボやユーモアセンスだったのである。そのことに自分は逆に驚いた。
 そう言えば、父母もまた『奥様は魔女』を一緒に観ても笑いはしなかった。サマンサの繰り出す魔法はもとより、ダーリンとエンドラ(黒柳徹子似)の丁々発止の掛け合い、愛すべきハガサ叔母さんのドジぶり、隣人のグラディス夫妻のとぼけた会話など、自分が笑っているときでも両親は黙って見ていた。
 確かに、『奥様は魔女』の面白さと、『八時だよ、全員集合!』や『時間ですよ』の面白さは別物であった。分析はできなかったが子供心にもそれは気づいていた。前者が言葉の応酬から生まれるおかしさであるのにくらべ、後者はいわゆるドタバタのおかしさである。が、それだけではない。落語や漫才は形の上では前者に入るが、笑いの質という点ではやはり『奥様は魔女』よりは『時間ですよ』に近い。というより、日本人の笑いの原点をつくっているのが落語や漫才なのだろうから、後発のドラマやバラエティがその流れを汲むのは当然である。
 なぜ、祖母や両親が理解できないアメリカンジョークを子供である自分は楽しめるのであろう?
 『奥様は魔女』が何度も(子供枠である)夕方に再放送されている現実を考えると、自分以外にこのドラマを楽しんで観ている子供たちが大勢いるのは明らかであった。
 となると、世代の差ということになる。
 小さい頃(60年代)から浴び続けてきたアメリカ文化の洗礼がこうした笑いに対する感性をつくったのであろうか。それは大人になってからでは遅いのであろうか。
 そんなことを中学生なりに考えたのであった。


 マイケル・J・フォックス主演の『ファミリー・タイズ』やレオナルド・ディカプリオ出演の『愉快なシーバー家』や『アーリーmy love』を持ち出すまでもなく、アメリカンジョークは今では多くの日本人に浸透している。今では『奥様は魔女』を面白く観ていた世代によって日本のテレビ番組や映画は制作されているはずである。
 ・・・のわりには、どうしてこうもつまらない番組や映画ばかりなのだろう。アメリカンジョークの面白さが分かる、というのとそれを創りだすというのはまったく別次元の話なのだろうか。三谷幸喜はわりとそれに近いところをやって成功していると思うが・・・・。

 さて、この本はイギリス人の作者によるSFコメディである。
 2005年に映画化されて、その出来映えはかなりのもんである。
 今回はじめて原作を読んだ。
 で、『奥様は魔女』と祖母の一件を思い出したのである。

 この本の面白さを理解できる日本人がどれくらいいるのだろう?

 イギリス人の笑いのツボというのもまた、日本人のそれとはもちろん、アメリカ人のそれとも異なる。同じ西洋で、アメリカはイギリスから独立したのだから根っこは同じで感性も近いはずと思うのであるが、やっぱり違う。イギリスの方が醒めている。シニカルである。自虐的である。乾いている。文字通り「痛快」である。『ミスター・ビーン』が代表である。
 自分が好きなのはイギリス人の笑いであるが、これはまだまだ日本人に受け容れられているとは言い難い。これを受け容れるためには、何かアメリカ的なものを捨てなければならない。ポジティブシンキングとか底抜けの陽気とかファミリータイズ(家族の絆)とか人類愛とか・・・。

 なんとも痛快なのは、アメリカ人(ブルース・ウィリスやバットマン)が最後まで必死に守ろうとする地球と人類を、ダグラス・アダムスは最初の数ページで何のためらいもセンチメントもなく消滅させてしまうのである。これ以上の自虐はあるまい。いっそ清々しい。
 そこから物語は始まる。
 主人公のアーサー・デントにはもはや帰るべき故郷もなく再会すべき家族もなく守るべき価値もない。宇宙の大海原(という言い回しもよく考えると矛盾だが)をペテルギウス人とヒッチハイクするハメになったアーサーの姿は、『銀河鉄道999』の鉄郎とどれだけ懸隔あることか! 
 意味のない世界を生きるのに必須なのは、武器でも愛でも哲学でも芸術でも希望でもなく、ユーモアそして「一杯のお茶」なのである。






 
 

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