- マーラー:交響曲第10番より「アダージョ」
- チャイコフスキー:交響曲第5番
先日、高校生から突飛な質問を受けた。いわく、「『運命』の対義語ってなんですか」。この世の全てが既に決定されている必然だったのならば・・・私たちは運命に抗えず、運命の対義語は生まれ得ないのではないか、と言うのである。
これはシンクロニシティなのか。運命の必然なのか。あるいはソルティの無意識の策略なのか。
なんだか‘何者か’によって操作されているような気分になったことは確かである。

最終楽章については思うところがある。「運命のテーマ」が輝かしい長調となって鳴り響く冒頭。そのテーマは終盤で凱歌として復活する。私たちは、運命に対する人間の勝利をそこに聴く。しかし、響きこそ長調になってはいても、その姿は不条理を示す「運命のテーマ」なのだ。さらに、作品は3連音が叩きつけられて終わる。(作曲者が死を歌った交響曲6番の3楽章でも、同じ終結が用いられている)。またチャイコフスキーが遺したスケッチには、「運命の前での完全な服従」、「いや、希望はない」といった言葉が並んでいる。これはいったいどういうことなのか。勝利を歌うフィナーレにて、私たちがおぼえる確かな高揚は、もしやミスリードなのだろうか?そもそも冒頭の質問通り、人間が運命に打ち克つことなど可能なのか?
マーラーの死により第1楽章のみで未完に終わってしまったこの交響曲の構想は、ダンテ『神曲』ばりの「地獄」なのである。第3楽章「煉獄」の五線紙には「慈悲を!おお、主よ!何ゆえにわれを見捨てたまいしか?」と、第4楽章には「悪魔はわたしと一緒に踊る・・・狂気がわたしを捕らえ、呪った・・・わたしであることを忘れさせるように、わたしを破滅させる」と作曲者自身の手によって書き込まれている。
数々の傑作を生み出し、成功と栄誉と財産と世にも稀なる美女アルマを手に入れたマーラーでさえ、晩年には『第九』のような喜びの調べを奏でることができなかったのである。(本日のプログラムはその意味で強烈に‘後ろ向き’というか重苦しいライナップである。そこにソルティは惹きつけられたのか?)
1824年 ベートーヴェン交響曲第9番初演1859年 ダーウィン『種の起源』発表(進化論)1885年 ニーチェ『ツァラトゥストラ、かく語りき』発表(神は死んだ)1888年 チャイコフスキー交響曲第5番初演1889年 マーラー交響曲第1番初演
最初の話に戻らせてもらおう。私は「運命」の対義語は、「意思」だと考えている。確かに不条理な世界の中で、私たちは時に絶望する。しかし人間が内に秘めた「運命を乗り越えようとする意思」だけは、運命そのものに支配されないはずだ。
「意思もまた運命の一部ではないでしょうか?」
前野説にしたがえば、意思は実体のない幻覚であり、無意識という名の‘運命’に組み込まれた、気晴らしのごときオプションに過ぎない。「自己=私」は幻覚である。
「運命の対義語、それは‘悟り’じゃないかな」
ブルレスケの演奏は、気迫と情熱のこもった若さ漲るものであった。特にチャイコの5番はその真摯なまでのひたむきさに胸が熱くなった。テクニックは抜きん出ているわけではないが、奏者の思いが伝わる演奏で好感が持てる。
もしかしたら、運命の同義語も‘悟り’なのかもしれない。