ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

チャイコフスキー

● 「運命」の対義語 : フィルハーモニア・ブルレスケ第14回定期演奏会

日時 2017年7月15日(土)19:00~
会場 杉並公会堂大ホール
曲目
  • マーラー:交響曲第10番より「アダージョ」
  • チャイコフスキー:交響曲第5番
指揮 東 貴樹

 入場時にもらったプログラムや他の催し物の案内チラシを客席で読みながら開演を待つひとときは、クラシックコンサートに限らず、ライブにおける至福の瞬間と言っていいだろう。
 最寄りの喫茶店で軽く腹ごしらえをすませ、開演20分前に会場入りし、すいている1階席前方に陣取り、おもむろに本日のプログラムを開いて、思わず唸った。
 チャイコフスキー5番の曲目解説の冒頭文に、である。

 先日、高校生から突飛な質問を受けた。いわく、「『運命』の対義語ってなんですか」。この世の全てが既に決定されている必然だったのならば・・・私たちは運命に抗えず、運命の対義語は生まれ得ないのではないか、と言うのである。

 ブルレスケのトロンボーン奏者である木戸啓隆という人がしたためたこの一文にソルティが唸ったのは、上記の文章がまさに先日書いたばかりの記事『1/fの希望」に重なるからである。
 これはシンクロニシティなのか。運命の必然なのか。あるいはソルティの無意識の策略なのか。
 なんだか‘何者か’によって操作されているような気分になったことは確かである。
 それにしても、なんとも凄い高校生がいたものだ。
 太宰治予備軍か?

ブルレスケ


 木戸がそのように文章をはじめたのは、チャイコフスキー交響曲第5番が、ベートーヴェン交響曲第5番同様に、まさに「運命」をテーマにしているからである。人間が不条理なる運命にどう翻弄され、傷つき、苦悩するか。どう希望を持ち、抗い、連帯し、克服しようと努めるか。どう挫折し、落胆し、絶望し、すべてを「無」に帰す死へと押し流されていくか。そこに救いはないのか。これがテーマなのである。
 であるから、5番を聴くとチャイコフスキーの運命観がどのようなものかを垣間見ることができる。理不尽で残酷な運命とどう向き合おうとしたか、5番を作曲した時点でどんなふうに受けとめていたか、を伺うことができる。聴く者はチャイコフスキーの苦悩多き人生に思いを馳せる。何と言っても、26歳から52歳までの26年間に12回の鬱病期を経験し、53歳でスキャンダルにまみれた不慮の死を遂げた人である。

 少し長くなるが、木戸の文章を引用させてもらおう。

 最終楽章については思うところがある。「運命のテーマ」が輝かしい長調となって鳴り響く冒頭。そのテーマは終盤で凱歌として復活する。私たちは、運命に対する人間の勝利をそこに聴く。しかし、響きこそ長調になってはいても、その姿は不条理を示す「運命のテーマ」なのだ。さらに、作品は3連音が叩きつけられて終わる。(作曲者が死を歌った交響曲6番の3楽章でも、同じ終結が用いられている)。またチャイコフスキーが遺したスケッチには、「運命の前での完全な服従」、「いや、希望はない」といった言葉が並んでいる。これはいったいどういうことなのか。勝利を歌うフィナーレにて、私たちがおぼえる確かな高揚は、もしやミスリードなのだろうか?そもそも冒頭の質問通り、人間が運命に打ち克つことなど可能なのか?

 5番に続けて作られた6番『悲愴』とその数日後に訪れた死を思うとき、ソルティはチャイコフスキーが「運命に打ち克った、苦悩から脱する道を発見した」とはとても思えないのである。もちろん、死の直前に彼がどういう心境にあったかは知るところではないが。

 本日のもう一つの曲目である『マーラー交響曲10番』もまた、えらくネガティブなテーマを持っている。
 マーラーの死により第1楽章のみで未完に終わってしまったこの交響曲の構想は、ダンテ『神曲』ばりの「地獄」なのである。第3楽章「煉獄」の五線紙には「慈悲を!おお、主よ!何ゆえにわれを見捨てたまいしか?」と、第4楽章には「悪魔はわたしと一緒に踊る・・・狂気がわたしを捕らえ、呪った・・・わたしであることを忘れさせるように、わたしを破滅させる」と作曲者自身の手によって書き込まれている。
 数々の傑作を生み出し、成功と栄誉と財産と世にも稀なる美女アルマを手に入れたマーラーでさえ、晩年には『第九』のような喜びの調べを奏でることができなかったのである。(本日のプログラムはその意味で強烈に‘後ろ向き’というか重苦しいライナップである。そこにソルティは惹きつけられたのか?)

 古典派のベートーヴェンと、ロマン派のチャイコフスキーやマーラーを分け隔てるものは何か。それぞれの作曲家の個性をとりあえず脇に置けば、「神への信仰」ってことになるのではなかろうか。
 次の年表を見てほしい。
 1824年 ベートーヴェン交響曲第9番初演
 1859年 ダーウィン『種の起源』発表(進化論)
 1885年 ニーチェ『ツァラトゥストラ、かく語りき』発表(神は死んだ)
 1888年 チャイコフスキー交響曲第5番初演
 1889年 マーラー交響曲第1番初演
 19世紀後半はヨーロッパが「神」の存在に疑義を呈し、キリスト教信仰が揺らぎ、神の支配から脱し「自己」の確立へと向かい始めた時代だったのである。同性愛者であったチャイコフスキーなぞは、そうでなくとも「神」を信じることが難しかったであろう。
 「不条理な運命」も神意や天命と取れば人はどうにか受け入れ生きていけよう。だが、そこに神がいないのならば単なる「苦しみ」である。もはや神への‘明け渡し’は叶わずに、苦しむ「自己」ばかりが肥大する。近代人の苦悩である。
 
 さて、木戸はこう続ける。
 
 最初の話に戻らせてもらおう。私は「運命」の対義語は、「意思」だと考えている。確かに不条理な世界の中で、私たちは時に絶望する。しかし人間が内に秘めた「運命を乗り越えようとする意思」だけは、運命そのものに支配されないはずだ。
 
 確かに、ベートーヴェンもチャイコフスキーもマーラーも不条理なる運命を乗り越えようとする大いなる意思のもとに、後世に残る素晴らしい芸術作品を創造し得たのであろう。いや、人間のあらゆる営為は、さらに言えば人類の歴史そのものが、運命に対する抵抗の記録なのかもしれない。
 だが、くだんの高校生がもし前野隆司の「受動意識仮説」を知っていたら、こう言い返すかもしれない。
 
「意思もまた運命の一部ではないでしょうか?」
  
 前野説にしたがえば、意思は実体のない幻覚であり、無意識という名の‘運命’に組み込まれた、気晴らしのごときオプションに過ぎない。「自己=私」は幻覚である。
 
 ソルティなら高校生にこう答えるだろう。

「運命の対義語、それは‘悟り’じゃないかな」

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 ブルレスケの演奏は、気迫と情熱のこもった若さ漲るものであった。特にチャイコの5番はその真摯なまでのひたむきさに胸が熱くなった。テクニックは抜きん出ているわけではないが、奏者の思いが伝わる演奏で好感が持てる。
 
 チャイコフスキーは‘個人的には’自分は運命に屈したという思いを抱いていたかもしれない。でも、こうやって死後100年以上過ぎても作った曲が世界中で愛され、演奏され、人びとにパワーと感動を与え続けている。それを思うとき、‘人類史的には’「不幸な人生」とはほど遠いところにいるではないか、運命は彼を偉大な人間に仕立て上げたではないか、と思うのである。

 もしかしたら、運命の同義語も‘悟り’なのかもしれない。












 




 

● ゲイチックな週末2 チャイコフスキー交響曲5番(戸田交響楽団第62回定期演奏会)

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日時 2017年4月16日(日)14:00~
会場 戸田市文化会館大ホール(埼玉県)
曲目
  • チャイコフスキー:バレエ音楽「眠れる森の美女」より抜粋(序奏とリラの精、パノラマ、薔薇のアダージョ)
  • ストラヴィンスキー: バレエ音楽「妖精の口づけ」―ディベルティメント
  • チャイコフスキー: 交響曲第5番
  • アンコール チャイコフスキー: 「眠れる森の美女」よりワルツ
指揮 笹崎榮一

 戸田交響楽団は2回目である。前回はコンマスをつとめたNHK交響楽団の降旗貴雄の『白鳥の湖』の素晴らしいヴァイオリン独奏に陶酔した。
 今回もまたチャイコフスキープログラム。
 
 日本のメディアにおけるオネエタレント人気を思うと、日本人のチャイ子好きも不思議でも何でもないのだけれど、ではなんで日本人はオネエタレントが好きなんだろうか?
 歌舞伎における女形の伝統?
 美輪明宏の長年の薫陶の賜物?
 言いたいことをズバリと言ってくれるご意見番としての価値?
 欧米マッチョ文化への反発?
 性別を超越した存在に対する呪術的期待?

 ともあれ。
 チャイコフスキーの典雅で感傷的なメロディとゴージャスかつ華麗なるオーケストレイションは、今回もまた見事ソルティのツボにはまった。あちこちのチャクラが活性化し、身体がまんまオーケストラのようだった。
 チャイコフスキーが交響曲5番を作ったのは48歳のとき。亡くなる5年前である。
 いまやソルティはその年齢を超えたわけであるが、5番を聴いていると40代の時の自分よりも10代20代の自分を思い出すのである。おのれのセクシュアリティに気づき悩んでいた青春の頃である。
 当時の自分が味わった様々な感情的要素――否認や恐れ、孤立や不安、怒りや反発、自己嫌悪や逆転した形の優越感(選ばれしことの恍惚)、悲観や絶望、虚無や満たされない欲求、祈りや諦め、性愛の悦びと苦しみe.t.c――が次々と体の奥から浮かび上がってきて、再現フィルムのように追体験した。
 だが、それは苦痛というよりも懐かしさを伴った哀感である。
 
 自分の30代(1990年代)は、ゲイリブや市民活動や精神世界(スピリチュアリズム)の季節であって、それらを通じて多様性の価値を認める素晴らしい人々と出会ったことが、今の自分を作る礎となった。自己受容と自己肯定が拓かれた。それが40代半ばで原始仏教と出会い、「物語」や「自己」そのものの欺瞞と弊害を見るようになった。言うならば、「近代」に対する懐疑を抱くようになった。

 チャイコフスキーの音楽、つまりチャイコが囚われている世界は、まさにソルティが10代20代で味わった近代的ゲイの喜びと苦悩そのものという気がする。それは彼の生きた時代と場所が必然的にもたらした限界であろう。ゲイリブを知らぬチャイコは近代的個人として「自己肯定」するのは困難であったろうし、かと言って、偉大な先輩たるベートーヴェンのように、苦しみを超越し喜びに至る道(=神への帰依)を辿ることもかなわなかった。キリスト教における同性愛の位置づけゆえに。
 チャイコフスキーの音楽、とくに交響曲を聴くと、《第九》のように「暗」から「明」へと突き抜けたいと頑張っているのに、なかなか辿り着けないでいる魂のもどかしさを感じ取るのである。
 もしや日本人はチャイ子のそこを、できの悪い子供を愛するように愛しているのだろうか。











 


 

●  パルテノンの虹 :シンフォニア・ズブロッカ第12回演奏会

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日時 2016年7月23日(土)18:00~
会場 パルテノン多摩大ホール
指揮 金山隆夫
曲目
  1. 歌劇「エフゲニー・オネーギン」よりポロネーズ
  2. 幻想序曲「ロメオとジュリエット」
  3. 交響曲第6番「悲愴」
以上、チャイコフスキー作曲

 パルテノン多摩に行くのはもちろん、多摩センター駅で降りるのもはじめて。
 いや~、びっくりこいた。
 こんなにきれいでモダンで広々して発展している街があったのか!
 モノレールの走る光景といい、駅を出てから続く映画『オズの魔法使い』に出てくるような赤レンガ歩道といい、パルテノン(神殿)を模したシンメトリカルな建築物といい、お城のようなサンリオビューロランドといい、何だか‘おとぎの国’に入り込んだような感覚。しかも周囲には緑が多い。住むには面白いところかもしれない。

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 シンフォニア・ズブロッカは、20代後半を中心に学生から社会人まで様々なバックグラウンドを持つ演奏家が集うアマチュアオーケストラ。

ズブロッカとは、ポーランドの世界遺産「ビャウォヴィエジャの森」で採れるバイソングラスを漬け込んだウォッカ。桜餅か蓬餅に似ていると形容される柔らかな香りと、まろやかな飲み口が特徴。(ウィキペディア「ズブロッカ」より)

 アルコール40度以上。きっと飲むのが好きな団員たちが集まっているのだろう。ソルティは飲んだことがない。(おそらく今後も飲むことはないだろう。)

 今回はオール・チャイコフスキー・プログラムである。アンコールはたしか『くるみ割り人形』の中の小序曲だったように記憶するが、定かではない。
 
 団員が登場して気づいたのだが、通常なら舞台向かって右側(上手)に配置されるコントラバス数台が、左側(下手)に置かれていた。ほかの楽器の位置も異なっていたかもしれない。そのせいか、いつもよりオケの響きが不統一に思えた。
 不統一というのは言い過ぎかもしれない。メリットを見るならば、一つ一つの楽器の響きが至極独立して聴こえた。そのため曲の構造がとてもよく見えたのである。「面白いなあ~」と思った反面、曲全体がスケルトン(骸骨)風に響いて、チャイコの何よりの特徴であり醍醐味であるゴージャス感が希薄であった。ごつごつした骨の回りに脂肪たっぷりの艶やかな肉をたくわえて、その上に沢山のフリルとレースで覆われた煌びやかなドレスをまとった淑女――というのがチャイコフスキー、と思っているので、そのあたりは欲求不満であった。
 それから、一部の金管楽器がどうも足を引っ張っていたように思う。あまりにも音をはずし過ぎるしテンポもずれていた。弦楽器が巧かっただけにもったいない。(まさかズブロッてた?)

 第6番「悲愴」は、聴くと鬱が再発しそうな気になるので、あまり好んで聴かない。とくに第4楽章の暗さには気が滅入る。第3楽章が「勝利の行進曲」と言われるほど、毅然として威勢良く、自己肯定的で前向きな曲調だけに、そこから一転してマイナス思考に落ち込んでいく流れが聴く者を暗澹たる気分にする。しかも、その鬱のどん底で曲はフィニッシュしてしまう。救いがない。第3楽章で終わらせていたら、聴衆たちはいい気分で会場をあとにできるであろうに。
 苦しみとか葛藤とか不安は、チャイコフスキーの専売特許ではない。耳が聴こえなくなり絶望したべートーヴェンや、フロイトの患者だったマーラーも人後に落ちない。
 だけど、両巨匠の作った交響曲は、最終的には暗さや苦しみを突き抜けた境地に達している。本人が晩年その境地に達したのかどうかはともかく、少なくとも志向としては‘信ずべき輝かしい何か’をその目に見ている。つまり、希望を歌っている。チャイコフスキーにはそれが欠けている。
 思うに、その差は‘神への信仰’にあるのではないだろうか。
 3人ともクリスチャンなのは間違いあるまい。べートーヴェンとマーラーが紆余曲折ありながらも最終的には神を信じられた、神の救いを信じられたのにひきかえ、チャイコフスキーにはそれが難しかったのではないだろうか。
 というのも、よく知られているようにチャイコフスキーは同性愛者だったからである。
 オスカー・ワイルドを例に挙げるまでもなく、当時(19世紀)のキリスト教および西欧文化は現在と比べものにならないくらい同性愛に対するバッシングが激しかった。同性愛者=地獄行きはほぼ確定事項だった。そんな社会で生まれ育ったチャイコフスキーにとって、自分の自然な性向を肯定するのが非常に難しかったのは間違いあるまい。仏教圏に住むゲイよりも、キリスト教圏やイスラム教圏に住むゲイのほうが、自己肯定が難しいのは周知のことである。
 生まれついての自分の性向――それあらばこそ、人を深く愛することができ、あんなにも素晴らしい音楽を次々と生み出すことができた、いわば生と芸術の原動力――を否定しない限り、神にも社会にも受け入れられない、天国にも行けない。一方、神や天国や教会を否定し社会の非難をものともせずに己の道を進むほどには、この時代、マイノリティ運動は成熟していない。というか、その萌芽さえなかった。その狭間で苦悩したのがチャイコフスキーだったのではないか。
 「悲愴」第3楽章でいったん自己肯定し、「誰がなんと言おうと己の道を行く」と決然と意志表明したかに見えるチャイコが、第4楽章でもろくも潰えていくのを見るときに、時代というものが、あるいは伝統や社会や宗教や世間のしきたりというものが個人に対して持つ執拗な圧力というものを痛切に思わざるを得ない。
 それがソルティの『悲愴』感である。

 終演後、サンリオビューロランドの正面は、レインボウのネオンで輝いていた。
 考えてみたら、パルテノン(古代ギリシア)もレインボウも同性愛肯定の象徴である。チャイコに見せたい光景だった。


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● 小さなガリバー :チャイコフスキー交響曲第4番ほか(オーケストラーダ第11回演奏会)

日時 2016年4月23日(土)18:30~
会場 杉並公会堂
指揮 久保田昌一
管弦楽 オーケストラーダ
曲目
  1. チャイコフスキー:幻想序曲「テンペスト」ヘ短調
  2. 交響曲第4番ヘ短調

 音合わせが済み蝋人形のように固まっている黒服のオケの中へ、舞台袖から現れた久保田昌一が分け入ると、相対性のマジックで不意にオケの面々が巨人のようにデカく見える。男性団員ばかりか女性団員まで。巨人のブロブディンナグに迷い込んだガリバーのよう。
 観客に一礼し、高すぎる指揮台を大きく片足上げてのぼる。華奢な後姿に細い腕。一瞬、小学生が大人のオケを指揮する体験教室であるかのような錯覚を覚える。
 だが、棒が振られ音楽が始まるや、相対性のマジックもガリバーも消えうせて、久保田昌一が、クラシックの大海原を行く大艦隊を導く頼もしき旗船(はたぶね)のように、あるいは、十字架の代わりに指揮棒を身につけあまたのキリシタン百姓や浪人を従え、音楽という大いなる魔物と闘う天童•天草四郎時貞のように思えてくる。
 
 久保田は一流の指揮者に欠かせないカリスマ性を秘めていると思う。
 その優美でたおやかな観音様のような手と鹿のような優しい瞳にうながされると、吠え立てる猛犬が大人しくなるように、‘いっこく’気質の百戦錬磨のべテラン団員も、つい‘気’を合わされてしまうのではなかろうか。柔よく剛を制す合気道のように。

2011年2月、応募者数225名40カ国の中、第1回シカゴ交響楽団ゲオルグ・ショルティ国際指揮者コンクールにて優勝。4月には同響音楽監督リッカルド・ムーティからシカゴ響指揮研修員に任命される。(久保田昌一公式ホームページより)

 オペラの殿堂ミラノスカラ座に20年近くも君臨したあの大ムーティによって才能を認められている。凄いことだ。
 久保田が音楽監督を務めるオーケストラーダは、2011年に誕生した社会人オーケストラ。名前の由来は、orchestraとstrada(道)という2つの言葉をつなげたとのこと。「自分たちのための演奏会を開くだけでなく福祉機関とも積極的に連携しコンサートにご招待するなど社会貢献にも取り組んでいます。」と楽団ホームページにあるように、会場には白杖を持つ目の不自由な人の姿がちらほら目立った。耳の鋭い彼らを満足させるレベルの演奏を課されることにもなる。やるなあ。

 幻想序曲「テンペスト」は、言わずと知れたシェイクスピア最後の戯曲が題材である。
 静かな海の描写から始まって、次第に風雨が強まり、波が荒れ狂い、稲妻が空を引き裂く。嵐の到来。それから、島の娘ミランダと漂流した王子ファーディナンドのロマンティックな愛の描写が続く。
 チャイコフスキーらしい美しく可愛らしい小品である。本家本元の戯曲が構築する言葉が織り成す偉大な世界に迫るものではないけれど、これはこれで楽しめる。宝石で飾られたオルゴール箱のような典雅な佇まいである。
 演奏は出だしでちょっと管楽器の乱れにハラハラしたが、オケの息がそろってきた後半は流麗甘美であった。

 「交響曲第4番」は、1977年ベニスで完成したという。
 チャイコフスキー自身が、後援者のメック夫人に宛てた手紙の中で、それぞれの楽章の主題を解説している。自分は「The seaside of Ierendi」というホームぺージにこの手紙の内容を見つけて事前に読んでおいた。(このサイト、今は開店休業状態のようだ。)
 はじめて聴いたのだが、非常に完成度の高い、聴き応えある作品。フルオーケストラによる長大な交響曲に人が期待する要素がすべて詰まった「神戸牛ロースステーキフルコースディナー」みたいな贅沢感がある。満腹になったが、第6番「悲愴」ほど陰鬱ではないので、胃もたれはしない。
 久保田の指揮は楽章を追うごとに集中力を増していき、オケを支配していく。力でなく、空気で。あるいは音楽に対する繊細な愛情で。
 最後にはオケが、あたかも手なずけられた一匹の野獣のように従順になって、チャイ子独特の暗い野性を奥に秘めながらも、表面はあくまで優美に華やかに、叫び、歌い、かつ呼吸していた。

 いつの日か、久保田がマーラーの交響曲第1番を振るのを聴きたいものだ。 



 

● 仏の受難:ベートーヴェン交響曲第3番「英雄」ほか(曽我大介指揮、練馬交響楽団)

日時 11月15日(日)14時~
場所 練馬文化センター大ホール
演目 チャイコフスキー:祝典序曲「1812年」(合唱付)  
    ベートーヴェン:交響曲「ウェリントンの勝利」作品91
    ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調「英雄」作品55
指揮 曽我大介
演奏 練馬交響楽団
合唱 一音入魂合唱団

 最近知り合った人から、このコンサートのチケットを譲り受けた。
 自分から選んで行ったわけではなかったので、「英雄」以外のプログラムについては会場に到着するまで知らなかった。3曲とも生で聞くのははじめてであった。 

 3つの曲に共通する人物は誰か?
 ――ナポレオン・ボナパルトである。

 チャイコフスキー「1812年」は、ナポレオン率いる無敵のフランス軍を、ロシア軍が「冬将軍」の助けを借りて打ち破った歴史的な戦い(の年)を祝う曲。70年後の1882年に作られた。
 ベートーヴェン「ウェリントンの勝利」は、やはり1812-13年にイギリスの軍人アーサー・ウェルズリー(ウェリントン公爵)が、ポルトガルやスペインにおいてナポレオン軍を次々と撃破した勲功を讃え、1813年12月にベートーヴェンが発表した作品である。
 ベートーヴェン(1770-1827)とナポレオンは同時代の人間だったのだ!
 有名な交響曲第3番「英雄」(1804年作曲)のモデルはナポレオンと言われるように、ベートーヴェンはもともと、フランス革命のスローガン「自由、平等、友愛」を体現する象徴的人物として、ナポレオンを崇拝していた。が、ナポレオンが皇帝(独裁者)になったという知らせを聞いて、激怒し、幻滅し、反ナポレオン派になったようである。

 3曲に共通するのはナポレオンであり、フランスの栄光と敗退の軌跡である。
 プログラムの構成として面白いが、何より感じ入ったのは、今この時期、フランスの受難を表現する楽曲が演奏され、それを聴く機会を持ってしまった因縁である。
 むろん、プログラムを決める時点では、ISによるフランスでの同時多発テロなど想像もしなかったであろう。ほんの数日前まで、「今回のプログラムはナポレオンで統一」というのは、単なる練馬交響楽団あるいは曽我大介の趣向に過ぎなかったに違いない。
 それが、突然、ビビッドに、リアルになってしまったのである。
 今日、このプログラムに接する聴衆は、フランスのテロ事件と離れて演奏を聴くことはできなくなってしまった。
 しかも、チャイコフスキー「1812年」の主要旋律は、全体主義国家を崩壊させようと目論むテロリストの活躍を描いた映画『Vフォー・ヴェンデッタ』(ジェームズ・マクティーグ監督、2005年)のテーマ曲である。映画の中で主人公の謎の男“V”が常時被っていたガイ・フォークスの仮面こそは、国際ハッカー集団‘アノニマス’が好んで身に着ける、反逆の象徴である。 
 つまり、映画『Vフォー・ヴェンデッタ』を観たことのある者ならば、チャイコフスキーの「1812年」を聴いて「テロリズム」を想起せずにいられるわけがない。(もちろん、自分は観ている)

ガイ・フォークス仮面


 クラシック音楽は「古典音楽」と訳され、ともすると箱書きの付いた桐の箱に入っている骨董品のように扱われがちである。
 が、作曲された当時、演奏されたリアルタイムにおいては、時代の証言であり、その時代を生きる人間の思想表現かつ感情表現だったのである。19世紀初頭の西欧人の多くは、ベートーヴェン同様、ナポレオンの出現を寿ぎ、その活躍に喝采を上げ、「自由と平等と友愛」を希求しつつ、「英雄」を聴いた。ナポレオンがヨーロッパにとって危険な存在であると判明した後は、ベートーヴェン同様に、ロシア軍やイギリス軍の戦勝を心から喜び、「ウェリントンの勝利」を聴いた。(この曲はベートーヴェンの生涯における最大のヒット曲だったそうである。)
 音楽はまさに生きて、民衆と共にあったのである。
 「1812年」においても、「ウェリントンの勝利」においても、作曲家の指示として、曲中に実際の大砲の音が使われている。当時の聴衆に、どれだけビビッドに響いたことだろう!
 
 このようなプログラム構成を持った今回のコンサートが、仏のテロ直後の日本において、しかもパリに次いでISテロの標的になりうる可能性の高い“安部政権下の”東京において、ほかならぬ曽我大介――年末に国連難民援助活動支援チャリティコンサート「第九」を振る――の指揮で演奏されたという、驚くべきシンクロニシティ(共時性)を、なんと思うべきであろうか。そこにたまたま知人からチケットを貰った自分が居合わせたという偶然(=必然)をどう解釈したものか。
 
 なるほど、演奏自体は目覚しいものではなかった。
 全体に歯切れが悪かった。
 けれど、クラシックがこれほど‘リアルタイムに’響いた経験はかつてない。


 
 
 
 
 

● チャイ子にブラボー! 映画:『オーケストラ!』(ラデュ・ミヘイレアニュ監督)

 2009年フランス映画。

 この映画は最後の12分間のためにある。
 チャイコフスキー作曲「ヴァイオリン協奏曲」の演奏シーンのために。

 そのラスト12分に向かって、物語がじょじょにクレシェンドしながら、海に向かって赤い街を流れてゆくモスクワ河のごとく、華やかなパリの街を流れていくセーヌのように、いくつもの支流が合わせ重なって、最後は感動の海へと観る者(聴く者)を運んでゆく。

 ご都合主義たっぷりの分かりやすいストーリーといささか紋切り型の民族描写に、鼻白むよりもなんだか懐かしくなるくらい、昔ながらの直球勝負の映画である。最近の映画は設定もストーリーもテーマも登場人物達の心理も、こむずかしいからなあ~。
 久しぶりに、明るい前向きな、気持ちのいい映画を観た。

 気持ちの良さの理由の一つは、一人一人のキャラクターに注がれる愛情のためである。端役に至るまで魅力的な人物造形がなされていて、それぞれに見せ所が用意されている。役者としては冥利に尽きるだろう。
 楽団のユダヤ人の親子、パリの劇場の支配人♂とその秘書♂(この二人、最後にはチャイ子のオネエ的な音楽にほだされて結ばれてしまう)、第一ヴァイオリンのロマ(ジプシー)、熱烈な共産党員の楽団マネジャー・・・・。紋切り型であるからこそ、様々な国籍、人種、文化、愛の形が、それぞれのモチーフ(動機)を分かりやすく奏でながら、入れ替わり立ち替わり観る者に提示され、違うからこそ美しい多様性という名のハーモニーを編み出していく。
 まさに人間讃歌の協奏曲である。

 音楽の力で物語を収斂させつつコンサートシーンで幕を閉じるという意味では、本邦の名作『砂の器』を思い出すけれど、人の世の不寛容と哀しみと絶望を描いたあの作品とは、正反対の座標にある。

 見終わった後、チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」のCDを買いに行きたくなること必定である。(今日仕事帰りにタワーレコードに寄ろうっと




評価: B+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

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ソルティはかたへのメッセージ

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