ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

テーラワーダ仏教

● 仏教介護宣言 本:『看護と生老病死』(井上ウィマラ著、三輪書店)

看護と生老病死 2010年刊行。

 この先、自分のバイブル的存在(経典的存在?)になりそうな本である。
 出家の経験ある著者による「仏教」と「看護」とを結びつけた本なのであるが、自分が今、そしてこれからやろうとしていることは「仏教」と「介護」とをリンクさせることであり、「看護」という言葉をすべて「介護」という言葉に置換すれば、この本に書いてあることはそのまま自分の目標となり、導きとなり、後ろ盾となり、励みとなるからである。


本書は仏教の教えと瞑想的実践の本質を看護の臨床現場に手渡してゆく試みです。(「まえがき」より)

 その場合、「仏教」と言うのは、日本に古くから伝わる「大乗仏教」ではない。自分が軸足を置いて学び修行しているのは上座部仏教、釈迦の教えを現代までもっとも忠実に伝える、いわゆる「テーラワーダ仏教」である。
 著者の井上ウィマラは、曹洞宗とミャンマーのテーラワーダ仏教で出家し瞑想修行を行ってきた。その後、西欧諸国での瞑想指導や仏教研究を経て還俗。現在は高野山大学スピリチュアルケア学科で、スピリチュアルケアの基礎理論と援助法の構築と教育に取り組んでいる。
 井上の拠り所とする仏教はまさにテーラワーダである。


 現在自分は老人ホームの介護職をしているが、介護は看護より時間的にも距離的にももっと濃く対象となる相手の傍らにいる仕事である。看護の第一の目的が病気の治癒にあるなら、介護の目的は生活支援にある。西洋医学がメインの現代では、看護はどうしても手術や薬剤の投与に代表される、人間を生理機械として見立てた即物的なものになりやすい。自然、相手を見る視点も心より体優先になりやすい。一方、介護は、排泄や入浴や食事やレクリエーションなどをのサポートを通じて相手の心の声を聴く仕事である。
 また、老人介護の仕事は、病や死や親しい人との別れといった人生の危機に直面している人々との関わりである。認知症という、アイデンティティ(自我)の崩壊に苦しむ人々との関わりである。
 介護現場にこそスピリチュアル視点の導入が重要であり喫緊だと思っている。
 仏教系のビハーラ、キリスト教系のホスピスは日本にもいくつか存在しているが、ターミナルに至るもっと以前から、必要な介助を受けながら、老いと病と死とつき合うための教育の場があってもいいはずだ。

 老人介護の現場に仏教的視点や瞑想実践を取り入れることの利点は何か。
 何よりもまず、それが「老病死」の苦しみを和らげることである。
 

 仏教心理の視点から老年期について考えるとき、何かを獲得することによる幸せから手放すことによる幸せへの転換がどれだけできているかということがポイントになります。それまではできて当たり前だったことが加齢と共にできなくなってくること、すなわち自立や自律の喪失という現実と向かい合わねばならなくなるからです。
 
 ブッダの教えの根幹は「四聖諦」として表現されています。諦とは真理の意味で、四つの聖なる真理とは、生老病死の苦しみをありのままに知ること、その苦しみの原因を見いだして手放すこと、苦しみの消滅である涅槃を実体験すること、苦しみの消滅に至る実践の道を歩むことです。看護という臨床現場は生老病死のすべてを抱えています。それゆえに、生老病死の苦しみを見守るブッダの大いなる視点を看護の現場に応用することは、患者と看護者とが病苦を契機として共に苦しみからの解放に向かって歩むための灯を得ることになるのではないかと思うのです。

 
 老病死の苦しみは、むろん身体上のものであるが、より大きいのは心の苦しみであるのは言うまでもない。身体上の苦痛は最近では鎮痛剤などを使ってかなり軽減されるようになってきている。
 心の苦しみを作りだしている最大の原因は「自我への執着」である。
 仏教の「諸行無常」「諸法無我」「因縁」という教えこそ、この「自我への執着」という病に対するカンフルだと思う。
 
 無我とは、自我のないことではありません。人生は自我の思い通りにはならないという現実を受け容れて、試練に直面しても絶望して行き詰まってしまうことなく、試行錯誤しながら生き抜いてゆくしなやかな自我の強さを養うことです。
 
 認知症患者へのケアは、仏教の無我を実践的に深く理解するための重要な機会となり得ます。「私」という観念の成り立ちとその崩壊をありのままに見つめ、「私」という観念を手放す悲しみの道のりにそっと寄り添ってゆく学びです。
 
 次に、テーラワーダ仏教に伝わる瞑想法であるヴィパッサナー瞑想は、「今ここ」の自分の体や心に起きている現象を逐次認識する(実況中継する)のを特徴とする。自らをありのままに見て受け容れる作業である。
 修行の本来の目的である智慧の開発や解脱とは別に、この瞑想の実践は認知症の予防になるのではないかと推測している。
 と言うのも、認知症とは、「今現在の自分の状況を受け容れられないことから起こる自己否認」ではないかと思うからである。
 テーラワーダの伝わる国々(ミャンマーやタイやスリランカ)での、あるいはテーラワーダのお坊さん達の認知症の割合を知らないので何とも言えないが、もしこの推測が当たっているのなら、高齢化が猛スピードで進む日本にとってヴィッパサナー瞑想の普及は福音と言える。

 老人ホームで働いていて、利用者が日がな一日何もやることがなくてしんどそうにしているのを見ていると、「瞑想を知っていれば退屈しないのに…。」といつも思う。
 瞑想には目的がある。最終目的である「悟り」が啓けなくとも、智慧が開発される。それはワクワクするような面白いことである。効用もある。深い呼吸は身体にも心にも良いのは証明済み。免疫力を高めるというデータもある。心が満たされれば対人関係もスムーズになる。人生の最後の時間を誰にも邪魔されずに瞑想修行に充てられるなんて幸せではないか。介護を受けながらでも最後まで張り合いを持って生きられるではないか。(仏教では死ぬ時の心のありようが、次の転生先を決めると言われている。)

 また、ビハーラやキリスト教系のホスピスのように、施設全体がある特定の宗教を基盤として運営され、利用者が同じ宗教に学ぶ仲間であるのならば、そこには自然と助け合いの精神が生まれるだろう。介護を必要とする者同士が、お互いに助け合い、足りないところを補い合い、教え合い、学び合う場が生まれる。それこそ「サンガ」である。それは、社会や家族の軛を離れ、人生の最後を過ごすにふさわしいコミュニティたりうるはずである。

 一方、介護する側にも利点がある。
 一つには、職場がそのまま慈悲と智慧の学びの場、発揮する場になることである。何と言っても、助けを必要としている人が目の前にいるのだ。
 一つには、「老病死」と向き合っている老人達と関わることで、自らの修行の場となることである。
 
 私たちが生老病死という人生の現実にどのように対応するかというパターンは、私たちがどのような家族の中で育ってきたかという生育歴に強く影響されます。そこには、ある特定の感情パターンや思考パターンが親から子へと世代間を伝達されています。仏教では因縁と呼んでいるものです。私たちはそこに小さな意味での輪廻の姿を見ることができます。
 看護現場で困難に出会った時、自分が陥りやすい行き詰まりのパターンに遭遇した時、それは自分の生育歴を振り返ることが求められている時であり、輪廻する世代間伝達の悪循環に気づき、手放し、新たな良い循環を創造してゆくチャンスでもあるのです。こうした意味で、看護の現場は、微細なレベルでの輪廻パターンに気づき、手放し、新たな係わり合いの可能性を創造する総合的な智の実践の場でもあります。
 
 つまるところ、修行とは「自らを知る」ことにほかならない。
 介助を必要とする老人達と関わることによって生じた怒りや戸惑いや哀しみや虚しさや喜びや苦手意識をありのままに認めて、その感情の起こった背景や由来を探り出し、自我の構造を暴き出すのである。

 また一つには、仏教はターミナルケアを射程に入れる教えである。
 死に向かってゆく相手に対し、どのように接していくか、どのような言葉をかけていくか、どのように耳を傾けていくか。相手の表情や振る舞いや言葉から触発される自身の感情をどのように受けとめ、コントロールし、燃え尽きることなく介護を続けていくか。仏教は、瞑想は、役に立つはずである。(実際、いま役に立っている。)
 
 仏教的視点をもった看護では、死の間際の意識のあり方を大切に支援するという仕方で、そうした宗教的選択に寄り添いたいと思います。これはいかなる宗教を信じる人たちに対しても平等になされるべき仏教の基本的視点です。
 人が人生の最後に何を見るかを強制することはできませんし、強要すべきではありません。何を信じ、何を見て死んでゆくにしても、その人の死の間際の意識のあり方を大切にすること、すなわちできるだけよい状況で、不安や恐れなく、安心や感謝や喜びや希望に囲まれて、最後の景色を見つめて通過してゆくことができるようにケアすることが大切なのです。
 そうすることで、死を敗北として避けるのではなく、健康な人生の一部として自覚的に死を受容して生き抜いてゆけるように支援する医療や看護が可能になってゆくのです。

 今自分が働いている施設で、いきなり仏教的要素を取り入れるのは難しいだろう。職員にも利用者にもいろいろな宗旨の人がいるし、宗教には無関心あるいは反感を抱く人もいることだろう。それぞれの利用者の抱く信仰と儀式(お経を読むなど)を尊重するのがせいぜいである。介護保険という公金が投入されている関係上、特定の宗教色を目立たせるのも難しいだろう。(それもおかしな話なのだが。)
 だが、今施設にいる老人達は、神棚や仏壇を家に祀ってきた人がほとんどである。特定の宗派に強い信仰が無くとも、神仏に対する崇拝の念・畏敬の気持ちは持っている人が多い。施設の中に仏像を飾った仏間や神棚くらいあっても良さそうだと思うのだが・・・。朝夕に手を合わせるだけでも、心が格段落ち着いてくると思う。辛い時、悲しい時、寂しい時には、人生経験が薄いわりに大きな顔してのさばっている若輩の介護士なんかに話を聞いてもらうよりは、よっぽど拠り所になると思う。


 今は個人レベルで、介護する際のこちらの心の持ち方の土台(OS)として、仏教を役立てている。そのうち、より深いレベルで仏教と介護とをリンクさせていけたらよいなと思っている。



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● 本:『老いと死について さわやかに生きる智慧』(アルボムッレ・スマナサーラ著)

老いと死について 「老い」と「死」について語らせたら、ブッダの右に出る者はいない。仏教の独壇場である。
 もちろん、ここで言う仏教とは、大乗仏教ではなく、ブッダの教えをそのままに今に伝えるテーラワーダ仏教のことである。
 その意味では、このスマナサーラ長老の新著は、「無常」や「無我」についての著書と並んで、まことの仏教の何たるかを端的に伺い知ることができる恰好の本であり、また、高齢化社会を突き進んでいく我々日本人にとって「待ちに待った」本と言うことができよう。

 正直のところ、仏教思想の中にしか、人類が「老い」や「病」や「死」と敢然と向き合い、従容として受け入れ、なおかつ幸福でいられるための秘訣は他に見つかるまいと思っている。再生医療やクローン技術にいくら期待をかけても、それがいくら進歩しようとも、光の壁を突破できないのと同様、「老病死」の壁は乗り越えられまい。技術の進歩は決して幸福にはつながるまい。そのことが未だに分からない有様を「無明」と言うのだろう。
 この本を、各市町村の役所は、地域に住むお年寄り達に敬老の日のプレゼントとして贈呈したらどうだろうか。あるいは、介護保険の被保険者(65歳)となった記念に・・・。
 それは冗談だが、自分は、次に帰省した際、年老いた両親に読んでもらうべく、置いて帰るつもりである。
 
 以下、引用。

 お釈迦さまはこう言っています。
 「年をとる、老化する、死に向かって生きていくという現実を素直に認め、認識できる人こそ、この世でもっとも幸せに生きられる人である」
 
 幸福とは、凪いだように穏やかな心のことです。何を映しても動揺しない鏡のように、波一つない水面のように、平穏な心を育てることが、人にとって真の幸福なのです。
 
 親のために子供ができる最大の孝行は、「道徳的で清らかな執着のない心を持って最期を迎えられるように親をサポートする」ことに尽きます。


 「悟った人は、執着もないまま何のために生きているのか」と聞いてくる人がいます。そんなとき、私はこう答えます。
目的があって生きているのではなく、ただ死ぬのを待っているだけです


 あなたは、自分の老いや死について考えたいと思い、本書を手にとってくださったのでしょう。もしそうなら、あなたが本当に考えるべきは、やがてやってくるであろう死にどのように備えたらいいのかということではありません。
 
目の前にある「今」を力強く生きる。
 それが最も大切なことです。


 仏教では、どんなとき、どんな相手に対しても、事実をありのままに話すことが大切とされています。自分の意志や感情、主張はいっさい挟みません。
 本人にはがんの告知をせず、家族がその事実をひた隠しにするようなケースが今でもありますが、それは大変に思い上がった行為であり、本人にとってとんでもない不幸です。
 確実にまもなく死ぬ時期がわかっている病気の場合は、なおさら本人に伝えるべきです。残された日々をどのように過ごしていくかを本人の自由に決めさせるのは、まわりの人たちがやらなくてはならない仕事です。


 どの言葉も確信に満ちている。日本人が好むあいまいさやぼかしや婉曲的なところがまったくない。まことの仏教とは、切り立った岩壁の如く、かくも激烈なる、毅然たる、劃然たる思想なのである。日本人が仏教にイメージしがちな、「まんまるい、ほんわかした、癒し系の、菩薩風の」ものとは違う。
 
 ところで、老いを語るのに欠かせない要素の一つは「孤独」であろう。
 老いて子供は独立し、仕事も辞めて、連れ合いに先立たれ、孤独が道連れとなる日が来る。
 これまで孤独と付き合う準備をしてこなかったツケが回ってくるのである。
 ふと見ると、無縁社会の「孤独死」がポッカリと口を開けている。
 スマナ長老、処方箋はないものでしょうか。

 存在とは、天涯孤独です。よいでもなく悪いでもなく、それが命の自然な姿なのです。孤独をなくすのではなく、孤独に慣れることが賢い生き方になるのです。
 人生は孤独なものであり、厳しいけれどそれが現実です。現実である以上、生きていくためには、人は孤独に対する「免疫」をつけなければなりません。

 孤独を、いかに楽しいものにできるかが、その人の人生を決め、さらには次の人生も決めます。自分がひとりになったとき、どうするか。
 ひとりになるまいとするのではなく、ひとりになることを大前提にして、人生をプログラムしてください。それは、子育てをどうするか、マイホームの購入をどうするか、出世をどうするかについてプログラムするよりも、ずっと重視すべきことなのです。

 仏教では、「気の合う友だちは、ひとりでもいれば十分です」と教えます。それを孤独というのなら、そうでしょう。孤独とは結果的に、必要のないものや余分なものを手放すことだからです。


 孤独、恐るるに足らず。
 今から「孤独力」を磨いておこう。


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