ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

テーラワーダ仏教協会

● 講演:『なぜブッダを念じると幸福になるのか?』(演者・アルボムッレ・スマナサーラ)

 9月6日(土)中野ゼロで開催された日本テーラワーダ仏教協会主催の月例講演に参加した。
 今回の講演はずいぶん刺激的で面白かった。
 歳をとると、どうしても講演の最中に眠くなる。いったん椅子に座ると日常の疲れが浮上してきて、それを癒そうとするモードに体は自動的に入る。また、昨今はパワーポイントとプロジェクターを使ったスクリーン映写講義がどこでも主流だが、それは人を眠くさせる。画面を見やすくするために会場をいくぶん暗くせざるを得ないし、スクリーンに映った文字を読むのに目が疲れる。結果、睡眠モードに突入する。
 案の定、講演の始まった最初の30分ほどは座席で目をつぶって、うつらうつらしていた。
 しかし、スマナ長老が「思考」の構造の説明に入ったあたりから、俄然、意識は覚醒し、集中力は高まり、目はランランとしてきた。

 まず、スマナ長老はこう断言する。 

「思考が人生を作り出します。」

 これは精神世界で人口に膾炙する黄金律の一つである。 
 有名なところでは、アメリカの作家ナポレオン・ヒル(1883- 1970)の『思考は現実化する』(Think and Grow Rich)が思い浮かぶ。「日常何をどう考えているのかが、その人の未来や運命を大きく左右する。だから、自らの思考に注意せよ」といったものである。
 さして、目新しい言説ではない。
 が、ナポレオン・ヒルは「願望実現」の秘訣という意味で、これを言ったのである。スマナ長老の(仏教の)意図するところは、これとはだいぶ異なることがおいおい明らかにされる。

 スマナ長老は仏教的な思考の構造の説明に入っていく。
 ここからが面白い。
 思考には三つの層があるという。

第一層  私たちが普段気づいている思考や感情(表面思考)
第二層  私たちがたまに気づく思考や感情。いわゆる「無意識」(背面思考)
第三層  その人が持って生まれた基礎となる思考や感情(基礎感情または潜在煩悩)


 これをコンピュータのプログラムに喩えると、
第一層  アプリケーションソフト(文書作成、表計算、IE、メールソフトなど)
第二層  基本ソフト(WINDOWS、MAC OSなど)
第三層  BIOS(バイオス)


 最も深いところにある潜在煩悩(第三層)は、その人のカルマを深いところで形成している、本人を含め周囲の誰からも気づかれることのない思考や感情の層であり、生まれ変わっても持ち続けるのだという。
 この潜在煩悩は、たまに目覚めることがあるが、そのときは相当危険なのだという。(トランスパーソナル心理学で言うところの「スピリチュアル・エマージェンシー」という概念に相当するのかもしれない。)
 たまに、「わけもなく人を殺したくなった」と言って実際に何の恨みも利害関係もない相手を殺害する人間が現れたり、「なぜあんな立派な人があのような卑劣な犯罪を犯したのか皆目見当もつかない」といった事件が世間を騒がしたりするが、それはこの潜在煩悩の覚醒によるものだという。それは当人の把握していないカルマが起こした事象なので、本人も周囲の人間も専門家も、この種の事件には納得のいく説明を与えることができない。また、潜在煩悩が覚醒する時を予測することは誰にもできない。
 この三つの思考の層は、独立しているのではなく、互いにフィードバックしている。
 表面の思考は、背面の思考(無意識)に影響を与え、背面の感情の変化は基礎感情(潜在煩悩)に影響を与える。背面で起こった感情は、表面の感情を刺激し、それに反応して表面の感情は新たな思考や妄想を作り出す。日常生活で我々が軽い気持ちで思考したことは、感情を刺激し、それが背面レベルに影響を与え、潜在レベルにもなんらかの形で蓄積される。
 一つの層で起こった思考や感情の波は、他の二つの層に伝わって、そこで何らかの変容を起こして、再び最初の層に還ってくる。
 思うに、その行ったり来たりの波及効果の積み重ねがある一定の傾向をつくって、その人の性格、人生、カルマを作っていくのであろう。

 興味深いのは、第二の層である背面思考いわゆる無意識がもっとも活発に働くのは夜寝ているときであり、それゆえに、それがどんな性質のものか本人が知ることができるのは、朝目覚めた瞬間だという。
 つまり、朝目覚めた刹那の感情や気分というものが、その人の背面思考(無意識)の質を表している。
 これを聞いて合点がいったのは、自分自身(ソルティ)、昔から朝目覚めた瞬間が一日のうちで最悪(最低)の気分であることが多いからである。二日酔いではない。なにか「非常にもの悲しい、ブルーな気分」に覆われて目が覚めることが多い。特に憂鬱の原因となるような具体的な悩みもストレスもないのに――である。
 この気分は、頭を枕につけた状態で5~10分くらいすると靄のように消えていくのが通常である。学校のこと、仕事のこと、今日やるべきこと、いま心を占めている事象(喜怒哀楽)が、ウワッと気団のごとく頭に(心に?)入り込んできて、最初のブルーな感情をどこかに追いやってしまうのである。そこから一日が始まる。
 あるいは、目覚めてから読経するのがここ数年の日課となっているのだが、それによってブルーな気分は払拭され、「過去のこと、先のことを思い煩うなかれ。目の前の一日をしっかりと生きればよい」と平常心を纏う。そこから一日が始まる。
 そうしてみると、自分の無意識(背面)、潜在煩悩(基礎)は、かなりリスキーな性質のものなのかもしれない。
 くわばら、くわばら。

 さて、スマナ長老は進める。 

「すべての生命は、貪(欲)・瞋(怒り)・痴(無知)をさらに刺激する方法で思考します。すべての生命の本能は貪・瞋・痴です。」
 すなわち、我々の思考とは常に「煩悩」を増やすものでしかない。
 であれば、フィードバックシステムによって、表面の思考は他の二つの層にも影響を及ぼすのであるから、生命が生きること(=思考すること)は、「存在」をより悪い状況へ転化させることでしかない。  
「すべての生命はほうっておくと自動的に不幸になります。」
 ここが、ナポレオン・ヒルの思考論とは異なるところだ。「願望実現」という(世間的に見れば)ポジティブな思考でさえ、それが欲である以上、結局は不幸の引き金にすぎないと言うのである。
 

 仏教はそこにどう介入するか。
 答えは単純である。
 背面感情(無意識)、とくに基礎感情(潜在煩悩)には、我々は直接接触することができない。それらをコントロールすることも、変えることもできない。
 だが、第一層の表面思考(意識的な思考)は認識し、接触し、コントロールすることができる。我々が「なんとかできる」のはこの層に対してだけである。

意識的な感情(思考)を制御することが「鍵」です。
 第一層の汚れが取り除かれ澄んでくるにしたがい、フィードバックシステムによって、第二層、第三層の汚れも取り除かれ、次第に澄んでくる。無意識や、潜在煩悩の強い力によって、表面に現れる思考や行為がネガティブにコントロールされる危険も減ってくる。


 では、どのように意識的な思考(感情)を制御するか。


その1 サティ(念)の実践は究極の方法である。
 つまり、ヴィパッサナー瞑想を実践せよ。
 「思考」が現れた途端に、それに気づき、「欲なら欲」「怒りなら怒り」「嫉妬なら嫉妬」・・・と心の中で実況中継する。これをすることで、「思考」が身口意(行為・言葉・感情)に及ぼす破壊的な影響をダムのごとく抑えることができる。

その2 汚れた思考(貪・瞋・痴)をその都度正しい思考に置き換える。
 汚れた思考が起こってきたら――というより、ほとんどの思考は貪・瞋・痴であり、汚れているのだが――「思考」が起こってきたら、すぐにそれを強制終了させ、負の流れを生まないような「正しい思考」に置き換える。たとえば、
1.ブッダや阿羅漢など、聖者のことを念じる。 
2.ブッダの九徳を念じる。
3.仏法を学ぶ。
4.慈悲の瞑想を行なう。


 古来、いろいろな宗教や宗派において、祈りや念仏やお題目や真言やらの言葉を唱えることが推奨されてきた意味は、実はここにあるのかもしれない。
 すなわち、祈りや真言それ自体が持つ力によって「願いを叶える」とか「奇跡を起こす」というのは勘違いであって、大切なのは、すくなくともそれらを一所懸命唱えているあいだは、煩悩を増幅させる「思考」をストップさせることができる、ということなのかもしれない。
 もしそうだとしたら、煩悩が生じたときにすぐさま、数学の問題を解くのもあり?


 ちなみに、「ブッダの九徳」とは以下の通り。
 
世尊は、
①阿羅漢であり、
②正自覚者であり、
③明行具足者であり、
④善逝であり、
⑤世間解であり、
⑥無上の調御丈夫であり、
⑦天人師であり、
⑧覚者であり、
⑨世尊である。
ブッダに、私は生涯帰依したてまつる。

サードゥ、サードゥ、サードゥ
 



● ありのままの私、になるの? 講演:「どうして仲良くできないの?」(講師:アルボムッレ・スマナサーラ)

 7月12日(土)中野ゼロで開催されたテーラワーダ仏教協会主催の月例講演会に参加。
 テーマ(副題)は「差別と区別の違いを知る」

 開口一番、スマナ長老が発したのは次の英文。

  Mankind is born to kill.
  人は殺すために生まれてきた。

 いつもながら大胆な発言、大胆な人である。
 しかし、初期仏教を学び瞑想を日課とするようになって数年の自分は、もはやこの程度の発言で度肝を抜かれることはない。
 これは言葉を変えて言えば、「人間は無明に閉ざされている」ということだろう。
 無明の原因は無知で、無知の最たるものは「自我が存在する」と思っていることである。
 自我というのは常に「自分は正しい」と思っている。
 当然だ。他者との違いのうちにしか「自分」は存在しないからである。「自分」が存在する限り、その「自分」はいつも「他者」を必要としつつ否定する。
 つまり、born to kill だ。
 だから、人間は生まれつき区別するようにできている。
 スマナ長老は言う。
 「区別に感情が入ると差別になります。人は感情に支配されているので、すべての区別が自動的に差別になってしまうのです。」
 区別を差別にしないためにはどうしたらよいか。
 感情に支配されないこと。理性(智慧)で生きること。慈悲を育てること。
 そのためにはどうしたらよいか。
 ヴィッパサナー瞑想で智慧を育てること。慈悲の瞑想ですべての生命を慈しむ心を育てること。
 講話の結論がいつも修行の励行に結びつくのがスマナ長老の話である。というか、まことの仏教である。

 今回、刺激的で面白かったスマナ発言。

● 仏性とはすべての生命に備わっている無明です。

 仏性は大乗仏教の創り出した概念である。ブッダは仏性なんて言っていない。「一切衆生悉有仏性」は妄想である。スマナ長老、当然仏性の存在を否定するのかと思っていたら、「すべての生命が本来は悟っている(仏である)というのは間違い。あえて仏性を定義するならば、それは無明でしょう。」と言う。
 なんて大胆な!
 が、なるほど。
 生命は無明ゆえに輪廻転生しながら生存し続ける。すべての生命に備わっているものを挙げるとしたら、それは確かに「無明」である。


● 「自分に正直に生きる」のはとんでもないこと。

 --と言ったスマナ長老の一言からの連想。
 『アナ雪』の大ヒットは、主題歌に一因があろう。「ありのままの、わたしに、なるの~♪」というフレーズが、若者たちの心をとらえたのだと思う。
 ありのままの私。
 このフレーズ、実は自分もよく使ってきた。
 セクシュアル・マイノリティの自助&支援活動の中で、もっとも良く唱和され見聞きする標語の一つだから。
 ゲイやレズビアンであることを家族や友人に隠し、ヘテロセクシュアルを演じ、自己否定して生きてきた当事者が、仲間によってエンパワーされ自己肯定し前向きに生きていく(カミングアウトする)ことを決意する心情が、「ありのままの私」という表現に托される。
 それは大切な概念であり、プロセスである。
 セクシュアル・マイノリティだけではない。世間や社会や家族からの有形無形の圧力に屈して「偽りの自分」を演じ続けている人々がいる。自分でもそれが「偽りの自分」であると気づかない人々がいる。そのうちに仮面が素肌に張り付いてしまって、仮面が素面になって、本当の顔がどこかに消えてしまう。
 人は自分を肯定できないときは、他人も肯定できない。自分を大切にできない人は、他人も大切にすることができない。(慈悲の瞑想の一番初めに「私の幸福」を念じるのは、そういう意味からではないかと推測している。)
 だから、ブッダが看破したように「自己」が蜃気楼のように実体のないものであるとしても、いったんは自己を肯定し、「ありのままの私」を受け容れることは重要だと思う。

 しかし、それとは別次元で「ありのままの私になる」は微妙な問題をはらんでいる。

 多くの場合、「ありのままの私」で意味されるものは、「子供の頃の無邪気な自分=欲望に忠実な自分」である。
 社会や世間によって毒されていない「子供の頃の無邪気な自分」が善良なものであるなら、言い換えれば、本人が愛のある、賢明な庇護者のいる家庭に育ったならば、「ありのままの私」にはそれほど害はないだろう。そこに還元することは本人をも周囲をも幸せにするかもしれない。
 一方、子供の頃の環境がいびつなものであり、それが本人の性格形成に深いところで影響を及ぼしているのなら、「ありのままの私」に戻ることは本人にとっても周囲にとっても危険であろう。

 不当な抑圧や人としての尊厳を踏みにじるような矯正には大いに反逆すべきである。
 が、「人が社会の中で、他者や社会に関わって、生きている」ということをないがしろにするような扇動は、ちょっといただけない。
 どうも最近の「ありのままブーム」を見ていると、自由奔放に欲望のまま生きることが「本当のあなたらしさ」というニュアンスを感じる。
 その裏に、羊(ディズニー)の皮を被った狼(アメリカンな資本主義)の陥穽を感じる、と言ったらうがちすぎ、もといヘソ曲がりだろうか。



 

●  枝に座ってその枝を伐採することはできない 講演:『嫉妬しないこと 誰かの美徳を喜ぶこと』(講師:アルボムッレ・スマナサ-ラ)

代々木からの富士山 12/18開催、テーラワーダ仏教協会の月例講演会。
 最近は満席続きで、予約必須になっている盛況ぶり。
 代々木のオリンピックセンターの窓から見える夕映えの富士山がきれいであった。

 いくつか心に残った言葉を羅列する。
 
○ 嫉妬は怒りのあまたある顔の一つ。自分の無能に対する怒りが「嫉妬」。一方、自分の失敗に対する反抗が「後悔」。

「枝に座って、その枝を伐採することはできない」
 貪瞋痴(どんじんちー欲、怒り、無知)も煩悩も心の本能(土台、精神的基礎)なので、そもそも「自我」がそれらを無くすことは無理な話。「自分」で「自分」を治そうとすることは誤り。

○ 貪瞋痴は心の本能であっても、常にいっぺんに機能するわけではない。状況によって悪い面が表れる。しかし、繰り返し同じ感情が起こると、心はそれに慣れてしまい、「性格」となる。

○ 欲や怒りが成長や発展の起爆剤となるというのは邪見。

○ 嫉妬の解毒剤は「喜び(ムディター)」
 他人を観察して自分の中に「喜び」が生じるように、敢えて、おのれの見方にバイアスをつけるのがコツ。これは「常に喜びや楽しみを求めている」という生命の法則にかなっているので、「正思惟」である。

○ 嫉妬を解毒する「美徳発見の探検」のやり方
1. 自分が気に入っている相手を何人か選ぶ。(性欲や愛着を起こすような相手は避けること)
2. その生命の善いところ(美徳、長所)を思い浮かべ、心の中で微笑んでみる。
3. その相手がもっと幸せになったらいいなあと思う。
4. 短所は無視する。長所を拡大する。相手が喜びを感じることを調べて共感する。


 いつもながら、明快で、歯切れ良く、ユーモアに縁取られた講演であった。
 不思議なことには、いつも、自分がまさに今抱えている問題や疑問に対する答えが示されるような気がするのである。まるでスマナ長老が自分の状況を透視しているかのように・・・。

 ところで、「生きることは苦」「すべては無常」という鉄壁の法則をとことん悟るためにテーラワーダ仏教徒は修行しているわけであるが、これと上記の「生命は常に喜びや楽しみを求めている」という法則は一見矛盾する。

 この矛盾を解く鍵こそ、「無知」であろう。
 生きることは本来「苦」にほかならないのに、そのことに気づかない、そのことを認めたがらない。それゆえに、生命は喜びや楽しみを求める。そもそも、喜びや楽しみを求めるということ自体が、「生=苦」のまぎれもない証拠であるのだが・・・。

 無知により仮りの喜びや楽しみを求める人々に、あえて共感し、その喜びの成就を願う。自分自身はそれが「苦」であり「無常」であると認識していても・・・。


 それが「慈悲」なのだろうか。 


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