最近、脳と認識に関する本をよく読んでいる。

 ラマチャンドラン博士の『脳の中の幽霊』はスリリングでとても面白かった。オリヴァー・サックスの『火星の人類学者』、『妻を帽子とまちがえた男』も、良くできたミステリーのように謎に満ちていて好奇心を刺激し、一気呵成に読ませる。
 いずれも脳の損傷やその回復によって知覚や認識がどう変わるかということを、実験結果や患者のエピソードを取り混ぜながら、科学素人にもわかりやすく、面白おかしく教えてくれる。著者の非凡な文才を感じる。

 日本でも、科学畑で文才のある人が目立つ。
 ベストセラー『唯脳論』の養老孟司、「クオリア」で一躍マスコミの寵児となった茂木健一郎、『生物と無生物のあいだ』の福岡伸一、他にも柳澤佳子や竹内久美子も有名だ。
 文系である自分にとって、最新科学の知見を、学術論文のように専門用語や研究者の論文名を散りばめたオカタいものではなしに、物語風にわかりやすく絵解きしてくれるこれらの作家や作品はとてもありがたい。
 
 前野隆司もまた、これらの科学者兼作家にならんで、脳と知覚・認識・意識の関係についての自説を、わかりやすい喩えと曖昧さのない物言いでもって披瀝する。ところどころ差しはさまれるエピソードからは、著者の率直さや偉ぶるところのない庶民性が伺えて好感が持てる。(家族思いのところとか、納豆が大好物なところとか)

 それにしても前野説は衝撃的である!

 この前野説の内容と、その衝撃の度合いをうまくここに表現できるだろうか?
 まあ、やってみよう。

 実験や研究によって次々と明らかにされてきた脳の働きを踏まえ、昨今の脳科学の知見は、ランボーに言えば、「この世界にあって我々が知覚しているものは、すべて脳が作り出したものである」という方向をたどっている。人間は、五感によって身の回りにあるものを知覚しているが、それをまさに「見ているように、聞こえているように、匂っているように、味わっているように、触れているように」感じているのは、脳の働きによるものだ。

 たとえば、目の前に赤い花がある。
 この「赤い」色を感じているのは視覚であり、目という道具を使って情報を取り入れている。
 だが、実際に網膜が知覚しているのは、いろいろな波長を持つ電磁波(=光)にすぎない。それが電気信号に変換されて、視神経によって脳に情報として伝達される。脳は「この信号ならこの色だな」と判断し、「赤」を人間に見せる(認識させる)のである。
 つまり、「赤」を見ているのは目ではなく、脳なのだ。

 同様なことが、他の感覚についても言える。
 前野が挙げた例で「目から、もとい、耳からウロコ」だったのは、聴覚に関するものだ。

聴覚は、耳から入ってきた二十ヘルツから二万ヘルツまでの空気の振動を検出し、両耳の情報を使って音源の位置を同定するとともに、音色や母音・子音のクオリアを生成するものだ。

 すなわち、「なにが」「どこから」「どのように」聴こえているかを決めているのは、音源そのものではなくて、脳の中の聴覚野のしわざであるということだ。
 すると、こうなる。

 空気の振動は、二つの耳の基底膜の振動に変換され、そこにある有毛細胞で検出されているに過ぎないはずなのに、なんと、会話相手の話し声は相手の口元から聞こえるのだ!

 話し相手の声が相手の口から聞こえるなんて、あまりにも当たり前すぎて不思議にも思わなかったが、考えてみると奇跡的なことなのである。もし、耳の基底膜に、あるいは聴覚野に、なんらかの異常があったら、音源とは別のところから「音」が聞こえる、なんてこともあり得るのかもしれない。幻聴なんてのはそのせいなのではないか。

前野は言う。

 私たちが五感を感じるとき、それは感覚器で感じているのではない。断じてない。脳の「知」の働きが、あたかも感覚器のある場所で感じたかのように見せてくれている。

 これを逆手にとって映画にしたのが、『マトリックス』である。
 すべての感覚を脳だけで作り出せるならば、眠らせた人間の脳を電極につないでおいて適当に脳を刺激し、バーチャルな世界を体験させることができる。本人はまったく気づかない。あたかも自分が「現実に(を)」体験しているかのように感じる。


 『マトリックス』のようなことができるには、脳科学とコンピュータ工学とはまだ数世紀待たなければならないだろう。(それとも、もうすでに我々はどこかの非常に文明が進んだ星に棲む宇宙人の子供の遊んでいるゲーム上のアバターかもしれない。)

 「脳がすべてをつくりだしている」ということが示す衝撃は、空おそろしいばかりである。(タイトルから勘違いしやすいが、養老の「唯脳論」は、これとはまったく違うレベルの話である)
 それは、つまり、我々の周囲に存在するものの本当の姿はわかりえない、ということを意味しているのだ。

「空」ーおそろしいでしょう?

 おそらく、これをもってブッダは「一切行空」と言ったのだろう。般若心経の「色即是空」である。禅なら「不立文字(ふりゅうもんじ)」。認識できないものは、表現できないがゆえに。

 「悟り」とは多分、この認識を超えた「ありのままの世界」を一瞬垣間見ることなのだと思う。
 「何で(何を使って)」「見る(知覚する)」のかは不明であるが。

 
 ここまでも十分衝撃的であるが、別に前野の専売特許ではない。歴史に残っている限りで最初に獅子吼したのは、ブッダである。『スッタニパータ』でこう言っている。

 六つのものがあるとき世界が生起し、六つのものに対して親しみ愛し、世界は六つのものに執着しており、世界は六つのものに悩まされている。(『ブッダのことば』岩波文庫)

 ブッダは五感に付け加えて、「意(意識)」を世界を知覚する門としている。この場合、知覚する世界とは外部ではなくて内部(心)である。


 系統的に調べたわけではないが、他にもいろいろな人が指摘している。

無限は感覚の対象にはなりえないからです。まことに感覚を介して無限を知ろうとする者は、実態や本質を目で見たいと願う人間と同じです。感ぜられもせず見もせぬからといって事象を否定する者は、実態や本質そのものを否定せんとする者です。・・・・感覚されうる事物以外のものには感覚は適用されません。(ジョルダーノ・ブルーノ『無限、宇宙および諸世界について』岩波文庫)


視覚実質、聴覚実質が存在しなければ、吾々の周囲の、かかる色彩の美しい、妙音ある世界は暗黒であり、沈黙であるであらう。(デュ・ボア・レーモン『自然認識の限界について』岩波文庫) 


環世界には純粋に主観的な現実がある。しかし環境の客観的現実がそのままの形で環世界に登場することはけっしてない。それはかならず知覚標識か知覚像に変えられ、刺激の中には作用トーンに関するものが何一つ存在しないのにある作用トーンを与えられる。それによってはじめて客観的現実は現実の対象物になるのである。(ユクスキュル/クリサート『生物から見た世界』岩波文庫)

 
 「環世界」とは、「すべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きており、その主体として行動しているという考え」を言う。文中の「作用トーン」こそ、「クオリア」のことである。

人間に限らず、あらゆる生命体は自らに与えられた認識装置によって世界を理解するしかない。認識装置に依存する部分の弁別材料無しでは、世界を理解することはできない。・・・・昔の哲学者だったら、こんなふうに言うだろう。「私達は存在を捉えているのではない。捉えたものを存在としてしまっているのだ。」(時枝福治『象のシッポ』新風社)

  もちろん、茂木健一郎も言っている。

私に見えていることの全ては、本当は、私の外にあるのではなくて、私の頭蓋骨の中にあるニューロンの発火の結果生ずる現象に過ぎないのだ。(『クオリア入門』ちくま学芸文庫)

 ある意味、ブッダが2000年以上昔に述べたことに、やっと今日の科学が追いついたわけである。
 
 ブッダ、すげえー。

 ここまではいい。
 ここから先が前野理論の真骨頂。

 それは、こうやって感覚器と外界との接触によって集められた情報を、加工し、編集し、系統立てる「脳」と、それを認識する「意識(心)」との関係についての考察から始まる。

 脳と心との関係は、次の3つの論に集約される。

1. 心の正体がなにかはともかくとして、心(意識)と脳(体)はまったくの別物である。(心身二元論)
2. 脳が心を作り出した。心(意識)は脳(体)の産物である。(身的一元論)
3. 心が脳を作り出した。脳(体)は心(意識)の働きによって生み出された。(心的一元論)


 古くから洋の東西問わず議論されてきて、いまだにまったく解明の糸口すら見えていない、この人類最大の問題(ハードプロブレム)について、前野は果敢に挑戦したのである。

この続きは別記事(http://blog.livedoor.jp/saltyhakata/archives/4977087.html)で。

TO BE CONTINUED.....