ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

チャクラ

● ムラムラ君 : OB交響楽団第194回定期演奏会

日時 2017年10月28日(土)14:00~
会場 ティアラこうとう大ホール(東京都江東区)
曲目
 ワーグナー/楽劇『トリスタンとイゾルデ』より「前奏曲と愛の死」
 マーラー/交響曲第5番 嬰ハ短調
指揮 太田 弦

フルトヴェングラー 001


 音楽好きなら誰でも「人生最大のレコード体験」というのを持っていると思う。生演奏によるライブ体験とは別に、自宅でレコードやCDを聴いて人生観や音楽観が変わるほどの衝撃を受け、以降音楽に(そのジャンルに、その演奏家に、その歌手に)のめり込むようになった体験のことである。
 ソルティの場合、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』がまさにそれだった。
 CDプレイヤーが世に出回るようになってまだそれほど経っていない、20代半ば頃である。ヴェルディ『トロヴァトーレ』との出会いからオペラを聴くようになり、しばらくはヴェルディやプッチーニやベッリーニやドニゼッティなどのイタリアオペラを追っていた。ドイツオペラはモーツァルトくらいだった。なによりマリア・カラスに夢中だった。
 それがようやく落ち着いて、「そろそろワーグナーにチャレンジしようか」と思い、手はじめに秋葉原の石丸電気レコードセンター(今はもう無い)で購入したのが、東芝EMI発売1952年ロンドン録音のフルトヴェングラーの『トリスタンとイゾルデ』全曲であった。共演はフィルハーモニア管弦楽団、コヴェント・ガーデン王立歌劇場合唱団である。


フルトヴェングラー 003

 
 購入したその夜、おもむろに聴きはじめた瞬間から全曲終了までの約4時間、ソルティは当時住んでいた板橋の1Kの安アパートから、どこか上のほうにある別の場所に運び去られていた。次から次へと潮のように押し寄せる半音階的和声の攻撃と、うねるように昇り詰めていく螺旋状のメロディに、上等の白ワインを飲んだかのごとく酩酊した。音楽というものが、あるいはオペラというものが、「麻薬であり、媚薬であり、劇薬である」ととことん知った。男でもこれほど長時間のオルガズムを経験できるのだ、とはじめて知った記念日(?)でもある。
 歌手がまた凄かった。
 イゾルデは20世紀最大のワーグナーソプラノであるキルステン・フラグスタート。同CD付属の解説書によると、

 1935年メトロポリタン歌劇場で『ワルキューレ』の練習に際して、彼女が歌いはじめたその瞬間、その歌唱のあまりのすばらしさに指揮者は驚嘆のあまりバトンを落としてしまい、ジークムント役の歌手は茫然として自分の出を忘れてしまった程であった。

 これはまったく誇張でも粉飾でもない。ヴォリューム(声量)といい、輝きといい、鋼のごとき力強さといい、人間が持ち得る最も偉大な声であるのは間違いない。20世紀どころか今のところ人類史上ではなかろうか。
 トリスタンはルートヴィッヒ・ズートハウス。これもフラグスタートの相手役として遜色ない素晴らしい歌唱である。
 フルトヴェングラーはベルリン・フィル共演のベートーヴェン交響曲3番『英雄』、5番『運命』、9番『合唱付』など伝説的名演を数多く残しているが、それらの多くは1940年代のライブ録音ゆえ、音質の悪さも否定できない。名歌手を揃えたスタジオ録音のこのレコードこそが、後代のクラシックファンが聴けるフルトヴェングラー生涯最高の名演奏と言えるのではなかろうか。
 実をいうと、ソルティはこのCDを上記の一回しか聴いていない。その体験があまりに衝撃的で素晴らしかったので、もう一度聞いてそれ以下の感動だったらと思うと、怖くて聴けないのである。CDはケースに入ったまま今もレコード棚の奥のほうに並んでいる。こんなお蔵入りもある。

 さて、OB交響楽団の今回のテーマは、ずばり「愛」である。
 人類最高の恋愛物語の一つである『トリスタンとイゾルデ』は言うまでもないが、マーラーの5番も「アルマ交響曲」と名付けてもいいくらい、結婚したばかりの美しき妻の影響下に作曲されている。別記事でソルティは「男の性」がテーマと解釈した。
 まあ、なんと淫猥にして危険なラインナップであろうか。本来ならこういう演奏会こそ猥褻規定に引っかかるものなのだろう・・・(笑)
 指揮の太田弦(おおたげん)は1994年生まれの20代。舞台に登場した姿はまだあどけなさの残るのび太似のお坊ちゃん。オケの大半のメンバーの孫世代ではなかろうか。すでに日フィルや読響を指揮しているというから、才能の高さはその道のプロに認められているということか。OB交響楽団のようなベテラン&壮年オケがこういう勢いある若手と組むことを大いに評価したい。新しいものとの出会いこそが音楽を活性化する。
 
 出だしからOBのうまさが光る。独奏も合奏も安定している。よく練れている。太田の指揮は、繊細さと精密さが身上と思われる。ゴブラン織りのタペストリーのような、あるいは工学的技術の粋を集めた精密機械を連想した。

タペストリー


 と、分析できたのも最初のうち。1曲目『トリスタンとイゾルデ』の後半の「愛の死」から、舞台から放たれた音の矢がソルティの胸を直撃し、アナーハタチャクラが疼きだした。自分では曲を聴きながら、過去のいかなる甘いor苦い恋愛体験も感情的ドラマも思い出しても連想しても反芻してもいなかったので、まったく不意を突かれた。純粋に音の波動が、聴診器のようにこちらの体をスキャンして、必要なポイントを探り当てて掘削開始したように思われた。
「あらら?こりゃ不思議」と思っているうちに休憩時間。 

 2曲目マーラー5番。OBとマーラーの相性の良さを再認識。若いオケではここまでスラブ的粘っこさをうまく表現できないだろう。独奏もみな上手い。
 第2楽章の終結から今度は股間のムーラダーラチャクラがうごめきだした。くすぐったいような、気持ちいいような変な感触である。第3楽章に入ると、それが背筋を伝って這い上がり、首の後ろをちょっとした痛みを伴って通過して、頭頂に達した。ぼわんとあたたかな光を感じる。ホール内のルックス(照明)が上がった気がした。耽美的な第4楽章に入ると、光は眉間のアージュニャーチャクラ、いわゆる第三の目にしばらく点滅しつつ憩っていたが、最終楽章でスッと体の前面を下に降りた。華やかなクライマックスではオールチャクラ全開となった。
 体中の凝りがほぐれ、気の通りが良くなって、活気がよみがえった。
 終演後、最寄り駅に向かっていたら、ひさかた忘れていた“ムラムラ君”に襲われた。どうにもこうにも落ち着かないので途中の公園で瞑想すること40分。ムラムラ君は何かに変容したようである。
 やっぱり、音楽は麻薬だ。

ムラムラ君

ムラムラ君




 

● すばらしき新世界! :ISP第2回定期演奏会

ispオケ

日時 2016年11月19日(土)19:00~
会場 杉並公会堂大ホール
曲目
  • ドヴォルザーク/《謝肉祭》序曲 作品92
  • ツェムリンスキー/交響詩《人魚姫》
  • ドヴォルザーク/交響曲第9番ホ短調 作品95「新世界より」
指揮 田中 健
入場無料


 「新世界」と言えば通天閣。
 通天閣と言えば串かつである。
 
通天閣


 もとい、「新世界」と言えば「家路」。
 「家路」と言えばキャンプファイヤーである。
 ソルティも子供の頃、仲間と火を囲んで歌った記憶がある。

遠き山に 日は落ちて
星は空を ちりばめぬ
きょうのわざを なし終えて
心軽く 安らえば
風は涼し この夕べ
いざや 楽しき まどいせん
まどいせん 
(作詞:堀内敬三)

 最後の「まどいせん」の意味がわからなくて、何か‘水道栓’に似た‘まどい栓’というものがあるのだろうと思っていた。一日の終わりに、点灯夫が街灯を消していくように、職人が一個一個‘まどい栓’を締めていくのを見るのが「楽しき」なのだろうと漠然と想像していた。
 もう少し大きくなってからは、「惑いせん」と解釈した。「さあ、惑いましょう」という意に。「楽しき」と「惑い」は矛盾する語彙であるが、おそらくこの「惑い」は「あれこれ考える」という意味なのであろう。忙しかった一日の終わりに、今日あったことをあれこれと思い出してはホッとくつろぐといった感じだ。
 「窓居せん」という正解に気づいたのはいつだったろう?
 謎はすっきり解けたのだが、「なんだつまらない」という落胆のほうが大きかった。
 この歌に限らず、子供の頃は歌詞の意味も知らずに(知ろうとせずに)歌っていることが多いものだ。「仰げば尊し」とか「蛍の光」なんかもそう。「君が代」もしかり。言葉の意味や歌詞ではなく、メロディと語感のマッチングの妙を味わう楽しさがあったのだ。

 「家路」にはもう一つ野上彰による作詞もある。

響きわたる 鐘の音に
小屋に帰る 羊たち
夕日落ちた ふるさとの
道に立てば なつかしく
ひとつひとつ 思い出の
草よ 花よ 過ぎし日よ
過ぎし日よ

 どっちがいいか、歌うまでもなかろう。
 最後のフレーズは「まーどいーせん」以上にしっくりくる言葉は考えられない。

 さて、ISP (Innovation in Sounds Philharmonic)は、2015年11月に旗揚げ(っていうのかオケの場合も?)した新生オケで、『音楽を通して新しい「価値視点」を実験する』という、野心的かつ創造的なミッションを掲げている。
 その言や良し。
 どうやら、指揮者の田中健(1977年生まれ)が中心となって立ち上げたらしい。

 旗揚げ公演は、気になりつつも残念ながら行けなかった。
 2回目となる今回、杉並公会堂大ホールの1階は8割ほど埋まった。ざっと600人くらいか。2回目の公演でこれだけ集められるのは、(入場無料であるにしても)すごいことだ。
 会場は老若男女のバランスが良い。世代を超えて愛される一番の音楽はやはりクラシックなんだろうなあ。
 舞台向かって右側、前から10列目あたりに腰を据えた。

 《謝肉祭》は、躍動感あふれる曲で、コンサートの最初に持ってくるのにぴったり。うまくいけば、観客を一瞬にして演奏に引き込むことができる。
 ここで、ISPオケの思い切りの良さ、熱のこもった演奏を実感した。いや、体感した。「失敗を恐れずに全身全霊で」というのが信条なのかもしれない。気合いのこもった音は気持ちいいものである。

 《人魚姫》は、だれもが知ってるアンデルセン童話である。
 
陸の上の王子様に恋した人魚姫は、声と引き換えに魔法によって人間に変身し、お城に住み込む。しかし、憧れの王子様は別の女性と結婚することになり、人魚姫の命は風前の灯し火。助かるためには愛する王子を魔法の剣で殺さなければならない。人魚姫は迷った挙句、自らの命を犠牲にし、海の泡と消えゆくのであった。
 
人魚姫

 
 悲しい話である。
 ヴェルディの『椿姫』同様、失恋と自己犠牲という二大催涙ポイントを抑えているところが、この童話の永遠の人気の秘密であろう。
 ツェムリンスキーの音楽ははじめて聴くが、名前だけはどこかで見た覚えがあった。
 配布されたプログラムを読んで合点がいった。
 
ツェムリンスキーの弟子には、ヴァイグルやコルンゴルドらがいたが、注目すべきはアルマ・シントラーとの関係である。二人は一時期恋仲であったが、最終的に彼女はグスタフ・マーラーを選ぶ。結婚式は1902年3月9日に行われたが、ツェムリンスキーが《人魚姫》のスケッチを開始したのはちょうどその数週間前のことだった。彼の失恋がこの作品と結びつけて論じられるのはこうした理由からである。
 
 そうか。マーラーの伝記を読んでいて出会った名前だ。
 社交界一の美女アルマに一目惚れしたマーラーは、音楽業界では下位のツェムリンスキーからアルマを奪った。アルマもそれを良しとし、ツェムリンスキーを捨てたのである。
 恋する王子様を他の女に奪われ絶望したものの、苦悩の末に自己犠牲を選んだ人魚姫と、恋するアルマを師匠とも仰ぐマーラーに奪われ絶望したものの、二人を許して身を引いたツェムリンスキーとは、まさに同じ境遇の悲劇の主人公だったのである。
 その意味では、この曲には作曲家自身の体験や感情の裏打ちがある。
 
 そうと知って聴いたからかもしれないが、名曲である。
 美しく、切なく、悲しく、ヴィジュアルを喚起する。全編、海の風景が浮かんでくる。バレエにしても面白いのではないだろうか?
 全楽章通じて繰り返し登場する美しくも艶かしい「人魚姫のモチーフ」こそは、マーラーの「アルマのテーマ」と酷似している。つまり、ツェムリンスキーが人魚姫の音楽的モデルとして想定したのは、自分を捨てた(だが今も愛している)アルマだったのではないかと思う。
 なんともいじらしい(いじましい?)男心よ。女性にはわからんだろう。
 
 ISPの演奏は、波のようにダイナミックで、北欧の海の暗さと冷たさと神秘性とが宿っていて、見事な描写であった。

 面白いのは、この曲の楽譜はツェムリンスキーの没後(1942年)行方不明になってしまい、1980年になってウィーン(第1楽章)とアメリカ(第2、第3楽章)で発見されたとのこと。蘇演は1984年。
 実に40年以上経って人魚姫は蘇ったのである。もちろん、今度は自分がコキュ(cocu)にされたマーラーも、マーラー亡きあと多くの男達と浮名を流したアルマも、とうに昇天している。
 人生は短し、芸術は長し、女は強し。
 
 ラストの《新世界》
 ここ最近ソルティが聴いたアマオケの曲の中ではトップクラスの名演であった。
 曲そのものの偉大さをくっきりと浮き立たせるスケールの大きい演奏で、新鮮さ、驚き、迫力、郷愁、甘美、哀愁、素朴な信仰、勇ましさ、雄大な自然、活気ある庶民・・・といった「新世界(=全米)」的要素が見事に描出されていた。「家路」(第2楽章)の美しさは目頭を熱くした。
 指揮者の曲に対する愛情と理解の深さのほどを察しられる熱演。
 また、コンサートマスター鈴木悠太のヴァイオリンの艶ある音色とリーダーシップ、コントラバス奏者の音楽と一体になったかのような白熱ぶり――あれほど激しく揺れ動くコントラバスは見たことがない――も印象に残った。
 次回も聴きたいオケの一つとなった。 
 
 クラシック音楽は‘気’を活性化すると前に書いたが、今回のコンサートでは二曲目の《人魚姫》でいきなり胸のアナハータチャクラに強いうずきが生じた。(過去の失恋経験の蘇りか) それが曲の最後までずっと続き、クライマックスで海の泡となった人魚姫が空気の精となって天に昇っていく場面で、まさに胸の‘気’が喉を通過して額の中心(アージュニャーチャクラ)に昇った。ピコピコ点滅する光は曲の終了とともに頭頂に移動し、頭のてっぺん(サハスラーラチャクラ)が温かく明るい雲に覆われたかのようにボワッとなった。
 そのまま休憩入りして、《新世界》では頭頂に憩うていた‘気’の塊が「家路」で最高潮の輝きを放ち、第3楽章の民族音楽風スケルツォで背中をスッと下りて、第4楽章のホルンとトランペットによる勇壮な第1主題で「ありのとわたり(陰部と肛門の間、ムーラダーラチャクラ)」をパコパコと圧迫した。なんともこそばゆい、気持ちいい感覚。
 その後、生殖器(スワディシュターナチャクラ)にしばらく留まった‘気’は、全曲の終了とともにへその下の丹田(マニプーラチャクラ)に終着した。
 つまり、体の前面から始まって、上昇し、頭頂を通って、背面を下降し、股下を通って前面に戻る。上半身を後ろ周りに一周したのである。
 これは気功でいうところの「小周天」というやつらしい。
 
 気の流れが良くなったせいか、会場を出たソルティの目に、夜の杉並の街は輝いて見えた。
 あたかも「新世界」のように。


 
 

● 妄想交響曲? : 新交響楽団第234回演奏会

新交響


日時 2016年7月10日(日)14:00~
会場 東京芸術劇場袋コンサートホール
指揮 矢崎彦太郎
曲目
  1. ポール・デュカス:バレエ音楽「ラ・ペリ」
  2. 三善晃:管弦楽のための協奏曲
  3. ベルリオーズ:幻想交響曲

 今回の目的は幻想交響曲である。ベルリオーズ自身の失恋がきっかけで作られた5楽章からなる交響曲で、文学作品のようにそれぞれの章の主題がはっきりしている。いわゆる標題音楽の代表である。

標題音楽とは、音楽外の想念や心象風景を聴き手に喚起させることを意図して、情景やイメージ、気分や雰囲気といったものを描写した器楽曲のことをいう。対義語の「絶対音楽」は、音楽外の世界を特に参照せずとも鑑賞できるように作曲された音楽作品(またはそのような意図で創られた楽曲)のことをいう。(ウィキペディア「標題音楽」より抜粋)

 ベルリオーズ自身の説明によれば、「恋に深く絶望しアヘンを吸った、豊かな想像力を備えたある芸術家」の物語を音楽で表現した。
 なので、ドラマチックで至極わかりやすい、同様の体験(失恋)を持つ人にとっては非常に共感しやすい曲と言えるはずであろう。
 ソルティもむろん資格がある。「アヘンを吸った」「豊かな想像力を備えた」の部分ではなくて、「恋に深く絶望し」の部分で・・・。
 どんな感動が待ち受けているであろうか。

 デュカス「ラ・ペリ」の甘美な音楽が広い会場に漂いはじめて、「しまった!」と思った。
 午前中に人と会い、そのまま昼食を共にした。コンサートが控えているので腹七分目くらいにしておこうと思っていたのが、すっかり話に夢中になって、気がついたら腹十二分目くらい平らげていた。(仏教徒として恥ずかしい・・・)
 急いで列車に飛び乗り池袋で下車。開演時刻ぎりぎりに席に着いたはいいが、おなかは膨れたままである。
 案の定、眠気が襲ってきた。
 無駄な抵抗せずに、子守唄が流れるにまかせた。

 三善晃の曲は、とても子守唄になるような代物ではない。どっから聴いても現代音楽である。無調と不協和音と変則的リズム。安心や癒しや希望など、まったく与えてくれないつれ無さ。社会派ドキュメンタリーか不条理ドラマのBGMとしてならふさわしいかもしれないが、音楽単独で聴くのはやっぱりきつい。
 実はソルティは、三善晃作曲のオペラ『遠い帆』の世界初演に立ち会った。仙台に暮らしていた1999年3月のことで、指揮は外山雄三、管弦楽は仙台フィルハーモニー。
 なぜ仙台初演かというと、このオペラの主人公は、伊達政宗の家臣の支倉六右衛門常長だからである。常長は、主君の命を受けて使節団を率いてヨーロッパに行くことになった。困難な航海を成功させ、スペイン王やローマ教皇に謁見賜り、キリスト教徒になった。が、帰国してみると日本はすでに鎖国し、禁教令が敷かれていたのである。常長は失意のうちに死去したと言われている。
 このような一見不条理とも言える常長の生涯を描いたのがオペラ『遠い帆』で、三善晃の‘不条理的’音楽はこのテーマと見事に噛み合っていた。詩人高橋睦郎(‘組合’仲間)の台本もまた良かった。これまでに日本人が作ったオペラの中の最高峰と言っていいんじゃないだろうか。
 仙台での常長人気は意外なほどで、「萩の月」と並ぶ仙台銘菓に「支倉焼」というのがあるほどだ。

 さあ、休憩を挟んで、幻想交響曲。
 ようやく頭もすっきりしてきた。
 
 別記事で書いたが、クラシック音楽はチャクラを刺激する。音の波動が、体に7つあるチャクラを刺激してこじ開け、体内に入り込んで、体じゅうの‘気’を活性化する。おそらく大量のドーパミンが分泌されるのだろう。全身が性感帯になったかのような恍惚感を与えてくれる。
 なので、ソルティの場合、いい音楽かどうかは‘気’で判断できる。チャクラを活性化してくれるのは間違いなく素晴らしい音楽である。活性化してくれるほど、感動も大きい。
 これができるようになったのは、長いこと瞑想してきたためであろう。とくに一昨年暮れ、NHK交響楽団と指揮者フランソワ・グザヴィエ・ロトによる《第九》演奏会でチャクラが活性化してからというもの、良いコンサートでは必ずやチャクラが動くようになった。近いところでは、指揮者藤岡幸夫とワグネル・ソサィエティ・オーケストラによる演奏会。演奏された3曲すべてにおいて、音波が眉間のアージュニャー・チャクラを刺激し、そこから体内に入り込んだ音波が体中を蹂躙した。まるで音楽とセックスしたかのように、官能の海に溺れ、終わった後は身も心も生まれ変わったように軽くなった。
 
 矢崎彦太郎と新交響楽団による幻想交響曲。
 上手いのは確かである。それぞれの楽器が達者であるとともに、ハーモニーも見事。文句のつけようもない。それぞれの楽章が帯びているテーマへのアプローチも的確である。メリハリもあり、雰囲気もよく出ている。
 が、残念なことに、こちらの眉間まで伸びてきた音波が、皮膚の表面を小突きはするものの、中に入り込んでチャクラを開くほどには至らないのである。つんつんつん、と何度もノックされるのだが、惜しいところで波は退いてしまう。いま一つ感動に達しない。
 どうもこれは、指揮の矢崎彦太郎や新交響楽団の技量のせいではなくて、この曲が持っている性質ゆえではないかという気がした。
 というのも、アージュニャー・チャクラに達した音波がいつも、「あと少し持続すれば」というところで、曲調が別の方向に展開してしまい、音波が途絶えてしまうからなのである。それが何度も何度も繰り返される。曲自体が集中力を欠いた子供のようにあちこち飛びすぎて、持続力がないのだ。
 この曲をレナード・バーンスタインは、「史上初のサイケデリックな交響曲」と述べたそうだ。確かに、他の作曲家や他の交響曲に見られないほど、「突飛で、ユニークで、天才的で、カラフルで、印象的で、幻想的」である。ベルリオーズの非凡は間違いない。
 一方、アヘンを吸って作曲したのではないかと言われていることが示すように、この曲は全体「支離滅裂で、わけが分からなくて、妄想的」である。ある意味、現代音楽のほうがまだ、現代人特有の感覚(不安や孤独や断絶など)や置かれている状況(不条理や虚無など)を表現しているところのある分、理解しうるエッセンスを持っていると思う。
 この曲は「幻想交響曲」というより「妄想交響曲」という感じがするのだ。
 幻想ならば、いつかは目が覚めて、真実に気づく時が来よう。しかし、妄想では舞い上がったまま永遠に降りてこない。そこに真実はない。
 ソルティがこの名高い曲に感動できなかった理由はそこにあるんじゃないかと思うのである。
 
 腹十二分目のせいもあるかもしれん。
 いつかリベンジしよう。

 
チャクラ2
 
 
 
 
  





● チャクラ・マッサージ、あるいはベートーヴェン『交響曲第9番合唱つき』

141226_2021~01日時   2014年12月26日(金)
会場   NHKホール(渋谷)
指揮   フランソワ・グザヴィエ・ロト
管弦楽  NHK交響楽団
合唱   国立音楽大学
ソプラノ 安藤赴美子
アルト  山下牧子
テノール 福井敬
バリトン 甲斐栄次郎

 2年ぶりの第9。
 前回のロジャー・ノリントンはことのほか素晴らしかった。
 今回もまた外国人指揮者を選んだ。
 第9に関しては外国人指揮者のほうが‘発見’があるような気がする。(佐渡裕は別格だが・・・)
 
 唐突に話は変わる。
 最近瞑想中にチャクラがよく動く。
チャクラ チャクラとは何か。
 自分流に解釈する。
 人間の体は‘気’に包まれている。肉体の外側だけでなく、内側も含めた全体が‘気’の流れに浸っている。その‘気’がスムーズに流れ、全身に行き渡り、外界の‘気’とうまく接続し、常に循環・対流が起こっていれば、人は健やかでいられる。
 人間の持つ‘気’と外界の‘気’との接続箇所、‘気’の開口部がチャクラである。
 ここがなんらかの理由で詰まっていると、人の‘気’の流れが滞る。身体的・精神的な病気になる。
 人間の体にある主要な7つのチャクラと対応色、場所、心に与える影響は以下の通りである。
       
第1チャクラ ムーラダーラ(赤) 骨盤底      ・・・・・安定感、自信、落ち着き
第2チャクラ スワディシュターナ(オレンジ) 下腹 ・・・・活力、意欲、情熱
第3チャクラ マニプーラ(黄) 腰                ・・・・・集中力、やる気、意志
第4チャクラ アナーハタ(緑) 胸                ・・・・・調和、愛、開放
第5チャクラ ヴィシュッダ(水色) 喉              ・・・・・適切な感情表現
第6チャクラ アージュニャー(藍) 眉間           ・・・・・客観的に見守る
第7チャクラ サハスラーラ(紫)頭頂の少し上       ・・・・・自己を超えた視点
 
 瞑想の最初の頃は第1チャクラがよく動いた。座禅を組んでいると下から突き上げてくるエネルギーに、体がビクンと飛び上がるようなことがあった。
 何年も続けているうちに、第2チャクラ、第3チャクラが活性化してきた。下腹(いわゆる丹田)や腰部がうずくような、くすぐったいような、得体の知れない何かがクネクネとうごめいているような感覚が起こった。 
 連続1時間を越えて瞑想できるようになると、第6チャクラに焦点が集まるようになった。眉間の少し前の空間に黒い穴が出現し、そこに身も心もすべてが収斂されるような感覚が起こる、かと思えばパコパコと信号のように光が点滅する。
 それが過ぎると、エネルギーは今度は頭頂に集まって、綿のティアラあるいはシャンプーハットでもかぶっているような軽い圧迫を頭皮に覚え、頭頂から放出された何か(ドーパミンのような神経伝達物質か?)が顔面の裏側辺りを滴り落ちる。それが、過剰になると法悦状態が訪れる。
 自分の場合、ずっと第4チャクラと第5チャクラの動きが鈍かった。どちらも感情に関わるチャクラである。おそらく昔から感情を抑圧する傾向があり、かつ感情を適切に表現するのが苦手なためであろう。幼少の頃から周囲の視線や思惑を気にし、「好きなものが好き」と言えない(言えなかった)のが関係しているのかもしれない。
 が、ここ数ヶ月、瞑想していると妙にこの二つのチャクラがよく動く。胸のところにある固いフタが溶けて穴が開いて、中に詰まっていた過去のさまざまな感情が外に向かって放出されるような感覚。喉元にアッパーカット食らったみたいに下からぐっと突き上げる圧力を覚え声帯が開くような感覚。介護の仕事をしていて毎日大声出したり、歌を歌ったり、体を動かしたり、認知症の高齢者と理屈でなく感情に焦点を当てた会話をしているのが効いているような気もする。
 もっともチャクラを開くために、あるいはクンダリーニ覚醒するために瞑想をしているわけではない。あくまで、瞑想の目的は‘くだらない’思考を退治し智慧を開発することにある。
 だが、瞑想が体に、というよりも‘気’に影響を及ぼすのは間違いない。あるいは、‘思考’を退治することが‘気’の通りを良くするのであろうか。
 
 さて、チャクラを活性化するいま一つのものが、音楽である。
 音楽=音のバイブレーションもまた、チャクラに影響を及ぼす。
 いろんな音楽を聴いて試したわけではないから一概に言えないが、やはりクラシック音楽がもっともチャクラに効くような感じがする。クラシックのコンサートに行くと、演奏中に楽器の音やあるフレーズに瞬間的にチャクラが反応しピクンと体が動く。客席から飛び上がって、一緒に聴いていた隣席の友人を驚かしたこともある。
 で、もっともチャクラに効くクラシック音楽が、自分の場合、この第9なのである。
(やっと、本題に入った)

 指揮者のフランソワ・グザヴィエ・ロトは1971年生まれのフランス人。はじめて聞く名前、N響との共演もこれがはじめてだそうである。
 派手なところも、奇抜なところも、聴き手を唸らせるような目覚しい解釈こそないけれど、軽妙洒脱で品があって丁寧な音づくりが好感持てる。きっと、人格的にも素晴らしい人なのだろう。
 何より凄かったのが、最初から最後まで聴き手のチャクラを刺激しまくるのである。
 第一楽章の多彩な展開部は主として胸のアナーハタチャクラをうずかせ、第二楽章のスケルツォは眉間のアージュニャーチャクラを直撃し、第三楽章のアダージョは睾丸の裏あたり、いわゆるアリの門渡りをくすぐったいような恥ずかしいような快感で刺激し、それがメロディの高まりと共に頭頂へと押し上げられる。そして、合唱つきの第四楽章はすべてのチャクラを代わる代わる刺激して、最後は全身の‘気’の詰まりがすっかり取れて、流れがスムーズになって、新陳代謝したかのように気力が蘇えった。
 まるで、音による全身マッサージを受けたかのようで、NHKホールをあとにして師走の渋谷の街を駅に向かって歩くときは、来るときとは見る景色がまったく違って見えた。
 来るときは、渋谷駅に着いて代々木公園まで人ごみの中を歩いただけで、全身から‘気’が奪われ、疲れ果てていた。「きっと、今日のコンサートはずっと寝ているだろう」と思った。
 が、帰りはすべてがなんだか輝いて見えた。街も人も夜の空も。
 こうしたチャクラ活性効果が、フランソワ・ロトのおかげ(腕前)なのか、それとも聴き手の自分の体がたまたまそういう敏感な状態にあったためか。
 どうなんだろう?
 
 すくなくともベートーヴェンだからこそ、ってのだけは間違いあるまい。

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