ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

トニー・パーソンズ

● 氷のプライド 本:『ホームには誰もいない』(ヤン・ケルスショット著)

2003、2007年原著刊行。
2015年ナチュラルスピリット社邦訳。

 この本は、新しいものの見方を得るための手引書です。まだほかにも可能性があると気づくことができれば、シンプルにすべてが変わっていきます。あらゆる信念や聞き伝えをすべて放棄し、自分だけを頼りに求めれば、このエッセンスを味わうことができます。そのために、宗教観や哲学は要りません。この公然の秘密の正体を明らかにするために、特別な人になる必要も、スピリチュアルな人になる必要もないのです。その秘密とは、「すべての人がホーム(HOME)――元来た場所――に戻っておいでと招かれている」ということです。「ホーム」とは、ここでは無限なる非人格的な場所を表します。(本書イントロダクションより)


 いわゆる「悟り」についての本である。ナチュラルスピリットの他の本――『ただそのままでいるための超簡約指南』、『オープン・シークレット』、『幻想からの解放 ある異邦人の手記』等――同様、表面上はわかりやすく読みやすいけれど、その内容を真に理解するには一筋縄でいかない。
 これには‘もっとも理由’がある。
 それにしても、いつからソルティはナチュラルスピリット社の宣伝マンになったのであろうか?(笑)

 ケルスショットという姓は日本人には聞きなれない音だが、ベルギー人らしい。アントワープ大学で医学を学び、現在はバイオパンクチャー(?)の施術を行いながら執筆活動に従事、身体の一部を被写体とする写真家でもある。幼少の頃からスピリチュアル探求を始め、禅仏教やタントラ、ヴェーダーンタなど東洋の伝統を経て、最終的にトニー・パーソンズとの出会いにより探求を終焉、すなわち「悟った」ようである。
 トニーはかなり影響力のある人なんだなあ~。クリシュナムルティ同様、「悟りにいたる道はない」といっさいの方法論を否定しながらも、クリシュナムルティとは違って多くの人が悟るのに手を貸している。
 いったい、なにが違うんだろう?

青い鳥

 この本にコメントするのは困難である。
 というのも、コメントするという行為は主体(=ソルティ)と客体(=この本)とを分離し、主体が客体について解釈・吟味・評価する。つまり、二元論が前提となっている。
 しかるに、この本で提示されていることはまさに二元論からの脱却なので、この本についてコメントしようとした途端、この本のエッセンスを取り逃がしてしまうというトラップに陥る。
 上に書いた‘もっともな理由’とはまさにこのことで、本の内容を(知的に)理解しようという「私」の試み自体が、真の理解を妨げてしまう障害になる。
 「私」と「悟り」は両立しないのである。



 というわけで、以下引用。

 この地球に生きている人は皆、催眠にかかっています。「私たちは分離した個体であり、それぞれが異なる身体の中で生きていて、一つの惑星上を歩き回っている」という共通信念による催眠です。私たちは皆、それを信じています。自分のボートにはキャプテンが「いる」と思っているからです。そして、皆こう言います。「私の頭の中にはキャプテンがいて、自由意志と選択権を持っている」と。

 
 自由意志でもって一つの人格でいるという概念自体、砂上の楼閣です。概念に概念を重ねているだけです。人格そのものが概念に過ぎないことがわかれば、この砂上の楼閣は崩壊します。ただし、頭の中に指揮を取る存在はおらずハートの中に感情を感じる存在もいないということを受容したうえで、それでも自分には思考と感情を備えた人格があるかのように、自由意志を持っているかのように振舞うことは可能です。オーストリアの哲学者、ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン(1889‐1951)はこれを枯れ葉の独り言に例えました。秋の風の中を舞う枯れ葉がこう言うのです。「さあ、こちらへ行こう。次はあちらへ行こう」

 解放もしくは「覚醒」は、何か新しいことへの到達でも、高次のマインド状態の発見でもありません。ただ自分自身という存在に目覚めるということです。ですから、自分を変えるということでもありません。役者はこれまで通り、役柄を演じ続ければよいのです。実際にここに在るものについて、本質的な真理を再発見するだけです。私たちは自分を映画スターだと思っていますが、もっと大きな私がいて、それが光であることを忘れています。映画スターはあくまでスクリーンに登場するイメージの一つにすぎないのです。

 自分を役割そのものと思っている間、私たちは弱く不安定で、社会に向けて仮面をかぶり、他者から肯定してもらいたがり、人生をコントロールしようとし、苦痛や死を恐れています。ですが、自分が一人の人間であるという認識をしていないとき、希望や恐怖と一体化していないとき、私たちはどこにいようと本来の自分としてくつろぐことができます。最終的には、悟りを得る自分や目覚める自分などいません。すべての人格は不在です。本来の私たちはずっと目覚めていたのです。


 「私」と「悟り」の関係は、コップの中の「氷」と「水」の関係に寓せられるかもしれない。
 「氷」は一所懸命「水」になろうと頑張っているけれど、その頑張りは「氷」をいっそう結晶化することにしか役立たない。頑張るのをやめて流れにまかせたとき、「氷」は自然に溶けて「水」となる。
 なぜなら、もともと「氷」の正体は「水」にほかならないから。頭の横の「、」を一つ取ればいいだけの話だったのである。

――というマインドによる理解がこれまた障害になるのか!


P9100234









● 本:『オープン・シークレット』&『何でもないものがあらゆるものである―無・存在・すべて―』(トニー・パーソンズ著)

青い鳥


①『オープン・シークレット』
 1995年原著刊行
 2016年ナチュラルスピリット社より発行
②『何でもないものがあらゆるものである―無・存在・すべて―』
 2007年原著刊行
 2015年ナチュラルスピリット社より発行

 『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』を読んでいて、そこに登場する‘わかっちゃった人たち’の数人が共通して言及している人の名前があった。真理探求の旅において、その人物に出会ったことで意識が高まったとか決定的な体験を持ったとか一様に述べている。どうやらいま欧米でもっとも人気のあるスピリチュアルマスター(?)あるいは覚者の一人らしい。
 それがトニー・パーソンズである。

1933年にロンドンで生まれる。21歳のとき、見かけの目覚めがあり、長年この「公然の秘密」を世界中の人々と分かち合ってきた。彼の講話とワークショップは主にヨーロッパで開かれている。(上記②に掲載のプロフィールより)

 例によって、パーソンズもまた若い頃から精神的不全感を抱え、キリスト教や現代的なセラピーやスピリチュアリティの世界を探訪してきた。が、どれによっても不全感が拭われることはなかった。

 ある日、私はロンドン郊外の公園を横切っていた。歩きながら、起こるか起こらないかわからない未来の出来事に対する期待で頭が完全に占領されていることに気がついた。そうして、そうした予測を手放して、ただ歩きとともにあることを選んだように思えた。一歩一歩の感触、圧力がそれぞれまったく違い、ある瞬間にあったものがつぎの瞬間には消えていて、同じ形で繰り返されることが決してないことに私は気づいた。
 こうしたすべてが起こっていたそのとき、自分が歩くのを観察している自分から、歩きがただあるということへの移行が起こった。それから起こったことはまったく描写不可能だ。どうしても不完全になるが、言葉を使って表すとすれば、完全な静寂があらゆるものの上に降りてきたようだった。ありとあらゆるものから時間がなくなり、私はもう存在していなかった。私は消え、経験する者はいなくなっていた。(上記①より引用)

 これが21歳のときの体験とすれば1954年である。それから最初の著作である『オープン・シークレット』を発表するまでの40年以上、パーソンズは外側から見れば普通の成功した男として暮らしてきた。(まあ今も普通の男には違いないが)
 建設業で財を築き、結婚して四人の子供を作り、プールつき豪邸に住んでヨットやフェラーリを乗り回し、それから家庭を離れて英国内のOSHOのコミューンに関わり、出版業で成功する。極めてやり手なのである。誰もが羨む人生を歩んできた「勝ち組」と言える。
 それが結局こうしてスピリチュアルな世界に戻ってきたわけだから、21歳のときの体験がいかに強烈なものであったか、それと比べれば社会的成功が彼にとっていかに虚しいものであったかを伺い知ることができる。こうした経歴は、商才に長けていたグルジェフを思わせる。

 上記2冊を読むと、間違いなくパーソンズも覚者の一人であると知られる。つまり、歴代の有名な覚者――グルジェフ、クリシュナムルティ、OSHO、ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ e.t.c.――と同様のことを言っている。
 ①の本では、パーソンズの子供の頃から悟りに至るまでの精神遍歴が明かされる。そして、彼の‘教え’のエッセンスが簡潔に過不足なく語られている。わずか68ページの薄い本なので、あっという間に読むことができる。しかし、そこに凝縮されている‘教え’を、言葉の上だけでなく、知的・論理的にでもなく、身をもって得心するのは至難の技である。(と言うと、当のパーソンズから「その時間的思考が一番の障害」と指摘されそうだが・・・)
 ②の本は、パーソンズの開催しているワークショップで実際に参加者とパーソンズとの間で交わされた対話を中心に編集されたものである。なので、パーソンズの個性や他人を導く際のスタンス、ミーティングの雰囲気を伺うことができる。参加者がパーソンズに投げかける問いは、悟っていない我々が当然のように抱き得るものなので、この本を読む者は自らを参加者の立場に置いてパーソンズと話しているような気分になる。
 「濡れ手に粟」「のれんに腕押し」ではないが、パーソンズの答えのあまりのつかみどころのなさ・取りつく島のなさに、煙に巻かれたようなもどかしい気になる瞬間もあれば、「目からウロコ」の瞬間もある。ピッタリくる表現を探すなら、「瞬時瞬時、足場がすくわれる」感覚ということになろうか。
 
 グルジェフを思わせると書いたが、実のところ読んでいて一番「似ているな」と思ったのはクリシュナムルティである。
 他の覚者たちと一線を画すパーソンズの‘教え’の明確な特徴は、真理に至るための方法論の拒絶である。
 
 熱意、受容が必要だとか、あるいは肉体―精神を浄化することが必要だというのは、誤った考えであることは明らかです。内側に注意を向け、「自分の本質」や、非常に多くを約束してくれながらも素早く来ては去って行く気づきの状態を発見するようには、招待もされないことでしょう。ここではどんな種類のスピリチュアルなアイスキャンデーも提供されません。
 探求者が指針やプロセス、あるいは何かになる教えを必要としていることに対しては、何の妥協もありません。ここにはいかなる特別な父親も母親もいなければ、所属すべきスピリチュアルな家族もいません。どんな種類の魔法もカリスマも譲渡もありません・・・・・何も売っていません。ただ小さい「自分」というおとぎ話を、終了することができるかもしれないだけです。(上記②より引用)
 
 明らかにクリシュナムルティとスタンスを同じくする。
 
‘真理’は道なき領域であり、いかなる道をたどろうとも、いかなる宗教、いかなる教派によろうとも、諸君はそれに近づくことはできない。(ルネ・フェレ著、大野純一訳『クリシュナムルティ 懐疑の炎』めるくまーる社)

 すべての探求手段を否定するこのスタンスゆえに、パーソンズのワークショップの参加者および読者は途方にくれることになる。当然である。そもそもワークショップに参加すること自体、本を読むこと自体、探求にほかならないからだ。
 この矛盾が漫才のように面白い問答となって顕われる。

参加者 : 気づきや存在のそのレベルに到達するために、私にできることが何かありませんか?
パーソンズ : 何もありません。それは何もできない誰かがいるからでなく、誰もおらず、達成すべきレベルもないからです! それがないので、他のどんなレベルもありません。何もなく、かつあらゆるものだけがただあります。

参加者 : つまり、これを聞きに来ていることには、絶対的に何の意味もないのですか?
パーソンズ : はい。まったく何の意味もありません。 
参加者 : しかし、本当にないのですか?
パーソンズ : はい。でもあなたは来ることをやめるでしょうか?
(上記②より引用。発話者の表示はソルティ付す)

 漫才のようでもあり、禅問答(公案)のようでもある。言葉で言い表せないものを言葉を使ってできるだけ誠実に伝えようとすると、どうしてもこんなふうになってしまうのだろう。

 ところで、「真理に至る道はない」というのは真理であろうか?
 悟るための方法論は、伝統的なものであれ現代的なものであれ、日常的なものであれ非日常的なものであれ、すべてナンセンスなのだろうか?
 もしそうなら、五戒や八正道や瞑想法を提唱したブッダは間違っていたことになる。五戒を守ることも、仏法の勉強をすることも、瞑想することも、善行為をすることも、慈悲を育くむことも、智慧を開発することも、意味がないことになる。仏教は否定されよう。
 どうなのだろう?
 さらに、いろいろな覚者、いろいろな宗教団体等によって、千差万別の悟りに至る方法論が提唱され実践されている現実がある。たとえば、同じ瞑想でもサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の違いがあるし、同じヴィパッサナー瞑想でもマハーシ系とゴエンカ系とで違いがある。「いやいや、必ずしも悟るのに瞑想は必要ない。慈悲行や念仏こそ悟りへの道」という大乗仏教系もあれば、千日回峰のような苦行を重んじる宗派もある。宗教ではないが、『奇跡のコース(The Course of Miracle)』のような自己学習型のスピリチュアル・ワークブックもあれば、特殊な周波数を発するCDを聴いて体外離脱をはかり真実を知るというものもある。まさに百花繚乱である。その様を表すのに、「悟りとは山登りのようなものだ。頂上は一つであるが、そこに至る山道はいろいろある」と言われたりする。山登りが趣味のソルティには納得しやすい喩えであるが、実際のところ、このような多様性が生まれる背景にはなにがあるのだろうか?
 

理由1 覚者それぞれの悟りの質やレベルの違いから 

 「悟り」と一言でいっても、覚者それぞれによって違うものを見ている可能性がある。
 世の中には掃いて捨てるほどの自称他称‘覚者’がいる。信者からのお布施や女性(男性)信者との身体的エネルギー交流や権威誇示やパワーコントロールが目的の詐欺同然の自覚的インチキ覚者もいる。一方、自覚的でない誇大妄想系の覚者もいる。悪い人ではないけれど「イッちゃってる」タイプである。
 これらは大概、普通の常識なり良識なり科学的知識があれば見抜けるものであろう。たとえば、「尊師の入ったお風呂のお湯を飲めば悟りに近づける」とか「プレアデス星雲から発された光線が地球の次元を上昇させます」なんて言説を妄信できるのは、頭の悪い証拠である。こういったものは、現実社会に適応できない自我が、なんとか延命するために編み出した、自我にとって都合の良い逃避先である。自我は生き延びるためならどんな「物語」でも創る。グルと信者はその逃避先で「物語」の共同創作者にして共同読者になる。
 それとは別に、真理の香りを体現している‘本物’の覚者もいる。何をもって‘本物’とするかは難しいところであるし、‘本物’と‘ニセモノ’の境は限りなく曖昧であるようにも思う。これまで様々な‘本物’と言われている古今東西の覚者の本を読んできたソルティの印象では、‘本物’には次のような言説を最大公約数として指摘できよう。
  • 自我は幻想であり、自我を終焉することで悟りは顕現する。
  • 過去や未来は幻想である。実際にあるのは「いまここ」だけである。
  • 見るものは見られるものである。
 しかるに、こうした‘本物’の覚者間においても、それぞれの悟りに微妙な違いを感じることがある。
 これに関して、日本トランスパーソナル心理学/精神医学会会長である石川勇一が興味深いことを書いている。

 トランスパーソナルの代表的思想家であったケン・ウィルパーは、悟りの定義を次のように述べています。「悟りとは、その段階まで進化した、すべての状態とすべての段階、および、その時点のすべての存在との一体化である」(『インテグラル・スピリチュアリティ』春秋社、2008)。 
  
 ウィルパーの悟りの定義は、トランスパーソナル学や新霊性運動を代表しているといってもよい考え方です。しかも、もっとも幅広い知見に基づき、よく吟味され洗練された理論に基づいているといえます。新霊性運動は一枚岩ではありませんが、おしなべてウィルパーのように大いなるものとの合一、ワンネスが最終ゴールと捉えられています。梵我一如が悟りであるというヴェーダの思想や、大乗仏教、タオイズム、諸々の神秘主義思想においても、これと同様の悟りの理解は数多く見出すことができます。

 このようにウィルパーはあらゆる段階・状態・存在との一体化が、人間の普遍的な悟りであると理論化したのですが、これはブッダの説いた悟り、すなわち解脱とは定義が異なっています。初期仏教のすべての目標は、煩悩の矢を引き抜いて、煩悩が顕在的にも完全に「吹き消された状態」である涅槃(nibbana)に至ること、すなわち解脱することです。

 目的が煩悩を滅した解脱にあるのか、非二元的な一体化にあるのか、ここが初期仏教と、トランスパーソナルや霊的諸伝統との決定的な違いであると思います。

(以上、『サンガジャパン』26号(サンガ発行)掲載の石川勇一著『二つの河を渡って 心理学、トランスパーソナル、初期仏教のあいだ』より引用)

 同じ「悟り」という言葉・概念を用いているにしても、その実質なりレベルなりが異なっている可能性があるということだ。つまり、到達した山頂が違っていた。あるいは、同じ山ではあるけれど、中には8合目を山頂と勘違いして満足している人もいる。
 ならば、それぞれの覚者が指し示す山頂への道(=方法論)が異なってくるのは無理からぬところである。
 ちなみに、「非二元(Non Dual)の教え」を核とするトニー・パーソンズの悟りは、明らかに上記のトランスパーソナルの悟りに該当すると思うのだが、「段階」とか「進化」といったものを否定している点でウィルパーとはまったく異なっている。


理由その2 覚者それぞれの‘個性’の違いから 

 いまここに同じ山頂に到達した二人の覚者がいるとしよう。まったく同じ‘真理’を見て、まったく同じ境地に達した二人である。
 彼らは、無明に苦しむ衆生の姿を見て、慈悲の念を起こし、自らが達した境地へ衆生を導かんと、説法と布教を開始しようと決断する。
 二人は同じやり方(=方法論)を採るであろうか?
 最終的な悟りに達した覚者(仏教で言う「阿羅漢」)からは「自我=自己意識」が消えると言う。なので「個性」というものはないはずと思うのだが、クリシュナムルティによると、「個人の独自性(individual uniqueness)」は残るらしい。これは「エゴ」ではなくて、「普遍的な生に固有の区別であり、個人性からすべてのエゴイズムが一掃された時に残る、個人性の純粋に抽象的なフォルム(型)」なのだという。(1928年のクリシュナムルティとE.A.ウッドハウスの対話より)
 クリシュナムルティの言葉どおり、悟後の覚者に何らかの‘独自性’が残るなら、説法と布教に乗り出そうとする際に、その独自性が「個性」となって顕現する可能性はあろう。
 魚川祐司が次のように書いている。
 
 覚者・解脱者たちにとっては、悟後の「行為」はその全てが純粋な「遊び」である。そして「遊び」である以上、その仕方は「自由」だから、利他の実践へと踏み出す場合、その範囲や形式に関しては、彼らに裁量の余地が存在する。言い換えれば、仏教徒はみな「物語の世界」の外部へと至ることを試みるが、そのことに成功した後に、未悟の衆生に対してどのような物語を示現するか(あるいは、そもそもそのことを全く行わないか)は、本人の「自由裁量」にしたがう可能性として、本質的には常に未決定のまま開かれているということだ。

 現状の仏教の多様性は驚くほどのものであり、その中には互いに矛盾する思想や実践も、多く包含されている。ゆえに、そのうちのどれが「正しい仏教」であり、どれが「本当の仏教」なのかということが、仏教者のあいだでしばしば問題として論じられることがある。だが、私としては、そうした多様性は覚者それぞれの「物語の世界」への対応の仕方の差異によって生じるものなのだから、それらのうちのあるものが「正しく」て、あるものが「間違っている」と、決めつける必要はないと思う。
(以上、魚川祐司著『仏教思想のゼロポイント』より引用)

 この観点をとれば、クリシュナムルティやトニー・パーソンズは、その本然の‘独自性’を自由裁量のうちに存分に発揮して、「未悟の衆生が捕まろうとする‘物語’をその場で徹底的に容赦なく叩き潰す」という方法論を用いている、と解釈することができるのかもしれない。
 

 以上、悟りの方法論の有る無し、あるいは方法論の多様性について、乱暴に考察してみた。もっといろいろな観点があると思うが、ここらがソルティの限界である。それに、そもそもこんな考察(=妄想)したところで頂上に一歩も近づけるわけでないことは最初から分かっていた。
 休日を半日使っての単なる「暇つぶし」「遊び」であった。


 自分を待ち受けているつぎの「スピリチュアルな」高揚感に向けて行進しているときに、私たちが理解し損ねているように思えるのは、自分の探している宝物はそうやって向かおうとしている先にではなく、今まさに歩いているその足どりの単純な性質のなかにあるということだ。今よりも良い状況を見つけようとして時間のなかで突進しているとき、毎瞬姿を現している「存在すること」という花を、私たちは踏みつけている。(『オープン・シークレット』より)


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