ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

テーラワーダ

●  本:『仏の発見』(五木寛之、梅原猛対談、学研M文庫)

仏の発見 「ここまで語った対話があっただろうか。仏教の常識が根底から覆る!」と帯にある。
 過大広告もいいところ。そんな大層な本ではない。

 どちらの話者も博覧強記にして仏教に関する造詣の深さでは日本有数の人である。学者や僧侶とは違った自由自在な発想も楽しい。
 中国からやってきた仏教が日本古来の神道=アニミズムと出会った時、自ずから変貌して「山川草木悉皆成仏」思想が生まれたという見解などは「なるほど」と頷けるところである。宗教は伝播する時にその土地の土着の信仰と大なり小なり融合して住民に受け入れられていく。一神教が砂漠に生まれたように、その土地の神の形態や性質は風土や気候と切り離せないものだからである。もし大乗仏教ではなく、小乗仏教が日本に直接入ってきたとしても、それはやはり日本風に変質していたことであろう。いや、禅こそがその姿なのかもしれない。

 この対談は話題が広く豊富で、「聖徳太子は両性具有ではないか」などに見られる発想の自在さもあって面白くはあるけれど、とりたててエキサイティングなものではなかった。 
 それは二人の話者とも、孫悟空が釈迦如来の手のひらの中から抜け出せなかったように、大乗仏教の中から一歩も出ていないからである。
 二人がそれぞれの出自や生い立ち、子供の頃の悲惨な経験を語っている部分がある。二人とも「苦」「心の闇」を味わい、それが後年仏教に引き寄せられるきっかけとなったことが分かる。
 だが、二人が必要としている仏教は、あくまでも大乗仏教それも親鸞や蓮如や空海なのだ。

梅原 釈迦の仏教には、共感できないところがあるんです。輪廻を脱するというが、親鸞の仏教なんかとはちがっているんですよ。釈迦の仏教は「人生は苦である」という、それが基本ですね。
五木 そうなんですね。
梅原 その苦の原因も、愛欲で、愛欲から争いが起こっていく。争いのもっとも酷いのは人殺しだと。結局、そういう人間の運命を克服しないといけない。
五木 はい。
梅原 それには愛欲を滅することが必要だ。戒律を守り瞑想をし、知恵を磨くことによって、愛欲を滅ぼす。完全に愛欲を滅した状態に達するのがニルヴァーナ、涅槃だ。ニルヴァーナに入るのは、生きているときは難しい。だから、生きているときに、そういう状態に達したのを「有余涅槃」といい、死んでからを「無余涅槃」という。そういう思想が釈迦仏教ですね。
五木 ええ。
梅原 「人生は苦であるか」という釈迦仏教に、疑問を提出したのが、大乗仏教ではないでしょうか。
五木 なるほど。

 
 親鸞の仏教という言い方は矛盾している。「親鸞教」と言うのが本当だろう。

 思うに、幼い頃に飢餓や戦争や親の死などの現実の「苦」を経験してしまった者は、かえって「人生=苦」というブッダの教えを理解しがたいのではないだろうか。というのも、ブッダのいう「苦」とは現実の苦しみよりもむしろ「虚しさ」「実存的不安」に近いように思うからだ。
 ブッダは釈迦国の王子として、生まれながらにすべてをー金も地位も権力も女も容姿も立派な両親もー手にしていた。普通の人が味わうような人生の「苦しみ」からもっとも遠いところにいたのである。そんなブッダの「苦しみ」とは現実的なものではなかったろう。
 出家後の荒行で、ブッダは肉体的・世間的・社会的な現実の「苦しみ」も十二分に味わうことになったけれど、それでも彼は悟りを追い続けた。現実の「苦しみ」では覆い隠せない、質の異なる「苦しみ」を感じていたと見るべきだろう。

 日本で生き続けてきた大乗仏教は、現実の「苦しみ」に対処するための心の薬だった。貧しさ、差別、病や死の恐怖、愛する者との別れ、嫌な者との出会い、戦争、自然災害・・・。避けることのできない事態を受け入れるべく、「仏という物語」が心を整えてくれたのである。
 現代日本人、五木や梅原などの世代ではなく戦後生まれの豊かさを享受しながら育った世代の抱える「苦しみ」は、出家前のブッダの感じていた苦しみにより近いのではないだろうか。それは伝統的な大乗仏教では癒されないのではなかろうか。
 テーラワーダ(原始仏教)が若い人を中心に急速に広がりつつある背景には、そのあたりの事情があるような気がする。



 

● 釈尊祝祭日 ウェーサーカ祭に行く

 5/12土曜日、テーラワーダ仏教協会主催のウェーサーカ祭に参加した。(渋谷区立文化総合センター大和田)

 ブッダの誕生・成道・入滅という三つの偉大なできごとを記念するイベントで、テーラワーダ仏教諸国(タイ・ミャンマー・カンボジア・スリランカ・ラオスなど)では最も神聖で盛大な法要とされている。
 日本では4月8日がブッダの誕生日とされ、甘茶を誕生仏に注ぐ花祭りが行われているが、テーラワーダでは誕生・成道・入滅の3つともが5月(インド暦のウェーサーカ月)の満月日に起きたと伝えられ、国の祝日になっているのである。

 参加するのは4回目になる。
 いつの間にか毎年恒例の行事になってしまった。このイベントに参加することで、マンネリに陥りがちな瞑想修行にカツを入れ、新たなエネルギーを充電するのである。

 参加者は200名くらいだったろうか。例年より若干少ないような気がする。
 いつものように、日本の大乗仏教各宗派の僧侶達とテーラワーダの僧侶達とが客席の間を縫って入場し、舞台に上がる。
 面白いのは、舞台左右に居並んだ二つのグループの僧侶達を客席から見ていると、ずいぶんと雰囲気が違うのである。
 日本の僧侶達は、大方黒い法衣を着て金色の袈裟をまとっている。座禅を組むように背筋をピンとのばして椅子に座り、長時間でも微動だにしない。宗派は違っても統一された規律を感じさせ、整然として見事である。読経の声もきれいに揃っている。
 一方、テーラーワーダ(主にスリランカの僧)の僧侶達は、日本では目立つことこの上ない派手なオレンジ色の袈裟をまとい、大きな団扇を手にしている。椅子にべったりと腰掛け、大切な儀式の最中とは思われないほどくつろいでいる。熱いのか団扇で顔をあおっている者もいる。隣の僧侶と耳打ちしている者もいる。読経は各人てんでばらばら、節を一つに合わせようという思いもないようだ。
 これだけパッと見ると、日本の僧侶達のほうがカッコいいし、格が高そうに、精神的にランクが上のように見える。普段の修行の成果がこういうところに顔を覗かせるのかと思ってしまう。
 しかし、これは国民性というものだろう。日本人はやはり、規律と統一を美しいと感じるし、儀式の中に美や崇高さを見出したがる傾向がある。告別式がいい例である。
 だが、外面の美や崇高さが内面のそれと連動しているかと言えば、そういうわけではない。    
 例えば、規律と統一と言えば軍隊だろうが、軍隊にスピリチュアルな高さを求める者は三島由紀夫のような倒錯者をのぞけばよもやおるまい。
 加えて、仏教の悟りの第一段階である預流果(よるか)を得た人の特徴として「戒禁取(かいごんしゅ)」がある。特定のしきたりや行にこだわるのは意味がないと悟ることである。迷信や占いの類い、儀礼、典範、作法、禁忌などがナンセンスとわかって、それらにとらわれないのである。
 今回日本に招かれた舞台上のテーラワーダの長老達は、少なくとも預流果は得ておられるだろうから、こういった儀式(法要)に臨む際も、日本人のようにしゃちほこ張って生真面目に振る舞うことはないのであろう。

 さて、余興として、カンボジアの古典舞踏を鑑賞したあと、休憩を挟んで、行事の目玉であるスマナサーラ長老の記念法話を聞く。
 今日のテーマは「在家はどのように生きればよいのか」。
 ブッダと、そのいとこであるマハーナーマとの対話を記録した経典から説かれる。

 マハーナーマの上記の問いに対して、「それは素晴らしい質問です」と褒め讃えたあとブッダは次のように答える。
 
「5つのものを育てなさい。」
 
1.信(確信・納得)
 これは「信仰」ではない。仏教は信仰するものではない。物事を客観的に徹底的に自分で調べて納得することである。

2.精進
 決して怠け者にならないように。人間はほうっておくと怠けるようにできている。

3.念(気づき)
 いつも気づきを保てるように。

4.定(集中力)
 集中力が現れるように励みなさい。心が混乱した人間にならないように。

5.智慧
 無知の人間にはならないように。
 
「そのための6つの実践方法があります。」
 
1.仏を念じる
 と言っても、「南無阿弥陀仏」などのいわゆる念仏ではない。完全に悟った人、真理に達した人(如来)のことをいろいろ調べ、その人のようになりたいと励むこと。

2.法を念じる
 ブッダの説いた法(ダンマ)について自分で観察する。

3.僧を念じる
 ブッダ同様、真理に達した阿羅漢達のことをいろいろ調べ、その人達のようになりたいと励むこと。

4.戒(道徳)を念じる。
 汚点なく、隙間なく、自分が戒律を守っていることを観察する。

5.チャリティを念じる。
 自分の普段行っている布施行為、寄付行為、ボランティアなどを観察する。

6.神々のことを念じる。
 この神はキリスト教やイスラム教にみる一神教の神ではない。仏教にはその種の神はいない。経典に出てくる神は、人間とは別次元(天界)に住む生命のことで、創造者でも完全無欠でもない。それなりの力は持っているが、悟りに達しておらず、凡夫同様、ブッダに教えを乞う存在である。だから、神を念じるとは「祈る」ことではない。
 経典を読むと、ある神が生前どのような良い行いをしたおかげで、死後天界に行けたかが書かれている。こうした神の行いを観察して、善行為をつくるよすがにしなさいということ。


 ウェーサーカらしいテーマの法話だったのだが、はじめたばかりの仕事(介護)の疲れで眠くてたまらなかった。もったいない。
 テーラワーダの僧侶達による最後の祝福の読経もあたかも子守歌のように心地よく・・・・・。

 


● 講演:「気づき」の迷宮 ~サティの実践とは何か?(演者:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

 テーラワーダ仏教協会の月例講演会。
 会場は代々木にあるオリンピック記念青少年総合センター。

 スマナ長老の話を聞き始めて丸3年になるが、最近話の内容が高度と言うか、濃いと言うか、あけすけと言うか、いよいよもって仏教の核心にずばり踏み込んでいくような大胆さと迫力とを感じる。どうも3.11以来、その感じが強まっているような気がしてならない。ひとりひとりが悟ること、変容することの重要性、緊急性が増しているとでも言うかのように。やはりマヤの予言は実現するのか?(笑)
 それとも、常連の多い聴衆者のレベルがそれだけ上がってきているのだろうか。
 いずれにせよ、聞くたびに焦燥感にかられる。

 今回の話も実に深い、実に鋭い、実にシビれるものであった。
 サティ(気づき)の重要性を説明するのに、スマナ長老がとっかかりとして持ち出したのは、なんと「この世の仕組み」「認識の仕組み」「生命の仕組み」という大がかりなテーマであった。
 考えてみたら、すごいことだ。開口一番、「はい、これからこの世の仕組みについて話します」なんて、誰にでもできることではない。(スマナ長老が実際にそう言ったわけではない。念のため。)

 
○ すべての生命の認識(知覚)システムは、幻覚をつくる(捏造する)ようにできている。

○ 存在(世界)とは、認識システムによってとらえた情報を主観で組み合わせて作り出したもの(=幻覚)である。

○ 認識システムは、動物・植物・昆虫・人間の別をとらず、一つ一つの生命によって異なるので、「私」の世界と「他人」の世界とが異なるのが当然である。「私」の世界を「他人」が知ることも、またその逆も、不可能である。

○ 「私」は、幻覚を事実と錯覚してしまい、それにとらわれてしまう。それによって「苦」が起こる。

○ 幻覚(捏造)が起こるのは、六門(眼・耳・鼻・舌・身・意)に絶えず入ってくる、色・声・香・味・触・法という情報(データ)を処理する仕方が間違っているため。

○すなわち、
 六つの門に情報が触れる
       ↓
 「感じた者」が概念(想)をつくる
       ↓
 概念ができたら思考する
       ↓
 この思考が捏造する
       ↓
 過去・現在・未来にわたって捏造された概念を適用する。

○ アジタ行者とブッダの問答
 アジタ: 世は何に覆われている?
 ブッダ: 無明によって覆われています。
      (六門からの情報により捏造された幻覚が事物の本然の姿を覆い隠している)
 アジタ: 人はなぜそのことが分からない?
 ブッダ: 疑いと放逸とがあるからです。
 アジタ: この無明の状態を固定してしまうものは何か?
 ブッダ: 妄想の回転です。
 アジタ: その結果起こる危険とは?
 ブッダ: 苦が起こることです。
 アジタ: あらゆる方向から、絶えず流れ(=情報)が入り込む。どうすれば止められる?
 ブッダ: サティ(気づき)がこの流れに対する堤防です。智慧によって無明がなくなります。


 と、やっとここでサティが出てくる。
 仏教におけるサティとは、「(情報の流入→捏造)という大いなる津波に対して堤防として働くものであり、サティは生命そのものの問題である」と長老は言う。「生きるとは知ることであり、知るとは捏造することです。」

 つまり、我々(生命)が生きるとは、それぞれの認識システムを使って捏造した世界(幻覚)を瞬間瞬間作り出していることであり、幻覚の世界に「私」をもって生きるとき、絶え間のない「苦しみ」が生じるのである。
 「苦しみ」から離脱するには捏造をやめること。六門から入ってくる情報を、次の段階(概念を作る、あるいは思考が始まる)にまで持っていかずに、即座に楔を打つ。
 その楔こそサティなのであろう。 

 こうしたことを「頭で理解する」ことと、実際に「体験する」こととは違う。体験してこそ納得し確信が持てるのだから。心が裏返るのだから。体験するためには、やはり修行=瞑想が不可欠である。
 自分は、頭では理解しているつもりなのだが、なかなか悟れない。

 やっぱり、精進が足りないのだろう。
 

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